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泉家・収集家覚書
 
はじめに・・・
このコーナーは私の覚書です。贋作者列伝を調べるに当たり、意外に泉家個人の情報が残っていないことに気づきました。泉家は古銭のことを探求・公表するのに夢中である反面、自身のことについてはあまり語っていないのです。
古銭趣味が道楽であったせいなのか、本業ではない人々も数多く含まれていたためか、理由はさだかではありませんが、現在の古銭会においても自己紹介はおざなりのような気がします。
したがって、情報は断片的なものをつなぎ合わせてゆくしかありませんので、中には誤りや偏った情報もあると思います。また、マイナスの情報(噂)については個人の名誉を傷つけない範囲にとどめるように心がけます。
あくまでも個人的な覚書ですのでそのつもりでご笑覧下さい。
 
新寛永通寶分類譜 古寛永基礎分類譜 赤錆の館
天保銭の小部屋文久永寶の細道
 
おことわり
事実を伝えるべく調べていますが、間違い・異説・噂話もたくさんたくさんあると思いますがお許し下さい。生年月日については伝承や死亡時の享年から逆算推定によるものもありますので必ずしも正確ではありません。
また、表現をそろえるため
原則すべての敬称を略させて頂きました。ご了解下さい。
 
昔の人は名前がたくさんありました。

(あざな) 名字・苗字
俗名 (ぞくみょう) 名・名前 一般通称の名前のこと
(うじ) 同族の家系をあらわす名称。本姓とも言われる。
(かばね・せい) 氏の下につけた称号。古代の祖先の役職名などが多い。
(いみな) 本名。下位の者がその名を呼ぶことは失礼とされたので忌み名と言う。
幼名 (ようみょう) 小字(こあざな)、おさな名といも言う。子供のときの名前。
※武士は元服して大人になると諱に置き換えた。商人も苗字帯刀を許された場合つけることあり。
戒名 (かいみょう) 葬式の贈名。死後の名前。
(ごう) 雅号、称号。泉号は趣味の名、屋号(家の名)や亭号(文人の号)など。

徳川家康の場合 
徳川 次郎三郎元信  大納言朝臣 家康 が正しい名前
徳川(字)
 次郎三郎元信(俗名 略して次郎三郎) 源(氏) 大納言朝臣(姓 略して朝臣) 家康(諱) 
幼名は竹千代、引退後の尊称は大御所、死後の尊称は神君、神号は東照大権現、戒名は東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士・・・覚えられますか?
大河ドラマで家臣が『家康様・・・』などと呼ぶことはありえないのです。それだけに歴史的な通称と、実際当時名乗っていた名前、世間での通称は異なります。

さらに・・・
同音文字の置き換えは良くあり、これは日本語の仮名が表音文字で表記が不安定だったことと、洒落の意味もあったようです。
大村成富は大邨の文字を良くあてていました。また、改姓、改名、子孫による襲名や複数の号の使い分けもあり、記録を読むときには注意が必要です。

富山公 = 前田正甫 = 松平大蔵大輔 = 峯心斎・・・だなんて、知識がないと判りませんね。
→ 贋作者列伝
泉号とは・・・
泉号とは屋号から派生したものなので、本来は建物や場所を示す文字を入れるのが正統派なのです。たとえば・・・
銭幣・田中啓文 青貨・貫井銀次郎 花林・三上香哉 淘泉・郡司勇夫 不朽・辻彦作 観中・松浦肥前守 
・横山由清 青寶・小川浩 養真・馬島杏雨 白雲・小笠原吉助 風山・今井貞吉 不肅・岡田循誘 
松菊
・成島柳北 榧・根岸武香 
他には 屋・洞・窟・院・山・門・社・苑 などが散見されます。
半文銭・浜村栄三郎、文久・山本右衛門、藩札狂・前田惇などはいわばあだ名でごく少数派です。
斎の文字などは一見、建物や場所を示す言葉ではないような気がしますが、「書斎」で使われるように、神道でいう「ものいみ:みそぎ」をするためこもる場所の意味があり、また神に仕える人の意味もあります。
私の生まれた地域も田舎なので、ほとんどの家は屋号を付けて呼ばれていました。住所地番制度がまだ未発達だった頃は、人の移動が少なく同じ地域に同姓の親族がたくさん住んでいた名残から屋号は当たり前だったと思います。
しかし、戦後になりその風習は徐々にすたれ、商家はともかく一般の人に屋号はなじまなくなってきたようです。その後は屋号としての泉号ではなく名前としての泉号が中心となり現在に至っています。なかには小笠原吉助や郡司勇夫のように、屋号をあらわす部分を取って白雲、淘泉のように名前の号としても使用した例もあり、これはこれでまた便利な使い方ですね。
 
古銭と殿様(壱)
前田正甫富山藩二代目藩主 前田正甫(松平大蔵大輔 萬香亭 峯心斎) 
1649年(慶安2年)~1706年(宝永3年)

富山公、前田正甫(まえだまさとし)は江戸時代に古銭収集趣味をメジャーにした元祖と言えます。正甫は初代藩主の前田利次の次男として生まれ、延宝2年(1674年)に家督を継いで藩主となりました。前田利家は彼の曽祖父にあたります。藩政においては文武を奨励して、たたら製鉄を藩内に導入し、新田開発、治水工事、産業奨励なども積極的に行ないました。病弱であったため、製薬業に興味を持ち、反魂丹を製薬して越中売薬(置き薬の訪問販売 納品を先にして使用した分だけ補充して買ってもらう)の基礎を作り、藩財政を立て直した話はとくに有名です。
その一方で狼狩りを好み、女癖が悪く、神通川で遊ぶために遊覧船をつくらせるなど殿様らしい贅沢もやり放題だったとも聞きます。
古銭収集・研究家としても知られ、高名な
化蝶類苑は1696年(元禄9年)に自らが著述したコレクションの目録です。化蝶とは古銭が人の間を渡り歩く姿を花から花へと飛び回る蝶に例えたもの。もちろん、殿様の財力が背景にあるので収集品は一級品ばかり。それでも入手困難なものは輪袈裟こと今仲春助(新四郎)(→ 贋作者列伝)にレプリカを作らせたとも云われます。古銭番付などでは峯心斎や萬香亭の名前になっていることが多いようです。
収集品は火災に遭い「富山焼け」と呼ばれ、各世代のコレクターの間に伝わることになりましたが、現在は離散してしまい、その行方はようとして知れません。

(写真は富山城址公園にある前田正甫の銅像)


主な著作
化蝶類苑
 (他に化蝶定階なる著述の存在の記述を見かけるものもどのようなものか判明しません。)化蝶類苑略集

※大正7年の国民新聞に富山公の別の名として
松平大蔵大輔(おおくらたいふ:五奉行のひとつの位。今の大蔵次官のようなもの)の名前が見えます。富山前田家は初代が改易されたときに松平姓を下賜されているようです。(松平前田富山家なので松平姓であっても間違いではないようで、むしろ当時は松平姓のほうが公式に使われていたようです。)
これは加賀前田家の3代目の前田利常が家康から松平の姓を直接賜ったことに由来するようです。もともと前田家は織田信長の臣下であり、豊臣秀吉と前田利家は無二の親友でした。したがって前田家はバリバリの豊臣派でしたが、利家の跡を継いだ利長が前田家の安泰を貫くため、(利家の遺志に反し家康に恭順を示すため)みずからは引退し、異母弟の利常に家督を譲ったそうです。利常は2代将軍秀忠の娘をめとり、徳川派に組み入れられた形になりました。一方の利長は徳川と豊臣のはざまに挟まれて自ら死を選んだという噂があります。なお、利長は羽柴の姓を豊臣から賜っていました。

※富山公に関与したと思われる贋作者に
龍木勘三郎の名が見られますが、何者かは不明。あるいは輪袈裟のことか?

 
【一口メモ】
前田正甫と同時期に
天王寺屋長左衛門(長兵衛?)という富豪古銭収集家が大阪にいたようで、彼は庶民コレクター研究家の鼻祖であり、化蝶類集を著したようです。その収集品は前田侯が買い取ったとか。妹尾柳斎とは子弟関係のようです。
なお、日本で最も古い一般収集家向け古銭書のひとつは、大阪の
雁金屋庄兵衛(寶銭鑑一)が出版した古今和漢古銭之図文手鑑(寶銭図鑑)で、元禄9年(1696年)のことでした。厭勝銭(まじない絵銭)をネットで調べると〝ようしょうせん〟と出てきますが、正しくは〝えんしょうせん〟であり、〝ようしょうせん〟は庄兵衛の誤読がそのまま現代に伝わったものです。(古今和漢古銭之図文手鑑にルビが振られていたようです。)
〝あっしょうせん〟という読み方を目にすることもありますがそれは圧の古字体〝壓〟からきたもので、圧勝に通ずることから間違ったまま訂正されずに使われたようです。厭勝とは災いに打ち克つと言う意味だそうです。
元禄10年には京都の版元、
林九兵衛が宋の洪遵著作の泉志(日本語訳版)を出版しています。これは当時、数が少なく高額だった輸入書物の唐書を一般庶民が求めやすくした画期的なものです。
 
古銭収集趣味を花開かせた泉譜作者
中谷顧山(可当 無尽斎 播磨屋十兵衛) 1696年(元禄9年)?~1735年(享保20年)

資料などはほとんどないものの中谷顧山(なかたにこざん)は我国の古銭図譜本流布を行った草分け的な存在であることは間違いありません。
江戸中期の大阪の人で1721年(享保6年)に
古今百銭図珍貨百銭図を出版。これらは説明文もないカタログでしたが、1728年(享保13年)に出した和漢孔方図会が大当たりしました。翌年には珍貨孔方鑑を刊行しています。
これらは、日本国内で比較的入手可能な銭の図を系統立てて並べたもので、
江戸時代の古泉家は和漢孔方図会孔方鑑と愛称されたそうです。)の完全収集が当時一流の証だったようです。このような形式の貨幣本を「泉譜」と以降呼ぶようになり、それに従って収集することを「泉譜合(せんぷあい)」と呼び、古銭収集の規範となりました。
この
孔方鑑は江戸時代を通じて中谷以外の研究者などによって何度も再版、改訂が行われています。(例えば、朽木昌綱もそのひとりです。)このほかにも 弄銭記、銭寶志、歴代古泉考、背文考など数々の出版を手がけたアイデアマンでもあったようです。彼の存在は後世の芳川維堅もかなり意識していたようでした。ただ、残念ながら40歳の若さで亡くなっています。彼がもう少しだけ長生きしていたらと惜しむばかりです

主な著作
古今百銭図 珍貨百銭図 和漢孔方図会 珍貨孔方鑑 弄銭記 銭寶志 歴代古泉考 背文考


※この他にも中谷著作として孔方易選の名が佐野英山の泉書目録に記載されていると江戸時代の古銭書(増尾富房著)にありますが、同名の書が藤井島居撰、芳川維堅校であるとボナンザ誌上(泉書雑感:郡司勇夫)に記されています。孔方易選は中谷が初出なのかもしれませんが、確認できませんので参考にまで記します。

※10段階の位付を考案したのは中谷が最初らしい。

 
古寛永に名を遺した大研究家
妹尾柳斎(瀬尾柳斎 阿波屋彦右衛門 垣翁) 1673年(延寶元年)~1740年(元文5年)

妹尾柳斎(せのおりゅうさい)は江戸時代中期(享保年間)に活躍した大阪の古銭考証家。古寛永には志津磨大字という名品がありますが、別名を柳斎大字と言います。(柳斎発見になるものか?志津磨とは同時代の著名な書家佐々木志津磨に関係があるかもしれません。)著作に「板子録」「皇朝泉譜」「世宝録」「和漢歴代泉考附録」などがあるとされ、中谷顧山とともに関西方面で活躍したと思われます。
なお、姓はインターネットで調べると妹尾(せのお)でヒットしますが、銭幣館の記録や方泉處所蔵の写本には瀬尾で記載されています。大正年間の雑誌、古銭に甲賀宣政が著した記述によると瀬尾は誤りで妹尾が正しいようです。貨幣50巻の川田晋一氏の記事に、妹尾は天王寺屋長左衛門の弟子であると記述されています。


主な著作
板子録 皇朝泉譜 世宝録 和漢歴代泉考附録 
 
甘藷先生の古銭記録(国家金銀銭譜)
青木昆陽(青木敦書 厚甫 文蔵) 
1698年(元禄11年)~1769年(明和6年)

青木敦書(あおきあつのり)と書くとピンとこないので俗名の昆陽で記しました。
青木昆陽の名は小、中学校の教科書にも書かれていると思います。イメージとしては享保の改革のときの「甘藷先生」のお話・・・薩摩芋普及のお話の印象が強いと思います。
昆陽は儒学、蘭学にすぐれた人物ですが、元々は日本橋の魚屋の一人息子だったそうです。越前の守こと大岡忠相の組の与力と懇意で、その勧めで取り立てられ幕府内の書物の閲覧を許されます。その後の功績でついには書物奉行にまで抜擢されます。昆陽の足跡は身分制度の厳しかった江戸時代には異例中の異例のこと。弟子には解体新書で知られる前野良沢がいたそうです。
「金銀 平日は至宝なれども、飢寒(飢饉や酷寒)の用をなさざれば 金銀を集むるは何の為や」の名言でも知られる、そんな昆陽先生が日本最初の金銀貨幣の銭譜、国家金銀銭譜の作者であるとはほとんどの方がご存じないと思われます。これは後の近藤正斎金銀図録を記す60年以上前の作でもあります。
もちろん、この銭譜はあくまでも仕事+興味において昆陽が書き残したものと思われますが、後世の勝海舟もこの書の内容を
「吹塵録」に記しているように、当世一流の書物だったと思われます。
また、現在、古寛永の斜寶が松本銭とされたきっかけは、昆陽が残した
「奉使小録」に記された「今井勘右衛門文書」の再発見に基づくものなのです。すなわち後世になって「今井勘右衛門文書」とともに松本銭の枝付銭が再発見されるに及び、斜寶=松本銭の確定が行われたのです。このほかにも昆陽は銭幣略記などの貨幣関係書や、おそらく日本初の外国コイン図の記載のある和蘭貨幣考なども著しています。

主な著作
銭幣略記 和蘭貨幣考 国家金銀銭譜
 
創成期の古泉研究指導者
宇野宗明 (奈良屋九兵衛 宇野宗有) 1704年(宝永元年)~1774年(安永3年)

宇野宗明は「うのむねあき」が正しい読みのようなのですが、一般的には「うのそうめい」で通っているようです。彼は江戸時代における古銭収集趣味隆興の祖にあたるといっても過言ではありません。と、いうのも江戸時代に現れる有名泉家達がほとんど彼の交友関係を軸に結ばれるからです。
宗明は
朽木公との交流が密にあり、また、その著書は富山公の著書の研究であり、さらにその弟子・後継者には藤原貞幹、芳川維堅、木村兼葭堂など当世一流の古銭家たちが連なります。
宗明は大阪(上町近江町:現在の東区釣鐘町)の商家(肥料屋及び木綿問屋)の生まれで、13歳のときから独学で古銭収集・研究を始めたといいます。非常に裕福で財力に任せて珍しい古銭収集をしましたが、その一方で人格者でもあり、商売も上手だったようです。1769年(明和6年)に家督を譲ると、内宝寺町の鴻池屋敷に隠居し、趣味の道に没頭したと伝えられます。
和泉考、続化蝶類苑は宗明の著した古銭研究本と云われます。
続化蝶類苑は富山公の著した化蝶類苑に宗明が注釈を記入したもので、1冊は交流のあった朽木公に献上し、1冊は弟子の芳川維堅に贈り、その後宗明は剃髪して宗有と名を改めたそうです。有難いことに宗明はその著作に
和袈裟、谷川、東條、舛伊など元禄年間に現れた贋作者の記録(→ 贋作者列伝)を残してくれています。

主な著作
和泉考 続化蝶類苑

 
博学多彩 元祖、寛永通寶銭譜の作者
藤原貞幹(子冬 叔蔵 無仏斎 蒙斎 瑞祥斎 好古 亀石堂) 
1732年(享保17年)~1797年(寛政9年)


藤原貞幹(ふじわらさだもと)は藤(とう)姓を名乗ることもあり、その場合は(とうさだもと)ではなく(とうていかん)と読みます。したがって「ていかん」の読みも間違いではありません。ただし、貨幣誌などに藤井貞幹の名を見かけますが、これは誤伝によるものだそうです。
貞幹はもともとは京都の佛光寺久遠院院主玄煕(日野一族)の妾腹の子です。権律師の地位にあった父と同様に僧侶を目指したものの、18歳で家を飛び出して僧の身分を捨て還俗しています。その際に本家日野の本姓の藤原を名乗るようになりました。

貞幹は非常に多彩な人物で、日本の文献学・目録学の祖とも言われています。雅楽・篆書・草書・金石文などに精通、古文書を自在に読み解き、国学、有職故実、和歌、書道、儒学、篆刻も学んでおり、当世一流の文化人であったと思われます。
そのため、後年には水戸藩に招かれ、「大日本史編纂」にも関与しています。彼は当時定説であった伝説、古事の事実を調べて新説を発表するなど国学者の間でに大論争を巻き起こします。なかでも神武天皇の在位の年代を600年繰り下げ、神代文字の存在を否定したことは、当時の国学者達の反感を買い、証拠の信憑性の問題もあって本居宣長とも大激論を交わしています。
一方で、当時の学者の多くが文献至上主義であったのに対して、実地調査を是とする彼の姿勢は史学研究に大きな影響を残しました。
彼は時代や趣味によって号を使い分けていますし、篆刻も極めていますのでたくさんの通称や号を名乗ったようです。
(なかには死後に弟子達が名づけた号もあるようです。)

古銭収集は彼の趣味というより研究の一端なのでしょう。友人には
木村兼葭堂(きむらけんかどう)がいたそうです。寛永銭譜は1787年(天明7年)に作成された日本初の寛永通寶専門銭譜です。当時の寛永銭は現行銭でしたので、古銭譜ではなく現行銭カタログといったところでしょうが、これが後々の寛永銭研究に大いに役立つことになります。
寛永銭譜はその後考証・校正を重ねて
寛政4年(1792年)本、献上本、校正秘本印本、流布本と版を増やしますが、そのうちいくつかは弟子・後継の寛永堂 稲垣尚友(いながきひさとも)(→ 贋作者列伝)の手によるものかもしれません。
年齢の開きはありますが
宇野宗明との交流もかなりあったようで、当時としては古銭書になる泉譜(1792年:寛政4年頃)は宗明の著作の和泉考の影響をかなり受けていると思われます。なお、泉譜にはわが国最初の金銭、開基勝寶の図が掲載されています。
生活はとても質素、清貧で彼は金銭などの物欲よりも知識の世界で満足することを快楽としたようなのです。ただ、自説を肯定するがために古文書や古瓦を偽造した・・・という説もあり、その暗い影が弟子の稲垣尚友に引き継がれてしまった・・・というのは考えすぎでしょうか?墓は京都吉田神楽岡にあるそうで、その墓所は弟子達の墓に囲まれ守られるように建っているそうです。


主な著作
泉譜 寛永銭譜


※「古書画に淫し、古器物に淫し、古代一切に淫した貞幹の偽証には、思うままに支配し得る世界を、いよいよ放恣に、いよいよ執拗に構築する喜びが画されているように思われてならないのである」(「偽証と仮託-古代学者の遊び-」日野龍夫『江戸人とユートピア』朝日選書)

 
文化人ネットワークをつくった浪速の知の巨人
兼葭堂 木村孔恭(世肅 巽斎 遜斎 坪井屋吉右衛門 澄心斎) 
1736年(元文元年)~1802年(享和2年)


木村孔恭兼葭堂 木村孔恭(けんかどう きむらこうきょう)について私は名前だけ聞いたことがある・・・ぐらいでしたが、調べてみるとすごい人物でした。物知りという言葉は彼のためにあるようなもので、まさに博学多彩であると同時に彼の周囲には当時の日本の文化を代表する人物が集まってきていました。また、自宅はコレクションルームであり、博物館、図書館、資料館、交友サロンでもありました。
本業は酒造業でしたが交友関係は池大雅(日本画家)・上田秋成(雨月物語作者)・与謝蕪村(俳人)・大槻玄沢(医師、杉田玄白、前野良沢の弟子)・司馬江漢(洋画家・浮世絵師・作家)・谷文晁(日本画家)・田能村竹田(日本画家)・平賀源内(発明家)・本居宣長(学者)・円山応挙(日本画家)・伊藤若冲(絵師)・清水六兵衛(陶芸家)・青木木米(陶芸家)・頼山陽(画家・思想家)・朽木昌綱(大名)など・・・一度は聞いたことのある名前がずらりと並びます。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されているそうです。それはまた、彼の実直温厚で人当たりの良い性格がもたらしたものでもあるようです。
木村は大阪の造り酒屋の商家に生まれ、病弱であったことから草木を植えて育てることを親から許され、それから草木や文物に対する好奇心を追い求めるようになったといいます。子供の頃から絵や漢学をたしなみ、天才の誉れ高く、本草学、文学、禅宗(黄檗禅)に精通し、オランダ語を操り、ラテン語も解したと云います。コレクションは書画、骨董、書籍、鉱物、動植物標本、地図にまで及びました。
古銭収集(資料収集)はそんな彼の趣味のひとつに過ぎないのかもしれませんが、当時のそうそうたる古銭家が彼を要につながっていたことも判明しました。資料によっては彼は銭商として記されていますが、斡旋仲介は行ったものの彼の行為はあくまでも交流と情報収集であったような気がします。
1790年、55歳のとき、酒蔵石高の超過の罪状に問われています。かろうじて直接処罰は免れたものの町役罷免の屈辱を味わい大阪を離れます。2年後に帰阪し文具商として稼業を再興し、以前にもまして栄えたといいます。
死後、膨大な資料は昌平坂学問所に納められたと云いますが、そのときを境に彼のコレクションも散逸してしまったようです。(朽木公が購入したとも云われます。)
(肖像画は谷文晁筆の木村蒹葭堂像:重要文化財)

※坪井屋は壺井屋と表記されることがあります。
※絵師であった青木木米は29歳のとき、木村兼葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した『陶説』を読んで感銘を受けて作陶を志し、奥田頴川に入門したそうです。すなわち、京焼の名人誕生は木村兼葭堂がその遠因であった・・・ということ。なお、木米は古銭の模造も行ったという言い伝えもあるようです。(→ 贋作者列伝
 
古銭と殿様(弐)
朽木昌綱福知山藩八代目藩主 朽木昌綱(竜橋 桜田彩雲堂 隠岐の守) 
1750年(寛延3年)~1802年(享和2年)


古銭家の王者とも称される朽木昌綱(くつきまさつな)は1787年(天明7年)に丹波福知山藩(京都府)朽木家8代藩主となります。古銭界では朽木竜橋の名で通っていますがこれはあくまでも趣味の世界の号です。また、ときには桜田彩雲堂と名乗ったそうですが、これは福知山藩の江戸上屋敷が外桜田門にあったからだそうです。
別名、蘭癖大名と呼ばれるように西洋の情報を積極的に取り入れることに熱中しています。
23歳のときに、後に解体新書で有名になる前野良沢(前野は青木昆陽の弟子なので朽木公は青木昆陽の孫弟子になる。)から蘭学を学んでおり、語学も堪能でオランダ商館長
ティチングとの貨幣趣味交流もあったようです。旺盛な彼の好奇心は留まることを知らず、鎖国の時代に世界の様々な情報を入手する能力はまさに異彩を放っていました。
古銭収集はそんな彼の好奇心から生まれた趣味のようですが、他にも世界地理研究や茶道(松平治郷に弟子入り)、絵画(友人の酒井公の弟が酒井抱一)もたしなんだようで、海外最新情報収集の手段としてもこれらの趣味は役立っていました。古銭書の著述も非常に多く、処女作、
新撰銭譜にはじまり、当時ベストセラーになった和漢古今泉貨監に集大成を見ます。また、この当時の西洋の貨幣図をつけた西洋銭譜は日本初の西洋コインの専門書といって過言ではありません。
しかしながらこういった海外情報の入手活動は幕府の目が光るところであり、以降1800年に家督を譲って隠居するまでオランダ人との交流をさしとめられる羽目になります。
彼の場合は
富山藩主 前田正甫のような豪腕コレクターというより、多趣味な粋人であるとともに学級肌の人物であったと見られます。宇野宗明との交流は有名な話で、朽木公は三顧の礼をもって宇野宗明を師として迎え入れ、宗明は亡くなる直前に前田正甫公の『化蝶類苑』に注釈を加えた『続化蝶類苑』を著して自筆本を献上しています。また、宗明のコレクションは死後に木村兼葭堂を介して朽木公に渡ったと云います。
その一方で、国の運営にはとても苦労していたようで、藩財政は次第に逼迫してゆき、没後にそのコレクションはわずか50丁のゲッペル銃と引換えに海外に流出してしまったと伝えられるのは誠に残念でなりません。
(肖像画は方泉處に転載された福知山市史のものを借用)

主な著作
新撰銭譜 西洋銭譜 彩雲堂蔵泉目録 泉貨分量考 弄銭奇監・正編 弄銭奇鑑(後編・続編) 増補改正孔方図鑑 増補改正珍貨孔方鑑
和漢古今泉貨鑑
 

増補改正孔方図鑑 増補改正珍貨孔方鑑 は家臣の小澤辰元の作とされています。なお、朽木公の収集はもっぱら参勤交代で江戸にあったときの趣味だったようです。
※KS氏から・・・海外流出した朽木昌綱公のコレクションが大英博物館で再発見されているという情報を頂戴しました。ネット検索したところ1999年3月の時事通信・朝日新聞ほかに報道が見つかりました。
【1999年3月8日(月)】
江戸大名の収集古銭 大英博物館にあった 【ロンドン7日=時事】

江戸時代随一の古銭収集家として知られる京都・福知山藩主、朽木昌綱(1750-1802)が集めたコレクションの一部が7日までに、ロンドンの大英博物館で見つかった。昌綱の古銭は散逸して日本に一枚も残っておらず、存在が確認されたのは初めて。発見されたコインは計2518枚で、大半は「和同開珎」や「万年通宝」をはじめとする8世紀以降の日本古銭。この他、中国の「開元通宝」(7世紀)や「周元通宝」(10世紀)、朝鮮の「三韓通宝」(同)、ベトナムの「太平通宝」(同)など3カ国の外国古銭も多数含まれる。

さらに2001年には下関市立大学の櫻井教授が、このコレクションの中から富寿神寶の母銭を発見したという報告記事もありました。朽木公のコレクションには富本銭をはじめとする当時の最高水準の古銭が収蔵されていたはずです。里帰りはないのかしら?
 
