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2014年1月~2014年12月31日分まで
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作者近影
 
新寛永通寶分類譜 古寛永基礎分類譜 赤錆の館
天保銭の小部屋 文久永寶の細道
 
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更新略歴 古銭用語の基礎知識   逆引き新寛永事典   逆引き古寛永事典 逆引き天保銭事典
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新寛永通寶 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
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古寛永通寶 10 11 12 13 14 15 16 17
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新寛永通寶
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銭の細道大量見聞録     おたずねもの集 
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特集記事 
新寛永色見本 白銅銭について 面背逆製の寛永通寶  撰銭の達人 現る!!  
翁草に記述された鋳銭の様子 短尾寛方冠寶通用銭の発見 正字背文 寛上削輪 について
そっくりさん集合! 1 そっくりさん集合! 2 そっくりさん集合! 3    そっくりさん集合! 4
類似銭の書体比較   浄法寺銭の金属分析 入札とオークション 細縁と濶縁について  
島屋文小頭通細縁について すごい!中字背文跳永 すごい!細字勇文
古銭みちしるべ 縮字背文(裕文)深冠寛 幻の寛永通寶明和期離用通面刔輪背削波
島銭様の寛永通寶 祝 新発見!深字背太一文跳永 退点文の超大型銭(廃棄母銭)
白い文政小字 新発見?会津勇文手短貝寶 伏見手破寛(次鋳)について   正字背勁文円頭辵
深字背文破寛本体と手替り 新発見 勁文短尾寛鋳浚い母銭 元文期背正佐異爪寛について
譲ってください♡! 

天保銭 1977年~ 編集・発行 天保通寶研究会(天保堂:瓜生有伸)
11号、31~35号、60号以降
状態不問(記事が読めればOK) 1冊800円以上で購入します!

月刊 収集 書信館出版(株)
1977年 3月・6月・8月・10月・11月
1979年 10月
1980年 2月
1981年 2月・7月・8月
状態不問(記事が読めればOK) 1冊600円以上で購入します!

   
以下は収集誌に掲載されている記事からの転載(勝手な応援記事)です。
例会日や会場に変更がある場合もございますので事前にご確認ください!

八厘会(天保仙人が主催する古銭会)
天保通寶の研究を中心に、各種泉談が満載の会です。
例会日:原則として8月・12月を除く毎月第4土曜日
時間 :14:00~
会場 :新橋駅前ビル1号館9F会議室
会費 :500円(高校生以下無料)
電話 :090-4173-7728(事務局)
 
雑銭の会(新規入札会員受付中)
主として鋳造古銭ジャンル全般の情報交換会です。
例会日:原則として毎月第4日曜日(変更もあります。)
時間 :14:00~
会場 :早稲田奉仕園(新宿区西早稲田2-3-1:変更もあります。)
会費 :500円程度(ご確認ください)
参加申し込みとお問い合わせ(事務局:工藤氏)
→ 雑銭の会 http://www.zassen.com/
 
Google
WWW を検索 このサイトを検索
※このHPにはプログラムが組みこんであります。害のないものですがブラウザやセキュリティソフトによってはエラーが現れるかもしれません。不具合が頻発するようでしたら、ご連絡ください。
1.最新の情報が表示がされるように過去に蓄積したキャッシュデータを読み込まないようにプログラムしてあります。(制作日記・更新履歴)
その分、読み込み反応速度が遅くなりますが、ご容赦ください。
2.来訪者分析ツールを各ページに組み込んであります。いつ誰がどこから来て、通算で何回目の来訪か等の記録がされて行きます。
(NINJA ANALYZEの表示があります。)

※プロバイダー変更後の転送エラーにより、画像が表示されない(☓表示になる)ことがあります。お手数ですが、問題個所をご連絡いただけると幸いです。
一般銀行からゆうちょ銀行に振り込む方法

例えば (記号)1
2345 (番号)1235678 という番号だったら・・・・

①(記号)の先頭の数字に着目 1 または 0 のはずです。  → (記号)2345
②1なら●●8 0なら●●9 が支店番号になります。 → ●●
③(記号)の上から2桁・3桁目に着目 例の場合は → (記号)12345
④上の数字を●●に入れます。 → 238 これが支店名です。(にいさんはち)
⑤口座番号の先頭をとして末尾の数字を無視します。 → 01234567 これが口座番号。
⑥機械で振り込む場合、支店名の数字をひらがなに直す。たとえば018支店はゼロイチハチと読みます。
  パソコン検索もできます。
 
公開しました! 踏潰銭分類考

南部古泉研究会のS氏が作成した
踏潰銭分類考を氏のご好意により無償公開しました。
この研究譜は2009年1月8日制作日記に記載した踏潰銭分類考の平成25年改定版です。
S氏は南部古泉研究会に所属し、踏潰銭をはじめとする東北地方の密鋳銭の収集研究を行っている方であり、私のHPについてもたびたび貴重なご意見・ご投稿・ご指導・ご助言を下さる方でもあります。
S氏いわく、この研究譜はまだ踏潰銭研究の中間発表ということですが、その深い観察眼による細分類はきっと踏潰銭収集研究に対して新たな注目を喚起する事と思われます。踏潰銭の細分類と言えば今のところ新寛永通寶図会がもっとも細かいのですが、図会にはないポイント説明など読めばわかる、目からうろこの分類譜であることは保証致します。

→ 踏潰銭分類考

→ 密鋳銭アラカルト(S氏提供)
 
【復刻版 金銀図録】
金銀図録は泉家・収集家覚書にもあるように書物奉行の近藤正斎こと近藤守重が記した古貨幣の記録本です。近藤は記録魔とも呼ぶべき異彩の人で、気になったことを次々に記録。その著書は1500巻以上におよぶそうです。また、冒険家としても蝦夷の開拓の先駆者でもあります。
その近藤の生涯最高の名著がこの「金銀図録」で、その後何度も再版が行われていますが、比較的手に入れやすいと思う明治期のものでも、7冊そろえるのは大変だと思います。また、とにかく古い本なので汚れや破れもあったり、虫食いや変色もあろうかと思います。そんな金銀図録を復刻販売するとは・・・天晴!
ここには江戸時代の人物が見た古貨幣の図録が誌上再現されています。当時、この本の流行によってこれを真似た贋作も作られてしまった・・・などという一話も残る名著。古金銀、ファンタジー貨幣収集家は必須の本と言っても過言ではありません。
なお、この記事はあくまでも個人の収集した情報に基づくものなので、お申し込みの際は、問合せて内容を確認の上で手続きをしてください。

☎ 平日のみ10:00~17:00 03-5982-8580
FAX 03-5982-8582(発送まで多少時間がかかります。)
支払方法:カード決済・代金引換払いなど
発送手数料:480円

〒171-0031
東京都豊島区目白3-13-20 DAIGO301
フジ インターナショナル ミント株式会社 通信販売部
 
「九戸戦始末記 北斗英雄伝 第5巻」 のご案内◇
※早坂昇龍氏は雑銭の会の工藤会長のペンネームです。古銭以外にもこのような郷土史豊かな歴史読み物の作家活動もされています。古銭に疲れたときの息抜きに・・・乱読、流し読み、積読OKです。

天正十九年八月二十七日、ついに上方遠征軍が宮野城を包囲します。薩天和尚の説得を受け、九戸政実は上方軍と和睦を結ぶことを決心します。天正十九年九月三日、宮野城の大手門が開き、九戸政実が姿を現しました。政実は浅野長吉、蒲生氏郷の二人の許を訪れ、二人が予想だにしなかった和睦の条件を告げました。
さて、九戸政実は蒲生氏郷・浅野長吉に何と言ったのでしょうか。
合戦のクライマックスは政実が言い放ったこのひと言に凝縮されています。

蒼龍舎 ご希望の方は公式ホームページ のご注文欄より、巻号を明記の上お知らせください。
 http://www.goemonto.rexw.jp/company3.html 1500円+消費税 (送料サービス)
6月10日から一か月間は、消費税サービス・送料も条件により無料となります。
 
そうだ!「貨幣」を読もう!
貨幣誌は戦前の東洋貨幣協会時代から続く、現存する最も古く、かつ権威ある貨幣収集愛好家団体です。貨幣収集趣味が衰退している昨今、生で勉強できる貴重な研究会場であるとともに、情報収集することもできる交流の場でもあると思います。かくいう私、会費は払ったものの、例会には参加したこともなく、果たして正式会員であるかどうかも分からない幽霊です。まあ、今でもこの情報誌が送られてくるから会員なんでしょうね。
日本の貨幣収集界が底辺を広げてもっと盛り上がってもらいたいので、その気のある方、私のように地方在住で仕事の関係で参加できない方も、情報収集アイテムとしてご参加・ご活用ください。
入会申し込み先
〒164-0001 東京都中野区中野5-52-15 2F251
日本貨幣協会事務局 野崎茂雄(野崎コイン) ☎03-3389-5958
郵便振替00110-0-8563 日本貨幣協会 

※年会費は5000円だったと思います。この記事は勝手な応援広告なので必ずお問い合わせください。
 
新寛永通寶「文銭カタログ」

新寛永通宝カタログの白川昌三氏の新刊です。文銭259点の細分類の拓影が掲載されています。内外径はもちろん、鑑定のポイントなどの詳しい解説もある、文銭マニアのための教本です。
B5版66P 販売価格2500円+送料250円

ネットを徘徊していて発見し、即購入してしまいました。この記事は勝手な応援記事です。
 
12月31日 【2014年を振り返る・・・】
2014年もいよいよ終わりです。今年は更新を本当に頑張ったと思いますが、だいぶネタ切れに・ガス欠になってきました。話題がありそうだとなにかと手を出して、予想外のお金が飛んでゆくのも楽しい一方で困りものです。
それでも今年は自由奔放・・・自分なりの仮説を思い切り出してますし、迷信、世迷言もずいぶん書きました。まあ、古銭がつくられた時代の人はもうこの世にいないわけでして、文献が残っていないかぎりあとは推理と妄想を膨らませるしか手段はないわけですから、ある意味書いたもの勝ちなんですね。
記事内容としては5月の頃に書いた
【梵字の謎が解けた!】(5月12日)【烏和同のこと】(5月18日)【古寛永井之宮銭のこと】(5月28日)あたりが書いていてものすごく楽しかったですね。
記事を書いて行く上で投稿記事などにも助けられました。常連の関西のSさん、四国のKさんをはじめ、萩銭の大好きなTさん、文久永寶の唐松堂さん、東北のSさん、掘り出しの天才Ⅰさん、鉄人さん、七雄泉さん、東北のNさんなどなど・・・多くの方々のご協力を頂戴しています。
天保仙人様や暴々鶏様、舎人坊石川様にも数々のヒントを頂戴しています。ありがとうございました!
少し心配なのが、現在の古泉界を支えているこれらの方がある意味転換期を迎えていること。年齢的なものもありますが、古銭を生業にしているお店も、気が付けばひとつ、またひとつと消えています。古銭収集は収集の王道であると思うのですけど、血気盛んな若手も指導者的な方々もが育っていないのが気になります。そういう意味では私を含めこの世界自身が転換期を迎えているとも言えます。
生活の一部にすっかりなってしまっていますが、記事を書いている時間はおもに夜間と早朝です。気になると朝の5時ころからごぞごそやっています。そのせいか、4~5年前はメガネなしで0.2~3㎜の違いが分かったぐらいなのですが、最近は自分の書いている文字に焦点が合わず見えない体たらく。おかげで本を読むとすぐ眠くなってしまいます。持病も勲章のように増えており、運動不足がたたっています。
それでも好きなものはなかなかやめられないようでして・・・困ったものです。このHPは命と生活費を削っているんですよ。
さて、今年のラストは10大ニュースを飾ったお気に入りの品々の画像をならべましょうか。
明和期離用通面刔輪背削波は2年前に北海道で見たときにビビッときた品です。こいつはやはり初めから私の所に来るべき運命にあったと勝手に思い込んだ品。
泉譜に掲載されている品でありながら、あまりの希少さに存在そのものすら忘れられかけているもの。明和期俯永面背刔輪を仙台のHさんに見せて頂いた時と同じ衝撃が私の脳髄を走りました。入門には「本品は母子共に珍銭であり、収集の埒外なのかもしれない。通用銭の発見は近年のことである。」と、あります。たしかにこれは小頭通以上の珍銭なのかもしれません。しかも、すこぶるの美銭。おそらく、私の収集史上のトップ3に入る稀品だと思います。あまり書くとHさんあたりが欲しがりそうです。でもこの細字、雑銭のようでいて気品がある顔は良いですね。このような品がなぜ生まれたのか・・・とても不思議です。
加護山写しの不旧手は私好みの顔。この顔は本当に好き。眺めた時間は一番長かったかもしれません。
今年、唯一新規に作ったコーナーの「密鋳銅一文の観察箱」はこの銭の入手を記念してつくったもの。密鋳銭を専門に集めている方にしてみれば大したものではないのかもしれませんが、可愛いじゃないですか。目に入れても痛くないと云いますか、阿仁銭であることを微塵も隠そうとしない。これほど分かりやすいものはない!・・・と手放しで絶賛できます。もし、これが単独で出てきたら・・・1万円なら安い買い物です。
もちろんこれは私の感覚。それだけこの銭には味があります。
横浜古泉研究会
入札誌「穴銭第29号」
広郭手広大(仮称)

文久永寶の細字狭冠寶の再発見には正直驚きました。
自分自身で分類がうまくできなくて、たぶん細字長寶のできそこないだな・・・とのけ者にしていました。なるほど、新種と言うものはこうやって発見するものだと改めて反省しています。私に気づきを与えて下さった唐松堂様、大分の坂井様、そして昨年この品を私にお贈りくださったH様ありがとうございました。
これぞという有名品こそは入手成りませんでしたが天保銭は銭文径の小さいもの、重いものなどの記録を更新。 勇文手と張天保嵌郭の出現には驚きました。勇文手はもっとゆくべきだったかもしれません。
以上、いろいろありましたが今年もなんとか無事に終われそうです。2015年が良い年でありますように・・・。 
12月30日 【美しき加治木洪武】
加治木というと鹿児島県のまたぐらにある小さな町です。この田舎町で作られた洪武通寶が日本を代表する貿易銭の鋳造地だったとは、想像がつきません。加治木洪武は背に「加・治・木」のいずれかの文字が埋め込まれた鐚銭で、島津氏によってつくられたことまでは判っていますが、実は文献が残っていないので鋳造年代についてはあやふやで1441年~1700年代説まであるようですが、1600年代から1630年代頃と言う説が最も有力です。
穴銭を集め始めたときに、この加治木銭の背治はすぐに手に入るのですけど、それ以外の手替わりはまず見ることも少ないでしょうね。背加、背木はもちろん、缶寶(ほとぎほう)とか土武、さらには背福、寛字、襷武(たすきぶ)なんて絶対的な珍品もあります。
穴銭党の私はもちろん集めようと思っていた時期もありますが、なにせ絶対的な数が少ない。したがって手替わりを集める以前にあきらめていました。ところでネットを徘徊していたら妙にきれいな洪武がありました。これだけきれいだと母銭かなあ・・・なんて思う方は他にもいらっしゃったようでして、すでに火花が散っています。 
 
12月29日 【加護山鋳の朝鮮通寶】
九州のKさんからお手紙が届きました。
「過日、大和文庫の朝鮮通寶加護山鋳の画像を掲示して記述されていましたので、年賀状にはその母銭の拓をお贈りしようと考えておりましたところ、面背とも鋳肌のままなので拓の見栄えがイマイチです。そこで写真で補足させていただくことにしました。(この写真がイマイチで申し訳ありません。)この朝鮮通寶加護山鋳母銭はかなり昔、雑銭の塊から4孔拾いました。しかし、未だに通用銭は発見できておりません。そのうち、北秋田の菅原直登会長に見て頂こうと思っています。平成7年の第10回みちのく合同古銭大会研究発表資料「加護山一文銭」に母銭の仕上げについて・・・として・・・穿内が丁寧に仕上げられ、通用銭に見られる荒いヤスリの痕跡は全く見られない。面背とも滑らかな仕上がり。銅色は通用銭と同じ赤色で、今のところ鋳ざらいの痕跡のあるものを見ていない・・・とありますが、このほか同封の写真でお分かりのように輪側は丁寧に横やすりがかけられており、安政四文銭そっくりの輪側になっております。(以下略)」
さて掲示の写真が問題の加護山朝鮮通寶の母銭。たしかに真っ赤な地金、粒子の粗い砂目、穿内にやすりがかかっていますし、外輪は真っ平ら。鋳写改造母ですね。いやあ・・・こんなものが何であるんだろう。不思議としか言いようがありません。しかも4枚もあるんですか?そりゃすごいです。現物が物語る不思議な世界。寛永銭が全盛の時代に、なぜこんな銘柄違いを作ったのか。本当は何が目的だったのでしょうか?しかも鋳写し改造母までつくるとはいったい何があったのか?考えれば考えるほどに不思議です。本来は年賀状が届いてから掲載すべきなのでしょうが、夢とロマンのあるお話ですのでひと足早いお年玉記事として紹介します。みなさん、雑銭箱をもう一度眺めて見ましょう。 
 
12月27日 【鋳銭図を見て】
銭の鋳造工程については石巻鋳銭場作業工程絵図と鋳銭図解があるようです。鋳銭図解は石巻鋳銭場作業工程絵図を元に作られたようですが、作業工程の解説が入るなど分かりやすくしてある半面、一部の作業工程が省略されるなどの差異があるようです。これについては方泉處1号に比較的詳しい説明が記述されています。
その中で気づいたこと・・・
目戸切を私ははじめ「めときり」と発音していましたが、誤りに気づきました。目戸とは穴のこと。実は私の生まれた地では尻の穴のことを「けつめど」と言ってた事を思い出しました。目戸切の工賃が極端に安い理由もここにあるのかもしれません。(江戸時代の身分制度が関与しているかもしれません。)
床焼きの図について方泉處では焼きなましの作業としていますが、翁草においては(鯨)油に古墨を混ぜて煮るとあり、地に色を付ける作業であったことが分かります。(やき入れ作業はもっと前の段階であったようです。)
形打ち、形〆の作業図で「形」の文字を拡大して見たら・・・右側のつくりが「久」になっていました。
琉球通寶の乎形極印(一般には手形極印)を初めててにしたとき、形の古字形にこの書体がないか調べたのですが見つかりませんでしたので再発見です。何度も見ているのに見落としですね。ちなみに石巻鋳銭場作業工程絵図の形の書体は現代と同じでした。
 
12月26日 【2枚の長郭手】
画像上はただの鋳写の長郭手ですけど、文字が極細に変化しています。抜けを良くするための加工が行われたとともに湯圧が低かったように思えます。
文字の周囲に加刀の痕跡が残っており、とくに寶冠の上部と通辵との間が深くえぐられ、寶冠が波打っているように見えるます。
通寶の2文字は特に貧弱。
製作は極めて良く、銅色も本座とほとんど変わりません。
一方で穿内はべったりやすり掛けをしているタイプ。その他はあまり本座銭と遜色がないので、初めて見たときは気づきづらいかもしれません。
長径48.3㎜ 短径31.9㎜ 
銭文径41.2㎜ 重量19.1g

下の画像は斜珎ではないかと思って購入した天保。斜珎と同じく、尓画が寶貝から離れていますが加刀によるもので、尓の柱は斜めではありませんでした。覆輪、刔輪で寶足は宏足寶状に伸びます。穿の仕上げがやや雑ですけど、ほとんど地肌が見えないぐらいしっかりしたやすり。貼り合せの痕跡は判りませんでした。
良~くみると天上刔輪ですね。特徴としてはうたえないレベルですけど。
長径48.6㎜ 短径32.6㎜ 銭文径41.2㎜ 重量24.3g
 
 
12月25日 鋳造現場の工賃
コイン百話(松本章著)には元文期大阪加島銭座の工賃について記録が書かれています。加島銭座は銅銭及び鉄銭を鋳造しており、この記録は延享元年(1744年)と言うことですからこの時代は鉄銭座だったと思います。驚いたことに将軍はまだ徳川吉宗。吉宗は享保元年(1716年)から延享2年(1745年)まで将軍の座にあり、引退しても亡くなる寛政4年(1751年)まで大御所として幕政を仕切っていたそうです。
私は吉宗は享保のイメージが強すぎて、良貨ばかり作っていたような錯覚に陥っていましたが、鉄銭も作っていたんですね。
さて、その当時の工賃(日当)ですけど以下のようでした。
役目呼称 日当 役割
銭頭(ぜにがしら)   388文 総監督
番子(ばんこ) 194文 現場監督
吹子指(ふいごし) 155文 金属熔解役
台摺り(だいすり) 144文 外輪やすり役
目戸切(めどきり) 34文 穿内やすり役
平研(ひらとぎ) 112文 面背の研磨役
丸目(まるめ) 127文 側面の研磨役
金洗(かねあらい) 62文 仕上げ洗い役
源太(げんた) 60文 削った金属の回収役 
錵屋(かびや) 87文 引き渡し検分役
※役職の読み方についてはよく判っていないものがありますので・・・ご了解ください。
※錵屋が87文になっているのは少々不思議。錵屋は仕上がった銭を運ぶ係(銅納役)を指示し、銭舞台の上で役人の見聞を受ける引き渡し役であり、それ相応の地位にあったと思われます。同じように目戸切も安すぎないかしら?
もっとも、他にも役割がいくつかあり、見張り役の四方番が32文だからありえるかも。それに当時の銭座は食事は無償だったようでしたし・・・。
※金洗は銭洗いとも言われる作業。源太は砂金など金属を比重の差で選り分ける方法で、流し掘りとか大流しとも言われるようです。(この場合は廃棄物の中から銅を回収する作業。)私は源太流しでなんとなく覚えていました。調べてみると源太夫という金掘りがいて、それが行った大流しのことらしいのですが、源太というのが技を開発した個人名なのか、役職名なのかまでは定かではありません。
※錵屋(かびや)の読みは方泉處2号に書かれていました。しかし「錵」の文字は通常は「かび」とは読みません。本当は「にえ」と読み、金属の表面の文様、とくに刀剣の波紋の状況を表す言葉でした。
金偏の「錵」によく似た文字に米偏の「糀:こうじ」があります。糀(こうじ)は日本食にはなくてはならない真菌類で、いわゆる「カビ」に相違ありません。(麹の文字が一般的。ただし、「糀・麹」をカビとは一般には読みません。「糀」を「錵」と間違え、さらに読みまで間違えたのか、それとも江戸期の人の洒落なのかは分かりません。
※一文の価値をどれぐらいで見るかは難しいところですが、二八そばというようにこの時代のそばの価格は16文が相場だったようです。(小麦粉とそば粉の配合割合という説が有力ですが、この時代の実勢価格もおおよそこんなもの。)食事が約束されているから我慢できますけど、まあなんとも薄給だったこと。一文30円で計算してもたかが知れています。いくら食事がついていても奴隷みたいですね。 
 
12月24日 【今年の10大ニュースアラカルト】
今年は更新回数が多かったせいで、候補記事が多すぎました。そこで「新規入手品の部」「新発見・投稿の部」「その他・トピックス」に3分割しました

【新規入手品の部】
明和期離用通面刔輪背削波(穴銭カタログ日本原品) が投資金額、知名度と併せて総合トップはゆるぎないでしょう。これには北海道で見せて頂いたときから魅せられていました。
2番目に置いたのは 加護山写しの不旧手。なんで・・・と思われる方も多いと思いますがこれは個人的に風貌が大好きであるという事につきます。価格も非常にリーズナブル。このような品は運がないとまず出会えないと思います。今年は久々に寛永銭がトップ2を占めています。裏を返せばここのところ憑りつかれていた天保通寶収集が一段落したこと・・・まあ、ライバルが増えすぎたこともあります。
そんな中で3番目に入れた 不知長郭手 覆輪縮形宏足寶 は私の予測を超えた銭文径縮への敬意の表明です。今年は保持記録更新をした天保銭がいくつかありまして、6番目に挙げた 不知長郭手 極厚肉銭 は驚異の28.2g。これが格安で落ちたというのも嬉しくてランクイン。
5番目に入れた 不知長郭手 白銅質天上刔輪 も書体変化はほとんどないものの、画像拡大してみて初めて分かった変化でした。まあ、裏を返せば目が悪くなったという事なんでしょうけど。
通寶小字濶縁(4位) と 離郭濶縁赤銅質(9位) は銘柄からして順当なランクイン。なかなかの面構えながら、私の感覚も最近はやや麻痺気味です。踏潰銭 正字写歪形銭 も寛永銭の密鋳銭ですけど、この変態ぶりはすばらしい。価格もGood。こうしてみると入手価格もランクインには重要な要素ですね。9位の 不知長郭手 刔輪離足寶 は逆にちょっと奮発しすぎたと反省の一品。この表にあるだけで本年の投資額は100万円に迫ります。まずいぞこれは!(当初は斜珎らしき天保銭をランクインさせていましたが、確証が持てなかったので変更しました。)
順位 新規入手品の部 入手経路 関連記事
明和期離用通面刔輪背削波(穴銭カタログ日本原品)    寛永通寶400年祭(即売誌) 4月26日
加護山写し 不旧手藤沢銭 ヤフオク 5月22日
不知長郭手 覆輪縮形宏足寶ほか 雑銭の会の入札  8月6日
不知長郭手 通寶小字濶縁 CCF会場(即売品) 8月2日
不知長郭手 白銅質天上削輪 駿河(大和文庫) 11月12日
不知長郭手 極厚肉銭28.2g  駿河(大和文庫)  10月16日
踏潰銭 正字写歪形銭 ヤフオク  8月22日
離郭濶縁(赤銅質)  ヤフオク 12月19日
不知長郭手 刔輪離足寶 入札誌穴銭  4月23日
10 密鋳の古寛永赤銅 ヤフオク 7月9日
ランク外にしてしまいましたが、古寛永鳥越銭背大錯笵(1月30日)・不知長郭手直足寶(3月7日)・琉球通寶広郭(4月17日)・面子銭寛永(5月5日)・岡山婉文覆輪(5月30日)・安南寛永岡山小字写(6月11日)・琉球の平尾琉(6月20日)・オレンジ色の秋田細郭(6月25日)・安南寛永隆徳手仰永(7月4日)・古寛永高田面錯笵(7月10日)・刀跡のある天保(8月6日)・中郭手崩字厚肉異極印(8月13日)・容弱(12月6日)など今年も散財しました。刀跡のある天保も、崩書厚肉もGood.安南寛永も好きです。

【新発見・投稿の部】
やはり衝撃は勇文手の出現。気が付いていたのに手を出せなかった自分が情けないというか私らしいというか・・・。同じく、4月1日に情報を頂戴していた正徳期大字背佐の彫母銭の画像・・・これもまた衝撃。この2つは時期が来るまで黙っていなければならなかったのが苦しいやら楽しいやら。第3位に入れたのは手替わり銭ながら全く新しい形の退点文入文。これを初めて見たときは作銭じゃないかと思いましたが、現在3品が発見されているようです。
文久永寶の細字長寶狭冠寶は、唐松堂氏の発表を見て、「あれ、昨年Hさんに頂いた品の中にそっくりな品があった。」と気づいたもの。恥ずかしながら私はこの分類が分からず画像収録までしていたもののボツにしていました。5位の小頭通背元はまず見たことがない品。Ⅰさんは良く気づきましたね。6位の張天保嵌郭はのどから手が出るほど欲しかった品・・・でも競り合っても痛み分けるだけとあきらめました。
7位以下はうらやましいほどの掘り出しの数々。今年はレベルが高いですね。
順位 新発見・投稿の部 関連記事
不知広郭手 勇文手 が入札誌穴銭に出品されたこと 8月30日
正徳期大字背佐彫母銭 の出現 (4月に七雄泉氏から報告と画像を頂戴しました。)    11月20日
退点文入文の発見。(Ⅰ氏に続きS氏が報告。文源郷氏も入手し追認) 12月5日
文久永寶 細字長寶狭冠寶(唐松堂氏) 私も所有品の中から再発見。 3月8日
寛保期高津銭 小頭通背元の選り出し報告。(Ⅰ氏) 11月4日
張天保嵌郭 がヤフオクに出現!鉄人が入手。 7月21日
張天保 をⅠ氏ヤフオクで発見!ほぼ無競争で入手! 9月3日
不知長郭手 長張足寶の異品 をS氏が入手。 10月12日
文久永寶 玉寶小字通用銭 がヤフオクに出た! 9月7日
10 関西のSさんが 会津萎字小郭 を掘り出し! 8月28日
ランク外となりましたが 正字縮文(1月15日:関西S氏)・長郭手長反足寶(2月15日:関西S氏)・薩摩広郭純白銅銭(2月21日:関西S氏)・本座純白銅質(4月22日:関西S氏)・細郭手刔輪崩書(2月11日:東北K君)・長郭手削花押(8月10日:玩多夢氏)などはいずれ劣らぬ大珍品。なかでも450円で買ったという長郭手長反足寶は驚異。掘り出し王は関西S氏と同率でⅠ氏にも差し上げたい。
その他にも南部小字桐極印(4月24日)・古寛永浮永大様と湾柱永濶縁母銭(6月24日)・文久永寶深字狭永本体(8月7日)・亀戸中字背文白銅母銭(9月21日)・正字背異替母銭(10月17日)・黄色い秋田広郭(12月13日)など話題の品がたくさんありました。


【その他・トピックスの部】
第1位は更新回数が過去最高であったこと。これは頑張ったという自分の褒美。しかし、記事を書くためかなり無理な出費もしたような・・・。最近は頂きものをときどきするようになりまして、東北のN様から背山鉄銭やら仰寶母銭やらノム楽などプレゼントされています。ありがたいものです。
情報の伝授もありがたく、天保仙人様からは直々に色々なお話を聞かせて頂きました。関東のT様から頂戴したボナンザ項目別総索引も貴重な資料・・・ただし、編集作業が全然進んでいません・・・ごめんなさい。同じく九州のS様から天保通寶分類譜と天保通寶銭の研究を分譲戴きました。ありがとうございます。
6位はレイアウト崩れに対する変更を一気に行ったこと。実はこの作業3年前からやっていたのですけど、地味な作業なので遅々として進んでいませんでした。
密鋳銭銅一文の観察箱は加護山写しの藤沢銭や改造母銭類を入手したのでつくりたくなった今年の唯一の新コーナー。相変わらずつくっては放置なんですけど。
8位の会津萎字小郭は本来なら上のコーナーに入れるべき内容なんですけど、実はこれが売られるかもしれないという情報はある方からかなり前に頂戴していました。私としてもちょっと思い入れがあったのでここに掲載。雑銭の会には久々に参加し、秋田のH山氏とお話ができたことが嬉しかった。そしてあの大雪・・・参りましたね。スキーも堪能しましたが、年末のスキーは妻のインフルエンザのため断念。一方で、休養がとれ頸椎症が改善しました。今年もいろいろあった一年間でした。
順位 その他・トピックスの部 関連記事
更新回数が過去最多になったこと。良く頑張りました。 -
東北のN様から背山鉄銭と仰寶銅銭などを無償で頂戴してしまいました。 11月8日
天保仙人様から様々な情報を頂戴しました。書きたくても書けません。 11月12日
趣味の教室 ボナンザ項目別総索引 を関東のT様から無償譲渡頂きました。 9月10日
天保通寶銭分類譜と天保通寶銭の研究 全18冊を九州のS氏から分譲戴きました。     7月4日
レイアウト崩れに対応完了。更新作業に3年半もかかってしまいました。 -
密鋳銭銅一文銭の観察箱を作成。ほったらかしですけど。 -
S君の 会津萎字小郭 が売りに出されたこと。残念ながら手が届きませんでした。 6月29日
雑銭の会に参加。H山様・・・お世話になりました。 3月23日
10 そして40年ぶりの大雪もありました。スキーにも行きました。 -
 
12月23日 【貴方は数値重視派ですか?】
私は流通関連の仕事をかつてやっていましたので、数値の分析をすることが好きな方です。
新潟に菊水という日本酒の蔵元があり、そこの社長はすべての工程を数値管理することで品質の向上を図ることができ、一流メーカーの仲間入りをしました。日本酒の仕込みは杜氏の勘に頼る作業が多かったのを排し、ほぼ全行程を数値管理に変更したのです。それによって杜氏がいなくても良い酒を常に出荷できるようになりました。感覚的なものより、数値は勝る、数値はうそをつかないと考えたそうなのです。
一方、古銭の世界ではこの件は賛否両論です。0.1㎜の差異を追求する寛永銭研究家の方々もいらっしゃれば、製作などの総合面を重視する大家もいらっしゃいます。たしかに世の中数値だけでは説明できない現象は多いと思うのですが、数値重視派に言わせてみればこの世の中はすべて数字でできており、数値で説明できないものはないと言い切ります。
古銭は鋳物で、条件によって歪みも生じることから、0.1~2㎜の誤差は生じて当たり前どころか、ときにはとんでもない誤差も発生するかもしれません。
私は方泉處に刺激を受けた世代なので、銭文径は非常に気にする一方で、天保仙人様や暴々鶏様からも教えを受けていますので、製作面についても良く観察するようになりました。いいとこどりと言われればその通りですけど・・・。
鋳型で銭を作る以上は、鋳型より大きな銭は理論的には生まれないと言えますが、このことは母銭より大きな通用銭は出来ないということを示していません。例えば鋳造前の鋳型に上から圧力が加われば、変形が生じてひょっとすると母銭より大きな通用銭ができるのかもしれません。ただ、数値重視派にしてみればこれはあくまでも例外です。
寛永銭の場合は内径の大きなものは総じて製作の良いものが多いものです。ところがその例外として細縁銭が発見されました。数値非重視派はそんなものは当然あるだろうと切り捨て、一方で数値重視派の研究者はそのメカニズムを必死になって解明、数値で説明しようとしています。だから面白い。
私が就業している業界は、どちらかと言えば数字に非常に鈍感な・・・感覚的な世界ですけど、私もそこに数字を持ち込もうとしています。数字は嘘はつかない・・・と私も考えている一人なのです。さて、皆さまはどうお考えですか?

※子供の冬休みにあわせて軽井沢にスキー旅行に行く予定でしたが、本日妻がインフルエンザになってしまい、泣く泣くキャンセルしました。一方で、少しだけほっとしている自分がいます。
①キャンセル料も取られなかったし、ものすごい出費が抑えられたこと。
②年賀状を作る時間ができたこと。
③もし、私が先にインフルエンザになったらどんな目に遭うか・・・と思うと恐ろしい。女房が先で良かった。
 
 
12月22日 【斜珎?】 
ネットを徘徊していると魔がさすことも多くて・・・。画像の品は明らかな不知銭の長郭手。覆輪刔輪のゆったりした銭形で、実は一度オークションに出て高騰したあとなぜか取り下げになった経緯があったと思います。そして再出品価格が7万円以上・・・さすがにこれでは手が出ない。
でも良くみると書体の変化が面白い・・・斜珎の類ですねこれ。鋳だまりがあるので分かりづらいのですが王画と貝画が離れています。別添画像を見ると穿内中央に鋳バリのある中見切ラインらしきものが・・・つまり張り合わせの手法であることもわかります。
値下げ交渉ありの出品なので応札してみようかという悪戯心がむくむく。前回の値引き交渉は遠慮して2割引きだったので、よし倍の40%OFFに挑戦だ・・・などとどうせ落ちないだろうと決めつけて遊んでいたらあっさり落札。こんなことなら5割引きにすればよかった?
いやあ、落札責任が発生してしまいました。ここのところ天保銭病が再発しています。これはいけません。年賀状もまだ書いていないというのに・・・。 
 
12月21日 【天保銭2題】
仕事柄、自制の利かないお年寄りと接することが多いのですが、「で~ぶ~で~ぶ~百貫で~ぶ~電車にひかれてぺっちゃんこ~」と先日笑顔ではやし立てられてしまいました。このフレーズは久しぶりに聞きました。「お前~太ったな~」と1日に3回も仕事先の別の人にそれぞれ言われたこともあり、炭水化物ダイエットに励んだこともあるのですが、結果が出る前にリバウンドしてしまいました。減っているのは預金通帳の金額のみで、増えているのは体脂肪と女房の不満だけという始末。デブをこじらせたせいで、頸椎症になり首と肩はこるし手も痛いし、目も極端に悪くなり見えなくなってきたし・・・。
古銭は唯一の麻薬ということで現実逃避しています。
ネットに出ていた天保銭を2つ。1つ目は秋田広長郭の面錯笵です。通寶の文字だけが見事に二重になっています。これは母銭のとり出しそこないでしょうね。面側の重文は非常に珍しい。1万円ぐらいなら欲しいなあ~と思っていたのですが、予想をはるかに超える高騰ぶりに白旗です。こんなものをお金を払ってまで欲しがる人はきっと変態に違いありません。それにしても世の中にこんなに変人が多いとは!
もう一枚は会津の長貝寶・・・四国のKさんからのご投稿です。(ありがとうございました。)
この会津天保は先日にネットにでていたものと同一品なのですが発色がまるで違います。Kさんも色の違いに驚いたそうなのでこの黄金色が本来の色調なのでしょう。会津天保は赤いものが多く、短貝寶には黄銅色のものが散見され、濶縁は赤いものは少なく、褐色~黄銅色のものがほとんどです。長貝寶は赤いものから褐色のものは時折見かけますが、黄銅色はあまり見た記憶がありません。銅替りと言えるのですが私には希少価値が判りません。どなたかご示唆いただければ幸いです。
ところで、月刊天保銭に「会津長貝寶には砂目のきめ細かい小極印の打たれた異品がある」という記事を以前読み、その異品探しにやっきになっておりましたが、どうもそれは母銭のことじゃないのかな・・・と最近になって気づきました。天保仙人様から以前、短貝寶の母銭を見せて頂いたことがあるのですが、きめ細かい肌でした。また、母銭であっても桐極印は打たれている天保銭は多いそうで、それはいざ発覚したときにおいても通用銭だとしらを切るための用意だとか・・・。
 
12月20日 【離郭濶縁考】
離郭濶縁といえば、藩鋳天保銭の中ではかなり有名な天保銭です。離郭はその存在数量から見てもかなり大規模な贋造であったと思われます。福岡藩は天保銭の鋳造に際し、願い書を出しており、そのときの稟議銭が筑前通寶でした。(文久2~3年頃:1862~3年)天保銭密鋳もその頃にはじまり、博多市小路、福岡城内、博多下厨子町(深見藤右衛門宅)、博多大浜3丁目(山本一心による差配)、福岡城内野村東馬旧屋敷(太政官札・二分金贋造も含む)と場所を点々と変えながら密鋳されたようです。鋳造の技術者であった深見藤右衛門は釜屋という屋号があり、鋳物業者であったと思われ、火縄銃の砲身をつくるという口実で銅の買い付けを行ったようです。
稟議銭の筑前通寶は郭の部分が輪や銭面よりわずかに高くなる癖があり、そのため仕上げ砥ぎの段階で郭が押しつぶされ、郭全体の辺が丸みを帯びる特徴となって現れているように思われます。
福岡天保の彫母銭は木製ではないかという説があります。母銭の癖は木製母銭が水を吸って膨らんだとか、木は柔らかいので固い砂笵に押し付けるとき微妙に歪んだのでは・・・というのは私の妄想。銭をつくるのは初めてでしょうから、鋳造には苦労したと思われます。
離郭は比較的大振り肉厚のものが多く、肉厚3㎜、重量25gを超えるものも少なくありません。(むしろ小型薄肉のほうが少ない?)
肉厚大ぶりのものが多いのは、その方が鋳造が容易であったことに加え、後述する短期間の大量生産を容易にするための秘策が行われたと考えられます。

さて、その離郭類ですが、おおざっぱに見て3段階の銭文径があります。
通常銭 中濶縁銭 濶縁銭です。(通常銭といってもやや細縁になるつくりになります。)
これは通用銭鋳造にあたって、銭文径の異なる3種類の母銭があったことに他なりません。天保仙人様曰く「通用母銭」の存在です。

ここで錫母の考察のときに書いた記事を思い出してみましょう。
錫母を使わない場合は 彫母銭 → 原母銭 → 通用銭 ですよね。
これらを使って大量生産を試みるとしたら・・・(枚数は累積枚数)

回数 作業工程内容 彫母銭 原母銭 母銭 通用母 通用銭 濶縁銭
彫母銭2枚から原母銭を鋳造 - - - -
彫母銭2枚、原母銭2枚から型をとって鋳造 - - -
彫母銭2枚、原母銭4枚、母銭2枚から型をとって鋳造(通用銭は通用母に改造) (2) -
彫母銭2枚、原母銭6枚、母銭6枚、通用母銭2枚から型をとって鋳造 12
彫母銭2枚、原母銭8枚、母銭12枚、通用母銭2枚から型をとって鋳造 10 20 18 4 

鋳造を繰り返すうちに全体の枚数が増えてゆくのはわかりますが5回繰り返してまだ母銭は20枚しかできません。このモデルは彫母銭を2枚にしていますが、1枚でシュミレーションしてみるとこのペースはもっと落ちますので、鋳銭作業がいかに大変か分かると思います。
上記のシュミレーションで 鋳造回数をX 母銭の枚数をY とすると・・・
① X=1 のとき  Y=0
② X=2 Y=2
③ X=3 Y=6
④ X=4 Y=12
⑤ X=5 Y=20  Y=X(X-1)の式が求められます。

本座などでは母銭係がいて、母銭と通用銭の鋳造担当は分業されていたと思いますが、密鋳の場合は秘密を守るため組織は小さくしていたはず。そのため上記のような同じ砂笵で母銭、通用銭などを同時につくる工程が生まれる素地は十分にあったと思うのです。鋳銭の場合は原料の銅を溶かす作業が最も費用と労力・時間がかかります。少量ずつの溶解作業や、一度溶解した銅が余ってしまい再び溶解させねばならなくなることは絶対避けたいところです。派手にはできないし、時間をかければ情報が漏れる危険が増します。密鋳はスピード、採算性とともに目立たないことが求められる難事業でした。

スムーズな鋳造作業を行うために必要な母銭が仮に100枚だとすると・・・Y=100
11回目(X=11 11×10)の鋳込のときにようやく母銭は100枚以上(110枚)に到達します。
これはいかにも効率が悪い。鋳込のときに溶銅の余りや砂笵の空きがあるのももったいない。
できるだけ早く必要枚数の母銭をそろえると同時に、砂笵の空いたところをなくすさらなる工夫・・・それには初期にできた通用銭を改造して母銭化するのがベストな選択。もちろん、正規の母銭ができればその通用母銭は通用銭に混ぜて使ってしまえばよいだけ。簡単な証拠隠滅です。
鋳銭図を見ると天保通寶の枝銭は18枚~25枚の天保銭が付いた枝が2つが連結した形でした。これからみても母銭が50枚ぐらいないと効率の良い作業は出来ないことが分かります。ところで、離郭は大振りのものが多いということを思い出してください。そして通常銭には細縁気味のものが多いのです。つまり離郭の原母銭は覆輪しなくても通用母として転用できるようにはじめから大ぶりにつくられていたのかもしれません。覆輪するより磨輪するほうが技術的には簡単だからです。それに通用銭を覆輪して母銭化するぐらいなら、本座銭を覆輪した方がもっとリアルな天保銭ができるはずですから。
そうなると彫母銭、原母銭、通用母銭というような考えははなからなく、濶縁大様のもの=原母銭として、出来の良いものを選んで母銭化する古寛永的な手法であったような気もします。
さて、以上が推論を交えた離郭濶縁についての誕生話。通常は濶縁は末炉銭というイメージなのですけど、もしかすると濶縁は比較的初期にでてきてフェードアウトしていった可能性もあるということ。記録を見る限り鋳造場所があちこち変わっていますので、そのたびに上記のような作業が繰り返されたのかもしれません。なお、この記述は推論仮説が中心なので、その点はご承知ください。 
 
12月19日 【落札品到着】
離郭濶縁と不知長郭手と薩摩広郭の小頭通薄肉銭が到着。
薩摩広郭の小頭通薄肉銭は厚みが2.1㎜しかないもの。摩耗銭ではないので、ちょっと珍しいのですけど500円で落ちてしまいました。この手の出品は0.2~3㎜の誤差はよくありますので、表示どおりは嬉しい。(画像省略)

福岡離郭濶縁。少し銭径は小さい(長径48.9㎜、短径32.5㎜)ながら、鋳ホールのある赤銅質。銭文径は40.6㎜、シークレットマークも確認できました。

不知長郭手刔輪長天は若干長足寶気味になる品ですけど希望落札価格は50000円と強気の品でした。希望価格に達しなかったのか、過去に一度オークションの取り下げがあった品ですが今度は最低価格のまま落札決定。これは超ラッキーです。(長径48.5㎜ 短径32.0ミリ 銭文径40.8㎜ 重量22.0g)

通常の鋳写しに見えますが、天の前足の先端と保の人偏の先端の地が彫られていて、まるで奇天のような文字変化です。どうせならもっとはっきり彫ってくれと言いたい。銭の下部を中心に刔輪もされています。

最後の1枚は不知長郭手覆輪。(長径48.2㎜ 短径32.2ミリ 銭文径41.2㎜ 重量20.6g)
縮形の写しで上の天保に比べ長径は短いのに銭文径は大きい・・・なのに輪幅があるので覆輪銭であることが理解できると思います。 
 
12月18日 【錫母について2】
たまたま錫母銭について考えさせられることがあったので追記します。そもそも錫母はいつ、何のために作られたのか?
日本の貨幣「収集の手引き」によると、はじまりは文銭ではないかとのこと。(古寛永の末期ににその技術は出現していたのではないかという説もあります。)
錫の特性は
①融点が低く、柔らかく加刀・加工が簡単なこと。
②凝固における収縮率が非常に低く、型の再現性にすぐれていること。 があげられます。その一方で錫は
③柔らかいので、破損摩耗が生じやすい。
④寒さに弱く、低温崩壊を起す。 という欠点もあります。
しかし、加工の容易性と再現性の高さの利点はその欠点を補うだけの価値があり、文銭は江戸期における少額貨幣の王者の位置を占めています。

この技術の出現により、従来の銭鋳造は
①彫母銭(銅彫金) → 原母銭(銅鋳造) → 銅母銭(銅鋳造) → 通用銭(銅鋳造) だったのが
②彫母銭(銅彫金) → 錫母銭(
鋳造) → 銅母銭(銅鋳造) → 通用銭(銅鋳造) に代わります。

錫の凝固縮小率は銅よりかなり低く、銅の縮小度合いが天保通寶の長径では0.7~8㎜、寛永通寶一文直径ではおおよそ0.3~4㎜の縮小になるのに対し、錫はそれぞれ0.1~2㎜、0.1~0.05㎜程度の縮小にとどまります。
(古銭小話(川田晋一氏調べ)によると錫の1mあたりの縮小率は2.25㎜であり、銅の15㎜に比べて6~7分の1にすぎません。)
この縮小率は当時の精度ではほぼ同じものができたに等しいものだと思います。これによってほぼ同規格の銅母銭を量産することが可能になりました。すなわち、1枚の彫母銭から1枚の錫母銭をつくり、それらを使って再び鋳造すれば3枚の錫母と1枚の彫母銭になります。つまり2回の鋳造工程で原母銭とあわせて4枚の銅母銭のための鋳型を作ることができるのです。これは錫の特性を生かした鋳造の革命でした。
彫母(銅彫金) → 原母銭(銅鋳造) の工程を経た場合はこうはいきません。銅は縮小率が大きいために、同じ規格のものを作るには彫母から1枚ずつ原母をつくる必要があるのです。すなわち4枚の原母銭をつくるには4回の鋳造工程が必要になります。銅は縮小率が大きいため彫母は原母よりかなり大きく立派に作る必要がありました。
仮説ながら錫母の出現以降、彫母のサイズは以前より小さくなる変化が起きたと考えられます。

錫は銅と金化すると金属を固くします。銅との合金では錫が多いほど固く丈夫ながら、もろくなります。
材料としての錫はその昔、白目と呼ばれていましたが、厳密には純錫ではなく、錫以外に鉛などが多く含まれる雑金属であったと思います。それらの多くは銀の精錬の際に出てくる副産物であり、ある意味金属のリサイクルでした。
福岡離郭の母銭は「錫成分の多そうな」白銅質の材質でした。秋田の天保通寶の母銭も天然の白銅(白目)であったことは有名です。
仮説になりますが、
錫が増えれば縮小率が若干減少することは判っていたのかもしれませんが、純錫そのものを抽出する技術がまだ難しかったのかもしれません。
また、純錫は金属として傷つきやすく、低温下で変性して自然崩壊してしまう厄介な性質だったので、
精錬技術が確立した後も母銭にするという発想がなかなか生まれなかったのかもしれません。(縮小を防ぎながら崩壊現象をも防止する合金技術は本座広郭以降に生まれました。)
さらに、
覆輪は原母銭製作の過程で鋳造工程を減らすために生まれた技術なのかもしれません。
ところで天保通寶の錫母銭には52㎜を超える巨大なものがあります。(短足寶や濶字退寶など)
通常の工程から見ても大きすぎるので、あるいはこれは錫合金を使用した彫母銭に該当するものなのかもしれません。

以上、いくつかの仮説を並べてみました。最近、こんな妄想をするのが楽しくて仕方ありません。考古学(考証学)は歴史の推理小説のようなものですね。 
 
12月17日 【錫母について】
ネットで出ていた覆輪に見える長郭系の錫母・・・ずいぶん盛り上がってしまいました。あれはなんだったんでしょうかね。
本座長郭の錫母は錫の純度が高かったため、崩落現象が少なからず生じています。詳しい原理は製作日記10月18日のスズペストの記事を読みましょう。まあ、銭文は縮小しているみたいですし、覆輪銭のようですから皆さん本座とは思われていないみたいですよね。
もう少し書いちゃおうかな・・・銭の鋳造技術は門外不出の極秘的なものでした。したがって、
錫母を使用して銅母銭を作る手法も秘密だったそうなのです。(天保仙人談)
鋳銭師の系譜は渡来系であり、国内の技術者は真継家が統括していたようです。(2013年3月6日の制作日記)
また、幕末諸藩における天保通寶鋳造はばれたら藩取り潰し確実のの重罪ですから、うかつにその関係者を招へいすると幕府に怪しまれます。したがって・・・
ほとんどの天保銭密鋳銭鋳造現場では錫母を使った複製母銭鋳造方法を知らなかった可能性が高いのです。錫母がなくたって鋳造は可能ですからね・・・。
唯一、金属の精錬が盛んだった南部藩は独自に錫母銭の技術を確立していた可能性があり、それ以外の地域においては錫母を使うという段取りは採っていなかったようなのです。(短足寶と濶字退寶に錫母があり、これらが南部藩鋳造の可能性があると新渡戸仙岳が記録していることを小笠原吉助が発表していたと思いました。)
ここまで書くと勘の良い方は判ると思います。
天保銭における錫母は本座の技術が転用できる幕府にごく近い親藩以外はほぼ皆無だったと思われるのです。もちろんそれ以外も可能性は0ではないのですが、かなり確率は低いと考えた方が良かろうと思います。
まして新規書体でもない覆輪系の長郭手なら、そのまま改造原母にすれば良いわけで、わざわざ手間をかけて錫母を写す理由がないのではないでしょうか。不知天保通寶分類譜下巻に張足寶の錫母なるものが掲載されていますが
「不知鋳銭の張足寶状の錫母が何故必要なのか・・・」とかなり説明の歯切れが悪い。錫の原母と言うことも考えられなくもないのですが、ではなぜ覆輪なんだ・・・ということ。そこまで技術があるのならちゃんとした彫母をつくってから写せばよいではないかという事なのです。
不知銭の錫母としては、ほかに容弱があります。大川天顕堂の収集品で今は佐倉の民俗博物館にあると思いますが、拓本から崩落現象が確認できますので、かなり古い時代の技術だと思われます。大きさから見ても、原母としてではなく本座錫母と同じ使われ方をしたのではないかと思います。と、いうことは
容弱は不知銭ながらかなり本座=幕府に近い有力藩のものではないかという妄想が膨らんでいます。(崩落現象が起きているところから見て、本座細郭以前の母銭技術を駆使したものと思われます。)
他に錫母の存在が確認できるものとして(上記の不知銭以外で私が知る限りは)、本座銭以外だと短足寶と濶字退寶、遒勁、正字濶縁、正字背異などがあります。
すべて幕府のごく親藩(か南部藩の関係が疑われるもの)だけです。これらのものが制作にばらつきがあるのに水戸鋳としてまとめられた理由がなんとなくわかります。
以上は、天保仙人様から頂戴したサジェスチョンに対し、私があらん限りの妄想力をつぎ込んだもの。信じる、信じないは皆様の自由です。 
 
12月16日 【秋田天保の色】
ヤフオクで黄色い秋田広長郭が出ていました。茶褐色のものも出ていましたが、いずれもGETならず。
秋田の広長郭は藩鋳銭としては比較的存在する方であり、市場価格的にはせいぜい5000円ぐらいのものだと思います。広長郭以外には細郭と広郭、それに仿鋳と思われる小様があるぐらいでほとんど書体的にも変化がないように思います。
秋田銭は阿仁銅山特有の赤黒い色が特徴のように言われていますが、細郭は黄色が基本です。
では実際の銅替わりについての存在数はどうなのか・・・。これについては各方面からの意見などから推測するしかありません。

広長郭
最多は黒みがかった赤茶色。黄色が増すほど少なく、純黄色のものは大変珍しい存在。中間色的なものではオレンジ色~茶褐色からチョコレート色のものまであるようで、仙人様によるとこのオレンジ色も珍しいとのこと。英泉譜によると純赤色のものはさらに珍しく、純黄色とならぶ珍品であるそうです。
つまり、普通の色(暗赤色)以外はとりあえず拾っておけ・・・色鮮やかのものは(純赤・純黄・オレンジ・チョコレート)珍品だぞということでしょうか?
まあ、少なくとも黄色いものは少ないのは間違いありませんね。
蛇足ながら私には秋田の赤い銭はみな純赤に見えてしまいます。おそらく鮮紅色なんでしょうけど純赤銅色を見てみたい。

広郭
広長郭と同じ色の暗赤色と黄褐色系銅質が比較的存在しますが、(どちらかといえば)黄褐色系のもののほうがやや少ないようです。
明確に黄色いものほど少なく、純黄色のものはかなり少ない珍品のようです。純赤色も少ないとされていますのでこちらも色鮮やかなものはねらい目のようですね。(英泉譜)
なお、英泉譜には帯白という表現のものが存在します。よく判りませんけど、羅列順位が純赤銅の後なのであるいはオレンジ色のことなのかもしれません。

細郭
黄色を基本としますが、背郭が大きくなるほど赤味を増してくる傾向があるようです。(類似カタログ)赤いもの・オレンジ色は少ないようですが、純赤のものも散見されるようです。(英泉譜)また、純黄色のものはその昔は母銭ではないかと言われていた時期もあり、非常に珍しいそうです。(英泉譜)

秋田天保の色の分布イメージ(資料+私個人のイメージなので誤りがあると思います。)
正しい情報をお寄せください!

秋田天保 純赤色 茶(チョコ) 赤茶 赤黄(オレンジ) 茶褐 黄土 純黄
広長郭 やや少 やや少 やや少
広郭 やや少 やや少 やや多 やや少
細郭 極少 やや少 やや少 やや多
※秋田天保の発色は 赤・黒・黄 の配合による変化だと思います。成分としては鉛が多くなるほど黒味を増し、錫が少ないと赤みが強く、錫が増えるにしたがって黄色み(明るさ)を増すと考えられます。純赤が少ないのはきれいに発色しているものが少ないということに過ぎないのかもしれません。
 
12月15日 【変な文銭】
退点文の変態的な退点文入文に続き、Ⅰ氏がまた変な文銭を雑銭の会に発表しています。Ⅰ氏の銭運は本当に絶好調で、短尾寛方冠寶通用銭・不知長郭手長反足寶・高津銭小頭通背元・正徳大字背佐・不知長郭手張天保など、とんでもないものを続々と発見・入手されています。
退点文入文もおそらく膨大な数量の文銭から選り出されたと思うのですけど、氏の場合は大量購入・見聞によるものではなく、仕事で出張が多いのを利用してあらゆる骨董店・リサイクルショップにネットワークを貼っている、さらに入札やネットも良く観察している・・・広く浅くいわゆる足を使った作戦です。眼力、嗅覚とともに足もからめた作戦で、私のように動かない人間にとってはうらやましい限りの収集人生です。
さて、この文銭・・・どこかで見たような気がしました。
2009年の12月23日の制作日記にありました。
後にH氏おたずねもの集として掲載している一枚で「吼え文」と私が仮称していたものとそっくりです。文字が大口開けて吼えています。真面目に名づけるのなら「曲一異文」とか「異頭文」あたりになるのでしょう。しかし、私にはこいつが吼えているように見えてしまう。
まあ、命名権は発見者にありますので、この件ではしゃぐのはこれぐらいにして、この変わり者はH氏のものと果たして同じものなのでしょうか?そして変種として認定できるものなのでしょうか?面文の画像がないので書体が知りたいですね。 
 
12月14日 【離郭濶縁落しちゃいました!】
いやあ~年末の大変な時なのにネットオークションで大物を落してしまいました。半分確信犯ながら、落としてから後悔するのは毎度のことです。福岡離郭濶縁は有名品ながら存在数は比較的ある気がします。ただ、どうせ保有するのなら「鋳ホール」のある赤黒い銅質のものが欲しいとかねてから思っていました。「鋳ホール」とは鋳造後の冷却時にできた小さな穴で、これが輪の表面にあるのが良いものだと聞いています。
この離郭濶縁は有名品名だけに昔から贋作があることが知られています。もっとも有名なのが牟田弥平氏が作ったと言われるもので、精巧なものらしいのですが、実物から石膏型あたりで写したものらしいので、長径がかなり縮小してしまっています。現物を手にしていないので何とも言えないのですが、ポイントなど雰囲気は悪くなさそうなんですけど。到着するまでどきどきです。 
 
12月13日 【黄色い秋田広長郭】
最近逃がしてしまったもの。黄色い秋田広長郭です。秋田広長郭は黒みがかった赤銅色が特徴です。一方、広郭や細郭には黄色~黄土色のものがやや多く見られます。
色変わりとしましては以前オレンジ色の細郭を紹介しましたが、これは赤と黄色の中間的な色ではないかと思っています。黄色い広長郭の存在は、天保通寶研究分類譜などでは紹介されていますが、私はまだ見たことがありません。画像で見る限り、製作が粗雑であり、火を被って磨かれたような印象を受けたため、最後に思いきれませんでした。しかし、改めて考えてみるとかなり珍しい存在であることをふつふつと感じています。まあ、銅替りは極めて道楽的な収集ですから、どうせなら美しいものを選ぶべきだと思います。
赤・黄の2色が集められればまずまずで、中間色のオレンジ色まで集められればもっと良し。
ところで秋田広長郭銭には非常に製作の綺麗なものの他に、砂目が粗く製作が粗いものも存在します。肉厚もばらついていて、極端に肉薄のものや横から見ると楔型で肉厚が一定しないものまであります。これは肉厚の多い広郭、比較的質の安定している細郭に比べて際立っています。
英泉 村上氏によると、初出は細郭ではないかということで、それに増郭して広郭が生まれ、広長郭は最終であろうということ。
細郭は黄色系が多く、広郭は黄色系と赤色系が拮抗しており、広長郭は赤系がほとんどです。細郭は赤いものが少ないのですが、拾えないことはありません。しかし、広長郭の黄色いものは本当に少なく、なかでも純黄色といえるものは絶希少じゃないのかしら。
 
12月12日 【陶磁器切手】
ネットを徘徊していてきれいな写真をみつけ、思わず保存してしまいました。
陶器製の小さな商品切手の数々の写真です。陶器製の貨幣はドイツにおけるインフレ貨幣や、日本においても第二次世界大戦中の試作品などさまざまなタイプのものが知られていますが、流通機関が短かったり、未発行だったりしていまひとつ全貌がつかめません。
本当の変わり者のお金ですので収集歴の長い方は必ず一度は目にしていると思います。あるいは東南アジアを旅行した方は「シャム陶貨」なるものを目にしたことがあるのではないでしょうか。大きさは10円玉ぐらいの陶器片に様々な色柄や文字などがかかれているもの。
貨幣と言うより博打のためのチップだと思っています。シャムの陶貨については以下のHPに詳しく掲載されています。

→ 裕のコインコレクション(シャムの陶貨幣) 

→ 石宝殿のページ(私とシャムの陶貨との出会い)

さて、私が発見した陶器製の小さな商品切手の画像ですが、○に井のマークがあるものがいくつかありました。これはおそらく北海道の丸井今井デパートのもの。私が知る限りではそごう(十合)もこのような陶器製商品切手を発行しています。
商品切手は本来は商品との交換をするものなのですけど、これらの陶磁器切手には額面が記入されていますので、金券もしくは代用通貨としての半公的性格が強いようです。手作り感が満載で非常に可愛いものなのですけど、はたしてこのような陶磁器切手がいつの時代にはじまり、どれだけ作られたかが全く分かりません。そしてどれだけの種類があるのか?
想像する限りは発行は大正期から昭和にかけての可能性が高いのではないかと思うのですけど、あるいは戦時中の物不足、それとも北海道の場合は大火が多かったのでその直後か・・・結局想像は膨らむもののわからない。どなたか研究されている方はいらっしゃるのでしょうか? 
 
