秘密の封印部屋
この部屋は私個人の記録、考証前のお話、不確定で外部に公表できない噂話、収集画像、記事の書きためなどが入ります。偶然この部屋にたどり着いた方は、多くが未発表・不確定の記事ですので他言なきようお願いいたします。
あらゆる真実は一度発見されれば理解するのは容易だ。
肝心なのは真実を発見することだ。- ガリレオ・ガリレイ  
 
おはようございます。
着荷のご連絡ありがとうございます。
私の方もきついことを言いまして申し訳ありませんでした。
コインブームも今は無く、そのために、大手業者や組合がしていることは信じがたく、私は、現在は目利きの収集家しか信用していません。本物及び、本物でも状態が悪いもの、そして伝世の皇朝銭、円銀が悉くが通らない鑑定、本物を偽物として安く引き取って本物として普通に売る業者、自分の所の鑑定書が以前付いていた物を偽物とする組合、表には書けませんが、収集界をだめにしています。私、友人たちにだけにほぼ毎月発行している会報が昨年秋に210号、発行して30年を丁度迎え、会報には表に書けない事を正直に書いて読んで貰ってます。ここ3年ほど前からは隣県の早朝骨董朝市露天に月一回、古銭を持ってくる人がいるので行くのですが、最近、20歳前後の若い女の子が古銭を買いに来ています。
全くの初心者で一応、貨幣カタログを持参してきて、価値なんてどうでもいい、安い軍票や近代紙幣、少額面の近代銭など併せて10枚ほど買っていきますが、デザインがいい、一厘銅貨などはこれかわいいと言って買っていきます。私も、コインブーム小学生の頃は所持金ほとんど無く、じいちゃんから貰った寛永銭30枚をもって学校に行き、みんなの持っている古銭と交換した物です江戸の古銭は自分しかもってなく、みんなのは100円銀貨、ニッケルの大型50円穴なし50円などで、なかに、一厘銅貨、鳳凰の50銭銀貨を持っている子がいて、自分はそれを見たときになんときれいな図柄の50銭、額面と菊紋にインパクトがありちっちゃい一厘に惚れ、どうしてもほしいと、寛永銭何枚もやって交換した物です相手は寛永銭が珍しく、ほしいので喜んでいましたが。このように初心に返って収集したい物です。
北陸は穴銭は全くと言っていいほど珍しい物が出ないところです。以前15年くらい前までは古銭会もあり、行っていましたが、今ではほとんどの方がお亡くなりになり古銭会も無くなり、本格的な収集家も解っている限り数人しかいなく、特に穴銭を集めているのは私だけと思います。前にも書いたように、天保銭は無知です。友人宅にはまだ2000枚近くの天保銭があるので何かお聴きすることもあるかもしれません。ご縁がありましたらまたよろしくお願いします。

920-0822
石川県金沢市東長江町伊1-63
山下 智
xxxstella@po.mmm.ne.jp  xxxは除外
泉譜原品を探して
最近、古いコレクターの放出品を購入する機会が増えました。秋田のM氏の所有されていた天保銭は不知天保通寶分類譜をはじめ いろいろな泉譜に掲載されていることが多いのでときどき発見があります。入手時にそのこと知らされることもありますが、しばらくして気づくこともままあります。
有名泉譜の原品という言葉の響きには特別なものがあり、昔の大家なら田中銭幣館や大川天顕堂、平尾麗悳荘あたりが持ったものが超ブランド品でしょうね。
氏名

川口 理恵
住所
〒6620872
兵庫県 西宮市 高座町
電話番号
08061793920

 


銀座コインオークションで700万円で出品されていた加害金判が2000万円で落札されました。ファンタジーが本ものに化けてしまった瞬間でした。
台東区に山賀さんというコレクターがいらっしゃいました。この方は穴銭の贋作・ファンタジーを熱心に集めていた方でしたが、亡くなってからご家族がその遺品を整理しました。良い物はあらかた売却されていたのですが残ったものが茨城はは取手のの佐藤氏の手に渡り、その佐藤氏の死後銀座オークションに出品されたようです。これらは青寶僂も絡んでいた品なのですが、どうした経緯で流出したのかは仙人にもよくわからないようです。
卓上・

124日 【久々の八厘会】

展示品:秋田小様・南部民鋳・土佐額輪:天保仙人

秋田銀判4種(うち1枚が改め印に○のない九匁二分銀判):南鐐清水氏

不知短尾通細字類 奇天手と張点保 不知長郭手覆輪母銭仕上げ:浩泉丸

大型厚肉の鏡屋銭母子組(会員展示)

大型厚肉の鏡屋銭女陰寛永(会員展示)

〔泉談:浩泉丸〕

短尾通細字は変化が多く見られ、泉譜のとおりでないものが見られます。この短尾通細字濶縁としたものは大和文庫の入札に出ていたもので、不知中郭手覆輪の名前で出ていました。私は入手後に斜冠寶の名を付け加えていたのですが、ある方のご指摘でこれが短尾通細字の類であることを知りました。短尾通細字は天保通寶と類似貨幣カタログの中に抱冠寶・崩字・短尾通細字・短尾通細字濶縁の4種類が掲載され、同炉とされています。

私はこの不知銭を観察していると特徴のある極印を使用していることに気付きました。それはハート形のような地に左右段違いの葉脈があるもので、まるで極印の中に人が立っているようにも見えます。この特徴のある極印に私は見覚えがありました。その結果として覆輪の長郭手でほぼ同じ極印が打たれているものの他に、2枚の類品を再発見することができました。短尾通細字異品としたものは、その昔収集誌上の入札に草点保として出されて返品になった経緯のあるものでして、再入札で私が入手しましたが、実は秋田のMさんの泉譜に「覆輪刔輪退口保」の名前で掲載されている原品です。

このように書体が全く異なっても、桐極印を調べることで同炉に分類が可能であることが分かり、以来私は不知銭の極印を観察することが楽しみになりました。

なお、短尾通細字の類はこの極印の特徴の他に、横太りの覆輪・刔輪銭で、その割に銭文径などはあまり縮まない傾向にあることや、郭が中郭気味に膨らむことが多い点に特徴があります。(密鋳銭の作者は書体の違いなんてあまり気にせずに写していたと思います。なかには表と裏の書体が異なるものもあるくらいですから。したがって極印を同炉の手がかりにすることは一つの手段として有効だと思います。:天保仙人談)

続いて極印のつながりで奇天手を展示させて頂きました。これは昨夏のCCFオークションに出た品で、私は郵便入札にいたずらで最低価格近くを入れていたら落ちてしまったもの。天保通寶と類似貨幣カタログの原品で私には過ぎた品です。応札者がほとんどいなかったことに不安を覚えて仙人様にいろいろお聞きしていたのですが“極印を張点保と比べてみなさい”と言われて調べたところ、ほぼ同じものが使用されていることが判明して、少しだけ安心できました。複数の長い葉脈が左右非対称に走る非常に特徴のある極印です。

最後に展示したものは、不知長郭手の覆輪母銭仕上げです。これは昨年のキュリオマガジンの入札に出ていたもので、背に朱書きが見えたことから古い収集家の由緒正しいものだとにらんで応札していましたが、実は出品者は天保仙人様でした。そんなことは露と知らず、玄関先で郵便夫から直接荷物を受け取り、たまたま天保仙人様にお会いする予定の日でしたのでそれを持っていきました。したがいまして、これが母銭仕立てだということには仙人様から伝えられるまで全く気付いておりませんでした。仙人様も朱書きに母銭とあることにはじめは気づいていなかったそうです。

(たまたまキュリオの受付の女の子が「母銭って書いてありますよ!」と言ってくれて分かりました。母銭仕立てという言葉は印刷段階で漏れてしまいましたが、誰が気づくか楽しみでした。:天保仙人談)

〔泉談:天保仙人〕

秋田小様は昔1枚2000~3000円で買えました。ところが小川青寶樓先生がこれを秋田鋳としたとたんに人気が跳ね上がって15万円ぐらいになってしまいました。数が少ないように思われていますが、収集市場にはおそらく200枚ぐらいはあるはずです。

改訂天保通寶図譜で青寶樓先生は土佐額輪と南部民鋳を一緒にしてしまったのですけど、土佐額輪と南部民鋳は制作に違いがあり、一方で南部民鋳と秋田小様は制作に近似点が多く、私はこれらを改めて分類しなおす必要があると思います。なお、土佐額輪は南部民鋳と異なり、文字が細くなる特徴がありますのでそれで見分けることが可能です。

秋田小様の母銭を3品ぐらい見ましたがいずれも通用銭を写したものですね。鋳造の癖で鋳型が上下にずれる特色があります。贋作も見られるので、この癖があるほうが安心ですね。※土佐藩の領地内部においても国は分かれているので、鋳造地が異なることもあり得ると思います。それが額輪肥字と呼ばれるものです。なお、肥字類の多くにも南部民鋳が含まれているかもしれません。

展示品の大型の分厚い鏡屋銭ですけど、大きさからみてこれは母と子の関係だと思います。厚さの違いは笵に母銭を押し込むことにより調整できます。和鏡を作る際、溶けた金属の上澄み部分は不純物が多いので材料としては使い物になりません。そこでその上澄みを利用して絵銭を作ったのです。和鏡は今でも京都の鏡職人がつくっていますので、鏡屋銭は最近もつくっていると思います。この鏡屋銭も比較的新しいものでしょう。コレクターの中には絵銭は江戸時代以前につくられたものじゃなければだめだと言う方もいらっしゃいますが、絵銭は時代に関係なくその風合いを楽しむものであって良いと私は思います。

女陰寛永も鏡屋銭ですね。これは子孫繁栄・子宝成就を願ったものです。これらの大きな鏡屋銭は泉譜には掲載されていませんが、絵銭の場合は泉譜に掲載されていないものがたくさんありますから。

盆回し用に私が、今日お持ちした物の中でいくつか説明します。文久永寶には面と背の型の母銭のサイズがまったく異なるものがあります。普通、鋳造に際しては面側の笵と背側の笵をきちん合わせるように管理するのですが、文久銭に関してはそれが守られず、面と背側で別の笵を使ってしまう例が散見されます。文久に面背がずれた錯笵も良く見つかるのはこれが原因です。

また、今日は天保通寶の面背逆製になったものをお持ちしました。本座の制作においてこのようになることは考えられません。母銭の段階で表裏を逆に仕上げられたものが写されたと考えるべきで、不知銭(もしくは不知の母銭として仕上げられたもの?)になります。

なお、最近インターネットで贋作がたくさん出ていますが、泉譜から型を起こしたものばかりですからご注意下さい。あんなものに大金を払うなんていうのは馬鹿げていますから。私が贋作だとわかるのは本物を見ているからで、贋作者は書体など真似できますが、制作や銅質までは知りませんので正しくコピーできないのです。

それと東京オリンピック1000円銀貨のヘゲエラーをお持ちしました。

ヘゲエラーの原因は二つのタイプがあり、ひとつは金属の破片等が表面に載った状態で圧延されたもの。もうひとつは圧延された金属板の端の部材が使われ、それが劣化して割れたもの。金属板を端からローラー圧延してゆくと、表面部分が圧力で上へかぶさるように押し出されてゆきます。それが両端まで押し延ばされると、端の部分は中空のサンドイッチ状になります。(片仮名のエの字を上下に押しつぶした状態を考えて下さい。)

端の部分は切り落とされて通常は使用されないのですけど、戦時中や東京オリンピックのときはあわてて作ったので、なかにはそんな不良品が混在してしまったみたいです。ここに空気が入ることで膨れたり、経年劣化で真っ二つに割れたりします。このようにしてはがれたものは、断面が真っ平らではなく、滑らかながら微妙に波打ちます。なお、エラー貨幣は贋造がとても多いので、知識がない方は手を出さない方が無難です。

〔泉談:南鐐清水氏〕

本日は秋田の九匁二分銀判の手替わりで、改め印の周囲に○のないものをお持ちしました。四匁六分銀判には○のないものが散見できますけど、九匁二分銀判はなかなか見つかりませんでした。(○のないものは日銀に1枚あるだけです。:天保仙人より)これはもともと茶卓に改造されていたものの中から見つけたものです。

発見してからこれに組合鑑定書はつかないのか・・・という問い合わせがあったのですが、なにせこれだけしかないものですから鑑定できる者がいません。そこで一億円ぐらいする成分分析の機械で調査して頂いたところ、本物とされる秋田の9匁2分銀判と組成が全く同じという鑑定結果を頂きました。

(茶卓にされていたことからみても、古い時代からあったものだと分かります。なお、改め印の周囲に○のないものはごく初期のものだと思われます。九匁二分銀判についても初期は○なしで作られ、すぐに○のある改め印に変更されたと考えられます。極印は消耗が激しいので書体にいくつかあるのは当然で、むしろ極印書体が一種類に限られるというほうが不自然だと考えます。:天保仙人より)

参加者:伊藤・遠藤・小川・奥富・目黒・中島・浜本・羽生・武藤・吉田・小出・菅原・清水・仙人(+仙人婚約者 
 920-0822
石川県金沢市東長江町伊1-63
山下 智
090-5174-5388
 『趣味情報』誌は現在の『収集』誌の実質的な前身で、昭和49年3月に月3回刊のタブロイド旬刊誌としてスタート、昭和50年から月刊化、昭和50年6月号から雑誌スタイルとなり、昭和51年8月号まで刊行されました。
【丁銀の作り方?】
最近、ある雑誌にまた丁銀の誤った作り方が掲載されました。別に批判をしているわけではありません。以前は私も間違えていましたから。ただ、この口伝が古泉界に連綿と語り継がれる弊害は何とか断ち切りたいと思っています。誤った作り方とは2014年の9月の制作日記にも書いていますが、溶かした銀を熱湯の中に注ぐという行為・・・これは金属爆発を誘発する非常に危険な行為で、絶対まねはできません。
なんでこのような間違いが伝わっているかと言えば、金属を溶かした流体の状態を、江戸時代では”湯”と称したからだそうです。熱した湯を容器に注いだ行為がいつしか熱湯の中に溶かした金属を注いだことにすり替わってしまったようなのです。では具体的にどうやったかと言うと・・・実はよくわからないのですが、砂型の上に凹みをつけて銀を流したと考えるのが自然のようです。バサラ日本史と言うサイトにニセ丁銀の作り方が掲載されていて、この作り方が一番合理的な気がします。
直永の母銭というタイトルで出ていた品。広郭でどうみても違う。これ昔から寶永の母銭とされるものの書体(昴寶)に雰囲気は似ています。ただ、広郭ですし、文字に繊細さがないですね。どう見ても近代作・・・それもプレス製に見えてしまいます。
現代古銭屋考
趣味と職業が一致できれば楽しいでしょうね。お恥ずかしながら私も今の仕事に就く前に、方泉處に就職を試みたことがありますのでよく判ります。
ただ、サラリーマンならともかく、自ら収入を得なければならないとすると、これはまた大変な稼業だと思います。この古銭屋というもの、今では新しい形態がかなり出ています。

1)店舗 
昔ながらの古銭店さん。お店としては在庫経費がかかること、店舗の維持費がかかることから、販売価格はやや高くなる傾向があります。イベント時には出張販売を行うお店も多いようです。
一方で、「買ってほしい」とお客様から持ちかけられることが期待できますし、目が効けば安く買って高く売り抜けることも可能なんですけど、その逆もある。それに顔色を見る商売だから山師的でちょっといやらしいかな。滞留在庫のデメリットを防ぐため、委託販売方式や、貸しブース方式のお店もあります。その昔の古銭屋さんは、古銭人気を育てるために泉書を書いたり、グッズを造ったり、勉強会や交換会を開くなど多角的に頑張っていました。買う側としては、実物を見ながら選べる絶対的な楽しさがあります。楽しみを創造するお店づくりが肝要です。

2)入札誌
お店に出かけなくても古銭収集が楽しめる方法。実物を直接手に取る機会はないものの、拓本などを参考に最高値で応募した方が落札します。売る側にしても手間暇はかかるものの希望価格より高く売れる可能性があるのでメリットは高いのですけど、仕入れに苦労するケースがあり、長続きさせるには人脈作りや、読みものとして地位を確立するなど、それなりの努力と信用づくりが必要でしょう。
委託品出品が普通なので店舗方式に比べて仕入れリスクは低く、出品価格も良心的になります。買う側としては移動の手間を気にしないで購入ができるのが素晴らしい。主催者側としては紙面づくりなどの手間暇が難点ですけど、昔の古泉家はこうやって趣味を広めていたと思います。

3)オークション
いわゆる競りです。対面方式で競り合うので、加熱するととんでもない価格まで行ってしまいます。状態の良い品や有名品や高額品をさばくには良い方法です。一方で会場費やオークション誌印刷経費など入札よりかなりコストはかかりますので、主催者としてはある程度規模が大きくないとうまく行かないでしょう。これには1にも2にも信用力が必要で、一度循環がうまく行くようになるとあとは自然循環ができるようになります。
贋作もちらほら混じっていますが、全般的にものすごい珍品が出てくる率が高く、競合がないと思わぬ品が低額で入手できることもあります。開催日時が指定されるので郵便入札はあるものの参加しなければ意味がないのが難点。

4)ネットショップ・ネットオークション
無店舗販売の方式。オークションに出しているケースや、店舗販売との併用も目立ちます。地方に住んでいてもパソコンがあれば購入できるのがメリット。ただし、吊り上げ行為や贋作出品が多いのはデメリットで信用できるIDの方は限られています。一方で、パソコンさえあれば時間を気にしないで参加できるのはいいですね。情報伝達もしやすいですし。この方式はこれからも進化して行くと思います。

5)かばん屋さん
高額の古銭をコレクターからコレクターに売り歩いている仲介屋さん。古くは佐野英山氏がそうであり、小川青寶樓氏もその一面がありました。資産家、お金持ち御用達であり、残念ながら私はお会いしたことがありません。会ったところで買えないですから。

6)古銭会における交換・売買(盆回しとボイスオークション)
コレクターの集まりにおける個人売買。相対で売買が成立するケースもありますが、盆回しと言って品物をお盆等に入れて回覧する入札や、司会による競りなどもあります。直に珍品が手に取れますし、手っ取り早い換金方法なので、これが目的で古銭会に参加する方も多くいらっしゃると思います。
難点は指定された日時に参加しなければならないことと、参加メンツのマンネリ化があることです。ただし、珍品などはコレクター間でかなり動いていますし、親しくなると採算度外視の相対取引もあるようです。
 
