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不旧手 【元文期山城横大路銭】 元文元年(1736年)山城国横大路鋳造推定 | |||||||||||||||||||
面文の土台は不旧手七条銭そのままで、小型軽量化されています。もともとはひとつの銭座(横大路銭座)であったのが、仲間割れを起こして清水銭座、有井銭座に分かれたと言います。どのものをどの銭座に充てるかは定かではありませんが、シークレットマークらしきものが寛の見画の爪に見られます。七条銭との区別はやはりその大きさと材質で、七条銭が赤茶系の銅質で直径が概ね24.5o前後あるのに対し、山城横大路銭は淡褐色〜淡黄〜白銅色で、直径も23o程度が中心なっています。制作はやや粗雑で状態の悪いものが多いので困ります。基本書体は進永、退永、退永小通の3つで、手変わりで陰目寛が退永半刮去銭に見られます。これは後述の伏見銭に引き継がれる特徴です。 寛爪の形状で基本銭のほかに異爪寛、半刮去、全刮去に分類されます。 |
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銭書には銅色が灰白色とか白系〜黒茶系とか表現されていますが、総じてやや白みがかっているのは確かです。個人的な感想なのですが、基本銭と異爪寛に比べて半刮去と全刮去は白銅質小様のものが多いと思います。なぜか異爪寛には大ぶりなものが多いような気がするのです。これはある意で味鋳造時期などを推定するカギになるのではないでしょうか。 なお、異爪寛の爪の形状は大きく持ち上がるものやカギ状に曲がるものなど様々です。退永小通の異爪寛は少ないもので雑銭扱いされていますがなかなか納得のゆくものには出会えません。 |
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不旧手 【元文期伏見銭】 | |||||||||||||||||||
この銭貨については、書体モデルが上掲の退永半刮去陰目寛であると思われ、材質もほとんど似通っていますが、おおむね白銅質銭が中心になります。分類特徴として必ず通字用画の左肩に切れ目があり、意図的なものと考えられています。また、背輪の太さも意図的に変えていると思われます。 類品のうち背が大濶縁になるものは【蛇の目】という愛称で呼ばれており、新寛永の収集には欠かせない人気銭になっています。 銭径はさらに小型化し、可憐なものも多いのですが、制作は山城横大路銭より安定しているような感じを受けます。 |
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不旧手 【元文期伏見手】 | |||||||||||||||||||
この銭貨も謎が多く、古くから不知品として籍が確定していません。ただし、誰が見ても不旧手の仲間であろうことは異論がなく、銅質から見ても元文期以降の作であろうことは、多少寛永銭を収集したことがあるものには推定できます。鋳地が確定しないのは事実ですが本品を不知品扱いするのならほとんどの新寛永銭も不知品に戻すしかないと思います。 伏見手の名称は、前掲の伏見銭の通字左肩が空くという同じ特徴を保有するからであり、書体についてはよく似ていますがオリジナルのものです。制作も彫りが深く比較的外径も大きくて立派なものが多いと感じます。 |
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伏見手破寛次鋳について(九州地区K氏投稿) | |||||||||||||||||||
伏見手 破寛(次鋳) 2009年秋、椎間板ヘルニアに苦しむ私に妙薬と称してきれいに製本された拓本がとどきました。 私は未だに破寛そのものにであったことがほとんどないのでたいしたコメントはできませんが、手替り中の手替りということでご紹介させていただきます。 K氏はかなりの寛永マニア・・・きれいに拓本を整理しているところを見るとかなりの几帳面・・・病気?・・・です。そのK氏が初見ということですから、珍なるものには間違いない。 銭譜には初出の大型銭か母銭クラスばかりの掲載ですからこれは初見品ですね。案外、皆様のコレクションに眠っているかもしれませんので、是非お調べ下さい。 |