古銭と殿様(参)
出雲松江藩第七代藩主 松平治郷(不昧) 
1751年(寛延4年)~1818年(文政元年) 


大正7年古銭2月号(下間寅之助)の古泉界報において、「不昧公(松平治郷:ふまいこう・まつだいらはるさと)愛蔵の古銭は旧臣の井川氏が所有していたことが判り、大阪において売買が成立した」由の記事があり、茶人で名高い松平治郷が古銭収集家であることが確認できました。
松平治郷は雲州松江藩第7代当主として、破たんしていた財政再建のため奔走。朝鮮人参や木綿など商品価値の高い作物を奨励し、徹底した緊縮財政を行ったほか、藩札の使用停止と廃止、借財の棒引き、年貢の加増など圧政といえる強引な措置も行いました。その甲斐あって、財政は上向きになったものの、本人は茶人としての浪費を行ったために再び藩財政は悪化してしまいます。松平公は幕府から警戒されることを恐れて、わざと浪費家を装ったのではないかという説もありますが定かではありません。
雲州松平家は越前松平家の三男松平直政の子孫が興しています。越前松平家は徳川家康の次男、結城秀康が祖になります。
兄の信康(家康の長男)は織田信長の命によって(家康から)切腹させられています。信康が信長の娘の妻徳姫と不仲であったこと、家康の正室でありながら今川系であったために不遇の身に置かれていた築山殿(信康の母)が武田氏と密通し、信康をたてて謀反をくわだてていると疑われたことが理由とされますが、真相は不明。(この騒動は築山殿事件と言われます。)結城家の家督を継いだ結城秀康は非常に優秀な人物で本来なら将軍の座にあってもおかしくなかったのですが、幼少時から家康に嫌われ(女中に家康が手を付けたことで正室築山殿ににらまれた?双子だったこと?など諸説あります。)何かと冷遇され、また、戦国の習いで一時期豊臣家に養子入りしていたこともあり、嫡流から外され将軍の座につけませんでした。そのせいか、秀康の子孫は親藩中の親藩でありながら何かと徳川家に反抗的な態度をとったため、しばしば配流、減封の憂き目にあっています。
治郷公の浪費家偽装説はここに根拠があるようです。なお、松平治郷のお茶の弟子に朽木昌綱公がいて、妹の幾百(きお)は後に朽木公の正室になりますので、治郷の古泉趣味は朽木公が先生なのかもしれません。
 
現代の銭譜のモデルを創りあげた古銭商
珍貨堂 芳川維堅(紀伊国屋甚右衛門 維卿 士貨 銭蔵 潜龍斎) 
1752年(宝暦2年)または1747(延享4年)~1817年(文化14年)

芳川維堅(よしかわこれかた)は
宇野宗明の愛弟子にして、同時代のもっとも有名な大阪の古銭商でした。
幼い頃から古銭に興味を持ち、古銭を通じた交友関係も広く、
寛永堂 稲垣尚友、その師の藤原貞幹奇鈔百圓を著した川村羽積(かわむらはづみ)など当時の有名人が交遊録にならびます。師匠を通して朽木公とも取引、交流はあったようで彼の著作の和漢銭彙(上)には朽木公の序文が寄せられています。
残念ながらこの本は上巻(日本銭の部)のみしか出版されませんでしたが、巻頭には無紋銀銭が掲載されています。銭図は拓本からの模刻になっていて銭図に寸評を入れた体裁は現代の銭譜の雛形となっています。
また、おそらく稲垣尚友が編纂したと考えられる、いわゆる
寛永銭譜の献上本(泉譜)は芳川維堅閲となっていますので何らかのかかわりがあったと思われます。

主な著作
和漢銭彙(上) 彙銭雑記 金銀図記 乾坤銭極書 珍寶鑑権
 
奇鈔百圓を著した作詞家兼古泉家
流石庵 川村羽積(川村清兵衛 河村 河邨 河内屋清左衛門) 
(生年不明)~1812年(文化9年)


川村羽積(かわむらはづみ)の号の流石庵(りゅうせきあん)は「うせき(羽積)→りゅうせき(流石)」のもじりのようです。本名は清兵衛ですから、逆に流石の号からから羽積の俗称が生まれたのかもしれません。珍貨堂 芳川維堅とは同郷(大阪)でほぼ同年代と思われ、古銭関係の出版ではペアになって相互に校正をし合っている関係のようです。(芳川維堅が和漢銭彙を出版したときは川村が校正を担当しており、川村が奇鈔百圓を著したときには芳川が校正をしていますので、互いに信頼しあう仲間だったのだと思います。)
世間一般では古銭研究者というより、地歌の作詞家として有名で
、「雪」「羽織褄」「滝尽し」などを作詞し、「歌系図」を著した人物として知られています。また、俳諧にも通じていたようで当世一流の文化人であったようです。この時代の古銭研究者の多くが考証学の権威であったのに対し、川村はあくまでも文化人・趣味人であったようです。
奇鈔百圓は絵銭や外国銭にも力点が置かれており、ほかに古銭奇品図鑑新渡大銭図などの著作もあります。なお、奇鈔百圓巻末に予告として「手替百泉」「流石庵搨布」「顧山銭話」と書かれているそうで、謎の多い中谷顧山に関する書籍が発見されることが望まれます。

主な著作
奇鈔百圓 古銭奇品図鑑 新渡大銭図
 
女郎屋の南瓜頭
文楼 二代目村田市兵衛(村田元成 田元成 加保茶元成 大文字楼 魁文楼 四平)
1753年(宝暦3年)~1828年(文政11年)

村田市兵衛としましたが、古泉界では
対銭譜を著した村田元成(むらたもとなり)として知られています。
村田市兵衛は吉原遊郭の繁盛店、大文字屋の主でした。
実は村田市兵衛には初代から四代までいて、後世の記録も名前を混同しているケースが多いのです。区別をするため、初代を加保茶
市兵衛(画像右)、二代目を加保茶元成(画像下左)、三代目は南京宗園(浦成)、四代目を文字楼、または花街楼と呼称されることもあります。
初代村田市兵衛には嫡子がいなかったため、同業の岡本家から養子を迎え、姉の娘をめとらせて家督を継がせたようです。どうやら村田家は代々嫡男に恵まれなかったようで、三、四代も婿養子です。(なお、元成の名も世襲するようになり、二代目市兵衛が初代元成、三代目市兵衛が2代元成、四代目市兵衛が3代元成です・・・あぁ、ややこしい。)
古泉家として名を成しているのは二代目市兵衛(初代元成)であろうことは95年6月の収集(川田晋一氏著)に詳しく記載されていますのでお読み頂ければ幸いです。ただし記事内容は非常に難しい記述が多く、また、往時の古銭界の事情を知らないと理解しづらいかもしれません。

さて、この元成ですが俳句や狂歌の世界でも非常に有名でして、
加保茶元成はその愛称(狂名)のひとつ。加保茶とは南京(カボチャ)のことで、初代が姓を借りていた土地の村田親分と仲たがいをして、営業妨害でカボチャ頭と揶揄する地歌をはやらされたことに端を発します。
歌詞は
「こゝに大文字屋の大南瓜(おほかぼちや)、其名は市兵衛を申します、身(せい)がひくうて、ほんに猿まなこ、ヨイハイナ~」というようなもの。初代は背が低く、太って頭が大きかったので南瓜頭とはやし立てられたのですが、これを逆手にとって店の宣伝に使い大繁盛します。村田屋は(村田の名前が使えなくなって)大文字屋となり、いつしか大文字楼となり女郎50人以上を抱える吉原の大店になったのです。
初代は戒名にも加保居士とつけられたほどなので、この愛称は相当世に定着していたのでしょう。二代目以降の頭は大きくなかったようですが、二代目は加保茶元成を名乗り、三代目は南京や浦成(うらなり)を号しますので、徹底して南瓜の愛称にこだわっているように感じられます。(インターネットでは売名家という呼称が出てきます。要は宣伝上手のことでしょうか。)
福助人形は初代市兵衛がモデルなのですが、世評では加保茶元成も大頭・・・で通っていて、二代目も宣伝のためあえてこれを広めたのではないでしょうか。
村田屋はもともと地の親分にあやかってつけた名前、親分と仲たがいしてまで一般に名乗れるはずも無く、加保茶元成で通したのはやむをえないことですが、さすがに泉譜で加保茶姓は恥ずかしかったと見えて、対泉譜では村の字を取ってペンネーム
田元成になっています。
対泉譜
は当初、古銭仲間の久野克寛、狩谷棭斎、大村成富などが企画していたものを、時間的余裕がないということで企画そのものを村田に譲った・・・ような序文が対泉譜に書かれているそうです。交流相手としては朽木公や酒井抱一(日本画家)、大田南畝(狂歌師)もいたそうで、酒井抱一などは連日のように通ってきていたらしく、絵の師匠でもあったそうです。(三代目は画家としても有名。)抱一は古銭収集で有名な姫路藩主酒井忠道公の叔父ですから、これまた古銭の取り持つ縁があったのかもしれません。
寛政年間の古銭番付には東小結に吉原 村田市兵衛の名前が見えます。(方泉處9号)
ちなみに西の大関が
桜田彩雲堂(朽木公)です。丹波福知山藩の朽木公が江戸の一介の廓の主と親しかったとは意外ですが、朽木公は研究のためなら民間人と交流するのは厭わなかったようですし、参勤交代のあったこの時期、江戸での最先端の文化人との交流は楽しみだったと思われます。
対泉という名前に見られるように、対泉譜は北宋の符合銭を扱った銭譜です。符合銭というとどうしても
山田一豊舎符合泉志ばかりが思い浮かびますが、符合志初編が出たのが1827年(文政10年:序文の期日)頃に対して、対泉譜が出たのは1814年(文化11年)頃と13年ほどさかのぼります。もっとも弄銭奇鑑を朽木公などが出したのが1796年(寛政8年)頃なので上には上がいる・・・と、いうことですね。
当然のことながら後出の方が内容が充実しているはずで、符合泉志が世に出るとにわかに精神に異常を来たした(
東亜銭志の中で奥平昌洪が記述。)と伝えられます。
なお、元成没後にその遺愛品は
宇都宮建皇堂から馬島杏雨に渡ったといいます。ところが、そのなかに彫り直しのニセモノがたくさん入っていたと伝えられ、その通称は文楼彫りと呼ばれて後世に名を伝えられることになります。ある伝記には4代目も古銭狂い(発狂?)であったとあり、あるいは四代目がかかわっていたのかそれとも三代目が騙されたのか、はたまたコレクションの巧妙なすり替えが行われていたのか・・・定かではありません。

主な著書
対泉譜
 
海賊版を世に出した銭商とその末裔
載陽舎 大村成富(大邨成富 竜湖 載陽 八郎兵衛) (生没年不明:寛政年間に活躍)
月舎  横山由清(旧姓塚越 保三) 1826年(文政9年)~1879年(明治12年)

詳細不明ながら大村成富(おおむらしげとみ)は寛政年間に活躍した江戸深川(富田町)の古銭研究家にして古銭商です。伝承では店に虎の皮の敷物を敷いて商いしたようです。寛政8年(1796)に丹波福知山藩主、朽木昌綱公に協力して「弄銭奇鑑(後編・続編)」を刊行しています。大村は狩谷棭斎久野克寛(玄亀斎)などの研究者とも交流があり、泉譜編纂のときの拓本集めなどに協力をしていたようですが、そ
月舎 横山由清
れを流用して、ちゃっかり同名(類似名)の泉譜をつくって刊行していたりします。狩谷懐之(実は棭斎著)の同名著作を勝手に改訂した「珍銭奇品図録(大村成富撰)」「新校正孔方図鑑(大村成富撰)」、同じく棭斎のために集めた拓本を流用して出版した「銭幣考遺図象」があり、それが狩谷にばれて逆鱗に触れているようです。
大村にしてみれば、折角集めた拓本がなかなか世に出ないことに業を煮やしての行為だったのかもしれません。銭幣考遺のように一般刊行されなかったものを銭幣考遺図象と改作して世に広めたことは、行為そのものは仁義をわきまえないものにしても、古銭収集趣味の流布には多少は意義があったかもしれません。著作・出版はほかに「対泉譜」「宝貨漫文抄」「閲古堂集會銭譜」などの書名が確認できます。(
村田元成「対泉譜」では校正を担当したようです。)
なお、歌人の横山桂子(かつらこ)の実父にもあたるようで、娘の桂子は伊予吉田藩主夫人の侍女であったこと、大村本人が丹波福知山藩主との交流があった事実から、町人とされていますが、大村もそれなりの身分の出であろうことが推測できます。

また、横山桂子の養子、
横山由清は「ロビンソンクルーソー」を日本に紹介した国学者でもあり、泉号 月舎(つきのや:桂子の号が月の屋)で知られる明治期の大泉家でもあったようです。明治13年に発行された愛泉家番付の年寄の筆頭に東京 月舎の名が見え、成島柳北の主催した東京月旦古泉会にも月舎 横山由清の名が確認できました。横山由清の旧姓は塚越でしたが、横山桂子に和歌を習った縁でその養子になりました。和歌、国学、蘭学も学び、法律史にも明るく、歴史的には明治政府の元、近代法律制度整備に尽力した人物として、晩年は法制史家として教鞭をとった人物として知られます。

主な著作(共著・改作・出版協力を含む)
弄銭奇鑑(後編・続編) 珍銭奇品図録(大村成富撰) 新校正孔方図鑑(大村成富撰) 対泉譜(村田元成著) 銭幣考遺図象 宝貨漫文抄 閲古堂集會銭譜

 
日本の銭貨学(ヌミスマティックス)の生みの親
和楽 草間直方(仲我 士徳 子徳 鴻池屋伊助 伊左之助) 
1753年(宝暦3年)~1831年(天保2年)


ヌミスマティックスとは貨幣の学術的な研究を言いますが、日本語には適切な翻訳語が見当たりません。そんな学問に日本で最も早く取り組み、実績を残した一人の男がいます。
直方は京都烏丸の商家、桝屋唯右衛門の家に生まれました。幼名は安次郎(もしくは文次郎?)といい、10歳の頃から鴻池家の京都両替店(山中家)に丁稚奉公からはじまり、翌年には河内会所に転勤、若くして、その才覚を認められています。鴻池家はご存知の通り江戸時代の関西を代表する大商家で、維新後も財閥として生き残り、三和銀行→三菱東京UFJ銀行の祖でもあります。
鴻池家には本家、分家、別家と区分されるものがあり、別家はいわゆる暖簾分けにより独立した(血縁のない)分家筋のことを示します。
直方はこの別家である尼崎草間家の婿に22歳の時に抜擢されました。そして草間直方となった彼は、それこそ独楽鼠のように働き、鴻池本家の公儀両替部門の要職を主担し、鴻池伊助と呼ばれるようになります。1808年(文化5年)、58歳の時には本家に願い出て許されて、両替商を独立開業しています。その後は肥後・山崎・盛岡各藩や、幕府の重鎮田安家の御用商人となり大成功をおさめます。
直方は古銭収集家でもなく、歴史研究家ではありませんでしたが、かつて幕府から古今の貨幣制度を尋ねられ、返答できなかったことを恥じた直方は、40歳を過ぎた頃からあらゆる貨幣に関する書物を乱読、収集し、二十数年かけて1825年(文政8年)に「三貨図彙(ずい)」四十四冊を刊行しました。これは、古代から江戸時代に至るまでの貨幣(三貨:金貨・銀貨・銭貨)の歴史を紹介するとともに、貨幣経済の発展について歴史的考察を加え、幕府による米価の統制を批判するもので、1874年(明治7年))に『大日本貨幣史』が編纂される際には貴重な資料として活用されたほどのものでした。彼は発掘記録などから「和銅開珎以前にも古代貨幣があった」と、その著書に記しています。
彼は青木昆陽の「国家金銀銭譜」や
近藤正斎の「金銀図録」を参考としています。実は近藤正斎と直方には接点があったのではと、増尾富房氏は推定しています。たしかに正斎は1807年頃(文化4年)までは大阪弓奉行として関西に在住していましたので、何らかの接点があった可能性は濃厚です。さらに、時代と地域性から考えて兼葭堂 木村孔恭とも必ず交流があったと思われます。
彼はとても有名な人物だったと見えて肥前平戸藩松浦清公の「甲子夜話」にもその逸話が残されています。松浦清公は大名コレクターとして有名な
松浦熙公の父君であり、私は清公も少なからず古銭収集家であったとみています。
三貨図彙は昭和になってからも復刻版が出ています。ただし、この復刻版の拓図は非常に劣悪杜撰であり、間違いだらけのようで、草間の名誉を傷つけてしまっているようです。これは草間直方が古銭収取家でなかったからであり、かつ、今見ることができるものが写本の写本であって、原本ではないからではないでしょうか?
草間直方については方泉處誌上において「近世古泉家列伝」として増尾富房氏の記述があるのですが、あくまでも古泉家の視点からの論であるため、とくに寛永泉譜の不完全さばかりが強調されてしまった感があります。原本が世に出てくることを願います。
一方で日本貨幣収集事典は巻末でこの草間のことを取り上げており、「近藤(正斎)の書は好事家を対象にしたいわば銭譜。それに対して三貨図彙は正確な図版に寸法や量目、品位を入れ発行の経緯から物価の推移までを盛り込んだ“貨幣沿革史”で、それだけに後世の研究に大きく寄与した。」と、最大の賛辞を付与しています。
人物としては非常に徳が高かったようであり、質素にして堅実、しかしながら世のためになると思えば財を惜しまない性格であったようで、この時代の盲官の最高位、検校 塙保己木一(はなわほきいち)に対し、2000両の貸し付けを行っていたそうで、塙の死後に証文が発見されたそうです。(金額からして返せるような額ではないのでパトロンであったようです。)なにより松浦公をして「天稟(てんびん)の善人」すなわち天からざずかった生まれながらの善人…と言わしめているほどの人物なのです。
※肖像画は日本貨幣収集事典より引用。

主な著作
三貨図彙
 
知りすぎた超人の波乱な人生(金銀図録著者)
近藤重蔵近藤正斎(近藤重蔵 守重 昇天真人 子厚 円次郎) 
1771年(明和8年)~1829年( 文政12年)