小様
小様銭には輪の山第2画の接するところに共通の凹みがあるそうで、5月1日の銅山銭にも観察ができます。長径は47㎜を切るほど小さいようで、それでも初鋳銭とされていたようです。
正様(もしくは陶笵)
鈴鹿の柴田氏
再び古銭に目覚めた後、私は数々の入札誌を取り寄せましたが、なかでも収集の中軸をなした入札誌です。新寛永・古寛永など基本的な収集はこの入札誌があったからこそできたと思います。宏足寶や容弱もここから買ったと思います。

富山貨幣研究会の三鍋氏
ものすごい刺激を受けたお店。新寛永の文銭の細分類にはじまり、古寛永の基礎的コレクションはこのお店のおかげ。寛永銭をこんなに一生懸命やっているお店はそれまで見たことが無かった。

入札誌穴銭の関氏
鈴鹿が寛永銭コレクションなら、穴銭は天保通寶コレクションを形成した入札誌。秋田の村上氏の収集物をとにかく集めました。
印版手の古銭柄物の絵皿
和同開珎・熙寧元寶・寛永通寶・文久永寶・福寿円満・富貴長春
古銭趣味が高じてしまうとこんなものも欲しくなってしまいます。私の知り合いに、古いもの好きが高じて古民家風の離れを建てた方がいます。インターネットで家具や扉を買そうで、土蔵の扉なども買うと言いますからすごいものです。(そんなもの良く売っていると思います。)古銭趣味が進んで、自宅に秘密基地を造って、内装を古民家風にしてこんな雑器を置き、作務衣など来て終日眺めて過ごす・・・全く興味がないと言えば嘘になりますが、私にはそこまでやる気力財力時間ともありません。
古銭はお金がかかる道楽ですから、私の場合はこういったものを画像で集めて妄想で過ごす方が性に合っています。
古銭の図柄なんて昭和30年代ぐらいのものでしょうか?生活雑器ですけど面白いです。 
ネットに出ていて、当然ながら破れて画像だけ収集鋳ていた品。長足寶になった長郭手。刔輪がはっきりわかる模範的な不知銭です。
太平天国にはいろいろな書体や種類があります。数年前、鎮庫銭なるものが下町古銭会に出ていましたが、それはいわゆる原材料としての銅銭材料という事。中にはペン書体のようなもの、明朝体風ありとにかく変わっています。この太平天国もデザインがすごいのですけど果たしてよいものなのかどうかは判りません。
加治木洪武背木
こいつはまいった。全く真贋が判りません。青錆は難しいですね。同じ出品者の者なので妖しいことはこの上ないのですけど、色の青いは七難隠します。
おそらく贋作の水戸広穿背ト母銭
この地肌の未使用母銭は非常によく見かけます。面背の砂磨きが無く、輪も地肌も同じように砂目が残り、しかし外輪は仕上げてあるので鋳バリ状に面側に痕跡が残ります。同じような形状の水戸虎銭が存在し、それらは大島延泉氏の贋作だと噂されています。
すなわち、全体に鋳肌が残る未使用金色の水戸銭系の品に出会ったら、手を出すな・・・が先輩方の教え。しかし、これらの品は今や日本貨幣協会の鑑定書付で堂々と流通してしまっていることもあるようでして・・・。
この鋳肌、伝加賀千代作の大錯笵天保と本当によく似ています。大錯笵天保は加賀千代贋作の中の最高傑作であります。加賀千代の下請けを大島がしていた経緯があり、大錯笵天保はあるいは大島の作品ではないかと思う次第。ただし、これは全くの想像にすぎないのですけど・・・合っているかもしれません。
加治木洪武背加
鐚銭界のスーパースターなのですが、ネットに出てくるとどうも贋作に見えてしまいます。書体は良いのですけどどうも郭の内側の仕上げが気に入らない。まあ、ここらへんの珍品はほとんどの人が手に取ってみたことないでしょうから、みんな半信半疑で突っ込んで行っているのじゃないかしら?最後はチキンレースなんですよね。
非常に良い感じの書体なんですけどどこかが気に入らない。なぜなんだろう。どことなく弱さ・違和感を感じるのです。
仙台大濶縁
瓜生氏はその著作の天保通寶銭分類譜(天保通寶研究会第7回配本)で以下のように述べています。
「細郭」銭には、本座・細郭銭に大きく
増金をして母銭仕立てにした大濶縁銭があって、古来より名品とされている。
製作精巧、銭形雄大なる当百銭であるが、やや薄肉仕立て(2.3~2.4㎜)のものである。本銭が果たして
母銭か通用銭か、古くより意見の分かれるところであるが、いずれにも桐極印が打たれており、外輪には覆輪の痕跡が残っており、その重量も20g未満であるので、通用銭仕立ての精巧作であるともいえる。
周知のことではあるが、「大濶縁」銭の背で、イラストに示した如く花押の前方下端の突き出し方向の外輪内側部分に、小さな欠け傷がある。これは全品に見られる特徴で、一つの母型の所産品であることを裏付けているとすれば、通様式に造られたということになる。現在までに「大濶縁」銭の特徴のすべてを有しているとみられる通用銭(これからつくられた通用銭)が見られないことは、或る意味で前に記した通りの当百銭かもしれない。
非常に意味深長であり、歯切れの悪い文章であることが受け取れます。さて、あなたはこれをどう解釈しますか? 
背川の件は貴殿も疑っている事は解っていました。私自身、真正品を見たのは、2回位しか有りません。青寶楼所蔵品と、やはりかなりの方だったと思います(記憶無し)。
奇天手入手は良かったですね、反対なんかしませんよ、むしろ『良くやった!』と、称賛しています。
今から35~40年位前、奇天手は4品(6品かも)位、一度に出現し某収集家がお持ちでした、今この人の名前が思い出せず、秋と言う字が入っていたと思います。その後機会が有り、その内の1品を見せて頂いた事が有り、とても奇麗な銭で、今回入手された物も、その出現銭の1品と思いますから、心配は無用です。
以前方泉処にて、奇天と奇天手の極印を比べ、同じだった事があります、となれば張天保とも同じ筈です、一度比較して下さい。奇天手が一度に出た事があるのを、知っているのは私や青森の板井さんの年代位でしょうね。
私が入手したのは、もう30年位前でしょうか、瓜生さんの売り立て会で、『勇文150万円』『奇天手100万円』で買い、所蔵していた日本近代金貨・旧10円から、新金貨を隆平堂さんに買って頂き、金策に走った記憶が有ります。これ位の名品になると、出会う機会は一生に何度も有りません。思い切った良い決断だったと、思います。
                      天保仙人
茶卓の天保
これは型どり鋳造ではなく、本物の天保銭を加工溶接したもののようです。側面から写した画像には桐極印がそのまま写ってました。天保銭が廃貨になった後に作られた意匠品でしょうね。4枚組で出ていましたがアジアンテイストのつくりです。
その昔はお店の粗品で灰皿やら貯金箱などが配られていた時代がありましたっけ。実家の蔵にはそういったものがまだ残されていますが、価値はないでしょうね。
これもその時代の遺物でしょう。
厚肉石持桐極印の深字
深字は額輪気味の製作で、地が深くて薄く18g前後のものが多いのですが21gを超えるつくりです。これだけ極印がはっきり見えるのは珍しいかもしれません。
たいしたものでは無いのかもしれませんが、気になって応札していましたが、間際で逆転されてしまいました。
深字の大様銭は昨年の夏に入手(夏の古銭会に掲示)しており、その結果は貨幣誌や大川天顕堂の拓本帳にも掲載されている物と同じだと判断できました。外径が大きく文字が細く加工されており、あるいはもとは母銭として作られたものなのかもしれません。
これは何?
この品を頂戴した方は判っております。雑銭の会の会長の暴々鶏氏様でした。なんかのおまけだったと思いますけど、思い出せません。
参考品として貴重なものだと言われた気がするのですが、未使用級の本座長郭を磨いたものにしか見えないのです。改造母だったか変造だったか?こちらは長径48.8㎜、短径32.0㎜、銭文径41.7㎜、重量21.6gと本座銭だとしてもごく普通のものなのです。だからよく判らない。
ただ、地肌や輪が滑らかに磨かれています。この技術が特殊だったんでしたっけ、やはり改造母と見るべきなのかな?う~ん、私はこの手の物はよく判りません。
いったいなんでしょう?
皆様のご意見をお待ちしています。
方字細郭
方字は存在数の割に人気がある天保銭です。一方で微細変化は多いものの、絶対的な手替わりは曳尾などに比べて少ない地味な性格。そんな方字ですけど、郭が細いものは細字に仕上がるものが多く好感が持てます。画像の品もどうってことのない品ながら、ちょっと惹かれてしまう私です。
なお、方字には絶対的な珍品の短二天の他に、次鋳に該当する銭文径の小さいものがあるとの噂を聞いていますが、私はまだ拝見したことがありません。どなたかお持ちの方、情報をお教えください。
 
 
長郭手長足寶
長足寶としましたが張足寶とすべきでしょうか?良く見かけるタイプだと思うのですけど、目立つのでなかなか入手できなくなりました。
不知長郭手張足寶
最近はネットでの戦いにほとんど勝ち目がありません。このレベルの不知銭で6万円の競りなのです。少し面側に焼けがあると思われ、面背の色が異なっています。しかし、コレクターはこれぐらいの難点も笑窪に見えるのでしょう。ぐいぐい行ってくれますね。
『葵・花唐草文七宝金具(位紀官符宣命筥金具 象嵌七宝)17世紀中葉 日光東照宮蔵』
三代将軍徳川家光の家紋が入っています。
 
富田作の銀判
非常に上作。平滑でつるつるしている。参考品として売られたものながら精巧です。
 
大島作試鋳見本
この地肌の色が延泉作
ラムスデン作文久當百
ラムスデンブラウンの色が特徴。
ラムスデン作百禄永昌
贋作母銭様
銭文径が39.9㎜。輪の仕上げが近代的。なかなかの上作。接郭の母をまねたものか?地金が新しく砂目がない。

 ラムスデン作
 
本座・長郭・銅母銭には、薄肉と厚肉が有ります。
これは、完成品の重量や仕上がり方を、調査すろ為と思われます。今までに薄肉銅母銭を1枚、厚肉銅母銭を3枚(内1枚は入手)実見しております。銅母銭で厚みを変えたのでは無く、錫母銭の段階で厚みを変えてみたようです。長郭通用銭では、2.3mm以下・・・2.8mm以上が本座の珍品なのです。まして2.2mm以下は、まず有り得ない位の稀少品です。
今まで長郭は1000枚位は見ておりますが、不知銭では良く見掛けましたが、本座銭では記憶がありません。
本座長郭には、覆輪は有りませんが、刔輪は銅母銭から、存在しております。細郭の場合は銅母銭が平均しており、薄・厚肉の銅母銭は未見です。恐らくは無いものと思われます。従って通用銭で薄・厚があれば、銭文径が同じでも、不知と考えられます。
何故ならば、この時期に母銭が持ち出されたと言う話があります、正確に言えば、母銭を横流ししたと言う説です。その為に細郭は急遽中止になった、と言う話ですが、後に後藤三右衛門が、私腹を肥したと断罪になっており、まんざら嘘では無いようですが、今では調べようがありません。実は本座は奇奇怪怪?謎だらけなんですよ!
              天保仙人 
ちなみに、この品は天保銭の反玉とまったく同じ金質・砂目なので、「反玉手」ということになってます。
「反玉が浄法寺鋳である物証の1つなので、あんたが持っておきなさい」と、O氏に半強制的に買わされました(苦笑)。しかも高額。

反玉の所有者に「あんたが持っておけ」と売りつけるつもりなのですが、「浄法寺銭だ」とは認めたくないかもしれません。
しかし、鋳所そのものは証明する手立てはなくとも、技術的には、「反玉は山内座の次鋳銭鋳造に参加した職人が作った」と断言できます。
ま、未使用銭が30枚近く浄法寺より出ているので、「当たり前」に近い話ではあります。 
8月10日 【反玉手の仰寶】
雑銭の会の工藤会長から分譲して頂いたもので、称:反玉手とされているもの。7月19日の制作日記に「南部肌の天保通寶」がありますが、よく似ています。
一方で、3月15日の記事に反玉仕立細縁銭がありますが、地肌は近いものの銅質には差がある気がします。
天保通寶に室場鋳銭のコーナーがあり、そこにやや黄色みの強い大様の立派な鋳放し銭の画像がありますが、これは工藤会長の旧蔵銭が巡り巡って偶然私の所有になったもの。推測ながらその出所もお聞きしました。
砂目・金質が反玉と全く同じなので反玉手と呼ばれていおり、その昔、反玉が浄法寺の出自である証拠だからと言って、工藤氏が某先輩から強制的買わされたいわくつきの品だそうです。
そうなると室場鋳という説はどうなのかという事ですけど、その根拠と云われる資料(泉寿など)をひもといても決定的な証拠が見当たらないのです。まして室場は調べる限り鉄山であり、そこで銅銭類を鋳造する理由が今一つ判らないのです。
反玉=浄法寺という情報は各方面から聞くことがあり、工藤会長も「技術的に反玉は山内座の次鋳銭鋳造に参加した職人が作ったのではないか」ないかと推定されています。反玉が浄法寺から大量出現したというお話も聞きますので、反玉も江刺も浄法寺も実は皆同じ地域の系譜で、時代や目的、あるいは炉の職人の違いに過ぎない・・・のかもしれません。
別途、入手した反玉は裏に錫錆のあるタイプで、黄色味が強かったのですが、たぶん某館の展示品でしょう。
オークションで入手し、本会入札で売却したのですが、何度か行き来して、さらにオークション(か入札)を経て、今は関東にあるようです。
※私の所有です。
私はいつも、どこでどうやって出たかは訊くことにしています。
(もちろん、具体的な個人名を引き合いに出したりはしませんが。)
地金、仕立てとも南部銭ではない仰宝の一例です。
「盛岡藩の役人が水戸藩の小梅藩邸に行き、鋳砂と種銭を貰い受けて来た」と書いたのは、新渡戸仙岳だったと記憶していますが(資料を開いていません)、不思議なことに、水戸藩の他の銭と照合してしっくりくる通用銭は多くありません。
この辺も課題のままです。
大量鋳銭サイズですが、輪側に傾斜はありません。
やはり「もある」という解釈が必要だということでしょうか。
水戸藩との交流の背景には、1)藩主が姻戚関係にあったことと、2)高炉の建設技術との引き換え(バーター)があったことなどが指摘されています。しかし、2)は明治に入ってからの話になるので、鋳鉄と鋳銭は分けて考える必要がありそうです。
 
砂磨きは原則として通用銭の技法のようです。(おそらく、傷が付きやすいという理由です。)
もちろん、母銭を取り揃えるための期間にも関係するとは思います。急いでいれば、ざっと仕上げると思いますが、実際に細かい傷が見えるものもあります。
実際にマイクロスコープで観察すると、母銭の表面には、砥石で必要箇所だけを修正したものが多くなっています。
輪と穿の他は、むらを刀で取り去るくらいで、ほとんど手を掛ける必要が無かったのだろうと見ています。以下はあくまで想像ですが、母銭の表面磨きには砥石か、鹿角、研布が考えられます。鹿角であれば、かなり強く擦っても傷はつかないですし、表面がつるっとします。これは痕がまったく残りません。あるいは布にケイ砂を含ませ、軽く擦ると、表面がきれいになりますが、縦横に小傷が付きます。目視ですぐに分かるほどではないので、拡大して観察する必要がありそうです。実際に見れば、使用したかどうかは、すぐに分かります。

しかし、画像の印象では、1枚ずつ全部違いますね。どうやって保存してあったのでしょうか。
当方、未使用のマ頭通を入手したことがありますが、最初は純白だったのに、2年程度で黒くなってしまいました。
うまく空気に触れないように保存していたのでしょうが、包みは一体どうなっていたのか、いまだにまったく分かりません。
和紙か、麻袋くらいしか方法が無かった時代です。
秋田小様とするには銭径がちょっと大きな天保銭があります。長径が48.55ミリ、短径が32.45ミリ、銭文径が40.40ミリです。寳字貝画第二画の出っ張りが不鮮明です。


※天保仙人様のいう、南部民鋳に見えますね。ここらあたりは私にはまだわかりません。 

浄法寺山内銭の地金です。
左より初鋳・次鋳・末鋳の順で、次鋳銭より後は黄銅になっています。
区分は、地金の配合で天保銭と照合した結果によります。

最初に見るべきは、金属の配合で、次が砂目です。
地金の配合は工期ごとに変化しますが、砂目は原則として同じです。

複数ある場合は、状態の劣るものを選び、磨き布で確かめてみるのが分かりよいです。 
長い間、地元で「山内写し」と認識されて来たのは、左側の品だけです。見ての通り、当百大字と地金、つくりが同じです。
あまり話題に乗らなかったのは、この品が少なく入手が難しいので、皆が「他の人が気づかぬうちに自分が拾おう」と考えていたためです。正字であれば、下値で7、8千円はつくと思います。ある業者さんは「それ以下では売らないし、売ってはいけない」と言っていました。しかし、中央、右のいわゆる「南部写し」も製作は同じです。簡単な話で、一文、当四銭の鋳銭は概ね百万枚単位で作りますが、まとまった銅材を調達できるのは尾去沢しかなかったからです。幕末に、本格稼働していた銅山が尾去沢しかなかったという意味です。その銅材を運び、短期間に大量に鋳銭出来るのは、山内座しかありません。消去法で行くと、答えはひとつです。
新渡戸仙岳の「山内に於ける鋳銭」では、鉄銭と当百銭の記述しかありませんが、当座の費用を賄うために、何万枚か銅銭をも作ったのだろうと考えられます。
穿に棹を通して、輪は横鑢または斜め鑢になってます。小字は割と見つけられますが、同じつくりで様々な銭種があるようです。左は離用通で、右は大字。面文にも小異があるので、文久様の親戚と考えていたのですが、これ単独で眺めた方が分かりよいです。おそらく「文政の少しへんなの」としてこれまで見逃されてきたのだろうと思います。
実際、ブックに「3千円」と書いて入れていたのに、誰も気づきませんでした。何となく、マイクロスコープで見て見たのですが、やはり「何だか変」の感触は正しかったようです。
健康なら、この後楽しめるところですが、今はここまでです。
製作手法が同じです。
延展写から移行して行く中途で生まれた者ではないかと思います。研究中途でしたが、残念ながら、解決できずに終了です。