12月11日 【贋作の模造】
天保通寶の贋作銭の傑作に、加賀千代作の背大錯笵銭があります。淡黄褐色の精巧な作品で、砂目も見事な品でした。この金質・・・少々硬く感じるのはおそらく金属配合が異なるからでしょう。もちろん、達人レベルにならないとその差は判りません。その実物は天保仙人様から一度だけ拝見させて頂きましたが、ときどき見かける水戸銭類の妖しい品と肌の風合いが良く似ていますので、真の作者は同じなのかもしれません。
真の作者と書いたのは、加賀千代は販売企画者であり、職人は別にいたとも考えられるからです。実際に、加賀千代と福西常次が通じていたことは明らかですし、飾り職人であったOは加賀千代の下請け人であったことまでは突き止めました。銭座職人の生き残りを使ったという噂も聞きますが、加賀千代の時代(大正~昭和初期)だと明治から半世紀以上経過しているわけでして、その技術を受け継ぐ職人を使ったと考える方が無難かもしれません。
さて、ネットオークションに背大錯笵もどきの天保銭が出ていました。
背の鋳肌がつるつるなので、ひょっとしたら加賀千代の作品の母銭かもなんて考えて拡大してみましたが、天の字は進二天風に改刻されていますが、その他の文字は薩摩広郭のようです。まあ、いずれにしてもB級の模造贋作ですね。
背大錯笵は市場価格で10万円とも20万円とも言われます。ここまで有名な贋作は逆に価値が出てしまう・・・変な現象ですけど、贋作でも欲しがるコレクター心理・・・不思議です。
ちなみに、私も加賀千代の錫母贋作(小川青寶樓の爪痕付き)をかつて購入してしまった病気もちです。 
 
12月10日 【兄弟銭が出てうれしくないお話:鋳放し・錯笵】
収集が進んでゆくと、より変わったものを求めるようになります。人の持っていないもの、目立つもの・・・そこが贋作者の目の付け所です。その昔、ある財閥が出入りの古銭商に「十両の大判はもう飽きた。百両の大判はないものかのう・・・。」と尋ねたところ、しばらくして古銭商から百両大判がうやうやしくおさめられたそうで・・・
実際につくられたものとして十二面大黒の上を行く二十四面大黒丁銀なる贋作の傑作があるそうです。(天保仙人談)
その昔、鋳放しの方足布が市場に出回ったことがありました。しかしながら目の肥えた収集家はそれが贋作であることを気づきました。その理由は・・・鋳バリの位置が同じものが複数確認できたから。鋳放しの鋳バリ部分は型からはみ出した不規則な溶銅の流れですから同じ形があってはならないのです。そもそも鋳放し=未完成品ですから、市場に出回ること自体がまず不思議と考え、警戒すべきものなのです。不完全なものは廃棄されるはずですよね。それでも世に出てくることはあるのですが、完成を放棄したものであることから、どこかが不完全であることが普通なのです。それも銭として致命的な疵があるはず・・・廃棄物なのです。しかし、疵物は収集家の嫌うところ・・・だから完全な鋳放しなんて品はどこか妖しいと考えましょう。私も鋳放し銭と言ってHPを飾っていますが、市場にある鋳放し銭の多くは本来は仕上げ不完全と言うべきものが多いのです。鋳放し銭は廃棄物のはず・・・そう思って観察しないと、必ず贋作品をつかみます。
なお、仕上げ作業は穿に角棒を挿しこんで行います。したがって穿内の少々の鋳バリはこれによって折れてしまいます。穿内が完全な鋳放しなら外輪の仕上げ作業は行われず、外輪も当然鋳放しになるはずなんですね。逆に言えば外輪が未仕上げなら穿内も鋳放しになるはずなんですね。つまりどちらか片方だけやすりがあるのはおかしいという事です。

偶然の所産である錯笵銭は同じものが二枚あってはいけないと考えます。面背が全く同じであることはもちろん、片側だけでも同じでも怪しい。贋作者は本物の錯笵から写すか、錯笵に改造した母銭を写すか、錯笵でない母銭をつかって錯笵を再現するかのどれかの手法をとるからなのです。今年の制作日記に高田銭の錯笵の図を並べ2枚の背に類似性があることを示しましたが・・・意味はそういう事。良くて戯作、完全な贋作だとは判断できませんが、そういった類の品の可能性が高いと考えるべきです。
手替わり銭などは兄弟銭が見つかると新種確定だと喜びますが、錯笵銭や鋳放し銭はそうではいけないのです・・・というお話でした。 
 
12月7日 【今年の成果】
毎年のように10大ニュースをあげつらっていますが、今年はなかなか搾りづらい一面があります。更新回数は過去最多であり、あまりの記事の多さに編集画面がしばしばフリーズしてしまうため、書き溜め記事専用のページ(非公開)もつくりました。
HPづくりも10年目になるとなかなか新しい記事が書けなくなってくるのですが、3月頃からエンジンがかかり始め、ついには意地になって更新していた時期もあります。ある意味これは中毒です。
編集作業としてはレイアウト崩れに対応する作業がほぼ5月に完了。また、密鋳一文銭の宝箱のコーナーも作ってしまいましたが、つくりかけては放置しています。
収集は相変わらず天保銭が多いのですが、文久永寶 細字長寶狭冠寶を頂戴していた文久銭の中から発見したことは、私としては大きな収穫です。また、明和期離用通面刔輪背削波(穴銭カタログ日本原品)の入手は今年一番の大きなお買いものにして、自慢できる逸品がコレクションに加わりました。その他の寛永銭ではなんといっても不旧手の藤沢銭写しがお気に入り。小さくて赤くて美しい。こいつにはメロメロです。
今年もネットや入札で掘り出し物が多く出ましたね。会津の萎字小郭は2枚、張点保嵌郭は欲しかったあ!張点保本体も出たし、それから高津銭の小頭通背元と
正徳期大字背佐彫母銭はびっくりです。さらにあの勇文手が穴銭にでていたこと。いったい何人が気づいていたのでしょうか?こいつも欲しかったですね。
無駄遣いも多かったのですが、頂きものも多かったです。天保通寶銭分類譜と天保通寶銭の研究(九州のS様)、趣味の教室 ボナンザ項目別総索引(関東のT様)、背山鉄銭、ノム楽、仰寶銅銭など(東北のN様)・・・皆様ありがとうございました!
天保銭で一番お金を払ってしまったのは4月の離足寶ですけど、美銭ならCCF会場で入手した通寶小字濶縁がダントツ。地味ですけど雑銭の会で入手した
長郭手覆輪縮形宏足寶は、私のコレクションで最も銭文径の小さな天保通寶になりました。さらに26gの中郭手に続いて28gの厚肉長郭手の入手にも成功!これは新記録でした。
相変わらず外にはあまり出ていません。CCF以外は雑銭の会に1回、天保仙人様に一度お会いしただけ。仕事は忙しいのですが、最近は頸椎症(ヘルニア)のため気分が良くないのです。目もすこぶる悪くなりました。古銭が薬と言いたいのですが、毒なのかもしれません。
以下、主だった記事などを時系列で示します。

3月7日   ネットで準未使用の覆輪不知天保銭として不知長郭手直足寶を入手。
3月8日   文久永寶 細字長寶狭冠寶を戴いた文久銭の中から再発見したこと。
3月23日  雑銭の会に飛び込み参加。秋田の畠山氏と出会いました。楽しかった!
4月23日  入札誌穴銭の入札で不知長郭手刔輪離足寶の入手。
4月26日  石川氏の即売品で明和期離用通面刔輪背削波(穴銭カタログ日本原品)を入手したこと。高田古寛永錯笵も・・・。
5月12日  阿弥陀三尊鍍金銭の入手をきっかけに梵字の謎解きにチャレンジしたこと。
5月22日  ネットで加護山写しの不旧手藤沢銭写しを入手し、密鋳銭銅一文銭の観察箱を開始したこと。
6月25日  田宮商会にてオレンジ色の秋田細郭を入手。
7月4日   天保通寶銭分類譜と天保通寶銭の研究 全18冊を九州のS氏から分譲戴きました。
7月12日  安南寛永隆徳手仰永を入手。
7月14日  ネットで古寛永水戸湾柱永写の赤銅銭を入手。
7月21日  張天保嵌郭がネットに出た!他にも会津萎字小郭・古寛永俯永大型銭・背異替の母銭・玉寶小字など多数発見。
7月25日  月間コイン・趣味情報の入手。ほかにも月刊天保銭など文献の収集も進みました。
8月2日   CCF会場で不知長郭手の通寶小字濶縁を買い入れ。アフターセールで中郭手崩字厚肉異極印(楔型銭)26gも入手。
8月6日   雑銭の会の入札で4枚もの不知天保銭を入手。なかでも長郭手覆輪縮形宏足寶は隠れた名品であると確信しています。
8月22日  ネットで踏潰銭と思われるいびつな正字写しを入手。
8月30日  入札誌穴銭に不知天保銭の勇文手が出品されたこと!いったいくらで落ちたのでしょうか?
9月10日  趣味の教室 ボナンザ項目別総索引 を関東のT様から無償譲渡頂きました。ありがとうございます。
10月16日 大和文庫の駿河でで肉厚の不知長郭手28.2gを入手。書体は平凡でしたけどこれは満足。
11月4日  新寛永寛保期高津銭小頭通背元の選り出し報告。張天保も選り出しています。猛者です。(Ⅰ氏)
11月8日  東北のN様から背山鉄銭と仰寶銅銭などを無償で頂戴してしまいました。
11月9日  不知長郭手刔輪(離足寶様)を入札誌穴銭で落札。
11月12日 大和文庫の駿河で不知長郭手 白銅質天上削輪を入手。
11月12日 天保仙人様から様々な情報を頂戴しました。HPには小出しにしていますが・・・書けません。
11月20日 正徳期大字背佐彫母銭。画像は4月に七雄泉氏から頂戴しました。
12月5日  Ⅰ氏発表に続きS氏から退点文入文の画像を頂戴したこと。この変化は驚異です。
12月6日  細郭手容弱を入手。
その他1   更新回数が過去最多になったこと。
その他2   レイアウト崩れに対応完了。更新作業に3年半もかかってしまいました。
 
長径49.4㎜ 短径39.9㎜ 
銭文径41.2㎜ 重量21.6㎜
12月6日 【不知細郭手容弱】
不知天保銭を収集する者にとっては避けられないブランド品。
昔はときどき見かけたものですが最近はあまり市場に出てこなくなりました。製作は本座に勝るとも劣らず、極美の品も多いのですが、あまりに優等生過ぎて面白くないと思う方もいます。容弱という言葉は古銭界だけで通用する特殊用語で、他には開元通寶などにこの名前が見られます。意味は弱々しいこと。本当は幼弱とすべきなのを容の文字に置換したものじゃないかしら。
美銭などはどこが容弱だ・・・と言いたくなるほど繊細で優雅な雰囲気のものもあるのですが、今回の品は全体に文字が陰起気味で本当に容弱。虚弱と名付けたくなります。
ネットでの出品名は銅山手となっていましたが、全く似ても似つかない上、出品価格が4万円近かったため、皆様警戒されていたと思います。
画像からも容弱であることはすぐに判りましたので、値引き交渉をしてしまいました。もっとも容弱は現在2枚保有していますので別に欲しいわけでもなかったのですが、貧弱なところが気に入った?もっとも細郭手異書体というものがありまして、こちらの方がさらに書体は弱く、最弱なのですけど。
容弱を見分けるのは通のしんにょうの癖や寶前足が短いところなどに着目するだけでなく、やはり背の花押のひげの先端が太くなる癖を見逃さないことでしょうね。横太りの銭形も目を惹きます。ほかに容弱の特徴として穿内の仕上げが非常に丁寧なことがあげられます。穿内が4方向から完全にやすりがけされています。ものすごく気を使ったつくり・・・これからみてもかなり力のある藩だったのではないかと思うのです。美銭の多さでは俯頭通と肩を並べる気がしますね。
なお、これあたりが今年最後の収穫品になるかもしれません。ネットは激戦で、ちょっとした不知銭はすぐ高嶺になってしまいます。一見して斜珎もどきのような不知銭(不知長郭手)が4万円以上でしたから・・・。
 
Ⅰ氏の退点文(雑銭の会HPより)
12月5日 【退点文の入文】
退点文にも入文はあるという話は聞いていましたが、実物は見たことはありません。拓図においては竹田四郎譜には掲載されておりますが、完全な入文にはなっていません。
ところが雑銭の会の会員専用サイトにⅠ氏が奇妙に変形した見たこともない退点文の入文を投稿しており驚いておりました。しかも余りにもド変態チックな変形でもはや退点文に見えません。加刀修正にしてもこんな変な形にするのかなあ・・・と、いささか腑に落ちませんでした。そうしていたところ関西のS氏から全く同じ形の入文の投稿がありました。背郭の変形から見て兄弟であろうことは間違いありません。
S氏によると文源郷こと米田氏の珍銭探査に映像が出ていましたが後加工品との説明でした・・・とのこと。また、竹田四郎氏の新寛永拓影全集の説明に
「退点文にも入文があるが、その存在は極めて少なく、難獲品のひとつであろう。従って、入手難のものには必ず改造銭(贋造)があることを念頭に置くべきである。」とあり、実はⅠ氏の画像を見たときに、「こいつは変造品かもしれない。」と、勝手に思っていました。
もう一つおまけに言うと退点文の白銅銭に薬品変色のものがあると書いてあり、実は私も引っかかっています。(面倒くさいので堂々と掲載中。)
ところでⅠ氏のものとS氏のものは背郭の特徴から母銭が同じだと思われます。
もし、変造であるのなら通用銭を歯科技工技術で削れば良いので、何も手間をかけて母銭からつくり鋳造する必要はないと思うのです。それに確かに文字の変態ぶりはすごいのですが、製作的には背文を除きごく自然。したがってこれはもしや大化けする可能性がありものではないかと考え始めた次第。もし、1枚だけなら「文字を削ったのでは・・・」と変造を疑ってしまうのですけど・・・。これ、皆さまどう思いますか?俄然、面白くなってきました。
S氏から頂戴した退点文の画像(背文と背郭上部が同じように変形)
 
12月3日 【贋金づくり】
「こいつは古い時代の贋金ですね。」と言われるとおおそうか・・・やったと思う・・・これは古銭収集者のいきつくところ。本物のお金よりより贋金の方が価値があることなんて少し不思議な気がします。贋作も贋金も同じだよと一般の人は思うでしょうけど、さんざん古銭を集めていると贋作はいやだけど贋金はむしろ魅力のあるものと感じてしまうようになるのです。
そもそも贋金は和同開珎の時代からあるのです。贋金と贋作の違いはそもそも「お金として流通して一般の人を欺いたのか、それとも収集者だけを欺くために作られたか」という違い。
寛永通寶4文銭の偽造なんてせいぜい100円玉を偽造するようなものなのです。江戸時代には今のダイソーのような4文ショップがあったと聞いたことがあります。そうなると天保通寶だって2000円札程度の偽造だと思うべき。したがって労力の割に得るものは少ないのです。見つかったら一族郎党死罪の覚悟・・・死を賭したまことに割に合わない稼業なのです。コレクター目当てのちんけな詐欺野郎とは覚悟が違うのだと私は感じます。むしろコレクター相手の詐欺野郎こそ死刑にすべきなのかもしれません。
だから密鋳銭に対し、もっと畏怖と敬意をもって接する・・・べきなのかもしれません。
贋作者と言われる人の多くは実際に直接製造にかかわったというより、企画販売した人の方が多いと思います。したがって、贋作を本物だと言って売ってしまうと、どんな大家であっても贋作者とされてしまう危険性があるのです。
古銭家は販売するときはよほど気を付けないといけませんね。かくいう私・・・贋作らしいものはたくさんつかんでますが、贋作だと思いたくない一心でそのまま保有しています。まだ未熟・・・捨てられません。

ところで・・・私は随所に側面の仕上げの話を書いていますが、古銭の真贋判断においてこの側面や郭内の仕上げは非常に重要な意味を持っています。例えば銅銭と鉄銭では側面の形状が普通異なります。鉄銭は非常に硬いので仕上げやすりの歯が立たない・・・だから母銭段階で抜けを良くする工夫をするのです。
テーパー(側面の傾斜)や茣蓙擦れなどと言う加工は鉄銭(の母銭)特有のものです。
一方、銅は鉄より柔らかいので、鋳造後に仕上げを行います。寛永銭は銭を串にまとめてさして台摺りという側面の粗仕上げを行うのですが、まとめてさすので側面にはテーパーはほとんどできません。
天保銭などの肉厚のものは側面の様子が良く観察できます。天保銭の側面は1枚ずつの手仕上げだったようです。使用するのは和やすりです。9月13日の制作日記を見てもらうとお分かりのように、和やすりは細長い上ぞりの棒状です・・・つまり、非常に独特の形状なのです。西洋やすりと違い、使用方法にもコツが要るようです。そのため側面のやすり目については西洋やすりのような長い条痕状ではなく和やすり独特の傷がつくのだそうです。これを現代に再現するのはかなり難しいのです。
近代的な贋作では側面をグラインダーで磨くのでしょう。つるりとした平面的な顔と、目の細かい傷が観察できます。古銭を見る場合は、面背より、側面と郭内なのです。 
 
12月2日 【天保仙人秘談6+α 銭の出現地】
古銭には仮の鋳造地を推定して充てている物が多くあります。なかでも古寛永は(私の推測では)長門銭・御蔵銭以外の鋳造地はほぼ白紙に近いものがあります。発掘や資料の発見によって鋳造地がほぼ特定されかけた物・・・斜寶の類や縮寛の類・・・もありますが、古寛永は同じ書体を全国各地で鋳造したのではないかとも言われてますし、長永の類のように鋳造地を特定した発表そのものが捏造との噂のあるものすらあります。とはいえ、銭の発見地はとても重要な意味を持ちます。少なくともその銭が流通した地域と鋳造地はなんらかの関係があるはずなのです。
天保仙人様のお話によると・・・
遒勁はなぜか八王子方面から掘り出しの話が多いそうなのです。八王子は甲州街道の要衝の地。天領でしたが旗本の領地も多く、地域をまとめて支配するような強い勢力はなかったはずです。
調べる限りでは戊辰戦争のとき近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が勝沼で土佐藩と激突したあと八王子まで退却してそこで解散しているそうです。ひょっとしてこの頃に遒勁はばらまかれた・・・とは私の妄想。
仙人様のお話では遒勁が水戸本国で出現したという話は聞いたことがなく、なぜ遒勁が水戸に割り当てられたのかの根拠がないそうなのです。母銭に大、中、小があるそうで、それぞれきっちり仕上げられています。これは遒勁だけに見られる特色です。人気があるので贋作も多いようなので購入の際は気を付けて下さい・・・とのこと。
天保通寶で水戸銭であることがほぼ間違いないものは背異や繊字の類で、あとはなんとなく水戸藩籍に置かれたものらしく、短足寶や濶字退寶は小笠原白雲の研究で東北の産の可能性があり、接郭は覆輪の手法から土佐の可能性があります。
水戸正字背異と水戸繊字の母銭(錫母銭?)は常陽銀行の貨幣資料展示品として地元の有力家から寄贈があった記録があるそうですので水戸本国の鋳造の可能性がきわめて有力。しかし、銀行の本業不振からそれらは売却されてしまったそうです。
また仙人様が明治吹増天保母銭を大川天顕堂氏から譲り受け購入しとき、正字背異の母銭だったことがあったそうです。明治維新の際、本座には官軍が進駐して、本座の母銭類は接収・毀損されてしまったらしいので、明治政府が貨幣司で天保銭を鋳造する際に、水戸藩から母銭を借り受けた可能性があるらしいのです。そのため明治吹増銭に背異や繊字があるのだとのこと。
他にも不知銭では奇天系は九州の方面から良く見つかるとの噂・・・噂ですよ。勇文は関西以西からときどき出ることも有名です。なお勇文手と勇文は製作的に似ている面があり、銅色は若干黄色いものの、同じ系列ではないかと仙人様は考えているそうです。
このような出現地の話が残っているのは、泉家が発見の喜びを周囲に伝えているからだそうで、このような逸話が残っている物や貨幣誌に報告のあったもののの方が安心できるとの事。もっとも贋作者はこれを逆手にとって、出現地をでっちあげることもあるそうでして・・・困ったものです。

ネットを徘徊していたら南部銅山手と言う名称で不知細郭手容弱が出品されていました。価格が4万円近かったので無視しようと思ったのですがふと見ると「値下げ交渉あり」の表示。ムラッけが出てしまい、おおよそ2割引きの価格をいれてみたらあっさり落札。しまった、もっと安値を入れておけばよかったと反省していますが後の祭り。本座細郭の画像で引っかかったバカぐらいに思われているかも。まあ、容弱の価格としてはしごく普通の値段なんですけど・・・。
ひと目見た娘にたちまち惚れて・・・よせばいいのにすぐ手を出して、だましたつもりがちょいとだまされた・・・この古い歌が私のテーマソングになっていると思います。
 
12月1日 【阿仁銅山写しの朝鮮通寶】
画像の品は今月の大和文庫に出品されていてひときわ目を引いています。朝鮮通寶は1423年に李朝朝鮮においてつくられたものとされていて唐の開元通寶を模倣したものとされています。画数が多いのに文字の抜けが良く、穴銭収集の初心者の頃に手に入れたものは未だに手放せずにいます。
出品名は阿仁銅山写しとされていますが、地元の収集家は「加護山だ!」とおっしゃると思います。加護山は阿仁銅山付属の銭座であり、阿仁銅山とは地域が離れているから、たしかに正式には加護山なんでしょう。でも阿仁という言葉の響きは魅力的。と、いうのもこの銭の色そのものの「赤土色」を示しているからです。阿仁は地名でもあるのですが、赤土を意味する全国共通の古語でもあるのです。
この銭・・・いかにも阿仁の風貌です。阿仁銅山が大規模開発されたのは寛文年間と云います。つまり朝鮮通寶が作られてから200年以上経過しています。江戸時代は寛永銭以外は通用を禁止されています。したがって加護山の地域で朝鮮通寶の鋳写し銭が作られたということは普通は考えられない。つくったとしても流通できないからです。もちろん、阿仁の地において鉱石が発見されたのはそれより古く1300年代までさかのぼる可能性もあります。秋田貨幣史によると永楽・常平の写しも発見されているようで何でもアリだったのかもしれません。当時は緡による流通が主体でしたから混ぜてしまえば判らない・・・という事でしょうか?製作はたしかに阿仁(加護山)のつくり・・・鋳写し鐚でいわゆる東北鐚なのですけど、やっぱり阿仁ですかね。
謎は多いものの夢もあるこの銭・・・あなたはどう考えますか?
 
11月30日 【古寛永銭の覆輪】
8月18日の制作日記に覆輪技法の仮説(こんな技法もある)を紹介しましたが、実際の覆輪の様子を示した古寛永の大様銭の原母銭らしきものが大和文庫に出ています。古寛永の太細に純銅の環を覆輪したもので、表面に不規則に傷が走っていることと、墨の跡が残っていることから、覆輪した後に表面の研ぎ出しが行われたらしいことを示唆しています。しかし、古寛永になんでこんな加工がおこなわれたのかは少々不思議。天保銭の場合は密造なので、大きさをそろえるためだとは納得できますが、古寛永の場合は理由がよく判らない。ただ単に大きいものを作りたかったのではないか?5月10日に「内廷銭」説を書きましたが、これを見る限り単純に大きなお金を記念硬貨として作ったとしか考えられません。実用レベルの覆輪ではないからです。
実用レベルの覆輪銭としては仙台銭の類が有名で、覆輪と同時に刔輪の技法も開発されたようです。その他には井ノ宮銭の縮寛濶縁や近江坂本銭の大濶縁、高田銭の縮通覆輪、岡山銭の婉文濶縁あたりがメジャーなところです。画像の品は非常に貴重な古銭でよくぞ残っていたと感心してしまいますが、その一方でここまで異様だと「これは鋳銭の道具・・・歴史的な資料」だというイメージも持ってしまいますね。つまり古銭ではなく骨董品だあ・・・と思うことにして、入手はあきらめることができる。でも自分で発見したときには大騒ぎです。

覆輪はもともとは蒔絵の技法であり、金属や螺鈿を漆で接合する(継ぐ)技術。それから発展して破損した陶器の修復等にも応用されています。ただし、貨幣の場合は漆は使わずに外側の環は金属の収縮力だけではまっていると聞きました。もし、この覆輪銭に漆継ぎの痕跡が見つかれば新発見なんですけど。
 
11月29日 【天保仙人秘談5+α:久留米と水戸と会津の関係】
戊辰戦争の際、会津藩は徹底的に叩かれ、崩壊しています。会津藩主の松平容保は公武合体派の志士であり、尊王攘夷派と対立したものの孝明天皇そのものはたてており、天皇側も会津を(薩長より)むしろ信用しておりとくに嫌っていたわけではないようです。(徳川家が見た幕末の怪:徳川宗英)そんな会津は孝明天皇崩御によって後ろ盾を失い、策略で朝敵にされてしまいました。
したがって官軍による会津征伐の直前に会津藩に同情して奥羽列藩同盟が結成され、私の住む千葉県からも請西藩主林忠宗が自ら脱藩して参加していたそうです。(これが原因で請西藩は明治維新のときに唯一取り潰されています。)
そんな会津藩は水戸藩の系列であり、会津と水戸は親戚で深い関係にありました。
久留米藩は九州後にある外様大名ながら会津と同じ公武合体派・佐幕派が幕末までの主流を占めていて、水戸学も盛んで徳川慶喜の出身である水戸藩との仲も良好であったと思われます。(もっとも久留米藩内の水戸学の指導者は後に尊王攘夷派に分裂変化して、徳川家打倒に動いたことは歴史的に皮肉な話です。)
仙人によると明治維新の後、久留米藩士は開拓のため船で水戸に上陸し、開拓使として郡山に向かっているそうです。このことから水戸と久留米の関係は良好だったと思われるのです。また、西南戦争のときには会津藩はすでに瓦解していましたが、元藩士が宿敵薩摩と戦えると官軍に多数参加し、九州(久留米の地?)に入ったとも云います。つまりこの3藩は密接な友好交流関係があると思われるのです。久留米の地において石持桐極印が大量にみられること、会津濶縁と石持桐極印濶縁との類似性、背異と背異替との類似性など、藩どうしの交流(人と金・技術の動き)なども無縁ではないと思います。 
 
11月28日 【観音寺市の寛永砂型】 ※ウィキペディアより
縦122メートル、横90メートル、周囲345メートルの楕円形をしており、琴弾公園山頂の展望台からみると真円に見える。夜になるとライトアップされる。
謂れは「1633年(寛永10年)に、丸亀藩藩主の生駒高俊侯が領内を巡視することになった折、土地の人々が歓迎の気持ちを現わすため、急遽白砂に鍬を入れ一夜にして作りあげて藩主に捧げた」と伝えられているが、寛永通宝が鋳造されたのは寛永13年(1636年)からであり、その点でこの伝承には矛盾がある。
例年春季と秋季の「銭形化粧直し」や、台風などで砂が流されたりした際には、市民総出で補修工事が行われる。「銭形」にちなみ、世界中の貨幣を展示する「世界のコイン館」が琴弾公園内に設置されている。

香川県観音寺市のシンボル寛永通寶砂絵。古くはたしか銭形平次のオープニングにも出てなかったかしら。市内各地に寛永通寶を模したものがあり、マンホールのふたや道路標識などのイラストにも描かれているみたい。街中に寛永が溢れています。(今は市が合併したためシンボルマークから寛永が外されたらしい。)ウィキペディアでは矛盾が指摘されてしまっていますが、伝承の多少のずれは当たり前。正式なものではありませんが寛永通寶そのものは寛永3年(1626年)にすでに出ていますし、あるいは初期の砂絵は永楽通寶だったのかもしれません。生駒公は1640年までは藩の中心人物ですが、記録を見ると政治は家臣任せのかなりの男色家・放蕩ぶりだったようで、結局お家騒動で出羽へ流罪、高松藩は天領になってしまうという大失態を演じています。そうなるとあまりこれはめでたくないもの・・・バカ殿を喜ばすために作られた歴史的負の遺産とみるべきなのか・・・領民は純朴であったのかもしれません。なにせ領主がいなくなった後もこの砂絵を守り続けたのですから。
 
11月27日 【栗林銭座の陰陽銭】
先日の大迫絵銭の記事で、広穿の陰陽銭について触れましたが、南部貨幣史に慶応3年8月栗林銭座において職工が戯作したものとして「広穿陰陽銭」の拓図がちゃんと掲載されていました。小笠原白雲でさえ見たことのない銅銭(母銭)だったので、貴重な品なのかもしれません。日本の絵銭や絵銭譜などにも掲載はないと思います。どうやら寛永通寶の栗林広穿を手本に作られたようですね。こちらは背が細郭ですっきりしています。
 
11月26日 【うどん県へ】
2日ほど香川県に行ってきました。自由時間はほとんどなかったので古銭関係についてはまったく関係なし。もっとも香川県内には古銭店はどうも存在しないようです。この香川県は地味~な県でして、面積が小さいとか、うどんとか、ため池、金毘羅、小豆島ぐらいしか思い浮かばない。CMで自らを「うどん県」と自虐的に宣伝するぐらい普通の県。地元の人においしいものある?・・・と聞いても、絶対的おすすめがあまりなさそうでした。最近は「骨付き鶏」が流行りのようで、あちこちに看板を見ますが、どうも香川県産の地鶏ではないらしい・・・まあB級グルメ+αと思っていただければ良いらしい。
地元の人はあまり気づいていないようでしたが、香川は瀬戸内海に面していますので、漁業こそ有名ではないのかもしれませんが地の魚は絶対うまいはず。と、いうことでワシントンプラザホテル裏の寿司屋さんにGO!結果・・・大正解。うまいし激安だった。ここ数年で出会った寿司屋の中でコストパフォーマンスはダントツで、しかもネタも新鮮。国重という吟醸酒もうまくて3杯もおかわり。満タンに飲み食いして6000円。プチ贅沢だけどこれなら納得です。
そういえば香川県と言えば砂絵の寛永通寶がありましたね。観音寺市でしたっけ。あれはちっとも有名じゃないのかしら?
 
11月24日 【オークションネット24が熱い!】
穴銭人気が冷え込む中、今回のオークションネットは注目すべき内容かもしれません。出品物の中にいかにも有力コレクターの元所有物だと思われるものがいくつか含まれているのです。
そのひとつが青房寛永・・・それも古寛永長門手本銭の緡です。これは毛利家からの流出品に相違ないもの。おそらくこれしかもう残っていないのではないかしらと言う代物です。青房寛永は普通は恩賞等のために殿様から下賜された贈答品であり、青緡とも呼ばれるものなのですが、この古寛永は内容がすべて手本銭であり特別中の特別のもの。通常とは異なり銭座側から献上されたものなのかもしれません。
高寛背一母銭もまたすごい。はじめて見る逸品です。さらに福岡離郭の枝銭もあります。参考品になっていますけど見てみたいものですね。
正徳佐渡大字の例もありますし、オークションはやっぱり実物をしっかり見なければダメみたいです。とはいえ、当日の勤務交代は厳しいんですけど・・・。

オークションネットⅩⅩⅣ(オークションネット第24回オークション)
平成26年12月7日(日) 午前10時~(穴銭・古金銀は午後1時~予定)
東京交通会館3階 グリーンルーム

今回のみのカタログ代金2000円

※通常、カタログは年会費(4000円)で配布されています。今回だけ申し込む場合は申込期間が短いので必ずお問い合わせください。
TEL03-5733-7305 FAX03-5733-7306
郵便振替 00150-1-444017
 
11月23日 【南部陰陽銭について】
小笠原白雲が貨幣誌において、南部絵銭について述べている記事を読む限り、22日記事の陰陽銭はあきらかに銭座の所鋳なるものとして認定されているようです。さらにこの陰陽銭は開炉祝鋳銭ではないかということも書かれています。その説を唱えたのは今井風山軒であり、それに白雲が賛同したものなのです。その根拠をざっと書くと「古来、銭座の開炉において和同開珎を鋳る風習があったと考えられるが、南部地域にはそれに該当するものがない。しかしながらこの陰陽銭の製作は大迫銭座の母銭と製作が変わらない。また、和同男珍や和同升鍵という絵銭があるが、陰陽はこれと同じ発想で、珍=男根であり、開=女陰を示していると考えられる。」というもの。非仏こと新渡戸仙岳もこの銭が南部地域で愛されたことを記しているようで、子孫繁栄、利殖成就、娼家における商売繁盛、良縁祈願、腰部病除け、必勝祈願、迷い除けの御守など様々な信仰があり、大切にされたとの話がかかれています。
開炉銭であったか否かは分かりませんが、銭座の関係者の作であることや、陰陽が和合と開(貝?)珍を意味すること、地元で愛された存在であることについては納得できます。
なお、背に波の無い広穿の鉄銭は背大郭として白雲も説明されています。(面側は当時の自主規制で非掲載。)しかも、白雲自身、この広穿背大郭の母銭を見たことがないという珍銭です。この広穿背大郭のものは「大迫銭座の佐太郎」という母銭係が戯れに作ったという記録が仙岳によって残されています。ただ、今回の画像の品は背郭が細く広穿ながら大郭とは言えませんし、サイズも少し小さく感じます。白雲も述べているように明治大正の近作銭なのかもしれません。

※南部貨幣史に明治慶応3年8月栗林銭座で職工が戯作したものとしてほぼ同じものが、広穿陰陽銭と言う名称で掲載されていました。陰陽銭は大迫絵銭と言われていますがこれは栗林広穿を改造したものらしいのです。つまり、栗林絵銭の陰陽銭ということ。 
 
11月22日 【大迫絵銭】
大迫と書いて「おおはざま」とはなかなか読めませんね。狭間がやはり語源のようで、山や川などに囲まれた狭あいな地(谷や盆地など)という意味だそうで、全国各地に似た名称があります。一番有名なのが桶狭間。難読地名として千葉県の東葉高速鉄道の駅に「飯山満」駅がありますが、同じ由来のようです。
さて、Nさんから素敵な画像を頂戴しました。(ありがとうございます。)いわゆる陰陽銭(下段左1枚は猿匍駒)ですけど、さまざまなバリエーションがあります。これらは大迫絵銭と呼ばれるものですけど、右上の絵銭の銅質などはいかにも南部と言う雰囲気。幕末から明治にかけて、鋳銭にかかわった者たちが糊口をしのぐために作り出した絵銭の類だと思われ、南部藩の鋳銭技術を直接引き継いでいます。波なし広穿は珍しい形状ですが、少し時代が降る気がします。これらは絵銭で通用銭ではありませんが、古泉家も愛する特殊な存在。私もこの雰囲気は大好きです。
ところで、本日は銀座コインオークションの当日なんですけど・・・やむなくお休み。実は2ヶ月前頃から手と首に痛みが走り、最初は五十肩だと思っていたのですが、日を追うごとに悪化。診察の結果「頸椎症:頸椎ヘルニア」だろうと診断されました。
私の場合、痛みのため首を後ろに曲げられず、床に頭がつけられません。首や腕を無理やり動かすと首・肩・肩甲骨から右胸・右腕~手首に激痛・鈍痛が走ります。調子の悪いときは疼痛が拷問のように続きます。寝ていても痛いのでどうしようもなく、寝返りもできません。枕の上にぬいぐるみを重ね、姿勢を固定して寝ています。これでは肩がこるのは当たり前で痛み止めも効かないので困りますね。
椎間板ヘルニアと同じ症状ですから体験済みですが、この痛みはきついです。眠れないですから。ここの所毎年何かの病気をしていますのでまたか・・・という感じ。今年の夏、子供とジェットコースターに乗ったあとからおかしくなったのですが、ひどくなったのは最近です。実はそのジェットコースターは以前椎間板ヘルニアになったときにも乗っていました。富士急ハイランドのFUJIYAMAです。あれは文句なしに日本最高峰の遊具。ものすごく楽しいけど首や腰の弱い方はお勧めできません。この状況で年末のスキー旅行を予約してしまった・・・自殺行為ですか?
 
11月20日 【正徳期大字背佐彫母銭が出た!】
収集誌をご覧になった方は正徳期大字背佐彫母銭の記事に喝采を送ったことでしょう。実はこの情報は今年の4月に発表者の七雄泉氏から直接頂戴していました。いやあ~この半年あまりは長かったこと。このおしゃべり野郎が半年以上も沈黙していたのですから。保存しておいた画像を探し出すのに一苦労しました。
まずはおめでとうございます。彫母銭など見たことがないので私には全く見当もつきません。画像ででは銀色のように輝いて見えますが純度は96%の銅・・・当時の技術で言えば純銅でしょう。
銀が2.9%含まれていますが、記事にもあるように当時の日本の技術では銅から銀をすべて搾り取ることは不可能でした。したがって秋田天保にも銀が含まれているそうですし、調べれば当時の東北産の粗銅には必ず数%の銀が入っていたと思います。
何の記事で読んだのか忘れてしまいましたが、日本の銅が海外に流出した理由は実はその銀の含有量にあったという話を聞いたことがあります。古代の銀鉱石は主に銀を少量含む銀方鉛鉱であったようで、銀純度はせいぜい1%程度だったようです。ところが日本で精錬した粗銅にはかなりの量の金や銀が含まれていたそうです。明やポルトガルはそれに目をつけ、日本から大量の銅が流出する原因になります。関ヶ原の戦いの頃、粗銅から銀をとりだす南蛮しぼりの技術が日本に広がります。しかし、それでも日本の粗銅には金銀分が多く残り、幕末まで海外に流出する原因の一つになったようです。(違ってたらごめんなさい。)
話を戻します。
さて、この正徳期大字背佐彫母銭は出現時期から見て、勘の良い方はお気づきでしょう。昨年の12月10日の制作日記を見て下さい。つまり、この2枚の出現時期はほぼ同じです。と、いうことは前の所有者はおそらく同じ人物だったと思います。出品者はもちろんオークション参加者もみな気づかなかったのでしょうね。これは非常に稀有なこと。入手者は超ラッキーです。
こういうこともあるのですね。とにもかくにもようやくこの記事が書けました。胸のつかえがとれました。すっきりしたあ~!
 
11月19日 【反玉寶天保について】
反玉寶銭は色々な噂があります。はじめは東北地方で発見された一地方銭的な不知銭でしたが、この天保銭を鋳造したとされる器具が石ノ巻の毛利家から発見されたとの報告があり、大橋義春氏が石ノ巻が鋳地であると認定したように「天保銭の分類と鑑定」にかかれています。したがって古い収集家はこの天保銭を石ノ巻反玉寶と呼びます。私は貨幣手帳においてこの天保銭の存在を知り、覆輪刔輪という技法も覚えています。
しかし毛利家の鋳銭道具は石ノ巻の寛永銭鋳造のものであり、天保銭とは関係ないことが現地調査で判明し、その後に岩手古泉会15周年記念誌「泉寿」において沢井敬一氏、引間茂夫氏の連名で、この反玉寶が室場鋳の密鋳銭であると発表しています。その根拠は東北を代表する古泉家の小笠原白雲の日記ということなのですが、残念ながら蔵主の意向もあり公開はできないと・・・少し歯切れが悪い。
これで現在は室場天保という位置づけに落ち着きそうなのですが、まだ、異論もあるようで完全確定した訳ではないようです。
その理由として、関東に大量に持ち込んだ木村昌古堂の行動が怪しい点、浄法寺銭に鋳肌が似ている様子など、泉家によって意見は分かれます。私もどうもこの風貌が好きになれない・・・時代が降るのではとHP上に公言しておりました。
実は木村昌古堂が持ち込んだのは鋳放し銭ばかりだったそうで、はじめは怪しがってみな手を出さなかったところ、しばらくして仕上げた物が現れました・・・木村が加工したものかもしれないという噂もあり、実際に後加工された変造品もあるようです。
はじめは人気が無かった反玉寶銭ですが、しばらくすると鋳放し銭は仕上げたものの母銭ではないか・・・という噂が広まり、人気も出るようになりました。(実際は母銭ではありませんでしたが・・・。)
私はこの不安を率直に仙人様にぶつけてみました。その結果、これは密鋳銭と位置付けても良いとの事でした。東北において流通したものが雑銭に混じって出てきているそうで、ただし、それはほとんどが仕上げてあるものであり、鋳放しではないとのこと。だからといって鋳放しが贋造ではないという事でしょうけど。
同じ質問を雑銭の会の工藤会長にぶつけたこともあります。その結果は「貴方の持っている物は間違いないもの」とのご意見でした。それは私の持っているものが工藤会長のもと所蔵品であり、その出所らしき推定場所までざっくりとお聞きしています。
と、いうわけで反玉寶は不知銭でOKと言うお話。
そういえば反玉寶は鋳放しの萬年手天保に雰囲気がそっくりですね。あのざらついた肌に私は違和感を覚えるのですけど、仕上げるときれいになるのかしら? 
 
11月18日 【不思議な永楽銭・ノム楽】
掲図は東北のNさんから頂戴した鐚永楽のノム楽です。背山鉄銭、仰寶銅銭に続いて頂戴しました。(ありがとうございます。)
永楽通寶は永楽9年(1411年)に明の永楽帝がつくったものとされている大変良質な貨幣でした。ところが不思議なことに中国本土ではこの永楽銭はほとんど発見されることはありません。本土での流通は限られたようなのです。
つまり永楽は貿易専用銭であり、中国においてもなぜか嫌われたらしい・・・のです。日本においても明の新通貨は違和感をもって迎えられたようで、撰銭令においても「永楽・洪武・宣徳」は撰銭の対象になっていたことが伺われます。宋銭に比べればみな質の良い貨幣ばかりですね。
それに対して仮説として2014年の3月14日の記事で経済防衛説的なものを考察しましたが・・・まあ、これは半信半疑でいて下さい。仮説としてはかなり面白いし、根拠がないわけでもありません。
永楽はあまりに素晴らしすぎたため、それまでの古銭になれた庶民にとっては敬遠されたと考える学者さんがやはり多いようです。
一方でその良質さに気づき、これを経済戦略に取り入れたと思える戦国武将もいます。それは織田信長。
信長は永楽銭を旗印にするほどの入れ込みよう。近江、堺を落し、経済の中枢を把握します。織田信長は軍事だけでなく経済面から日本を掌握しようとしていたのだと思います。永楽銭は上質であったため、それまでの宋銭との立場がこの頃には完全に逆転し、永楽1枚が鐚銭4~7枚に該当するようになり、なかには鐚7枚相当などの記述も見られるそうです。
そしてこのその後永楽は東国経済を中心に大流行したそうです。永楽を制した信長はほぼ日本を制するわけです。その後を継いだ豊臣秀吉も同じ道を歩みます。
永楽通寶は1400年代前半の輸入だと思われるのですが、その輸入が途絶えてから150年以上も庶民に愛され続けたわけです。この永楽鐚銭は愛された結果の産物です。永楽銭はその後の寛永銭の登場によって役目を終えるわけですが、江戸時代を通じて一両=永1000文とする、永勘定という小判と銭の相場を素早く換算計算するための仮想単位として名を残しています。(2013年3月27日制作日記)
さて、永楽を愛する濃いコレクターはこの世にどれだけいらっしゃるのでしょうか?
永楽はかつて、蛇尾永や垂足寶、狭白などもなんとなく持っていました・・・が、今は売ったりしまい忘れています。そういえば2013年7月9日にも鐚永楽の小様をネットで落としています。嫌いじゃないんですけど、そこまで手を広げる余裕がなかったのが本音です。
今回のノム楽は直径23㎜ほどの模範的な鐚銭です。誰が名付けたのかノム楽と言う源氏名もなかなか洒落ていますね。 
 
11月17日 【天保仙人秘談4:本庄時太郎氏の大儲け】
本庄時太郎氏は天保通寶不知銭の大家で、収集誌上などにもコーナーを持っておられました。泉譜(青譜)を飾る不知銭の多くは氏の収集したものだったとか・・・。あまり商売的にはめぐまれていなかったようで、奥さんは商売品の骨董が嫌いでいつもこぼしていたそうです。
そんなあるとき、本庄氏がなにやら古い時代のエンタイアの封書をダンボールひと箱ほど手に入れたことがありました。珍しい使用済み切手や古い封筒は、マニアにはいくばくかの価格で。売れるからです。
本庄氏は封筒から手紙を抜き出して、不用品として処分しようとしていました。そのときたまたま大阪工業大学の細川孝行氏がその作業を見ていました。封書を見た細川氏はただちにその作業を止めさせ、て、中身を元に戻すように指示しました。そしてそれを国立公文書館に持って行ってみたらと伝えたそうです。半信半疑のまま本庄氏がそれを国立公文書館持ち込むと・・・係官は驚き、上司に相談してきますと本庄氏に伝え上司を呼びに走ったそうです。その結果500万円での買い取りを申し伝えられたそうです。その金額は当時の国立公文書館の年間予算に匹敵したと言います。つまり、それ以上に価値のあった文書だったそうなのです。それは本来、処分されたはずの明治維新の頃の明治政府の機密文書でした。ぼろもうけの本庄氏は大喜び、このときばかりは骨董を毛嫌いしていた本庄氏の奥様もニコニコ顔だったそうです。
手紙や文書は引越しや家を壊すときには真っ先に処分されてしまうようなものなのですが、中にはとんでもないお宝がねむっているかもしれないというお話です。

※本庄氏は晩年、千葉県の千葉市緑区誉田に住んでいます。川崎に古銭会館というお店を開いていたことがあり、セールスマン時代の私とも接点がありました。朴訥とした良いご夫婦だったと記憶しています。私の持っていた泉譜を指さしながらながらしみじみと「売ってしまったけどこれなんかみんな私の集めたものだったんだ。」と、悲しそうな顔をしていたのが忘れられません。(私の出入りしていた酒屋さんの奥様と友人関係でした。)誉田は私の住む地区のすぐそばです。
 
11月16日 【天保仙人秘談3:行方不明の萬年手天保通寶】
萬年手天保通寶は、金座が萬年通寶を試鋳した前後につくられたもので、この萬年手天保はすべて国立博物館の所蔵品になっています。これらの萬年手天保は実は江戸時代の大考証学者の狩谷棭斎コレクションだったものなのだそうです。天保通寶鋳造のアイデアを金座に出したのは狩谷自身であり、その功績をたたえて金座から狩谷に寄贈された経緯があるそうなのです。したがって記録が残されておりその姿はすべて鋳放しであるとされています。
国立博物館に納められたはずの狩谷のコレクションは何者かが持ち出したのか、3~4枚が行方不明だという噂があります。
大川天顕堂氏がその萬年手天保通寶欲しさにある大芝居を打ったことがあったそうです。大川は現存1品の琉球通寶の大字を国立博物館に寄贈する話を持ちかけました。そのかわりに研究のためと万年手天保通寶1枚の割譲を申し出たのだそうです。しかし、国立博物館側にコレクションの行方不明を理由にその申し出は断られたそうなのです。
このできごとによって萬年手天保通寶が民間に流出している可能性があることが判明しました。棭斎の萬年手天保通寶はすべて鋳放しでしたので、鋳放しの萬年手天保通寶に出会ったら、ひょっとしたら棭斎のコレクションの流出品なのかもしれません。
なお、大川が国立博物館相手に打った大芝居は、かつてラムスデンが日本政府に対して行った手法のようだとも評判になりました。まあ、こんなエピソードが残ったのも大川氏が情熱的なコレクターであるとともに政財界に強い超大物だったことの証明でしょう。

※画像は日本の貨幣から方泉處に転載されたもの。なお、新訂天保銭図譜によると天顕堂が民間唯一の保有者とあります。これはラムスデンがかつて外交特権を利用して手に入れた品が放出された際に買い入れたものだそうです。天保銭図譜の拓本は鋳放しには見えませんが、見栄えを良くするために拓本の周囲を切り取ったものだそうです。
 
11月15日 【なんちゃって二水永】
古寛永の二水永といえばあこがれの品でした。最近は海外からの里帰り品などが少しずつ市場に出てきていて、以前よりは入手しやすくなったとはいえ、高級品であることには違いがありません。
ときどき鋳だまりなどにより偶然にできた二水永もどきを見かけることがありますが、画像の品ほど強烈なものはまずないでしょう。土台は古寛永の水戸銭であり、星文手かな・・・雑銭中の雑銭ですけど笑えるでしょ?同じものがもう一枚出てきたらそれこそ大笑いなんですけどね。
 
11月14日 【天保仙人秘談2:金座試鋳の丸型天保銭は2枚民間にある!】
このお話は以前、少し触れたこと(夏の古銭会展示室)がありますが・・・・大川天顕堂氏はとても豪快な人で、ときにはとんでもない珍品をぽんと人にあげたといいます。万国貨幣洋行の太田保氏の息子さんもその幸運に恵まれた一人。たまたま、彼が大川宅に遊びに行ったとき、大川氏は上機嫌で3枚あった丸型天保のうち鋳ざらいされていない2枚を「持ってゆきなさい」とばかりに太田氏の息子さんに渡したそうです。もちろんタダ!(残った1枚は佐倉の民俗博物館へ寄贈されています。)
彼はそのことを父に伝え、実物を見せるととたんに顔色が変わり、「お前が持つのはまだ早い」と取り上げられてしまったそうです。その後、その丸型天保は誰かに売却され、現在も行方は判っていません。
余りにも変わったものなので、古銭に興味がない人にとってはただの金属片にしか見えないと思います。
そのため絵銭としてこれらが飛び出す可能性が充分にありますのでご注意ください。

※最後の財閥型コレクターと言うべき大川氏の豪快な話。その資力は計り知れません。大川氏にとっては集めて研究することが目的であり、資産としての価値は二の次だったのでしょう。私もそうなりたいものです。いえ、気持ちではなく、財産家としてですが。 
 
11月13日 【天保仙人秘談1:盛岡でつくられた琉球通寶】

11月12日、天保仙人とお会いする機会を得て、古銭に関する様々なお話を聞くことができました。中には本当の秘話的なものもあり、全貌を示すことはできませんが、夢のあるお話もたくさん聞きましたのでその一部を記して行きたいと思います。


西南戦争の際、薩摩との戦いには東北の志士も多数駆り出されています。旧盛岡藩士もそうで、薩摩領内で戦っていたそうです。そのための軍資金として天保銭を持って行ったと言います。しかし、西郷びいきの薩摩領民は官軍側には物資を売らなかったなかったと言います。そのため、急遽贋造の琉球通寶を造っていたと言います。
鋳写の黄色味の強い琉球通寶を見かけたら、南部藩のものかもしれません。

※補足 おそらく伝承もしくは仮説であり証拠的な文献などはないと思いますが、現物を持たれている方がいるそうです。西南戦争の際はすでに天保銭の交換レートは8厘・・・原材料の重さの価値に暴落していたのですが、薩摩藩は天保銭を大量密鋳していた経緯もあり、領民がその受け取り拒絶をする理由はありません。売らなかったのは「明らかに薩摩の人間ではなかった」のが理由だと思うのです。
琉球通寶は薩摩の貨幣であり、琉球の地以外、領内にも流通していましたが、もともと見せ金的な存在でした。あくまでも噂話の類ですが琉球通寶が京都府内などで薩摩藩士の割符として使用されたという説を聞いたことがあります。贋造天保の話が本当であればそれは身分を偽装するものとして持参し、軍資金に混ぜて使用された・・・と、考えるのが自然な気がします。

琉球の銅替わりは一時躍起になって探していましたが、もちろんこのことを知っていて探していたわけではありません。また、この話が本当であるか否かを調べるすべもないのですが、近代作でない鋳写しの琉球がおそらく存在するのでしょう。真鍮質の贋造銭は良く見かけますがこれはもっと時代が降りますのでご注意ください。
なお、琉球通寶は大字と小字が同じ座、中字は別座の作だということです。個人的な感想になりますが、琉球の小字狭足寶は中字の覆輪刔輪の縮小書体に見えるのですよね。あの変化は本当に特徴的で、善悪は別として穴銭カタログ日本や古くは旧貨幣誌において、長反足寶が薩摩の作ではないかとされたのもわかる気がします。

※盛岡藩は戊辰戦争の結果、明治3年に全国に先駆けての廃藩置県で事実上消滅しています。したがって西南戦争に旧盛岡藩士が組織的に参加して、軍資金として琉球通寶を鋳造するということは歴史的につじつまが合わないという由のご指摘を受けました。
したがいまして本記事につきましてはもう一度精査が必要なようです。
 
11月12日 【謎の白銅質天保】
大和文庫から不知天保通寶白銅銭が届きました。白銅好きな私としては負けられないと、奮発しましたが、長郭手の白銅質はときどきあうものなのです。さっそく計測・・・あれれ、銭文径が大きい。なぜだか、銭文径が41.4~7㎜ぐらいで測るたびに違う。何だこの数字は。
ひょっとして本座の銀メッキか・・・返品の文字が頭をよぎります。
長径48.5㎜、短径31.8㎜・・・これは妙に小さい。なんなのだろう、このアンバランスさは。ひょっとして本座の銀鍍金か?
天の文字を拡大してその理由が判明。初画が太く中央ほど大きく盛り上がっている。輪にも不規則な加刀があります。地が盛り上がって天の横画と一体化してしまっているのです。天上刔輪という珍品がありますが、この品はそれに準ずる品。あるいは天上にあった鋳だまりを加刀修正したのではないでしょうか?
と、いうわけで銭文径は判らないものの私の不知銭コレクションの仲間入りになりました。
 
11月11日 【薩摩広郭の広穿と背大郭】
雑銭拾いをしていて、ときどき面白い(と自分が勝手に思う)品に行き当たります。
薩摩広郭は多くのコレクターが細分類を試みていて、正直に言って私もついて行けないレベルになっています。
一方で、分類から漏れた製作過程の小変化もあります。
右側は離足寶の類なんですけどお世辞にも深字とは言えません。珍しく画像の方が実物以上に見やすくなっていますが、現物を見ても文字が陰起していて、水戸の繊字かしら・・・と見誤りかけたぐらいです。これは薩摩広郭の末炉銭で、面郭の幅は2㎜を切り、穿内の広さは6.2㎜ほどあります。
一方でもう1枚の背画像は、偶発的に肥郭に変化したもの。面郭の幅は2.4㎜ほどあって穿内は5.2㎜程度です。
広穿の厚さは2.1㎜ほどの薄肉銭。分類上はともかく、製作上は深字ではないので重量は17.6gと、軽いことは軽いもののびっくりするほどではありません。一方の肥郭も23.8gとやや重いもののこれもたいしたことはない。それに探せば肥郭はたくさんあると思うのです。ただ、背側からみるとまるでおちょぼ口のような孔がかわいらしい。兄弟のような関係でありながら、これだけ違う顔を見せるという点が面白い・・・え、面白がっているのは私だけ?・・・失礼しました。
 
11月10日 【第10回穴銭友好クラブ大会報告書】
職員旅行に行ってきました。行先は千葉県内鴨川市の緑水亭。最近は職員旅行などははやらなくて、疲れるからやらないというところが多くなったと思うのです。疲れないようにという配慮で近場にして、夕方出発・・・だから期待していなかったのですけど、今回の宿は別格でした。
決して大きな宿ではないのですけど、部屋のしつらえや何気ないサービスなどもものすごく気が利いています。部屋の鍵が2つ用意されていたり、入浴後のドリンクがアルコールまでフリードリンクだったり。食事もものすごくおいしい。床が廊下も含めて総畳張りで・・・風呂場の中まで畳がある。海から離れていてけっしてロケーション的に良いわけではないのですけどさすがに房総の人気ランキングトップの宿。よくこんな旅館が団体でとれたと思います。
さて、添付した画像は「第10回穴銭友好クラブ大会報告書」。昨年の12月に開催されたようです。
下町古泉会・古文銭クラブ・歴泉会の共催のこの会は私は2005年に参加の記録がHPに記載されています。たぶん、第1回には参加していたと思います。しかし、古銭会にほとんど参加していない私は、この会の開催情報を得る事ができず、存在すら忘れかけておりました。
しかし、立派な大会報告書を拝見するに当たり、古銭好きは健在なんだなあ・・・と改めて思う次第です。
ページをめくると・・・記念写真・・・う~ん、みなさん立派な方ばかり。妙齢の女性はやはりおりません。
まあ、それは良いとして内容も充実した大会報告書です。編集者は七雄泉氏・・・古文銭クラブの会長さんだったのですか、いつぞやは失礼しました。そして例の背文太の安南寛永がしっかり掲載されてました。あれは40%ぐらいは私のものだったと思っています。赤坂氏の通貨と絵銭の違い・・・基本的なことなんですけどなかなか参考になりますね。
ところで、この大会は今年はいつやるんでしょうか?

旅館の備え付けのアイパッドでHPを確認。
かなりレイアウトが崩れていました。原因はアイパッドの文字の大きさの自動?調整機能。
パソコンより画面が小さいアイパッドは、文字を見やすく表示するようになっています。私のHPはもともと文字表示サイズは中を想定していました。ところがアイパッドやスマートフォンはそれでは見づらく、大表示になっていることが多いのです。
中と大では文字の占有する面積が大幅に異なるため、配置表を使ったレイアウトが大幅に狂うのです。これは困りました。
文字の大きさによってレイアウトが自由に変動するように調整する必要があり、面倒くさいけどこつこつやってみました。その結果、本年度の制作日記だけは読みやすくなったと思います。
 
11月9日 【離足寶もどき】
入札誌「穴銭30号」の応札はこれに賭けていました。画像ではなんてことない長足寶系の天保銭に見えますけど、拓本を見て下さい。
立派な離足寶に見えるでしょう?
拓本を見た瞬間にこれは面白いと思ったわけです。
良く見かける張足寶系のものは寶後足が弓張り状になり、かつ、輪に接するところがやや太くなっているものがほとんどですが、これはそうではない。また、寶前足もそれほど長く突っ張っているようではありませんので、やはり「長足寶」というべきものでしょう。
ルーペで拡大するとかすかに鋳走りで輪につながっているものの寶足は離輪しています。前足も軽く輪に触れているか否かというところ。結局、これはやや強めの刔輪によってこのように変化したものだと思うのですが、まあ、なんて中途半端なんでしょうか。文字は力強くて銅質も赤みがあって面白い品です。
長径48.8㎜、短径32.0㎜、銭文径40.6㎜、重量21.3g。

下段は直写という名称でしたが、立派な覆輪銭です。真鍮銭ぽく見えますがそうではなく、ちゃんとした密鋳銭です。
しかし、それ以上の特徴もあまりなく、地味な1枚です。石巻反玉寶の仕上げ銭はこんな色だったかしら・・・。でも、やはり材質は違います。鋳型が中見切(厚みの中央部分で鋳型が分けられていること)で作られているようにも見えます。
長径49.0㎜、短径32.5㎜、銭文径41.2㎜、重量21.1g。
 
11月8日 【背山と不思議な仰寶】
N氏から郵便物が届きました。数枚の鉄銭と1枚の銅銭です。内容は背盛濶縁、背盛鋳不足銭、仰寶鉄銭、21波鉄銭、背山鉄銭、仰寶銅銭。もともと東北地方は鉄器や刃物づくりが盛んな地で、工芸品の原料として廃貨になった鉄銭が大量に集められ残っているとも聞きます。そのような大量の遺物の中から今回のものは出てきたと思われます。
しっかり保管されていたと見えて錆も少なく美品です。
背山は側面が垂直になっているようで、密鋳鉄銭の仕上げとしては合格。背山は明瞭です。青寶樓師のいわく「昔はなかったもの」なのかもしれませんが、出現経緯や内容を聞く限り意図的なものではありません。画像を別の方に見て頂きましたが、ごく自然なものだそうです。ただし、これはあくまでも正規な流通貨ではありません。
背山鉄銭の掘り出し例は東北ではときおり聞かれるそうで、今回のケースもそれに該当する(初期の入手者が選別していた可能性あり)と思います。N氏はたまたまそんな原材料の鉄銭に出会い、少し興味を持って選る機会を得たそうですが、ざっと見ただけであとはこれら古銭は新しい命を吹き込まれて姿を変える予定のようです。(持ち主は別の方)
欲のないN氏はこれら数枚の古銭をサンプルとして私に贈ってくださったのです。
古銭収集家にとってはもったいない話ですけど、1枚1枚選別して全て販売しきるのは無理な話ですし、N氏の持ち物でもありません。せめて銅銭と背山、アなどの分かりやすいものだけでも頑張って救出してくださいと頼んでおきましたので、いずれネットに出てくることもあると思います。
ところで唯一頂戴した銅銭の仰寶のつくりがちょっと面白い。側面は不規則な横やすり。面背にも粗仕上げ目が走り、穿内は未仕上げ。延展らしいところははありませんが銅質などはまるで踏潰銭のようです。仰寶に踏潰銭は未発見のようですが、雰囲気的にはそう言いたい顔をしています。東北のSさんに聞いてもあまり見かけないタイプとのこと。面白くなってきました。
 
11月7日 【蹈鞴(たたら)製鉄:餅石と砂鉄】
東北地方の熱心なコレクターは密鋳鉄銭を一目見るだけで、これは県北の砂鉄とか鉱石由来の肌だとか区別します。本当にあっているのかどうかは私にはよく分からないのですが、微妙な製作の差をかぎ分けるコツをお持ちのようです。
良く聞くのが
「岩手県北の山の砂鉄でできた鉄銭は硬くて、やすりの刃が立たない。鉱石由来の物に比べて砂目が粗い。」ということ。また、鉄銭は銅銭に比べて硬いので、仕上げが効かないので、母銭段階できれいに仕上げるとも聞きます。すなわち、密鋳の鉄母は輪側面や郭内がかっちり丁寧に仕上げられていて、通用銭にもそれが現れています。
鋳銭事業は、その技術の他に金属材料・木炭・鋳砂の調達が必須で、東北地方はこれらが比較的に容易であったため、産業としてさかんであったようです。私の住む千葉県は鋳砂の産地でした。また、九十九里浜付近では砂鉄が豊富に採れたため、一の宮あたりではたたら製鉄が行われたとも何かで聞いた気がします。子供の頃、九十九里浜で遊んでいたいたとき、ほぼすべて砂鉄でできた真っ黒な砂の地層を発見して狂喜乱舞。バケツ一杯に採ってきたことがあります。
岩手県内は磁鉄鉱の産地であり、それが風化して堆積した砂鉄が豊富だったようです。また、釜石周辺の甲子川(かっしがわ)の河原には、磁鉄鉱がごろごろ。餅石(もちいし・べいせき)とか餅鉄(もちてつ)などと呼ばれているそうです。これは鉄分を70~45%含む鉄鉱石であり、たたら製鉄においては砂鉄とならぶ原材料。釜石の語源はどうもこの石が豊富に採れたことから名づけられた可能性が高いと思います。(画像はもち鉄百科というサイトから借用)
たたらでつくる鉄は、現在の製鉄方法と異なり、空気を吹き込むことができないため、鉄の中の雑成分・・・とくに炭素が多く含まれる鋼鉄になります。そのためとても硬く、打ち付けるととても澄んだ金属音が長く響きます。餅石=鉱石であり、純度が高いためおそらく滑らかな肌になると思われます。また、粘り気があるとは地元の工芸家のお話なので、炭素成分が砂鉄吹きよりやや少ないのだと思います。
明治維新によって屑鉄同然になってしまった鉄銭ですけど、高品質なので、鉄器や刃物の工芸家は原材料として大切に保管しているそうです。(東北S氏談話)
鉄銭は幕末には価値が下がったとはいえ、実際に21波写しをはじめ様々な鉄写しの通用銭が存在することから、たとえ利益がわずかであっても民間で鋳造されたと考えられますね。あるいは農機具や刃物を造る際の端材でつくるなど小規模であったのかもしれません。
背山についても正規の者ではないにしてもあながち存在を否定するものではなさそうです。(反省!)
ところで、Sさんから聞いたお話では21波鋳写鉄銭が浄法寺周辺で作られたとのこと。浄法寺=銅銭とばかり頭に刷り込んでいました。これもまた反省です。情報を提供してくださいましたS様、N様ありがとうございました。
 
西暦 和暦 焼損家屋 備考
1871年 明治4年 1123戸  
1873年 明治6年 1314戸  
1879年 明治12年 2326戸  
1899年 明治32年 2494戸   
1907年 明治40年 12390戸   
1913年 大正2年 1532戸   
1921年 大正10年 2141戸   
1934年 昭和9年 24186戸 死者行方不明者2716名 負傷者12592名 
合計 8回  47506戸  
11月6日 【松前通寶 背政】
4月13日の記事にある謎の絵銭・・・どうやら松前通寶というらしい。何かで記事を見つけて、おおよそを記憶したのですが何で読んだのかが分からない。ご存知の方はお教えください。
松前藩の旧領地であった函館は、明治以降たびたび大火に見まわれています。下の表はあるHPから抜き出したもの。焼失家屋数については資料によって別の記録数も見えましたが、いずれも大変な火災であったことは間違いないと思います。松前通寶は昭和9年の函館大火の後の復興を祈念して造られたらしいことまでは覚えています。問題は、だれが作ったか、そして背の政の文字の意味するところ、そしてその記事を何で読んだかわからないことです。どなたか教えて下さい。

→ 画像表示のあるサイト(ヤフオクでコイン収集日記)

今気づきましたが上記サイトにある画像は、私の見ていたものと同一原品ですね。と、いうことは他の品はいったいどうだったのでしょう?
※別の資料を発見しましたので、2015年9月24日の制作日記において上記表は修正しました。
 
11月5日 【赤の美】
私は白銅銭が大好きだ・・・と公言しております。つい最近も難波濶縁の母銭の白き肌の魅力に負けてふらふらと応札してしまいました。(結果は負け。)白銅銭は錫分あるいは鉄分の配合が偶然多いことなどによるものですが、純白に鋳出されたその姿はシャープで、さながら日本刀のような美しさ。黒や茶色ばかりの世界に突然現れた変異種です。目立たないという方がおかしい。
ところで私が好きなのは白銅ばかりではありません。実は赤い銅色も大好物なのです。
白銅銭が日本刀のような完成された美しさであるのなら、赤銅銭は円空仏や棟方志功のような荒々しい美、未完成な美があります。稚味雅味、わびさびとも表現される美は日本人独特の感覚なのでしょうか?
この美しさを最近収集していた画像から・・・
左は最近ネットに出て盛り上がった秋田小様。いかにも秋田、見事に秋田、強い光に当てたら溶けだしそうな柔らかな赤です。この赤色好きなんですね。
それに仕上がりもだらしなくて・・・間違っても上出来ではありません。背側が擦れていますけど・・・これでいいんです。もう一枚は琉球通寶の中字。琉球の中字はありふれていますけど、當の田の横画が縦画から離れる十進當は中字の中では少ない品。一般に文字が太くなる癖があるのですけど、これは全体が荒れ肌でだらけています。こんな顔をしていても火を被ったのではなく未使用色の残る美品?なのです。
琉球通寶にはいろいろな色調があって面白いのですけど、この中字の顔には痺れましたね。ただ、困ったことにこれらの品はいずれも私のものではありません。こんな物でも好きな人がいるんだなあ・・・と改めて思います。
 
11月4日 【高津銭小頭通背元の出現】
Ⅰ氏はもっぱら雑銭党でして、これまで数々のご投稿を戴いています。短尾寛方冠寶通用銭の発見者で、昨年は正徳大字背佐母銭、今年もすでに張天保など鬼神のごとく飛ぶ鳥を落とす勢いです。
そのⅠ氏がまたやってのけました。画像の品は高津銭小頭通背元・・・ピンとこないかもしれませんが、各種泉譜に掲載されています。
この品は俯尓背元と並び、母銭サイズのものしか世に出ておりません。俯尓背元は赤褐色、そして小頭通背元は黄褐色であるとの説明で銅色は違うものの書風は非常に似ています。それが不幸の始まりなのか、この小頭通背元は昔から贋作の噂の絶えないものになってしまっています。いわく寛永堂作・・・あるいは古楽堂作と・・・。
そんな小頭通背元が雑銭の中からひょっこりと姿を現したそうです。それもネットで買った雑銭の中から、吸い寄せられるようにⅠ氏の元へ。泉運と言う言葉を聞きますが、それはたゆまぬ研鑽と努力があってのこと。ただ、この方の泉運はそれだけでは説明できない何かがあるような気がします。鬼気迫ると言いますか、神がかり的です。
さて、画像で拝見しただけですが、この小頭通背元のつくりはすごく素直です。Ⅰ氏いわく接郭の母銭とつくりはそっくりだそうです。若干、鋳だまりなどがあるので完全な母銭とは言い切れないのかもしれませんが、雰囲気的には母銭かな?
雑銭の中から出てきたことにくわえて、違和感のないつくりなど、小頭通背元の地位を復権させても良い気がしますね。皆さんいかがですか?
 
