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めんどう様から喜びの報告が・・・きっと銭形不動尊のご加護です! | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【難読地名】 私の住んでいる地区にある難読地名です。暇つぶしに挑戦してみてください。 解答はこのページの最下部の方にあります。 1.海士有木 難読地名としてとても有名です。 2.櫃挾 常用漢字外。画数が多くて書けませんし読めません。 3.分目 「われめ」ではありません。 4.小田部 千葉らしい地名。なまってます。 5.廿五里 これが読めたら地名王です。 |
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通信販売はじめました。(浩泉丸御用達のお店・・・早く言えば身内。拡散してね。) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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令和2年は大変な年でした。古銭に関しての引きこもりのような生活をさらに助長した形で、人との交流が全く立たれてしまいました。広穿大字は前から欲しかった品なのでネットで出たものを半ば強引に落としに行きました。1月28日に【広穿大字LOVE】なんて記事を書いているので思いがかなった形です。次は【萎字大広郭LOVE】とでも書きましょうか? 明和期俯永面背刔輪は関東のAさんから物々交換等で分譲いただいたもの。実質的に今年一番出費なのですけど、これはお金を積んでも入手できない品です。Aさんは泉譜を飾る品をたくさんお持ちのようで、私など足元にも及ばないすごい収集家です。古銭に対しての病気の度合いも多分私以上かな?穴銭愛にあふれてますね。袖触れ合うも多生の縁ですね・・・いや、類は友を呼ぶでしょうか?。 さて、最近はネットの競争も激しいので入手できるものをぼちぼち集める程度なのですが・・・今年最後の入手品をお見せしましょう。 元文期日光銭の片千鳥の変種です。 寶上の大きな鋳だまりのタイプは、持っていたような気がするのですがHPには載せてませんね。だから捕りに行かせていただきました。 これで今年は終わりにするつもりだったのですけど、文源郷師の出品物を見て気が変わりました。寶下片千鳥ですけど、ほら、まるで妖精がおいでおいでしているみたいでしょう?これ、昔見せられたことがあるんですよね。たかが鋳だまりなんですけどね・・・。これで本当のおしまいです。 コロナ禍もあり、今年は3月から人のいない山中と(子供の送迎のため週末は)石神井川・石神井公園周辺を歩きまくりました。目標週50㎞走破で山道を1日30㎞以上歩いたこともありまして・・・秋には眩暈症を発して倒れかけましたが・・・浦白川のドンドンの発見と奇跡の紅葉写真を撮れたのは収穫です。古銭も人の行かない方向を探査すればよいのでしょうけど、最近はとても密です。あぶないので私からはソーシャルディスタンスをとってください。 来年は子供の学費工面が大変で古銭どころじゃないかも。それに、最近自分の本業が分からなくなってきています。 とまあ、いろいろありますが、来年は来年の風が吹く・・・コロナ退散!良い年になりますように。 |
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12月26日【多重輪アラカルト】 何度も紹介しているので食傷気味かもしれませんが・・・多重輪系の錯笵画像を集めてみました。私の収集品に加えて、HP開設以来、ネット等で見かけた逸品たちです。 |
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雑銭掲示板でおなじみのモトさんからメール投稿が到着しました。新寛永の鉄写し(四ツ寶銭)と寛文期亀戸銭の縮字背文深冠寛、それとなんだろうやたらでかそうな文銭が写っています。書体は正字背文なのですけど、縮字背文と比べるとその大きさがうかがい知れます。 メールを抜粋すると・・・ 写真の品は、正字背文大様母銭と縮字背文深冠寛です。正字背文大様母銭は銭径25.9mm、面内径20.7mmの超大型銭。銭径が大きい割に、内径がそこまで大きくなく、濶縁銭かもしれません。良い物なのでしょうか?僕の実力では、母銭なのかも、確証が持てません。 縮字背文深冠寛は、類品がある様なので載せました。縮字の文の手替りは、特に苦手で、裕文かどうか分かりません。サイトに載っている深冠寛に比べ、背が刔輪されている気がします。銭径は25.1mm、面内径は19.7mm、背内径は18.9mm。円点通であることが目立ちます。 僕の趣味は鉄銭で、写真右の鉄銭は四ツ寶銭勁永写の多重輪写りのエラーです。珍しい物ではあると思うのですが…最近見つけた為、他の収集家の方には見せていません。 正字背文大様:間違いなくものすごく良いものです。どれぐらい良いかというと、涎が止まらないぐらい良いです。25.9㎜の文銭は存在するとは聞いたことはありますが、画像で見るのは初めてです。0.1㎜の大きさが重要で25.6㎜では驚きません。内径の20.7㎜もけっして小さいわけではなく母銭の基準値内です。母銭かどうかの確証についてはこの画像だけでは仕上げの詳細などがわからないのですけど、少なくとも大型の母銭サイズ以上ですから母銭としてもだれも文句言えないです。 ※2012年5月に関西のS様からの投稿品に外径26.0㎜、内径20.7㎜、重量4.6gの正字背文母銭画像がありました。失礼しました。 ※銭の細道おたずねもの集に九州のKさんの大型文銭が掲載されています。参考に・・・。 縮字背文深冠寛:私も保有している気になっていたんですがHPのどこにも所有品掲載が見つかりません。あれ~?って感じ。つまり、私には語る資格がないと言うこと。 微差はあるかもしれませんが深冠寛には間違いなし。その微差を問題にするか否かなんですけど、私は大雑把な分類で良いと思う一人。鋳造品ですから。もちろん、刔輪については決定的証拠が見つかれば大騒ぎしますが・・・。鋳物ですから円点通は偶然でしょう。 ※深冠寛は文源郷コレクションじゃないかと、眠りながら思い出せました。背文は文の足先が丸く裕文で良い気がします。刔輪も問題ない気がします。 四ツ寶銭勁永写の多重輪写り:これ、地味ですけど面白いです。多重輪写りはいくつかタイプがあります。 ①背側の砂笵が崩れるなどして複数の輪がずれ写るもの。背ズレの進化形でかなり派手です。②母銭を落下させてしまう、取り出す際に押し付けてしまうなどの事故によるもの。これは良くあります。③一度母銭を置いてかたどったあとに何らかの理由で母銭を置きなおししたことによるもの。平面的な模様がうっすら写り、複数の輪が写ることもあります。落下との判別が難しいものもあります。(湯道をつける関係で置きなおしたものが多い気がします。)④母銭の飛び出しなどにより母銭が重なりかたどられたもの、また鋳型から母銭が飛び出して二重にかたどられた。これは少ないと思う。立体的な造形になります。 立体的な多重輪写りは比較的珍しい例です。モトさんのものは密鋳鉄銭ですからさらに少ない品です。重なった輪の周囲の凹みがあまり見られないので、純粋に母銭が重なった状態でかたどられた可能性があります。これはさらにさらに珍しいかも。(鋳型から母銭が飛び出して二重にかたどられたものは輪の周囲が反作用で凹みます。参考までに私の蔵銭を掲載しますが、これは輪の周囲が凹むタイプです。) ※2017年2月11日の製作日記をご覧ください。 |
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気が付いたらもうクリスマスです。日頃、外国人に接する機会がとても多いのですけど、日本ほど宗教に無頓着な国はありません。宗教観はそっちのけで、ただの大騒ぎの材料としてだけの宗教儀式ですからとても変わっています。ただ、その大騒ぎも今年はコロナ騒ぎで消えてしまいそうで少し寂しいですね。 さて、投稿記事がたまってきていますのでここで再び紹介。 まずは北陸のNさんから刻印銭と古寛永の画像。 刻印銭の「五横打ち」は天保仙人様が雑銭掲示板で解説頂いたいたことがありましたが、博打場への入場許可証で文銭に五の横打ちは「御開帳、文を横取り(さあ、稼ぎましょう!)」の意味なんだそうです。深いですね。刻印銭の尓2ヶ打もこの類だと思いますけど、いわれは不明。変形しているのは後世に楔として使われたのか、それとも何らかの意図があったのか・・・謎が謎を呼びます。刻印銭は面白いのですけど新作が可能なので深追いは禁物です。(ゴシック体の刻印銭は要注意でときどきネットにも出ています。) 古寛永は芝の不草点かしら。なかなか美しく母銭としてもおかしくない。地の漆のような仕上げは特異で、背の輪に一部がはみ出してかかっている部分もあります。正確な大きさを測れないと言うことですので返事は保留していますけど、皆様どう感じますか。母銭なら24.7㎜以上は欲しいですね。25㎜あれば絶対です。若干、鋳だまりは気になりますが、細字で穿内の仕上げ、この雰囲気は悪くない気がします。美銭は見ていて気持ちが良いです。(前所有者の刻印らしきものが縁に2つあると言うことでしたけど分かりませんでした。) 続いて四国のOさんから・・・ 四国は九州と並び古寛永の研究が盛んで、とくに長門手本銭の研究に関しましては一頭地抜け出ている気がします。 曰く・・・当方、鋳放し銭は11~12枚蔵していますが、1枚を除いて何れも2000年以前に入手した物です。全て郭内のみヤスリ掛けされて未使用色が残る物で小川青寳楼先生の旧蔵品と思われます。画像の「奇永凹寛」は外径26.40㎜、重さ3.9g、「裕字長足宝削字」は外径26.45㎜、重さ4.6gです。手元品の鋳放し銭で最も銭径の小さい物は俯永様の1枚で外径が25.95㎜、最大は奇永俯寛の類で26.65㎜で、いずれも鋳バリ部分を除いた数ヶ所を面側で測定した平均値です。面の内径を製図用のデバイダーで比較すると、母銭タイプの仕上げした物と変わらないか僅かに大きく、多少のテーパーを考慮すると実質同じと思われます。細分類で多種類が少しづつ存在して外径も大きいので贋物の可能性は無いと思います。なお、長門の手本銭類はX線検査に掛けると気泡やス穴だらけの様で重さが軽く感じるのはそのためではと思います。 最後に正字様で思い出しましたが、山添氏出品の正字様削辵を数年前に貴方と競り負けました。削辵は辵の折頭部分の違いだけでそれも座が少し残っていますので2点揃えれば証明になると思って入札した次第です。参考に手元にある分の画像もお送り致します。内輪のキズ等も同じです。(以上、メール記述を一部編集。) O様、貴重な画像有り難うございました。競っていたとは知らず、失礼いたしました。最近、入手品をまったく整理してなくて恥ずかしい限りです。入手してHPに載せると満足してしまう体質でして・・・来年こそ収集品の再整理をしなくてはと思う次第。 続いての1枚は侍古銭会のタジさんから今年最後の1枚。前回の投稿が本人曰く最後の1枚だったはずなのですけど、だめ押しの入手をされたそうで・・・。不知長郭手の粗造鋳写しで、秋田の故、村上師の旧所蔵品であったもの。文字はつぶれて通寶などはほぼ見えません。先ごろ入手された(12月14日製作日記)鋳割れのある長郭手が掲載された英泉天保通寶研究分類譜の隣にこの拓本が掲載されていて、タジさん無性にほしくなって知り合いに尋ねまくったみたいです。恋は盲目というものでしょうけど、こうなるとまさに「あばたも笑窪」です。分かっちゃいるけどやめられないのです。このエネルギー、仕事や異性への恋に変換できれば・・・と、思うのは私だけではないと思います。(長径48.38㎜、短径31.75㎜ 泉譜数値)そのうち、また、だめ押しのだめ押しの入手品の投稿があるような予感がします。 |
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今年は巣ごもり推奨期間が長く、余計な会合もほぼなかったのですけど、代わりに子供の受験送迎が増えましたし、一時期は外歩きもパワーアップしましたのでそれなりに忙しかった。人込みを避け、脱巣ごもり(猫アレルギー)で週50km歩くことを目指して躍起になっていた時期もありましたが、完全休日は週1未満しかないので、休日に30km走破を目標に真夏もがんばりました。市原市南部の林道の多くを探索できましたが、その結果は眩暈症の発症・・・そしてウォーキングだけでは痩せられないことを学びました。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしなんですね。夏以降は請負研修が再開し、最近は新たな外国人の教育もはじまりました。(本業が何かわからなくなりそうです。) 本年のニュースは①明和期俯永面背刔輪の入手②長郭手広穿大字の入手がほぼすべてですね。出会いとしては(年賀状程度のやり取りだった)関東のAさんとの古銭交流が新しいところ。といっても時節柄直接会ってはいないのですが・・・。そういえば古寛永分析ツールのHさん・・・あれからご無沙汰しております。実はウィルス問題で住所がわからなくなってしまったままなのです。ご連絡を頂戴できれば幸いです。 さて、頂戴した画像をいくつか掲載しました。一番上は中国の康健さんから。彼曰く、覆輪刔輪と削字と肥足寶の合体です。名前はあるのでしょうか?・・・とのこと。捜していますけどたぶん、類品の発表はあまりなくて名前はないのでは?全体に浅字で覆輪。刔輪はそれほど強くないので肥足寶とするにはちょっと弱いかな。天足、保点、寶足、當冠と當田の変形が目立ちます。白銅質気味なのもいいですね。素直に名付けるのなら長郭手覆輪浅字削字ですけど、もっとインパクトのある名称が欲しいですね。皆様のご意見をお待ちしています。 長径49.4mm 短径32.8mm 銭文径41.4mm。 2枚目はやはり中国の禄生禄さんの投稿。寛永通寶文銭の寛上削輪・・・文源郷師の分類の波冠寛のお名前でご投稿くださいました。小さな発見ですけど、こういうものを見つけるとなんか得したような気になれます。プチ幸せ。 3枚目は14日の接郭投稿へのアンサー投稿で、接郭の弱刔輪の画像。東北のEさんから。接郭は今は雑銭扱いですけど、本当なら不知広郭手覆輪刔輪接郭ですよ。これは輪幅も立派でなかなか美しい。長径44.5mm 短径33.5mm 銭文径39.9mm 重量20.7g 最後は浩泉丸さん野今年最後の予定だった入手品。不知長郭手の鋳写し・・・未使用っぽく見えますが、面に泥が付着しているだけ。クリーニング前です。今年最後の予定だったとは、そのあとにヤフオクの文源郷師の出品に手を出してしまったから。凝りませんね。 それを含み、寛永銭の投稿は次回に・・・。 |
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いよいよ年の瀬も押しせまってきました。今年は週1回の子供の受験対策送迎をずっと担って来ましたが、最近になり都内の混雑がすごくて片道2時間以上になることも当たり前になりました。皆さん、電車を使わずマイカーでお出かけなのでしょうけど、千葉ナンバーの私は肩身が狭いです。石神井公園は紅葉がすごくきれいですよ。 さて、上段の天保銭は侍古銭会のタジさんが入手された1枚。長郭手浅字の覆輪銭ですけど、いい雰囲気です。面に鋳割れの筋がビビッと走っているのが景色になっています。長径49.5㎜、短径32.6㎜、銭文径41.1㎜、重量21.9g。これ、秋田の村上師の旧蔵品ですね。 続いての一枚は関西のTさんから頂戴した水戸遒勁。長径:48.30mm、短径:33.55mm、銭文径:39.75mm、重量:16.2g。色合いが少々赤く発色していて不安に思われているとのことですが所見上は全く問題ないと思います。遒勁は贋作の宝庫なんですけど、贋作は総じて鋳だまりなどのないすっきりしたものばかりです。遒勁は背側が浅くあまり出来が良くないものも散見されます。また、銭形は意外に長径が短く、短径が幅広いずんぐりむっくりの形。重量が軽いのがやや気になりますが、問題ない範囲じゃないかしら。 最後の1枚もTさんの気になる品。接郭の刔輪のかなり強めのタイプですが寶足は開いていませんね。全体にうっすら銀がかかっているように見えもしかしたら母銭・・・などと夢を見られたそうですけどつくりは通用銭です。ただ、面輪上になにやら覆輪痕跡のような筋が・・・。これはいったいなんでしょう? 天保仙人様、見解を教えて頂けませんでしょうか?長径49.20mm、短径33.05mm、銭文径39.95mm、重量20.6g。 |
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トラさんから掲示板の投稿がありましたがまだ誰も反応がありません。画像で判断するのは非常に難しいので、皆さん二の足を踏んでいるようです。私もよく分からないながらじっと観察させていただきました。恥を忍んで私の節穴の目力をば公開します。 左上:深字降久 永フ画が郭から離れ、急角度で俯します。短頭永。久字は離郭しています。地は魚子肌になるもの見られ製作に風格があるので文久の名品と言われることも・・・。 右上:直永(仰柱永) 文は前足が伸びてふんぞり返りよろけそう。寶は進んで離郭して、接輪しそうな雰囲気です。これが直永の特徴です。 左下:直永(俯フ永?)→ 直永狭穿短尾久に似ているが広穿になる初見品? 直永の特徴は見てわかりますが細分類自信なし。 右下:直永(本体) これも画像がはっきりしなくて細分類はよく分かりません。本体系でしょうね。 左上:直永手細字垂足寶かなあ?→ 直永手細字長寶 これは自信なし。寶字仰ぐ癖からの判断。 右上:直永手細字狭頭久だと思うのですけど。 → 直永手細字長寶 これも自信なし。 左下:直永系でしょねぇ?細字狭頭久? → 直永手細字長寶 これも自信なし。 右下:直永手細字離足寶 寶後足離れ、郭周囲が削られるのが基本だそうです。これは持っていませんでしたから観察ポイントが分かっていません。 皆さん助けてください。2枚目の写真がとくに良く見えません。 祥雲斎師から見立てを頂戴しました。ありがとうございました。(黄色の文字。画像からの判断なので絶対はありえませんが、これは勉強になりますね。) |
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12月5日【鍍銀母銭考】 中国の寛永銭コレクターさんからの投稿がなかなか素晴らしいです。その中に26㎜を超える称:建仁寺銭大字大様銭がありました。このサイズの古寛永はめったにないものです。古寛永の中にはときどきとんでもなく巨大なものが存在していて珍重されますが、製作的にとびぬけて良いとは言えず、原母銭とするには繊細さが見られないものが多いようですけど・・・。この建仁寺銭の場合は製作的には母銭と言っても良い上に、一般的通用銭のサイズから見ても一回り大きいので母の母・・・原母としたいところですけど、称:建仁寺銭の均一化された通用銭の製作から見て、この座には錫母の存在が予測されますので、原母銭とは異なる目的でつくられたものかもしれません。 この品には全体に鍍銀の痕跡が残ります。関東のAさんはこのような大きな建仁寺銭を先輩コレクターの蔵品の中に見たことがあると申しており、あるいは銭座の関係者に配られた記念銭ではないかとの考察を頂戴いたしました。 明治期に再建された(戊辰戦争で焼失した)上野の日荷堂の上棟式の際、来賓だけに配布された上棟銭には分厚い銀メッキが施されていましたので、このような大型銭が関係者に配られた特別な銭であるかもしれないという考察はひょっとしたら的を射ているのではないでしょうか。 天保通寶の石持桐極印銭の深字の大型銭にもうっすら鍍銀のような痕跡が残ります。これは不思議な銭で、普通ならこの大きさは母銭とするところなんですけど銭文径は一般通用銭と同じ。精査すると覆輪のあと寶下が刔輪されたようで内径が大きく湯走りかもしれませんが寶足が長いのです。天保通寶の藩鋳母銭の中には福岡離郭のように鍍銀痕跡が残るものもあり、この品も背の文字は母銭のように山形加工されているので、母銭である線も捨てきれないのですけど、銭文径や他の大型銭の存在などから見て、何らかの意図があって祝鋳として作られたものではないかという仮設が本命視されています。 なお、祝鋳銭だとすると本来目立ってはいけない密鋳銭のルールを犯すことになります。と、いうことは石持桐極印銭は正式に天保通寶鋳造許可が認められていた水戸藩によるものという考察も捨てきれないことになります。 深字の大型銭は2016年3月28日に中国のコレクターの方が(重量20g超)、2017年7月14日に東北のNさん(濶縁)が、2020年10月31日製作日記には関西のTさんが(鍍銀あり)発見されたものが制作日記に掲載されています。その他に秋田の村上師も泉譜に2枚の大型銭を掲示しています。(2017年7月28日) 全てが同じ目的で作られたものとは限りませんが、これだけの数が見つかるとなると、さらに新しい発見も出てくるかもしれません。 ※日荷堂鍍銀銭は明和21波に刻印を打ち鍍銀しただけなので贋造が簡単です。真贋を見極める簡単な方法がありますが公開はできません。あしからず。 |
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猩猩(しょうじょう)をご存知でしょうか?「けものへんに星」なんて文字は普通は使わないので読めなくて当然なのですけど、この文字を貨幣誌「穴の細道」巻末にある安達呑泉師のお守り銭の図柄を調べていて知った・・・という方も幾人かはいらっしゃると思います。(私は長らく狸と読み間違えて理解していました。千葉には狸囃子で有名な證誠寺というお寺もありますし。) 上段右が穴の細道掲載のお守り銭。笠をかぶった童子が酒を壺から汲んでいる・・・酒呑童子という文字を思い浮かべてしまいますが、実は子供ではなく酒が大好きな「もののけ」のようなのです。中国の戯作絵銭で、穴の細道に紹介された以外はほとんど知られてなく、歴史あるものでもなさそうなので意識して集めている方はいらっしゃらないと思うのですけど、入手機会があれば呑泉にあやかろうと思われる方は・・・ベテランコレクターなら多かろうと思います。私はボナンザ世代より少し後なので連載記事としての穴の細道はあまり知りません。ただし、刊行された穴の細道は中学生時代には購入して愛読書になっていました。したがって表紙は破れて脱落しかけ、中のページもはがれて落丁するほどボロボロです。 猩猩は架空の動物(妖怪)で、姿は赤く猿のようということですが、地域によって設定や姿はずいぶん異なるようです。能の世界では真赤な髪の毛の猩猩が(川から現れ)酒を飲み舞い踊り、無限に酒の出る不思議な壺を与えてくれる物語。アニメのもののけ姫では猩猩は猿のような化け物になっています。絵銭の猩猩は能の世界の猩猩そのもので、酒が湧き出す壺から柄杓で酒をくみ出す姿が描かれています。 これらのことから猩猩はオランウータンのような猿のことや、赤い色をした動物(猩猩朱鷺、猩猩トンボ、ショウジョウバエ)を表すようにもなりました。 画像上段左は北陸のNさんが見つけた絵銭。たぶん穴の細道を意識した新作だと思いますが、お守り銭としては面白いですね。絵銭は何でもありですから。 画像の一番下は侍古銭会のタジさんが購入した蛇の目。源氏名銭としてはとても有名な寛永銭です。タジさん、幅広くやってますね。新寛永通寶を集め始めて、一番最初の頃に思い切って購入する源氏名銭じゃないかしら。蛇の目傘と言っても、今の若い人にはピンとこないと思いますけど、背の大濶縁が蛇の目模様のようだとのこと。童謡の「雨雨ふれふれ・・・」で母さんがお迎えに来る笠の模様・・・転じて蛇の目です。源氏名というのはあだ名のことで、安達師は源氏名銭を泉界に広めた方でもあります。ところで最近、知り合ったAさんはひょっとして安達師の関係者かしら?・・・と時々思ってしまうほど古銭愛があります。どうなんでしょうか? |
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関東のHさんがネットオークションで入手したロットものに、反玉寶がたくさん含まれていたそうです。反玉寶については仙人様も掲示板に艶っぽいお話も書き込んで下さいましたが紆余曲折のあった品。鋳放し銭なんていうものは、たいてい信用のおけないものなんですけど、こいつだけは例外的に地位が確立しています。 昔は石ノ巻反玉寶の名前で紹介されていましたが、現在は小笠原白雲の研究で室場の私鋳銭ということで落ち着いています。覆輪刔輪という専門用語を貨幣手帳掲載の反玉寶で覚えた方・・・50歳以上の方・・・は多いのではないでしょうか? 一番上の品は反玉寶の大様、半仕上げ銭のようで、湯口のようなものがかすかに見えます。頂戴した画像が(撮影角度なのか、魚眼レンズなのか)やや歪んでいたため出来る範囲で修正しています。見るからに立派な覆輪で、背の當上の刔輪やお約束の方全体がずれる癖もしっかり確認できます。 2枚目も同様の大様銭。こちらは表面の研ぎがありませんので輪上に鋳肌が残っています。画像はやはり歪んでしまっていて、中膨れ銭形みたいに見えます。 3枚目は仕上げ銭らしきもの。面背に研ぎが確認できますが新しいものかもしれないとのこと。ただし、瑕寶という寶玉の一部が欠けている変種です。 次は鋳放し銭らしいのですけど火中品かもしれないそうです。穿内のみ鋳放し・・・だとしたら仕上げ順序のセオリーに反しますので少々気になるところ。ただ、天保通寶の場合はロクロが使えず仕上げが完全に手作業なので、寛永通寶寄りはあり得るかな。 最後の1枚は反玉寶小様・・・だと思ったのですけど、銭文径が少し大きいのと背の輪のゆがみ、ずれが反玉寶のお約束通りには見えないので、ひょっとしたらなんちゃって反玉寶なのかもしれません。そう言えば鋳肌も違いますね。 曳尾は曳尾庵こと侍古銭会のヨネさんのご投稿です。曳尾にはまっているそうです。 方字狭二天は有名ですけど曳尾にもあるということで、たしかに狭二天です。しかも、方字ばりの薄肉軽量銭です。曳尾は薄肉の方が珍しいと言う変な天保銭なんですよ。曳尾狭二天・・・頂きました。多分存在は少ないと思います。 |
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大和文庫さんの駿河はネット上でも内容を見ることができるので私にとってとても勉強になります。その駿河に目立たないもののものすごく興味を引く出品物がひとつあります。大和文庫709番の画像を見てなんだか分かればすごい・・・と言いますか、分かったらおかしいguraiです。少なくとも私は分からなかった。これが薩摩広郭の一種だと言うのです。 7月30日の製作日記に「完全擬態」と称して薩摩広郭を載せています。薩摩広郭の中に短尾通小字という書体があり、これが書風、製作とも本座広郭に瓜二つです。背郭が広郭狭穿気味になる事、文字が大きく銭文径も大きいこと(41.7㎜程度)、辵頭がわずかに大きいこと、保点の前点の角度に比べ後点が立ち気味なことなどの微差がある程度。哲泉古希記念 薩摩藩鋳銭広郭分類譜で穴があくほど観察してようやく理解している程度でした。しかし、それ以上に本座に似ています。短尾通小字は通字の辵頭が大きくわずかに俯す癖が見分けのポイントでしたが、7月30日の品といい今回の大和文庫さんの品といい違いが分からない。寶足も輪から離れてますし、今回は狭穿でもない。これが薩摩だとすると泉譜そのものに新種を加える必要があるかもしれず興味津々です。見分けのポイントは何なのでしょうか? 短尾通小字と本座広郭 非常によく似ていますが、じっと見比べていると天以外の文字の大きさが異なるのがわかります。なかでも通寶の2文字が大きく見えます。当然銭文径も大きくなりますが、その差は0.5㎜にも満たないほど。私は左右の保点の角度で見分けることが多いのですけど、通辵の大きさの違いや背郭の大きさの違いで見分ける方が簡単です。 |
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関西のTさんは恐るべき観察眼の持ち主で、過去記事を観察して、私が気が付かなかった事をずばり射貫いてきます。 今回は2018年1月21日に初登場する不知長郭手最小様(削貝寶)が主役(画像①)。47㎜を切るサイズの天保銭は秋田小様を除くとほとんど存在しないというのが私の認識。しかもこの品、寶貝が加刀によって真っ二つに割れています。ところが、これと兄弟の品を見つけたと言うのです。 画像②は第34回オークションネットの入札誌の出品物で長径は47.1㎜だそうです。 画像③は第15回銀座コインオークションの出品物で、長郭手削貝寶の名前が付けられていました。(2014年9月14日制作日記参照)これは天保仙人様が落札されて、収集誌上で嵌郭の可能性ありと発表されたものだと私は記憶しています。 寶貝を見てください。同じ特徴が見て取れます。その他、天上の微刔輪など類似点が確かにあります。これは気が付きませんでした。さすがです。 |
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長郭手張足寶にはいろいろなサイズがあります。本座長郭の銭文径が41.7㎜前後なので、理論的には一度写しなら41㎜前後の銭文径になるはずですけど、実際の銭文径は41.0㎜~39.9㎜の間にかなり分散して存在し、40.5㎜前後の中途半端なサイズも結構見られます。 おかげでこの類がネットに出るとかなり幻惑されます。足の長いことに縁のない私としては存在数以上に評価をしてしまうことが度々あります。これもその一枚で落とした瞬間の心情的にはいたたたたな品です。でも可愛いです。 類似カタログには長足寶・長足寶小様の2種類だけの掲載ですが、銭文径だけでなく濶縁の度合い、天上、當上の刔輪の度合い、寶足の長さ等に微妙な変化があるので飽きません。この品は銭文径が最も小さい方の部類で、個人的分類では通寶小字系の品としていますが、良く見ると天上と當上の刔輪が少し激しいようです。銭径が49㎜とやや大きめなのに銭文径が小さい・・・それでも濶縁になっていないのはそれが理由のようで、出品画像に妙に惹かれて応札してしまったのはこれが原因だったようです。だからどうしたと言われればそれだけなんですけど。 |
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文源郷師の出品物をまた2つ買ってしまいました。出品物は間違いなく素晴らしいのですけど、私にとって致命的なことがあるのです。それは包装までが完璧なほど美しいこと。そのため到着した品物を愛でられなくなってしまうのです。そもそも郵便物の文字からして美しく、開封してないものまであるくらいです。 今回、日光凹千鳥を購入し撮影しようと郵便物の封を切る決心までは何とかできましたが、コインフォルダーの入れ方が完璧で、それを壊せなくなりました。美しいと言うのは罪なものです。(画像はヤフオクのもの。) 凹千鳥は新寛永通寶図会の現品を持っているのですけど、今回のものは文源郷師監修の小冊子日光銭図譜の現品です。(これも開けられない。) もう一枚は密鋳4文銭。これはフォルダーに入ってなかったので触れます。ほぼ無競争でしたけど、色や製作から踏潰系とでも名前を付ければ競争が起きたかも。実際に踏潰なのか否かは判定者次第ですけど、大雑把な性格の私ならそうしてしまうと思います。 |
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9月に届いた海外からの古銭画像付きのお便りメール・・・やはりウィルス感染していました。メールソフトの警告は正しかった。通常監視や簡易スキャンでは見つからないように偽装され、パスワード保護までされていました。元になった発信者に悪意はないものと考えたい。メールを大量発信するタイプではありませんが、私の名前で変なメール(身代金請求タイプ)が届いていたら気を付けてください。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
母銭を収集するのなら古寛永は御蔵銭がお勧めです。それだけ完成度が異なるのです。 御蔵銭の魅力は、鋳ざらい変化で全く同じものは存在しないと言えるだけの変化の多さと、彫刻されたように切り立つ文字、それに芸術的な地染めの技術です。もちろん、他の古寛永にも地染めの技術はありますが、御蔵銭には別格の美しさがあると言っても過言ではありません。技術的には決して高くないし、洗練されているとも言い難い。技術そのものもありふれているかも・・・。でも、一生懸命さが感じられるのです。地染めの丁寧さは寛永銭中一番じゃないかしら。 鋳物師の系譜はいくつかあり、大きな流れが渡来人系の河内の真継家(斎部家・忌部家)で、江戸時代は彼らの許しなしに鋳物業はできなかったとも。ただし、江戸は関西系とは異なる職人支配があったようで、御蔵銭は独自の技術進化を見せることになったのではないかしら。 画像の品は北陸のNさんが見つけた御蔵銭大永曳尾の母銭です。寛目が日になっていますね・・・本当の意味の欠目寛です。面背の平面写真だけじゃピンときませんが、別角度で撮影した画像を見て、これが母銭だと言うことが分かります。とにかく美しい。御蔵銭っていいなあ・・・と思いませんか?(私だけかな?)彫りが深くまるで金属塊から削り出されたばかりのようです。 |
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11月4日【刔輪異當ありました!】 私のリクエストにお応え頂き、雑銭掲示板に七時雨山様から投稿がございましたのでここにも掲示します。ここまで細かく収集されきちんと分類されている七時雨山様には敬服いたします。さすがです! 土佐額輪の刔輪異當と呼ばれる異種・・・やはりありました。異當とは當冠の前垂れがやや内側に傾いて反り返るもので、全体の刔輪も強くなるものです。見分けるには背側の當上刔輪を見るのが分かりやすいようです。當の前垂れには反り返るものとそうでないものがあるようで、ここら辺は小異かもしれませんが手変わりファンにはおいしいところでしょう。ただ、額輪は製作が粗いものが多く細かいところがよく分からないものが多いかも。 なお、拓本の異當は上下に長く伸びているようで全体にすっきりとしています。これは拓本用紙の歪みなのかいもしれませんが、銭文径まで微妙に異なります。(異當の方が縦長で銭文径が大きい。)泉譜から異當がはずされたのは、分かりづらかったり、分類が微妙だったりしたからかもしれません。 なお、刔輪異當の位付けは新訂天保銭図譜では八位(通常の額輪八位)、天保通寶銭分類譜【4】では六位(通常の額輪八位)ですけど「存在は少ない」とコメントされていますので見つけるのは評価以上に大変なのかもしれません。また、七時雨山様からは極印が額輪と刔輪異當は異なるとのコメントもあります。額輪本体系の極印はサイズが小さいものがガツンと深く打たれているイメージなんですけど、これについては私にはまだよく分かりません。ちなみに肥字系は小さいながらとげとげツンツンしている極印が多い気がします。(最近は整理が行き届かず、実物を見ずに記憶だけで記事を書いているのでいささかあやふやなのですけど・・・) |
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この拓図が額輪の刔輪異當母銭です。天保通寶銭分類譜(第4回配本)の他に天保通寶母銭図録(異点保)、當百銭カタログ(額輪母銭)に掲載されています。(カッコ名は掲載名)新訂天保通寶図譜には額輪刔輪として通用銭が掲載されていますが、天保通寶と類似貨幣カタログには掲載されていません。 見ての通り強烈な刔輪が施されており、説明がなければ私の眼には接郭にしか見えません。この母銭が土佐の堀見家から出た26枚の中に2枚含まれていたそうなのですが、おそらく、接郭土佐藩鋳造説はこの母銭が原因だったと思われるのです。しかし、その後この額輪刔輪異當の存在はほとんど聞きません。あるいは本当に接郭の母銭の見誤りだったのかもしれません。 下段に額輪の拓本を掲載しますが、雰囲気はかなり異なり銭文径も小さいのです。この件については何か裏があるんじゃないかと勘ぐっていますが、私には分からないところ。ただ、このおかげで額輪本体はどんなものなのか・・・という点の気づきは頂戴できました。 額輪刔輪異當について真相をご存知の方・・・こっそり教えてください。私は瓜生氏の悪戯なんじゃないかと考えています。 ※額輪は本座より銭文径は小さく、離足寶で嵌郭なので反郭気味になるものが多い。額輪の特徴は母銭でははっきりしているものの通用銭はほとんどわからないのです。輪の内側がわずかに低くなり、境目が不鮮明になっているものが多く見られます。 |
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さて、上下の天保銭をよく見てください。誰が見てもこの2つの天保銭は種類が違うと認識できるでしょう。1975年に出版された天保銭図譜(青譜)では天保泉譜(勢陽譜)では存在していた南部民鋳がほぼ説明もなく忽然と姿を消し、土佐藩に移籍されました。南部民鋳が土佐藩鋳に移された理由は、四国の堀見家に伝わった母銭類の存在でした。額輪の短尾辵があったことから製作の似たもの・・・南部民鋳を一括して移籍したものだと思われます。南部民鋳はありふれた存在であったためか、その移籍には異論などはあまりなかったようでしたが、私には衝撃的な事件でした。 時は流れて・・・私は天保通寶銭分類譜(第4回配本)の母銭図を眺めていてあれれ・・・と思いました。接郭にしか見えない「刔輪異當」という拓図が掲載されていたのです。調べるうちに、いわゆる土佐額輪本体と額輪肥字は別物ではないかと考えるようになりました。それは「改造銭物産展」の記事に記していますが完璧な結論が出たわけではありません。実は天保仙人様は、南部民鋳を復活させるべきであるとお考えのようです。 今のところの私の考えは以下の通りです。 1.額輪本体は覆輪嵌郭母銭によるものであり、技法が異なる事。 2.額輪本体の銅質は西日本産特有の淡黄~褐色(変色で黒くなる)であること。 3.額輪本体の銭文径は肥字に比べて一回り以上小さいものが多いこと。 4.額輪肥字系には銅色・製作が本体とは異なるものが多数存在すること。 5.額輪肥字系には延展を思わせるような薄肉、広穿のものがあること。 6.額輪小様についてはまだよく分かりません。 肥字系のものにはいろいろなタイプが紛れ込んでいると思われます。 幕末の天保通寶の密鋳は全国各藩で行われていますが、南部藩は民間の密鋳で集落ぐるみで相当数の場所で行われていたと考えられます。原材料も他藩に比べれば入手しやすかったと見えて、当四文銭の密鋳規模のことを考えれば、南部民鋳がなくなる方が不合理だとも考えられます。とはいえ「これが南部民鋳だ!」とする絶対的な根拠はありません。言えることは「額輪本体と短尾辵を土佐藩鋳」とすること。その他については再考の余地があるものとしておくべきなのではないでしょうか。もちろん、銅質の赤いものを・・・あきらかに西日本系の銅色でないものを・・・南部民鋳に戻すことに異論はありません。歯切れ悪いですね。 ちなみに上段の天保銭は関西のTさんが南部民鋳、それも山内鋳じゃないかとお送り頂いたものですけど、南部藩の山内鋳とは極印が明らかに異なりますので「違います」とお答えしましたが、南部民鋳かと聞かれれば「そうかもしれない」と答えます。不知広郭手覆輪肥字としたって間違いじゃないのです。こいつは南部民鋳とか土佐額輪肥字などと名前がない方が幸せだったかもしれません。 ※新訂天保銭図譜が出たとき、あまりの内容の変化について行けず、天保銭収集熱が冷めてしまった記憶があります。銭籍を異動することはそれだけ強い影響力があるので、慎重な考察とパワーが必要だと思います。 |
