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2017年1月~12月31日分まで
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文久様正字手方泉處原品
 
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譲ってください♡! 

天保銭 1977年~ 編集・発行 天保通寶研究会(天保堂:瓜生有伸)
11号、31~35号、60号以降
状態不問(記事が読めればOK) 1冊800円以上で購入します!

月刊 収集 書信館出版(株)
1979年 10月
1981年  8月
状態不問(記事が読めればOK) 1冊600円以上で購入します!

   
以下は収集誌に掲載されている記事からの転載(勝手な応援記事)です。
例会日や会場に変更がある場合もございますので事前にご確認ください!

八厘会(天保仙人が主催する古銭会)
天保通寶の研究を中心に、各種泉談が満載の会です。
例会日:原則として8月・12月を除く毎月第4土曜日
時間 :14:00~
会場 :新橋駅前ビル1号館9F会議室
会費 :500円(高校生以下無料)
電話 :090-4173-7728(事務局)
 
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WWW を検索 このサイトを検索
※このHPにはプログラムが組みこんであります。害のないものですがブラウザやセキュリティソフトによってはエラーが現れるかもしれません。不具合が頻発するようでしたら、ご連絡ください。
1.最新の情報が表示がされるように過去に蓄積したキャッシュデータを読み込まないようにプログラムしてあります。(制作日記・更新履歴)
その分、読み込み反応速度が遅くなりますが、ご容赦ください。
2.来訪者分析ツールを各ページに組み込んであります。いつ誰がどこから来て、通算で何回目の来訪か等の記録がされて行きます。
(NINJA ANALYZEの表示があります。)

一般銀行からゆうちょ銀行に振り込む方法

例えば (記号)12345 (番号)1235678 という番号だったら・・・・

①(記号)の先頭の数字に着目 1 または 0 のはずです。  → (記号)2345
②1なら●●8 0なら●●9 が支店番号になります。 → ●●
③(記号)の上から2桁・3桁目に着目 例の場合は → (記号)12345
④上の数字を●●に入れます。 → 238 これが支店名です。(にいさんはち)
⑤口座番号の末尾の数字を無視します。 → 1234567 これが口座番号。
⑥機械で振り込む場合、支店名の数字をひらがなに直す。たとえば018支店はゼロイチハチと読みます。
  パソコン検索もできます。
 
貨幣そうだ!「貨幣」を読もう!
貨幣誌は戦前の東洋貨幣協会時代から続く、現存する最も古く、かつ権威ある貨幣収集愛好家団体です。貨幣収集趣味が衰退している昨今、生で勉強できる貴重な研究会場であるとともに、情報収集することもできる交流の場でもあると思います。かくいう私、会費は払ったものの、例会には参加したこともなく、果たして正式会員であるかどうかも分からない幽霊です。まあ、今でもこの情報誌が送られてくるから会員なんでしょうね。
日本の貨幣収集界が底辺を広げてもっと盛り上がってもらいたいので、その気のある方、私のように地方在住で仕事の関係で参加できない方も、情報収集アイテムとしてご参加・ご活用ください。
入会申し込み先
〒164-0001 東京都中野区中野5-52-15 2F251
日本貨幣協会事務局 野崎茂雄(野崎コイン) ☎03-3389-5958
郵便振替00110-0-8563 日本貨幣協会 

※年会費は5000円だったと思います。この記事は勝手な応援広告なので必ずお問い合わせください。
 
 
 
 
→ 毛利家手本錢ギャラリー(四国O氏提供)
四国のOさんから情報とともに手本錢の画像を沢山頂戴しました。コーナー掲示する前にひとまず制作日記に掲載します。ご協力ありがとうございました。※グリーンの解説文はO氏のメールを内容を生かし編集したものです。
1.2は他の銭座にも見られる鋳浚い銭で例のロット品からの拾い出しですが、この様な物でも(母銭として)使われてない手本銭と言うのか分かりませんが、他の銭座分は鋳浚い母銭とされていると思います。なお、長門銭では面の銭文が鋳浚いされた物は見た事がありません。削字された物でもその前の段階で鋳浚いされた物ばかりです。
※例のロット品とは小川青寶僂師の旧蔵品が関西方面の某氏に大量売却されたもの。その数は1000枚以上・・・そのうち700枚をO氏は購入されたようです。この話を聞く限り、O氏は日本でもっとも手本銭を観察された第一人者であると思います。(O氏が購入したときは異永類や異放し銭が売れてしまった後のものだったそうです。)
1.谷譜 奇永尖足寛
外径25.20㎜ 内径20.00㎜
2.谷譜 勁文本体系(小異)
外径25.40㎜ 内径19.95㎜


※鋳ざらい痕跡が放射状にも見えます。その他にも旋回上の痕跡もあるように見えます。非常に面白いサンプルで参考になりますね。
3~6は谷氏の「長門国鋳銭 永楽通寶と寛永通寶」「寛永通寳銭譜 古寛永之部上巻」ともに不載品です。
(勁文濶縁背広郭母銭は書体が似ていますが、銭径が大きいだけです。)古寛永泉志や平成古寛永銭譜、収集連載の「穴銭入門 寛永通宝・古寛永の部」などでも不載と思いますが久泉研究資料⑤のNo.240と同じ物と思います。ロット品から4枚出て来ましたが、初鋳品と次鋳品と思われる物が各2枚づつでした。銅質、面背の仕上げ状態、側面や内孔の四隅まで丁寧にヤスリ掛けも全て同じですので通用銭に持っていくのには無理があります。
勁文濶縁は「穴銭入門 寛永通宝・古寛永の部」に登載されていますが、同じ書体の通用銭が各銭譜に登載されています。「寛永通寳銭譜 古寛永之部上巻」では勁文濶縁背広郭子銭として、平成古寛永銭譜ではNo.1107で勁文濶縁として(但し、手本銭となっていますが原品は通用銭です。)久泉研究資料⑤ではNo.238の勁文背濶縁・広郭の小様銭としてです。この手の手本銭や母銭と言われる物は見た事がありません。濶縁との違いは寛目の二引が進む事と削頭尓が主なポイントですが永字や寳字の王画上部に微差があります。 
3.不載 勁文濶縁
外径25.20㎜ 内径19.70㎜
4.不載 勁文濶縁
外径25.20㎜ 内径19.50㎜
5.不載 勁文濶縁(次鋳)
外径24.70㎜ 内径19.20㎜
6.不載 勁文濶縁(次鋳)
外径24.70㎜ 内径19.20㎜
7は手本銭中から出て来た通用銭と思われる物です。内孔の仕上げなどは一般的な通用銭と変わりません。
7.谷譜 麗書浮冠長寶(通用式)
※一般的には書麗長足寶
外径24.85㎜ 内径19.40㎜
8と9は手本銭とバリ島からの里帰りの通用銭で、平成古寛永銭譜の原品で寛仙堂氏の蔵品です。寳足先端の鋳溜り形状は若干違いますが、他の共通点が大変多く親子の銭だと思います。子銭の方にポイントを図示して置きます。 
8.麗書長足寶寶連輪
外径25.25㎜ 内径19.90㎜
平成古寛永銭譜No.1049原品
9.麗書長足寶寶連輪磨輪
外径24.50㎜ 内径19.50㎜
平成古寛永銭譜No.1050原品
麗書長足寶寶連輪の特徴
 
長郭手覆輪
長径49.2㎜ 短径32.4㎜ 銭文径40.9㎜ 重量22.1g
長郭手刔輪背細縁上反郭
長径48.9㎜ 短径32.3㎜ 銭文径41.1㎜ 重量20.5g
12月31日 【最後の入手品】
今年もHP読者の皆様には大変お世話になりました。さて、本年最後の記事も不知天保銭となります。
はじめは模範的な覆輪銭。不知銭マニアの第一歩といって良い品です。このタイプは覆輪幅が大きければ大きいほど価値が上がるというもの。これは標準的な覆輪一度写しのものですけど好感が持てます。実物は本座銭に色合いも制作も似ているのでうっかりすると見落とします。極印は横倒しに打たれており、重量もほんの少しだけ重めです。

下段の品はさらに見落としやすい品です。と、いうのも銭径が本座の標準銭とほぼ同じで、変わらないからです。ただ、この銭は背の画像を見ると私のようなマニアは色めき立ちます。刔輪の技法を観察するとき、私は天上と當上にも着目しますが、この品はあきらかに當上に刔輪があり、しかも背の方が面側より細縁になっています。背側の地肌は鋳ざらいによりものすごく滑らか。さらに背郭上部に加刀を受けていて反郭になっています。面側も微妙に刔輪されていて寶前足が離輪して跛寶になっています。さらに(偶然かもしれませんが)寶王縦画から寶冠にかけて陰起しており寶王の縦画が完全消失しているのです。側面はものすごく太くて粗い和やすりの痕跡。B級不知銭とされる方が多いと思いますが、私にとってはとても面白い品ですね。銭径の縮みがさほどでなく覆輪にも見えませんが、一度覆輪された後に刔輪された不知銭だと私はみています。背中美人でしょ?
それでは皆様良いお年をお迎えください。
 
12月30日 【張点保嵌郭が出た!】
3年前の7月に出現して以来、2品目の張点保が市場に出てきました。本来は応札意志のある出品中の品物のコメントは控えているのですが、黙っていられなくなりました。落ちなかったら悔しいけど落ちてしまったなら、さらに大変です。張点保は市場に10品と存在しない奇品で、ましてそれ以上に少ない嵌郭は風格からしても奇天に次ぐ格付けにあると私は思っています。
張天保は製作から見て奇天の系統で、覆輪刔輪の技法も感じられながら書体は完全にオリジナル。銭文系は本座とほぼ同じです。泉譜での印象では張点保嵌郭は本家の張点保よりやや小ぶりのものが多いようなのですが、今回の出品は49㎜以上と比較的大型です。もっとも本家の張点保は50㎜を超える物が多いので、嵌郭は次鋳銭なのかもしれません。
なお、この品は背郭に嵌郭の痕跡がしっかり残っています。はじめはあまりの美品ぶりに勘ぐってしまいましたが、嵌郭の痕跡まで真似ることは贋作では考えられない。少々極印が小さいのが気になりますが、極印葉脈が1本多い特徴はあるようですし、間違いない品ではないかと考える次第です。(それこそ間違っていたらごめんなさい。)
張天保嵌郭の・・・いえ不知天保銭の名品であると私は思っています。 
 
12月28日 【美しき鐚永楽母銭】
12月11日に鐚永楽の記事を書きましたがそれを超える魔性の品が現れました。中正手の木楽・・・永が下がり楽の字の点が長くとくに向かって左点が長く下がるのが特徴のようです。文字全体の加刀が見事で、私にはまるで美術品のように見えます。専門外ですけどこれは魅力的ですね。当然のように熱い魂の連中がバトルを繰り広げたようです。皆さんはこの美しさを感じられますか?