俗名の近藤重蔵、本名の近藤守重と聞いてもピンとこない方も、号の正斎を聞けば古銭収集家であれば心当たりがあるかもしれません。
古金銀…現在はファンタジーと呼ばれる分野のバイブル的存在の
「金銀図録」の著者、近藤正斎なのです。正斎はまた、日本貨幣図史とも言うべき「銭録」の著者でもあります。ただ、残念ながら「銭録」については明治39年に刊行されるまで、江戸期を含めて全く無名の資料でした。しかもこの「銭録」「寛永銭録」として編集が始められた経緯があり、再発見された当時は寛文期から享保年間の項が欠落していていましたので、大正年間に浅草の古書店で欠落個所が見つかり佐野英山によって売買されるまで全容すら分かっていませんでした。(一般に刊行されたわけではないので現代でも奇観本であり、お目にかかることはまず無いと思われます。)
さて、ここまで書くと近藤正斎は古泉研究の大家だと思われるかもしれませんが、貨幣に関する著述は彼のあふれる才覚のほんの一端に過ぎません。記録魔と呼ばれた彼の著作は60種、1500余巻・・・超多作の作家でもありました。しかも彼は著述業よりもどちらかと言えば冒険家として有名で、蝦夷開拓者としては
松浦武四郎の50年も前に蝦夷(北海道)の地を踏んでいます。身の丈6尺を超える大男で、体力、記憶力とも抜群にすぐれていた超人だったのです。
与力の子として江戸駒込で生まれた近藤は神童の誉れ高く、17歳の時には私塾「白山義学」を開き教鞭を振るい、24歳のときに湯島聖堂で行われた学問試験(学問吟味:学問奨励のため設けられた学術試験)では、237人中1番の成績をを納めています。(合格者は19人)
ちなみにこのときの上位合格者の中に遠山金四郎がいたそうです。
幕府内の彼の地位は御手先与力 → 火付盗賊改方 → 長崎奉行手付出役 → 支配勘定方 → 関東郡代付出役と順調に出世を重ねます。
長崎奉行手付出役においては異人(オランダ・ポルトガル人)と接する機会があり、「清俗紀聞」「安南(ベトナム)紀略」「天川(マカオ)紀略」「紅毛書」「バッテイラの記」などいくつもの記録が残されているそうです。
1798年には幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱になり、その後5回も蝦夷地探検を行って蝦夷の詳細地図を著しています。彼のすごいところは、ただ探検するだけでなく、アイヌ先住民族の困窮を知った上で、本土の様々な技術や道具の支援を行ったたことで、それまで迫害を受けてきたアイヌの人々は近藤が訪れるたびに神を迎えるような歓迎振りだったと云います。近藤は札幌周辺の開拓の重要性を幕府内で説き、札幌発展の先鞭を開いています。将軍(家斉)謁見もかない、金一枚が賞賜されて書物奉行に栄進したこともあり、この頃が絶頂期だったと言えます。
「金銀図録」が著されたのもこの時期であります。
しかしながら好事魔多し…元々身分の低かった近藤の躍進振りにねたみを覚える者も多く、思わぬところで足を引っ張られることとなります。1818年(文政元年)、越権的な近藤の言動がときの老中水野忠成の思わぬ不興を買い、大阪弓奉行に左遷。さらに身分不相応な居宅(楼閣)を建てたというつまらないお咎めでお役御免。自宅は幕府に召し上げられ自称
「滝野川文庫」に蟄居の身になってしまいます。
この楼閣建設のことは当時交流のあった大塩平八郎からも「奇禍之より生ぜん」と諌められたそうです。
そして息子が起こした刃傷事件(槍ヶ崎事件:所有地の不法占拠に息子が腹を立てて実力行動に出たもの)の責務を問われ近江大溝藩の預かりの身に…すなわち幽閉状態となりました。
まさに坂を転げ落ちるような転落・・・彼の周囲に何かの工作があったのではと思われる出来事の連続です。
一方、近江大溝藩の近藤に対する気の使いようは度を越えていたとも聞きます。彼が使用する半紙は毎月2000枚にも及び、さらに毎日酒2合と肴3品が毎夕食に供されたと云います。元エリート役人として幕府の内情を知りすぎた近藤に配慮した結果なのかもしれません。執筆記録に対する姿勢は崩れず、植物学の本を著すなど著述活動は継続しています。
(八丈島に流罪となった長男の富蔵は「八丈実記」を著し、これは八丈島の百科事典と呼ばれるほどの研究資料になっています。)
なお、銭録の編者の一人に
狩谷懐之(かりやちかゆき)の名が見えますが、これは古銭研究でも有名な狩谷棭斎(かりやえきさい)の 嫡子で、事件を受けて発刊が見送られた「銭録」斎に代わって世に出したものではないかと推察されています。すなわち、近藤と棭斎には身分を超えた交流があったと思われるのです。
(肖像画像は明治39年に地元の土井氏によって彫られた木版画:インターネットから収集)

主な著作(古銭関係)
銭録(9巻) 金銀図録(7巻) 寶貨通考 寶貨事略附録 寶貨叢記 
金銀貨解説

※金銀図録は明治時代にも復刻版が出ているようで、ものすごく古い本でありながら入手は可能だと思います。
 
江戸期末期最高峰の考証学者・貨幣研究家
求古楼 狩谷棭斎(高橋望之 卿雲 雲卿 津軽屋 三平 三右衛門 実事求是書屋 六漢老人 蝉翁 超花亭) 
1775年(安永4年)~1835年(天保6年)


狩谷棭斎(かりやえきさい)は江戸の書籍商の高橋家に生まれましたが、25歳のとき、親族(祖父の弟の家系)の豪商、津軽屋の養子になりました。津軽屋は津軽藩のご用達であり、非常に裕福でこのとき棭斎は11代当主になることがほぼ約束されたのです。
号などの呼称は数々あり、記録に見られるものを上に記述してみました。
書物に親しみ、学問を良くし、考古遺品や古銭の収集・研究を行い、江戸時代後期の考証学者としてはもっとも有名な一人です。

銭幣考遺玄亀斎 久野克寛ととの共著で、大村成富が協力して拓図を集めていたようです。これは朽木公和漢古今泉貨鑑を改訂したものですが、結果的に一般刊行に至らなかったもの。大村はその拓図を利用して銭幣考遺図象を刊行していますが、掟破りのこの行為に対し狩谷は激怒しています。
新校正孔方図鑑息子の狩谷懐之の名で出版されているそうですが、当時は懐之は12~13歳だったのでで実は棭斎著作であると思われます。同じように近藤正斎泉録の編者にも懐之の名が見えますが、やはり編者は棭斎ではないでしょうか。
狩谷棭斎の周囲には古泉家はもちろん、当時一流の文化人が集まっていたと考えられます。
なお、狩谷が集めた古銭の多くは
松浦武四郎のコレクションになっていたそうです。また、孔方図鑑一式とされた狩谷のコレクションは子孫の手により明治11年に帝室博物館に売却されているそうです。明治維新をむかえて、さすがの豪商津軽屋も落日期に入ったからでしょう。多くの収蔵品はその頃に散逸してしまったようです。

主な著作
銭幣考遺 新校正孔方図鑑 本朝度量権衡攷 渉貨漫抄 金銀図誌 皇国貨幣通考 泉志攷証 

※玄亀斎 久野克寛については詳しく記した文献が見つかりません。銭幣考遺 本朝度量権衡攷 皇朝銭図 銭幣考遺図象(大村成富編)などの出版に際してその名を見ることが出来ます。研究者であり、企画版元でもあったような感じがします。なお、銭幣遺は銭幣遺とされることもあります。
 
古銭と殿様(四)
播磨姫路藩三代目藩主 酒井忠道(坂井得三郎 白鷺 洪平館) 
1777年(安永6年)~1837年(天保8年)

江戸時代に有名な古銭大名の一人に、姫路公がいる・・・・ということはいろいろな文献で断片的に判っていましたが、それがいったい誰かということがなかなか正確には判りませんでした。 状況証拠などから当初私は二代目酒井忠以(さかいただざね)公ではないかと思っていました。忠以公(ただざね)は朽木公とともに松江藩7代藩主、松平不昧(まつだいらふまい・松平治郷:まつだいらはるさと)公の茶の湯の会の弟子仲間でありましたし、日本画家として高名な弟の酒井抱一は村田市兵衛ととても懇意にしていたからです。ところが、
増尾富房著の江戸時代の古銭書泉譜(献上本)の項に、姫路公が忠道であること、そして増尾がたびたび引用する最古の古銭家番付の大関に彼が位置することなどの記述が見つかり、謎の一端が氷解しました。

さて、酒井忠道(
ただひろ・・・と読みます。ただみち・・・は誤りのようです。)は1790年(寛政2年)、12歳のときに36歳という父の早逝により家督を継ぎます。父は茶の湯や絵画に秀でた文化人でしたが、財政再建策では藩内の意見をまとめることが出来ず、失敗しています。忠道は父が登用し、反対派により失脚した河合道臣を再登用して木綿販売の直売化など藩政改革を強硬に押し進め、一時は73万石もあった借財をすべて返済し、逆に24万石の蓄えが出来るまでに至りました。(姫路藩は15万石、6公4民としても8年分以上の収入をすべて借財返済に充てても足りない!)酒井家はもともと徳川家と流れを同じくする親藩であり、改革に当たってはこの力がものを言ったようです。
忠道は38歳で家督を弟の忠実(ただざね)に譲り隠居・・・趣味の道に励むことになったと推定されます。
さて、増尾の言う最古の古銭番付の版元は
芳川甚右衛門(珍貨堂 芳川維堅のこと)、西の大関には桜田彩雲堂(朽木昌綱のこと)の名が記されています。そして東の大関には「江戸 坂井得三郎」の名前が見えます。増尾の言うことが正しければ、この坂井得三郎が忠道の隠れ名であるはずなのです。(坂井得三郎の名は酒井家の三代目・・・という意味を込めたもの?)播磨ではなく江戸としてある記述も、当時は参勤交代のご時世ですから、幼少期の忠道が(人質として)江戸を生活の拠点にしていたのは全く不思議ではありません。この番付の発行年は寛政4年(1792年)ですので、父の急逝からわずかに2年後、忠道公14歳のときのことになります。
忠道公が古泉家であった証拠として、寛政12年(1800年)に
源尚友こと寛永堂稲垣尚友が俗に言う献上本泉譜を酒井公と朽木公に贈ろうとした記録が残っています。(注)
1800年というのがポイントで、そのときには忠以はこの世にありません。また、記録が書かれた年代が後世であったとしても献上本の稿が出来たのは寛政7年で、忠以の死後5年が経過していますので少なくとも生前に贈呈することは不可能です。さらに朽木公は1802年に亡くなっていますので、この記録の時代の酒井公は忠道しかありえません。
ただし、この書を無き父君に捧げる・・・と言う可能性はあります。幼くして大古泉家であったのは忠以公も少なからずコレクターで、忠道が父の遺品を受け継いだからなのかもしれませんし、状況証拠などからも父君も収集家であってもまったく不思議ではありません。
朽木公はすでに隠居の身で江戸住まいでしたし、朽木公以外にも当時の江戸界隈には名だたる古泉家が存在していました。
ただ、忠道の古銭に対する記録は収集家としてのものだけで、今のところ研究家としての記録は見当たりません。この点は朽木公の方が数段上であると言わざるを得ません。


主な著作
銭貨譚論

(注)江戸時代の古銭書に記載された泉録の序文の写しを読むと 
「而以欲献福知姫陽之二侯有故而不果之」 という一文があります而不とも果之(けれども之を果たすことは出来なかった)とあるのはいかなる理由か?作者(藤原貞幹)が亡くなったためと増尾氏は解釈していますが、あるいは2代目酒井公はすでに亡くなっていたから・・・と解釈できなくもありません。
時期的な考察、番付の発行年からから忠道の可能性は依然として高いものの、而不果之の意味を考えると・・・う~ん、分からなくなります。

※寛政10年(1798年)の愛古銭番付に播磨 坂井氏の名前が西大関(当時は横綱制度がないので西の最高位)にあります。古銭番付の本欄には普通は現役の収集家が掲載され、鬼籍に入られた方は年寄などとして欄外に記されます。このことから見ても坂井=酒井であり、忠道が得三郎であろうことがさらに裏づけられています。
 
※大名収集家としては肥前平戸藩の松浦公(号は観中室)の名前が安政3年の古銭番付の西大関の地位に見えます。(東大関は富山公
調べた結果、10代藩主の
松浦煕(ひろむ:1791~1867年:寛政3年~慶応3年)公が該当するようです。なお、9代藩主の松浦清公は木村兼葭堂と交流があったようです。木村兼葭堂は朽木公とも交流があり、さらに朽木公は松平不昧公(松平治郷)とも交流があり、姫路の酒井公とも交流がある・・・どうやら古銭大名の絡み合った糸が1本に繋がってきたようです。なお、この番付は故人の富山公が大関として名前が掲載されているので、若干違和感を覚えます。観中の号を熙公が名乗っていることから判断しましたが、まだ、9代の可能性は残っています。(2代続くコレクターでは?)

※余談ながら松浦清の11女愛子は公家の中山家に嫁ぎ、その娘慶子(藤原慶子)が孝明天皇に嫁いだ結果、明治天皇が生まれています。そのため、維新後も松浦家は優遇されることになります。その点は佐幕派として最後まで徳川家に従い、廃藩置県ですべてを失うことになる酒井公とは対照的です。
 
江戸時代の古泉家交流関係図
大名収集家の始祖は前田正甫、銭譜の始祖は中谷顧山、関西に銭の研究の潮流を作った宇野宗明できまり。
朽木昌綱は大名でありながら卓越した研究者でもあり、大阪と江戸に古銭ブームを作ったのも彼抜きには考えられません。
江戸における大名と交流の要は遊女屋の村田元成。これは村田が酒井公の実弟の経済的支援者であることも大きかったと思います。
また、木村孔恭は西日本を中心に当時最大の文化人ネットワークを持っていたことでも知られています。
青木昆陽や近藤正斎は幕府の役人として記録を残したのですが、性格的なものなのでしょうが非常に精緻な記録が残っています。また、この二人はいずれも身分制度を乗り越えた立身出世、叩き上げの人物で、その生涯の記録も興味が尽きません。
 
北宋符合銭研究のバイブル 符合泉志作者
一豊舎 山田小兵衛(丈八郎 孔章 其町 あぶこ) 1768年頃(明和5年)~1834年(天保5年)

江戸時代後期の古銭研究者。来歴などに不明な点が多かったのですが「銭聖一豊舎と符合泉志」(吉田昭二著)に詳しく研究が記述されていましたので引用させていただきました。
正式な名前は山田丈八郎孔彰、通称油屋小兵衛、略して「あぶこ」。家系は戦国大名滝川一益の一派らしく、尾張・長久手の戦いに敗れて敗走した際に刀を捨て百姓になったと言います。その後、茶商や油商になった者もいたようで、一豊舎の生家の山田家は油商として成功していたようです。子供のころからの古銭好きで生家は火災で被害を被った際も古銭を持って逃げたとの逸話が残っているそうです。父(丈八郎量房)も「あぶこ」と呼ばれていたようなので、小兵衛は代々伝わる店主名のようです。
符合銭(北宋の真・篆を対にしたもの。対銭)の大家として知られていますが、実際は穴銭全般のマルチな収集家だったようです。小兵衛の収集人生最大の転機は26才頃のこと、大阪の収集家の安田而唐が、自ら発見した対銭の論を広める道中において尾張に投宿したようなのです。当時、尾張には覚正寺住職、
静谷恵了、号を蕭然庵(しゅうぜんあん)という著名な古銭収集家がいました。蕭然庵は小兵衛の師匠にもあたる人で、而唐から教えを受け継いで符合銭研究はこの二人の間で盛んに行われたようです。
その後、江戸で朽木公が安田の研究を取り入れ、自らの泉譜「弄銭奇鑑」の初編に対銭94組が掲載され発表されました。また、1814年に村田元成「対銭譜」を発表して大評判となると、小兵衛の闘争心に火が付いたようです。符合泉志の序文に「対銭のおもむきを理解して研鑽を積んだのは尾張でははじめは蕭然庵と自分だけだった」とあるようですが、同好の士を結集して「尾張弄銭社中」をつくり、発掘銭などを大量見聞して新泉譜発刊への準備を始めました。そして対銭譜に遅れること13年後の1827年、ついに符合泉志の初編が世に出ることになります。
その結果は、現代においても符合銭の参考書と言えば符合銭志と言われるように、絶対的なバイブルの地位を得ています。 『符合泉志』は、初編、ニ編、三編の三回に分かれて刊行されました。(三編の奥付には”符合泉志四編近刻”とありますが、「四編」が発行されることはなかったそうです。)
なお、符合泉志には版木が残されており、現在は東海銀行の貨幣博物館の所蔵になっていると思います。この版木は所有者が代わるたびに再活用されて再版もされていますから、符合泉志には何タイプもあるようです。
一豊舎伝来の符合銭はその後、
守田寶丹(→寶文楼:寶丹の義兄弟) → 中村不折 → 大川鉄雄 と所有者が代わり、現在は文化庁(国立歴史民族博物館:千葉県佐倉市)の所蔵になっていると思われます。

主な著作
符合泉志(初編・二編・三編)

 
正倉院を整理した男 (中外銭史作者)
ならや 穂井田 忠友(小原久間次郎 靫負 縹助 元次郎 源助 蓼莪)
1791年(寛政3年)~1847年(弘化4年)

穂井田 忠友(ほいだただとも)は、古銭研究家としてではなく、国学者、考古学者、歌人として名高い人物で、医者でもあるマルチな人物です。古銭関係では、中外銭史を著したことが有名で、その第2巻は皇朝泉譜として名高い資料であり、大川天顕堂が愛蔵した「ハネ和同大字」が掲載されていることでも知られています。
生国は備中、三河、駿河など諸説あるようですが、備中生まれの父親の転勤にともなって三河で生まれ、駿河で学び、摂津の摂津生玉神社の社司の穂井田氏の養子になり、穂井田姓を名乗るようになったものと考えるのが自然なようです。穂井田は若くして駿府で平田篤胤に入門して国学を学び、その後京都で蘭学者の藤林普山から西洋医術について学んでいます。さらに歌人香川景樹にも入門して歌人として桂門四天王あるいは桂門十哲に数えられるほど歌人としても有名な人物でした。(余談ながら作家の志茂田景樹の名前は香川景樹が元だそうです。)
幕臣、梶野良材にその才能を認められてその庇護をうけるようになると、梶野の奈良奉行就任に伴い、奈良に引っ越して正倉院の御物整理を行ったことで考古学史上の脚光を浴びました。本来の号は蓼莪(りくが)で「ならや」は奈良時代の古物に詳しいということで付けられたあだ名ですが、彼の功績・行動をよく表しています。一方で庇護者の梶野良材に取り入るためにか、たった一人の愛娘を梶野の側室に差し出しています。(この件については森鴎外が哀れと、短歌を残しています。)後年、穂井田が正倉院の目録を出版しようとして咎められて投獄された際に、愛娘の働き掛けで梶野が動き、無事放免されたという伝承もあるようです。
以上のように穂井田はマルチな才能を持ち、興味を持ったものに全力で突っ走る研究者であり、古銭についても考証記録として最高のものを残そうと考えたものと思われます。
中外銭史は精緻な拓図に難解ながら漢文の解説もあったようで、さらに今でいう分類名(源氏名風)までもが記されています。(版木が残されています。方泉處が所蔵していたはずなのですけど・・・)記録上では第5巻まであるようですが、一般に知られているのは皇朝銭を記した第2巻まで。第4巻の主要部分は寛永銭譜であり、その他に単独の
「寛永銭譜」なるものも彼が著していることはあまり知られていません。ただし、これらは見ることも難しい奇観本であることは間違いないようです。(原本は未発見?)
穂井田は「以文会」なる京都にあった好古会に属していました。この会には
兼葭堂木村孔恭も参加していましたが、年代からするとすれ違いであったようです。京都にいた寛永堂稲垣尚友とも寛永銭が縁で面識があった可能性が高いと思われますが、穂井田がその著作に書いた稲垣の(寛永銭譜)評は「性無文・雇筆・齟齬・釈意不通」とさんざんです。(平凡で才がなく、引用ばかりで、つじつまが合わず、意味不明:以上は私の解釈です。)穂井田はあくまでも考古、考証学の研究家であり、古銭商を生業としていた稲垣とは性格が合わなかったと思われます。

主な著作
『中外銭史』
『寛永銭譜』


※年齢的には若干稲垣の方が上のようですがほぼ同年代。なお、稲垣は長生きで明治時代まで生き延びています。
 
嗚呼…いにしえの贋作者達(壱)
贋作者と呼ばれるものたちもたくさんいます。中には絵銭作家もいますが、コレクターを騙し、金品を巻き上げることを目的にした悪質な贋作者もいます。以下にあげる贋作者は銭座の職人を雇用するなど手の込んだ贋作を作ったものたちです。
 
寛永堂 稲垣尚友(源尚友 槌屋吉之助) (生没年不明)
古楽堂 毛満屋源八(毛間屋 毛馬屋) 天保年間(生没年不明)
→ 贋作者列伝
 
日本初の古銭会開催のきっかけとなった盲目の収集家
建皇堂 宇都宮俊良(検校俊良) 1811年(文化8年)~1859年(安政6年)
建慶堂 宇都宮寿綱(榮太郎 鐘美堂 仁舎寿丸 三宜亭 一凾 鑑斎) 
1841年(天保12年)~1912年(明治45年) 

あまり資料は残っていないのですが、明治初期においてはかなりの収集家であったようです。
検校(けんぎょう)とは盲目の琵琶奏者、鍼師、按摩師などに与えられた官位の中で最高位にあたります。高崎藩士の子として生まれたものの、幼くして失明し江戸において鍼の術を覚え、苦労の後に高崎藩の医師格に抜擢されたそうです。狩谷懐之 服部愛鵞堂に師事し、目が見えなくとも古銭の真贋は(手触りと)鼻でかぎ分けたという言い伝えも残っています。収集欲はかなりのもので、
服部愛鵞堂、小山静好堂、村田元成、狩谷棭斎など当時のそうそうたる収集家の遺愛コレクションを続々と買収しています。
宇都宮寿綱はその遺品を継いだ養子で、歌道、易学に通じ、古銭鑑定も巧みであった当世一流の文化人で、活版印刷業を興して、「雅学新誌」を発行しています。
寿綱は明治8年、養父の17回忌に東京で古銭会を開催。これが日本初の古銭会だったそうです。宇都宮家の膨大なコレクションは岩崎家
村田元成の遺愛品・・・おそらく絵銭類は養真亭 馬島杏雨)に納められたそうです。

【一口メモ】
小山静好堂(小山政敷:こやままさのぶ)は江戸中期1700年代後半(寛政年間)に活躍した江戸京橋の織物商・金貸業者。通称は駿河屋重兵衛と言います。古銭好きで自宅の屋根瓦にも古銭を模したほどだったそうです。皇朝銭収集家で寛政11年に皇朝銭図を出版しています。
愛鵞堂 服部直之助伊賀守(服部仲・中)は幕末(天保4年~明治34年:1833~1901年)の3000石取りの旗本。嫁をもらうなら容姿より持参金。なぜなら好きな古銭を買う金になるからだ・・・と言い放った伝説の人。そのコレクションは正統派で、当時の古銭書の奇品図録、新校正孔方図鑑(大村成富)の原品だったようです。(ということは狩谷棭斎ゆかりの品。)
 
北海道の名付け親のもうひとつの顔
松浦武四郎多気志楼 松浦武四郎(馬角斎 竹四郎 弘 子重 柳田 柳湖 雲律 文桂 北海道人 憂北生)
1818年(文政元年)~1888年(明治21年)


明治13年の愛泉家番付の東側欄外に東京都神田五軒町多気志楼の名前が堂々とした文字の大きさで掲載されています。明らかに他の収集家とは別格扱いで、西側の欄外にはデンマーク人収集家ブランセン(→ 贋作者列伝)やオーストリア外交官シーボルト(植物学者・医者シーボルトの次男)の名前も見えるのが面白い。明治10年成島柳北の開催した月旦古泉会にも多気志楼松浦弘(ひろむ)の名前で参加しています。
松浦武四郎といえば幕末に北海道・北方領土を探査した蝦夷探検家として有名人であり、彼が北加伊道と名づけたことが北海道の語源にもなっています。
生まれたのは和牛で有名な三重県松阪町。早くから全国行脚していて平戸で僧侶になって文桂と名乗った時期もあります。1844年に僧職を辞し、蝦夷地探検に出発。1855年(安政2年)に蝦夷御用御雇、新政府になったあと(1869年:明治2年)も開拓判官となって蝦夷各地を探検しました。
探検が先、公職に就くが後ということは、彼はもっぱらの探検家であったのでしょう。各地探索の習慣は死の直前まで続いています。
古銭家としてメジャーデビューしたのは公職を退いた明治3年(1870年)以降のことでありましたが、その収集は質、量ともに超一級品のものだったようです。狩谷斎の所蔵品を相当数コレクションに加えていたという記録記事も見えます。武四郎は岩倉具視とも親交が深く、馬角斎の泉号は当時居候していた岩倉邸が馬場先門にあったところからの洒落だそうです。
武四郎が朝廷に古銭3品を献上したということは史実としては残っていますが、いつ頃何を献上したかどうかは分かっていません。あるいは岩倉を通してすべてのコレクションが献上されたのかもしれません。
したがって、彼のコレクションは
多気志楼蔵泉譜(全15冊)として残されていますが果たしてその原品がとこにいったのかは分かっていません。故郷の松阪市には彼の功績をたたえて記念館を建設されています。また、北海道小平町には銅像も建っています。
(肖像写真は季刊方泉處より転載)