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10月31日【Tさん劇場】 関西のTさんからレターパックが届きました。実物を見て評価して欲しいと言う依頼です。あらかじめおおよその内容が分かっていたので問題なく引き受けました。 不知長郭手縮形極厚肉銭 過去に投稿いただいていた品で、実物を拝見させていただきました。ネットに一度出品されましたが贋作だとご自身で判断されたようで出品を取り消されています。この不知銭は2つの点ですごく特徴があります。①長径が47.65㎜、銭文径も40.06㎜しかないのに ②重量が27.8g もある・・・ことです。一応、覆輪刔輪はされているのですが、ほとんど目立たないので名称からは外しても良いかも。これだけの銭径縮小なのにこの重量・・・3㎜をはるかに超える(3.2㎜以上)極厚肉銭になります。 ただ、前述したようにTさんはこれは贋作に絶対違いないと思われていたようです。まず、出来過ぎていること、そして色調が妙に黄色く見えること、郭内が焼け付いたように黒ずんでいること、画像ではわからないのですけど実物の地がニスを塗ったようにツルツルテカテカに見える事、輪側面のやすりが気に入らないこと(Tさん談)・・・等々。疑いをお持ちになることは素晴らしいです。まず、出来過ぎていることは間違いありません。色調については側面の色を見て頂ければ判るように地金は問題ありません。真鍮質ではなく本座に近いものです。どうも地の部分には漆のようなものが地染めとして焼き付けられているようなのです。近代のニスのようなものではなく、時代も古そうです。その塗料が穿内にも及んでいますが、穿内は黒く染まっていますが不知銭特有のべったりやすりが入っています。側面のやすりは近代のものではなく、古い時代の和やすりであり、極印も真面目に打たれています。 結論から言うと、これは贋作ではなく時代もきちんとある不知銭であると私は判断しました。地のテカリは画像では分かりませんが、手にするとつるつるします。しかし、拡大すると黒ずんだごつごつのムラがあります。Tさんはこれを贋作の汚しと見たようですが、側面の色は自然なので私はそうではないと見ました。ただし、かなり昔から愛でられていたと思いますし、そのときに加工された可能性はあります。異論ある方はいらっしゃると思いますが、これは良いものとであると私は推します。 不知長郭手大拡穿(歪書) 歪書としましたが文字へのはっきりした加刀があるわけではありません。ただ、全体に湯圧が不足していて面文は歪み、背は型ずれで文字そのものが横広になっています。何よりの特徴が郭が不自然なほど広げられて、穿内に段差ができて面背逆製のように見える事。おそらく中見切り(貼り合わせ)で作成された際、面背の型ずれが生じて、それを修正するために線を後加工したものじゃないかと思われます。私所有の撫角銭に似ているのではないかとのことですけど、製作が全く異なります。(撫角銭は砥石仕上げで絵銭的なつくりですけど、これは密鋳銭のつくりです。) 久留米深字大様銭 久留米深字に大様のものがあることは大川天顕堂師などが書き残しているそうです。また、田野誠泉氏が昭和12年の貨幣誌に水戸深字天保母(未仕上げ銭)としてうっすら鍍金されたものを出品されています。「母銭ではあるが通用銭用のものではなく枝銭としてつくられたもので、それは何かの機会にもげ落ちたものではないか・・・存在の少ない珍品には違いないが、本来の使命はまづそんなところであらう・・・」とその時は結論付けられています。 大きさからみて通常の深字とは明らかに異なりますが、銭文径は通用銭です。ただ、覆輪されているというより内径が大きくなっていると言った方が妥当かもしれません。 私の所蔵品の背の文字の立ち上がりは母銭づくりにも見えますけど、Tさんのものは通用銭の作り。と、言うことは私の方も母銭ではないのでしょう。田野氏の言う通り、何かの記念の品なのかもしれません。このサイズの深字は果たして日本に何品存在するのでしょうか? ※2016年3月28日と2015年7月14日製作日記に49㎜台の深字があります。これだけ見つかっているとなればひとつの分類ジャンルとして成立するかもしれません。 室場反玉寶仕立銭 これは有名品ですけど、重量27.8gは立派。反玉寶には贋作があるので私の手持ち品(反玉寶細縁小様)と画像比較してみましたが、銭文径がほぼ合致しますので少なくとも鋳写しの品ではありません。少し心配だったのは側面の仕上げのやすり感が薄く、もしかすると古い時代に鋳放しを通用銭に加工したものかな・・・とも考えたのですけど、変造品は極印が星型と聞いていますし、面の砥ぎもしっかりしていますのでのでこれは大丈夫じゃないかと思います。いや~この重さは実に立派です。 |
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10月30日【郭抜け広穿天保】 最近ネットに出品されていた不知銭です。まあ、出来が悪いことこの上なく、鋳不足気味の陰起文で形も歪んでますし、穿の仕上げもいい加減で広穿になって郭が擦り切れてしまってます。 こんな不出来な不知銭に7万円も投じるなんて・・・信じられないのですけど、いるんですね馬鹿者が。出来の悪い娘ほど可愛いとか、侘び寂びだ、稚味だ雅味だと皆さんさんざん言い訳をしております。(私もです。) お金を払うなら出来が悪い娘より、聡明で美人な娘な方が良いに決まっています。騙された娘がものすごいブスで、恥ずかしくて誰にも言えない世界なのかもしれません。それでもやめられないのですか・・・病気ですね。お大事に。 |
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この画像はよくご投稿いただく禄生禄様を介して送られた湯曄暉様のものらしいです。(勘違いでしたらごめんなさい。) 日本でも鐚永楽のファンは以外に根強いものがあります。なかでも中正永楽と言えば永楽ファン垂涎の品ですけど、数も少ない上に高額なものばかりで、おいそれと手が出せるような品ではありません。その中で木楽と呼ばれる類だけは比較的なんとか入手が可能な品だと思います。気楽に入手できる中正手が木楽だと思いますが、木楽本体はなかなか味がある顔をしています。特徴は刔輪によって永楽の文字が寄郭して特に永字が俯永状に押しつぶされ、楽の木のはらいが上ずってホではなく窮屈な木の形になる事。活字では永楽通寶は木楽が当たり前なのですけど、実際はホ楽なんですね。木の形は左点が長く、右点が昴ります。中正手大頭通なども同じ特徴がありますから、この点は泉譜をよく確認してください。(良い泉譜が入手困難なのが困ります。中世銭史・本邦鐚銭図譜・東洋古銭図録・穴銭カタログ日本あたりがねらい目か) 最上段は、木楽広穿の郭抜けで、その次が木楽広穿ですけど、木楽の次鋳銭であることは見た目ですぐにわかります。その下が木楽の本体銭でなかなか味がありますね。永楽の特徴や加刀の雰囲気もよく分かります。外径は24.3㎜、内径20.9㎜ほどだそうです。 その次の1枚が問題の品で細縁、細字、俯貝寶で外径は同じですけど内径が先ほどのものより大きい21.3㎜。泉譜にはないですけど刔輪されたものかもしれません。つまり、中正手木楽刔輪・・・なんてね。覆輪がとれてますけど木楽広穿の磨輪母銭なのかも・・・素人ですから言いたい放題ですけど、夢あるなあ、これ。お分かりの方、意見を掲示板にご記入ください。 最後の一枚は赤さが美しいので思わず落としてしまった南部仰寶母なんだか通用銅銭なんだかわからないもの。藩鋳ではなく密鋳ですね。幕末から明治初期にかけて南部藩内は密鋳の鋳銭場が村ぐるみ、(買収された)役人ぐるみでめちゃくちゃ存在したようです。鉄銭は「鉏銭:ずくせん」と呼ばれて銭相場大暴落・物価高騰の引き金になり、物価は上昇しているのに(流通禁止措置・強制回収措置が行われて)銭がない異常事態をもたらしました。鉄がダメなら銅銭を作るのは当然の成り行きですけど、当初は原料の入手は難しかったと思われますが、明治維新の混乱で管の横流し品の入手がたやすくなったと思われます。明治初期は天保銭より小額銭相場の方が高くなった瞬間があり、このときに小額密鋳銭は大量に作成されたと私は考えています。したがってこの仰寶は鉄母銭なんだか通用銅銭なんだか私にはよく分からない。まだ手元に届いていないので何とも言えませんけど、側面仕上げが見てみたいですね。 |
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今月の大和文庫入札に珍しいものが出ています。おお~なかなか美しい「二水永背三」、背の朱書も鮮やかで由緒を感じます。でもなにかがおかしい、まるで寄席・歌舞伎の文字のような太細ある書体で文字が躍動しています。実はこれは寛永堂稲垣尚友の作と伝わるものらしい・・・らしいと言うのは誰もその現場を見ていないからで、私もこの作が本当に寛永堂のものなのかを知りません。稲垣は寛永通寶研究の権威であり、藤原貞幹の弟子にして寛永銭譜の編纂者と言われています。文政年間に京都に住んでいて明治初頭まで生きたとされていますが、生没年は不明なのです。京都の古銭商の初代中島泉貨堂(1828~1908年)が稲垣の弟子らしいので、おおよその活躍(暗躍?)年代が分かります。収集家・研究家にして古銭商でもあったらしく、贋作は精緻なものが多いと思われますが、それもそのはず、稲垣は大阪の高津銭座の元職人に作品を作らせていたのだそうです。したがって金質は寛保期高津銭ばりの白っぽい色合いのものが多いと伝わりますが、白くないもの・・・黄銅質や赤銅質もあります。この点は寛永堂の子孫という伝承がある謎多き古楽堂との作品混同もあるかもしれません。大和文庫の出品物は贋作品とはいえなかなか美しく、二水永跳永という名前もついているようです。寛永堂の跳ねる書体作品では亀戸背跳文等が有名です。(2007年4月4日・2013年6月13日)ところで背の朱書きの文字「三左字?」の意味が不明です。お分かりの方、教えてください。(左馬と同じく裏文字のことか?) もう一点は「銀打印銭寛永」で、市場に出るのは久しぶりではないでしょうか?銀の鋳造寛永は良く見かけますが、打印銭の銀寛永は存在そのものが知られていません。穴銭入門新寛永の部(静岡いづみ会編)の古い版・・・第2版以前か?・・・には未勘銭(不知銭のこと)の部に2品が掲載されていましたが、一般通用銭ではないことから新版からは削除されてしまっています。制作日記2013年の9月8日(9月9日も参考)に銀打印銭寛永の拓本画像が載っていますが、この書体はその旧貨幣誌に掲載されたものと同じ種のようですから、コレクターの間には何品か伝わっているようです。銭幣館蔵泉覚にも同じものがありますのでかなり古い時代から存在したものなのでしょう。おそらくは個人的な絵銭、記念銭の類だと思いますので大騒ぎするようなものではないと思うものの、ものすごく魅力的ですね。ちなみに最後に掲げた画像は私の個人所有の銀打印寛永銭です。オモチャみたいですけど貴重なんですよ、これ。 |
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79回133,000円 55回140,000円・・・注目していた天保銭の応札回数と落札値です。恐れ入りました。 上段は福岡離郭の濶縁。百の横引きに爪があるようにも見えますが、爪百ではないようです。それでも濶縁は見事ですし状態も非常に美しいのである程度の価格はつくと思っていましたが福岡離郭濶縁としてはかなりの高額落札値になりました。離郭濶縁は、赤っぽい銅質で鋳ホールと呼ばれる小さな凹が輪にいくつかあるものが好まれるのですけど、この品は鋳ホールは少々ありますけど製作はかなりしっかりしています。青銅質気味のものは離郭中濶縁と言われることがありますけど、これは立派な濶縁です。文字の立ち上がりも鋭く離郭濶縁の未使用に近いものじゃないかしら。 もう1枚は曳尾大字保の系統でしょうか。保の口は大きいし百の横引きのうねりも強いですね。天の前足の長さは画像からははっきりわかりませんが、二引きも立派さはなかなかのものです。 ただ、この天保銭に激烈な競争が起きたのはこれが原因ではありません。離郭濶縁にも負けないほどの濶縁ぷり。しかも文字は細く頭頂部が狭い山型になっており、母銭の形状なのです。この特徴は面背に見られ鋳ざらい痕跡らしきものまで・・・もしかして、本当に母銭???。皆さん、夢を見ていたと思います。この価格結果はすごいけどあり得ます。 |
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関西の青煮斎さんから画像を頂戴しました。(ありがとうございます。) はじめの3枚は背盛、背千、異書進冠の大型美銭です。これらをどう見ますかということでしたので正直な感想をお伝えしました。 ネットオークションに出ていた品だそうで(良くある話ですが)コインフォルダーに母銭と書いてあったり、高価なものの多くは入れ替えられていたとのこと。そのうち、ここに示したいくつかはそのままであったということでしょうが・・・。まず、そんなことをする人は怪しいと思わなければいけませんね。ただ、見落としはあると思います。 背千は残念ながらひと目でだめだと思います。真鍮写しにしか見えません。仙台銭の母銭は「魚子肌」と言われる地肌が特徴です。細かな魚鱗状の地肌で、「松葉でつついたような細かな模様」が特徴ですけど、これにはそれが観察できません。それに母銭は通用銭をつくるための型ですから文字が繊細でなければなりませんがそれもだめ。また、放射状に伸びる線条痕も感心しません。ただし、火中品を磨いたものの可能性もあります。 本物度25% 母銭度25%(修正) 背盛は輪が傾斜している仕上げ・・・いわゆる茣蓙擦れ仕上げになっています。画像からだと色あいがよく分からないのですけど、文字がつぶれていて母銭としては失格です。また面側に走るやすり目も不規則で後になってつけられたものに見えます。密鋳の浄法寺系とする方もいらっしゃると思いますが、この手のものは昭和時代の写しを仕上げたものが多数存在します。密鋳鉄銭の母もあり得る?・・・う~ん、どうかなあ。ここら辺の評価は出品者の印象に引きずられている気がします。 本物度75% 母銭度75%(修正) 享保期仙台石ノ巻銭異書進冠大型黄銅質銭は本物です。文字繊細で母銭じゃないかということですけど、それは微妙かな。この類は大型黄銅質銭が確かに存在し、次鋳の母銭と思わしきものもたくさんあります。画像からだけで判断するのは無理で、いえ、実物を見ても判断が分かれるものがあります。母銭の見立ては人それぞれで、内外径が大きくて、製作が良くて、郭内に仕上げがあって、材質が違って、文字などに加刀があって、背側の作りが美しいものであれば文句なし。ではこれは・・・問題は一つで背の作りが甘い・・・気がします。しかし、これだけでは判断しきれません。母銭認定もひとそれぞれで、最近の私は意識的に厳しくしています。 本物度100% 母銭度40% 最後の1枚は御蔵銭長永ですね。コインフォルダーにもそう記されていたそうですが、出品者に手を付けられていなかったようなのだそうです。地に加刀痕もあります。書体的には寶爪、永点に明確な瑕があり長永に間違いないと思います。真鍮写しでなければこれは本物です。 長永度100% 本物度90% |
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関東のA様から ①仙台銭は火中でただれた母銭を磨いたものの可能性がある。 ②背盛は密鋳母でもよろしいのではないか? とのご指摘がありました。とくに②は先入観に引きずられた感がありますので、見解を訂正させていただきました。 |
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宏足寶の類には細縁で49.5㎜、25gを超えるような迫力あるものが存在します。画像上段は今ではお気に入りの白銅質のものですけど、実はこの天保銭は雑銭の会の例会で盆回しに出した(出しかけた)ことがあります。私としてはお近づきの印の気持ちで3万円という採算超度外視価格で・・・。天保銭を放出して寛永銭に特化する気持ちも頭の片隅にありました。工藤会長に「もったいないよ」と、たしなめられ、それでもこれとは別の宏足寶(白銅質でない同規格品)を出品し、天保仙人様にお譲りしています。その後、天保通寶にこんなにはまるとは露知らず・・・。この天保通寶が貴重だと知ったのはその後のこと。放出しないで良かった♥。古銭を売る場合に元を取るように考える方もいらっしゃいますが、私の場合は十分に楽しんだので・・・と放出するタイプでしていわゆるキャッチ&リリースの精神ですけど、価値を知らないままに手放すのはちょっとねぇ・・・。 宏足寶にはこのような細縁で大様になる銭文径41.1㎜前後のタイプの他に、それらを写したと思われる縮字タイプのものがあります。(次鋳と称しても良いのですけど、格が下がるような感じがしますので縮字としました。)画像中段がその縮字タイプの典型でして、見事な濶縁になっています。これは天保仙人様のご自宅で撮影させて頂いたもので、画像比較でタジさんの宏足寶と銭文径がほぼ同じであることが分かります。なお、光源位置の関係で書体の印象が少し異なっていますが、系統は同じものだと私は思っています。スキャナーの場合は光源が下から上に移動しますので「あおり気味の画像」になりますが、スマホの場合は光源が上にあるので「見下ろし気味の画像」になります。(スマホでそれを修正しようとすると完全なあおり撮影になってしまうため、銭文径の狂いが著しくなります。)本年度の銀座コインオークションのカタログがお手元にある場合、天保通寶の部分を開いてみてください。左右の輪幅が異なる印象がありませんか?左側が広く見えるのは、天保通寶を横向きにしてスキャナーをかけた(あるいは光源を左側に置いてカメラ撮影した)からに他なりません。これは影による目の錯覚なのですけど、これによって購買の意欲が全然変わってしまうことがあるから困ったものです。 宏足寶の細縁大様タイプは本座長郭に比べ銭文径で0.65~0.75㎜ほど縮小していますから、縮字タイプは41.3~41.5㎜前後になります。覆輪により圧縮もあるので、計算上の理論値より誤差は写すほど広がります。タジさんの当初の報告での銭文径は39㎜台でしたから、もしや3回写し!!!と色めき立ちましたが、どうやら2回写しのようだと結論が落ち着きました。それでも貴重なのは変わりはありません。 |
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10月17日【幸せの雄たけびが聞こえる】 侍古銭会のタジさんからのメールが絶叫していました。「やりました!大量の天保銭の中から不知長郭手宏足宝を掘り出しました!・・・削頭天まで出てきました!(汗)こちらは初入手!」びっくりマークが踊っています。タジさんはどうやら禁断のまとめ買いに手を出してしまったようです。そして幸運(不幸?)にも素晴らしい鉱脈を掘り当ててしまった!なんたる泉運でしょう。私はまとめ買いで良い思いをしたことが一度もありませんが、タジさんの心の叫がよく分かります。同じ立場なら私もきっと咆哮しているでしょう。 長郭手は異足寶気味の宏足寶で花押の中央の髭先端が跳ね上がるタイプに見えるのですけど、天上の刔輪があまり強く見えませんし花押下のポツ穴がありません。しかし、背の當上刔輪も十分ですし、銭文径の縮小ぶりは見事。この件に関しては「夏の古銭会」のページを参照してみてください。 削頭天ははじめ真っ白に変色していたみたいですけど、タジさん秘技のクリーニング妖術を施したら素晴らしい状態になったようです。こちらは郭内に段差がはっきり確認できる楽しい品です。削頭天は不思議な品で、面が細郭写しながら背は長郭の文字。その逆の面長郭、背細郭がきっとあるはず・・・と仮説をたてて私は捜し続けているのですけど一向にそれらしきものに出会えません。銅質は赤味の強い銅質から真鍮質に近いものまでさまざまですけど、まるで石膏で型を採ったように砂目をあまり感じない「ぬめっとした」地の雰囲気は皆共通なので、同じ工房によるものには間違いなさそうなのです。出来過ぎ(企画もの?))かなと思うこともあるのですけど、こういった掘り出し例もありますし、不知天保通寶分類譜にもいろいろなところに出てきますから、昔から存在してしかも市場に流通していて実際に使われていたのは間違いないと思われます。 貼り合せ手の名称は前述したように面と背の書体が異なり、別書体の母銭を貼り合わせたように見えるからですけど、穿にはっきり段差があるものを見るのははじめてです。便宜上、面文の特徴を採って細郭手としていますが、本当は「貼り合せ手」なのです。天の第一画が短くわずかにうねり、通頭が長く反ります。また、背側が長郭写しなので當の田画が横長です。さらに花押しの右底のカーブのところに強い加刀が必ず見られます。不知銭勉強の意味ではこの削頭天は一度は手にしておきたいものです。 タジさん、おめでとうございます。貴方はとても泉運がよろしい。古銭の神様は貴方に甘美の世界を魅せて古銭天国(地獄?)に誘います。なかなか彼女に巡り合えないのは、古銭の神様に憑りつかれているからかもしれません・・・合掌!!??
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10月15日【床焼の謎がまた一つとけた?】 南部密銭史を読み返していると鋳銭図解(石巻鋳銭場工程絵図を後世写したもの。)の掲示と説明がありました。南部密銭史は主に幕末の鉏銭(銑銭:ずくせん)・・・つまり鉄銭に関する密鋳の記録です。鋳銭図解は享保年間の石ノ巻公式銅銭座の様子ですから密鋳鉄銭座とは仕上げ工程には違いがあるはずなのです。実は本文中に、密鋳鉄銭座になかったと思われる鋳あがった銭のやすり掛け云々の話があるのですが、これはこの図から導き出した説明なのではないかと考えています。密鋳鉄銭については銅銭鋳造ではあった工程のいくつかが省略されていて、その最たるものがやすり掛け・砥ぎ(研ぎ:研磨)の工程なのです。 一方、「床焼」図に関する説明に他の資料には見られなかった(見落としていた?)作業の記述がありました。「出来上がった銭には砂が付着しているものが多いので、熱い鉄板の上で焼くとこれがとれる」という説明です。 床焼きについては大正期に圓々堂 甲賀宣政師が「焼きなまし」の作業であると記述していますが、もっと古い記録の「長崎鋳銭一件」では「床焼きには鯨油と糠を用いる」と記され「翁草」には「古墨と油で煮る」とあります。銭の地染めの工程は元文期以降は廃れていますのですけど、少なくとも享保年間ぐらいまでは「翁草」にある地染め工程は残っていたと思われます。ただし、元文期以降はこの地染め工程を省略した様子が伺えます。明和期長崎座では地染めが省略された結果、古墨の使用も不要となり、鉄銭の時代は地染めはもちろん、やすり仕上げも省かれるようになりました。 床焼に「付着した鋳砂除去」の効果もあるのなら甲賀博士の解説もあながち間違いでないことになります。南部密銭史の解説の多くには、新渡戸仙岳の研究記述が引用されていますので鋳砂除去のための床焼説明は行われた可能性が高いと思っています。 床焼を地染め作業に限定すると、その名称と作業内容が今一つしっくりしなかったのですけど、鋳砂除去の工程でもあると考えることが加わればその謎も晴れます。さて、ここで皆さんに質問です。石巻鋳銭工程絵図にある職人が挿しを成形している右図のこと・・・何と読むのでしょう。多くの工程については判読できたのですがこの崩し字が読めないのです。「い〇銭〇」・・・これじゃ意味が分からない。どなたか正しい読みを教えてください。「鋳り銭摺」かしら? 摺には見えないけど・・・。最後の文字がわからない。 ※じっと見ていたら「いり銭払(煎り銭払)」の文字が浮かんできました。「払」の古字は「拂」ですから・・・意味的にも床焼で銭を煎った後に鋳砂を払うの意味であっている気がします。なお、2014年9月29日の記事で「いかけ」と読んだ資料の紹介があります。「いかけ」ではないような気がするんですけどね。耳摺なら分かるんですけど。 |
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幕末の東北地方で密鋳された鉄銭のことを「ずくせん」と呼びます。「ずく」とは鉄鉱石を溶かしただけの純度の低い鉄のことらしく、私は「くず」の間違いかと思ってましたが、意味的にはなんとなく近いものであったようです。 画像の古銭は元文期藤沢・吉田島縮字を写したもの。やや赤銅質でほとんど文字は読めず、通寶の文字がかすかに確認できる程度。直径は21.3㎜と小さいのに、肉厚1.3㎜で重量は3.8gと充分です。輪の側面は垂直にロクロ仕上げされているので、いわゆる葛巻銭、別名は藤の実銭です。(藤の実は少し大きめのマーブルチョコのような形なのです。)通用銭を加工した改造母銭ではなく、新たに鋳造したもの。出来は悪くともものすごく手間がかかっています。ここまで手間暇かけて割が合うのか・・・素人的には不思議に思えるのですけど、合うのでしょうね・・・いろいろな銭種の母銭が発見されています。その中でも藤沢・吉田島銭は最多の部類です。 肉厚にしてあるのは、銑鉄の流動性が低かったためと考えられ、厚肉で側面が垂直仕上げなのは、鋳張り除去のため・・・すなわち、出来た鋳張りを折り取る際に、銭本体の破損が生じるのを防ぐためと、鋳張りそのものが折りやすいように鋳張りと銭との境をはっきりさせるため。(注:私の考えです。)一方でこれを見る限り銭文はどうでも良かったと見られます。この密鋳母銭から出来る鉄銭の面文はほぼ読めなかったでしょう。銑銭は東北経済混乱の原因になったので厳しく取り締まられたようなのですけど、一向にやむ気配がなかったようなのです。つまり、それなりに高い利益が出たと思われます。南部藩内には鉄山が多数あり、砂鉄はもちろん木炭も豊富に取れました。当然、鋳物業が盛んで烔屋(どうや)と呼ばれる工場が各所にありました。密鋳鉄銭は新しさをごまかすため柿渋につけて古色を演出したそうです。 1784年、天明の飢饉救済のため仙台通寶が発行されると、仙台領内を越えて東北各地になだれ込みます。仙台通寶は撫角銭(なでかくせん)と呼ばれ嫌われました。仙台通寶に味をしめたのか仙台藩は背千の鉄銭(明和新銭と呼ばれたそうです。)も大量に鋳造します。銭相場は暴落し物価は当然高騰。ただでさえ飢饉で苦しいのに庶民はさらに苦しみます。盛岡藩は背千の領内流通を禁じて取り締まりの対象にもしたそうです。ここに背千の新銭に代わる密鋳銭の爆発的登場の理由があるようなのです。悪貨は良貨を駆逐するの言葉通り、鉏銭は藩経済を支配し、藩は倒産寸前まで追い込まれたそうです。 なお、盛岡領内における密鋳銭の歴史は、なんと寛永年間直後まで遡れるそうで、下閉伊郡山田の荒川左近なるものが銅銭を密鋳して一族15人が処刑されているそうです。天保12年には鉏銭氾濫に業を煮やした藩主が、鉄銭通用禁止としたうえで強制回収までしています。以降、東北の経済は密鋳銭との闘いと言いますか共存の関係で明治期を迎えます。 明治2年、凶作に対し軽米の有志が資金を出し合い大規模な炉を構え、本格的な鋳銭を半ば公然と行ったそうで、その地は千貫平という地名がついているそうです。同じく明治2年には八戸藩は取り締まりをついにあきらめ、税金を取り密鋳を認めたそうです。これを御免座といったそうで民は大いに喜んだそうですが、すぐに明治政府の取り締まりが入り、その期間は数か月で終わりを告げたそうです。 (なお、画像の密鋳銭は密鋳鉄母銭としましたがあるいは母銭づくりの通用銅銭とも考えられないわけではありません。母銭として面文が読めないのはいくらなんでもひどすぎる気がしますので・・・。) |
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御蔵銭の分類情報を求めて久々に「古寛永泉志、古寛永大分類の手引き、収集連載「穴銭入門古寛永の部:いづみ会編」、平成古寛永銭譜等をざっと読み返しました。諸先生方もやはりこの分類に四苦八苦している様子が伺えます。 本体銭は何か・・・を求めると、その元になったであろう銭種に近似したものが選ばれることになります。典型が小永の本体で、見れば見るほど大寛に見えてきますし、同類のはずなのにそれから変化した小永(横点永:下拓図)には逆に似ても似つかない書風に化けています。 だいたい、いづみ会譜ではこう言っています。「長尾寛、広永、小字の三種はその書風から小永の変化とも考えられる・・・」また平成古寛永銭譜の寛仙堂師は泉譜の中でこう言ってます。「縮寛、小字、小永類は類似点が多く細分類に骨が折れる。」とどのつまり、小永、長尾寛、広永、小字、縮寛は同じ系統のルーツであるかもしれないと言うことで、細かく分類して垣根を明確にするのは不可能に近いと言うことだと思うのです。私見を言いますと、御蔵銭の系統は大字をルーツとするものと大寛をルーツとするものの2つの流れしかない気がするのです。 1)大字濶縁 → 跳永 → 大永 → 大字 → 正字 2)大寛 → 小永 → 長尾寛・長永・小字・縮寛 特に大寛系は覆輪写しの可能性もあり、書体変化が激しすぎます。ルーツの本体銭を求めるような分類するのではなく、代表銭を定めてその周囲を埋めてゆくような大雑把な分類で細かなことはあまり気にせずに楽しんだ方が得だと思います。 |
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10月10日【御蔵銭の分類:古寛永泉志より】 御蔵銭の分類は本当に難しいです。珍銭として名高い長永を手に入れようと何度か企てたことがあるのですが、何度見てもう~ん・・・という感じで、最後に心が動かないのです。長尾寛の変種にしか見えないのです。(失礼!)先日質問されたこともあり、最近勉強不足なので、改めて確認してみることにしました。なお、泉譜によっては細字、広永など別分類名を見ますが、大同小異なので割愛しました。 |
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まずは関西のSさんから・・・。(ありがとうございます。)寛保期高津銭細字背元大様母銭、外径25.36㎜(最大値)、内径17.85㎜、重量4.14gというBigサイズ。このような大きなものは見たことがない・・・と、言いたいところですが2017年の4月にオークションネット古銭入札誌26号に25.3㎜の大様母銭が出品されていました。これに色めき立った私・・・思わずサイズは間違いないか確認したところ、ノギス写真付きでメール返信が返ってきたのです。きっと誰も気が付いてないぞ、もらった!とばかり高額(自分で考える限りですけど)応札してにんまり。ネットと違い誌上入札なので一発勝負・・・で負けました。(製作日記2017.4.20) 25㎜超の高津細字母銭はまずないですよ。少し歪んでいるのが残念ですけど、貴重な品であるのは間違いありません。 続いては同じく関西のTさんから。(ありがとうございます。)奇麗な御蔵銭です。文字立ち上がりや地への加刀の痕跡や丁寧な地染め・・・母銭でよろしいんじゃないかしら。地染めの件については鋳銭について書かれた翁草に鋳銭工程として「油と古墨で煮る」とはっきりあります。御蔵銭は古寛永通寶の中でも特に地染めが美しい銭です。この地染めは砥ぎ仕上げで銭文を浮き上がらせる効果があり、砥ぎの仕上がり具合の確認もしやすくなります。御蔵銭は分類が難しいのですけど、画像の品は寛が長く大きく、寛の前垂れも長く開いていて大寛でよろしいかと。ただ、この大寛系列は中間体もありまして、少しだけ小永の特徴が入っているかなと・・・御蔵銭は難しいです。 最後もTさん。琉球通寶半朱です。ご本人も気づかれていましたが贋作です。良くできていますが異極印ですし・・・。この手のものは数年前にも紹介していますが出来が良いのでやっかいです。Tさんも密鋳の半朱かなと思って入手されたようです。 広郭の分、琉球の文字が縦に少し圧縮されて横長になる特徴があります。広郭の半朱には要注意です。 |
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10月5日【薩摩小字黄銅質】 称:薩摩小字には長人偏、短人偏(不知天保通寶分類譜には並行人偏もある)があり、製作的には長人偏の方が初出じゃないかと思います。なかでも黄銅質のものは戦前から存在が知られていたそうで、泉譜には現存2品ぐらいと書かれていたぐらい希少でした。画像は左側が私の蔵品。右側が天保仙人様の持ち物。全くサイズが同じことが分かりますので仙人様の所蔵品も黄銅質の大様銭なのです。つまり戦前に知られていた2品・・・だったら面白いのですけど泉譜を確認する限りはそうではありませんね。 この小字は写しと思われる2番銭3番銭が多く存在していて、銅替わりも多く、真贋がどうもよく分からないのです。ただ、不知銭の場合は通用母による写しは普通に行われていましたので、「大型銭でないから・黄銅質でないから」一概にだめというわけではありません。 左右の銭の地肌を確認すると銅質はほぼ同じものの地肌がかなり異なります。製作のばらつきはやはり多かったのでしょうね。薩摩小字は何度か市場で見ていますが黄銅質のものは仙人様のものと2018年の3月にさくらコインショーでみたものぐらいでした。 |
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関東のAさんから拓本を頂戴しました。ありがとうございます。私、広穿大字を購入してしまったが故、出費抑制のため2020年CCFには参加しない・・・と心に誓ったゆえ、カタログをしまい込んだまますっかり忘れていました。今思うと記念応札ぐらいしておけばよかったと・・・。 拓本は6193番の長郭手覆輪張足寶背覆輪跡有だそうで、拓本にすると覆輪ぷりと寶足の長さが際立ちます。この類は張足寶の中でも銭文径の縮小が激しいタイプで当然刔輪も強いのですが寶下に集中しています。したがって穿の位置が上方にずれています。それでも通寶の丈の縮小が強く、通寶小字とされることもありますが、私はみな同じ系統だと思っています。銭文径が小さい分張足寶でも足が長くみえるので長張足寶としても良いかと思いますが、天上の刔輪が小さいのでいったん自重かな。ただし、不知天保通寶分類譜には同じ系統で長張足寶としてある拓もありますのでこれは好みの問題かと・・・。この系統は寶貝底の前足付け根付近に小瑕の特徴のあるものが多いと、仙人様から拝聴しています。ご確認ください。 |
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10月3日【天王寺屋長兵衛】 天王寺屋長兵衛(長左衛門)の名前を知っている方は今の日本の古泉界にはほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか? 彼の名前は日本の古い泉譜や収集家を調べていると、わずかに出て来る程度なのですけど、大阪の民間収集家にして日本最初期のヌミスマチスト(貨幣学者)であることは間違いなく、妹尾柳斎の師弟関係(どっちが師匠なのかは?)にあって、古銭書の化蝶類集を著し、収集品を富山の大名収集家の前田正甫侯が買い取ったとか・・・断片的にわかっているだけです。化蝶(げちょう)とは銭が人の間を蝶のように飛び回ることからついた隠語。昔は読み方が分からなかったのですけど、今はインターネットにすぐ出てきます。 海外の方からは時々投稿がくるのですけど、今回の方は本格的なヌミスマチスト。なにせフランスの貨幣学誌(評論:アジア社会の貨幣学)に度々投稿されています。では、フランスの方かというとそうではなく、アメリカのヒューストンに在住の方なのです。 お名前はクレイグさんと言います。 投稿掲載履歴をあげると・・・ 韓国別銭の年代(2015年3月) 化蝶類集に描かれた安南の小型貨幣(2015年9月) 安南戦乱期の密鋳、私鋳銅貨 パート1(2016年9月) 安南戦乱期の密鋳、私鋳銅貨 パート2(2016年12月) 中国のガラス製(陶製)絵銭(2018年6月) 安南戦乱期の模造丁銀(2019年9月) 秘録・イエズス会宣教師が日本に持ち込んだカトリックメダル (2020年3月) 私は英語が得意なわけでないので四苦八苦しながら翻訳して返事を書いていますが、専門用語の意訳が難しいのなんの。 例を挙げます。 1)Korean Amulets そのまま訳すと「韓国のお守り」。それだと意味が分からないので絵銭(別銭)と考えました。絵銭の概念が西欧にはないので「アミュレット」の言葉ががあてられたと思います。いかがでしょうか? 2)Pressed Glass Coin Shaped Amulets of China これもそのまま読むと「中国のプレスガラス製コイン型お守り」・・・でもって、これは代用陶貨・ガラス貨のことだと思っています。 3)Fake and Fantasy Cast Copper Coins of the Vietnam War 直訳するとベトナム戦争時の贋造と模造の鋳造銅貨ですけど、the Vietnam Warは近代のものではなく「安南戦乱期」と和訳し、Fake and Fantasy Cast Copper Coinsは「密鋳、私鋳銅貨」としました。おそらく安南手類銭のことだと思います。 天王寺屋長兵衛の化蝶類集は日本で最も古い泉譜かもしれません。その中に近年舶載された島銭がたくさん載っており、クレイグさんは収集品と対比させて解説しています。つまり、島銭の歴史はとんでもなく古かったというわけ。島銭を見る目が変わりますね。 クレイグさんは今、ラムスデンについて研究を始めようとしています。ラムスデンは欧米では贋作者という見方がされていなかったようですので・・・。 |
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関東のAさんによると小川吉儀会長のとき、御蔵銭のコレクター間大量移動があったようでそのときに御蔵銭分類の研究会が結成されて細分類が決定したようです。 9月28日の記事の長永がその時動いたものらしく、左下のものが現在Aさんの所有品。そしてその拓本が本日掲示しているもの。印象は多少異なりますが同じ品だそうです。 長永は昔から有名で、なかなか納得のゆく品に出会えません・・・というより出会いがない。だからいまだによく分からない・・・分類ポイントはわかっていますけど絶対とも言えず難しいのです。最近は見なかったことにしようと半ばあきらめてました。ところで、御蔵銭は浅草橋場で鋳造されたはずなのに昔から御蔵銭の愛称で呼ばれています。もともとこの一帯は鳥越神社の寺領で、墨田川に面した丘陵だったのを江戸幕府が神社を移転させて年貢貯蔵基地の御蔵(浅草御蔵)を作ったそうで、その結果、地名変更が行われていたようです。この付近に住んでいたもともとの鋳銭職人は橋場へ集団移転させられた可能性が高いのです。江戸は度重なる大火災で地図が何度も書き換えられていますので、そういった経緯もあって今に至っているようです。このお話、天保仙人様から拝聴していましたが、地域の歴史をひも解くとこのお話は間違いはないと思います。 |
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10月1日【魚尾寶】 関西のSさんから雑銭の中から魚尾寶を拾ったとの報告がありました。魚尾寶は古寛永の初期不知銭でも別格の存在で、「源氏名(あだ名)銭」としてはもっとも有名な逸品なのです。特徴は寶足が魚の尾のように扇状に開くのですけど、それ以上に大きいと言う特色も併せ持ちます。(だから名品とされるのです。) ところが、泉譜にはこのことが書いていないので、あまり知られていません。 外径25.98㎜ 内径19.99㎜ 重量4.80gの堂々たる姿。ひびが入っているのは残念ですけどすごい品です。 |