 
 
12月24日 【古泉】
この冊子は貨幣界の巨匠小川青寶僂師が昭和43年11月から編集、年5回発行した趣味同人誌です。実はこれは復刊で、戦後に田中啓文の業績(銭幣館)を引き継ぐ形で24号まで古泉は発行されていたと聞いております。
復刊した古泉は青寶僂の単独編集で20号(昭和47年11月)まで続きましたが、その後東亜貨幣協会が結成され(野村志郎会長)この事業も引き継がれています。これはある意味、郡司勇夫氏が陰で実効支配する日本貨幣協会に対して若手が自由に意見発表できる場を作ろうとしたとも考えられます。入手した冊子はきっちり48Pに統一されており、青寶僂師の几帳面な仕事ぶりが良く分かります。冊子はその後48号まで継続されたそうですから昭和53年頃まで発行されたことになります。この冊子の存在については文献等で知っておりましたが、実物は拝見したことがありませんでした。たまたま、ネットサーフィンで発見し500円で5冊(3号・13号・18号・20号・25号)落札したのですけど、中国からの発送で落札価格の倍の送料と3週間の送付期間がかかってしまい、一時は騙されたのではないかと疑心暗鬼に半分陥っておりました。到着した冊子には新渡戸仙岳師や沢井敬一氏の南部藩に関する資料や、東亜貨幣協会への移管直前の20号なども含まれており、非常に興味深い資料内容でした。惜しむらくは残りの号の内容が不明であること。小冊子なので保管されている方も少ないと思われますので、今となっては奇観本の類であると思われます。
 
12月22日 【掘り出し物】
関西のSさんから驚愕の投稿!今年最後の掘り出しとおっしゃりますが、こんなもの生涯掘り出せるものじゃないというもの・・・。
上段:ヤフオクで落札した7キロの雑銭から出ました・・・寛文様!
銅色は映像よりずっと黄色で明和4文銭と同じ。
外径27.32㎜ 内径19.3~4㎜ 重量5.53g

下段:2.1キロの雑銭から出現した平安通宝大様銭。
銅色は古寛永の長門銭の感じ。
外径25.35㎜ 重量3.28

こんなものは普通は出ませんよ。なんたる泉運なんでしょうか???
 
12月21日 【本年度収穫ギャラリー:天保通寶】
天保仙人様のおかげ(せい?)で、ここ数年天保通寶ばかり追いかけています。その甲斐(被害?)あって、天保通寶の収穫が今年も豊作。(家計は凶作)その代表的な収穫は・・・
 
長郭手覆輪刔輪純赤銅錢
赤銅質の不知銭は意外に少なく、このような純赤のものは初見でした。着色でも火中品ではなく銅質そのものが本当に赤い不知品で、しかも覆輪刔輪もしっかりある品です。輪より銭文面が低めで、額輪と称しても良い品です。
この色はまずでないですよ。
長径48.9㎜ 短径32.4㎜ 
銭文径40.7㎜ 重量20.7g
長郭手覆輪刔輪長足寶赤銅質
古い収集家の朱書きが残る品。右側に「不知品」左側は「長郭覆輪刔輪長足珎」と読めます。銅質は真っ赤とは言えませんがこの手のものとしてはかなり赤みが強いタイプで好感が持てます。
これは雑銭の会の工藤会長の放出品。そういう意味でも私には大事な品になりました。
長径49.3㎜ 短径32.9㎜ 
銭文径41.0㎜ 重量21.2g
長郭手覆輪刔輪深淵
実は2枚目の入手で、その特徴としては、
①地肌がえぐられまるで碁石を触っているような傾斜があること。
②大頭通で上辺が反り気味になること。
③王画が貝からわずかに離れること。
④輪の立ち上がりが外側に傾斜し開くこと
などがあります。こちらはかなり白銅質。すでに持っている品は黄銅質なのでだいぶ雰囲気が違います。この不知銭は触ってはじめてわかるのです。
長径48.6㎜ 短径32.5㎜ 
銭文径40.5㎜ 重量22.1g
細郭手覆輪狭玉寶濶縁
狭玉寶の名をつけてしまいましたが、書体と製作的には連玉尓の類でしょう。良く見かける一般的な連玉尓に比べて覆輪がかなり強く、削字も強い。その割に肥字になっていないので連玉寶の前駆銭もしくは発展形かしら?
長径49.0㎜ 短径32.8㎜ 
銭文径40.5㎜ 重量20.9g
細郭手覆輪強刔輪長足寶
細郭手の中でとくに面背の刔輪が強いタイプの不知銭です。銅色は本座とほぼ同じで製作もなかなかのもの。これも雑銭の会の工藤会長の放出品。お世話になったのでせっせか購入してしまいましたが、同じタイプの品はすでに持っていました。
刔輪グリグリで、寶足が輪に接する部分が盛り上がるのが印象的です。
長径49.7㎜ 短径33.1㎜ 
銭文径40.6㎜ 重量20.8g
細郭手覆輪強刔輪長足寶
不知天保通寶分類譜上巻P94の4番の原品で、元の名は「細郭手直足寶」です。秋田の村上氏の天保通寶研究分類譜にも掲載されていて名前は「細郭手覆輪強刔輪長足寶」。當百銭カタログにおいては「覆輪強刔輪長足寶」の名前で陰起文の類品が掲載されています。保字右横に特有の小さな凹みがあり、それによりこれも狭長足寶の一種であることが判明しています。細郭手の中で最も刔輪が強く、かつ寶足が一番長いものになります。
長径49.8㎜ 短径33.2㎜ 
銭文径40.7㎜ 重量18.8g
不知天保通寶分類譜上巻P94の4番原品
長郭手覆輪強刔輪宏足寶
宏足寶の類は肉厚のものが多いのですけど、この品は2.6~2.9㎜の肉厚でかつ50㎜に迫る迫力サイズの上に重量も26gを超える代物。この類には各種細分類がされていますが、これは大型細縁タイプであり「花押の一番下のひげ先端が陰起するもの」で、「背の當上刔輪が最も強いもの」でもあります。
未使用色がわずかに残る品がネットにひよっこり現れ、即決で落札してしまいました。
長径49.8㎜ 短径33.0㎜ 
銭文径41.2㎜ 重量26.4g
英泉天保通寶研究分類譜1297 
長郭手宏足寶面背覆輪存痕原品
長郭手 強刔輪反足寶
CCFにおける収穫であり、今期最高支出額の逸品です。白みを帯びた銅質、魚子地の肌、覆輪刔輪、背反郭気味、尖った極印など長郭手の仙台錢版といったところ。
反足寶は長反足寶より存在は少なく、不知天保通寶分類譜にも類品2品が掲載されるのみ。長反足寶とはどうも系統が違うようです。とにかく刔輪の強さを見てやってください。
長径49.2㎜ 短径32.7㎜ 
銭文径41.0㎜ 重量21.2g
天保通寶と類似カタログNo.173原品
萩藩銭方字短二天
この品は當百銭カタログでは評価が30000円でした。しかし、天保通寶と類似貨幣カタログの評価では一気に「甚だ少」と急騰したバブリーな品。この評価がいかなるものかははかりかねるのですけど、泉譜内では水戸大字の母銭と同じクラスだとか・・・。そのあまりの少なさに一品ものとのうわさも聞きましたが、ちゃんと類品が存在していました。しかし・・・未使用色が残るのになんとみすぼらしいことか。だから私の手中に収まっているのだと思います。
長径49.3㎜ 短径31.4㎜
重量14.6g
南部藩大字最大様(山内座)
ふと立ち寄ったウィンダムさんにおける収穫品。ひと目巨大な濶縁が目に飛び込んできました。即決購入。濶縁広郭の大字はときおり見ますが、ここまでのものはまずない。いろいろ泉譜を見ましたが最大のようです。東北のSさん曰く「母銭より大きい。」天保仙人様曰く「巨大だ・・・通用母銭じゃないのかな。」たしかに仕上げれば母銭として立派に通用すると思います。
長径49.9㎜ 短径33.6㎜ 
銭文径41.2㎜ 重量21.3g
南部藩銅山手細字
雑銭の会の工藤会長が自慢していた美人の銅山手。赤黄色の銅色で細字、工藤氏はこれを初期銭として栗林座の可能性もあるとのこと。天保仙人様も山内座の初鋳銭じゃないかとのこと。ただ、銭径、銭文径とも最小クラスであることに加え、新渡戸仙岳の記述とも合致しません。銅山手は銭文径の差異が激しいので錫母を使わないで通用母を駆使したと思われるのですが、一方でその通用母銭が残されていないのも不思議なのです。
長径47.9㎜ 短径31.8㎜ 
銭文径40.4㎜
秋田小様(1回写し磨輪)
磨輪加工した本座広郭を忠実に写したもので1回写しであることは入手後の発見でした。
拓本の印象から、英泉天保通寶研究分類譜第三巻No.969(背上ズレ)の原品だと思います。
長径47.6㎜ 短径31.4㎜ 
銭文径40.7㎜ 重量20.4g

英泉天保通寶研究分類譜No.969原品
 
12月17日 【新渡戸仙岳の復権】
南部盛岡藩の鋳銭究明において、郷土史家の新渡戸仙岳氏が残した記録「破草鞋:岩手における鋳銭」が大きな位置を占めています。一方で、新渡戸氏については盛岡銅山の贋作作家のイメージがいまだに払拭されていません。
昭和34年のもりおか新聞のコラム「亡き人の素顔」に盛岡工業指導所の宮寿氏が新渡戸仙岳氏が贋作者であり、金儲けをするちゃっかりした人物であると書き綴ったことからイメージが決定づけられてしまったのではないでしょうか?新渡戸氏が盛岡銅山のレプリカ製作を宮氏に頼んだのは事実ですが、あくまでも参考資料としてだと思われ、記念配布したにすぎません。それを中央に持って行き高額で売りさばいたのは、中央と交流のあった小笠原氏、水原氏などの地元古銭家で、失礼ながら宮氏もそのフィクサーの一人であったと私は見ています。
新渡戸氏はあくまでも郷土史研究の愛好家であり、その縁から小笠原氏、水原氏、小田島氏などの地元古銭家と交流があったと思われます。年齢も新渡戸氏の方が彼らより一回り以上上であり、指導的立場。のちに地元古銭家の彼らが古銭会で行った発表の元になった資料が、新渡戸氏の研究資料であったことは疑う余地もありません。古銭の研究には新渡戸氏の残した資料は欠かせないものの、彼に罪を着せてしまったことから、真実を古銭家は語れない・・・それどころか、その古銭家が新たな贋作を作り出していた可能性すらあるのです。
新渡戸氏は「盛岡藩造貨」において「簗川において短足寶と濶字退寶がつくられた」という記事を残しています。この記事は沢井敬一氏が再発見し、引間茂夫氏とともにが岩手古泉会誌の泉寿に書かれています。
また、「室場天保」に関する記述も「盛岡藩造貨」の中の一節「室場天保につきて」にあり、これも沢井氏が再発見し泉寿において紹介されています。ただし、泉寿の中に大量引用されているにもかかわらず、新渡戸仙岳の名前はほとんど出て来ないのは極めて残念です。(資料は小笠原白雲居の写本だったらしく、そこに室場天保の拓本も添えられていた・・・らしいのです。泉寿では諸事情でこの資料が公開できないとしています。)
残念ながら沢井氏の記述においても、新渡戸が贋作者として語られてしまっています。死人に口なしとはこのことじゃないかと思うのです。
「破草鞋:はそうあい・・・草鞋が破れるほど歩いて調べた」のは新渡戸氏の研究者としての姿勢でしょう。記録は当事者からの聞き取りが中心であるので、もちろん伝聞の間違いもあったかと思いますが、彼は幕末(安政期)から終戦後まで生きた方であり、その記録の内容ほとんどが鋳銭当事者もしくはその家族からの生の聞き取りのレポートですから、後の古銭研究家では絶対できなかった真実を聞き出すことも可能だったと思われます。いずれにしても、新渡戸仙岳氏の記録はもう一度見直される必要があると思います。
 