主な著作
昇平寶鑑 皇朝銭録 御代の光

 
畫銭譜を世に出した漢方医コレクター
馬島杏雨養真亭 馬島杏雨(芳 瑞園) 1825年(文政8年)~1920年(大正9年)

養真亭 馬島杏雨は会津に生まれた漢方医であり、書道家としてもかなり有名です。古銭収集暦は古く、東京古泉会では一時期会長も務めています。
明治維新のとき佐幕派として辛酸をなめたことから日常を粗食で通したといいます。そのせいか、六尺を超える大男で、腰も曲がらず96歳まで生きて天寿を全うしたといいます。
馬島の名前は古銭家番付の常連で明治37年の愛泉家一覧では堂々西の大関の地位にあります。(東の大関は
守田寶丹楼
畫銭譜(明治32年:上編・下編)は亀田考古堂(亀田一恕)を協力者・販売元として作成した絵銭譜で、馬島の収集品だけでなく上巻には21氏、下巻には32氏が拓本協力しています。当時は何かと古銭界も派閥分裂している時代だったので、馬島の交友関係の広さと人柄を感じさせる証拠となっています。
この出版によって、成島柳北の提唱によって収集界から異端視され始めていた絵銭収集に再び火がついたのは言うまでも無く、絵銭収集家必携の資料でもあります。なお畫銭譜は天保堂によって復刻版が出ています。
(収集品はやがて
堀光文堂に引き継がれ、小泉健男の絵銭譜にその姿を見ることが出来るようです。)

主な著作
畫銭譜
 
京都古銭商三代
初代 中島喜兵衛 二世 中島孝次郎 三世 中島辨一郎
中島泉貨堂
初代 中島喜兵衛(亀治郎 白水翁)  1828年(文政11年)~1908年(明治41年)
二世 中島孝次郎(青柳貫之) 1853年(嘉永6年)~1921年(大正10年)
三世 中島辨一郎(中嶋と改姓) 1895年(明治28年)~1940年(昭和15年)
初代泉貨堂は京都六条の生まれ。師匠は当時は槌屋吉之助と名乗っていた寛永堂稲垣尚友でした。すなわち初代泉貨堂は稲垣最後の弟子であり、稲垣は当時の古銭研究の第一人者でもありましたので、当然ながら泉貨堂も時代の第一人者として評価されたと思われます。したがって古銭商となった後に近衛家や富山公の有名古銭コレクションを扱い、各収集家に納めています。明治維新の時には戦火で家を焼かれたと云いますから、生きてゆくのにも大変な時代から古銭商であったわけです。(元治の乱)
明治16年、大阪の刀剣商成田兵衛方で刀の目抜きに使用されている太平元寶を発見して
亀岡寿昌堂に伝え、その情報をもとに亀岡はこれを得て、中島ともども一躍時の人になりました。
また、初代は大阪古泉会の発足時からのメンバーであり、
下間寅之助に拓本採りを伝授したのはこの人です。
二世泉貨堂が古銭商になったのは案外遅く、明治11年のこと。病気の父に代わり、津の
辻不朽庵を尋ねた足で上京し、成島柳北守田寶丹鬼頭千足軒に刺激を受けたのがきっかけです。
活動は精力的で
大阪古泉会の会務を引き受け、岡山において薇松泉会発足のきっかけを作ったり、地元においても平安化蝶会を興すなど関西趣味界の発展に尽くした人物です。しかしながら晩年(明治39年頃)は健康を害し、初代の病没とほぼ時を同じくして一線から遠ざかっています。青柳の名前は投書、投稿などにおいて用いたペンネームです。
三世泉貨堂は二世を継いで大正3年に古銭商デビューしています。昭和2年から京都古泉交換会を自宅で開催していましたが、残念ながら45歳の若さで早逝されています。

※驚いたことにときどき投稿下さる、京都のTさんの同級生がこの中島家の関係者(五世)でした。なお、三世の
辨一郎氏は中嶋と改姓したそうですが、ここでは中島に統一させて戴きました。
 
古泉大全をつくった男
今井貞吉風山軒 今井貞吉 1831年(天保2年)~1903年(明治36年)

今井風山軒は土佐藩士です。インターネットで調べると博物家、殖産家、医師、県議会議員、下横目、共立社社長、育児院長といった色々な肩書きが並びます。
下横目とは士族の監視役の補佐で、内偵役、御目付役のようなものと言った方が分かりやすいかもしれません。当時は社会情勢が不安定で勤王派、佐幕派などが張り合うご時世なので結構重要な役だったと思います。幕末には近代化対応のため藩命を受けて安政6年(1859年)に化学工業(ガラス製造法など)の研究のために鹿児島と長崎に学んでいます。幼少の頃から優秀で研究好きであったと云います。後に堺で医師としても学んだといいます。
明治維新直前には土佐商会に籍を置いています。土佐商会は土佐藩の開成館貨殖局・・・財産を増やすことを目的にしていて、やっていた内容は今で言うと総合商社のようなもので、ここには当時岩崎弥太郎(三菱財閥の祖)がいました。ここで商業についてを学んだ今井は維新後に土佐に戻り、職を失った武士のための職業訓練・斡旋を行う共立社を官民合同でつくりあげ社長となります。
お茶、紅茶の製造、和紙製造、寒天の製造など地場産業の発展に尽くし大成功をおさめます。当時は貴重だった時計の店も経営していますのでかなり好奇心旺盛な人物だったのかもしれません。
古銭収集・研究者としては1880年(明治13年)の愛銭家番付には堂々西の正大関に君臨しています。明治21年(1888年:完成年については再検証が必要。)に
古泉大全を完成、刊行しています。これは後に佐野英山が再版して普及させていますが、現代でも参考書として使える優秀な書だと思います。地方にありながらこのような大収集家になれたのも、ひとえに彼の旺盛な行動力、そして人脈でしょう。彼は全国の古泉家と連絡を取り合い、ときには出かけたようです。収集誌には京都の中島泉貨堂と数代にわたる付き合いのあった証拠の手紙が掲載されたことがありました。
死後、そのコレクションは佐野英山によって鉱山王
久原財閥(久原房之助)に渡りました。
(画像は龍馬堂HPから借用)


※インターネット上では岩崎弥太郎(三菱財閥の祖)とともに土佐商会を起こしたという記事も見受けられますが、土佐商会はもともと土佐藩によって作られた機関です。岩崎は長崎、今井は大阪で主に活動していますが、どこかで接点があったのかもしれません。なお、土佐商会は明治維新後に事実上解散してしまいますが、大阪に戻った岩崎によって業務は継続されています。岩崎は武器・船舶の購入に携わっていてこれが三菱飛躍の原点となります。(土佐商会は裏側で新撰組を経済支援していた組織でもありました。)

主な著作
古泉大全(本編38巻 甲集3巻 丙集5巻 寛永銭図稿1巻)


※成島柳北没後に明治撰泉譜第三集を完成させたのは、今井と守田寶丹だったそうです。この3人はタイプは異なりましたが、この時代の3傑と言って良いと思います。
 
激動期を駆け抜けた反骨のジャーナリスト収集家
成島柳北松菊荘 成島柳北(保民 甲子麿 甲子太郎 惟弘 確堂 誰園 将古亭 濹上漁師 何有仙史) 
1837年(天保8年)~1884年(明治17年)


柳北は近代古銭会の基礎を作った人と言えます。
面長の顔立ちで、失礼ながら馬が小田原提灯を咥えた顔のようだとか、彼の顔を振り返り見た馬が下を向いてしまった・・・などと揶揄されています。
柳北は現在の台東区浅草の松本家に3男として生まれましたが、優秀であったため将軍家の奥儒者(将軍の教育担当者)成島稼堂の養子となり、養父の後を継いで18歳で家定、その後も家茂の侍講(講師指南役職)に就いています。
こうした幕府要職にありながら、この頃から反骨気質充分で、1863年(文久3年)には幕閣を風刺したかどで50日の閉門と侍講解任を言い渡されています。浪人期間は2年にも及びましたが、転んでもタダでは起きない柳北は充電期間として数々の洋学を学び、後にこれが生きることになります。
非常に才覚あふれる人物でありますが、その一方で遊興も派手に行っています。柳北の柳橋(浅草:芸姑で有名)通いは有名で一時期は連日のように通っていたといいます。原因は将軍家に勤めるストレスかあるいは当時、私生活で離縁と再婚を行った心労からなのでしょうか。
1865年、柳北は復職すると幕府内の要職(歩兵頭並、騎兵頭並、外国奉行、会計副総裁)に就きます・・・それだけ有能な人材でした。しかし時代は江戸から明治に変わる激動期。柳北はあるときは将軍慶喜に対外謝罪するように進言し、官軍が品川に迫ったとき決戦・自決を叫ぶ側近の意見を強く退けています。それだけ幕内において彼の信頼は厚く、職域を越えた発言をしても許される地位にありました。
柳北は江戸城開場の前日に家督を養子の信包に譲り、向島に隠棲しています。この邸宅を彼は
松菊荘と名づけて泉号にしています。この日からしばらくは政治的に無言の士に徹したようです。
古銭収集の趣味は幼少の頃からあったようですが、泉号から見てこの隠棲生活頃から拡大していき、ジャーナリストとして成功するにしたがって過熱したのではないでしょうか。収集量も常人の域を超えていて、明治13年発行の愛泉番付には堂々東の大関(当時は大関が最高位)にあります。ちなみにこのときの西の大関は
古泉大全の著者の今井風山軒。明治の大コレクター守田治兵衛(宝丹楼)はまだ前頭筆頭でした。この時代の古銭の師は鬼頭千足軒という古銭商で、彼は柳北の庇護のもと名の知られる存在となった目利きでした。当時の古銭界は今と違って上流階級の教養を示す場のような雰囲気があり、コレクターである旦那衆とそこに出入りする目利きの古銭商で構成されています。その意味では柳北は間違いなく裕福な旦那衆のひとりでありました。
維新後は平民籍になりましたが、有能な柳北を周囲がほおっておかず東本願寺法主の現如上人の随行員として1872年(明治5年)に欧米を巡っています。そこで出あったかつての仇敵、岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得ることになります。木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されましたが柳北は受諾しませんでした。しかし、抜け目無い柳北は欧州視察の際に共済制度を見聞して、帰国後に安田善次郎と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現 明治安田生命)を設立しています。
1874年(明治7年)に柳橋新誌を刊行、さらには朝野新聞社の局長に就任し数々の執筆、言論活動を行っています。諷刺に富んだ文章で人気を得ましたが、政府批判の反動分子とみなされ2年間の獄中生活も味わっていますが、それさえも記事にしてしまう反骨ぶりを示しています。1877年(明治10年)に雑誌「花月新誌」を創刊しています。この頃がある意味で柳北の絶頂期でしょうか。
同年には
月旦古泉会(東京月旦会)を新聞紙上で呼びかけて開催、この会の会報と呼ぶべき東京月旦衆評泉譜は成島が亡くなってから1年あまり後の1886年(明治19年)1月まで89回も続きました。
柳北は当時、さかんに収集されていた絵銭を貨幣という範疇から徹底排除するのに熱心で、現在の収集のスタイルを作ったといえます。
この会には当時のそうそうたる収集家が参加しています。古銭家としての柳北の集大成は明治13年から22年にかけて3集まで編纂された
明治新撰泉譜でしょう。これは当時の最新情報であり、この時代の収集家のためのスタンダード泉譜にしてベストセラーでした。古銭鑑識訓蒙・・・古銭鑑定、贋作の手法に及んでいる教本や海外貨幣小譜といった外国銭についての著作もあります。この他にも数々の古銭にまつわる書物を残していますが、現代ではその功績より彼のジャーナリストとしての功績、出版物の方が良く知られています。
なお、生前に柳北の収集物の一部が
守田治兵衛に譲られた逸話は有名で、当時2000円という高額取引であったものの、柳北はそのお金で友人達を柳橋に招待して、一晩で遊興に使い切ってしまったそうです。とにもかくにも破天荒なその人生は48歳で肺結核で終焉を迎えることになります。なお、余談ながら俳優の森重久弥は彼の姪の孫にあたります。
(肖像写真は十大先覚記者伝からインターネット上に転載されたものを借用し加工)

主な出版物・著作(古銭関係のみ)
明治新撰泉譜 本邦現存古泉目録 郡礦一塊 古銭鑑識訓蒙 海外貨幣小譜 ねみだれ髪(古銭紀行文)

 
伝説の明治豪腕コレクター
守田治兵衛寶丹楼 守田治兵衛(守田寶丹 祐孝 静松園 長禄翁) 
1839年(天保10年)~1912年(大正元年)


寶丹こと守田治兵衛は明治期の典型的な旦那型コレクターです。守田は上野池之端仲町の「守田寶丹」という薬舗の9代目であり、寶丹は彼が発売した商品名でもあります。初代守田治兵衛は摂津から1680年(延宝8年)に江戸に出て、江戸最古の薬舗を開いたもので、13代目(守田敬太郎)が現在も営業を続けています。
商品としての寶丹は、9代目が1862年(文久2年)に発売し、コレラなどの予防薬として重宝されたようです。また、商品として明治新政府に申請して、第1号公認薬として認可されたそうです。
販売のために、新聞広告をはじめとして、PR誌を創刊したり、ポスター・看板・ちらしなどを活用した、歌舞伎の役者や落語家に「寶丹」のセリフを言わせたりするなど、当時としてはなかなかのアイデアマンであったようです。この点は後の
平尾賛平に似ているところがあります。また、寶丹流と称して独特のデザイン文字を書いたことも有名です。
古銭の蒐集家としても名高く、
月旦古泉会などで成島柳北との深い付き合いもありました。柳北から寶丹に古銭が譲られたときに、柳北が一晩でそのお金を使い切ってしまったことは有名ですが、柳北の死後には残された柳北の古銭もすべて寶丹のものとなり、収集家としての絶頂期を迎えています。
柳北の死によって完成途上のままであった
明治新撰泉譜を、柳北の遺志を継ぎ明治新撰泉譜(第三集)として刊行しています。守田は研究家というより純粋な収集家であり、ステイタスシンボルとしての古銭収集とそれを通じた社交界を楽しんでいたように感じます。
1893年(明治26年)には
東京古泉会(明治30年に東京古泉協会に改称)を立ち上げ会長に就任しています。
(画像はインターネットから借用)

 
メディア王コレクター見参!
本山彦一松陰堂 本山彦一 1848年(嘉永6年)~1932年(昭和7年)

本山は江戸末期に肥後熊本藩士の家に生まれています。明治維新後には上京して慶應義塾大学予科に入学して福沢諭吉にも師事しています。神戸師範学校長から藤田組(現在の藤田観光の前身)の支配人になり、時事新報の記者を経て岡山県児島付近の開墾に従事、明治生命、山陽鉄道、大阪精糖、南海鉄道の取締役を歴任。関西経済界に推されて大阪毎日新聞社社長となり、やがて東京日日新聞社を吸収して毎日新聞の基礎を作りました。昭和5年には貴族院の勅撰議員にもなるほど有能な人物でした。
古銭収集の趣味は東洋貨幣協会設立当時から役員(幹事)で、二代目会長も務めた人でもあります。

佐野英山
に依頼して、和同開珎の銭笵を発掘したのは1921年(大正10年)、その記事を自分の経営する新聞で大々的に報じたこともあります。
実業家でありジャーナリスト、
成島柳北大川天顕堂をあわせたような実力者、人格者だったと思います。佐野英山が古銭商として成功したのも、この本山の強力なバックアップがあったからこそ。英山は本山の信用のパイプを使って財界コレクターー達との取引を広めて行ったといわれています。
(肖像写真は収集から借用)
 
古銭経をあみ出した文化人僧侶
福田循誘(不肅斎 寒林居) 1849年(嘉永2年)~1915年(大正4年)

福田循誘(ふくだじゅんゆう)は嘉永2年末に東京市に生まれています。明治時代には成島と並び収集家の重鎮に列せられていましたが、本職は浄土宗の僧侶です。もともとの名前は岡田姓でしたが、江戸伝通院の福田行誡(ぎょうかい)に師事した後に、その跡を注いで深川本誓寺の住職になりました。社交型財閥系人の多かった当時の古銭界では学識・文化人で通っており、また、書においても名筆家であったといいます。古銭の鑑識眼にもすぐれてたと伝わり、また、古銭の名前を経文にして覚える・・・孔寶圓鑑経・・・なるものを考案したというユーモラスな一面もあります。なお、法名の循誘とは孔子の論語の中の一節「夫子循循然善誘人」からの引用でありで、内容は教育というものは発達に応じて行うものであるという意味だそうです。
 
冤罪!悲運の郷土史研究家
新渡戸仙岳非佛 新渡戸仙岳(隆光 宏堂 篷雨) 
1858年(安政5年)~1949年(昭和24年)


はじめにお断りをしておきますが仙岳は古銭収集家でも研究家でもありません。教育者であり、郷土史研究家であり、書家、俳人でもありました。石川啄木を支援した人物としても有名です。
大正4年、岩手公論のコラム
「破草鞋」に記述した「岩手における鋳銭」が大正7年になって東京の貨幣誌に転載紹介されたのが騒動のはじまりでした。新渡戸は郷土史研究としてこれらの史実を調べて、一般人向けの読み物として発表をしたのですが、収集研究の過熱していた中央界は彼を古銭研究家としてとらえ、参考品として作成して配っていた盛岡銅山銭を「売らんがための贋作」と位置づけてしまいました。
口火を切ったのが昭和16年11月に
貨幣誌272号に発表された田野誠一「盛岡銅山銭に就いて・第三期銭に対する疑義」であり、翌月の273号に田中啓文「盛岡銅山銭と破草鞋に就いて」を発表するに至って新渡戸=贋作者論が決定付けられてしまいました。
一方的に犯罪者に祭り上げられてしまった新渡戸は憤慨し、事実を追求しようと訪問してくる古泉家に対しては面会を拒み口をつぐむことになります。討論好きな金満家の多かった古銭界と新渡戸の生きる世界はもともと全く異なっていたからです。
これらの参考品を中央界に持ち込んだのは地元の古銭家の
水原庄太郎小笠原白雲らしく、その後一方的に新渡戸が悪人に祭り上げられることに対し強い反論をしていません。銭幣館絶対の時代に逆らうことの難しさか・・・それとも、交通未発達の時代背景(上京して古銭会に参加することの難しい時代)があったからなのかも知れません。その後、水原庄太郎が著述した「南部貨幣史」において新渡戸に悪意は無かったと記載はされましたが、逆にこの記事が新渡戸が参考銭を作って配った・・・贋作者本人であることを決定付けてしまった感があります。これについては瓜生有伸「日本古銭贋造史」においても引用されていますが、新渡戸が贋作者であることを前提としていて、引用部分にしても贋作人説を補強するよう歪められて記述されています。いずれにしても新渡戸の知らない場所、世界で、意図するところと違った論争が行われていたのが実際で、参考銭を作ったのが事実であってもその精神は決して汚れの無いことは断言できます。
新渡戸の人となりを表す出来事は、明治38年に全国から集められた凶作義援金を、教育会の部下が使い込んだことの責任を取り、職を辞すとともに自宅を売却して弁済に充てたことが挙げられます。
周囲がなんと言おうと事実は曲げられない・・・草鞋が破れるほど歩いて集めた事実は変わらない・・・彼は無言のうちにそれを示そうとしたのだと思います。
(肖像画像はウェブもりおか から借用させて頂きました。)


→ 贋作者列伝
 
関西地区を代表する大親分
原田寅之助元寶堂 原田寅之助 1859年(安政6年)~1942年(昭和17年)

明治期大阪のNo1コレクター。1903年(明治36年)の集古会(骨董収集の会)にその名を見ます。東洋貨幣協会の第一号会員でもあります。その財力を背景にあらゆるジャンルを収集するコレクターでしたが、なかでも皇朝銭の収集と研究では他の追随を許さなかったと言われました。当時、無紋銀銭をコレクションに持っているのは原田ぐらいだったと思われます。また、当時の現代通貨を未使用の状態で年号別コレクションしていたそうですから、その収集感覚は現代に通ずると思います。
1903年(明治36年)、奥平洪昌らと協力して大阪古泉会を発足させました。
原田が大阪古泉会を発足させた理由のひとつに、東京古泉会との確執があったようです。原田は東京古泉会の会員でもあり、ときどき出品もしていたそうですがあるとき、皇朝銭の富寿神寶の鋳放銭を出品したときにさんざんな酷評を立てられたそうです。原田は関西において皇朝銭の第一人者でしたから、当然激怒し、会の発足に至ったと思われます。
大阪古泉会の会誌、大阪古泉会雑誌の編集は当初は奥平昌洪が一手に引き受けていたようですが、原田は同じ名前の
下間寅之助を可愛がっていて、下間はそれに良く応えて事実上の大阪古泉会雑誌の編集人となってゆきました。
余談ながら
小川青寶樓がはじめて大阪に出向いたときに土地の大親分の元宝堂に挨拶に出向きながら「原田は出かけて今いない」と原田本人に居留守を使われたことがあとで分かり大いに憤慨した・・・とボナンザ誌上で語っていますが、背景には東京に対する反感があったのでは・・・と思われます。

(肖像写真は収集から借用)
 
ライフワークは東亜銭志編纂
奥平昌洪笠南 奥平昌洪 1865年(慶応元年)~(没年不明)

奥平昌洪(おくだいらまさひろ)は大阪古泉会の人。ライフワークとしての
東亜銭志は有名です。
1938年(昭和13年)に岩波書店から刊行されたこの書は活字に無い難解な漢字を多用していたため、生原稿のまま印刷されているという特異な形態となっています。この奥平について
田中啓文は研究者であることは認めていても意外に鑑識眼がなかったと銭幣館(第34号)でばっさ切り捨てている一方で、東亜銭志を完成させるための執念に対しては敬意を表しています。
インターネットで検索すると「日本弁護士史」の著者としてたくさん出てきます。おそらくこのタイトルからすると奥平は法曹関係の職業であったと考えられますが、今のところそれ以上の資料が見つかりません。(検事であったことが方泉處16号の記述から判明しました。)
また、大阪古泉会雑誌(会主:原田元寶堂)の初期の主力編集人(30号あたりまで)であったそうです。

(肖像写真は収集から借用)

主な著作
東亜銭志

 
光と影!追放された古泉家
中川近禮春布庵 中川近禮 ?~1925年(大正14年)