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文源郷師の出品物を落札しました。真赤でとてもキュートです。密鋳一文銭はほとんどの方が興味を示しません。数は少ないのですが、集めるのが難しいし見栄えもしませんし・・・。ただし、これに加護山、踏潰、江刺の名称がつくと魑魅魍魎どもがわさわさ集まってきます。正直言ってこれがどこで作られたのかは推定でしかないのですが、このどろんとした赤味の強いものも最近は加護山で良いかな・・・と思うようになってきました。 密鋳銅銭がいつ作られたかについては、古銭界でもあまり考察されていませんでした。當百銭密鋳のついで・・・という書き方が多いのですけど、実際には密鋳鉄銭の横行に手を焼いた領主の行動(盛岡藩)と、維新前後の銭相場とが密接に関連していると考えられます。(2018年12月30日制作日記参照) つまり、密鋳銅4文銭が盛んになるのは天保12年(1842年)以降で、なかでも密鋳銅一文銭が盛んに作られるようになったのは明治元年以降だと私は考えています。(鉄銭の母銭としてはもっと前から作られていましたが・・・) ※南部藩、藩札、岩手関係の貨幣のお話です・・・めんどう氏の私的blogなのですけど、不知細郭手張足寶を掘り出したそうです。見てあげてください。実はこのblog知る人ぞ知る貴重な資料がたくさん出てきます。探求してみてください。 ※天王寺屋長兵衛について海外の方が研究をしていました。こちらのサイトも探求してみてください。近年、日本に来た・・・つまり新しいと思われていた島銭がかなり古い時代に日本にあったような・・・必見です。 ※お盆前に眩暈症になってから50日・・・本日、久々に山歩き。上り坂がきついのなんの・・・なんとか12kmを歩ききりました。標高300m級の低山で、しかも舗装路ばかりですからハイキングです。久々の山は鹿だらけでした。 |
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御蔵銭を分類しようなんて誰が考えたのでしょうか。志津麿百手とも呼ばれるほど加刀変化が激しく、深字で素朴な雰囲気があって人気は高いものの同じものが一つとしてないと言われるほどの難解な古寛永通寶です。 このよく分からない古寛永の一種がが絶大な人気で、滅多に出会えないときたもんだから困ります。ちなみに上の拓本は1987年の収集1月号に掲載された矢野氏(オークションネット主催者)の新春投稿記事にあったもの・・・しかも全部鋳ざらい母銭。この特徴を頭に叩き込んでおいてください。ただし、これらの特徴は必ずしも通用銭に現れているとは限りません。それに細かい変化がたくさんあります。 右の上画像はネットに長永として出品されたもの。寶貝の瑕以外の特徴が弱く、永柱も湾曲しないので異論のある方はたくさんいると思いますが、だからこそ御蔵銭なのです。ああ、難しい。私もわかりません。 右下段の画像は最近、ネットで話題になったもの。これを瞬間的に大字だと判断できた人は中級以上の目の持ち主。分かりやすいのは寶足の位置と背の波の位置と角度。困ったことに一番愛用されているだろう泉書の「穴銭入門 新寛永の部」(静岡いづみ会)には「大字母銭」の拓本が第3版まで「小字母銭」の拓本に入れ替わっている致命的なミスがあるのです。ネットに出た品はやや赤っぽく文政期的な雰囲気もあるのですが、文字抜けが良く細字で明和期にも見えます。そのため、夢見がちな亡者どもが神経麻痺状態で一攫千金を狙いその結果の落札価格はなんと10万円超過!! さすがに私も驚きましたが、もしこれが明和期大字の通用銭なら2品目の発見です。バブル期オークションでは500万円以上していたと思いますから、10万円なら超安い・・・それは病気ですよ! でも、結果が知りたいです。明和期であって欲しい気持ちと、もしそうだったら超悔しい気持ちがせめぎ合っています。 |
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関東のAさんから頂戴していた拓本の天保通寶の現品をお借りしました。いやあ、目を見張りました。百聞は一見に如かず・・・拓本より現物です。その迫力に圧倒されました。 細郭手強刔輪宏長足寶細縁(大様) すさまじい刔輪、そして限界まで伸びた寶足、しかも50㎜を超える大様で細縁、短径も34㎜に迫る卵型です。寶足の伸びが見事なので前回の命名「細縁」に加えて長宏足寶の名称を付けました。このサイズは母銭でもおかしくないと思いますが製作的には通用銭です。おそらく磨輪された原母銭から生まれた一番銭でしょう。 寶前足が鋳走りで伸び、寶後足が鋳だまりを介して輪に接する。そのため寶後足が輪の直前で断画されるように見えるこのタイプの不知銭には銭径、輪幅が違うものがたくさんあるのじゃないかしら。とにかく、こいつはすごい逸品です。なお、拓本では小花押に見えたのですけど、原品ではそのようには見えない。細縁による錯覚でしょうか。 細郭手覆輪背強刔輪(大様) こちらは輪幅が広いもの。寶後足の特徴は前の銭と同じ癖があります。寶前足の角度が異なるのは鋳走りの向きによるものなのかも。面の輪の幅が広いのは強い力で砥ぎが行われたように感じます。 とにかく面白いです。Aさんすごいです。返したくなくなりますね。 |
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私のパソコンは迷惑フィルターガチガチなので、日本語以外の言語のメール、件名のないメール、いやらしい言葉が入っているメールは即ゴミ箱行きになります。そんな中に古銭の画像が添付されているものが1通紛れ込んでいました。 名前はあるものの国名もありません。しかし、ウィルスアラートも出ていないのでこれなら大丈夫だろうとメールを開くと、古寛永岡山小字銀銭の画像が現れました。 英語圏の方でこのようなものを保有しているのは珍しいので、返信を書きました。今は翻訳ソフトが充実していますから・・・。解析ツールでIPアドレスやアクセス国・地域等を調べる方法はあるかもしれませんが、攻撃を受けているわけでもなく面倒なのでスルー。私はエロメールには騙されなくても古銭メールにはからきし弱いようです。 ところで・・・ 寛永通寶には公式な銀銭はほぼありません。 元和手の番銭とか仙台雉狩銀銭など有名なものはありますし、背久にも金銀貨があったと思いますが、あくまでも恩賞用だったり記念銭的なものなのです。(ですからそれなりの価値はあります。)しかも多くの銀銭は私的な祝鋳ものに過ぎない上に近代贋作が非常に多く、見分けはほとんどできません。ですからヒートアップは禁物で、貴金属でできた絵銭だと思えばよろしいかと思います。(追加画像は打印銭の銀寛永です。かなり古くから収集界にある品のようですけど私自身、自分の所持品以外見たことがありません。絶対に間違いのない品ですけど、売却するときには苦労すると思います。) |
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Dear Walter I think the image of the old coins you sent me is "Kokanei Okayama Syouji: 1637". This coin is usually cast in copper, but it seems to be a silver memorial for a private celebration. It's not official money, but it's quite rare, and I think it's worth about 50,000 to 70,000 yen in Japan. Kosenmaru |
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9月22日【金属の不思議なお話】 融点降下現象という言葉をご存知でしょうか?金属などに不純物が混じっていると、分子の結合力が低下して、本来の融点より低い温度で熔解(凝固)する現象です。氷に塩をかけると溶け出すとともにどんどん温度が下がります。つまり融点が下がっているわけで、私たちが身近で体験している不思議な融点降下現象だと思います。(塩水に出会うと氷は融けるのです。) 銅単体を熔かすのには1085℃もの温度が必要になります。熔けた銅に錫を投入すると錫の融点は231.9℃ですのですぐ熔け温度が800℃ぐらいまで下がると合金になり固まりはじめます。これは銅の融点が1085℃から800℃まで下がったと考えられます。固まりはじめる温度(凝固点)=溶け出す温度(融点)なのです。今度は800℃ぐらいに熱して熔かした錫に銅を投入すると、あら不思議、本来は熔けない温度のはずなのに銅がどんどん熔けてしまいます。(塩水に氷が融けるのと同じ現象です。)こうしてできた銅合金は「青銅」と言い、加工が簡単で銅単体より硬いので青銅器文明を作りあげました。こうして青銅は世界の小額通貨として広まりました。 日本に初めて銅・亜鉛合金の通貨が登場したのは明和期のこと。亜鉛の融点は419.5℃。合金にした時の特徴は流動性が高く、鋳造造形には適しています。しかし、亜鉛には厄介な問題があります。それが沸点が907℃しかないこと。作業中に温度管理を誤ると、合金中の亜鉛が突然沸騰し金属爆発を起こすじゃじゃ馬なのです。そのため原料亜鉛の精錬は日本国内ではなかなかできず、その技術が伝来したのは明治中期以降だと思われます。亜鉛を使用した鋳造技術は当初銀座の独占だったようで亜鉛合金の密鋳銭は、明治期以降の作銭の可能性が極めて高いというのが私の見解。 ただし何事にも例外があります。いわゆる石持桐極印銭の類の金属分析で高い亜鉛の含有率が検出されたことがあります。謎は2つ。 1)亜鉛はどこから来たのか。2)技術は誰がもたらしたのか? 当時の亜鉛は幕府の占有状態ですけど、密輸の手口はあったと思われます。ただ、無理をして海外から高額な亜鉛を輸入するより、手近な當4文銭を熔解する方が簡単です。1文銭を熔解するより儲けはかなり少なくなりますが、利益は多少出ます。 では技術は誰が・・・となると、幕府に近い水戸藩の存在がちらつきます。あるいは銭座職人同士の交流による技術移転もあり得ます。独自に編み出したと言うことも考えられますけど・・・真相は分かりません。ここが解明できれば石持桐極印銭の鋳造場所が分かると思うのですけど。 ※亜鉛・銅合金はイミテーションゴールドと言われるように光沢ある輝きが長く保たれます。できたての4文銭はピカピカだったと思います。なお、私は金属の専門家ではないのでこの情報はあくまでも聞きかじりのもの。間違っていたらごめんなさい。 |
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9月21日【投稿画像より】 関西のT様より改めて頂戴した明和期大頭通母銭の画像です。日本貨幣商協同組合の鑑定書つきになりました。 外径:28.9㎜ 内径:21.3㎜ 重量:5.1g 母銭かどうかは背の出来を見れば一目瞭然です。寛永通寶の鋳造は、通用銭の場合では片見切り法で行いますが、母銭は中見切り法で行います。簡単に言うと両面とも細かい化粧砂を使用してくっきりも文字等が出るように深字に仕上げます。背郭の角がくっきりし、波も繊細でしょう?文字はよく見ると頂上ほど細い山形に仕上がっていると思います。これは原母銭の特徴を伝えたもの。ちなみに明和期4文銭の鋳造を行った銀座は錫母の技術を持っていなかったので彫母銭→原母銭→母銭→通用銭という具合に鋳造を行ったと推定されます。ただし、彫母銭も原母銭も見たことがありませんのであくまでも推定ですけど。 明和期當4文銭の母銭というとありふれた感をお持ちの方が多いと思いますが、それは正字と俯永に限ったことで、小字はかなりの希少品。大頭通や離用通はありそうでなく評価不能に近い大珍品。入門のいづみ会譜にも古拓本しか掲載されていませんし、寛永通寶収集界の重鎮、喜寶師の寛永銭譜にも掲載がない幻の品なのです。私は明和期大字母銭と明和期離用通面刔輪背削波母銭は拝見したことがあるのに、通用銭ではありふれている大頭通の母銭は全くありません。雑銭の中に入っていたと聞いておりますので、これは世紀の掘り出し物だと言えます。なお、明和期銭は日本で初めて真鍮(銅・亜鉛合金)を使用した本格的な鋳銭でした。真鍮は流動性が良くて型抜けの失敗は少なかったと思いますが、亜鉛の沸点が銅の融点より低くすぐに金属爆発を起こすため、温度管理は非常に難しかったようです。また、鋳縮みが激しいため明和期の母銭は総じて大ぶりになります。 |
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同じく関西のTさんから頂戴した画像。まあ、出来が実に悪くて私好みの顔です。ただ、銭籍は久留米(水戸)背異反足寶ですね。石持桐極印が発見されていないのでHP上では繊字の継あたりに入れて、名称も水戸としていますが久留米で良いかなと最近思っています。銅質が黄銅質でないのは金属として使用できるものを片っ端から入れたということ。何かの資料でこの類は亜鉛が入っていると言う報告があったと記憶していますが、おそらく亜鉛を含む明和期や文政期の4文銭も原料に入れ込んだということなのでしょう。花押の下部が丸く、髭の一部が短くなるだけでなく、文字周囲が彫られるという独特の手法はこの系統独特の特徴です。銅質が何とも言えない白銅質のような照りがあり、背の鋳型もずれている錯笵です。不知銭と言ってあげたほうが何倍も格が上がりそうなのですけど、久留米正字背異反足寶濶縁なのです。いい味してますね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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最後は寛文期亀戸銭の中字の画像。投稿者は中国のRさん。何が変わっているかって言うと外径24.4㎜、内径19.9㎜の縮小サイズなのです。寛文期亀戸銭は総じて25㎜以上のものが多く、24㎜台は磨輪されたものが多くなります。久泉研究資料⑦を見ても24.5㎜未満のものの掲載はなく、24.7㎜サイズを下限としています。文銭の細分類の大家の文源郷師の文銭の耳より話の銭体ブロック分類法においてもこのサイズはありません。投稿品は小さいのに不自然に磨輪された感じがないので、中字の小様銭としては最小クラスだと思います。ただ、このことに気が付く人はほとんどいないかも。天晴です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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広穿大字の入手を祝して、不知品の所有品を改めて掲載します。単なる自慢に過ぎませんがお許しください。 奇天手は私所有の品の中で一番の有名品です。天保通寶と類似貨幣カタログの原品であり、自称:日本国内にある奇天手の中で最も美しく状態の良いもの・・・なのです。自称です。この類は不思議な品で、大きさからみる限りは新規母銭によるものなのですが、覆輪刔輪の技法やら削字変化による文字変形も見られ、いかにも収集家が飛びつきそうな風貌なのです。入手した際、完璧すぎて怖くなり仙人様にお伺いをしたのですけど、心配なら極印を調べてごらん、貴方も所有する張点保と同じはずだから・・・と言われ、確認するとその通りでした。異足寶と呼ばれる奇天の仲間で、類品は奇天の他に張天保、張天保嵌郭など珍銭ぞろいです。 俯頭通は天保泉譜では俯頭甬(ふとうよう)の名前だったと思います。横広銭形で文字の横幅が極端に広く不知天保銭中最もオリジナル性の高い書体です。俯頭・・・と言われていますが通頭はさほど強く俯しません。そのため巨頭通とか巨字に改称してしまった方がよい気がしますが、俯頭通の名前があまりに大きくなりすぎてしまって今更変更は無理でしょう。この天保通寶は私が中学生の時に入手した思い出の品でもっとも付き合いの長い天保通寶です。次鋳銭も存在しますが銭径が小さくなり製作も落ちます。銅質も黄褐色のものから赤褐色のものまであると聞いています。掲示品に限って言えば銭文径は大きく、背の作り、内郭の仕上げは母銭と同じなので、あるいは次鋳の母銭なのかもしれないと思っています。入手した際の思い出もありますので、これを見る度にこいつは「別格」の品だなあ・・・と、しみじみ思う次第。 小字は別名薩摩小字。薩摩でないとして最近は不知小字と呼ばれることが増えてきていますが、けっして小字ではないし、本品に限って言えば薩摩らしくもありません。しかし、薩摩藩の名前は大きく、不知小字ではどうもピンときません。小字の名前はついていますが、あくまでも薩摩藩の広穿類との比較であり、文字としてはむしろ大きな方だと思います。つまり、小字は薩摩と一体化して初めて意味をなすものなのです。書体は全体に細く鋭く、特に通字には躍動感があり、背の百の横引きの爪も鋭くなっています。銭形は横広のずんぐり形で市販の天保銭コインフォルダーにうまく納まりません。 昭和10年の小川譜に掲載された当時は2品ぐらいの存在しか知られていなかったそうですが、その後に銅質や製作の違う次鋳銭と思われるもの、長人偏タイプが数多く出現していますが、初期銭の黄銅質短人偏のものは別格・・・奇天手以上の存在であると感じます。(ほれぼれします。) 延尾通異貝寶は私が今回勝手につけた名前。私自身も揺れていてそのたびに呼び名を変えています。異書体(當百銭カタログ)、奇書(天保銭事典)、異當百(天保銭の鑑定と分類)、異書(天保通寶母銭図録)、異當百異貝寶(英泉還暦記念泉譜)、異貝寶(英泉天保通寶研究分類譜)など、名称が一定しません。存在が母銭とされる1品しか知られていなかったこの名称不明銭が、2013年にネットに突如出現し半狂乱状態で私が入手しました。と、言うわけでこの品は収集界では2品目の確認となる激レア品です。保点が長いことに加え、通字は用画が加刀されて辵尾も周囲が彫られ伸ばされていること、寶貝が下窄みになること、當田が歪み百の白横画が縦画に密着することなど加刀削字の見本銭です。最終的に延尾通異貝寶と命名してみたのですがどうかな? |
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憧れの広穿大字をヤフオクで落札してしまった。「しまった」と書いたものの欲しかった品なので確信犯的行動です。ただし、ほぼ上限額まで行ってしまいました。俯永面背刔輪も入手できましたし、今年はこれで終わりです。 1月28日に「広穿大字LOVE」なんて記事書いてますから。そのとき「大和文庫に広穿大字が出ています。ただし大きさは49㎜大で、十分大きいのですけどおそらく次鋳クラスか。」なんて書いています。ところが今回入手の品の長径は49.75㎜でわずかに50㎜に足りません。残念これは次鋳サイズなのかと思い、天保仙人様の所有品の画像と重ねてみるとほぼぴったり重なります。広穿大字が50㎜を超えるというのは不知天保通寶分類譜に「大内郭の上下に大字の銭文を配する関係上、五〇ミリに達する大様銭にならざるを得ない」と記されていているからで、私はこれを完全に信じていました。不知天保通寶分類譜の拓図も①50.3㎜②50.45㎜③50.2㎜④50、25㎜⑤49.90㎜と5枚中4枚が50㎜越え表記です。しかし、瓜生氏の計測値はどうも怪しいのです。詳しく調べると英泉天保通寶研究分類譜に不知天保通寶分類譜の①と④そのものが再掲されており①49.7㎜④49.97㎜でした。少々気が抜けましたね。さて、広穿大字の特徴ですけど大きいことは間違いありません。小さくとも49.5㎜以上あるのが普通で、もともと細縁気味なのでそれより小さいと銭文径とのバランスが取れません。実は後作と思われる鋳写銭の存在が知られており、側面仕上げがなく赤味を帯びた銅質であるそうですのでご注意ください。書体は保のホ縦画がとても長く、人偏筆始めに爪のあるものと無いものがあります。評価的には無爪保の方が高いのですが、拓本に見る存在数は無爪保の方が多く感じます。爪保の方が若干輪幅が太く縮小形に感じます。通の筆法は琉球通寶にとてもよく似ています。穴銭カタログ日本誌上で、石川氏が薩摩広穿と命名していますが、薩摩天保の初期銭はがま口と言われる広穿ですし、妙に納得してしまいます。背側の當百、花押ともに巨大で、當冠のツ点の筆始めがゴシック体文字のようなカギ爪状です。極印は大きく葉脈も大きく湾曲しています。 |
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帰宅してポケットの中のものを卓上に出して並べていると、どうも名刺入れがごつごつします。何だろうと思い中を改めるとコインフォルダーが2個入っていました。それで思い出しました。最近、郵送物の受け取りのほとんどを職場に指定しています。ですから古銭も職場に届いてしまいます。先週末、職場で開封したものの中身を名刺入れの中に押し込んだ記憶がかすかに残っていました。したがってこれらは4~5日ぶりの再会生還ということになります。いずれも密鋳4文銭で収集の落札品です。密鋳4文銭はこのようにして毎月のようにたまってゆきますので、未整理品を含めかなりの量になっています。 画像上段はよく見かけるタイプのものに比べ銅色がかなり黄色味が強い写し。側面は手掛けの粗い横やすりで面背には強いやすり目(砂磨き痕か?)が走ります。踏潰系としてありますが確証はありません。でも、面白いですね。 もう一枚は、誌上入札名では俯永踏潰様とあり、奮発してしまったものなんですけど、色は濃焦げ茶でやすりは縦方向・・・明和期や文政期に似た丸い仕上がり。面背に細かい条痕が走り、穿の仕上げが独特で密鋳には間違いありませんが、踏潰らしきところは色合いも側面仕上げも延展に関してもほぼなし!・・・これで踏潰様はないよなあ・・・と今更思っても後の祭り。穿のいびつな形は江刺の俯永N「俯永拡穿」にかなり似ていますが通用の特徴が異なりますし、江刺っぽくもない。よく分からない・・・だから密鋳銭は面白いのですね。画像にすると雰囲気は踏潰に見えなくもないかな…違いますけど。 |
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新寛永収集は銅、鉄一文銭、四文銭等のジャンルがあり、さらにその母銭収集というジャンルもあります。ここまでが正統派の収集。いわゆる泉譜合いという方法で集める方が多く、この方法は江戸時代からあった収集法です。 ところがある程度収集すると絶対に入手できないようなものが残ります。島屋文、御用銭などが代表的で、これらの入手には運と資力と病的な収集意欲が必要です。だいたいこんな小汚い金属小片に収入をつぎ込むなんて正気の沙汰ではないと思います。 そんな私に正気を失わせる悪魔が舞い込みました。明和期俯永面背刔輪です。明和期俯永は大島延泉氏が昭和11年に通用銭を発見・発表した銭種であり、あまりの珍銭ぶりにいづみ会の穴銭入門に「少々不自然な感」とか「母子とも後作の可能性が高い」とか散々な書かれっぷりです。新寛永通寶図会などにも掲載されていませんので、その存在を知らない収集家も多いと思います。なにせ大島氏は知る人ぞ知る負の遺産を多く残した存在の方でしたから。 その大島氏はそのコレクションを日本貨幣協会に寄贈しています。大島氏にしてみれば、古銭界に残した正統な遺産・・・これは本物だ・・・と主張しているように思えます。 風向きが変わったのが平成の世になって仙台古泉会のH氏が俯永面背刔輪を見出し発表したこと。私も実物を拝見しましたが、贋作なんてことは万に一つもありません。H氏はさらにもう一枚発見したとも。しかし、2011年3月11日、東日本大震災の大津波によりこれらの貴重な資料は失われてしまいました。これで振り出しに戻ったと思いきや・・・今回関東のA氏からその分譲を受けることができました。この1枚の存在は収集界にはほとんど知られていなかったと思います。 明和期背十一波通用銭の大珍品と言えば①大字②俯永面背刔輪③離用通面刔輪背削波④小頭通だと思います。このうち当時新発見だった①大字通用銭は銀座コインオークションに出品されて520万円で落札されています。(バブルです!) もし、未発見の小頭通の母銭が発見されたらいったいいくらになるのかしら? 余談ながら先日関西のTさんが見出した明和期大頭通母銭も拓本でしか存在が知られていない幻の逸品です。でもさすがに500万円はないと思いますけど。 ※俯永面背刔輪は古い収集家のコレクション中に人知れず存在していたようです。あるところにはあると言うことですね。 |
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天保銭は侍古銭会のタジさんから。はっきりした覆輪刔輪銭で、寶足も少し長いので長足寶としても良いのですけど、乱発は行けないので今回自粛。その他の特徴をもって長郭手覆輪刔輪背當上刔輪はどうでしょうか?名称は大分類(長郭手)・中分類(覆輪刔輪)・小分類(背當上刔輪)・補足(今回はなし)・・・とするのが良いと私は思っていて、欲張って特徴を羅列すると落語の寿限無のような名前になってしまいます。ネーミングを考えるのは楽しいですね。ばっちり決まると「会心の一撃」が決まったような気分です。(古い!) おまけの2枚の画像は卓上に転がっていたもの。赤いいびつな4文銭は文源郷師から入手した密鋳の正字写し。文政正字との識別に悩みそうですけど、文政期の4文は原則縦やすりで、これは横方向にもやすりが走りますし、製作も違う。文政は面の地にぶつぶつがあるものが多いのも異なります。密鋳の正字は決して多いものではないのですけど、最近は人気がないので安価で入手。赤くなければ踏潰銭ですね。売却時は二束三文でしょうけど増える一方です。 その下はさらに汚い品。こちらは関東のI氏から入手したもの。明和長崎銭の錯笵で、砂笵に母銭を置きなおした結果、多重輪写りになっているもの。焼けなのか青錆は吹いているはとにかく小汚いのですけど、面白いのでつい手が出てしまいます。 長崎銭は錯笵の宝庫で、面背逆製も良く見つかります。と、いっても存在はかなり少ないのですけど、この手は見た目はとにかく悪くなるのでマニアックアイテムですね。 |
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9月10日【Aさんの拓本】 Aさんが贈って下さった拓本です。侍古銭会のタジさん情報だとAさんは拓本名人であるということ。私は拓本セットを購入してしばらく頑張りましたが、拓本採りは根気と時間が要りますので、HPづくりを優先して目下お蔵入り状態です。 拓本に説明がほぼついていないので推定込みで解説を付けます。 上段左:文久永寶直永手細字跛寶(本体) 跛寶は普通大きく刔輪されています。その刔輪前のもの。位づけはなんと1位。文久を収集している人でもこの銭の存在価値を知る人は少ないと思います。(私も知らなかった。) 外径26.7㎜ 面内径19.86㎜ 背内径19.78㎜ 重量4.9g 上段中:文久永寶深字広永勁文母銭 おそらく、この文久は田中桂寶師の旧蔵品にして文久永宝分類譜の原品の勁文反玉寶の母銭でしょう。寶王が貝から離れ小さく反り、尓前点に連なります。銀座が担当した文久の真文の母銭は巨大なものが多く、存在も別格に少なく、金座が担当した玉寶や草文と存在感で一線を画します。 上段右:寛文期亀戸銭島屋文小頭通 これはもう説明不要の絶対的珍品ですね。 下段左:明和期長尾寛肥字(喜寶寛永銭譜原品) かなり陰起していますが、寛永四文銭の中では絶対的な珍銭です。喜寶古希記念寛永銭譜の現品だと思います。 下段中:文久様伊勢津藩縮字手(いづみ会穴銭入門原品) 不知文久様の中になぜか他藩のものを模したものがあります。これは新寛永通寶のバイブル的存在のいづみ会譜の原品でした。 下段右:文久様正字様× → 安政期正字(いづみ会穴銭入門原品) 分類は推定。私に拓本をくださると言うことは普通の品であるはずがありません。しかし、拓本だけで銭種を確定することは難しいのであくまでも推定ということで・・・。 ※Aさんから、安政期正字(いづみ会譜原品)という連絡がありました。文久様の縮字手に完全に引っ張られてしまっていました。これも超マニアックな珍銭です。 |
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9月8日【Aさんの天保通寶】 関東のAさんから頂戴した天保通寶の拓本です。天保通寶は初心者と申されていますが、水戸遒勁や揚足寶も所持する猛者ですので初心者なんかじゃないですよね。なにより、古銭に関する愛がすごい。知らぬ人から見たらきっと筋金入りのど変態じゃないかと・・・私もですけど。 細郭手強刔輪長宏足寶細縁(大様) 古銭界の先輩方には「刔輪と細縁は名称として同時に使うべきではない」と叱られそうですけど、こいつを説明するには「技術を示す刔輪」と「状態を示す細縁」の併記が必要だと思いました。天保銭にはときどき大様銭が発見されます。不知銭などは短期間に大量生産するために原母銭クラスまでを通用銭の母銭として使用したと思われるのですけど、大様銭は原母クラスから生まれた通用銭もしくは母銭そのものと思われます。このサイズは母銭であってもおかしくなく、細縁なのは母銭を磨輪した・・・それにも関わらずこれだけ大きいのは限りなく原母に近いものと考えられます。原品を見ていないので何とも言えませんが母銭として使用された可能性も十分にあります。泉譜原品ではありませんが不知天保通寶分類譜の下巻P104の面刔輪と同種だと思います。大きさの割に背郭は小さく狭穿で花押も小さい。これはかなりの珍銭です。 細郭手覆輪背強刔輪(濶縁大様) 不知天保通寶分類譜では覆輪強刔輪のグループで上巻100Pに「背強刔輪」として掲載されている原品であると思われます。天上の刔輪が強いタイプで、この類は寶足の先端が鋳だまりが寶足と輪をつなげているのが特徴です。通常品は磨輪されて細縁気味なのですがこれは輪が太いままで、前の品と同じ理由であえて濶縁と名前を付けてみました。50㎜に迫るサイズは実に立派です。前の銭ほどではないにしても、これだけ大きな不知銭は得難いですね。 水戸(久留米)揚足寶 水戸藩とも久留米藩ともいわれますが、石持桐極印銭であるのは間違いないところ。天保通寶の藩鋳銭の中では(仙台大濶縁を除くと)最難獲品クラスなのですけど、何となく地味な存在です。ずんぐりむっくりの濶縁縮字銭で、背の花押を見ると水戸(久留米)花押異系の次鋳であろうことが分かります。隣の天保銭と比べて頂ければすぐに分かると思いますが、極端な狭穿、背小郭です。 ※3枚の価値は・・・と聞かれていましたが、このクラスは売り手と買い手の阿吽の呼吸。ただし、市上における枚数は圧倒的に少ないので最低価格で40万円以上であると思いますよ。競れば50万円以上になると思います。 |
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8月23日【泉寿:室場銭考】 岩手古泉会15周年記念誌泉寿に「室場天保銭考」等として沢井敬一氏、引間茂夫氏が寄稿しています。内容は室場天保密鋳の新資料の発見であり、これにより旧石ノ巻反玉寶が室場銭とされるようになりました。私はこの資料のコピーは保有しておりましたが、運よくその資料も入手することができ、前後の記事を含む全容を拝読することができました。まあ、読みにくい昔の文章で、実に頭に入りづらいのですけど、気になる点をいくつか挙げさせていただきます。 ①新発見とされる資料のひとつは「盛岡藩造貨」の中の一節「室場天保銭につきて」。 ②もう一つの発見は小笠原白雲の日記。ここに反玉寶の拓本と室場鋳の記述があった。 資料にある室場天保の書体・製作は・・・ 慶応3年に鋳造された第一期銭 A)赤色と黄色のものがある。(赤が初期、黄色は配合を改良してできた。黄色は少ない。) B)第一期銭には狭穿と広穿とがあるが、その書体は同じである。(基本は狭穿。広穿は少ない。) C)書体は「其の通字の遊漁法の尾部の高く延びて空を撃ち悠揚迫らざる態度を有する」特徴がある。 第一期銭は小字もしくは大字かもしれません。この記録を残した人物は古銭の専門家ではないので、小字と大字の違いを見分けられなかった可能性すらあります。「通字の遊漁法の尾部」とは(推定ながら)通のしんにょうの末尾の様子のことらしいです。悠揚迫らざる態度とは風格漂う堂々とした落ち着いた様子のこと。泉寿には「優悠せまらざる」とありましたが間違い。なお、新渡戸は書家で、遊漁法というのは彼自身のつくった筆法に関する言い回しのようです。 明治4年末に鋳造された第二期銭 A)穿は広穿しかない。 B)銅色は赤色に少し黄金光を有せる。 C)外輪はすこぶる広く、銭文は力感があって鋭い。(勁俊) D)通字しんにょう(通字の遊漁法)は頭腹尾の屈曲著しく、筆法が強い。(筆意の勁剛なる) E)前期に比べて存在は稀で、検挙時に没収された鋳放し銭が時々見つかるぐらい。 これを読むと反玉寶が室場であると言う根拠は分かります。ただ、いくつかの点が心に引っ掛かります。 新発見資料の「盛岡藩造貨」の著者は、私の記憶に間違いがなければ「新渡戸仙岳」で、その中の一節「室場天保銭につきて」も当然、新渡戸の研究です。当時の交流から小笠原は「盛岡藩造貨」は当然知っていたと思われますが、中央界ともつながっていた彼はどうして室場説を大々的に唱えなかったのか不思議ですね。それに、泉寿の文中に「新渡戸仙岳」の名前が一切出てこない。これは意図的であるとしか思えないし、実に不自然です。沢井氏は「新渡戸仙岳=贋作者」であると信じていて、(その著作を引用していることから疑義がかけられないように)意図的に出さなかったのかもしれません。この点が読後感がすっきりしない原因だと思います。昔の制作日記にもたぶん書いていたと思います。何かきな臭いんですよね。 新渡戸仙岳は歴史研究家であって古銭収集家ではなかったようです。歴史探査の過程で多くの古銭家と知り合い親交を深めていたようです。調べた内容を教え、レプリカもつくって記念に配ったようなのですが、それを悪用されて(レプリカを本物とされて売りさばかれて)古泉界で贋作者として嘘つきの贋作者と糾弾されてしまったようなのです。以降、彼は古銭収集家を信用できないと断じて、一切の交流を絶ったようです。 一方で、彼の研究がなければ南部藩の古銭研究は成り立ちません。そういう意味でも新渡戸仙岳は復権させるべき人物だと私は思っています。 なお、沢井氏の発表当時はまだ反玉寶小様はあまり発見されてなかったらしく、沢井氏は「反玉寶の鋳放し銭は見たことがあるが、反玉寶小様銭は見たことがない」と言っています。(小笠原の日記は諸事情から公開とできないとしていますが、この点については実物を見ている方からの情報もあるので、内容・存在とも確かなようです。) ※新渡戸の名前は後半の「梁川天保銭について」のところに盛んに出てきていました。さらに「盛岡藩造貨」が新渡戸の作であるとの記述もありました。新渡戸の資料が一級品であり信用に足るものと思いながらも、信用におけない偽作者との疑念思いの間で揺れていた沢井氏の考えが伺えます。 |
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8月22日【千鳥コレクション】 ヤフオクに千鳥コレクションが売りに出されています。販売者は文源郷こと米田師。文源郷師は文銭のマニアック細分類がすぐに思い浮かぶのですけど、元文期日光銭千鳥の手替わりの分類もなかなかすごいものがあるだろうと思っていました。と、いうのもこのコレクションの一端を一度だけ垣間見せて頂いたことがあるのです。 文源郷米田氏とお会いしたのは、おそらく2004年の真贋古銭対照譜の発表会が行われたときが最初で、そのときの雑銭販売のコーナーで私が選銭をしていて声をかけられたのです。千鳥コレクションを見せて頂いたのは翌年2005年の10月、穴銭友好クラブの会場でした。制作日記を見ると文源郷師ともう一人の方のコレクションを見せて頂いたとあります。今回の販売品は委託のようで画像の泉譜には昭泉、伊藤昭夫さんのお名前が見えますので、2005年のもう御一方は伊藤氏だったのでしょう。この方ともオークション会場や雑銭の会などでお会いしたことがあり、いつもニコニコ温厚な方だったと記憶しています。寛永銭をとても熱心に収集されていた(大収集家だと)思います。 今回のコレクションの売価は45万円。金額を聞くとびっくりするかもしれませんが、私はその時見た収集品の記憶が鮮明で、お金を出しても集めるのは不可能だと思いました。 泉譜の構成はおそらく文源郷師が行ったものではないでしょうか?この手の加工を師は得意としていますから。さすがに今の私にこの金額の工面(支出)は厳しいのですけど、一見の価値のあるコレクションですよ。お金に余裕があり、奥方が寛容な方、是非どうぞ。 |
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おかげさまで眩暈症はかなり回復。静かに生活する分には車の運転を含み日常生活では概ね支障が無くなりました。一方、散歩は三半規管への振動がきついのです。最近は週40km以上を目標にして、休日は20~30kmほど林道を歩きまくっていましたから・・・。2kmも歩いたら、脳みそがグダグダに疲れます。頭痛がひどい。ところがパソコンは静かに前を向いていられるので支障ありません。と、いうわけで最近はすっかり怠け者になりました。 時間ができたのでネットで古書を連続して落としました。「岩手に於ける鋳銭」「岩手古泉会十五周年記念誌 泉寿」「長門国鋳銭 永楽通寶と寛永通寶」の三冊。「岩手に於ける鋳銭」は新渡戸仙岳が新聞紙上に連載していた記事で、今回は多分そのコピー本でしょう。「岩手古泉会十五周年記念誌 泉寿」は南部天保銭密鋳に関する重要資料で、部分的コピーは持っていましたが全文を読みたかった。「長門国鋳銭 永楽通寶と寛永通寶」は四国の重鎮、谷師の著述でおそらく古寛永長門銭の秘密に迫るものだと思うのです。しかし、今の脳が長文を全く受け付けてくれません。根気が続かず脳みそが熔けてしまいます。と、いうわけでしばらく積読(つんどく)状態になりそうです。ルンバが壊れたので買い替えたのですけど、1週間も経つのに今だ梱包を気力が湧きません。こちらは下を向く作業がしたくないのが理由です。睡眠時間が増えたら、少し視力が回復した気がします。怠け者生活は案外快適です。 |
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8月20日【背波の違い:拓本比較】 寛文期亀戸銭は背文だけで面の書体大分類がほぼ可能です。同様に明和期當四文銭も分類可能・・・と言いたいのですが、なかなか難しいのです。菅原師は天才だと思います。 波銭の基本銭は正字・・・としたいところですが、正字はかなり個性的なので小字を基本としてみます。観察のポイントですけど・・・ ①郭上辺から出る2本の波の角度と出発点 ②一番上の波と2本の波の接点 ③左下の波が輪と作る三角形の面積と角度 ④下から1、2番目の波の作る弧のカーブ です。 まず攻略するのは大字。明和大字は超が付く珍銭で、まず出会うことはないのですけど、これを習得すると文政期大字が拾えます。ポイントは①郭上部の波2本の角度。左右の波が立ちます。また、郭のかなり内側から波がスタートしています。③三角形の面積はものすごく大きい。 パソコンをご使用の方はマウスを画像上に持ってゆくと小字との差がよく分かります。(スマホの方、ごめんなさい。)実は穴銭入門の第3版ぐらいまで泉譜の母銭の拓本が小字になっていますのでご注意ください。 正字の波の形状そのものは大字によく似ています。背広郭ですし、面文が全く違うのでこれは間違えようがありませんので説明は省略。 俯永は ②最上部中央の波の左側がわずかになだらかなので、左の縦の波との接点がほぼ中央部になります。したがって、上部の波は小字に比べて郭から離れる癖があります。(小字の波の方が弧がわずかにきつくなっています。)④同様に下から2番目の波の左側の傾斜がほんの少しだけなだらかなのです。 大頭通の波形は俯永とほぼ同じ癖。郭左下から出る波がわずかに直波に近くなります。 離用通はかなり個性的な波形。④下部の2本の波の弧が扁平です。この特徴が瞬間的に判断できれば、波銭の分類は免許皆伝? 小頭通の波形は上半分は正字に近く波が郭の内側から出ていて、下半分は小字に似て弧がきつい。 以上、じっくり見れば個性の違いは分かりますが、瞬時に見分けるのは大変です。ただ、面文に特徴がありますので、大字と離用通が雑銭から拾えれば収集家としては合格点でしょう。 |