12月16日 【秋田小様アラカルト】
秋田小様は高額品なのでおいそれと手が出ず、私の手持ち品はわずかに4枚しかありません。ただ、運が良いのかすべてのタイプが異なっています。今回の入手品で1回写しから4回写しまでの品が揃いました。銅の鋳写における凝固縮小率を1.8%と仮定して、その場合の銭文径の理論値と照合しましたが、誤差はあるものの傾向はほぼ合致するとみていい結果だと思います。つまり秋田小様は長径だけでなく銭文径もしくは内径まで着目して収集・観察すると色々なものが出現して面白いかもしれません。
秋田小様の最大様(1回写し)
東北S様画像提供 ※覆輪嵌郭
長径48.4㎜ 短径32.55㎜ 銭文径40.8㎜
ここまで大きい秋田小様はめったにありません。大珍品です。あるいは母銭じゃないかと思います。
秋田小様(1回写し磨輪)
長径47.6㎜ 短径31.4㎜ 
銭文径40.7㎜ 重量20.4g
磨輪加工した本座広郭を忠実に写したもの。1回写しであることは入手後の発見。
拓本の印象から、たぶん英泉 天保通寶研究分類譜第三巻No.969(背上ズレ)の原品じゃないかしらと思います。
2016年6月21日及び4月21日の制作日記に秋田の村上師が計測した60枚の秋田小様の分布票が載せてあります。
秋田小様(覆輪2回写し)
長径47.7㎜ 短径31.8㎜ 
銭文径40.0㎜ 重量20.2g
上のものと比較すると覆輪銭の可能性高いと思います。
画像加工に当たっては天上内輪の位置をできるだけ合わせるようにしています。
秋田小様(覆輪3回写し)
長径46.9㎜ 短径31.5㎜ 
銭文径39.6㎜ 重量18.9g
文字がつぶれているので銭文径は大き目です。また、覆輪銭の可能性があります。
秋田小様の最小様(4回写し)
長径45.6㎜ 短径30.4㎜ 
 
銭文径38.6㎜ 重量18.6g
天保通寶研究分類譜
第三巻No.941
月間天保銭36号
貨幣協会20周年記念泉譜
など、各種銭譜を飾った故村上師のお気に入りの品でした。
0回目 41.3㎜ 手持ち品 誤差
1回目 40.6㎜ 40.7㎜ +0.1㎜
2回目 39.8㎜ 40.0㎜ +0.2㎜
3回目 39.1㎜ 39.6㎜ +0.5㎜
4回目 38.4㎜  38.6㎜ +0.2㎜
本座広郭の標準銭文径を41.3㎜、縮小率1.8%と仮定した場合の銭文径の縮小比較。秋田小様は文字が太くなる傾向があるので、誤差はあるものの全体の傾向は良く分かると思います。  
 
12月15日 【最後の収穫】
今年の最後の収穫品だと思います。やはり天保銭になってしまいました。上段は会津濶縁離足寶。Iさんの所有品でかつて一度見たことがあったと思います。古い収集家の所有品だったらしく朱書きが背に残されていますが判読不能。上の文字は「会」に見えますのでおそらく「会津」と書いてあったのではないでしょうか。会津濶縁の再写しであると思われ、面左側の内輪に疵があるものが多く見られます。会津濶縁は何となく好きでして、目につくと拾ってしまいます。本当は買う気などあまりなかったのですけど、これで果たして何枚目か・・・中毒症状になっています。
続く品は秋田小様の中様・・・小様の中様とは私が勝手に名付けたもの。秋田小様には大様、中様、小様・・・(写し・再写し・再々写し)が確認できていました。大きさ的には45㎜台はめったになく、46㎜台が標準と言われていますが、実は47㎜台mのものも多く、48㎜台は希少です。
ただ。秋田小様は文字の潰れたものが多く、銭文径比較ができませんでした。今回の入手銭は「未使用」の触れ込みでそれが期待できました。
計測の結果は長径47.6㎜、短径31.4㎜、銭文径40.7㎜、重量20.4g。
なんだなんだこの中途半端な計測値は。以前、入手した中様の銭文径は40㎜ほどですから、この銭文径は本座広郭の一度写しということになります。となるとこれは秋田小様の大様ということなのですがそれにしては小さい。
結論から言うと、大様の磨輪されたものであると判断しました。(秋田小様の大様磨輪・・・さすがに頭がおかしくなりそうな名称ですので、秋田小様の1回写しとすべきでしょうね。)
秋田小様の大様が少ない理由はここにありそうです。つまり、今まで中様だと思われたサイズの中に、1回写しと再写しが混在しているのです。
 
12月13日 【簗川天保】
簗川(やながわ)とは、岩手県盛岡にある地名です。実はこの地において天保通寶を密鋳していたという記録が、新渡戸仙岳氏によって残されています。(盛岡藩造貨)
この件については小田島禄郎氏が昭和9年に発表していますが(南部史談会誌)、その写し(月間天保銭39号)を読む限り小田島氏は郷土史家というより古銭収集家の色が強く、どうも情報源は新渡戸仙岳氏ではないかと感じます。
(沢井敬一氏も岩手古泉会記念誌の泉寿に詳細な寄稿をされていますが、これもまた原典は新渡戸氏であることは疑いようがないものです。)

あらましは「天保通寶銭の研究:瓜生有伸著」「古泉13号:小川青寶僂」などにも掲載紹介されていますが、結論から言うと
「簗川天保」は現在の「称:水戸短足寶」と「称:水戸濶字退寶」であるということなのです。

「称:水戸短足寶」と「称:水戸濶字退寶」がどういう経緯で水戸藩に割り当てられたのかは分かりません。
鋳造地が良く分からず、東日本方面に多く存在し、黄銅質のものはまとめて水戸藩銭にしてしまった・・・という印象が私にはあります。この2品が同じ金質、製作であることは疑いなく、存在数も多いことから力のある藩が作ったことは間違いないところです。
短足寶と濶字退寶を盛岡藩とするのには同じ藩内の他の天保銭とは製作、銅質にも隔たりがありやや無理な感があります。ただ、記録を読む限り、この両銭を作った部署と、大字や銅山手などをつくった部署・時期は異なったようですので、当時の時代背景を考えればあり得ないことではないことかと思います。

さて、文献を読み漁る限りその鋳造のはじまりは山内銭鋳造開始にさかのぼること19年前の嘉永元年(1848年)のことだったようです。密鋳の理由は藩内にあった銃砲製造場の経費補充のためで、後の山内鋳造のときにも原料の錫を供給することになる鍋善こと藤田善九郎等が家老の楢山佐渡の許諾を得て鋳銭をしたようです。
鋳造は幕府密偵に感づかれ、一度中断したものの、鍋善に罪を着せて形だけの取り締まりとし、ほとぼりが冷めた嘉永3年(1851年)に再開しています。
特筆すべきは新渡戸がその鋳造銭の特徴を詳細に書き留めていることで、すなわち1848年(前期簗川銭)のものは
「表面の文字縮小し、寶の字の脚短縮して外部に接着せざるもの是なり(注1)」とし、1851年の再開後のものは「(第一回に比すれば)文字稍大にして寶の字の両脚殆ど外輪に接着し、書体また豪宕(ごうとう)の気を帯べり」とし、さらに拓本まで添えられているものが資料として発見されていますが、(沢井敬一氏:泉寿)果たしてこの拓本が新渡戸本人採拓のものかどうかについてはわからず、あくまでも沢井氏の推測に過ぎません。ただ、前記の特徴を読み解けば「短足寶」と「濶字退寶」が該当銭であることを比定することなど、天保銭収集家なら容易なことです。
また、両銭が盛岡藩銭である可能性を示す傍証として「錫母銭」の存在があげられます。
錫母の技術は金座門外不出のもの。銀座さえ知らなかったと言います。この錫母の技術を知っていた地方の藩は本座の他は「秋田藩」「南部藩(盛岡藩)」ぐらいしかないのです。(ただし、水戸藩も親藩中の親藩なので知っていたと思われます。)
新渡戸氏の記録を読み解く限り、盛岡藩の密鋳は以下のようになります。

1848年 簗川銃砲場の密鋳銭座
「短足寶」がつくられる。(藤田善九郎・鏑理八請負)
1851年 簗川銃砲場の密鋳銭座で「濶字退寶」がつくられる。(請負人は同じ)
1867年 外川目座の支座、栗林銭座において「盛岡銅山」がつくられる。(砂子田源六・外川又蔵)
      ※
「小字」も鋳造したと思われる。
1867年 浄法寺山内密鋳銭座において「大字」がつくられる。(松岡錬治請負)
      ※出荷は1868年1月から。
1868年 浄法寺山内密鋳銭座において「銅山手」がつくられる。(斗ヶ沢徳蔵:松岡の弟請負)

これら新渡戸氏の記録が古泉界でほとんど認められていないのは、新渡戸氏が盛岡銅山の贋作者と誤認され、その学説の信憑性が後に問われたためですが、新渡戸氏はむしろ古銭収集家に利用されて贋作の罪を着せられた被害者に過ぎないと考えられます。古泉家たちに良いように論説を盗用されて、見本として作成して頒布したレプリカを東京に持ち出されて本物だとして売り飛ばされ、それがバレそうになると「新渡戸はうそつきの贋作者」として汚名を流布されたというのがどうも真相のようで、そのため後に新渡戸氏は古銭収集家との接触を頑として拒んだようなのです。
密鋳銭である天保銭に関する資料は、時代が経った現代においてはこれ以上出現しないと思われます。したがって現段階では「短足寶」と「濶字退寶」は「盛岡藩銭」と認定すべきではないでしょうか。

参考文献 天保通寶銭の研究(7) 古泉(13) 泉寿 
注1)古泉に転載紹介された文中には「接着せらるもの」とありましたが、後の文脈から見て「接着せざるもの」の誤植であると思われますので修正しました。 
 
12月11日 【中正手降永】
ネットで見つけた素晴らしい鐚銭。中正手永楽ということですけど、刔輪が強く文字が接郭しています。この手の鐚銭について知っているのは、かなり古い古銭収集家かマニアだけで、それもそのはず最近の泉譜にはこのようなマニアックなものは紹介されていません。最近?の参考書も本邦鐚銭図譜か中世銭史ぐらいでいずれも絶版。著者の増尾富房氏もこの世にもういません。これらの復刊がこの古銭の将来の命運を握っていると思います。それにしてもほれぼれする顔です。専門外ですけど欲しくなります。
 
12月8日 【加護山細字次鋳】
先日、新橋のウィンダムさんに立ち寄ったときの購入品。「めぼしい品がないときでも何でも良いので購入して顔をつないでおけ」・・・とは雑銭の会の工藤会長のお言葉。私が少々高めの価格設定だったこの品を選んで買ったので店長の荒畑さんは「ひょっとして何かがあるのか?」と疑心暗鬼になったかもしれませんがご安心ください・・・何もありませんから。しいて言えば可愛く見えたから、とくに郭内に念入りにやすりがけがされているから・・・というのが理由。加護山銭は銅質が柔らかく、仕上げ時に穿のゆがみが生じやすかったので嵌郭という郭の補強技術が生まれたと言われています。
今回の加護山銭には嵌郭が見られず、サイズも22㎜台で小さいのでちょっと違和感がありました。内径を計ると18.9㎜ほどしかありませんので次鋳ということになります。古銭収集家はどうしても大きいもの、きれいなものに目が行きがちなので、意外にもHPに掲載がありませんでした。皆様もこんなものもあると覚えておいてください。(何の得にもなりませんけど。)
 
12月7日 【切銭手】
穴泉堂の東洋古泉図録に島銭の拓図がたくさん掲載されていてその中に切銭手淳化という名称のものがあります。極端な広穿で文字もまるでアラビア文字のような雰囲気でとても目立ちます。実は今から35年ぐらい前に駒込の古仙堂さんの店頭で私はこの切銭手の淳化元寶を選り出しているのです。
かすかな記憶しかありませんが、たしか青錆の輸入銭を店主が大量に購入して錆を落としながら撰銭していて、よりどり50円ぐらいでも販売もしていたときでした。まあ、青錆の汚いこと汚いこと・・・その中に薄っぺらで小さな島銭が混じっていたのです。ス穴も開いていましたし指先に力を入れたらすぐに割れてしまいそうなものでしたけど、島銭を見つけたのは初めてでしたからご機嫌でした。その切銭手の淳化元寶は、何かの機会に格安で譲ってしまったと思いますけど、それ以来再入手する機会もありませんでした。
最近、ネットでこの画像・・・切銭手紹興元寶が出ていて懐かしく思わず画像保存してしまいました。淳化元寶ほどデザイン化した書体ではありませんが、確かに雰囲気はあります。ところで、切銭という意味が良く分かりません。挿しの藁を切るほど薄っぺらという意味なのか、それとも銅板から切り出したような風貌なのか?
おそらく前者が語源じゃないのかと睨んでいますが、定かではありません。 
 