※いわゆる俯永様と呼ばれる直写しもの。非常に少ない。
 
見えないと始まらない。 見ようとしないと始まらない。 - ガリレオ・ガリレイ  

見えている物だけが真実だとは限らない。見えていないものの中に真実はあるかもしれない。- 浩泉丸
 
新寛永通寶分類譜 古寛永基礎分類譜 赤錆の館
天保銭の小部屋 文久永寶の細道
石川さんが方泉處の館長になったわけ
江戸コインオークションでハドソンの工藤氏が明治通寶を落札したとき、(その品に疑念を持っていた)石川氏が会場にいた仙人の所へ明治通寶について質問しに来たそうです。仙人はそれが贋作であることを伝え、後日資料をつくり石川氏に手渡しました。その資料を石川氏が工藤氏に見せたところ、工藤氏から貨幣博物館方泉處の立ち上げについて打ち明けられ『自分一人ではだめだから』という理由で石川氏に館長になるよう要請があったそうです。

通用母と通用の違い
通用母は・・・ 輪の上下のやすり目が軽いか入っていない。
穿内の仕立が上から下まで入っている。
肌全体が滑らかであること。

焼けた古銭の秘密
玉塚家は戦争で罹災しています。小川青寶樓が購入した後、大川家をはじめ各方面に離散してしまっています。稲毛さんの黒く変色した繊字はおそらく玉塚家のものだと思います。
そういえば玉塚家にあった文久貨泉の母銭と思われるものが野崎コインで参考銭として7000円で売られていたことがありました。その、焼けの色から玉塚家から出たものと確信し購入。秋田の畠山氏に見せたところ間違いないもので、銀座コインで45万円で売れました。

幻の大川譜
大川鉄雄氏が書いた大川譜は門外不出として、小川家(青寶樓)にあります。その写しは山形の南鐐『清水氏』だけが持っています。それは無暗に見せることさえしてはいけない、ましてコピーなんかとんでもないとされていました。清水氏は仙人の兄弟子と言う関係から、長い時間をかけて仙人はついに全揃いを入手されました。富田の八両銀判を献上した結果ですね。お金がかかっています。

古銭は覚えた者、頭を下げたものの勝ち
小川青寶樓が貫井青貨堂の奥さまから伝えられた言葉です。
その昔、山本文久童は別格に怖かった。仙人も頭から怒鳴り散らされた。古銭を見せてもらうときは「拝見させて頂きます。」「ありがとうございます。」の礼節を守ること。怒られてから学んだことだそうです。
変なものを見せるとバカモンと庭に投げ捨てられました。それを誤りながら拾いにゆくことが何度もあったそうです。

離郭の母銭・筑前の母銭
仙人所有の離郭母銭は梁川の骨董店で出たそうです。
筑前の母銭は郭にうろこ状の鋳肌があるのが特徴。母銭は面の砥ぎがないので、この特徴が残ります。通用銭は面の仕上げがされるのでこの癖は消えてしまう。また、文字の各所に爪があります。当然、銭文径は大きい。発見された物はいずれも穿内未仕立てです。
ところで福岡離郭はもしかすると福岡藩の出自ではないかもしれません。それは離郭と筑前の母銭の製作に共通性がないからです。久留米は福岡藩の支藩なので石持ち桐極印こそが福岡かもしれない。離郭は九州であることは間違いないので、佐賀や熊本あたりが怪しい。
なお、筑前通寶にはチ極印と十字極印がありますが、チの方が古いと思われます。十字になった理由は、極印を細かく作るのが難しかったためだと思われます。
なお、筑前通寶は地元九州で時折見つかりますが、流通の痕跡はありません。
盛岡銅山や土佐は流通したものと言われています。

反玉寶について
反玉寶の細縁が見つかるようになってたくさん出てきたとき、鋳放しの反玉が母銭の未仕立てではないかと騒ぎになりました。反玉寶は瑕寶と正様の2種があるものの、瑕寶は少ない。
鋳放しの細縁もあるがこれも少ない。さらに半仕立と言われる外輪仕上げ穿内鋳放しのものも存在します。このような仕上げ方は南部藩内・・・浄法寺に時折みられるもので江刺寛永もそうですけど、反玉は浄法寺そのもののような気がします。寛永銭をつくって天保銭をつくらないわけがないからです。鋳肌は低温度でつくられたぶつぶつ肌。
なお、浄法寺の読みは正式には「じょうぼうじ」ではなく「じょんぼじ」です。
鋳放しの反玉寶は木村昌古堂が東京に持ち込んだもののはじめは人気が無く、そのため自ら仕上げを行って売り歩いたともいわれます。その変造したと言われる後仕立の反玉寶は、きれいな桐極印が打たれています。
ところで反玉は岩手以外の東北地区ではあまり人気がありません。たとえば秋田の英泉氏は天保通寶研究分類譜に1枚しか拓本を載せていませんでした。(私の記憶)その理由は南部藩主が敵役として歴史的に嫌われ、東北の地で人気がないから・・・という意外なものでした。
なお、反玉寶の瑕寶には細縁銭はありません。

称:南部肌の不知天保銭を見て
肌は違う。極印はきれい。穿内をみると肌具合は反玉に近い。極印はもっといいかげん。反玉にはシークレットマークがあるのです。まだ、教えられませんけど。

薄肉の銅山手
鑑定の結果・・・写しではない。正座である。写しの場合、側面の極印がもっといい加減になる。非常に珍しいものだ。

本座の穿の仕立
やすりは必ず背から入れる。そして途中で終わる。大量生産であるので仕上げを省略したものです。また、本座にも刔輪されたものがある。とくに長郭。母銭を持っていましたが売ってしまいました。

本座からの母銭の流出
後藤三右衛門の切腹はトカゲのしっぽ切り。後藤家が金銭を着服して利益を得るようなことは、難しかった。それより使い古された母銭を横流しして小金を得るほうが現実的。銭文径が縮まない不知銭の存在はそうでなければ説明がつかない。

米字刻印に本物なし

瓜生氏は青寶樓宅から相当なものを持ち出し、勝手に売却しています。青寶樓死後に瓜生氏が娘さんに渡した金額2000万円ほどと実勢価格にあまりの開きがあったため裁判沙汰になりました。実は江戸コインオークションは青寶樓の遺品(盗品)売却の場であったそうなのです。青寶樓の前妻と娘さんはすでに亡くなっていたため、瓜生氏と後妻の娘さんと妾さんの子供さんとの間の争いになり、仙人も証人として法廷に立ったそうです。瓜生氏はうまく立ち回り、これは詐欺・窃盗ではなく相続民事の問題だと主張。古銭の価値の分からない裁判所もそれを認め、結果として瓜生氏は安く買ったものを高く売っただけで無罪。瓜生氏に遺品の売却を依頼した娘さんがすべてを失い、家などのほとんどは息子さんに渡されることになりました。

永楽について
永楽通寶は信長や秀吉も好きだった。ただし、変な書体は作っていない。変わった書体はもっと時代が降る作品。(ニセではない。)木下家、蜂須賀家から出るようなもの(正しいもの)は背がしっかりしている。背の肌(涙肌)を覚える事。

南部山内銭
極印がすこしぼやっとしている。また、地金が少し違うことで判別できます。

宝永の種は滅多にない。
必ず中見切りになっている。京都座の特徴です。江戸座の荻原銭は片見切り。二字宝永と永十はあくまでもサンプルであり、幕府のお抱え職人がつくったので片見切りです。
宝永の昂寶(母銭)は寛永堂作。

背山
青寶樓師は否定しています。「山には通用はない。」盛岡藩には背盛というものがあります。山をつくる意味そのものがほとんどないのです。決定的なのは背山の種と言われるものは背モの種とつくりが全く同じだからなのです。

文久貨泉はカマスで存在する。ただし、錆だらけで収集品にはならないと思う。

関西の人は本当のことは言いません。贋作を平気で出すし、教えない。みんな良いものですとしか言わない。情報を自分たちだけで守っているのです。だから化かされる。狸が多いのです。関東から東北の人は正直です。

奇天は民間にもう1枚ある
上原(かみはらけいせんどう経泉堂)が長野方面で売却したとのこと。
今、上原氏は神社の神主をやってますし、なんでも鑑定団に出演したこともあります。実はもと静岡ヤクザ。足抜けのために300万円を家族が家宝の刀を売却して用立てたそうです。
刀は秋田の村上氏の番頭さんが刀の売買をやっていたので引き受け、売却。その後、小泉穂泉が引き受け、平尾賛平の品物の処分を手伝ったそうです。
あるとき、長野の山奥で道祖神を発見。それを家に持って帰り庭に埋め、夢でお告げがあったとふれこみ今も大儲けしています。

揚足寶は意外に存在する?
短足寶と間違っていることが多いそうですけど・・・。

遒勁は中仙道方面。あの書体はバレバレ・・・親藩中の親藩か?ただ、幕末の事情では御三家でも潰そうとしていたから・・・

尨字系は 塞頭通 異頭通 仰天などがある。

薩摩小字は秋田で6枚出ましたが、みんな赤い色だった。

離郭濶縁は100枚ぐらい九州にある。中濶縁は10~20枚ぐらいしかない。濶縁の赤いものと製作が同じ中濶縁は少ない。なお、離郭には穿内の小さいものがありますが少ない。

張足寶は細点尓と小点尓があります。「はりあしほう」と正式に呼ぶそうです。「ちょうそくほう」は誤りです。

旧壱円銀貨の鑑定
写真でみるだけで判ります。本物は中央の大様に不規則な凹みがあります。形は決まっていませんが、打刻時の圧力によるものらしい。ないものは近代的なもの。
ルーペで見たらかえって判らない。(絶対秘密事項)
近代貨幣クラブも知らない秘密なのです。

仙人は売却用のリスト付の泉譜を作っています!

田川氏・・・鞄屋さん 

会津の五十嵐さんはおまわりさんでした。たまたま訪問した老人宅で古銭の話をしたところ、おばあさんから分類を頼まれたそうです。
分類が終わった後、おばあさんから好きなものを1枚あげると言われ、会津の長貝寶をもらって帰りました。しかもそれが母銭!現存2品で、その直前に購入していた板谷氏は500万円支払ったそうです。原品は今でも五十嵐さんの所にあるようです。

金属を彫るよりやすり目を立てる方が難しい
昔、穂泉小泉氏が江戸時代のやすりを探したものの、ついに見つからなかった。和やすりをつくれる職人は今はいない。固い鉄のやすり目を切る職人技術が失われてもうこの世にはないのです。龍の図を彫るほうがむしろ簡単なのです。

青寶樓は皇朝銭の12枚セットを7組作成した。そのうちの一組が仙人所有品。

富本は貨幣ではない。あれは絵銭。(仙人)私は貨幣で良いと思う。

和同の鋳写銭は実物を拝見しても見分け方が判らなかった。

覆輪は万年からはじまった。

和同には泥笵でロクロ式が多いが、砂笵でやすり目も存在します。(音田氏談)

皇室が関係者に配った天皇系図。知り合いが近衛師団の関係者。そこからもらいました。

やせガエル 負けるな一茶 ここにあり の句が日馬家の家宝 国宝級!
仙人の奥さまの家系は河野水軍の家系。
河野家の家宝がその俳句。小林一茶が足立区のお寺でこの句を詠んだあと、江戸に立ち寄った句会で、この句を寄せ書きにして部屋に飾っていました。その家は火事に遭ったのですけど、これは命からがら救い出されました。
それを見た河野家の先祖が売ってほしいと懇願しましたが断られました。そこでいきなり刀を抜き、強引に金を置いて持って帰ったという逸話があるそうです。

エッチな土人形
博多人形はこれがルーツ。明治大正に外国相手に売るためのもの。人形の裏側(底)がエッチ。なお、プロは骨董に手を触れず、見たままで値段交渉を始める。骨董屋はそのそぶりを見てプロと感じ、業界値で交渉をします。そこで値段がある程度決まったあとに、再度価格が適切かどうか確認します。素人はものにすぐ触れる。だから吹っかけられる。

ある骨董店の一日
お店の店頭に柿右衛門の中国写しが置いてありました。そこへぶらりとお客さん。
「これ、いいもんだねえ。柿右衛門だね。」
「そうですね。」
「16~17世紀のものなんですよね。」
「そうだと思います。」
「いくらですか?」
「お客さんいくらだと思います?」
「8万円ぐらいでどうですか?」
「お客さん、お目が高い。実は10万円ぐらいで売ろうと思ってたものですよ。」
・・・(売れた後)
「とうちゃん、売れたよ。」
と、後ろから同じコピー商品を取り出して並べていました。

邊見さんのコレクション(東日本大震災)
秋田の細郭の母はもったいなかった。仙台寛永の枝銭もお持ちでした。俯永の面背刔輪等の大珍品も海の底。
震災の後で泥沼のようになった場所を掘り返していた時、奇跡的に古寛永の昂通背星が発見されました。他のコレクションもおそらくそのあたりではないかと思うのですけど・・・。

大判の改め書き
明治時代、墨書きの書体違い集めが流行ったとき、元の書体を消して書き改めたものが流行した。書き直しをした主な人物は
小川青寶樓 田中銭幣館 三上香哉 福西常次 丹野博 
今回、銀座で武蔵小判が出ていましたが、改め書きなのでだめ。改め書きはとにかく注意。

丁銀は極印が6か12
明治維新のとき極印が官軍によって持ち出されています。大黒は神なのですし、かならず縁起を担ぎますので裏側なんかに打つはずはないのです。

羽入さんの豆板の本
実は表紙が贋物。その中のものが売り出され高崎さんが買いましたが、真っ赤な贋物。はるじ堂が注意したのですけど、高崎さんは本物として疑わなかった。

信玄時代の甲州金は極印が無かったと言われます。(江戸時代には打たれていた。)切銀の極印もみんな明治打ち。

富寿神寶の寿貫小様は江戸末期~明治期の贋作。貨幣カタログにはあえて大様寿貫としてあるのは業界の良心です。

北宋の写しの銀銭は江戸時代の撒き銭でしょう。紹聖の金銀も江戸。打製永楽も。
鐚永楽の曲永も江戸期ではないか?
慶長大字、元和大字は贋作。同じ製作なのです。

古寛永の時代は三貨制度前なので金銀貨はありえますが、新寛永の金銀はすべてニセ。
背久の金銀もだめ。

澤瀉永楽銀はありえない。金座が銀ものをつくるはずがない。実は幕末の近代貨幣です。ラムスデン作で、販売目録にも掲載されています。永楽の桐はありえます。

文久永寶の真文の錫母は佐野英山作。銀座は錫母の技術を持っていなかった。

水戸の虎銭の贋作は大島延泉作。背トも同じ。最近も100枚ぐらい出ています。本当は母銭として売ろうと企画したのですけど、虎銭は白銅のきれいな本物母銭があり贋作とばれて売れなくて、通用銭としてばらまきました。

朝鮮天保は加賀千代作と言われていますが、うますぎます。仙人は会津福西だと考えています。森家から出た会津試鋳貨と朝鮮天保母銭のつくりがそっくりだからです。販売は加賀千代か?会津試鋳貨は試鋳貨なのだから何種類もあるのはそもそもおかしい。
会津一両通は福西作でおそらく間違いなし。
小川青寶樓はそれを見破り、泉譜のならべを最後のほうにしています。仙台大濶縁も同じ扱いなのです。

加越能はすべて贋作。本物は存在しない。もともと加賀は銀使いの国であり、あのような大型銭をつくる理由がありません。土佐は銀がないので土佐通寶類を作った。青寶樓は判っていたので、解説で工芸品・・・という言葉を使ってお茶を濁していました。

仙台大濶縁は鷲田寶泉舎(2世)が17枚つくったのではないか。(拓本に印が残っていた。)瀬戸の三納氏が購入したとき、瓜生氏が「あんなもの買いやがった。」とぽつり。
仙台大濶縁は出現の記録が一切書かれていません。勇文や奇天はある。大川譜には35年間で7枚の出現が確認されている。
仙台広郭は母銭の発見がされている。そのうちの1枚に覆輪+やすり加工をして石膏型で写している。加工した母銭はギタギタ。とてももったいないことをしています。
試鋳貨がそんなに数があるはずがない。(現存12~13枚。)
※その後の談話で佐野英山の名前があげられています。したがって誰がつくったかについては謎です。

濶天保と広穿大字は昔からあるが、出現の話は聞いていない。

潜イは佐野英山が四国で作った。だから四国で出た。谷氏ははめられた。
※そうなると異書マ頭通もあやしい。(小出)

白目大字は寛永堂か?
下田極印
庄内一分銀
米字極印  みんなニセ。

アメリカ製の天保小判があります。
ワールドコインの石井氏がアメリカで買ってきたもの。鋳物です。今ははるじ堂においてあります。とてもきれい。(鑑定書がつかないと怒っていました。)

文久の試鋳貨類はすべてだめ。作る理由がない。

加賀千代作のうち、本人がつくったものは黒い。

ラムスデンは取手の佐藤氏が売っています。郡司氏 → 田宮さんからのもの?