中川近禮(なかがわちかのり:ワープロでは近礼と表記されることが多い。)は明治時代を代表する大古銭研究家であり、とくに全国各地の鋳銭跡を発掘したことなどでその名を知られています。また、中川が編集主任として編集した東京古泉会報告は我国で最初に古銭会雑誌の体裁をつくった会誌として評価が高いのです。新撰寛永泉譜(1894年・明治27年)は考古堂 亀田一恕、進而堂 榎本文城の協力の下つくりあげた当時としては最高峰の寛永通寶銭譜です。(亀田、榎本の両名は名は連ねているものの、実質的には中川による編集と考えて良いそうです。)この泉譜は後の寛永銭収集研究に火をつけたものと言えます。
貫井銀次郎に青貨堂の号を贈ったのも中川でした。発掘に関しての発表は鋳銭座遺跡考、亀井戸村銭座などの名前がインターネット上で確認できます。
とくに、古寛永銭長永の類を発掘調査によって水戸鋳と位置づけたこと(1921年・大正10年)は有名です。
しかし・・・
これらの数々の実績が中川による捏造の可能性が高い・・・という残念な報告があります。詳細は1928年(昭和3年)の貨幣108号に掲載されているそうですが、残念ながら私はこの原稿を見ていません。谷巧二寛永通寶銭譜古寛永之部下巻の別冊、余話・泉談にもその一端が書かれていますので、ご一読いただければ幸いです。
いわく明治28年山口県内の神社の宝物であった和同開珎の銭笵を借用しながら返済に応じなかっただけでなく、この銭笵を発掘によって発見したと発表したこと。その後も探索において東洋貨幣協会名の名刺を濫用して神社などの宝物を借りて返さないため、ついに協会に請求書が届くに至り、古銭界から事実上の追放処分を受けています。
また、中川の犯した罪により当時の東京古泉会の活動が停滞、分裂もしたようです。
貨幣98号から110号にかけて故人の俤(おもかげ)として中川氏のことが記載されているそうですが、このような事実があるにもかかわらず、長永は依然水戸銭籍のままです。考古学界をゆるがせた神の手事件と重なりますが、古泉界ではさしたる検証も無いまま放置されてしまったので彼の実績が本当のことなのか、それとも売名のための捏造なのかは今となっては定かではありません。ただ、毛利手本銭調査によって田中啓文が「笹手永は水戸鋳なること」という記述をしたことが妙に引っかかるのです。

収集界においては信用を失ったものの、中川自身は収集をやめたわけではないようで、大正12年の関東大震災直後に書かれた三上香哉の投稿手記によれば、震災当日も三上と古銭談義をしていたようです。
(肖像写真は収集から借用)

主な著作・出版物
新撰寛永泉譜
 新撰皇朝泉譜(発刊せず図版のみ存在)
 
東京大学藤井コレクションの元祖
藤井栄三郎深藪庵 藤井栄三郎 1865年(慶応元年)~1949年(昭和24年)

貨幣誌などにその名を見るものの私がどちらかといえば地味な存在だった藤井栄三郎を取り上げるのは、たまたまインターネット上で東京大学藤井コレクションの存在を知ったからです。
藤井は、強力消化剤「タカジアスターゼ」を創成した化学者の高峰譲吉(現:第一三共、旧三共製薬の祖)の実弟にあたり、化学工場を経営する一方で古銭の収集に力を注ぎ、東洋貨幣協会副会長まで上りつめました。
藤井は大正年間までは銭幣館田中啓文と泉友にして強力な収集競合相手でもありました。
藤井は収集家としてより研究重視の姿勢を鮮明にしたため学究肌として知られていたそうです。例えば中国先秦貨幣の布銭などは、現在でもあまり注意が払われていない裏面文字の相違まで考慮の上で蒐集していたそうです。また、藩札の収集においても、熱心で一頭地抜け出た存在だったようです。しかし、特に親しかった泉友の
二世宝泉舎の死、関東大震災の悲劇(震災により工場を失った)を目の当たりにして収集界からの引退を決意します。
藤井は東大にコレクションの寄贈をするに当たって、①安全な保管、②散逸の防止の2 点を強く求めました。そのため、寄贈の前に体系的な整理を行って二種類の原拓本本を編んでいます。一つはコレクションの全ての拓本を網羅した『宝貨録』十八巻、もう一つは稀少な貨幣の拓本のみを選択して編集した『藤氏銭存』不分巻(全5巻)です。彼は寄贈という手段を用いて、自分のコレクションを(ライバルに手渡したり散逸させることなく)そのまま後世に残すことを果たし、『藤氏銭存』を民間配布することによって自分の存在をも知らしめようとしたのだと思われます。
藤井コレクションは、藤井旧蔵の1万点におよぶ貨幣コレクションで、1927年(昭和2年)、藤井が62歳の頃ときに寄贈されています。寄贈作業(拓本つくり)を手伝ったのが田中啓文、三上香哉といいますから、後に啓文が日銀にコレクションを寄贈することに大いに影響を与えたと思われます。藤井はそれから22年も存命(当時としては長命)でしたので、私だったら耐えられないかもしれません。
コレクションの内訳は中国約6400点、日本約2700点、朝鮮半島約2100点、ベトナム約800点で、大陸の貨幣の割合が非常に大きくなっています。戦後、
郡司勇夫が東京大学から整理作業を依頼され、初めて藤井コレクションを実見した時の感想を次のように述べているそうです。
「皇朝銭にはじまり、江戸時代古金銀、近代銭、維新以降諸貨にいたる日本貨幣、中国古代貨から近代貨にいたる歴代諸銭、朝鮮・安南諸銭、欧米貨幣等、全く多彩なコレクションに一驚させられたものである。・・・(中略)・・・当時の一級収集品の名に恥じないものであることを十二分にも知ったのである。」
なお、東京大学経済学部には、実業家の2代目安田善次郎から1923年に寄贈された総数約2万5000枚に及ぶ古札のコレクションも収蔵されています。これらの画像の一部は東京大学経済学部図書館ホームページの「デジタル展示館」で公開されていほかに目録として『大学院経済学研究科所蔵古貨幣コレクション』(1999)が刊行されているそうです。
(肖像画像は復刻版銭幣館第4巻から借用)

 
画家・書家・・・そして古銭収集家
中村不折孔固亭 中村不折 1866年(慶応2年)~1943年(昭和18年)

このシリーズの調べ物をしていて大正15年の皇国愛泉一覧(古銭家番付)の西前頭4枚目に中村不折の名前を見つけて驚きました。(昭和6年の番付では東の大関になっています。)
不折は明治~昭和初期の著名な洋画家で書家でもありました。八丁堀に生まれて幼名を鈼太郎といいます。浅井忠や小山正太郎に師事し、明治美術会に出品するほか、新聞の挿絵なども担当していました。
1901年(明治34年)から4年間フランスに留学し、帰国後は太平洋画会や帝国美術院の会員として活動を行う一方、太平洋美術学校校長として美術教育にも貢献しています。書道界では、書家活動の他に書道博物館の創設者としても知られています。左の銅像はその庭にあるもの。
書道博物館は中国と日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館で、重要文化財12点、重要美術品5点を含む1万6千点が収蔵されています。この書道博物館には不折が収集した和同開珎の銭笵や皇朝十二銭も展示されています。和同開珎の銭笵は1921年(大正10年)に
本山彦一の指揮で佐野英山が発掘調査を行っていますが、まず民間には存在しない貴重品です。不折がこれをどこで入手したのかは定かではありませんがかなりのコレクターであることがこれからも伺えます。守田寶丹が所有していた一豊舎伝来の符合銭も入手していたようです。(後に大川鉄雄に譲渡。)
なお、新宿中村屋のロゴや日本酒の「日本盛」の商標は不折の作品です。明治時代の文豪とも親交が深く、夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵も画いていますし、正岡子規の作品『墨汁一滴』にも登場しています。
(胸像写真は書道博物館HPから借用)

号については活字がはっきりせず正しく判読できていなかったのですが、S県のS氏からのご連絡
孔固亭であることが判明しました。
不折自身が作成した泉譜「歴代古泉百二十五譜」や不折の還暦泉譜である「孔固亭華甲祝賀泉帖」など多くの泉譜に「孔固亭」の雅号で掲載されているほか、不折本人の署名でも「孔固亭」が確認できるそうです。
S様ありがとうございました。

 
怪物と呼ばれた男 
久原房之助 (くはら ふさのすけ)1869年(明治2年)~1965年(昭和40年)

このコーナーに出てくる人物としてはもっとも大物かもしれません。久原は古銭収集家としてもかなりの存在でしたが、研究家ではなく、「金に物言わせて根こそぎ集め尽くす」いわゆる成金コレクターでした。佐野英山は久原家に出入りした商人の一人でしたが、久原の古銭の買い方は別格で、買い出し役の佐野も大名旅行ができたほどでした。久原に佐野を紹介したのがメディア王の本山彦一で、久原と本山は藤田組時代に知り合っていると思います。
久原が基礎を作った会社としては日立グループがあり、その他に日産コンツェルンにも深く関与し、DOWAホールディングス(藤田グループ)にも縁の深い人物です。一方政治家としても黒幕、フィクサーと呼ばれ、政界の表裏に何度も登場します。

久原房之助久原の本家は長州(山口県)の須崎の庄屋でした。廻船問屋を営み、苗字帯刀をも許されて主家の金融も預かる御用商人でもありました。しかし、1856年(文久2年)に当主の半平が謀略により暗殺。また、さらに米買占の悪評を立てられ、久原家は没落し、半平の養子だった庄三郎(房之助の父)は生まれ育った地を離れる決心をすることになります。(謀略は主家によるものらしい。)
久原房之助はそんな苦難の時代に生まれています。父は養子に出る前の実家の藤田家の三男(藤田伝三郎)を頼り大阪に出て、共同で藤田組(現DOWAホールディングス)を立ち上げます。これが、後の久原財閥誕生の序章でした。
やがて藤田組は長州閥の人脈をたどり、軍靴製造の委託を受けることに成功しました。そして西南戦争により莫大な富を得ます。
房之助は東京商業学校(現一橋大学)を卒業し、福沢諭吉にあこがれて慶應義塾に入学。卒業後は森村組(TOTO、日本ガイシ、ノリタケなど現、森村グループの始祖)に入社しました。これは完全な押しかけ入社で、森村組も久原の働きには期待していなかったのですが、独創的な久原の働きぶりに感心した社主の森村は、ニューヨーク勤務を命じました。大抜擢に歓喜した房之助でしたが、藤田組の後援者の政治家の井上馨からの横車で、森村組を辞すことになりますが、この挫折は房之助に一生ついて回ることになったそうです。
藤田組に入社した久原が派遣されたところは、廃鉱寸前の秋田県の小坂銀山でした。この段階では久原は藤田組でも大きな期待はもたれていなかったと思われます。
しかし、久原は小坂銀山の再生を考え、そして、東大工学科卒の武内雅彦の自溶精錬法(鉱石内部の成分の燃焼で製錬する方法)にたどり着き、小坂銀山を銅鉱山として生まれ変わらせることに成功したのです。この成功は当時、鉱山経営に行き詰まりをみせていた藤田組を救済することになりますが、藤田組内の財産分与、財産管理の内紛から、久原は独立することを余儀なくされました。
(この直前に、久原は後に日産コンツェルンを作る鮎川義介の妹、清子と結婚しています。なお、鮎川兄妹の母方の叔父が政治家の井上馨にあたります。)
1905年(明治38年)に産出量の少なかった茨城県の赤沢銅山を買収して久原鉱業日立鉱山と改称しますが、久原はここで天賦の才を発揮します。まず、鉱山に近接して発電所を作り、電気鉄道を鉱山全体に走らせます。坑内作業は手掘りから削岩機を使った機械掘りにすることで効率を上げました。また、将来、鉱山の産出量が低下したときにも対応できるよう(他の鉱山から鉱石を買って製錬できるよう)に、中央買鉱製錬所を造り、さらにダイアモンド式試錘機を使って、試掘探鉱も行いました。発電所の修理を担当していた小平浪平が発電機の自社開発に成功し、1912年(大正元年)日立製作所の開設に至る幸運にも恵まれました。その結果、日立鉱山は3年で経営が軌道に乗ります。
第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は急騰して久原はケタ違いの大富豪になります。最盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されていて、当時の国家予算の4分の1にあたる資産を保有していたことになります。。この頃の古銭収集は常軌を逸した買いっぷりであったと思います。
久原は儲けたお金を寄付、献金などに惜しみなく使いまくりました。父が追われるように出てきた故郷にはもちろん、亡命していた孫文にも政治資金を融通しています。京浜海岸に臨海工業地帯を作る構想もたてました。その後、京浜臨海工業地帯は出現していますので、久原にはたしかな先見性があったのだと思われます
しかし、伸びきった彼の経営は、第一次世界大戦の終結後の恐慌によって破たんします。それは1923年(大正12年)に起きた関東大震災によって決定的になります。
窮地に陥った久原は、義兄の鮎川義介に日立鉱山と日立鉱業を譲渡して、同郷の大物政治家田中義一を頼って政界入りすることになります。義理堅かった田中は、衆議院議員選挙に当選したばかりの久原を、逓信大臣のイスにつけたのです。
政治家となった久原は震災によって負った数千万円の借財を震災手形にして政府に肩替りさせることに成功します。政治家井上馨の活動を見続けてきた久原は、その力の使い方にも長けた「怪物」でした。
1936年(昭和11年)には2・26事件に巻き込まれ、謀議の疑いで逮捕されます。自分の力を過信し「一国一党論」「皇道経済」を唱える彼は軍部にとって利用しやすい人物だったのかもしれません。収監は8ヶ月に及び、有罪判決なら死刑は免れなかったのですが証拠不十分で無罪になりました。
収監から帰った時、房之介の債務は再び約1億円に膨らみ、しかもその時の年齢は69歳でしたが、それでも久原は倒れません。35代平沼内閣、37代米内内閣、38代第2次近衛内閣のときに内閣参議(大臣と同格の諮問機関役員)になりました。第二次世界大戦後もA級戦犯にされかけましたが、戦前に施した孫文のおかげでその難を免れます。
さらに1951年には代議士としても政界に復活して日中・日ソ国交回復議長などを務めています。借財返済は義兄の鮎川の助力があったとも伝えられますが、20年がかりで完済しています。
1965年(昭和40年)に95歳で死去。旧邸宅は八芳園(結婚式場・料亭・レストラン)として使用されています。

 
天才か?それとも狂気の人か?
三上香哉花林塔 三上香哉(甘井香哉・三上母子太郎) 
1872年(明治5年)~没年不明(調査中)


花林塔 三上香哉は裕福な呉服店に生まれ、幼少時から非凡な才能を発揮していて、幼くして漢学を学び若年で新聞雑誌に投稿するほどだったと伝えられます。俳句・和歌・連歌にも通じ、平家琵琶に至っては家元芸の域にまで達していたとされます。
三上は明治期における寛永通寶銭をはじめとする貨幣研究の第一人者であり、
藤原貞幹の献上本をもとに榎本文城と共に寛永泉志(3巻:明治30~34年:7巻までの予定であったそうですが未完に終わっています。)を作成し、同じ時期に(明治29~33年)寛永銭研究会報告も2人で開催しています。
これは、ある意味中川近禮の新撰寛永泉譜に挑戦状を叩きつけたものとも言えます。
東京古銭協会に属さなかった反主流派の彼は1904年(明治37年)には大日本貨幣研究会を設立して、会誌として大日本貨幣研究会雑誌を発行しています。H.Aラムスデン(→ 贋作者列伝)は三上に師事して天保銭の教えを乞うています。その結果三上は1907年(明治40年)に日本初の天保通寶銭の泉譜、天保銭譜を作成しています。
大正期に入ってからも活躍は続き、
東洋貨幣協会の設立とともに、貨幣誌の編集に携わるようになります。このように彼は明治期後半から大正期まで古泉会を常にリードしていました。収集家としても群を抜いていて大正7年の古銭家番付では、田中啓文とならび堂々の大関(最高位)となっています。
一方で彼の性格についてはボナンザ誌上で小川青寶樓も「変わっていた」と述べているように、一見穏やかながら筆を握ると悪意に満ちた表現が随所に現れます。また、焼きもち焼きで策士・・・そのためかあらぬ噂を流され仲たがいさせられた泉家がずいぶんいるようです。
しかし関東大震災によって彼は深川の邸宅も収集した資料や古銭も、そして正妻さえも失ってしまいました。茫然自失のところを銭幣館 田中啓文にふたたび拾われて主事として迎えられ、主従関係となりました。
ところが、レート化粧品の社主、
平尾賛平に乞われて出入りするうちに田中との関係が悪化、1931年(昭和6年)には決別しています。(平尾と三上は遠い親戚関係にあったそうです。)郡司勇夫は三上の甥で、三上が銭幣館を去った頃と前後して田中邸に出入りするようになったそうです。また、三上が去った翌朝には、田中は小川青寶樓のお店を訪れて今後の協力を仰いでいます。(その直前に三上も訪れているとの事。)田中と三上の対立は互いに強烈な個性を持っていたからこそ生まれたもので、三上の才能は田中との主従関係という枠の中では納まりきれなかったものと思われます。
昭和泉譜が事実上三上の作品であることは有名なことで、彼は平尾という旦那型のスポンサーを得ることによって自由に研究発表ができるようになったのです。歯に衣着せぬ言動と、自説を押し通す頑迷さは健在で、この頃もしばしば周囲と対立もしています。この点は三上の甥である郡司の論評にも登場しますので、おそらく彼の本質的な性格であったたと思います。ただ、彼の人間像については田中との対立によってかなり強調・歪められて伝えられているようにも思えます。可愛さ余って憎さ百倍・・・それだけ三上は古銭家としては有能だったのでしょう。
三上は貨幣を歴史、考古学(遺物研究)、技術変遷の側面からとらえるといった斬新な考えがあり、数々の研究発表もあって研究者としてのスタンスには見習うべき一面もあります。少なくとも震災前においては彼は第一人者であったことに間違いはなかったのですから。
(肖像画像は復刻版銭幣館第4巻から借用)


※下間寅之助の古銭に度々寄稿していますが、その言動には奔放を越えて変人めいたところもあります。鷲田信一が急逝したときに、その功績をたたえた弔文を記載した下間に対し、鷲田はそんなにすばらしい人物ではなかったと愚弄するような寄稿文を送りつけたのが典型です。いわゆるだまってられない、プライドの塊のような人であり、自己顕示欲の強い人ですね。

※本名は三上母子太郎で、花林塔も甘井も香哉もすべてしゃれ。続けて読めば かりんとう、あまい、かおりかな。おみごと。

 
カリントウが深川名物であったところが由来だそうです。
 
嗚呼…いにしえの贋作者達(弐)
寛永堂、古楽堂の時代が去ると、贋作製作にも手の込んだ仕事が行われるようになります。ラムスデンのように銅質組成を変えて検証をしたもの、福西のように好奇心からはじめマニアをうならせる技を編み出したもの、加賀千代のように好奇心につけ込み人を欺くことを研究し尽くしたもの・・・しかも彼らは名うての研究家、実力も超一流です。しかもラムスデンは国外を販売市場とし、福西と加賀千代はタッグを組んでいたことが後世判明しています。
 
ラムスデン(Henry Alexander Ramsden) 1872年(明治5年)~1915年(大正4年)
大康堂 福西常次 大正年間(生没年不明)
千泉堂 加賀千代太郎 大正期~(生没年不明)
→ 贋作者列伝
 
昭和泉譜を世に送り出した銭幣館のライバル 
平尾賛平麗悳荘 (2代目)平尾賛平(聚泉 平尾貫一) 
1874年(明治7年)~1943年(昭和18年)


東京都、江東区出身。幼名は太郎で、本名は貫一。25歳のときに初代賛平(実父)が死去したため、2代目賛平を襲名しています。初代賛平は高村光雲などの芸術家を資金援助していたタニマチ的存在でしたが、2代目は古銭界で世に名をはせました。初代も古銭収集を行っていて明治26年の愛銭家番付で前頭14番目に記されています。2代目は初代の趣味を受け継ぎ、超えたというのが正しい表現なのでしょう。
本業は化粧品製造販売。泉号の由来となった本業のレート化粧品の「レート」はフランス語で乳を意味するそうです。初代は「小町水」「ダイヤモンド歯磨き(命名は2代目)」を発売、2代目はレートメリー(おしろい)、レートクレーム(クリーム)を販売し、一世を風靡。2代目平尾は広告に商業の活路を見出し、錦絵広告や看板広告を積極的に展開。とくに明治座の狂言公演において、9代目市川団十郎の舞台背景画に商品広告のある錦絵を出したのは画期的でした。本業は大いに栄え、西のクラブ(化粧品)、東のレート(化粧品)と並び称されています。
平尾は新聞広告で古銭を買い集めるなど膨大な資金力を背景に大胆な手法をとりました。彼を支えたのが
銭幣館 田中啓文と袂を分かった花林塔 三上香哉。互いのライバル心もあって、当時は泉界は大いに盛り上がったようです。
昭和泉譜(1932年)は平尾の残した傑作泉譜で、当初は青貨堂 貫井銀次郎も編集協力していましたが、三上と意見が合わず離脱したためその後は三上の単独編集になっています。昭和泉譜の製作に当たっては泉貨学研究会を結成し、当時のそうそうたる収集家・研究家を集めています。
平尾のスタンスは収集家であり、初代と同様にタニマチ的な存在でもあったので、種類を集めること分類することを主眼としており史実研究的な業績はあまり残っていません・・・というより、研究・編集などは事実上は三上の独壇場、やりたいほうだいだったと思われます。
しかし、戦争の爪あとは本業にも多大な影響を与えます。とくに主原料のグリセリンが軍需品指定されてしまったこと、女性のパーマが禁止されるなどお化粧どころではなかったこともあり、戦後も立ち直れずレート化粧品は1954年に倒産。収集品もその後に散逸してしまったようです。この点は軍需産業景気で戦争中も財を成した田中啓文とは明暗を分けています。
なお、歌手、作曲家の平尾昌晃は彼の後を継いだ3代目平尾賛平(賛之輔)の子・・・つまり孫に当たります。
(肖像画像はインターネットから借用)

主な出版物・著作
昭和泉譜 
麗悳荘泉譜

※平尾のコレクションは
鈴木櫓泉が引き継いだようです。ただし、鈴木には子供が無く、没後にコレクションが埼玉に住む古銭界の長老、関根宗助翁によって売りたてられ散逸したようです。

 
東北貨幣収集発展の祖
白雲居 小笠原吉助(白雲・吉亮) 1875年(明治8年)~1944年(昭和19年) 

小笠原吉助白雲こと小笠原吉助は九戸郡軽米町出身の画家・・・と紹介されています。戦前の蒔前遺跡出土品のスケッチをした記録が残されているほかや花巻市博物館にもスケッチが残されているようですが、、画家としての精力的活動の記録は確認できませんでした。一方、息子(次男)の哲二は洋画家として認知されています。方泉處4号によると吉助は写真館と書店(白雲堂)を経営していたとありますので、画家活動は副業であったのだろうと思います。
明治30年頃から本格的に古銭研究に取り組み、交通不便な時代では東北出身者としては珍しく
大日本貨幣協会、東京古泉協会にも参加、所属、東洋貨幣協会にも発足時からの会員になっています。1918年(大正7年)に盛岡市内で岩手古泉会を水原庄太郎とともに設立していますので、東北地方の貨幣収集趣味発展の祖とも言えます。(後に盛岡市内に移住。)南部地方の古銭研究の先駆者で、かの新渡戸仙岳も小笠原の著作、南部鋳銭考を高く評価しており、新渡戸の新聞コラムに手紹介されたことからその名が知られるようになります。また、絵銭の収集家としても知られ、貨幣誌上にも発表された南部絵銭考もまた非常に高名で、地元泉家の研究基礎資料になっていると云います。(拓本帳が伝来保存されているそうで寛永銭についても細かく収集されていたことが方泉處の記事によって明らかになっています。)なお、白雲居という号の居の部分は「家」を現すので、誤伝であろうと方泉處には記述されていますが、白雲居の泉号印もあることから屋号として正式に用いていたと思われます。分かりやすくいえば、松尾芭蕉の雅号は芭蕉ですが、その住まいは芭蕉庵です。
昔は屋号で自称することも多かったので、白雲、白雲居を使い分けていたと思います。(ただしこれは私の推論です。)
(肖像写真は方泉處4号に掲載された永井勝榮氏提供の写真より)