12月1日 【お詫びと訂正】
8月15日の関西のSさんの直永の鋳だまり・・・類品が続々と見つかっています。直永進点永の短一文の類なのですが、私の所有品にもありました。これは記事掲載直後に祥雲斎師からご指摘を受けていたもの。(記事掲載が遅れてすみません。)そのほか青森の板井氏の拓に1枚、佐賀の坂本氏の拓にも1枚、福岡の大谷氏3枚、文久永寶分類抄にも掲載されるなどメジャーなものらしいです。自分の所有物(もらいもの中心)に目が届いておりませんでした。お恥ずかしい限りです。

元記事は【細字狭冠寶】で、出品者の細字長寶の見立てに間違いはないという先入観で見ていたようです。長寶系の寶字が郭から離れるという特徴が今一つのようです。また、背の波の形が違うのも気になります。したがって元記事を削除させて頂きました。文久は難しいです。 
 
11月27日 【南部藩鋳銭の謎】
南部藩銭の記録については郷土史研究家の新渡戸仙岳が詳細を書き残しています。古銭を知らないことによる勘違いや、伝聞そのものの間違いもあったと思われますが、資料としては信憑性が高いと思われます。一方、古泉家は存在数や製作、出現地域などから推理を組み立てます。私などそれが楽しくて古銭を集めているといっても過言ではありません。
一方で古銭収集家は、古銭そのものに思い入れがあるがため、主観・先入観にとらわれやすくなっています。
南部藩銭について調べていると、初鋳の方が製作が悪いなど、私の感覚を破壊してくれましたが、技術は製作を重ねて向上するという至極当たり前のことを忘れていたことを改めて思い出させてくれました。

10月21日の記事のおさらい
1)盛岡藩の天保銭書体には大字・中字(銅山手)・小字がある。
2)盛岡天保は製作方法からは2つに分けられる。
3)初期銭は出来が悪く、スアナも多く、不揃いで厚みも一定しなかったらしい。
4)初期銭はやすり掛け・砂磨きの後に火であぶり1枚ずつ仕上げた。
5)火により砂目が失われたらしく、発色も赤・黒・紫褐色・ときには灰白色と一定しなかった。
6)外周は摩耗して丸く、あたかも使い古された銭のようだった。(以上、第一期前期銭)
7)仕上げ方法を外川目座から学んだ結果、銭の周囲の角が立ち、砂目のあるものができるようになった。(後期銭)
8)後期銭鋳造開始直後の慶應4年4月にガサ入れがあり、母銭をはじめとする道具がことごとく廃棄された。
9)再開後に原母銭は木型でつくって間に合わせたが、出来は芳しくなかった。(以上、第一期後期銭)
10)第一期との違いは通の文字で、第一期は通字のしんにょうの頭が平らだが第二期は俯している。
11)第一期は5000両、第二期は7000両の実績。
12)第一期は背面の不出来なものが多く、第二期は面文が不出来で、とくに寶字が潰れたものが多い。


補足すると「2)盛岡天保は製作方法からは2つに分けられる。」とありますが、これはあくまでも第一期に関することであり、小字については栗林座だけで鋳造された可能性が極めて高いと思われます。新渡戸の記述は「盛岡藩内に於ける私鋳天保銭:山内鋳銭について」であり、すなわちこれらの記述は小字を除く大字と銅山手(中字)の鋳銭記録であることと考えることができます。また、いわゆる「称:浄法寺銭」については新渡戸が記述した時期より時代が下がることは実物の製作、出現記録、その後の研究からも確実だと思われますのでここでは除外すべきです。

したがって、新渡戸の記録にある天保銭は
①第一期の前期銭
②第一期の後期銭
③第二期銭    

となるはずで、これに大字と銅山手(中字)の実物銭をいかに当てはめるかということが古泉家の興味ということになります。

実物の製作から検証すると、大字はたしかに2タイプに分けられます。3)から6)の条件に該当する砂目のはっきりしない小ぶりでみすぼらしいタイプと、7)に該当する砂目があり製作の安定したものです。前者が①で後者が②とすると新渡戸の記述にほぼ合致します。大字は次鋳タイプはありますがそれ以外の銭文径の極端な違いは少ない気がします。

一方、銅山手は様々な銅質・製作のものが存在します。工藤氏の分類では
ア)黄色の銅質で細字のもの
イ)やや太字、赤銅質でしっかりした製作のもの。(②に該当)
ウ)白銅質の末鋳タイプ(工藤氏いわく反玉手)

としていますが中間的なものもあり、しかも製作が良いものが必ずしも銭文径が大きくないのが不思議です。
なかでも雑銭の会の会長が本炉もしくは①かもしれないと考え、私に分譲して下さった銅山手の正体は、どう考えても通用母銭からできた次鋳サイズとしか考えられないのです。
天保仙人様からの情報によると「山内銭は藩鋳の下請けと考えられ、藩鋳の使用母銭と小様の母銭(黄銅)の2種類が使用されたと考えられます。従って通用銭にはじめからかなりの差があります。」とのこと。
仙人様の説が正しいとすれば、本炉においては「藩鋳母」が使用されたはずで、「小様母」からの銅山手はやはり山内銭ということになります。ただし、新渡戸の記録を読む限り、大字と銅山手はほぼ山内(浄法寺)で作られていたことが分かります。すなわち、本炉(正炉)というものは栗林座以外は(つまり小字以外は)そもそも存在しないのです。この本炉(正炉)という考えは現物・製作から考え出された古銭家の幻想なのかも知れません。
以前私は、「銅山手は木型母銭から生まれているから、母銭が残っていないのでは」という仮説を述べましたが、新渡戸の説を改めて読んでみると、木型母は原母銭であり、それから改めて母銭を作ったと書かれてありました。つまり、以前の私の仮設は誤りだったのです。
頭の整理のために保存画像を見ていた時、ある事に気が付きました。
その画像は雑銭の会の工藤氏がHPに提示していた
山内後期とする大字と銅山手(中字)の画像です。この両銭の製作はどう見ても同一に見えてしまうのです。
と、いうことは新渡戸の言う②において大字だけでなく銅山手(中字)の書体鋳造がすでにはじまっていた可能性を考えた方が良いのではと思い浮かんだのです。この考えは新渡戸の説を多少曲げますが、大筋においてはずれることはありません。
ガサ入れの時に大きな母銭が破却されたのでしょう。
そしてガサ入れ後に③として再開されたのではと・・・。
足りない母銭は木型からの母銭と通用母で補ったと考えられますが、それでも銅山手の通用母が残っていない謎は残ります。

なお、銅山手にも①第一期に該当する可能性のある「砂目が確認できないような肌が焼けて変色したもの」が存在するようなのです。盛岡のS様により画像も雑銭の会のHPに掲載されていましたが、保存を忘れてしまいサイトが閉鎖されてしまいました。(ただし、これが第一期銭であるかどうかはわかりません。)
新渡戸説のがすべてが真実だと妄信することはできないものの。否定すべきものでもないと思います。彼は古泉家ではないので、見聞きしたことを歴史研究家の目から素直に記述したと考えられるからです。少なくとも現物と記述については大字についてはかなり合致していますので信じるに値すると私は考えるようになりました。
 
上段:大字初鋳銭
(第一期前期の初鋳)

長径49.1㎜ 短径32.3㎜ 
銭文径41.5㎜ 重量17.6g
暴々鶏会長から分譲いただいた大字の初鋳銭。大型で前期の中でも初鋳だと思われます。
地の砂目が見えず、文字や縁の角は丸く摩耗しています。
金質はやや硬くもろい感じがします。
計測結果は銭文径、内径とも後期銭に比べ微妙に大きいのですけど、これは火にあぶった結果によるものかもしれません。

中段:大字最大様
(第一期後期の初鋳)

長径49.9㎜ 短径33.6㎜ 
銭文径41.2㎜ 重量21.3g
未使用クラスのものは角が立ちます。
これは赤い色ですけど黄色く発色するものもあるそうです。

下段:大字通常銭
(第一期後期)

長径48.4㎜ 短径32.1㎜ 
銭文径41.3㎜ 重量20.7g
後期としましたが背を見ると微妙かしら。

前期、後期の差は製作過程の違いですから、保存状態で印象は異なります。
また、後期銭の鋳造期間は1ヶ月程度しかないはず。前期の鋳造期間より格段に短いのです。
初鋳銭=前期銭は貴重・・・という収集家のイメージが否定されます。
正しくは「状態の良い大ぶりの初鋳銭(前期銭)は貴重」とすべきなのでは。
また、そもそも鋳造期間の短い「後期銭の美銭も貴重」なのです。
つまり、「大ぶりの美銭は貴重」ということ。
 
11月23日 【古銭会IN千葉】
昨日、天保仙人様と若手収集家のNさんを交えてのプチ古銭交流会を我が家で開きました。私の休日はやや不定期、盆暮れ正月、GWなんてものはありませんし、夜間の呼び出しもありますのでなかなか確実な約束ができない仕事です。一方、Nさんもお聞きする限り休日は平日しかないもよう。ご苦労様です。
仙人様、早めに到着して神社や史跡を見たかったそうですけど、予想以上に列車のつながりが悪かったらしく、ほとんど目的が果たせなかったそうで・・・。一方、Nさんも自宅に忘れ物をしたらしく、少々遅れましたが無事合流。古銭談義は私の粗末な収集品を見てもらうことからはじまりました。例の盛岡大字の最大様は、仙人様によると通用母目的で作られた可能性が極めて高いものらしいです。
仙人様は神社や神話についても詳しい。ヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭建命)に関する話、古墳の話、神社の鳥居の話などをお聞きできました。ただ、時間があまりに短かった。もう少し、Nさんのレベルに合わせた談義をすればよかったと反省しています。

※裏事情を話しますと、2人が到着してから職場からSOSの電話がありました。内容は子猫を保護したので何とかしてくれないか・・・ということ。実はこれで今年4匹目の子猫なのです。すでに動物病院への支払いなど、経費が10万円近くかかっています。私は子猫担当じゃないのですけど・・・。(動物病院の陰謀か?)
※この猫は保護まで2週間近くかかりました。警戒心が強くなかなか姿を見せなかったのですけど、本日体を擦り付けるところまで関係改善。排泄のしつけも一発でOK。あとは寄生虫を駆除して養子縁組を探すだけです。 
 
11月21日 【天保のウブ挿し】
明日22日(水)、我が家にお客様をお迎えすることになりました。天保仙人様と若手収集家のNさんです。
貧乏暇なし状態でなかなか休みが取れないのですけど、22日だけはぽっかり空いていました。
数年前、Hさんが突然来訪されたことと仕事で暴々鶏氏が仕事場に取材に来たことはありましたのでそれ以来。
まあ、私の場合はネット上の活動中心ですし、知識も付け焼刃か受け売り。最近は記憶力が曖昧で「そんなこと言ったっけ」という有様です。自分が何を保有しているかも整理不足でわからなくなりつつあります。
さて、当日はNさんが先祖伝来の天保ウブ挿し1000枚ほどを持参するそうです。重さにして20㎏以上になるはずで今から何が出るか楽しみです。出でよ「奇天!」「勇文!」「萎字!」・・・期待しすぎちゃいけませんが夢は大きく持ちたいですね。
画像は最近入手した細郭手。英泉天保通寶研究分類譜1430覆輪強刔輪の原品でもあり、不知天保通寶分類譜P108面刔輪の原品でもあります。実は同系統のものはすでに持っていたのですが、ついふらふらと・・・。
長径49.8㎜ 短径33.1㎜ 銭文径40.7㎜ 重量20.1g
 