琉球の厚肉 仙人記録は29.7gでした。負けた!琉球の大字小足寶35万円の値。

最近の永楽銀銭はニセが多い。

11月18日 【ミニ勉強会】
11月14日、天保仙人宅で行われたミニ勉強会に参加しました。参加者は私以外に仙人の友人にして古銭仲間のSさん、キュリオ編集長のAさん、そして初対面・初参加のあの鉄人さんです。私は反玉寶や南部銭について改めて勉強したいと希望していまして、あらためて仙人の蔵品を拝見させて頂きました。その取材から・・・

反玉寶について
流通した天保銭から不知反玉寶の細縁が見つかるようになってきたとき、鋳放しの反玉が母銭の未仕立てであったのではないかと大騒ぎになりました。その鋳放しの反玉寶は木村昌古堂が石巻で入手したということで、一緡を東京都内に持ち込んだもの。鋳肌は低温度でつくられたぶつぶつ肌が、仕上げられず残っています。
持ち込んだもののはじめは人気が無く、さっぱり売れません。そのため自ら仕上げを行って売り歩いたともいわれます。その変造したと言われる後仕立の反玉寶は、きれいな桐極印が打たれているそうです。
反玉寶には書体では瑕寶と正様の2種があるそうで、瑕寶は少ないそうです。鋳放し銭には細縁気味のものがあるそうで少ないそうです。瑕寶の細縁(仕立銭)も存在しますが、これは極端に少ない。さらに半仕立と言われる外輪仕上げで穿内だけ鋳放しのものも存在します。
これにも瑕寶と正様の2種があるそうで、拝見させて頂きました。
このような仕上げ方は南部藩内・・・浄法寺に時折みられるもので江刺寛永もそうですけど、反玉は浄法寺そのもののかもしれません。浄法寺が寛永銭だけをつくって天保銭をつくらないわけがないからだそうです。なお、浄法寺の読みは正式には「じょうぼうじ」ではなく「じょんぼじ」ということ。これは知らなかった。
ところで反玉は岩手以外の東北地区ではあまり人気がないそうです。たとえば秋田の英泉氏は天保通寶研究分類譜に1枚しか拓本を載せていないと思います。その理由は南部藩主が敵役として歴史的に嫌われ、東北の地で人気がないから・・・という意外なものでした。
本年入手した称:南部肌の不知天保銭を見て頂きましたが、穿内の肌具合は反玉に近いそうなのですが、極印がきれいすぎるそうですし、肌の感じも違うそうです。反玉の極印はもっといいかげんだそうです。さらに反玉にはシークレットマークがあるそうなのですけど、残念ながらまだ教えるには早いという事。もっと勉強しなくちゃ。

さらに、暴々鶏氏から拝領した極薄肉の銅山手も見て頂きました。
鑑定の結果・・・写しではなく正座であると報告を受けました。写しの場合、側面の極印がもっといい加減になるとのこと。たしかに銭文径に異常はなく、書体、金質とも問題はないのです。とはいえ、ものすごく珍しいものとのことでした。
ちなみに、琉球の29.6gのものについては、仙人様も同様のものをお持ちでして、私の記録を0.1g上回る29.7gでした。

遅れてキュリオのA氏が到着したときに誌上入札に出た不知天保銭2枚の話題になりました。実はそれは私が落札していまして、たまたま出発直前に郵便局が配達に来たので受け取って持参していました。そのうちの1枚が鋳写し母銭だとは夢にも思わなんだ!
A氏と仙人様の解説でその事実が分かりました。キュリオを定期購読していてよかったと思う次第です。

なお、仙人宅でものすごい珍品を拝見しました。
「やせガエル 負けるな一茶」 ここにあり の俳句の短冊です。仙人様の奥様の家系に伝わる家宝とのこと。なんでも四国の水軍の家系だそうですから歴史があります。(といっても一茶は江戸期の人ですけど。)一茶は足立区のお寺でこの有名な句を詠んだあと、都内の料亭でこの俳画を画いたそうで、料亭が火事に遭った際に家主は命がけでこの句を守ったそうです。ご先祖様は故あってその家宝を入手したそうです。
真っ黒でいかにも古いもの。なんでも鑑定団に出してみたいですね。本物なら国宝でしょ。

ちなみに我が家にも祖父が集めた東郷元帥と狩野探幽の掛け軸があり、かつて何でも鑑定団に出そうとしたことがあるのですけど、父から「街を歩けなくなるから出してはいけない。」と懇願制止されました。信じるか信じないかはあなた次第です。

さて、まだまだ、書きたいことはたくさんありますが、長くなりますので残りは後日。なにせ録音時間で5時間に及ぶ取材ですから・・・。

土佐に白銅銭がある。昔、丹野さんが持っていた。多分母だと思う。
岡藩天保の不思議
岡藩天保と言えば不知痩通で知られています。しかし最近の泉譜などではあまりその話を聞きません。計測するとほぼ本座広郭と同じであり、末期銭と区別がつかないのに加え、実はその存在を裏付ける話に偽りが潜んでいる可能性があるからです。
岡藩天保の根拠は藩の家臣の墓から見つかった古文書と数枚の天保銭の現物から。そしてそれと時期をほぼ同じくして岡藩天保の母銭なるものも市場に出現しています。
その演出をしたのが他でもない小川青寶樓師。噂として小川氏はある得意客を喜ばそうとして、この説の裏付けを演出したのではないか・・・とのこと。真相は判りませんが、岡藩天保を巡るきな臭い話でもあります。
 
 
贋作者の系譜
害毒を流した古泉界最悪の贋作者と言えば加賀千代太郎だと私は思います。その理由は、調べていると彼を中心にあやふやながら複数の贋作者の糸がつながりはじめめたからです。
たしかに彼は加賀金銀店という金属加工販売を手掛けていましたが、背景にも製作者の影が見え隠れしているのです。どちらかと言えば彼は企画販売者であり、貨幣知識のある製作者がほかにいたと思うのです。はっきりとつながっているの判明したのが福西常次で、福西と加賀は組んで贋作穴銭を売りさばいています。ただ、その穴銭は木型母銭製で製作的には今ひとつで、福西の金銀贋作品より一段見劣りのするもの。加賀千代の作品には錯笵天保のように見事な製作のものから長郭錫母のようなおもちゃのような作品まであります。
いろいろ調べているうちに浮上したのが大島延泉です。もともと大井の飾り職人の家に生まれた大島は、古銭に対しての知識も深く、また、同じ金属加工業と言うこともあって加賀千代との商売上の付き合いもあり、贋作の下請け的な存在だったようです。大島は古金銀はもとより穴銭類も非常に精密に作ったと言います。その贋作については田中啓文も見抜いていて、その著述のなかに城南大井のOとして伏字名前が出てきてます。
この大島の作品の穴銭・・・水戸の四文母銭や虎銭、背トなどを見ましたが、加賀千代作と言われる錯笵天保の肌に非常によく似ているように感じます。錯笵天保は銭座職人の末裔に作らせたという噂もあるのですが、少なくとも技術的な交流があった可能姓があると思われます。
さらに、佐野英山も加賀千代との交流・接点があった気がするのです。時代的な重なりの他に、本物と贋作をセットで売るような手口までが加賀千代によく似ているのです。しかし、ブローカーとして売買の交流があったことまでは判りますが、最後のしっぽがつかまりませんでした。佐野については製造者というより企画販売者で、各地で珍品を掘り出しては複製をつくらせていますので、その縁で加賀や大島と接点ができたのかもしれません。
加賀千代-福西常次-大島延之・・・この贋作者の流れに佐野が加わっているのか否か・・・謎です。
※仙人によるとネットワークがあったようです。
 
平成26年11月12日13:00 仙人宅にて

1.太閤金銀銭について
太閤金銀銭という北宋の通用銭の金銀写しが古銭界には存在しますが、ほぼ明治時代の贋作ばかりです。少なくとも時の権力者、豊臣秀吉は作っていません。まず記録がない。それに信長も秀吉も上質だった永楽通寶をいたく気に入っており、そんな彼らが質の劣る他の銭名を写す命令を出すはずがないのです。
実はこれらの金銀銭は旧貨幣の時代は贋物として収集界では認識されていたのです。ところがあるときに田中啓文会長がこれは本物だと言い出したがため、貨幣界の常識が覆ってしまいました。この当時はだれも田中の意見に逆らえなかったのです。田中が何を根拠に本物だと言い出したのかはわかりません。
ファンタジー貨幣(民間の記念銭)の可能性はあるものの、少なくとも流通するような貨幣ではなかったはずなのです。打製の紹聖元寶金銭なども同様で、文禄や元和手銀銭も同様の理由で極めて怪しいと思われます。

※補足 太閤の恩賞銭という言い伝えは私も作話だと思います。銀の贋作はブランセンの企画で、久八と呼ばれる職人が作ったのではないか・・・それがつくられたのが中京方面であったため名古屋作と呼ばれるようになったのではないかと推定しています。
なお、個人の作った記念銭はかなり昔から存在したと思います。記念銭は絵銭と同じなので、その昔の貨幣界では贋作扱いでした。したがって、これらの類は古作の個人の記念銭と贋作の混合状態だと思います。
 
2.寛永通寶雉狩り銀銭について
仙台藩の恩賞用として作られたと言われますが、恩賞用ならわざわざ寛永通用銭を写して新たにつくる必要もなく、通常の流通貨幣を用いるべきだと思います。もらった者はそれをわざわざ両替商に持って行き、手数料を払うことになるので、伝承は少々怪しいものだと思います。ただし、雉狩り銀銭は雑銭からよく出てくるので、別の意味の記念行事銭である可能性はあると思います。

※補足 現地の方々の話によると、古い雉狩銀銭は精錬技術が未発達だったため、必ず鉄分が含まれていて磁石に反応する・・・これが真贋の見分けポイントだそうです
この話を聞く限りは、雉狩銀銭そのものは昔からあったと思うのですが、それがはたして恩賞用なのかどうかは分からないところです。
 
3.地方名の切銀について
日本古来の灰吹き銀は昔から存在しました。これらは貨幣と言うよりただの銀地金で見栄えのしないものなので、まったく人気がありませんでした。そこで頭の良い古銭商がその銀地金に地方名の刻印を打って貨幣として売り出したところ大当たり。今や戦国時代の貴重な銀塊に刻印を打った品が大手を振って流通するようになってしまいました。つまり、無印のものこそが正規の品で、刻印があるのはほぼすべて変造品なのです。

※補足 この件については小泉建夫氏も最近の貨幣誌のなかでふれています。
 
4.24面大黒
12面大黒丁銀と言うものがあります。非常に珍しいものなのですが、その極印の現物が残されており、それを悪用して24面丁銀なるものを作り出して高額で売り抜けた古銭商がいたそうです。このように本物の極印を使い、本物の貴重品に打刻されると、一流の貨幣収集家でもコロッと騙されてしまうことがあります。しかし何ともったいないことをしたものか・・・。

※この24面大黒の極印は明治維新のときの流出品。極印を面から打ち、あとで裏を打った作品があるそうです。極印面が傷つくので銀座がそんな打ち方をするはずはありません。また10面丁銀とか、13面丁銀などはやはりこの類の贋作。明治20~30年頃にさかんにつくられたそうです。それを知った田中啓文が大金を支払って極印を回収したそうです。そしてそれらは日銀に収蔵されています。12面以外の多面打ちは極めて怪しいので手を出さないでください。(H27.7.11)
 
5.会津一両銀判
会津一両銀判が贋物だという証拠があります。実はこの銀判も製造に使った極印が残されているのです。そこには慶応3年の文字が記されていました。しかし、慶応3年は明治元年であり、会津藩は明治政府によってこてんぱんに崩壊させられています。そんな時期に地方貨幣製造なんてやっている間もないはずなのです。つまり刻印そのものがニセである可能性が極めて高い証拠。仮に文字が後の時代に書き加えられたものだとしてももう一つの決定的贋作証拠があります。
この銀判はあらかじめ平らに伸ばした銀の板に複数の極印を打つ昔ながらの工法ではなく、プレスと同時に型を打ち抜く明治以降に確立した工法でつくられているのです。・・・これは地方藩の会津ではありえない近代技法なのです。
会津銀判ははじめ京都で発見されました。会津藩は京都の守護方をしていましたので、本物と思わすには十分なエピソードでした。その後、会津銀判は極印違いが2種類発見され、京都で発見された方が本物、それ以外のデザインはニセではないかとの噂でした。そこに京都に合致する例の刻印がタイミングよく出現したわけです。実に心憎い演出です。
片方を本物、片方は参考品として同時に売却(出現)する手法は加賀千代がよく使った手法でして、その実は両方とも贋作なのですが、加賀千代が福西と組んでやったのではないかという噂があるのです。

※補足 佐野英山もこの手法を使ったと言われます。実は調べると彼も加賀千代と交流があったようなのです。しかし、しっぽがつかめません。さすがタヌキおやじ。同じ穴のむじなかな。
 
6.秋田八匁銀等の極印封印銀と秋田一匁一部五厘銀など
この類は秋田では一枚も発見されていません。ある秋田の有力旧家の蔵を開けた時も、他の地方銭はわんさか出てきたのに、これらだけは発見されませんでした。したがってこれは地元では流通していないと思われます。
さらに補足すると秋田は貨幣の鋳造技術が発達しており、笹一分など域内貨幣もつくっていますので、わざわざ幕末に計量貨幣を作る意義などないのです。しかも銀の相場も乱高していましたから計量貨幣はなおさら意味がない。これらは盛岡銀判の真似をしてつくったものと思われます。
 
7.庄内一分銀
これは現在では完全に否定されています。地方においてわざわざ藩が貨幣価値を補償するようなことはありえないこと。したがって現在貨幣カタログからは完全に抹消されてしまいました。
※と、思ったら2013年版には掲載されていました。1974年のボナンザ1月号に「庄内一分銀の逆桜考」という記事があり、1960年代に銀座の暴氏(富田らしい)が大量の贋作庄内一分銀を造った話が載っています。また、昭和48年に酒田市内から庄内一分銀の20両包みが10個出た話があります。ただ、包まれたのが明治7年~30年の間だとすると、もうとっくに明治の幣制に入っているはずであり、一般の通用は同年に禁止されていますので少々怪しい。圓との交換そのものの期限も明治21年に終了していることもあり、包みの中身が全部庄内一分銀だったということもきな臭い。交換の際に保証して印を打つなら包む必要もないわけでして・・・う~ん、やっぱりこの話は怪しいとしか言いようがない。
※この話を書いた清水氏は仙人の兄弟子ですが、富田とのつきあいはなかったようです。清水氏に悪意があったか否かはわかりません。

 
8.下田刻印寛永
最近、いろいろ贋作説が出ていますが、そもそも下田中にある貨幣に打ったというのなら、なぜ明和期銭に限られるのか?
これらを発表したのは魚京堂こと津田繁二氏・・・以降、地元の研究家を含め一向にその話の根拠を聞かないそうです。

※補足 これらの贋作にはその後にいろいろな収集家がかかわっていたようで、貨幣誌にも小泉建夫氏が寄稿しています。

9.仙台大濶縁
仙台大濶縁は古来から超がつくほどの有名銭で、泉譜の冒頭を飾るような品でした。ところが、小川氏や瓜生氏はその後につくった泉譜でなぜか冒頭部分から外しています。村上氏もそう。実は入手した後にみな一様に違和感を覚えているからなのだそうです。銅質、制作に仙台銭とは違和感があるのです。
母銭づくりの稟議銭のはずなのに、銭文径が通用銭の広郭と同じ。それに発見されていた広郭の母銭と同じところに鋳瑕があります。これは明らかにおかしい。また、母銭としては薄すぎることも問題です。
大川の研究では35年間で発見された仙台大濶縁は7枚もあるのにいずれも出処不明で、記念泉譜には掲載されたことはあるものの、大家が誰も研究譜紙上に発表していません。どうやら広郭の母銭の入手者がそれに覆輪をして石膏型で鋳写したというのが真相のようで、確証はないので、みなそのことに口をつぐんでいるようなのです。石膏写しですから魚子地肌が写されているのです。

※補足 私もあの形状に違和感を覚えていましたが、魚子肌の謎がわからなかった。ただ、あくまでも傍証の積み重ねである為真贋については依然謎な部分が残ります。
 
10.石巻反玉寶はOK
反玉寶についても色々な噂があります。発見者の木村昌古堂の行動など怪しい一面もあるのですが、実際に流通したものが発見されています。ただし、それは細縁に加工されたものばかり。鋳放しのものが出てきたとき、母銭ではないかと大騒ぎになったのですが、それは本物の通用したものがあったからなのです。

※補足 流通はしたのでしょうが、時代は降る気が個人的にします。東北地域においては明治期につくられた浄法寺銭(これは御寺の境内で売られた絵銭だった。)の類ではないかとの説も。金属に亜鉛が含まれていたこと、価値が下がっても天保銭は明治時代はまだ通用できたことから可能性は充分あります。なお、反玉鋳放しと反玉細縁は銅質などから別物のような気がします。
 
11.会津の試鋳銭天保
小川氏はだめだと判断していたので、泉譜での表示位置は最後の方になっています。しかし、最近になり名古屋のデパート、会津の地で相次いで通用銭発見の報告があり、ニュートラルな位置に戻った気がします。→ やはりだめだったみたい。

12.土佐通寶について
土佐通寶類は、佐野英山の贋造の噂が絶えないが、本物があるから贋物がある典型。佐野英山は彫母から写したと言います。土佐通寶の三つ柏極印は民間に藩が委託した民鋳銭の極印。なお、水戸接郭と土佐額輪は製作的に近いものがあると思います。ただし、これらは多分土佐ではないと思うのです。

 
13.大島延泉の贋造
飾り職人だった大島延泉の贋作は丁銀などに多くみられるが、寛永銭、虎銭も手掛けていた。黄褐色の背ト、未使用の虎銭、水戸の4文母銭はいずれもニセ。インターネットにたくさん出ているので注意が必要だがみな未使用肌で同じ色、同制作。
これらの多くは錫母銭からの写しなのでとても精巧なのです。未使用肌の虎銭を母銭として売ろうとしたとき、(銅母銭からの写しだったため)母銭としては小さく、偽物だと見破られました。その返品の際に同じつくりの黄褐色の背ト、水戸の4文母銭の存在が問題になり、その売主がいずれも大島であったことから足がつきました。
 
14.寛永金銭について
寛永金銭には必ず鋳不足があるといいます。その理由は鋳造技術の問題。そうでないものは近代作だとされていました。
理屈ではなく、古銭家に伝わる経験的な伝承です。これらはあくまでも記念銭的なものであると考えるべきでしょう。

15.錫母の真相
金座と銀座はとても仲が悪く、技術交流などはあり得なかった。錫母の開発は金座のトップシークレット。したがって錫母がありえたのは銭座が金座管轄になったあと。文久座では玉寶と草文のみ。真文の錫母はありえないのです。
また、地方銭座では水戸藩と南部藩のみが錫母を使っていた。水戸は本座の技術の輸入で南部藩は独自の開発だと思われます。したがって仙台通寶の錫母は近代贋作です。錫の崩壊現象については本座がその欠点に気づき、改良したものと思われます。したがって、細郭以降の錫母銭は崩壊しません。なお、水戸短足寶と濶字退寶が南部藩の鋳造と小笠原白雲居が証言したことは間違いないものと思われる。
金座と銀座が仲が悪いため、金座で祝鋳銀銭を作ることなどはなく、銀座もしかり。4文銭は銀座管轄なので錫母はあり得ないのです。天保銭は金座管轄なので小判型になったが、試鋳の段階で四角形のものがあるが、あれは本物だが銀座を連想させるので却下になったといいます。

※補足 金座・銀座の管轄に銭座が置かれたのは明和2年から。(1765年)つまり仙人説によると錫母の出現はこれ以降になるはず。ただ、鋳銭の技術は真継家(忌部一族)の支配下にあったと思われます。(2013年3月6日制作日記)したがって、職人間の伝承で技術継承が行われることは充分に考えられます。ちなみに鋳銭の技術者は地方への移動(関所の通行)がある程度自由にできた特権があるようで、秘密を絶対に守る代わりにに、敵対関係にある藩同志への出入りも可能だったようです。
銀座は錫母を知らなかっただけであり・金座は知っていたのです。また、小笠原白雲居の証言の根拠は新渡戸仙岳の書付にそうあったことだったと思います。
 