11月3日 【余談 商品切手発行税】
切手の頃を書いていて久しぶりに思い出しました。初めて社会人になったとき、私の担当は商品券だったのです。当時、その商品券には「商品切手発行税」なるものがかけられていたのです。つまり、商品券=商品の切手だったのです。発効主が商品券を発行しようとするときは、その額面の4%程度を市町村に納めなければならないというもので、当時は東京や横浜、川崎、名古屋などの大都市では必ず課せられていました。
税を納めた証拠は券の右肩に市章等を印字して示すのですが、もともとは1枚1枚スタンプを押すもの。しかし、ビール券など大量に発行されるものはあらかじめ自治体の了承を受けた上で印字入りで印刷し、自治体にまとめて申告して納税する仕組みだったと思います。
発行主は印刷代に加えて、税金を支払わなければならず、結構な負担なのですが払わないと発行できません。大都市で発行する商品券と地方で発行する商品券は実際にかかるコストは4%以上違っていたはずなのです。
こんな事務経費を負担しても商品券を発行できた理由は、いわゆる「退蔵」があったため。
商品券発行では利益はでなくても、発行から換金までのタイムラグで金融的利益を確保できたからです。ましてやタンスの奥にしまいこまれてしまえば、発行主は丸儲けです。また、換金されれば売りたい商品が動くので発行主としては不満がない。と、いうわけで商品券はとてもおいしい事業でした。
過去形で書いた理由は、今はそれほどでもないから。
と、いうのもサラ金業界がこの制度に目をつけて、資金調達手段にしたからです。販売店と結束して問屋などから商品券を月末支払いの約束で購入して、そのままそれを換金先に入金し現金化します。大口購入者に対しては、発行主は販売リベートを支払いますのでそれが儲けになり、金利をとったら二重の儲け。支払いは1ヶ月先でその間の金利負担もない。
発行主は印刷代・税金等の経費を負担しますし、肝心の商品は全く売れないし、換金までのタイムラグもほとんどありません。
1980年代から90年代にかけてこの手法が横行し、発行数量が急激に伸びたので、私もそのメカニズムを研究しました。しかしながら完全に違法ともいえないので取り締まる方法がありません。経費ばかり増えて商品が動かない状況は深刻でした。詐欺ではなく、販売代金はきちんと入るのですから。
発行数量が異常に増えてしまったとき、納税印のある券の印刷が間に合わないことがあります。そんなときは印の印刷されていない商品券を役所に運び、1枚1枚に印を押してもらわなければなりません。これはとても面倒くさい作業なのです。押印作業の手伝いは役所の人と共同で行います。専用の印刷機にかけ、印字漏れやミスをチェックし、番号も確認します。手押しのスタンプの場合もありました。
今では商品券といえば図書券程度で、ビール券などはほとんど見かけなくなりました。新聞販売店への規制が厳しくなったことが原因なのですけど、淋しくなりましたね。ところで皆様、恵比寿ビールや日本ビールの商品券なんて見たことありますか?缶ビールのギフト券も容量や商品メーカー別にそれこそ何十種類、何百種類もあると思いますよ。 
 
11月2日 【切手と葉書】
S氏のお便りにあった切手銭・・・今でこそ切手や葉書は郵便事業専用語ですけど、もとをただせば貨幣の言葉なんですよね。
切手銭と言えば、上州で使用された鉛の代用貨幣が有名です。切手は「切符手形」を省略した言葉が語源で支払いの約束の証書・・・約束手形、金融の為替手形のようなもの。ちなみに為替(かわせ)も替銭(かえせん)からの転のようです。葉書は支払いの約束を小さな紙などに書いた証文・・・端書きから転じたもので、伊勢の山田葉書は日本最古の紙幣と言われています。
切手銭とはハイパーインフレと決済用の銭の不足が同時に生じた幕末期において、鉱山労働者等に賃金支払いを約束するための証文・引換券だと考えれば良いと思います。(寛永通寶一文銭は明和年を最後に約100年作られていないのです。鉄一文銭はありましたが幕末でわずかに0.25文の価値しかなく、明治維新のときには0.08文の価値しかなくなりさらに暴落は続きますから・・・)
鉱山はもちろんのこと鋳銭場はときとして買い物のできない山の中の作業場であり、そんなところで価値の低い大量の銭をもらって重たい思いをして持ち帰るより、街に出て交換できる引換券を持ち帰る方が楽ですから・・・。交換価値についても発行者が定めることもできるという利点もあります。S氏は盛岡銅山もそのような性格のものだったと推定されています。
切手のその他の意味としては「借用証文」「金銭前払い証券」のケースもあったようです。

ところで島銭の中に「切銭手」というものがあります。古銭書にはあまり解説などがないので、つい切手銭と間違えそうですが、現物の鐚銭を観察すると非常に薄っぺらいつくりをしていることが分かります。(淳化元寶が有名です。)これは当時は銭をまとめて流通させるときに縄を使ったのですけど、それを切ってしまうほど薄っぺらい・・・「縄切銭」から来たものだと推定しています。私はずいぶん前に手放してしまいました。余談の余談ですね。
 
11月1日 【背山の位置づけ2】
東北のSさんからさっそく反響がありました。(ありがとうございます。)
実は、記事を書きすぎたと反省し、訂正を加えようとした矢先のことでしたので、渡りに船といいますかドンぴしゃでした。
以下、メールの内容をほぼそのまま掲載します。

仰宝背山については、当地でもいろいろ言われています。仰宝は、元々山無背又は山形無背と呼ばれていたようです。鋳銭地も栗林とされていました。
背山が最初に出現したのがいつなのか不明ですが、大正8年の貨幣第10号に鉄銭が掲載されていますので、小川青寳樓氏が昔はなかったものというのは誤りです。少し付け加えると、「こういう品は無かった。」だと思われます。
(中略:以下は個人的な見解ということです。)
背山銭は、尾去沢鉱山の
山内通用の通貨ではなく切手銭として栗林座で作られた物と(個人的には)推定しています。しかも山内通用銭は鉄銭ではなく銅銭です。(中略)
方泉處4号をご覧ください。現存する背山母銭と称するものの中にこれがはたして母銭かと思われるものがたくさん存在します。では鉄銭は誰が作ったものなのかという疑問が生じますが、私は
鉄銭は私鋳・密鋳銭だと考えてます。当地では鉄四文銭の雑銭の山の中から背山を選り出した人は何人もいます。ただし状態は山という字が何とか分かる程度のものばかりです。面背ともに深くきれいに鋳出されているものは、小川青寳樓氏が昔はなかったものと言うものです。少し考えてみれば分かることなのですが、外川目座や栗林座で正規に作られた背盛鉄四文銭で面背がきれいに鋳出されているものを探し出すのに一苦労します。(以下略)

地元の研究者のご意見なので、これが現在の結論でしょう。やはり正規通貨ではなく支払いの代用通貨であるとのことですが、あくまでも銅銭の話。鉄銭は私鋳とのことですが、果たして通用流通を狙ったものか否か・・・。仮に私鋳であったとしても、貨幣事業としてはおそらく採算にはあわないはず・・・これは私の意見ですけど。小川氏の言わんとするところは、本物はあるだろうけど、玉石混交だよというところでしょうか。鉄銭なんて普通は誰が見ても美しいと思うことはないと思います。そんなものが好きな私を含む変人どもにとって、石だろうが鉄屑だろうが宝石に見えてしまうから、気をつけなはれや・・・というところ。
ところでNさんの手に入れた品は南部藩の名のある家系から出たらしいです。ただ、複数の背山が見えることから、意識して集められたものなのかもしれません。
 
10月31日 【背山の位置づけ】
東北のNさんからお便りが来ました。(ありがとうございます。)その中に背山の鉄銭画像が3枚もあり驚きましたね。Nさんはさほど収集歴は長くないと思われるのですけど、背山なような珍銭を3枚も選り出されているとすればうらやましい限りです。
そんな話に水を差すようですけど、背山にも妖しい話が存在します。
いづみ会譜の説明にもあるように背山は南部貨幣史において「慶応4年3月、尾去沢銅山の山内通用銭として大迫銭座において委託鋳造された」とされているそうです。これによると背山は12文銭以上の高額通用銭としてつくられたことになり、一時的な銭不足対応策とも言えます。当時の労働者の工賃はおおむね200~300文程度だったと推定されます。(小田部作の台場通寶と言う空想銭の表示価格が250文であったのも、当時の人足の相場であったからですね。)山内通用はいわば、臨時の高額貨幣であり、その種類には
①廃棄銅母銭に極印を打った物
②背に山の文字を入れた物
③絵銭を流用した物

などがあったとされます。しかし・・・調べる限り慶応元年の段階で鉄4文の市場流通価値は地金価値程度の2文相当だと推定されています。慶応4年10月には明治に改元される上、政治経済も不安定なこの時期に新規鉄銭をつくる必要がはたしてあったのか?
少なくともこんなインフレ時期に屑銭になりかねない背山の鉄銭を作る意味はほとんどありません。一方、
銅4文銭の公定交換レートは鉄一文銭24枚相当であり、鉄4文銭では12枚相当と、もはや額面など関係なく量り売りの状態に近かったようで、信用通貨としての機能はほぼ失われかけていたようです。(この交換レートは3年後にはさらに銅4文銭が鉄一文36枚、鉄4文18枚になります・・・ああ、ややこしい。)
こんな状況でしたので、いくら東北が情報伝達の遅れた地であったとしても、山内通用銭が「慶応4年3月、尾去沢銅山の山内通用銭として大迫銭座において委託鋳造された」という南部貨幣史に書いてあることそのものが極めて怪しいものではないかと思う次第。少なくとも背山の銅銭ならともかく、鉄4文銭などどうして新規に作られたのか、まったく理解に苦しみます。
また、銭は紐に通した形・・・緡で通用するのが常であり、極印や背文じゃ区別がつかないとも思われます。可能性があるとすれば博打の賭け銭・・・いわゆる代用通貨が独り歩きしてしまった例なんじゃないかとも思えるのですけど・・・。
山内通用で背山というのもできすぎた話。何のひねりもセンスのかけらもないとは言い過ぎかしら?。
現物がものを言う世界ですが、あの小川青寶樓師をして「かつてはなかった品です。」と言わしめたいわくの品であり、母銭として文字のサイズも内径もさほど大きくないなど、過度に熱狂すべきものではないのかもしれません。まあ、転換期のあだ花的な存在ですから、あくまでも資料的な価値+αとして考えるべきでしょうか。もっと情報が欲しいですね。
※画像は頂戴したもの。背山は背景色を消して見やすく加工してあります。 
 
10月30日 【仙台みやげ】
仙台に行ってきました。と言っても仕事です。最終日の新幹線待ちの時間で街を徘徊。地元老舗の藤崎デパートのおもちゃ売り場の隣で古銭売り場を発見。やはりコイン店はここ東北でも絶滅危惧種らしい。本当は子供の土産にご当地ベアを探していたのですが、どうも仙台は出ていないようです。ご当地ベアは2000円程度で買えるティディベアのご地域限定版のことで、全国各地の空港や高速道路のサービスエリアや駅、観光地の売店で売られています。北海道、福島、羽田(2色)、長野、富士山(2色)などと我が家でも増殖中です。まあ、ご当地ベアでなくても、ティディベアであれば良いわけで、ディズニーのクマやらそれ以外も周囲からもらっていて子供の部屋はクマだらけです。
さて、藤崎デパートではほぼ穴銭は皆無に近いものでしたが、ばら売りコーナーの中に寛永通寶が50~100円でありましたので、3枚ほどゲット。
1枚は密鋳銭かと思ったのですが、あまりにもボロボロすぎて判定できない。多分焼け錆でしょう。と、いうわけでごみ箱直行。1枚は古寛永の力永。1枚は手にした時から判る・・・長門銭。
永柱が明らかに仰ぐので裕字なんですけど、ずいぶん文字が崩れていて勁文ぽい感じですね。まあ、記念品ですからこんなことはどうでもいいんですけど。
 
10月28日 【謎の記念銭 八橋?】
ネットで変なものを発見、適当に応札していたら落札してしまいました。出品名は「八橋通寶」。でも一見して通寶の文字はなく、書体違いで八橋八橋と記したものに見えます。いえ、果たして八橋と読むかもわからない。背は家紋・・・剣かたばみです。
天保銭の形から見てもしかすると大橋義春氏のものじゃないかな・・・などと推測し、値を入れていました。
結論から言うと兵庫貨幣研究会の名誉会長の八橋喜代松氏のものらしいということは判りましたが、いつつくられたものかは不明。「本邦泉家泉会祝寿記念銭拓集」二も未掲載でした。(巻末に名刺銭として掲載有。)
記念銭はかなり古い時代から作られたのではないかとも言われていますが、実際に見たことはほとんどありません。やはり鋳造技術は門外不出なので江戸期以前においては特権階級クラスしか作れない代物。それに民間がこんなものを造ったら、贅沢だと言われておとがめを受けかねないですね。個人の記念銭は大正期~昭和にかけてのあだ花でしょうね。
※これから仙台に出張です!しばらく更新はお休みです。
 
10月26日 【大和文庫のHPから】
即売品のコーナーにあった大型の沓谷銭。外径26.17㎜ということでこれはまさしく母銭クラス以上の巨大銭です。
沓谷銭は大ぶりのものが多いので、25㎜ではびっくりしませんけど、さすがに26㎜は巨大であると脱帽するしかありません。大きいものには焼け伸びを疑ってしまうだれたつくりのものがとても多いのですが、これはきりっとした顔をしているように感じます。
大きいものが好きなのは古泉家としては普通の嗅覚。雑銭にまじっても目立つでしょうね。しかし、このようなものはどうしてできたのでしょうか?手本銭?それとも記念銭?古寛永には時折とびきり大きなものがあり、位置づけが判らないのです。背景には何かの風習があるのだと思います。
 
10月24日 【ちょっと特別な密鋳銭】
ネットで秋田小様が連続で出ましたが、いずれも負けてしまいました。2枚目は6万円を超えたと思うのですが、ちょっといきすぎかなとは思うものの、私も5万円過ぎまで頑張ってしまいました。
変人たちにはかなわないぞ・・・と変態が嘆く世界です。秋田小様は独特の赤銅質・・・誰が見てもあれは東北の阿仁銅山の色・・・と言うと思います。実際の鋳地は加護山かどうかはわからないものの、東北のどこか・・・と言うところは間違いないでしょう。
現代は金属の組成分析が科学的に進んでいて、鉛の放射性同位元素を調べればおおよその地域の確認ができるところまで進んでいるようです。ただし、お金をかける事と古銭を傷つけることになるので、そんなに簡単なことではなさそうです。(非破壊検査もあるかもしれません。)
ところで、先日入手した密鋳銭の中に1枚おもしろいものがありました。
真っ黒な俯永の写し・・・ただ、仕上げが面白く郭内は平らにやすりがけされており、側面は砥石仕上げだと思うのですけどほぼ真っ平らになっています。いわゆる安政期俯永と雰囲気はそっくり!
いや、見る人によっては安政期とするかもしれません。私は側面のロクロの仕上げの筋が見えないので密鋳銭にしただけです。
安政期銭は小字以外希少な存在で、ひょっとしたらと大喜びするものなんですけど、最近はちょっと覚めていますね・・・私。
この手の物は後でやすりをかける手段があるので、贋作は作りやすいと思います。したがってこのように真っ黒に変色したものは判定する方法がないのです。(もちろん私の眼力ではと言うことです。)したがってもしかしてと大騒ぎしたところで、価値は密鋳銭のレベル。でも、個人的にはこういったものが出てくると嬉しいし、実際に特別なものとして集めてますね・・・はい。
 
10月22日 【庄内天保】
ネットに出ていた謎の天保通寶。輪の上に庄の刻印があります。一分銀に庄内一分というものが昔からあり、明治維新前後に横行した劣位一分銀・・・すなわちニセガネと区別するため、山形県の庄内藩において識別印を打ったのではないかというもっともらしい伝承があります。昔からこの存在は知っていますが、古銭語事典にも載っていないし・・・よく判らない存在です。幕末の極印銭の伝承は非常に妖しいものが多いので話半分だと心得ていますが、このように天保銭にきれいに刻印が打たれているところを見ると、贋作の試うちかなあ・・・と思う次第。
そういえば以前も書いたと思いますが数年前、賞山堂さんのお店で、秋田4匁6分の秋・融の極印の打たれた天保銭を見たことがあります。不知天保通寶分類譜別巻にも同様の品が掲載されていて、そのあまりの見事な極印に思わず食指が動きそうになりました。あの極印はどうみても4匁6分銀判の極印そのもの。極印がニセなのか、本物の極印を打ったのか、それとも巷に流通している銀判が怪しいのかわからなくなってしまいます。
 
10月19日 【廓の記念銭】
分厚く不思議な絵銭です。この手の物を以前Hさんから拝見させて頂いたことがあります。それは見事な天保銭型絵銭・・・たぶん、文鎮なんじゃないかしら。画像の品はネットオークションに出ていた品で、分厚い点は文鎮を思い浮かばせますが、表面にはんだ付けをした痕跡が残っていますので、ひょっとしたら筆の水差しかなにかだったのかもしれません。
堀江廓は大阪にあった色町らしいのですが、詳しくは知りません。
古銭業界ではその昔、吉原の大文字楼の南京こと村田市兵衛が収集家として有名でした。まあ、私なぞは女遊びにお金を使うぐらいなら古銭を買う変な人ですので、嫌いじゃないけど、散財するのはまっぴらごめんですね。
堀江は大阪府西区にかつて存在した花街だそうです。六字会は調べましたがよく判らない。何等か宗教的なにおいがしますね。
花押は何かを表しているのでしょうけど判読できません。左下は「入元」と読めるように思えますけど定かではありません。堀江で六というと、堀江六人斬りという殺人事件が出てきますが、それとこれは関係あるのでしょうか?
まあ、どう見ても記念品的なものなのでそんな縁起の悪いものであるはずないでしょう。

※つるや・・・を崩したように見えてきました。
 
10月18日 【スズペスト】
スズは自然では鉛との合金で産出することが多く、その色合いから日本では白目と呼ばれていたそうです。融点は231.9度と327.5度の鉛よりも低く、やわらかくて加工も容易です。他の金属とも相性が良く、合金化することも簡単です。なかでも銅との相性は抜群。少量の錫の熔解液に銅を入れて熱してゆくと、800度ぐらいで銅がどんどん錫に融けてゆくそうです。銅の本来の融点は1083度ですから、煙草の火ぐらいの低い温度で融かすことが可能なのです。融点降下現象とか凝固点降下現象と呼ばれるこれらの現象の発見は、冶金において革命的変化をもたらしました。(ちなみに錫と鉛の合金のハンダは180度あまりの融点です。)
錫は柔らかく、加工が容易な金属。凝固による収縮が0.2%程度と非常に小さく、流動性もあり、鋳写作業にはとても具合の良い金属でした。収縮率についていざ探すとなかなか良い資料が見つからなかったのですが、「古銭小話」というサイトに詳しく書かれているのを発見しました。ちなみに、このサイトにおける検証値と実物の収縮率に隔たりがあるのは、おそらく砂笵の乾燥収縮の数値がこれに加味されるのではないかと思われます。
このように錫は非常に役に立つ金属で、加工しやすく合金化することでその性質も変化させることが可能でした。ただし、錫にも欠点があります。純度の高い錫は柔らかいだけでなく、温度変化に弱いのです。13度以下から組織が変性し、膨張、崩壊も始まります。ただし、多少なりとも合金化されている場合はその変化温度は下がり、-10度ぐらいまでは大丈夫だそうです。
しかし、一部分の崩壊がはじまると、その進行を止めることはかなり難しくなるそうなのです。この現象をスズペストと呼ぶそうで、古銭の錫母銭でこの状態になったものの保管には細心の注意(温度管理)が必要になります。(少なくとも冷やさない。13度以上に保つ。)
錫母を収集されている方はご用心を!
ただし、多少なりの合金化によってこの現象は緩和できるそうで、先に述べたアンチモンはその典型合金。ヨーロッパではピューターと呼ばれて銀食器に次ぐ高級食器だそうです。
崩壊防止には銅、銀なども有効のようで、正倉院に納められている錫薬壺(すずのやっこ)は今から1300年前に遣唐使によってもたらされたものだそうですけど、ほぼ崩壊は見られていません。はたして何の合金なんでしょうか?

不調の原因が判明!
ヤフオクの画面がうまく表示されない、表示されても写真が出ない、やたら遅い・・・の原因が今夜やっと分かりました。ウィルス感染だのパソコン本体の故障だの散々疑っていじくっていましたが、通信のモデムの不調だったようです。本日、リセットボタンを押してみたところ、信じられないぐらい早くつながるようになりました。ここのところネットサーフインができなくてEXELプログラム作成に走っていましたが、これで大丈夫・・・というかモデム交換をお願いしています。HPソフトも更新して最新版(クラシックバージョンですけど)にしました。
 
10月17日 【背異替の覆輪痕跡】
出た直後から気づいていましたが、お化けがいましたね。広郭で鮮やかな覆輪で銅肌も異質。最初に見たときは一瞬仙台広郭かとおもいました。背異替り濶縁の母銭です。しかも、覆輪痕跡がはっきり写っています。
この銭種は昔は水戸銭だったのですけど、小川青寶樓師が仮に久留米としてしまったため、困ったことに私も久留米で覚え込んでしまっています。しかしながら、どうも最近は水戸に覆りそうなんですね。まあ、それはともかく・・・
天保通寶母銭図録にはこの背異や正字の類の母銭類が何枚も載っているのですけど、覆輪については全く触れられていません。
濶縁の錫母銭の存在から私も「覆輪刔輪マニアック講座中の改造銭物産展」において、どうも(通用銭の)覆輪ではなさそうだ・・・という結論を出していました。しかしながら、今回出てきたこの画像の品に覆輪痕跡がはっきり残っていることから、やはりこの類は本座通用銭の覆輪改造母銭からできたものだと言えることが分かります。もともとこの類は「正字背反郭」という名前がありました。これは私が良く言う、覆輪変形の痕跡なのです。今回の発見はこの類が覆輪銭であったことの証明になるとともに、もう一つ重大な疑問点を提示していると思うのです。
すなわち、かの錫母銭の存在はいったいなんなのか?本座通用銭を改造した原母銭から写したものにしては大きすぎるのです。
かねてから私には疑問があるのです。現代には多数の錫母がもたらされていますが、本座細郭以降の錫母に崩壊現象が見られない。専門的になりますが純錫は一定温度以下になると金属の崩壊がはじまります。したがって古い錫母銭は必ずこの現象が見られるのですが、なぜか天保銭の広郭や文久の錫母銭にはこの現象が見られないと聞きました。崩落しない錫合金には「アンチモン錫合金」があります。古い活版印刷によくみられたもので、アンチモンは日本の産出がかつては非常に多かったと聞きます。しかしアンチモンは日本では明治時代になって盛んにつくられるようになったと聞きます。もっともアンチモンは古代は錫と混同されていたとも・・・。したがって崩落しない錫母銭にこの金属が含まれている可能性は0ではないのですけど・・・。今回の品は古銭界を揺るがす発見なのかもしれません。
 
長径48.65㎜ 短径32.25㎜ 
銭文径41.2㎜ 重量28.2g 
10月16日 【肉厚の長郭手】
大和文庫の落札品が届きました。最近はあまりめぼしい収穫がないので、今回はどうでしょうか?落札は1品だけで不知銭長郭手削字通寶厚肉と言うタイトルで出ていた品です。まずはフォルダーに入った状態で観察。
見た目・・・少し小さいけれど本座に良く似ています。銅色もそっくり。削字とされていましたが、尓の頭がわずかに加刀されているぐらいでほとんど本座と同じ。銭文径は少し縮んでいそうですけどたいしたことない。穿内の仕上げはべったりしたやすりがけですね。総合すると本座の一度写しというところかと思いました。
フォルダーから出してみると、たしかに厚肉で重い。これについては間違いなさそうです。側面の極印は正三角形を上下に重ねたような星形の桐極印。・・・と、ここまではさして期待していなかったのですが、重量を量ってぶったまげました。
重いとは感じていましたが28.2gもあるのです。肉厚も3,2~3.3㎜あります。不知天保通寶分類譜の長郭手の肉厚銭は26g台、私の手持ち品でも不知品の27g超えは細郭手の1枚しか無かったと思いますので、文字通りのチャンピオンになりました。こいつはラッキーな拾いものでした。
 
10月14日 【おおぶりの文久銭】
唐松堂氏から文久永寶遊泉記が届いていたのですが、ここのところ不調で机の上にそのままになっておりました。開いてびっくり、私のHPについて書いてくださっていました。ありがたいことです。
今回も大ぶり銭について熱心に調べておられるようで、私がH氏から頂戴した大ぶり銭についても触れられていました。
文久銭は大きいようで27㎜台がせいぜいで、27.5㎜ではもうかなり少ない存在です。唐松堂氏が把握されている限りでは27.9㎜のK氏蔵品の細字垂足寶が最大のようです。27.8㎜はそれに次ぐとの事。風格からして堂々としているので珍しいでしょうね。
28㎜のものが出てきたらチャンピオンです。ただし、この手の物は焼けうち平めが存在しますので十分な注意が必要です。
右の品はこれでもかというほど分厚い。そういえばちゃんと計測していませんでした。こんど測ってみよう。 
 
10月13日 【メクラの古銭学】
古銭の本を読んでいると、何度か検校(けんぎょう)という官位の名を見ます。有名なのは幕末の検校 建皇堂宇都宮俊良で、幕末の大コレクターです。彼の17回忌が事実上の日本初の古銭会であったとされています。
ところで、この検校という官位は盲目の障害者の最高位。江戸時代に目の見えないものが生きるのは大変なこと。宇都宮俊良はもともと高崎藩士だったようですけど、幼くして失明した彼は鍼灸師として藩医として活躍したそうです。そんな宇都宮俊良ですが、目が見えなくても、指先の感触と鼻で古銭をかぎ分けたという逸話があるようです。服部愛鵞堂、小山静好堂、村田元成、狩谷棭斎など当時のそうそうたる収集家の遺愛コレクションを続々と買収し、それは後に三菱財閥に引き継がれることになったそうです。
さて、もう一人の古銭にまつわる検校は塙保己一(はなわほきいち)。
彼はとても不器用で琵琶師、按摩、鍼灸師、三味線師にもなれず、一時は死を考えたほど。そんな彼が好きな学問に目覚め、その驚異的な記憶力と観察力で頭角を現し、ついには将軍家斉の謁見もかなったほどの人物。
その塙の影の支援者が日本の銭貨学の祖の草間直方でした。草間はその研究の過程で塙と知り合い、その才覚に惚れて出資をしたのだと思われます。その塙が古銭において一つ有名なことを言い出したそうなのです。(だからこの記事を書きました。)
それが、和同開珎=和銅開寶説。どうやら彼がこの説の言いだしっぺで、それを狩谷液斎などが広め発展させたようなのですが、残念ながら詳しく書いてある資料がありません。(岡田稔著、銭の歴史に触れられていました。)
ところでメクラの障害者がなぜ生きてゆけたか・・・これについては当時の風習があったそうなのです。それは盲目の者に金を貸しても利子をとってはいけないという決まり。この幕府の決めた福祉政策を逆手にとって、金貸しを始める者が非常に多かったそうでして、視覚障害者の9割は金融業が裏行だったようで、この収入がばかにならなかった。幕府側は知ってか知らずか、官位を用意してその地位にあった名義変更料支払いを求めたそうで・・・。したがって、前出の二人はどうなのかは分かりませんがなかには悪徳金融に近い検校も多かったそうなのです。
塙のパトロンだった草間直方は後の鴻池財閥の祖であり、その財閥は三和銀行をへて三菱東京UFJグループに合流します。実際には宇都宮俊良のコレクションがその後にどうなったかは分からないのですが、歴史はどこかでつながっているなと感じます。
 
10月12日 【ちょっと復活!】
しばらく更新してなかった・・・といっても1週間足らずなのですが、今年は異常なほど記事を書いていましたから、どうかしたんじゃないかと皆様お思いだったでしょうか?
パソコンが不調に陥るとほぼ同時に、私自身も少し不調でして、現在は大風邪をひいております。ただし、寝ているのはもったいないのでエクセルでプログラミングをやっておりまして、ようやく90%完成したところです。不調・・・てぇのは本当です。仮病じゃないよ。
インフルエンザの予防接種を受けたとき、かなり疲れていたのと、その晩に仕事場に呼び出しを受けて半徹夜気味になったのが効きました。
さて、休んでいる間に面白い画像を関西のS様から頂戴していましたので紹介しましょう。
再刔輪銭の張足寶の類なのですけど、少し書体が変わっています。削頭天(短天)、大頭通で寶前足が長い。通尾が短いので大点尓寶の類かもしれませんね。類似カタログでは短尾通の名前ですし・・・。
Sさん、これは大変良い買い物ですよ。私が入手したら風邪なんかふっとんじまうんですけど・・・。半死半生です。
改めて教えてもらったサイズを調べると長径48.3㎜、短径31.45㎜、銭文径39.8㎜とずいぶん小さい。これはやはり珍品ですね。目が覚めました。
 
10月7日 【コ頭通の不思議】
マ頭通背仙と言えば、新寛永を収集しはじめた者なら一度はあこがれる品です。お金さえ出せば絶対に手に入らない品ではないのですが、雑銭から拾い出すことはまず無理なんではないでしょうか?この銭は、銭座からの出荷の際にブランドを示す荷札として緡の端につけられたと云います。背仙は仙台銭座のブランドマークであり、プレミアム付のおまけのようなもの。現存数から見ても数百枚から数千枚に一枚つけられたのではないかと思います。
島屋文も島屋無背のブランドマークではなかったのかなあ・・・とは以前も書きましたっけ。
このマ頭通背仙はじつに分かりやすいもので、面を見れば通のしんにょうがぐにょぐにょ曲がるマ頭重揮通という分かりやすい書体。しかも背には仙のマークがばっちり。表からも裏からもすぐに判ります。ところで、マ頭通が珍しい・・・なんていうと一般の人はきっと???でしょう。
新寛永通寶一文銅銭はなぜかコ頭通が当たり前で、マ頭通はこの仙台銭と不旧手の類だけです。私なぞはすっかり感覚が麻痺していましたが、良く考えるとコ頭通は奇妙な書体なのです。
通頭がコなのはおそらく篆書体の名残で、多くの中国銭も楷書体ではマ頭通が見られますけど、隷書風文字においてはコ頭通が標準。おそらく寛永通寶においてもこれが引き継がれたのではないかと思うのです。貨幣における文字と書き文字の形が異なるなんて実に不思議です。ただ、文銭に限って言えば行書風にも見えます。いずれにしてもマ頭通の方が少数派というのがこの世界・・・変です。
 
10月6日 【少し復旧】
ヤフオクの画像が良く見ることができなくなった原因と思われる箇所を修復。(JAVASCRIPTを最新のものに更新しました。)少しイライラが減少しましたが、そのままの方が無駄遣いしないで済んだのかも。
その間はしばらくEXCELのマクロプログラム作りに熱中していました。半分仕事、そして半分遊びです。
表計算ソフトはロータス123時代から使っており、自動処理のマクロプログラム作りはもう20年以上自己流でやっています。仕事面でも自分でプログラムを作って処理していますし、事務員としてはかなり優秀なのですと自画自賛。
では、パソコンについて詳しいと言うとそうでもない。興味を持ったもの以外には手を出さないので、携帯電話系だの画像処理・通信系についてはからきしです。
それでもなんとか不調から脱せそうです。また、皆さまお騒がせをします。
 
10月3日 【しばし小休止?】
毎日のように更新していたのが少し本業(副業)が忙しく小休止していました。パソコンが不調なのもあります。パソコンの進歩は目覚ましく購入した時はINTELのCOREi3の高機能機種だったのですがすっかりポンコツになってしまいました。このHPも1Pあたりの容量が巨大になり、メモリ不足で編集に障害が出るようになっていました。文章を打ち込んで変換できるまで数秒待たされてしまうのでいらいらします。やむなく、メモ帳ソフトなどで文章を下書してコピペしています。HPソフトを更新しようとしたらDVDドライブが故障していたことをすっかり忘れていました。(外付けドライブを発注。)最近はヤフオクの画像がうまく表示できなくなってきていて、これまたいらいらします。
キャッシュデータの問題なのかとにかく遅い。ネットサーフィンまで困難になってきました。と、いうわけでしばし小休止。充電しなおします。(買い替えないとだめかもしれません。)
 
9月30日 【楔形粗造天保】
最厚部3.4㎜、最薄部1.9㎜の変形天保銭。まあ、穴は開いているみたいだし汚いし、マニアじゃないと買わないな・・・こんなもの・・・という代物。側面の極印も穴ぼこ式なので一瞬、色を付けた真鍮銭か、大正期あたりの青銅のおもちゃかと思いましたが、どうやら粗造の天保銭だと分かりました。
長径49.1㎜、短径32.2㎜、銭文径はよく判らないけど焼け伸びたのか本座と同じぐらいあるようです。
この天保は手に取った感覚より重く22.8gありました。材質に鉛を多く含んでいるのか、重く感じるのです。そして銅質は赤黒い。長郭手の赤いものは珍しい。そしてその中央の郭は、やすり仕上げではなく、タガネで叩ききった痕跡が生々しく残っています。切断面は赤い銅色が残されています。と、いうように汚い天保銭ですけど、面白い情報がたくさん詰まっています。まあ、数寄者の世界ですけど。
 
9月29日 【鋳銭作業図の謎とき】
石ノ巻銭座工程図にある絵図の中で、読み方のわからなかった工程について、松本章氏の「コイン百話 日本編」の挿し絵の中に見つけました。この挿絵は鋳銭工程図を真似て写したものと推定できますので間違いないとは思います。それによると謎の作業は「いかけ」。元図の文字も漢字3文字に見えるので、ちょっと意外な気がします。この作業は銭の側面をやすりで削る作業で、台を使って銭串を横にして削る「台摺り」との一連の作業で、銭の湯道(耳)を粗やすりで落とすこの作業は俗に「耳摺り」とも言われていると・・・何かで読んだ気がします。ですから元図(左)の文字も「耳摺り」じゃないかなと思っていましたが、「いかけ」とは思わなかった。いったいどんな漢字を充てるのでしょうか?
「いかけ」と言えば、鍋釜の穴を修繕する「鋳掛屋」を思い出します。もっともこの職業は現代では死語でしょうね。キセルの修理、清掃をする羅宇屋、刃物を研ぐ砥ぎ屋なんかと並ぶ金属修理業なんですけど、知らない人の方が今は多いでしょう。
「いかけ」かあ・・・なんとなくピンときませんね。「鋳(湯)道を欠く」作業のことでしょうか?詳しい情報をご存知の方お教えください。
 
9月27日 【CVSにて】
研修の仕事の朝、コンビニエンスストアの店頭でこんな本を見かけました。題して「貨幣と紙幣BEST200・・・1300年の歴史を繋ぐ日本貨幣の真実・・・貨幣を制するものが歴史を制す!」と、まあタイトルの勇ましいこと。価格も手ごろだったので即購入。内容をざっと読むと、戦国大名から始まる歴史ものに貨幣をからめたものと判明。グラビア印刷はきれいですけど私の好きな穴銭は真っ黒けで良く見えないのが残念。じゃあ、何がBEST200なんだ・・・と思って見ていると、どうやら巻末に200枚ぐらいの画像が解説もなく並んでいます。
裏表紙を見ると、古銭がたくさん額に入れられたよく見る会社の公告・・・この会社の宣伝かしら?・・・とも思う次第です。
時間つぶし本だと思えばこんなものかなと思いますけど、はたして専門家がどれぐらいかかわったのかしら、短時間で編集したのかなあ・・・貨幣の専門の本と言うより歴史読み物と雑学の本。それでもコイン収集趣味に刺激があれば良いかなとも思います。
 
9月25日 【福袋】
ネットには天保銭や寛永銭の組み物が良く出ます。現在、注目を浴びているものがいくつかありまして、ひとつが8枚の珍品と称するもの。
南部大字(正座)、 浄法寺小字写(鋳放し)萩方字(白銅質)不知細郭手容弱、会津短貝寶、不知張足寶2枚、薩摩広郭(純白)とまあ、ほんまかいなという内容です。しかも「もう少しグレードの上の物も有ります。まとめて買って頂ける方がいればまとめて譲ります。」とのコメント付き。これは気にならないという方がおかしい。上記の品物をどう評価するかですが、正当なら2桁は間違いなく行くと思うのです。果たして「白銅色」がどの程度なのか、画像だけでは判断が付きません。それにコメントまで評価したらもっといっちゃうかも。くわばら・・・くわばら・・・
もうひとつは何とも言えないピンボケ画像ながら、曳尾が3枚はありそう。問題は長郭に見えるものがが不知銭か否かという事。あと広郭の良く分からないものが1枚入っていますが、深字か接郭か会津あたり。こちらも福袋感覚です。
欲しいものを買うのが王道で、欲しくもないのにふらふらと手を出す病気の私。先日も「不知銭」との表示に「まさかね・・・」と思いながら手を出し、見事に本座細郭の並銭をGETしたばかり。「不知銭」というのは出品者にとって不知銭であって、クレームをいったとしてもかわされてしまう気がします。郭の仕上げに若干違和感があるので、それを根拠とされてしまうかな。安物買いの銭失い人生全開です。
 
9月23日 【こんなのありました!】
昭和55年の月刊天保銭の誌上入札欄にこんな記事がありました。
広郭手濶縁厚肉(49.2㎜×32.5㎜)3㎜の厚肉銭で砂肌と製作から仿鋳銭である。広郭手には珍しい濶縁になっている。・・・ というもの。拓で見る極印は小さく、昨日の天保銭と同じですね。消去法で不知銭に分類されたのかしら。ちなみに下値は3000円スタートでした。

これで不知銭の可能性がぐっと深まった気がします。
ところで・・・退点文ですけど、はずれでした。丈文は鋳乱れの結果による鋳だまり効果。大文は探したけどよく判らない。つまり画像マジック。最近のカメラは接写すると魚眼レンズ効果が出るみたいです。
「大山鳴動してネズミ一匹」でした。とらぬ狸の皮算用。
 
9月22日 【何だったのでしょうか?】
画像の天保銭は厚肉23.5gとありましたが、非常に気になりました。ぱっと見た目は水戸接郭。覆輪で明らかに文字が縮小しています。しかし、接郭にするには郭が立派すぎますし、背の刔輪度合いも弱すぎます。では土佐額輪かなあ・・・とも思うのですが、極印の雰囲気は土佐なんですけど、土佐額輪はこのような銅色は珍しいし、額輪らしい製作特徴にかけます。それに額輪は薄肉軽量銭が圧倒的に多く、重量銭はあまり聞いたことがありません。
画像を加工して調べましたが覆輪写しの縮小銭文径には間違いありませんでした。意外にも広郭手の特徴の明らかな不知銭は非常に珍しい存在で、納得のゆくものは本当に少ないのです。私は製作が違う・極印が違う・・・といった複数の状況証拠で判断しているのですが、書体や銭文径などに明らかな差が少なく、不知銭と言い切る決め手に欠けるのです。こいつの場合、特徴ははっきりしています。でも不知銭だと断言する勇気がない。こんな額輪も接郭も出会ったことがないのは事実。どうも煮え切りません。
失敗してもともとと思い、遊び応札していましたが追随されてつり上ってしまったので撤退してしまいました。でもこいつはいったいなんだったのでしょうか?
土佐額輪の肉厚 40%
水戸接郭の広郭 20%
画像マジック   10%
不知広郭手覆輪 30%
こんなところでしょう。額輪や接郭でも変わりものなので夢を追いかけても良かったのですけど、途中で覚めてしまいました。もったいなかったかしら。入手された方、ご報告をお待ちしております。
 
9月21日 【白銅大型母銭】
本来母銭は収集対象外にしているのですが、この白銅色には痺れてしまいました。25.6㎜と言うサイズも中字にしてはかなり大きな方です。中字の母銭の相場はせいぜい2万円。この色に倍の値段以上つけてしまいドキドキしていました。勝っても負けても後悔しそうです。文銭の中字通用銭にも白銅銭があるそうですけど、私は実見したことがありません。あるいはこのような白銅母銭のなりそこないが中字の白銅銭として扱われているのかもしれません。もっとも、中字の母銭に白銅があるというのも正式に聞いたことはありません。(通用銭よりはありそうな気がします。)いずれにしてもまた狂乱してしまいました。・・・色の白いは七難招く。顔面蒼白になりませんように。

※油断していたら負けてしまいました。家計的にはこれで良かったのかもしれません。しかし、大きいし白くてきれいです。名品かもしれません。
 
9月20日 【変な退点文】
ネットで発見した退点文18枚組物。私の他に数人が目を付けたようですけど、おそらく見ていた方はこの2枚を目当てにしていたと思います。出品者は退点文の基礎分類ができている方なので、おそらく判っていて出されているのだと思いますが、私の目がおかしくない限り明らかに変化しているもの。それも極めておかしいレベルです。
左は文が巨大です。退点文の「大文」、「濶文」、それとも「巨文」とでも言いましょうか。 右は文の横引きが退き、最終画が上に突き抜けているもので、まるで丈の文字みたい。これはずばり「丈文」でしょう。いずれも画像上での判断で、まだ手元には届いていません。しかしこれだけくっきり写っているのですから、画像マジックだけは勘弁願いたい。ただし支払った金額は送料込みで1枚当たり255円ほど・・・結果が外れでも文句は言えませんね。
 
9月19日 【雲の上の戦い】
私も数十万円単位の戦いはしたことがありましたが、こいつは未知の領域、雲の上の高貴な戦いです。見ての通り古和同の銀銭らしいもので古い収集家のものらしく美しい小箱に入っています。おそらく知っている方はこの小箱が誰の作品ということまで判っているのだと思いますが、残念ながら私には判りません。1000円からはじまって95万5000円まで行ってしまいました。出品した古物商はびっくりしたと思います。 
この手の物は判る方にはすぐ判り、分からない者にはいくら説明を受けたところでちんぷんかんぷんです。

下々の者は身分に相応した戦いをしています。白いもの好きとしては目下のところ文銭母銭の白いのと天保銭の白いのが気になっています。文銭は正統派ですね。一方、天保銭は砂目が無く何だろうという感じでした。側面を見る限りは近代のつくり・・・石膏型からかなあ・・・何のために作ったのかわからない。肌の感じは加賀千代か朝鮮天保系の白いやつによく似ています。安物買いの銭失い・・・。
 
9月18日 【深淵について】
天保銭の不知銭で私が良く分かっていないもののひとつに「深淵」があります。勢陽譜には「谷の輪にそう部分深く、中央ほど浅い特異の作」とあります。刔輪技法の過程の一種なのですが、地の部分を斜めに輪に向かって削られているため、指で触れると中央が分厚く、輪の付近が浅く感じます。(図①)まるで碁石に触れているみたい。こいつは手に持った方が判る不知銭なのです。
一方で図②のように1~2㎜の幅でノミのようなもので溝を掘ったものや(図②)、小刀で深くぐりぐりえぐった刀跡痕のようなもの(図③)も不知銭にはあります。
①との違いは、①は中央から輪に向かって傾斜をつけて彫っていますが、②と③は輪に沿う形で彫られています。さらに②については輪と並行方向にタガネを入れたものと、輪に対して直角方向にタガネを入れたものがあり、前者の方が少ないと思います。
みな淵が深いことに変わりはないのですが、どれを本家深淵とすべきなのか・・・。それと読みが「しんえん」なのか「ふかぶち」なのかもよく分かっていません。とりあえず私は図①を本家とし、「ふかぶち」の読みを正解にしていますが、つい「しんえん」と言ってしまいますね。「しんえん」も正解かもしれません。
左の画像は数日前に出現した不知天保細郭手。覆輪刔輪が明らかで落札値が46600円でした。
面の画像で、右側の傾斜がきつく深淵加工がされていて、もしかすると細郭手の深淵だぞ・・・などと思いながら見ていましたが、高嶺の花になってしまいました。この加工の意図するものは何か非常に興味津々なのですが、触ってみたかったというのも本音です。
左から
中央の文字から輪に向かって長い距離が傾斜している①タイプ。

輪の際が幅広く彫られている②タイプ。これは輪に沿って平行に彫られている。輪に向かって直角に短くに斜め下に彫られている物のほうが多いと思います。

輪の際だけが深く垂直に彫られた③のタイプ。私は刀跡と名付けました。當上のえぐりはすごい。
 
9月17日 【ネット観戦記2 なんちゃって御用銭】
こいつも目立ってましたね。難波御用銭は新寛永通寶の中のトップクラスの人気銭。御用銭の中では最上格でしょう。ところが贋作があまりに多すぎてどれが本物なのか私にもよく分からない。古銭大名の異名を持つ朽木昌綱公のコレクション(大英博物館蔵)にこの難波御用銭がたくさん含まれていました。(2012年5月21日の制作日記)それに比べると迫力ないし、普通の難波銭を少し大きくしただけみたい。色彩もパッとしない。結局、落札価格が53000円でしたけど、夢買いの値段としてはこれが限界というわけです。
ところで、御用銭の出現理由が未だによく分かりません。5月10日にそれについて(内廷銭説)を書きましたが、3月2日に書いた嘉祥祝い(6月16日)説やふいご祭り(11月8日)の記念銭だってことも考えられます。風貌から見て少なくとも記念硬貨であろうことは判りますので、それなりに立派なつくりでなくてはいけないと思います。
正直に言うと、
私所有で堂々とHP掲示している正徳御用銭は通用銭と同じ銅色で特別感が無く気に入りません。かなり妖しいと思っていますが、勇気が無くて真贋の確定ができないでいます。しかし、それを言うと折二様など、製作がみすぼらしいのですべて怪しいことになってしまいそうです。(なかには特別展示室に掲示してあるような素晴らしく製作の良いものもあるのですけど・・・)結局この手の物は私にはまだ良く分からない・・・と言うのが今の本音。タイムマシンがあれば良いのになあ。

9月15日の記事の真相
丁銀のつくり方が間違って伝わった最大の原因は・・・溶けた金属のことを「湯」と表現しているのを、「熱湯」と間違えて解釈したあわて者がいたようです。それを妄想を膨らませて、あそこまでの図にしてしまうのはもはや暴走ですね。
 
9月16日 【ネット観察記1 もしかして細郭母銭】
今年はネットオークションの戦果はほとんどなくなってしまいました。とくに天保銭は過熱気味で私に粘る余地すら与えて下さいません。掲示の天保銭群は最近出現したもので、ひと目でこれは厳しい競争になるかもしれないな・・・と思ったもの。琉球通寶はすぐ判るでしょう。その隣に赤黒い秋田広長郭があるのもすぐに判ります。問題は下段でひときわ黄色い輝きを放っているもの・・・本座細郭の母銭じゃないのかしら。この組み物は秋田からの一連の出品物ですので、通常はこの地に本座母銭が流通することはないのですけど役物がぽつぽつ混じっていたので、コレクターの遺品の可能性がありました。
ただ、画像情報が少なく確証をつかむ事が出来ず・・・というより一歩踏み込む勇気がありませんでしたね。最終的には53000円まで到達していました。それでも細郭の母銭は市場価格なら8万円以上するのではないでしょうか?うまく行けばまあまあの儲けもの・・・失敗すれば4万円以上の損かな。失敗のときのショックが大きいけど、賭けとしては悪くない感じか・・・。
いやいや、私は母銭コレクターではないぞ、儲けを考えたら失敗するぞ、・・・と自分に言い聞かせ、自重、自重。
しかし、結果は気になります。こいつはどうだったのでしょうか?
 
9月15日 【古銭書の中の変な記事】
本に書いてあることが正しいとは限らない・・・ということは私もたびたび書いています。あえて贋 作や参考銭を正規の位置に載せていたり、作者の思い込みで書いていたり、なかには明らかに意図的 に流したニセ記事と思しきものもあります。
明治、大正時代の研究家の春布庵こと中川近礼氏も何かと疑わしい人で、売名のためなのか、熱心さによる暴走なのか判りませんが、一流の研究者でありながら各地でトラブルを起こして古銭界から追放されています。彼が発見したという古寛永の水戸銭類の遺構についても捏造の可能性が極めて高いと、現代の古寛永研究家の谷巧二氏は述べています。
同じように貨幣研究者として名高い花林塔こと三上香哉氏の記事にも怪しいものが散見されます。佐渡銭に曳尾を充てたのも彼の仕業で、ペンネームを変えて記述していることもあり意図的だと思われます。彼は劇場型の演出を好むのか、攻撃的、断定的、思い込み的な記述が多く見られますので、判断に非常に困ります。この二人は馬が合ったようで、中川が追放処分を受けた後も交流が続いていて、関東大震災の当日も会っていたと三上はその手記に残しています。
古銭書に書いてあった嘘話の代表では、丁銀や豆板銀のつくり方についての記述があります。ボナンザ(別冊)などには丁銀や豆板銀は「熱湯をいれた木箱の中に溶かした銀を注いだ」とあり、私はずっとそれを信じていましたが、金属加工に詳しい天保仙人様にあっさり「あれは大嘘」と言われて驚いたことがあります。湯の中に融けた銀を入れたら水蒸気爆発が起きるそうで、危なくてできるはずがないそうですけど、記述された方は何を根拠にしたのでしょうか?
おそらく、だれかが「こんな方法だったのではないかなあ・・・」と言ったのを鵜呑みにした人がいて、それが口述伝播していったのではないでしょうかね?もしかして、贋作者を懲らしめるためにニセ情報を流したとすればすごいです。

※実際は砂型を使用していたと思われるそうです。(仙人談) 
→ ばさら日本史 というサイトがあり、ニセ金をつくる というコーナーが面白い!
 
9月14日 【嵌郭の天保2】
平成15年の銀座コインオークションに出品された長郭手削貝寶で、私の記憶が間違っていなければ天保仙人様が収集誌上で嵌郭痕跡が明瞭であることを発表されていたと思います。たしかに面背の郭に継ぎ目の筋がばっちり観察できます。このようなものは稀ですね。目立ちませんが覆輪銭です。
覆輪をする理由は銭の鋳写しによる縮小の防止のため。計算上では金属の縮小だけで1回の写しで0.7㎜ほど縦方向に縮小します。しかも皮肉なことに覆輪をするとその作用でさらに縦方向の縮小が強まります。この点は天保通寶覆輪刔輪マニアック講座に詳しく書いてあります。密鋳銭の使命は見つからないこと。そして天保銭も紐で連なった挿し流通が多かったことから、大きさ、重さをそろえることはとても重要だったのです。その工程では・・・本座銭を改造して母銭をつくる。しかしそれでは母銭が1枚ごとに手作りになってしまうため、それを原母銭として母銭をつくる・・・こうして銭文径縮小銭は生まれてゆきます。ここまで慎重にやっているわけですから、長郭の場合は嵌郭もそれほど目立ってはいけないのです。
ただ、いくら外径と重さ重視だといっても密鋳銭なんですから本体に似ていることに越したことはないはず。だから長郭手の嵌郭は控えめなはずなのです・・・けどねえ。
話は変わりますが、江戸時代の日本の識字率は実は世界一でした。経済の中心地の江戸に限って言えば80%ぐらいあったという資料もあります。だからあまりに変な書体はいけないんじゃないかなあ・・・と思うのですが、実際には萩曳尾なんて本座じゃないのにものすごい自己主張です。私が変な書体だと思うのは実は現代の感覚で、江戸時代は草篆入り乱れた筆書きの世界・・・文字として成立していれば、形には寛容だったのかもしれません。
 
9月13日 【嵌郭の天保】
嵌郭という言葉は加護山銭(阿仁銭)で覚えました。柔らかい金属を用いて銭を鋳造するとき、外輪を仕上げする際に穿に角棒を通して固定する・・・そのとき郭の部分に力が加わり、変形したりがたつくので補強をしたのだ・・・というのが私の解釈。一方で天保銭の嵌郭と言えば不知長郭手の嵌郭があまりにも有名。ただし、長郭手嵌郭は加賀千代のお店で良く売られていたことから、出現直後からあまり評判がよろしくない。
有識者いわく、なぜ長郭に嵌郭が必要なのか・・・。

実際に、天保銭の外輪の仕上げ方法は円形の寛永銭と異なり、棒などにはささず1枚ずつの手作業だったことが当時の金座銭座図からも読み取れます。外輪を整える作業に使用しているやすりはいわゆる「和やすり」で、おろし金を作るように手作業で目立てをした結果、上ぞり形になっていることがわかります。これでは一括仕上げは難しいので、寛永銭のように大量に棒に挿す必要もないので、郭に強い圧力がかかるわけではありません。したがって
長郭に嵌郭をする理由がない・・・というわけですね。
しかし、嵌郭の天保は確実にあります。例えば土佐額輪。それに秋田小様も嵌郭であると思いますし、仙台天保もおそらく嵌郭でしょう。これらに共通しているのは、いずれも覆輪を伴っているという事。
嵌郭は覆輪変形を防ぐ補強手法だったのではないかと思うのです。ですから前記の天保銭はみな細郭の嵌郭ですけど、長郭手への嵌郭も少ないながらあるのです。
有名どころでは張天保嵌郭や斜珎嵌郭。
私の収集品にも2枚ほど嵌郭と思しきものが紛れ込んでいました。こいつらは多分かなり希少種だと思います。いずれも覆輪銭であることがポイントで、覆輪銭でない天保銭の嵌郭は、存在理由が考えられないので、今の私なら贋作だと判断します。

嵌郭の技法が使われた可能性が高い長郭手
いずれも覆輪の縮形の重量銭であるのが面白い。

長郭手 覆輪縮形嵌郭異極印
長径47.95㎜ 短径32.05㎜ 銭文径39.95㎜ 
重量23.2g

※貼り合せ技法で作られています。

長郭手 覆輪小字背広横郭(嵌郭?) 
長径48.70㎜ 短径32.10㎜ 銭文径40.25㎜ 重量23.6g
 
文久は草文に限らず意外に銭径が小さい。掲示品は記事とは関係ない比較的大ぶりのものが散見される細字・繊字系のものですけど、さすがに27.8㎜は目立つ大きさです。28㎜超えはあるかしら?
9月12日 【唐松堂さんからのお便り】
文久永寶遊泉記63号が届きました。ひとつのことをこつこつやる・・・ということはなかなかできそうでできないことで、私のように面白そうなことがあると自分を抑えられなくなる浮気性の人間には絶対真似ができません。収集家にも色々なタイプがありまして、興味を持ったものに手を付け食らいつく何でも屋さんから、一つのことにこだわって集中的に集める探求型までいます。前者には絵合わせのように集める方が多く、後者は物量型の収集家が多いと思います。前者は過去の資料に基づいて集めそろえる楽しみが、後者は自分で新しい変化・価値を見つける楽しみがあります。
私はと言うと前者タイプの興味を持ったものにふらふらと流される遊牧民。
こつこつ努力して新発見するなんてことはまずなく、ラッキーで当たりを拾うことを期待している怠け者なのです。それでもこのホームページも10年になりましたが、そもそも動機が集めるのに飽きてつくりはじめたのが、情報集めが面白くなってやめられなくなってしまっただけであり、収集の目的がHPづくりに置き換わってしまっただけでして、そろそろ疲れが見えてきた今日この頃です。
さて、7月24日の制作日記に草文細郭の大様銭の記事がありまして、その中で「外径なら27.5㎜以上のものはなかなかないんじゃないかしら」という口から出まかせの予想を書いておりましたら、唐松堂さんと大分の坂井さんのお二人が真剣に撰銭をしたようです。
その数、あわせて1万枚以上!
その結果、草文では外径27.5㎜はたった2枚の出現だったそうです。27.4㎜でさえ6枚しかなかったということですから、図らずも予想どおりでした。これからは迂闊なことは書けませんね・・・唐松堂様、坂井様、ありがとうございます・・・そしてご苦労様でした。
 
9月11日 【文献三昧:太田保氏のこと】
関東のTさんからボナンザ項目別総索引と趣味の教室を無償譲渡頂きました。ありがとうございます。また、秋田貨幣研究会の籠山閣菅原氏からは第16回みちのく合同古銭大会研究発表資料(改訂コピー版)と第28回みちのく合同古銭大会研究発表資料が届きました。28回は今年の発表分ですけど、16回は江刺銭の研究分類の基礎資料が掲載されている貴重なもの。密鋳銭マニアにとっては聖書のような存在資料です。趣味の教室は存在こそは知っていましたが、初心者向けのカタログだろうと決めつけていましたが、どうしてどうしてなかなか読み応えのある内容のようです。編纂者の太田氏は休刊していた趣味の貨幣(1956年~?)の再刊を狙ったものと思われます。(趣味の貨幣は29巻まであるという情報は確認できましたがいつまで続いたかは不明)趣味の教室は5,6巻がなかったのですけど古本のサイトで発見して発注してしまいました。
太田氏はコインブームの仕掛け人ともいうべき人で、貨幣カタログの創案者であり、年号別の現行コインアルバムも氏の創案です。また、入札誌を始めたのも通信販売を手掛けたのも氏が草分けらしい。オリンピック記念硬貨にも関与していましたし、外国コインを日本で自由に販売できるようになったのも氏の功績です。また、貨幣カタログ以外にも天保通寶、寛永通寶、絵銭などの各種泉譜を発行して、マニア的な収集者人口をも増やしました。収集備品のアイデアも色々出しているはずです。貨幣商協同組合も細道の会も氏がいなかったらできていなかったと思いますし、天保仙人様も氏のお店でアルバイトをしながら古銭の勉強をしていたと聞いています。
残念ながら氏の事業の多くは上手く続かず、現在はお店もなくなっていますが、氏の功績は現代古銭趣味の歴史の中に語り継がれるべきものだと私は思っています。
私は大学3年生頃に、(いつもは電車通学でしたがたまたま時間があって気分転換に乗った)バスの車窓から偶然お店を発見して、途中下車して立ち寄った記憶があります。渋谷の宮益坂の途中の脇路地にあって、けっこう広いお店でした。もしかすると天保仙人様がアルバイトで店番をしていたかもしれません。
 
9月10日 【打製銀寛永當四銭】
右は麗悳荘泉譜の昭和9年版に掲載されている古拓本です。打製寛永については1年前ほどの2013年の9月頃にも特集記事として書いてありますが、そこにない種類ですね。まあ、この類は絵銭的なものですから何が出てきてもおかしくないと思います。
麗悳荘泉譜に掲載されている多くの品を見ると・・・非常に妖しいものもかなり存在します。贋作だと決めつけることもできないのですけど、ただただ貨幣としてはねえ・・・というものもあるのです。
この時代、未曽有の古銭ブームであったようで、しかも古銭を集めるのが一種のステータス的な意味合いもあったようなのです。したがって、見る目のない旦那相手に妖しいものを売りつけて生計を立てるブローカーも多かったと思います。佐野英山氏などもその一人で、旦那からとんでもない屈辱的な命令を受けてもニコニコ応待して、その分は妖しいものまで織り交ぜて高額で売り抜ける技はピカイチだったとか。一方で後輩の面倒見は良く、何より知識と目は確かであり、嗅覚に優れフットワーク軽く色々な珍品も持ち込むので銭幣館も「憎めない存在」であったと認めています。
珍しい古銭が入ると精巧なレプリカをも作成してそれも売って儲けたというきな臭い話も聞きます。
時代が経つとこれらも見分けがつかなくなるようでして、今では本物として流通してしまっているものもあると思います。最近の私の収集物もだんだん旦那化していまして、気が付けば妖しいものだらけになっています。珍しいもの、変わっているもの、人が持っていないものは妖しいものなんです。それでも欲しくなってしまうから収集者心理は怖いですね。
 
9月9日 【ボナンザINDEX】
ボナンザ誌には創刊号(1965年9月)から16巻12号(1980年12月)までの全185号の「項目別総索引」(B5版48ページ)が発刊されていると関東のT様から情報を頂戴しました。また、お譲りも頂けるそうです。
ボナンザは1984年9月頃までの出版ですので非常に助かります。ありがとうございました。
こんなことを書いたからには・・・いつか資料公開をしなければいけませんね。大変ですけど・・・。
おまけの画像は大正14年貨幣第73号に掲載された鈴木中二氏の「私鋳天保」です。その後、「大天保」と改名されて各種泉譜を飾ることになりますが、希少品なのかほとんど出現を聞きません。類似カタログには載っていないと思います。当時の評では「東北筋の私鋳銭の母銭」であり「稀有の珍品」とのこと。大貝寶で離郭にちょっと似ている雰囲気に見えますけど・・・新規銭文ですね。実物を見てみたいものです。
 
9月8日 【資料検索用INDEXづくり】
私のやり残していることのひとつとして「ボナンザ・収集の記事の資料検索用のインデックスを作ること」があります。ただ、かなり面倒なことなのでなかなか気分が乗りません。一時期、貨幣でつくりはじめたことがあるのですが、うまくゆかず途中でやめてしまいました。
文献から資料を探すのは大変な労力なので、研究を行う上では必要なのですが、過去にこのような作業を行ったのは旧貨幣誌を分類発刊した天保堂瓜生有伸氏ぐらいしかおりません。
現在はエクセルのような便利なソフトがあるので、複数のキーワードで検索できるようにすればとても便利です。それともどなたかそのようなものを作られた方はおりませんか?
と、思っていたら収集のホ-ムページにバックナンバーINDEXができていました。これを検索用に分類すればかなり調べやすくなります。一歩前進ですね。収集さん、ありがとう!
引き続き、ボナンザのインデックス資料作成をどなたかお願いします。
 
9月7日 【玉寶小字(通用銭)が出た!】
文久永寶で熱くなる人なんぞ、大方日本には20人ぐらいしかいないと思うのですけど・・・ネットを眺めていてこんなものを発見してしまったからさあ大変。ぼおっとしていても目が覚めました。この萎縮した文の形は見逃せません。文久銭の中の島屋文ともいうべきとんでもない大珍銭の玉寶小字です。しかもこのつくりはどう見ても通用銭ですね。あるんですねこんな書体の文久銭が。ネットオークションには何度か出ているのですが、このような形での登場は初めてです。500円スタートで買えたらすごいのですけど、負けたらしょうがないつもりで行きました。文久童氏がその昔に貨幣に出品した際に「この種には極めて稀に母銭を見るが、中にはそれを試鋳銭とみなす人もあるが、その歴然とした子銭があるだから試鋳貨と見るのは穏当でない。単に母銭として母銭として取り扱うべきである。氏の母銭も文久中の珍品であり、その子銭たる本品はそれ以上稀観の品で蔵主自慢の最愛品である」・・・とのコメントがあります。(昭和9年5月貨幣第182号より)
※私の参戦が眠っていた猛獣たちを刺激をしてしまったのか、あっという間に10万円突破、20万5000円と言う驚異の価格でフィニッシュ。こいつは拍手ものです。
 
9月6日 【好きになれない】
古銭の真贋についてはいつの時代も論争になります。
文献がすべて残されているわけでもなく、多くは実物の製作を見て真贋を判別するわけですから、これはまたやっかいです。憎むべきは贋作そのものであり、そういうものはやはり泉界から追放、浄化すべきだと思うのですけど、この作業、だれも積極的にやろうとしていません。高額な取引が生じているわけですから、たとえ
贋作の可能性が99%あったとしても1%の本物の可能性があれば、むやみに否定もできないというのがこの世界。浄化作業は他人の財産を間接的に否定する行為になりますし、まして矛盾があろうものならば痛烈なしっぺがえしが待っています。
貨幣誌に穂泉こと小泉建夫氏が「古銭叢話」というタイトルと「耳口健士」のペンネームで貨幣界の裏話・本音を寄稿されています。とても勇気ある行為だと思いますが、亡くなってからの暴露話ですから、小泉氏とて生前にはなしえなかったわけです。これは小泉氏の遺志であり、良心の呵責の結果なのかもしれません。
この私も見聞きしたこと、感じたことを素直に書いているわけではありません。まっすぐに書いていないことや、オブラートに包んで書いていること、多分贋作だろうと思いながらもそのままにしているものがたくさんあるのです。影響が大きいからです。
正直に書いても、良く書いた!とは決して言われない気がしますし、それに書いた内容が間違っていないとも言い切れません。結局、私も贋作99%だと思っていても1%の望みが捨てきれない弱い人間の一人なのです。(お願いだからほっといてくれ~!)
過去の大家の書いた文献や泉譜にも謎かけ表現がいくつもあることが分かってきました。それはおそらく大家も公言しにくかったことだろうなあ・・・と思うことなのです。銭幣館、田中啓文氏ぐらい大物になれば話は別なんでしょうけど・・・。

ここでいくらか正直に書くとすれば、例えば石ノ巻銭(室場銭)反玉寶の類は、はじめて入手した現物に接したときの印象において「好きになれないな」と思いました。あの鋳肌、金質、風貌で、なぜ古の大家は賞賛したのかが不思議でした。もともと出現の経緯からしてきなくさい。(木村昌古堂が大正初期に東京に持ち込んだ。当初は鋳放銭ばかりで人気が無かった。すると後仕上げのものが出現しはじめたという。)調べる限りは反玉寶はグレーゾーンに位置するものでありながら、それなりの由緒もあること(密鋳銭として某資料館に展示されていたらしいこと。)も判明しています。しかし、やはり主観的なイメージでは「好きになれないもの」のままなのです。市場での流通を考えた銭は、それなりの顔を持っているというイメージというか、わたしなりの願望・ロマンがあるからでしょう。したがって私には
反玉寶は流通のための貨幣というより生活の糧のためにつくられた民鋳銭のイメージが払しょくできないままなのです。幕末の試鋳貨幣の多くも貨幣の香りというか真剣味が感じられないですね。だから試鋳なんでしょうけど。文久様の肌も好きになれないです。寛永銭系で粗い黄褐色の肌を持つものはほとんど好きになれません。まだ、自分の所有物にも色々なものがあるのですけど、根拠があるわけでもなく、気が滅入りそうなので今は口をつぐみます。
「好きになれない」感覚は多くの古銭を見てきた結果です。真贋の証拠があるわけではなく、必ずしもその感覚が正しいとも限りませんが私はこの感覚は大事にすべきだと思います。
 
9月4日 【なんちゃって小頭通】
入札誌穴銭にあった俯永小頭通の拓です。つまらないものなのですがあることに気づいて心躍らせた方も何人かいらっしゃると思います。私もその一人。それは・・・寛の右肩の輪に凹みがあるから・・・そして小頭通といなればもう、明和期小頭通との関連を疑うしかないでしょう。しかし・・・永の形が全然だめですから、やはりこれは俯永でしょう。実は興味本位で私が落としました。その結果、立派な俯永でした。前の持ち主も寛冠の横の小傷が気になったようでほじくってしまったようです。
8月1日との微妙な差・・・とくに永の形・・・を見て下さい。微差ですけど。夢破れて山河あり・・・。
 
9月3日 【張天保も出た!】
これは全く気が付かなかったのですが、どうやらネットオークションに張天保が人知れず出ていたようなのです。競合も少なく2人だけの応札だったとか。私も毎日のように観察しているのですが、検索ワードに引っかからなかったのか、それとも締め切り時間が短かったせいなのか、あるいは画像がよほどピンボケだったのか・・・全然わかりませんでした。私の場合、応札すると追随される方が激しいので、私が気が付かなかったのはかえって良かったのかもしれません。気が付いていたらたぶん狂っていたかしら?ただ、気が付かなかった事実だけが悔しいですね。
画像の品は、実に張天保の顔をよく表しています。地肌がごつごつして輪内側もややいびつ。寶足も長く変形し、花押も大きい。おそらく銭形も雄大なはずです。郭の変形も独特で面白い。
入手者は短尾寛方冠寶通用銭を発見されたⅠさん。氏はそのほかに安政期大字、退点文大型母銭、長張足寶、長反足寶等々・・・数々の掘り出しをされており、最近も大字背佐を発見して格安入手されたばかり。彼は足と目鼻の嗅覚で稼ぐ本当の意味の掘り出し人。「掘り出し名人」の称号を授けましょう!まずはおめでとうございます。 
 
9月2日 【撰銭のすすめ】
バラバラの雑銭から自分の好きな銭を選ぶ・・・撰銭は楽しいものです。珍品の掘り出しがあればなおのことですけど、初心者のうちは例え価値は低くても見たことのない特色のあるものが出ただけでドキドキします。ただし、初心者が撰銭をはじめるにあたってはじめから大珍品の選り出し狙い・・・野球で言えばホームラン狙いの・・・人は、まず大成しません。
今でも焼け銭や真鍮銭などを「見たことのない大珍品」ではないかと、鑑定してほしいと言ってくる方はときどきいらっしゃるのですけど、そういう方は欲目にとらわれて自分で考えることをやめてしまっています。「古銭の価値は自分で決めるもの」・・・とは初心の方に対して私が良く使う言葉で、「欲目にとらわれていては正しい価値判断ができなくなる」戒めの言葉であり、邪道に走りがちな自分への諌めでもあります。
初心のうちは特徴のある状態の良いものを拾うのが基本。それを繰り返すうちに文字や製作の変化に気づき拾えるようになると思います。もちろん、この手法では状態の芳しくない珍品や、密鋳銭は拾えませんけど、初心のうちはしかたのないことと割り切りましょう。
はじめは背に文字や輪に極印のあるものを拾いましょう。慣れてきたら次に文字の特色を見てグループ分けしてゆきます。
寛の特色では寛尾の跳ね方に癖のあるもの・・・虎の尾寛類・・・がすぐ拾えます。ただし、これは雑銭がほとんどですけど。
永の字はフ画や末画の跳ねのあるものが印象的です。秋田銭、難波銭がこれで拾えます。(これまた雑銭!)
また、含二水永気味の日光銭や、千木永(藤沢・吉田島銭)など楽しい変化があります。(これもほぼ雑銭、雑銭!)
通の字は、通頭がマ頭通のものが分かりやすい。これはほとんどが不旧手の類。(雑銭バンザイ!)
寶の字はやはり寶足の跳ねの変化が楽しい。前述の秋田銭を含む元文期銭の多くにこの特色は見られます。
余裕ができたら銅質などで拾うのも面白い。白銅質の勉強は白目類や明和期銭類でできます。
もっと慣れると、状態が悪いのと製作が悪いの違いまで理解できるようになり、密鋳銭が拾えるようになります。穴銭はじっくり楽しみましょう。
 
9月1日 【不思議な不知銭】
ひと目刔輪、そして長足寶。状態はいまひとつで全体に変色していますが、分かりやすい変化です。
長径49.5㎜、短径32.8㎜とここまでは問題なし。銭文径は・・・と、測ると41.1㎜??
これはほぼ本座ではないですか!
そうなるとにわかに自信がなくなってきました。ひょっとして見誤り?いや、天上、寶下の輪の内側は確かに刔輪されている・・・ように見えますし、背もそうです。それに穿内の仕上げも本座とは違います。・・・でもあとで加工したものだとすれば・・・と、不安は広がるばかり。
結局、
重量23.8gある重量銭だと判明してようやく納得。これが普通重量だったら、頭に来ていたかもしれません。
8月14日の記事の中郭手もそうなのですが、銭文径が縮まない不知品は今一つ不安です。写したのに縮まないのは・・・やっぱり焼け伸びなのかしら?なんとなく、金属の質も影響あるかなと思います。でもこいつの場合はまだ謎です。
 
8月31日 【おまけの話(男女の脳の話)】
収集は極めて男性的な趣味であることを以前にも書きました。
実は男女では右脳と左脳をつなげる脳梁の発達に差があるそうなのです。個体差はあるもののたいがい男性の方が脳梁が未発達で、女性は発達しているのです。と、いうわけで女性の方が優秀・・・はい、おしまい!・・・という結論は早い。
男性は足りない部分を空想・想像力という武器で補っています。したがって物を見る時には、はじめに全体像を把握してから部分を見てゆきます。そのため、物を全体的・立体的・大局的に見る能力がすぐれ、結論を導き出すのも早い。その分間違いもたくさん犯しますけど。
一方、女性は部分像から全体像を組み上げてゆきます。細部までが非常に繊細で緻密に見える。ただ、見えすぎる能力のため空想が後回しになり、物を総合的に見ることは苦手。だから、女性ばかりの会議はなかなかまとまらないし、話があっちこっちに行ってしまい長くなるのです。つまり、とりとめのない長話は女性の特殊能力でもあります。
男性は本能的・受容的・あっさりしている・合理的(ご都合主義)・大雑把・鈍感・大局観がある・ロマンチスト・・・であり、女性は感情的もしくは抑圧的・個人主義・執念深い・規則的(制約的)・緻密で繊細・過敏・観察力がある・リアリスト・・・ということになります。生物学的には女性の方が生き残れるので優秀なのかもしれません。
一方で、男性は縦社会の序列に従う生き物です。割り切りと受容も早い。その一方で気まぐれで浮気性。女性と違って妊娠期間がないので、質より量の子作り活動の本能の結果なのです。雌を守るため命を懸ける戦いをもするので先の性格と併せてこれらの形質を持っています。群れの序列に従うのは無益な仲間同士の殺し合いを避ける本能でしょう。
女性は妊娠期間のリスクもあるので、より強い遺伝子を確実均等に受け入れる機会を増やすために平等を好む横社会の生き物。これらはニホンザルの社会を見ていると良く分かります。男性の縦社会の中に、女性は横社会を作って存在します。
でも、女性の本心は平等は好きじゃない。負けず嫌いでこっそりズルすることや陰口、相手の失敗、噂話は大好き。エロ中心の男性週刊誌に比べ、女性週刊誌のおせっかいなまでの記事内容を見れば本能の差もわかるでしょう?
収集の趣味・・・役に立たないものへの熱中は収集は男性としての力の誇示のコンプレックスの現れですね。チンパンジーで言うディスプレイ行為みたいなもので、人の持っていないものを誇示して優位性を示そうとする本能です。どうせ、誇示するのなら女性のの好むものを集めればよいのでしょうけど。同じ収集癖でも女性は自分に対して利益になるものの方をより好みます。
さて、個人差はかなりありますので一概には言えないと思いますが、この話をすると、ほとんどの人が思い当たっていると言いますので、あながち間違っていないと思いますよ。古銭を集めているような人間はとくにね・・・。
※この文章は根拠はありますけどあくまでも私の個人的見解でもあります。
 
横浜古泉研究会
入札誌「穴銭第29号」
不知広郭手広大(仮称)
収集未見品誌上交歓
会津短貝寶異品
(不知広郭手勇文手)
貨幣232号
(昭和13年7月)
不知品天保
安倍好和堂氏発表
8月30日 【勇文手が出た!】
この記事原稿は8月10日に書いています。今まで黙っていました。つらかったなあ。
穴銭の入札に出た仮称不知広郭手「広大」・・・天の足の開きが会津銭に近い筆法。どこかでみたことがあるぞと探していましたが見つけました。これは実は勇文手の筆法なのです。
天保仙人様が探していた貨幣232号に安倍好和堂氏が出品していた不知広郭手とほぼ同じですね。それが初値5000円!出品者も首をひねりながらの提供だったのでしょう。いやあ、すごいものが出たな・・・と興奮しながらこっそりに記しておきます。問題はいったい何人がこのことに気づいているかです。私ごときで気づいているのですから、少なくとも4~5人は気づくでしょうね。でも、佐渡大字背佐の例もあるし・・・。それに今は皆さん仙台大濶縁に夢中でしょう。これぞ抜け駆け・・・鬼のいぬ間の洗濯です。だめもとで色を付けて応札しておこうっと。

※誰も気づかない奇跡が起きるとすれば・・・
一番ポピュラーな、天保通寶銭と類似貨幣カタログの拓本が歪んで細く写っていること。念のために収集の未見品誌上交歓に掲載され、勇文手の名前が確定したときの拓図を掲載します。おそらく同じ品だと思うのですが、だいぶ印象が違います。・・・奇跡はあると信じたい!
残念ながら夢はかなわず。おそらく相当な競争だったと思います。今まで黙っていましたが情報公開します。
そのかわり、月刊天保銭がかなり入手できました。まあ、よしとしましょう。
 
8月29日 【目白十日会 光緒女(こうちょめ)さんからの手紙】
驚いた!古銭関係で女性からの手紙なんぞ初めてです。かねてからの持論(偏見?)で、女性には古銭収集趣味は成立しないと思っていましたから。古銭即売会で女性なんて売り子のお姉ちゃん以外は見たことがないからというのもあります。古銭の収集話で女性と盛り上がるなんてこともあり得ないと思っていました。男性と女性は脳の基本構造が異なるからなのです。男性は空想的(ロマンチスト)、女性は現実的(リアリスト)なのです。
文面から見る限り「悦銭の会 目白十日会」は一度、発展的解散となり会の意思を光緒女さんが引き継いようです。私自身、あまり貢献できなくて大変申し訳けなく思っていました。
本音を言いますと、錯笵銭や上棟銭などは往時の風習を知る上で個人的には好きな存在ですが、それ以外の悦銭は心からは好きになれない存在でした。それは悦銭は絵銭にも贋作にもなりきれなかったものであり、あるものは新作物として中途半端に存在するからです。
私たち古銭コレクターはあの小さな銅片に何かしらのロマンを感じ空想しています。だから贋作であっても真剣にぶつかってくるもの・・・寛永堂やラムスデンについては一目置きますし、小田部のように空想銭として独自の境地を開いたものもしかり。
しかし、はなから真っ向からの戦いをあきらめた作品にはロマンが感じられない気がします。男性は古銭を集めながら、その背景に何かを追い求めているのです。
一方、女性である光緒女さんは悦銭の持つ顔の面白み、可愛さとそこから美を新たに創造して楽しもうとしてます。悦銭の見せ方を工夫する・・・と言う感覚は素晴らしい。我々男性コレクターは一人ほくそ笑むか、ひけらかし自慢するかであって、見せ方の演出を考えることにまで知恵が回っていません。光緒女さんは古銭の背景への憧憬ではなく古銭の持つ素朴な顔を楽しんでいますね。これは極めて女性的な思考・・・なのですけど、古銭収集の世界に新しい何かを生み出すかもしれません。

目白十日会
会場:目白駅前 「カフェ アコリット」 ※目白駅から徒歩30秒(正式店名:カフェ シャンソニエ アコリット)
期日:原則として毎月10日 時間:13:00~

※この会が今も継続しているかは手紙からは判らなかったのですけど、ひょっとして光緒女さんと会えるかもしれません。
 
8月28日 【萎字小郭も出た!】
関西のSさんから東北方面のリサイクルショップから出たとの報告を受けました。外径48.94㎜、短径32.85㎜、内径41.67㎜で使用感の少ない非常に良好な美品ですね。側面の極印は会津特有のダビデの星形の桐極印です。驚いたことにこれが1枚450円で購入した30枚の天保銭の中からでてきたということ。出てくるものですねえ。S氏はどんどん力をつけ、いまや私をしのぐ精力的なコレクターです。 
地方のリサイクルショップにも連絡を付けて網を張っていらっしゃるのでしょうね。彫り出しの数も相当なものでそうそう経験できるものではありません。とにかくおめでとうございます。
 
8月27日 【高寛背一がでた!】
数日前の出張前の朝・・・というよりまだ未明のこと。
我が家の黒猫はヒグラシが鳴きはじめると私を起しに来ます。家の近隣に森がありヒグラシは明るくなる直前に一斉に大合唱が始まります。今朝は4時台に第一声。すると猫が「朝だぞ!」とばかりに私の体の上に乗っかってモミモミを始めます。この猫は飼い主に似て非常に重い。息苦しさとときどき立てる爪の痛みで文句を言いながらコゴソゴソと起き出します。おかげで毎日が寝不足・・・そして長~い1日が始まります。パソコンを立ち上げ、ウィルスチェックをして、ぼ~っとネットサーフィン。
そうしたら・・・あ、一ノ瀬銭だ!・・・と少し目の覚める画像を発見。スタートは100円です。背はどうかな?と見ると一の文字がある。これはしめしめ・・・と思いながら寛足を見ると妙に高い。ポイントの寛冠の前垂れを拡大して見ると開いて見える。映像マジックかな・・・と思いながら、1万円でいれて見ました。これで勝てたらラッキーとしよう!