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8月19日【雑銭の会 一度限りの復活定例会】 私の古銭収集の恩人をあげろと言えば 天保仙人師、舎人坊師(元方泉處館長)、暴々鶏師(雑銭の会会長)は絶対外せません。この中で暴々鶏師はもっとも古くからの知り合いということになります。たいして深い関係でもないのですが、まだ私が今の職業に就く前から会員として存じ上げており、雑銭の会が練馬雑銭の会だった頃の13番目の会員が私です。姉妹サイトに「日高見文化研究会」なるものもあり、ネットサーフィンをしていてこれらのサイトを発見したとき、狂喜乱舞しました。 当時は古銭の勉強ができる詳しいサイトはそれほどなくて、暴々鶏師の恐ろしいほどに深い知識は大変勉強になりました。密鋳銭にドはまりし、暴々鶏師の縁で天保仙人師とも会うことができましたし、舎人坊師と仙人様が友人関係とも聞きました。古銭の世界は狭いですね。 さて、暴々鶏師は体調を崩されて収集から身を引いて雑銭の会は休会状態になった・・・だから、私は「雑銭掲示板」を立ち上げたのですけど・・・どっこい、ネット上の活動はまだ継続されておりました。大変失礼いたしました。南部古銭の貴重なお話が伺い知れますので「九戸戦始末記 北斗英雄伝」のサイト(古貨幣迷宮事件簿)に是非お立ち寄りください。 ただし、今回の一度限りの復活定例会についてはあくまでも会員を対象にしたものです。時間がないのでこのアナウンスは暴々鶏師の了解を取って記述しているものではありません。応札などについてはオープンではないかもしれませんのでその点をお含みおきを。なお、暴々鶏師はペンネーム「早坂昇龍」という小説家でもあります。ご興味のある方は書籍のご購入のご協力をお願いいたします。 ※恩義もありますし、本当は何があっても当日参加したいのですが、日程的に参加できません。なにせ日がないので・・・だから関係者の方々の見落としがないようにアナウンスさせて頂いた次第です。 |
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8月17日【伊保内事件と浄法寺飛鳥事件】 明治2年、(九戸)伊保内村大字長興寺に住む武松という者が、天保當百銭を密鋳したが発覚し捕縛された。武松は役人達の詰問に対して「飢饉のために餓死するもの多く、黙って見ているにしのびず、貧困のものに施さんとの心から禁を犯したものだが、罪は重く存分のご処置を願う」と述べた。役人はその気概に打たれて、情状酌量となり放免された。 ※伊保内天保は勢陽譜では寶貝の二引きが縦画に接する広郭手とされていますが、日本古泉贋造史では銅山手写しになっています。 明治4年、小滝某なる農民が娘の嫁入り道具を調達するため八戸に行った折、行使した天保銭が偽造だと見破られて捕らえられた。役人は鋳造仲間と現場を突き止めるべく、小滝を後ろ手に縛って馬に乗せて(二戸)浄法寺に向かった。しかし、鎌倉橋までさしかかった時、小滝は馬上から安比川に飛び込んで自殺し、鋳銭のことを教えなかった。(日本古泉贋造史) 昭和49年になり、浄法寺の2軒の旧家から大量の密鋳天保銭が見つかり、浄法寺飛鳥銭と名付けられて収集界に広く出回っています。発見されたものが伝承の品である確証はありません。発見されたから伝承がクローズアップされたとも、発見のために伝承が流されたとも・・・。 ※この手の逸話のすべてが信じられるわけではありませんが、密鋳によって命を落とすと言う大事件が伊保内事件のわずか2年後に起きています。かたや美談、かたや悲劇…この差は何がそうさせたのか? 伊保内事件の情状酌量というのは、ものすごく胡散臭く、藩の関与を隠すためのでっち上げとも考えられませんか。 ※浄法寺銭については地元の方々の研究により、かなり明らかになってきています。少なくとも ①藩命によって鋳造されたもの ②私炉により明治初期に鋳造されたもの ③明治~大正期の絵銭的な存在 ④前銭をもとに昭和期になって作られたもの ⑤さらに新作されたもの があるようです。これらについては複数の人間が近年の贋造にかかわっている・・・つまり贋造は一種類とは限らないと言うことまではなんとなく理解しています。 |
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8月16日【籠山閣 菅原師の眼力】 2016年にお亡くなりになられた北秋田寛永通寶研究会会長の菅原直登師の寛永通寶拓本集を久々に引っ張り出してみました。師の泉号は間違いなく「加護山」から来ており、寛永通寶をこよなく愛してやまない方だったと思います。寛永通寶拓本集の泉号は「籠山荘」でしたが後に「籠山閣」と号していますので、いわゆる格付けが上がった形になっています。師は文源郷師(米田師)の「文銭」ように一つのジャンルに特化した探求するのではなく、寛永通寶全般を広く探求されていた感があります。知り合ったのも「江刺銭」の細分類について尋ねたのがきっかけであり、見ず知らずの若造の問い合わせに対しても熱心に教えてくださった面倒見の良い方でした。 さて、そんな師の拓本集にその慧眼ぶりが記されていて感心してしまいます。例えば収集誌上にも発表された寛文期亀戸銭細字背濶文の解説文には「米田実氏に命名して戴き、その的確なことにいたく感心した。自分では、かなり変わった書体と認識していたが、他人にはそうではないらしく古銭仲間に相違点を説明するのに苦労するとは思わなかった。絵銭の収集家に古寛永を説明するようなもどかしさを感じた。あなただけは理解してほしいと願う。」 とあります。私もマニアの端くれですから、この寛永通寶には何となく違和感を感じます。文字は大きいし、永の形も変わっているし、寶尓も違う・・・でも一目でわかるほど私には良い眼はありません。 さらに感心したのは明和期小頭通の項で「(中略)近いものは大頭通・離用通・俯永であるが、背波の形状が独自のものであり、これらとは明らかに異なる。(以下略)」 え~!と思いました。離用通の波が異なるのはすぐにわかるのですけど、俯永・大頭通とどう違うのだろう。師はさらに「小字に一番近い」とまで明言しています。 そういわれてしょぼくれた目で泉譜を観察してみましたが・・・だめだ、自信がない。今や大字の波でさえ見落とすかもしれないレベルです。みなさん、挑戦してみてください。 |
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A.正字 B.小字 C.俯永 D. 〃 面背刔輪 E.大頭通 F.離用通 G. 〃 面刔輪背削波 H.小頭通 I.大字 → 解答 |
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貨幣誌に糾銭について三貨童小林茂之師が書かれています。糾銭・・・糾吹き銭・・・は「母銭又は通用銭吹きたてへの使用適否検査のために行う試し吹きにほかならない」そうで、言葉の意味からすると「試し吹き銭」・・・つまり試験的鋳造銭の意味のようで、初めて聞いた言葉でした。 「糾」という文字は今は「糾弾・紛糾」ぐらいしか使われない漢字で、「(罪悪)を取り調べる」というのが本来の意味。この場合の訓読みが「糾す:ただす」で「質す:ただす」に近い同じ意味があるようです。ちなみに別の訓読みは「糾う:あざなう」で「よりあわせる・もつれる」の意味があります。 したがって糾銭は「試してみて上手く行かないところを追及する」という意味が込められて名付けられたようなのですけど、文字的には少し違和感がありますね。 糾銭の例(予測を含む)として「安政期巨字:鋳放母・通用鉄銭」「正徳期御用銭」「享保期背狭佐(深背)」「明和期短尾寛方冠寶・母子」「野崎和同」などがあげられています。野崎和同とは古の収集家、野崎静修軒が保有していた直径27㎜を超える巨大な和同開珎で、大川天顕堂を経て現在は佐倉国立民族博物館の所蔵品になっていると思われます。 いずれにしても大様・美制・絶奇の品ばかり。寛永銭の中には通用銭がほとんどない名品がいくつかありますけど、それらも糾銭の類なのかもしれません。 掲示している寛永通寶は糾銭とされたものではありませんが、私の所持品の中では特別感がプンプンする品々です。 完調ではありませんが復調途上にあります。激しい動きをしなければ日常生活は可能になりました。一時は周囲がぐるぐる回るんで気持ち悪かった。脳が画像の傾きを修正しようとして必死に稼働しているらしくものすごく疲れますね。それに気持ち悪い。やることないんで更新しています。私はものすごく天邪鬼です。 |
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巣ごもりをしていると投稿がありがたいですね。全く出かけていないわけではありませんが、仕事柄人のいるところには行きづらく、古銭会、古銭店など御法度状態なのです。とはいえ感染症の足音は確実に迫っています。 ボランティアで担当している研修会も今月からのたってのお上の要請で半年ぶりに開催せねばならなくなり、これで受講者から感染者が出たら管理責任、お前が感染したら自己責任だと言われたら私は切れますね。 さて、画像上段は侍古銭会のタジさんから頂戴したもの。なんでも天保銭コレクターではない方から分譲を受けた覆輪写しの長郭手だそうです。肥字気味なので銭文径は41.1㎜であまり縮小していないそうですけど、不知はやっぱり楽しいですね。 さて、次の拓本・・・これはとても貴重です。明和期俯永面背刔輪です。私は生涯で一度だけ、仙台のHさんから現物を拝見したことがありました。Hさんはこの貴重な品を2枚所持されていたと聞いておりますが、2011年に起きた大津波で他のコレクションとともに失われてしまいました。 當四文銭はありふれた品と珍品の落差が非常に激しいのが特徴で、この明和期俯永面背刔輪も15年ぐらい前までは存在しないのではないかとの噂もありました。ところが仙台のHさんの掘り出しを皮切りに泉界に出現が相次いだ感があります。2018年12月16日の制作日記に当時考えた格付けがありますが、以前なら明和期俯永面背刔輪は「大珍」でもおかしくない存在でした。ご紹介が遅れましたが提供は関東地区のAさんです。 私がまだ泉譜以外に実物を見たことがない通用銭は「明和期長尾寛肥字」「安政期正字」「安政期離用通」だけで、まあ、安政期は製作だけ異なる密鋳銭的な存在ですから、絶対的な珍品は実は「明和期長尾寛肥字」と「明和期大字」じゃないかと思います。まあ、當四文銭は今一つ人気がありませんから、これらは少ないと言うよりも雑銭の中に埋もれているだけなのかもしれません。もちろん、希少なのは間違いのないところですけど、拾い出せる夢がわずかにあるかも・・・。 (関連記事:制作日記2007年5月13日 2010年3月2日 2011年1月5日 2012年9月26日 2015年7月3日 ) |
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長郭手の張足寶は、不知銭の中ではすこぶる製作が良く、大きさや覆輪や刔輪の程度も様々で眺めていて飽きません。すべてが同炉というわけではないでしょうが、ある程度力のある藩がかかわっているのは間違いないと思います。 張足寶は不知銭のなかでも比較的入手しやすいもので、見栄えもするので初めて入手したときは嬉しくて嬉しくて毎朝晩眺めていました。 そんな張足寶の中に通寶小字という一類があります。張足寶の中でも通字寶字が特に縮小して、通用、寶貝が狭くなるのものなのですけど、書体的特徴は張足寶の系統で間違いなく、最新の類似カタログにおいては姿を消しています。 私はHP上において、一部銭文径が40㎜以下前後に縮小するタイプの張足寶を通寶小字として掲載しているものがありますが、本当のところは多くが「通寶小字系」とか「通寶小字タイプ」とすべきものだと思います。今回の入手品、掲載画像では間違いなく通寶小字だと思いましたが、実物を見るとそこまではという感じでしょうか。でも銭文径は小さいので「通寶小字系」ということで・・・。 通寶小字としているもののその他の特徴として、寶貝の底の前足の付け根付近に意図的な傷(切れ込み)があります。これは長反足寶系の物にみられるもので、今回の入手品にはかなり意図的な瑕が観察できます。少し見えづらいのですけど…目を凝らしてください。 なお、張足寶の書体には①保柱が長くなる②保後点が長く湾曲・・・張点保になる③尓前点が小さくなる、小点尓寶・・・などの特徴があります。覆輪刔輪の度合いはいろいろですけど、天上強刔輪は非常に少ないと思います。 |
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Iさんが出品していた謎の細郭手です。状態は芳しくありませんが、書体がすこぶる変。何だろうこの書体・・・と疑心暗鬼になりすぎまして、逃してしまいました。私にはよくあるパターンですけど、痛かったかな? 横太り覆輪刔輪ですけど、天上の刔輪は強くなく、保と寶足、花押の髭(角)の変形が目につきます。 保は人偏の打ち込みが強く反り返り長く、保点も長い。こんな特徴のある天保は「萩の縮通」「石持桐極印の深字」「不知の短尾通の類」ぐらいか? 雰囲気的には接郭ですけど、もちろん異なります。火中品の可能性は高いもののこのような変形は生まれませんね。拓図を色々調べましたが、勢陽譜の断足寶に特徴は似ていますけど、並べてみると全然違いますね。拓本を重ねてみると、天保の萎縮がものすごく強いです。でもたぶんこれは撮影の角度でしょう。謎ですね~。 |
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8月2日【張足寶】 ネットで張足寶を落札しました。意外に追随がなく、標準市価で落札ですけど個人的にはもうかったとほくそえんでいます。この張足寶、標準のものより見るからに銭文径が小さく寶足が長いのです。目につくのが通尾の長さ。系統としては通寶小字系であり、寶前足の付け根底に小さな切れ込みがあるもの。天上の刔輪は強くないものの張足寶としてはなかなかのものです。 張足寶は秋田の故村上師もはまっていまして、数多くの張足寶を集め、同じようでみんな顔が異なると申されていました。 私もHPに掲載していない張足寶も含めて数は結構そろってきている・・・気がしますのですけど、どうなんでしょうか? 張足寶は製作が良いものが多く、自分にない足の長さがあって憧れますね。こうなりたいものです。 |
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大分貨幣研究会様から資料を頂戴しました。その中に赫璋御蔵銭分類譜なるものが含まれていまして、その冒頭に大字本体なる物が掲載されていてうれしくなりました。画像下の大字はたぶん雑銭から出てきたものだったと思いますけど御蔵銭だと考えて拾った品ではありません。面文に御蔵銭独特の癖があまりないのです。背の地が滑らかで、長門銭にはまっていたころ、長門銭っぽいぞ・・・と拾い出したものじゃないかと思います。私はよく分からず大字美制と名付けていました。濶縁でおおぶりですし、拓本と比べると狭穿低寛にみえますので大字っぽく見えないのですけど、私的には大字で良いと思っています。削字がなく永の払いが気持ちよく広がりますので、御蔵銭と認識できるまで時間がかかりました。HPには「このほとんど削字変化のない書体はいづみ会、泉志ともに未掲載」としているように、類品を見たことがほとんどありませんでしたが赫璋御蔵銭分類譜には「背細縁細郭なるものを本体とする」とあります。私の所有品は赫璋譜と正合するとは言えないと思いますが、感覚的には同じ見解を持っていると感じます。位付けは(三)・・・少ないのですね。 |
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3月頃から始めていた山歩きで養老渓谷付近の林道の行けるところほとんどを制覇しました。本日は15kmほどを探索。多くの林道が昨年の台風の影響で車両進入禁止状態で山蛭が大発生しています。 本日は養老渓谷駅近くの水路隧道を藪の中まで探査したのですけど、最後は有刺鉄線に阻まれました。(今までで一番無茶しました。有刺鉄線の先で水音が聞こえるのですけど近づけませんでした。) もう一つ、Googleマップには画像がある駅裏の滝瀬を捜しに行きましたが、台風の影響と雑草の繁茂で近づくことができませんでした。こちらはもう一度入り口を探してみます。地元の人曰く・・・山蛭の巣窟だから今はやめたほうが良いとのこと。浦白川のドンドンの裏口、牛堀の奇岩群の上部(林道牛堀線)など近づけない場所がまだたくさんあります。蛭除けの塩水ミストスプレーは大活躍です。ミストなので、肌や衣類の上で塩がすぐに結晶化して良いバリアになります。商品化したいぐらいです。 ※滝瀬はどうもGoogleの誤掲載のようです。 |
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まずは中国のコレクターさんからのご投稿。まず1枚目、立派な覆輪の長郭手です。ぱっとみると寶字のゆがみが感じられ、寶王がわずかに貝画から離れます。ひょっとしたら斜珎かな?・・・穿内の仕上げはどうなんだろう?画像を送り下さいましたがきれいな平滑仕上げでした。 精査の結果、斜珎ではないことが分かりました。斜珎は文字などの加刀が強く、保点が張点・・・つまり細く湾曲するする傾向があります。また、當上の刔輪も強くなります。実は私の所有品に長郭手覆輪離貝寶なるものがありまして、花押のひげ先端が太くなる癖もあって類品かもしれません。 長径48.09㎜ 短径31.96㎜ 銭文径40.62㎜ 2枚目も覆輪銭ですけどすっきりして少し大人しい感じ。書体にも目立った変化はありません。しかし、裏側を見てびっくり。當上にこれでもかという部分刔輪があります。これはもう長郭手覆輪當上刔輪で決まり。これはちょっとした珍品ですね。 長径48.65㎜ 短径32.52㎜ 銭文径41.01㎜ 3枚目は濶縁の広郭銭。背の當の冠前垂れが長くなっていますがこれは偶然の鋳だまりです。背の花押異替ですからこの手の広郭を見かけたら「会津」か「久留米正字濶縁背異替」で悩みます。極印の画像もいただきましたが石持桐ではありませんが巨大です。だいたい背異替の石持桐極印の存在は少ないのです。ただし破損極印なのかひどく不鮮明です。さあ、困りました。銅色は会津にしてはやや黒味があり、陰起文のところから久留米系に見えますが、濶縁っぷりもまあまあ立派で、会津濶縁でも十分に通用します。 最終判断はこの不鮮明な極印。実は会津濶縁も巨大なのですけど石持桐極印はもっと大きく、厚みを超えることもしばしば。それから判断しますと、これはやはり久留米と見るべきでしょう。文字周囲にもわずかですが掘り込みが観察できます。文字そのものも細く加工されているようです。 かなりの美銭でありますし、見立てはあくまでも私個人のものです。このあたり、まだ分類方法において決定的な分類ポイントがあまりない気がします。 長径48.59㎜ 短径32.54㎜ 銭文径40.57㎜ 続いての1枚は関西のTさんからのご提供。はい、前回同様の兄弟銭探しです。今度のものは私が「花桐極印」とした原点・・・最初に見つけた異極印銭(白い背景のもの)と同じ特徴を持っています。しかし・・・製作はあまりにも違います。磨輪細縁で魚子地肌に近いザラザラ砂目。 長径48.39㎜ 短径31.98㎜ 銭文径41.0㎜ 重量21.6g おい、覆輪はどこに行った!・・・といった雰囲気です。しかも極印は破損したのか花桐の形になっていません。(極印画像左画像の左側) さらにこの極印に類似した長郭があり、砂目も非常に似ています。(画像最下段) 長径48.24㎜ 短径31.75㎜ 銭文径41.24㎜ 重量22.1g その極印が極印画像左画像の右側。全く同じものだとは言えませんが、完全に無視はできません。花桐極印の定義がなんだか怪しくなってきました。それにしても一見全く違うように見える不知銭に共通点があるなんてまさかと思います。しかも、私はこの天保銭を大写しにした画像を掲載していないと思いますので、きっとTさんは小さな画像を食い入るように見て発見したのでしょう。何たる集中力、眼力、視力、記憶力、嗅覚。おみそれしました。 |
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7月22日【打印寛永四文銭】 四文銭形の寛永打印銭が出ていました。初めて見るタイプですけど、手作り感がすごいですね。直径が33.75㎜ということですけど、そのサイズでは流通を狙ったものではないことになります。この類のものは挿しに入れることを目的としていることが多く、その場合は外径が極端に違うと受け取り拒否に遭うからです。そうなるとこれは熊手飾りか装飾品的なものであると考えられます。古く見えるものの時代的には新しい戯作品でしょうか。 |
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関西のTさんから画像を頂戴しました。広島県方面からの入手品で私が花桐極印と呼んでいる不知天保銭と兄弟銭であると言います。ご指摘の天保銭は「細郭手覆輪浅字異極印」として掲載していますが、そこには小さな画像しか載せていません。この天保銭は不知天保通寶分類譜の現品で、細郭手異極印の先頭を飾っています。(たぶん、村上師の旧蔵品。) 実は掲載時にはこれが花桐極印だとは気づいてなくて、そのため異極印の名称のままになっていますが、後に花桐極印が左右とも横打ちされたものと気が付きました。この画像を見て兄弟銭と見極め、さらに花桐極印だと指摘する・・・なんたる慧眼!!!他人の空似?偶然、まさかね・・・と思いながら過去記事を探りました。 すると2013年8月31日に拡大画像と共に紹介していることが判明しました。(9月3日の参考に)おかげでアルバムから現品を探す作業の前に比較ができました。その結果、この2枚は同じ母銭から生まれた可能性が極めて高いと判断しました。背郭右下の膨らむ形状と鋳だまり、面右横の小星などはどんぴしゃ。その他にも背輪全体の形状や面郭左上の尖り方など、兄弟の証が次々に見つかります。 しかも、発見したものは花桐極印ではないというからさらにびっくり。Tさんは発見の経緯・鋳造規模からこの天保銭が広島藩の可能性も考えているようですけど今のところ確証はありません。 ところでTさんから送られてきた極印画像を見ると片側の葉脈がなくてカタカナのイ状です。一方、HPに記述してある初めて見たときの極印の印象は「桜の花のような形にカタカナのイの字を裏書きしたような雰囲気」とあります。後に極印が横打ちされていることに気が付いたわけですけど、花桐極印は刻印が破損した結果生まれたものかもしれない・・・という疑念が浮かんできました。破損したとしても特殊な形状であることには間違いないと思いたいのですけど、再考の必要はある気がします。 |
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ネットでIさんから鋳写の水戸短足寶の天保銭を購入しました。製作が違うので、手に取ってみれば上級コレクターならすぐに新作と感じると思いますが、写真だけでは見分けはつきません。そのためネットでは鋳写不知銭として騙されるケースは多いと思います。 本座広郭の写しもおまけで頂いたのですけど、驚いたことにこの2枚は製作が同じなんですね。贋作のための習作のような感じですけど、問題点を詳しく書くと修正作品が出てきてしまうのでざっくりとだけ印象を記します。 水戸短足寶写しの地金は赤いものの輪は白黄褐色の発色で、金質には硬さを感じますが、もともとそんな銅質の銭なので良く再現できています。本座写しは黄色味のない銅質で、加熱(古色付け)後に錆色がつけられています。雰囲気的には焼け銭ですけど、凹部に見える地金の色は赤味が強い。一方、輪や郭はかなり白っぽく見え、称:佐渡本座写しに見えます。これは輪や郭にある細かな傷の乱反射による現象で、画像の色と肉眼で見た実物の色は全く異なって見えます。両銭ともわずかに銭径が縮むようですがさほど違和感はなく、また、磁性もありません。側面はグラインダー仕上げ風で、条痕は浅く細かく一定ですが、鋳肌も残っていてやや雑な仕事ぶりです。穿内のやすり仕上げはほぼなく、本座写しには鋳張りがわずかに残っています。一方で郭内の角処理は比較的きっちりとしています。側面に極印らしき痕跡はありますが浅く不鮮明。輪には横方向の条痕が残るだけで、砥石の仕上げはなく、郭の表面にも鋳肌が残ります。本座写しには文字が山形に細くなる母銭の特徴が残されており、母銭からの写しを物語っています。一方、短足寶写しには母銭の特徴が見られず文字が太いので、通用銭からの写しでしょう。輪等に見られる細かい横方向の条痕は、グラインダーかワイヤーブラシで磨いたものじゃないかと思われます。その結果なのか、輪を持った瞬間に指先に強く角が当たる違和感があります。 このように書くと「私はけっして騙されない」・・・と思われるでしょう?断言します。短足寶写しはかなりの上級者でもルーペで観察するか指に触れない限り騙されます。良くできているので、私もはじめは本物を磨いたものかな・・・と思ったくらいでした。 まだ製作が粗っぽいところが残るのですけど、上手に作れるようになり、高額品の写しが出現されると困りますね。騙されないためには皆様、指先の感覚を磨いておいてください。それと本物の製作の特徴を頭に叩き込んでおくことですね。君子、危うきに近寄らず・・・なんですけどね。 |
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オーソドックスな長郭手覆輪銭を入手しました。手にしたところ少し厚みと重さを感じます。やや赤みの強い黄銅質ながら製作はなかなかの上作で書体的な変化、加刀はほとんどありませんが、模範的な美制不知銭です。 長径49.35㎜ 短径32.7㎜ 銭文径40.95㎜ 重量23.2g。新しいノギスで初めて計測。本当は100分の1㎜まで計測できますけど、さすがにそこまでの精度は疑問。したがって数値は微修正して0.05㎜までにしています。極印は全体に異形で葉脈の形状からも異極印銭にも見えますけどあるいは破損極印かもしれません。 コロナ渦の影響で最近は古銭より山歩きばかりしています。おかげで林道にはものすごく詳しくなりました。時間と体力があれば新しい観光名所が開発できそうなぐらい穴場を発見しているのですけど、荒れ果てているのと山蛭がすごくて・・・。個人の力ではどうにもならないと思います。 ※スマホ対応版表示があると便利という声が届いています。確かにその通りで、どこかのページに悪戯で作ったかもしれませんが、技術的には可能なんでしょうけど時間的に無理でして・・・だいたい、httpからhttpsに乗り換えよう、パソコンを新しくしようと思いつつ全く手つかずです。更新が長期的に止まったら、私かパソコンが不調だとお考え下さい。当面の目標は隔離されないよう頑張りますので・・・。 |
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7月14日【デジタルノギス購入】 従来使用していたプラスチックの精度が落ちてしまったので、新たに金属デジタルノギスを購入。もう少し調べて買えばよかったのですけど、値段もさして高くなかったので軽い気持ちで購入。届いた商品を見るとかなりアバウトな英文説明書しかついていない。どこの国の産ともない。これで0.01㎜単位まで計測できるとはにわかに信じ難いのですけど使い勝手はさほど悪くなさそうです。ただ、精度は0.05㎜単位まででしょうね。しょせん2500円程度ですから。 |
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やっちまった、やっちまいました。ネットオークションで意地になって下りなかったのです。スマホは簡単で1操作で反応できて便利なのですけど考える時間をくれないし取り消しもできません。投稿してくれた画像だったので意地を張りましたが、少し反省・・・でも、まあ、いいか。 頂戴していた情報では細縁大様になる宏足寶の少し銭文型が縮むタイプと認識していましたが、画像を重ねてみた結果(雑銭掲示板参照)は0.2~0.3㎜しか異なりません。その分、ほんの少し刔輪が甘く寶足が短いもののやはり宏足寶には違いありません。2つの品は製作的には近似していますが鋳ざらいの強さによる肌の質感は違い、そのせいか砂目も見えません。同じ系列だとは思いますが微妙に異なるのは製作期の違いなのかもしれません。この系統の品は少ないことは間違いありません。背百の横引きのゆがみが印象的です。 続く品は不知長郭手の含白銅質覆輪銭です。宮城県仙台から蔵出しの銘が入っていますけど、たしかに古寛永仙台銭の正字手や寛字と同じような銅質ですからなんとなく納得。ただし、魚子肌ではありません。これで魚子肌なら完璧で長郭手仙台濶縁の発見なんですけどね。そういわれて極印を観察すると、何となく仙台風の尖り形。 続く品は広郭手直写楔型広穿と名付けられた品。楔型の名称はあるものの肉厚の際は0.3㎜以内ですし、全体に薄肉なのでこの名称は名乗りづらくはずすべきでしょうかね。各幅は広郭手、細郭手、中郭手のどれでも良い気がします。推定出現過程や時期、絶対数を見る限り、中郭を模して不知銭を作ると言うことはあり得ませんので、そもそも中郭手という名称そのものがおかしく、中郭様とすべきなんですけど、この名称がある程度定着してしまっています。方泉處誌上などでは長郭手、細郭手、広郭手の3つで構わないのではないかという意見もあったように記憶しています。現品はやすり目があまり感じられない滑らか肌で小さめの異極印が打たれています。時代的にはかなり後・・・最期の方ですが、贋作とか摸造の類ではないと思います。 最後の1枚はおまけで頂いたもの。画像では着色された真鍮銭みたいに見えますがれっきとした鋳写し銭です。文字・・・特に花押を観察すると鋳写しのための加工がきちんと読み取れます。抜けをよくするために鋳ざらいで頂点を細く台形状に加工してあるのです。鋳ざらいの条痕こそありませんが、かなり丁寧に鋳ざらいされたようで、極端に言えば凹面鏡のような仕上げになっています。 |
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6月30日の天保銭の画像を見ていて・・・重大な見落としに気が付きました。これは薩摩そのものだということ。薩摩広郭の中で短尾通小字というものがありますが、これは本座広郭とうり二つなのです。薩摩の方がわずかに保後点が縦に打たれ気味で、通辵の頭が大きいのですけど・・・この品はその特徴が弱い。しかも短尾通小字は黄色い銅質というイメージでしたが、こんな色合いもあるのですね。銭文径と背郭が肥郭気味になることから間違いないと思いますが、エアポケットに入ってしまいました。しかし、この偽装っぷりは見事。今まで見てきた短尾通小字の概念が壊れてしまいました。 長径49.6㎜、短径32.8㎜、銭文径41.6㎜、重量22.4g |
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ここのところ習慣にしている水曜日の山歩きを本日決行。天気は危なそうだし、女房に言われて午後2時から仕事だし、挫けそうでしたが鋼?の意思を貫きました。4時半起床、5時出発とし、6時から山歩き開始。天気予報では12時前までならなんとかなりそうということからの強行です。もちろん、リュックにはカッパ、折り畳み傘、飲料食糧、防虫スプレー、蛭よけスプレー完備です。目標は月崎永昌寺~大福山山頂~石神集落~上総大久保~月崎永昌寺・・・往復で16~17km。風が強く雲がビュンビュン流れていて、山全体がうねり泣いている感じ。送電線も泣いています。ものすごく不安なスタートですけど、さすがに朝早くて誰もいませんね。唯一会ったのは、イノシシ狩り(罠師)のおじさんで、猟犬2頭に吠えられてちょっと怖かった。こんな早朝に山にいる奴はイノシシぐらいなのかも。私、JR駅の荷揚げをやってましたので普通の人よりは体力があったのは昔の話。猫アレルギーで呼吸がつらく、体重増で膝が痛い。普通の人より足が短いので、ギアが一段階低いから登りには強いはずなんですけど、歩幅が狭い分前に進みません。時々蛭が靴にへばりついていないか点検しながらの歩行です。見つけたら塩水スプレーで撃退です。落ち葉の積もっている場所は要注意です。休憩時間を含み4時間で走破しましたが、10時過ぎに車についたとたん大粒の雨が降り出しました。あと1時間ぐらい歩こうか迷っていたのですけど正解でした。足も限界間近でしたしね。6月に入ってからは週40kmぐらい歩いています。しかし、痩せない。今夜もビールがうまそうだ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最近、文久様について尋ねられたこともあり、久々にこのことについて考えてみました。文久様は寛永通寶當4文銭の銭籍不明な密鋳銭でありながら一種として認定されている特異な品です。同様の品に寛文様、踏潰、江刺などがありますが寛文様と並び存在希少で、しかも様々な銭種書体があると言うこれまた特異な品。明和期銭を鋳写しているらしいのになぜか鉄銭の縮字様があり、離用通手、大頭通手など通常の密鋳銭ではめったにないものまでの書体が揃っています。穴銭入門にもこうあります。「存在銭に比べて小異の認められるものが多すぎる点、いかにも収集家好みでかえってひっかかるのである。」新寛永泉誌には「・・・絶妙の後作品がある。」とあり、さらに水戸と野州(下野:しもつけ:栃木)で挿しで発見され、某氏曰く「この銭は水戸藩武田耕雲斎一派具運用として作られたものならん」と、妖しい仮説が流されるなどきな臭い香りが強くします。私はごく若い頃にこの文久様を古銭店の店頭で拝見したことがありましたが、それは白銅色調だった事だけ鮮明に記憶しています。 そういう意味では、水戸等から出たとされる白黄色の文久様には時代のそぐわぬ新しさの違和感が禁じえません。しかし、それ以上否定する材料がないのも事実なのです。これらの件は元方泉處の石川師もふれていて、文久様の白銅色系のものと未使用白黄色系のものは前期、後期のように別物として考えるべきではないかとオークション誌上で提案されていたと思います。 さて、一番上の俯永様はまさしく未使用の白黄色の文久様俯永手で本品は小川青寶樓師旧蔵品ということでオークションに出た品。穴銭入門の拓図を見て頂くと感じると思いますけど、加刀の癖が非常に近似しています。寛尾の跳ね方とか背の波の歪みとか・・・。側面はロクロ仕上げで穿内やすりもあります。そうなんです、意外にまともな品なんですね。ただ新しい品で加刀変化を除けば安政期俯永との差がよく分からないのです。 続く離用通手・・・これは手術後の朦朧とした意識下で衝動買いしてしまったもの。当時は病院代に上乗せなので痛いのなんの。これも書体は泉譜の癖とよく似ています。寛尾の内跳っぷりなんか同じです。入札に出ていた品で、かつてはどなたかの持ち物だったのでしょう。絶妙な後作品だとしたらこいつかなぁ・・・なんて思いながら保有し続けています。O氏あたりが怪しく感じたりスタリキという言葉が頭をよぎりますが、確証はありません。これの真贋はどなたが分かるのでしょうか?(実は尋ねられた時、こいつの存在をすっかり忘れていました。アルバムのどこにあるかもわからない・・・探さなくては。) 最後の正字手・・・これが昔私が見た文久様と同じつくり・・・だと思います。面の加刀は少ないのですが、通頭が大きく反りかえる変化はすぐにわかります。今までの品は文久様というより製作的には安政期様に近い。文字の加刀があるから文久様になっただけ・・・という問題もありました。一方、この品はたしかに文久様といって良い雰囲気はありますが、文久銭と同じかと言えば???。密鋳銭の白銅質安政期風仕上げなんですね。 |
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下町の入札に加護山銭細字様含鉛銭という出品があり下値も低かったので興味本位で応札してみました。この品は英泉還暦記念泉譜の原品なのですけど、なんでこの品が記念泉譜に載せられたのかが拓本では分からないほど普通(普通以下?)の品なのです。巻末を読むとこの泉譜の構成の意味が分かりました。英泉こと村上英太郎師は秋田の大収集家で、天保銭に半生を懸け、残りの半生を秋田・加護山関連地方銭と紙幣の収集に懸けた・・・ということで、前半には還暦と同じ60枚の天保通寶の珍銭を、後半には愛してやまない収集品を掲示されたようです。なかでも加護山関連の掲載は27枚にも及び、村上師の秋田愛を強く感じます。収集してみればわかると思いますが密鋳の銅一文銭の存在は四文密鋳銭の十分の一以下じゃないかと思うぐらい少ないのです。少ないと言われる中で比較的入手しやすいのがこの加護山座のものなんですけど、それとて細字様以外は難獲品です。寛永一文銭は元文4年(1739年)には鉄銭主体に切り替えられはじめており、公式な鋳造銭としては明和4年(1767年)から安永2年(1773年)頃まで亀戸と長崎で短期間鋳造されたのが最後で、以降銅一文銭は姿を消しています。寛永通寶が公式通貨として世に出たのが1636年ですから一文銅銭は130年あまりで公式鋳造が終わったわけで、江戸幕府が終わりを告げる1868年(慶応4年)までの100年弱の銅一文銭の流通は古銭ばかりだったと言っても過言ではありません。幕末においては230年前の寛永通寶も現役の通貨だったわけで、これを令和の世に置きなおすと明治金貨どころか寛政二朱銀や文政小判までが流通していることになります。ちなみに寛永通寶が正式に通用停止になったのは昭和28年(1953年)のことなので、法的には300年以上現行通貨であり続けたのです。 寛永の銅一文密鋳銭が少ない理由ははっきりしていて、鉄銭主体の時代になって鋳銭事業として採算がとれなくなったから。それにどうせ重罪を犯すのなら一文銭を作るより四文銭や天保銭を作る方がずっと割が良いのです。そのような最中、銅の密鋳一文銭が再びつくられるようになったきっかけといって良い事件が1842年(天保12年)に盛岡藩内で生じます。密鋳鉄銭の横行と流入によって領内経済が大混乱していた事にきれた藩主が鉄銭の領内通用を禁止しただけでなく、住民からも強制回収まで行ったそうで・・・詳しくは2018年の12月30日の制作日記をお読みいただければと思います。 さて、村上師に愛されたこの寛永通寶、お世辞にも美しいとは言えません。外径は23.1~23.0㎜と小ぶりで、肉厚は1.4~1.5㎜。ただ、重量は4.2gあって手にした瞬間に重さを感じます。「これが愛された理由なのかな?」と感じた次第。中段は同じ泉譜に掲載されている加護山銭中字写し。細字写しとの見分けが難しいのですけど、濶縁で内径が小さい特徴があります。さらにその下は加護山銭の亀戸中字写し。これも泉譜原品ですけど、ヒビが入っている品。それでも宝物だったんですね。私も思わず目を細めてしまいます。 |