11月16日 【オークションネットがすごい!】
オークションネットの第30回オークションがWEB公開されました。その内容を見て驚いた。古寛永の初期不知銭類がほぼ完揃いで出ています。新寛永も島屋文細縁や天保銭も草点保と役者がそろっています。価格も激安!(最低価格で買えたらのお話ですけど・・・)これだけの充実は久々ですね。金欠病の私としては頭の痛いところ。穴銭ファンはとくとご覧あれ!
→ 第30回オークションネット 
 
11月15日 【長郭手覆輪強刔輪宏足寶】
宏足寶の類は肉厚のものが多いのですけど、この品は2.6~2.9㎜の肉厚でかつ50㎜に迫る迫力サイズの上に重量も26gを超える代物。画像以上にうぶな品物でなかなかの逸品です。何かの泉譜を飾った品だと思ったのですが、今のところ同じ品を見いだせないでいます。
(注1)
類似カタログの評価では6~8万円と抑えめですけど、肉厚巨大な銭径と文字の変態ぶりで実力はもっと人気の高い品であると思います。
夏の古銭会のコーナーに解説がありますが、この宏足寶には大型の細縁銭と、やや小ぶりの濶縁縮字になるタイプがあり、さらに大型細縁のものには「花押のひげ先端が陰起するもの」と「花押の袋の部分に小疵のあるもの」があります。画像の品は大型細縁タイプであり「花押の一番下のひげ先端が陰起するもの」でもあります。
長径49.8㎜ 
短径33.0㎜ 銭文径41.2㎜ 重量26.4g
(注1)英泉天保通寶研究分類譜1297 長郭手宏足寶面背覆輪存痕原品
 
11月10日 【加護山写しの加島細字】
小汚い寛永銭です。こんなもの雑銭の中に転がっていてもだれも見向きもしないでしょうね。まして加護山銭といえば赤い銅色がトレードマーク。こいつは全体に薄錆に覆われていて観察しないとわからない品です。これ、収集の誌上入札に出ていました。結構いい値段でしたが、ちょっと前の下町などで村上氏の旧藏品がもっと良い値で売られていましたので、なんとなく割安に思えてしまってついふらふらと・・・。こんな品、絶対買う人はいないなあと思いながら密鋳病に憑りつかれた私は吸い寄せられてしまっていました。それにしてもみすぼらしくぱっとしません。だから密鋳なんですけどね。
 
11月9日 【方字接郭???】
画像の品は「方字接郭」の名前で30000円で出ていた品。もちろんそんな品じゃない。ひと目萩藩銭の縮通系だとわかる品です。しめしめ・・・みんな気づいていないぞ。方字で30000円じゃだれも応札するはずがない・・・黙ってよう、と雌伏の方針でした。実はこの品は縮通系の中でもさらに手替わりの平二天とされるもの。私も初見の品でした。順調に日数消化がされ、あと一日というところまで誰も応札していません。しかも〆切が朝という中途半端な時間。我慢がしきれなくなってしまい「どうせだれもこないだろう」と少し早めに応札しておいたところ、まあ急に沸騰してしまいました。あとでBBSの投稿を見たらみんな狙っていたみたい。皆さん黙っててほんとに人が悪い。夢見ちゃいましたよ。私も欲しかった品でした。
 
 
11月8日 【婉文覆輪】
寛仙堂山添春夫氏は四国における古寛永の権威です。やはり四国の玄友谷巧二氏とならび、日本の古寛永収集家の双璧をなす方なのではないでしょうか。一方で古寛永は細かな変化が多く、初心者にはちょっと厳しい世界。
泉譜を見ずにこれがぱっと分類できる方など、この世界に何人もいないでしょうし、泉譜を見たってわからない方の方が多いと思います。・・・いや、泉譜さえも持っていない方の方がはるかに多いでしょうね。
バイブルといえるのはかつては古寛永泉志ぐらいしかなかったのですが、山添氏はその詳細分類を「平成古寛永銭譜」という形で著されています。(拍手!)難点はやはり初心者には難しいこと。
この「平成古寛永銭譜」と谷氏の「寛永通寶銭譜」それに祥雲斎こと坂井博文氏が中心になって上梓された「久泉研究資料」あたりが古寛永マニア必携の平成文書なんじゃないかしら。
ただ、残念なことに古寛永マニアは超レアな収集家ばかり。コイン収集そのものが珍しい趣味になっていて、さらに穴銭マニアはレッドデータリスト入り、その中で古寛永マニアは超々絶滅危惧種ときたもんだ。おそらく日本国内で古寛永収集家に出会うことは宝くじで1億円あてた経験のある人に出会うこと以上に難しいと思います。
もはや古寛永を集めても将来売ることは不可能な気がします。そういうわけで、最近はなんとなく古寛永に手が出ていなかったのですけど、婉文覆輪は好きな銭種でつい手が出てしまいました。過去にも制作日記を飾ったと思いますが、今回は平成古寛永銭譜原品ですし、顔がいいので最後まで追っかけてしまいました。覆輪とは言うものの直径は24.37㎜なのでさほど大きくありません。婉文濶縁といった方が正しいかもしれませんが。覆輪は輪の幅を広げ、大きく見せる技法で、濶縁は状態を表す語なのですが、同じ技法で作られている婉文の場合の名称選択は収集家の趣向で決まります。だからこいつも婉文覆輪で決まり・・・変ですかね。 
 
11月7日 【第45回 日本コインオークション】
今年もまた日本コインオークションのカタログが届きました。私はバリバリの穴銭党なので、外国コイン中心のこのカタログが届く心当たりがありません。日本コインオークションは1989年に日本で初めてのオークションとして産声を上げました。(株)ダルマが実質的な運営をされていると思います。
残念ながら日本穴銭の出品はほとんどないのですが、海外の金銀貨のきれいな写真眺めると心が和みます。穴銭党といえども気に入ったものはぽつぽつ買っていましたから、私も純潔という訳ではないのです。一時期は打製のローマ、ギリシャの金銀貨幣やドイツの大型銀貨などに心が揺らいだ時期もあります。経済的な理由と良い日本語のカタログに出会わなかったためのめり込みませんでしたが、カタログの良いものがもし日本に存在しているのなら、この分野は爆発的に伸びる可能性があります。それだけ海外ではメジャーな趣味なのです。
予定:平成29年12月10日(日) 
丸ビル7階丸ビルホール
お問い合わせ 03-3477-5855 
(株)日本コインオークション事業部
〒108-0074 港区高輪2-16-32 レアール高輪701
 
 
11月2日 【切継銭】
ネットで見かけた画像。本座の母銭を切断し、短くしてつないだもの。切継の名前で勢陽譜の参考銭の項に掲載されていますが、なぜこんなものを作ったのかは謎の品なのですけど明治末期~大正期における古銭ブームは昭和の時代のブームとは比較にならないほどの盛り上がりだったそうで、絵銭・贋作の多くもこの時代に生まれているようです。
今ほど情報が発達していた時代ではないので、目新しいもの、変わったものが好まれた時代なのでしょう。そういえば大英博物館で再発見された福知山8代藩主の朽木竜橋公(朽木昌綱)の古銭コレクションの中には、寛永堂稲垣尚友作と噂される宝永通寶の昴寶母銭も含まれていて真贋判定の難しさも感じています。なお、公の収集品の中には錯笵銭や島銭なども数多く含まれており、当時の収集家の目線の違いを強くに感じます。(難波御用銭のコレクションについては世界一のものだと思います。)
→ 2012年5月21日の制作日記
→ 2014年4月9日の制作日記
 
 
10月31日 【史上最強の草点保】
侍古銭会のたじさんがついに清水の舞台から飛び降りました。その結果がこの草点保です。草点保は細郭手の中でもっとも有名な不知銭ですけど、素朴なつくりで美銭はなかなか得難いもの。画像の品は私が知る限り最高の美銭でしかも濶縁の大様です。元の持ち主は天保仙人様でした。たじさん、師匠に猛アタックしたみたいです。
仙人様は美銭の草点保を2枚お持ちでしたが、そのうちの1枚を後進のために分譲したようです。美談ですね~これで、古銭病患者がまたひとり天保病をこじらせました。合掌。(たじさん、おめでとうございます。良かったですね。)
私の草点保は東北のSさんから分譲して頂いたもの。たじさんの入手品には負けますけど、それはそれは見目麗しき令嬢でございます。実は入手に当たっては、雑銭の会の暴々鶏様から「東北で草点保が売りに出た。」とお聞きし、その結果入手がかなったもの。こんな珍品、めったなことでは市場に出てきませんから。

※その暴々鶏様も健康を害され、収集の世界からまもなく引退されます。私を収集の世界に引っ張り込んでくれた恩人(犯人?)を3人上げるとすれば、舎人坊様、暴々鶏様、天保仙人様が三傑だと思います。
暴々鶏様こと工藤様は、密鋳銭の面白さを私に目覚めさせ、また、仙人様との出会いを作ってくださいました。雑銭の会のHPも間もなく閉じられるとの事です。引退は残念ですけど、健康を少しでも回復し、この世界のためのアドバイザーとして元気でいて下さればと思う次第。でも、さすがに淋しいです。 
 
10月28日 【税と古銭と領収書】
古銭を購入した際に古銭商から領収書なんてもらった記憶がほとんどありません。オークションの際にもらったような曖昧な記憶もありますが、今は手元にありません。
古銭の売買に関して税金はいったいどうなるのだろうと思うことがあります。ネットの個人売買は非課税だという噂もありますが、どうもそれは間違いらしい。店頭は課税、ネット非課税じゃおかしいですから。
調べてみると、
「消費税は年間売り上げ1000万円以上の場合、2年目から納付の義務が発生」のようです。
生活動産を売却した場合には所得税の確定申告は不要なのですけど、残念ながら古銭は生活動産とは認めらていません。
サラリーマンの場合は年間20万円以上の副収入があった場合は所得税と住民税の申告が必要であり、給与収入のない人でも年間38万円以上で課税の対象になるというのが正解みたいです。
ところで、確定申告をするにあたっては経費が問題になりますが、領収書がなければ当然経費として認められず、100%課税になってしまいます。また、トータルの売却金額が多くなる場合は古物商として警察署に届け、個人事業者として税務署に登録して、確定申告の際に給与所得とあわせて申告する方がより経費を認めてもらえるようになるので有利みたいです。
したがって
高額品の購入の際は領収書をきちんともらい、保管・整理しておいた方が良さそうです。このとき、現代の古銭商の領収書を出さない昔ながらの商慣習が問題になります。
古銭を流動的な資産考えてとして保有する方は多いと思います。
今の私は買うばかりで売ることがないので現時点では無関係。ただし、領収書も一切ないので、将来売却するときには損切で売ってさらに課税されて、泣き面に蜂でしょうね。いや、税金どころか売れないかもしれませんね。税金払ってでも売れれば良しとすべきかもしれませんね
なお、心配な方は税理士さんに聞いてみてくださいね。
※江刺仰寶が到着しましたが、画像と印象が違い肉は赤黒いタイプ。浄法寺タイプじゃないけど江刺タイプとも言い切れない微妙な雰囲気。できれば黄色い地金であって欲しかったですけど、まあ、いいか。 
 