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翁草(古事類苑 泉貨部二)に記述された鋳銭の様子(浩泉丸の勝手な読み下し) わが国においては、元明天皇の治世、すなわち和同年間(708〜714年)に和同開珎を鋳造してから、今や寛政元年(1789年)になり(貨幣の歴史も)1100年ほどになろうとしている。(その期間において)金銀貨は最上の宝物には違いないがその製造(技術)は必ずしも難しいものではない。中でも銀貨(丁銀・豆板銀)は重量や形に決まりがないものであるから、製造においては柄杓で溶かした銀を流して、自然に塊となったものに極印を打つだけで流通させることができる。それに対して銭貨の鋳造とはとても精密なものである。 京都において宝永年間中に、糸割符年寄りの長崎屋忠七とその糸割符仲間が共同で鋳銭事業を願い出て、七条の南の加茂川の端に許諾地を得て鋳銭事業をはじめた。その後一時事業は中断したが、元文年間中に京都の糸割符年寄りの有来新兵衛と清水清右衛門が願い出て、横大路村に許諾地を得て銭を造った。 その頃、私もその鋳銭事業を吟味(監督)する立場にあったため、ひと月のうち二、三度はぶらりと現場に立ち寄っては工程を監視したものである。(その工程とは・・・) まずは『大吹』といって、(原材料になる)地銅をつくる。 銅、鉄、亜鉛、白目(錫鉛合金=ハンダ、白鑞)、錫、鉛などをあわせて重量14貫目(52.5Kg)を一度に溶解するのである。 大吹の棟梁は吹屋大工と呼ばれて、相方とともに鞴(ふいご)を使って原材料を熱し溶かす。しばらく過熱作業をすると5色の炎がめらめらと立ち上がる。火の勢いが少しづつ静まり始めたころを見計らって鞴を止めて、溶解した金属を冷まし落ち着かせる。 鞴をつなぐ部分の脇には、溶けた原料を取り出す注ぎ口があって、その脇には一畳ほどの周囲に縁のある叩き固められた土の台が用意されてある。頃合を見て、柄の長い道具を使って注ぎ口の栓を抜くと、すぐさま真っ赤に溶けた溶銅が一気にその台に注ぎ込まれる。その勢いはさながら稲光のようであるが、溶銅は流れ出たらすぐに固まってねずみ色の板になる。(この作業は)火の粉が飛び散ってとても危険で近寄りがたい。棟梁が長い柄の鉄槌でこれを砕くと、地銅は厚い氷を割るように砕けてゆく。(これを割銅と言います。) 大方割り終わったら、長い柄バサミでそのひとつをつかんで水(湯)を満たした(容器)の中に入れると、雷鳴のような音が鳴り響く。 熟達者でなければできない作業で、冷まし加減が不足すると水が爆発的に沸騰してあたり一面に飛び散って大怪我をするし、逆に材料を冷ましすぎると水に入れた瞬間の音が遠くの雷みたいに小さく、金属としてもろく弱くて使い物にならないものになる。この冷まし加減がとても重要なのである。 さて、この地銅を500匁ごとに小分けして銭吹小屋へ配布する。吹屋の棟梁(この棟梁を銭頭といい、作業には相方が1人つく)がこの地銅を受け取り、相方に命じて鞴(ふいご)を使って溶解させる。その間、銭頭は畳1枚ほどの厚いケヤキの枠板2枚を並べ、ここに最上質の黒ぼこ土を詰め込み、升掻(ますかき)によって均等にならした上に母銭を置いてゆく。(母銭は上質の銭で、その時代の書家に寛永通寶の文字デザインを書かせてこれを母銭とした。) 500文を整然と並べ、(先ほど作成した2枚の土を詰めたうちの一方の)枠板をもう一方の板にあわせて細紐によって締め上げる。 その後に枠板を開くと先ほどの土板(砂笵)に母銭の形が鮮やかに残る。母銭はもう一方の蓋板に残るのでそれを払い落とし、その銭型に楊枝のようなもので縦横に湯道(溶銅の流れる道筋)を作る。それが終わったら再び、型枠をあわせ締め上げる。 