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関西のTさんからおまけとして頂戴した不知広郭手です。いずれもヤフオクで入手されたもののようですけど、こいつの判定にはいささか困りますね。だいたい天保通寶は本座以外はほぼみんな密鋳で、わずかに薩摩藩の琉球通寶と水戸藩が鋳造許諾を受けた記録が残されているぐらい。立場上、会津藩が黙認されていただろうなあ・・・というぐらいであとは藩政維持のために各藩は贋金づくりに精を出していたと思われます。贋金とはいえ、天保通寶は歴史を動かした熱情の原動力たる存在であったのは間違いないところで、それだけに寸分違わぬ精巧なものも数多く作られたと思われます。 赤銅の天保は長径49.25㎜、短径32.6㎜、銭文径41.3㎜、重量20.4g。一見したら久留米(石持桐極印銭)で決まり!なんですけど銭文径が縮んでいません。隣に比べてみて縮んでそうですけど本座と同じ規格です。文字の周囲が彫られる久留米特有の癖もほとんどありません。極印も違うみたいですけどはっきりしません。地金は確かに赤そうですけど子細に見ると、赤の発色は自然なものではなく少々むらがあり若干の火中変色っぽくもあり、また、輪の面右上内際に額輪風の傾斜痕跡がわずかにあります。本座異制赤銅質というべきか不知広郭手とすべきか・・・悩ましい。ただ、ほとんどの方は一見して久留米正字だと言い切って見向きもしないでしょうね。Tさんの見立て通り本座異制としておくのが無難だと思います。 もう一枚の黄銅質(右)のフォルダーには広郭手大様側面薩摩仕上背肥郭異極印と、たくさん特徴名が並べられていますがどれもが決定打にはなりきれません。計測値は長径49.6㎜、短径32.8㎜、銭文径41.6㎜、重量22.4gと銭文径と重量は一応規格外なんですけどきわめて微妙で、極印も穴ぼこ状にも見えますが小さいので破損した結果なのかもしれません。薩摩藩銭に銅色は似ていますけど絶対にそうだとも言い切れません。これを不知とするかは気分次第でしょうね。私的には不知銭度35%ぐらいです。 ※精巧な広郭手が存在する理由として、金座後藤家による天保通寶母銭の横流しの可能性を否定できない事があげられます。(2015年2月15日制作日記参照)1845年に天保通寶鋳造の立役者、13代の後藤三右衛門が斬首されるという事件がありました。三右衛門の処刑の理由は天保の改革で有名な老中水野忠邦への16万両に及ぶ賄賂が原因とされていますが、後藤家の蓄財には天保通寶が一役買っているのは間違いないところです。水野は1842年に改革反対派によって一時失脚するのですが、江戸大火災による本丸焼失という大事件もあって、財政再建のため半年後に再登用されています。水野の再登用支援には後藤が一役買っていたと思われ、その後藤の処刑は水野の再失脚によるトカゲのしっぽ切りであることは間違いなさそうなのです。長郭手や細郭手が覆輪刔輪などのかなり分かりやすい物が多いのに比べて、あきらかに不知銭と言える広郭手が滅多にないことは、水野復権にかけた後藤家が短期的に資金調達をするために母銭の意図的流出(闇売却)をしたのではないかという推定の根拠になっています。三右衛門には水野家失脚の状況下では後藤家もこのままではただでは済まないという焦りがあったと思います。 本座の母銭を使って寸分たがわぬ天保通寶を作れたとすれば、その鑑定はほぼ不可能です。全く同じなら分類上はそれはもう本座なのです。書体分類がダメなら砂目、銅質、やすり目、極印などで判断するしかないのですけど、決定打がない場合は「本座異制」とするしかないでしょうね。銭文径が小さいのならば写しの可能性を考えられるのですけど、逆に大きい場合は(極端な場合を除き)鋳造上の何らかの変化と考えるしか私はないと考えています。 |
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ヤフオクで重量26g超の表示と青みがかった黄銅色画像が気になって応札した銅山手です。私の個人的なイメージでは銅山手は製作のやや貧相なもの(重量20g未満)が多かったはずなんですけど、気に入ったものばかり購入しているせいか25g前後のものがこれで3枚目になりました。出品時の表示は26.1gでしたが、私の秤だと26.2~3gを表示します。私の秤の狂いかもしれませんが、重く出たのでまぁ、いいか・・・てなところ。一方、実物の銅色は赤みが強い銅色で、これは撮影時の蛍光灯等のライトの色が強く出たものだと思います。銭径等は長径49.05㎜、短径33.0㎜、銭文径41.2㎜で、これは金属ノギスで計測した値。愛用のプラスチックノギスは最近は摩耗のせいかこれより0.1㎜ほど小さく出てしまい、計測しなおしています。出品者の計測は長径49.04㎜、短径33.03㎜、銭文径41.28㎜なのでこちらの方が正しそうです。金属ノギスの方がより正しい値が出るのですけど、大事な古銭を傷つけてしまった過去の経験がありまして、以来プラスチックノギス一筋でしたが考え直す(買いなおす?)必要がそろそろあると思います。 銅山手は天保通寶初心者が初~中級に移行する際のマストアイテムで、仙人への道段位制度では2段クラスに位置します。初段以上は福沢さんが流出するのが普通で、銅山手は福沢さん2人ぐらいは覚悟が必要。この辺りが金銭感覚破壊がはじまるところでありまして、貧乏コレクターだった私は5000円の壁を破る事すらためらっていたぐらいでした。(だから穴銭を集めはじめていたんですけど・・・。) 銅山手は通の字が巨大で寶を圧縮している状態で、盛岡銅山の書体とうり二つです。密鋳銭なんだからもう少し遠慮すればよいのに、実に堂々とした書体で、これは隣藩の秋田の鋳造っぷりとよく似ています。実際にがさ入れは複数回あったようで、そのためなのか銅山手の母銭は未だ発見されてなく(過去の泉譜にはありますが疑問視されています。)原母銭は木型でないかと言われています。実物を見る限り銭文径はいくつかありまして、私が感じた経験では ①黄銅色系の濶縁広郭厚肉タイプ ②細字のすっきりタイプ ③やや赤銅質の側面仕上げがしっかりしたタイプ ④白銅質の磨輪細縁広穿細郭薄肉の末鋳タイプ があります。今回の入手品は間違いなく①です。 |
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画像は千葉県のHさんから頂戴したものです。ネット上に出ていたそうですけど、検索に引っ掛からなかったのか私は初見でした。検索ワード「古銭→天保」と絞り込んでいるので、この語句が記されていない出品物には引っ掛からないことがありますから・・・。 いわく「・・・ヤフオクで落札した天保銭なのですが、画像が悪く、細郭手の長足宝かと思って落札した品なのですが、届いた品を見たところ、お持ちの長郭手覆輪強刔輪反足宝と、刔輪の具合、長径、短径、銭文径がほぼ一致、量目は、20.58gとやや軽めです。画像のみの比較では、私の方が、面のザラザラが、少ないようです。・・・」 頂戴した画像はスマホもしくはデジカメで撮影したもので歪みが強かったので、問題ない範囲で若干補正しました。また、色調も補正し、特に拡大画像では見やすさを優先して修正しています。 色調も黄銅色で雰囲気が違いますし、砂目も違うので最初はピンとこなかったのですけど、極印画像を見て目が覚めました。このとんがった雰囲気は私の反足寶と同じです。色調補正を強くして寶足をなんとか確認できるレベルまでにした結果、どうやら反足寶に間違いなさそうです。反足寶は天上の刔輪が少し強くなりますが、画像は下側からあおって見ている形なので確認ができませんが、背の當上の刔輪が強いところから間違いないと思います。寶後足が長く湾曲するだけでなく、前足が張足寶より長いのも特徴的です。実は反足寶は超有名な長反足寶より存在は少ないそうで、私は類品を見たことがありませんでした。(ただし長張足寶とは類似していて近縁関係かもしれません。) 私の入手品の極印と地肌が仙台天保に似ていたので、もしかすると仙台銭かしら等と夢想していましたが、Hさんの入手された品を見る限りいろいろなタイプがあるのかもしれません。 画像下はおまけ・・・皆様はどう思われますか?ベースは水戸濶字退寶で、とくに寶貝が変形しています・・・というより変形させられています。ご判断は皆様自身の責任で・・・。 |
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6月21日【ネット観察記:美品登場!】 最近気になったもの。打印銭はこの手のものとしては最高美品だと思います。私も少し追いかけましたが後進のことを考え自重したものの、背がここまできれいなものは初めて見ました。薄っぺらで絵銭の類だと思いますが昔から島銭寛永通寶として有名な品です。 古寛永の俯永抬頭永は源氏名銭として超有名な品。永の頭が蛇がかま首をもたげるようというところから来ています。岡山銭としては少し大ぶりで細縁になり刔輪が強く、いかにも名品といった雰囲気の銭です。左の品は少し輪の幅が広く永尾がうねって少し短くなる変化が見られますが抬頭永に間違いないと思います。状態も申し分ないので落札価格はかなりお買い得でした。(私じゃありませんよ。) 最後の品・・・背元六銭は30万円を超えた争いが生まれた品。試鋳貨と言われていますが素性ははっきりしません。今まで見てきたものは真鍮系の材質のものが多かったのですがこの品は黄銅質に見えます。地が漆で黒く染められていますが禿げているところを見ると古い収集家によって美化されたものかもしれません。つまり、これはそれだけ愛された由緒正しい収集物(もしくは母銭?)と考えられるのです。これは後世の絵銭だと否定される声も確かに聞きますが、平尾賛平をはじめとする有名収集家の収集品(昭和泉譜等)に収まっていた事実もあり完全に否定しきれる材料がそろっているわけではありません。 ※地に漆を入れる技法は母銭の砂抜けをよくするため、古い時代に行われたものとして拝聴したことがあります。鋳造において凹部は研ぐことができないからで、技法としてはあり得るかな・・・と思います。一方、一般的な寛永通寶の地が黒く染まっているのは工程中(床焼)に墨と鯨油で煮詰める作業があるからで、これによって一旦は真っ黒な寛永通寶になりますが、その後の研ぎで銭文がくっきり浮き上がるという仕掛け。なお、この作業は鋳造末期の銅銭座、鉄銭座、天保通寶鋳造では省略されています。 |
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6月19日【古寛永分析ツール】 千葉のHさんの訪問を受けました。Hさんは関西出身で温厚な方。某有名ベーカリーのご関係者のようですけど、現在は悠々自適の毎日だそうです。今回の目的はHさん作成の古寛永分析ツールのご紹介を受けること。ご自宅からデスクトップパソコンをご持参されるなど本気モード全開でした。 水曜日は猫アレルギー対策のため山歩きの日と決め込んでいたのですけど、今回は特別です。晴天がちょっとうらめしい。 パソコンを起動すると、画面いっぱいに古寛永の画像が現れます。拡大された類品画像を左右に並べることができて簡単に比較ができます。また、特徴による検索も可能で、キーワードに従って次々に画像を呼び出すことも可能。10品以上の類品を並べて比較をすることも可能です。何より画像が大きいので左右比較が分かりやすいのです。HPの場合は転送容量の問題もあって私は画像を小さ目に設定していたのですが、いまになってみると小さい画像は見づらいのなんの・・・一部撮影しなおす羽目になり途中で力尽きています。 作動はアクセスというデータベース専用ソフトを使うのですけど、このツールは通常パソコンには標準装備はされていません。名前は知っていても使用したことがなく、したがってデータを頂いても見ることができないと思っていましたが、Hさんのご好意でソフトまで分譲いただきました。その結果、私のおんぼろノートパソコンでも作動閲覧が可能になりました。アクセスは日本語によるプログラム変更も可能なようで、覚えればいろいろいじれそうです。 まずは参考書を購入して基本動作を調べたいと思います。Hさんも画像を増やして分析ツールの完成を目指されると思います。 ただ、Hさんのパソコンは横長ワイド画面でそれにあわせてツール設計されているため私のオンボロパソコンでは画像が画面からはみ出してしまい、並列表示ができません。多分解決方法があると思いますが、私には時間がかかりそうです。Hさん、期待しています。 |
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相変わらずネット上の天保銭市場は過熱気味です。私も犯人の一人なので他人のことは言えないのですけど、ちょっと度が過ぎてるんじゃないの!!っと腹を立てたくなるぐらい。画像上は昨日10万円を超えた闘いが行われた品。覆輪強刔輪で寶下の刔輪が極端で反足寶気味になっているもの。天上の刔輪も強く、魅力的ですけど寶下の部分刔輪というより寶下強刔輪といったところで、どう評価するかです。張足寶の強刔輪といった方が分かりやすいでしょうか?保の人偏が短く泉譜になかなか合致するものがないのも良い感じですね。 陰起文なので状態が今一歩に見られやすくそこそこで闘いは止まるとみていたのですが甘かった。私の予測のはるか上を行きました。コレクターおそるべしです。 それこそ状態は今一つながら少し似た私の所持品を下に掲示します。覆輪寶下強刔輪反足寶様としたもので寶足は上の品より長張足寶になっていますが、天の離輪ぶりは及びません。ただ、刔輪としての強さは背の細縁ぶりに現れています。輪際のグリグリした加刀痕も素適でしょう? この天保銭は「覆輪刔輪マニアック講座」を記述する原動力になった品で、今はなくなってしまいましたが日本橋柳屋ビルの地下にあった賞山堂さんから購入した思い出の品でもあります。状態が今一つだからとおっしゃっていましたが、この品をとんでもなく安い価格でお譲りいただいたことが良い思い出です。賞山堂さんは母や祖母の東京での買い物の際に連れて行ってもらって中学生時代からたまに訪れていたお店で、店長さんは私のことをうっすら覚えていてくださったのがありがたかったです。何分東京は遠かったし、日曜祝日休業のお店だったので部活のない夏休み、春休みにしか行くことができなかったお店でした。 背に赤い朱がぽんと置いてありますが、これは昔の大家の愛蔵品であることを示しています。この印、三上香哉あたりじゃなかったかと思うのですけど、どなたかご存知ですか? 上の品が出たとき、私はこの品の美銭が出た!と小躍りしてしまいましたが、良く見ると別物ですね。負けて納得ですけど、みんなよくやるなあ・・・と、自分のことは棚に上げて思ってしまいます。降参、勝てません。白旗、脱帽です。 |
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落札品が届きました。ここのところネットは負け続けてますし入札誌でも芳しい結果がありません。上段は先月の大和文庫さんで会津短貝寶濶縁という名で出ていた品。賢明な皆さんはお気づきだと思いますが正しくは会津濶縁離足寶。私はこの天保銭がなぜか気になってしまい見つけると購入してしまう悪い癖があります。市場価格よりずいぶん安い価格でしたが落札してしまいましたが、果たして何枚目なんだろう。反省。 長径49.6㎜ 短径32.6㎜ 銭文径39.9㎜ 重量19.0g 下段は何の変哲もない久留米深字。HPでは石持桐極印銭にしていると思います。石持桐極印は天保銭の極印の中で最も巨大で、その花芯の頂に大きな玉を乗せている特異なもの。深字も石持桐極印なのですけど、正字の類に比べると極印は小さめで玉もはっきりしないものが多いと思います。天保銭事典には極印は石持桐極印のみと書かれていますが、天保銭の鑑定と分類においては100枚中3~5枚の割合で桐極印がみつかると改められています。実はこの深字私が出会った2枚目の深字の桐極印銭です。本当は珍しいんですよ。 長径48.8㎜ 短径33.0㎜ 銭文径40.5㎜ 重量17.1g |
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文銭に母銭なし・・・私がHPに度々書く古銭界に伝わる格言と言いますか戒めです。もちろん文銭に母銭はありますよ。ただ、実際には初鋳の通用銭らしき母銭まがいの物、疑わしき物までがかなり称:母銭として売られているのが実態なのです。「なぜ、これが母銭なのか?」と尋ねると大概「郭内に丁寧にやすりが入っているから」という答えが返ってきますが、「それだけが根拠なのかい!」と突っ込みたくなります。自分で言うのもなんですけど、これだけ穴銭にのめり込んでいる私ですら母銭の判定には慎重なのです。文銭には細縁銭が発表されているように母銭サイズの通用銭があるからなおさらなんです。(文銭は古寛永的なのです。と、いうことは古寛永の母銭にも注意が必要だということなんですよ。) 画像の品は寛仙堂師が出品されていた細字背文の母銭。久々に、禁断の母銭に手を出してしまいましたが、ご覧のとおり繊字と見まごうばかりの極細字で背郭も整い、あちこちに鋳ざらい痕も残る文句のつけようがない品。現品は少し磨かれたような光沢がありますが角も立っていて特別感があります。材質もなんか違う・・・金属の冷たさをあまり感じない。良くわからないけど透明な漆のようなものが地に塗られているのかもしれません。私はまだ文銭の母銭がよく分かりません。でも、これはたぶんとても良いものだと思います。 ※HPを作成していて、見た目は良いのに画像にするとさえないものには数多く出会ってきました。一方、この品は画像の方が美しくなる。原品は表面光沢が強いのですが、撮影するとそれが落ち着いて写ります。こんな品は珍しいですね。光沢が磨かれた乱反射によるものではないからのようです。 |
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画像上段の天保は収集2020年6月号に「広郭手削輪」として出ていたものです。おうっ、広郭手の不知銭で刔輪があるものか・・・これは珍しいと、あまり考えずに落としに行きすっかり忘れていましたところ、落札の知らせ。到着したものを見てありゃりゃ・・・と驚きました。これ、細郭手の削頭天の類なんです。初めて出会ったのはネット上で、面細郭・背長郭の貼り合わせの天保通寶ということで熱狂してしまいました。ところが、この不知天保通寶は実にいろいろなところに出現します。銅色が一定せず黒っぽいものから赤茶、さらにはきれいな黄銅質(参考画像下)まであります。重品になるとは気が付かず、私は少なくとも5枚以上過去に購入しています。つまり、今回も同じ轍を踏んだわけでして、それでも「郭幅が違うからまあ、いいか。」と、観念した次第です。 ところで、送られてきた品についてきたタグは、秋田の故、村上師のものを示すものでしたがこれまたいろいろな名前、掲載歴が付けられています。長郭手俯頭通刔輪、細郭手俯頭辵(面肥郭:英泉天保通寶研究分類譜No.1378)、中郭手俯頭通(不知天保通寶分類譜上巻P133-5)収集1983年9月号P18-2 ずいぶん爪痕を残したものです。これが銘品の証・・・ならうれしいのですが、要はこの類は名前や分類が一定してなくて、いろいろなところに違った名称で出てきているのです。不知天保通寶分類譜をお持ちの方は注意して観察するとわかると思いますので調べてみてください。 ①天第一画が短くうねる。②通頭が長く反り返り、凹頭通の異名もある。③背當の田が歪む。背の書体形状は長郭のもの。したがって貼り合わせ手の愛称もある。④花押の後端下側のカーブのところに強い加刀が見られる。⑤刔輪銭でぬめぬめして砂目を感じない鋳ざらい銭。⑥面左側の郭のやや上部から輪にかけて、横に走る鋳ざらい条痕がある。(この画像でもわかります。上下2枚の比較をしてください。)などなど。詳しくは収集1983年9月号に村上師が寄稿していますのでご覧ください。 ※タイトルを改めて見て、我ながら古いセンスだと呆れてます。七色仮面なんて・・・私の世代でもないのですけどね。 |
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6月7日【関西のTさんから】 関西のTさんから画像を頂戴しました。(ありがとうございます。)この方、なかなかの嗅覚ををお持ちでしてネット上などあらゆる方面から良い品を集めてこられます。最近の入手品+αということですけどまだ相当お若いのにまあ、すごいこと。感心してしまいます。以下、Tさんの説明を含め公開させていただきます。 |
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長郭手 覆輪強刔輪 曲足寳 背小星
前足が途中垂直に曲がり、背の花押上と郭右に必ず鋳だまりのある不知銭です。
拓本でも出ているのを見たことがありますし、案外数はあるのでしょうか?
長径 :49.17㎜
短径 :32.83㎜ 銭文径:40.96㎜
重量 :21.2g
※よく観察されています。私は星の特徴は気が付いていませんでした。不知天保通寶分類譜下巻P147に一致しています。私の所有品(曲足寶)とも兄弟ですね。天上と當上がこんなにはっきり刔輪されている品は珍しいと思います。(浩泉丸) |
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(掲載名:肥足寶) Tさんのご指摘で拓図の確認をしてみました。すると同じ位置に星のある兄弟銭が見つかりました。他にも類品があるかもしれません。皆様もお探しください。 |
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長郭手 覆輪強刔輪 宏足寳 縮字 背歪文
細輪縮字ですが、このタイプは余りないのではないでしょうか?
花押の角や袋にポイントが無く、背輪左に傷も無し。當百字が大きく歪み、使用済み本座母銭の様にツルツルです。長足寳系統でこれに近い物をどこかで見た事があるのでその系統でしょうか?
長径 :49.32㎜ 短径 :33.01㎜ 銭文径:41.06㎜ 重量 :20.5g ※宏足寶ですけど當百の歪みが面白い。百の中引きがはっきり斜めになるのが特徴的です。(浩泉丸) |
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不知長郭手 異書 (面背逆製)
本品は画像よりかなり焦げ茶色をしています。浩泉丸さん所有の撫角銭の覆輪が取れたような見た目で、これでもしっかりと郭内に四面ともヤスリが入っています。側面の見切り線は嵌郭跡のような形で面側〜中央部に残っています。砥石仕上げの際についたと思われる極小傷あり。これは名付けるなら異書?奇書?崩書?そもそも面背逆であっていますか?
長径 :48.34㎜ 短径 :31.50㎜ 銭文径:41.33㎜ 重量 :21.2g |
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※面白い品です。称:撫角銭は絵銭的な製作なのですけど、この品はそれよりは若干銭らしいです。ただ、つくりは同じぐらい下手です。しかし、母銭逆置のエラーとは異なる気がします。背郭が極端に横広で、それに合わせて面側も大広穿になっています。面背逆製は面狭穿、背広穿になるのですけど、これは背が大広穿すぎて面側が追い付かなかった・・・よく見ると意図的に郭の位置を広げて外側に配置しているようにも感じます。書体的には加刀変化があるわけでなく、全体に歪んでいますので、異書とか奇書というより歪書(歪文かな?)とすべきかしら。歪書(歪文)大広穿としたらどうでしょうか。それにしてもどうやったらこんな郭と穿の形状になるんでしょうか?(浩泉丸) ※改めて見たら撫各銭と面文はとても良く似ていますね。 |
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覆輪銭で銅色、製作的には大きく異なりますが、書体は非常に似ています。面の文字全体が縦に引き延ばされている感じで湯圧不足なのか文字にも勢いがありません。全体が砥石で仕上げられている雰囲気で粗いやすり目の条痕は確認できません。変造品的な品ではなさそうですけど、製作的には大量生産に向かない絵銭的なつくりだと思っています。でも、こいつもかなり広穿ですね。 長径 :48.6㎜ 短径 :32.3㎜ 銭文径:40.45㎜ 重量 :22.9g |
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最近頂戴した画像。常連のタジさんのもの。天保通寶の不知長郭手の鋳写し赤銅質異極印です。玉石混交と失礼なタイトルをつけていましたが、「石」じゃありません。立派なお宝です。ただし、宝石までは届きません。貴石ですね。極印が変わっています。真ん中は私がネットで落とした出来損ない。いわゆる錯笵銭です。古寛永の太細系かしら、見事なずれで下弦の月のようになっています。できそこないですから収集としては邪道な余興でして石ころみたいな存在なんですけど、同じものは二つとして出てこない。これを集めても誰も関心を持たないし、売るときにはたいていごみ扱いですけど・・・やめられませんね。 一番下の画像は寛仙堂師が出品している長門の勁文の手本銭です。これは26㎜もある大様銭で普通の品じゃないですよね。26㎜ですよ。古寛永には手を出さないと心に決めているのに動揺しまくっています。これを見ると手本銭はあくまでも手本であって母銭としては未完成な品ですね。お願いだから誰か私の目の前から消し去ってください。 |
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6月1日【麒麟がくる!】 古銭の話ではなくて恐縮ですけど・・・私は郷土史を調べるのが好きで一時期かなり熱中をしていたことがありました。もっとも、古文書が読めるわけではなく多くが史実などの再発掘です。幸い、故郷の市原市は知る人ぞ知る(知らない人は全く知らない)歴史の宝庫的地域で、最近話題になったチバニアンがあり、大和朝廷時代の東国の基地でもあり、巨大古墳群が複数存在し、上総国分寺があり、更級日記の出発点であり、源頼朝が旗揚げ再起した地でもあり、戦国時代からの山城も多く、江戸~明治時代には姉ヶ崎藩、鶴巻藩、鶴舞藩などが存在していましたが、今は何も残されていなく、住民の関心も極めて薄いのが残念です。 さて、NHK大河ドラマ「麒麟がくる!」はコロナの影響でしばらく休止になるとか。実は私の故郷は明智光秀にも関係があったというお話です。今から50年ぐらい前・・・市原市に明智一族の子孫を名乗る一族がいるらしいと話題になり、郷土史の研究家大室晃氏が調査に乗り出しました。その報告書の写しを最近入手し、改めてその内容を確認する機会に恵まれました。 現存する証拠は墓と明智家の子孫を名乗る一族(明智姓ではありません)の口伝しかありません。文書や位牌の類はすべて失われていますので、確たる証拠は墓石しかないというのが事実です。しかし、残された古い墓石には史実を裏付けるようなものが記されていました。 墓石があるのは市原市の不入斗(いりやまづ)というどちらかと言えば辺鄙な地。ここに明智光秀の側室(早く言えば妾)のフサの方と嫡男光慶(幼名:十五郎)が家臣の齋藤利満・利治親子とともに逃げてきた(利満は途中で捕縛死)というのです。フサの方は尼僧の姿で西光院に入り、幼かった十五郎はフサを母と呼び、家臣の斎藤利治は片又木(かたまたぎ)地区に住んだとか。片又木地区はとても辺鄙な隠れ里で、斎藤姓が多いことで知られています。 この件については以下のURLで一部を見ることができますが、大室氏の研究資料は当時の子孫のインタビュー内容なども残されていますし、その他の古文書から得た事実にも触れられていますので、かなり信ぴょう性は高いものと思われます。ただ、この話は今ではほとんど忘れられています。本家筋が途絶えたことに危機感を持った一族が当時名乗りを上げたんじゃなかったかしら。家紋の桔梗が残されている話なども聞いた覚えがありますけど・・・。少なくとも、側室が逃げてきたのは間違いないと思います。 http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/tenji/densyou/aketi/aketi.html |
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侍古銭会のタジさんの入手品。やや陰起文気味の覆輪刔輪銭です。極印は逆打ちらしい。背の輪際のえぐりがなかなか楽しい品で部分的に輪そのものが抉られた痕跡があります。覆輪の存痕銭はときどきありますが、刔輪の輪への直接加刀痕跡は珍しいですね。輪際のえぐりもなかなか楽しい。ご本人も申していますが、不知銭はなかなか飽きることがありませんね。 ※本日も、子供の送迎で東京へ。やることがないので石神井川のほとりを10㎞ほど散策させて頂きました。石神井川は水質改善されていて、いろいろな生き物が増えてますね。先日は河鵜の潜水の様子を観察できましたし、本日は清流の女王のカワセミを3匹見ました。カルガモの親子はあちこちにいますし、なかなか飽きません。ちなみに、河鵜の大コロニーは私の家の近くのダム湖にもあって、木々がフンで真っ白になるほどなんです。カワセミもいるはずなんですけど見た記憶がありません。(雉やサギの類はそこかしこにいます。)最近は川廻し遺構探しにも熱中していて、先日は山の中を20㎞ほど歩き回りました。HPにも追加してしまいました。 |
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江戸時代の大古銭収集家と言えば八代目福知山藩主の朽木昌綱公ははずせません。大名収集家としては間違いなくNo1で、古銭だけでなく蘭学も解体新書の前野良沢から学んでいて、オランダ語も堪能なスーパーマンでした。 福知山公が収集した品は大英博物館に収蔵されていて、大英博物館所蔵日本貨幣カタログでその一部を垣間見ることができます。大名の収集したものだからさぞすごいものばかりと思いきや、なんでこんなもの・・・と思うような出来損ないの穴銭も結構見られます。画像の一番上は、(粒子が粗くて恐縮ですが)昌綱公が収集されたと思われる元文期秋田銭の錯笵銭。このようなものが富本銭(3枚あり)や御用銭とならんでいるんですから収集家の性とは誠に不思議ですね。 2枚目は東北のTさんからお送りいただいた画像。古寛永の水戸狭足寛(推定)の面重文銭です。外径は24.25㎜ほど(24.27×24㎜.24㎜)で、雰囲気的には近代の作りではなく銭座の作りです。この手の面文が回転して置かれる重文錯笵はとても目立つのでときおり目にしますが、こんなにくっきり奇麗なものは初めて見ました。その下に私所蔵の高田縮通の面重文銭を掲示しますけど、美銭という意味では天地の違いですね。このような派手な面重文銭は通常は廃棄されるものです。したがってこれらは意図的なものじゃないかと思われます。では贋作の類かというと製作から見ると必ずしもそうは思えず、(少なくともTさんのものは贋作ではなくて)戯作・お守りの部類のような気がします。ただ、両銭の背の雰囲気がよく似ているのが気になりますが・・・。 以下に、私所蔵の錯笵銭類も載せてみました。今まで何度か掲載しているので皆さまおなじみでしょう。錯笵銭は出来が悪いのが相場なのですけど、ここまで規格外だと(自画自賛ながら)ほれぼれしてしまいます。 4枚目は銘「乱視寛永」とした古寛永。書体は水戸長永の類に見えますけどまったく自信が持てません。これは文字が縦ずれで先日オークションに出た横ずれとはまた違った味わいです。これは砂笵から母銭を取り出すときに失敗して銭を砂笵に再スタンプしてしまったことが原因です。 5枚目は背側に面文がくっきり映し出されたもの。銘は「割り込み寛永」としましょうか。書体は古寛永の称沓谷銭で、背側の錯笵としては最高峰のもの。元方泉處の石川師の著作「銭幣の華」にも掲載されました。これは砂笵から母銭を取り出した後に母銭を型に落としてしまい拾うときに押し付けてしまったものと考えています。 6枚目は小川青寶樓が愛した・・・かどうかは分かりませんが、小川師が所有していたと聞いている錯笵銭です。銘「湖上連窓」・・・命名は私の洒落ですから。書体は水戸長永ですね。郭が二重になっているだけでなく下輪が極太になっているのが面白い逸品です。青寶樓師もおそらく格調高くこのような命名をして楽しまれたのではないかと・・・私の妄想です。 実は本日、秘境マニアの間にひそかに話題の林道月崎一号線の双子隧道まで歩いてきました。インスタ映えするんですね、このトンネル。ですから本当はこの形「照月双洞」としたいのですけど、まだ誰もわからないですね、はい。 最後の1枚は明和期亀戸銭の小様の背大ずれ錯笵銭です。新寛永は古寛永に比べて大量生産になったため、錯笵そのものの数は多く見られるのですけど、技術向上のため大きな錯笵は限られます。ここまで背がずれてしまったものは珍品中の珍品で、芸術の香りさえします。(自画自賛!)同じ明和期銭の長崎銭や當四文銭類、後出の文久銭と比較しても亀戸銭の錯笵は少ないので、亀戸座職人の技術と誇りの高さを感じます。命名「若月追窓」・・・格調高いなあ。(自画自賛!) |
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※最近はまっている謎のパワースポット「浦白川のドンドン」(雑銭掲示板に記載の巨大手掘り水路隧道)・・・幻の反対側口ともうひとつの幻巨大隧道を求めて山道を散策。しかし、藪が深く思った以上に谷も深く危険なのでうかつには近づけません。谷の深さは場所によっては30mぐらいあります。道を間違って滑落したらただでは済みません。たまたま地元の方々等にお会いすることができましたのでお話を聞きました。「40年ぐらい前はすぐ近くまで田んぼがあって川をせき止めてできたため池もあったから遊んだ記憶もあるけど、今は藪が生い茂ってマムシとマダニとイノシシの巣窟だよ。(市民の森管理者)」「戦争のときは村の防空壕として使っていた。中はぬるぬるして泥が積もって深いところもあるからあぶないよ。行くんなら上流の浅瀬から川を下るしかないかな?(駅前のお店のおばちゃん)」「この間、東京の人に(洞窟の反対側への)行き方教えてくれと言われたけど、道なんてもうないと答えた。あんなもの珍しいのかい。(市民の森職員)」つまり忘れられた存在のようです。写真を見せたら反対側のこともちゃんと覚えてらっしゃいました。なにせ地元の観光案内には一切掲載されていません。管理者の方からは自分たちの価値観を変えることができたとお礼を言われました。もしかすると道を整備してくれるかな? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
収集に行き詰ってくるとあれこれ迷走するもので、刻印銭やら安南銭、はたまたこのような錯笵銭や銅替わりや密鋳銭に走ります。もともと私の穴銭収集趣味のはじまりが近代銭の収集に行き詰った結果ですし、途中で再び行き詰まりを感じ、海外の大型銀銭や古代銀貨に行きかけた瞬間もありましたっけ。それでも古銭収集家としては私は一途な方なのかもしれません。 最上段の2枚は寛永通宝収集界の第一人者の文源郷師の出品物。左はなかなかの珍品の面重文、右は穿内の鋳張りが原因で仕上げが偏った偏輪+斜穿です。錯笵銭としてはややマイナーな感じなのですけど、私以外に興味をお持ちの方がいらしたようでGETならずでした。 さて、2段目は見事な白銅銭。出品名は良恕白銅ということですが、これは水戸銭の勁永跳永濶縁です。改めて見ると結構濶縁で楽しい品です。水戸銭勁永は白銅質のものが散見されるようで、古寛永泉譜にも銅色黄色または帯白色とあります。私は追いかけきれませんでしたがこの品、白さも抜群に見えます。逃がした魚は大きい?? 3段目の左は文久永寶の背錯笵銭です。文久には錯笵銭が比較的多いのですけど、この錯笵銭も楽しい品です。これは砂笵崩れによるものでしょうか。 3段目右は珍品の江刺大頭通。寶下に鋳走りがあるタイプです。これは少ないですよ。これは大競争が起きましたので私はスルー。 最後は加護山細字の穿がおかしくなったもの。破穿とでも名付けましょうか。加護山銭が嵌郭をした理由が分かりますね。これは角棒を挿して仕上げるときの失敗が原因です。加護山銭の材質は柔らかいからこのような事故が生じるわけでして、その割に偏輪になっていないのは後で郭内をガリガリやった痕跡から、後天的に何らかの修正をしようとしたものと推定されます。そういう意味では純粋な錯笵銭ではないとも考えられるのですけど、加工そのものはかなり古いと感じますし、自然です。 |
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ヤフオクで落札した変なものたち。道楽ですね。上段は寛文期亀戸銭正字勁文の白銅銭。相当白い方ですけどあと一歩で純白に届きません。肉眼ではかなり白く見えるのですが、スキャナ撮影したりルーペで拡大すると意外に茶色っぽく見えます。これは表面に光沢のあるものによくみられる現象で、光の乱反射によって肉眼では実力以上に白く見えるのです。つまりそれが色が本来の色。(これでも文銭としてはかなり白いほうです。)悪く言えば磨かれて光沢が出た品は白く見えてしまうのです。 白銅好きを自負する私ですから、かなりの数の白銅銭を見てきましたが文銭の白銅には仙台の異書類のような完璧な純白のものはほとんどないのかな・・・と思います。何年か前に関西のSさんから送って頂き撮影した正字背文が目下のところNO1美白銭で、私の中ではこれを超える新記録はなかなか生まれませんね。しかも、母銭のように文字が繊細。同じスキャナーで撮影していますからその卓越性が分かると思います。昔、収集誌に文源郷氏が掲載した真っ白な文銭・・・あの色が本物ならすごいのですけど・・・見てみたいです。(5月20日:色調補正してみました。この方が実物の目視に近いです。) さて、もう一つは元文期亀戸銭大字の背文もどきです。16日の画像と比べてもらうとまるで雰囲気が異なる事に気づくでしょう?これはスキャナーとカメラの機能違いですね。光の当て方や対象の傾け方でこんなに雰囲気が変わってしまう。これこそ画像マジックです。手にした感じは絵銭の類ではありません。薄っぺらですけど銭座の作りです。贋作師はこんなに薄く作ることはなかなかできないのです。つまり、土台は通用銭です。そして文に見えた文字にはどうも左側にも何かあるみたいなのです。目を凝らしてみると「改」の文字のようです。ここで改めて考察すると・・・改の文字は削り出されたようにも見えます。面側に打ち傷がないので打刻ではなさそうなのでひょっとすると金属腐食技術・・・スタリキによるものじゃないかと思えてきました。(ドリル加工による旋回痕はなし。)もし鋳銭工の戯作だとすると砂笵に改の文字をスタンプしたことになりますけど・・・可能性は低いかな。百聞は一見に如かず、幽霊の正体見たり枯れ尾花。手間はかかっていますけど近代の悪戯でしょうね。 |
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5月17日【封印せし物】 世の中真実を知らない方が幸せなことはいくらでもあると申しました。ここにある刻印銭の類は過去数年にわたって私が目を背けてきた者たちです。きれいに拓本と分類名称が印刷されています。裏側にはやはり背の拓が印刷されしかも「浩泉丸」の名前まであります。実はこれ、元方泉處の石川氏から頂戴したものなんです。何かのご褒美でもらったもので、だから名前まできれいに入れてくれてあります。ただし、お気づきの方も多いと思いますがこれらは本来は存在してはいけない刻印銭ばかりです。つまり、贋作刻印の試し打ち銭なのです。私はそう聞いてこれらを受け取りました。一度だけHPにこのことを書いた事があったかもしれません。しかし、以降私はこれにかかわることはタブーだと決めて頂いたままの状態で小箱にしまい込み卓上に放置していました。(石川様、ごめんなさい。) 机の上が雑銭などで溢れかえっていたのを整理する過程で、勇気をもって箱を開けてみました。実はこれで全部ではありません。中には上棟刻印銭もあると思いますが、やはり怪しいものが大半です。ですから、私はこれらをもう一度眠りにつかせるべく、存在を公表します。この浩泉丸の包み紙を見たらOUTです。その昔、ある大家が贋作ばかりを一つの引き出しに大量に放り込んでいたとか。それを参考銭としてもらっていた輩がその贋作類を世に出してしまったことがあったそうです。そんなことは避けたいですね。刻印銭には手を出さない方が無難。真贋を見分けるのは極めて難しいというより無理なものの方がが多いのです。 |