10月27日 【詐欺サイト】
Nさんから古銭詐欺サイトの情報を頂きました。非常に危険なので「http://」を削りURLを記します。
「ltourmalls.top/products-6472.html」(会社の所在地と代表名が詐欺サイトとして登録。)
最近は見ただけでウィルス感染させられるサイトがあり、こちらも中国あたりに本拠があるようで、興味本位での閲覧はしない方が身のためです。Nさん情報によると非常に情報量が豊富で価格も安く魅力的に思えますが、お金と個人情報を抜き取られるだけで商品は届かないとお考えください。古銭画像は本物のようです。Nさんは水戸遒勁の画像を探していてたどり着いてしまったようです。
一時期メールアドレスを公開していたせいで、迷惑メールは毎日何通も届きます。ウィルスメールや詐欺メールも頻繁に届きます。楽天やOCNなどのメールを再現した偽装メールも紛れ込んできています。妖しいものは片っ端から削除していますが、中には開封を迷うような精巧なものもあるから困ります。
その昔はトロイの木馬などのウィルス攻撃やサーバーダウンを狙った大量閲覧攻撃の標的にされてしまった時期もあり、自分なりに複数の防波堤を設けて防御しているのですけど、それすらすり抜けて来るからたちが悪いですね。私もかつてサイトを見ただけで感染させられたことがありました。幸いすぐ異変に気付き事なきを得ましたが怖い時代になったものです。皆様もお気を付けください。 
 
10月24日 【江戸コインオークションの延期】
10月15日に開催されるはずだった第28回江戸コインオークション・・・今年もカタログが届かなかったことを書きましたが、オークションそのものが延期されていたそうでカタログも印刷ができていないそうです。本日、仕事で都内を訪問して初めてその事実を知りました。新橋駅前で身内がお店をやっておりまして(炉ばた屋といいます。)最近、時々顔を出すのですけど、ウィンダムさんは近所なので、カタログをもらいに訪れてこの情報を聞けました。延期の理由は留守番の店員さんは知りませんでした。
結果として誤った情報を流してしまい深くお詫び申し上げます。
それにしても都内の古銭商さんも絶滅危惧種になってきてしまいました。若い後継者がなかなかいないのですね。いても鑑定できる人材が育っていないみたいです。穴銭党にとって厳しい時代です。ウィンダムさんには頑張ってもらいたいですね。なお、オークション開催日の新しい情報が入りましたらあらためて記事掲載をさせて頂きます。
 
10月21日 【江刺仰寶】
久々に寛永銭で気になる品を発見。その名は江刺仰寶。なんだ仰寶かと、思うかもしれませんが・・・実は、江刺タイプの仰寶は知る人ぞ知る(つまり知らない人は全く知らない)隠れた珍品なのです。
だいたい、この銭は一般銭譜にほぼ紹介されていません。評価のみ掲載されているのが新寛永通寶図会と穴銭カタログ日本。前者が35000円、後者は9000円ですからずいぶん差があります。もっとも9000円は通常の仰寶の相場ですから、35000円はともかく穴カタは誤植だと思うのです。
第14回みちのく合同古銭大会のおり、秋田貨幣研修会の故菅原直登氏が江刺銭研究の発表をされているようですが、その時の貴重な資料を私は幸運にも分譲頂いております。その資料にはこうあります。
「21波短尾寛は努力すれば入手できる範囲にあります。(中略)仰寶は入手がかなり困難で、努力の他に運も必要です。」その後にこうも続きます。「一文銭はさらに入手困難で、コイン店を回っても売り物は皆無で、ほとんど入手不可能です。」
江刺か否かの判断は収集家の判断といいますか好みの問題なんですけど、これぞ江刺!といえる仰寶にはまだ出会っていません。江刺の触れ込みで応札したものの、結果はがっかりというものもいくつかあります。だいたい、江刺と浄法寺の境界線が曖昧なんですね。雑銭の会の工藤会長は「銅質の赤いタイプは江刺としない」意見であり、私もどちらかというとその意見に近いのですけど、例外もあるでしょうね。まあ、江刺も浄法寺も東北のごく狭い地域の中のことですし、ひょっとしたら制作年代の違いだけで同じ場所で作られた可能性すらあります。
幸運なことに、仰寶より入手困難な江刺の一文銭については数枚入手することができました。なかでも異書短通斜寶写はS様から分譲頂いた思い出の品。こいつは特に可愛いです。皆様も探してみてください。→ 密鋳銅一文の観察箱
 
10月21日 【新渡戸仙岳の著述を読み直して】
新渡戸仙岳は郷土史研究家・教育者であり、古銭研究者ではありません。大正4年に地元新聞に記述した「破草鞋:岩手における鋳銭」が数年後に貨幣誌に紹介されたことがきっかけで、贋作者騒動に巻き込まれてしまいました。(詳しくは泉家・収集家覚書をご覧ください。)
その記述に関しての資料は七時雨山様のおっしゃる通り、天保通寶の研究等に掲載されています。私も久しぶりに引っ張り出して読んでみました。そこには見落としていた興味ある記述が随所にありました。
盛岡藩の鋳銭についてご存知ない方もいらっしゃると思いますので、私なりに簡単にまとめますと・・・
1)盛岡藩の天保銭書体には大字・中字(銅山手)・小字がある。
2)盛岡天保は製作方法からは2つに分けられる。
3)初期銭は出来が悪く、スアナも多く、不揃いで厚みも一定しなかったらしい。
4)初期銭はやすり掛け・砂磨きの後に火であぶり1枚ずつ仕上げた。
5)火により砂目が失われたらしく、発色も赤・黒・紫褐色・ときには灰白色と一定しなかった。
6)外周は摩耗して丸く、あたかも使い古された銭のようだった。
7)仕上げ方法を外川目座から学んだ結果、銭の周囲の角が立ち、砂目のあるものができるようになった。(後期銭)
8)後期銭鋳造開始直後の慶應4年4月にガサ入れがあり、母銭をはじめとする道具がことごとく廃棄された。
9)再開後に母銭は木型でつくって間に合わせたが、出来は芳しくなかった。
10)第一期との違いは通の文字で、第一期は通字のしんにょうの頭が平らだが第二期は俯している。
11)第一期は5000両、第二期は7000両の実績。
12)第一期は背面の不出来なものが多く、第二期は面文が不出来で、とくに寶字が潰れたものが多い。

なるほど・・・
新渡戸仙岳の記録が正しければ、
「初期銭は砂目のない外周の摩耗したもの」であり「焼けたような金味のもの」ということになり、初出は大型美銭という古銭界の一般常識は通用しないことになりますね。
また、
第一期初期銭→第一期後期銭→第二期銭と移行したこともわかります。記述が正しければ、第二期銭は中字(銅山手)しか考えられないことになります。
「山内銭」という名称は新渡戸がつけたものらしく、この名称が古泉界で独り歩きしてあたかも「本炉」と「山内」が併存していたように思えてしまいますが、どうも「本炉」は栗林座で小字と盛岡銅山がつくられただけのようで、
大字と中字(銅山手)の本炉銭は存在せず、すべて山内銭なのかもしれません。
一方、大字の母銭は存在するのに、中字(銅山手)の母銭はほとんど存在しないことから、地元の研究では大字こそ第二期銭ではないかという意見が根強いようで、七時雨山様もその謎を投げかけています。
そのことについて私なりに考えましたが・・・
・中字(銅山手)の母銭がほとんどないのは木型母だからと考えられる。木型母の評判が悪く、関川(月舘)八百八による彫母が作られたものの、その使用は日の目を見なかった。第二回鋳銭も七旬で中止命令が下り、設備は放棄され雨露の朽壊に任せるままになったとの記述があります。
・母銭図録掲載の銅山手の古拓の銭文径はかなり小さい気がします。通用母ではないでしょうか?そうなると錫母の存在の話もあやしくなります。

・一方で新渡戸仙岳の記述はあくまでも伝聞であり、全てが正しいわけではありません。例えば原料調達で「亜鉛は盛岡肴町の鍋善と云える鋳物師より供給(九州産のもの)」とありますが、当時はまだ国産亜鉛の精錬法は確立されていないだけでなく、青銅である天保銭鋳造にはそもそも亜鉛は使用しないので、この記述は慶應年間以降の浄法寺私鋳に関するものか、錫との混同だと思われます。また、そのような雰囲気の著述がいくつか感じられます。

結論はすぐには出ないと思いますが、新渡戸仙岳は古銭研究者でないからこそ、その記述には嘘は少ないと思います。一方で、前術したようにあくまでも伝聞なので錯誤もあり、古銭収集家ではないので書体などの識別力や古銭の専門知識もほとんどなかったと思われます。さて、皆さまはどう思われますか? 
 
10月20日 【雑銭の会】
雑銭の会のサイトが間もなく閉鎖されます。このHPを開設したのが2004年6月ですけど、私はまだ練馬雑銭の会という名称だった頃からのファンで、公開入札がはじまったときに完全にはまりました。たしか会員番号は13番ですから後からの参入者としてはかなり古参の方だと思います。
とはいうものの都内で開催されていた古銭会そのものには数えるほどしか参加していませんので、あまり貢献はなかったと思います。一方で数々の出会いがあり、それは私の財産・刺激になりました。会長はもちろん仙人様、畠山様、青七様などみなさん古銭をこよなく愛される方ばかりです。掲示板の中での出会いも数多くありました。しかし、心無いものからのウィルス攻撃でそのHPが破壊される悲劇もありました。姉妹ページであった日高見古銭研究会(でしたっけ?)も完全に破壊されて、貴重な画像資料が失われています。その後、雑銭の会に移行したわけですけど、おかげで私は密鋳銭類に完全にはまることになります。
延展という言葉を初めて知ったのもこの会においてですし、浄法寺関連の情報・資料もかなり頂戴しています。この交流サイトがなくなるのはあまりに惜しいですし、活動した証が消えてしまうのも淋しい。
そこで不慣れながら「雑銭掲示板」という無料投稿サイトを作ってみました。工藤会長のような知識があるわけでもなく、十分な管理も難しいと思いますが、まずは動いてみた次第です。
基本ルール
1.個人攻撃、誹謗中傷はしないこと。
2.個人のニックネームをつけて投稿すること。なりすまし厳禁。
3.古銭に関係ない投稿、宣伝行為は控えてください。
※雑銭の会のようなメール機能、アルバム機能はありません。ブログ感覚でご投稿ください。
 
10月18日 【銀座コインオークション】
銀座コインオークションの案内が到着しました。豪華な内容です。ただ・・・残念なことに穴銭党にとっては寂しい出品内容です。それでも水戸遒勁などが複数出品されていますね。この遒勁は銭径サイズがいろいろあり、伝鋳を繰り返し短期間に作ったことが想像されるもの。母銭より通用が大きいなど調べてみたいことがありますね。

平成29年11月18日(土) 
AM9:00~ 帝国ホテルにて
お問い合わせ 03-3573-1960 
(株)銀座コインオークション事業部
〒104-0061 中央区銀座5-1 銀座ファイブ1階 銀座コイン内
 
10月16日 【見逃しやすい珍品】
関西のSさんからの投稿画像です。色が赤茶だから文政期と分かれば初心者卒業。背の下部の波が平べったいから離用通だと分かれば初級者脱出。ただ、これで満足してしまう人は多いと思います。
よく見ると背の波の輪との接点が今一つはっきりしません。そのことに気づけば中級以上で、ひと目面が刔輪されていることに気づければ新寛永通寶収集者としては上級者入りですね。
刔輪の度合いは微妙なんですけど、寶冠の前垂れ、寛点が輪からはっきり離れることが観察ポイントです。
(刔輪の個体変化もあるかもしれず、私の手持ち品は寶横輪の刔輪がやや少なく寶前垂れが開く感じがします。画像の品は寶前垂れが垂直気味ではっきり離輪します。)
新寛永は最近人気低迷気味で、とくに四文銭のこのクラスは本来なら美銭で4~5万円してもおかしくないのですが、最近は3万円程度で買えてしまうこともあります。ただし、入手可能とはいえ絶対数はかなり少なく、美銭は見つけたら即購入をお勧めします。
 