16.盛岡銅山小様
盛岡銅山には小様がある。しかし贋作も非常に多い。実はそれをたくさん扱ったのは小川青寶樓なのです。したがって泉譜にも掲載されています。これは小川の汚点です。(贋作と知って売ったわけではないと思うのですけど・・・。)良いものは南部民鋳と同じ肌をしている。間違いないものは極印が星型極印になる。(不知天保分類譜などの4番)

補足 仙人は肥字系の額輪は南部民鋳で、土佐額輪とは異なると判断しているようでした。たしかに土佐額輪と額輪肥字とされる類は銭文径などにおいて差があるような気がしますが、極印が小さいという共通性もあります。この点については私はまだ勉強不足です。
 
17.水戸天保のこと
水戸天保は様々なものがあるが、水戸以外も含まれている。水戸短足寶と濶字退寶が南部藩の可能性があるのは前述通り。確実に水戸藩のものであると言えるのは水戸正字背異と水戸繊字だけ。
水戸正字背異と水戸繊字の母銭(錫母銭?)は常陽銀行の貨幣資料展示品として地元の有力家から寄贈があったことがありました。しかし、銀行の本業不振からそれらは売却されてしまいました。また仙人が明治吹増天保母銭を大川氏から譲り受けた(買った)とき、それは正字背異の母銭だったことがありました。調べると実は明治維新の際、本座には官軍が進駐して、本座の母銭類は接収・毀損されてしまったらしいのです。そのため明治政府が貨幣司で天保銭を鋳造する際に、水戸藩から母銭を借り受けた経緯があるらしいのです。そのため明治吹増銭に背異や繊字があるのだと言います。
なお、水戸繊字は必ず通字の用画の跳ねが削られていて、母銭・錫母銭の真贋鑑定の基本になっていますから覚えておいてください。ただし、錫母の贋作者もこのことを知っており、跳ねをきれいに削ってしまっています。しかしあまりにもきれいに削っているので判断ができるのです。実は本物は削った後に凹状の穴が必ずあいているのです。ここまでは贋作者は気づいていませんでした。なお、この穴は母銭はもちろん、通用銭にも残っていることがあります。
※小川青寶樓は背異を久留米にしましたが、仙人はその理由がわからなかったとの事。ところが、赤い銅質の背異をがあること、そしてその製作が正字濶縁とよく似ていることから、もう一度考えを整理する必要があると思われます。
 
18.出現地について(水戸遒勁・奇天など)
水戸遒勁はなぜか八王子方面から掘り出しが多いと言われます。水戸から出たことはないのです。また、母銭に大、中、小があり、それぞれきっちり仕上げられています。これは遒勁だけに見られる特色です。
奇天系は九州の方面から良く見つかると言われます。勇文は関西以西からときどき出ます。勇文手と勇文は製作的に似ている面があり、銅色は若干黄色いものの、同じ系列ではないかしら。
こうした伝承が残っているのは、新規発見の喜びを泉家が語るから。逆説的に言えばそのような話を聞かない仙台大濶縁は極めて怪しいことになります。それは間にブローカー的な古銭商が介在しているからではないでしょうか?

 
19.久留米と水戸と会津の関係
戊辰戦争の際、会津藩は徹底的に叩かれ、崩壊しています。会津藩主の松平容保は公武合体派の志士であり、尊王攘夷派と対立したものの孝明天皇そのものはたてており、天皇側も会津を信用しておりとくに嫌っていたわけではないようです。(徳川家が見た幕末の怪:徳川宗英)したがって会津征伐の直前に会津藩に同情して奥羽列藩同盟が結成され、千葉県からも請西藩主林忠宗も自ら脱藩して参加していたそうです。
そんな会津藩は水戸藩の系列であり、会津と水戸は親戚で深い関係にありました。
久留米藩は外様ながら幕末において会津と同じ公武合体派が幕末の主流派であり、水戸学も盛んで徳川慶喜の出身である水戸藩との仲も良好であったと思われます。(もっとも水戸学の指導者は最終的に尊王攘夷派に分裂変化して、徳川家打倒に動いたことは歴史的に皮肉な話です。)西南戦争のときには会津藩はすでに瓦解していましたが、元藩士が宿敵薩摩と戦うため官軍に参加したとも云います。
明治維新の後、久留米藩士は開拓のため船で水戸に上陸し、開拓使として郡山に向かっているそうです。このことからも水戸と久留米の関係は良好だったと思われるのです。そのためこの3藩は歴史的に密接な友好交流関係があると思われるのです。久留米の地において石持桐極印が大量にみられること、会津濶縁と石持桐極印濶縁との類似性、背異と背異替との類似性など、藩どうしの交流(人と金・技術の動き)なども無縁ではないと思います。
 

※石持桐極印と久留米の関係はかなり深い。ただし、まだ考える余地がある気がします深字の祝鋳銭の存在・・・そんな目立つことなぜやったのか・・・を考えてしまうのです。

20.盛岡でつくられた琉球通寶
西南戦争の際、薩摩との戦いには東北の志士も多数駆り出されています。盛岡藩士もそうで、薩摩領内で戦っています。藩は軍資金として天保銭を持たせたと言います。しかし、西郷びいきの薩摩領民は官軍側には物資を売らなかったなかったと言います。そのため、急遽贋造の琉球通寶を造って藩士に軍資金として持たせたと言います。鋳写の黄色味の強い琉球通寶を見かけたら、南部藩のものかもしれません。

※補足 おそらく伝承もしくは仮説であり証拠的な文献などはないと思いますが、現物を持たれている方がいるそうです。西南戦争の際はすでに天保銭の交換レートは8厘・・・原材料の重さの価値に暴落していたのですが、薩摩藩は天保銭を大量密鋳していた経緯もあり、領民がその受け取り拒絶をする理由はありません。売らなかったのは「明らかに薩摩の人間ではなかった」のが理由だと思うのです。
琉球通寶は薩摩の貨幣であり、琉球の地以外、領内にも流通していましたが、もともと見せ金的な存在でした。あくまでも噂話の類ですが琉球通寶が京都府内などで薩摩藩士の割符として使用されたという説を聞いたことがあります。贋造天保の話が本当であればそれは身分を偽装するものとして持参し、軍資金に混ぜて使用された・・・と、考える方が自然な気がします。

※盛岡藩は西南戦争前に全国に先駆けて廃藩になっています。したがってこの噂について疑問視する方が多数いらっしゃいます。

琉球の銅替わりは一時躍起になって探していましたが、もちろんこのことを知っていて探していたわけではありません。また、この話が本当であるか否かを調べるすべもないのですが、近代作でない鋳写しの琉球がおそらく存在するのでしょう。真鍮質の贋造銭は良く見かけますがこれはもっと時代が降りますのでご注意ください。
なお、琉球通寶は大字と小字が同じ座、中字は別座の作だということです。個人的な感想になりますが、琉球の小字狭足寶は中字の覆輪刔輪の縮小書体に見えるのですよね。あの変化は本当に特徴的で、善悪は別として穴銭カタログ日本や古くは旧貨幣誌において、長反足寶が薩摩の作ではないかとされたのもわかる気がします。
 
21.丸型天保
大川天顕堂氏はとても豪快な人で、ときにはとんでもない珍品をぽんと人にあげたといいます。万国貨幣洋行の太田保氏の二男もその幸運に恵まれた一人。たまたま、彼が大川宅に遊びに行ったとき、大川氏は上機嫌で3枚あった丸型天保のうち鋳ざらいされていない2枚を「持ってゆきなさい」とばかりに太田氏の息子さんに渡したそうです。(残った1枚は佐倉の民俗博物館へ寄贈されています。)
事の重大さを知らない二男はそのことを父の太田氏に伝え、太田氏に見せると顔色が変わり、「お前が持つのはまだい」と取り上げられてしまったそうです。その後、その丸型天保は誰かに売却され、現在も行方は判っていません。
余りにも変わったものなので、あまり古銭に興味がない人にとってはただの金属片にしか見えないと思います。
そのため絵銭としてこれらが飛び出す可能性が充分にありますのでご注意ください。
 
22.万年手は鋳放しが本物
萬年手天保通寶は、金座が萬年通寶を試鋳した前後につくられたもので、現在まで確認されている萬年手天保はすべて国立博物館の所蔵品になっています。この萬年手天保は実は江戸時代の大考証学者の狩谷棭斎コレクションだったものなのだそうです。天保通寶鋳造のアイデアを金座に出したのは狩谷自身であり、その功績をたたえて金座から狩谷に寄贈された経緯があるそうなのです。したがって記録が残されておりその姿はすべて鋳放しであるとされています。それ以外の発見例は聞きませんので、萬年手天保は民間にはないはずなのですけど・・・。
国立博物館に納められたはずの狩谷のコレクションは何者かが持ち出したのか、3~4枚が行方不明だという噂があります。
大川天顕堂氏がその万年手天保通寶欲しさにある大芝居を打ったことがあったそうです。大川は現存1品の琉球通寶の大字を国立博物館に寄贈する話を持ちかけました。そのかわりに研究のためと万年手天保通寶1枚の割譲を申し出たのだそうです。しかし、国立博物館側にコレクションの行方不明を理由にその申し出は断られたそうなのです。
このできごとによって萬年手天保通寶が民間に流出している可能性があることが判明しました。棭斎の萬年手店舗通寶はすべて鋳放しでしたので、鋳放しの萬年手天保通寶に出会ったら、ひょっとしたら棭斎のコレクションの流出品なのかもしれません。
なお、大川が国立博物館相手に打った大芝居は、かつてラムスデンが日本政府に対して行った手法のようだとも評判になりました。まあ、こんなことができたのも大川氏が政財界に強い大物だったことの証明でしょう。

23.山口系の鋳ざらい天保
これらはすべてニセものだといって良いものです。何より大川氏がその泉譜にもメモしています。また、巷に出ている山口系の鋳ざらい天保は、すべて元大川氏のコレクションと言っても間違いない。一説によると上野の芸大生の作品と言われています。
 
24.本庄時太郎氏の大儲け
本庄時太郎氏は不知銭の大家であったが、あまり商売的にはめぐまれていませんでした。奥さんは骨董品が大嫌いでいつもこぼしていたそうです。
あるとき、本庄氏がエンタイアの封書をダンボールひと箱手に入れたことがありました。そのときたまたま大阪工業大学の細川孝行氏がその作業を見ていました。封筒から手紙をとり出して処分をしようとしていた本庄氏を細川氏がとめ、ただちに国立文書博物館?に持ってゆくように指示したのです。半信半疑で本庄氏がそれを持ち込むと・・・係官は驚きに震え、上司と相談し500万円での買い取りを申し出ました。その金額は当時の国立文書博物館の年間予算に匹敵したと言います。
それは本来、処分されたはずの明治政府の機密文書だったのです。ぼろもうけの本庄氏は大喜び、このときばかりは骨董嫌いの本庄氏の妻もニコニコだったという。(家を新築したようです。)
 
※補足 本庄氏は晩年、千葉県の千葉市誉田に住んでいます。川崎に古銭会館というお店を開いていたことがあり、セールスマン時代の私とも接点がありました。
誉田は私の住む地区のすぐそば。また、大島延泉氏も同様で、JR誉田地区の複線化推進の副?委員長になっています。

25.背山には手を出すな
背山は銅銭なら真贋が判るとは青寶樓の言葉。一方、鉄写しは青寶樓をもっても判らない。砂鉄と鉱石の由来の違いについて知りたい青寶樓師はかなり年下の(南部銭の大家の)大矢氏に教えを乞うて頭を下げたという。なお、背山の贋造鉄銭はかなり大量に作られてばらまかれているそうです。以下はその笑い話的なエピソード
 
ある銭家が旧家の納屋でかます3つに入った大量の鉄銭をみつけ、試しに1袋を購入してみた。するとその中から背山の鉄銭が1枚でてきた。そのため、旧家に戻りすぐにもう1袋の購入を申し出た。値段は先ほどよりも高く提示されたが言い値で購入した。そこからも背山が1枚出てまた大喜び。残る1袋もあわてて購入しに行ったが、値段はさらに高く示されたという。
売主いわく・・・背山を入れておくとなぜか屑鉄銭が勝手に高く売れるものだ。
それははじめから仕組まれたものだった。コレクター心理をついた巧妙な罠である。

以下は仙人とのメールや例会でのやり取りです
26.万年手天保 補遺
大川先生蔵品は、ラムスデンが外交官特権を利用し国立博物館から入手した、ラムスデンの旧蔵品そのものです。
大川先生はラムと同様の手口で入手しようとして失敗したあと、ラムスデン没後売却された萬年手を、買い入れたのです。
後、泉譜の万年手が仕上げられているようにに見えるのは、見栄えを良くする為に、鋳バリの個所をハサミで切ったからにすぎません。
旧譜では拓を変えたり、手を加える事がよくありました。もうひとつ、太田先生の息子さん(耕二氏)は、目利きでした。特に外国コインに強く、良い物をお持ちでした。
鋳放しでない万年通寶は・・・ラムスデンの作った贋物です。高崎さんが自慢していた品は・・・。

27.制作日記 2014年8月10日の仙台大濶縁に対しての意見
(仙人)あの仙台大濶縁は、90%の確率で、明治時代に作られた贋作です。仙台広郭銅母銭を加工して、作った物です。
『新訂・天保銭図譜』の仙台藩を見て下さい。長足寶小様銭の後に、仙台と関係無い不知銭を2品並べその後に大濶縁を挙げています。この意味が解りますか、青寶楼先生は、「大濶縁は仙台とは関係無く、当時の不知銭より、後の物」つまり、贋作で有る事を伝えているのです。もし試鋳銭と考えていたら、1番最初に掲げます。もっと色々な根拠があります。 田中銭幣館・小川清寶楼・瓜生天保堂各氏は贋作と考えていました。

(浩泉丸)大濶縁贋作とは業界がひっくり返りますね。では同じように会津の大頭通とか進口保とかもだめな気がしてきました。少なくとも会津の書体じゃないですから。

(仙人)その通りです。良く考えれば、誰にでも解る事なんですが、高額金が動いている為に、解っていても皆さん話して来なかったのです。因みに秋田の村上さんは、ご自身の泉譜で、会津の試鋳銭について、「無理に買う物では無い」と、警告しております。             

28.文久の錫母について
制作日記(2013年11月3日)にある文久・錫母銭は昭和30年代に、東京・日暮里に住んでいた、富田の作品と思われます。小生は富田とは直接会った事は有りませんが、富田と交流の有ったTK氏から、良く話は聞いております。
Tは天保銭の水戸・遒勁や鋳放し銭、秋田の鍔銭・波銭等、幕末の貨幣を鋳写しで作り、都会では売らず、地方にて商売をしておりました。結構精巧で、真正品として所蔵されております。小生もTK氏から波銭を頂いた事が有ります。真正品の文久・錫母銭には、ある仕掛けがしてあり、これの無い物は、殆どが富田の作品です。鑑定上の理由にて、掲載は出来ませんが、小生が真正品を所蔵しておりますので、機会が有ればお見せ致します。なお、寛永銭・天保銭の長郭・細郭の錫母銭は崩落しますが、合金技術の進歩の為か、天保銭・広郭と文久銭の錫母銭は崩落しません。 崩落による真贋は古銭により、異なります。


29.文久の錫母について2
まず真文の銀座は、錫母銭自体を知らないので、現存する錫母銭は総て贋作です。草文・玉宝は金座なので、両品共に錫母銭が存在します。
草文・玉宝の錫母銭の本物は、物凄く柔らかく、背波がキチット鋳浚いされています。贋作の場合やや固く、鋳浚い跡がボケています。本物から写しているので、銭径はほぼ同じです。尚文久銭の試鋳銭の黄銅~褐色の銅質で厚肉の物は総て、明治に作られた贋作です。ついでに四角い仙台通寳の錫母銭も総て贋作です。

※金座と銀座の間は非常に仲が悪く、金座は銀座に錫母を使った製法を伝授しませんでした。錫母を使う手法は、金座・水戸藩・南部藩の他、一部の鋳銭工しか知りえない秘密でした。銀座の作る文久銭がバラエティに富むのはこれが理由です。
新寛永の錫母が時々出てきますがどれもが怪しいものばかり。高津銭に錫母があるはずがない。

30.恩賜手について
恩賜手は旧貨幣誌に、大川天顕堂師が記した様に、三上香哉師が唱えた説で、根拠となる物は全く有りません。天顕堂師は、恩賜手と言う名称は、相応しいかどうか疑問視しておりますが、確かに特殊な一群の寛永通寶が存在している事を認め、分類を発表しております。
それに対し真っ向から、存在その物を否定したのが、田中銭幣館師でした。只これには恩賜手自体よりも、三上師に対する個人的感情が先に立ち、三上説を片っ端から反対したと言うのが本音の様です。
しかしこの事が、恩賜手の研究を妨げる事になり、近年まで無視されて来たのです。現在の某会は、顧問のKが存在その物を否定し、又会長を始め上座に座っている連中も同様に、寛永銭研究家の意見を全く聞こうともしません。そのことを話した処猛烈に反対(馬鹿に)され、全く聞いて貰えず、それ以降一切この件については誰も言わなくなりました。今や恩賜手を話しても取り合わない程、レベルが落ち、常識(人格の問題)が欠落しております。研究に熱意の有る方程、無視された時の落胆は大きいからです。


31.中国産の贋作、続々と来日中!
先日某業者のA氏(荒畑?)より、『秋田・鍔銭と波銭、水戸・虎銭の未使用銭に、皇朝銭の貞観』の良く出来た物が出回っていると警告を頂いた。 総て中国にて造られて、持ち込まれた物との事である。昨年末、日本貨幣協会の例会にて、水戸・虎銭(未使用)の真正品とされて出品されていた物が、小生は贋作銭と見て、周囲の人たちにこっそり教えましたが、やはり贋作だったんですね!現在天保銭の未使用銭にも、?品が見られるので、今後更に鑑識と製作の勉強が必要と思われます。

32.郡司氏のこと
郡司氏は、銭幣館にて田中銭幣館師の、相談や仕事を手伝った三上香哉の甥にあたり、三上師が田中銭幣館師と決別し、平尾麗悳荘の元に走った後、銭幣館に出入りをする様になり、戦後田中銭幣館師が蔵品を日銀に寄贈する時、その整理をする為に、日銀に勤務する事になった人物です。
叔父の三上師に似て物凄くアクが強く、言葉も乱暴の上自己主義で、自分の気に入らない人達を皆、日本貨幣協会から出て行くように、仕向けました。その為に小川青寶楼・陸原亡庵・小泉穂泉等多くの方が去って行きました。
その上自分は副会長のまま(会長になると金が掛かるので)名誉会長?になったのです(この間会長不在)。とかく裏話(問題)の多い方なのです。郡司名が有る拓本集(郡司師が売却した物が掲載)ならば、可成りヤバイ物も、載っているかもしれません。