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変なものを購入してしまいました。まだ手元には届いていませんが元文期亀戸銭の大字の書体で背に文のような紋様があるもの。これは本格的な贋作ではなく、お遊びの要領で作ったものと分かります。理由は文字周囲の凹みなんです。ちゃんとしたつくり?の場合、文字は金属で作って母銭に嵌め込みます。当然文字の周囲に凹みなどできません。これが現れる場合の1つは母銭の段階で文字の周囲を彫る。しかしこのように幅広く不均一にはなりません。普通は筋彫状になります。また、嵌め込みの場合は文字周囲を彫る理由もありません。したがって、このケースは文字を直接砂笵(鋳型)に書いたと思われます。それも彫刻刀のようなものではなくヘラの先端で書いた(押し付けた)事がうかがわれます。文字周囲の凹みは、その際の反作用で鋳砂が盛り上がったと考えられるのです。文字の先端の方が押し出した砂が多くなるので凹み幅が広くなります。(鋳型の凹凸は通常と逆転していますので頭を良く整理して考えてください。)文の点は鋳型の凹んでいる部分に書き込みますので、本来ならばもっと立体的に浮き出るはずです。そうなっていないのは仕上げの段階で強く研いだのでしょう。しかし、この文はかなり下手糞。点の傾きも通常と逆です。それに輪に喰いこますほど大きくする理由もない。ですからこの文字は当初、点の部分だけゴミくずなどで陰影がついてしまったのを、鋳銭工が発見し、どうせ廃棄するからと面白半分に字画を書き足したものと考えられます。だって贋作にしちゃひどすぎます。そこまで考えて贋作したのなら見事でしょうね。以上、私の推理です。信じるも信じないもあなた次第です。 |
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ネットでつい購入してしまった接郭。私のIDをご存知の方はなぜ私が接郭なんかに応札しているのか???だったかもしれません。理由は単純で花押のツノが長く見えたから。それに私は接郭は好きな雑銭だから。だって接郭はものすごく製作の良い覆輪強刔輪の不知銭ですよ・・・本来ならば・・・ですけど。昨年、1月29日の東北のSさんが発表された横長の花押に見えるもの・・・ただし、花押はあまり扁平に見えないないから正合するんだかどうだかはまだ分かりません。でも花押の角はほんのちょっぴり長い。名前を決めていなかったので、本当は格好よく「長刀:なぎなた」としたかったのですけどやはり天狗の方が分かりやすいですね。 |
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極印画像です。接郭の極印は横幅よりも縦が長い縦長葉脈の特徴がありますが、この極印は破損していたのか左右ともまるで盛岡藩の八つ手極印のような形状です。面側の書体については分類上は接郭の本体なんでしょうけど、寶足が気持ちよく開くなど若干小異がありますね。私もまだ勉強不足、接郭は面白いです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北陸のNさんから新寛永文銭と古寛永岡山銭伸寛の寛上削輪の画像を投稿いただきました。(ありがとうございます。)この寛上削輪は何気ない変化なのですが、意図がないとできない加工の一つです。鋳物を作る場合、砂笵(砂型)を使用します。母銭から型どりをするわけです。すると砂笵には凸凹が反転した形が現れます。文字の部分は凹、地の部分は凸という具合です。星紋や文字を加える場合は彫刻刀や爪楊枝でちょいちょいと加工できます。砂笵といっても海岸の砂浜のようなサラサラではなく、適度に(結構)粘り気があって固くなるので加工は簡単なのです。一方、削輪をつくる場合は砂笵の加工は実に困難です。凸凹反転なので凹部に盛り土をするか、何か他の異物を据え付けなければならないのです。しかもしっかり固定しないと鋳型はひっくり返されたりしますので、盛り土(異物)は動いてしまいます。削輪部分が寛上にぴったりくっついていることは、この加工がものすごく意図的であることを示しています。もちろん、母銭段階での加工もあると思いますが、母銭の加工は(金属ですからとても硬く)なおさら意図的になります。では何のための加工だったかというと、発見者の「吉野宏」氏は鋳走り(鋳つぶれ)防止のための加工ではないかとの見解でした。もしかすると出だしはそうだったものの途中から意図が変わったのじゃないかと私は考えています。じゃあ何かと聞かれれば・・・わからない。ただ、鋳造技術的なものにしては目立ちすぎます。それは職人としての美意識を傷つけます。それに鋳走り防止ならすべての文銭に同じ加工がされていなければおかしい気がします。ゲン担ぎとか、自己顕示とか何かの意図があると思うのですけど・・・分かりません。皆様もお考え下さい。 |
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また、秋田小様を落札してしまいました。今度は収集です。もう病気としか言えませんね。自重しているつもりが自嘲になってしまいます。自粛します自粛。 サイズは長径46.3㎜、短径31.05㎜、重量16.9g 秋田の故、村上師の所有物でもちろん英泉天保通寶研究分類譜の現品です。秋田小様としては美銭の部類なのですが背側が拓本墨で汚損されています。除光液を試してみましたがやはりうまくゆきません。墨は薬品系では絶対落ちませんね。極印がきれいに残っていましたので画像に撮りました。 |
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5月8日【白銅銭の墓場?】 68式ヲヤジ様が白銅の薩摩に悩まれているということで、私も恥を忍んで公開します。これで全部じゃないです。(一番上と下の2枚はおまけ画像)正直言ってかなりお金をどぶに捨てました。雑銭箱に放り込まれたり子供たちにあげたりして抹殺されたものも何枚もあります。騙されるのが嫌な人は絶対手を出してはいけません。真実を知らない方が幸せなものだって世の中にはあるのです。 |
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・本物度 100% ・白銅度 15% ・うさん臭さ 0% 通常の薩摩広郭よりはかなり白っぽい。蛍光灯下での現品の見た目はこの画像以上なんですけど、スキャナーするとかなり黄色くなってしまいます。自然光では黄色っぽいので、鏡面反射がかなり強い品かな? 実はこういう品が非常に多いのです。即売会の会場で薄暗い照明の下で見るとあら不思議白銅に間違いないと多くの方が惑うのです。欲をかかなければ怪我をすることはないんですけどね。 |
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・本物度 10% ・白銅度 75% ・うさん臭さ 90% 某入札誌で購入したもの。直前に某コイン商購入した薩摩広郭の白銅が幼稚なメッキ品で、頭にきて高額な価格設定なのに応札して落としてしまった。(二度あることは三度ある?)でもってHPに妖しいと嘆き書き込んだら、某氏から自分が昔作ったものかもしれないというお便りが届きました。製法についても教えてくださいました。マイクロスコープで超拡大すると色むら部分(地金露出)があったと思ったのですけど今見ると確認できません。(確認しました。) |
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・本物度 50% ・白銅度 80% ・うさん臭さ 50% 某コイン商でこれは間違いないと言われて購入。(コイン商がこいつはだめだと言って売るわけがない。)これにもかなり良い値段を払っています。散々調べましたが決定的否定材料がみつからなかった。ただ、銀メッキをかけたように白すぎて逆に確証が持てません。郭の部分やその内側に鋳不足状の欠けがありますがそこまで色むらなく完璧に白い。妖しいけれど傷つけてまで調べる根性なんか持っていません。 |
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・本物度 60% ・白銅度 85% ・うさん臭さ 40% かなりシャープな白銅銭。手ずれ感がほとんどなし。コインの即売会場でこいつを購入しようとしたとき、居合わせたYさんやHさんから妖しいからやめた方が良い、考え直せと散々たしなめられました。手にした感触が金質が違う感じがしたのと、古いコレクターの収集品だったらしいこと、金属の欠け部分がとても自然なので賭けました。もろいのは錫の特性でもあると自分を納得させていましたっけ。こいつも否定材料はありません。 |
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・本物度 70% ・白銅度 70% ・うさん臭さ 30% ネットで購入。少し黄色みがかった部分がありますが発色は自然でメッキの品ではないと思います。この出品者は比較的良い品を放出することで知られており、某大物古銭収集家(関西のKT氏)の遺品を売却処分していると私はにらんでいます。つまり、この品は某大家の旧蔵品ということになりますけど、絶対そうだとも言えません。 |
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・本物度 0% ・白銅度 90% ・うさん臭さ 100% ある方から無償で頂いたもの。真っ二つに割られていて断面は銀鼠色。表面はわざと汚されている感じです。重いし、手にするとひんやりします。これは銀の特徴なんですね。やや薄いのに25gもあります。見て手にとってわかる教材です。 ※黒いのは銀錆・・・硫化銀かもしれません。 |
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・本物度 100% ・白銅度 60% ・うさん臭さ 0% 佐渡白銅ともいわれますが、佐渡の明確な根拠、確証はありません。この1枚は私の所有品の中で最も白いもの。秋田の村上師に、某入札誌に当時超高額出品されていた本座広郭の純白銅銭について「あのようなものは本当に存在しますか?それに高すぎませんか?」と尋ねたところ「ありますよ、純白なら10万ぐらいしてもおかしくないよ」と言われて感心したことがあります。純白ではありませんが雑銭からみつけたこの1枚、皆さんならいくら付けますか? |
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・本物度 100% ・白銅度 10% ・うさん臭さ 0% 入札誌に白銅質と書いてありましたが拓本だけでは色が分かりません。そこで応札。蛍光灯の下で見ると実物はかなり白く、上の本座広郭白銅とほとんど遜色ないのに、なぜかスキャナーで撮ると黄色くなってしまいます。自然光で見ると輪表面は比較的はすべすべしているので黄色く見えます。蛍光灯の下では騙される品です。黄白色ですね。 |
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右は上から2枚目の白銅銭の超拡大部分画像です。私がこれをダメと判断した理由が見つかりました。解像度1200dps(通常の12倍)にあげて撮影したもの。文字のわずかな染め残しを確認。これは肉眼はもちろん20倍のルーペでも確認不能でした。このような芸当はスキャナー、マイクロスコープにしかできません。輪や郭の縁、側面や時には表面に空いた小さな穴の内部まで拡大して観察します。機械の性能などもありますのでこれだけで100%ダメとは断言できませんけど私的にはほぼダメです。その他にもメッキ系贋作は表面がのっぺりしやすいので砥石の目や表面のぼつぼつ穴がきちんと残っているか、染め残しがないかも確認します。贋作は化学銀メッキを薄く全体にかけてきます。手ごわいです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
侍古銭会のタジさんの投稿画像です。不知細郭手の覆輪ですね。若いのにいろんなところに出入りしておねだり上手なのかせっせか入手をされています。私が彼の年齢の頃は、がむしゃらに働かざるを得なくて、イライラを抑えるためにゴルフの打ちっぱなしに行ってました。スキーも趣味でしたが休みが取れず、土曜日夕方出発、オールナイトでスキーを楽しみそのまま帰ってくるという超人的なスケジュールで遊んでました。今では信じられないほど肉体派武闘派でした。 そういえば市のミスコンテストの司会なんかもやりました。当時はミスコンの末期で、他の市が水着審査開催をやめていったものだから(芸能界志望の強い)すごい子たちが集まったこともありまして・・・某元グラビアアイドルの娘さんとか、次代ミス〇〇港グランプリとか現役のミス〇〇(某国大都市代表)なんかもなぜかいて、さすがにスタイル抜群でした。受賞者3人と記念写真を一緒に撮ったとき、みんな背が高いのにハイヒールを履いているもんですから、私は捕えられた宇宙人のような写真にしかなりませんでした。今は遠い思い出です。余談の方が長くなってしまいました。 |
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上段の品はネットで見かけた方も多かったと思いますが、間違いなく反玉寶ですね。雑銭掲示板の4月11日に反玉寶小様の記事を書いたとき、この品は同時出品されていました。ただ、大きいんですけど状態が悪いので誰も応札せず、その後も不落が続き再値下げして出ていたので、研究のためと・・・言い訳しながら落としてしまいました。出品された方も真贋を気にされていましたから私も私なりに知りたくなったのですのです。 実は落とした後に「タジさん流除光液大作戦」を考えちゃいまして、美銭に仕上げて大儲けなんて、捕らぬ狸の皮算用。でもって24時間除光液に漬け込みましたが、ほぼ変化なしでした。除光液が100円ショップで購入した安物だったのがいけなかったのか、この汚れ焼け付いたように取れません。 さて、実物を見た第一感は悪くない。長径は50.07㎜、短径33.63㎜、銭文径40.67㎜、重量19.6g(出品者計測値ですけど正確だと思います。) 気になるのは状態が悪いことに加え、大きさの割に軽いのです。50㎜以上長径があるなら22g以上はあるのが常識。だから薄っぺらく感じるのですが肉厚自体は2.5㎜以上ありますので問題はないのかもしれません。ただ全体に浅彫・・・多分磨かれて摩耗しています。金質は問題なし。 側面は仕上げられていますが極印はなく、穿内は鋳張りこそないもののやすりで仕上げた雰囲気はありません。穿内も真っ黒なんです。結局、これは仕上げ銭ではなく、半仕上げ銭ですね。反玉に半仕上げがあるということは聞いたような気もしますが、確証はありません。 私の結論は・・・これは本物の反玉寶に間違いなし。その証拠に半切りの合成写真をつくりました。私の所有する鋳放しと小様の内径銭文径とぴったり重なります。表面は火を被ったのか黒い固着物が喰いこんでいます。どなたかがそれを取ろうとしたようです。 ついでに言うと側面の仕上げはおそらく後で行われたものじゃないかしら。仕上げられたのは最近ではないと思います。時代はあります。和やすりの目は感じられないものの近代的な仕上げではありません。 だいたい仕上げ銭に極印がないのはおかしいし、側面が磨かれていても穿内が仕上げられていないのも理にあいません。銭の作成工程では穿の仕上げが先で研ぎが後なんです。つまり、こいつは罹災品の変造品でしかも失敗しています。もったいないですね~。ただ、土台は良いものです。あくまでも参考品ですね。欲しい方いらっしゃいますか?いない?、そうでしょうね。 木村昌古堂が反玉寶を挿しで東京に持ち込んだ時、売れなかったそうで頭にきて磨いて鋳張りをとって何枚か売りさばいたとか・・・。その原品ではないと思いますが、少なくともオリジナルのものじゃないような気がしますがどうでしょうか? |
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秋田の銭座は元文期に寛永通寶を鋳造した川尻の銭座と幕末期から明治初期に密鋳を行った阿仁銅山系の加護山座がありますが、秋田小様は間違いなく加護山系だと思います。こんなおもちゃみたいな小さな天保通寶をどうしてつくったのか・・・発覚するリスクを感じなかったのか実に不思議です。本座広郭をもとに鋳写を重ねたと推定され、1回写しから4回写しまであると推定しています。4回写しは45㎜台で、銭文径は38㎜台になるはずですけどこれは3回写しと思われます。加護山ですから嵌郭の技術は持っていたと思われますが、秋田小様の郭幅はバラバラです。秋田小様には面側郭が背側に凹んでいるような物が多くみられる気がします。これは郭の鋳張りを除去する際、面側から角棒のようなものを強引に打ち込んだんじゃないかと思うんですけど・・・あくまでも推測、妄想ですね。私は会津濶縁、秋田小様、久留米濶縁はなぜか気になって見つけると入手したくなる性分です。もともとは白銅好きを公言していたのですけど、天保通寶に白銅銭はめったにないからいつの間にか赤銅好きにもにシフトしてしまったようです。しかも、これらの天保銭は大概出来が悪い。でもその方が密鋳銭らしくて私にとっては魅力的なんです。どうです、可愛いでしょう・・・え、ちがう、そうかなあ。しかし・・・秋田小様は高いんですね。手放して売るときに絶対苦労するんです。やめようやめようと思いながら手を出してしまう私は大バカ者です。 |
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上段は大分貨幣研究会に対して関東のA氏が生拓交歓として出品した昂通背星です。古寛永泉志における評価は「珍」で絶対的な珍品です。私銭・初期不知銭の有名品と同格以上の扱いで、そのグループ銭以外でこれと同じ評価は坂本大濶縁ぐらいで、数の少なさだけでなく品格まで評価として問われます。特徴は岡山銭の良恕に似た書体で寶王末画と尓初画が連なる事。別名良恕大字ながら、今は仮に水戸銭に籍を置かれています。かつて仙台古泉会のH氏からお見せ頂いたことがありましたが、その直後東日本大震災の津波で一度行方不明になり、必死の捜索で泥沼の中から見つかったとか。その品も目鼻立ちのはっきりした美銭だったと思いますが、この拓本もきれいですね。退足寛気味に寛は俯して足の分岐位置が下がり、通の辵は踊るようにうねり永は千木永気味に仰フ永になります。珍品なのでよからぬ物もあるようでして、背郭がこの拓図以上に細いものは「寛永堂」による贋作を疑って下さい。 猿匍駒は寛永の書体が鉄銭の虎の尾寛なので、新作だと思っていましたが、かなり本格的なつくりです。同じものをかつてネットで見たことがありますが、絵銭としては銭座の基本を守っていて上作です。(穿が駒側の方が広く、きちんと表側になっていますし、近代銭の香りがあまりしません。)それでも面文が新寛永の鉄銭ですから時代的にはそんなに古くないと思います。猿匍駒は養真亭の畫銭譜や昭和泉譜に「猿匍ヒ駒」と名付けられているため「さるはいごま」と呼ぶらしいのですけど「匍」の文字は匍匐前進ぐらいにしか使用しませんのでほとんどなじみがありません。はうなら「這」の方が一般的なんですけどね。(昭和絵銭図譜は猿這ひ駒でした。) |
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5月1日【絵で解く丁銀・豆板銀の鋳造】 貨幣64巻第2号が届きました。そこにあった花野韶氏の記事はなかなかの力作で感心しました。金属を水中で鋳造する技術とか、溶解した銀が空気中の酸素に接することで酸化が急激に起こり、表面があばた面になる・・・それを防止するために藁を燃やして酸素を遮断するなどなど・・・。なるほどそういう考えもあるのか。 私はこのHPに、丁銀水中鋳造は誤りと書きました。受け売りですけど、十分に納得していました。一方で、思考を停止していた自分を恥じましたね。しかし、疑問が残ります。 1.溶解した金属が水分に出会うと水蒸気爆発を起こし大きな事故にならないのか。 2.水中鋳造が可能だとして、水中では丁銀の表面にできる凝固時の凹みが説明できないのではないか。 水蒸気爆発は冶金についての資料には必ずふれられています。わずかな水分でも水は急激に気体になって容積を増やすので爆発的に熱湯や溶解した金属を飛び散らせます。砂型の乾燥が足らない場合でも水蒸気爆発は生じます。この件については古代の百科事典「翁草」にも記されていて、すでに固まり始めている銅を鉄槌で割った後に「その出来立ての割銅を水中に入れて冷ます作業」でさえ水蒸気爆発を起こすのでひどく危険だったようです。したがって常識的に考えてもさらに危険な行為(溶解した銀を冷やさずに直接水中に投入すること)を江戸時代に行ったとはにわかに考え難いのです。とはいえ私は金属の専門家でも古文書が読めるわけではありません。これ以上は冶金の専門家の出番ですね。 ※昨日、酔っぱらって大変失礼な記事を書いてしまいました。(申し訳ございません!)花野氏の説は読めば読むほどよく調べたものであることが分かります。私の知らない世界がまだたくさんありそうです。鋳造金属の性質についてどなたか詳しいことをお教えください。 |
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掲示板へのアンサー記事です。加護山の母銭だと私が勝手に思っているもの。何年も収集をしているくせに母銭の鑑定はいまだに自信がありません。 一番上のものは繊字狭文様の母銭と判断したものです。磨輪されていてかなり使用感があります。方泉處の新寛永通寶図会に掲載されている原品で、泉譜に「比較的大型のもの・次鋳もある」と記載されていていました。つまりこれを初鋳銭と判断していたのです。しかし、実物を観察したところ、通用銭サイズに磨輪されていること、内径の大きさ、銅質、やすり目、研ぎなどから改造型の母銭として考える方が自然であると総合的に判断しました。 次鋳があるとすればこれと同じサイズの通用銭があるはずなのですけど、繊字狭文様そのものが少ないので、いまだに出会えていません。というより無理のような気がします。改めて観察するとこの繊字狭文銭の文字・銭体の大きさが伝わってきませんか。 中段のものはオークションネットに出品された加護山の細字様母銭。細字様の初鋳のものと内径がピッタリ同じなので異論がある方もいらっしゃると思います。とくに背の出来が悪いのが気になりますね。しかし、郭内は丁寧に仕上げられていますし、銅質が普通の加護山と違いやや白銅質気味です。上の繊字に比べると小さく見えますが加護山銭細字としては決して小さくありません。それ以上のことは私もわかりません。100点満点の母銭ではないと思いますが次鋳のための改造母銭なら納得できます。 最下段はオークションネットにかつて出た細字嵌郭の原母銭。オーラが全然違いますね。12万円で出品されて50万円で落札されたとか。私も挑みましたが軽~く吹っ飛ばされた感じ。身分不相応でした。これは芸術品です。 加護山は民間密鋳のようなイメージがありますが、秋田天保にもかかわっていて、明治維新後にも鋳造を勝手に続けて政府から問題視された経緯があったと聞いた気がします。秋田天保の母銭は、天然の白銅や黄銅を使用している物が多く、砂目が細かくてつるつるした雰囲気があります。これはまさしくそう。加護山は文銭の細字をモデルにしていますけど、原母のつくりは別物で嵌郭をした背文刮去の改造銭ではなくピカピカの新規作成・・・精巧なコピー作という感じです。これから見ると上の母銭としたものはかなりレベルダウンしますね。 ※一般に鋳写母銭の場合、母銭の方がほんの少し狭穿になる傾向にあります。鐚銭について学んだ方は郭抜けという言葉をご存知だと思います。砂笵という鋳型の中に注ぎ込まれた溶銅は冷えるにしたがって容積を小さくしますが、鋳型があるが故、鋳型より狭穿にはなれないのです。原母から作られたものなどもありますし、やすり掛けなどにより変化もありますので例外もあると思いますが。参考にしてください。 |
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土佐額輪は案外難しい。先にも書きましたが天保通寶研究家の瓜生氏でさえ土佐額輪本体母銭と水戸接郭の母銭を混同しています。だから水戸接郭・大字の土佐鋳造説なんてものもありますから。(ちなみに水戸大字というものも不思議な天保銭で、面側はオリジナルなんですけど背はどう見ても写し・・・縮小が激しいんですね。水戸藩銭はあくまでも称:水戸であって確証的な裏付けが何一つない気がします。) 画像上段は最近見かけた典型的な土佐額輪本体(濶縁)。美しかったので欲しかったんですけど、放置状態だったので最期まで追いきれませんでした。 覆輪、嵌郭、額輪、接郭の様子がすべて観察できます。 覆輪によって輪幅が広く少し横太りになっています。また、覆輪圧力で郭が反郭状に反り返っています。 それを補強するために行ったと思われるのが嵌郭で、面側に痕跡がうっすら残ります。 額輪は母銭を覆輪する際に輪の外側に金属のタガを嵌め込んだため、輪の外側が盛り上がった状態になったと思われるもの。輪が額縁状ということでして、通用銭においてはあまり残されていないものも多いのですが、画像では輪の内側が凹んで陰起しているのが分かりますでしょう? さらに文字全体が縮小して寶がわずかに輪から離れます。つまり接郭の特徴も持っているのです。ただ、本場?の接郭よりはその特徴は弱く、とくに背の當字においてはほとんど離輪しません。 比較のために下段に一般的な額輪の本体銭の画像を置きました。土佐砂目が粗いとよく言われますが砂抜けは今一つながら本体銭はわずかですけど粒子は細かい雰囲気もあります。肥字とはちょっと違うんですね。ですから4月26日の下から3番目の画像のようなものも存在するのです。(実物はすこぶるの上ものです。) 私は母銭コレクターではないので(と、いうより資金力的に集められないので)よく分からないのですが、土佐の額輪母銭には額輪や嵌郭の痕跡を確認することができましたが、接郭の母銭にはその痕跡がほぼ確認できません。その金質も額輪は緻密な白っぽい黄銅質でしたが接郭は黄褐色で違います。土佐額輪母銭は改造原母的であるのに対し、接郭母銭はあくまでも改造原母銭からの鋳写母銭なんですね。似て非なる額輪本体と接郭・・・興味が尽きません。 |
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4月26日【本物は誰だ!:額輪・接郭編】 額輪や接郭などは雑銭とされてますけど、覆輪刔輪や嵌郭など不知銭鋳造のあらゆる技術が集約されているものすごく良いサンプルなのです。ただ、斬新なテクニックはあっても、肝心なクオリティがいまひとつで、数も比較的見られることから人気がありません。しかし、このクラスを正確に見極められる人は少なく、私自身もしばしば見誤ったり、目を疑うことも起きるのです。4月3日に天保通寶段位制度の改訂版を書きましたが、この見極め技術は本来初段以上のものと考えています。チャレンジしてみてください。ものすごく意地悪で難しい画像ばかりですから。 ※ノーヒントじゃ難しいので極印画像と計測値を付けました。これで難易度はがくんと下がります。 |
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4月24日【喀龍さん大丈夫?!】 喀龍氏は収集誌上で主に近代銭等に関しての記事を連載されています。ユーモアとウィット、自尊自戒に自嘲を交えた独特の世界観にあふれた文章で、私にとっては専門外ながら興味津々で拝見をしています。そんな喀龍氏唯一の天保銭コレクションについての記事が掲載されました。ネーミングの「不知ウルトラ大濶縁」とは喀龍ワールド全開です。ご本人も”本筋からはずれた品”と断っているように、はずれもはずれ、大外れの天保銭です。だいたいM78星雲からやってきた・・・というジョークは昭和40年代以前生まれの世代にしか通用しませんよ。(私?・・・しっかりと響いてます。)このサイズはどうみても通用銭ではなく絵銭。時代も大正以降で多分昭和以降じゃないかしら。喀龍さん、20万円でお求めになられたらしいのですけど、売られた方は指2本出したということで2万円、ひょっとしたら2000円のつもりだったんじゃないかしら?それでも欲しいから求めてしまうのがコレクターの悲しい性。かくいう私も失敗のたびに猛反省をするものの、入手の快楽を求めてふらふらしてしまう性分でして・・・。喀龍さん、大丈夫ですか? |
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4月23日【秋田小様狂奏曲】 ネットに出た秋田小様です。画像で見る限り相当小さい。輪一つ分以上縮小のミニサイズです。秋田小様で45㎜台のものは村上師の自慢の愛蔵品をかつて保有していましたが、乞われるままに分譲してしまい、心にぽっかり穴が空いてしまいました。ここ数年は仕事がとんでもなく忙しい中、両親の終活に奔走し、台風も竜巻も停電も洪水も来るは、猫アレルギーで体調不良に陥るはですっかり参ってしまっていましたから。猫アレルギーは克服できてないものの、ウィルス騒ぎで時間がものすごくできました。収入にマイナスの影響がないわけではないものの、仕事がなくなる状況にはない分だけ私は幸せです・・・というわけで更新回数が増えています。 やっていることがちぐはぐで変ですけど、画像を見てこいつは小さいぞ・・・と再び色めき立ち、途中まで追いかけましたが、買い物に出かけたすきに逆転を許しそのまま終了。逃した魚は大きいかもしれませんが、出費がなくなり幸せと考えましょう。『多分、あの小様は46.0㎜以上に違いない、そうだ、そうに決まっている、そうなんだ』・・・呪文をかけ続けています。 |
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4月22日【贋作の贋作??】 加賀千代の代表作の方字の大錯笵銭。非常によくできていますが、天保仙人様宅で拝見したものと雰囲気がだいぶ違います。こちらは砂目があまり感じられない青銅質といいますか真鍮質のものを着色したように見えます。本物の(と言っても偽物なんですけど)加賀千代の傑作は砂目がきれいな未使用の黄銅色なんです。加賀千代に職人として使われていたO氏の関与が強く疑われるつくりで、同じ系列の作品に水戸虎銭や水戸系の母銭類や無紋稟議銭類などもあります。初期の加賀千代には下手糞なつくりの真っ黒なものがあるとも・・・。加賀千代は贋作者ではなく、プロデューサー兼ブローカーだったんじゃないかなと私は思っています。それにしても贋作の贋作まで出現させるなんて加賀千代はやっぱり天才だったと思います。 |
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4月21日【背陰文の寛永】 これは焼け銭。こういった類のものに手を出すと先師に叱られます。銭が重なった状態で高熱にさらされると、背側にある銭の文字が判子のように押され残ることがあります。ですから文字は必ず鏡文字になります。つまり裏返し。その証拠に面と背の書体が異なりますし角度もずれています。このように背が陰文になる事例はほかにもあります。安南寛永の隆徳手に見られるもので、鋳型を水平に置いたときに生じます。溶解した銅は冷えるにしたがって体積が縮みます。その際、肉厚の部分ほど個体になるのが遅れます。したがって肉厚の部分は他の部分が先に縮むにしたがって溶解した銅を奪われ、結果的にその部分の鋳縮みが激しくなります。丁銀の中央部が凹んでいるものが多いのはこれが理由。それを避けるため、寛永通宝の多くは鋳型を縦において上部から圧力(重量)をかける形で鋳込みます。これを縦入れ仕込みと言います。 最後に残った可能性・・・火災の際に銭が地面に落ち、埋没した状態で火に強くあぶられた・・・その結果、前の解説と同じ現象が生じるのですが、落ちた場所が粘土質のものなどの諸条件が必要になりますので、ケースとしては激レアでしょうか? さらに稀なケースとして、写った文字は陰文であるものの裏返しになっていないことがあります。これはどう考えても自然にできない。今の結論としてはスタリキという金属腐食技術を使った贋作・戯作であろうと思われます。まあ、このようなものは製作を観察するために面白半分で集めるのがせいぜいで、良い子の皆さんは高額なお金を払ってはいけませんよ。 |
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4月20日【スキャナーVS写真VS拓本】 4月15日の長郭手はスキャナー、写真、拓本の3つが揃いました。それぞれを見比べると一長一短があります。スキャナーは色彩を記録として残せ、砂目ややすり目等の加工痕跡も表現できます。また比較的、画像のゆがみも少ないので正しい姿を伝えることも可能です。欠点としては接写であるが故古銭の色調、光沢によって非常に見ずらい画像になる事があり、また、光源が一方向からに限られるため、見た目の印象が異なることも生じます。画像の左がスキャナーのもので、光源が下から上になっているため寶下のえぐれの印象が強調されています。本品は寶下のえぐれが強烈なので好都合だったのですけど、実物は輪全体に加刀が及んでいます。写真はスキャナーと性能そのものはあまり変わりませんが、光源を自由に設定できるというメリットがあります。右画像は「銀座」に掲載されたもので影の位置から光源が上方にあることがわかります。欠点は正面からの撮影でないと画像にゆがみが生じます。画像をよく見ると全体的に下膨れ気味で、下からあおり気味に撮影したと思われます。そのため全体的に寸詰まり気味になり銭の下部が強調されています。中央の画像は長径サイズを合わせ貼り合わせたもの。寶足、下部の輪が協調されて大きく(長く)写っています。魚眼レンズ的な効果もあると思われます。寶の底が1㎜ぐらいずれているのが分かると思います。 拓本は色彩や肌の様子の表現はできませんが、陰影のみを写すため文字の特色を良く表してくれます。古銭を学ぶためには格好の資料であると思われます。色彩の表現以外の欠点では古銭には凹凸があるため、それに合わせて拓を打つと歪みが生じやすいこと。とくにこのように深彫り深淵のものにおいては拓本紙がたわみやすく、輪際部分が強調されてしまう傾向があります。拓本の方が横内径が少し膨らんで大きく、寶足も少し長い印象を受けると思います。古銭はほんのわずかな違いを見きわめる趣味なので、こういった歪みは天敵になります。ゆがみ、撮影角度などによって見えないものが見えてしまうこともままありますのでご注意ください。 ※4月13日の覆輪様画像の正体 輪に強い打ち傷による切れ込みがあり、その先が磨かれた感じになっています。画像の魔力ですね。 |
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入札誌「銀座」で久々にに落札。少なくとも5年は買えていませんでした。その間ずっと無償でカタログを送って下さっておりまして非常に恐縮です。今回の支払いでカタログ代の足しになったかしら。 さて、この入手品に該当する拓本はないかと探していましたが不知天保通寶分類譜下巻の166P-40 長郭手覆輪強刔輪直足寶深淵にほぼ合致。おそらく原品だと思われます。(寶周囲の掘り下げ方がすごいです。) 背輪の太細、天尾の先にある鋳だまり・・・はじめは似ているなあ、兄弟かもなあ・・・とは思っていました。と、言うのも拓本にしかない鋳だまりのようなものがあるからです。通尾の先とか・・・。しかし、拓本はパーフェクトに実物を写すわけではありません。 観察の結果、泉譜原品であるとしか考えられない証拠が続々と見つかりました。 ぼやけた花押、通辵頭の小さな鋳だまり状の爪、保人偏の中央部にあるヒゲ状の小さな鋳走り、面左下の輪の小さな欠け瑕・・・決め手でしょう?。 これで収集品の格がワンランク上がりましたね。これだからこそ泉譜原品探しはやめられません。 長径48.5㎜ 短径32.4㎜ 銭文径40.4㎜ 重量19.0g |
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大阪のRさんから投稿を頂きました。その中からものすごく気になる2つを・・・。 なんだ、ただの久留米深字じゃないかと思うことなかれ長径が49㎜を超えるのです。 長径49.1㎜ 短径32.9㎜ 銭文径40.48㎜ 重量17.0g 文字細く郭もきれいな方形で、ところどころ鍍銀のような痕跡が残ります。深字の大型銭は私も所持していますが、やはりうっすら鍍銀されているように見えます。ただ、装飾にしてはいくら何でも薄くてムラがありすぎで、これはやはり何らかの意図・・・例えば砂抜けをよくするための加工・・・剥離剤の雲母?錫?・・・なんじゃないかしら。 大型銭の存在は大川天顕堂師もふれていたらしく、それもまたうっすら鍍銀されていたようです。離郭の母銭にもこのような鍍銀痕跡が見られることから何らかの鋳造技術なんじゃないですかね。この深字、ネットの雑銭の中からひょっこり出てきたようなのですけど、なかなか幸運ですね。これで深字に大様銭が稀に存在することがほぼ確定です。 一番下の画像は、南部の民鋳じゃないかということで添付された画像の中の1枚なんですけど、思わず目がとまってしまいました。これ・・・ひょっとしたら覆輪の加工痕跡???だったとしたら土台は本座で、母銭にするための覆輪の様子なんじゃないかと勘ぐってしまいます。ただ、今の情報じゃ果たしてこれが何者なのかすら分かりません。(上の深字とは関係はありません。) もう少し詳しい資料を送ってもらえるように声をかけてみます。 |
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4月12日【反玉寶】 私がはじめて反玉寶について制作日記で語ったのが2011年、収集誌上入札で鋳放し大様銭を入手したのが2013年、Nさんから反玉寶小様を分譲していただいたのが2015年です。記事をたどってみると私はこの天保銭についてずっと胡散臭いと思い続けてきたことが分かります。 木村昌古堂が大量発見して、東京に大量に持ち込んだもののちっとも売れず、鋳放し銭を仕上げ銭に変造して売ろうとした話が残っているなど始まりからしてきな臭い。その後、この天保銭に仕立て上げられて流通している通用銭が存在していることが発見されると、鋳放し銭が母銭ではないかという噂が立ち人気沸騰。古泉家必携アイテムとなり、後に貨幣手帳でも覆輪刔輪の代表銭として紹介され私も記憶することになります。小笠原白雲が室場銭であることを書き残していることを澤井師などが再発見し泉壽で発表。しかし詳細については明かされず、風貌からは浄法寺じゃないかとかとも・・・。さらにはこの天保銭、某資料館から盗難流出したものじゃないかとか、秋田の村上師が毛嫌いしていたとか、とにかく変な情報・うわさが絶えないのです。 雑銭掲示板に反玉寶小様について書き込みましたので、改めて反玉寶についての関連記事を調べてみました。その上で手持ち画像で銭文径の比較を初めて行ってみたところ、反玉寶の鋳放し銭と小様の銭文径、内径が見事に一致したのです。実は今まで確認したことがなかったのです。内心では怖かったのかもしれません。木村が反玉寶の小様をもとに作り上げた作銭でないことで一安心。それにしてもどうしてこんなに大きさが違うのでしょうか? 参考までに制作日記にあった反玉寶に関係した記事を記します。読み直してみてください。 2011年 6月23日 2013年 3月14日 3月16日 2014年11月19日 2015年 3月15日 3月16日 11月18日 2016年 2月16日 6月 2日 6月 3日 2017年 2月 8日 2月10日 5月30日 8月12日 2018年11月27日(参考:反玉寶と同じ特徴を持っていますが、銅質、製作が異なる不知銭。) 2019年12月27日 |