とまあ、観察していましたが、27日10時を過ぎた時点9万円でも決着がつかない。2年前の銀座オークションで私はこの品は入手しているので今回はいきません。平成15年のオークションでは20万円ぐらいしていましたのでこの価格なら安いぐらい。このクラスの品を集めているコレクターはかなり少ないのでネット上ではあまり強烈な競りは起きないかもしれません。93000円で落札・・・どうやら知り合いが頑張ったみたいです。
 
8月26日 【江戸のお金はなぜ丸くない?】
こんなことを書くと、「お前バカか、寛永通寶は丸だろ!」と突っ込まれそうですけど、銭を除くほとんどの江戸のお金は丸くない。寛永銭にしたって歪みがあって真円ではありません。それは多くのお金の製造が鋳造、鍛造が基本であって、現代のような打製型抜きではないからです。
天保通寶がつくられたとき、丸型の試作銭も作られたのですが採用はされませんでした。小判型の形状の方が評判が良かったこともあると思いますが、鋳造でつくった円形のお金を真円に成形するのに手間がかかったからだという説を読んだことがあります。
金属を回転させながら削る技術は皇朝銭の時代からあったと思われます。皇朝銭の真贋鑑定に側面の仕上げ観察があり、確かに机の上に立つほど平らになっているものがほとんどです。それがすたれてしまったのは、鋳造の技術向上もさることながら、側面を削る器具の強度の問題もあったと思います。今なら硬い青銅を削るのは鋼の刃(バイト)を使うと思いますが、青銅を金属の刃で削るので器具の消耗が激しく、大量生産が採算的にも難しかったからだと推定しています。

結局、ロクロ整形が復活したのは、江戸末期の安政年間。安政期の当四銭からですが、最後の皇朝銭の乾元大寶発行から実に900年後のことなのです。
ところで、密鋳銭で奇妙に変形したものを先日入手しました。あれは型くずれ等によって、表と裏の銭の合わせ目がずれてしまい、その結果、出来た銭に片面側分の厚さしかない薄い部分ができてしまったためであり、そのバリのように薄くなった部分を手作業で削りとったためと推定されます。薄い部分を削るとあのような月が欠けたような形に仕上がるというわけ・・・さながら
十六夜(いざよい)寛永とでも言いましょうか?
もちろん、いびつな理由はそれだけでなく、湯道の大きさとか、バリの切断手段などにも問題があったと思います。
ではあの品をなぜ踏潰系としたのかと問われれば・・・う~ん、明確な根拠はなく、ただ、なんとなく類似点があるというだけ。あのごつごつした雰囲気は独特なんですけど、不器用な延展技法も感じられるのです。出来の悪い子ほどかわいいもので・・・ね、丸くないと可愛いでしょ?
 
8月25日 【良く判る寛永銭譜】
「きゅりおの連載 銭譜シリーズ」というものがはじまるらしい。9月号は其の壱ということで編集部の序文だけの紹介でしたけど、今後に期待したいと思います。執筆者はA氏ということで、彼は確か江戸コインオークションの田宮商会の若手社員さんだったと思います。古銭好きが高じてこの世界に入った人でしょう。私も彼が初めてオークショナーとして舞台に立ったとき、会場から拍手がわきあがったことを覚えています。
おそらく新寛永あたりから始まるのではないかなあ・・・と予測していますが、とにかく寛永銭などは微細な書体変化から入ってゆきますので、分かりやすさというのが第一になります。そういう意味では文銭はいつも冒頭になるのですけど、これほど判かりにくい銭種はないのですよね。
このあたりの説明が上手くゆかないと苦しくなります。初心初級者にも判るという意味では基本用語も絞って解説して行くと良いでしょう。
趣味を流行させるにはやはり古銭商がやった方が良いと思うのです。
そういう意味では、ただの銭譜紹介だけでなく、こういうものがある、こういったものが少ない・・・といったプチ秘密の暴露的な刺激が欲しいですね。A氏の筆に期待します。

※本日、聞いたお話によるとA氏は完全に了解した訳ではなさそうな・・・。まだ、曲折がありそうですけど。
 
実物は少しだけ黄味がかっていますが白銅銭です。 
8月24日 【気になる記事】
今月の駿河の泉中夢談は「新寛永十万坪背十母銭」でした。その記事から・・・
「背十」は、黄銅質もしくは黄白色の母銭式のものがほとんどで、中には帯白色のものもあります。・・・まず、白銅好きとしてはここにビクンときました。でも唯一自分の持っているものもかなり白いなとも思います。今後は黄色も良く観察しなくてはと思う次第。
次に背十の原母銭らしきものの紹介が・・・。
銅質が
赤く、外径24.71㎜、内径18.45㎜だそうです。比較用の背十では外径24.23㎜、内径18.09㎜だそうで、たしかにそれが真実なら母銭の母銭・・・原母銭の可能性が大ですね。
そこで自分の手持ち品も改めて計測してみました。外径24.5㎜、内径18.4㎜・・・プラスチックノギス計測ですけど実に微妙だなあ。母銭のつくりで郭内の仕上げはきちんとされていますし、かなり白銅質です。背は全体に左上にわずかにぶれ気味なので穴が右寄りにずれていますけど、立派な母銭のつくりだと思うのですけど・・・。え~、ちょっと信じられない結果ですね。金属ノギスで何度か測りましたが、やりすぎると傷だらけになるのでいったん停止。初鋳と次鋳があるのかもしれないし、う~ん、分からなくなってきました。思考も停止、保留です。

※画像を重ねて見ました。内径をそろえて重ねてみると私の手持ち品の方が外径大きくなってしまいます。そこで外径を拡大修正すると内径値が大きくなりすぎてしまいます。これは不思議です。自分の測り方の問題なのかもしれません。
 
8月23日 【房州砂はどこの産】
画像の天保銭を手にした人は、知識があれば10人中7~8人ぐらいまで土佐額輪短尾辵だと答えるでしょう。少なくとも肉眼ではそうとしか見えません。
表面の粗いやすり目、紙やすりのような地肌、短い通辵。あ、立派な短尾辵だな・・・と思って拾ったのは私。これは土佐額輪短尾辵ではなくて本座広郭だと言うと、たいていの方が「へえ~」と声を上げる気がします。
まず銭文径が41.2㎜あります。そして側面の極印が本座なのです。額輪系の極印はもっと小さいのです。
天保通寶は幕府時代から引き継がれ明治政府時代も鋳造されています。幕末から明治にかけて、日本国内は政情不安に陥り尊皇派と攘夷派に国内が割れて身動きが取れなくなっていたと考えられます。そのためか良質な鋳砂である房州砂の調達をあきらめ、王子産の砂を使用して天保通寶広郭が鋳造されました。それは俗にいう明治吹き増しとか恩賜手とか秋田本座写と言われるもので画像の品は通辵先端が鋳切れていますが、まさにその品。類似カタログでは本座異制とされるものです。
ところで房州砂についてパソコンで調べると「千葉県館山市北条付近から産出する磨き砂。器具の研磨に用い、塗料材にもする。」と出てきます。「房州砂は房州の海浜にある小粒の砂で・・・。」「九十九里浜産の砂・・・」と書いてあった資料もありますがこれは誤りだと思います。千葉の海砂は塩分を含み鉄分が多く、鋳物には向いていないと思います。
房州砂は内房側の山砂であることまでは間違いないと思います。
館山市北条産の砂は別名で白土(はくど)と呼ばれる凝灰岩質の山砂で非常にきめ細かいガラス質の珪砂のようです。これは主に江戸時代は「歯磨き粉」としては1600年代にはすでに広く流通していたようです。クレンザーの原料として使われていますので磨き砂としてはとても優秀ですけど、はたして鋳物砂としても使われていたのかは分からないのです。鋳物砂としての房州砂の正確な産地の情報を知っている方・・・ご連絡ください。

幕末において南房総は佐幕派の拠点にもなっていて、木更津にあった請西藩などは藩主の林忠崇自らが脱藩して、明治政府にはむかった結果、全国で唯一の取り潰しを受けています。(昭和まで生きた最後の大名としても知られています。)私の住む鶴牧藩領地でも大きな戦いがあって、女房の実家にも戊辰戦争のときに負けて逃げてきた旗本・姫をかくまったという伝承と武器・鎧が残されていて、そのお墓も残っています。そのため女房の家では侍の亡霊がたびたび出たという話があるほど。(信じられないような心霊現象みたいな話も・・・)学研の百科事典にも戊辰戦争姉ヶ崎の戦いと言う錦絵が載っていたと記憶しています。
 
8月22日 【密鋳病患者の逆襲】
ネットに江刺銭が出ていました。誰が江刺銭の細分類にアルファベットを振ったんですか!全部揃えたくなってしまうじゃないですか!昔、故K氏の江刺銭の基本分類が入ったアルバムが4~5万で売りに出されたことがありました。今思うと10万円で買っても安かったのかもしれませんね。ぽつぽつ集めていると結局高くついてしまうだけでなく、整理が不十分なので何を持っていて何がないのか分からなくなってしまっています。したがってメクラの大人買い・・・いやあ、高くつきます。今夜も大散財で日本の経済に貢献しています。
しかし、本当に欲しかったのは実は江刺銭ではありませんでした。実は江刺銭と一緒にひっそり出ていた、踏潰系の2品です。江刺銭は実は隠れ蓑・・・と言いたいんですけど、だれも信じてくれませんね。
正字写しは見た目が悪いと誰も熱狂しませんでしたが、これは8月15日の制作日記にあった系統と一連のもの。
また小字写しはこれこそ正統派の踏潰の直写しで、やすり目、銅質とも満点の顔です。まあ、だからどうしたと言われればそれまでなんですけど。おかげさまで無事落札。江刺系は高くつきましたが、踏潰系が安かったのでこれはこれで良し。密鋳病バリバリです。

上:正字写 どうしてこれだけ丸くない寛永銭ができるのか?まるでタガネで叩ききったようです。
下:小字写 正統派の踏潰銭の顔。深背が美しい。
 
8月21日 【貨幣の肖像権】
収集家たるもの、泉譜原品はあこがれの存在です。当然ながら私も泉譜原品とは収集人生の半分以上は無縁でした。はじめて泉譜原品と確認できたものは、絵銭譜にあった寛永月星・・・それからはぽつぽつとですけど貨幣・方泉處・當百銭カタログ・不知天保通寶分類譜の原品が流れ込むようになりました。入札で手に入れたものが多いのですが、なかには原品とは一切知らずに入手し、後で気づいたたものや入手した後で泉譜に掲載、公開される幸運なケースもあります。
たとえば「凹千鳥」は購入後に方泉處原品と判明したものですし、「離郭細郭」はオークション時のカラー画像が日本の貨幣収集の手引きに流用されて、なんと入手後に泉譜原品化しました。
寛文様古銭と紙幣原品
新寛永通寶図会原品
子供の頃はあこがれの品でした。
「寛文様」は初心者の頃に散々読んだ矢部倉吉氏著の「古銭と紙幣」のあこがれの名品だったのですが、もちろんそんなことは入手するまで知りませんでした。(ボナンザ表紙や方泉處も飾った有名品です。)
泉譜原品という言葉は古銭の保証書のようなもので、なかでも有名泉譜の原品は日本貨幣協会の鑑定書に勝るとも劣らないほどの信用を与えてくれる力があります。
泉譜原品に似た言葉で「〇〇氏旧蔵品」とか「〇〇氏遺愛品」というものがありますが、こいつは少し曲者で、あからさまな嘘ではないにしてもちょっと妖しい香りがするもののほうが多い気がします。有名泉家の名品なら泉譜に載っていようものでしょうし、そうでないのなら良くて「その他大勢」ですし、なかには「贋造品・疑問品」や「古銭商として売買に少しだけかかわった品」であっても旧蔵品に変わりはありません。だいたいそんな名称は、売らんがための箔づけの常套手段。私も散々引っかかって覚えました。
私の場合は今の所有品が泉譜などで紹介されるのは大歓迎です。もし、それを喜ばない人がいるとすれば、税務署が怖いとか、奥さんに秘密とか、なんらかの後ろめたい気持ちがあるのに違いない・・・とにやついてしまいますけど・・・。(所有者の公表は別問題です。)

さて、貨幣の肖像権・・・とタイトルをつけてしまいましたが、人ではない貨幣には肖像権なんてものはありません。問題は著作権になります。
ときどき
「古銭画像をホームページなどに引用するに当たっては今の所有者に許可を取ってからの方が良い。」とのアドバイスを受けることがありますが、現在誰が持っているかもわからない流通品なのでそれはほぼ不可能なのです。このことについては何度かふれたことがありますが、要するに古銭の写真や拓本そのものに著作権は及ぶか否か・・・ということが問題になります。
結論から言えば限りなくNOというのが答えのようです。それは写真や拓本は単なる複製物であり、それ自身に加えられた意匠や知的財産としての工夫が何も見られないから・・・というのがその理由。流通品の現行貨幣に肖像権や商標権がないのは当然のことですけど、それは古銭になっても同じで、例えば古銭画像を出版物から複製したとしても、もともと権利保護の及ばない複製画像なので単純にそれを写すだけなら(要は著述内容に関係ない画像だけならば)複製は問題はないというのが現代の結論のようです。つまり、古銭の一般画像は著作権の切れた絵画の複製画と同じ存在で、法的に縛られる根拠はないようなのです。
とはいえ、やはりマナーが問題でして、いい加減な記事を書いて相手の品位を落としめたり、価値の暴落を招いたら当然名誉棄損のクレームになるでしょう。特に現行出版物からの引用にはご注意ください。

結論:不特定多数の人の間を流通する目的であった貨幣の複製画像等に、権利保護は及ばない。ただし、現在の所有者に敬意を表し、できるだけマナーを守りましょう。(説得力ないなあ)
 
8月20日 【文久童の愛した文久銭】
拓図は昭和16年7月に貨幣268号に文久童こと山本右衛門氏が発表した文久銭で、タイトルは「真文文久」とだけあります。記事から読み取れる情報は
①深字と浅字(深字手?)の中間に入れるべきもの
②背の波は低波に属するもの
③赤褐色で製作も変わっている
④文久童をしても30年間に2枚しか発見できなかった
ぐらいの表現しかないのです。もともと文久童氏は無口というか頑固な人で、自分の意見を持たないようなやつ(一方的に教えを乞う人)には絶対にコツ屋情報をを教えなかった人。(つまり、力を認めない人には無暗には教えない。)これも文久童らしく発表においても無名のまま。分かるやつが判ればいいんだという構えです。したがってどんな特徴であるかは拓本から推定するしかないのですが、節穴しか持っていない私はどうこれをとらえて良いのかが分からないのです。
文字が角々しいので深字濶永の狭尓あたりなのかなあ・・・久字が離輪して末尾が跳ねる雰囲気や、久の前足と頭が直線的で狭く背が高いこと。寶字が離郭して小さいことなどが特徴かしら・・・なんて思うのですけど・・・。
はたして文久童氏がどこに何の美を見出したかが分からないのです。正しい分類も含みどなたか教えて下さい。
 
8月19日 【大型の秋田小様再考】
左の画像は数年前に東北のSさんから頂戴した大型の秋田小様です。大型の秋田小様は未だにこの1品以外の出現を聞きません。まあ、私の狭~い古泉界の付き合いの中での情報なのであてにはなりませんけど、数が少ないのはどうやら本当のようです。長径48.4㎜ 短径32.55㎜ 銭文径40.8㎜ とたしかにこれでは小様とは呼べませんね。
この大型の秋田小様は本当は中様の母銭なのかもしれません。数量的には原母銭と言っても良いのかもしれませんね。もちろんこれをきちんと仕上げないと母銭にはならないのですけど、とにかく珍しいことは間違いなし。しかもこの大型の秋田小様、しっかり嵌郭の痕跡も残っています。よく見ると郭も反郭風に変形しており、金属覆輪の可能性をも示していますね。
秋田小様はなんとなく広郭の写し・・・と言う風に私も刷り込まれていましたが、これを見る限りは広郭手ではなく
細郭手嵌郭と言うのが正しいようです。はなから広郭を真似たわけではなく、、柔らかい金質を補うための補強によって結果的に広郭になったというわけです。そういえば秋田加護山寛永銭は嵌郭されていましたね。
村上氏の天保通寶研究分類譜には驚くことに30枚以上の秋田小様が掲載されています。最小は45.5㎜級。最大は48㎜にあと一歩に迫る濶縁銭。すなわち神様村上氏さえ大型サイズの秋田小様はお持ちではありません。
秋田小様は46㎜未満もしくは47.5㎜以上は少ないと思います。
と、いうより、市場に滅多に出てこない。市場出現率的には盛岡小字以上に少ないのではないでしょうか。多分、あるところにはあると思うのですけど、皆さんなかなか手放さないのではないでしょうか。見栄えはしないけどそれだけ愛らしいのがこの天保銭の特徴です。わびさびの世界なんですね。
 
8月18日 【天保通寶覆輪刔輪マニアック講座】
天保通寶覆輪刔輪マニアック講座は、私にしては珍しくアカデミックな内容でして、これを書いていた時は毎日が発見と言ったわくわく感に浮かれていました。
きっかけになったのは、穿位置が上方にずれた強刔輪の天保銭を入手したこと。それに加え、覆輪の不知天保銭にときおり観察される横太り銭径や反郭の謎などが私の興味をそそったからです。このコーナーにおいては、私は金属による正統派の覆輪刔輪技法について書きましたが、別の覆輪技法について貨幣の平成26年の7月号に豊泉氏が仮説を載せられています。それによると覆輪技法として、
古銭の周囲にニカワで薄い和紙を接着しながら巻いてゆくというもの。紙テープを思い浮かべて頂ければわかりやすい。固まったらやすり整形して完成・・・なるほどこれは簡便です。日本はもともと木と紙文化の国。手っ取り早い方法だと思います。
ただし、この仮説は2つの弱点があります。1つは実際の覆輪銭に見られる覆輪痕跡・・・金属の接合部の境目・・・の説明がこの仮説ではうまくつかないこと、もうひとつは母銭としての強度が弱すぎる点、とくに水気に弱いのは水分を含む砂笵を使用する母型としては致命的なことです。
したがって接合の痕跡のあるものはやはり金属などが覆輪に使われたと考える方が自然。一方水分に弱いことについては、通用銭を作る母銭としてではなく、母銭を作り出すための原母銭として使用したと考えれば納得ができます。この手法でつくったものは、2度写し以上の横太り銭形になることは必定で、それがまたこの仮説を補完することにもなります。下掲の長反足寶の場合、元銭を外輪すれすれにまで刔輪して、極細縁にしてから周囲に和紙を巻いて原母銭にすればこのようなものができます。金属による覆輪に比べてすごく簡単にできるこの技法は、かなり有力な仮説ではないかと思う次第。また妄想が膨らみ始めました。
 
8月17日 【銭文径縮小銭 2】
不知銭の長反足寶(長径49.45㎜ 銭文径39.65㎜)との比較。郭の位置を合わせて重ねて見ましたが、意外に銭文がきれいに重なります。わずかに右側の方が銭文径が小さいもののその差はわずかです。
こうやって見ると文字や郭のの変形もないので長反足寶はやっぱり3回写しなのかなあと思う次第。しかし、そうなるとここまでの覆輪刔輪母銭を作るのにかなりの手間暇がかかりますね。鋳ざらって作りながらここまで変化があり得るのかしらと思います。しかし実物はあるのですから困りますね。

※下記の秋田小様の外径は通常銭の平均外径(41.2㎜)より2.2~3㎜ほど小さく、銭文が太く鋳造されていることからも実際の銭文径はもう少し小さいと思われます。再考した結果、広郭の標準銭文径41.2㎜から2.2㎜を引いた39.0㎜を真の銭文径と仮定すると、3回写しの可能性も十分にあり得る・・・と、いうより3回写しの方が自然だと思います。その理由は銭文径の大きな1回写し、2回写しと思われる秋田小様が存在するからです。したがって今後の課題は果たして4回写しが存在するかです。その場合、少なくとも外径は45㎜台の大きさになると思いますがどうでしょうか?
8月16日 【銭文径縮小銭】
8月6日の記事に出てきた天保銭の銭文径縮小度合いがいかに異常なものかを示すための加工画像を提示します。左は銭文径超縮小銭で有名な通寶小字(銭文径39.9㎜・長径49.1㎜)、右は秋田小様(銭文径39.75㎜・長径46.9㎜)と半切りで重ねあわせたものです。
いずれ劣らぬ強者どもを蹴散らしての銭文径39.3㎜は画像で比較してもわずかな差なのですけど、この事実はすごいこと。
長郭の銭文径を41.65㎜、鋳写の縮小率を1.8%と仮定すると
1回目 
銭文径40.90㎜(40.46㎜)
2回目 
銭文径40.16㎜(39.73㎜)
3回目 
銭文径39.44㎜(39.02㎜)
になります。
カッコ内の数字は銭文径41.2㎜の広郭の数値を並べてあります。
理論上の銭文径の収縮値は1回あたり0.75~0.72㎜ですが、これに覆輪などによる変形が加わりますし、合金、鋳造環境や厚みの変化もあるので±0.3㎜程度の誤差はあると思いますが、これでほとんどの鋳写銭の銭文径変化を説明することが可能だと思います。
すなわち秋田小様は2回写しの可能性が高く、今回の縮小銭は3回写し。通寶小字は覆輪変形縮小があるので2回写しでしょう。
私の経験的にも3回写しは非常に珍しいもの・・・。可能性があるのは長反足寶(銭文径39.65㎜)ぐらいしか思いつきません。(秋田の小様の最小サイズは未所有で計測したことがないので不明。)したがってこれは大珍品なのです。
→ 天保通寶覆輪刔輪マニアック講座  → 改造銭物産展
 
明和期俯永極厚肉7.5g
外径27.5~27.2㎜ 肉厚1.8~1.9㎜
8月15日 【計測値】
天保堂こと瓜生有伸氏は天保銭研究の第一人者であり、小川青寶樓氏の愛弟子にして、元新聞記者ということもあり師の数々の著作にもかかわっています。以前も記しましたが、この瓜生氏の数々の著作における古銭の計測値にかなり誤差があります。拓本で計測したのかなとも思われるのですが、印刷上の拓本で再計測しても、銭文径と外径の比率さえ合致しないことがままあります。それに泉譜原品を計測しなおすと、表示値と異なることも多いのです。0.1㎜前後の違いならともかく、0.3㎜以上になると「あれれ・・・」ということになってきます。マニアは0.1㎜の大きさ、厚さの差に価値を求めていますからこの差は大きいのです。
ノギスの性能の差もあるかもしれません。私は0.1㎜刻みのプラスチック製ノギスと、0.05㎜刻みの金属製ノギスを併用していますが、実は同じものを測っても0.1㎜ほどの誤差が出ることがあります。おそらく測り方の問題だとは思います。あった以前は古銭を傷つけるのが怖くて、表面の部分を恐る恐る計測していましたが、最近は大胆になってきています。その後、いろいろ悩むことがありまして、今では泉譜数値は参考値だと頭をリセットすることにしました。
単純な誤記なのかもしれませんが、
ひょっとしたら贋作対策もあるのではないかなとも勘繰ってしまいます。さて、真相はどうなんでしょうか?

画像の寛永銭・・・明和期俯永・・・は記事とはほとんど関係ありません。汚くて見栄えがしませんが重量が7.5gもあります。わたし自慢の品・・・文政期小字の最大様の7.3g(ただし、雑銭です)もしのぐのですからさすがに迫力(自画自賛)があります。通常は5g程度なので1.5倍ぐらいの重さ。外径は磨輪されていて小さいので余計厚みが強調されていて1.8~1.9㎜の厚さがあります。ふれこみでは2㎜でしたのでちょっとがっかりしましたが、極薄手の天保銭ぐらいの厚さがありますので実物は迫力があります。厚さで2㎜、重さで8gを超えたらお化けですね。
 
8月14日 【踏潰銭正字写】
踏潰銭と言うのは不思議な魅力がある密鋳銭で、かつては秋田鋳であるとされ、さらには「悪名である」とまで断じられながら、改名されずに今日まで来ています。
さて、画像Aの品は先月の駿河に出ていた品で、高いなあ・・・とぼやきながらもしっかり購入しています。と、いうのも背の形成などが私の所有品のいくつかにとても近似していたからです。
踏潰銭の直写というものについて私はいささか自信がなく、人の鑑定したものを集めて、他人の見る目で自分の判断基準をつくろうとしています。したがって密鋳銭の分類鑑定についてはあくまでも個人の判断・・・主観的なものにすぎないと思っています。要するに人によって判断が変わるという事ですね。今回の入手品は私の所有品と一連をなすものであることが分かりました。
正式に言えば踏潰銭正字写と断定できるものではなく、踏潰銭・様・正字写なのでしょうけど、間違いのない品であるという確信が少しずつ深まってきた気がします。
正字写A 小字写B 小字写C  
ここに掲示してあるものはすべて踏潰系と思われる製作や銅質に共通点があるもの。
Gについてはオークションネットで拾ったものながら私だけでなく誰もが踏潰であると異論なく認めると思います。Bは秋田のH氏による認定踏潰。AとDは駿河で踏潰とされていたと思う。
DとEは誰が見たって同炉。Bも穿の処理などに共通点があり、多分同じ炉だと思います・・・となるとDもEも踏潰銭ということになります。Aは背の延展が見られず穿の仕上げが異なりますが製作や風貌、銅質がBに近似。Cも若干風貌が異なりますが製作的には踏潰の延展銭。とくに背の風貌は文句なしです。Cは雑銭の会でEとともに密鋳銭として出ていたもので、味わい深く私のお気に入りです。
小字写D 小字写E 小字手G
 
中郭手崩字厚肉異極印(楔型銭)
長径49.0㎜、短径32.7㎜、41.0㎜、重量26g
8月13日 【残り物には〇〇がある?】
CCFはオークションに参加して不知の濶縁大様が欲しかったのですけど今でも残念。あの価格なら楽々行けましたね。
さて、この不知天保の中郭手崩字(10000円)・・・CCFで誰も落とさなかった孤児です。可愛そうなので私のところにやってきました。本当は密鋳古寛永(5000円)も欲しかったのですけど、売れてしまっていました。
細縁気味ながら何の変哲もなく、崩字というより、陰起文といった有様。長径49.0㎜、短径32.7㎜とやや短径が豊かながらいたって平凡。銭文径41.0㎜でこれもほぼ本座と同じ。この手の物は水戸の背異や久留米の状態の悪いものの見間違えなんてことが良くあります。ただ、明確な中郭になっていますのでこの品はその可能性はありません。桐極印は十字葉脈の変形異極印です。
ただ、手にすると少し重い。縁の厚みというよりも地の部分が厚く感じます。計測してみると重量は26.0gもありました。寶字側の輪は型に押し付けたためか、横から見ると厚みが3.0㎜ある楔形銭で、テーパーも肉眼ではっきり確認できます。
と、いうわけでこの品の正式名は不知中郭手崩字厚肉異極印(楔型銭)と、思いっきり飾りをつけて格上げ表示しました。26gはなかなか立派でしょう。残り物に最期に福はあったかしら。

※まんだらけ問題について
万引き犯人の顔写真公開についてずいぶん話題になっています。その結果、マスコミの過熱報道もあってまんだらけ側が画像の公開を中止した模様です。たしかに、ネットの力は恐ろしいものがあり、ちょっとしたことで人をも傷つけてしまうので取扱いは慎重にする必要があると思います。まんだらけ側もこの報道によって世間の注目を集めて、所期の目的は果たしたと考えたのでしょうか。警察は取り下げさせた以上全力で検挙する努力をして頂きたいのですが、実際はどうでしょうか?
これによって胸をなでおろしているのが万引き常習者だったとしたら、この対応は問題ですね。万引き犯人が確定的であるのなら、画像公開は金額的にいっても仕方ないと思う気もします・・・あ、これは個人的意見ですから。
むしろ度重なる誤報があるのにもかかわらず、マスコミに対する規制は報道の自由と言う暴力の元野放し状態ですし、個人の権利、個人情報保護だのなんのやたら規制の言い訳が多くなった現状の方が危険な気がします。
もし、我が家に泥棒が入って古銭持っていかれてその明らかな証拠画像が残っていたとしたら・・・私は絶対に速攻公開してしまいます。それが普通でしょう。改心を促す猶予を与えるまんだらけはむしろやさしいと思いますよ。今回の結果が悪い方向に行かないことを祈ります。
 
8月12日 【正字背仰文削用柱長尾寛】
兄弟銭の話題ついでに・・・。
第6回西国合同古泉会創立50周年大分貨幣研究会記念泉譜に永厘按氏が出品したものの借拓(転載)です。兄弟銭探しをしている方にとっては、鋳だまりや瑕は宝物です。私のように大雑把なコレクターにとっては何気ないものでも、「あ、星だ!これは面白い。」と喜べるので幸せですね。もっとも、私も出来損ないのような錯笵銭を喜ぶのですから、同じ穴のムジナでしょうか?錯笵銭コレクターと手替わり探求家が違うのはここからで、兄弟銭探しの果てしない旅路が始まります。これはまた根気がいる作業でして、記憶の隅にある星や瑕を頼りに親子兄弟探しが始まるのです。こうして得られた結果がこれらの新種・変種の兄弟銭の発表です。もちろん、特徴が目立てば目立つほどランキングは高く、母銭が出てくれば最高ですね。
昔はどちらかと言えば、特徴のある母銭(親)との出会いから通用銭を探す旅が始まっていたと思うのですけど、最近の傾向はむしろ通用銭(子)から親子兄弟を求める旅が始まる方が多いと思います。母を訪ねて3000里の世界へ・・・私にはなかなか真似のできそうもない作業です。

掲拓の品は正字背仰文削用柱で寛尾に鋳だまりが接して反り返ったように見えるもの。また寛字の跳ねた上部にも鋳だまりがあって景色になっています。探してみて下さい。
 
8月11日 【親子・兄弟銭】
CCFの会場でHさんから文政大字の見事な親子銭を拝見しました。
通頭が々のような形に盛り上がって変形しているそれは見事なもので、一見して親子と判るものです。どこかで発表があったものかと探しましたが見つからず、画像の提供はできませんが、だれが見ても納得のゆくもの。通常の鋳だまりに比べ形も特徴的ではっきりしているので、天狗寛永のように良い源氏名をつければ人気沸騰間違いなしの品です。最近、穴銭マニアの間では親子・兄弟銭探しがひそかな人気のようで、小さな傷や鋳だまりなどを血眼になって探す人も多いようです。考えてみれば密鋳の江刺銭の分類も兄弟銭探しのようなもので、逆説的に考えればよくぞあれだけ個性的なものが、兄弟銭として大量に出てくるものだと不思議に思う次第。あれだけ同じものが見つかるということは母銭にも兄弟銭があるのではないかと疑ってしまいます。
浄法寺にしてもしかりで、たまたま大量に市場に出ているものが兄弟銭ばかりなのかもしれません。
そういえばHさんによれば私が入手した明和離用通面刔輪背削波もHさん所有の母銭と特徴が一致するそうで(輪右下の小瑕?)親子に該当するそうです。そのためHさんから「あれは絶対に僕の子供だからね。手放すときはよろしく」とお願いされてしまいました。さすがに入手したばかりなので今手放すことは考えられませんが、いつか親子対面もよろしいかもしれません。
ところで何も知らない人がこの会話を聞いたら、中年のホモのカップルが親権でもめてると勘違いするのではないかしら。(Hさん、ごめんなさい記事を書いてしまいました。)

趣味情報には気になる兄弟銭に関する情報がありました。
古寛永沓谷の番銭にの面の永字左側の輪には、裏の番号に関係なく共通の瑕があるそうです。
その情報は小川青寶樓氏が語っており、出所は山本文久童氏だとか。裏の番号に関係なく共通の瑕ということは面側だけ同じ型で作られた可能性があること。これは一般通用銭の作り方とは異なるため、番銭は戯作的なものの可能性が強いのではないかとの話でした。
もっとも私は番銭そのものを間近で見たことがほとんどないので、複数をお持ちの方はご確認ください。
 
8月10日 【拝啓 玩多夢様】
関西の収集家玩多夢様から携帯メールを頂戴しました。返信を試みたのですが、パソコンからの送信をブロックするようになっているらしく、返信できませんでした。私、携帯はいまだにメール機能もないガラパゴスを10年近くも愛用しています。最近のスマホやタブレットをみるとうらやましいのですけど、今は我慢。つきましては、甚だ失礼ながらこの欄を借りて御礼申し上げます。
さて、玩多夢氏は5月30日の制作日記にある、あの不知天保銭を削花押であると見抜き、入手されたそうです。あの天保銭は私も記事に載せたぐらいですので面白いと感じていましたが、そこまでは気が付きませんでした。この画像に10万円以上の資金を投入するには勇気と確たる知識が必要ですね。天晴です。どうやら玩多夢氏は大川天顕堂由来の削花押をお持ちだったようで、覆輪痕跡も明確な兄弟銭だったそうです。
玩多夢氏といえば、各方面で投稿のお名前を見かける大収集家。そのような方が私のHPを見て頂けているとは大変光栄なお話です。間違いも多いと思いますのでご指摘いただければ幸いです。(拓本は不知天保通寶分類譜上巻からの借拓です。)

仙台のT氏からもメールを頂戴しています。なんでも故あって背千母銭を200枚以上収集されたとか・・・。あの尖り千大字も入手したとの事。ライフワークとして発表されるのではないかしら。皆さん頑張っていますね。
 
8月9日 【仙台大濶縁・・・夢買いは成立するか?】
今年、最大の夢買いの品がネットに出現しました。いえ、過去最大級といって良いかもしれません。天保通寶の仙台大濶縁は、古寛永の坂本大濶縁、新寛永の難波御用銭と並び江戸期古銭の濶縁三羽烏と言える存在です。本来、出品中の品についてはあまり書かないのですが、もう目立っちゃってますのでいいでしょう。
とにかく異様、見栄えがすると言ったら比類なき品です。たまたま7月に仙台大濶縁の記事を書いていたら、それに呼応するように出てきましたのでちょっと怪しく感じます。1月に出た「なんちゃって大濶縁」よりはるかに上で、私の目で見ても真贋の区別はつかない・・・と、いうより限りなく真に近く見えるのが困りもの。もっとも私は経験値が少ないので、これを語る資格はないのです。しかし、極印の雰囲気、覆輪、地肌から文字の特徴まで矛盾が見つかりません。
過去にカラー写真で見た大濶縁は黄褐色のものが多く、これは白すぎという人もいるかもしれませんが、仙台天保銭は本来は白銅質なので、こんなものがあっても不思議はないと思います。母銭仕立てにしては、文字が太いのではないかとか、軽すぎるのではないかといちゃもんをつければつけられますが、稟議銭であると考えれば問題はありませんし、本物は薄肉仕立てであるという事ですのでこれも問題はありません。
銭文径も40.4㎜と発表されましたね。これで本座細郭通用銭から写されたことも間違いなさそうなので私の知る限りではこれは限りなく本物に近いのかもしれません。贋作だったら非常によく特色をとらえて再現しています。
まあ、以前も書いたようにこれは流通を目的としたものではありえない・・・と考えておりますし、今は夢を買う勇気もないので私は静観したい。これから写したら銭文径は40㎜を確実に切るし、濶縁が目立ちすぎて密鋳がバレバレです。何よりこれにお金を突っ込んで行くのなら張天保嵌郭に突っ込んでいくべきだったと思いますので・・・。
夢を買うのなら・・・少なくとも宝くじよりは目がありそうです。でも保証はできません。しっかり行く末を観察させて頂きますけど。

※残念ながらオークションは取消になってしまいました。私が参戦しないことを宣言したためか?(自惚れ)
現在、別のお気に入りが存在しますのでそのために力を温存しています。これについては後ほど情報をお伝えいたします。

※仙台大濶縁の銅質はカラー写真では黄褐色に移っているものが多いのですが、旧貨幣誌(大正9年石巻天保:山形白水樓評)によると白銅質とあり、広郭との関連性から見てもむしろ白銅質であることの方が自然なような気がします。この品には矛盾点がないのですが、真贋は闇の中。おそらく鑑定できる人間なんて何人もいないのではないでしょうか。これは貨幣と言うより歴史的な美術芸術工芸品だと思うのです。もちろん、これは感想・意見であり私には結論は出すことはできません。
 
変造天保
明確なスタリキ技法ではありませんが研磨した後をおそらく酸できれいに洗っています。真鍮銭に見えますが材質は本座そのもので銭文径もそのまま。銭径は研磨により縮小して触った感じはすべすべです。目的は不明。改造母銭ではありません。
8月8日 【スタリキ】
最近、スタリキ贋作と思しきものをときどき見かけます。収集家が興味を持つようにできていているのですがどこか気に入れません。スタリキとは金属腐食加工の技術の俗語だそうで、版画のエッチング技術の応用と言えば分るでしょうか?
銅は比較的安定した金属ですけど、硫酸や硝酸、塩化第二鉄溶液などには腐食します。これらの薬品を使って古銭を腐食させるのです。古い文献には「くさらかし」などの名前が見えるので、もとは錆・古色付加工から発展した贋作技法だと私は推定しています。
これを実行するときは、元(土台)になる古銭全体をはじめ蝋・樹脂・漆などで覆います。腐食させたい部分の塗りをはがせば準備OK。あとは薬液に浸し、引き揚げ、中和洗浄、保護材をはがす(熱し焼く)・・・だけです。
古銭の一部分を変化させるにはこの技術でもOKですが、もっと手軽に風貌変化を狙うことも多いと思います。薬品で削るのではなく、最初に物理的に削り、薬品でその痕跡をごまかすのです。合わせ技ですね。土台になる銭貨をやすりなどでガリガリ削り、そのあとで薬液にそのまま浸す・・・すると新しい削り跡が消えて珍品に化けるのです。必要に応じて錆色も付けます。
スタリキによる贋作は、土台は本物なので騙されやすいのですけど、元になった銭の癖や形を引き継ぎます。肌がただれていたり、妙に未使用色が残っていたりもします。全体を腐食させると文字は痩せ、輪も細くなります。変な未使用色の残る古銭は要注意です。
スタリキの用語はインターネットで調べても出てきません。私も何でこの言葉を覚えたのか定かではないのですが、絵銭の相場では巻末にそのことがふれられています。職人の業界俗語・あるいは隠語名なのではないかと思います。
→ 2013年3月3日の制作日記
→ 2012年10月7日の制作日記
→ 2010年7月10日の制作日記

※10円玉を酢につけると数分でピカピカの新品様になります。高校生頃にこれでよく遊びました。酢でできるのならレモンなどでもできる気がしますね。磨き行為と同じなので貴重品には絶対やってはだめですよ。
 
8月7日 【文久永寶深字狭永本体】
少し前のヤフオクに出ていた品です。非常に魅力的で、だれも競らないだろうと高をくくっていたら完膚なきまでに負けてしまいました。(落札価格19500円)これに魅力を感じるのは「文久病」の人。九州方面に多いと思います。
深字は大まかに分けて、広永と狭永があり、さらに狭永には本体のほか勁久と降久があります。昔から深字と言えば「降久」と言うほど有名です。私も古銭初心者の頃、文久の降久は超珍しい有名銭と教わりました。記憶間違いでなければカラーブックスにも金銀貨幣とならんで真っ黒な文久永寶の降久の写真があったことを記憶してます。
したがって私も日本橋にあった賞山堂さんではじめて「深字降久」をみたとき、迷わず購入していました。ところで実際に収集をしているとこの「深字降久」は頻繁とは言えませんが、ときおり目にします。子供のときに抱いていた絶対的な珍品ではどうやらなさそうなのです。
その代り、本当に深字で地肌の美しいものが多く、文久銭の中では美術品的な美しさがあります。古来、有名品として称揚されていた原因はここにあるのではないでしょうか。寛永銭で言えば島屋無背のような存在かしら。
一方、文久永寶深字狭永本体は本当に少ない。本体とされているものの方が少ない例は、新寛永の和歌山狭穿小字等にも見られますが、果たして私はこれを本体と呼んでよいのか迷っています。
本体、降久、勁久がそれぞれ別種で、新寛永の小梅手の本体のようにただの代表書体にすぎないのかもしれません。
したがって私はあえて本体銭のことを狭久と名付けています。直久でも良いかもしれません。
久字の両足が直線的で第一画と前足が平行になるのです。これが出会えそうでなかなか出会えない存在なのです。
ヤフオクに出た品は素朴で広郭、文字太く垢抜けなく・・・ああ、これこそ本体かな・・・と思える品でした。(間違いかもしれませんが。)
競る人がいたということは、私以外にも魅力的に感じている人がいたと言う事。私の目に間違いがないのか数人が幻覚を見ていたことか・・・いずれにしても、魅力的であったということです。文の文字が大きくこれこそ深字本体と言う雰囲気。
こんなもの以外に魅力的なものは世の中にいっぱいあるはずなんですけどね。
 
8月6日 【雑銭の会の刀跡天保】
雑銭の会の落札品が届きました。ずいぶん奮発してしまったなあ・・・と思いながら、にやついた顔で包みを開けます。本当は売りと買いが拮抗する予定だったのですけど当てが外れましたね。
4枚のうち3枚は鋳ざらいが強く、ぬめぬめとした滑らか肌です。そして輪際にはぐりぐりとした刀跡があります。これが見たくて高いお金を払ったのです。まあ、この薄汚い銅銭によくぞこんなお金を出好きになったもんだと我ながらあきれながら観察。世の中には高級な極美品を厳選して集める人と、だれも見向きもしないような顔のものを一生懸命目出ている輩がいるとすれば、私は間違いなく後者。質より量なのです。売るときは苦労するでしょうね。
長郭手が2枚と細郭手の強刔輪が1枚。
残りの1枚が長郭手の縮形。これが面白かった。長径47.45㎜、短径31.7㎜、銭文径は驚くなかれ39.3㎜しかありません。
CCFの席でYさんがこの天保銭について絶賛していましたけど、ものすごい嗅覚ですね。
画像ではぱっとしませんでしたが、私もサイズ情報だけで応札に踏み切りましたが、普通は小さくても銭文径は39.9㎜前後なのです。通常の長郭の銭文径(41.6㎜前後)より2.3㎜も小さい。これは3回写しの大きさです。初めて見ました。不知天保通寶分類譜にもこの程度のサイズのものがありますが、ダントツでこちらに軍配が上がります・・・品があるのです。でもってちょっとご機嫌になりました。
グリグリ刀跡のある天保通寶
長郭手刔輪長足寶背深淵
長径49.1㎜、短径32.4㎜
銭文径41.3㎜、重量18.7g
長郭手覆輪刔輪跛寶強刀跡
長径48.9㎜、短径32.7㎜
銭文径41.0㎜、重量21.9g
細郭手強刔輪削字削花押
長径48.4㎜、短径31.8㎜
銭文径40.2㎜、重量19.0g
長郭手覆輪縮形宏足寶
長径47.45㎜、短径31.7㎜
銭文径39.3㎜、重量22.2g

超小型銭の割にはバランスが取れています。銭文径の39.3㎜はこの手の写しとしては限界の縮小ぶり。目立ちませんが隠れた大珍品だと思います。
 
8月3日 【狭木保について】
萩銭については京都のTさんが詳しく調べておられ、情報を良くいただきます。萩の縮通類は製作がパッとしない割に存在数が極端に少なく、価格も高いしさらに変化が激しいので収集家も突っ込んだ研究をしていないと思います。私もその例にもれず、1枚の縮通を入手して満足してしまっており、それ以上深く考えることはしていませんでした。
私の場合、所有品がないので拓本での比較研究しか論じられないのですが、この類はとにかく変化が激しく、1枚1枚がすべて違うのではない可と思えるほどです。
縮通(平二天・仰二天) 進二天
進二天は天の二引きが進む特異な書体で、縮通と同じ系統と思われますが、背の花押の口ばしの形を見れば一目瞭然。(この見分け方は仙人様にご教授頂きました。)これらはいずれも方字からの鋳ざらい変化ではないかと思われ、趣味情報50年月号で瓜生氏が変化過程を並べていますが、個人的には違和感を覚えます。これらの変化は順序行儀よく並んでいる物ではなく、早い段階でバラバラに分化したように思えるからです。
これらの類をあえて再分類するとすれば・・・
①進二天系・・・これは前述のとおり花押でも分けられます。
②縮通(宏足天)系・・・天字のふんばりが広いもの。
③平二天(狭足天)系・・・天字のふんばりが狭いもの。
②と③には中間的なものも多いと思います。②は当初は仰二天系と名付けようと思ったものの、必ずしもそうではなく、平二天の縮通もあるし、仰二天の縮通もあります。當百銭カタログの縮通は前者であり、類似カタログの縮通は後者です。
むしろ天のふんばりで見た方が分かりやすく、仰二天に見えるか否かは鋳ざらいの変化と割り切れます。気のせいかもしれませんが②は曳尾の筆法に近く、③は進二天の筆法に近く見えます。
では首題の狭木保とはいかなるものか・・・各泉譜の情報を集める限りは次の通りです。
①天の踏ん張り広く、保の人偏が反りきつく長い
②呆の木画が狭く、保右点があがり木の字状になる
③大口保、仰口保である
④當の田が退く
⑤花押の後端鋭くとがる
⑥通頭低く辵が緩やか
ほぼ条件が合致するのが右の画像で京都のTさんの所有品です。ほぼとしたのは⑥の条件が一致していませんが、⑥の条件は勢陽譜のみにあるもので、で一変化にすぎないのかもしれません。
実はTさんからのご指摘で逆引き天保銭事典にある私の縮通は狭木保に近いのではないかとの事。たしかに随所に特徴は合致しますが肝心の木の左点が開いて打たれています。変化が多いので果たして狭木保という名前や分類の定義がどうかとも思えてきました。
これは御蔵銭を分類するような悩みですね。

※雑銭の会の拡大例会が終わり、入札も終わりました。出血覚悟で出品したものの、食いつきが悪くほぼ全滅。落札は望外の大漁でうれしいような悲しいような。一部を収集誌に出して穴埋めしようかしら。
 
不知長郭手覆輪刔輪張足寶(通称:通寶小字)
長径49.1㎜、短径32.6㎜、銭文径39.9㎜、重量23.9g
8月2日 【CCFに行ってきました!】
実は私、CCFへは今まで一度もお伺いしたことがありません。仕事の関係もあって日程がなかなか合わなかったのです。ところが今年は奇跡的にぽっかりと空白の日が・・・。郵便入札も忘れていたし、これは会場に行くしかない!と張り切って前夜に妻に「あの・・・コイン見に行きたいんですけど・・・」と打ち明けたら、「明日はみんなで夕ご飯食べに行くから5時まで戻ってきて!」と、先制パンチ。オークションの穴銭部門は開始が2時・・・絶望的な宣告です。
「飯なんか何時でも食べられるだろう。俺の楽しみと飯のどっちが大事なんだ!」・・・と、バーンと、心の底で言い放ちながら「じゃあ、4時ごろまでには帰るから行かせて下さい」と、素直にお願いした次第。私がこの道楽ができるのも妻のおかげなのですから・・・。
早朝、ノギス、ライト付きルーペなどおたくアイテムを装備し、妻を起さぬよう静かにゴミ出しをしてから出かけます。品川に到着したのが下見開始時間から20分ぐらい過ぎてからで、すでに午前の部のオークションは始まっていました。とはいえ、目当ての午後の部のオークションには参加できないので、取材を兼ねてとりあえず気になる品々の下見。
その結果、カタログ写真より原品の方がはるかに美しいものが多数ありました。中でも尨字類2品と濶縁大様の長郭手はすばらしく良かったなあ・・・。オークションに出たかったですね。
即売会場にはほぼ見慣れたメンツがずらり。都会の洗練されたホテルの中に居酒屋の赤ちょうちんが似合う異邦人が大勢押しかけています。この世界、もう少し女性や子供を意識したお洒落なものにしないといけないのですけど、マニアがみんなぶち壊していますね。会場はこじんまりしていますので、ごった返し状態・・・汗ばみ脂ののった中年が芋を洗うがごとく、その加齢臭でむせかえるほどの熱気です。
私は下見の後は他に目的もなく、即売のお店の品物を冷かしてお昼には帰ろうと思っていましたが、ふと立ち寄ったU店でガラスケース越しに見た一枚の天保銭に目が釘付けになってしまいました。
すこぶるの美人、そして濶縁の張足寶。この手の張足寶はときどき見かけます・・・が、やたら綺麗だ。手に取って観察すると狭穿で小点尓、寶貝の底前方に瑕がある・・・これは長反足寶の流れをくむもの・・・通寶小字だ!しかも肉厚濶縁の超極美銭です。
通寶小字は不知長郭手の覆輪刔輪張足寶系の一種であり、再写しにあたる銭文径の極端に縮んだもの。画像ではかえって判りづらいのですが狭貝寶に見えるものが多く、寶前足も陰起で離輪していますので、通寶の文字が萎縮しているように感じられて「通寶小字」の愛称が付けられています。
さすがにお店も強気の値札でしたけどオークションに出たつもりで1割引きでGET。もう一声粘っても良かったかなとは思うものの、損して得取れ・・・この稀有な状態ではまあ納得の範囲でしょう。
もっともお買い物上手の常連さんに見せたら「ふ~ん、良くあるタイプだね」とか「あんた、こりゃ高いよ!」とか言われかねないので黙ってました・・・ごめんなさい。通常の通寶小字は初めてではありませんが、濶縁のタイプは初遭遇なのです。
オークションに後ろ髪をひかれながら帰宅しますと妻子が待っていました。これから外食と言っても今夜は妻(姉妹仲間の飲み会)だけ。私と子供はお留守番です。どうせなら子供も連れて行ってくれればよかったのに・・・まあ、いいか。(妻にこれがばれないようにしないと。)

※仙台広郭を改めてHさんから見せてもらいましたが、肉眼ではほぼ同じに見えます。差があってもわずかなものなのでしょうか?それともスキャナーの性能なのかもしれません。
 
8月1日 【明和小頭通?】
萩銭マニアのTさんから不思議な画像が送られてきました。Tさんの父君も古銭収集家で、その父君が明和の小頭通ではないか・・・と選り出したものだそうです。ところが肝心の通字が鋳不足であり、ポイントの寛後ろ側の輪の欠損もない。(少し地が深くなっている程度。)小頭通の通頭が良く分からないのは致命的なんですけど・・・永頭とフ画の形状、通辵がやや右下がりなこと、尓の後点が大きいことから輪のポイントはないけれども小頭通で良いのではないかと思えるのです。ただ、永頭付近も鋳乱れではっきりせず、拓本にすると寶冠点も下に抜けているような、そうでないような・・・通点も立っているように見えるし・・・本当に悩みます。こうしてみると小頭通は俯永の加刀変化なのかなと思えるほど見分けがつかない・・・というか目が利かない自分にあきれてしまいました。
輪のポイントのはっきりしない明和小頭通と言うものが存在してもおかしくないと思うので皆様のご意見をお待ちしています。
ちなみに私の評価は小頭通・・・ただし、ポイントがほとんど判らないので、あくまでも参考価格しかつけられないと思います。人によっては否定されてしまうのも仕方のないものですけど、「夢買い」的な存在だと思います。
 
7月31日 【方字の不思議】
萩銭マニアのTさんから頂戴した画像です。(ありがとうございます。)
ごく普通の方字に見えますが・・・
長径 48.4㎜ 49.0㎜
短径 31.7㎜ 32.6㎜
銭文径 40.6㎜ 40.0㎜
肉厚 1.8㎜ 2.9㎜
重量 12.9g  23.6g
左側が超薄肉、、右側が方字としてはかなり肉厚です。重量差はなんと10g以上あります。薄天保の異名があるにしても2㎜以下は異常ともいえる薄さ。しかしながら薄い方が銭文径が大きいのです。常識的には肉厚の方が初出であると考えられるのですがちょっと不思議です。よく観察すると、左の方が孔が大きいのが分かります。普通このようなものは焼け伸びを疑うのですけど、画像で見る限りはそうではないですね。さらに、
文字や輪のあちこちに加刀痕跡があって実に面白い。
とくに寶字の貝画の肩と尓郭の間、下部の輪際にに見事に刀が入っていますね。一方、右側の厚肉はたしかに重量はありますが、2.9㎜という肉の厚さに比べるとやや軽い・・・これは額輪気味に作っているのだと思います。
です。これは意図して造られたとも考えられます。
肉薄にしたのはあるいは寛永で言う延展技法的なものなのかもしれません。薄いのを大きさでごまかしたとか・・・。真相は判りませんけど・・・。
長州藩は幕府を倒したと言え財政的には火の車で、軍事費調達のためにも密鋳は必要だったと思います。趣味情報誌上(8号)で瓜生氏は、山口藩の天保銭密鋳は明治2年からではないかと推定していますが、明治2年ではすでに天保銭は銅8文にまで暴落しています。それに政府に参画する立場としては密鋳の事実は隠しておきたい罪ですから、あまり大々的には出来なかったはず。
したがって、鋳造開始時期はもっと早かったと思いますが、仮に明治期まで行っていたとすれば採算的には厳しいので、薄くする必要も出てくるでしょうね。
薩摩広郭も、高知額輪にもものすごい薄肉がありますよね。討幕派の藩がみなこんなものを作っていると考えたら・・・薩摩は広郭薄肉、長州は方字の薄肉、土佐額輪にも極端な薄肉小様銭があります。では、薩長土肥の肥こと肥前藩は何を作っていたのだろうと考えてしまいます。有田焼で大もうけしたとも考えられるものの・・・謎多き藩鋳銭で存在が多いものと言えば・・・久留米かなあ・・・そして薄肉の典型が深字・・・これが事実だったら面白いのですけどね。

※調べたら薩長土肥に数えられているものの肥前藩は戊辰戦争がはじまるまで倒幕協力には動かなかったそうです。徹底的なリストラと産業振興で、幕末においては日本有数の技術立国であり、軍事大国でもあったそうです。
 
7月30日 【モデム異変】
雑銭の会が閲覧不能になった原因を調べましたがよく分からない。ファイアウォールとウィルス対策ソフトの設定、インターネットエクスプローラーの設定初期化、キャッシュデータの削除、ポップアップブロックなどいろいろ試したり調べましたが問題なし。気になったのはGoogleのキャッシュデータまで読めないこと。悪戦苦闘していたら、突然キャッシュデータの文字情報だけが表示されました。(難しい言葉の羅列ですみません。)これはいよいよ変だ・・・と、いうことで仕事場に置いてあったセカンドパソコンを仕事場の回線で試したらきちんとつながります。自宅のパソコンもつないでみましたが問題なし・・・ということで自宅の回線機器がおかしいということが分かりました。
インターネットで症状を検索したところ、モデムの故障で特定のサイトにうまく接続できないケースがあることが判明。モデムの電源を切っても治らなかったので、モデム初期化の荒療治。これはモデムにあるリセットボタンを細い棒で押すだけ。これでだめならモデム交換しかない。
効果はてきめんで閲覧ができただけでなく、接続スピードも向上したような気がします。
さて、左の古寛永は四国のKさんからの投稿です。(ありがとうございます。)
沓谷銭で辵頭が急角度で俯すことから正足寶ですけど大きい。銭径25.45㎜、内径20.6㎜・・・Kさんも古寛永の内径を量ったのは初めてとの事。手持ち品の内径は20㎜前後のようですからワンランク以上大きいと思います。久泉研究資料をを調べるのを忘れていましたので今朝開きますと、同じサイズの掲載はなく、超大ぶりの母銭サイズに近いと思われます。新寛永なら細縁銭とも言えますけど、古寛永はなんて言ったらよろしいのでしょうか?銭径も巨大ですし・・・大ぶり銭とか大型銭かしら。目立たないけど珍しい存在ですね。
 
7月29日 【趣味情報】
趣味情報誌が届きましたが、先日書いた私の推理は見事に外れまして、現在の現在の収集誌とはどうやら関係なさそうです。
発行人は飯島叔男氏で印刷所は廣済堂印刷、発行会社は㈱交趣会・・・つまり全く別物。ただし、記事の書き方やレイアウト構成は今の収集誌にそっくりですね。寄稿者も当時の有名な収集家が多そうですし…。趣味の総合誌としながらも貨幣に重きを置いているのも時代背景だと思います。定価は200円、送料は24円というのが当時の日本の物価や経済状況を表していますね。昭和50年10月号が第2巻9号という事は、昭和49年に初版が出たことになるのでしょう。

※雑銭の会のHPが突然開かなくなってしまいました。「インターネットエクスプローラーではこのページは開けません・・・」の表示が出ます。キャッシュデータも開きません。。一昨日までは開いたので原因不明。私のホームパソコンの影響なのか・・・セカンドパソコンで試してみます。
 
7月28日 【方字系の珍銭】
画像左は天保銭事典に掲載されている方字刔輪。村上譜には46枚の方字の拓本がありますが、よく見ると微妙に刔輪の度合いが違います。とくに短二天(中央)は明らかに刔輪が強く見えます。もっともこれらは拓本上の比較に過ぎません。拓本は紙が歪むこともあるので実物を見てみたいものです。銭文径の比較も拓本上で行ってみましたが、たしかに0.5㎜程度の差異は確認できますが、これは果たして次鋳による変化なのか今一つ確証が持てませんでした。
さて、右側の拓本は村上譜に掲載されている方字濶縁小頭通とされているもの。しかし、背の文字・花押等が明らかに異なり銭径も横に広くたっぷりしています。
改めて調べてみるとどうも平二天の類のようです。
もしかすると方字の次鋳とはこのことなんじゃないかとはじめ思ってしまいました。
萩銭にはまだよく分からない変化がたくさんありますね。
 
 
7月26日 【方字天保について】
方字とは角ばった文字と言う意味でしょう。方の字は正方形の方であり、方孔銭、ノアの方舟などの用例があります。天保銭収集を始めた頃は時々拾えましたけど、今はあまり見かけなくなりました。私にはこの天保銭について語る資格はないのですけど、私も良く分かっていないいくつかの手替わりがあるようです。
①銅替り(純白銅と赤銅)
もともと方字は白銅質ですけど、真白く抜けているものは貴重。同じく赤い銅質はやや少ない。ただし、評価は主観的なものにすぎないかもしれません。

②大様と小様(次鋳)
大様は泉譜などに細字の濶縁大様を見ます。長径49.2㎜以上は少ないみたいです。
一方、仙人のお話によると次鋳クラスの小様銭があるとか。ただし私はまだ未確認です。(真剣に集めてないので・・・)48.2㎜を切ったらすごいと思います。

③厚肉と薄肉
方字は昭和泉譜では「薄天保」の名前が付けられるほど肉薄が多いそうです。極端な厚肉は少ないそうですけどどれぐらいからを厚肉と言うかは分かりません。22g超えは少なく、24gあったらすごいですね。肉の厚さでは村上譜だと2.6㎜超えは珍しそうです。
なお、薄い方では2㎜を切ったらさすがに珍しいと思います。

④刔輪
天保銭事典には紹介がありますが、他の泉譜には載っていないのでは?収集の巻末記事で最近見たような気がしますが・・・

⑤銭形の変わったもの
外輪の仕上げや鋳造時変形で歪んだものがあるようです。

⑥書体変化
有名なところは短二天。泉譜には良くあるもののひょっとしたら一品ものなのではないかと思います。村上譜にある方字濶縁などは一見、方字には見えないですね。その他にも妖しいものがたくさんあるのですけど・・・。

2013年の5月18日の制作日記に京都のTさんによる計測研究があります。ご参照ください。
 
7月25日 【コインと趣味情報】
ネットを徘徊していると私の知らない貨幣書籍にたくさん出会います。出品者情報によると
月刊コインは1985年5月から7号だけ発行されたらしい貨幣専門誌。1985年と言うとボナンザの終刊が1984年の9月ですからそれを引き継ぐ形ですかね。面白いので応札してしまいました。
月刊趣味情報も発見。画像と出品者の評からの推定ですが昭和49年から50年、すなわち1974~75年にかけて発刊されていたもので、現在の収集の前身のパイロット版の貨幣専門誌ではないかと思います。目次画像を見る限り内容的にはボナンザとよく似ています。
収集の創刊号にあいさつ文がほとんどない不思議の原因は、このパイロット版がすでに出ていたからでしょうか。ボナンザもまだこの頃は健在で、コインブームも真っ盛りでしたから、まさに百花繚乱と言うところ。
趣味情報の表紙には
「我が国唯一の月刊収集趣味総合誌」とうたっていますけど、ボナンザ側が良くクレームをつけなかったなと思います。(ボナンザは「権威あるコインの専門誌」とうたっています。)趣味情報の後に収集が世に現れ、ボナンザと相並ぶことになります。しかし、残念ながらボナンザ誌は古銭ブームの凋落に伴い経営が急速に悪化。突然の終刊を迎えます。
キュリオマガジンも17年の歴史を誇る老舗なんですね。私が購読を始めたのはごく最近なんですけど、これは、これもよろず趣味の総合誌。怪獣だったり、映画チラシ、刀剣なんてものもあります。実はこの雑誌をはじめてみたのは私の記憶が正しければ妻の母の家。義弟が購入した(もらった?)本だったらしいのですけどコイン雑誌だったので驚きました。何やら高級なアンティークが並んでいたのでおそらく興味を持って入手したのか、職場に出入りしている熱烈なコインマニアから分けてもらったのか・・・そのコインマニアさんはかなりのお金持ちなんですけど、趣味については恥ずかしがって話しません。天正通寶の大字などを購入したと言っておられましたので、相当熱を上げている方です。古銭の話をすると楽しそうなんですけど、自分の趣味や収集品についてはほとんど語りません。その方は仕事の上では今や全国レベルの超有名人です。(と、言っても全く知られていません。ただし、関連団体の名前を言えばほとんどの方は知っていると思います。)また、私の中学時代からの友人・・・と言ってももう大学卒業後はほとんど会っていないのですけど、弁護士の友人がおりますが、彼も古銭収集が趣味と言っておりました。その彼も自らの収集品については全くと言って語ろうとしませんでした。実は私自身もこの趣味を友人に披露したことはありません。
今や多くの人はこの趣味に対して罪悪感にも似た羞恥心を感じているようです。昔は古銭収集は社会的地位を象徴するようなアカデミックな趣味だったんですけどね。
 
7月24日 【文久永寶遊泉記より 草文の大様と細縁】
唐松堂氏の情熱は計り知れません。鋳造の流れを知るため1万枚の・・・(えっ!すごい!)・・・草文の面背を測定していたら、内径21.8㎜と21.7㎜の草文を発見したとのこと。このことを大分の祥雲斎こと坂井氏に連絡確認したところ、氏の手持ち品から内径21.6㎜サイズの大様銭が出現したそうです。草文の標準内径は21.2~21.4㎜だそうでこれらは母銭サイズのようです。(標準外径は26.9㎜前後のようです。)
なお、右の大様銭は内外径とも大きいので現在の分類では大型銭と言うべきかもしれません。大様銭は内径が普通で外形の大きなものを言うと思いましたが・・・正直とてもややこしいので発表通りとします。
文久銭の大量見聞家の発見なのでこの意義は大きいと思います。ただ、これらが錫母から直接生まれたとはなちょっと想像がつかない。鋳型の乾燥具合とかいろいろ原因もあるような気がしますが、何しろ現物が物語っている真実があります。また、お二人とも確かな目を持たれていますから・・・。
内径21.55㎜までは時々見つかるそうですので、このわずかな違いの上の大きさを求めて皆様手持ち品を確認してみて下さい。焼け伸びなどもあり得るので状態にはご注意を。
もし、これに符合するような大型の母銭が出てくれば新種として確定です。
通用銭の場合は内径21.6㎜以上が条件です。
また、内径が21㎜未満のものが出てくれば、それはそれで大騒ぎです。
外径なら27.5㎜以上のものはなかなかないんじゃないかしら。これは私のいい加減な予測ですけど・・・。
 
7月23日 【三方一両損】
仕事で東京へ行ったついでにお昼前に田宮商会さんへ立ち寄りました。「何かない?」と店員のAさんに伝えると天保銭をばらばらと・・・。残念ながら天保銭には目新しいものはありませんでしたけど、「最近は中国の人が琉球銭を高く買って行くんだよね。」と言いながら琉球通寶も4、5枚裸と出してきました。外国の人にとっては穴あき銭はとても珍しく、この大型で変形の貨幣はさらに珍しがる事が多いのです。(身内に日本マニアのヨーロッパ人がいますので・・・)
すでに中国製と思しき半朱は業界市場に登場しているそうですし、琉球の新作精巧贋作もまもなく現れるかもしれません。中国で琉球通寶に人気があるのは、琉球王朝が日本だけでなく清朝等にも朝貢外交を行っていたからで、そのため琉球文化は中国の影響も多分に強く、尖閣諸島のみならず沖縄を中国古来の領土と主張する学者がいるぐらいですから・・・。そういえば琉球王朝の末裔(尚氏一族)はまだ東京都内に在住だとか。
さて画像の琉球通寶は中字の中に1枚混じっていた平尾球です。
琉球はいくらぐらいと聞いたところ7000円で良いよとの返事。やったと思ってじゃあこれもらう・・・と言ったらAさんの顔色が変わって即座に言い値が10000円になってしまいました。おいおい、値上げしてどうするんだと言いたいのをこらえましたけど、私ももう少し演技を勉強しなければいけませんね。Aさんも私の態度で「これは、まずい!」・・・と思われたことでしょう。それでも、最近よく来てくれているから・・・と、言いながら売買成立・・・人情味のあるありがたいお店です。元の持ち主は所持品を安く放出、お店は高く売れるものを安く売り、私もさして欲しくないものを買ってしまいました。これぞ三方一両損・・・いや損して得取れの精神かな。しかし、好事魔多し、仕事の後に誘われた結果、経費が3倍に跳ね上がってしまいました。東京は怖い。

※琉球は名称と文字の大きさが一致しません。この平尾球は大字とされていますが、銭文径は小さいし球尾以外文字の勢いもない。背當が大きいから大字・・・というもっともらしい説明がありますが、巨字というべき小足寶の類に背當が小さいものがありますし、なんとも解釈が難しい。短尾球、平尾級はいっそのこと大字の看板を外してしまった方が良い気がしますね。
 
7月22日 【今宮戎神社】
四国のKさんからのありがたい投稿画像。今宮戎神社の古い福銭で本来は絵銭に分類されるはずなのですが、分金型なので絵銭愛好家からも古金銀愛好家からも顧みられないエアポケットに落ち込んでしまったもの。今宮戎神社は大阪市浪速区にある古い神社で商売繁盛の「えべっさん」と呼ばれ親しまれています。
この分類は長谷川商会の長谷川恵泉氏が著した「社寺福銭・上棟銭記念銭代用貨銭譜」に詳しい。分類では踊字とされるもので江戸期~明治初期のものだろうと推定できます。同じ分類でも書体は様々らしく、泉譜とは完全一致していませんので、集めれば面白いかも。
この福銭にはありませんが「錺屋:かざりや」の銘があるものが散見されますので、熊手彫金職人によるものでしょうか。花押には福の字を崩したものもあるのですがこの花押は古いタイプらしくどうにも読めません。お分りになる方、情報をお寄せください。
 
7月21日 【張点保嵌郭が出た!】
空前絶後のものすごい品が出ました。この天保銭が出てからずっと私が黙っているのを不思議に思われていた方もいらっしゃると思います。
私は大学生時代に偶然張点保を拾いました。その張点保の兄弟ともいえる嵌郭がネットに現れたのです。張点保そのものも7~8枚しかないと言われていますが、嵌郭はそれに勝るとも劣らない大珍品。しかも今回登場したのは見たこともないような極美品です。50万・・・いや、80万円でもそれ以上でも行ってやるぞ・・・と。
そして、いったんHPにその記事を書き込みました。しかし、記事が掲載されていたのは1時間ぐらいだったでしょうか。削除しました。
今回は応札することそのものを悩みぬいてやめました。これを買う資金余力はあります。ただ、私の中のリミッターが外れっぱなしになって戻らなくなってしまう危機感・・・それと燃え尽きてしまう恐怖がありました。そのため私は不戦の宣言をある方にしています。ネットに書かなかったのにはそれが一番の理由です。
しかし、見れば見るほど素晴らしい品です。独特の変形した寶足の形、自己主張の強い天保の文字、全ての文字に個性があり、大ぶりでふくよかな銭形。鋳肌も小さなぶつぶつを散らしたような独特のもので、それでいて製作は上々。しかも嵌郭とは非の打ちどころのない立派な不知銭です。天保銭の王者決定戦があったとしたら、奇天と同格で1位じゃないかしら。多分、奇天手よりも上でしょう。いけません、こうして書いているとまた欲しくなってしまいますね。こいつはいいなあ、良い顔してます。
もういいから、自分で自分をほめてやろう!「誘惑に負けないで良く頑張った!」・・・て、良かったのかな?
 