※郡司氏は日銀博物館の館長だったので、古銭家に収蔵品を公開してくれたりしたのだが、その裏で収蔵品のすり替えを行って外部流出もさせたらしい。平成22年の銀座コインオークションの延尾永参考原母銭はその品のひとつである。

33.仙人秘伝帳

1.錫母の仕上げには金やすりを使用しない。木賊(とくさ)で磨く。そのため輪側面などには非常に細かい目が残る。また、内郭に鋳張りが残ることはありえない。(必ず背から鑢は入る。)
2.広郭の錫母より細郭の錫母の方が大きい。
3.石持桐刻印は2本以上のタガネを使用しないとつくれない意図的なもの。
4.丁銀には必ずへこみ有。また、時代印は左右必ず上下逆になる。
5.丁銀の整形は砂型への鋳造。熱湯を用いたのはうそ。刻印をうつのには木製の台(ヤニ台)を用い、との粉と松脂で接着していた。
6.大島延泉は丁銀の贋作者であった。歴代の古銭家に(近年を含め)贋作者は実に多い。これは業界の秘密事項なのかもしれない。
7.曳尾大天は第2画下部に爪がある。
8.縮通と進二天は花押の左下部先端を見ろ。
9.秋田広郭写、薩摩広郭、会津短貝寶には無刻印が多く、接郭には多重打ちがある。
10.背異反足寶はそぎ落としが多い。

 
34.『本座・細郭・広郭・中郭と、類似銭について』

①長郭・細郭の錫母銭は、必ず何処かが崩落している。
贋作は戦後、玉塚家より出た、罹災品が天顕堂に入る前、細郭の彫母銭から作られた物で、緻密精巧な出来である。贋作の細郭錫母銭は、全く崩落していない。最近その頃の事情を知る者が減った為、又出回り始めた。

②広郭の錫母銭は、細郭の錫母銭を増郭した物から作られた。つまり『細郭彫母銭+増郭→広郭錫母銭』では無く、 『細郭錫母銭+増郭→広郭錫母銭』が正解と思われる。
その根拠として、
1.現存する細郭彫母銭は、増郭の痕跡が全く無い事。
2.細郭錫母銭より、広郭錫母銭の方が、稍小さい事。
(錫母から写された錫母は、輪側を仕上げされた分だけ縮小する)。

③広郭銅母銭の通常の物は、踏み固めた時の鋳砂により角が取れ、全体に丸みを帯びる。
『水戸・正字銅母銭』として売買されている物は、未使用かそれに近い物で、総て本座銭である。

④広郭銅母銭は、増郭存痕銭より、無い方が存在少なく稀少。

⑤増郭は生産量を増やす為に施したもので、従来伝えられている「紐を通した時に、ガタ付くのを防ぐ為」と言うのは、真っ赤な嘘である。

⑥中郭は江戸から広郭錫母銭を持参して、大阪難波村で作られた。記録では、江戸鋳造銭より稍軽い。
薩長の贋作銭に対応する為と、伝えられる。

⑦中郭の錫母銭は1品のみ確認されている。銅母銭では区別出来るが、通用では定義が無い。中郭手には、必ず増郭跡が有る。

⑧20年位前、神奈川の業者だった、M氏(御子柴?)が細郭と中郭の銅母銭を多量に購入した(小生の知る処では20品位)。
当時広郭銅母もなかなか無い頃の事、多いので自分一人では売りさばけ無いと思ったM氏は、東京のT堂のU氏(天保堂瓜生氏)に販売を依頼する為に持参した処、総て広郭銅母銭の穿(郭の内部)を加工した物と指摘された。
この言葉に嫌気がさしたM氏は、二束三文にて、これらの改造母銭をU氏に売ったのである。
その後U氏はこれらの改造銭を、真正品として売却してしまったのである。これが暴々鶏氏がよく書かれる、天保堂作と言われる物の所以である。
※瓜生氏は小川氏の品物を持ち出して(すりかえ)売却したり、贋造の中郭を大量購入して売却したり、わざとニセモノを銭譜に掲載したり・・・けっこうやんちゃだった。

⑨不知の面反郭・背円郭銭は、紀州鋳造銭と思われる。
その根拠は・・
1.江戸本座銭と、銅質・製作・銭径・銭文径・極印等が全く同じである。
2.八代将軍吉宗から、十四代まで紀州の出て有り、江戸徳川の母体であり、密接な親戚関係に有る事。
3.紀州も天保通寶の鋳銭願いを出している事。
4.現存している面反郭・背円郭銭には、増郭の跡が確認されている事。つまり本座広郭銅母銭が使用されている。
5.大阪銭が穿内を削り、中郭にした事から紀州銭にも郭に何かしらの策が施されている筈。つまり江戸鋳造銭との、区別を付ける為。
6.郭を面反郭背円郭にする必要は、藩鋳銭でも不知銭でも無い、又鋳造過程でもわざわざ行わない。つまり江戸鋳造銭と見分ける、シークレット・マークの為に施されたものと思われる。
以上から紀州からの依頼に対し、江戸本座の職人が、広銅母(もしくは錫母)銭を持参し、紀州にて鋳銭した紀州銭と思われ、反郭仕様は江戸との区別を付ける為と思われる。

⑩佐渡鋳造銭は白銅であり、旧譜にては『水戸正字白銅』銭とよばれた事がある。旧譜にて藤村太郎なる人物が、佐渡にて聞き込み調査した処鋳銭地が解った事が発表されたが、佐渡鋳造銭の拓を曳尾銭にした為 以後『佐渡・曳尾』銭と呼ばれたが、当初より田中銭幣館師達から、疑問視する声が多かった。藤村某は実は三上香哉の事で有る、香哉氏は当時一流の目利きと言われたが、大ぼら(嘘)が多く、信頼が低かった。戦後、佐渡を調査した青寶楼師は、佐渡・越後から曳尾銭が1品も見付かっていない事を確認し、曳尾銭を外した。
佐渡の資料から「仏具等を材料にした」事に注目し、仏具同様の、白銅銭を佐渡銭と確定した。以上が話の大筋です。
 
35. 分銅の見分け方
分銅は後藤家銅座でつくられたので、必ず桐極印が打たれています。贋作分銅は鋳ものでつくるため、中央部が凹む癖があります。また銅質は黄色味のない青銅です。贋作は鋳造で作り、分銅面を平に削るのですが、削りすぎるわけにも行かず凹む癖が残ります。したがって縁の部分がすれて変色、中央部分が古色が残りやすいのです。

36.近代贋作について
贋作近代銭は放電加工機を使ってつくります。まず、元になった貨幣からシリコンで型を取りそれに厚くメッキをかけます。そのメッキを原本にして放電加工機で地金を削りだします。放電加工機の癖で、金属の平の部分に細かいあばたができます。20倍以上に拡大すれば見えます。
穴ズレ50円玉は、穴の開いた円形を打つ際に型ずれしたもの。穴をあとから開けたのではない。また、サイドのギザはプレスの段階で同時に入る仕組み。したがって穴ズレ50円の穴は必ず歪む癖があります。なお、プルーフは2度打ちではなく、鋳型にハードクロムメッキをかけて鏡面仕上げしてあります。

37.御蔵銭の秘密
御蔵銭は浅草橋場ではなく鳥越の出。鳥越の旧地名は蔵前であり、その後引っ越して浅草橋場になった。したがって御蔵銭は蔵前の銭のこと。これが表に出ないのはわけがある。
鋳物師の親方は当時日本に3~4人しかいない、渡来系集団。実は鋳物師は古来朝鮮半島から技術伝来のおり連れてこられた人々で、結束力が強く、たとえ藩命でも動かない集団だった。家康はその力が強大になるのを恐れ、身分制度上ではエタ扱いにしていたが、例え家康と言えども言うことを聞かない特別な存在だった。(古和同が朝鮮系、新和同は中国系)長門 浅草 大坂 九州 (芝銭座は長門鋳物師)
そんな鋳物師の親方の一人が浅草弾左衛門。しかしながら当時の蔵前はエタヒニンの部落。したがって、蔵前で鋳造したと言う事実は表に出せない。ちなみに田中銭幣館はエタ出身。これも秘密。

38.泉談・雑談
寛永銭の4大贋作とは下点盛 小菅巨字 白目大字 潜イ

宝永通寶や貞享通寳・背甲子は京都七条銭座でつくられたもの。母銭は中見切になっていてその癖が見られます。

会津短貝寶厚肉は3.7㎜まであります。

水戸繊字は用の跳ねが欠落するくせがあります。

接郭母は極印有。また通用に多重打ちが多い。

天保の面背逆は鋳不足のホールを修正した結果?

彫り母の失敗はみな伊勢神宮の奉納された それを銭幣館が購入して世に出た。天保の彫り母だけで数百枚あったといわれる。

平清盛はお金の輸入に手をつけたので皇室の怒りを買った。

秋田細郭に純赤のものと純黄色(オレンジ)のものあり少ない。

天保番銭は5番以上。9番まである。4番以前は未発見。

天保銭の錯笵はおきなおしによるものが多い。

39.日馬家の秘密
仙人の奥様は鴻野水軍の正統系列で鴻野又四郎が南北朝時代に南朝後醍醐天皇に仕えた。そのとき、3種の神器を隠す役割を担ったのが鴻野水軍。ちなみに日馬家は信長に呼ばれ仕えた馬飼の一族。
鴻野水軍は隠した神器を口伝で伝えていたがいつしか忘れさられた形。したがって、北朝統一後に天皇家にある神器は実はレプリカのはずであり、本物はどこか?墓?に隠されたまま。戦後現れた熊谷天皇は実は本物の系譜のひとりで、皇室を始め世間はあわて事実隠しに奔走した。

40.水戸と高知

称水戸(水戸藩鋳の根拠無し)・接郭銭と、高知・額輪銭との、銅母銭を比較をしてみます。
 接郭 額輪
状態: 総て使用済み、未使用は未見。 状態良好、使用母殆ど無し。
銭径: 格差有り。 ほぼ均一。
銭文: 書体変わり有り。 短尾通は別にして、小変化のみ。
 痕跡: 無し。   覆輪・増郭痕有り。
以上の事から、額輪銭が1枚の天保銭を加工して原母を作り、銅母→通用と鋳銭したのに対し、接郭銭は原母がどの様だったのか、解らないのです。つまり1枚の天保銭を加工したのでは無く、新規母銭の可能性が充分に考えられるのです。
実は小生の所蔵品に故・瓜生有伸氏が「接郭の原母?」と言った物が有ります(方泉處11号・40P掲載品、当銭は茨城県内にて雑銭より発見され、取手のS氏の斡旋により小生蔵となる)。当銭から鋳写した物に、加刀修正(鋳浚い)をすれば確かに接郭に似て来ます、瓜生氏の見解は正しいかも知れません。つまり『接郭銭と額輪銭は、誕生の仕方は異なる』と私考しておりますし、又『刔輪』技法の解釈にしても、小生は皆さんとは全く異なる考えを持っております。
前にも書きましたが、『銭文径』は同系品には有効ですが、銭籍の異なる物には、目安位にしか役に立ちません、小生は如何なる場合も、先ず製作に目を向けております、そうすると贋作にも掛からず、珍品を掘り出す事もできますよ。

 
41.小泉氏のこと、川田氏のこと
小泉氏は『たかりの小泉』と言われる程、弟子達に金銭から食事・旅行費用挙げ句の果て、記念大会の参加費まで、一切身銭を切る事は有りませんでした。一番たかられたのは、赤坂氏・次に志村氏・田宮氏その他、小泉氏にたかられた事が無い方が少ないと言われる程、酷かったです。弟子に雅号を付けると礼金を取り、ゲストとして呼ぶと謝礼・車代・食事代と物凄かったです。私は雅号付けを断った為、それ以後挨拶もしてくれませんでしたし、弟子達に私と付き合うなと言ったそうです(仲の良い方からの連絡)。
晩年赤坂氏と喧嘩し、仲違いになった途端、私に声を掛けて来ました。どうやら車で、送迎をして欲しいらしいのですが、積年の恨み断りました。
兎に角、自分の気に入らない収集家(金を出さない人)には、悪口からその人の蔵品まで、メチャクチャな事を平気で書く人なので、文章を良く把握して『話半分』位のつもりでいないと、100%真っ赤な嘘もありますから・・・・・・協会の人達はその事を良く知っていますので、例文や参考文に使用すると、猛反発がくる場合があります。
川田氏も同様で、自分本位の人間で、自分自身が正しく、反論は絶対に許さず、蛇のようにしつこく、悪口を言います。一番被害にあったのは、三鍋氏(富山・寛永銭で有名)で、ほんのささいな研究発表をネタに、人格までこき下ろした人物です。今でも協会の例会で、人様の蔵品にケチを付け、回りは嫌がっているのに、気が付きません。

42.20円金貨銅打ち見本
造幣局関係者編纂の『貨幣沿革図録』『貨幣法規』等によると、「明治4年から発行した金貨は、明治6・7年頃から海外流失が止まらず、明治10年11月、紙幣の巨額増発に、明治11・12年の国立銀行紙幣の増発等により、国内では紙幣を見るのみで、金貨は殆ど絶ち、一種の商品の姿となり・・・」と、記されております。
つまり明治の旧金貨は、発行したものの、すぐに海外に流出してしまい、国内では無くて記念貨みたいな扱いになっていた事が解ります。明治政府の本音は、銀本位にしたかったのですが、海外からの苦情で金本位にしたものの、現実は厳しく海外での金・銀の相場の違いから、流失したのです。江戸末期に於いて行った、小判の海外流失と同じ失策をしたのです。
 以上を踏まえると、次の様に考えられます。
政府としては金貨を廃止したかったのですが、多量の兌換券が市場にある為にそれも出来ず、そこで考えられたのが、金貨の縮小です。当時流通していた『二十銭銀貨』のデザイインを利用し、『二十園金貨』を考案し、試鋳で銅打ちにしたのが、今回の出品銭と思われます。もし此の案が採用されたら、二十銭銀貨はすぐに廃止し、外のデザインになる筈でした、従って明治13年銘の二十銭銀貨は、殆ど作られなかったのです。 しかし此の案件は採用されず(極端過ぎてデフレを起こし、市場が混乱する)、金貨自体を発行しないで、金を保有し、その後新金貨の発行へと、なって行くのです。もう一度実見したいので、落札された方、御連絡を!実見し正式な工程を踏まえた物ならば、間違いなく、明治13年『二十園金貨』発行の為に、打たれた試鋳貨幣です。

43.離郭枝銭のお話
『福岡離郭の枝銭』は、元々は天保仙人の所蔵品だったそうです。(父君の所蔵品と月刊天保銭にあるが?)

(仙人)昔『コイン』と言う、直ぐに廃刊になってしまった雑誌に、『草間由博』名で、名品と言う事で、掲載し詳解しています。
因みにこの名称が収集界で、一番最初に使用したペンネームです。
丁度『みちのく大会』が始まる、前年度に秋田貨幣研究会と、天保通寳研究会の合同勉強会が、秋田の村上邸で行われました。
その時に持参して、皆さんの意見を聞いた処、村上さんが収集箱から、一番銭径の小さい離郭銭を持って来られ、枝銭の天保銭と比較しました。その結果枝に付いていた物と、一番小さい離郭銭が、同じ大きさだったのです。
そこで村上さんは、『枝の物はこれから仕上げをするので、更に小さくなる。この枝銭は通用銭を利用して作られた物と、判断する』と、話され一同納得しました。
この後、瓜生さんが『九州の方が、研究用に欲しがっている』との話で、30万円で手放しました。
その後九州から青森に渡った時は、300万円に化けていたのです。板井さんも入手当時は、『本物だ!』と、話していましたが、次第に嫌になり、原田さんに、売却しました。その後、銀座コインのオークションに出品されたり、何人かの手に渡りましたが、必ず嫌になり放出されます。真贋については、以上の事柄から推測してください。尚この枝銭には、九州の方は手を出しません。


この枝銭は元々は陸原忘庵(なお、万国貨幣洋行の太田保師)先生の所蔵品で、当初は一枚しか無くなっていなかったのですが、
貸出ししている内に、もう一枚無くなり、現在は二枚付いていません。私が交渉中に無くなってしまい、先生は『申し訳ない』と謝罪され、当初の価格より、安くなったのです。真贋は不明が条件の一つでしたので、当時発行されていた『ボナンザ』誌を通し、『鑑識と手引き』の著者・小川吉儀先生に、鑑定をお願いした処、贋作と言われました。

 
※浩泉丸のひとりごと
インターネットに出たの曳尾の母銭・・・贋作と言う噂を聞きました。今から20年以上前、ある方が出品した品で、あまりにも立派で出来すぎなので小川青寶樓氏がダメじゃないかなと判断したものです。ただし、理由は積極的なものではなく、出品者があまり信用のおけない変わった方だったからだということも聞きました。その方が亡くなった後に所有品が売りたてられましたが、たしかに贋作もあったようですが本物もそれらに混じって結構あったようです。
今の定説は曳尾の母銭は通用銭を鋳ざらい改造したものに違いないということなのですが、それらの多くは大川コレクションの中にも見られる贋造品です。通用母銭は確かに存在しうると思いますが、その場合は通用銭は次鋳サイズに縮小します。したがって一般の通用銭より必ず大きな母銭がこの世に存在するはずなのです。青寶樓氏の眼なので軽視できませんが、この件についてはまだ自分の眼で見なければ結論は出せません。見ても多分分からないと思いますが・・・。(天保仙人の談話に個人の考察を加筆)

本音を言うと天保仙人様の加越能は手に取ってみてもピンときませんでした。仕上げが近代的で失礼ながら古貨幣には思えないと仙人に申してしまいました。実は駆け出しの頃に仙人がこの精巧な贋作に引っかかっているという談話を知っています。無造作に置いてあるところなどから見てその原品ではないかと思ってしまいました。