その作業をしている頃には地銅が溶解するので、坩堝のようなものに溶けた銅を移し、先ほどの合わせ型枠にある注ぎ口から溶銅を流し込む。小さな雷のような音がしてしばらくした後に合わせた型板をはずせば、銭のスダレのようなものができあがる。そのつながった部分を1まいずつ切り離すと1枚の銭になり、うまくゆけば1つの型枠から400枚くらいの銭ができあがる。(失敗すると300枚くらい。)それを次の工程に送る。 受け取った者はもぎ取られた銭の耳(湯道部分の残骸など)をきれいに削り取り去って次に渡す。 次の工程は古墨と油で銭を煮る。(床焼工程) 煮上がって真っ黒になった銭を次の工程にまわすと、銭は砥石にかけられて銭の側面が研磨される。これを耳研という。 この工程が終わったら、銭の面背を研ぐ作業に銭を渡す。磨きあがると地の部分が真っ黒で文字と縁が銅色になる。 このように順を追って丁寧に銭を仕立て上げること20数回、銭の重さが八分より軽い場合は鋳直し、また、傷物や割れあるものはひとつひとつ取り除いた上でようやく通用銭になる。 このように銭の製造は金銀銭の製造に比べて精緻でとても難しいのである。 その上、当時の京都所司代土岐丹後の守は万事につけて抜かりのない方であったから、この新しく出来た銭を八方手を回して購入して吟味していた。粗末な(不出来な)銭が混じっていればこれを集めて町奉行へ渡し、『このような銭は通用させられないと、銭座の者どもに至急言い渡せ』と、命が下った。その度ごとに銭座に緊急な申し渡しがあり、厳密な対策会議が行われた。それゆえに官も銭座も手抜きがなかったのでその頃の出来上がった銭は文銭(寛文期亀戸銭)と同じくらい良い出来だった。 この鋳銭事業は元文元年に始まって元文6年には終了した。 しかし、近年伏見ならびに諸国において鋳造された銭を見ると、以前の銭とはかけ離れたつくりで、鍋釜で使うような鉄を原料として鋳造し、銭としての仕上げもなく、鋳造されたままの状態で通用させられている。 それゆえ銭として流通できなくなることが早く、国費損失はいかなるものだろうか?すべて田沼意次の命令による新規事業は皆こんな具合である。全く田村は諸悪の根源である。 ※非常に難解な部分もありますが、よく読むとやはり元文期の山城における鋳銭事業のことを言っています。でもこれによると元文期の山城横大路銭には銭として墨入れ仕上げがあり重さは8分以上で文銭並の品質であった・・・とされています。そうなると今の銭籍比定は怪しいものかもしれませんが、あるいは自画自賛なのでしょうか?。また、驚いたことにトタン(輸入亜鉛)が原料として使用されています。これは銭籍を求める何らかのヒントにはならないでしょうか? なお、古事類苑は明治から大正期にかけて編纂されたものなので多少の誤記もあると思われます。鋳銭工程を記した『鋳銭図解』とは若干異なる感じの記述も見られますが大筋はその通りであると思います。 → 錯笵銭物語 |
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面背逆製の寛永通宝 | |||||||||||||||||||
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万延大字背千爪貝寶(次鋳面背逆製) 鉄銭にも当然面背逆製はあるはずです。少ないとは思いますが、制作が雑なものが多いので案外見つかるかもしれません。画像はインターネットで入手したものです。ところで鉄四文銭の面背逆製はあるのでしょうか? お持ちの方の投稿をお待ちしております。 |
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不知細郭手異極印 面背逆製 東北のNさん所有の1枚。天保通寶の純粋な面背逆製は極めて珍品。過去に江戸コインオークションに1枚出た記録があるそうで、そのときも不知細郭手だったようです。 |
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