主な著作
南部鋳銭考
 南部絵銭考
 
青寶樓の手本になったもう一人の『とらのすけ』
虎僊楼 下間寅之助 1878年(明治11年)~1925年(大正14年)

下間虎之助下間寅之助(しもづまとらのすけ)は姫路市において神仏金具の彫金細工師の家に生まれています。長じて大阪に移住し、はじめは南区笠屋町において神仏金具彫金細工師として開業しています。
茶道や登山など多趣味の人で、古銭は原田元寶堂、水野方圓堂などの指導を受けて開眼。1907年(明治40年)には古銭商として名乗りを上げています。虎僊楼の号はたまたま友人から贈られた書に、下間山虎僊寺の名を見つけ、虎は自分の名の寅に、僊は銭に通ずるということで採用したようです。
青寶樓こと小川浩がその号に楼の文字を用いたのはこの下間の行ったことを理想としたことにあります。(青寶樓の師である二世宝泉舎 鷲田と下間はとくに親しかったと云います。)とくに1917年(大正6年)から1925年(大正14年)にかけて都合97冊発行された古銭(古銭雑誌社:下間が設立)は一人の商人つくった雑誌として画期的な貨幣研究誌でした。
下間が頭角を現したのは、1903年(明治36年)に設立された
大阪古泉会においてのこと。ここにはもうひとりの「とらのすけ」、元寶堂 原田寅之助笠南 奥平昌洪(東亜銭志の作者)、初代中島泉貨堂などそうそうたるメンバーがいたのですが、拓本打ちが巧みな人材が京都の中島しかなく、下間がその技術を習得して編集を行うようになってから会誌(大阪古泉会雑誌:92巻)発行がスムーズになったと言います。
下間は26号あたりから編集の中心になり、やがてこの古銭会そのものの中心的存在になって行ったようです。
雑誌古銭は下間が大阪古泉会で吸収した知識と編集技術が生かされたものだと思われます。この頃の関西古泉界の隆興はこの下間と
岡田郵泉堂(岡田房治郎)、安田秋月堂らによって支えられたといっても過言ではないと思います。
雑誌古銭は下間がまだ大阪古泉会雑誌の編集の中心であったときのこと。当然ながら周囲からの反発も考えられるのですが、会の実質運営は下間の実権の下にあり、事実79号以降は編集発行人原田元寶堂の名前は消えて、編集発行人下間寅之助になっているそうです。2誌の編纂をしなければならないので大変だったと思われますが、そのわずらわしさから逃れるため下間は大阪古泉会雑誌のソフトな終了を画策して成功したようです。すなわち、大阪古泉会の例会の様子などは自分の雑誌古銭に引継ぐことを約束し、終号に当たっては全号の索引目次をつくり掲載したそうです。
当時の古泉会は生拓採りが多く大変でしたので、他にこの作業を引き継ぐものがいないことを見越した上での行動だと思います。
この古銭は大正14年まで続きましたが、下間の急死により97号で廃刊になっています。
1922年(大正11年)9月に兵庫で
帝国絵銭協会が発足していますが、その発起人の中に下間の名前が見えます。なお、下間の発行した古銭は1990年に天保堂 瓜生有伸によって復刻版古銭(全9巻)として限定版ながら復刻刊行されています。
(肖像画像は月刊天保銭1990年6月号から借用)

主な著作・出版物
古銭 大正新撰古銭之栞 古銭価格図鑑
 
 
いぶし銀の一匹狼
貫井銀次郎青貨堂 貫井銀次郎(滋園・八百銀・青物軒) 
1878年(明治11年)~1949年(昭和24年)


貫井銀次郎(ぬくいぎんじろう)の古銭収集の始まりは、日露戦争の一時金150円で古和同5枚を購入したときからだと、復刻版昭和泉譜に書かれています。実家は文京区にあった八百屋+煙草屋でその昔は着流し姿でリヤカーを引きながら野菜を売り歩いていたそうです。
インターネットで調べると意外にも古書関係でヒットしました。行商のさながら古書関係も取り扱っていたと思われます。当時の貫井は
文久童と並ぶ、資料収集、研究家でした。
古銭の収集品もなかなか多彩だったようで明治37年の愛銭家番付にはすでに名前が見られ、1926年(大正15年)には西関脇に位置しています。ちなみにこのときの大関(最高位)
住友家、久原家の両財閥。田中銭幣館は勧進元でした。
個性的なコレクターが多かったこの時代にあって論理的で口数の少ない温厚な人柄で知られ、
三上香哉が去った後の貨幣誌の実質上の編集責任者を務めていたこともあったので、記事数も多く残されています。青寶樓こと小川浩も彼の指導を仰いだそうで、青寶樓という泉号の由来に貫井の号(青貨堂)が入っているのは有名な話です。
貫井の滋園の泉号は本名のイニシャルのもじり・・・G・N(ジーエヌ)から来ていて三上香哉がつけたそうです。また、八百屋をもじった青貨堂の名は明治の収集大家 
春布庵 中川近禮の命名だそうですから、いかに貫井が愛されていたかが伺われます。貫井は当時の古銭界においては中国歴代銭、符合銭、安南銭の最高権威者であり、天保銭、寛永銭にも見識が深く、三上などとともに寛永銭講習会なども開催しています。
このような人物ですから、大家との付き合いも深い一方で、利用され翻弄されることも多かったと思われます。
昭和泉譜の初期の頃の編纂にもかかわったようですが、三上とは意見が合わずに離脱し、東洋貨幣協会主催の貨幣誌編纂の中心的存在になりましたが、やがて田中啓文からも離れてその後は大川鉄雄と深く交流した云います。この頃の古銭界は財閥とその研究を手伝う世話役の者、財閥に出入りする古銭商というように色分けが出来るのですが、彼は世話役であったものの誰かに属するといった意識は無かったのではないでしょうか。まさに実力派の一匹狼、大正から昭和初期にかけての貨幣界のいぶし銀的な存在です。
(肖像画像は復刻版銭幣館第4巻から借用)

  
日本初の古銭ブローカー
佐野英山蝶葉堂 佐野英山(英山軒) 1878年(明治11年)~1966年(昭和41年)

三重県鈴鹿郡生まれの英山は、子供の頃から古銭に親しみ、指導を亀山銀行の加藤秀発に受けたそうです。地元の古銭愛好の会には17歳のときに入会し、1895年(明治28年)にはすでに古銭家番付に名前が見えるそうです。
古泉大全を著した
今井風山軒(1831~1903年:高知)とも接点があり、古泉大全、古泉大全甲集、古泉大全丙集、古泉大全寛永銭集を出版企画しています。また、同好の師の森田宝丹楼宅にも通いつめて、師の保有する古銭本をことごとく書写してその一部を仲間に配布したことも逸話として残っています。戦前における古銭書の普及については彼が第一級の功労者であることは間違いありません。
英山の功績がかなったのは、頑健な体、憎めない人格、卓越した記憶力であったともに非常に筆記が早く詳細に記録をノートに残したまめな人であったこともあげられます。
英山は1907年(明治30年)陸軍に志願し、その後大阪騎兵隊台湾守備隊付の下士官として勤務。その間も古銭の趣味は続け、隊内では
古銭軍曹と呼ばれたそうです。
下士官として安定した生活を捨てたのは30歳を目前にした1907年(明治40年)のこと。大阪造幣局に入職されたとのことですが、その理由は明らかではありませんが、その後に研究家としての活動が加速することから、より趣味に近づきたいという思いがあったものと思われます。(ボナンザ誌に仮病を使って除隊したとあります。やはり趣味が高じた結果でしょうね。)
軍隊退役後は次々に古銭書を出版しており、趣味の交流から毎日新聞社(大阪毎日)社長の
本山彦一をはじめ鉱山王(日立銅山)にして政治家の久原房之助、住友財閥当主の住友吉左衛門、三井財閥の三井源右衛門など、政財界にパイプを持つようになります。
1911年(明治44年)には北陸で加越能の七百、五百の母銭を選り出し脚光を浴び、そして政財界の友人らの勧めとバックアップもあり1919年(大正8年)に造幣局を退社し、ついに古銭販売を生業とする決心をします。英山のすごいところは店舗を構えたそれまでの古銭商とは異なり、築いた信用と交流を生かし、全国の古銭コレクターから直接コレクションを買い付け、得意先に販売する斡旋商法です。交通の未発達であった当時に全国各地を飛び回るのは大変だったでしょうが、そうであったからこそ当時は地方に貴重なお宝がたくさん眠っていたのもまた事実でした。
守田宝丹・今井風山軒・ラムスデンのコレクションは久原家に、羅振玉水谷財仙堂のコレクションは住友家に、倉田五好庵須崎二葉斎のコレクションは平尾賛平に、野崎静修軒檪原長嘯園の古銭は大川天顕堂に、西村洗玉斎のコレクションは三井家に納められたそうです。昭和17年頃には、四国の堀見甘泉堂のコレクション中にあった土佐通寶、土佐官券などを銭幣館に納めています。
何かときな臭い噂もある人物ですが、不義理をするのは大家相手だけ・・・後輩の面倒見は非常に良く、大家にしてもおいしい話をちょくちょく持ってくる上にどことなく憎めない風貌である英山とは完全に縁を切ることは出来なかったようです。英山自信も大家のわがままにはさんざん振り回されていたので、取引ではかなり上乗せしてふっかけたという話も聞きます。また、当時の大家も金に糸目をつけず買いまくったといいますから、英山の買い付け行脚はさながら大名行列のようだったとも聞きます。
古札の研究にも熱心で戦前に出版した
藩札図録は特に名著として名高いそうです。また、研究の一貫として各地の鋳銭所の遺跡の発掘探査も手がけています。私的には佐野英山といえば天保通寶のイメージが強く、勢陽古泉会の天保泉譜にも深くかかわっている他、大川天顕堂の天保銭コレクション入手にも関係しています。
(肖像画像は収集86年10月号から借用)

主な出版物・著作
古泉大全 古泉大全甲集 古泉大全丙集 古泉大全寛永銭集 藩札図録 大正銭譜 穿貫古今 明刀図考

※佐野英山は贋作師の顔を持っていました。この件については瓜生有伸も月刊天保銭に記述しています。田中啓文も気づいていたようですが、本来一品しかない珍品をなぜか複数の金満泉家に対して売り渡している・・・という記事を読んだこともあります。問題となった土佐藩の海南之券(海南券)は、おそらく本物を入手した佐野がこれを複製したものと思われます。その結果、近年の泉譜から海南之券が姿を消す結果になっています。

 
東の山本と称えられた大長老
山本右衛門文久童 山本右衛門 1878年(明治11年)~1964年(昭和39年)

東京都下谷金杉(現在の台東区金杉上町あたり)に生まれています。着流し姿がトレードマークで、何でも士族(旗本)の出身だったそうです。田中啓文がまだ少年の頃に、芝の古銭商の新井瓢九(瓢鯰堂)のお店ではじめて知り合った収集仲間です。その縁あってまるで家族のようなつきあいで、収集家として先輩の山本は田中の実質的な初期指導者でもあったようです。師匠は新井瓢九老で当初は文久銭を熱心に収集研究していたことから師匠より文久童の名を授けられたそうです。
若手に古銭の指導を良く行ったそうですが、別名
「ムッツリ右衛門」の通り、なかなかポイントは教えない。昔かたぎの自分で考えて感性で覚えろ・・・のタイプで、気にいらない(贋作の)古銭は見ている前で無言でポーンと放り投げたという逸話もあります。(不機嫌なときには庭に放り投げたという逸話もあり。)
小柄な人で同年代の
貫井銀次郎に対抗心を燃やす子供っぽい一面もあったようです。文久・・・の泉号から文久永寶についてはかなりの収集研究をしていたようですが、実際は藩札をはじめあらゆる古銭に精通したゼネラルコレクターだったようです。その素地は文献収集によって養われたもので、その点は貫井と相通ずるものがあったようです。
田中とは幼馴染でありながらもその圧倒的な財力の差から、次第に山本はコレクター仲間から田中に対して隷属的な・・・自分の収集欲を立ち、古銭を見つけては紹介、納入する・・・立場になっていったようです。したがって、啓文がそのコレクションを日銀に寄贈したときに両者の関係悪化は最高潮に達して、ついには完全決裂することになります。
文久童自身のコレクションは戦火によって灰燼と帰してしまいましたが墓に隠し罹災を免れた文久銭は
大川鉄雄に譲り、田中の死後は太田保の古銭会(忘泉会)に良く顔を出したそうです。この頃は性格もより温厚になり、後輩を良く指導するようになったとも聞きます。その小柄ながらに憎めない人柄と、比類なき経験と知識で古銭界では西の英山・東の山本と評され、伝説的な人になっています。
生涯を掛けて愛したはずの文久銭ですが、残念ながら本人からの研究泉譜の刊行はありませんでした。また、貨幣誌を眺める限り、文久銭関しての大きな研究発表もありません。研究発表においてもムッツリを通したのかもしれませんがその代わり、愛弟子の
小林茂之がその遺志を継いで文久泉譜を発刊しています。
(肖像画像は収集86年10月号から借用)

 
鑑識眼を武器にした青寶樓の師
二世宝泉舎 鷲田信一(呆泉) 1882年(明治15年)~1923年(大正12年)

鷲田信一鷲田信一(わしだのぶかず)は明治期に活躍した古銭商、初代宝泉舎(汎友舎とも号した)こと鷲田信詮の長男として上野末広町に生まれ、父の死後に家業を継いでいます。お店は神田五軒町にありました。古銭や歴史の知識は相当なもので、明治~大正時代では屈指の鑑定眼を持つことで、同年代の田中啓文も一目を置いています。ただし、この才能は早逝した父の死後に身につけたもので、相当の努力があったとも記されています。貫井銀次郎、亀田考古堂に師事して鑑定を学んだとされますが、父の集めた古銭が自分の鑑識眼の無さから先輩達に買い叩かれる様子に一時打ちのめされ、発奮したとも言います。)大正9年に文久童が作成した古銭家の鑑定力を序列した番付では堂々の1位となっています。
拓本の採り方ひとつにしても非常に丁寧であったと田中は述べています。(この姿勢は弟子の
小川浩に引き継がれています。)東京古銭会時代は幹事として活躍、1908年(明治41年)からは貫井銀次郎とともに品評を書いています。また、同古銭会が東洋貨幣研究会に改組されてからは第36号まで貨幣誌の編集主任を勤めています。
鷲田の時代は田中啓文をはじめ
貫井銀次郎、山本右衛門、三上香哉などそうそうたる人物が泉界に台頭してきていましたがその中でも鷲田は一頭地抜けた指導者的な存在であったようです。
田中との関係は顧客と貨幣商の関係を超えたものがあり、東洋貨幣研究会の成功は彼の力が無ければできなかったと啓文も記しています。
しかし、晩年においては何事も強引に進めようとする啓文と意見がしばしば衝突し、最後は距離をおいて後継育成に力を注ぐようになりますが、完全に関係が冷え切っていたわけではなかったようです。
青寶樓こと小川浩が彼の弟子であることは有名で、小川の比類なき鑑識眼は本人の努力、才能だけでなく鷲田の指導によるものであることは間違いありません。鷲田も小川を自分の家に招き我が子のように目をかけて可愛がったそうです。
そんな鷲田ですが身体的には頑健ではなく、関東大震災で被災した苦労もあり、父同様40歳代の若さで結核で亡くなっています。
掲示する写真は鷲田が亡くなる1週間前に泉友の
偕空庵 松田勇(→ 贋作者列伝)が撮影したものと云います。それだけ急な死だったのだと思われます。
(肖像画像は復刻版銭幣館第4巻から借用)
 
日銀コレクションの基礎を作った孤高の大コレクター
田中啓文銭幣館 田中啓文(田中謙 邦泉 清岳堂) 
1884年(明治17年)~1956年(昭和31年)


1884年に東京、芝の白金台の貧しい家に生まれています。生後間もなく父親(四国 松山藩出身)が創業した事業(皮革加工業)が当たり、陸軍の御用商人となったことから一転裕福な生活となったようです。子供の頃から古銭収集に親しみ、新井瓢九のお店に通って古銭収集、研究に没頭するようになりました。
1902年(明治35年)に
三上香哉などが主催する大日本貨幣研究会に入会、その後1906年(明治39年)に東京古泉協会に入会して収集、研究も本格化しています。
1918年(大正7年)協会が
東洋貨幣協会に改組されたのち、2年後には3代目会長に就任しています。
1923年(大正12年)に所蔵品を展示したレンガ建ての
銭幣館を自宅に建設しています。そのときの番頭格が震災ですべてを失った三上香哉であり、貫井銀次郎二世宝泉舎、鷲田呆泉(信一)、文久童山本右衛門などの仲間にも恵まれ協会発展に尽くしています。
しかしながら、
平尾賛平の要請により三上を平尾邸に派遣するようになった頃から、三上との関係が悪化し、1930年(昭和5年)頃に三上は田中の元を去っています。
田中は三上に対して敵意にも似たライバル心をたぎらせ、以降は田中、平尾が日本を二分するような勢いで古銭収集を行っています。田中と平尾の競争関係は、貨幣界におおいなる隆盛期をもたらしましたが、その一方で過剰なるまでの敵対感情は、しばしば相手の論を否定するためだけの不毛な論争・悪しき風潮をも泉界に生み出しています。
田中と平尾の違いは、平尾があくまでも収集家の域を超えられなかったのに対し、田中は収集家でありながら日本有数の研究家でもあったことでした。(ただし、 田中の執筆物と言えるのは
銭幣館と貨幣誌上の言論記録だけで、このことについて青寶樓 小川浩も、もう少し残して欲しかった旨の寄稿を82年ボナンザに記しています。)
田中の収集は貨幣だけでなく藩札、資料などから贋作資料にまで及んでいて徹底しています。銭譜記録としてはほとんど残さなかったものの現物資料としては日本一のものであり、他の追随は許さなかったようです。鑑定眼もたしかなものとなり他の追随を許さない地位に名実とも担っています。

戦火の激しくなった1944年(昭和19年)春、(本業は軍需工場でもあったので)田中は行く末を案じてすべてのコレクションを日本銀行に寄贈しています。1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で自宅はほぼ焼けおち(レンガ建ての銭幣館は焼失を免れる。)、1946年(昭和21年)には噂を聞きつけた占領軍が国家賠償として収蔵品の没収に来たそうですが、事前に日本銀行に寄贈してあったことなどから、収集品の海外流出と散逸は免れました。現在、日銀にあるコレクションの多くは田中の収集品であったそうです。
主著、銭幣館は貨幣への寄稿記事などをまとめて戦後(1950年:昭和25年)発刊したもので、44号で(1954年:昭和29年)田中が没した後は、
青寶樓 小川浩が引き継ぎ、56号(昭和31年)まで発行が続けられています。
なお、三上が田中の元を去った後に仕えたのが、三上の甥にあたる
郡司勇夫(日本貨幣協会元名誉会長)であり、彼は銭幣館の収蔵品寄付に伴い、その整理のため日本銀行に就職しています。
(肖像画像は復刻版銭幣館第4巻から借用)

主な出版物・著作
銭幣館

※親分肌でわがままで強引なところもあったため、彼の周囲には人の出入りが絶えません。ライバル・泉友の藤井は収集界から早く引退し、親友であった鷲田呆泉とはしっくりいかなくなったまま死別、温情で主事として迎え入れた三上香哉には裏切られ、貫井銀次郎とはなんとなくぎくしゃく・・・家族同然であった文久童は終戦前後から仲たがいして絶交しています。最後まで忠誠を通したのは三上の後から入り主事となった郡司勇夫と、業者として忠節を守った小川青寶樓ぐらいでしょうか?
田中の晩年は決して幸せとはいえませんでした。長男の事業の失敗により家屋敷、すべての財産を失って失意のうちに亡くなっています。
 
日本銀行貨幣博物館 (銭幣館コレクション)
田中啓文は、昭和のはじめ頃から銭幣館コレクションの行く末を案じていて、やがてその全点を日本銀行に寄贈することになりました。彼が寄贈先として日本銀行を選んだことは、彼と日本銀行総裁結城豊太郎との関係がその背景にありました。結城は山形県米沢の出身で、田中の妻の父と同郷という関係から、交流が深まり、さらに田中は、結城を中心とする若手実業人の集いである臨雲会のメンバーでもありました。結城は、総裁就任後に田中とコレクションの処置について、しばしば話し合っていたといわれます。結城の後をうけて日本銀行総裁に就任した渋沢敬三は、昭和17年(1942)7月に、日本銀行文書局長、発券局長、さらに土屋喬雄東京大学教授を同伴して、田中啓文宅を訪れて、長年にわたって収集されてきた銭幣館コレクションの保存のため、日本銀行への移管を決意させました。昭和19年(1944)12月に銭幣館所蔵品の大半が日本銀行に搬入され、翌20年1月に付属的な資料の搬入が行われて、12万点あまりの銭幣館コレクションの日本銀行への移管が完了しました。
接収後にCHQが戦後賠償のため田中のコレクション没収に動いたことは有名なことで、「展示して研究のために公開」することを条件に募集を免れました。背景には渋沢、そして郡司などが日本の文化遺産を守るために熱心に働きかけたことがあったと思われます。
現在の収蔵品は銭幣館コレクションとあわせ20万点あまりあり、そのうち約4000点が展示されているそうです。
 
幻となった記念一圓銀貨
真鍋儀十東泉 真鍋儀十(蟻十) 1891年(明治24年)~1982年(昭和57年)