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侍古銭会のタジさんからの一枚。赤茶けた天保通寶で南部肌の名称の品は私も1枚保有しています。では、何をもって南部なのかが実はわからないのですけど、言われてみるとそうなのかもしれないと妙に納得しています。おそらくですが、かつての石ノ巻反玉寶の仕上げ銭の鋳肌に少し似ているからなんじゃないかしらと思っているのですけど違いますかね?石ノ巻は仙台だろうと突っ込まれてしまいそうですが、現在は南部藩の室場ということなので・・・。 ただ、半玉手と雑銭の会の工藤氏が名付けた天保銭は白銅質系ですし、反玉寶そのものもあまり赤くないのです。反玉寶小様と呼ばれるものに赤いものが散見されるのですけど鋳肌は微妙に異なります。山内とも違うし南部の初期銭とも多分違う・・・謎だなあ。 下段は入札誌銀座に出ていた不知天保銭。再刔輪という出品名ですけど正しくは覆輪強刔輪宏足寶細縁とすべきでしょうか?天保通寶にはときどき覆輪が外れたような細縁の不知銭を見かけるのですけど、これがまさしくその典型です。不知天保通寶分類譜には刔輪の手法を施した類として主に掲載されていますが、49㎜の長径を超えるものが一つもないところから、この天保通寶もかなりの銭径縮小銭であると想像しています。 ところで・・・銀座に水戸揚足寶が出ていまして15万円で落ちていました。消費税・送料手数料込みで16万7000円・・・安くはないけど自慢できる逸品でした。あれは実に少ないんですよ。 |
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4月になって狂ったように更新しています。それだけコロナの影響があるんでしょう。外に出られないし、出張や会議や研修はなくなるし・・・昨年まで身内の介護もあってそれどころじゃなかったのですけど、時間の余裕は少し増えたもののお金の方は出てゆくばかり。まずいな・・・と思いながらなかなかやめられないのが病気というものでして・・・。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
収集の入札で入手した品。時代はそこそこありそうに見えますが、所詮絵銭です。遊行(ゆぎょう)念仏銭の名前で出ていましたが、書体、文字の向きが異なりますので(分類名は違うし)時代は降ると思います。念仏銭には文字が横倒しで郭の周囲をめぐる車念仏と、すべての文字が正しく上を向く真向念仏、文字の下方が郭方向を向いている遊行念仏があります。この絵銭は文字の上方が郭の方向にありますので遊行念仏の逆です。ちなみにこの絵銭、念仏側が面で寛永が背のつくり。これは信仰的に正しい作りです。 ところで・・・書信館出版社から送られてきた古銭のフォルダーのホチキスのとめ方・・・私と同じ方法でした。私は古銭店の店主の方法をまねたのでオリジナルではないのですけど今まであまり見たことがなかったのでちょっとだけ驚きました。左にホチキスのとめ方の例をあげましたけど皆様はどの方式でしょうか? ちなみに私は左下のとめ方。寛永銭のような軽くて小さい古銭の収納には都合がよく、簡単で針をとめたまま出し入れも可能なのが良いところ。欠点は文字を書く位置に針が被ること。 文字が書きやすいのは下段中央。ただし、衝撃を与えると古銭が下に脱落しやすいので、重い古銭には向いていません。最近アルバムを整理していなかったので、卓上がむき出しの古銭だらけになってしまっています。反省。 ※加護山細字狭文様が格安で出ていて飛びつきました。確かに文字は細く見えますが・・・確認してみたらただの細字様。ネットを含め今年3回目の失敗・・・大丈夫、傷はまだ浅いぞ! |
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コロナウィルスによる影響は皆様いかがでしょうか?研修や会合がすべてキャンセルになったので私はかなり自由になり、昨日は半年ぶりにアルバムを整理しました。医療福祉に関与していますので感染症の怖さは身に染みています。施設や病院は感染症一発で1000万単位で損失が出ますが、自己責任にされてしまう上に休めず公的な保証がほぼ期待出来ません。報道が院内感染だ…とやるたびに、院外から患者が持ち込んだ結果なのに、かわいそう…と思うばかりです。 さて、滅入った気分を癒すのはやはり古銭に限ります。 上段は侍古銭会のタジさんから・・・。天上などの輪際に強烈な加刀痕跡の残る長郭手です。寶足もちょっと長めですし、通頭にも加刀が見られる佳品です。本当は覆輪だったんだろうなあ…と思いますねこれ。 下段は久々登場の関西のSさん。 長径48.54㎜ 短径31.55㎜ 銭文径40.22㎜ 重量17.81㎜ 足の長い張足寶で、一時期はよく見かけたのですが最近は少なくなってきたように感じます。3枚組の中の1枚だったそうで、こんなのありましたっけ?相変わらず目が利きますね。白銅質の美人だそうです。 同じ書体で濶縁になるものもあると思いますが、これはかなり小ぶりになっています。 不知銭は楽しいですね。外に出られないからなおさらです。 |
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4月8日【本物は誰だ!:本座VS不知銭編】 先日の秋田小様シリーズは初めにサイズ・ヒントなどを載せてしまったので簡単でした。今度は目だけで勝負してください。正直言ってとても難しいと思います。なお、鑑定結果については異論がある方がいらっしゃると思いますので、不知の定義は銭文径に異常がみられる場合、または極印、製作、重量などが明らかに本座と異なるものとします。 さて、果たして何枚が不知銭でしょう?それは何番ですか? |
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4月7日【久留米正字濶縁の文字周囲】 久留米正字濶縁はどちらかと言えば雑銭なのですが、天保通寶の製作を学ぶためには格好の存在です。右の画像を見て久留米だと即座に答えられる方は良い目をしています。久留米は何かと文字周囲に溝を掘るのが好き?なようで、拡大観察すると文字と同じぐらいの幅で文字周囲の窪みが見られます。秋田小字にも多少その傾向はありますが、久留米には遠く及びません。右の天保は天上にも強い加刀が見られます。 画像は正字濶縁のもので天上に強めの刔輪が確認できます。(輪の加刀修正は秋田小様でも観察できます。)久留米正字濶縁と言えばそれまでですけど、不知広郭手覆輪刔輪天上強刔輪赤銅質と表現すれば人気爆発するんじゃないかしら?妄想ですか? 文字周囲が盛り上がるメカニズムとしては、母銭を押し付けた際の反作用(鋳砂の押出)、引きはがす際の引っ張り作用も多少考えられるのですけど、刔輪痕跡を見る限り久留米は意図的な強い鋳ざらいであることが伺えます。久留米の母銭は見たことがないのですが、たぶんそうなんじゃないかな・・・と、思います。 なお、鋳造型をつくる工程では、母銭を砂型にハンコのように押し付ける・・・では鋳砂の空気の逃げ場がなくなり失敗が増えます。秋田の場合背の出来が悪いので、おそらく背側は固めた鋳砂の上に押し付けたものなんじゃないかしら。一方、面側は銭の顔であることからきれいに作る必要があります。空気の逃げ場を作るため、化粧砂(細かい分離用の砂)を振るいかけた後鋳砂を上からかける・・・のが一般的な銭の鋳造の方法です。会津濶縁のように文字が陰起するような天保通寶は、化粧砂が粗かった(のか使用しなかった)ものではないかと考えています。 |
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4月6日【本物は誰だ!:秋田小様編】 秋田小様なんて簡単に見分けられる・・・と豪語する方。チャレンジしてみてください。 ここにあるだけの情報で銭種まで全問正解出来たら、相当な力量です。 → 正解はこちら |
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冷やかしで応札していたつもりの秋田小様が落ちてしまった。驚きの2万円未満です。今や新型コロナで冷え切っているので古銭どころじゃないのかもしれません。個人的にはすべての会合や研修担当がキャンセルになっているので、日中にできる仕事時間がものすごく増えてます。(やるべきことも増えていますが・・・) 余計な仕事の子供の送迎が本日のお仕事。日中11時間の東京へのアッシー君です。人込みには絶対いけないので住宅街の中をひたすらウォーキング。先週は午後から雨で車に缶詰めでしたので本日はまだ気楽。石神井川の桜はきれいでしたが、川を眺めていたら近隣で3~4人患者が出たとヘルメットを被ったおじさんが教えてくれました。クワバラクワバラ。この品は村上師の旧蔵品で、英泉天保通寶研究分類譜の968番原品。その他、収集にも掲載されていると思います。赤い天保銭は好きで、久留米正字の類は見かけると拾ってしまいます。秋田小様も好きなんですけど、こちらは久留米の10倍以上の相場なのでなかなか手はでません。村上師の書いた記録ではこの天保は長径47.63㎜、短径31.34㎜、肉厚2.04㎜と秋田小様の中ではやや平凡な中様サイズです。極印は打ち損じなのか破損なのかよく分からず、異極印の名称がつけられていました。その他にも三連接、欠頭通の名前も札に見えます。 ところで・・・秋田小様によく似た赤い天保通寶の久留米正字の類と秋田小様の違いを皆様ご存知でしょうか。価値的に雲泥の差がありますので、間違ったらひどい目に遭います。改訂版の段位制度に入れておいても良いのですけど・・・分かりますか?大きさだけではありません。秋田小様には大様までありますので。(答えは・・・しばらく秘密にしておきます。考えてください。) ※自分でも自信がなくなってきました。 |
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4月4日【魚尾寶】 古寛永通寶にもし序列をつけるのなら、太平手、開元手、永楽手に二水大寶を加えたものが四天王。それに続くのが魚尾寶だと思います。魚尾寶の名称は、寶足が魚の尾のように左右に開く様からきており、吉田広永のように魚尾寶の古寛永も存在しているのですけど、この名称はなぜかこの一種に独占されている感があります。それだけ、この古寛永の人気、知名度は抜群なのです。そんな魚尾寶がネットにひょっこり現れたから大騒ぎ。このような珍品はまず見ることも難しく、いにしえの大家が保有していた品が世に現れたとしか考えられません。25万円以上の価格で落ちていましたが、その数倍してもおかしくない珍銭種です。出品された品は24.4㎜とやや小型。古寛永としては普通のサイズですけど、魚尾鳳は濶縁で25㎜を超える大ぶりなものが多いのです。しかし、かなりの兵どもが競ったもようです。 |
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4月3日【改訂版仙人への道】 仙人への道の段位制度を自分なりに修正してみました。個人的な考えでの修正ですので妄想です。収集の目標と言っても過言じゃないのですが、私の場合母銭は収集の中心においていないので外したのが大きいかも。9級の薩摩広郭と本座広郭の書体の違いが分かる・・・とか8級の薩摩広郭の書体の大まかな分類、7、6級の高知額輪の違いの理解はかなりの難題です。大筋は変わっていませんが目標課題が違います。ぜひチャレンジしてみてください。私?・・・やはり5段どまりです。 |
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福岡離郭10種収集は大変ですけど曳尾10種収集は(金銭的な問題を別にすれば)さほど困らない課題です。画像の曳尾は未使用肌の残る美銭で細郭ぶりが素晴らしい。(と勝手に思ったわけでして・・・) 長径48.8㎜、短径32.3㎜、銭文径41.1㎜、重量17.1g・・・曳尾はあまり真剣に計測したことがないのですけど多分かなり小様です。曳尾はどちらかと言えばおおぶりのものが多く、中には50㎜を超えるものも存在します。10枚集めれば必ず何かが違う。しかも書体は変態的におかしい・・・古寛永の異永でおなじみの長門の鋳造なのです。ちなみに古寛永の長門銭は白銅質で有名です。西日本の銅山は銅質が白っぽいものが多いのですけど、その割に曳尾は(一般的には)白くない気がします。文献によると純白のものが存在するそうですけど、私は未確認。方字ではそれらしきものを見つけていますので、曳尾でも見つけ出したいと願っています。 |
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4月1日【仙人への道2020】 天保通寶段位制度は収集2005年5月号に天保仙人様が発表したもの。あれから15年も天保銭にはまっています。いま改めて検証すると私はまだ五段どまりです。六段の琉球通寶桐極印大字・小字各3種がメチャメチャ厳しい・・・と、いうより無理なのです。2018年の5月25日の制作日記をお読み頂ければ判るように、そもそも琉球の小字に桐極印は2種しかなく、大字小字あわせても桐極印は6種しか発見されていません。そのうち広郭の桐極印と短尾球の桐極印が絶対的な珍品です。 もう一つの問題が母銭収集でして、私はこれを積極的収集ジャンルからはずしています。背景が赤いところは達成しており、ピンク色は下駄をはかせていただいて(ただし琉球の桐は無理です!)何とかなると言ったところ。鑑定については知識はあるものの、経験値が足りません。一流の域は遠いですね。 |
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3月29日【仙人への道:離郭10種】 駆け出しの頃、天保仙人様に離郭10種を集めなさいと言われた際に、泉譜を確認すると勢陽譜には4種、類似カタログと當百銭カタログには7種、小川譜にも6種類しか掲載がありません。 そのうち何枚かは希少品種の離郭濶縁系です。これには困りましたね。そこで製作・銅質の違いやちょっとした書体の変化まで探すことにしました。普通のコレクターが離郭の異種集めをすると・・・ ①離郭(広郭) ②離郭中郭 ③離郭細郭 で三種になり、④離郭細縁 ⑤離郭爪百 ⑥離郭爪百細縁 ⑦離郭玉持極印 でいっぱいいっぱいになります。頑張ってお金を張り込んで ⑧離郭濶縁(赤銅質) でたいてい打ち止めです。 10種完全収集は小変化を狙って ⑨離郭小点保(細字) とか ⑩離郭非離郭(肥郭狭穿) さらに ⑪離郭赤銅質(または黄銅質) とか ⑫離郭厚肉・薄肉 などという変化球の組み合わせを狙う必要があります。 私は10種を集める過程で、離郭の玉持極印は通常の離郭より内径が小さく中濶縁気味になることがあるのを発見し、中濶縁ながら玉持極印でない ⑬離郭濶縁手 の存在も確認できました。なお、古い天保銭コレクターは 離郭中濶縁は ⑭離郭濶縁黄銅質のことであるとおっしゃいますが、これは離郭濶縁より実は希少な存在です。さらに入手困難な希少品としては ⑮離郭爪百濶縁 や 長径50㎜を超える ⑯離郭大様 の存在も確認できています。こうやって羅列すると、離郭10種は確かに収集不可能ではない気もするのですけど、実際に収集に挑戦してみると想像以上に大変なことが分かると思います。 |
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福岡の離郭は書体変化こそあまりないものの、銅質や次鋳など鋳造上の小変化は結構見られます。天保仙人様に曳尾と離郭を10種類ずつ集めなさいとご指導を受けたとき、(財力上の問題はあるものの)曳尾は文字の変化が激しいので10種は比較的早く目処が立ちましたが、書体変化の少ない離郭類はかなり苦労しました。そんな駆け出しの頃、秋田の故、村上師にお会いした際に、「福岡の離郭は細郭が案外少ないんだよなぁ。」と、ぼそっと語られたことが脳裏から離れず、つい大和文庫さんの即売品に手を出してしまいました。実際、巷で見かける”自称:細郭”の多くは中郭というべきもの(とくに背郭が広郭のままのもの)が多く、面背とも郭が細いものには滅多に出会いません。とはいえ、この変化はちょっとしたやすりの入り方ひとつで大きく変わってしまいます。村上師からは「穿内の鋳肌ややすり目に注意をしなさい。」と、ご指導を受けました。秋田の細郭、本座中郭などには広郭に後やすりを入れた変造品が多数存在します。変造品にあぶなく引っ掛かるところだったことは私も一度や二度ではありません。(引っ掛かったこともあります。)秋田の細郭や本座の中郭通用銭には必ず穿内に鋳肌が残り、本座の中郭母銭に関しては木賊(とくさ)による滑らか仕上げが基本で条痕が残るものは手を出してはいけません。 福岡離郭については、秋田細郭や本座中郭ほど変造による利益の増加率が低いので、変造品はほとんど見られないと思われますが・・・背側からやすりが入りますので、その仕上げ痕跡(鋳ばりが内側に折り込まれた痕跡)が観察できるものなら間違いないと思います。ちなみに私が最初に入手した離郭細郭は平成22年度版「日本の貨幣収集の手引き」の原品でした。 離郭は計測してみると肉厚で大ぶりのものが多く見られます。本来は広郭なのですけど何らかの原因で細郭に作り上げられたと考えます。何らかの原因は推定ですけど「母型郭内の瑕の修正」あたりではないでしょうか。離郭細郭の爪百とか、離郭細郭濶縁、離郭細郭玉持ち極印銭などは存在を聞いたことはありませんけど、どなたかお持ちではないでしょうか?また、30g級重量銭とか銅替わりで白銅色のものをお持ちの方いらっしゃいませんか?ご報告をお待ちしております。 |
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寛永通寶は天保通寶とひとくくりにされていますけど、寛永通寶が公貨として登場したのは1636年。寛永通寶が登場して199年経過した1835年になってようやく天保通寶が登場します。古銭としては寛永通寶が約200年先輩で、当然歴史的に果たした役割も大きいのですが、人気においては寛永銭は今一つですね。 掲示最上段の寛永通寶は元文期の石ノ巻異書長通を模した安南寛永。比較的ありふれたものなのですが、衝動買いしてしまいました。細分類では網至道手になる薄っぺらな、それでいて代表的な安南寛永です。清朝銭が日本に大量流入していた今から40年くらい前、コイン店では安南寛永がたくさんあった気がします。薄っぺらでみすぼらしいのでほとんどくず銭扱いでした。 ところが、あんなにたくさんあった安南寛永は忽然と姿を消してしまいました。価格は相変わらず安いのですが物そのもがないのです。安南寛永は私鋳銭ですから天保通寶で言えば不知銭になり、本来は大変魅力的なんですけど人気がありません。一時期躍起になって収集していたのですが、私鋳なんで何でもありで果たしてどれぐらい種類があるのか見当がつきません。 この記事を書いていて、久々に安南寛永の画像を集合させてみたくなりました。安南寛永のページはいまだに未整備で作り直しが必要ですね。代表銭の画像を探したのですが、永利手と郭抜寛永手の大きい画像が見つかりませんでした。これはすぐに解決すべき課題ですね。 不知背双文と不知背文太異紋は安南寛永の中の奇観品。実は収集誌上を飾った超有名品です。この二品は盗難に遭い行方不明だったそうですが、数十年ぶりにネットオークションに現れ、何も知らない私が入手していたもの。もう一枚はそれに気が付いた七雄泉氏が落手し、画像提供してくださいました。 亀寶至道手背工は安南手類銭考掲載の原品。未だに類品の出現を聞いたことがありません。拓本を方泉處の石川氏が採られていましたからそれが巡り巡って、投稿され泉譜原品になったんだと思います。亀寶至道手寛永そのものが少ないので絶稀の品です。 元隆手異置背元母銭は幣泉誌で入手したと記憶していますが、安南寛永の母銭はこれ以外見たことがありません。島屋文よりもっと珍しいと言っても過言ではありませんよ。 建仁寺写もあまり見かけないタイプの安南寛永。手類銭考の分類に従い紆余曲折し、開元手に改めました。 不知古寛永写は安南寛永には珍しい柔らかい銅質でペラペラの品。岡山銭か太細あたりを写したもので、これは知らないと安南寛永には分類できません。昔の収集誌に分類が掲載されています。 開元手は少し透明感のある紅色が特徴です。 一方隆徳手は特徴的ですけど入手は比較的しやすい品。やや大ぶりの形状で、背郭が四道気味になるのと、背が白文状にへこむ癖があります。 奇書は新規書体の品。無背なら入手はできるかもしれませんが、穿下に文の文字があるのは初見の品です。 歹銭は中国語で「タイチェン」と読むそうで、粗悪銭の意味。歹ははもともと骨を意味する漢字のようです。掲載の歹銭は寛永通宝の文字が読める限界の大きさです。果たしてこんな銭で買い物ができたのでしょうか? 最後の一枚は、ネットで見つけて競争になってしまい、1万円も支払った安南寛永で私にとっては大いなる反省の一枚。さすがにそこまでの価値はないと思いますが、お金を出しても入手が難しいのがこの類の特徴です。まだまだ種類をあげたらきりがありません。安南寛永は奥が深いのです。 |
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ネットやオークションで競り負けるとものすごく悔しいですね。恨みを買うことにもなりかねません。しかし、競った品を入手した日には無性に誰かに見せたい、喜びを絶叫したいものです。ですから、「私が入手したことをご内密に」なんて前置きをしながらの投稿になります。そんな矛盾を抱えていらっしゃる方々のために、今回は無記名で掲載させていただきました。 上段は、抱冠寶の名称で出品されていたもの。類似カタログの分類名ですけど、私は抱冠寶と崩字の違いが今一つ分かっていません。この類、鋳造変化が激しく、同じ書体の品でも出来具合で見え方がかなり異なるのです。極細字のものは昔は「異書体」の名称で紹介されていましたし、全体に素朴さが増すと「崩字」でさらに変化すると「細字短尾通」???。中間体のものも多そうで、これはやや肥字で保点も長いので「崩字」とすべきかもしれませんが、細縁で素朴で草点保的な雰囲気がある好感度抜群の品です。郭内の仕上げもまるで中見切りの貼り合わせみたいで面白いですね。 2枚目は・・・白状します、私が落としました。連敗続きの私めに、哀悼のお目こぼしを頂きありがとうございました。原品は仕上げ研ぎがきれいで、柔らかい感じがする赤みの強い黄銅質の覆輪長郭手です。長径48.8㎜、短径32.4㎜、銭文径40.9㎜、重量22.2g。模範的な覆輪銭ですけどこういうの好きですね。 3枚目の南部大字・・・匿名にしようと思いましたが無理ですね。誰とは言いませんが背景色でバレバレです。彼は今、好奇心が抑えられなくて出費が止まらない・・・一応反省したふりをしているのですけど、ネット徘徊がとまりません。今では重度のネットオークション中毒患者です。(私もです。) そんな彼が可愛らしい(そう見えること自体が異常か?)密鋳寛永の画像もくださいました。 赤みの強い小梅手大永の写しで、背のずれが秋田小様天保を彷彿とさせます。阿仁銅山の色だろうなあと思うのですけど、手ずれが強く面側の地肌がよく見えない。もう少しザラザラ感があると加護山って言い切れるんだけどあと一歩。でも多分加護山でしょうね。 ところで、彼はこの小汚い銭の寛の字の横にハートマークが見えると言って喜んでいました。それは重度の幻覚です。そのうち、古銭の方から「貴方のところに行きたい、私を買ってください。」と甘くささやく声(幻聴)が聞こえ始めるかもしれません。(私もその声に日々悩まされています。)大丈夫ですか? |
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ネットで拾った画像です。密鋳一文銭について話題にしていたので覚悟していたのですけど、競争が激しくなってしまいました。普段はこんな汚い一文銭は誰も気に留めないのですけどねぇ。(色調調整しましたが実際の色とは異なる可能性があります。) 上段は加護山銭細字背元の触れ込みのもの。(色はやや赤黒く映っています。)いびつだし汚いしたぶん、本当にみすぼらしいと思います。砂目は加護山で、つくりの雑さから見ても加護山で良いと思います。 2段目は小梅手の仰永写し。やや赤黒い銅質に見えます。同じ出品者ですけどこちらは加護山の名前がありませんでした。決定的な違いは穿内が(母銭段階で?)きれいに仕上げられていたように見受けられること。良い仕事しているんですね。砂目は加護山風なんですけど・・・。 3段目は大和文庫さんのHPで見つけたもの。大変残念ながら気が付いた時にはもう売り切れていました。かなり手ずれがありますけど背の浅い雰囲気と砂目は加護山ですね。加護山決定! 最後の一枚も大和文庫さんの即売品から。こんな品が出ていたなんて気が付きませんでした。摩耗が進んで砂目が確認できませんが、この色は間違いなく阿仁銅山の銅色です。だから私は誰が何と言ったって私は加護山銭と判断します。色だけでも判断できる好例です。(色調はやや明るくなってしまいましたが・・・) とはいえ、加護山か否かの判断は多分に私見によるもの。加護山と言われて高額になるかもしれないと思う方・・・実は密鋳一文の中で加護山は決して少ない方ではありません。むしろ多いかもしれません。ただ、加護山と断定できる美銭が少ない・・・と考えたほうが無難で、加護山風はたくさん???あります・・・が、密鋳一文そのものが少ないので、なかなか良いものに出会えないのです。だれが見たって汚いじゃないですか、密鋳一文銭は・・・。 ペラペラで小汚くて見栄えのしないこんなものらに興味を持つのは相当の好きもので、3000円払っても笑っていられるのは相当の変人。5000円以上払えるのは変態で、1万円払えたら正気の沙汰ではありません。私はそうですけど・・・。 |
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素性のよく分からない銭は一般的には不知銭とか密鋳銭と呼ばれています。ただ、イメージ的には不知は「素性はよく分からないけどそれなりに立派なつくり」で密鋳は「得体のしれない妖しい品」です。とくに寛永銭の場合、「不知は公鋳の銭座」で「密鋳は零細な民鋳贋金」のイメージですね。 加護山銭は幕末から明治期にかけて、銭座関係者がかかわったものらしいのですが、明治政府の禁令を犯して鋳造を継続したということで関係者が処罰されたようです。2014年の5月23日の制作日記に、加護山銭の特徴が書いてありますのでご参考に・・・。 加護山の特徴は①赤い銅質 ②地のざらざら感 ③面背はほとんど磨かれていない に尽きます。 やすり目という言葉がよくHPにも出てきますが、厳密にいうと(厳密に言わなくても)実は寛永銭の面背にやすり目は存在しません。やすり目に見えるものは砂磨き(もしくは荒砥石)による条痕であって、やすりの痕ではないのですが、私を含めて何となく昔から言い伝えられていたことでして(言い訳)・・・正確には磨き目というべきかもしれません。寛永銭の多くは、砥石による仕上げ(平研ぎ、丸目研ぎ)がされていますが、加護山銭はそのようなきれいな仕上げがないということ。ついでに言うと床焼き(地の墨入れ)もありません。(詳しくは錯笵銭物語を参照してください。)側面の仕上げは原則横やすり方向ですけど、際立った特徴・・・角張るようなことはあまりありません。 東北地方の密鋳寛永銭には赤い銅質のものが多いのですけど、地の(特に背地の)ザラザラ感がなかったり、銅質が異なったり、側面の仕上げが異なると私は加護山だとは判定しません。 同じザラザラ感でも、銅質が赤くないものは江刺系。穿内は未仕上げが基本です。江刺は地だけではなく輪までザラザラです。ここら辺は感性でして、正直私も自信がありません。江刺寛永一文銭はめちゃくちゃ希少品です。 銭径が小さく、分厚く輪側面が垂直に平らに仕上げられている密鋳銭はたいてい葛巻銭の母銭です。葛巻は鉄銭なのですけど、鉄銭の製作上最大の難点は「固いこと」。枝(鋳造の際の湯道)を切り落とした後の最終仕上げが楽になるように、側面が垂直仕上げになっています。また、穿内もきれいにやすりが入っています。これは原料の切れが良くなるようにとの配慮でしょう。鉄銭はもろいので、割れやすく、そのため薄いつくりにはできなかった・・・だから。分厚い鋳写しの改造銭が必要だったようなのです。この点は銅銭の母銭が比較的薄造りなのに対し、鉄銭の母銭は肉厚で、側面が①垂直仕上げ②台形仕上げ③ござ擦れ(楔形)仕上げのいずれかになるものが多いように、対照的です。 右の掲示品は私のお気に入りで、HPに何度も登場しています。 加護山の藤沢写は、私所有の加護山銭の中の最高峰です。状態、風貌、何をとっても非の打ちどころなし。加護山はけっこう存在すると思うのですけど、間違いないと言える品は少ないのです。 江刺の異書写しもこれが江刺であると衆目一致するつくり。穿内が未仕上げで赤銅質以外のもの。地に加え輪もザラザラです。 葛巻の白目写しは超珍品。小さいので藤の実銭と呼ばれます。側面と輪の仕上げが印象的。 古寛永写しはかなり立派。銅質は加護山より柔らかい感じ。ここまできれいなものは少ないと思う。 文銭写しは色調から九州方面かもしれない。九州の銅山はヒ素成分が多い黄白銅質・・・土呂久の銅なのです。ただし、確証はありません。 座寛の改造母(鉄銭用母銭)は小さいのにかなり肉厚。重量は2.9gと小さい割に意外に重い。典型的な鉄銭母で、外輪は台形仕上げ、穿内もやすりでしっかり仕上げられています。鋳写改造かもしれません。 最後は珍しい純白の鋳写改造母(鉄銭用母銭)。肉厚で側面は垂直で葛巻風。こんなに白い密鋳母銭は他に見たことがありません。可能性は2つ。原料に鏡を用いたか、秋田阿仁鉱山特有の天然白銅を使用したか。加護山の母銭だったら面白いのですけど・・・ちょっと肉厚ですし、加護山の母銭のつくりではありません。(出来が悪すぎ。) |
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侍古銭会のタジさんから頂いた画像です。上段は不知長郭手狭足寶。手変わりはほとんどないと言われていますが覆輪がはっきりわかるタイプ①と通常の小型のもの②、それに次鋳にあたる縮小タイプのもの③が存在しています。もともと48㎜台前半の小型のものが多いのですけど次鋳銭は長径48㎜を切りますし、理論上の銭文径も40㎜以下です。実物を拝見したことはありませんが、不知天保通寶分類譜上巻に1枚だけ拓図が掲載されています。なお、狭足寶には49㎜を超える(49.75㎜)母銭の存在が知られています。勢陽譜には「小型のものあって、この母銭存在するが母子共背郭前隅近くの内側に皆小瑕がある。」とあります。瑕はすべてのものにあるわけではないのですけど、一応目安になります。また、この独特にゆがんだ背郭の形状が鑑定ポイントになります。 タジさんの狭足寶には背郭の瑕は見られませんが背郭のゆがみは同じですね。②タイプです。 下段は不知広郭手の刔輪だそうです。ただ、本座銭にも刔輪の強いものがありますので、ご注意を! 掲示品は銭文径が40.8㎜と縮んでいるそうです。気が付かず雑銭箱にいれてしまいそうですけど、輪際の加刀の溝がなかなか楽しい。広郭手にはこのように本座にしか見えない品がたくさん潜んでいる気がします。ただし、誌上価値的には特徴が少ないので微妙かもしれません。マニアアイテムでしょうか? このような加工は歯科技工用のドリルでできますのでご注意ください。本品は拡大画像で鋳造品であることが分かりますし、ドリル加工の場合は旋回痕が残るので見分けることができます。 |
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3月13日【お世話になった方々】 私が休止していた古銭収集を再開したのは1994年の秋頃だったと思います。きっかけは放送が開始されたばかりの「何でも鑑定団」で、収集が中途半端になっていた寛永通宝の再整理を始めたことでした。中断していたとはいえ、島屋文や幻足寛、張天保や俯頭通なども保有していましたのでそこそこのコレクターを自負していました。東京に出かけ催事会場に顔を出したり、収集誌を買うようになり、入札誌も次々に購読を開始しています。入札誌では蘭、スズコー、幣泉、大和文庫、下町古泉会など、オークションネットや銀座コインオークション、江戸コインオークションなどにも参加しています。中でも「鈴鹿」の柴田守氏には大変お世話になりました。私の雑銭コレクションのかなりの部分を占めていると思います。そんなある日たまたま立ち寄った日暮里の隆平堂さんで「季刊方泉處」を発見。その斬新な切り口に圧倒されました。入手したばかりの島屋文小頭通が気になって、浅草古銭会に手紙を出し鑑定を依頼したものが「島屋文小頭通細縁」と認定されて大騒ぎ。私は舎人坊石川氏と知り合います。また、ネット上で練馬雑銭の会のサイトを発見し、13番目の会員として会に参加。暴々鶏氏とも知り合うことになります。富山の三鍋氏のお店にもよく顔を出し、古寛永、新寛永の基本銭を相当買いあさっています。この頃はとくに密鋳寛永4文銭と古寛永の収集に躍起になっていました。勢いあまって2004年にHP作成を開始。やがて練馬雑銭の会の勉強会の席で、天保仙人様にもお会いすることにつながります。 ついには、天保通寶収集にも熱中するようになり、横浜古泉研究会の関さんの入札誌穴銭を通じて、秋田の村上師の収集品を相当量購入しています。ネット上では鉄人とデッドヒートを繰り広げ(ほとんど負けですけど)皆様にご迷惑をおかけいたしました。 様々な人に出会うことで知識をかなり吸収できましたが、いまだに鑑定については自信がありません。ここには書ききれない方々にもものすごくお世話になりました。本日、なぜかぎっくり腰になってしまいました。椎間板ヘルニアの再発で泣ければよいのですけど・・・こんなこと書いていて収集をやめるわけではありませんよ。ただ、今日はちょっとブルーです。 余談ながら・・・ 先日、公証人役場に赴き、父との任意後見契約書を作成。これで相続に関する一連の作業が完了しました。任意後見契約はあくまでも認知症が悪化した時の保険です。(すでに軽度の認知症であることは分かっていますので・・・。)後見制度には成年後見と任意後見があり、成年後見は家庭裁判所が後見人を指名するのに対し、任意後見制度は被指名人確定の後見なのです。私が指定されているので後見人に支払う毎月の費用が節約できる利点があります。最近は後見人が家族以外に指名される傾向が強まり、後見人の監督人も必ず指名されるため、(2人分の人件費がかかるため)少々の年金が吹っ飛んでしまうぐらいの額にもなりかねません。後見人制度がわずかな資産を食いつぶす・・・そういった悲哀があるのです。この制度は使わないで済むのが一番ですけど、将来の資産の売買が絡む場合は必須になるケースもありますのでご注意ください。 |
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3月12日【島屋文磨輪】 関西のSさんが入手されたという島屋文。外径が24.94㎜と小さいものの内径20.69㎜で久泉研究資料にある計測値にほぼ同じ。さすがに島屋文を人為的に磨輪して細縁に変造する強者はいないと思いますので、これは自然な磨輪と見るべきでしょう。まあ、後天的な悪意のない摩耗はありえますけど・・・。 以前述べたことがありますけど、このような希少な背に文字のあるものは、一種の荷札銭なんじゃないかと思います。背仙は仙台ブランドを示すために、銭挿しの端に括りつけられたものという証言が残っていたと思います。したがって背仙は無背数百枚から1000枚に1枚程度しかないものだと思われます。存在数から見て、背一、背十もそのような感じがしますし、島屋文も島屋無背あたりの荷札銭と考えれば納得がいきます。ただし、この説は誰も唱えていませんので、眉唾ものだと思ってください。(荷札銭という名称も私が勝手につけたものです。) 荷札銭はいわゆるおまけでもあり、景品だからちょっと豪華に作ったと考えたんですけどね。 |
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3月11日【泉廊 関康輔氏追悼泉譜】 ネットに出品されていた追悼泉譜を思わず購入してしまいました。関さんが亡くなられたのが2015年の6月10日ということで早いもので5年近くが経過しています。それから1年後(2016年)の4月に北秋田寛永通宝研究会の菅原直登師、夏には秋田の村上師も亡くなられ、さらに同年の秋口には雑銭の会の暴々鶏氏も健康上の理由から収集界から退いてしまい古泉界が一気に寂しくなってしまいました。 私もあと何年頑張れるかは分からないのですが、古銭界の火は消したくないですね。 ところで、暴々鶏氏のHPを久々にのぞいてみましたが、まだ活動は継続されているようでなによりです。 → 九戸戦始末記 北斗英雄伝 |
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新型コロナウィルス・・・困りましたよね。おかげでほとんどの研修、会議がキャンセルになり内勤の仕事がはかどってます。私、猫アレルギーなので、呼吸器系が弱っています。時々咳が出て止まらなくなるのでものすごく肩身が狭いのです。ましてこの時期、スギ花粉が飛び交います。幸い、スギ花粉には過敏ではないものの、埃アレルギーもありますからそれなりに反応してしまいます。葬儀の焼香には特に弱く、いつも困るのですけど、昨今の騒ぎで葬式の最中にマスクをしていても何ら違和感がないのは不幸中の幸いでしょうか? さて、右の拓本は文久永寶周遊会の拓本から。 主宰の祥雲斎坂井師のご好意で、毎回資料を頂戴しているのに最近は何の貢献もしていません。印刷費、郵送費も大変なようなので、私も会費をお支払いしても良いと思っているのですけど・・・今はご厚意に甘えさせて頂いております。 深字手はけっして少ない銭種ではありません。むしろありふれていると言っても過言ではないのですが、なかには得難い品も潜んでいるようです。まず、基本的事項として・・・深字手は寶王が大きく、王画の末画が水平に寶貝画の上辺に接するという癖があります。久の足の長い広久と短い短久があり、広久は一見深字本体に見えてしまいドキッとすることがありますが、先の特徴で見分けるのが良いかと・・・。 短久は久が頭でっかちでものすごく目立ちます。 深字手短久進文仰柱永跳足寶広郭は文久永寶分類譜の仲では深字手短久退足寶で、永頭に爪がなく寶足が退き気味でチャーミングです。これらの3枚はなかなかの美人ぞろいなんですけど、希少か否かは集めてみなければわからない世界。深字や直永のように一目少ないというものばかりではないのでマニアにしかわからない世界です。深いですよ文久の闇は。 最後の一枚は祥雲斎師が雑銭3.3kgのなかから選り出した鋳放し銭。枝付きの銅銭はかなり少なく、めったに見られるものではありません。しかも厚み最大4.0㎜・・・何だこりゃの世界です。これは素人目にもわかる珍銭ですけど、このような品ばかり躍起になって求めていると贋作に引っ掛かりますので注意してくださいね。ここにいらっしゃる方々は文久永寶を何万枚も見続けている人達ですから・・・。ネットで文久が全く手に入らなくなったのはこの方々たちが原因ですね。 |
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3月3日【春夏冬中】 古典的な洒落のネーミング本です。著者は赤坂一郎氏・・・下町古泉会の主宰者にて絵銭の大家でもあります。入札誌下町の楽しみは、入札に出される古銭だけではなくの巻頭を飾る赤坂氏のエッセイにもあります。軽妙洒脱と言ったら褒め過ぎかもしれませんが、古銭好きの人が書いたウィットに富む文章で、私も言わずと知れた古銭好きですから思わず「うんうん、分かるその気持ち」・・・てな具合の心のつぶやきが記されていて共感できるのです。そんな赤坂氏の著作がネットオークションに出てきました。あれ、私は何でこの本を買っていなかったんだろう・・・と反省して応札したのですが、同じような気持ちの方々が複数いらっしゃったようでして残念ながら入手ならず。ちなみにこの本のタイトルは「春夏冬中=秋無い中」=「商い中:あきないちゅう」です。分かりますよね。 |