そういえば仙人からお見せ戴いた石ノ巻反玉寶をはじめて手にした時も同じような感覚がありました。あの金質は江戸ではありません。時代は明治・・・それも中期以降だと確信しています。後に仙台の西さんから分譲戴いた石巻の仕上げ銭・・・これはまぎれもなく当時の金質。未仕上げ状態と仕上げ後であれほど違うとは想像できません。私所有の石巻の鋳放し銭はもともと工藤氏の所蔵品で、これが石巻の某資料館から何者かにより持ち出された物(つまり盗品)らしいことも聞いています。つまり、この品は正品だというのです。この品と仙人からお見せ戴いた金質は一致します。う~ん、わからなくなりました。
なお、古泉界には文章に書けないことがたくさんあります。石ノ巻などは資料の文章そのものが信用できません。それは、間違った論説を裏付けるために収集家(販売者)によって書かれたものだからだと思います。場合によってはねつ造もあり得ます。

仙人宅で水戸接郭原母?についてはちょっとわからない。本座と銭文径が同じというのも不思議ながら、確かに本座を真似て母銭を作ったとしたらこれはあり得ます。
仙台様もそういえば本座と同じ銭文径。こちらは本座より大きな母銭を作ったことになるので疑問が残る品。だって仙台は覆輪写しが原則ですから作為を感じます。極印まで似せていますし・・・。反郭のつくりも怪しいし、地肌のぶつぶつも針でつついたようです。私の中では99%贋作。しかし明確な証拠なしですので謎としておきましょう。
 
平成27年7月11日 夏の古銭会
1.ラムスデンが国内販売をしていない
これは事実ではない!ラム作を販売していた業者が口をつぐんでいるだけで実際は流通しています。鷲田寶泉舎あたりはあやしい。百録永昌母銭はみごとでした。ただ、薄すぎますね。

2.目黒さんの掘り出し
骨董屋で寛永の挿しを購入して例会で売ろうとしたら・・・100枚中30~40枚の島屋無背が入っていた!その時購入した天保銭も役物ばかり。
すごいと思っていたら上を行く人がいました。それは稲毛さん。
ネットで買った雑銭の中に100枚の南部母銭の挿しが混入。それも全くの未使用の大型母銭ばかり。こいつはすごかった。

3.骨董の目利き
掛け軸は、軸全体を握ってふわふわしたものやごわごわしたものはニセもの。本物は固くきっちり巻ける材質になっている。また、鎌倉時代の古刀は反身が強く、元から全体にかけて反っている。直刀の場合は両刃。江戸時代の刀は先端部分のみに反りがある。

4.大判の改め書きには価値がない
明治時代、大判の改め書きのブームが起きました。そのため、かすれた文字を書家に持ち込んで書き直す行為が頻発します。あの小川青寶樓も銭幣館も書いています。余談ながら古文亭丹野氏も墨書きがなくなった大判を安く買って書いたら倍額で売れたそうで・・・。
ひどいものは元書きを消してまで改め書きをしたそうです。あのときは書きなおした方が高く売れたのだそうです。三上香哉、銭幣館も書いています。

5.流出した極印を買い戻した田中啓文
明治維新のどさくさに紛れて、金座、銀座の極印が流出し、贋作師に流れました。田中は大金を支払ってそれらを回収したそうです。なお、それを使ってつくった小判があり、真贋判定は極めて困難。本物は整形のとき、周囲をたたいたためか、縁部分にわずかにめくれと表面の端に凹む癖があります。真っ平らの小判は要注意です。(明治20~30年頃の話)
※貨幣協会でもめたこともあるそうで、このことを知っている人は今はずいぶん少ない。極印が本物なのでまず素人は見分けがつかない。

6.富田作の銀判
富田作の秋田四匁六分判や盛岡八匁銀判があちこちで本物として売られている。拡大すると極印が角ばっているし、全体にのっぺりしているもののなかなか良くできています。なお、盛岡八匁銀判の山極印のシークレットマークですけどあるのは前期で、後期のものには本物でもないそうですからあてになりません。なお、世間でいろいろ言われている七匁銀判は試鋳貨幣の可能性が高いとか・・・ただし贋物が多いので何とも言えない。
富田作は実に幅広いことが分かります。そしてあまり知られていない。それが出てきています。

7.ひびきの悲劇
ひびきの製作費用は6000万円もかかったそうです。それで600冊しか作らなかったので一冊10万円の価値。出版記念パーティーに出た方はそれ相応のご祝儀を包んだそうですけど・・・表紙を飾った栗駒金は真っ赤な贋物。そのことを知った著者は、がっかりして収集をやめてしまったそうです。

8.石目の真実
石目打ちというのは石の上で加工したのではなく、金テコ(加工台)についた砕石の跡。金テコを鋳造するときに、砂笵を使うと自重で砂笵が壊れてしまいます。そこで細かい石を混ぜて補強したそうです。仙人の作業場に古い金テコがあり、その表面が見事な石目模様。なお、丁銀は砂笵の表面をスプーンのようなものでしゃくり取った後溶解した銀を流し込みました。そのため中央部がゆっくり冷え固まったので、中央が凹みそこの銅分が析出して赤くなったりするものが見られるそうです。

9.銀永楽のこと
永楽は文字がめでたいので、江戸時代において民間でさかんに銀でつくられたそうです。いわゆる記念銭。これについてはたしか利光教授も書いていたと思います。紀州永楽もおそらくその類で、たぶん長門で作られたと思います。なお、古寛永の金銀銭は確かに存在しますが、三貨制度の出来上がった新寛永の時代、銭座はこのようなものは作りません。したがって新寛永の金銀銭はほぼニセだと言えます。(背久はOKか?)

10.寿貫の小様に注意
富寿神寶の寿貫は江戸時代から有名であった。この銭は大様が特徴なのだが小様のものを時折見かけます。これは江戸時代の写しなので気を付ける事。和同開珎の贋物も江戸時代に盛んに作られています。

11.東京オリンピック1000円銀貨の贋物
東京オリンピック1000円銀貨の贋物があることは意外に知られていません。当時、日本中の古銭会に手配書が配られました。これを発見したつわものがいます。私は欲しい!

12.米字極印・下田刻印はだめ
米字は最近まで川口の石塚氏が作っていた。下田極印は長崎の魚京堂津田氏が流したニセ情報。彼の他に複数のものが作っています。

13.ラムスデンの文久試鋳貨
良くできていますが、ラム作です。銀座は当百銭を作成する権利が無かったので金座有利になる百文銭の試鋳貨をつくる必要がありません。実は銭幣館所有の贋作類は日銀に寄贈されることはありませんでした。推定ですが、郡司氏が譲り受けその後、田宮商会が一括で引き受けたようです。それが今市場に本物として姿を現し始めているのです。
※仙人様は三上→郡司氏の流れをおっしゃっていましたが、三上氏は平尾氏のもとに走っていますので、おそらくこれは記憶違いでしょう。

14.天保・本座母銭の贋物あり
非常に精巧で見分けが難しい。錫母はトクサで周囲を磨いている。金属やすりは使わない。長郭・細郭の母銭は崩落が必ずある。会津の試鋳貨は朝鮮天保のつくりによく似ています。なお、本座の母銭の側面はやすり仕上げです。ただし、磨滅でほとんど見えないものが多いのです。ただし、面背にはやすりをかけることはありません。
余談ながら・・・筑前通寶の母銭の表面にもやすり掛けはありません。そのため郭の表面にひび割れ状の模様が見えるのです。

15.密鋳は江戸期の経済戦争
幕末、各藩は天保銭を盛んに密鋳します。しかし、それを自国で使うと国内は銭が溢れインフレが急伸します。だから・・・密鋳銭は自国で使わず国外決済に使うのが鉄則なのです。秋田藩は密鋳天保銭をつくりましたが隣国決済でばらまきました。一方、自国内は波銭や鍔銭を使い、インフレにならないようにコントロールしたのです。ところが敵もさるもの。盛岡藩では鍔銭や波銭の密鋳銭をつくって対抗したそうです。同じように薩摩藩の半朱の密鋳銭は隣国の肥後国でも作られました。
※薩摩の小字(長人偏タイプ)の赤いものが秋田でまとまって出た(村上氏)

16.宝永通寶の贋作の理由
宝永通寶には昂寶になる母銭しかないものがあります。大英博物館の朽木コレクションの中にも含まれており、かなり古い時代からの存在のようですけど・・・まず、側面の仕上げの方法が異なります。この時代の側面仕上げは鏡職人の技法を応用したため、中見切のつくりになっていますが、昂寶のものは方見切りになっています。何よりこの贋作には錫母が存在しています。この時代の銭座は錫母の存在そのものを知らないはずなのです。
なお、二字宝永や永十は銅質も異なりますし、中見切でもありません。その理由は、これらは幕府そのものがつくった試鋳銭であり、ぜにざが関与していないからでzす。

17.開基勝寶・天顕通寶は民間に1枚ある!
その昔、小川青寶樓のところに開基勝寶を売りに来た人物がいたそうです。小川は開基勝寶の実物に触れていますので、ポイントを知っていたのですがどうみても本物にしか見えませんでした。しかし、あまりの高額に気後れして購入を断ってしまったそうです。その後、このことを悔やむことしきり。せめて連絡先を聞いておくべきだったと・・・。ちなみに開基勝寶が発掘された時、工事人夫によりひそかに盗まれたという噂があったのです。
同じように天顕通寶も民間に必ずあるはずだそうで・・・その由来は森田寶丹の所蔵品。寶丹の看板の寶の字はこの天顕通寶の寶の字をまねたものだそうです。天顕通寶は中国では2品しかなくいずれも重要文化財です。

18.和同の枝銭
仙人がまだ若かりし頃。太田氏のお店に和同の枝銭が桐箱入りの状態で売りに来られたそうです。どう見ても良いものにしか見えなかったそうですけど、自信が持てず入手できなかったそうです。当時は和同が枝銭でつくられたという確証もなかったのも災いしました。この枝銭もどこかにあると思います。仙元神社を造った野村氏も、背異替5、6枚のついた枝銭を保有していたそうですが、現在は所在不明。

19.仙元神社:湯島コインが泣いた
野村氏は子供が無く、亡くなった後、仙元神社もその所蔵コインも親族によって散り散りになってしまったそうです。湯島コインさんはその蔵品の中に貴重な赤穂の元禄藩札があるのを心配していましたが、骨董屋がガラクタと判断して焼いてしまったという話を聞き、涙したとか・・・。
他にも天正菱大判金や旧国立20円札・大黒10円札(いずれも未使用)もあったそうです。
こんなエピソードもあります。野村氏が自慢の大判小判を並べ展示していたとき、会場にふらりと現れた男がぶつくさ・・・これはいい、これはだめ・・・それを聞いた係員が詰め寄ると、男は小川青寶樓でした。それに気づいた野村氏は非礼をわび、ぜひ本物と交換したいのでご指導くださいと頭を下げました。その結果、日本有数の貨幣コレクションが出来上がったそうです。その規模は尋常ではなく、野村氏に「丁銀を見せて下さい」と仙人が頼むと大きな丁銀箱に山ほど入ったコレクションを持ってきたそうです。(頼むときは分類名を言わないと大変。)
なお、野村氏は戦後は産婦人科医であり、各種団体の名誉代表を務めるほどの名氏でしたが、東大で物理学を専攻していたこともあり、そのときに原子爆弾の開発も行っていたそうです。実は原子爆弾の原理はアメリカより早く東大の研究所で開発に成功してましたが、肝心なウラン・プルトニウムの入手がかなわず、完成に至りませんでした。戦争に勝つためにはこれしかないと軍部に掛け合いましたが、相手にされませんでした。この情報はアメリカに漏れたようで、結果としてアメリカ側に先をこされたわけですが、野村氏は殺人兵器を造ったことを悔い、仙元神社建立を思い立ったそうです。なお、原爆の模型は終戦前に証拠隠滅したそうです。(設計図のみあるらしい。)

20.四国の郵便局のお話
戦後、四国の田舎の郵便局に古銭がたくさんあるという話が来ました。それを聞き、太田保氏が四国に渡ると、なんと20円金貨がロールの状態であっつぉうです。しかし、蔵主はそれを打ってくれませんでした。・・・が、穴銭なら譲ってくれると。中を見ると古和同の銀銭が見えます。大喜びでそれを購入し連絡船で本州へ・・・ところが大しけで船が転覆しそうに揺れます。それを太田氏は必死で抱えていたそうです。その古銭を買ったのも野村氏です。

21.ハドソンのこと
ハドソンの工藤氏が駆け出しの頃。江戸コインオークションで明治通寶を数百万で買いました。それを見ていた石川氏・・・あれは贋作じゃないか???と疑問を持ち、仙人に相談を持ちかけたそうです。仙人はそれがダメな理由を資料を付けて石川氏に託したそうです。その結果、工藤氏は自分一人で収集することの限界を知り、石川氏を館長として指導役に迎え方泉處を造ったそうです。ちなみにその明治通寶は方泉處の贋作コーナーの中央を飾ったそうです。

22.石川氏と仙人
と、あるオークションのこと。飛ぶ鳥を落とす勢いのハドソンはそのオークションに的を絞り、購入品を事前宣言したそうです。その結果、国内の大家は戦意喪失しオークションの参加そのものを見合わせました。仙人にはどうしても欲しい品がありましたが、ハドソンとの一騎打ちは必死。その情報を石川氏も知っていました。そして運命のとき・・・石川氏が二日酔いで札を挙げ忘れました。そして仙人がGET。当然、石川氏は社長に会場に響き渡るようなものすごい剣幕で大目玉を食らったのですけども、実は石川氏がわざと札を挙げなかったのではないかとのこと。以来、仙人は石川氏に頭が上がらないそうです。余談ながら私がHPで仙人の古銭の画像を無断使用していたとき、あいつは何者だと怒る仙人をなだめて下さったのが何を隠そう石川氏だったそうで・・・今日初めてそのことを知りました。

23.昔の古銭収集家は大金持ちだった
田中啓文は饒益神寶を200枚、慶長小判700枚、元禄小判200枚を持っていました。青寶樓は何でも100枚ずつそろえる主義だったそうです。また、自宅には分厚い壁の大金庫室があり、買い出しに現金を常に1億円保有していたとか。大川氏は亡くなったときに看護師(の愛人に)看取られたそうですけど、慰労金として300万円と形見分けに丁銀を一抱えもらったそうです。その丁銀を太田保氏に換金してもらったところ1000万円にもなったそうです。(買値・太田氏も大儲け)なお、太田氏も現行コインアルバムが大当たりして、現金書留が山のように届き、段ボールにそのまま入れていたとか。お金持ちは自分の資産がどれだけあるかが分からないのです。ちなみに、収集家としての一人前は、自分の蔵品の数がどれだけあるか分からなくなった時だそうで・・・。

24.西郷隆盛は若くして死んでいた(都市伝説?)
西郷の銅像の除幕式のとき、立ち会った妻が「これは西郷ではない」と叫んだのは有名な話。しかし、その除幕式のときに西郷の古い友であった大久保や西郷の実弟、従弟の大山イワオ氏などは何も言わなかったそうです。
実は西郷は若くして彼らとたもとを分かっていたので妻以外西郷の晩年の風貌を知らなかったというのが真実。したがって栓庵戦争の前に実は西郷は死んでいたという説が、地元の鹿児島ではあるそうです。西南戦争のときに亡くなったのは西郷の影武者だとか・・・。

※これについても怪しい噂がたくさん流れていますが、確証はありません。西郷が永山弥一郎という影武者を使っていたらしいことはあちこちで見られます。早死に説より生き延びたという伝説の方が多いぐらい。さらに、孝明天皇(実は会津に寛容だった)に続き、当時の明治天皇を政府は暗殺して大室寅之祐にすり替えたという説まであるそうです。これはさすがに公にはできませんが、傍証はたくさんあるようです。

25.川中島はやらせ・・・武田と上杉は通じていた
戦国時代の武田と上杉の争いは有名でしたが、実はこれもやらせではないかと言う噂があるそうです。当時は織田・武田・上杉といった有力武将がおり、織田は背後のこの2氏がじゃまでしょうがありません。しかし都合よく2氏が争ってくれていたので織田は様子見をしていたそうなのです。実は武田・上杉は裏で結んでいて、争っているようで戦力を温存していたとの噂があります。上杉が武田に塩を送ったのは美談ではなかったというお話。

※そのような噂もあるようですが、山本勘助はじめ典厩信繁、諸角昌清など重臣を失ってまで 戦うふりは出来ません。実は、上杉謙信一人はやる気満々だったが、武田信玄はその気が無かったというのが本当。
正義一直線の謙信は、自分を頼ってきた北信の将たちの領土を取り戻し、また、本拠地春日山城は信濃国境に近い所にあるという安全保障上の理由から、北信地域への出兵を繰り返した。
一方、武田は遠征軍である上杉軍に負けなければ、いづれ上杉軍は撤退するしかないと見て、主力決戦を極力避けた。
第四次川中島の戦いの前の頃には、武田は越後侵攻をあきらめて、飛騨の侵攻に取り掛かっていたぐらい。
第四次川中島の戦いも、本来、小田原城を包囲していた上杉軍を転進させて上杉の関東制覇を阻止するのが目的だった。
当初、いつもどおり武田軍は決戦を避けて上杉軍にお帰り願う作戦だったが、上杉軍が武田領内に深く入り込み武田の兵糧を断つ作戦に出た。
これは両刃の剣で、ようするに両者はどっちが根を上げるかのチキンレースに突入したわけだが、先に根を上げたのが武田軍の諸将だった。
武田軍の諸将は、早期決戦を主張してきつつき戦法を信玄に奏上した。上杉謙信は、武田軍の動きを見てこれに気付き裏をかいて陣を移したという。
これによって、稀に見る激戦が川中島で繰り広げられたというわけ。

26.彦根のおもかる石
彦根城の傍の大師寺におもかる石があるそうです。願い事をしてから持ち上げて軽いと願いが成就するとか。

27.100円札の透かし
100円札には100の透かしが必ず入っています。ところが、この透かしがみごとに左にずれたものを仙人が発見。これはすごい珍品。裏返しになったものもかつて発見されたそうです。

28.信玄の時代の甲州金は無極印。極印は江戸時代になってから打たれたもの。江戸のファンタジーだと思いましょう。切銀もそうです。

ショック! 録音は2時間18分で切れてしまいました。反省!
 