真鍋儀十(まなべぎじゅう)と聞いてもピンとこない方が多いかもしれませんが、納税額に関係なく選挙に参加できる普通選挙を実施する「普選運動」の旗手として大変有名な政治家です。(最後は自由民主党)
長崎県壱岐郡(玄海灘に浮かぶ壱岐島)出身で、大学在学中から普選運動にかかわり、六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)立憲民政党公認で衆議院議員総選挙に立候補し初当選(しかもトップ当選)しています。
この儀十先生、非常に多趣味な人でとくに俳句の世界では松尾芭蕉研究でその名を知られ、高浜虚子に師事し、そのコレクション資料は深川の芭蕉記念館に展示されているほどです。(蟻十は俳句の号)また、泉号の東泉は選挙区が東京の東区であることに加えて「当選」をもじって
田中啓文が名づけたそうです。
日中戦争のさなかの1937年(昭和12年)田中啓文のもちかけた傷痍軍人救済のための「愛国記念貨幣」に賛同して政界を奔走、量目9g、品位800/1000、発行枚数2000万枚という案のところまで決まりながら銀の高騰などもあり素材調達の問題からこの記念貨幣は幻に終わってしまいました。
古銭収集家としての真鍋は昭和5年頃にはすでに
銭幣館に出入りしていて、小川青寶樓のお店の常連でもあったようです。政治家は夜の活動が多く、昼間の余暇活動として古銭集めをはじめたとのこと。また、郡司勇夫とは特に親しく接したようです。
政界を巻き込んだ汚職事件(売春汚職事件)・・・名前だけを聞くとみだらなスキャンダルのように感じますが、要は売春防止法阻止にかかわる献金(工作資金)の違法性をマスコミや検察が暴き立てたもの、今なら違法捜査を問われるかも・・・で有罪判決を受けて、1960年に政界を引退しています。
東洋貨幣協会では多忙な中でも理事を務め、東京大空襲によってすべての収集品が灰燼に帰してもくじけずに収集を続け、昭和31年には新しく改組された日本貨幣協会の副会長にも推挙されています。(自宅には万一の火災時には収集品が池に落ちる仕掛けも作っていたそうですが、残念ながら戦災の時には池が枯渇していて役に立たなかったそうです。)
また、戦後は自宅の庭で幼稚園経営(まなべ幼稚園)をはじめていて、発足当時の貨幣協会の例会もしばしば行われていたとのことでした。ビリヤードを風俗営業法の適用からはずし、スポーツ・ゲームと位置づけたのも彼の功績です。
(写真の銅像は故郷の壱岐芦部町に建てられたもの)

 
明治~昭和を駆け抜けた古泉界の怪物カリスマ
小川浩青寶樓 小川浩 1896年(明治29年)~1988年(昭和63年)

新潟県長岡出身。11歳のとき奉公のため湯島の塚田質店に勤める。お礼奉公が終わったあとはいわゆる道具屋(古物商)で生計を立てたそうです。道具屋といっても骨董、古美術と古民具を扱っていたそうです。1917年(大正6年)に古銭も取り扱っていた新潟出身の道具屋の大竹寅吉(鉄泉堂)と知り合い、古銭を扱うようになります。その後、大竹の師匠であった二世宝泉舎 鷲田呆泉(信一)にも弟子入りし、本格的古銭商を目指すようになります。分類を覚えるために青貨堂貫井銀次郎に師事し、基礎を叩き込まれます。やがて銭幣館 田中啓文への出入りを許されるようになり、花林塔 三上香哉文久童 山本右衛門などと交流を持つようになり、大泉家への道筋を歩むようになります。小川は鷲田亡きあとの古銭納入業者として田中にもかわいがられましたが、そのため(小川以外を納入業者として推薦していた)文久童との仲はしっくりいかなくなったようでした。
お店は湯島天神下にありましたが、昭和20年の東京大空襲でお店を失い、東京郊外の田無に転居。以降は古銭の斡旋業と出版を軸に生計を立ててゆくことになります。
(ほかに副業として木工場の経営もされていたそうです。→廃業)
戦後、田中啓文の呼びかけでできた
国光古泉会に参加、その後日本古銭研究会をつくり会報「古泉」を24号まで発行しました。国光古泉会は田中没後解散しかけましたが、東京古泉会と名称を変えて継続させ、さらに日本古銭研究会と合流一本化して、日本貨幣協会を設立すべく中心的に奔走しています。
古銭斡旋では各銀行の貨幣展示室をつくる事業ブームに協力、富士銀行、三和銀行、大和銀行、東海銀行などにコレクションを斡旋しています。また、昭和24年以降に日本銀行や大蔵省の嘱託で古金銀の鑑定の業務に従事しており、このときに古金銀の鑑識眼を養ったと思われます。
小川のすごいところは一介の古銭商でありながらも研究にも熱心であったところで、その執筆文物発行が古銭界にもたらしたものは非常に大きいものがあります。また、銭商にありながら贋作の排除に熱心であり、研究のために贋作品も熱心に収集していたということです。
青寶樓の泉号の由来は、敬愛する先輩古泉家から自分で名づけたそうで、青は
青貨堂 貫井銀次郎、寶は二世宝泉舎 鷲田呆泉(信一)、楼は虎僊楼 下間(しもづま)寅之助から頂戴したそうです。(貫井の論理性、鷲田の鑑識眼、下間の商才を目標とした。)
業者としてのイメージよりは研究家のイメージの方が強いのはやはり執筆物の多さによるものだと思われます。
日本貨幣商協同組合に尽くした太田(睦原)保の葬儀の席のとき、郡司勇夫の批判的弔辞に対し異を唱えて以降、日本貨幣協会の例会から遠ざかっていたようですが、裏を返せば義に厚い一徹な方だったのだと思われるのです。日本貨幣協会とは距離を置きましたが籍は抜かず、一方で若手を育成するために多加良会を王子駅近くの音無川温泉で開催したそうです。また、再び日本古泉研究会を立ち上げ(後に東亜貨幣協会を立ち上げて移管)会誌「古泉」を復刊したこともありました。亡くなったとき収集誌上で何回も追悼特集が組まれています。
自宅には大きな酒樽の古銭研究室があったそうです。
(肖像画像は月刊天保銭89年2月号から借用)

※小川が古民具(当時はゲテモノとさげすまれていた)を扱うようになったのは、骨董に関する目が利かなかったから・・・それと当時東京都内に古民具を扱う店が皆無だったからと言うのが理由。その結果、この目論見は当たり、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司氏など当代一流の文化人が店に出入りしていたそうです。

主な出版物・著作
天保銭図譜 古泉(定期刊行誌) 昭和改訂寛永泉譜 昭和古銭価格図譜 寛永通寶銭譜 日本貨幣図史(全10巻) 
古銭の蒐集 日本の古銭 東洋古銭名鑑 日本古貨幣価格図譜 開元通寶泉譜 古貨幣価格図譜 新訂天保銭図譜 
新訂北宋符合泉志 日本古貨幣変遷史 新訂皇朝銭図譜 など

 
大コレクターにして偉大なる経営者
大川鉄雄天顕堂 大川鉄雄 1897年(明治30年)~1975年(昭和50年)

大川は埼玉県入間郡坂戸町に生まれ、早稲田大学理工学部に学んでいます。この頃のコレクターにありがちな財界の大物には違いありませんが、彼は一貫して製紙業界のトップに君臨していた、名実ともに超大物なのです。早稲田を卒業の年にはすぐに東京板紙(株)取締役、その後も九州製紙、樺太工業、王子製紙、山陽パルプなどの取締役や社長を歴任。最期も日本フィルト(株)の社長在任中でありました。
とにかく多趣味な人ですが、すべてに徹底して極める姿勢を持っており、将棋、囲碁、熱帯魚、天体観測など多岐に渡りました。郵便切手収集にも熱中してつとに有名でしたが、その後は穴銭の魅力に取りつかれて
佐野英山の手引きで大コレクションを形成するに至りました。師は陸原忘庵で、当時陸原は日本一の寛永銭コレクターとの呼び声高い方でした。その後は、小川青寶樓との交流、取引を通じて東洋貨幣協会(現在の日本貨幣協会)に入会。田中啓文も大川には一目置いたようです。
日本貨幣協会の初代会長にもついて業界の発展にも尽くしました。根っからの雑銭好きで、選銭は千数百貫にも及んだといいます。泉号の天顕堂は中国は遼の珍銭。日本には一品しか存在しないもので、これはわざわざ小川を中国にまで派遣して買い付けた逸品だといいます。その財力は戦前の田中、平尾にも匹敵するほどだったと言われています。コレクションも天保銭や符合銭については
田中銭幣館をしのいだと言われます。
しかしながらこの一大コレクションも銭幣館同様、死後は文化庁(国立歴史民族博物館:千葉県佐倉市)に寄贈されてしまい現在はほとんど見ることは出来なくなってしまっています。
ただ、これだけの精力的活動をした大家でありながら大川の執筆文物はあまり残っていません。彼は自己研鑽しながらも根っからのコレクターだったのでしょう。あるいは人から批評を受ける様な事を避ける慎重な性格だったのかもしれません。天保銭以外にも
一豊舎伝来の符合銭のコレクションなどすばらしいものを保有していたそうです。今では各種銭譜の拓に残る天顕堂の印影だけが輝きの存在の証明を示すばかりです。
大川の死によって、成島柳北にはじまる社交型(財閥型)収集家中心の古銭会の時代は終わった気がします。これ以降は庶民を対象・意識した古銭ブームの仕掛け人たち続々と登場することになります。
(肖像画像は収集78年11月号から借用)

※75年ボナンザ誌において、大川が古銭収集を始めたきっかけとして芝の太田角三郎の話が掲載されています。符合銭は守田寶丹旧蔵のものを中村不折を経由して入手していたそ入手うで、この分野での鑑定眼は第一人者であったとのこと。また、小川青寶樓が天保銭図譜を著すにあたっての最大級の功労者が大川でもあったようです。物静かな紳士でありながら、ものを見る眼は確かで、微細変化を見抜く鑑定力と言う意味では田中銭幣館をしのぐ存在でもあったそうです。

※天顕堂の名の由来は遼の珍銭天顕通寶の入手の慶事がきっかけ。大川の注文を受けて日本に持ってきたのは小川青寶樓で、日華事変の直後の大変な時期だったそうです。
 
ブームの仕掛け人、日本貨幣カタログの生みの親
太田保万国貨幣洋行 二世忘庵 陸原保(くがはらたもつ:太田保) 
1908年(明治41年)~1987年(昭和62年)


渋谷宮益坂のはずれに「趣味の店 万国貨幣洋行」という看板のかかったお店がありました。大学生時代バスに乗っていてこの看板を見つけ、思わずバスを降りて確認に行った覚えがあります。お店には大きなショーウィンドウがあり、その中央に土佐通寶の200文と中国銭の銭笵があったことを鮮明に覚えていますが、おそらくこの時代が太田の最晩年の頃だったのだと思われます。これが万国貨幣洋行の渋谷店(本店は世田谷の若林)でした。
本店は普通の民家で、家中に古銭を入れたざるがうず高く積み上げられていたそうです。
陸原(太田)保は 東京都は芝の生まれ。古銭収集は中学時代から始まっていて、作新学院の前身にあたる下野中学からから国鉄へ就職し、全大宮チームの捕手として都市対抗に4回も出場したそうです。その後は軍隊生活15年も続けたという頑健な体が自慢でした。
太田は昭和10年ごろに寛永銭コレクターの
一世忘庵 陸原貞一郎(日暮里の人、後に浦和に転居。昭和15年没:写真左下)と知り合い、公私とも何かと世話になりその結果、昭和25年、陸原家に夫婦養子に入りしてそのコレクションと研究を継ぐことになります。
陸原貞一郎戦後、昭和20~24年、銀座にクガハラスタンプを出店しましたが、その後は拠点を世田谷に移し通信販売を手がけました。昭和23年にはガリ版刷りで万国貨幣カタログをつくました。これは後に日本貨幣商協同組合に版権を移し、日本貨幣カタログとして現在に至っています。
1951年(昭和26年)、世田谷若林の自宅兼店舗(松陰神社付近)で古銭の交歓会をはじめました。
古くから師のひとりとして指導を受けていた
山本文久童をはじめ安達呑泉などそうそうたるメンバーが集まるようになり、忘泉会も発足、会誌恋泉を発行します。これらは後に細道の会に発展することになります。確かな鑑識眼で地方に眠るコレクションの発掘も手がけたそうです。
また、古銭ブームをしかけるべくあらゆるジャンルの古銭書の出版を手掛けます。太田の場合、自分で記述するのではなく、仲間の古泉家に依頼して泉譜を作成してもらい、その版権を譲り受けて出版するスタイルが多く、その代表作が
佳泉庵 小川吉儀による天保通寶鑑識と手引き  新寛永銭鑑識と手引きでしょう。この2冊は当時最も普及した穴銭の泉譜で、私がはじめて購入した泉譜も新寛永銭鑑識と手引きでした。 また、東洋古銭価格図譜に代表されるように古銭の評価を現行価格表示したのも彼のアイデアです。先代から引き継いだ課題の一応の完成を果たしたと考えたのでしょうか、1960年(昭和35年)には戸籍上、太田に戻りますが、その後も陸原姓はペンネームとして使い続けています。東京オリンピックの記念硬貨実現にも一役かかわっているそうで、自費でパンフレットをつくるなど数年間にわたる猛運動はついに時の総理大臣池田勇人をも動かしたそうです。(厚生大臣の小林英三氏がコイン好きだったそうで、そこから突破したようです。なお、陸原は皇太子ご成婚記念コイン発行も画策したそうです。)昭和の古銭ブームは陸原なくしては起こらなかった・・・といっても過言ではない気がします。
1966年(昭和41年)日本貨幣協同組合の結成のときにも中心的な役割を果たしています。これにより、国に貨幣売買というものが正式に認めらることになり、それまで外国為替法の問題で海外の現行コインを売買したり、大量保有することが実質違法だったのが、(当初は30ドル以内という制限はあったものの)合法化されたのです。
しかしながら、古銭書出版というものは決して大きな利益を生むものではありません。経営的に安定したのは現行コインアルバム(現行コインを年号別に揃えるようになっているもの。私も熱中しました。)がヒットしたことによるもので、出版業は苦労の連続だったようです。
そのために結果として経済的な損失をこうむってしまった方もいるのですが、彼がなしてきたことに対する評価は高く、その人柄もあって憎めない存在であったようです。なかでも組合の発展に寄与するため、当時のお金で100万円も寄付していることや、組合に日本貨幣カタログの版権を譲るなど、太田は自己利益というよりも業界のために最後まで働いたといえる存在でもあります。
(肖像写真は収集から借用)

※調べていて、一世忘庵の死去年と太田の陸原家への養子入りの年に大きなずれがあることが判りました。年号に誤りがある可能性がありますが、判明するまでしばらくはこのままにしておきます。

主な出版物
日本古金銀価格図鑑 日本通貨変遷図鑑 日本紙幣大系図鑑 天保通寶鑑識と手引き 新寛永銭鑑識と手引き
万国古銭型録 日本紙幣型録 古銭入門百科 東洋古銭価格図譜 絵銭譜 絵銭の相場 古銭利殖入門 儲かるコイン全ガイド
日本金貨原色図鑑 最新日本紙幣在外銀行軍票図鑑 

 
銭幣館時代の証言者
郡司勇夫淘泉坊 郡司勇夫(淘泉) 1910年(明治43年)~1997年(平成9年)

郡司勇夫は神田の煙草問屋鴻野屋の次男として生まれました。しかも父親の親族に
平尾賛平が母方の伯父には三上香哉がいるという古銭家の道を歩むべくして生まれてきた方です。伯父さんの誘いで古銭に興味を持ち、10歳の頃から三上に伴われて銭幣館に出入りして1930年(昭和5年)、20歳のときに三上と入れ替わるように田中啓文に直接師事しています。1941年(昭和16年)には東洋貨幣協会の幹事となって貨幣の編集に携わるようになります。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)、戦火でコレクションが焼失することをおそれた田中が日銀総裁の渋沢総裁と諮り、すべてを寄贈することにしたときには学芸員として日銀に郡司が行くことになりました。そして1945年から嘱託職を辞するまでの50年間を日銀職員として勤め上げています。
当時、銭幣館のコレクションは世界的に有名で、進駐軍もこれを接収すべく動き出しましたが、貴重な資料を含むコレクションが海外流出してしまうことを危惧した郡司等が折衝した結果、「一般に公開して研究する資料とするなら日本に残す」条件を取り付けたことは有名なお話です。しかしながら膨大な資料を整理するのは容易ではなく
「日本銀行貨幣博物館」として開館・一般公開するまで30年の月日がかかっています。このコレクションをもとに作成出版したのが「図録 日本の貨幣」です。1949年(昭和24年)には大蔵省鑑定人として小川青寶樓とともに連合軍が接収した大量の大判小判金貨類の鑑定に当たりました。
1957年(昭和32年)の日本貨幣協会発足時には理事になり、1969年(昭和44年)には副会長に就任。1988年(昭和63年)に
小川吉儀会長が亡くなったときには会長就任の要請が周囲から強くあったにもかかわらず固辞し、会長空位・・・副会長のまま事実上協会を主宰していました。
1991年(平成3年)に名誉会長となりましたが、古銭会の辛口ご意見番として収集誌上に数々の連載記事を持つなどその活動は老いてもなお盛んでした。
曲がったことが大嫌いの頑固者、ときには子供っぽくて思ったことは堂々と口に出す性格で、晩年は周囲と軋轢を生むことも多かったようですが、これは江戸っ子気質・・・あるいは伯父の三上香哉、あるいは師である田中啓文の形質を引き継いだからなのかもしれません。銭幣館に勤めた頃はあえて田中との競合を避けて切手収集の世界に入ったように、本質は前に出る性格ではなかったようです。郡司が日銀に勤めていたからこそ当時の会員達は銭幣館のコレクションを手にとって見ることが出来たと聞きます。
その存在がなくなってしまった今、銭幣館のコレクションを直に見ることがほぼ不可能になってしまったことが惜しまれます。
(肖像画像は収集86年10月号から借用)

主な出版物・著作物
図録日本の貨幣 日本貨幣図録
 
図説日本の古銭収集と鑑賞の手引き(共著) 

※2010年の銀座コインオークションに出たある品物が、大評判になりました。本来市場に出るはずのないこの品物を持ち込んだのが郡司氏だったらしいのです。
 
手引きの著者は超ゼネラルコレクター
小川吉儀佳泉庵 小川吉儀 1910年(明治43年)~1988年(昭和63年)

小川吉儀(おがわよしのり)の出身は茨城県。1954年(昭和29年)、貴金属店で一分銀が目方売りされているのに哀情を抱き、収集の世界に入ります。
かなりのゼネラルコレクターとし知られ、収集の初期は金銀もの、そして外国銭、皇朝銭、寛永銭、天保銭、歴代銭、藩札、紙幣、中国紙幣とそのジャンルは次々に変化しています。
陸原保に頼まれて著した
新寛永銭鑑識と手引き 天保銭の鑑識と手引きは有名ですが、 藩札の収集・研究についてもボナンザから発刊された藩札図録に研究成果として現れています。私生活も同様で学生時代は相撲部でならし、年を重ねても演劇、声楽、俳句、焼き物収集とあらゆるものに興味を持って精力的に取り組んでいます。その頑丈で大きな体格と精緻な記憶力から古の大研究家、近藤正斎に例えられたこともありました。
1969年(昭和44年)には日本貨幣協会の会長に推挙されています。(インク塗料などのメーカー大日精化常務取締役でした。)
(肖像写真は収集から借用)

主な著作物・関係図書
新寛永銭鑑識と手引き 天保銭の鑑識と手引き 藩札図録(監修)

 
夢の極楽殿はいずこに・・・
博泉 野村志郎 1911年(明治44年)~1994年(平成6年)

もともと野村家は群馬県伊勢崎市で本陣を構えていた素封家でした。古銭の世界では日本貨幣教会の副会長でしたが、社交ダンス(全日本選手権優勝者)、フィギアスケート(池袋アイススケート連盟理事)、水石収集(全国愛石協会理事・全日本菊花石会副会長・日本水石協会相談役)、経済評論家としても活躍した多芸、多趣味人でした。古銭は曾祖父が集めていたものを子孫が代々引き継いだ結果、膨大なコレクションになった経緯があるそうです。
しかしながら本業は戦前から東京品川に開業していた産婦人科医で医学博士の称号も持っています。コレクションを引き継がす子供がいなかったので、故郷に私設博物館を作って一般公開する決心をしたそうです。
それが群馬県伊勢崎市にあった私設貨幣博物館兼神社の野村記念博物館極楽殿で、現地では観光名所でもありました。
以下に、インターネットで発見した極楽殿に関する情報を引用掲示します。(→ 伽羅倶利道中夢草子

群馬県伊勢崎市に個人で産科医の野村氏が立てた博物館兼、神社であった。いまから15年以上昔、私は行って拝観したことがある。竜宮作りの極彩色の大極楽殿がそびえたち、その前庭には、延命の井戸とか長寿の洞窟、さらには銭洗いの清水などもあり、そこで私は小銭を洗った覚えがある。極楽殿は宝物殿となっていて、館内には天正大判、慶長大判、元禄大判など、の大判コレクションがなんと、10数枚もありそれが異彩を放っていた。その他古銭の大コレクションが所狭しとならべてあったっけ。
当時何でも日銀の貨幣博物館、東海銀行貨幣博物館に次ぐほどの貨幣博物館と紹介されてテレビのワイドショーにも出たはずだ。他にも以下のような恐竜の卵、古代ガラスなどの多彩なコレクションが展示されていた、はずだった。
それが15年ぶりに、今日行ってみたら、なんと、全く影も形もなく消え去っていたのである。まったくなにもないのである。一体どうなってしまったのか?
極楽殿のあったはずの所にはなんとコンビニが出来ていた。番地はどう見てもそこなのである。しかしない。極楽殿がない。コンビにしかないのである。
一体、あの壮麗な極楽殿は何処に消えたのか?そしてあの大判10数枚を含む偉大なコレクションは何処へ?
以下にネットで調べた資料がある。電話も載っているが私はそこに電話する勇気もないのである。なぜって、その場所にはもうなにも存在しないのだから。
あの朱色の大極楽殿は何処に?きえたのだろうか?長寿洞も、延命の井戸も、銭洗い弁天も、一体何処に?