7月20日 【安南寛永の古寛永写?】
ちょっと前にネットに出ていて首をひねっていました。画像では二水永マ頭通にしか見えない・・・しかし写しだとのこと。(画像拝借しました。お許しください。)
たしかに写しだと画像上の判別は困難です。出品された方も確かな方のようです。しかし、二水永マ頭通の写しなんて私は聞いたことがない。でも聞いたことのないものが出てくるのが安南寛永の面白さなんですね。写しなら何でもあり得ます。結局、どうしようか迷っているうちに終わってしまいまして、どうなったかも分かりません。あれは、いったいなんだったんだろう。
 
7月19日 【古寛永濶字低頭通大字刔輪】
古寛永の仙台銭には濶字という銭種があります。高頭通が一般的で雑銭的な存在なのですが、低頭通はぐっと少なく珍重され、さらに大字と呼ばれる文字が大きなものは特に希少・・・よほどのマニアしか収集対象にしていないと思います。特色は寶王画がはみ出すほど大きいこと、永字が洽水にならない低頭通の書体であることが挙げられます。はみでんばかりに反り返った王・・・これだけで分かれば大したものです。
拓本の品は今月号の貨幣誌に掲載されているもので無断借拓になってしまい誠に恐縮ですが、類品の出現を願いここに掲載しました。
発表者はA氏。仮称で濶字低頭通大字刔輪としていますが、そのままの名前ですから受け入れやすい。(左画像は比較用の刔輪のないもの)
古寛永になれていない方は、いったいどこが違うのだと思う事でしょう。微差・・・実に微差ですがわずかに文字と輪の際が刔輪されていて、全体が面背とも細縁気味になっています。
実際に画像を重ねて見てもわずかしか差はなく、推定で刔輪幅の差は0.5㎜以下です。しかし、それを嗅ぎ取るのが古寛永マニアの真骨頂です。拓本の品は欠けやスアナもあるようですけど、発見者の喜びはそれをも上回るものだったと思います。
この濶字低頭通大字は、本体でさえなかなか実見の機会のないものですから、その手替わりなどは皆考えずに保有されていると思います。案外、所有品の中からぽろっと類品が出てくる・・・なんてことはないでしょうかね?
なお、この濶字低頭通には大字ではない普通品にも刔輪があり、これがまたとんでもない希少品のようです。古寛永は難しい・・・とアレルギーを発症する前にこんなものがまだ出てくる楽しみもあることを体験してください。
 
7月18日 【仙台大濶縁】
言わずと知れた超有名銭で、天保通寶の藩鋳銭としては最高ランクにあります。寛永銭で言えば難波御用銭に当たる品でいかにも特別と言った雰囲気です。
ところでこの仙台大濶縁銭・・・風格こそ最高ランクにふさわしい姿ですけど、案外存在数があるようでして、8品とも20枚近くとも聞いたことがあります。あの天保仙人様でさえ保有していなかった品と聞きますので、簡単には市場に出てこないのでしょう。また、有名銭の宿命で贋作と思しきものもたくさんあるようです。
仙台大濶縁には通用銭タイプがある・・・と、色々な泉譜にも掲載があります。これをどう見るかですが、今のところグレーゾーンとしか言いようがありません。ひとつは風格がぐんと落ちること・・・稟議銭ぽくないのですね。もう一つが母型の系統が異なると思われること・・・というのも稟議銭タイプの大濶縁は皆同じ系譜の母型から作られていると見られているからです。これは確かに大きなポイント。
そして個人的な見解ですが、この銭は自己主張が強すぎるためどう見ても流通を目的にしたものとは思えず、多分に試作、稟議銭的なものではなかろうかと思うので、大濶縁のまま通用銭を作る必要もなかったのではないかと言うことです。
天保銭も昔は挿しに入れて流通しましたから、これだけ横幅が大きいと目立つのなんのって。
仙台藩は幕府に協力的な態度であったとしても所詮外様大名です。石高は表向き62万石ですけど実質は100万石を超えていたそうです。したがってあまり目立つ変な行為はしないと思うのですけど・・・。ただ、幕末においては度重なる飢饉で、藩財政は破たんしていたそうですので、天保銭密鋳もあり得る・・・実施したのだとは思います。
天保仙人の足元にも及ばない私は、仙台大濶縁はまさに垂涎の品。銀座コインで一度手にしたことはありますが、今の知識がある状態で見たわけではないので、今一度見直したいし、もっといろいろな品も見てみたいですね。

※仙台の天保銭は意外に白銅質だと思います。不知銭の白銅質っぽいものは多いので、砂目は違っていても中には仙台産のものが混じっているのかもしれません。
 
7月17日 【仙台広郭】
過去記事をみていてふと気づいたこと。
夏の古銭会
にあるH氏天保銭秘蔵録・・・あのとき仙台広郭を2枚みていたはずなのですが、そのうちの1枚(画像左)の寶足が妙に長く見えます。あれれ、長足寶小様だったかなあ・・・と目を凝らすものの天の文字の形状が違う。天の二引きが長足寶小様は太く加工されているのですが、画像の品は自然。画像の光源から長く見えるだけのようですが、もしかすると少し刔輪が強いのかもしれませんが今となってはちょっと謎です。
画像を重ねてみると銭文径はほぼ重なりますが、かすかに左の方が刔輪が強く見える・・・これは現実にそうなのか光源のためなのかがやっぱり分からない。Hさん、どうなのでしょうか?

と、ここで筆を置こうと考えていたのですが、ふと先日頂戴した「天保通寶全分類譜」を見直して、自分の浅学さを恥じました。
仙台広郭にも何種類かあるのですね。最近は類似カタログばかり見ていましたが當百銭カタログには掲載がありましたが、全く気付いていませんでした。言い訳をすると勢陽譜には広郭長足寶は掲載されていますが長足寶小様の掲載がなく、小川譜と類似カタログには長足寶小様はあるものの広郭長足寶がなく、濶縁手に至っては勢陽譜、小川譜、類似カタログにも掲載がありません。微差だから省略されたのか、あるいは存在が疑問視されたのか・・・。広郭と言う品種そのものが希少ですから、掲載漏れだって十分にあり得ます。いずれにしてもそんなことすら今初めて気が付いたぐらいですから、やはり私は大したことがない。
下の図の一番右のものが比較的散見される長足寶小様で、小川譜などは跛寶の名前になっています。広郭であることはもちろんですが天の横引きが太く加工されているのが特色で、泉譜によっては広郭本体系のものと区別するため敢えて広郭の名前は外しているようです。
広郭と広郭長足寶の差は微妙。しかし、現実に上の画像のように確かに刔輪の度合いに違いはありますが天の第一画は変わりません。名だたる泉譜でさえこの有様ですから、もしかすると長足寶小様の値段で広郭長足寶や濶縁手がぽろって入手できるチャンスがあるかもしれません。(ここに書いてしまったからだめですかね?)
なお、濶縁手は単純に輪が広いだけでなく細郭の仙台大濶縁と同じ特徴・・・花押の付近の輪内側に共通の瑕・・・があるそうで、そのためにこの名称がつけられているとの事。拓本のせいかもしれませんが非常に縦に縮んだ銭径で銭文径も小さい気がします。これをどう見るかですね。天保銭にはまだまだ新しい発見があります。面白いし、やめられませんね。

※混乱を避けるため、あえて名前を統一していますが、泉譜ごとに異なります。新たに私が付けるのなら・・・(左から)
①広郭
②広郭大濶縁手
③広郭刔輪
④広郭強刔輪長足寶
当たりが妥当だと思います。④は単に長足寶でも通じますね。太一天長足寶でも良いと思っています。広郭刔輪の名称は良いですね。
広郭 広郭濶縁手 広郭長足寶 長足寶小様
 
7月16日 【面子銭寛永の色】
5月5日の記事の原品です。重量は7.1g、厚みは2.25㎜あって天保銭並みですね。側面は垂直に、穿内もきれいに仕上げられているので鉄銭鋳写し改造母とも考えられなくはないものの、磨輪もなく、やはりこれは面子銭でしょう。
銅色からみて明和期長崎銭あたりに近い色です・・・と言ってもおそらくつくられたのは明治期以降で、原材料は鏡や仏具ですね。
こいつを見ていて思い出した天保銭があります。勇文です。意外に薄手でこんな色でした。勇文もひょっとしたら仏具や鏡が原料でしょうね。関西方面のものと言う説があって、色からすると豊後かな、それとも毛利、ひょっとして寛永堂?!まさかね。
→ 夏の古銭会 に勇文の画像があります!
 
7月15日 【天保通寶贋作のポイント】
江戸時代の銭のつくり方には一定の手順とルールがあります。それと異なる手法をとっているものは不知品もしくは贋作品ということになります。
天保通寶の場合、通用を目的としてつくられた可能性があるのはせいぜい西南戦争の時代(明治10年)まで。幕末から明治初期までが最盛期で、その後は通用銭としての価値は大暴落しました。一方で、働き口を失った職人たちは何とか糊口をしのごうと試行錯誤を続けたと思います。
東北で様々な絵銭が生まれたのも、そんな時代背景があったと思われ、同時に採算性ぎりぎりで天保銭を作った可能性もあります。と、いうのも西南戦争前後に明治政府主導によって旧幕藩の御蔵米などが大量放出されて米相場が大暴落して農家が困窮したためで、人間生きるためには何でもやると思われるからです。これがいわゆるグレーゾーン時代の天保銭。明治末期になるとにわかに天保銭収集ブームがはじまり、以降、収集家目当ての怪しい品が出回るようになります。
ではポイントをいくつか・・・

①側面のやすり目
江戸時代の和やすりは現代の機械づくりの洋やすりと異なり、手づくりでやすり目をつくったもの。その目の形状はおろし金の目のようで、やすりの本体も全体に反り返っていたそうです。
このやすりで側面をガリガリ削るわけですから当然現代のものと形状や深さが異なります。現代やすりによるやすり目は細かく、均一な筋条痕のようなものが多いのにくらべ、和やすりの目は太さ、深さとも一定していません。やすり目の入り口・出口は細く浅く、中央部が深く太くなるのです。当然、銭面に対して直角方向のやすり目はありえません。妙に側面の角が立っているもの、全体がかまぼこ状に丸くなっているものは要注意です。

②郭内のやすり目
郭内のやすりは背側から軽く入るのが本来の形。郭が狭くになることで価値の上がる本座中郭や秋田細郭風に仕上げた贋作・・・穿を意図的に広げた変造ものがあります。不知品には穿内全体にべったりやすりをかけたものは散見されますが、大量生産が行われた藩鋳銭系にはそのようなものはほとんどなく、穿内の鋳肌の見えないものは怪しいと考えて下さい。

③銭径と重量
密鋳銭の最大使命は見つからないこと。したがって極端に規格を外れたものは危ないのです。
とくに銭径の大きいものはコレクターに好まれるので、圧延などで輪幅を広げた変造があります。覆輪銭はそのメカニズムによってもとになった銭より必ず銭文径が縮小するものです。したがって覆輪に見えるのに銭文径が縮まないもの、輪の表面がてかてかすべすべするものは、かなりあやしいと考えられます。なお、火災に遭ったものは全体が焼け伸びることがあります。銭全体がどことなく歪み、銭文径も伸びますので判別は可能です。

④真鍮質
私はあちこちに書いてますが、亜鉛の精錬法が日本で民間に普及したのは明治中期以降。それ以前は貴重な輸入品で、民間が自由に使用することは難しかった。したがって真鍮銭の多くは明治後期以降の贋作です。4文銭を潰してつくる可能性はありますので、一概には結論付けられませんが、少なくとも見た目が明るい金色の真鍮色はやめておいた方が良いと思います。

⑤無極印
幕末の混乱期に作られた天保銭に無極印はたしかにあります。有名な勇文などは無極印です。ただ、極印は一分銀の定極印のように規格合格の保証印のようなもの。したがって無極印銭は疑ってかかる必要があります。

⑥贋作品を知ること
以上のポイントだけではなく、総合的に判断することが大事です。当然例外もあると思います。そのためには昔からある贋作を知ることが大事です。加賀千代作や本座の母銭から写しなど、現物を知らないと簡単に引っかかります。

 
7月14日 【開元手の存在枚数】
開元手は古寛永初期不知銭の中の最高の珍品です。同じように嵌め込み方式で作られたものには太平手、永楽手があります。この3枚は古寛永の3種の神器であり、これに二水大寶が加われば最強の四天王、魚尾寶を加えて五大老です。左の開元手は鈴木幸泉バリ島輸入古銭拓本集のもので、これは平成16年の銀座コインオークションに出品されています。他に開元手の拓本は古寛永泉志と平成古寛永銭譜(山添氏)、寛永通寶銭譜(谷氏)等に見られますが、寛永通寶銭譜は拓本の色を敢えて変えてありますのでおそらく借拓だと思われます。古寛永泉志の原品は関東大震災で焼失してしまったという事ですし、もう一品は国立博物館所蔵とのことです。したがって現在民間に確実にあると思われるのは、この拓本の1枚と平成古寛永銭譜の拓本の品の2品だけ。
平成古寛永銭譜の山添氏によると現存3~4点だろうということです。私は古寛永泉志にある記述・・・現存1品(しかも国立博物館所蔵)ということ・・・で覚えておりましたので少しだけ身近な存在になった気がします。しかし、この品は指先で簡単に折れそうな薄っぺらな風貌。ひょっとしたら安南手類銭なんじゃないかとも思ってしまいます。(確かオークション下見で見たはずなのですが記憶がほとんどない。)
古寛永は収集家人口が先細り傾向なので熱心にやっていたらひょっとしたら巡り合うチャンスはあるかも・・・と、言いたいのですが、私自身もだいぶ年を取りました。財力も続きませんので、縁はないでしょう。高嶺の花は高嶺にあるから美しいのです。
おまけの記 レジストリクラッシュ! 
雑銭の会への出品票の提出にミスがあったようで、あわててファイルを探しました。メールの送信履歴に6月26日の日付があったので、その日に作ったファイルを検索しそれらしきファイルを見つけ開こうとしたら上手く開かない。ワードなら開くかななんて軽い気持ちでファイルを関連付けたら・・・とたんに画面上のパソコンのアイコンがすべてワードに切り替わってしまいました。
パンドラの箱を開いてしまったようです。何をしようにもワードが優先的に立ち上がってしまい、前に進めません。ファイルを指定して開くこともできない。いやあ、これはあせりました。アイコンのリンクボタンのレジストリを書き換えてしまったようです。対策を調べようにもインターネットが使えない。復元を実行しても、再起動をしてもダメ。
やむなく仕事場に置いてあったセカンドパソコンを自宅に持ち帰り、インターネットで対策検索をしました。やはり同じような症状が出現した例がありましたが、機種等が違いなかなかうまく回復できません。格闘すること2時間、ようやくレジストリの中の問題個所を特定し削除することができました。再起動させて正しい画面が出たときのうれしかったこと。今回はもうだめかと思いました。
 
7月13日 【十万坪無印写江刺系】
収集の落札品が届きました。最近はあまり収穫が無くて、もっぱら密鋳銭を探して遊んでいます。到着したのは・・・まあ、なんと薄汚い一文銭でしょうか!貧者の王なんて名付けて一人悦に入っているのも良いのですが、これはそれすらも通り越して貧乏神の域。良い子は決してこのようなものにはまってはいけませんね。
拡大撮影してもこの程度、先日の古寛永写しや加護山写しとは異なり見栄えは本当になく、わびさびではなく錆だらけ。穿内は鋳鋳放しで地肌はざらざらのまさに江刺系の風貌です。江刺の一文写しは本当に少ないものだと聞きます。それは四文銭の比ではありません。しかし、この風貌ではねえ・・・お金をどぶに捨てるようなものですから。
 
7月12日 【魚京堂・笠南:読み方が分からない?!】
メールを整理していて、カラス岩の情報を寄せて下さった九州のⅠさんの質問、「大正年間に九州地区で活躍された収集研究家の
魚京堂 津田繁二氏の泉号の読み方」に答えていなかったのに気づきました。Ⅰさんによると長崎の古地図にはクジラドウという地名があるそうで、出身地などからしてもそれを意識していたと思うのですけど確証がありません。往時古泉家芳名録で調べましたところ、「き」の項目に津田氏の名前を見つけましたので「ぎょけいどう」もしくは「ぎょきょうどう」ではないかとお答えした次第。
やれやれと思いながら往時古泉家芳名録をパラパラめくったら東亜銭志の
笠南 奥平昌洪(おくだいらまさひろ)氏がやはり「き」の項に載っています。これでにわかに私の答えが怪しくなりはじめました。笠の文字はどう考えても「き」でははじまらない。(私は「りゅうなん」と勝手に読んでいました。)だいたい泉号は屋号のようなもので、建物や場所を示すのが正統派なので、「笠南」は泉号としては非常に珍しいタイプなのです。当然何かの意味があるはずなのですがそれが分かりません。このタイプの号は、俳句や絵画の号もしくは古事にちなんだものだと当たりをつけてネットで「笠南」を調べてもそれらしきものには行きあたり当たりませんでした。
どなたか魚京堂・笠南の正しい読み方を教えて下さい。
安南寛永 隆徳手仰永
1992年の収集(穴銭入門:静岡いづみ会)の分類では元隆手長字仰永とされていました。新規母銭からの産のようで、銅質も良く見かける元隆手とは異なり少し赤い。銭文の裏側(背)が文字の形に白文となって陰起している製作が特徴的です。その結果、背の郭の四つの角から輪に向かって地が盛り上がっているように見える・・・このつくりは隆徳手だ!・・・と気づいて手類銭考を見たらちゃんと載ってます。残念、新発見ではなかった・・・と思い、改めてほかの資料を見たら穴銭入門新寛永の部にも改訂第3版には隆徳手仰永として掲載されていました。普段私が愛用している穴銭入門新寛永の部は第2版でしたので、すっかり忘れていました。それでも「自力で気づけた発見」でしたので、少し嬉しいかな。 
寛・永・通・寶 の裏側が凹む・・・隆徳手の特徴!
 
7月11日 【繊字背小文格下げ通用銭】
面側が大きく偏輪しており穿の仕上げも雑。背は文の下部が鋳切れています。内径は20.2㎜ほどあって、彫も深く地肌も滑らかで完全に母銭の規格です。推定する限りでは、母銭としてつくられたものの不良品として通用銭に格下げになったものだと思われます。通用銭用に側面を磨輪するときに穿がずれていたので極端な偏輪になったのではないでしょうか?あるいはこ磨輪される前は母銭として使われていて、廃棄する際に再利用をされないように偏った磨輪をされたとも考えられなくもない。存在は少ないものの母銭としては2級品。あながち間違いでもないのですが、細縁銭とするには製作が違いすぎますね。
格下げ通用銭とは私の造語ですけど、この銭の様子を良く表していると思います。
 
7月10日 【錯笵銭の真贋?】
錯笵銭というものはそんなに躍起になって集めるものではありません。だいたいエラー銭なのですから極端なものは廃貨になるのが普通。少なくとも極端な面側重文は正規の流通ではないものがほとんどのような気がします。右側の拓本は鈴木幸泉バリ島輸入古銭拓本集(いづみ会)からの借拓です。実は私の蔵銭に同じ高田縮通の重文があって第一感・・・似ているなあ・・・でした。この文字が回転して押し付けられるという重文は相当意図的でないとできないと思います。石川諄氏の銭幣の華にもいくつかこの手の拓本はありましたが、高田銭は掲載されていなかったと思います。もし
全く同じ錯笵が2枚同時に出てきたら、それは母銭段階から作成した贋作品であるという証拠です。
外径の大きさや輪の太細から2枚は同一品でないことは判りますが確かによく似ています。ただ、文字の角度は微妙に異なるようです。
一方で、背郭の形状は微妙に異なるものの、、右側のラインなどなんとなく雰囲気が似ています。もし背だけでも全く同じだとすれば、やはりこの錯笵銭は怪しいものだということになるでしょう。
もっとも、このような極端な面錯笵は正規のものではなく、戯作か後作の可能性が極めて高いと思います。
スタートラインからしてこのような極端な面錯笵タイプの古銭は良くて絵銭、さもなきゃ贋作だと思うべきなのです。
ただし、昔の職人は完璧なものを忌み嫌う風習があったそうですので、戯作の可能性もわずかにあります。
「完璧なものを作るとそこから崩壊がはじまる」「完璧なものには魔が宿る」という考えです。このようなものを鋳銭職人がつくるとしたら、鞴(ふいご)祭りの前後にわざと作って供えたとも考えられるかしら?鞴祭りは鍛冶職人の祭日で、11月8日(地域によっては異なるようです。)に行われた全国的な神事だそうです。
完璧なものを嫌うという伝説では日光東照宮陽明門の逆さ柱が有名です。12本の柱の中に1本だけ模様が逆に彫られた逆さ柱が存在するのです。これは意図的な間違い。建築においてこのような風習はかなり昔からあるようで鎌倉時代の徒然草にも記述があるそうです。ただ、果たして鋳銭職人も同じようなことをしたかどうかまでは判りませんので、可能性は0ではないかもしれませんが過信をしてもいけない気がします。私のHPにも間違いはたくさんありますけど、それは魔除けのため・・・だとご笑覧下さい。
※更新しすぎて気が付いたら日付を追い抜いてしまっていました。どこかで調整しますがこれも魔除けだと思ってください。
 
7月9日 【密鋳病再び】
飛んで火にいる夏の虫と言いますか、ダボハゼの入れ食いと言いますか、密鋳銭を見かけるとやたら手が出てしまいます。図の真っ赤な古寛永は以前雑銭の会の会員向けHPに出ていたもので見た瞬間に惚れていました。気持ちよいほどの赤黒さ、素朴さで書体の湾柱永(だと思うのですけど)の崩れっぷりも良いです。砂目が分かればなおよかったのですけどまあそれは良しとしましょう。予測価格の倍ほど行ってしまいました。これはまた市場価格も無視のレベルでしょうけど、こいつは好きです。自分は密鋳症だ、古銭の中毒症状だ・・・と自覚しておりますので、しでかしてしまったことには反省はしません。この赤黒いタイプの一文銭の密鋳は時々あると聞きますけど、この味はまず出ない。良い顔しています。
※古銭を収集していて美しさの基準って何だろうと思う事があります。大きいこと、厚いこと、文字などがはっきりしていること・・・など製作的に貨幣として優れていることに加えて、他と大きく違う特徴を持っていることなどが用件でしょう。さらに書体的に優美で存在数が少なかったりしたら王者として称えられるでしょうね。ところが進化したコレクターはこれに飽き足らず、新たな基準を生み出しました。いわゆる「わびさび」の世界観です。
貧者の王様と言うべきこれらの存在に、私は魅了されてしまいます。もちろん、王道の真ん中を歩きたい・・・と言う思いは当然あります。ただ、本当の王様は簡単には手に入らない。貧者の王様はそれぞれ唯一無二的の品でありながら、無数にあるのです。だからやめられない。
 
7月8日 【美しき寛永通寶】
寛永通寶の地に墨色が鮮やかに残っている物は文銭が代表的ですが、よく見ると他の時代の銭にも多少なり残されています。ただ、文銭以降はしだいに墨色がはっきりしなくなり明和期以降になるとどうもこの工程はおざなりになったようで、文政期銭には地色がはっきり出ている未使用銭が多数残されています。
地色を付ける工程は床焼きと呼ばれていて、鋳銭の様子を伝える文献「翁草」には古墨と油で煮るとはっきり書かれています。これが「長崎鋳銭一件」になると鯨油と糠になってしまいます。墨のことを書き忘れたのか、省略がされたのかちょっとわかりませんが、現物を確認する限り、何らかの工程省略があったのだと思います。
写真の文政期小字は珍しく地色がはっきり出ている物。ひょっとして珍品かな?安政期の色変わり?と妄想と食指が動きましたが、熱心な常連コレクターが反応していましたのでお任せしました。このようなものはあるいは初期銭なのかもしれません。それとも・・・いったい何なのでしょうかね。
 
7月7日 【試鋳 銀座一両銀】
天保通寶銭分類譜とともに九州のSさんから分譲戴いた平成6年の銀座オークションカタログに、私も初めて聞く古銭が載っていました。本来はこのHPには専門外の古金銀などは掲載すべきではないのですが、話題の一つとしてご覧ください。
(説明文抜粋)
その製作は江戸期の金銀貨とはまったく異なる圧延式で、明らかに造幣機械により製作されたプルーフ面となっており、それまでの旧式貨幣から西洋式の近代貨幣製造への移行期に、江戸時代の通貨単位である「両」で、このような近代貨が計画されていたことを示す資料として、貨幣学上、非常に興味深い。重量は当時の一分銀4枚分(一両)に相当する、約9匁2分(34.3g)有り、側面は近代貨に用いられているような「ギザ式」に、職人の手によるタガネ打ちで入念に仕上げられている。
記録に明治2年1月に久世治作、村田理右衛門ら二人が当時の通貨単位で各種金銀貨をを試鋳とあり、本品とまったく同型の品が、平尾麗悳荘(平尾賛平)らの古拓図に残されており、拓の写り具合から、もう一点は存在していると考えられている。

私には真贋は全く分かりませんが、超絶クラスの希少品。ただし、なぜか初値は85万円から・・・あれれ、安すぎませんか?結局いくらで落ちたかもわかりませんけど、この価格は夢買いの値段なのかしら?
明治2年1月は貨幣司管轄として銀座が残って明治一分銀を作っていた本当の末期。なぜなら2月5日には銀座による貨幣鋳造は終わり、銀座そのものが解体されてしまうからです。はたしてこの貨幣の評価はどうなっているのでしょうか?
 
7月6日 【長崎大観】
5月18日に烏和同について書きました。何一つ謎解きになっていませんでしたが、実は私なりの見解がひとつだけあります。烏和同の背の謎の図柄はひょっとしたら稲佐崎の風景なんじゃないかな・・・と。稲佐は明和長崎座のあった地であり、景勝地でもありました。古地図でも稲佐の地には小島のような稲佐崎の風景が描かれていますし、古写真にも見事な枝ぶりの松が岬の上に生える様子が写っています。烏和同のあの訳のわからない絵柄を見ているとそれがこれらの古地図の絵や写真に重なって見えてきてしまうのです。この説はあの記事を書いた直後から思っていましたが、結局その後何も補足するような資料や根拠が見つかりませんでした。
以上はいわゆる私の妄想なのですけど、だんだん本当のように思えてくるから不思議です。(恐ろしい!)
さて、左に掲げる拓本は昭和9年の麗悳荘泉譜に掲載されている「長崎大観」なるもの。明和座とも記されていますが、他に何の説明もなく、おそらく長崎寛永に似た独特の銅質、鋳肌の鋳写し鐚銭なのだと思います。
この手の物を見ると、伝、文久座の光緒通寶を思い出してしまいます。結局、この伝承は全くのでたらめであることが判明していますが、説を流布したものの意図はいったい何だったのか・・・ちょっときな臭い。古銭にまつわる口述伝承の50%は売らんがための作り話、30%は入手先をごまかす嘘だと私は思っています。しかし真実は必ずあるはずです。
烏和同については開炉祝鋳という説もありますが、あるいは廃炉後の観光土産のようなものの可能性もあります。
この長崎大観についてのいわれは全く分からないのですけど、ひょっとして肥前平戸公の存在があるかもしれないと思い調べました。大観通寶は1107年、北宋の徽宗が優美な銭文を書いたと言われる御書で有名な古銭。徽宗は書家だけでなく画家としても有名で、日本にある桃鳩図は国宝になっています。(ただし、芸術面以外の治世は余り振るわなかったようです。)
10代藩主の松浦熙公の号は観中室・・・大観通寶と何か関係ないかと調べたのですけど、分かりませんでした。それに松浦熙公の生没年は明和長崎座の廃座の後でした。(曾祖父の8代藩主松浦誠信と父9代藩主松浦清公の治世に銭座は存在した。この頃にはまだ10代藩主は生まれていない。)ただ、9代藩主松浦清公は当時の古銭大名と交流があった可能性が極めて高く、10代藩主の松浦熙公は古銭番付に名前が載るほどの古銭大名です。大観通寶の御書の存在は江戸時代から知られていたはずですので、何らかの意図が働いた可能性は否定できません。ただし、今の時代となっては何の裏付けもなく、あくまでも噂の範囲から出ない推測・憶測でしょう。
拓図からしか判りませんが、大名が作らせたにしてはどう見ても貧相すぎます。あくまでも戯作・絵銭の域を超えない品でしょうね。この品物についての情報、いわれをご存知の方、ご連絡をお待ちしています。
 
7月5日 【天保通寶銭分類譜より】 
九州のSさんから頂戴した天保通寶分部類譜から。実は第5巻は持っていたので前からこの拓は不思議に感じていました。その後、どの泉譜にも載っていないし、何分参考品と言う事での掲拓でしたので、今まで取り上げていなかったと思います。
上図は広横郭長足寶という名で掲載されているもので、広長郭にも類品が掲載されています。鋳走りによるものか・・・と言うコメントがありますが明らかに輪内部が削られています。銭径は少し小さいものの銭文径に差はなく、スタリキによる後加工なのか、それとも純粋に一種と見るべきなのかよく分からないもの。
実はこれを見ると思い出してしまうのが2013年の2月19日の薩摩広郭写しの長足寶の記事。
その改造母銭は九州地区で見つかっているとの情報もあります。刔輪技法は琉球通寶の小字狭足寶でも見られますし、同じ薩摩系と言うことであり得ないことではないと思います。(そういえば穴カタ日本では刔輪長足寶はことごとく薩摩にしていましたっけ。)ただ雰囲気的にこれはなんとなく貧弱で作為を感じますので、参考品扱いになったのかもしれません。類品が出現すれば大珍品でしょう。
※この手の贋作にはスタリキ(金属腐食)を応用したものがあり、たいてい細縁細字になります。

薩摩藩の天保銭の母銭には肯定できるものを聞いたことが私はほとんどありません。唯一の品は天保銭ではなく、琉球通寶の大字狭貝寶のみ。天保通寶母銭図録には2枚の薩摩広郭の鋳浚母銭が掲載されていますが、大きさから見てあれから一般通用銭が生まれたとは考えがたいものです。
ところが、参考品とされたこの大様銭は外輪だけでなく銭文径までも巨大です。しかも解説には精美の品とあります。これを母銭としなかったのが不思議なくらい。現物が見たいし参考品になった理由も聞きたい。

※この手の贋作にはローラー圧延があります。琉球通寶などにときどきそのような品を見ます。傷を隠すため表面に焼いた加工がされることが多いようです。濶縁で太字の大様には要注意です。でもこの拓本は良い気がします。
薩摩広横郭長足寶
薩摩広横郭大様 49.85㎜×33.4㎜
 
7月4日 【天保通寶銭分類譜と天保通寶銭の研究 全18冊】
序文によると頒布会方式で販売されたこの小冊子は、昭和53年から昭和56年にかけてボナンザ誌上に掲載された「天保銭百話」ならびに収集や月刊天保銭に掲載された小論文などをまとめたものということで、一部は當百銭カタログや不知天保通寶分類譜などの瓜生氏の手掛けた出版物に掲載されていたものの再掲資料でしたが、天保通寶銭分類譜についてはその後製本化されることなく現在に至っています。
これらは九州のS氏のご好意で分譲戴いたもの。私はこの配本の存在は知っていたものの、一部しか入手できていなかったので一気の完全収集は望外の喜びです。(ありがとうございます。)
配本は平成4年~平成7年までの9回18冊。一応は完結の形をとっていますが、途中瓜生氏の体調悪化もあり、配本終了後半年後に亡くなられていますので最期はかなり焦っていたように感じます。いわばこの配本が瓜生氏最後の仕事であり遺稿でもあるようです。(実際には天保通寶銭の研究が平成8年3月1日に製本化され発売されています。瓜生氏は同月に急逝されています。)あるいは瓜生氏は天保通寶分類譜も泉譜として上梓しようとしていたのかもしれません。合掌。
 
7月3日 【万国貨幣型録】
1965年版改訂版とあるこの古本は文久永寶をお譲り頂いたHさんから頂戴したものです。万国貨幣型録は2世忘庵こと太田(陸原)保氏が、昭和23年頃にガリ版摺りではじめたのが起源のようで、その後に日本貨幣協会に版権を譲って現在に至っています。B6版(B5の半分)サイズのこの小冊子には11Aの文字が見えるのでおそらく11年目の作ではないかな・・・つまり初版は1959年・・・と推定しています。実は太田氏は天保仙人様の師匠筋に当たる方で、仙人が天保銭収集を始めるきっかけの助言を与えた方なんだそうです。仙人様は高校生の頃からお店を手伝っていたそうですが、私は1980年頃に渋谷の宮益坂のお店に何度か足を運んでいますのでもしかするとお会いしていた可能性もあると思います。万国貨幣洋行には土佐通寶の當二百が燦然と飾られていました。価格はたしか60万円・・・だったのではないかと思います。渋谷のお店は大学に行く途中のバスの車窓から偶然発見したもの。バスに乗った理由は、電車の定期券を紛失してしまったこと、授業まで時間があったのでのんびり旅を決め込んだこともあります。あれから30数年・・・あの土佐通寶はどこに行ったのでしょうか?
 
7月2日 【バリ島古銭輸入拓本集から】
平日休みといいながら午前中は仕事。午後は自宅に戻ってなにをやるでもなくぼおっと泉譜を眺めていました。バリ島古銭輸入拓本集は幸泉こと鈴木秀幸氏がバリ島から持ち帰った数々の古銭の拓本を、氏を偲ぶ拓本集として静岡いづみ会が刊行したものです。説明もほとんどない拓本の羅列なのですが、何気なく眺めるのにはちょうど良い本です。
引用した拓本左は島屋文文半刮去と名付けられていました。文銭にはたしかに刮去痕跡のあるものがあるのですが、島屋文についてはその存在は認められていません。このような品があるように聞いたことはありましたが、ただの鋳乱れかもしれません。でも夢があります。
右の日光片千鳥・・・6月23日の記事の片千鳥と同じ、ということは方泉處とも同じです。竹田四郎氏の寛永通寶拓影全集には「古くから片千鳥とされているものは細長い形のものだけだ」という記述があり、この形は認めていなかったようですけど、この方が千鳥っぽいし、少なくとも一種として認められても良いですね。
細長い方は巷では「列島千鳥」と呼ばれてますので、こちらは小星を雛もしくは先行く群れと見立てて「子守り千鳥」または「群れ追い千鳥」では?
 
岩国(巌國)藩現銭預一匁札
珍しい寛永銭デザインが
とてもキュートです!
7月1日 【コピーガード】
インターネット社会が進展するにつけて技術はますます進歩していると思います。私のように不勉強な輩も趣味の範囲でこのようなHPを作成できてしまうぐらいですから。一方で、防御のテクニックもずいぶん進化しています。著作権の問題もあるので、むやみやたらなことはできない(といってやってしまっていますが)のですが、最近のホームページはコピーガードも進化しているようです。この技術、私のように画像収集を楽しんでいる人間にとって困りものなのですけど、改ざん防止などには非常に役に立つと思います。
少し専門的にになりますが、方法はいくつかあるようですが・・・
①右クリック防止(コピー作業表示防止)のプログラムを入れる。
②透明なカバーでデータを覆う。
③データの保存の制限(キャッシュデータの保存制限)を行う。
などの方法があるようです。つい最近までオークションサイトの画像は収集し放題でしたけど、今月あたりからかなり厳しくなっていますので、いずれ画像で検索してもヒットしなくなってしまうかもしれません。
①と②についてはクリアする方法はあったのですけど、③までやられてしまうとパソコンに保存してもデータそのものが残らないみたいです。パソコンは一度読みこんだデータを素早く次回に開くためデータ自動保存の機能がたいていあります。この機能は便利なのですが、、HPを更新しても以前のデータを読み出してしまうことがあり、HPが更新されても内容が変わらない弊害が生まれることがあります。この制作日記のように頻繁に書き換えをしているページにとっては、更新が表示されないのは問題なので私自身もプログラム制御しています。(どうやったかは忘れてしまいましたが大した技術ではありません。)ヤフオクはどうもこの技術の応用のようですが、自身のパソコンに自動収集されたデータをのぞくと、なにやら色々プログラムが埋め込まれているみたいで・・・、もちろん画像は保存されないようになっていました。すごい技術ですけど、ちょっと怖い気もします。
パソコンのプリントスクリーン機能でブラウザ全体をそのままコピーすることができますので完全に画像収集ができなくなったわけではないのですが、しばらくはいろいろ悩みそうです。まあ、あまりやりすぎるとそれこそ著作権法に問われかねないので・・・ほどほどに。

※いくつかの方法が判明。コピー禁止のスクリプト(プログラム)の記述もおおよそ判明しました。設定は簡単で完全にやられるといずれ素人は手も足も出なくなります。おかげで解除方法もマスターできましたが、公表はできませんのであしからず。
 
6月30日 【上半期の振り返り】
間もなく今年も半分が終わろうとしています。今年の上半期・・・本当はそんなにお金を使う気はなかったのですけど、天保通寶長郭手離足寶とほぼ同時に明和離用通面刔輪背削波(穴銭カタログ日本原品)という超大物を入手。後はちまちま買ったり処分したりを繰り返そうと思っていたのですけど、6月末にとんでもない古寛永や天保銭の大物が出現。買えないことはない・・・・と言いたいのですが、結局買えなかったので後の祭り・・・・まあ、私としてはこれで良かったと思っています。本当は穴銭28号の斜珎嵌郭も欲しかったけど私の力ではまだまだです。
大物を逃しましたので、奇品館に追加してみました。今までは新しい記事を下の行に追加していましたが、今回、制作日記と同じように新しい記事ほど上にくるように改めました。逃した魚はたくさんありますが、玉石混交ですね。是非ご笑覧下さい。
なお、今年上半期の私のニュースは・・・
1.明和期離用通面刔輪背削波 (穴銭カタログ日本原品)の入手。
2.不知長郭手刔輪離足寶 の入手。
3.文久永寶細字長寶狭冠寶 が昨年戴いた文久銭の中から出てきたこと。
4.加護山銭 不旧手藤沢銭写 をネットで見つけたこと。実はこれ本当の意味でお気に入りかもしれない。
5.琉球通寶 大字平尾球 の美銭をGET.掘り出しとはいかないもののお買い得。
6.ホームページのレイアウト崩れ対策の完了。3年かかってしまいました。タブレット端末にもこれでばっちりです。
7.不知長郭手直足寶 の入手。ほぼ未使用の極美銭でした。
8.阿弥陀三尊鍍金銭 を入手し、謎解きができたこと。これはうれしかった。
9.秋田細郭(中間色) の入手。この色は実に綺麗です。
10.更新数が多かった。ものすごく努力しましたがそろそろ息切れです。怪しい説もありますが、力作ぞろいですよ。話半分だと思ってください。
 
6月29日 【さよなら萎字小郭様】
ネットで上半期最大級のお化け商品の萎字小郭が売れました。大学生のS君が手放したもので、実は少し前にその可能性があるようなことはある方から伝え聞いておりました。(ものすごい嗅覚ですね。)
購入時金額のことは伝え聞いておりましたので、S君の損はないものの、稀代の美品かつ大珍品です。良く手放す決心をしたものです。
無理を承知でS君へのエールのつもりで挨拶入札しました。落ちたら責任購入する気でいましたが、本音を言うと落ちたらどうしようとドキドキしていました。(女房にはもしかしたらすごい古銭=支払い・・・が来るかもしれないとカミングアウトしていました。)結局、第一応札者として本日6時近くまで名を残しましたが、鉄人のほかに強烈な参戦者(ひょっとしてH氏?)が現れてくれて私は蚊帳の外。
まあ、気合を入れれば払えない金額ではないのですが今季の古銭収集が終了しかねない大出費でしたからね。納まるべきところに納まった気がしますが、手にできなかったのはちょっとさみしい気もします。
※側面極印を画像で見ましたが、完全に会津短貝寶と同じ。これは間違いなく会津藩の本炉銭です。
 
6月28日 【中郭の判定】
月刊天保銭1号の記事によると、当時の収集家10人の判断では・・・

Aを中郭と判断  0人
Bを中郭と判断  1人
Cを中郭と判断 10人
Dを中郭と判断  7人
Eを中郭と判断  4人
Fを中郭と判断  0人

私はCは文句なし、DもOKかな。Eは選ばないな。中郭手です。それにしてもCもDも面郭が細い・・・細すぎる。
泉譜によって掲載されている中郭の郭幅もずいぶん違います。勢陽譜は面背とも太く、今の分類では広郭の広穿になってしまうかもしれません。私が広郭の広穿を中郭だと判断していた原因はこれです。當百銭カタログは面側はまずまずながら背郭が貧弱。小川譜もいまいちピンとこない。類似カタログが面郭はしっかりしていて一番納得できるものの、他泉譜との線引きは微妙。要は分類の基準がないのです。

では皆様はG~Jではどうでしょう?実はすべて中郭かもしれないと思い入手したもの。私は面郭幅が広めですけどGが一番気に入っています。
面の郭幅が広く見えるのは郭内の色まで面側に見えているからです。理由は郭内の傾斜が一番きついから。これが一番のポイントなのでしょうか?

中郭は面郭が広郭より細めで面と背の郭の幅に差があればあるほどそれらしくなります。言い換えれば明確な線引きはないということ。
微妙なものはたくさんあり、けっこうみんないい値段を払っていますが決定打はなし。
GとHには1万円以上払っています。

実のところHは贋作です。今だから判断できるのですけど、広郭の内郭をやすりで広げています。本座の郭内のやすり仕上げと明らかに異なります。贋作者の小遣い稼ぎに貢献してしまいました。時代も結構経っていそうなので雑銭に混ぜられるとまずわかりません。素人は中郭に手を出すなと言うことです。しかし、こんな贋作があるとは思いませんでした。
鑑定ポイントは郭内の鋳肌とだけ言っておきましょう。
未使用の中郭もアルバムの中にありましたけど・・・う~ん微妙です。中郭手なんだか、広郭の広穿なんだか・・・。
広郭の広穿も久々にアルバムで見ましたけど結構良い線行っています。写真写りが今一つで、画像にすると本当に広郭に見えてしまいます。
 
6月27日 【本座中郭の再考】
私を悩ませる収集物の一つに、天保通寶本座中郭があります。私がはじめて購入した本座中郭は・・・当時5000円も支払ったのに・・・今見ると立派な中郭手でした。次にこれは間違いないと思って手にしたものは広郭の広穿でした。以後、中郭は薩摩広郭白銅と並ぶ私の死屍累々たる失敗収集品の歴史であり、ダメと判っていても行ってしまう悲しいコレクターの性の歴史でもあります。
中郭の鑑定が難しいことは月刊天保銭第1号で大西敏弘氏が研究発表されています。これはずらっと並べた郭幅の違うものを収集家がどこからどこまでを中郭とするかという企画もの。非常に興味ある研究ですが、結局具体的な線引きは出ていません。
こんなにも良く分からない中郭がなぜ愛されているのか?・・・それは基本銭であることに加え、入手しやすそうでなかなか納得のゆくものが手に入らないジレンマが需要を増大させているのではないでしょうか?
そんな中郭ですが、出現のいわれも謎含みです。はじまりは難波大阪銭座の復活から・・・。
幕末の慶応元年から2年にかけて、幕府が戦費調達のため大阪の難波座において天保通寶を造ったという記録が残されており、それに基づいて現在の薩摩広郭が(本座に次ぐ有力銭座の作に違いないということで)はじめに割り当てられていました。しかし、薩摩広郭の存在数量は実に膨大で、これでは短期間に(少量)鋳造されたという史実に矛盾する・・・ということになりました。
そしてこれによって生まれた空白に本座中郭がすべりこみ割り当てられた・・・というのが事の発端。はじまりからして波乱含みなのです。
中郭がなぜ、大阪銭に充当されたかというと・・・
①難波大阪座は鋳造期間が短く、書体は江戸本座ときっと同じだろう・・・という推測から量的に少ない中郭が選ばれた。
②中郭だけは錫母の発見が無く、おそらく既存母銭を改造して急きょつくられたのではないかとの推定があった。
③江戸座と大阪座では銅地金相場が異なり、大阪の方を軽く作る必要性があったとされた。(天保銭事典より)
というような事情があったようです。どうやら③が決め手のようです。

各泉譜の説明を読むと、中郭は広郭の内郭を削ったとも細郭に増郭したともあるのですが、出現は広郭の後というのがほぼ定説です。當百銭カタログでは「中郭の母銭は広郭の錫母の郭を削って作った」・・・と記述、天保通寶と類似カタログでは「細郭母銭の郭の内側に嵌郭を施した」とされています。私の知るところでは広郭の嵌郭母銭を加工したものとされているのが最有力説です。
もし、中郭が細郭の母銭に嵌郭したものだとすれば、当然「嵌郭した母銭」があるはず。ところが現存する中郭の母銭には「嵌郭の痕跡はある」ものの「嵌郭母銭そのもの」が発見されていたわけではないようです。銅母銭に「嵌郭の痕跡」があるということは、中郭は細郭銅母ではなく細郭錫母に嵌郭したとしか考えられません。これは広郭の出現由来と同じになります。
中郭母銭ははじめから中郭の幅にに嵌郭してつくったのか、それとも広郭につくったものをあとで削ったのかという疑問は残りますが、中郭の母銭が嵌郭痕跡のある使い古された広郭の母銭をリサイクル加工して作成されたと仮定して考えます。
瓜生氏は江戸座と大阪座では銅地金相場が異なり、大阪の方が軽く作る必要性があったからと天保銭事典内で述べており、その証拠も見つかったと具体的な数値も書いてあります。
しかし、この説明には漠然とした疑念が湧いています。中郭が難波大阪座の作であったらそれこそ古銭家冥利のロマンあふれるような話になるのかもしれませんが、初めに結論ありきで、それに無理やり根拠を押し付けていったような気がしてならないのです。

それにはある時期に大量出現した広郭母銭に後やすりを入れた変造中郭母銭の存在を説明しなければなりません。この変造中郭母銭は古銭界に今でも根強く存在しています。そしてこれを瓜生氏をはじめとする当時の研究家たちはかなりつかまされています。本物の広郭母銭を加工している変造品なので、見破るのは大変難しく、中郭は広郭母銭の改造から生まれたと結論づけるのに一役買った可能性もあるのです。
広郭の母の郭を削り中郭の母にするとなれば、ほぼ郭内全体にべったりやすりをかける必要が生じます。中郭母銭の穿内にやすりがけがあることが流布されていることは、広郭母銭を変造してつくった贋作を販売する側にとってはとても都合の良いことなのです。私は真正の中郭母銭を見たことがないのでなんとも言えないのですが、中郭をとりまく諸説がみなきな臭く思えて仕方がないのです。
慶応元年は幕府最末期であり、天保銭と銅一文銭の交換レートは公式レートですでに1対24、実勢レートでも1対20程度になってたとはいえ、採算ベース的にはまだ悪くありません。(3月26日記事参照)
だいたい採算のことを考えるのなら、金座が天保銭のデザインを細郭から広郭に変更する理由などはなからないわけなのです。資料を調べる限り天保銭は庶民にも人気で、実用本位であり、かつ金座にとってもドル箱の存在だったはずです。江戸と大坂の地金相場に差異があったとしても気にするレベルでもなく、まして銅地金の変動相場で通用するのならそんな小細工は必要なかったと思うのです。何より江戸・大阪の地域によって通貨の量目を変えるなど、全国流通、統一価値であるべきの標準通貨にはあるまじき行為。しかも天保銭は比較的しっかり量目管理されていて、郭幅が異なっていても平均的な重量はほぼ統一されていることは記録にもしっかり残っています。すなわち上記③の説明そのものが極めて怪しく、根拠が感じられないのです。
余談になりますが・・・天保通寶は100文のイメージがありますが、安永2年(1773年)に背長の銅一文銭が鋳銭停止になって以来、90年以上の年月が経ってますので、一文と言えばすでに鉄銭のこと・・・つまり、天保銭は鉄一文に対する100文だったことが伺えます。文銭が出たのが寛文8年(1668年)で、すでに200年間も文銭は少額貨幣のスタンダードだったわけです。現代で言えば1814年に作られた貨幣がバリバリの現役だったという事になり、こうしてみると江戸時代の貨幣は大変長生きだったと言えます。

幕末のこの頃は江戸においても房州地域からの鋳砂の調達が(政情不安で)極めて困難になりつつあったようで、天保銭の製作の質も下落していたはずです。しかし、中郭の作は決して悪い方ではなく、むしろ彫が深く上作の部類に入ると思います。これは江戸座と大阪座との違いだと言われてしまえばそれまでなのですが、とても気になることです。

難波大阪座が天保銭鋳造を終えて2年後、幕藩体制は崩壊します。天保通寶鋳造は一時期新政府に引き継がれますが、それもまもなく終了し、天保銭も半値以下に大暴落します。明治元年末には公式レートで1対8になります。これは新政府が新たな経済的に力をつける対抗勢力の台頭を恐れたためと自分たちがそうやって力を付けたことに対する隠ぺいなのかもしれません。
明治政府に引継がれ鋳造された天保銭は広郭だとされています。天保銭相場が暴落した後も明治政府が中郭や細郭ではなく広郭を作った点からも、銅相場によって大阪で中郭をつくった説には矛盾が感じられます。
さらに正直に話すと、私はこの嵌郭の痕跡と言うものも極めてあやふやなもので、果たして本当に痕跡なのか、ただの鋳造上の冷却過程でできる現象じゃないのかなどと思えたりもするときがあります。もちろん嵌郭そのものはあると思いますし、痕跡もあるのだと思います。古銭収集家はロマンを追い求めるあまり、ときとして見えないものまで見えすぎてしまうことがあるかもしれないという私なりの戒めです。

私の考えはあくまでも仮説に過ぎませんが、いろいろ考えれば考えるほど中郭は細郭から広郭に移る過渡期のものであり、だからこそ明確な線引きができないのではないかと思えてくるのです。(中郭には彫が深くやや肉厚で細縁気味のものが多い気がしますが、これは量目をやすり工程で合わせたと考えられませんか?この調整は母銭段階でも、通用銭段階でも行われたのでは?)
「中郭は鋳造工程上の変化の一つであり、躍起になって追い求めるべき存在ではない」・・・と、かつて方泉處あたりが語っていたと思いますが、収集する場合はくれぐれも節度を持つべきでしょう。私の場合は手遅れですけど・・・。
 
6月26日 【不知長郭手】
製作的に見て、覆輪刔輪連玉尓とするものに近いと思いますが、輪幅が広く見えないので覆輪の名称は使いづらいです。一方、刔輪加工はかなりはっきりしていて、輪の淵は深くえぐられていて寶下だけでなく、天上や當上もはっきり加刀されています。名称を付けるとしたら
「刔輪小点尓」といったところでしょうか?
長径48.55㎜ 短径32.4㎜ 銭文径40.45㎜ 重量22.0g

※S君出品の会津萎字ですけど、側面仕上げと極印を見る限り、どう見ても会津藩の本炉のものです。泉譜には会津坂下地方の私鋳銭とあります。どうしてそのような結論になったのでしょう。画像を見た印象ながら、あの極印は私がダビデの星形と呼んでいるものそのものなのです。(仙人談話では最近では会津藩で間違いないという結論になったそうです。)
 
6月25日 【オレンジ色の秋田細郭】
秋田天保は色々な色調があります。広長郭は赤銅色が標準で、黄色はかなり珍しい。広郭は赤いものから黄土色までありますが、純黄色は珍しい。一方、細郭は黄色が標準で、赤いものは珍しく、広郭を削った変造贋作がときどきあります。ところで少し前に八厘会の席で、秋田の中間色・・・オレンジ色について聞いていました。画像ではすすぼけてしまいましたが、現品はピンクと赤と黄色を混ぜたような不思議な橙色なのです。色調を調整したサンプルを入れましたが、再現しきれているわけでもなく、筆では表現が追い付きません。この中間色が欲しくて、田宮商会さんの入札に入れてしまいました。数が多いのか少ないのかは分かりませんが、これで細郭は黄色→オレンジ色→赤の3種そろい踏みです。できれば広長郭と広郭でもこれをやってみたいですね。ところで、久々に英泉譜を開きましたが、広郭には厚肉のものが実に多いのですね。3㎜超えは珍しくなく3.4㎜超えのお化けもあるようです。まだまだ奥が深いですね。
 
6月24日 【化け物が出た!】
こいつの今の価値は分からないけれど、風格からして別格の品であることがわかります。(画像拝借失礼します。)古寛永泉志には掲載されていませんが、昔から浮永広郭大様の名前は知っていました。落札価格は私の予測価格のはるか下で、名だたる収集家が応札していました。降りるのが早すぎたと苦笑いしています。外径25.71㎜、重量は4.3gです。ここの所ネットの競争は沈静化していますね。先日の不知天保銭狭足寶も5万円未満とは驚きました。消費税8%が効いているのでしょうか。
それと・・・S君の会津萎字小郭が売りに出ています。どなたか高く買って差し上げて下さい。さもないと私が買ってしまいそうです。

同じ出品者からもうひとつ大型(25.37㎜)の古寛永が出ていました。これは大様銭と言うより風格としては母銭ですけど、湾柱永の濶縁の母とはやはりかなり立派なものだということが分かります。これはもう大濶縁と言うべきもので、本当に名品だと思われる品だと思います。他にも高田の肥永の極美銭をも出品されていたようで、出品者はかなり高名な古銭収集家だったのではないでしょうか?このクラスはまずなかなか見ることができない品です。落とすことはできませんでしたがとても良い目の保養になりました。
  
6月23日 【新寛永通寶図会と同じ片千鳥】
右の品物は日光正字の片千鳥・・・方泉處353番にほぼ正合するものです。たかが鋳だまり・・・されど、泉譜に掲載されている以上同じものがあるはずだと思ってましたが、ネットにでていたので思い切って落としてみました。その結果、吉と出ました。まあ、鋳だまりですから多少形状が狂うこともあるのですが、こいつは郭に向かって火炎宝珠のごとく角が出ているのが判別できます。
片千鳥の名前はいづみ会譜ではA/B/Cのように名づけられていますが、できれば名前があれば良いと思うのです。どうやらAは列島千鳥の異名があるらしい。BはさながらUFOか太ったカモメ。Cに至ってはもはや鳥には見えないかもしれない。色々な形があるようで名付け切るのも難しいかもしれませんが、どなたか発表してくれませんか?
 
6月21日 【雑銭の会に出品!】
雑銭の会の出品物をみつくろい、撮影しました。価格は時価相場を無視して付けました。(一部はさらに値下げしました。)

※まだ実験的な段階ということで、詳細記事は伏せることにしました。
 
6月20日 【正統派美男子の琉球大字平尾球】
6月15日の琉球大字が届きました。予測通り大字平尾球、しかもきりっとしたすこぶるの美形です。残念ながら背は當字が鋳潰れてしまっていましたが、これで文句を言ったら罰が当たるというものです。雑銭の会に出すのは別のものにしようっと。結果として福沢翁3人が我が貯金から逃げ出してしまったわけですが、それほどの損ではないと強がってみます。
CCFのカタログが本日届きました。今年は土曜日に開催日が含まれるので出られる可能性が少しあります。しかし、欲しいのは高額なものばかり。さすがにちょっとためらわれます。見学にしようかしら・・・。
ところで収集誌は穴ずれエラー銭のボルテージが上がっています。空前の2つ穴エラーということで、筆者の喀龍氏の絶賛はすごい勢いです。私は専門外なので、価値真贋が分からず冷静な目で記事を読むことができますが、まさに恋は盲目ってやつですね。目に入れても痛くないというか、身も心もとろけんばかりの氏の筆の走りっぷりが微笑ましい限りです。私もそんなことありましたっけ・・・・・・いえ、それ以上のドキドキ状態なのかもしれません。
寛永通寶で無穴や2つ穴なんて出たらそれこそ大騒ぎですけど、残念ながら間違いなく贋作ですね。盲目になりすぎると真実が見えなくなることもあるのですが、かくいう私もかなり盲目ってやつでして・・・今日も女房の目線が痛いです。
ところで今回の入手によって桐極印の平尾球と画像比較が可能になりました。ちょっと砥ぎが強い品でいびつな感じがしたので不安に思っていたのですけど、画像比較したところ異常なし。画像はほぼ重なりました。よかった。首がつながった気がします。
 
6月19日 【密鋳銭】
出張仕事の帰りに田宮商会さんにふらっと立ち寄りました。私は有楽町線を使うことが多く、田宮商会さんのある新橋は有楽町から一駅で、しかも新交通ゆりかもめも豊洲でつながっているので意外に行きやすい場所なのです。田宮商会さんでは売り物ではないということですが「これ何か分かる?」と、Aさんが錆びた鉄銭を出してきました。あいにくメガネを忘れてしまったのでどうにも目の焦点が合わない。もとより鉄銭は苦手・・・というより生理的に嫌いなのです。理由は40年来続くホコリアレルギー。赤錆ホコリはもっとも苦手なもののひとつなのです。
みかねてA店員「大頭通の写しですよ」と種明かし。そういえば鉄写しは俯永や小字、正字、21波写しはあるけど大頭通写しはあまり聞いたことがありません。穴銭カタログ日本で見ると、銅写し12000円の評価に対して鉄写し8000円に評価。銅銭の場合、大頭通は実数的には銅の正字や小字の50分の1以下ぐらいでしょうから、本来ならもっと高額評価であっても良いと思いますが、実態価格はかなり抑え気味です。まして鉄で銅銭の4分の3なら大健闘です。これはそのうち入札に顔を出すでしょう。

さて、右は下町で落札した密鋳の広永写し。ごつごつとしていかにも・・・と言う顔にも見えますが、実物は赤くて汚いながら、そんなに密鋳らしい違和感があるわけでもありません。ただし、手にすると側面仕上げのあとに面砥ぎが強く行われたようで、そのために砥ぎバリが側面に飛び出してごつごつしているように感じます。そうです、手にしてみれば指に引っかかるのです。密鋳銭は指先で見つけろ・・・そんな品・・・言葉通りの品ですね。
→ 密鋳銅一文の観察箱

※砥ぎの正式手順は手持ち文献ではよく分からないのですが多くの銭を観察する限り、平砥ぎ(面)→丸目(側面)ではないかと思われます。
  7月8日/どうやら誤りで丸目(側面) → 平砥ぎ(面) の順のようです。
 
6月18日 【琉球・球字アラカルト】
泉譜からコピー拡大して並べて見ました。私自身が持っていた印象と異なった銭もありますね。小足寶は本当に珍銭。天保仙人 様から見せて頂いたことがありますが実数的にはほとんど存在しないと言われるレベルだとか。琉球通寶収集するうえでは最大の珍品で、お金を出しても購入できない幻の一品だそうです。
中字
こうして拡大比較してみると、中字は確かに文字がスリムでひとまわり小さくなります。王第1画と求第1画が水平に並びます。最終画の筆運びは直線的。
狭貝寶
球字は縦画が強調されています。文字の背は高いものの幅は広くなくスリムなイメージです。こちらも王第1画と求第1画が水平に並びます。
宏貝寶
偏が大きくなり、文字幅がぐっと増すのが宏貝寶の特徴。求の横引きは半画分ほど降ります。この特徴は他の大字系書体にも見られます。最終画の筆運びは長く曲線的。
短尾球
太字に見えるので大きく見えますが幅狭く、中字と遜色ない大きさ。求横引きははっきり降ります。平尾球と兄弟のような関係。
平尾球
筆運びは短尾球とほぼ同じで末尾だけが修飾されて長く尾を引きます。幅は広いものの扁平で背が低い。
大頭通
全体的に大きくすっきりしています。中字に筆運びが似ていますが求横引きははっきり降ります。広郭に似ていますが王画の幅が狭い。 
広郭
求横引きは降るものの私のイメージよりわずかでした。すっきりデザインされていますが全体に大きく文字の大きさは最大級です。
 小足寶
太くてどっしりしていて巨字の異名もありますが私には広郭の方が大きく見えます。
王画の最終画の角度が最もきつい。求横引きはやはり降ります。
琉球の球の字だけでも分類は可能なんですね。実際にはなかなか難しいと思いますけど・・・
 
6月17日 【琉球通寶分類のポイント】
琉球通寶については多くの収集家が中字1枚を入手して終わりにしているのではないでしょうか?
ほかに魅力的な古銭がたくさんある中で、琉球通寶にばかり労力と資力をつぎ込むことができなくなっているからでしょう。余力がある方でも広郭、小字など4~5枚集めれば良い方でしょう。頑張ったとしても中字、広郭、宏貝寶、狭貝寶、大頭通、平尾球、短尾球、小字、小字狭足寶、半朱など基本銭を一通りそろえるだけでも大変。小足寶類のように見ることさえ難しい大珍品もありますし、桐極印や銅替り、重量違い、果ては文字の微細変化まで手を出したら際限のない古銭病に陥ってしまいます。(ちなみに私は古銭病です。)
ところで琉球銭は銭文径の大きさと名称が不一致であることはご存知ですか。(この場合の銭文径とはとは琉字の第6画から寶貝画の底画までの長さを言います。)
実は(計測できない短足寶系を除き)圧倒的に銭文径が大きいのが昔は中字類となぜかされていた広郭で、それ以外の大字類は中字より銭文径が小さくなっています。(2010年2月13日の制作日記)なかでも平尾球、短尾球は通寶の2文字が萎縮していて私には中字より文字が小さく感じます。(銭文径は当然小さい。)
大字類の見分けのポイントとして・・・
①狭貝寶以外の大字は球字の求第1画横引きが王第1画横引きより少し下がります。一方、中字や狭貝寶の場合、この横引きが一直線状に並びます。(ただし、摩耗して文字が太くなっている場合はかなり判別が難しくなります。)
②大頭通は背の當字が明らかに郭寄りになります。別名、降當と言われます。
③狭貝寶と中字の差は通用画第1画のしんにゅうとの接し方で見ると良いと言われています。詳細は逆引き天保銭事典の最後に記載してありますのでご参照下さい。
④狭貝寶、宏貝寶は求画の右はらいの筆始め端が十字の交叉部近くから始まり、縦画に沿って下方向に滑らかな曲線を描く癖があります。
⑤平尾球、短尾球は横太り銭形になります。こいつらはなんとなく覆輪のイメージが私にはあるのですけど・・・

以上は私の感覚です。琉球通寶は小字狭足寶が覆輪刔輪技法によるものであると考えられているようで、たしかに中字を縮小したような書体です。そのため不知長郭手長反足寶は古くは薩摩藩扱いでした。(穴銭カタログ日本は現在でもそうですね。)
ところで小字狭足寶の元書体について調べた方はいたのでしょうか?ご存知の方はお知らせください。
  
6月16日 【當百銭カタログ】
最近の天保銭のネット上の戦いはすさまじいものがありまして、それに私も一枚かんでいることもあり、反省しきりです。
當百銭カタログが1万円以上の値段をつけています。あの当時で3000円の定価と当時としてはかなり高額で、私も購入には躊躇した覚えがありますが、さすがに1万円はしないだろうと思いますが、欲しい方にとってはそれだけ価値のある本なのでしょう。ただ、この本は分類の基本が身についている方にとっては非常に読みやすく斬新な銭譜だと思います。何より寸法等が明記されているのがありがたい。ただし、最近、その数字がちょっとあやふや(拓本で計測している?)なのじゃないかと思うようになっております。ネットオークションのIDコードから私が応札していると勘違いされている方がいらっしゃるかもしれませんが、私は参加しておりませんので・・・。
文献収集は趣味ではないのですが、気になったら手に入れています。それでも新寛永通寶図会と古寛永泉譜はボロボロになったときに備えて未使用本を保存していますので、やはり私もコレクターですかね。もったいなくてほとんど開いたことのない美術品的な文献(天保泉譜の初版本・小川譜の初版本・村上譜・明治泉譜・竹田四郎譜など)もたくさんあります。それでも世の中にはまだ私の知らない秀逸な文献がたくさんあるでしょうね。天保銭では天顕堂の天保銭譜が世に出ていない秘本で、最近、貨幣協会の例会にて少しずつ公開されているみたいです。メジャー?なところでは瓜生有伸氏の月刊天保銭と、その活動にともなって配本された天保通寶銭分類譜が欲しい!(読みたい!)これは復刊して下さらないかしら。
 
元の画像 画像処理後
6月15日 【掘り出したんだか掘り出されたか?】
気晴らしでオークションのネットサーフィンをしていたら、心引っかかるピンボケ画像(左側)をMコインで発見。目を凝らしてみると球の最終画が右に流れているように感じます。表示は琉球の大字・・・でもって売価は即決で28000円。狭貝寶でこの価格は高いけど平尾球ならお買い得?なんて考えているうちに、いてもたってもいられなくなって落としてしまいました。大字平尾球はなかなか状態の良い品は少ないのです。この品は写真写りから見て桐極印もあり得ると感じます。画像を取り込んでちょっと処理をほどこすと平尾球の特徴が鮮明に現れました。(右画像)
私程度の技術とホームパソコン備え付けのソフトだけででもここまでくっきりできるのです。(やろうと思えばもっとはっきりできますが、色がどぎつくなってしまいます。)
まさに画像マジックですね。ところでこの買い物、果たして必要だったのか否かというと微妙です。平尾球はとりあえず規準銭を持ってますからね。状態にもよりますけど雑銭の会用になるかもしれません。
※広郭の桐極印が出ています。見たこともないのですけど・・・値段は高いなあ。さすがに買えません。 
 
6月14日 【ちょっと不思議な不知広郭手】
ネットで徘徊して、少し心がざらついた品物を発見し、確認応札しましたのが右の品。落札価格150円。この手の物は99%が高知額輪か一般には秋田本座写しとされている物(おそらく本座の明治期吹き当たりの品)か久留米正字の類です。送られてきた品は側面の仕上げに違和感があり、極印も確認できず、かなりの縮形で銅質も違う。郭内仕上げ(ほぼ未仕上げ)も通常とは違います。仕上げの印象的には称:秋田本座写ですが、銭文径が極端に縮小していますし、額輪とも仕上げが全然違う。では何に一番近いと言えば、贋作浄法寺の類・・・でも、無極印ですし、こんな物作ってどうするのかと言いたい品。銭文径は鋳だまりで判然としませんが1㎜は縮んでいます。右は細郭との比較画像。高知額輪をグラインダーでガリガリ仕上げしたらこうなるかなと思います。とりあえず不知品にしておくしかないのですけど、ひょっとしたら変造品かもしれません。まあ、150円で十分楽しめましたから良いとすべきですね。
※ご意見をお聞かせください!
側面仕上げの様子
細かいひっかき傷のようなやすり目が無数に走ります。また、未使用でもなさそうなのに角が持つ指が痛いほど立っています。極印は左右とも確認できません。側面は和やすりの跡ではなく、ワイヤーブラシ研磨のような雰囲気があります。ただ、極印や額輪の特徴を消すまで削るのはかなり骨が折れると思います。後やすりの可能性は全く否定できませんが色も落ち着いていますし、肯定もできません。ただただ指が引っかかるのがどうにも気になるのです。一部に地肌を削ったような痕跡もあるため、額輪以上の高評価は避けたいところです。
 
直永手細字離足寶 
直永手細字退貝寶(細字跛寶) 
6月13日 【頭が下がります!】
文久永寶遊泉記を続けておられる唐松堂氏。最近は大分の坂井氏と研究合体してさらなる探求を深めておられます。私から言わせればすでに「神の領域」であり、ついてゆくのがやっとと言いますか、実質おいて行かれそうなのが現状です。
左の2枚の拓本は「文久永宝分類譜」からの借拓ですが、新発見や気づきがあり、文久永寶遊泉記紙上にも取り上げられています。
細字離足寶はかなり少ない種類で、実質的な存在数は15000枚に1枚ぐらい・・・直永の10分の1くらいだそうで、わたしはもちろん未見の品です。いえ、実は一度だけ見かけたことがあります。それはたしかはじめて応札参加した第8回江戸コインオークション。私の落札品は細字長寶でしたが、この離足寶も出ていましたが、負けてしまいました。それ以来、出会っていません。今思えばもったいなかったかしら。
直永手細字退貝寶は細字跛寶の名で文久永宝分類譜に掲載されており、細字跛寶刔輪とされるものと同系とされていましたが、唐松堂氏、坂井氏の研究で別種とされたもの。
細字跛寶刔輪は雑銭ながら、個性豊かで非常に分かりやすく、文久永寶収集には必ず加えるべき一品です。
なお、細字退貝寶と区別するために細字跛寶刔輪の名称を細字短貝寶に変えておられますが、この種は文字が輪から離れる特徴もありますので、細字刔輪短貝寶にしたらどうかなと思う次第です。
→ 文久・美星倶楽部 
 
 
6月12日 【細郭手覆輪刔輪連玉寶】
オークションネットで不知細郭手の名前で下値6000円で出ていた天保銭です。(画像拝借しました。)ひと目覆輪刔輪で連玉珎の書体。ただあまり肥字にならず、この画像だとやや寶足が長く見えます。銭径が小さく輪幅も挿して広くないので覆輪の名前を名乗ることに若干抵抗がありますが、間違いなく覆輪系であり、拡大画像だと天上右に覆輪痕跡がかすかに残っています。何が何でも欲しいというわけではありませんでしたが、下値も低くそれなりに魅力もあり、また、この手のモノは変わった極印が良くみられるので応札していました。もくろみ通り落札できましたが、ここのところ天保銭は小休止状態でしたので、どんな顔をしているか楽しみです。
 
6月11日 【またまた安南寛永】
安物ですが楽しめています。上段の典型的な安南寛永。つくりは元隆手なんですけど背郭のつくりになんとなく特徴なあるのが「方字跳永様」。広穿ぶりも楽しむ見ていて飽きない安南寛永ですね。もちろん、興味のない方はお金をもらっても欲しくないでしょう。
私はお金を払いますけど3000円以上は躊躇するかもしれません。
下は古寛永岡山小字写しの安南寛永。古寛永写しは郭抜寛永手の井之宮縮寛写しが有名であとは建仁寺写しを見るぐらいかと思っていました。元隆手ということで確かにぺらぺらなんですけど、火を被っているのかなぜか赤茶色の発色です。したがって印象的には元隆手らしくない。しかも太字ですから・・・。
本日東京に外出のおり、新橋の田宮商会にほんの少し立ち寄りました。オークションの日程を聞いております。今年も10月の12日、東京駅そばの丸ビル7階丸ビルホールにて開催だそうです。いまや都内でも数少なくなった老舗のコイン店ですから、なんとしてもオークションを成功させて業界を盛り上げてほしいとエールを送ります。しかし、盛り上がりすぎると競争が激化して入手が難しくなりますからほどほどにしてもらいたいところ。
最も私の生息域は底辺に近い分野ですので価格も高が知れています。しかし、ちりも積もれば山となっておりまして・・・。
 
6月10日 【オークションネット】
オークションネットが終了しました。落札価格表を見ると・・・あれれ、私がメール応札した価格よりかなり安い価格で落札になっています。以前、メール応札で(結局不受理で)失敗した記憶がよみがえります。
失礼ながらあわててメールで再確認してしまいました。(当然、返事はまだありません。)可能性は3つ。
①私が落札。2番札との価格の開きが大きく、2番札付近値の落札になった。(万歳!)
②手違いで私の応札が忘れられてしまった!(これは悲劇・返信メールもあるのに・・・)
③印刷ミス。実際の落札価格はもっと高かった。(これなら納得)
可能性は③が最も高く、①がその次の可能性か?応札約款がすでに見ることができないので分かりません。これだけはやめてもらいたいのが②。今回は応札確認もしてあるので間違いはないはず。①であってほしい。
ざっと落札結果を拝見しましたが、名品は強い。明和大字、文久の原母はすごく強かった。穴銭マニアは健在でした。

本日確認!2番札価格での落札。ものすごく良心的でした。もっとも初値の4倍以上つけていましたから当然かな?
 