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2月29日【贋作図録】 Oさんから驚きの資料を頂戴しました。琉球銭をはじめとする鋳写贋作の画像です。驚くべきことに母子揃いなのです。なぜ、母子揃いなのか・・・ひょっとしてOさん関与したの? 答えは「マニアとしての画像探査努力と観察眼」・・・執念と言っても良いかも。贋作者はネットオークションの良品出品者から商品を購入しては複製を繰り返しているそうす。Oさんは良品出品者の画像をチェックを続けて、同じ特徴の複数の贋作があるのに気が付いたようです。仲間内でも騙される人が現れ始めたので告発に踏み切ったようです。 昔、ラムスデンが贋作を作るため本物を超高額で買いあさったという話があります。今回もそれと同じ図式ですけど、対象が比較的低額のものばかりなので被害があまり露見していないようです。出品者は一人ではなく、IDも複数あるそうです。しかも最近は匿名配送になってしまっているので、誰が悪事を働いているのかが分かりません。匿名配送って問題ありませんか? Oさんが確認している不貞の出品者はM県とT県の輩だそうです。ご注意ください。 ※右上の矢印から資料はダウンロードできます。(右クリックして対象を保存できます。1.13MB) |
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最近入手した密鋳銭です。一番上は常陸太田銭の広穿狭永背久の鋳写母銭と思しきもの。仕上げが葛巻風です。ものすごくみすぼらしくこんなものもあるんだ・・・といったものなんですけど、ものすごく少ないもの。銅質は赤茶で銭径は22.2~22.3㎜と一回り小さいサイズ。穴銭入門には鉄写し改造母として背久二が掲載されていますがほぼ同じサイズ。しかし実にみすぼらしく、昨年入手したにもかかわらず撮影をためらってしまいました。入手に費やした金額を聞くと家族はドン引きするでしょう。 中央の画像は「伝世の見寛」としてネットに出ていたものですけど、書体は藤沢・吉田島銭の縮字です超肉厚で、藤の実銭と呼ばれる葛巻の風貌ですけど、こいつはさらにみすぼらしく歪んでいます。こんなものに興味を持つ奴なんかほぼいないと思っていましたが、一部の熱狂的な馬鹿者が争奪戦を繰り広げました。とはいえ正規の葛巻銭より50%OFFの価格。少し儲かった? 最後は加護山の十万坪無印写し。かつて秋田の村上師の旧蔵品が売りたてられたこともあり、その時は高いなあ・・・と思いながらもコアなマニアが入手されていました。こんなものに1万円以上の価格を付けるのは大バカ者です。反省していますけど、少ないんですよ。 |
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琉球通寶半朱銭の分類研究という最新文献を入手。半朱に手変わりなし・・・という先入観を打ち破られましたね。久々にハードパンチを食らった文献で、右図を見れば全く違う顔をした半朱がこの世に確実に存在することがよく分かりました。願わくば手変わりに出会いたいのですが、いまだに仙人様保有の濶縁以外は見る機会さえ得ていません。いえ、チャンスはありました。2018年の7月2日の制作日記に、この半朱の濶縁の画像が掲載されていますが、そのときの半朱がこの文献の目玉というべき最濶縁そのものでした。あのときが最大のチャンスでしたけど、収まるべき人のところに収まったと考えるべきでしょうか。あのとき、こんなひびの入ったような小汚い半朱に3万円以上の値段をつける奴なんか絶対いないと決めつけていてすっかりもらった気でいましたが、見る人は見ていたのでしょう。この結果が非常に気になっていたのですけど、このような形で再会するとは夢にも思わず、世の中狭いものだと思います。私の手の中からするりと逃げた半朱・・・出世しましたね。 |
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侍古銭会のヨネさんから不知天保銭入手の喜びのメール。(画像上段)この天保、私も追いかけてましたからよく知っています。画像も保存してありましたから。ただここまで良い品とは思いませんでしたね。ヨネさんファインプレーです。 ところで頂いた画像を見ていてなんとなく見覚えがあることに気が付きました。この寶下のえぐれ・・・2018年の8月20日の制作日記をご覧ください。ほぼ同じものが掲載されています。当時、私はこの銭に長郭手覆輪刔輪深淵赤銅質(當上刔輪)という長い名称をつけました。寶下のえぐれは目立つけど、これはたぶん鋳不足で気泡か何かの跡じゃないかと思った次第です。ですから當上の刔輪を名称として採りましたが、これは寶下刔輪で間違いない。それぐらい深く、穴が空いたような感じなのです。有名な深淵との共通点があるものの銅質や製作が全く違う品。ヨネさんも深淵に関係があるかもと書かれていましたが・・・謎が多い品です。このクラスの不知銭には一品ものに近い種が多く、ここまでドンピシャのものは、なかなか出会えません。おかげで私の中の評価がワンランク上昇しました。 このようなはっきりした部分刔輪ってめったにありませんけど、雰囲気的には刔輪というより、加工工程中の事故じゃないかしら。もちろん、部分刔輪しようとしての結果だと思いますので、部分刔輪(あるいは削輪)で良いと思います。とにかく製作は実に素朴で面白いのです。自慢できる品ですね。 ※平二天がまた出ています。つり上げ狙いの転売かしら・・・あの背景の画像の人・・・一度取引したことがあります。今度は突っ込んでいってみましょうかね。飛んで火にいる夏の虫かな? 散歩に行っている間に逆転・・・負けました! |
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2月15日【愛銭家雑記】 収集から封書が届きました。あれ、今月は少し早いなと思い封を切るとこの本が・・・。鳳凰山氏からの謹呈本でした。(ありがとうございます。)収集誌上に掲載されていた「皇朝銭雑記」「鐚銭雑記」「寛永銭雑記」をまとめたもので知命泉譜とのことで、しかも「壱」ということはいずれ「弐」「参」も出てくるのでしょうか。私はこの手の読み物が好きな方でして、軽くてサクサク読めて知識が得られます。実は最近将棋も趣味なんですけど、将棋はささず、棋譜も読めず、もっぱら記事読みの「読む将」なのですけど、そのうち古銭も「読む泉」になってしまうかもしれません。ただし、私の場合、鳳凰山氏と異なり読んだことを片っ端から忘れてしまいます。最近は書いたことも忘れる・・・やばいです。 鳳凰山氏は若いころから知識が豊富で、それも由緒やら古文献についても実によくご存じで、私など足元にも及びません。よほど記憶力が良いのかそれとも研究熱心なのかはたまたその両方なのか・・・尊敬に値します。この世界、私を含め有象無象な胡散臭い個性的人物の宝庫なんですけど、鳳凰山氏は日本の古泉界を背負って立てる最後の人格者なんじゃないかしら。お会いしたことは数度しかないのですが、まとっているオーラが私のような下賤のものとは一目違います。お世辞じゃなくこれは本音。見落としや忘れてしまっている記事も多いのでありがたく拝読させていただきます。 |
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2月14日【掘り出しもの?】 関東のⅠさんからご連絡。おお、島屋文小頭通じゃないですか!さすがに風格があります。これは雑銭12キロの中からの選り出しで・・・私も見た記憶がかすかにありますがこの背が写っていていかにもという雰囲気じゃなかったかしら。それで頑張れる方と疑心暗鬼になってしまう人間とで幸運(不運?)の分かれ道。どちらの人も病気には違いありませんが今回は幸運が舞い込んだようです。ちなみに私は島屋無背さえ掘り出したことがないヘタレです。 |
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密鋳銭の判定は非常に難しいものがあります。とくに人様のものを判断するときは非常に気を遣うわけでして、言葉に詰まることもしばしば。天保通寶などは密鋳なら1万円ぐらいの価値があるのが普通でそうじゃないものとは天地の開きがあります。密鋳かどうか聞いてくる相手側は期待度100%でしょうからおいそれとダメ出しはできない。私も天保通寶収集初心者の頃は天保仙人様に「どうでしょうか?」なんて輝く目で判断を求め、無理やり言葉を引き出そうとしたものです。(ごめんなさい。)今では贋作をたくさんつかみ慣れてしまいまして、自分なりの判断基準を持っていますので心が以前ほど揺らぎません。ただし、家族には絶対言えないですね。古銭収集を禁止されてしまいますから。 画像の品は収集誌の誌上入札でGETした2枚。 上段は仙台大永の写し。全体に赤くただれているように見えますので当初、火中品のように思えました。仙台寛永はやや赤みの銅質が多いので火中変化はこうなりがちなのでダメかと思いましたが・・・寛尾下の郭の鋳不足は本物で輪に向かってムラ状の筋(湯圧不足のときに生じます。)があり、同様に寶下にも鬆穴があります。厚みは均一で薄くありません。これは火中変化ではなく製作そのものが劣っていると判断できますのでどうやら密鋳に間違いなさそうです。ただし高い評価はできませんから限られたマニア向けの商品でしょう。 下段の品もなんだ、文政小字次鋳の状態の悪い品じゃないのかな・・・と思ってしまいそう。これは指で側面を触るとすぐにわかりました。きれいにやすりで台形状に仕上げられているのです。拡大画像で見ると縦やすり。文政期の仕上げは縦方向砥石仕上げなのですが上下往復に擦られますので丸みを帯びます。それに対してこちらはきっちり平らな仕上げです。しかも台形状の斜め仕上げなので大量にまとめての仕上げはしづらく、一品ずつ仕上げたか、何枚かをまとめて(傾斜させた状況にしての)面から背に向けた一方向の仕上げを行ったと思われます。(ただし私の想像)斜め仕上げは浄法寺系の密鋳に多く見られますが、ここまできっちりした丁寧仕上げは珍しいです。一方で穿内仕上げは実にいい加減ですし、肉厚でちょっとかわいい。なお、明治期吹き増しと呼ばれる一群も側面が縦やすり仕上げになっていますが、そちらはもっと粗い目の縦(垂直)仕上げになります。 |
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今月は少々お金を使いすぎています。昨年後半の自重の反動でしょうか。反省をしなくては・・・。 冒頭の一枚は「安政期俯永」・・・意地になって落としてしましましたが、これにお金をつぎ込めれば立派な古銭病です。かなりのマニアでもお持ちの方は少ない。評価以上に数がないのです。安政期の黒みがかった材質で、側面がロクロ仕上げ、かつ穿内やすり仕上げです。書体変化はありません。材質の違いは重要で巷にはときどき文政期の柔らかい材質で安政期風仕上げのものが出てきます。すべてが贋作とも言い切れないのですが個人的には納得がいきません。この品は安心できます。なお、明和期材質のロクロ仕上げにはよからぬものが多いので気を付けてください。 不知天保通寶は収集誌の誌上オークションで久々にまとめて落手できました。 「長郭手背偏輪」はいわゆる錯笵もの。全体に細字ながらこれといった書体変化はなく、ごく普通の鋳写銭です。あまりの偏りで背郭が半分なくなりかけていますので背失郭と名付けようかとも思いました。 「長郭手浅字覆輪」は非常に製作がよく地肌も滑らかな不知銭。浅字ながら肉厚で重量は本座銭より少し重い品。寶足もわずかに長く輪の縁に沿って小刔輪されています。背の當上も刔輪が少し強いですね。 「長郭手覆輪刔輪」は3つのうちで一番寶足が長い品。出品名は覆輪額輪様でしたので非常に興味を惹かれたのですけど、額輪ではありませんね。そのかわり鋳ざらいにより面背とも文字のない左右の地の中央部分がわずかに凹状に凹みます。古寛永の長門銭の背を思い浮かべてください。鋳ざらいが感じられる不知銭です。以上、いずれもB級の不知銭ですけど面白いので飽きません。 |
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何の変哲もない覆輪銭を躍起になって追いかけてしまいました。実はこの手の覆輪銭で、短尾通細字と同じ極印の覆輪長郭手を保有しておりましたのでもしや・・・と思い追いかけてしまいました。銅色がやはり紫褐色でしたので可能性は高いかなあと思いましたが甘かったです。結果としてかなり高い買い物になってしまいましたが、しかたがありませんね。49.7㎜というサイズは立派ですけど顔は平凡です。 ネット世界では萩の縮通で盛り上がっていますが、どうもこの縮通・・・変種がいっぱいありそうで難しいのです。ついこの間まで狭木保を縮通だと思っていましたから私の眼力も大したことがないようでして・・・。実は各泉譜においても分類が今一つ安定しておりません。それだけ変化が多いということでしょうね。 |
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2月2日【称:建仁寺番銭】 関西のSさんからさんからとんでもないものが投稿されてきました。真贋について問われましたが、見たことないからわかりません。旧貨幣にも大正10年頃に呆仙(時代的に鷲田信一か?:呆泉)の名前で投稿がありますが、ほとんど謎に包まれています。2014年の3月3日に嘉祥祝の風習について木村智氏が紹介したと書いておりましたが、大正10年の貨幣誌にも同じ内容が寧際されておりますので、どうもこちらの方がルーツのようです。嘉祥祝は本来は改元の際に仁命天皇が16個の菓子を疫病除けとして供えたことに由来するもの。それが6月16日にお菓子を神前に供えるようになったり、食べたり、お菓子の代わりに16文の銭を供えたり・・・と変化したようです。 そうなるとこれは絵銭、もしくは記念銭というわけですけど、とにかく数が少ないので正規の通用銭というわけではないと思います。しかし、これを全揃いで保有しているコレクターはたぶんいないでしょうね。真贋なんてわかるはずもありません。 ※勢いあまって安政俯永らしきものを落としてしまいました。安政俯永は今まで3枚入手していますが、今回のものが一番安政期っぽいですね。久々の寛永銭の高額品です。 |
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1月28日【広穿大字LOVE】 天保通寶収集にのめりこんで、いつのまにやら有名銭もかなり手にするようになりました。古銭収集のはじまりはミニカーと本座広郭を交換したこと。中学生で俯頭通を入手し、大学生で張点保を掘り出しましたが、高額商品の多かった天保通寶は収集のメインではありませんでした。それでも天保泉譜(勢陽譜)はボロボロになるまで読み込みました。 私は初心者の時に「俯頭通」と「張点保」というとんでもない珍品を入手してしまったため、基礎的な眼力が未熟なままでしたが、天保仙人様や秋田の村上師のコレクションに接して、製作から見る力がかなり強化できたと思います。 「俯頭通」「張点保」に続き、2009年6月に憧れの「長反足寶」をオークションネットで入手。私にとっての三種の神器が揃った瞬間です。やがて「奇天手」「尨字」「草点保」「小字」なども入手し、次なる目標と言いますか、目下のあこがれの品は「広穿大字」です。とにかくでかいのです。長径が50㎜を超えるのは当たり前でしかも美銭が多いのです。ところで大和文庫に広穿大字が出ています。ただし大きさは49㎜大で、十分大きいのですけどおそらく次鋳クラスか。価格は魅力的なんですけど迷うところです。(画像は天保仙人様所蔵品:夏の古銭会のPより) |
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平成4年11月の日付で酔泉こと奥井勇氏の序文が掲載されています。なんでも本書の発行は会員の久我氏の新築祝いを祝し、川村庄太郎氏の発案で寛永通宝24種、絵銭3種の分類を掲載したミニ記念譜のようです。 いかにも手作り感が満載で、表紙の行篆混じり風の題字も味わい深い。でもって中は完全に手書きコピーです。 江刺銭は謎多き密鋳銭で、明確な鋳地は不明ながら量的に豊富で、かなりさかんに密鋳が行われたと思われるものの、特徴のある特定の母銭による鋳造が繰り返し行われたと思われ、兄弟銭が非常に多いことが知られています。江刺は岩手県南部にあり、江刺の地名はあくまでも暫定的な名称なのですけど、古泉界では市民権を得た名称の存在になっています。 江刺の地域には銅の産地はなく、鉱山からも遠いことから実際の鋳造地は異なる可能性が高いと思われます。一方で気になるのは江刺の地域には天保通寶の密鋳を行ったと言われる梁川という地名を見ることができます。ただ、いわゆる梁川天保じゃないかとされる某水戸銭と江刺銭の風貌はあまりにも違いますし、江刺銭の中には浄法寺じゃないかと思われる風貌のものが多数含まれます。 同じ型の多さは一部の浄法寺銭にも共通するところなので、江刺銭の正体も鋳期が異なるだけで案外そういったところなのかもしれません。 |
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侍古泉会のタジさんから頂戴した画像ですが、昨年の10月5日の制作日記に掲載したものと同じ品なんだそうですが、全く別物に見えてしまいます。撮影のときのライティングで古銭は違う顔を見せる典型例ですね。濶縁ぷりもものすごく見えますし、極印も星型で・・・評価ランキングも急上昇。この星型の極印は会津藩などで使用されたものによく似ていて、東北地方の不知銭に散見されるタイプじゃないかしら。
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上は大和文庫の応札品。尓の前の点が小さくなる覆輪刔輪のよくあるタイプかしら。肥花押気味で通頭が大きく見えます。ほんのちょっと厚肉で重い長郭手ですね。珍品というわけではありませんが不知銭好きとしては幸先の良い入手品。 下段は個性的雑銭の水戸濶字退寶です。実は先日東京出張の機会がありまして、ウィンダムさんに立ち寄りました。店頭に置いてあったはずの不知銭が行方不明でして、そのせいか新たに得る獲物はなかったのですが来場記念にきれいなこの天保銭を入手。ウィンダムさん側も私の気持ちに応えてくださり格安分譲してくださいました。ありがとうございます。花押は少々鋳つぶれていますけど未使用色の残るかなりの美銭です。 濶字退寶は書体変化のほとんどない雑銭ですけどこのような美銭は得難いものです。この書体は天保通寶初心者が勉強の上でまず入手すべき1枚だと思いますよ。 この銭は南部梁川銭座で鋳造されたという説もありますけど、なるほど南部大字の最大様に製作色合いが似ています。 |
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1月17日【縮通と狭木保の比較】 縮通として分類していた手持ち品がどうやら狭木保だったようです。書体が変わっていたので、縮通(小異)としていたのですけどちょっと恥ずかしいですね。また、前回の縮通はやはり狭木保ではなく普通の縮通でした。残念。こうやって並べてみるとよく分かります。ただ、狭木保の名称はわかりづらいですね。仰口保と花押後端の尖る癖の方がわかりやすいのですけど・・・。 狭木保は天保泉譜で珍の位付けでした。実は天保銭辞典で仰天、新訂天保銭図譜で縮通とされて掲拓されているものが狭木保で、同じ拓本が當百銭カタログで狭木保として掲載されています。私の混乱の原因はここにあった気がします。まあ、小異と言えば小異なんですけど・・・。 |
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1月13日【縮通かなあ?】 縮通跛天ということでネットに出ていたもの。余り状態はよろしくないように見えたものの気になったから応札してしまいました。理由は保の点が長く保の口画が仰いでいるように見え人偏も長く見えたから・・・これらは狭木保の特徴なのです。ただし、私自身が狭木保についてよく分かっていません。當百銭カタログでは平二天のものを縮通の本体として仰天系のものの中に狭木保がありますが、類似カタログでは仰天を本体として、平二天は別類扱いにしています。もともと削字変化が多い萩銭で仰天と狭木保の違いは大同小異のような気がします。狭木保は仰天のなかでもホの横引きが短く、保点が上がり木に近く見えるから・・・というのが名称の由来なのでしょうけど今一つしっくりしません。花押後端がとがるという特徴もあるそうで、この品は60%ぐらい狭木保かなあといった感じです。なお、狭木保は2010年4月22日の制作日記に投稿画像があります。さらに・・・実は私が縮通として掲載している縮通がどうも狭木保そのものみたいです。花押後端の鋭さや全体の削字ぶり・・・よく見ると異常です。良い品と言ってくださった方がかつていらっしゃいましたが本日改めて画像を見直し、案外名品じゃないかと自画自賛することとしました。こうなると縮通の本体と言える個体と平二天の美銭が欲しい・・・困りました。 ※縮通ですね。あるいは中間体かしら? |
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1月12日【西洋銭譜】 久々にこの本がネットに出ていました。福知山藩主朽木公による日本初の外国コインの泉譜なのです。2015年の9月にもネットに出ていますので2度目の発見です。古泉界においては歴史的な資料なのですけど文献コレクターでない限り食指は動かないかしら? 福知山公は江戸時代におけるNo1研究家であると言っても過言ではないと思います。詳しくは泉家・収集家覚書をご覧ください。 |
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1月11日【魅惑の古寛永】 私が古寛永に目覚めたのは30歳を過ぎてからだったと思います。きっかけは富山の三鍋氏が東京によく出店されていたこと。それまで古寛永はあまり売り物がなく接する機会が限られていたのですが、三鍋さんのお店には細分類された古寛永が豊富にありました。気に入った基本的な品をぽつぽつ購入していたのですけど、入札誌「鈴鹿」などにもいろいろ出品されていて入手もしやすくなっていたので、古寛永泉志を徹底的に学びなおすことにしました。私のHPにおいて古寛永が従来の銭譜と全く違う並びになっているのは、私なりの古寛永の分類学習の試行錯誤の歴史です。 さて、画像は寛仙堂山添師のヤフオク出品。四国の地は玄友谷巧二師、寛仙堂山添春男師の両巨匠がそろっておりますので古寛永研究の盛んなところ。この両氏に九州の祥雲斎坂井博文師を加えたあたりが現代の古寛永収集界をけん引しているのじゃないかしら。 しかしながら、古寛永の収集家は激減しています。分類が細かくて難しいのと古寛永の絶対数そのものが少ないからなのです。実際、古寛永泉志を読み始めたとき、同じに見えてしまう書体のなんと多いことか・・・。ようやく全体像がつかめるようになるころには古寛永泉志はボロボロになっていました。 画像の品は芝不草点刔輪の白銅銭。不草点刔輪は芝銭のNO1珍銭で未だ未入手の品。少し無理すれば入手は可能なのですけど、自分の将来設計を考えると古寛永は入手しないと心に決めています。不草点刔輪には銭径の大きな品が多いのですが、画像の品は24㎜大と小ぶりだったと思います。しかし、刔輪痕跡は明瞭でなんでこんなに白いんだ・・・と心を揺さぶります。古寛永の収集をするのなら今がチャンス・・・なんですけどね。 |
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1月7日【小字のお名前】 (不知長郭手)小字の薩摩小字という旧名称は非常に明瞭で良かったと思います。小川青寶樓師は薩摩の名前が捨てがたかったと見え、短人偏を薩摩小字として残し、長人偏だけを(不知長郭手)肥字としています。現在の分類は(不知)小字が一般的で短人偏と長人偏に分けられています。類似貨幣カタログでは少し名称を変えて小字と小字深冠當及び深冠當花押肥に分類されていますが、大同小異で本質的にはあまり変わっていません。。 かくいう私も「薩摩小字」という名称に未練たらたらなのです。と、いうのも「小字」という名称は一種の天保銭が独占するにはあまりも普遍的過ぎるのです。このような名称を冠するときは鋳地あるいはもう一つの特徴をかぶせるのが常套手段で、例えば「秋田小様」「広穿大字」「仙台広郭」等々・・・。これは寛永銭でもよく見られる名称付け方法で「厚肉抱寛」「異寛小永」「亀戸小様」等あげたらたくさん出てきます。 それにこの天保銭は薩摩の各銭に比べれば確かに小字なんですけど、単独で見ればたいして小字には見えません。初心者から見ればなんでこれが小字なんだと混乱すること必至の名称なのです。 薩摩小字に戻した方が格好はいいものの、小川吉儀師泉譜にいわく「本銭はほかの銭種に比して黄褐の銅質の物である関係上、薩摩藩鋳ではあるまいと言う研究家のいることを附記しておく。」とあるように、薩摩のガマ口と呼ばれる初期銭とは銅質製作が少々異なるのです。ただ、天保通寶鑑識と手引きにおける拓図はあきらかに小様のものですから、これが黄褐色である可能性は少し疑問です。泉譜のものが黄褐色の小様であると仮定すると小川青寶樓師が新訂天保銭図譜に記述している「(薩摩小字は)前品(他の薩摩類)と銅質製作共に同じである。(中略)普通にあるのは銅色が違うものもあるがこのところに入れておく。」そして位付けが「(普通品)四 黄褐色 一」としている意味は果たしてどうなのでしょうか?青寶樓の所有品は文脈などから見てやはり黄褐色であると思われるのです。つまり小川吉儀師は「黄褐色だから薩摩じゃない可能性あり」と言及し、青寶樓師は「黄褐色でも銅質製作は薩摩で良い」と主張しています。これからも青寶楼も薩摩小字の名が捨てがたかったのだと感じるのです。 薩摩の天保銭でも琉球通寶の小字や広郭短尾通など純黄色に近いものが確かに存在しますし、小字の小様銭には薩摩の白銅質の色物も存在するようなので後は製作の問題かと思いますが、私にはまだ判断しきれません。(薩摩説はちょっと分が悪いと思いますけど・・・。)ただ、混乱を招く薩摩の名を外すのは現段階の流れでは致し方ないと思われます。 では名称を変更するとしたら何が適当か??? 薩摩小字の名が使えないとすれば、原点に戻り長郭小字という名称があります。青寶楼が最初につけた名前ですね。 また広穿小字はどうか?不知の有名品の広穿大字の向こうを張るわけですけど、大して広穿でも小字でもないし、同系列のものと間違われる危険性もありますね。(ちょっと捻って長穿小字とする手もあります。) 改めて書体の特徴を見ると①文字の横幅が広く縦にやや詰まる。②とくに保字が極端縦に縮み小さい。③筆勢、とくに通辵のうねりが強い。④通用の両肩の縦画が上に突き出る。⑤寶足が気持ちよく広がる。⑥當百大きく、百の横引き先端の爪が大きい。⑦花押が扁平。⑧極端な横広銭形。⑨穿の位置は上方に偏る。(天保側より通寶側の方が径が長い)・・・こんなところかしら? 縮柱保・短柱保 勁通・鋭通 爪百・鋭爪あたりの言葉組み合わせたらいい名前が出来ないかしら・・・ねえ? |
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代表的銭譜の不知小字短人偏黄銅質大様(薩摩小字)の拓です。(昭和泉譜・大橋譜・當百銭カタログには掲載なし)) 新訂天保銭図譜の拓本はさすがに立派で別格です。拓本上で天の上部輪に小欠が見えますが、(同じ拓本の使いまわしの可能性があるので)本当に欠損があるのかは分かりません。不知天保通寶分類譜P95-2の拓本はかなり細身に見えます。右の拓本に重ねてみると輪半分縮みますが長径は同じ。これは瓜生氏の編集資料に時々見られるもので、こうなると果たしてこの拓本の天保銭が本当に実在するのかも怪しい。(右と同じものかもしれません。)秋田の村上師の天保通寶研究分類譜等の著作にも大様銭が確認できますが、これは不知天保通寶分類譜の3に該当するもの。背の広穿ぶりが目立ちます。類似カタログの拓本もなかなか立派で、新訂天保銭図譜に近い大きさがあります。こちらは天第一画の末に鋳だまりがあり、拓本では上部輪の肌に荒れが見られます。秋田の村上師は薩摩小字を入手したときの心境として「小川吉儀譜に現存2品ぐらいではないか?と記されていた当時は夢見ごこちだった。」と(研究分類譜の巻末コメントに)記しています。小字大様の存在はこうやって確認したところ少なくとも現存5品以上はあると推定されるものの、少ないことは間違いありません。小字短人偏の大様は私の保有している泉譜の中にほとんど掲載例がなく、あっても上記の拓本の品の使いまわしだと思われます。(上記以外では天保仙人様の蔵品しか知りません。)私のような小者は当然今も夢見ごこちでして、すなわち半年以上にわたって夢遊病状態です。 なお、勢陽譜にも拓本掲載がありますが、ひとまわり小さいので次鋳クラスと思われます。これは勢陽譜の前身の大橋譜の拓においても同じなので、大様については収録されていなかったものと思われます。ちなみに小川吉儀譜掲載の小字も小様で、勢陽譜の拓本現品だと思われます。 |
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2020年もよろよろと立ち上がりました。喪中ということで年賀状は控えさせていただきました。非礼をお詫び申し上げます。しかしながら親族一同が我が家に大集結し、餅つきはするは獅子舞は来るわで大騒ぎ。どこが喪中なんだろう? さて、昨年の最大の収穫は左の称:薩摩小字短人偏でしょう。この小字は特に銭径(長径)が大きく、ここまでのものは小川青寶樓師の新訂天保善図譜にあるものぐらいなのですけど、出所がいまだによく分かりません。通尾の先端上部にある小星は青寶樓とほぼ同じでサイズも近似していますが、青寶楼拓に見られる天上左側の輪の小欠がこれにはありません。名品間違いなしで、これ以上の状態の小字は(少なくとも短人偏では)見たことがありません。昨年度の収集はこれの入手で息切れをしてしまい、後は惰性になってしまいました。更新についてもぼちぼちやっていきます。夜の散歩が忙しく、健康維持のため睡眠時間をこれ以上削れないのでマイペースになりますがお許しください。(猫アレルギーが治りませんが、悲しいことになれてきました。一時は猫喘息でしたので・・・。) |
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水戸接郭と土佐額輪の鑑定 1.土佐額輪(小様) 額輪肥字は本座銭に覆輪をして写したもの。砂目が非常に粗くざらついています。軽量のものも多く見られます。額輪は本体系と肥字系があり、この小型銭は極印だけを見ると肥字系なんですけど、寶足がわずかに離輪していて本体の次鋳の可能性も否定できません。額輪に小様があると仙人様からお聞きして、探し回って見つけた1枚。そんなにあるタイプじゃないと思います。 2.本座異制(称:秋田本座写) 大きさを書いたからお分かりになられた方も多いと思いますが、ノーヒントならまず当たらない品です。見た目は額輪の肥字系とほとんど変わりません。恩賜手とか明治吹増とも言われますが、銭文径が本座とほぼ同じ。明治初期、佐幕派の志士が房総半島南部に集結したため、明治政府は房総南部の鋳砂が手に入らなくなってしまいました。そのため、代替の鋳砂を使ったのですが、質が悪くこのような出来になったと言われています。 なお、昔からこのタイプは秋田本座写とも言われていますが、現代では秋田説は否定されています。 3.会津濶縁(離足寶) 離足寶まで言い当てた方は満点。これは花押の形(後端が丸くなる、中央の髭が短い)から額輪や接郭ではないとすぐに分かると思います。また、極印は私がダビデの星と呼ぶ大型のもの。文字は全体に縮小し、面の輪の左側の郭下辺あたりにごく小さな瑕があるものが多く見られ、この画像でも拡大してみると傷があるのが分かると思います。濶縁離足寶は藩鋳銭としてはちょっとした珍品の部類です。 4.土佐額輪(肥字:称南部民鋳) 1~4まで砂目はほぼ同じ特色ですよね。額輪肥字はその昔は南部民鋳と言われました。しかし、いつの間にか土佐藩へ移籍していましたが、天保仙人様は再び南部藩籍に戻すべきだとのお考えです。13g台の重量は、流通が危ぶまれるほどの軽量で、この天保銭が出たのはかなり末期状態だったのではと推定されます。 5.土佐額輪(本体) 非常に判別が難しいものをあえて選んで画像化しました。土佐額輪は砂目が粗いものが多いのですけど、これは砂目がものすごく滑らかな一枚。ここまできれいなものは貴重です。ただ、決定的なのが極印の小ささ。額輪本体の極印は全天保通寶中で最小です。本体は文字が細く、書体は接郭に似ていて寶字は離輪します。瓜生氏の泉譜、天保通寶銭分類譜には、額輪本体と接郭にかなり混乱が見られます。接郭との書体上の一番の違いは背當の位置。接郭の方が刔輪が強く當が輪より降り離れます。あまりに雰囲気が違うので本体と肥字は別座だという考え方もあるぐらいなんですが、収集界ではなぜかその違いにあまり言及していません。なお、額輪の名称の由来ですが、覆輪を行った結果、輪の外側の方が肉厚になり、輪の内側が内側が低くなり通用銭では陰起する癖があるため。母銭の雰囲気があたかも額縁をはめたように見えるからという理由。この特徴は母銭に顕著で、通用銭の場合はかなり失われています。 6.水戸接郭(強刔輪タイプ) 1~4までのザラザラ肌とは異なり、非常に砂目は滑らかですよね。実は接郭の刔輪の強弱はバラバラなんですね。雑銭なんで細分類までされている方は少ないと思いますけど、内径を計ると1㎜以上の差があります。接郭は内径を計った方が差が分かりやすいのです。これは刔輪が最も強く、天上、當上、寶下の隙間空間がものすごく大きい。極印も本座に比べると葉脈の縦ラインが長めです。 7.水戸接郭(濶縁:弱刔輪) 書体だけ見ると額輪の本体にとても似ていますよね。違いは背の刔輪の強さと極印の大きさ。また、砂目は極めて滑らかです。なお、接郭は内径に3タイプほどあり、画像は割愛しましたが前の銭との中間タイプのものも存在します。接郭も額輪も奥が深いのですよ。 |
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秋田小様の鑑定 平均的サイズは47㎜前半。小さいものが多いものの、稀に48㎜を超える大型銭があります。 極印はこじんまりした丸い桐極印が深く打たれています。 色調は少し黄色味を含んだ赤い色が多く見られます。 背がずれるものが多く、内輪の修正痕跡が時々観察できます。 砂目は比較的滑らかで地の部分や輪の表面などはざらつきません。 (会津や土佐はざらつきます。) 文字の加刀はほとんどありません。文字周囲は自然な加刀がわずかに見られる程度。 久留米は文字周囲が幅広く深く加刀されます。これは最も重要なポイント。 1.秋田小様(中様) 郭内の仕上げがあり美銭です。母銭仕立て? 2.土佐額輪赤銅質(南部民鋳) ざらつく砂目と、覆輪形状が特徴的。 3.秋田小様(3回写し) 柔らかく赤い銅質で秋田に間違いなし。雰囲気はやや変わっています。 4.秋田小様(大様磨輪) 磨輪小様。一見秋田には見えない。背側は秋田。銭文径も秋田には思えない大きさ。 5.薩摩広郭赤銅質 これは鋳肌が全然違います。 6.秋田小様(大様) 48㎜を超える秋田小様は珍品です。母銭かもしれません。 7.久留米正字濶縁 文字周囲の加刀と極印形状がポイント。 8.不知広郭手 これは画像だけだと難しい。極印が違うのと明るい赤黄褐色で銅質が固い。 9.秋田小様(細縁細郭) 色は悪いのですけど立派な秋田。極印と製作が同じ。細郭になるのは珍しい? 10.会津濶縁 花押の形と砂目で判断できます。 11.秋田小字 今回の入手品。極印が確認できないものの文字の周囲の彫りがあまりなく久留米とは違う。 |
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不知銭の鑑定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
では何番か?・・・「驚くなかれ!3番です!」 1番は見た目は細郭手の覆輪に見えるんですけど、何度計測しても本座サイズを超えない。組み物の中にこいつがあってすっかり騙されました。砂目や色合い、少し幅広の輪など絶妙です。これが不知銭に見える方は私と同じ目をしています。でも不正解。計測値もほかの特徴においても本座と同じなら本座としか判断できません。 2番は本座の火中品で変色しているだけ。背は普通の色です。実物はもう少し白っぽく見えます。これは1番と比較させるための仕掛けでもありました。 3番は見事に本座銭に擬態していますが銭文径縮小でわずかに覆輪の不知銭です。當上にも加刀痕跡があります。極印はよく見ると中央の柱が太くなっています。長径49.1㎜、短径32.3㎜、銭文径41.1㎜、重量21.2g。 最近オークションネットに出品されていた一枚で、肉眼だけじゃ判別できない品ですね。 4番は細縁で寶足が長く見える傑作ですけど偶然の変化。鋳だまりです。文字変化だけ追いかけている方は騙されます。銭文径、重量、製作ともまったく異常ありません。私も目を疑いました。楽しい品でしょう? 5番は(意図的かどうかわかりませんが)輪が圧延されていると判断しました。背側の発色が悪いので、あるいは火中品かもしれません。意図的圧延をするときは加熱してローラーにかけるのか、それとも圧延の際の傷をごまかすために火にあぶるのか、青錆が出たり変色したり、表面がすべすべしたりします。また、一方向に伸ばすので、縦方向の輪の幅と横方向の輪幅に不自然な差異が生じやすくなります。こんなに変わって見えても銭文径や重量は本座銭の規格範囲内です。指先で触れると輪の部分が少し外側に向かいわずかに傾斜して薄く感じられますので、部分的に伸ばされたのかもしれません。 人によって判断は異なると思いますが、私は(オリジナル書体、焼け伸び銭を除き)覆輪の通用銭で銭文径が縮まないのは常識ではあり得ないと断定します。銭文径が本座とほぼ同じである不知銭は確かに存在しますが、それには不知銭であると判断できる合理的な理由が必ず別にある場合に限ると私は定義しています。 この他に最近騙されたのが・・・画像では真赤に見えた品がインクで赤く染めてあり、撮影後色彩調整したと思われる品。画像マジックにはまりました。がっくり。 |
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難読地名の解答 1.あまありき。海士村と有木村が合併して生まれた地域。小港鉄道の無人駅があります。 2.ひつば。櫃は箱。挾は挟の旧字。山に挟まれた狭隘(きょうあい)な盆地やくぼ地、谷間。 3.わんめ。かつてあった海上郡の支配地区の境目(境界線)の意味が由来だと私は考えていました。 4.おだっぺ。だっぺ言葉千葉の本領発揮の読み方。 5.ついへいじ。明治以前の記録には露乾地(露干地:つゆひじ)の記述が見られるためこれが元の漢字。地元の人は「つうへいじ」と言っています。川岸の低湿地を開拓して農地にしたのがはじまり。今では梨やイチジクの栽培地です。廿五里は鎌倉から二十五里あるからという説もありますが、鎌倉時代の里程計算上はあいません。(源頼朝が挙兵した地だから頼朝にゆかりはあります。)実は千葉市内に通平寺氏という武将が砦を作り、廿五里城と呼ばれた記録が残っています。おそらく、こちらが本家。わが市の廿五里は、似た呼び名であったことから後発ながらちゃっかり文字を拝借したものと思います。今では本家が地名として消滅したため難読地名の本家になった・・・というのが私が出した結論です。 だっぺ言葉で思い出しましたが、私の地域で「押す」は「おっぺす」で「走る」の命令形は「走れ」ではなく「走ろ」です。「おっぺす」は20歳を過ぎるまで方言とは気が付かず、「走る」の命令形は「走ろ」だ!、教科書は間違っていると国語の授業が大騒ぎになった 記憶があります。ちなみに子供たちの引率中に「お~、さびさび~。おっさ、おでんでんくうべでん」と発言して大笑いされてあだ名が「おでんでん」になった知人もいます。意味は「うわ~とても寒いな~。そうだ、おでんでも食べませんか」です。今では地元でも若い子には通じません。 |
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