仙元神社内極楽殿(江戸時代の銭刀、中生代7000年前の恐竜の卵の化石、東洋古代ガラスの展示)
野村記念博物館(野村志郎コレクション。個人が収集した国内外の貨幣古銭などを陳列)
貨幣博物館(世界各国の貨幣およそ10万点を展示。仙元神社境内)
【名称】仙元神社内極楽殿
【住所】群馬県伊勢崎市柴町535
【電話】0270-32-2780
【交通】JR高崎線本庄駅から伊勢崎行きバスで名和小学校前下車,徒歩15分
【開館】9:30~17:00
【概要】江戸時代の銭刀
中生代7000年前の恐竜の卵の化石 東洋古代ガラスの展示


野村は仙元神社の宮司に天保堂 瓜生有伸を指名していましたが、その逝去とほぼ時を同じくして仙元神社は取り壊されたようです。(96年3月の収集に関連記事があります。極楽殿はその後に取り壊されたようです。画像は仙元神社が取り壊されたあとに残った極楽殿。神社跡はすでに駐車場になっていたそうです。)後継者のいなかった野村氏の資産が国庫に接収されたのか、あるいは相続した者による処分なのかは定かではありませんが、天界の野村はさぞかし無念だったと思います。
なお、日本の絵銭(赤坂一郎著)に収録されている絵銭の多くが野村の所蔵品でした。収集の内容は本人も把握できないほどであったということですからそのスケールの大きさが推して図れます。それにしてもコレクションはどこに消えたのかしら・・・。

 
第二の銭幣館を目指して…
田中桂治倉田屋 田中桂治(桂寶) 1918年(大正7年)~1977年(昭和52年)

杉並区阿佐ヶ谷の商店街に倉田屋さんのお店はひっそりとありました。昔は質屋ということもありお店はその面影を良く残していました。学生時代、貨幣カタログに掲載されていた倉田屋さんの住所をもとに一度だけ訪問したことがあります。(平安通寶を購入しました。)
私にとって桂寶 田中桂治氏はどちらかというと地味なイメージがあります。と、いうのもコレクターの目に触れる古銭の書らしきものは桂寶知命泉譜ぐらいしか知らないからです。
ところが、業界の中において田中の存在は非常に大きく、
ボナンザにおいて訃報特集が組まれたほど・・・それだけ業界にとって偉大な人物だったのだと思います。小川青寶樓の後を受けて1960年から日本貨幣協会の事務所を引き受けやがて理事長に就任されていますし、日本貨幣商協同組合においても2期に渡って理事長もを引き受けています。亡くなったのは日本貨幣協会理事長在任時(日本貨幣商協同組合副理事長)で、金沢で行われる古銭大会への出席のための移動列車中というショッキングな出来事でした。
彼は古銭商になる以前は一介のコレクターでした。15歳のときに祖母からもらった絵銭に興味を覚え古銭を集めるようになり、1937年(昭和12年)ごろには古銭会に顔を出しはじめ
文久童小川青寶樓にも指導を受けています。1949年(昭和24年)に質屋を開業し、3年後には古銭も販売するようになります。はじめは贋作をずいぶんつかまされたようですが趣味の世界から入り骨董、古銭売買の世界に入ったのが後ということで、田中はコレクターと古銭商の2つの顔を持つことになります。
それはまた売るための品とコレクションの品を完全に分けていたからだと思われます。田中のコレクションの中には
関根宗輔翁を通じて手に入れた平尾賛平の収集品が数多く含まれていたそうで、また各地の交友によってコレクションはさらに充実して行ったようです。コインブーム華やかなりし頃、田中のコレクションは各地の展示会に引っ張りだこでした。それだけ田中の人柄が信用に厚く、またコレクションも展示鑑賞に値するほど幅広くすばらしかったのだと言えます。田中は「第二の銭幣館」目指していたのだと思います。銭幣館 田中啓文は田中桂寶をを同姓と言うこともありとても可愛がり「この人は絶対抜きん出る人だ」と周囲に漏らしていたということです。収集によって研ぎ澄まされた鑑定眼も確かであり、文久童翁も「古銭は阿佐ヶ谷で買えば間違いない」と賞するほどでした。

※桂寶と青寶樓の出会いのお話・・・初めて会った頃、桂寶は青寶樓に自分のコレクションを見せて評価してもらおうとします。しかしながらほとんどがひどい贋作。青寶樓は正直にそのことを告げると桂寶は落胆して肩を落とします。最後に一つだけ見て欲しいと言って桂寶が持ってきたのが大黒括袴丁銀でした。それは各種の泉譜を飾るような名品でした。その大黒括袴丁銀との出会いが無ければ桂寶はここまでの人物にはならなかったかもしれません。
(肖像画像は収集78年11月号から借用)

※その括袴丁銀入手のお話。これは昭和23年頃に宮家から出たコレクションを風呂敷包みのまま購入したもののなかのひとつ。中には元禄十二面丁銀から括袴丁銀まであらゆる種類の丁銀がすべて揃っていたそうです。当時の金額で8万円だったそうですが、親戚中からお金をかき集め、それでも足りない分は待ってもらって購入したそうです。
(ボナンザ75年9月号記事より)
 
絵銭譜を著した辛口評論家
小泉健男穂泉 小泉健男(尚覚) 1921年(大正10年)?~2004年(平成16年)

穂泉 小泉健男氏の人物像については私はほとんど知りません。しかしながら絵銭に関して不滅の参考文献といえる絵銭譜(乾・坤)を著した人物、また銭幣館時代を知る最後の人物として取り上げさせて頂きました。
小泉は
田中啓文が中心となって結成された国光泉会の発足直後にはすでにメンバーの一人になっていたと思います。そこで小泉は田中から古銭研究のイロハを徹底的に叩き込まれます。
一方で田中が
絵銭と限界と称する記事を書き、絵銭収集に対しての批判的態度をあらわしていたのに対し、小泉は最後の研究対象として絵銭を捕らえていたように思われます。したがって小泉は寛永銭の基礎的研究から入り次第に絵銭を専門的に収集するようになっています。
絵銭譜(乾・坤)は彼のライフワークの集大成でした。それはまた師である
山本文久童が「(絵銭の参考書は)そのうち小泉が書くことであろうよ」と太田保に予言したことの実現でもありました。
今日、絵銭の研究は贋作手法の研究にもなり、絵銭譜にある贋作製法や贋作者の解説は絵銭収集に興味は無くとも大変参考になる書であると思います。
また、収集誌上においても
郡司勇夫との後を引き継ぐように辛口の論評で紙面をにぎやかに飾っています。彼の言葉は「田中啓文だったらこう考えただろうなぁ」といった趣があり、まさに銭幣館時代の最後の生き証人であったと思います。なお、絵銭譜は万国貨幣洋行から出版されていますが、その廉価版と言うべき絵銭の相場という書も同じ万国貨幣洋行から出版されています。

主な著作
絵銭譜(乾・坤)


 
あの人は今・・・
本庄時太郎本庄時太郎 1924年(大正13年)~2003年(平成15年)

この方は私にほんの少し接点のあった方です。
秋田県能代市に生まれサラリーマン時代から骨董収集に興味を持っていました。昭和40年に脱サラし、東北各地を巡り歩き骨董収集と売買を手がけています。古銭は穴銭・・・特に天保銭に強く、常時5000枚は収集して天保銭の本庄との異名をとったそうです。1970年代後半には収集誌上に天保銭の記事を書かれています。
温厚な人柄で多くの古泉家を育てました。
村上英太郎氏など現在の古銭会の重鎮と知己が多いようです。1973年(昭和48年)から神田で営業。1982年(昭和57年)には川崎で営業。実はこの時代に私は氏のお店に通っています。
私は決して良いお客ではありませんでしたが、ご主人、奥様とともににこにこしながら色々とお話をして下さいました。「天保銭図譜に載っているもののほとんどは自分がかつて持っていたものだった」・・・と懐かしそうに目を細める姿がとても印象的でした。
扱った骨董・古文書は江戸東京博物館などの多く公営博物館に収蔵されているそうです。晩年は千葉県(私と同じ県)に移住していました。
2000年、ある雑誌(銭の道)に本庄の写真記事が載っていてはじめてこの方の経歴を知りました。
また、ご家族が何でも鑑定団に2006年5月に出演されたことにより、再び思い出すことになりあわせて他界されたことを知りました。(合掌)
(肖像画像は銭の道裏表紙から借用)

大西敏弘 
1925年(大正14年)?~1989年(平成元年)
大西敏弘同じように私とわずかながら接点があったと思われる方に、千葉県木更津の
大西敏弘氏が挙げられます。当時、かの地の学校に通学をしていた私・・・駅前の百貨店に小さなコイン売り場が出来て、暇があればお店を訪れて眺めていました。そのショーウィンドウに珍しいことに天保銭が何枚かならべられていたのです。水戸大字、繊字などの基本銭の中に不知銭の刔輪張足寶タイプが1枚燦然と輝いていました。他にも見たこともないものが並んでいて、買えないながらも、楽しみにして通っていました。(売れていないことを毎回祈っておりました。)そんなある日、私は年配の紳士から「良く来ているね。穴銭が好きなの?」声をかけられたのです。何でもその人は地元では有名なコレクターだとお店の人にも聞きました。天保銭をたくさん集めておられるというお話も聞いたように記憶しています。間もなく刔輪張足寶は売れてしまったのか店頭から姿を消してしまい、がっかりした覚えがあります。価格は1万5000円ぐらいでした。
ほとんどあやふやな記憶ですが、月刊天保銭の記事を読み、この方が大西氏であったと確信しています。接点と言うよりすれ違いに近く、お姿すらもはっきり覚えていなかったのですが、逃がした魚の印象が強かったためでしょうか・・・妙に心に残っていました。1989年3月没63歳、2代目天保銭会会長でした。
(肖像写真は月刊天保銭89年8月号から借用)
 
数々の復刻出版を仕掛けた天保銭研究家
瓜生有伸天保堂 瓜生有伸 1931年(昭和6年)~1996年(平成8年)

1931年、福井県武生市の由緒正しい(福井県の県社)八幡神宮の神主の家に生まれた瓜生は、八幡神宮の四十二代目の神官資格保有者でもありました。家にあった古い文物・古銭に親しむ環境から、古物や歴史探求の素地ができあがります。國學院大學を卒業後に福井新聞社編集部に就職。ここで後の文筆出版活動を支える素地が形成されたように感じます。
そして1970年、趣味が高じてついに古貨幣売買と古銭関係書籍の出版を目的に
(有)天保堂を設立し、神職(群馬県伊勢崎市仙元神社宮司)との二足のわらじを履く生活がはじまりました。
小川青寶樓に師事して1989年には東京古銭倶楽部を主宰、天保銭研究会の会長として月刊天保銭を発行し、天保銭ブームを演出しました。天保銭については大橋義春にも学んでいます。
実は瓜生は文章記述の苦手な小川青寶樓の女房役として各種銭譜の編集作業を手伝っています。彼なくして青寶樓の偉業はなかったのかもしれません。
瓜生は師にならい、ボナンザ、収集に寄稿し、天保銭を中心とした各種の古銭関係書籍を出版、あるいは復刊しています。彼の働きにより古銭ブームが活性化したことは間違いありません。1990年には(株)GSC 
田宮コイン田宮健三社長とともに江戸コインオークションも共催しています。
しかしながら絶頂期にあった1994年に病に倒れ、1996年3月に亡くなっています。享年64歳。
青寶樓に続き、天保堂が古銭書籍を一般趣味世界に普及させる大きな役割を果たしたといっても過言ではありません。天保銭関係書籍はもちろん、復刻版の出版も非常に多いのが特徴です。残念ながら彼の死によって盛り上がっていた天保銭ブームが一時しぼんだ感があります。(肖像画像は天保通寶銭の研究から借用)

※仙元神社は産婦人科医師で古泉家でもある
博泉 野村志郎がオーナーでもあったようです。瓜生がいつこの神社の職を拝しそして辞したのかは定かではありませんが奇しくも瓜生が逝去した年にこの神社もなくなって(取り壊されて)います。なお、この神社には野村が集めた古銭を展示する宝物殿の極楽殿(野村記念博物館・貨幣博物館も併設)がありました。野村は赤坂一郎日本の絵銭を編集するにあたって資料提供するなど古銭界発展にも寄与しています。

※非常に遠縁ながら瓜生は
平尾賛平と縁戚関係にある・・・と収集誌に語っています。(姪の姑が平尾氏長男と従兄弟)

主な著作
天保銭事典 天保通寶の鑑定と分類 天保通寶母銭図録 琉球通寶図譜 日本古銭贋造史 不知天保通寶分類譜 絵銭・参考・贋造銭譜 往時古泉家芳名録 当百銭カタログ
(出版物・復刻版)
貨幣 麗悳荘泉譜 銭幣館 大橋儀春・天保銭研究分類譜 畫銭譜 文久永宝分類譜 島銭分類泉譜 など多数

 
銭を愛し、銭とともに消えた古銭研究者
増尾富房穴銭堂 増尾富房 (隷泉) (調査中)~2005年(平成17年)

増尾富房(ますおとみふさ)と聞けば私はすぐに古寛永泉志と答えてしまいます。収集をはじめたばかりのころ古寛永専門の分類テキストはほとんどなく、この本が私のはじめての古寛永テキスト・愛読書になったからです。
増尾は入札・研究誌
月刊銭貨を1970年から発行しており、毎週日曜日には新宿古銭会を開催していたそうです。住所は新宿百人町だったり小川町だったりしていますので何回か転居されたのかもしれません。当時発行していた泉貨はそれそのものがひとつのコピー泉譜になっているような入札誌でなかなか読み応えがあります。以降、彼は数多くの銭譜・参考書出版、販売を手がけ、収集普及に貢献しています。とはいえ古銭参考書籍出版はなかなか商売としてはうまみの無いもので、彼のお金にまつわる噂はあまり芳しいものではありません。

そんな増尾が
東洋鋳造貨幣研究所顧問として北海道に活動拠点を移したのは1992年秋のこと。後に商売をたたんだ・・・と言う本人の記述がありますので、貨幣商としては限界が見えたのだと思われます。
しかし、1998年(平成10年)10月に発刊された
江戸時代の古銭書(上)序文には退職をした旨の記述がありますので、それ以前に何らかの理由(おそらく方泉處内部の問題)で辞職されたのだと思われます。(注)
古寛永泉志もそうですが増尾の泉譜の解説文は簡潔ながらも的を射ており、非常に読みやすいのが特徴です。なかでも
新寛永泉志などは薄手のB5版の銭譜ながら非常に読みやすく、希少本でなかったらもっと活用したいと思う逸品です。古銭研究者としては超一流で穴銭の魅力を一般に広めるため、数多くの参考図書を出版した功労者ながら、その晩年は寂しく古銭仲間にも知らせずひっそりと亡くなられていたことが入札誌下町の記事に見られます。
方泉處に寄稿していた近世古銭家列伝は非常に良く資料を調べていて、このコーナーをはじめとする私のHPにも大きな影響と刺激を与えて下さいました。方泉處を退職したことで連載がかなわなくなった増尾にとって江戸時代の古銭書(上)は遣り残した事業を完遂させる目的とともに再起をかけた(背水の陣の)出版だったのでしょう。私にとっては江戸時代の古銭書などが未完のままで終わり、ライフワークにしていた
藤原貞幹研究も未発表のままになってしまったのは残念でなりません。
(肖像画像は方泉處7号より借用)

主な著作・出版物
古寛永泉志 新寛永泉志 東洋古銭図録 上巻(日本銭之部 安南銭之部) 東洋古銭図録(古文銭之部) 中世銭史(東洋古銭図録 中巻) 江戸時代の古銭書(上) 本邦鐚銭図譜 長崎・加治木系諸銭図譜 皇朝銭史
銭貨(昭和44年12月~昭和57年9月) 昭和51年10月まではB5版、以降はA5版
銭幣(昭和57年11月創刊号~平成4年6月93号)
銭貨情報(平成9年5月~平成11年5月24号)


(注)方泉處における増尾の最後の記事は1997年末に発刊された20号です。気になるのはそれまで顧問という肩書だったのが研究員となっていること・・・誤植なのか、あるいは何かがあったのか?そして季刊方泉處は半年後に終刊、庶泉会も解散しています。方泉處そのものの解体はそれから3年後に訪れます。
 
さらば我が青春の方泉處
東洋鋳造貨幣研究所(方泉處と方泉處コレクション)
方泉處庶泉会時代
1992年9月~2001年5月頃

浅草古銭会時代
2002年4月~2004年12月



この記事は私の思い出の記録でもあるので事実誤認があるかもしれませんがお許し下さい。


【黎明期】
ハドソン社
は1973年に札幌市豊平区の無線ショップとして開業しています。
工藤裕司、浩兄弟による創業でした。ハドソン社の名前は、兄の裕司が熱烈なSLファンであったため機関車の車軸配列・・・ハドソン型機関車・・・から名付けられました。(はじめの社名は、工藤兄弟社であったように記憶していますが定かではありません。)
兄弟にとって会社はお金儲けするというよりももっぱら趣味の世界。
その時代はパソコン(マイコンと言っていたかもしれません)が世の中に普及を始めていて、熱中しやすい兄の趣味がその方向性に合致したようです。ゲームソフトはまだカセットテープ式でしたが、それらを自作して通信販売に出したことから兄弟の人生は一変することになります。現金書留が大量に届くようになったのです。以降、同社はゲームソフト等の開発業者として急成長を遂げることになります。(この様子はNHKでも放映されたように記憶しています。)

【方泉處】
創立20周年を記念して芸術の森に隣接してコンピューターグラフィック・半導体等の研究を行うハドソン中央研究所と庶民の貨幣の科学的分析研究を行う
東洋鋳造貨幣研究所とその展示場『方泉處』を建設したのは1992年(平成4年)9月のこと。もちろんそこは 饒寶泉 工藤裕司社長(当時)の趣味の世界観が存分に反映され、研究所の社屋にはミニチュアSLが走り回るほどの徹底ぶりでした。方泉處とは四角い穴の貨幣…方穿貨のもじりで、そこには舎人坊 石川諄(札幌古銭会)隷泉 増尾富房(穴銭堂)も参加していました。開館のため方泉處は全国あちこちで古銭を買いまくり、古銭業界は久々に活況を呈するようになりました。方泉處は会員組織としては庶泉会をつくり会員向け季刊誌 方泉處を創刊、発行しました。インターネット上でも活動を展開し、新寛永通寶図会を作成することを華々しく宣伝していました。

【突然の終焉】
1998年春にインターネット上に活動拠点を移すという理由で21号まで続いた季刊誌方泉處は終刊し庶泉会も解散しましたが、新寛永通寶図会は無事に発刊にされました。体裁は当初の予定よりかなり薄くなりましたが、その分お手頃価格になりました。ホームページも充実していたと思います。
それから3年後の2001年のゴールデンウィーク明け、芸術の森の方泉處が突然閉館、ホームページも閉鎖されてしまいました。背景には北海道拓殖銀行破たんに伴うハドソンの経営危機、㈱コナミの経営参画のための地ならしがあったようです。

【浅草古銭会と御蔵銭】
2002年4月、東洋鋳造貨幣研究所が方泉處コレクションの再展示(再建)を目指し、東京都で浅草古銭会を立ち上げます。その会報が24号まで続いた御蔵銭です。
御蔵銭は懐古趣味 錦痕鑑と名称を変更しましたが、それも続かずに間もなく終刊。
2004年12月には浅草古銭会も休会状態になり、事実上解散になりました。背景には創業者、工藤兄弟の経営からの退陣とハドソン社の保有する方泉處コレクションの競売決定があったようです。
2005年の銀座コインオークションは方泉處コレクションからの出品があり、おおいに盛り上がりましたが、ちょっと複雑な気分でした。

【私と方泉處】
私がはじめて方泉處の存在を知ったのは案外遅く、日暮里の
隆平堂で方泉處19号(1997年7月号)を見つけ購入したときからです。薄い冊子にもかかわらず1500円という値段にまず驚きましたがそれでも発掘調査に基づく鋳造年代の再考、非破壊検査や銅色による寛永銭の分類観察など内容斬新で読み応えがありました。
そして発行元がハドソン社ということを知り再び驚きました。実は私が生まれてはじめて買ったファミコンソフトがハドソンの桃太郎伝説。そして私はファミコンにはまりました。貝獣物語、ファザナドゥといったマイナーなソフトも買った覚えがあり、ハドソンのハチのマークはとても親しみがありました。
すぐさまインターネットで調べて方泉處のバックナンバー購入に走り、庶泉会にも入会しました。(全部一括購入はできませんでした。それで後々苦労することになります。)季刊 方泉處には豪華で分厚い新寛永通寶図会の発刊の予告があり、期待が持てました。

1998年春…事前の予告もなく季刊誌方泉處が22号で終刊し、庶泉会も解散になりました。
びっくりしましたが活動拠点がホームページ中心になるということでしたし、私自身の入会歴が浅かったのでそのときはそれほどショックを受けませんでした。季刊誌は楽しかったけれど、1冊1500円では高くて買う人は限られると思いましたし…。
余談になりますが、私が
天保仙人のことを意識したのはこの方泉處誌上のことで、天保通寶マニアックワールドの11号に天保通寶四天皇としてご紹介されていたからです。新寛永通寶図会も無事刊行されましたので、しばらくは何事もなかったように時間が経過して行きました。新寛永通寶図会は寛永通寶を内径、外形計測するなど科学的見地から見ていて、細分類も多く画期的でしたね。この泉譜はいづみ会の譜と並び愛読書になりました。
ただ、この頃の私は激動期でして、経営していた会社の閉鎖と清算、転職と大忙しでした。実は方泉處にも再就職打診のお手紙を書いています。古銭趣味は私の心の逃げどころ、大げさかもしれませんが方泉處は私の希望の光でした。(方泉處就職はかないませんでしたけど・・・)
転職して生活も安定した2001年5月、春スキー(実は新婚旅行)で北海道を訪れた私は、このチャンスに是非とも方泉處に行きたいと思い、方泉處に訪問の予約電話を入れました。ところがなんと数日前に閉館したばかりというお返事。応対した職員も直前まで知らされていなかったと言うほどの青天の霹靂でした。ホームページも事実上閉鎖され、私の心にはぽっかり大きな穴があいてしまいました。

それから1年。2002年4月、東洋鋳造貨幣研究所所長名で突然お手紙を頂戴しました。何でも、方泉處復活を目指し
浅草古銭会を東京都に立ち上げることになったとのこと・・・うれしかったですね。もちろんすぐ参加!その会報が御蔵銭です。
2003年春、入手した島屋小頭通がどうも変な感じがしていたので、思い切って鑑定に出すことにしました。贋作と言われるかなぁと思っていたのですが、石川氏からすごいものだから発表させてくれないかとのお電話を頂戴しました。それが島屋小頭通細縁です。
2004年4月、職場のホームページを作るためホームページビルダーを購入。そして操作方法を覚えるために私個人のサイトを開設しました・・・これが本サイトです。
ある意味で方泉處ホームページ復活を意識したつもりでした。
御蔵銭は24号まで続きましたが、やがて
懐古趣味 錦痕鑑と名称を変えたあとに間もなく終刊しています。浅草古銭会も休会状態になり解散になりました。背景にはハドソン社の保有する方泉處コレクションの競売決定があったようで、方泉處再建の夢はここに潰えました。
2005年11月26日の銀座コインオークションの方泉處コレクション放出は有名ですが、私はその前に方泉處旧蔵の寛文様、凹千鳥を偶然に別ルートで入手しています。
方泉處を知らなかったら多分今の私は無かったでしょう。
 
参考文献など
ボナンザ 収集 季刊方泉處 江戸時代の古銭書(増尾富房) 昭和銭譜(復刻版:平尾賛平) 貨幣(復刻版:東洋貨幣協会) 
銭幣館(復刻版:田中啓文) 月刊天保銭(瓜生有伸) 天保通寶銭の研究(瓜生有伸) 日本古銭贋造史(瓜生有伸)
南部當百銭の謎(工藤英司) 寛永通寶銭譜余話(谷巧二) Wikipedia(インターネット) ウェブもりおか(インターネット)
日本銀行ホームページ(インターネット) 東京大学ホームページ(インターネット) 御蔵銭 下町 銭の道
古銭(復刻版:下間寅之助)
 
 
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呑泉 安達岸生
ボンナンザ6巻9号に特集記事

安田而唐 大阪の人、通称安田門次 寛政4年の愛銭家番付の西関脇に大阪上町安田門次の名前が見えます。
 
紹治堂 林静男 当時における古銭家の番附を作って見ると何と云うても大崎の林静男氏が横綱であって
銭幣館4集111Pに記事と写真 120p

圓々堂 甲賀宣政 通称甲賀博士方泉處16号
大阪の人? 関西を代表する研究者造幣局勤務 古銭の論客にして編集人

中沢彦吉
天保10年2月27日~明治45年5月6日 (1839~1912)

東京京橋生まれ。実業家。家は酒醤油問屋。漢学を土井牙に、洋学を箕作麟祥に学び、慶応義塾に入り経済学を研究する。八十四銀行、横浜電気鉄道、日本窯業、東京硫酸などの取締役となる。また、明治25年(1892)衆議院議員に当選、東京市会議員、市会議長もつとめた
郵泉堂 岡田房治郎 古銭書出版に熱心だった。
亀田一恕 榎本文四郎
足利義政 後水尾天皇(中宮東福院) 本阿弥光悦 古銭7巻P74



沙門慈海 寛政12年
 畫銭図録