6月9日 【外道ども】
錯笵集めは安上がりで楽しめます。左は熊に引っかかれたような強烈な筋が背に残された寛永銭。一筋では珍しくはないものの三筋半も残っている。これは何の跡か空想を楽しむことができますそれにしてもこれは何の痕跡なのか?
右は面の錯笵銭。郭がきれいに外れてます。しかも偏輪になっているもの。これは珍しい錯笵です。終了時間を間違えたため入手はならず残念です。今年はネットの天保銭は高騰激しくほぼ全面降伏状態です。したがって寛永銭の小品で遊んでます。血圧が下がったら視力が少し回復しました。これで資力も回復と行きたいものなのですけど・・・。
 
6月7日 【またまた安南寛永】
2~3日、更新をさぼりましたが、これが本来のペースで称。
超雑銭ですけど、安南寛永に手を出してしまいました。右図は150%拡大図なのですけど、これぐらいになるともう肉眼での判読がかろうじてできる程度のレベル。
いずれも薄小、貧弱、極軽量の品で、これ本当に流通したのかなと思うぐらいみすぼらしい品です。
上2枚は寛保期高津銭の写しの末炉銭だと思うのですが、外径16.5㎜ほどで重量は0.6~0.7gしかなくペラペラです。これを作る技術はかなり高度だと思います。
この豆銭と呼ばれる銭は本当に流通したのか、現地では挿しにされていたのか・・・これについてご存知の方は情報提供ください。
ちょっと力を入れるとパキンと折れてしまうほど薄く、はかなく可憐です。一番下のものは「細縁大字背文」の名称のあるもの。
安南寛永としてはけっして少ない方ではなく、むしろ多いと思うのですが、とにかく安南寛永は色々なものがあって、評価の割に今は手に入りません。どなたか大家が放出すれば市場にあふれかえる存在なのかもしれませんが、なかなか手に入らなくても安く買えるのでうれしいものがあります。豆銭に比べれば頼もしい顔をしているように思えますが、現物は末炉の寛永銭にも勝てないほど小さくそして薄っぺらです。
そういえば今日は東京交通会館で売出しがある日でした。残念ながら本日も自宅待機です。お金も節約できるので仕方がないかなあと考えています。
ただ、ネットに天保銭などが出ています。高すぎてもう彼方に行ってしまった感がありますがむらっけを出すかどうか思案中。舌の根の乾く暇もありませんね。
 
6月3日 【もったいない!】
5月30日の記事の品。外径24.85㎜、重量3.75gと立派なもので古寛永としては大様の部類でしょう。あと、0.2㎜大きかったらもっと自慢できますね。婉文濶縁か覆輪かは微妙なんですけど、もともと濶縁も覆輪技法によるものなのでそもそも名称として区分すること自体に無理があります。24.85㎜の婉文濶縁もしくは覆輪で十分でしょうね。ただし、この品よほど愛されちゃったらしく磨き粉か何かで一度磨かれています。見た目はそんなにおかしくないのですが、手にすると指先がすべすべします。これは致命的なこと。したがって評価は2ランクダウンでしょう。もったいないですね。
 
6月2日 【長門銭星文様遒勁】
星文様は本来ならば背星文刮去様とすべきなのでしょうが、昔から星文様と言われています。この星文様遒勁は確か収集の入札で手に入れたと思うのですが、地味ながらなかなか少ないものです。星文様の類は通頭の変化で、塞頭通、削頭通、幻頭通の3種が有名ですが、この遒勁はそれらに勝るとも劣らない珍銭だと信じております。
永のフ画がまるで怒っているように左上がりで両すそが跳ね上がるような力感はなかなか楽しいものがあります。説明文で「直足寛と分類される書体です」・・・・などと知ったかぶりの解説をしていますが、どこで聞きかじったものか分からなくなってしまいました。たぶん収集の連載記事だったような気がしますが、古寛永泉譜はもちろん小川譜、谷譜、山添譜にも見当たりません。(お分かりの方教えて下さい。)
掲示品はとくに永字の力感が素晴らしく、谷譜の拓本のものに近い品です。いつ集めたかわからないうちにアルバムに2枚納まっています。あとは最有名品の幻頭通だけなんですけど・・・これにはまだ出会っておりません。どこかにはあるんでしょうけど。
※意地になって毎日更新してきましたが、そろそろ仕事が追い付かなくなってきました。どこかで小休止します。
 
6月1日 【寛保期足尾銭の白銅銭】
関西のSさんから、5貫文緡(96勘定で4800枚)の寛永銭の中から純白の背足が2枚出てきたというご報告がありました。まずは皆様の手持ちの品をお調べください。私は見たことがありません。
画像は大字背足・・・実は密かに足尾銭のコーナーに画像を追加しておいたもの。
全く大したものではありませんが、24.15㎜の外径は立派に見えましたので拾っていました。足尾銭は24㎜を超えるとちょっと評価があがります。(と、考えています。)
もちろん、純白のものが出てきたときには足元にも及ばない品ですけど、ちょっとだけ少ないものなのです。
(でもたいしたものではありません。)
 
5月31日 【江戸コインオークション誌上入札から】
印刷の問題だと思いますが、画像の粒子が粗く網目状模様が出てしまっていますが、この不知長郭手はなかなかの顔をしています。
面背とも細縁で刔輪が強く、かなりの細字長張足寶になっていますね。これは実物を見てみたいものです。天保銭の張足寶系は本当に種類がたくさんあって、細分類したらきりが無くなりそうですが、変化としては実に面白く楽しいです。
使えるお金を使えないお金にせっせと両替しているわけで、なかなか大変です。
ここのところものすごい勢いで地域の仕事が舞い込むのですがすべてボランティア。私どもの方は人件費やら経費がかかるのですけど、私の仕事はタダだと思っていらっしゃるようで・・・。まあ、頼られるだけありがたいと考えましょうかね。
 
5月30日 【古寛永岡山銭婉文覆輪?】
覆輪の名前が冠された古寛永はこの婉文の他に高田縮通覆輪、仙台濶字手覆輪などがあります。覆輪の名前こそありませんが井ノ宮縮冠濶縁や坂本大濶縁なども母銭に覆輪して鋳写したもののような気がします。細縁銭の定義からすれば縮字の名前で済まされそうですが、やはりこの銭は大濶縁とか覆輪の名前の方がふさわしい。人間は小とか縮とかいう小さくなる表現より、大きいことを意味する言葉の方が好きですから。
古寛永泉志で婉文の場合、濶縁は6位で覆輪は稀の評価です。両者の差は微妙ですが、評価は天と地ほどの差。画像の品は濶縁の名前で出ていましたが覆輪でも良いかな・・・と思った次第。ただし、この手の品は過去の経験からたたき伸ばしや焼け伸びのものが多数存在することが判っています。果たしてこれはどうなのでしょうかね。
※余談ながら明和期当四文銭の大様のほとんどは焼け伸びです。必ずといって良いほど銅色が紫がかっていますが、あれは火を被った証拠です。
 
5月29日 【安南寛永の異書大広穿背下文】
一円玉ほどの大きさのこの安南寛永は第3版の穴銭入門では「奇書」とされている系統のものですが、1992年5月の収集誌上で発表された大広穿の方が特徴をよく表しています。書体は水永の系統のようにも思われ、通用は下すぼみで巨頭通、寶は円冠円貝寶のようでまるでオバQ(古い!)みたいです。
もともとこの類はそれほど数が多いわけではないのですが、掲示品は背の穿下に文の文字を置きます。インターネットで拾ったもので泉譜未載の品、もちろん初見品。評価は判りませんが数的には超希少かもしれません。元隆手異置背文の類に入れられていたと思いますが、雰囲気的にはかなり違い豆銭との中間品らしいという評価もあります。ただし、類品には大様のものや、それほど穿が広くない変化途上の品もあるようです。安南寛永は楽しいです。
異書大広穿背下文
 
5月28日 【古寛永井之宮銭のこと】
昨年9月7日に「埋もれた有力説」というタイトルで貨幣誌に掲載されていた安藤遊仙氏の話を掲載致しましたが、これに関連して1977年の収集1月号に「寛永銭風土記」として竹田四郎氏の調査報告が掲載されていました。はたして井之宮・井之竈いずれの地なのか?
まずは掲載文献にある記述から・・・
榊原長俊(1753-83年) 駿河国志: 「寛永16年当所鋳銭願申上候処・・・則
井之竈村にて吹立仕・・・」
芳川維堅(?-1817年) 著作中に「寛永14年至17年
沓谷村所鋳・・・」
近藤正斎(1771-1829年) 銭録:井之竈村(駿河国志とほぼ同じ記述)
藤原貞幹(1732-1797年) 寛永泉譜:「寛永13年
洗足村鋳・・・」※洗足村は沓谷の隣接地区
阿部正信(1843年著) 駿国雑誌:「安倍郡
井宮村に銭座あり・・・」
貴志家古文書 駿府御城代々記:(1846年写本)「寛永16卯年当所鋳銭吹立付願上処願通仰付則
井ノ宮村にて吹立仕町中潤に罷成候事」 原本は不明ながら駿河国志の記述に近く同時代と思われる。(画像右:収集から転載)

見ての通り、実にいろいろな記述が残っています。情報伝達が今一つの時代ですので、風聞風評の書き写しも多かったと思います。
古さから言えば駿河国志に軍配が上がります。しかし、それとて寛永16年(1639年)から100年以上経過しています。しかし、この中に注目すべきものがひとつ・・・それが貴志家古文書です。貴志家は87代(当時)千数百年にわたり浅間神社(せんげんじんじゃ)の惣社に奉仕した神主の家系だそうです。ネットで調べると惣社は駿府城のすぐ北側にあり、井ノ宮村とは山をはさむ東側に存在します。
駿府城は徳川家康の居城として有名ですが、家康死後は家光の弟の徳川忠長の居城になっています。しかし、寛永8年に忠長が家光の不興をかって改易されてから城主がいなくなり、寛永12年(1635年)の城下の火災で天守閣を失ってからは天守のない城となっていました。この城は後に隠居した徳川慶喜が移り住んだことでも知られています。その御膝元の神社に伝わった記録であり、神社のとは直接関係のない(虚実を書く必要もない)記録なので、写本とはいえ信憑性は非常に高いと思われます。
この記録の発見が野崎静修軒(野崎彦左衛門)説を裏付けることになり、井之宮村説が決定的になったようです。たしかに、この時代の駿府は家康の元支配城下であることから経済が発展していて銭座が置かれるにふさわしい地。
ところが井ノ宮村は1828年の安倍川の氾濫により村の大半が流出して失われているそうです。古地図を見ると駿府城に井宮水門などの名が見えます。安倍川からまず神社に向かって水路を伸ばし、さらに安倍街道に沿って堀に水を引いていたと思われます。曲がった水路は防衛のためですが氾濫も起こしやすく、後に記録の地名が迷走し、遺跡が発見されないのはこのせいかもしれません。井宮の地名は水神を家康自らが祀った同名の神社があるからだそうです。この地は昔から氾濫後の村同士の田畑の境界争いが多く、神社は境界の目印でもあったそうです。
 
5月27日 【秋田加護山寛永銭見聞録その2】
昭和10年頃、延泉こと大島延之氏は秋田市内において大量のウブ寛永銭を入手。その中になんと2万枚に及ぶ未使用の加護山銭が含まれていました。発見された加護山銭はすべて文銭写し。その98%が嵌郭されていない細字様。正字様や嵌郭されたものは少なかったそうです。つまり、人気者の加護山銭はいまだに収集界のどこか(日銀?)に大量に存在するわけでして、本当は別に珍しくもなんともないのかもしれません。
そのときの分類は14種
正字様3種(初出・広郭・細郭) 中字様2種(広郭・細郭)
細字様7種(広郭初出・初出・大様・広郭・中郭・細郭・小様) 繊字2種(狭文手・小文手)
広郭はたぶん嵌郭のことだろうと思いますが、初出と大様の差が判りません。
一方、下の表は大西氏が収集品を分類した結果です。分布などがよく分かりますので参考までに。
加護山銭 正字様
肥字
正字様
嵌郭と小郭
細字様 細字様
嵌郭と小郭
繊字
小文様
中字様 備考
母銭 1 0 2 1 0 0 4 黄銅・赤銅あり
通用母2枚
大様 3 4 10 2 1 3 23 銭径2.4㎜弱
標準銭 50 32 149 78 12 8 329 銭径2.35㎜
重量3.2g
小様 10 7 31 12 0 2 62 磨輪多し
厚肉 4 3 13 3 0 0 23 重量4g
未使用 7 6 9 4 1 0 27 やすり目深く、角が立つほど
75 52 214 100 14 13 468  
加護山銭 正字様
肥字
正字様
嵌郭と小様
細字様 細字様
嵌郭と小様
繊字
小文様
中字様
母銭 0.2% - 0.4% 0.2% - - 0.9%
大様 0.6% 0.9% 2.1% 0.4% 0.2% 0.6% 4.9%
標準銭 10.7% 6.8% 31.8% 16.7% 2.6% 1.7% 70.3%
小様 2.1% 1.5% 6.6% 2.6% - 0.4% 13.2%
厚肉 0.9% 0.6% 2.8% 0.6% - - 4.9%
未使用 1.5% 1.3% 1.9% 0.9% 0.2% - 5.8%
16.0% 11.1% 45.7% 21.4% 3.0% 2.8% 100%
大西氏による分布率

現代で個人が加護山銭を400枚以上集めることなど不可能ではないでしょうか?
多くはないものの正字様は思った以上に存在しています。それに対し繊字と中字はかなり希少です。狭文様は皆無なのか・・・それとも細分類が難しいだけか?
大様、厚肉、未使用ともに意外に少ないので見つけたら拾いましょう。なお、表からは省きましたが、薄肉は全体の2~3割程度とのこと。
   
5月26日 【安南寛永元隆手背左元母銭】
来歴を調べると意外に古く、2005年の3月ぐらい。幣泉の落札品でした。たしか通用銭と同時出品されていて、通用銭は落とせなかったものでした。書体はオリジナル。少し大きくて鋳バリなどもない品ですけど、単独で見ると母銭というよりきれいな通用銭といった感じです。安南寛永の(未仕上げ)母銭らしきものはもう一品ありますが、そちらは郭の仕上げがありませんが、つくりが丁寧で一回り大きいもの。ただ、安南寛永は何でもアリの世界ですから、こちらの方がより母銭らしい品でもあります。
こんな品はいつでも入手できるだろうと高をくくっていたのですが、あれから8年経っても一度も出会っていません。あれほど巷にあふれていた安南寛永はどこにいってしまったのでしょうか?
 
5月25日 【アルバム整理】
目が悪くなったと感じます。調子が悪いと自分で書いている文字が良く見えません。昨日はメガネをかけてもルーペが必要でした。これは今の体調も影響していまして文字が二重に見えてしまうのです。と、最近病気の話題が増えました。
時間があったので昨日はアルバム整理をしましたが、この作業はきつかった。なんとか絵銭・刻印銭・安南寛永・密鋳一文・改造母類を分離して、机や棚に散乱していた古銭を元の場所近くに戻しましたが、文字の書き込みや並べ替えまでは至りませんでした。狭い机の上には撮影した古銭が200枚近く散乱していましたから、それでもかなり片付いています。この先の難敵は密鋳四文銭。天保通寶藩鋳銭のアルバムも1冊が5kgを超えていて重すぎるので分離が必要です。古寛永2冊も満杯ですし、文久に至っては頂戴したものの方が多すぎて子供部屋の一角を占拠しています。それでも久しぶりに開いたアルバムは新鮮な感じがします。お、こんなものがまだあったなんて発見があります。
下の記事もそのひとつ。30年以上前のものですね。
これから、少しずつ画像を大きくして行く予定なので、アルバム内の再発見をも発表したいと思います。
 
5月24日 【のっぺらぼう100円玉の真実】
本日、体調絶不調。予定をキャンセルして自宅療養中です。
ネットにエラーコインとして時々出てくる100円玉。出品者には申し訳ないのですが真相を書いてしまいます。
この100円玉は昭和50年代初頭に全国各地で見つかり、私も昭和51年の5月1日に右の100円玉を手にしています。そのときは大変なものを入手したぞと大喜びしたのですが、(だから記録していた。)、それから1年後に千葉日報(地元新聞)に掲載された記事にがっかりさせられました。こいつの原因はサンドイッチ型玉貸し機。この玉貸し機は薄型で場所を取らずパチンコ台の間に設置できるのでたちまち全国に普及したのですが、不具合により投入された100円玉がパチンコ玉の流れの中に落ちることがあり、そのまま研磨機にかけられてしまうため文字や絵柄が消えてしまうのだそうです。
パチンコ玉と一緒にもみくちゃにされているうちに滑らかに文字がつぶれてゆくので
「のっぺらぼう100円玉」として、もてはやされ、変造品も現れたのではないでしょうか。雰囲気的にネットの品は不自然で変造品の方だと思います。
珍しいと言えば珍しいのですが後天的変形ですし、パチンコ屋さんなら意図的に作ることも可能なので価値はありませんね。大山鳴動して鼠一匹とはこのことで、それでも真相を知らない方はたくさんいたのでしょう。その後しばらくは全国の新聞紙上をのっぺらぼう100円玉が飾ったと記憶しています。
千葉日報紙上で真相が出たのが昭和52年5月、昭和53年2月の中京新聞が(ニセガネとして)発見を報じていますので現代では考えられないほど情報伝達がのんびりしていたものだと思います。
 
5月23日 【秋田加護山寛永銭見聞録】
収集77年7月号に大西良彦氏による加護山銭の大量見聞録があります。加護山銭の特徴は・・・
①材質が阿仁銅山特有の銅で、銅9割・鉛1割のかなり赤味の強いものであること。
②砂目が粗くざらざらした地肌であること。
③面・背・輪側面に粗く深いやすり目が走ること。
④輪側面のやすり目は基本的に横方向であること。
⑤輪側面は垂直(比較的平ら)に仕上げてあること。
秋田と南部は交易があり、阿仁の銅も南部に流れたため南部藩との区別が難しいところでありますが、南部藩は・・・
①材質はいろいろあって一定しないこと。
②砂目も様々だが、滑らかのものも多い。
③面背は磨き砥石仕上げでやすり目はあまり残らない。
④輪側面は縦・横・斜めやすりまでのランダムなやすり。一定しない。
⑤指に引っかかる感触があり、台形に仕上がるものも多い。
名称 存在 備考
1.古寛永仙台大永写
2.元禄期荻原銭写 三種ともあり
3.宝永期四ツ宝銭写 広永が多い
4.猿江銭写 小字が多い
5.仙台異書類写 進冠が少々ある
6.不旧手七条銭類写
7.元文期十万坪類写 無背が多く、輪十は未見
8.元文期平野新田銭十万坪手  
9.元文期小梅銭・小梅手類 進冠小永が多く、広穿は未見
10.元文期吉田島銭縮字写 大小様々で最多 
11.元文期日光銭正字写 やや多  
12.元文期亀戸銭写 大字・中字のみ
13.元文期秋田大字・中字写 小字は未見
14.元文期加島銭写 斜冠は少ない
15.寛保期高津背元写 細字が大部分
16.二十一波當四銭写 南部藩写しと酷似
17.十一波當四銭写  正字は少ない
18.南部藩銭写 希少  
  ※表現などに多少手を加えています。    
と、感覚的な違いがあります。(私の意見です。ただし、流通して摩耗してしまうと、区別がかなり難しくなると思います。)その原因は秋田藩内では良質な砥石と鋳砂が入手できず、さりとて密鋳であったため怪しい行動がとれなかったので、ありあわせの道具で鋳造を行ったことに原因があるようです。

鋳造時期は幕末・明治元年~明治3年頃で他銭座寛永銭の写しは最末期につくられたようです。これについては明治36年に秋田の古泉家布川氏によって、鋳銭にかかわった職人からの聞き取り調査により明らかになっているそうです。明治政府は函館戦争以前の贋金づくりは届出すれば不問にする構えでしたが、秋田藩はその方針を無視してなおも密かに続けていましたので、明治4年に発覚して関係者が処罰されています。
大西氏によると流通は主に藩内(山内)で仙台以南にはほとんど流通していないようです。鋳造は当初秋田天保や波銭鋳造の合間に付属的に作ったと思われますが、明治元年に新政府によって銅一文と天保銭の交換レートが1対8に定められることにより寛永銭鋳造が盛んになったと私は推定しています。しかし、その後に明治政府の(金銀貨や天保銭の密造の)取り締まりが厳しくなり、証拠隠滅が図られたようです。
さて、大西氏が見聞した文銭系以外の加護山写しは左表の通りです。
大西氏による見聞なので、ここに掲載されていないものも存在すると思います。(5月23日制作日記の藤沢銭写については不旧手に包括されているかもしれません。
寛永銭の鋳造期間が3年間で大西氏推定3000万枚程度らしいのですが、ほとんどが文銭写しなので、他銭座寛永銭写しはかなり少なく、自藩の秋田藩写でさえも珍しい存在です。
何で見聞きしたか忘れましたが、加護山に四文銭の写しはないという説があったのですが、大西氏に加え佐藤清一郎氏も著書「秋田貨幣史」において存在するとしています。おそらく非常に数が少なく、これだというものが分別できない所に原因があるような気がします。そういう私も以前に加護山鋳というふれこみで赤い二十一波写を入手したのですが、確信が持てず現在は南部藩浄法寺写に異動させました。ただ、前述の佐藤氏によると加護山座においては寛永通寶はもとより、信じられないことに永楽通寶や朝鮮の常平通寶の写しまで存在すると言いますから、最期は統制が取れなくなって何でもありだったのかもしれません。
いずれにしても加護山と断定できる一文銭は上の表で「多」となっていてもかなりの希少品です。加護山以外の一文銭写しも貴重なので、躍起になって集めるとほとんどが擦れた焼け銭であったりします。私は銭径の縮小とやすり加工の有無が判別規準なのですが、判断が難しく、面白いけど過熱は注意とだけ申し上げておきます。
 
→ 密鋳銅一文の観察箱 
5月22日 【悪銭に踊る:阿仁銭の不旧手】
今は加護山銭と実際の鋳造地の名前を冠されておりますが、「阿仁」の名前もなかなか捨てがたい良い名称だと思います。と、いうのも、もともと阿仁とは古語で「赤土」を意味するからで「埴輪」の「はに」も同じ意味なのです。何でこんなことを知っているかというと、私が以前住んでいた地が「姉崎」といいまして、その語源の一つがこの阿仁なのです。(日本語は読みの発生が先で、漢字は後からつけられています。)
したがって「阿仁銭」という名はなかなか格好良い名称だと思う次第。おそらく昔の人は判っていたと思います。
画像の不旧手は書体から見て藤沢銭の写しのようです。やすり目、砂目、輪の側面仕上げから見て100%阿仁(加護山)銭だと思った次第。これ1枚が欲しくてネットで格闘してしまいました。 
 
5月21日 【情報も踊る】
オークションネットのWEBカタログも昨夜アップされました。目玉は皇朝十二銭の組み物、天正永楽の珍品奇品の数々、明和期大字の母と通用、水戸遒勁の母、文久の母銭あたりでしょうか?また、さして高額ではないものの今回出品の島銭類はクオリティが高い気がします。骨唐国なんて超珍しい鐚銭もありますね。実物も見てみたいのですが、オークション当日は仕事ですね・・・残念。
さて、雑銭の会のHPも更新され始めました。造幣局の見学会の様子も書かれております。穴ずれエラーが現代技術では発生しないことが改めて記されています。硬貨デザインを打刻する前の円形は、型を打ち抜くと同時に穴も穿たれるので大穴ずれは起きえない・・・このことは以前、仙人様からも聞いておりましたので、再確認です。最もこの技術(製造工程)が当初から導入されていたとは限りません。
それならば穴無エラーの五十円玉はすべて贋作と言うことになってしまいますね。(ひょっとして???)
まあ、機械が行うことでも絶対はありえないということ、そして人間が作ったもので絶対再現できないものはない・・・と言うことでここでは結論は出せません。収集誌上で2穴穴ずれの50円玉について熱い話題が出ておりますから。君子危うきに近づかず・・・しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ず・・・それとも毒を食らわば皿まで?
 
5月20日 【美銭は踊る】
この記事は書いたことがあるかもしれませんが・・・右の新寛永、元禄期亀戸銭は雑銭ながら私のお気に入り。まず、すこぶる文字抜けが良いこと。そして銅色が美しい・・・この色の亀戸銭は母銭と同じじゃないかしら。明和期の4文銭にも似た青く濁った白銅色・・・いやいや、これも美しい。唯一の欠点は郭の中に鋳ばりがわずかに残っていること。比較的穿内もきれいでテーパーらしきものも感じられ母銭のなりそこないじゃないかという欲目がムクムクと・・・。
結論から言うとやはり通用銭でした。でも、どうせ通用銭を集めるのならこれぐらい異彩を放つ美銭を集めたいものです。どうです、美人でしょ。
【T氏提供 平通の詳細計測値】
Tさんから頂戴していた平通の計測値です。重量以外バラつきはほとんどなく、全体に大ぶりです。
昨年の5月18日の制作日記には方字の計測値を掲載しています。(T様、ありがとうございました。)
銭 名 重 量 銭文径 長 径 短 径 肉厚 内径 内径
1 大 字 27.20 41.0 49.7 33.1 2.7 43.7 27.2 43.5 26.6
2 離用通 26.28 41.3 49.7 32.9 2.7 43.8 27.2 43.5 26.6
3 大口保平尾通 25.99 41.0 49.2 32.8 2.7 43.8 27.3 43.4 26.8
4 玉 天 25.98 41.0 49.5 32.5 2.6 43.7 27.2 43.3 26.5
5 小頭通 25.64 41.2 49.8 33.1 2.6 44.0 27.3 43.5 26.7
6 曲柱尓 25.03 41.0 50.0 32.9 2.6 43.8 27.0 43.6 26.7
7 小点尓 24.91 41.0 49.8 32.5 2.6 43.8 27.2 43.5 26.7
8 大点尓 23.88 40.7 49.2 32.7 2.5 43.7 26.1 43.5 26.6
9 離 人 23.50 41.0 49.9 32.5 2.5 44.3 27.2 43.6 26.6
10 跛 天 23.37 41.0 49.2 32.8 2.4 44.0 27.1 43.6 26.5
11 背 異 22.58 40.9 49.7 32.8 2.5 43.6 27.0 43.7 26.5
12 短柱保 22.56 41.2 49.3 32.3 2.4 44.2 27.2 44.0 26.7
13 太 細 21.95 41.0 49.9 32.9 2.4 44.0 27.1 43.4 26.7
14 仰柱保 21.47 41.2 49.5 32.5 2.4 44.0 27.0 43.5 26.6
15 由田當 21.22 41.1 49.3 32.8 2.3 43.4 27.0 43.3 26.5
16 短二天 21.18 41.0 49.4 32.4 2.3 44.2 27.3 43.5 26.5
17 仰二天 20.38 41.0 49.5 32.2 2.2 44.1 27.3 43.6 26.7
18 跳尾通 19.30 41.0 49.2 32.2 2.2 44.0 27.0 43.5 26.5
 
5月19日 【オークション情報は花盛り】
オークション・ネットとCCFの情報を収集誌から入手。今年も高嶺の花がたくさん登場。欲しいけど・・・お金がないなあ。でも欲しい。
月刊収集の記事でほかに気になったのは・・・寛永11年にシャムで日本の近江坂本鋳の寛永通寶が最良種として流通していた事実が発見されたらしいこと。この場合、近江坂本銭は二水永になるかもということでした。ちょっとまった!毛利家手本銭の調査では近江坂本銭は背星じゃなかったのかな?・・・あれ、でも寛永13年じゃないの?不思議です。
それと兼子栄治氏が発表した文政期俯永刔輪母銭。(画像借用しました。お許しください。)これあたりひょっこり通用銭が出てきたりして・・・。
 
旧貨幣第61号から借拓
5月18日 【烏和同のこと】
はじめてこの絵銭について知ったとき・・・なんて高い絵銭なんだ、それにしても「トリ和同」ってなんだ?・・・とまあ、みごとに誤読していました。正しくは「カラス和同」といいます。カラスの漢字「烏」に「鳥」の漢字の目に当たる一画がないのは、カラスは真っ黒で目玉の位置がよく分からないからだそうで、これは冗談のようで本当の話。カーカー鳴くから「か」らす・・・なんですとか。
さて、この烏和同は長崎稲佐銭座の開炉祝鋳銭と昔から言われています。開炉祝鋳銭にしては製作が大雑把な感じで背の絵柄も不鮮明なものばかりです。この背の文様をある人は長崎港の形の「鶴の羽ばたく姿」だと言い、またある人は「松の木」だとも言います。しかし伝承は「カラス」で、どう考えてもめでたくない図柄。この件について大正13年貨幣第61号に津田繁二氏が考察を述べています。いわく、鋳銭場の稲佐に近いカラス岩ではないかと。また、方泉處10号においても北出鎮之氏が古地図を示し、稲佐山に古くからカラス岩が存在していたことをも示しています。古地図にはたしかにカラス岩の名前が見てとれます。それがこの図柄と符合すれば良いのですがう~ん、なんか違う感じです。
現代の写真画像も見つけましたがただの岩と言ったところ。
これだっと思ったのが明治時代の古写真。カラス岩の名前があったので色めき立ちましたが、”カラス岩のふもと”の風景。大きな岩の上に松の木が一本生えています。これは稲佐お栄という女傑の経営するホテルの古写真です。これがカラス岩そのものだったらまさにビンゴなんですけど・・・残念。
資料が見つからない間、私の頭の中で妄想が膨らみ、決定的な証拠を見つけだしたた気になっておりましたが残念ながら確たる証拠は出てきません。資料探しにご協力いただいた東北のS様、九州のⅠ様ありがとうございました。しかし、皆さんよく記憶しておられます・・・いやはや、頭が下がります。

写真上:現在のカラス岩の写真(木が多くてよく分からない)
昔は航海の目印だったのではないかしら?
烏岩神社があって信仰の対象でもあったらしい。

写真左:カラス岩のある稲佐嶽のふもとの海岸の古写真。大きな岩の上に松が生える景勝地。地元では有名な「稲佐お栄」が経営するホテルがここにあったそうです。


烏岩の言われ:「お栄さんの道」の碑の前から細い階段を上り続けると、烏岩神社がある。享保3年(1718)平戸小屋郷に保食大神(うけもちのおおかみ)を勧請し烏岩神社が祀られる。社殿の背後にある大奇岩は昔から烏岩と呼ばれており、このため神社名が烏岩神社になったと言う。
 
5月17日 【輪写りの錯笵寛永】
関西のTさんからプレゼントを頂戴しました。ありがとうございます。これはそのうちの1枚です。
この明和長崎銭は錯笵が多いことで知られ、輪写りもなかには2輪、3輪と見えるものがあります。錯笵写りは1輪なので母銭落下(押し付け)なのか置き直しなのかは一見はっきりしません。落下の場合、強さによっては立体的に錯笵が出ることがあり、置き直しの場合は本体の陰に隠れて幽霊のようにぼんやり現れることが多いのです。この寛永銭の場合、背左の輪と輪とが重なった部分にかすかに肉の盛り上がりが観察できることから、置き直しではなく落下であると判断しました。普通は仕上げで完全に研がれてしまう変化なのですけど、製作が粗いので残っていました。
ところでこの長崎銭は豊後白目と言う独特の銅質らしく、叶元祐と雰囲気がそっくりです。古寛永の世界では長崎銭・竹田銭がいまだに謎に包まれていて、私のHPは長崎銭に称:建仁寺銭を割り当てていますが、竹田銭は空白のままです。長崎元豊などの貿易銭に似ているので、これはこれで一理あるのですが、研究者によっては白っぽい銅質の多い仙台銭を竹田銭割り当てるべきなどの説も見られます。果たして九州の地で2ヶ所も鋳造地があったのかという疑問もあります。そういえば、豊後竹田城址で鋳銭道具(砥石破片)をⅠ氏が拾ったことがありましたっけ。多分掘れば出てくると思うんですけどね・・・ただ、あそこは近年の城ブーム売出し中ですからきっとダメでしょうね。新説が出るたびに銭籍が移動すると混乱しますので、そろそろ業界としての統一見解を出す頃にきているかもしれません。

※記憶違いかもしれませんが・・・
最近、、長崎の烏和同に関する秀逸な記事を読んだと思うのですが、資料が未整理で見つからなくなりました。背の謎の文様と同じ岩の図を古地図とともに示したものだったと記憶しているのですが・・・。どなたか教えて下さい。穴銭、下町か貨幣あたりでしたでしょうか?
 
5月16日 【曳尾と平通の関係の探究】
従来の仮説として、曳尾は平通の鋳ざらいから生まれたとされています。これを検証してみることにしました。いろいろありますがきっかけは、従来から思っていた疑問と、関西のTさんやSさんから頂いた画像の影響もあります。
これは会津濶縁と短貝寶と濶縁離足寶との関係を探っていた時と同じ心境でして、そのときの結果は従来の仮説・・・「濶縁離足寶は会津短貝寶から派生したのではないか」・・・というものを肯定できないものでした。
今回、元になる仮説として萩藩銭は「平通→曳尾→方字」と変化したというもの。疑問の出発点は「曳尾は書体変化が激しいのになぜ平通は変化がなく中間体もないのか?」ということです。探求は計測と画像比較で行いたいと思います。詳しくは以下の記事をお読みください。

2011年6月8日の制作日記  改造銭物産展

※資料をつくってみたもののやや消化不良かな。鋳ざらいだけであそこまで変化するというのは文字位置などから見て無理があると思います。もっとも鐚銭の変化を見ればまったくありえないわけでもないかしら。まあ、元は少し違うだろうけど書風の近似は間違いなくあるというのが今の所私の結論(中間到達点)です。

← ちょっと特殊な加工した画像です。平通の寶字あわせ(文字の大きさを調整して)透過画像で重ねたもの。(赤:平通 黒:曳尾)通字は全く重ならない。実は平通の寶字はやや退き気味で、郭位置で合わせると通はもちろん、天の文字もずれてしまう。書体の類似性は認められるがバランスはかなり一致しない。早い段階で別物になったと考える方が自然かも。
 
5月15日 【安南寛永開元手】
安南寛永の中で赤い銅質の代表格。(異国東国手も赤い?)
薄肉で貧相。実は安南銭の分類に疎いわたしはこれが開元手であるという確証持てていないのですが、耳で得た情報で判断しています。ありそうでなかなか出会えず、もう一枚もっと赤黒い色のものを保有していたはずなのですが目下、家の中で行方不明です。
赤くなるのは酸化の度合いによるものだと思われ、銅地金はそれほど赤黒くないことが判ります。貧相でつまらない安南寛永なのかもしれませんが出会った頻度は人気者の永利手より私は少ない。ただし、価格があまりつかないので雑銭箱の片隅に転がっているだけかもしれません。安南寛永は好きなんですけど、私自身、そんなにお金を出して購入する気が起こりません。日陰者なんですね。
もう少しだけ脚光を浴びても良いのかもしれませんが、しょせん私鋳なのでなんでもありというのが困りものです。細分類を求めたら際限がないので評価がしきれないというのが実情でしょうか。
※これからぼちぼち画像を大きなものに入れ替えてゆきたいと思います。これもまた気が遠くなる作業だと思います。
 
5月14日  【曳尾の魔力】
曳尾が大好きなTさんから曳尾の画像を再びたくさん頂戴しました。ありがとうございます。
画像上段は肥字系に所属する曳尾。左は粗い砂目、右2枚はやや滑らか系の細かい地肌。そのうち中央の背に段差があって面白い。背の左は深く、上部は中くらい、その他は浅彫りになっています。この理由を推定しますと・・・
母銭を砂笵に置く前の砂面が不整に荒れて凹んでいたということ。浅地のところほど凹んでいると考えて下さい。母銭由来のものではないと思います。砂型で考えると凹凸は母銭と逆になるので、頭を整理して考える必要があります。すなわち凹は凸に、凸は凹になるのです。
これだけ広範囲のですから踏み固め不良だと考えられます。
下段の曳尾細字系は皆美人ですね。右は大字に近く字画の跳ねが長いもの、左2枚は狭天ですね。さらに下段左端の曳尾は面より背側の径が小さい逆台形になっています。背の画像を付けたのは、當冠の形状の違いを気づかせてくださったから。すなわち左2枚は第1画と2画が少し伏しているのです。まあ、曳尾の微細変化を取り上げたらきりが無いのですが、好きになったらこんな小さな変化も見つけてうれしい気がします。
なお掲示の天保銭は、上右から順に・・・
26.1g 24.0g 23.6g
20.4g 19.8g 15.7g
とまあ、きれいに階段状に並んでいます。重量差は10g以上・・・これもすごい差です。15g台は珍しい気がします。
曳尾の細字は肥字に比べて銭文型に縮小があり、Tさんは2期銭ではないかとの事。確かに技術的な進歩があったようで、薄肉ながら非常に美しいですね。ただ、銭文径については、鋳写しをしたような縮み方ではなくあくまでも鋳ざらいの範囲かな。背の花押がよく見るとずいぶん形が違います。はたして鋳ざらいでこうなったのか、それとも母銭そのものが違うのか・・・今の所判断できませんね。
ところで私は平通を萩銭とするのにもまだ完全に納得しきっていません。平通は文字変化が少なすぎますから。ただ、同じ系列のつくりであろうことは容易に判りますので、今の銭籍分類は妥当だと思います。
【再編集作業とりあえず完了!】
コツコツやっていたレイアウト崩れに対する対応は本日でほぼ完了。本当は画像差し替えとリンクチェックもすべきなんですけど疲れました。とりあえず文字重なりについては回避できているはずです。
もし、文字が重なって読めないことがあるとすれば・・・タイトル部分かパソコンが採りこんでいるキャッシュデータの影響だと思います。その場合はF5ボタンを押してみて下さい。(タイトル部分はアニメーションなどの関係で枠外にしてあります。)
毎日3時間はやっていましたから大変でしたが、スマートフォンでも文字の重なりはないはずです。ただし、読みやすいかどうかは別問題です。私のホームページは情報(ガセネタ?)が多いことが命なので文字数は必然的に多くなります。
気が付けば間もなく開設10年になります。よくぞここまで続いたと思うのです。古い記事に関しては赤面するようなレベルの記述がそのまま残してありますが、これまた私の進歩の証です。
ただし、記述内容はちょっと耳にした程度のこともありますのでガセネタ満載だと思います。信じるか否かは皆様の良心でご判断ください。

 
5月13日 【細郭手張足寶】
今、ネットに張足寶が出ています。(画像を拝借し、背景加工してあります。)張足寶には長郭手と細郭手の2タイプあり、これは正統派の細郭手。張足寶は長郭手より細郭手の方がやや少ないと言われています。
本座の改造母銭によるもののようにも思えますが、書体にはあまり個体変化がないようで、新規母銭によるものかもしれません。張足という表現は本来は寶足が弓の弧状になることを意味するので、寶後足の変化の表現なのですが、私は張足寶の書体はむしろ前足の方にばかり目が行ってしまいます。しかも、これほど鋭くつっぱった主張しているものは他にはなく、これに比べれば他の張足寶はおとなしく、柔らかく見えます。なにより極印も極小で、勇藩の出自であることを隠そうともしていません。
画像で見る限り保点はさほど長く湾曲して見えません。実は私所有の張足寶は保点が湾曲して長く見えます。いわゆる張天保状態なのですが、この画像ではそれは伺えません。したがって小さな変化があるのかもしれません。
細郭手張足寶には濶縁になるタイプもあるようですが、残念ながら私は入手できていませんがいずれ入手がかなったら2枚を並べて比較してみたいと思います。
 
5月12日 【梵字の謎が解けた!】
ネットで梵字の刻まれた刻印銭を落札しました。落としたのには理由がありまして、北海道に行ったときに石川氏から鍍銀された梵字の刻印銭を戴いていたということを覚えていたからです。メッキのない普通品も1枚あるのでこれで金銀銅3枚そろったぞと思い、アルバムをさんざん探したのですが・・・なかなか見つかりません。半分以上あきらめかけていたら、ついに見つけました。2年前の北海道旅行の荷物のまましまって(放って)ありました。
2012年の4月29日にこの刻印銭については取り上げていますが、いまだに内容は謎です。真ん中を「キリーク」と読み、阿弥陀如来の象徴と考えられることまでは推察できました。同じように梵字の意味を探していると、左はどうも「サク」と言う字に似ています。これは勢至菩薩を意味する文字でもあるらしい。左の鍍金銭の画像ではっきり刻印が読めるので判明しました。ところで阿弥陀如来と勢至菩薩は中尊と脇侍の関係であり、調べるともう一方の脇侍は観世音菩薩があり、その意味する梵字を調べてみたらかなり似ている・・・読みは「サ」・・・うん、これはビンゴだ!
そこでキーワード阿弥陀三尊でネット検索しまくったら完全に謎が解けました。右の画像は東京小石川にある慈眼院に残されている拓本額。
この拓本は徳川の菩提寺である伝通院(小石川)にある石塔から採拓したらしいのです。意味は阿弥陀三尊で、もちろん中央は阿弥陀如来(キリーク)、右は阿弥陀の慈悲を表す化身の観世音菩薩(サ)、左は阿弥陀の知恵を表す化身の勢至菩薩(サク)だそうです。「アビラウンケン」でも「ノーマクサマンダバザラダ」でもなく、「サク・キリーク・サ」でした。
この不思議な文字は専門用語で種字(しゅじ:種子とも書く)と言い、一文字で仏尊を象徴する念仏のようなもの。文字は古代インド文字の流れをくむようで日本では梵字と呼ばれます。と、ありったけの知識を総動員して知ったかぶりを披露しました。いや~勉強になりました。
※「アビラウンケン」は大日如来信仰、「ノーマクサマンダバザラダ」は不動明王信仰の念仏のようなものらしい。仏教とは自由な多神教だったのですね。仏様はお釈迦様だけじゃないのですね。私は全然わかっていませんでした。
 
5月11日 【歹銭の寛永通寶】
歹銭と書いて「たいせん」もしくは中国語風に「たいちぇん」と読みます。
鋳写しを重ねていてとにかく小さく、小さいものは「豆銭」、極小のものをとくに「歹銭」と言います。銭名は清朝銭の写しがほとんどですが寛永通寶の名も存在します。寛永銭の場合は別名で満州寛永とも言われていますが、今では雲南州以南で作られた説が強く、中国私鋳寛永とも言われます。

「歹」の文字は日本ではほぼ使わない漢字で、もともとは肉を削り取った後の骨を意味するようです。「歹」は死の文字に使われるように「かばね」偏とも呼ばれ、転じて悪い意味を表すようになったそうです。(「がつ」偏・「いちた」偏とされることもあります。)したがって歹銭とは悪銭の意味で、この小さな真鍮銭のことを示すようになりました。(おおむね2㎝以下のもの)
小さな古銭としては漢の小五銖がありますが、この歹銭も負けず劣らずの感があり、果たしてちゃんと通用したのかどうか疑問もあるのですけど存在するのですから・・・。
系統的には元隆手の流れを組むものとも考えられなくもないのですが、とにかく薄小可憐でよくぞこんなものを作る技術があったものだと感心してしまいます。19~20㎜程度のものはよく見かけますが17㎜を切るものはなかなか見つからないと思います。昔はどこの古銭店にもあって極めて雑銭扱いされていましたが、最近は真面目に探してもほとんど見つからなくなってきました。
→ 外国摸鋳銭の類
四寶銭写 外径 おおよそ16㎜ 重量1.3g 高津銭写 外径 おおよそ16.7㎜ 重量0.9g
※終日編集作業し、鉄銭以外のすべてが新しいレイアウト枠に移行しました。見ている方にとってはおそらく気が付かない程度の変化でしょうが、大変な作業量でした。
 
5月10日 【御用銭について】
御用銭と言えば寛永銭コレクターにとってはあこがれの存在ですね。江戸時代の大名コレクターの朽木公も、この難波御用銭コレクションには力を入れていたようです。しかし、穴銭カタログ日本によれば、難波御用銭は何ら特別なものではなく、低頭通の母銭を大きくしたもの・・・すなわち古寛永で言う大様銭にすぎないと言い切っております。(十分特別な気もしますけど。)
ところで御用銭の名称は誰が付けたのでしょうか?
御用銭という名称は、江戸時代の古泉大家の藤原貞幹の「寛永銭譜」に早くもみられるそうで、また、大正年間に寛永銭研究家の三上香哉は、名古屋の古泉家が写した藤原貞幹の「寛永銭譜」の余白に
「承応禁裡御用銭」の名が記されていたことを発見し、貨幣誌上で発表しているそうです。(大正13年4月:承応禁裡御用銭の選定 結果としてこれが古寛永建仁寺銭が選定された要因になりました。私のHPは長崎銭としています。)
禁裡(皇居)の御用なのですから皇室御用達のようなものを意味するのでしょうか?
実は清朝銭には
内廷銭もしくは萬選銭というものがあります。特別にに大きな銭で、いわゆる慶事などに作った記念硬貨のようなものらしく、康熙帝(1661年即位)の時代からつくられたというので、残念ながら古寛永の大様銭のほうが出現は早いのですけど、日本の風習の多くは中国からの輸入が多いのであるいは、康熙帝以前にも細々慣習があったのかもしれません。
日本の御用銭という言葉はあきらかにこの内廷銭に呼応していると思われます。したがって御用銭が内廷銭の風習を受け継いでいる可能性は十分に考えられます。
一説ながら萬選銭の名は「改元の際に一万個に限り鋳造した」ことが名称のもとそうですから、案外、日本の御用銭も改元時(正徳・享保・元文)の祝賀銭的なものの可能性が高い気がします。
なお、これもまた私の妄想から考えた説ですから、自己責任において信じて下さい。

※覚悟を決めてコインアルバムを2冊購入しました。ここ数年未整理のアルバム類は中がパンパンで、卓上で裸の古銭がごろごろしています。追加ページも購入しましたので、これでなんとか納めることができると思います。しかし・・・時間がかかりそうで面倒くさいです。
 
5月9日 【古寛永の面背逆製】
焼けが入っているらしく状態はあまり良くありませんが面背逆製の古寛永です。背が浅く見えるので、郭の鋳乱れではないかと異論がある方もあると思います。ただ、円穿になる癖、面側のずれが著しい点など面より背側が優先されたつくりは、穿内の鋳ばりとともに面背逆のつくりを物語っていると思います。
さて、この書体は一体何か?私は長嘯子手の低頭通の類かなと思っていますが水戸か太細の類かもしれません。
製作が面白いから拾っていた古銭ですけど、状態は三流ですし、面背逆製らしさという点も100点はもらえません。単なる錯笵の古寛永とすべきなのかもしれませんがこんな顔でも、なぜか見捨てられない一枚です。
 
5月8日 【曳尾の兄弟銭】
親子で収集家であり、曳尾にはまっている関西のTさんから・・・。
入手した曳尾に共通の傷を発見したとの事。おそらく兄弟銭ということです。
特徴は・・・
1.天の上の輪上に同形の疵がある。・・・画像右上
2.郭の左上に同形の疵がある。・・・画像左上
3.背輪の右下に同形の疵がある。・・・画像左下
このほかにも、天字の股の始点が、中心より左に寄るという特徴があるようです。
輪と郭上のわずかな瑕ですけど、ほぼ一致していますね。執念ともいうべき観察眼。敬服いたします。
それと東北のSさんから面背逆製の起源について教えて頂きました。
「昭和50年代(たぶん後半)に南部古泉研究会で、故川村庄太郎氏が例会で佐渡明和背佐には面背が逆になっているものがあると言って紹介したと記憶しています。
銭譜では、昭和61年発行の穴銭堂の新寛永泉志のやはり佐渡明和背佐の項に触れられています。」
確認しました。たしかに新寛永泉志には明和期背佐小様の項に「別に通用銭から伝鋳されたと思われる末鋳品もあり、面背逆のものは希少。」という記述がありました。(拓図はなし)情報提供ありがとうございます。
 
5月7日 【愛しき面背逆製】
面背逆製という呼称はいったいどなたが名づけたのか・・・その行為がなければ私はこんな出来損ないにお金を払うことはなかったのに・・・と思うのです。発端は穴銭入門、新寛永の部の佐渡銭に掲載されていた汚らしい(失礼!)拓本。理解できたのは収集誌に掲載された特集記事。(いつだったかは失念しました。教えて下さい。)
火が付いたのはネットで文政小字や明和俯永の現物を入手してから。以来、鋳造工程を再理解することになり、面背逆製を見るたびにやたら手を出す病気に罹りました。
ここまで確認した面背逆製は
亀戸文銭(繊字)・丸屋銭・佐渡銭(明和期・鉄銭座銅銭)・元文期秋田銭中字・寛保期足尾銭小字・元文期不旧手類(複数種)・四ツ寶銭・平野新田十万坪手・十万坪銭(含二水永と虎の尾寛小字)・高津銭細字・長崎銭・明和當四銭・文政當四銭・万延期背千鉄銭(大字・小字)・古寛永岡山銭(長嘯子手?)・明和期亀戸小字・難波銭・小梅銭背小・・・などなど。もちろんすべて手に入れたわけでもありませんが、普段はこだわらない複数の入手をしているものも多く、かなりコアなコレクターになっています。
エラー銭と言えば恰好良いのですが、見てくれは如何にも出来損ないで、アルバムの中でも不細工・・・いえ、ぶさ可愛い存在です。この手のものは全ての銭種に存在する可能性があるものの粗製乱造の時代のものにやはり多くみられます。
画像の長崎銭はおそらく存在数から見れば最多であり、文政期小字とならんで最も入手の容易な面背逆製だと思います。(ほかには比較的多いのが高津銭あたり。)
この面背逆製はなぜか円穿になるものが多く見られます。通常の通用銭にはそれほどないこの変化がなぜ面背逆製に限って多発するのか。考えれば考えるほど謎・・・でしたけど、こんなものを世に出すぐらいですから、やすり仕上げも雑で管理が甘くなっていたからだと、逆説的に考えることにしました。この写真の面背逆製・・・輪に小欠はあるもののこれ以上は望めないほどの極美品です。これを美しいと感じる貴方・・・大丈夫ですか?

※会津濶縁離足寶の赤銅質の模範的極美銭・・・が出ています。欲しいけどそろそろ追いかけきれません。ずいぶん高くなってしまいました。
 
5月6日 【密鋳銅一文銭2】
仿鋳銅一文は一見たくさんありそうですが、4文密鋳銅銭の10分の1も見つかりません。あれこれ拾ってはいたものがそろそろたまった頃だと思い改めてアルバムの中を見ましたが、焼け銭のような妖しいものはあってもこいつは間違いないというものが少ないですね。
それでも銭種として多そうなものもあります。藤沢・吉田島縮字はたくさんある。次いで寛保期の背元は比較的あるように思えます・・・あとは本当に少ない。まともなものはまず滅多にない。少ないからと言ってこんな仿鋳銭に5000円以上払おうという奇特な人もまず少ないと思います。右は細字背元の赤鐚風の写し。この手のものは良く見かけますが、写しであるという判定が難しい。(画像として掲載に堪えません。)しかも間違うと焼け銭をつかむことになります。
左は穿内鋳放しで分かりやすい江刺のような一枚。江刺で良いかな?ありそうでなかなかない品だと思います。だけど汚い。
もちろん雑銭には違いないのですが探すと意外に見つからない。普通の人は探す気にもなりませんが・・・。
密鋳銅一文銭が少ないのは、採算性の悪さが原因だと思います。重さは天保銭が約20g、四文銭が約6gに対し一文銭は3gほど。一文銭6~7枚の原料で百文銭ができます。(当時はおおよそ80文の価値か?)
当然、一文銭よりも四文銭の密造の方が効率も良いわけで、原料だけでなく燃料代もかかりません。原料の銅もなかなか手に入らなかったでしょうし一文銭を積極的に作る理由が見当たらないのです。それでもつくる理由があるとすれば、四文銭をつくるのと同時に、同じ砂笵の一部の余白を使って余技的に一文銭も作っていたぐらいなのではないでしょうか?
あるいは幕末から明治期に入ると一文銅銭の交換レートが非常に上昇します。(3月26日記事参照)
採算性を考えるとこの時期(幕末から明治10年ぐらいまで)の方が一文銅銭を作る価値はずっと高かったと思われます。西南戦争が始まる前までは旧藩の御蔵米の大放出で米も大暴落して、農家も大打撃を受けていたそうですから、生きて食べるためには何でもやったのかもしれません。

※慶応元年には文銭の相場が1.5文、銅四文銭が3文ですから、このあたりでまず文銭写しの採算性が採れ始めます。加護山で盛んに文銭が写されたのはこの時期ではないでしょうか。その後、相場はさらに崩れ明治元年には文銭に限らずすべての銅一文銭と銅四文銭の公定交換レートが1対2に定められます。こうなると文銭を狙って写す理由はなくなり何でもありの時代に突入すると思います。
以上の考察は私の勝手な類推ですが、古寛永の写しが意外に少ないのはこんなところが理由じゃないかしら。
なお、この論は従来からある説でもなんでもありませんので、信じるか否かは皆様にお任せいたします。
 
5月5日 【肉厚の密鋳母銭あるいは・・・】
四国のK氏からの投稿画像です。銭径23.8㎜、量目7.1gとあります。以前、とてつもなく分厚い4文銭か何かをどなたかに見せられ、魅力的だけどいくらなんでも分厚すぎて流通できないから絵銭(面子銭)の類と考えた方が良いのではとお答えしたことがありましたが・・・最近、鋳写母(おそらく鉄銭用)と考えられなくもないなと・・・考えを改めました。もちろん、(冷静に考えれば考えるほど)面子銭の可能性は充分にあるとも考えております。
重量7.1gでは素材にかかる費用が高すぎて、少なくとも密鋳銅銭一文銭としてはどう考えても失格。挿しに入れてもこの厚さでは目立ちすぎです。なにせ直径は小さくても通常の文銭のほぼ倍の重さです。(この重さなら叩き伸ばしてでも4文銭をつくるべきですね。
下に掲示した虎の尾寛小字でさえ、肉厚は1.7~8㎜程度(これでも異常を感じる厚さ)ですから、おそらくこの品は厚さ2㎜を超えていると思います。
文盲が多い時代ですし、鉄銭なら文字の鮮明不鮮明はさほど問題はありません。まあ、たとえ面子銭にしても密鋳母にしても古色・雰囲気共に充分な魅力があります。評価は一人歩きすべきではないと思いますが、それなりに敬意を表すべき存在だと思います。
さて、皆さまはこれをどう判断しますか?密鋳母??絵銭?・・・それとも戯作?
 