 
青寶樓の最後の弟子は・・・
丹野(大判小判)・大矢(南部銭)・日馬(天保銭ほか)

 
 
 
 
白川さんの連絡先
質問連絡がありましたら、Eメール(temp6322501@ny.thn.ne.jp)
又はハガキを下さい。
ではお願いします
2014.9.9
白川 昌三
小出 様

こんばんは。盛岡の佐藤です。5月1日の作製日記の中に米字極印のことが記載されていましたので、容量が大きいですが、ご参考までに私の所蔵品と大和文庫のホームページの画像を添付します。
米字極印については、以前雑銭の会の工藤氏が「収集」誌に寄稿していますので、参考にして下さい。
画像01から画像07までは正規品で、画像08から画像15までは贋物だと思われます。よく見比べて下さい。正規品は米の横棒が中央よりやや上になっていて、正しく米の字になっていますが、贋物はほぼ中央で米らしく作っています。極印の痕が裏にぬけているのがよいとされていますが、贋物にも裏にぬけているものもあります。また、贋物は極印を打つ際に熱を加えて打っている場合が多く、変色しています。四つ葉のクローバー状の極印は昭和50年代に盛岡で栗林銭座の母銭に打たれたものだと思います。画像06は正規品と思いますが後から砥石で研いでいるようです。
贋物を本物と信じて所蔵されている方が多くいると思われ、反響が大きいので画像はホームページには掲載しないようお願いします。

盛岡市飯岡新田5-3-1
佐藤 隆
矢内・増沢・吉田・山崎・津田・武藤・目黒・荒畑・羽生・大矢・北村?・伊藤
市村=ちぎえい
 

オークションに出た『盛岡銅山』銭ですが、以前『仙人がゆく!』(19)にて詳解した物と同様と思われます。従って銭径がやや小さく、極印は陰刻の星形です。当系統は藩鋳では無く、民鋳なので評価は下がります。
もし桐極印ならば贋作の可能性が大きく、八つ手極印なら、、珍品か最近作のどちらかです。

確認しましたがやはり陰刻の星形印でした。このタイプは、盛岡藩の藩鋳銭では無く、南部民鋳銭と同じ鋳造所で作られた物です。つまりは当時作られたとしては、収集家向けでは無いので、鋳写した本物ですが、藩鋳銭から見れば、当時の贋作です。『仙人がゆく!』でも、書いておきましたが、評価はかなり下がり5~60万円位が相場です。現在南部と仙台の収集家達の処に、10品位はあります。
当品と同様の制作・地金の、南部民鋳銭を持っていますので、今度、超1級の盛岡銅山と共に、お見せ致しましょう。


掲示板の会津・試鋳銭について、拝見致しました。貴殿のお察しの通り、この一群は良い物ではありません。1~2年前に、鈴木さんから、拝見しますたが、やはり関心出来る物では、有りませんでした。
旧家から出たと言っても、昔から良くある手口で、本物で有る根拠にはなりません。恐らくは明治に入り、収集家向けに作られた物と考えております。制作が朝鮮天保の銅母に似ているのも、嫌な処です。尚これらの通用は総て、大正から昭和にかけて作られた、贋作です。
瓜生氏は私達には、贋作と言いながら、眼の利かない人には、本物として、売っていました。
私の手元には、もっとヤバイ物があります 
掲示板を見てビックリ!あの銭箱は私が所有していた物です。3~4年前に錠前を付けて、キュリオか江戸オクかに、出品した物です。確か上部の鉄金具の釘頭が一つ無い筈です。当時6箱位有り、邪魔なので一番大きいのを処分しました。約1年置きに処分し、現在も3個あり、今年の江戸オクにも、出品を予定しています。
 さてO先生から聞いた話です。『昔200枚以上の寛永の四文銭に、火を当てて見たら、焼け太りが数枚出来た。母銭より大きい通用銭が出た!と話たら、高額で売れた。皆が騒いでいるので、詳細を発表したら(旧貨幣誌に記載有り)更に騒いでいる。
中には、「そんな事は無い、あれは珍品である」と言う人まで居たが、全部私が作った物だ』と言う話でした。確か10数年前の貨幣協会の式典が、上野の不忍池近くのホテルで有った時、この寛永銭が出た事が有りました。オークションの出品だったのか、展示品だったのかは、忘れましたが、寛永銭収集家のK田さんが、『母銭より大きい通用だ!珍しいだろう』と、私に自慢げに見せたので、『旧貨幣誌に造られた物として、詳しく載っていますよ』と話すと黙り込んでしまった。その後K田さんは、この寛永銭を手放したと聞きます。前回と今回の話は、K田さんの名前を伏せてくれれば、私からの話として、掲載しても、構いませんよ。
                  天保仙人 
掲示板のO氏には、若い時分に某古銭会の例会で、無極印つまり極印の打たれていない、丁銀と豆板銀を
買わないか、と誘われた事があります。『珍しい物だ!』と、風呂敷から取り出した銀物は本当に良く出来ていました。当時は鑑定眼も無く、真正品に思えたので、『買おうかな!』と考えていたら、別の先輩達が私に『買うな!』と言う、無言の合図をしていたので、『良い物を見せて頂き、ありがとう、ございます。
今日は持ち合わせ無いので!』と言って断りました。若き日の思い出です。今だに名刺は持っています。
                 天保仙人 
まずはO先生から・・・
先輩達から聞いた話ですが、O先生の自宅に行くと箪笥に古銭の百枚さしが何本がぶら下がっていて、一本は島屋無背・銅母銭のさしで、先輩方はこれは良い物だ!と話していました。もう一本は、永楽銀銭のさしで、これは疑わしい!と、話していました。元々Q先生は錺職(かざりしょく)、現代的に言えば宝飾の加工技術を持っていたのです。ですから銀物は簡単に作れる為に先輩方は疑っていたのです(本物かも?)。
因みに私も宝飾学校の卒業生で、彫金・鋳金・鍛金・冶金・鍍金の技術と宝石の鑑定・デザインも学びました。 私の本職がデザイナーだった事は殆どの人は知りません。現役時代には、沢田研二・山口百恵・森昌子・ ビューティーペアのアクセサリーに、レコード大賞の歌唱賞のパーツに、海外では、ピエールカルダンやイブサンローランのパーツにデザインが採用されました。

話が逸れましたが、三十年位前に、小川青寳楼先生宅にて勉強会がありました。
私は入手したばかりの水戸の試鋳銭・初見品が怪しいので見て頂くと、顔色が良くありません。先生は人様の品には、贋作とは絶対に言わない方なので「何故駄目なのでしょうか?」と聞いた処、「作った人を知っている」との返事。そこで「どなたですか?」と聞くと「まだ生きているので教えられない」との事。そこで言い方を変えて「ヒントだけで充分です」と話すと「千葉の方でバイクに乗っている」と、言われました。この一言で参加者全員がO先生作と解りました。尚この時の試鋳銭は横浜のS先輩から欲しいと言われ売却しました。

さて以前は年に一度位だったのに、最近は毎月毎にラムスデン作が私の処に来ます。総て見た事があるので、ひょっとして思い当たる事があります。田中銭幣館先生が蔵品を日銀に寄贈する時、贋作銭は外しました。その大半はラムスデン作でしたが、後にG氏(郡司?)に譲られました。昭和50年代にその中のラム作一式は、T氏(田宮氏?)が買い取りました。中々見せてくれないのでT氏と仲の良いU氏(瓜生氏?)に頼み一部を拝見しました。驚いたのは紙製の母銭でした。英語が印刷されていたので、洋紙を固めてから彫り母銭に使ったとの事でした。私には売ってくれませんでしたが、U氏は稀に一枚づつ分けてもらいながら、何処かに売っていました。今日の出現から見るとT氏が処分した感じです。泉譜に真正品として掲載されている物も有り、一寸ヤバイな~と、思っています。私も八割位しか見ていないし(本物で売れる物は見せなかった)、若い人は判断出来ないと思う作品もあります。試鋳銭類の購入には、まず先に相談して下さい。天保仙人
伝 二条城の襖金具
京都のTさんのお父さんがその昔、京都の大店で古銭と共に購入したもので、そのおばあさん(仏間も備えたとても大きな旧家だったそうです)の伝によりますと、昔出入りしていた大工さんが二条城から外してきたもの、だそうです。

Tさんのお話によると・・・
この二年間ほど二条城の学芸員さんのところにもお訪ねしたりして探ったのですが、分からぬままです。二条城の装飾品につきましては、大きなものは別として明治期にほとんどが菊の紋に変えられたそうです。
葵の紋が、三代将軍の紋であること。(葵の紋も将軍毎に異なっていることに初めて知りました)
描かれた紋・松のデザインが日光東照宮の位記宣旨箱のものとよく似ていること。・・・まではわかったのですが、『称、二条城引き手』のままです。(実際二条城に滞在したのは、三代将軍と慶喜だけだそうです)松の葉の七宝の色などは、引き手毎に異なり、とてもきれいです。

実は、鑑定団出場決定していまして、打ち合わせも済んでいたのです。丁度その一週間前に震災があり、父が反対してキャンセルしてしまいました。
ということです。非常に貴重なものであり、文化財としても重要なもの。おそらくこれひとつで数十万以上の価値があると思います。この話は秘密のお話として、時期が来るまでここに封印しておきます。
 
Tさんからの情報
お正月頃の記事にロクロの話があり、父と盛り上がりました。
おとそでほろ酔いの父が、古銭に興味のない孫やひ孫を前に、『お祖父ちゃんの皇朝銭は立つんやぞー』とコタツの上でやり始め、小生だけがあせっておりました。
~隆平頃までは確実にロクロで整形していたようですが、貞観・寛平・延喜などはロクロは使用していないのではと思います。がりがりと面と直角に鑢を掛けた跡がありました。
もっとも観察したものが末鋳銭だったからかもしれません。写真が難しくて、また上手く撮れたら送ります。

父の実家が亀岡市(亀山藩)の山奥で、江戸時代から戦後しばらくまで、砥石・トクサ・むくの葉なども出荷していたそうです。販路は、新潟~岡山ぐらいだったそうです。トクサは、すだれのように紐でくくり大なべでゆでて乾かして製品にしたそうです。干すのが子どもの仕事だったそうです。下駄の表面磨きなどに珍重されたそうです。(むくの葉は仕上げ用)
領外での商売では通貨を使い、領内での支払いは藩札を使ったそうです。為替差益で儲けていたということでしょうか。ピケティではないですが格差が広がっていったのではと思いました。

大阪に機械問屋をしていた親戚があったのですが、大阪空襲で丸焼けになったそうです。ところが、倉庫の地下一杯に砥石が蓄えられており、戦後それを売って再建できたそうです。砥石には、そういう使い方もあったのだと思いました。 
 
富田作について
もう30年は経つと思います。確かデパートの催事に、上京していたI氏と共に、業者T社長のブースに顔を出した処、T社長が天保銭・水戸・遒勁と秋田・波銭を取り出して、見せてくれ、「良く出来ているだろう。富田の作だよ!」と、言われました。冨田本人から貰った物と言う事でした。成程裏の秋極印が、打製では無く、鋳込みになっていますが、銅色・制作は仲々の物でした。そこでT社長に「譲って頂けませんか?」、と頼んだ処、「私はニセ物は商売しない主義だ!」と言われ、私は波銭を、I氏は遒勁を、只で頂きました。本当は遒勁の方が欲しかったのですが、I氏は年上で先輩なので、「取り替えて欲しい」とは、とても言えませんでした。
そこで一計を案じ、酒の飲める泉友を何人か呼び出し、I氏歓迎の宴席を設けました。
宴席上で「先程の遒勁を譲って頂けませんか?」と聞くと「頂いた物を売る訳にはいかない」と断られました。
やがて酒宴も終え、宿を予約していないとの事なので、我が家に泊って頂きました。翌朝「世話になったから」と、遒勁を譲ってくれました。T社長に絶対に話さない事を条件に、1万円位だったと、思います。前日の飲み代が2万円位は掛っているので、タクシー代等を含めると、4万円は掛かりましたが、それ位の価値は有る上作品でした。しばらくは2品とも、手元に置いていたのですが、数年後我が家に来たO氏が波銭を、S氏が遒勁を、贋作と解った上で、どうしても欲しいと嘆願され譲りました。今はI氏・T社長・O氏・S氏達は、斯界にいませんが、富田製として、残しておけば良かったと、思っています。           
天保仙人 
銀物の真贋については掲示板に載せるべきではないと思います。現在貨幣商組合に加入している業者は勿論の事、加入していない業者も総て銀物を取り扱っており、真贋を明確にする事は業者を怒らせて斯界に居ずらくなります。実は富田作の銀物は、持っております。前から貴殿だけには見せるつもりで我が家に来ないか?と誘っていたのですよ。なお、私の知る限りでは富田は庄内一分銀は作っていません。庄内が出てきたのは明治中頃だと聞いています。田中・大川両先生は、当初から相手にしていません。実は山形の清水さんは、私の一番上の兄弟子です。高校生頃から現在まで可愛がって頂いている恩義があり、私からは何も言えません。清水さんは庄内は作っていませんが現行紙幣に切手を貼り、初日カバーを作る癖が前からあり、弟弟子としても困っています。(秘)の話も有り早目に、来て頂きたいと願っています。  天保仙人
昭和55年のボナンザ16巻12号に「南部浄法寺天保密鋳座のこと」の記事が載っています。南部古銭研究会という名前で掲載されていますが,執筆したのは秋田の方で「南部古泉研究会」と紛らわしい名前を使って掲載したことが判明しています。
その記事中,昭和48年頃マルクニコイン主がウブ銭から盛岡大字の称浄法寺写しを見つけたことが記載されています。故O氏から聞いた話では,称浄法寺写しを持っていた浄法寺の人は岩手県内の古銭家には一切見せないで秋田や東京で少量を売って状況を見ていたということです。
昭和50年夏に新聞記事になって古銭界で注目されたことは故瓜生氏の著作物に掲載されています。
ただ,称浄法寺写しが同時期に密鋳されたものではないことは銭容から判断されます。一番新しいものは戦後の昭和のものでしょうか。
暴々鶏氏の盛岡中字写しは内郭が処理されていて通用目的で密鋳された品とみることができます。そうなると明治30年頃までには存在していたということになるのでしょうか。
事情を知っている方々が亡くなってしまい,称浄法寺写しの解明はできなくなってしまいました。
先月の古泉会でO氏が一関のA氏から購入した称浄法寺写しの極印は,贋盛岡銅山の極印と同一のものでした。昭和初期の写しとみることができます。今まで全部昭和の出来と考えていましたが,もう少し研究が必要です。


小生の記憶では浄法寺銭は、南部の川村さんが取り扱っていました。確か昭和46~47年頃だと思います。川村さんは「唯我独尊」的な方で、南部でも一人孤立しており、奥井さんとも折り合いが悪く、良くトラブルも起こしていました。

 浄法寺銭について公表したのは、秋田の高橋一三さんだと思います。高橋さんは薬局を営んでおり、経済的にも恵まれていましたが、
やはり川村さんと同様に、秋田の村上さんと折り合いが悪く、孤立していました。
東北での集いの時に、川村さんが天保銭の不知・容弱銭を高橋さんに売り、それの状態が悪く、もめた事が切っ掛けで、お二人が交流する様になりました。川村さんは浄法寺銭関連を、南部の収集家を避け、高橋さんに持っていったので、奥井さんが憤慨し「贋作だ!」と言い始め、それが東京に伝えられたので、東京では浄法寺銭は総て贋作と言う噂が流れました。
 それに対して川村さんは「奥井は儲け損なったので、そんな事を言うのだ!」 と話していました。
東京の瓜生さんは奥井さんと仲が良く、川村さんを嫌っていました。当初浄法寺銭が東京に来た時、瓜生さんが小川青寳楼先生の処へ「贋作」として、持って行った程です。しかし小川先生から、昔から存在する事を伺い、「天保銭事典」にて真正品として、掲載したのです。
以上が小生が実際に体験した、出来事です。どう言う訳が?小生は川村さんにも、高橋さんにも、勿論!奥井さんにも可愛がられていたので、皆さんから話を直に、聞く事が出来たのです。

浄法寺銭が露店で売られていた!玩具銭?と言っていたのは、奥井さんです。その他にも色々とうかがってはおりますが、今となっては、どこまでが真実なのか、恨み・つらみから来た話なのか、解りません。
もうこの辺を大体でも知っているのは、私と大矢さん位ですが、大矢さんは当時川崎におられたので、私同様に南部での出来事を、総て知っている訳ではありません。
私論になりますが、今までの経緯や、先生方の話、現物観察の観点から、浄法寺銭は幕末から明治初期と、昭和10年代頃の2種!と考えますが、どれがどれとは言えません。未使用だから新作!とは、本座銭などからも、有り得る事なので、贋作の根拠にはなりません。

最後に川村さんは、銀座コイン・オークションの第2か3回目に、多量の天保銭を送っておりましたが、当時天保銭の鑑定をしていたのは小生でした。分類も自己流で2~3万円の物が、下値20万円位になっており、竹内さん(現在の会長)に話し、返却させたのが、川村さんの所蔵品を見たのが、最後だったと思います。
又秋田の高橋さんは、薬局の経営が行き詰まり、所蔵品は青森の板井さんに総て売却されました。

貴重な情報をどうもありがとうございました。
いわゆる称飛鳥銭は,浄法寺の旧家から出たという触れ込みなのですが,当初,小屋の棚にあったものを大工が見つけた。
と,なっていたのが,屋根裏から,床下からと二転三転し,最後には,2軒の旧家から出たとなっています。
取り壊した大工も取り壊された建物の建築年も分かっておりません。南部古泉研究会の浄法寺の会員も知らなかったようです。
私が持っている称飛鳥銭のほとんどが,川村さんの遺品を奥井さんを通して相続人である甥御さんから譲っていただいた品です。
秋田の?橋さんに返品されたものを川村さんが譲り受けたものらしいです。
浄法寺の会員の姉帯さんが地元なので研究しておられるのですが,はっきりしたことはあまり言いません。
大量に出た最初が秋田の?橋さん,2回目が奥井さん,3回目が鈴木さんと3度に渡って出現しています。奥井さんは全部買ったと言っていましたが,その後も出してきたのです。
奥井さんは浄法寺の故S氏から,あの中には自分が造ったものもあると聞いているそうです。露天で売るために作った絵銭的な物の可能性があります。
飛鳥の銭座があった場所は,現在は田んぼになっていて安比川のすぐそばで,川の上に街道ががあって近くに民家もあり,密鋳など出来る場所ではありません。
多分絵銭工場だろうと思います。飛鳥事件と結びつけられていますが,直接関係はないものと思います。
川村さんが昭和47年頃に浄法寺天保と言っていたものと現在の称飛鳥銭は別物だと思います。
大矢さんは盛岡に戻ってこられたので,少し掘り下げてみたいと思います。

 
ここに書いてあることは私のひとりごと。伏字にしてあり、特殊な条件下でしか読めません。だれにも信じてもらえないようなことなので、過信は禁物です。