10月15日 【踊る永楽】
永楽の画像です。私は永楽は収集対象にしていないので実にお気楽。一方、永楽に興味のある方は画像を食い入るように見ているのではないでしょうか?目立つことこの上なしですね。左上は明の本銭のようにも思えますが濶縁ぶりが目立ちますね。やや狭白ですし。右上は地肌の削りも派手なノム楽。永尾も力強く派手。かなり大ぶりでしっかりしています。そして大珍品曲永大字。まるで永字が踊っているような書体です。永字の変わり者は古泉界に多く、二水永、異永、奇永、抬頭永、千木永など個性の宝庫です。鋳不足による弱々しさが気になりますがさすがに雰囲気はあります。鐚永楽の正当派女王が中正だとすれば曲永大字は間違いなく絶対王者。収集家を喜ばせるために生まれ出たような古銭です。ただ、この鐚永楽は非常に収集家が限られる世界。狭いのですね。それでも強烈なファンがいるのは戦国ロマンがあるからかしら。みんな踊らされていますね。
※結果を見て驚いた。落札価格60万以上の戦い。永楽マニア恐るべし。御見それいたしました。
 
10月14日 【南部盛岡藩天保の考察】
今秋、南部藩の天保銭を複数入手することができましたが、銭文径計測は当初の予測と異なる意外な結果が出ています。このことを色々考えるがなかなか楽しいものでして・・・。
まず、大字ですが9月に巨大な山内銭を入手できました。山内銭とは、浄法寺地区における民間隠し炉による鋳造のこと。(山の中で鋳造された?)藩はその行為を黙認しており、摘発時に直接藩が咎めを受けることを避けただけの半ば公認の密鋳事業所です。
東北のSさん曰くこの「母銭より巨大な通用銭」。その存在はいかなることなのかを考えることからはじめました。
この大字の山内銭は覆輪銭のようにも見えます。バケモノですよね、この輪幅は・・・。
しかし、覆輪銭ならばそのもとになった内径の大きな母銭があるはずで、それをまたわざわざ覆輪して大きく鋳造する必要性はあるのかということで引っかかります。
瓜生有伸氏の当百銭カタログには大様母銭(長径49.7㎜、銭文径41.7㎜)と小様母銭(長径48.9㎜、銭文径41.3㎜)が掲載されています。
たしかに大様母銭に覆輪をすれば、大様の通用銭(長径49.9㎜、銭文径41.2㎜)の鋳造が可能になると思いますが、常識的に考えればはなから巨大な母銭をつくれば良いことで、鋳造後にわざわざ覆輪してまで巨大に改造する意味はないと思うのです。
覆輪する必要があるとすれば、それは「小様(次鋳)の母銭」を作る際の縮小を防止するためだと考えられるのですが・・・本来は必要ないことのはず。実は南部藩は錫母の技術をもっていたはずなのです。
錫母は何で生まれたかという問いに対して、多くの泉書に「柔らかく、融点も低く、文字などの加刀修正加工がしやすいから」というような記述が見られます。一方で錫は「もろく、低温変化に弱く、傷つき破損しやすい」という欠点もあります。しかし、その欠点を補って余りある「鋳造後の金属収縮が銅より格段に少ない」という再現性が最も重要だと考えられるのです。
多くの泉書には 彫母(原母)→錫母→銅母 とありますが、実際は 彫母(原母)→錫母→錫母×2→錫母×4→・・・と、いうように1枚の錫母をもとに鼠算式にコピーが繰り返されていたと私は考えています。
大日本貨幣史にある金座銭座図には本座の天保通寶の鋳造工程が掲載されており、それによると天保通寶は一度に48枚(の枝銭として)鋳造されたようです。これだけでも多くの母銭が必要なことが分かりますが、一吹きの銅は40貫目=150kgを使用したと記録されていることから・・・仮に天保通寶1枚が20gで、枝や鋳バリなど銭にならない廃棄部分が同じ重さ出ると仮定した場合に、銅母銭は一吹きで実に3750枚も必要になるのです。
これは枝銭にして78個あまり=鋳型が78個あまり必要で、多少母銭の使いまわしがあったにしろ数千枚単位の母銭が必要なことは明白です。
さすがに密鋳の現場では本座ほどの大量生産はできなかったにしても、それなりの規模と母銭の枚数は必要になります。したがって母銭を彫母銭から1枚ずつ複製鋳造していたら間に合わないのです。その点、錫は1mあたりの縮小率が2.25㎜と、銅の15㎜の6分の1以下に過ぎません。(『古銭小話 天保本座での金属収縮率』より)
この計算では鋳写し1回で天保通寶は銅の場合で0.75㎜ほど縮小しますが、錫の場合0.12mm弱しか縮小しません。ここに錫母の存在意義があるのです。(下の表をご参照ください。)
錫の活用を知らなかった密鋳者たちは覆輪技法による母銭の鋳写し複製法を編み出します。しかし、これは銭文径や見た目の違和感を生み出します。不知長郭手の張足寶の銭径、銭文径がバラエティに富むのはこれが原因だと考えられます。本座の場合は余裕があるので、錫母の鋳写しはそれほど繰り返し行わなかったと思われますが、短期決戦で大量生産を行わなければならない密鋳の事業者は、なりふりかまっていられません。
そこで再び思い出されるのが、先日の銅山手の銭文径の計測結果。
手持ち品わずか5枚ほどの計測結果ですけどみごとにバラバラ。(実際には後出の浄法寺系を入れるともっとバラバラになりますが、複雑になるので除外。)これこそ錫母複製による増殖結果じゃないのかと思う次第。
と、いう訳で現段階での私の大胆予測は・・・。
①小字は藩主導での(栗林座での)小規模な製作なので、銭文径は安定。もちろん錫母使用。
②銅山手は民間委託による短期集中大量生産。これも錫母使用。繰り返し写されて銭文径がバラバラに。銅山手はその風貌がバラエティに富むので、その後の小規模民鋳を含めて意外に長く鋳造された可能性も否定できない。
③大字は慶應4年のガサ入れ後の復興生産。錫の調達が間に合わず木型母から銅母、改造母まで駆使した。銅の縮小を想定して原型はかなり濶縁の大型銭につくられたが、その鋳写しから改造母も生まれたのでは。
④大字の濶縁大様はやはり初鋳と考えた方が自然じゃないかしら?工藤会長をはじめ、地元の方はやや硬い感じのする紫褐色~赤褐色のものを充てていますが、私には根拠が良く分からないのです。
⑤小字以外は山内の民間委託中心だと思う。ちなみに昔から古銭界では本炉(正座)、山内と分類されていたそうですが、実は両者の差にはっきりとした区分があるわけではないそうなのです。しかも最新の地元研究では藩が直接鋳造したのは栗林座の小字だけで、あとはすべて山内浄法寺柏木座の鋳造らしい。つまり、同じ山内の品を本炉と山内に分けていた可能性があるのです。ただ、区分があいまいとはいえ、材質や製作に違いのある品があることはたしかなこと。極印にしても桐の形、丸十のような形などいろいろあるようで、これはまた技術者や製作時期などの違いの可能性もあります。この推定作業はなかなか楽しそうです。
⑥したがって南部天保は銭文径だけで鋳造時期ははかれない。製作面で推測するしかなく、初期銭は大きくて製作・銅質が良いものと考えるべきでしょうけど、あとはバラバラじゃないかしら。
あくまでも個人的な予測、妄想です。大量見聞したわけではありませんので悪しからず。
※ここに書いた記述は、後で覆されることになります。詳しくは10月21日の記事をお読みください。
※本座広郭の錫母は、細郭の錫母の郭幅を広げ、錫で鋳写して生まれたと考えられています。そのため広郭錫母と細郭錫母ではごくわずかに細郭の方が大きいそうなのです。 
※錫と銅の鋳写しの繰り返しによる縮小のシュミレーション
錫は10回以上写してはじめて1㎜以上縮小します。一方、銅はたった2回の写しで1ミリ以上縮小してしまいます。錫の特性を知らなかった密鋳者は、覆輪という技術でそれを乗り越えようとしましたが、それでも鋳写の繰り返し限界は3~4回というところでしょう。一方、錫母の技術を得た者たちは5回以上の連続写しをも可能にしたと考えられます。
錫母の技術は均質な銭の大量コピーを可能にしたのだと思います。
 
原母 1回 2回 3回 4回 5回 6回 7回 8回 9回 10回
50.00 49.89 49.78 49.67 49.56 49.45 49.34 49.23 49.12 49.01 48.90
50.00 49.25 48.51 47.78 47.06 46.35 45.65 44.97 44.30 43.64 42.99
錫母銭 50.00 49.89 49.78 49.67 総枚数
銅母銭 49.25 49.14 49.03 48.92
1回目 1 1 0 0 2
2回目 1 2 1 0 4
3回目 1 3 3 1 8
4回目 1 4 6 4 15
5回目 1 5 10 10 26
6回目 1 6 15 20 42
7回目 1 7 21 35 64
8回目 1 8 28 56 93
9回目 1 9 36 84 130
10回目 1 10 45 120 176
11回目 1 11 55 165 232
12回目 1 12 66 220 299
48.9㎜以上の銅母銭を大量に作るためには何回錫母を写せば良いかの計算シュミレーション。あとはこれから型を採り銅母銭を作るだけ。誤差0.3㎜程度で覆輪もせずに大量の銅母銭が出来上がります。これが錫母のマジックです。
上の段のサイズの錫母を写せば、下の段のサイズの銅母ができます。シュミレーションなので1枚の50㎜母銭からはじめていますが、元になる50㎜母銭が2枚あれば作業効率は2倍、10枚あれば10倍になることはいうまでもありません。

※気が付いたら15日は江戸コインオークションです。昨年はカタログを郵送してくれると聞いていたのに未着。今年は確認を怠っていまして未だに未着。事前登録もせずお金も払っていないので文句は言えません。昨年は郵送したはずと言われましたのでもしかすると昔の住所に送付されたのかも。内容を知りたかったです。
 
10月9日 【工藤会長の銅山手】
雑銭の会の工藤会長が初期銭ではないかと推定した銅山手が届きました。なるほど会長が自慢するだけあってきれいな銅山手です。地肌に墨が入っているようで文字が浮き出して見えます。寛永通寶鋳造には床焼という過程があり、古墨と鯨油を混ぜて煮詰め、地染めをした記録があるのですが、本座の天保通寶では(少なくとも最終的には)その過程は省略されています。一方、藩鋳銭や不知銭などは寛永通寶の鋳造方法を踏襲したと考えられるため、地染めの工程が丁寧に行われているケースもありそうで、今回の品もそれに該当するのかもしれません。
会長はこの天保は「赤くない、黄色っぽい」とおっしゃるのですけど、南部藩銭を見慣れていない
私の目にはやや淡めながら赤茶色のように感じます。輪の右側に湯道の傷なのか凹みはありますが、それ以外は完璧な美人ですね。この銅質と製作が栗林座の流れ=小字に近いのではないかと推測されたのでしょう。
すぐに、お楽しみの計測を始めました。長径、短径・・・あれれ、意外に小さい47.9㎜、31.8㎜・・・う~ん、不思議だ。銭文径・・・40.4㎜・・・。
今まで一番小さいと思っていた白銅質の薄肉小様の末鋳銭よりさらに小さい銭文径。半切り画像を重ねてみても、細字であることを差し引いてもさらに小さい。
常識的に考えて初出が一番小さいとは考え難いのです。ショートしそうな頭脳回路をフル稼働、持てる知識を騒動員して考察すると・・・
①銅山手ははじめからいろいろなサイズの母銭があった・・・彫母から原母そして銅母をつくり、鋳造の際にはそれらを混ぜて母銭として鋳造した。
不知銭にはよくある手法で、短期間に鼠算式に鋳造するための方策。
②素直にこれが次鋳であると認める。通用銭を母銭に改造する場合、文字を細く鋳ざらい加工します。これも不知銭によくみられる加工。
工藤会長が過去に掲示した寛永銭による「前期・中期・後期」の色分けですけど、前期の赤銅色と、後期の赤黄色の銅色にあまり差がないことを思い出しました。今回の品の色は淡い赤黄色でもあります。ただ、製作の美しさがいかにも違いますが、天保通寶の密鋳は発覚すると死罪で、藩は取り潰し覚悟の犯罪ですから慎重になったとも考えられます。
そうなるとSさんから聞いた「銅山手は山内で慶應4年の取り締まりを受けるまで鋳造された」という地元の研究が思い出されます。取り締まりで母銭が破却されてしまい、銅山手の母銭が大字などに比べほとんど残されていない根拠にもなっています。銅山手の鋳造時期はごく短期間であることは確実なので①は十分考えられます。また、母銭が破却されたあとに大ぶりの通用銭を鋳ざらって改造母銭にして鋳造したことも考えられます。いずれにしても鋳造時期は幕末のごく短期間ですし、明らかに通用銭を改造した母銭から生まれた次鋳サイズであることは間違いないようです。
手持ち品のサイズ比較
大様  長径49.2㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.4㎜ 重量24.0g
次大様 長径49.0㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.1㎜ 重量25.0g
小様  長径47.9㎜ 短径31.5㎜ 銭文径40.9㎜ 重量16.6g(反玉手?)
末鋳様 長径47.2㎜ 短径31.1㎜ 銭文径40.9㎜ 重量11.7g(反玉手?)
次鋳? 長径47.9㎜ 短径31.8㎜ 銭文径40.4㎜ 重量19.8g(今回入手品)
※ここに書いた記述の一部は、後で覆されることになります。詳しくは10月21日の記事をお読みください。
 