5月4日 【大量見聞録再編集】
あまり気乗りはしませんでしたが、休日を利用して終日編集作業。本日編集した大量見聞録は毎日記事を積み重ねてゆくため、制作日記と同じように上になるほど記事が新しい。一方で、制作日記と違い記事に連続性があるため古い日付(つまり下)から読まなくては意味が分からなくなることがあるのですが、制作日記とは異なり内容が単調なので飽きやすい。したがって、今回の編集において日付の順序を倒置することにしました。これが実に大変な作業なのです。
連日編集をしていますので作業は手馴れましたが、いやはや肩がこります。
ところでこの見聞録の作成中に出てきた原品はどうしたかというと・・・実は種別にプラスチックケースには選り分けてはあるのですが、分類やサイズは細かく記入していません。そのためお恥ずかしいことに何が何だか分からなくなっています。
各プラスチックケース内には50枚ぐらいは入っていますのでこれを再計測するのは気の遠くなる作業です。とりあえず画像と比較して再選別しましたが跳永だけで疲れ切ってしまいました。中には珍しい次鋳サイズもあったはずなんですけどね。
ところで跳永の中に4gを超える厚肉の特異銭が2枚だけあります。この2枚は穿内仕上げもしっかりあるのですけど、四ツ寶銭類の内郭仕上げは総じてしっかりやすりがかかっていますので、改造母かどうかの見当が付きません。四ツ寶銭は製作が悪いという先入観があるので、その点は意外な気がします。
さて、本日もアルバム整理していて目についた品を紹介しましょう。元文期細字跳足寶の大様銭と虎の尾寛小字の厚肉銭です。
大様といっても23.8㎜ほどですのでびっくりするほどではないと思います。ただ、この品はあまりに美しいので気に入っています。その昔、都内の某コイン店店頭で複数枚見つけて2枚購入したのですが、後で気になって残りも買おうとしたらもうなくなっていました。この細字跳足寶は彫が浅いので、傷つきやすく、銅色も黒いものが多いので未使用色の残るきれいな品はまず出会えない気がします。母銭かと思い再計測しましたけどやっぱり通用銭でした。(何回も確かめているはずなんですけど。)
虎の尾寛小字はこのサイズで
迫力の5.2g。もちろん偶然の厚さだと思うのですけれどこの重さはまず滅多にないと思いますよ。だからどうした・・・なんですけどね。
肉厚の鋳造銭は母銭そのものが厚いのではなく(厚くてもそうなりますが)、ほとんどが砂笵(型)から母銭を抜くときに押し付けてしまうことで生じると私は考えています。したがって砂笵の踏み固めがあまいときに生じやすいとも聞いたことがあります。
これらはあくまでも雑銭なんですけど、私にとっては愛すべき品。しかし、この2品・・・こうやって並べてみると実によく似ていますね。初心者には難しいですし、私も目が悪くなってきて肉眼では厳しくなってきました。
 
5月3日 【再編集作業90%完了】
レイアウト崩れに対応するための作業がほぼ90%完了しました。制作日記・新寛永・古寛永・文久銭・天保銭の銭譜部分の再構成が終わり、あとは鉄銭の部と特集記事関連のページのみになっています。本当は写真も入れ替えたいのですけど、これまたとてつもない時間がかかりそうで・・・。なにせ総ページ数は100を優に超えていますから。
少しはページ数を削りたいのですけど、私の生きた証みたいになってきていますのでなかなか決断が付きません。
水天宮の道のりも遠かった・・・今日は山歩きしてきました。健康的です。明日もなぜかお休みがもらえてしまった(休日日数取得不足による強制休日)のですが、今のところ難しそうです。ずいぶん無駄遣いしてますから当然でしょう。右は編集作業で久しぶりに対面した笹手永仰頭通細字欠尾永です。何も考えずにこの銭を見ると「あ!御蔵銭の母銭だあ!」と思ってしまいます。実は外径25.1㎜、重量4.9gの堂々たるサイズでして文字の抜けも良いのでさすがにこいつは母銭としても良いと思っています。ただし、内径は19.9㎜程度だと思いますので次鋳の母かなとも思いますし、通用銭のとりわけ大きいものとも考えられなくもないです。笹手永仰頭通細字欠尾永は非常に特徴的な古寛永で、細字と言うより削字と言うべき存在で、私は大好きです。通常銭ではせいぜい4~5000円でしょうけど、これは1万円でも安い。母銭ならその数倍でしょうね。
 
5月2日 【明和期4文銭鋳造量の謎】
穴銭入門、新寛永の部に記された貨幣秘録記事による、と明和期4文銭の鋳造規格は「径り九分強し重さ一匁四分銅六割八分釷丹二割四分白鑞八分」とあり鋳造高は「一箇年吹き立て五万五千貫文と定めらる。此後連々に吹き立てを減ぜらる。天明八年戌申一二月に至りて吹方を止め永代通用の令あり、但五百五十三万六三八四貫二〇八文但一文を一枚として算す」とあるようです。
成分のうち、釷丹(トタン)は亜鉛のこと、白鑞(ハクロウ)とは錫合金のことだと思われます。
一貫文とは1000文のことですから数字の貫の代わりに「000」に置き換えると、553億6380万4208文鋳造というとてつもない数字が導き出されます。「但一文を一枚として算す」とあることから、この数字を4で割って138億4090万6052枚、鋳造時期間を明和5年(1768年)5月~天明8年(1788)の12月の約20年間として、1年あたり6億9200万4803枚が鋳造されたことに計算上なります。
一方で「一箇年吹き立て五万五千貫文」ともあり、つまり1年で5億5000万枚鋳造の定めとなっていて、しかも「此後連々に吹き立てを減ぜらる」とありますから、先ほどの計算(1年6億9200万あまり)とはどうも数字が合いません。
このことにしばらく私は悩んでおりましたが、面倒くさくなって昔のことなので記録の誤りであろうと、考えることをやめておりましたが、方泉處4号の古田修久氏の記事「真鍮4文銭」にその考察が書かれています。まあ、早く言えば記録の桁間違いではないかということ。それにしても1年で5億5000万枚というのは天文学的数字。1日あたり150万枚鋳造という数値になります。
銭笵ひとつで鋳造できたのは多く見積もってもせいぜい300枚であると思いますので、上の数字を300で割ると銭笵だけで1日あたり5000も必要・・・。どうもこの数字もかなりあやしいような気がします。
手持ちの古銭のお話をしましょう。左の寛永銭、なんてことのない日光正字なのですけど昔から気になる1枚としてとってあります。
まず、表面が滑らかで銅色が少し明るくみえたこと。次に背に朱が入っていて古い古銭家の収集品であった可能性があること。さらに穿内にべたっとやすりが平滑にかけられていること。
異製作の品ですが、やすりの入り方が下手糞で、背側の郭の縁がめくれ気味で角も丸くなってしまっています。
それでもこのやすりがけは異常で総合的に判断して、鉄銭の母にされたんじゃないかな・・・と夢を見ています。フォルダーには自分で「正字母銭様」と書いてありました。ちょっと恥ずかしい?
この1枚は古銭店の店頭の雑銭から見つけたと思います。肉眼で朱とやすりがはっきり確認できましたから、きっと何かがあると昔の収集家も考えていたと思います。考えすぎでしょうかね。

※明日こそは古銭の日・・・にしたかったのですが、天気も良く家族奉仕の日になりそうです。
※再編集作業がいよいよ古寛永の後半にさしかかっています。あと一息。お金と睡眠時間・・・すなわち、命を削って趣味に没頭していますね。
     
5月1日 【密鋳銅一文銭】
調子に乗って「密鋳銅一文銭の観察箱」と銘打ったコーナーを設けてしまいました。安易であり、深く考えていない・・・実は掲示の品をはじめいくつかがアルバム内で行方不明でしたので探しているうち思いついただけです・・・。
右の高津写しは3年前北海道に行った時に持って行き、それからアルバムから出たままほったらかしでした。改めて見ると内外にきちんと仕上げがあり、肉厚なので鋳写しによって鉄銭の母として作られたものではないかと思います。銅質はかなり青白く、鏡を潰して作ったのではないでしょうか?表面は砥石で磨かれているようで指の引っ掛かりがなくてすべすべです。側面は垂直仕上げ。画像計測しかしていませんが母銭よりは小さいものの縮小度合いが低く、通用銭とほぼ内径は同じだと思われます。これは材質が影響している(錫はほとんど鋳縮みしない)ような気がします。
同じくお気に入りの文銭写し。正直、新コーナーはこの2枚がなかったら作らなかったと思います。こちらは通用銭と変わらない厚みで、郭内の仕上げもなく、あくまでも通用銭としての存在です。しかしながら銅色といい、背の風貌といい、まるでペア銭です。文銭の密鋳には加護山銭という有名なものがありますが、それ以外の銅写しはほとんど見たことがありません。まして白い写しは相当珍しいのではないかと思っています。白い銅鉱が出るのは、九州の土呂久鉱山が有名です。そういえば安南銭ですが開元手という赤い銅質の文銭写しがありましたっけ。私の印象では文銭の銅写しの99%は安南寛永です。この文銭写しも案外南方系なのかもしれません。

※天然の白銅は加護山でも出ていて、秋田天保や寛永銭の母銭に使用されています。

※穴銭カタログ日本を眺めていて驚いた。なんとも銅一文銭写しの高額なことか・・・。価格はともかく、数はないことには間違いありません。多いのは藤沢・吉田島銭の縮字写し・・・これだけはざらざらあると思います。次は背元あたりかなあ。猿江銭も見かけると思います。改造母は探せば見つかると思います。
 
4月30日 【改造母もしくは磨輪盗銅】
アルバムの中を探していて変なものを拾いました。このように極端に磨輪されたものは私は悪戯品・・・盗銅だと思っていました。しかし、中には鉄の母銭として使われたものもきっとあると思います。残念ながら私にはそれを見抜き、確信するほどの経験値がありません。
ご存知の方はお教えください。

いずれも側面はロクロ仕上げのように平滑になってはいるものの、抜けを意識したテーパーはなく、またどことなくいびつです。

上段:猿江正字の改造母らしきもの
外径21.6~8㎜ 重量3.5gと、小さい割に重い。よく見ると面背とも地の部分に鋳ざらったような掻き傷がたくさんあります。周囲の仕上げは滑らかで真円に近いものがあります。

中段:正徳期佐渡銭の改造母らしきもの
外径20.6~8㎜さらに小さくなるものの重量は3.2gとしっかりあります。こちらの周囲は手作り感満載。東北の密鋳銭の仕上げと同じ手触り感があります。ただし、いびつながら平らで滑らかな表面です。背に乱れがあり写しの可能性を考えましたが、内径は通用銭と同じなので写しではないようです。

下段:高津銭小字改造母らしきもの
最小の大きさながら輪やすり、内郭のやすりともちゃんとありますが、とにかく小さい。
外径18.1~18.4㎜ 重量1.2g。まるで安南寛永のサイズです。しかも薄いので、これから写すのはものすごく技術がいると思います。

雰囲気的には一番上は改造母として使用された感があります。一番下のものは仕上げはきちんとあるのですけど、これから鋳写しを行うのは相当の技術が必要でしょう。しかしその割にはきっちりやすりが入っています。中段のものが一番中途半端。
皆様のご意見をお聞かせください。
東北のS氏から、これらが改造母の可能性が高いことの示唆を受けました。たしかに郭のやすり目と周囲の仕上げ、非常に肉厚な点(上2つ)など、ただの通用銭を削っただけとは考えがたい作りです。
 
4月29日 【乱視寛永ども】
重文はときどき見られる錯笵(エラー)なのですけど、評価ができるほどのものはさほどありません。また、目立つので大正~昭和時期の贋作も多くあると思われますので、それなりの覚悟が必要です。
ここのあげた4枚はいずれもつくりに比較的矛盾の見られないものばかりですが、それでもあまり高く評価しすぎることは禁物。
左端は古寛永、たぶん高田笹手永の類の重文だと思いますが、あまりに文字がずれすぎていて目がおかしくなってしまいそうです。私は乱視寛永と勝手に呼んでおります。左から2枚目はやはり高田縮通なのですけども、斜めに文字が写っています。この手のものには背に駒曳きの図を置いた御蔵銭の書体を拓本などで見かけます。真っ黒に変色しているところから見て多少作為を感じないでもないのですが、製作的には絵銭ではなく通用銭のつくり。できすぎなので半信半疑。
右から2番目は小川青寶樓所蔵という名前が冠せられておりましたが、小川氏は古銭販売をしていたのでそんなに驚くことではないのでしょう。面側はごく普通の水戸長永の書体で製作的には全く矛盾がありません。錯笵としての美しさ・気品があります。
右端は私が錯笵銭を集めるきっかけになったもの。なんてことのない沓谷銭なのですけど背に寛通の文字と輪がはっきり映ってしまっています。現時点でこれ以上の文字写り寛永は見たことがありません。もちろんつくりは正座。通常、面の錯笵はあまり表に出ないものです。出来損ないが出てしまうのは座の管理が甘いからにほかなりません。あるいはやはり戯作贋作の類かも・・・。
一方で背側の管理は面ほど厳重ではありませんから、このようなものがあってもおかしくないのです。
高評価はできないと書きましたが、実際に出会うことはまず稀です。したがって価値は自分で決めて下さい。

※雑談・・・
卓上・アルバムに未整理品が溢れています。お気に入りの密鋳銭を探していたのですが見当たりません。アルバムにきちんと戻していなかったのでどこかに行方不明。お気に入りの背文白銅写しと背元白銅写しは見つかりましたが、江刺の一文写しだけがどこにもない。
ついでに一部の文久銭も見当たらなくなっていたのですがごぞっと出てきました。将来のことを考えてきちんと解説を付けて保管すべきなのですが全くほったらかしです。そろそろ整理を始めなければといいながら2年ぐらい経過しています。机の上にある品でも数がありますので金額にしたらけっこう良い値段になりますから。整理が行き届いているのは天保銭の密鋳品だけ。藩鋳天保銭は半分ぐらい整理してありますけど後は解説も付けずにランダムにアルバムに入れたりほったらかしにしています。特に寛永銭はバラバラです。もうどこで手に入れたかも定かではありません。
 
御蔵銭跳永 力永様 俯永伸寛濶縁大ぶり銭?
4月28日 【気になる古寛永】
ネットに出ていた古寛永銭を落としました。最近は天保銭ではほととんど勝てていないので気晴らしでもあります。
左は御蔵銭大字の名前で出ていた物。ひとめ御蔵銭らしくなくてうれしくなった。書体的には跳永の類でしょうけど、文字が異様に細くまるで力永のようで崩れた寶字だけが御蔵銭の特色を伝えます。同様に背細郭は御蔵銭の特徴らしいものですけれど、なんだか安南銭みたいでもあります。こいつは1月25日記事の変な古寛永と同じような品。まあ、御蔵銭には違いないと思うのですけど面白いですね。1000円しないで楽しめました。
右側はありふれた岡山俯永伸寛。でもひとめ立派。中濶縁と言うタイトルでしたが、濶縁としても良いように感じます。いえ、濶縁と言うよりなんか大様に見えます。あくまでも画像上ですけどね。俯永伸寛濶縁は古寛永銭志で四位。だいたい1~3万円の位付だと思いますが人気がないですからね・・・果たしていかがなものか?ただ、もしこれが大様クラスだったら1万円でも安すぎます。もちろん、その数分の一の金額しかかけておりません。獲らぬ狸のなんとやらですけど。
 
4月26日 【明和期離用通面刔輪背削波】
このHPをつぶさに観察されている方はすでにお気づきかもしれませんが、我が家に明和期離用通面刔輪背削波がやってきました。私の場合、大物の古銭を購入するときは気分が落ち込んでいる時とか、体調が悪いときが多い傾向があり、腰痛の時とか扁桃腺を腫晴らして入院したときとか、仕事でめちゃくちゃ大変だったときなどものすごく散財しています。健康なときは心のブレーキが働くのですけどね。
今回は左奥歯の根が腐ってしまい、あごの骨まで削るはめになりました。
実はこの古銭、北海道にいったとき実物を拝見していました。そのときは母銭も他のコレクターから拝見しておりましたので、大いに興奮しましたね。今回の販売リストに掲載されていることを知り、石川さんにお手紙で申し込んだ次第。
ところで、この貴重品を間近でみていてひとつ気が付いた点があります。それは特別展示室その15にこの記事を書いていたとき、文政期離用通面刔輪背削波と内径がほぼ同じかもしれないと・・・思ったのです。(これは・・・文政期離用通面刔輪背削波の細縁だあ!)
文政期銭母銭は明和期の母銭から写してつくったというイメージがあり、正字や小字は明和より内径が小さいイメージがありました。ところが離用通は全く同じなんですね。良く調べてみると俯永も同じで、これは私の思い違いというよりも勉強不足でした。
なお、文政期離用通には内径の小さい次鋳があり、さらに小さくなる濶縁もあるようで、私が離用通濶縁だと思っていた個体は画像解析で次鋳だと判明しました。HPも画像を大きいものに差し替え。探せば宝はまだある分野ですね。
初出銭(左)と次鋳銭(右)
見慣れないと肉眼で差を感じるのは難しいかもしれません。計測すると0.4~0.5㎜の内径差があります。
拡大画像で中央で貼り合せると差があることが判ります。
俯永は次鋳の方が少なく、離用通は次鋳はやや多い。
小字や正字は次鋳銭の方が標準銭になっています。呼称も一定していないので、業界で統一する方が良いかもしれません。
 
4月25日 【明和期俯永背削波母銭】
このタイトルを見て、これはすごいものが見つかったと思う方はかなりの寛永マニアです。明和期の四文銭はありふれているものとそうでないものの落差が激しく、その中でも通用銭としてはひどくありふれているのに母銭が見つかっていない代表格がこの俯永背削波でした。あまりにも見つからないのでいづみ会譜では「ただ、現存する当品においては、その削波の状態が千差万別で、果たしてそれぞれに母銭があって生まれたものかどうかは疑問である。」とまで書かれてしまっていました。
考えてみれば明和期銭は短尾寛・正字・俯永・小字・大頭通の通用銭以外はすべてプレミアム品だと私は思っています。それに通用銭の存在は多くても小字は母銭となると途端に希少になります。
また、長尾寛肥字、短尾寛方冠寶、正字大王寶、大字、俯永面背刔輪、離用通面刔輪背削波、小頭通などとんでもない大珍品が名前を挙げるだけでもごろごろあります。
安政期銭だって小字以外はほとんど珍品ですし・・・。
すなわち、四文銭はいくつかの定番品以外はすべて珍品ということ。探せば一番出てくる可能性のある有望なジャンルだと思うのです。
それにしても、こんなに特徴があって目立つものがなぜ今まで世に出てこなかったのか・・・それもまた不思議ですね。
 
4月24日の2 【南部小字桐極印】
ものすごく盛り上がった逸品。鉄人も追いかけたようですがかなわなかったようで・・・
余りに美しいので画像拝借しました。お許しください。南部の小字には赤いものと黄褐色のものがあり、八つ手極印と桐極印があるようで、今は桐極印の方が少し少ないと言われています。
鋳だまりが多くなかなか美銭は少ないとのこと。画像の品は抜けが良く最高峰に近いものだと思われます。
通辵頭が長く、折頭に爪があると言われていますが、画像では目立ちませんね。
本当は私も欲しく、途中まで参戦しておりましたが、いつものように駄馬の先走り、竜頭蛇尾に終わりました。あとは価格の上がりゆくさまを眺めるだけでした。
南部小字は地元での評価も高く、そのため相当な高額な評価を受けることがしばしばあります。人気者の宿命ですね。そういえばこの品、去年一度出たような気もしますが、思い違いかしら?
本日、ゆうちょ銀行への振り込みに四苦八苦してしまいました。分からなくて今夜は4回も銀行に通ってしまいました。ゆうちょ銀行へ他行から振り込む場合、支店名、口座番号を別記してくれるとありがたいですね。慣れてしまえば簡単なのですが・・・。
 
4月24日 【刻印銭】
石川氏から刻印銭のプレゼントが届きました。刻印銭は拓本では採りづらいので画像でどうぞ・・・と言うわけです。(ありがとうございます。)何でもアリの世界なので楽しく、一時期はやっきになりましたっけ。
左上は丸十字刻印に面背とも十字の溝。溝は打ち込んだのではなくヤスリで削った感じで手が込んでます。わざわざ輪に切れ込みまで入れていますのでこれは布か何かに縛り付けたのかもしれません。丸に十文字は島津家の家紋、それとも隠れキリシタン・・・などと想像をたくましくしてしまいます。
右上は不明刻印で背側には縦方向で同じ刻印が打たれています。十字状に別の刻印を組み合わせて打ったのではなく、一つの刻印です。交叉三日月もしくは飛燕とでも呼びましょうか?
右下は丸に何やらわからない形。多分宝珠だと思うのですが・・・。
左下はさらにわからない。丸一刻印かなあ。それにしては雑な打ち方。トの字の可能性もありますね。
刻印銭の多くは上棟銭だと思うのですけど、中には博打の代用貨幣や工具による単純な悪戯なんてこともあると思います。深追いは禁物。
今月号の駿河の裏表紙の話題が銀銭寛永でした。あれも理屈は同じで深追いは厳禁。個人的な記念の日につくった可能性(昔はよくあったそうです。)、恩賞用や嘉祥祝(3月3日の記事参照)の銭の可能性だってありますから。
 
長径49.25㎜ 短径32.55㎜ 銭文径41.0㎜ 重量21.6g 
珍品ながら寶足以外は今一つ主張が弱い書体。
4月23日 【長郭手刔輪離足寶】
長郭手で寶足が短くなるもので、当百銭カタログには「小足寶」などもありますが、この離足寶は「覆輪強刔輪離足寶」として掲載されています。興味本位で落札してしまい、大変なことになっています。
背當の上の輪が少し太くなるのはこの天保銭の特徴のようで、これは背輪の左側の刔輪がわずかに強くなる癖があるからのようで、右側に比べ輪際が傾斜して少し深くなっています。ただ、諸銭譜に掲載されている拓本と比べ背輪の刔輪度合いがこちらの方が弱く見え、銭形も異なります。また、刔輪には違いないものの強刔輪とまでは言えません。諸泉譜の拓は同じ品のようで、採拓時の歪みの可能性もありますが少々気になります。(やはり印刷拓に歪みがあるような気がします。)原品は相当愛されていたらしく、鋳肌がすべすべにみえるのは手ずれが原因かもしれません。さて評価なのですが、小川譜では7位ですが、当百銭カタログは美品で16万円~と当時としてはかなり高評価。さらに類似カタログでは甚少と評価不能に近い。私も初めて見ますから・・・欲に目がくらんだかな? 
小川譜140・類似カタログ(小川譜からの借拓と思われる)・天保銭事典359P・当百銭カタログ262(天保銭事典と同一品)
天保銭事典と当百銭カタログは同一品と思われるのに計測値が異なります。
天保銭事典  : 49.3㎜×32.8㎜
当百銭カタログ : 49.7㎜×32.9㎜
以前も書いたことがありますが瓜生氏の泉譜原品の計測の結果、計測値に狂いがあることが分かっています。(大きくなる傾向。拓本から計測しているためか?)
上の画像写真にかさねると拓本の方が横方向に内径が広く穿(とくに背側)も横広です。銭形も全体にふっくら卵型。これは拓本打つときのたわみ・歪みの可能性があると思われます。
離足寶になる不知銭は天保銭事典P335(長郭写し)、勢陽譜231(降点辵)と201(覆輪刔輪小足寶)、当百銭カタログ222(小足寶)、接郭(各泉譜に掲載有)などがあります。それぞれの拓本を見比べて共通点・相違点を探してみて下さい。私は刔輪の歪みの癖などから上下のものは同じ系統のものだと考えていますが、異論もあると思います。皆様のご意見をお聞かせください。
当百銭カタログからの借拓
泉譜の方がインパクトがある。刔輪が強く内径(特に短径)が大きい。
 
4月22日 【本座白銅】
関西のS氏から頂戴した画像です。(ありがとうございます。)今まで見たものよりひときわ白いとのこと。背の地にわずかに赤みがあることから、全体にメッキしたものではなく金属配合でこうなったと思われます。メッキの場合は地の方に色が残り、凸部ははげやすいですから・・・。
錆のようなものが見えますので鉄分が多かったのか、あるいは錫が偶然多かったのかは定かではありません。昔、秋田のM氏に聞いたことですが真っ白な本座広郭はある・・・ただ、それなりに希少で値段も高いよ・・・とのこと。私は直接これらの品を見たことがないので価値についてはわかりませんが、自分が所有したら大自慢で大騒ぎすると思います。市場価格以上に少ないと思います。そういえばS氏にはかつて正字背文の白銅銭を見せて頂いたことがありましたっけ。あれも市場価値以上に希少な品だと思います。価値はマニアが決めますが、銅替りは境目や評価が難しくなかなか高い値段はつけづらいものです。
※安南寛永の珍品が出ましたね。異文も出ないかしら?
 
4月21日 【再編集加速中!】
昨年発生したインターネットエクスプローラー10による表示崩れ問題、10から11へのバージョンアップによって互換性表示が強化されて設定変更すれば大きな崩れはなくなることがわかったものの、多くのユーザーはその方法を知らず、スマホへの対応もできていませんでした。
そこで、最近ようやく重い腰を上げてぼちぼち修正しています。一番面倒くさい制作日記や新寛永類の主な部分は終わりました。本日からは趣向を変えてH氏から頂いたデータの画像修整に取り組んでいます。
H氏から頂いたデータは画像がとてつもなく大きく、おそらく赤目補正モードが機能して撮影されたものと見えて全体が赤いフィルター色で覆われてしまっています。(赤目補正モードは夜間のフラッシュ撮影の際に人間の目が赤く光ることを防ぐもの。)
簡単で安定した色補正の方法はないものか色々探っていたところ、オフィスのピクチャーマネージャーの編集機能で背景色を消すことに成功しました。(画像の編集 → 色 → 色の調整 → 画像の中で白くする部分をクリック。自動修正モードも使えますが不完全なのでこの方が自然。)
まだ編集中ですが、違いは下の編集例と 南部藩母銭聚泉譜 をご覧いただければよく分かると思います。

画像の編集例
元画像をHP用に縮小したもの。元画像はパソコン画面に入りきれないほどでした。縮小はペイントで行いました。しかし、多くの原画はなぜか赤みが強く見づらかった。撮影時に赤目補正の機能が働いてしまったものと考えられます。 オフィス2010を起動。
画像の編集 → 色 → 色の調整
背景色かなり消えて見やすくなりました。このままでも良いのですが、レンズ汚れや影によるノイズが残ります。(自動補正だとかなり色がどぎつくなりましたので却下。)
明るさとコントラストの調整。
明度とコントラストをそれぞれ10ポイントだけ上げました。背景のノイズがほぼ消えてさらに見やすくなりました。必要に応じてペイントの消しゴム機能で消しきれなかったノイズを消して行きます。
  
4月20日 【古銭の側面の話】
最近、密鋳四文銭の所を修正しているので、もう一度見直したくなってきました。密鋳四文は主に東北地方で分散して作られているので、似たようなものがたくさんあり、完璧に分けるのは不能です。やれ江刺だ、浄法寺だ、踏潰だと言っておりますが、それっぽいというだけ。江刺と浄法寺はどこが境目かはよく分かりません。
自分なりに分類していましたが、似ているなだけではなく、そうあってもらいたいな・・・なんてレベルで分類していますというかアルバムに放り込んでいるだけ。棚のアルバムにあるだけで200枚はあるので、机の上などで転がっている物を含めばもっとあるはず。
特に側面の観察をもっとしっかりして細かく系統だてて分ければものすごく面白いはず。そのためには側面の画像ができたらいいんですけど・・・。
密鋳銭の側面の仕上げはいくつかあります。
①不規則な方向から仕上げで多面体の仕上げになったもの。円空の彫像のような荒々しいもの。
②荒やすりで縦または斜めにきっちり。
③台形仕上げ・・・これは母銭の形がそのまま残ったものか?
④滑らかな砥石仕上げ。かまぼこ型。
⑤丁寧な横やすり・・・ロクロ風。仕上げが平ら。
⑥面背の砥ぎの方が強く、真ん中が筋状に凹んでいる物。
⑦凸凹が激しくワイルドで不正形のもの。
ざっと思うままに書きました。大量にきっちりまとめて仕上げていれば、側面は④か⑤になるのが多くなるはずで、不規則やすりになるのは仕上げそのものが雑で、少数仕上げ・・・あるいは銭をきっちりまとめずぐずぐずの挿しの状態で仕上げたのか?鋳バリが多くてうまく挿しに入ら無かったのか?上手くやれば面白いコーナーができるかな?撮影がねえ・・・。その前に分類整理が必要かあ。

※HPを見ている方ならお分かりと思いますが、面背の鋳型がきれいに2㎜ぐらいずれた状態が端からはみ出ている天保銭・・・そんな錯笵はありえません。天保銭も挿しで使用されたことが多いので型からはみ出した部分は目立つので削られます。本座はそんな失敗作は出しません。密鋳銭座なら目立ちすぎですからやはり世に出しません。鋳放しなら鋳バリが残ります。鋳バリがないのなら穿内・側面に修正した痕跡が少なくとも残ります。それがないのは最初からそういう企画でつくられたもの。天保銭を薄く摩耗して面背をあとで貼り合せたものですね。側面に横やすり跡が見えたらそれは確実。面背がずれた状態ではそんなやすり跡がつくことはない。真正品の贋作と言うことです。
 
4月19日 【痛いお話・・・古銭とは関係ない雑談です。】
例により女房達が家族旅行に行きました。うちでいう家族旅行とは、女房のご実家の女系家族との旅行のことで、私は飼い猫のお父さんなのでお留守番役になります。したがって家の中で何をしていようが文句は言われませんが、猫の世話と掃除と洗濯だけはしておかないと文句を言われます。鬼の居ぬ間に・・・と思ったのですが、せっかくのお休みなのに肝心の古銭会やイベントがない。
そこでかねてから気になっていた奥歯の再治療に行きました。
この奥歯、ブリッジ状に被せていた金属がぐらつき痛みます。実はすでに2回ほど治療してもらっていたのですが、歯そのものがもうだめなんじゃないかと疑っていました。ぐらついている感じがあるし、痛くて固いものはかめないし、だから最近子供に「お父さんの食べ方変だ」と言われてますし・・・。今朝は根元から膿が出ました。口もくさいと思います。それに数日前から声がかすれて出ず、鼻も詰まっているぞと。
痛みは結構ありますが我慢できないレベルではなかった・・・実は私、本当は我慢強い性格じゃないんですけど・・・痛みに強いと言いますか鈍感なところがあります。
例えば両足の親指が陥入爪(巻爪)なんですけど、親指はしょっちゅう赤黒く腫れて、痛みが強くなると無理やり爪切りをします。すでに外科的処置は何度か受けていますが、あれは親指に注射されるのでものすごく痛いし、しばらく靴も履けなくなりますので困る。処置の時の痛み止め注射が指先に打つので拷問のように痛いのです。痛いから何回かに分けて打つのですけどだからまた痛い。いっそのことバサッとやって欲しい。
最近は自分で処置してます。左足は爪が一部変形分離して本体とは別に皮膚に垂直に食い込んでゆく部分があり、そこをペンチのような爪切りでつかみ根元からメリメリと力づくで上に引き抜くのです。当然、血が出ますが5㎜以上食い込んでいた部位が根元からとれると(ズキズキしますが)気分は爽快。引き抜いた爪を家族に見せるととても嫌がられます。
この体質、昔、スキーをやっていたせいで(スキー靴があわず、シーズンオフに)足の爪が黒くなって落ちたり、外反母趾になりかけたりしたせいかもしれません。足の裏に魚の目のようなできものが6~7個以上できて手術したこともあります。数年前、扁桃腺膿瘍になったときも(ゴールデンウィークで)我慢しすぎて窒息しかけました。周囲に医療関係者がいるので、かえって気を使ってしまうのも一因かも。椎間板ヘルニアは痛かったなあ・・・あれはイライラする痛みなので我慢できなかった。

歯医者に行くと、歯槽膿漏ではないが、その下の歯そのものを休ませなければだめだろう・・・被せてあるものを取るからと言われ納得。
被せた金属のブリッジをガリガリと削られ取られてすっきりするはずだったのですが・・・。
医者が「ちょっと痛いよ」といって歯茎を押して膿を出すのが痛いのなんの・・・耳の奥まで頭がキンキンして涙が出ました。治療後、薬も出されずに自宅に帰りましたが一向に痛みが引かず、それどころか時間がたつと痛みが倍増して、顎の骨からこめかみ、耳の奥まで痛い。あわてて歯医者に問い合わせたものの本日午後から休診。市販の鎮痛剤を飲みましたが効かない。こうなったら・・・寝てしまえ・・・ということでとりあえず目はつぶりました。(すぐに寝られる体質)
目が覚めると奥歯の周囲がうぶよぶよに腫れています。そこで意を決して自分でぐっと押してみた・・・たくさん血の膿がどばどば出たあ・・・しかし、痛いのなんの声が出せないほど痛い。そして再び、こめかみから顎・耳までが痛い。でもなんとなく気分はすっきり。(でも痛い。)

原因はこの奥歯の根の部分だ。(中途半端な治療をした歯医者?)声が出ないのも、ここ数日鼻が詰まっていたのもみんなこいつだ!
月曜になったらすぐ歯医者に行こう。(医者変える?)その前に自分で奥歯を抜いてしまいたい衝動を抑えるのが大変です。

この記録を書いているのも気分転換のため。本当は痛くて食事もできないし声も出せません。(かすれて声が出ない。)現在は古銭が治療薬です。でも痛いぞ・・・と!
 
4月18日 【穴カタの珍品:旧猿江小字濶縁】
北秋田寛永通寶研究会から資料が届きました。その中の記事を読んでいて、私もこの見落としに気づきました。
私は次鋳の類かと思うのですが、石川氏は一手と考えているようです。四ツ宝銭の大量見聞をしたとき、次鋳銭の発見に躍起になっていましたが、俯頭辵と勁永広寛にそれらしきものがありましたが、見つけて終わりになっていました。(穴カタにも掲載されていません。)この類には次鋳(細縁大字も・・・)が出現してもおかしくないのですが、目立ちませんし、次鋳はみすぼらしいですから・・・。
ただ、石川氏が称揚するように数は少ないと思います。小字濶縁の評価値はなんと2万円。これは思いいれもあると思いますが、探すと多分見つからないと思いますし、苦労して探す人も少ないと思います。昔は「古銭を集める時は初鋳の美銭を集めること。」と教わりました。次鋳の存在は昔のコレクターも経験的に知っていたのだと思います。それに価値を見出すようになるとは・・・時代ですかね。もう一度、次鋳銭の存在について検証する必要があると思いますね。
 
4月17日 【琉球通寶の墨書き】
入れ替え用に琉球通寶の広郭を落手。良くある品で美品も多いのですが、あまり大枚をはたく気がせず待ち続けていたら、最近極美の品を相場程度で入手。
品物そのものにはほぼ欠点がないのですが、背に何か墨書きがあります。これが無ければさらに評価が上がるのですが、残念ながら墨の威力は強大でして現代の方法では銭体を傷つけずにクリーニングする方法はないようです。
ところで、この墨書きはいったい何を意味するのでしょうか?古文書の読めない私にはこれが何かが判りません。
「西××の×佐」かなあ・・・と思うのですけど、文字数すら定かではありません。
多分、所有者の住所と名前が書いてあるもので、ひょっとすると迷子札だったりするのですけど、きれいなので、やはり所有者が自分の者であることを主張して書いたものか?
名前だとすると「優佐・俊佐」あたりかしら?

※どなたか読み方をお教えください。右側の2文字目が見当つきません。

※右はやはり住所みたいです 西五十九 もしくは西五十の一 かなあ・・・
 左は名前 「優佐・俊佐」 なのかは分からない。昔の人はどうして読めたのでしょうか?

※表示崩れの対処・・・新寛永の一文銭はほぼ完了しました。4文もあと少しです。さらに画像の調整もしています。具体的は背景の汚れを明度を上げて目立たなくした後、コントラスト調整をして見やすくします。文銭の大きい画像はこの手法で処理してあります。2013年の10月18日制作日記にそのやり方を記してあります。
 
4月16日 【投稿画像から・・・】
東京都のⅠさんから投稿画像がありました。
(ありがとうございます。)
はじめて入手された不知銭と言うことですが、不知銭の特殊なつくりが良く分かる品ですね。
長郭手ですが、銭形が横太りの卵型・・・典型的な覆輪銭です。面も背も向かって右側の輪が太くいびつ。これは面と背の鋳型に微妙なずれが生じたからで、それを修正するため郭内にもべったりとしたやすりがけがされていると思われます。よく見ると面郭左側に段差のような跡があり、あたかも嵌郭加工の痕のようです。極印も本座とは少し形の異なるタイプ。桐と言うより桜の花弁のような窪みが特徴です。こうしてまたネット上の天保銭マニアが増えてゆく・・・うれしいような、困ったような。
文久改造母銭?
妙にすべすべして真っ赤な銅色。鋳だまりもなく彫りも深い。穿内はいびつなやすりがけと角仕上げがありますが、やすり目そのものの確認は良くできません。
わずか内径の縮小が見られますし、銅色も明らかに赤いのでひょっとして写し・・・そして鋳写しの改造母銭じゃないかと夢を買いました。
周囲はロクロ仕上げには見えませんし、ちょっと違う品のような気がしますが、文久はまだ自信が持てません。誰か教えて下さい。

※精査の結果、内径縮小はなく、写しの可能性は消えました。
 
4月14日 【地味に地道に作業中・・・】
インターネットエクスプローラーによる表示の崩れに対応するべくコツコツ作業中。だいぶコツがわかってきましたがやはり時間がかかりますしつまらない。今は新寛永の小梅手あたりまで来ています。毎日まじめにやれば1か月以内にできると思うのですけど・・・。
毎日見ていないとおそらく気が付かないレベルの調整です。

※結局、高津銭まで改修しました。一文銭は残すところあとわずか・・・。
 
4月13日 【こちらもお祭りでした!】
こちらは10万円超えまで確認したロット。
(拝借画像です。お許しください。)
上中央は寛文期亀戸銭ですけど画像で見る限りは普通の品っぽい。しかし、それ以外はみんな変です。収集家のコレクションを家族が価値を知らずに処分したのではないかしら。
右上は謎の絵銭ですが、これ多分、お遊びの贋作の類。
左上は北宋銭の政和通寶ですけど大きくて美しい。しかも書体は大字の篆書に見えます。符合泉志は実家に置いてきてしまっていますし、専門外なのですけどどう見ても母銭。これは事件?北宋銭マニアにとってはよだれが出る品ではないか?
そしてその下は島屋無背か島屋文。背の画像が見たい!
下中央は仙台石ノ巻銭の小字系の母銭・・・まあ、これは大騒ぎするほどでもない。
そして右下。元文期一ノ瀬低寛背系たぶん母銭・・・いや、どうみても母銭。これは貴重です。
以上、10万円の出費は夢買いとしては妥当か?背の画像がお楽しみです。入手した方からの情報が知りたいです。
 
4月12日 【改造母銭も続々!】
東北のSさんから頂戴していた鉄一文銭用の改造母銭たちです。これでもかというぐらい磨輪されていて小さい品々。後加工が可能なので過大評価はできませんが、実に面白いサンプルです。私はよく小さく加工された一文銭を「盗銅加工品」と称して雑魚扱いにしていましたが、そのうちの何品かはこういった改造母なのでしょう。雑銭箱の中を見直す必要がありそうですが面倒くさくて・・・そういえば離用通で周囲や郭内にやすりの入ったやつがあったなあ・・・。もしや安政期と思って買ったから明和と判ると頭にきて・・・どうしたっけなあ。
郭内にやすりの入った明和期離用通(多分、改造母銭)
これを見つけたときには興奮したことを覚えています。だって、郭内には丁寧にやすりが入っているし、輪の周囲も立って一回り小さいし、色もずいぶん黒いし。
安政期の離用通だ!と勝手に確信して、東京交通会館のコイン店の店先から(明和期にしては高値にもかかわらず)奪い取るようにして買い取った覚えがあります。
そのあとで明和期と規格が同じことに気づき、いやあ、がっかりしたこと・・・。
さすがに捨てることまではできませんでしたが、アルバムの中で未整理のままでした。
※大頭通の誤りでした。
 
小字背久鉄銭からの鋳写母銭 外径21㎜×内径19.5㎜
縮字から写した鉄銭用母銭 外径21.7㎜×内径17.55㎜
4月11日 【鋳写母 続々!】
先日の記事を見た東北のSさんからメールが届きました。
(ありがとうございます!)
「(前文略)ホームページを拝見しました。掲載されている母銭は、〇〇市の〇〇さんから入手されたものだと思いますが、私もかなりの枚数を入手しています。(中略)
これらの母銭群は、現在の軽米町内で密鋳用として製作されたものではないかと推測しています。函館の箱館通宝座から帰村した職人が密鋳者に売りつけるために鋳造したとの記述が日本古銭贋造史や南部密銭史などにあります。通用銭を磨輪して改造した母銭も入手しています。〇〇さんの話では、お祖父さんがばらばらの状態で購入したものだそうです。(以下略)
古銭の出所もご指摘の通りでした。したがいまして、4月11日の母銭は鉄銭からの鋳写母であることで決まりです。Sさんから頂戴した画像のうち2枚だけをまず展示します。
上は常陸太田銭小字背久鉄銭から鋳写した鉄銭密鋳用の銅母銭。背にうっすらと久の文字が読み取れます。これは珍しい!
そして下は藤沢・吉田島銭の鋳写改造母銭、すなわち通用銭を写したものを鉄銭母用に改造したもの。何でこんな手の込んだことをわざわざするのか・・・見寛、目寛の例もあり、なぜかは良く分からないそうですが大きさを(小さく)そろえるためではないかとのことです。
鋳写銭から製作した四文母銭はたしかに存在しますので、鉄一文銭にもそのようなものがあっても何ら不思議ではない。材料が節約できますし、一枚もとになる銅母銭をつくれば同じ規格のものが大量にできるわけですから、一理はあると思います。
 
4月10日 【あるいは鉄銭写し母?】
実に粗雑で可憐な母銭です。こんなつくりでも母銭でありえたことが不思議です。良く、鋳銭事業は割に合わないと言います。人を雇い、原材料を仕入れたら・・・確かに赤字になると思います。
それでも東北でこのような密鋳がさかんだったのは、原材料がタダに近い労力で手に入ったからに違いありません。原料がタダなら、労力的には多少割に合わなくても少しでも多く収入を得る手段としての銭づくりはあり得たと思うのです。ひょっとしたら農耕器具や生活雑貨づくりの副業的な産業だったのかもしれない・・・と夢想してしまいます。
さて、この母銭・・・見た目は雑ながらきちんとやすりがけされています。鉄銭は硬すぎて仕上げやすり作業ができなくて省略された・・・だから母銭には一層丁寧にやすりがけがされたそうです。
したがってやすりがけの跡からこの母銭は後でこのように劣化したものではなく、はじめからこのようなつくりであったことが判るのです。ひょっとしたらこの母銭、通用銭から作られたのではないかしらと夢想してしまう次第。もっとも通用銭を写してわざわざ母銭を作るぐらいなら、そのまま通用銭を鋳写して新たに通用銭をつくってしまう方が手っ取り早いと言えばそのとおり。それでも母銭を作る理由は鋳バリの問題・・・やはりやすりがけの問題だったのでしょう。こんな母銭からできた鉄銭はおそらく文字も満足に読めなかったと思います。それでも、通用したんですね。
粗雑で可憐・・・と書きましたが、出来損ないほど可愛らしく感じる今日この頃。これがウン万円なら驚きますが、2000円ほどで拾いましたので、これはまた実にリーズナブルでご機嫌です。だからというわけではないのですが入手してからしばらく机の上に転がっていて、忘れかけていました。(反省) 
 
4月9日 【難波御用銭?】
ネットで騒ぎになっていた・・・御用銭?・・・いつの間にか終わったのか消えていました。真贋はわかりませんけど、これはどうなのだろう・・・。(画像借用しました。お許しください。)
御用銭はタイプが多すぎてどれが本物なのかちょっとわからないのですけど、一番参考になるのが江戸時代の大名朽木公の大英博物館コレクションです。
朽木公については泉家・収集家覚書を、そして御用銭の画像は2012年5月21日の制作日記をご参照ください。ただし、大英博物館所蔵日本貨幣カタログの印刷は粒子が粗くて本当に見づらいです。それでも古銭大名の超一流収集品の端正さは判ると思います。

さて、久々にそのカタログを眺めていて気づいてしまったことがあります。それが寶永通寶の母銭の写真。
寶永通寶の母銭には通用銭が存在しない謎の母銭が市場に存在しています。その記事は2012年の11月25日の制作日記にも記してあります。ところがそれと同じものが大英博物館にもあったのです。粒子が粗くて見にくいので、画像処理を施しましたがそれで私もようやく確認できました。寶永通寶の母銭は2枚あり、色調は異なりますがいずれも細字と銘打たれていて同じ種類のもののようです。
通用銭との一番の違いは穿の大きさで、そのため寶の位置が上がっているように感じます。その他に穿上の寶の字の後足の角度が立つなど微妙な違いがあります。画像で比較確認すると内径は通用銭同じでした。
実はこの銭は母銭としてのつくり(仕上げ方法)が異なることから寛永堂が作ったものではないかとのきな臭い噂が尽きない品でした。
もちろん、この母銭からは一般の通用銭はできないと考えられますので、本物だとしてもあくまでも見本銭的な存在になります。それに大英博物館所蔵の日本貨幣カタログに掲載されている日本古銭のすべてが朽木公の所有品であったとは限りませんし、朽木公は1802年まで存命であり、幕末に活躍した寛永堂とわずかに時代が重なる可能性もあります。けれども、このようなマニアックなものは朽木公の好むところであり、真贋の真相はわかりませんが、グレーな噂が絶えなかったこの品に一筋の光がさしたかもしれません。
そういえば今日はスタップ細胞の小保方女子が記者会見に出ていました。さんざんマスコミに叩かれて可愛そうでしたが、過程はどうであれ、研究が真実であればいったい誰が責任を取るのか・・・。日本のバイオ研究の発展がこれで3年は遅れた気がしますね。マスコミが今更小保方さん・・・と「さん」づけするのが白々しく感ましたが、私自身も各所で話題にしていたと思います。
古銭の世界でも一つ間違うと自分も同じ間違いを犯してしまいそうです。ずいぶんバッシングも受けましたし、気が付かないうちに色々な人を傷つけていると思います。私・・・記事には主観・偏見・記憶違い、見当違いがたくさんあります。拓本や画像の拝借も多いし、画像の処理もたくさんしています。悪意はありません。ごめんなさい、責任もとれません、以上です。

※寶永通寶の細分類 → 2010年11月12日 制作日記 

画像をそろえてみました。内径サイズをほぼ同じにしています。
左:大英博物館所蔵品(やや俯永が強く見えますが画像の傾きの違い?)
中:通用銭のない寶永通寶の母銭として良くみられるタイプ。(借拓)
右:寶永通寶深冠の拓本(古貨幣研究8号より)
※内径をほぼそろえると文字の大きさが歴然と異なります。広穿の分、左と中は文字が断然小さい!鋳型を使う鋳造によって穿が型サイズより小さくなることはまずない(鋳型の乾燥による収縮分のみ)ので、右側の通用銭はこれらの母銭からはできません。
 
4月8日 【貨幣の考古学2】
方泉處19号に出てくる発掘遺跡は長坂遺跡(御殿場1707年)の他に御殿下記念館地点537号遺構(東京都1703年)、源興院跡(東京都1707年)があります。これらの遺跡から出てきた寛永通寶には京都荻原銭と江戸荻原銭も含まれていました。つまり、この2種も元禄期の鋳造であることはほぼ間違いないところ。

特筆すべき点は、
いずれの遺跡からも文銭無背類が出ていないこと。多少、流通に偏りがあったにしてもこれはいったいなぜか?
実は江
戸期から明治期にかけての多くの泉譜は文銭無背は正徳期としていたそうです。それが覆ったのが大正期のことで、現代もそれが引き継がれています。
新井白石によって慶長時代の幣制に復古を開始したのが正徳2年(1712年)のこと。当然ながら寛永通寶も立派なものが作られたと思われます。それを裏付けるように銭相場は大きく価値上昇しています。正徳・享保は金銀も高品位であったのにそれ以上に銭が評価されたというのは非常に興味深いことです。(銭は庶民の貨幣ですから、銭の価値が上がったというのは米相場が狂乱から落ち着いた反動であったことも考えられます。)この時期に、丸屋・耳白・文銭無背が相次いで投入されたと考えられます。慶長の復古ですから銭もそれなりに立派なもの(さすがに慶長時代とまではゆかなかったでしょうけど)が作られたに違いないと思うのです。
一方で、銭の相場を見ていると1670年代あたりからぽんと銭相場の下落が見られます。これが実は気になる。
まあ、机の上であらぬ妄想をいくらしたところで答えが出るわけでもありません。この件もずいぶん好き勝手に書き綴りましたので、ここらあたりでいったん終わりにしたいと思います。
まとめとして・・・
①不旧手の多くが元禄期には出ていた。
②猿江銭も元禄期の可能性。
③文銭無背は正徳期以降の可能性が大きい。
④荻原銭の銅色は白色系かもしれない
以上が今回の調べで分かったこと。信じる信じないは皆さん次第です。これだけは皆様にも投げかけておきます。
 
4月7日 【元禄~宝永の大異変】
Wikipedia(江戸時代の三貨制度)より
元禄年間から宝永にかけては日本は大変な目にあっています。
1703年(元禄16年)の年末 千葉県の野島沖を震源とするマグニチュード7.9~8.2クラス(震度7)の大地震が起きました。元禄大地震です。房総半島から東海にかけて5~8メートルの津波が押し寄せ、小田原や熱海などは壊滅状態。一説によると房総半島の先端は5メートルほど隆起して沖の小島が陸続きになったとか。(現在の野島崎)家屋倒壊や火災も各地で発生したそうです。
次いで1707年(宝永4年)晩秋 今度は南海トラフを震源とする宝永大地震以上の巨大地震(マグニチュード8.6~7、震度7)が発生。家屋倒壊は東海地方を中心にひどく、また四国沿岸を10メートルをはるかに超える巨大な津波が襲ったそうです。
そして、震災から49日後、ついに富士山も大爆発します。これが宝永の大噴火。火山灰は全国に降り、日照不足や冷夏による被害も生じたようです。
さて、これらの天災と寛永通寶の鋳造時期比較してみると・・・
荻原重秀によって金銀改鋳が行われたのが元禄8年(1695年)、このときは銭の人気が急騰したと伝えられます。そこで元禄10~13年頃に荻原銭と呼ばれる文銭より小型の寛永通寶が出現するわけです。この時の記録が以下の通り。
「元禄12年平安七条及江戸所鋳、
銅質白色、径八分、重八分、小は径七分五厘、俗にいう荻原銭:藤原貞幹」
「江戸銭:元禄10年より宝永元年まで江戸亀戸村にてこれを鋳る。加役は丁子屋味休・神田屋孫八 荻原銭:元禄13年3月6日より京都七条川原にてこれを鋳る・・・:三貨図彙・草間直方」
荻原銭の前、元禄10年~宝永元年(1697~1704年)頃に亀戸銭が出ており、これは元禄大地震発生がきっかけかどうかはわからないものの鋳銭停止しています。この頃の銭相場は一両3900文前後であったと思われますので、まだ8分銭は出ていなかったような気がします。
荻原銭は記録が正しければ元禄12年もしくは13年(1699~1700年)頃の出現で、宝永通寶の出現(宝永5年:1708年)と停鋳後に廃座になっているようです。藤原貞幹の記録にある
銅質白色の記述は重要で、これは元文期とされている諸銭の色ではないでしょうか。すなわち山城銭類の鋳造年代は意外に古い可能性があると思います。書体の連続性から見てもこれは十分に考えられます。
従来はこの銅色白色の記述は無視・・・もしくは「元禄亀戸銭は白っぽい」という強引なこじつけで教えられていました。しかし、白くないものはやはり白くない。(母銭は青白いものもある。)
この時期、世の中の不安も最大になったようで、通貨の質も落ちたことから米相場は江戸時代を通じて最大の高騰をしたようです。
これは庶民にとっては危機的な状況で、天明、天保の大飢饉の比ではありません。多分に風評被害的なこともあったと思います。一方で実際は米本位制の幕府(武士階級)はこの危機でかなり潤った可能性も考えられます。地震、富士山爆発と日本の傷は大きかったものの、日本全国が大飢饉であったわけではなく、高騰幅ほどの生産減少でもないと考えられ、たとえ米の収量が減っても金融的には儲かったようで・・・ただし、売るほどコメが余らなかったのかもしれません。
以上は日本史を正式に学んでいない者の妄想でございますので良い子はきちんと勉強してください。
 
4月6日 【透過画像比較法による検証:不旧手2】
進永と退永小通が似ていることを強調しましたが、文字そのものの微細な違いをさらに検証してみました。これだけ拡大するとさすがに書体の違いが分かりやすい。今度は赤を退永小通、黒を進永にしてみました。
やはり字画のほとんどが重なりますが、ほんのわずか進永の用画が大きいのもこの大きさなら判ります。しかし、それより目立つのは通頭の位置。
進永は通頭も左上に進み、用画の左に飛び出します。小通は小頭通というか低頭通であり、退頭通でもあります。寶字は位置こそ異なりますが字形はほとんど差がありません。これは寛字も同じです。

※私的な考えですけど・・・
書体には時代的な流行があると思います。たとえば元文期以降には虎の尾寛という独特のデザイン化された書体があり、以降各座の書体もそれにほぼならっています。古寛永には手本銭といったものがあり、同じような書体が各地で作られていました。斜寶のような特殊な書体でさえ、よく見れば仙台銭跛寶や水戸銭放永など似ていませんか?
鋳物師の系譜は限られている・・・といつか書いたことがあります。(2013年3月6日制作日記)
全国の鋳物師は真継家が統括していて、封建時代の職人の派遣はこの一族が事実上握っていたと考えられます。一族の結束は固く、秘密は絶対で、たとえ時の権力者であっても容易に踏み込めなかった・・・ここには多分に身分制度的なものが介在していたと思いますが・・・すなわち幕府等が彼らの特権を認める見返りに技術のむやみな流出を制限していたものと思われます。
(皮革産業や芸能の浅草弾左衛門)
親方によって産業が支配されていたなら・・・本来は縁のないはずの座が同じ書体になることもあるわけで、実際に幕末の諸藩の鉄銭は非常に似通ったものが存在しています。鋳銭は民間による幕府からの請負産業・・・いわば官許民営的なものでしたが、鋳銭技術については誰でもできるものではなかったようなのです。
さて、ここで話を戻しますが
不旧手の書体が元禄期に現れたことはほぼ間違いないところ。現代の泉譜ではそれが元文期頃まで時代がバラバラに各地に出現しているわけですが、少し不自然な気がしますので、元禄~宝永期を中心に鋳物師の技術集団によって一気に全国に広まったと考えるのが妥当じゃないかしら。え、根拠がない?・・・そうですね、はい。
 
赤:進永 黒:退永
赤:進永 黒:退永小通
4月5日 【透過画像比較法による検証:不旧手】
暴々鶏氏がパワーポイントで行う画像比較について記述していたと思いますが私は普段からマニアックに使用しているエクセルを使って拓本図を加工してみました。ここでも使用している拓図は一番標準的な静岡いづみ会の「穴銭入門・新寛永の部」の拓図を元にさせていただきました。

赤い半透明拓図は比較基本銭として用いた不旧手七条銭の進永です。それを退永と退永小通の画像に重ねあわせてみました。
退永については両画像とも通字の輪郭はかなり合致していますが、ほかの字画は微妙にずれていてとくに永字に至ってはまったく合致しません。したがって黒拓の書体の名称が退永であることには全く異論がありません。

一方、退永小通と進永を重ねたとき、予測以上に書体差がないので驚きました。
これは同じ書体だと言われても反論しづらいレベルです。
寛・通・永字については微細なずれはあるもののほぼ同じですね。

小通と言われていますが実際には全くと言っていいほど差が見られません。かすかにマ頭通の横画の位置と、用第2画(縦画)の角度、辵の横画に違いがあるかないかの差。古来言われていた小通の特徴の心象がガラガラ崩れ去りました。小通の気がしていたのは植え付けられていた先入観かもしれません。(通頭の位置がわずかに低くなるから・・・)
永も永点やノ画角度などに微差はありますが本当に微差。
明らか・・・と言ってもわずかですが・・・ずれているのは寶字で、それも字画一画分に満たないぐらいのレベルです。書体的にはほぼ同じで、配置の高さが異なるだけのようです。
それでも、これだけ拡大比較してもこれほどの微差だとは想像すらできませんでした。

この結果を見る限り、現在の泉譜にある「退永小通」の名称はできれば変更すべきだと思います。小通に思えたのは字画の微妙な差に過ぎなかったのです。
しかも永字においてはほぼ同じ位置であり、これを退永とする根拠はありません。
はっきりとした違いは微妙ながら寶の位置ぐらいなので
「退永小通」は「進永昴寶」と名付けるべきと断言できます。
微妙な違いを嗅ぎ取るコレクターの眼力もすごいのですけど・・・いにしえのコレクターにも錯覚もあったことが判りました。 
 
4月4日 【不旧手の基本書体】
不旧手の書体そのものは独特で分かりやすいのですが、細分類になると製作があまりよろしくないものが多いので苦労された方が多いのではないでしょうか?いづみ会の拓本図を加工して拡大しましたので文字の癖を観察してください。
ポイントは ①通頭の形状 ②永柱の位置とフ画先端の位置 ③寶ウ冠の位置 です。拓は若干の傾きがあって修正しきれていませんのでその点はご考慮下さい。しかし、微差です。こんな微細な点にこだわる・・・日本の貨幣収集は分類学であるというのもうなづけます。
ちなみに古貨幣などの古物に関する学問を分類すると・・・(個人的な主観ですけど・・・)
考古学・・・主に遺物、痕跡を直接調査して歴史を探る手法。
考証学・・・主に広く資料を収集し、文献などから歴史を推察する手法。
銭貨学・・・主に貨幣歴史の学術的探究。ときには経済学や歴史的な背景をさぐり合体させる手法。
分類学・・・主に貨幣そのものを書体製作などで分けて系統分類する手法。学問的にはあまり意味がないかも。
最近はそれぞれの手法が合体したり、さらに科学的な手法(X線蛍光分析や炭素測定法、精密計測)が取り入れられています。寛永通寶においては、金属成分を調査すればどこぞの鉱山で採れた銅鉱石でつくられたとかがわかるかもしれませんし、時の銭相場と銭大きさのリンクを調べれば鋳造時期を推定できるかもしれません。

※方泉處において寛永通寶の表面の蛍光写真分析が行われたことがありますが、明和當四文銭の表面分析ではかなりの量の含まれていないはずの鉄分が検出されています。記録上は銅6割8分、釷丹(トタン:亜鉛)2割4分、白鑞(白目:主に鉛と錫。)8分とあります。この8分の中にかなりの鉄分が含まれていたのでしょうか?(文政期になると輸入品の亜鉛を減らしてその分鉛を増やしています。)

※七条銭の画像を見たら進永の画像が間違っているみたい。雑銭箱からまた拾わなくては・・・面倒です。

※退永小通は本当は進永気味なので進永昂寶に名称を変えてもいいと思うのです。まあ、混乱するので単純に昴寶がいいかな?
進永 退永 退永小通
通頭はわずかに俯し進み大きい。
小フ永で永柱が一番左側に寄っている。
寶下がりウ冠は郭の内側辺より下がる。
通頭ははっきり俯す。
永字の柱はほぼ中央に位置する。
寶貝幅広。郭内編よりウ冠が下がる。
通頭上辺はほぼ水平でわずかに退く。
永柱は左寄りだが、あまり俯さない。
寶字昴がり、寶字ウ冠は郭の内辺の高さ。
※小フ永と言うより、フ画横引きは長く、払いは短い特徴ですね。
 
4月2日 【貨幣の考古学】
日本の古銭研究は現物と古文献の整合性から導き出す考証学的アプローチが古来から盛んで、発掘事実などの考古学アプローチや科学的アプローチはあまりされていなかったのが実情です。したがって、古寛永などは名称と実際の鋳造地が一致していないものがすでに定着してしまい、それがまた分類を難解にしています。
方泉處19号には年代測定のできる遺跡から発掘された新寛永通寶についての記事があります。そこで取り上げられている御殿場の長坂遺跡は宝永4年(1707年)に噴火した富士山の火山灰によって埋没した農家の遺跡で、そこから出土した寛永通寶から実際の鋳造年代が推定できることが記されています。
注目すべきは火山灰に埋もれた遺跡から
①宝永5年(1708年)鋳造と言われている四ツ宝銭の広永・勁永・勁永広寛がまとまって見つかっていること
②享保11年(1726年)鋳造と言われている七条銭が1枚だけだが発見されていること
③享保期と推定されている十万坪銭、猿江銭類も発見されていること
④元文2年(1737年)と言われている藤沢銭も見つかっていること
・・・などです。
つまりこれらの寛永通寶はいずれも1707年以前・・・すなわち元禄期頃の鋳造である可能性が極めて高いのです。
このうち①の四ツ宝銭については、鋳銭記録とは1年の違いなので、記録誤差の範囲と考えることができたとしても、②~④は明らかに誤りだと断言できそうです。
その発掘された新寛永の多くが不旧手と分類される銭種グループ(②・③の十万坪・④)です。 不旧手はマ頭通、俯永長尾永の独特の書体のグループで、糸割符仲間の長崎屋忠七こと不旧が銭文筆者と言われていおり、宝永通寶(1708年)とほぼ同じ書体であるのが特徴でもあります。

草間直方の三貨図彙の論には、
不旧手の鋳銭は初めは大きく、最期はかなり小さくなったとあります。そして宝永大銭を鋳たあと座がつぶれた・・・とも。(日本の貨幣収集の手引きより)
また、神沢杜口が書いた江戸後期の記録随筆の翁草には、不旧手の鋳銭事業は(宝永以降)一時中断しますが、元文年間(1736~1740年)になって後を継いだものが座を復活した・・・と、思える記述があります。
これらの資料は、不旧手類は一部のものを除いて多くは宝永通寶鋳造以前に出現していた・・・すなわち、元禄期に出ていたことを補完するものでもあります。

長坂遺跡は1961年に発掘発表されているにもかかわらず、さらに1992年に穴銭堂、増尾富房氏が自ら発刊する銭幣でほかの発掘事実とともに報じているにも係わらず、残念ながら古銭界では無視された形になっています。むやみに銭籍を動かすと、収集分類上混乱するからなのかもしれませんが、全く顧みられていないのはいささか残念な状況だと言えます。

なお、荻原銭は古泉界では長崎屋不旧の筆になるものとされていますが、個人的には宝永通寶との書体の連続性があまり感じられず、ちょっと違和感があります。上記の事実から類推すると、荻原銭は不旧手のいずれかの銭種が該当する可能性も・・・さらに七条銭こそが不旧手を代表する元禄期の初出銭なのではないかと思う次第。まあ、確定的なことは何一つ言えませんけど・・・。
 
4月1日 【耳白大型母銭】
巷のネット雀が群がった逸品です。(画像借用お許し下さい。)
外径26.29㎜、内径19.55㎜という大きさの表示が無ければここまで盛り上がらなかったでしょう。耳白の通用銭はせいぜい25.8㎜どまりですから、母銭サイズであることは間違いありません。26.3㎜近いとは御用銭のサイズですから、さすがに目立ちます。「母銭はよくわからないから収集外!」と自らに言い聞かせ「もっと美品じゃないと・・・焼け伸びだったら馬鹿らしい!」と興味ないふりをしていましたがやはり興味津々。けっこう良い値が付きました。
好奇心に勝るものはないようで・・・。

深夜・・・七雄泉氏から驚愕の画像を頂戴しました。これが本物であれば、収集界を揺るがす大発見になります。画像発表は後日(収集界で公開したあと)と言うことですが、こんなものが市場にまだ眠っているとは驚異ですね。ありがとうございました!(ちなみにこの話題エイプリルフールではありません。まだ、公式発表前ということで、予告でございます。)

※文字重なりの障害を少しずつ直しておりますが、気分がなかなか乗らず遅々として進みません。1ページ修正に半日~2日かかりますので本当にめんどくさいのです。修正より調べ物をして記事を書いて増やしている方が他の楽しい・・・だから部屋が片付かないんですね。このタイプの収集者はかなり多いと思います。
 
3月30日 【春宮・秋宮】
数ある上棟銭の中でもっともポピュラーなのが、この諏訪大社の下社上棟銭の「春宮」と「秋宮」じゃないでしょうか?この刻印銭は発生の年代や場所などがある程度詳らかになっていますし、貨幣カタログにも掲載されているところから多くの人が知るところになっています。この出自については特別展示室の刻印銭に詳しく記してありますのでご参考までに。さて、この諏訪大社の上棟銭の春宮・秋宮は1820年~1836年代に打たれたものですから、当然ながら密鋳銭を除く寛永銅一文銭のほぼすべての銭種に存在する可能性があります。
しかしながら探そうと思うと意外に少なく、ある熱心なコレクターは背元の刻印銭を発見したそうで、自慢されていました。たしかに文銭系は良く見ますが、背に文字があるものはなかなか少ないかもしれません。背小や背一、仙あたりが出たら面白いですね。
また、刻印の方向も気まぐれで縦方向や横方向に様々見られますが、画像のようにいかにも適当に打刻したようなものまで存在するようです。
なお、「春宮」と「秋宮」の読み方ですが、私はてっきり「しゅんぐう」「しゅうぐう」だと思っていましたが、インターネットで調べると
「はるのみや・しゅんきゅう」「あきのみや・しゅうきゅう」のいずれかに読むのが正式のようです。これはさすがに地元の方に聞いてみなければ分からない。どなたか教えて下さい。

※「春宮」を「とうぐう」と読む事例もあります。「春宮=東宮」であり、皇太子または皇太子の宮殿をも意味するそうです。一方で「秋宮」は正式には「長秋宮」で、皇后の宮殿を意味します。
 
3月28日 【下田極印銭の謎】
極印は品質保証をする印のこと。下田の刻印も本来は極印と書くべきなのでしょう。私は刻印としていますが、実ははじめ極印と刻印の違いが良く分かっていないうちにこのHPをつくったから・・・というのも真相で、その後もこの印が公的なものとは思えないので訂正しないでいます。(訂正が面倒くさいというのも大きな理由です。)
さて、この下田管内通用銭ですけど、近年きな臭い噂があちこちで聞かれます。火をつけたのは貨幣誌における耳口健士氏(実際は小泉健男氏)の随筆による暴露。贋造者のことがはっきり実名で書かれていました。(贋作者列伝にイニシャル記載記事あり。)
さて、この下田管内通用銭の由来については明治31年の「寛永通寶研究報告」における下田在住の寛永銭の大家、蛭海興一氏の報告に
「・・・四文銭の2厘に改められしとき下田の士人は大に不平を唱えてかますびしければ、一時下田に限りひそかに四文に通用せしめんと重なる人々談合の上、下田に存在するすべての四文銭に下タの2字印を印して・・・」とあるのが根拠になっているようです。この報告はあくまでも風聞であり、資料的根拠はありません。
静岡いづみ会の「穴銭入門 新寛永の部」には
「明治四年に24文に通用しているものを4文に、というわけではないから、40文の誤りでは・・・」という疑義が投げかけられています。
最近の疑問説の論拠の中にもこの交換レートのことも指摘されていましたので、改めて検証してみると、上記の疑義は鉄銭一文と銅銭一文を混同していることに問題があることが判ります。すなわち、明治政府の発表した交換比率は一厘=銅寛永一文であることから、銅銭における交換レートに置き換えて考えれば、「当時1対2に定められた銅一文と真鍮四文との交換比率を発行当時の1対4に戻す」ということになり、論はおかしくないのです。(つまり、穴銭入門の論は間違っています。)
ただし、それでもまだ矛盾があります。
下の表を見る限り
慶応元年において、すでに銅一文と真鍮四文との交換比率は公に1対3になっていました。
はたして下田管内通用銭は5年前に定められた交換レート(銅3文)をも超えて4文通用に戻しえたのでしょうか?
下田管内通用銭は慶応元年頃に出現した・・・と仮定すれば問題はクリアできますが、下田にあったすべての通用銭に刻印したにしては、当時大量に存在したはずの文政期銭や安政期銭に対して打たれたものが存在しないのはなぜなのでしょうか?
あるいは
下田管内通用銭が一種、地域の商品券のようなものであれば上記の蛭海興一氏の報告は納得できるのですが、現段階では新たに確認できる資料もなく、あくまでも風聞の域を超えません。
いずれにしても贋作も誠に多く、「穴銭入門 新寛永の部」にあるように
「収集としてはおもしろいが、現況の評価は行き過ぎの感を禁じ得ない。」というコメントを肝に銘じるべきなのでしょう。くわばらくわばら・・・。私は手遅れ・・・。

※今の私たちには考えられないことですが幕末の経済においては、貨幣・紙幣が額面通りに通用していません。琉球通寶が100文通用と書かれていながら当初は124文通用として出現していたり、天保銭の実効レートは80文だったりとはちゃめちゃなのです。これに政情不安と藩札の乱発もあって物価は超インフレ。銅銭は海外流出して少額決済通貨の不足。とりあえず貨幣経済でありますが、物々交換に近い有様だったと思われます。これは米本位制と言えるような財政構造にも問題があったとも思われます。
 
3月27日 【明治時代の穴銭の裏事情考察】
天保通寶は明治24年に、寛永通寶はさらに遅れ昭和28年になってようやく廃貨の法令がだされているそうですが、実際に穴銭が貨幣として流通したのは明治30年ごろまでと言われています。(地方では昭和の初めころまで寛永通寶が使われたという話を聞いたことがあります。)
明治政府がなぜこれらの穴銭をすぐに廃貨にしなかったのか・・・廃貨による経済の混乱を避けるため・・・という考えもありますが・・・

新貨条例発表に遅れること2年、明治6年に政府は少額貨幣として一銭・一厘をようやく発行しています。一銭は明治6~7年で約270万枚、一厘は約698万枚の製造です。その後、一銭は次第に増産されますが、一厘は増産されず、製造年も明治期を通じて9年間にとどまります。明治13年などはわずか810枚の発行・・・見つけたら世紀の大発見です。幕末もそうですが明治期においても少額貨幣は不足していたわけで、裏を返せばあれだけペラペラな一厘銅貨をつくった明治政府でさえも少額貨幣製造は割に合わなかったとも考えられます。したがって穴銭を廃貨にしたくてもできず、格好が悪くても額面を定めてそのまま流通させていた方が都合が良かったようなのです。一方で比較的高額貨幣であった天保銭のレートを高くすると、密鋳濫造が行われ、政府貨幣の信用が損なわれるため厳しく設定したのではないでしょうか。かくして寛永通寶は補助貨幣としての命を長らえることになったのですが、天保通寶は早めにその役目を終えることになったようです。
もっとも貨幣を鋳造していた多くの鋳物師たちは明治期には失職していたわけで、糊口をしのぐために土産物・絵銭・模造銭をつくった者も多く、物価や米相場次第で、商売になれば旧貨密鋳に新たに手を染めたことも考えられます。このあたりの貨幣がいわゆるグレーゾーンの品々。さらに明治後期~大正・昭和初期には古銭ブームが起こって多くの怪しいものが生まれています。

※天保銭の価値が急激に下がったとはいえ、庶民は天保銭を非常に愛したというお話もあります。銭湯の相場がずっと八厘だったそうで、そばの値段も八厘が多かったとか・・・。

※幕末から明治にかけての貨幣の信用の暴落で、物価上昇、少額通貨(硬貨)の不足など混乱をもたらしましたが、明治4年の新貨条例の発表で、通貨価値が安定し今度は米価の大下落が発生したそうです。これは金銀地金に担保された明治の新貨幣の信用増大によるもの+旧幕府や廃藩の貯蔵米を明治政府が大量に放出したためだと思われます。これらにより農業恐慌のような状況を引き起こし、政府も対応に苦慮したそうですが、明治10年の西南の役によって今度は急激なインフレも起きたそうでして・・・この時代はまだまだ幕藩時代の米本位制に近い不安定経済状況の色があります。幕末から明治にかけての貨幣経済について調べたらきっととても面白いと思いますね。しかし、実に複雑です。

※米相場が下がるということは、旧貨の価値も上がったことになり、新規密鋳によるメリットがあがることになりますね。そうなると
密鋳天保銭の出現期限は明治10年頃までは十分考えられますね。これは調べていて初めて理解できた事実です。

※何度も書いていますが、金属亜鉛の民間調達が容易になったのは、明治30年頃。したがって亜鉛分の非常に多い真鍮天保銭は通用を狙った当時のものではない可能性が高い。一方で明和期銭や文政期銭はたしかに真鍮が含まれていました。これらを鋳潰せば原料に真鍮が入ることになりますが、交換レートを見る限り明治4年以降はほとんど採算が取れないことが判ります。とはいえそれ明治4年以前なら効率は非常に悪くなるものの、ぎりぎり何とかなるかもしれません。亜鉛成分の多い天保銭は浄法寺が代表格で、久留米も多く含まれているという情報があります。
 
3月26日 【贋造品の価値】
なんでも鑑定団などでよく見られますが、「古美術界における贋作の価値」は「はじめからレプリカとして作られた作品の価値」より低くなっています。これは贋作者に儲けさせてはならない・・・という業界のモラルが強く働いているからだと思います。
一方で古銭においてはこのモラルがいまひとつ働いていません。そもそも銭はときの権力者がその価値を保証した金属の有価証券に過ぎないのですが、発生した直後から贋物が出回った経緯があり、正規品との分類区別が難しく、それがまた珍しいものとして扱われているからです。
それでも絵画や骨董と同じように、コレクターをだますための悪質な贋作については地金以上の価値をあまり与えてはいけないと思うのですが、かくいう私も加賀千代の贋作をお金を出して購入した大馬鹿野郎です。
ところで・・・
天保銭は明治4年の新貨条例発布前後に作られたものが多く存在し、少なくとも明治30年頃までは実際に通用していた事実もあり、通貨としては明治24年に廃貨(寛永銭類は昭和28年に廃貨)とされるまでれっきとした通用銭でした。
交換レートから考えると明治元年以降はほぼ密鋳銭は鋳造コストが合わなくなると思われます。以下が当時の公的に発表された交換レートで、銅一文銭と天保銭の交換レートを見る限り幕末に急激に天保銭の価値が下がったことが判ります。
一方で、時の明治政府も貨幣司において天保銭の鋳造を引き継いでいますので、改鋳による出目は期待できなくてもまだ天保銭の鋳造は魅力があったのかもしれません。もっとも法の改正を知らずに作ったものもあったと思われます。おそらくそれらは廃貨になる前に投げ売りに近い形で放出されたと思われます。浄法寺や石ノ巻天保などは風貌からしてこのような素性のような気がします。なんとなくですけど。

鉄一文銭を基準にした交換比率
銭 種 1865年(慶応元年) 1868年(明治元年) 1871年(明治四年)
天保通寶 96文 96文 128文(8厘)
寛永四文 12文 24文 32文(2厘)
文久四文 8文 16文 24文(1.5厘)
文銭・耳白 6文 12文  16文(1厘) 
銅一文銭 4文
鉄一文銭 1文  1文 1文(1/16厘)
※鉄一文を基準値とした交換比率表。公式発布のレートであり、実勢レートではないかもしれません。江戸末期の天保銭の実勢レートは80文前後だったようです。

寛永銭を鋳潰して天保銭を作る場合、採算コストは10文程度と言われています。したがって明治元年以降は採算は厳しくなり、寛永銭からの改鋳による天保銭鋳造はほぼ途絶していったと考えられます。


※慶応元年の法において天保銭=鉄100文となっていますが、実際は96勘定にあわせ修正しました。

銅一文銭を基準にした交換比率
銭 種 1865年(慶応元年) 1868年(明治元年) 1871年(明治四年)
天保通寶 24文 8文 8文(8厘)
寛永四文 3文 2文 2文(2厘)
文久四文 2文 1.33文 1.5文(1.5厘)
文銭・耳白 1.5文 1文  1文(1厘) 
銅一文銭 1文
鉄一文銭 0.25文  0.08文 0.06文(1/16厘)
※交換レートの計算にミスがありまして、この考察記事そのものが怪しいものになりましたので96勘定で修正をしています。記事も訂正しています。(3月27日)
 
3月24日 【改造母】
雑銭の会の熱狂から覚めて、はしゃぎ過ぎと散財をようやく反省しています。古泉会は知識を吸収し、刺激を受けるのには絶好の場所で、不用品や重複品を安く放出するのは感謝の気持ちの現れでもあります。まあ、相手の方も気分よければ色々とお教えいただける訳でして、損して得取れとはよく言ったもの・・・と言いますか自身への言い訳ですか?そうですか?反省してませんね。
ところで、明和期銭の改造母の見立てはとても難しい。以前、改造母と称するものを手にしたことがあるのですが、どうみても明和期の後やすりにしか見えませんでした。今回頂戴したものについても、色々な方向から眺めていますが、未熟者の私には確証が持てない点が多々あります。ただ、ひとつ言えることは指先の感触の違い。輪が比較的立っており、表面も磨かれている雰囲気。あとは郭の角の仕上げかなあ。もう一度教えて頂かないと本当の理解が出来ないと思います。まだ、未熟者ですね。
ところで会長から聞いたお話で、
「密鋳鉄銭母と銅銭の母は違う」という言葉がありました。「鉄銭は鋳造後の仕上げがないので、改造母銭の仕上げが非常に丁寧。」ということ。裏を返せば「銅銭は(柔らかいので)鋳造後のやすり仕上げができるけど、鋳鉄銭は固すぎて仕上げ不能。」だと、言うことですか。そのことを考えると、会場で会長とO氏が話題にしていた「正字改造母」の良さが改めて理解できました。あれはきちんと磨輪されて小さく、仕上げも丁寧で「鉄銭母」だったのではないか・・・少なくとも改造母らしい改造母ということなのでしょう。一晩寝てようやくその意味を理解できました。遅いですね・・・でも少しだけ理解が進みました。

※改造母は圧倒的に明和が多い・・・その理由は文政はは母銭としては柔らかすぎるから・・・とのこと。ときおり、文政銭の内郭を削って安政期?といった感じのものがありますが、案外、改造母なのかもしれませんね。そういえば昨日見た極厚肉の安政期・・・ちょっと銅質が安政期にしては柔らかかったような気がしないでもない。中間的なものもあると思いますけど、もう一度じっくり拝見したいですね。

※密鋳病の私は4文銭もブックにいっぱいになってしまいました。密鋳系だけで100枚は突破しています。まあ、収集家としてはまだ並のレベルですけど、一度整理が必要です。これだけ集めても離用通写しはまだ1枚のみ。大頭通写しも2~3枚だと思います。密鋳は奥が深く本当に面白いです。

※私が拡穿としているものや美制としている密鋳銭は密鋳銭を改造した母銭かもしれませんね。
 
3月23日 【雑銭の会】
昨日は八厘会には出られませんでしたが、今日こそはの思いがありました。もっとも、朝の段階ではどうしようかまだ迷っていましたが、妻のお許しが出ていざ東京へ。従いまして事前準備が不十分でして、机上にあったものや、以前出品したものの残りを携え、さらに昨日拾ったラッキーコインを財布に忍ばせ・・・。交通会館には10時半過ぎに到着。即売会への参加はたぶん2年ぶりぐらいじゃないかしら。
端から順にお店眺めましたが、さすがに最終日・・・めぼしいものは皆無でした。
品物を見せて頂いたお店に対し、ごあいさつ代わりに少額のものを可能な限り購入。おつきあい、おつきあい。
古寛永:濶字高頭通刔輪・新寛永:諏訪大社上棟銭秋宮・新寛永:上棟銭桜様刻印・天保通寶:水戸短足寶(大ぶり美品)
あるお店で仙台広郭と書いてあるものを発見!・・・一瞬、心が揺れましたが、よく見たら仙台長足寶でした。あぶない、あぶない。聞いてみると初日には薩摩小字があったそうで・・・。
結局、早々に会場を引き上げていざ、早稲田奉仕園に!
1時間近く前についてしまい、会場は10分前にしか入場できないそうですが、ロビーて持ってきた品を整理するには好都合です。幸いまだ誰も到着していません。準備していたらK会長が到着しました。お彼岸で参加者が少ないという情報もありましたが、その分、濃いお話が聞けそうです。雑談の中で私所有の「石ノ巻反玉寶未仕立て銭」が、実はK会長の旧所有物だったそうで、私はそれを半額以下の価格で購入していました。しかもこの商品の出所の驚愕の事実まで聞きました。
K会長は現在、地元岩手の密鋳銭をはじめ藩札・絵銭を収集研究対象にされており、本日はその泉談を中心に聞けました。
藩札はとても難しく、古文書が読めたら面白いのになあ・・・と、始まる前にも雑談していたのですが、古文書を読むには20年以上の基礎が必要だそうで、私はそれでは寿命が尽きてしまいそうです。最近購入した「古事類苑」などは古文書というような代物ではなく、古資料程度なのですが、それでも四苦八苦しています。つまり私は基礎以前のレベルなのです。
ところで、本日参加されたメンバーの中に秋田の重鎮H山氏がいらっしゃいました。H山氏とは一度オークション会場でお会いしたことがあります。その時は私がNコインで見かけた不思議な島屋文を購入してお持ちでした。(会長・O矢氏・M沢氏・M尾氏・H田氏・H山氏・浩泉丸)
H山氏は古文書の読解ができる方で、ミミズののたうちまわったような達筆もなんなく読まれてしまうようです。なんでも四国藩札200撰の編集の時、2年ほどにわたり読み解いて協力していたそうで、あの本は確か文化的な表彰を受けていたはずですから、その功績の一部はH山氏の功績なのかもしれません。
一方、昨年我が家を訪問して下さったH田氏が見せてくれたのは2013年の12月9日の制作日記にあった明和期の離用通面刔輪背削波母銭でした。これまた身近な方がお持ちでびっくり。しかもやはり綺麗。(北海道で見た品より一回り小さい母だとのこと。)
K会長のお持ちになった雑銭の山の中に「安政期小字の極肉厚銭」が紛れ込んでいました。推定で8gぐらいあるんじゃないかした。それだけは欲しかったけどH田さんが先に見つけた品ですし、ロット物なのでちょっと遠慮、残念。
さて、会が進行し交換会がはじまります。本日は参加者が少ないし、準備不足なので私はルール違反かもしれないのですが相対売りにしました。大したものはありませんが目標は5万円ぐらい。掃除機が壊れ、ダイソンの掃除機を購入してしまったのでその額は上回りたい。私は基本的に損得はあまり考えない人なのでその場の気分で売却してしまいます。まあ、お世話になっているので、会が賑やかになればとの考えです。
贋作の錫母とか泉譜が売れてとりあえず6000円・・・交通費が出たところで、なんと白目の中字母銭が売れた!5万円也。ついにダイソンの掃除機が買えました!H山様ありがとうございます。一方で、買う方は・・・H山さんの密鋳4文銭やら改造母銭をずいぶん買い込んでしまいました。気が付いてみればトータルでとんとんになってしまいました。しまった!また密鋳銭病ではしゃいでしまいました。まわりの方はさぞかしあきれたことでしょう。この病気には古銭が一番効いて癒されるのですが、理性が飛んでしまい、後遺症がきついのなんの。ダイソンが消えました。
H山氏におかれましては私のおねだりにお答えいただきましたH山様ありがとうございます。今回はやすり目の面白そうなものと勉強のため改造母などを分譲戴きました。
H山氏の古銭の趣味はライフワークであり、健康法でもあるようです。お話するとき目がキラキラしてました。帰宅はH山氏が東西線の茅場町まで行くということで、泉談がてら同道させて頂きました。
別れた後で本当は終点まで行けばよかったのですが、なんとなく木場駅で降りてしまいました。たぶん京葉線の新木場駅までなら歩けるんじゃないかと・・・。駅員に聞くととても歩ける距離じゃないとのこと。やむなくタクシーに乗りましたが、タクシーの運転手さん、完全に新人でカーナビ頼り。ところがナビの示した道が工事中で入れず、迷走がはじまりました。結局、新木場駅を(曲がる場所が分からず)通過し、葛西も駅に通じる道を通り過ぎ・・・とうとう舞浜まで行ってしまいました。さすがに途中でメーターは止めてもらいましたが、おいおいという感じ。ラッキーコインは古銭以外には通じないようでして。
散財はしましたがおかげさまで命の洗濯ができました。K会長、H山様をはじめとした会員の皆様、ありがとうございました。
やっぱり古銭会はいいなあ。
①密鋳俯永(欠足寛) ②密鋳俯永 ③密鋳俯永の改造母
④踏潰小字写 ⑤密鋳俯永写(左)と正字写(右)ペア銭? 
見た目はほとんど明和。
郭の角仕上げがあり、輪もやや立つ。
・・・そんな気がします。
表面はすべすべしている感じ。
⑥明和期俯永改造母(厚肉7.3g)  
①はきついやすり目が面背に走り、輪は垂直気味に仕上げられ斜めやすり、穿内もやすりが見られる品。あまり見たことがないタイプ。

②は浄法寺のような金質ながら金属光沢があり、背も深い。やはり斜めやすり。

③は密鋳に穿内やすりをかけて母銭にしたもので、H山氏いわく珍しいとのこと。衝動買い。

④はH山氏の見立てについて勉強するために思い切って購入。私もこのタイプは踏潰様としていると思う。いびつな外輪ながら穿内はきっちりやすりがかかっている。

⑤は終了間際にH山氏が正字はどう?と言ってきて買ってしまった。俯永はおまけ。ペアで買ったが製作的にも近似?

⑥改造母については全く分からないのですが、勉強のため購入。

密鋳については小規模な炉がたくさんあったと思いますので、見立てが人によってかなり変わると思います。私も気が付けば少なく見積もってもたぶん100枚以上は密鋳4文銭があると思います。
天保通寶も不知銭100枚は達成しています。密鋳病です。


参加者:工藤・大矢・原田・松尾・畠山・小出 

反玉寶の多くは石ノ巻の資料館から関係者が持ち出したものと推定されているそうです。
騎士闘竜図
3月22日 【海で拾ったコイン】
鴨川シーワールドに行ってきました。一言でいえば「寒い!」。施設の問題ではなく、軽装で行った私が悪いのですが、天気は良かったものの海風が寒いのなんの。女房も耐えられずもったいないけど2時間ほどで退散。まあ、人出がものすごく大渋滞が起きるほどでしたから。
帰り間際に波打ち際で子供の貝殻拾いにつきあったのですが、これがまた輪をかけて寒いのなんの。九十九里浜は意外に貝殻が少なく、種類も限られています。そして風を遮るものはまったくなし、アメリカからの風が直接体の芯を貫きます。
目の玉まで寒いので下を向いて波打ち際を歩いていたら「キラリ!」と光るものが。飾りボタンかなと思ったのですが、拾い上げると厚みがあり、少し重い。「コインだ!」というわけで、しばし寒さを忘れ宝探しをしましたが・・・見つかるわけないですね。
このような遺物探しは中学校の通学路にあったアパートの脇で、鉄四文銭を大量に見つけた時以来。そういえば自宅の裏庭からも渡来銭2枚を偶然掘り出したことがあります。(いずれもボロボロ)
見つけたのが金貨だったら良かったんですけど、残念ながら銅貨。しかも鉄さび混じりの砂が固着していて容易に除去できません。それでも古代のロマンが溢れるのでラッキーコインにしようと持ち帰りました。(大きさは1セント玉ほど。)
自宅で観察すると・・・馬上の戦士がドラゴン?と戦っているようなデザイン。そして足元には文字らしきものが見えます。(裏は錆でほとんど見えない。)
これは古代ヨーロッパ大陸のコインだな・・・なんて妄想していたら、子供に2012年て書いてあるよと言われてしまいました。たしかに目を凝らすとそう読めます。それに材質は銅と他の金属のサンドイッチ構造・・・というのも、側面が剥がれて中の金属が露呈していたから。どうやらこいつは新しいらしい。私の夢は半日で消えました。
※このコインの正体をご存知の方、教えて下さい。
 
3月21日 【古泉会に行けない!】
休み取得ができ、明日は八厘会+東京交通会館に行けそうだと思いきや、鴨川シーワールドの無料チケットをもらってしまい、そのまま家族に押し切られそうです。交通会館にはずいぶん行っていませんね。
まあ、混んでなければ安上がりなレジャーです。明後日の雑銭の会には行けるかしら・・・。
ところで自宅の掃除機が壊れて早2週間。修理には出しているのですが我が家はルンバだけが頼りになってしまいました。女房はコードレス掃除機が欲しいと常々申しておりますが、なにせ高い。安いやつはまったく吸引力が無い。古銭の場合は即決なんですけど。迷っていたらじゃぱネットたかたの今朝の広告で、下位機種ですけどダイソンが買えた!人気のない色で、しかもたぶん並行輸入品ですけど、女房の鶴の一声で買ってしまいました。掃除好きなら良いんですけどね。ただの家電好きなんです。
ネットを見ていて、高田の笹手永仰頭通細字欠尾永が出ていました。しめしめと、思っていたらさらにとんでもないのが出ていてお祭りになっていました。(画像拝借します!)お化け第2弾ですね。
※ライティングの関係か、ちょっと銅色が違いますね。不思議な色です。
 
3月20日 【回顧録:私と古銭店】
私の記憶が正しければ、私が古銭に夢中になったのは小学校5年生の春休みです。たまたま友人の持っていた天保通寶を「小判だ!」と思い込み、ありったけのミニカー(マッチボックス)と交換してしまったのです。ミニカーは小学校2~3年のときからお小遣いでこつこつ買っていて、当時は150円ぐらいで買えたので100台以上保有していました。それが一日にしてなくなったので、両親は怒るやらあきれるやら・・・。
それから両親が持っていた東京オリンピックの記念硬貨をもらい、宝石箱を改造して専用のケースまでつくって展示して一人悦に入っていました。やがて家にあった金庫の中から古銭がたくさん入った財布を見つけました。その中でも安政一分銀は大のお気に入り。四角い銀貨というだけで興奮しました。
収集を始めた頃は千葉市内のデパートにあったコイン店に通っていましたが、ときはコインブーム。小~中学生の小遣いでは所詮ほとんど相手にならず、アルミ貨や銅貨、錫貨等の年号をぽつぽちそろえるのが精いっぱい。試験で良い成績を取るとコインを買ってもらえたので必死に勉強して優等生でした。今では面影はありませんがこう見えても文武両道の紅顔の美少年だったのです。
日本貨幣カタログの巻末に載っていた千葉市内の
大宝堂を、電車とバスを乗り継いではじめて訪ねたのは、中学1年生ごろだったと思います。ここで激安の穴銭の魅力にはまりました。祖母と一度だけ尋ねた浅草橋コインは本当に所在地がわからなかった。お店は普通の民家の玄関を改造したような雰囲気で、それはそれは強烈なインパクトでした。また、井土ヶ谷にあったドラゴン商会には、京浜急行の急行にのると急行料金を取られると思い、各駅停車の鈍行で行った覚えがあります。
大学生になり、東京住まいになりましたでしたのでコイン店巡りは容易にできるようになりましたが、日々の生活するのが精いっぱいでとにかくお金がなかった。
賞山堂は柳谷ビルの地下にあり、はじめは見つからなくて困りました。神田には大島コイン出口コイン富士コイン神田コインがありましたけど、いまはどうかしら?
渋谷のはずれにあった
万国貨幣洋行さんは乗っていたバスの車窓から見つけて立ち寄っています。駒込にあった古仙堂さんは天保堂のお店を探していた時に初めて立ち寄りました。(天保堂は結局見つかりませんでした。)隆平堂は従妹の住むマンションが西日暮里にあったので発見。御徒町の光古銭もこの頃立ち寄っています。
社会人になる直前にはじめて入札というものをやりました。たしか
陽泉、勝山陽吉さん・・・という個人の方だったと記憶しています。初めてもらった給料では島屋文、続いて幻足寛などを買ったと思います。昔は少年雑誌の裏側によく古銭の通販などが載っていましたっけ。この頃、オープンしたての野崎コインさんにも立ち寄っています。
川崎の
本庄時太郎氏のお店(古泉会館)に行ったのは社会人2年生の時。勤務担当地でしたので偶然の発見でした。それからは古銭以外の趣味が次第に増え、さらに東京から離れて実家に帰って家業を手伝ったので忙しくて10年以上お休み。収集活動の復活のきっかけは開運なんでも鑑定団銀座コインの竹内社長を久々に見たことでした。それからは入札誌、収集などを購読し、オークションに出かけ、交通会館に通い・・・。隆平堂で見つけた雑誌方泉處に触発されて方泉處にも入会し・・・。交通会館に来ていた富山貨幣研究会にはかなり影響を受けました。
入札誌で一番お世話になったのは、
「鈴鹿」でした。大谷氏の「蘭」も面白かったなあ。「埼京」「スズコー」にもずいぶんお世話になりました。
方泉處が閉鎖になったあと、このサイト作りに熱中しました。その頃は収集に行きづまっていた感がありましたから丁度よかった。
その後、元方泉處の
石川さんに出会い、雑銭の会の工藤氏を介して天保仙人さんとも知り合うことができました。現在、ネットオークションにはまり、入札誌では「穴銭」「駿河」「下町」「幣泉」を購読。「銀座」「オークションネット」などにも時折参加しています。私の人生、思えばずいぶん無駄遣いしてきました。高級車の1台ぐらいは楽に買える気がします。
 
3月16日 【今年最初のお化けの発見】
10枚組で1円スタートの天保銭。その中の1枚に目立つ品がありました。(画像拝借失礼します。)当然ながらマニアが群がること群がること・・・。皆さん見逃してくれませんね。
画像の品は福岡離郭濶縁。良く分からないものの鋳ホールと呼ばれる、独特の陥没も輪にありそうな品。締め切り時間が近づくにつれ参戦者が増えて、私はあっという間に置き去りにされました。
この福岡離郭濶縁には俗に九州もの、M氏作と言われる鋳写し贋作があるのですが、この品は銭径も充分大きく古色も問題ないと思います。
結局皆さんが熱中するあまり、ほぼ市場価格まで高騰してしまいました。出品者はさぞ驚かれたことでしょう。数年前、私がある古銭を意地で○○万円まで追いかけたとき、出品者から問い合わせが来たこともあります。「いったい何事が起こったのか?」ってね。
中には判っていて安く出されるケースもあるようですけど、何も知らない方が多いようです。こんなお化けの出現は歓迎です。
 
3月14日 【撰銭令】
鐚銭流通時代、粗悪な銭の流通がさかんになったため、時の権力者はさかんに撰銭に関する御触書を出しています。撰銭令については教科書にも載っていますが、その中に掲載されている銭の名称がどんな実物にあたるかについてはあいまいです。出てくる名称は・・・
精銭 大観 嘉定 永楽 宣徳 うらに文字ある銭 洪武(こうふ銭・ころ・こふ・ほろ) 悪銭 地悪銭 われ銭(われかけ・おほかけ・われ) 日本銭 新銭 さかひ銭 京銭(なんきん) 切れ銭 しかみ銭 文字見えず(すり) やけ銭 ゑみやう なまり銭 かたなし銭 うちひらめ(へいら銭) ・・・ こんなところでしょう。

撰銭令は幕府や領地をもつ武士によって各地で出されていますので、表現などは微妙に違います。精銭は文字通りの精巧な美銭。うらに文字ある銭は南宋番銭でしょうか。洪武銭は「こうふ・ころ・こふ・ほろ」など呼称は様々で、なかには「こうふ銭(なわ切れのこと)」と記載されるように筑前洪武(鐚銭)をあらしているだろうと推定できるものがあり、ひとくちに洪武といってもいろいろ違いがあったようです。
日本銭 地悪銭 新銭 さかひ(堺)銭 京銭(なんきん) とはどうやら地方鐚のことらしく、なかでも堺銭はどうも日原銭と言われる鐚銭らしいのです(→ 穴銭漫遊記)。また、切れ銭(切銭)は薄っぺらなもの・・・縄を切るほど薄いの意味で、前述のなわ切れと同じ意味のようです。
京銭は なんきん(南京) とも称され、中国の南京あたりで私鋳された銭を模したものの意。堺銭のことあるいは島銭かもしれません。
この中でよく分からないのが「しかみ銭」と「ゑみやう」。しかみ銭は慶長11年に対馬守が出したお触書の中に見られる表現で、下総国佐倉より東・・・の記述が見られることから、東北地方産の鐚銭のことだと推定しました。しかみ・・・は、しかめっ面と同じで眉をひそめるような悪銭の意味でしょうか?
「ゑみやう」は本当にわからない。どなたかご存知の方お教えください。

撰銭令はかつて撰銭禁止令として習った記憶があります。この法は撰銭を禁止して経済活動を円滑にしようとするものだとの認識でしたが、それにしては
銭として製作の非常に良い永楽・宣徳がなぜ撰銭の対象になっているのかが今一つわかりませんでした。永楽と宣徳の鐚銭のことかなとも思ったのですが、宣徳の鐚は多くはないから、やはりおかしい。

調べているうちになんとなく当時の社会情勢が見えてきました。
撰銭令は悪銭の交換レートを定めています。これによって悪銭の流通も公に可能になったわけです。
一方、永楽・宣徳などの明銭は力のある大名が輸入しており、流入ルートは限られます。それに対し、地方の大名は質の劣る北宋銭を大量に保有していたはず。そこに他国から良質の明銭が一気に流入して等価交換されたら、自国経済は大混乱になります。すなわち自国の物資は他国に流出し、保有する貨幣価値が下がって国の購買力が低下する一方で、物資がなくなるので経済そのものはインフレになる。しかも、その悪貨さえも他国との取引(物資を補うための輸入)で大量流出して減少するので経済も停滞します。物資流出・国力低下・インフレ経済・貨幣流通量減少・・・これは大変な事態です。
したがって領主は
永楽・宣徳などの交換レートを実効より低目に設定したうえで、旧貨・悪貨の価値を認め、自国の経済を守ろうとしたのではないかと推測できます。貨幣輸入できる領主においても、自国保有の旧貨のを価値を極端に下げず、貨幣流通量を守るという目的もあったと思います。これは戦国時代における経済戦争ですね。なお、この論は一般学説ではなく私の妄想です。正しいか否かは皆様がご判断ください。

※えみやうについて(考察)
辺境の者のことを古来「ゑみし」と言いましたので「ゑみやう」は「ゑみし様」からの転で東北地区の産と推定される鐚銭=しかみ銭ではないでしょうか?どうですか?
【細字長寶狭冠寶の確定】
本日、私のリクエストにお応えいただき、坂本様・坂井様から3月8日の品が細字長寶狭冠寶であるとの認定を頂戴しました。3枚目の発見だそうです。新種ですね。
 
3月12日 【空振り!】
また、仕事で上京する機会があり、終わった後に古銭店巡りを企てました。まずは中野の野崎コイン。このお店は中野ブロードウェイにオープン直後に訪問したことのある思い出のお店。(古いなあ・・・)
そのときは折二様と文政大字を購入した記憶があります。お店に行くと倉庫状態だったお店の反対側がものすごくきれいになっていました。何年か前にリニューアルしていたそうですが、私が訪問する日に限って親父さんが休みの日で、目が行き届かないのでシャッターを閉めていたそうです。こちら側をメインにした方が美しいとは思うのですが、コレクターはぐちゃぐちゃしたところが好きなようで・・・。気になる品はありましたが、予算が合わず今回はパス。専門外なので真贋は分からないものの方郭鏡屋銭の大型のものをはじめて見ました。あれは魅力あったなあ。

中野の次は駒込だ!・・・というわけで古仙堂へ。野崎コインもそうですが、ここも2代目にバトンタッチしようとしている貴重なお店。古銭の目利きは非常に難しく、実のところコイン店で目の利く店主はあまり多くはありません。経験が必要な世界なので親子間で鑑定方法を伝授するのも大変でしょう。ここは親父さんが長崎にお店を出したという話題を聞きに訪問いたら・・・あらら、定休日でした。

それならば、御徒町に光古銭があったなあ・・・と思い出し、再び山手線の旅。ところが・・・
光古銭も数年前になくなって、すでに宝石店になっていました。
(帰ってから調べたら引越ししていたようです。東京都台東区蔵前4-31-10蔵前オラシオンビル1F  03-6240-9321)

かくして本日はタイムアウト。昔は東京にはたくさんコイン店があったのですけ、ずいぶん少なくなったものです。
この世界は難しいので、価値決定はマニアに任せて手数料で稼いだ方が効率良い時代になってきました。あるいは最近はやりのスラブ入りとかいう品で、グレーディングされているようなものに特化して行くか・・・。近代銭はこうなってゆくでしょうね。
 
3月11日 【絵銭の役割】
絵銭・・・何気なく私らはこれらを呼んでいますが、どうしてこれらが生まれたかを考えると様々に分類出来ると思います。まず、銭が先か、絵銭が先かと言えば、間違いなく銭が先でしょう。そもそも絵銭は銭を真似たからです。しかし、銭の文化を輸入しようとした日本の事情においては銭の概念と言うものが定着するのに時間がかかったようで、銭・絵銭があいまいな時期があった可能性もあります。
日本に銭が普及する前の689年には双六禁止令が出されていますが、和同元年は708年ですからそれ以前に双六における駒のようなものは存在したかもしれない・・・谷氏の論の裏付けです。まあ、これについては長くなるので閑話休題。
私なりに絵銭の発生理由をざっと考えましたが、おおむね以下の通りでしょうか。

1.双六などのゲームアイテム(駒)
2.(それから派生して)賭博などの代用貨幣
3.(さらにそれから派生して)子供の玩具
4.信仰の儀式に用いたもの
5.捧げもの(埋葬銭・賽銭・お供え)
6.信仰のお守り
7.参拝・来訪記念品
8.お祝い・記念の品
9.名刺・ブロマイド・宣伝アイテム
10.生活雑貨(釘隠などの家具用金具・文鎮や分銅・鍋敷・根付・飾りもの)
11.戯作・空想・玩賞銭

中間的なものもあると思いますが、玩具系・代用貨幣系・記念物・信仰系・雑貨類などで貨幣を模したのは貨幣が価値あるものと認識されていただからだと思います。なかには石蹴り用や釘隠しなど全くお金とは別物も・・・。貨幣を意識したものもあったでしょうが、たまたま貨幣に似ていただけのものや、途中から方向性が変わってしまったものもあるようです。
また、こんなことを書くと怒られそうですが、貨幣を模していても車輪和同など私には鍋敷にしか見えません。鍋敷なんぞ生活雑貨になんでウン十万も払えるかって・・・思うのですが、人気があるんですよね、これ。
昔は記念で貨幣を個人的に作りました。これについては利光教授が「古貨幣夜話」において語っていますし、戦後でも一時期は古銭家が還暦などの記念に絵銭的なものをさかんに作って関係者に配ったこともありますが、金属加工の技術が進歩した結果、従来の鋳物製造業が衰退してゆく過程で、こういった記念銭は滅多に見ないものになってゆきました。
 
3月10日 【こいつは何者?】
関西のS氏からの投稿。雑銭から出てきたそうです。大きさは38.6㎜、重さは13.4gほど。寶永通寶を思い浮かべれば良いぐらいかしら。絵銭にしては1.5㎜とかなり薄めですし、文字が島銭のようで読めない。
私は「銀興通寶(あるいは振興通寶)」と読みました。バンタン銭のような雰囲気で、マレー語かウィグル語かいずれにしてもアラビア文字のようなものも見えます。円穿なのであまり大量生産の効率は良くなさそうで、しかし製作も実に悪い。焼けてるのかしら。私はお金儲けの縁起文字の入っている絵銭か、賭博銭だと考えました。古そうに見えますけど案外時代は降るかもしれません。素性の分かる方、教えて下さい。
※最近変なものが高額取引されています。本日も小町銭の天保・・・穴をふさいだ悪戯品・・・が4万円以上。こりゃ病気の域を超えています。よほどお金に余裕があられるのか・・・。
 
3月9日 【古事類苑 泉貨の部】
大和文庫さんにずっと出ていて気になっていた文献・・・古事類苑・・・をついに予約してしまいました。本当は唯一未集だったボナンザ1979年7月号(500円)を購入するだけだったはずなのですけど、送料を無料にするため抱き合わせ商品を探していて、ついふらふらと・・・。
古事類苑は明治政府が刊行した百科事典で、その中に貨幣の歴史・鋳造方法やらいろいろ書いてあるらしい・・・ということを聞いていたからです。なにせ和装本で355冊という恐ろしいほどの内容で、この索引検索のための専用本が2010年に出版されたぐらい難解な本なのです。
内容はもちろん明治時代の書・・・文語体ですから、私が読み解けるような相手ではないかもしれません。実際に以前購入した金局公用誌はほぼノックアウト状態ですから・・・。しかし、この本の中には「翁草に記されていた鋳銭の様子」をはじめとする貴重な記録があるとか・・・。完全に読み解けなくとも何かヒントがあるのではないかと考えました。私は古文書ファンでも文献コレクターではないのですけど、ずいぶん思い切りました。送料無料がずいぶん高くついてしまったものです。
更新略歴に突然リンクエラーが発生しました。非常に縦長のページにリンクをたくさんはりつけてあるので、おそらくオーバーフローの類のエラーだろうとにらみ、(見えませんが)内容を分割して設定しなおしました。その結果、リンクは元通り作動するようになりましたが、一部のデータを誤って消してしまいました。バックアップし忘れです。個人でつくっているHPなので細かいことを気にしていませんが、以前表紙や製作日記データを消してしまいあわてたこともあります。そのときはGoogleのキャッシュデータを使って復活を遂げましたが、今回はだめでした。
 
3月8日 【細字長寶狭冠寶の発見?】
坂本氏の文久永宝遊泉記57号によると、大分貨幣研究会の坂井氏から細字長寶の新種を見つけられたとの報告があったそうで、その記事が紹介されています。
右に特徴に関して紹介します。

ところでこの記事を拝見していて、どこか見たことがあるようなかすかな記憶がありました。美星倶楽部記事の原本になったH氏の文久銭です。頂戴した文久銭の中に細字長寶と書かれたものが2枚あり、きれいな方を紹介しようとしたのですが、撮影した結果、私の所蔵品(おそらく普通の長寶)とあまりに書体が異なって見えたため掲載を断念したものです。(現在は再掲載中)
鋳だまりのためか肝心の寶足がやや開いているように見えますし、寶もあまり仰いで見えません。何より私の所蔵品の方がより長寶らしい品でした。長寶は寶貝が下すぼまりになる頭でっかちのイメージがあるのです。そのときはこれはひょっとして細字垂足寶の変化したものかなあ、分類の間違いかもしれないなあ・・・と言う漠然とした認識でした。寶字もそうですが久字の違和感もかなりあり、印象としては全くの別物でした。なにせ文久永寶は微細変化の宝庫なので、そんなに重大に考えていませんでした。

しかし、今回の発表を見て、H氏が提供して下さった品が極めてこれに近似することが改めて確認できました。一方でH氏の提供して下さった品はたしかに狭冠寶見えますが、拡大画像上ではさほどそう見えず、ノミが入ったというより陰起したという雰囲気です。特徴としてはやはり久字の打ち込みが短くすぼまって狭いところや永字の特徴が一致します。直永の狭穿にも似ていますがやはり細字系。
この微細な違いについてきちんと追求し、そして結論を出した坂井氏の研究と眼力には頭が下がります。
私はというと、変なやつだなあ・・・と思いながら、どうせ大したことのないよくある変化だし、細分類の間違かもしれない・・・と、せっかくのH氏からの提供されたお宝を見過ごしておりました。小さな気づきの大切さを感じ入った次第。私はまだまだ修行が足りません。

※文久永宝分類譜を見ていて第一掲示拓のものとほぼ同じに見えてきました。あれれれれ・・・。
画像では寶冠左肩が角ばってますが、ほんの少し丸みを帯びて細くなっています。坂井様、坂本様・・・迷える私に是非ご教授ください。
※寶前足の形状から直永狭穿系からの細字変化のような雰囲気もあります。
  
3月7日 【準未使用の覆輪不知銭】
天保通寶と類似カタログでは、長郭手の直写しが銭文径41㎜以下、再写しは銭文径40㎜以下とあります。しかしながら不知長郭手銭をさんざん見てきましたが、銭文径が40㎜を切るようなものは滅多にありません。
だから珍しいんだと言われればそれまでですが、本座長郭の銭文径がおおよそ41.7㎜前後と大きいので、直写しは41.2㎜~40.8㎜前後のものが多く、40.5㎜以下は覆輪などの強烈な加工をされたものの変形の影響によるものじゃないかと思われかなり少なく、40㎜以下は空前絶後の珍品じゃないかと思います。
実際に私の所有品の不知長郭手のうち銭文径40㎜以下は5品ほどで、極端な縮形の品2品と通寶小字系、長反足寶ぐらいです。(所持する不知銭の数は100枚ぐらいあると思います。)
掲示の入手品ですが、珍しく元の画像より原品の方が美しかったもの。未使用色と輪の角の立った美品です覆輪でわずかに刔輪されて寶足が宏足寶のように広がります。良く見かけるタイプと思っていたら持っていませんでした。ただ、この極印に見覚えがあります。現在調査中。
長径48.8㎜ 短径32.55㎜ 銭文径40.5㎜ 重量21.2g
 
3月6日 【捻れ天保のイメージ】
通常の銭は見切り線(鋳型の合わせ目)を背側に偏らせます。これを一般には片見切り製法と言います。ところが昨日の不知広郭手は見切り線が中央よりさらに面側に偏っています。これは中見切り製法と言うより面背逆製に近い状況です。
さて、この状況で型ずれを起こした場合、やすり工程でどう修正するかが問題です。流通貨幣としては面側のデザインが、ずれるのはできるだけ回避したい。となると、片見切りの場合は薄く飛び出した背側を削ればOK。これは簡単。背のデザインはずれてしまいますすけど面から見れば正常です。しかし、中見切りや面背逆製のような場合はこうはいきません。見た目の違和感ができるだけないようにやすりをかけるとしたら、面側を活かして斜めにやすりをかけるしかありません。一生懸命に修正しても若干面側のデザインが削られますし、小さな段差とかずれが露見してしまいます。もちろん、指先の感触は大いに違和感があるものとなります。本座銭の場合はこのような錯笵銭はまず世に出てきません。不知銭でも少ないと思います。まあ、大胆と言いますか、いい加減と言いますか・・・。

※左側は面側を残すため思いっきり傾斜をつけてやすりがけ。右は角を落とす程度の仕上げになっています。本座だったら絶対廃棄です。

【見寛・目寛の読み方】
新寛永の葛巻銭に見寛・目寛と呼ばれるものがありました。実はこれらの読み方が今一つ定まっていないのです。古い書を見ればいずれも「みかん・めかん」とあり、私はこれで覚えていました。しかし、見寛を「けんかん」と紹介する泉譜がでており、代表的なものが新寛永通寶図会なのです。この件について雑銭の会に尋ねてみましたが、その回答では「現在の主流はけんかん・めかん」のようです。読みの揃えの原則からすると外れていますが、「みかん・めかん」では間違いやすく、「けんかん・もくかん」は言いにくいからではないかとのこと。「みかん・めかん」の方が私は良いと思うのですけど・・・。
まあ、日本語は表音文字ではなく、表意と象形の文字文化ですから、意味が通じれば読みは比較的自由ですから。だいたい、自分の国の名前だって「にほん・にっぽん」と定まっていないぐらいですからね。
 
3月5日 【第1回江戸コインオークション誌上入札】
仕事で福島県郡山市に行ってきました。タクシーから東北コインのお店が見えて、止まってくれ!・・・と叫びたくなりましたが、あいにく同乗者もいて素通り。その悶々とした思いを抱えたまま東京へ。もやもやした気分を吹き飛ばすべく新橋に寄り道。ここには新橋コイン・田宮商会・はるじ堂さんがある都内のパワースポットです。とりあえず田宮商会さんへ・・・。あらら・・・シャッターが半分しまっています。間もなく閉店時間なのかしら・・・とあわてて訪ねると、店員のAさんは「購入した品を細分類するために閉めていた」とのこと。「面白いものありませんか?」と尋ねると天保銭がバラバラと・・・。お!これは何かありそう!と拝見しました。
張足寶系の面白いものがありましたが、ちょっと手が届かない。
すると面白いものがあるよ・・・と奥から出してきたのが・・・まずは南部大字の母銭。極印があり通用銭を改造したようにも見えますがきれいに仕上げられています。はじめてみました。
続いて錫母だ!・・・加賀千代の贋作錫母かな・・・と思いきや、なんと南部の小字!直接触らせてもらいましたが、恐ろしくて恐ろしくて・・・いったいいくらするのでしょうか?錫の崩壊もなく極美品です。
出所まで教えて下さいましたが、すごく有名な収集家らしい。すごいものを見ました。
ついで寛永通寶背盛の濶縁仿鋳銭。しかも安い!本当は絶対買いなのですが、類品を持っていましたのでなぜか気がのらなかった。失敗したかなあ。

ところで天保銭の中に1枚気になるものがありました。その天保銭、実にみすぼらしいし、汚い。久留米正字の焼け銭みたい。久留米だ、久留米!
でも、手にした瞬間にビビッと来てしまいました。ああ、これは違う!メガネを忘れたのでルーペを借りてしまいました。両側面の極印はともに穴ぼこ状で久留米のものではありません。
指への感触は・・・ねじれです。ねじれは面側と背側の砂笵がずれたことによるものです。このような形に仕上がるのは、この天保通寶が中見切り製法(貼り合せ)で作られているからなのです。面白い、面白いです。
と、言うわけで購入してしまいました。こんな崩れた久留米みたいな汚い不知品、我ながら良く購入したものだと思います。
良い子は背盛濶縁を買わなければいけませんね。
ところで店員のAさんがとり出してきたのは1冊の入札誌。田宮商会さんの第一号誌だそうです。残念ながらもう終了してしまっていますが、気になる方はお問い合わせください。毎年、オークションに応札しているような方には配布して下さるみたいです。内容は・・・激安ですよ!
都内のコイン店が減少しているので、ここは古銭・・・特に穴銭類が集まるようになったみたいです。第2回目が楽しみです。

お問い合わせ 03-3574-0010 ウインダム株式会社

〒105-0004 港区新橋2-20-15 
新橋駅前ビル1号地下1階109号

※貼り合せの広郭手を計測すると長径48.4㎜、短径32㎜、銭文径41.4㎜、重量21.6gでした。銭文径は本座より大きいぐらい。面側の型どりが浅く、面背逆の雰囲気です。これも面白い!
 
3月3日 【古寛永番銭はなぜ1~16までなのか】
古寛永のもっとも後期銭とされる称:沓谷銭・鳥越銭・建仁寺銭番銭には背に一~十六までの番号が刻まれた大珍品が存在し、その意味が不明とされていました。ところで前述の谷氏によると埼玉県の
木村智氏は古寛永の浅草銭(称:沓谷銭)の番銭が、嘉祥祝の風習・・・祝賀行事から生まれたのではないかという説を紹介しています。
江戸時代の武家には様々な風習があったことが、そういえば映画にもなった武士の家計簿(磯田道史著)にも書かれていました。
嘉祥祝(嘉定祝・かつういわい・かずういわい・・・本当はかじょういわいと読むべきなのですけど中国式読み?)は嘉祥元年848年、ときの仁命天皇が改元の際に疫病除として神前に16個の菓子等を供えたことに由来する宮中儀式。江戸時代になるとこれが庶民にも広がり、16個の菓子を供えてから食べたり、さすがに菓子16個は大変だったと見えて、1と6を足して7個としたり、
やがて銭16文で好きなものを買って食べると疫病に罹らないとされたようです。(和菓子メーカーのHPでは銭16文で菓子を買って無言で食べると疫病除けになるとありました・・・なんだか恵方巻の儀式みたいですね。)供物としてのお金は南宋番銭の嘉定通寶を用いるのが正式だったようですが、当時は大変希少でした。この嘉定通寶には背元~十四までの数字が記されています。
今ではほとんど知られていないこの嘉祥祝、明治の頃まで続いたそうで、
6月16日は「和菓子の日」になっているほか、「嘉定喰」は私もときどきつくる俳句の古~い季語でもあります。
この行事においては武家は臣下に神前に供えたもの下賜したそうで、幕府はとくに盛大にこの儀式を開催したようです。古寛永の番銭は幕府の祝賀記念銭として開炉したばかりの銭座に用意させたのではないか・・・ということ。インターネットでも調べてみましたが、なかなか説得力あります。
 
3月2日 【余話・泉談:珍宝論争再び・・・】
玄友 谷巧二氏著 寛永通寶銭譜古寛永の部(上下巻)の付録にそれぞれ余話・泉談という小冊子がついています。泉譜の枠に納まりきれなかった話題、寛永通寶以外の話題などが掲載されていますが・・・
谷氏は富本銭は厭勝銭であるという立場でして、その論拠は我が国最初の銅銭であるのならもっと確たる文献が残されているはずだ・・・という疑問が出発点。富本は双六の賭け銭ではないかとされています。この双六、689年には禁止令がだされるほど大流行したようでして、そのゲームの中の仮想通貨・・・今風に言うとビットコイン・・・というわけです。
まあ、銭という概念がほとんどなかった時代の類推に、公式通貨だ!仮想通貨じゃないの!と論を戦わせたところで真相は出てきません。少なくとも「富本銭はもっとも古くかつ由緒ある銭らしきものであること」は間違いないわけでして・・・「公式通貨であるか否かの問題は」学者さん達にお任せします。ただ、私的には富本は銭であってほしいと思います。
公式通貨より先に仮想通貨が流行するというのも変ですからね。それに富本はまぎれもなく後の通貨の鋳造と同じ方法でつくられています。したがって系譜は同じと見ます。そこは間違いないでしょう。
ネットの世界では仮想通貨(ビットコイン)とやらが、ハッキングされて何百億も消えてしまったようですが、現世の私の預金通帳額もどんどん消え続けています。それでも古銭と言う形が残っているからなんとかなるかしら。

なお、古い泉家である谷氏は「厭勝:ようしょう」と読まれていますが、これは江戸時代に誤記誤伝されたものであり、「厭勝:えんしょう」と読むのが本来は正しい。私がこのことを書いたからというわけではないのでしょうが最近はパソコンでも「えんしょう」の読みのほうが強くヒットします。ただし、数百年にわたり間違えられて伝わったものはときとして正しくなることもあります。(良い例が「新しい:あたらしい」ですが、本当は「新しい:あらたしい」なのです。)

一方で谷氏も和同開珎を「わどうかいほう」と読んでいるところが嬉しかった。
珎の読み方は「たから」と読まれていた!?との見解。これは珎が寶の省字であるということが前提ですので、珍の異体字説を完全に駆逐できるものではないと思いますが・・・珎の文字は中国にはもともとないので、寶(たから)の省字として珎が生まれるのは成り行きとして自然でも、突然に珍の異体字が発生して公式通貨の名称に採用されるのは、常識的には考えられない。それに文字は必ず美しい意味を成すはずですから・・・「たから」であっても「珍」であるはずがないでしょう・・・というのは私の論。
2012年の10月5/6日10月18日の制作日記にも書きましたが、かの中谷顧山も珍と珎を区別されていますので、昭和の後半までそうであったようにそろそろ「わどうかいほう」に戻してもよろしいのではないかしら?・・・ねえ、だめ?

※和同開珎は江戸時代は「わどうかいちん」の読みが有力だったようです。それに敢然と異を唱えたのが江戸末期の考証学者の狩谷棭斎だったと思います。そして明治時代の成島柳北が強烈に支持し、「わどうかいほう」がついに逆転します。私の子供時代の教科書には「わどうかいほう」と書いてありました。
ところが、昭和の古銭ブームに乗って再び珍寶論争が盛んになり、「わどうかいちん」が再び逆転して現在に至っています。
しかしながら、根強い「わどうかいほう」支持者によって近年はじわじわ勢力が戻され、富本銭の発見により力は拮抗しつつあり、最近では「わどうかいちん(ほう)」と併記されることも多くなってきました。なお私はたびたびこの論争についてあれこれ書いていますが、私自身は和同開珎の1枚すら保有したことのない素人でございます。あしからず。
 
2月26日 【要注意報:変なものを見つけた!】
ネットオークションで変な母銭を見つけました。側面の鑢や郭の整形に違和感を覚えます。実はこの母銭の制作、見たことがあります。
確証は持てませんが2011年11月13日の記事にある品と同規格のような気がします。もしかすると同じ作者ではないでしょうか?
こちらは水戸藩の接郭がベースであり、郭の内側を削って細郭にするのも前作品と同じです。確定的なことは言えないものの、高額入札をする前に一呼吸おいてください。

※以前も書いたことがありますが、最近、二水永で黒色で同じような雰囲気のものを良く見かけます。これも要注意です。
 
2月24日 【細郭手削字陰起文】
ネットでは覆輪刔輪削字点小点通という名称の出品でした。(画像借用お許しください。)終了間際に逆転されてしまいましたがしかたありませんね。削字もあるのでしょうが湯圧不足による鋳出不良によるものも大きいと考えられ、文字全体が不明瞭な縮小銭です。このことは面輪左下の鋳不足が物語っています。
出品者の計測では長径48.1㎜、短径3.1㎜、銭文径40.6㎜、重量23.82gだそうで、銭文径は1回写しながら重量がずしっとしています。
文字の周囲には彫り込んだ溝状の凹みが画像でもわずかに観察できました。銅色は全く本座と同じですね。
背側のも特徴がもう一つでもあれば突っ込んでいったかもしれませんが、不知品はやはりおもしろいです。今年は収穫がほとんどなし・・・まあ、これもありでしょ。
 
2月21日 【ネット観察記】
最近は私より熱心なネットのウォッチャーがだいぶ増えまして、ずいぶん競争が厳しくなりました。
画像右上は絵銭に混じって出ていた薩摩の白銅銭。真贋は判りませんが悪くない感じ。白すぎると思う方も多いと思いますが、地の色などは自然かなあ。これについては未だ絶対新正品と言うものが分からない。銀鍍金、薬品染色までたくさんつかんでますから。 夢を追っかけ4万円近くまで走った方・・・病気です。
一方、右下段は仰寶の大様銭。29.2㎜。こちらは2万円台後半。私も追いかけましたが同じサイズを保有しているため自重してしまいました。でも、この大きさと白銅質、立派な仕上げは買いですね。
橋野銭座とか聞いたことがあるような気がしますが・・・。これは正統派。本来はこんなものを追わなければいけません。
最期の一品は、最近の邪道コレクターがやっきになって追い求めるような錯笵銭。たんなる湯道の落下痕跡ですがくっきり落ちていたから気になっていましたが・・・1万円超過は私をもってしても常軌を逸し、病気をも超えている。趣味ですからいくらにするのかはその人次第ですけど・・・大丈夫ですか?そうですか。
本当は先週末に軽井沢に行く予定でしたが、宿泊先がとれず、おかげで命拾いしました。今夜から改めて軽井沢行。復旧したかしら?
※軽井沢はやはり大変だったようです。私らは宿泊施設からほとんど動かなかったので快適でしたけど。長野県にしては珍しく大雪になれていない地域(雪が少ない乾燥した地)なので屋根などはほとんど手付かずみたいです。年間で除雪するような雪は2~3回ぐらいで、それも20㎝程度が普通みたい。(それでも関東の私らには大騒ぎですけど・・・。)歩道も除雪が終わってない所があり、行き止まりがあって困りました。(新雪が1mぐらい積もってますので単独ではとてもラッセルして歩けません。)
 
2月19日 【未見品交歓:安政小字細縁銭】
撰銭マニアの四国のK氏からのご報告です。(ありがとうございます。)安政小字の真鍮質のもののようなのですが、内径が大きい。面内径21㎜で外径は28.1㎜だそうです。普通品との比較画像も頂戴しましたが、明らかに内径が大きい。背の彫りも深く雰囲気も異なるように見えます。(かといって母銭のつくりではない。)穿内は滑らかですが角にきっちりやすり仕上げもあり、外輪も安政期特有の仕上げなのでしょう。
一見、一直波風に見えますが、どうも背の削輪はないようです。安政期の當四文銭は非常に地味な銭種ながら、微細な変化があるようでして、まだ謎に包まれた部分が多いようです。俯永だとか、正字、大字なども存在するようですが、いずれも希少銭。
読者の方で、この手の不思議銭をお持ちの方、ぜひご連絡ください。
余談ながら穴銭入門の第2版の安政小字の解説に「なお、本通用銭には背濶縁になった者が存在するが、濶縁の程度もさまざまで、母銭からのものというより、鋳造工程にその要因があったものと考えられる。」という記述がありますが、改訂第3版ではこの一文は削除されています。一方で、たしかに安政小字の背は浅く不鮮明なものが多く見られ、砥ぎの工程による影響も多分に見られることも否定はできません。だからこそ面白く、だからこそ判りづらく人気がない一因なのかもしれません。
 
2月16日 【ダボハゼ注意報!】
釣りの世界で、何でも食いつく魚のことを「ダボハゼ」というそうで、ネット古銭の世界でもダボハゼの入れ食いが目立つようで・・・。良く作られていますが掲示の品は正規の品ではまずありえない錯笵。おおかた背の部分を切り継ぎして面背貼り合せで鋳造したもの。かなりの肉厚銭でした。それなりに良い雰囲気を出していますが所詮作銭です。問題なのはその作銭に食らいつくダボハゼさんがたくさんいらっしゃるということ。先日のなんちゃって大濶縁もそうですけど、この駄銭が5万円超えはにわかに信じがたい。病気を超えて収集家として死んでしまいますよ。まあ、同じような銅片に大枚をはたいている身としてもちょっと心配な現象です。同類相憐れむ?
 
2月15日 【美しき長反足寶・花巻絵銭】
関西のS氏からのご投稿。なんと地方のリサイクルショップで450円で購入したというから驚きです。流通銭のような雰囲気で、しかも鋳ざらいのような痕跡がしっかりあります。寶貝底の瑕もお約束通りの見事な品です。
(長径48.98㎜ 短径33.1㎜ 銭文径38.8㎜ 重量20.5g)

関東はまたも大雪。鋳ざらいならぬ雪ざらい生活。推定で昨日も20センチ以上積もりましたが、幸い現在は大雨で、雪かきが少し楽になりそうです。(雨ならじゃんじゃん降ってくれ!)
古銭の趣味の方も大雨でして、全くこれと言った収穫がないのですが、まあ、お金もかからないし、人の幸せを喜ぶのも良いかと・・・。吾唯足知・・・。人褌取相撲。嗚呼・・・。

おまけに頂いた絵銭の画像を一つ載せちゃいます。これも結構珍しいと思いますよ。
花巻福恵比寿無背・・・花巻絵銭は明治期以降の福銭に近い絵銭だと思いますが結構人気があります。
白銅質で近代的な香りもしますが、ものすごくきめ細かい鋳造品?みたいです。芸術的ですね。
白銅質で昭和絵銭図譜の前編に田中桂寶氏の拓本で同じものが掲載されています。背に福の文字が入っているものがあるのですが、無背もつくられたようです。

古銭の白いのは好きですけど、空から降ってくる白い悪魔はもう大嫌いになりそうです。体はきついし、仕事上も支障が出ていますし。
昨年の10月に四国のKさんがご投稿下さった幻足寛の大型銭です。駿河に出ていて思わず落としてしまいました。寛上から寶にかけて鋳バリ状の突起が飛び出していて、4.6gもあります。砂笵に母銭が深く押し付けられて、見切り線位置が銭の厚みの中央近くになってしまった結果、鋳バリが厚くて削りきれず、粗仕上げ不良になってしまった・・・湯道部分も欠け落ちているので普通なら「形打ち」ではねられてサヨナラなのでしょうけど、「大きいから流通する」とそのまま世に出してしまったのでは・・・?銭径は鋳バリのある寛永間で26㎜、寛通-永寶間で計測した結果でも25㎜ほどの大型銭でしたが、画像比較の結果、内径は母銭ではなく通用銭サイズでした。欠けが無ければ絶対的な名品なんですけど・・・サンプルとしては非常に面白い。B級グランプリでしょう。
 
2月14日 【続報!折二様の大きさ】
七雄泉氏からの続報です。掲示の折二様の内径は19.4㎜で一般品よりワンサイズ大きい・・・これは七雄泉氏手持ちの折二様との比較でもあるので間違いないそうです。氏いわく、この品は字抜け、鋳不足の欠陥があるため最終的な母銭仕上げまで至らなかったものではないかとのこと・・・。つまりなりそこないですね。外径が飛びぬけて大きい点からも特別なものであることは間違いなさそうですし、それの内径が大きいというのはやはり説得力があります。折二様はまだ私の知らないものがいろいろありそうです。
ところで・・・
貨幣クローズアップ寛永通寶に折二様の母銭と通様式が掲載されています。
母銭とされるものは確かに大きい・・・でも画像比較上では通用式と内径がぴったり同じに見える。背郭は整っていますが仕上げも母銭としてはいまいちかなあ。あくまでも画像でしか比較はできないのですけど・・・やっぱり良くわからないですね。
完璧に仕上げられた母銭の画像をお持ちの方、お見せ下さい。そして特別展示室の私のあの品は何者なのでしょうか?母銭と見るべきなのか、通用銭の特別に綺麗なものなのか?
 
2月11日 【ペギラの逆襲!】
異常気象です。千葉県でここだけ雪みたいです。それももう10センチは積もってまだ進行中。NHKも民放も報道していませんが・・・しかも乾いた雪です。
パウダースノー!ホワイトアウト!ペギラが、ガンダーとウーとギガスを連れて来ました。
少なくともこんな天気は記憶にないです。
温暖な地区という評判の千葉県ですが、ここは昨年末に出かけた軽井沢より雪深くなっています。雪かきした雪の置き場に困ってしまいます・・・体力的に厳しいです。

七雄泉氏から頂戴した画像です。27.32㎜もある折二様で、母銭ではないかとのこと。(ありがとうございます。)
実は折二様はまだ私も理解しきれていない種類でして、とにかくいろいろな雰囲気のものがありそうだということ。
いずみ会譜によると「母は黄褐色」とあり、「前者(母)の穿内が
テーパーのかかった型抜けを考えたものであるのに対して、後者(通用)の穿には、銭面に対して直角のやすりがけが・・・」とある。図会にも「穿内に抜け勾配を取った製作佳良なものが見られる」とあります。この言葉が私には引っかかるのです。
実は私も製作の飛びぬけて良い大型の折二様を一枚所持しています。特別展示室のその12にも掲載していますが、見た目も製作も抜群ながら、穿内仕上げが(丁寧ですけど)直角やすりなのです。掲示の品の穿内仕上げは粗い感じ。
この写真の品の内径はわかりませんが、現段階ではこれを母銭と言う根拠が希薄・・・というか母銭としちゃいけない気がするのです。(だれか母銭で間違いないというものを見せて下さい!。)
母銭たるもの、もうちょっと文字抜けがビシッとして、背郭もきれいでなくちゃ・・・。しかし、27.32㎜の大きさは実に堂々たるもの。金質も確かに変わっている気がします。(この金質はまるで称:文久様のイメージです。)
実は平成16年の江戸コインオークションに同じようなタイプの大型折二様が出ています。(→ 奇品館No.27参照)
内郭にテーパーがあったような気がしますが強い競りが起こり15万円まで行ってしまいました。画像で見る限り、七雄泉氏のものの方が大きそうですが、こいつの評価は如何に?内径が分かったら知りたいですね。。(内径19,2㎜前後が通用銭のサイズだと思います。)

折二様の銅質は純白に近いものから紫褐色や赤みのある黄褐色まであり、内径も大きさも様々あるようです。飛びぬけて大きいもの黄褐色系に多いような気がしますが、私はまだそれほど実物を見たわけではないので自信がありません。
折二様小様はその昔、銀座コインオークションに出たものを運よく落とせましたが、これとて泉譜に書いてある銅色「黄褐色」ではなく、灰白色系です。その後、この小様の内径がちょっと小さいことに気づき今日に至っています。

本日はもう一通メールが届いておりました。現在、東北で修習生として頑張っておられるK君から。実はこの不知細郭手、私が刔輪削字(崩書)と名付けているものとほぼ同製作です。
鋳肌もごりごり削られているようで誠に素朴。
K君の望みは私の品と並べて所有したいとのこと。
国家試験の難関も突破したようでお目出度いので、私の品をプレゼントしよう・・・などと言えるほど私はまだ器が大きくありません。
ただ、お譲りするときは真っ先にK君を指名させていただきたく思います。

この不知銭はなんとなく草点保や短尾通などに似ていて、異書とか奇書と言っても良いぐらいですね。


 
2月8日 【ペギラが来た!】
天気予報では雨のはずでしたが吹雪になりました。千葉県で生まれて初めて見る地吹雪でした。ペギラが来ました。私の住んでいる地区は比較的雪が積もりやすい地域なので、積雪は30センチほどあります。これは生まれて初めてのレベルです。本当は困っていますが、ここまでくるとお目出度いです。明日は雪かき必至です。今日もやりましたが焼け石に水でした。

本日は絵銭の部門を直しました。雑銭の会で調達した念仏寛永やら草喰駒なども追加してあります。

※キュリオマガジン社からもう一冊届きました。1月24日の記事を読んで下さったようです。ありがとうございます!
 
2月6日 【なんちゃって遒勁・勇文・奇天】
鉄人からのご投稿です。(ありがとうございます。)見るからに新作銭100%ですけど、水戸遒勁の文字の端を意図的に伸ばしていて、勇文や奇天の気分も味わえるという、1枚で3度おいしいおもちゃです。最近、このような作銭に対して大枚を払う病気の馬鹿野郎が増えてしまったようですが、良い子はけっして熱狂してはいけません。どうみても近代銭ですから。
銭座職人によってつくられた加賀千代・ラムスデンクラスの有名品(鬼字・大錯笵)でさえ10万が限界でしょう。(私は買いませんけど・・・)
掲示の品は不知天保通寶分類譜別巻120Pにある水戸遒勁母銭仕立銭と輪の癖がほぼ同じですね。写真より出来が良いのかもしれません。
インフルエンザは治ったはずなんですけど・・・ずっと体調が悪く、咳が止まらない。マイコプラズマ肺炎かしら?古銭病?
 
2月5日 【良恕か良如か?】
古寛永岡山銭に良恕と称する有名銭があります。古銭界では読み方がバラバラに定着してしまっている一例で、この書き方では正しくは「りょうじょ」なのですけどなぜか「りょうにょ」と読む方の方が多いようです。良恕は江戸前期の実在の人で、後陽成天皇の弟君。寛永16年には天台宗の座主にまで務めた法親王で書家としても有名な人物。
ところが、明治新撰譜を見ると「良恕」は「良如」と記されていることに気づきました。良如なら読みは「りょうにょ」で間違いありません。
良如と言うと歴史上では良如上人のことをさし、江戸初期の浄土真宗の僧侶にして西本願寺の13世宗主のことです。良恕と書いて「りょうにょ」の読みが定着しているのは、取り違えがどこかにあった可能性があります。天台宗と浄土真宗・・・なにやら宗教戦争のような・・・。
この件について増尾富房氏は平成9年の銭貨情報の中でふれていて、いつから良如から良恕に変わったのか、どちらが正しいのか分からないとも・・・。東洋貨幣協会の記事を見ていると大正期から昭和初期にはすでに良恕と記されています。
「良恕(りょうじょ)法親王」も「良如(りょうにょ)上人」も江戸初期の方で活躍期も重なっていますが、良恕法親王のほうが年上で1574~1643年の間の人。一方、良如上人は1613~1662年の人です。
古寛永の良恕銭が1637年(寛永14年)に鋳造されたとして、良恕法親王は63歳前後のとき。一方、良如上人は24歳前後・・・良如上人が若すぎるような気がしますが、この方は若干17歳にして(1630年)浄土真宗の宗主になった人物で1638年には大僧正に任じられていますので、品格は充分なのです。したがっていずれも甲乙つけがたい人物。
銭文筆者についてはあくまでも伝聞でしょうから、実在の人物が書いたということではなく、「誰彼の書体に似ている」レベルの噂話にすぎないのかもしれません。それにしても謎です。どちらなんでしょうか?
 
2月2日 【文久永宝分類抄】
H氏から頂戴した文献資料の中に月刊銭貨に掲載されていた文久永宝分類抄という泉譜があります。著者は会瀬浜太郎氏で、昭和54年(1979年)9月から昭和56年(1981年)1月までの間15回の連載がありました。
文久永寶という古銭は本当に地味な穴銭でして、見栄えがパッとしない癖に微細変化は御蔵銭なみにあります。細分類しようものならたちまち目隠しされて迷宮の奥底のさらに奈落の闇に突き落とされるような覚悟がいるでしょう。
もっかのところ最高の文献と言えるのが小林茂之氏著作の「文久永宝分類譜」だと思えるのですが、現代では入手の難しい希少本だと思います。会瀬浜太郎氏の文久永宝分類抄はこの銭貨の中にのみ見られる連載記事で、製本出版されたというお話を聞いたことはありませんが、かなりの力作です。
文久永寶は文献そのものが数少ないので、コレクターもなかなか育ちません。かくいう私も現在は疲れて休筆中・・・文久永寶の分類はなかなか難しいですね。九州の唐松堂氏のようにコツコツやられている神様のような方には全く頭が上がりません。

※インフルエンザからようやく復帰。仕事が山積みです。ただし、体力がかなりそがれてしまっていまして、集中力が今一つです。
 
2月1日 【臼踏みの謎】
鋳銭図会などに出てくる作業工程の中に、仕上げ完了前の砥ぎが終わった銭を臼に入れて、3人がかりで踏んでいる絵があります。この作業の意味については、資料を探したのですがはっきり判りませんでした。天保仙人様に以前お伺いした時は、酸(梅酢)を使って表面をピカピカにしているのではないかとのことでした。
(天保銭の場合は臼踏の工程はありません。洗浄工程としては豆からとったでんぷんとともに煮洗いして、こびりついた鋳砂をからめとったとされています。これは寛永銭の製造工程にはありません。)
ところで、復刻版貨幣を眺めていて、大正13年に、長崎の津田氏の発表で「長字寛永銭の研究資料」が掲載されており、鋳銭工程も簡単に記されてました。原本は長崎図書館に残されていた「長崎鋳銭一件」という記録が中心になっているようです。
これによると・・・(前文略)・・・圓め臺の上にて磨き上げ、水にひたし、搗臼に入れもみ、
入れ交ぜ臼踏み致し・・・(後文略)・・・となっています。
「酸」ではなく「糖」を入れる?そんなことしたらべたべたになってしまうのではないか?・・・とさらに???よく読むと床焼工程にも「鯨油と
粉糖」を入れるとあります。
ところが、作業に使った諸品の中に、「糖・粉糖」の文字は見当たらず、代わりに
「摺糠・粉糠」なる言葉が出てきます。
これで「糖:とう」は「糠:ぬか」の誤植であろうことが理解できました。
少し前の時代のことをご存知の方は、糠(糠袋)が廊下の艶出しやせっけんの代用に使われるように、磨き、洗浄、艶出しの効果があることもお判りになると思います。床焼きに使ったのは、鋳砂除去を行えた可能性とともに、糠には油脂分が多いので鯨油とも相性が良かったのでしょう。
なお、この資料の中には、同じく謎だった形打ち工程の解説もありました。
形打ち・・・形打にかけ、ひづみを直し、三百文宛竹串にさし、本磨に相渡す・・・
図では男がひとり串に刺した銭を検分しています。この図で見る限り「ひづみを直し」は物理学的に叩いて変形したものをまっすぐにするのではなく、規格外をはね、やすり仕上げの不良品を差し戻す意味ではないかと思われます。
もっとも語源的には、形を打ち直す意味の方が自然ですから、あるいは作業図が省略されているのかもしれません。果たして床焼きの工程で銭に反りなどが出たのか・・・それがわかりません。

※現代で「カタウチ」と言うと、製陶や金属加工で「型打」といって、型で材料を整形して大量生産する技術を言うようです。
 
1月31日 【大改修中】
目立ちませんが、ここ数日の療養をいいことにHPの大改修をしています。昨日あたりから取組み、コツがわかると一気に進むようになりました。
最も困難を極める制作日記も残す所2007年だけになりました。まだ泉譜部分はほとんど手を付けていませんが、泉譜の場合はデザインも考える必要が出ますので、もう少し時間が欲しいですね。
今起きている障害は文字が重なって読めなくなったり、写真の上や裏側に文字が回ってしまったり、レイアウト枠が崩れたりしています。いずれもインターネットエクスプローラー10が従来より文字を大きく表示する機能を持ったために新たに生じた障害です。
私のHPは画面の絶対座標位置の指定で文字を配置していたのですが、それが文字が拡大表示されることで、文字重なり障害の餌食になりました。文字表示を小さくする手段で障害は回避できるのですが、その設定作業は閲覧者が個々に行う必要がありますし、読みづらくなります。
読者側から設定を変えることなく障害をなくすには、画面上に見えない伸縮自在の網を配置して、画面や文字大きさの変化に合わせて全体を上下伸縮させるようにしてから、再度文字等を配置しなおさなければなりません。
この方式ならば携帯電話仕様にもすることは可能なんですけど、私のHPは画像を含む情報の多さが売りなので画面の横幅までを可変にすることはかえって見づらくなると判断し、縦方向の長さのみ変化させています。(横幅は固定。)
この改修は手間と時間はかかりますがお金がかからないので、趣味としてはけっこう良いことです。ただし、作業そのものはとても地味でつまらないですね。
※17:00過ぎについに2007年も完了しました。これで色々なブラウザでも文字が崩れずに読めるはずです。
,【なんちゃって仙台大濶縁】
誰が見たって一目瞭然のおもちゃ的な参考品ながら・・・とても愛嬌のある品。鋳肌、やすり目、極印とも全部だめ。
通常の天保銭を大きく覆輪すると、ダンゴ虫のような丸い銭形になってとても一般通用させる代物にはならない・・・という好例です。それにしてもここまで一生懸命作っているのはかえって愛らしく感じます。
あまり書くと欲しくなってしまいそうなので・・・。

ここに書いてしまったので高騰してしまいました。関係者の方、ごめんなさい。不知天保通寶分類譜 別巻P72に新作後鋳銭として類品が載っています。寶後足が切れるのも同じ癖ですね。
 
1月30日 【泉貨鑑】
泉貨鑑という名でインターネットに出ていました。初版は寛政7年(1795年)らしいのですが、それから版を重ね文政10年(1827年)の増刷本らしい。原本の正式名称はおそらく「(和漢)古今泉貨鑑」で、桜田彩雲堂こと朽木昌綱公(1750~1802年)の著作だと思われます。(表紙のタイトルは後世書き加えられたもの。)
あとがきに朽木公の著作についての解説がずらっと載って面白い。版元には浮世絵出版で有名な蔦重こと蔦屋重三郎の名前が見えます。勉強したことがないので上手く読み下せないのですが・・・

古今泉貨鑑・・・古銭の出処年歴などを、古書等から改正し、大小や銅質など多角的に考察、あらゆる種類を網羅して見やすく配置、古銭鑑定にはうってつけ!(全15冊:彩雲堂撰)

新撰泉譜・・・和漢の歴史に基づき、古銭の出処年歴を正し、重さや大小銅質などを詳しく記した、古銭家の座右の書。(全3冊:彩雲堂撰)

泉貨分量考・・・古銭の分量を現在の日本にある計測法に照らし合わせ、現代と価値尺度を同じにして考察する。(貨幣学のことかしら?それと