長径49.0㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.1㎜ 重量25.0g
 
← 次鋳との合成画像
  内径・銭文径差が
  ほとんどありません。
← 内径の大きいものとの合成画像
  あららほとんど差がありません。
  誤差、文字の太さの差の範囲?
  画像比較の限界を感じますね。

超拡大して調べたところ、初鋳としたものは天の第一画が太いものの、たしかに銭文径、内径とも大きく、0.2~3㎜程度刻みで3枚(初鋳・今回のもの・末鋳)が並んでいることが判明しました。
これは砂笵の縮みとか、金属配合による収縮率の差や重力による変形の範囲であると思います。
10月7日 【黄色い銅山手大様】
雑銭の会々長の工藤氏はこう言います。「南部銭は大半が真っ赤で、文字が細くて黄色っぽい品は少ないのですが、ほとんど知られていないようです。」そういわれると気になってしまします。
銅山手は・・・地元では中字と言われているようですけど・・・通の書体が盛岡銅山にそっくりなのですけど・・・あまり製作の良いものを見たことがありません。市場に出てくるもののサイズは長径48㎜クラスが多く、ときには48㎜を切るものがある一方で、49㎜を超えるものは滅多に出会えません。その滅多にないものを東京で発見していました。例によってウィンダムさんです。実は昨日、本日と日帰りの会合があり、昨日は自重したものの本日購入してしまいました。
制作日記9月16日記事にあるように、銅山手には銭文径の大きな初鋳のものと、銭文径のひとまわり小さな次鋳がありました。このことに触れた銭譜はなさそうです。ところで画像の天保の銭文径は41.1㎜。なんだろう、この微差は???天保仙人様が良くおっしゃっていた、古銭は鋳造品なので銭文径だけではわからないことがあることを証明するような事実。私のイメージとしては今回の品はバリバリの初出のもので、銭文径も0.6~0.7㎜大きい予定・・・でした。(半切り画像では確かにわずかに内径は大きいのですけど・・・)
そう考えてみるとこれは次鋳のなかの初鋳?う~ん、良く分からないです。
なお、地元の研究では・・・
栗林座        小字・盛岡銅山
浄法寺柏木座(前期) 銅山手
浄法寺柏木座(後期) 大字
※柏木座=山内座

のような研究結果があるようです。
銅山手には銭文径の縮小したものがあることから、慶應4年の取り締まりで母銭が破却されたあと、通用銭を鋳ざらった改造母銭をつくって鋳造された可能性もあるのかもしれません。なお、極印は東北のSさんの研究に出てくる大桐極印だと思われます。
 
保字と輪の間に小さな凹みが見えます。 
10月4日【細郭手覆輪強刔輪長足寶】
転送設定の異変のおかげで、数日格闘しておりましたが、その間に珍しい品を入手しておりました。細郭手の宏足寶というべき品です。出品者は希少天保通寶とだけ表示していましたが、希少も希少、不知天保通寶分類譜上巻P94の4番の原品で、元の名は「細郭手直足寶」です。秋田の村上氏の天保通寶研究分類譜にも掲載されていて名前は「細郭手覆輪強刔輪長足寶」。當百銭カタログにおいては「覆輪強刔輪長足寶」の名前で陰起文の類品が掲載されています。不知天保通寶分類譜ではこう説明されています。「赤褐の銅色で、美制作のもの。面から背にかけて穿内のやすりが一杯に掛けられているもの。」とあります。瓜生氏の著作本の計測値には誤りが多いのですが、これは記載通り。長径は雄大で49.8㎜もあります。
その後の調査で、
保字右横に特有の小さな凹みがあり、それによりこれも狭長足寶の一種であることが判明。
実は狭長足寶はその昔、横浜古泉研究会の入札で村上氏の藏品をかなりの値段を払って入手しておりまして、その後、雑銭の会々長から重品覚悟で購入しています。今回の品で3品目。ただし、他の2品より面内径が44.9㎜と0.2㎜ほど大きく、その分実際に寶足が長いことも確認できました。寶前足の陰起もないので、見た目もこちらの方が長いのです。村上氏はこれを「長足寶」と称して「狭長足寶」とは区別しています。おそらく細郭手の中では最も足の長い不知銭です。
長径49.8㎜ 短径33.2㎜ 銭文径40.7㎜ 重量18.8g
※類似カタログには再覆輪刔輪の名で狭長足寶が掲載されています。(その割に評価は低すぎだと思いますが・・・)
 
10月3日 【事故発生・復旧】
9月後半・・・更新をさぼっていたらとんでもないことになっていました。レンタルサーバーに対する送信設定がすべて初期化状態になってしまったのです。新手のウィルス?・・・まあ、操作ミスかパソコンの老朽化でしょうね。パスワードが消えたのは困りました。こういうとき問い合わせがメールのみしか使えないのがもどかしい。メモは残っていたのですけど、転送先のフォルダー名が分からない。3日間、あれやこれや格闘した結果、つい先ほど復旧できました。運が良かったとしか言えないですね。あ~肝を冷やしました。

仙人様からの情報が届いていましたので特別御案内。
10月25日(水曜日)夕方
日本テレビ『笑ってコラえて!』に、Oさん・Yさんと共に出演します。
内容は書けませんが『〇〇〇の旅!』です。すでにロケは終了し、先日はスタジオを見学に行きました。綺麗なタレントさんに、おじさん3人が頑張って行ったロケでしたね(笑)


と、いう訳で乞うご期待。怪しげな古銭おじさんの巻かもしれません。
 
 
10月2日 【伏見手破寛】
ネットで出品された品で、当然私も食らいつきましたが振り切られてしまいました。伏見手という寛永通寶は不思議な古銭で不旧手にしてはかなり製作が安定している方で彫りも深い。白銅質系の金質から元文期とされていますが一回り大きく立派なんですね。だいたい、不旧手のほとんどが製作がいまひとつで、書体が変わっている割にはぱっとしないものばかり。一方で、蛇の目や折二様のようなエース級の珍品もある。伏見手破寛はエース候補の珍品の一つ。たかが寛の冠にちょっと切れ目があるだけなんですけどありそうでなかなか見つかりません。
伏見手は新寛永通寶図会では不知銭の項に入っていますが、実際の鋳造地や時期が分からない新寛永はたくさんありますし、不旧手のほとんどもよくわかっていないので、あえて不知銭にする必要もなかったのかとも思います。
それでも伏見手を不知銭としたのは、この銭が持つ他の不旧手にない不思議な気品と魅力(魔力)だとも思います。
「永字が鎌首を抬げている」ように見えるので、個人的には抬頭永の名前こそふさわしいと思うのです。なぜ、この愛称を使わないのもちょっと不思議な気もします。
この伏見手破寛は「新寛永銭鑑識と手引き」に普通品として拓が掲載されていることが有名で、そのおかげでこの小さな手替わりの存在が広く知られることになりました。
もともと伏見手自体が少ないものですから、この破寛は私も出会うことがなかった品で、四国のKさんのご好意で1枚だけは手にできましたが、市場に出てきたのは久しぶりに見ました。落札価格は限りなく3万円に近かったようなのですが、この品はお金を出しても出会えない品なんですよね。この伏見手、次鋳の存在が近年発表されました。内径が19.4㎜ほどと、通常の品と0.4㎜ぐらいしか変わらないのですけど、なかなか少ない存在らしいです。さらに、破寛の次鋳も発見されたとか。これは知る人ぞ知る幻の逸品です。みなさんも探してみてください。 
 
9月24日 【投稿画像プラス1】
いくつか投稿画像が届きましたのでご紹介します。はじめの天保銭はネットで不知銭厚肉重量銭/30.4gの触れ込みのあったもの。ネット上の画像の色調が悪かったのか、暗灰黒色に見えたので、私は鉛写しの錫母摸作だと決めつけていましたが、薩摩広郭だったようです。落札された関西のSさんはその結果にがっかりされていたようですが、30gを超える薩摩広郭はなかなか珍しいものですよ。
長径49.16㎜ 短径32.62㎜ 銭文径41.61㎜ 重量30.42g 厚み3.3~3.4㎜。数字からもこれは立派なものだと言えます。皆様も探してみてください。めったに見つかりませんから・・・。

2~3枚目は侍古銭会のたじさんからのご投稿です。
埼玉県北部の骨董市での早朝の散策中、なじみのお店でいつものように天保銭を見ていると水戸接郭、深字がすぐに選り出せたそうです。これは幸先が良いと思ってさらに探していたら大物が潜んでいました。銭文が個性的で、ひと目不知長郭手の張足寶の類で、状態もなかなかよさそうです。たじさんは嬉しさのあまり、その場から携帯メールで実況中継してくださいました。まさに早起きは3文の得です。私はというと「貧乏暇なし・働かざるもの食うべからず」で出勤直前のメールチェックでこの画像を受け取りました。

たじさん絶好調なようで前日には秋田広横郭や久留米正字濶縁のきれいなものも入手されたそうです。その久留米正字が下の画像。
久留米正字濶縁は雑銭だという方もおられますが、摩耗がなくかつ鋳だまりが少なくて輪幅のしっかりしたものはなかなか貴重。私はこの雑銭が実はとても好きなんですね。一応、久留米(もしくは水戸)の籍が充てられていますが、これが不知銭だとしたら、「不知広郭手覆輪大濶縁」なのです。ほら、ほら、皆さんも欲しくなってきたでしょう?ちなみに水戸接郭は「不知広郭手覆輪刔輪」なのです。彼らは銭籍を与えられない方が幸せだったかもしれません。

一番下の寛永通寶はおまけ画像で大和文庫の入札での私の拾い物。2800円でで入手した21波写しの密鋳銭。輪が少しいびつで延展技法が使われているように見えます。掘り出し物とまでは言えないかもしれませんが、21波の密鋳写しは意外に少ないのです。
前所有者は踏潰の鋳写し21波銭としていましたが、一理あります。側面やすりは横方向と斜め方向が混在しています。側面は金属が重なったようになり、境目ができていて貼合わせ風ですが、これは延展圧力が強く金属がサンドイッチ状に伸ばされたためと考えられます。これを踏潰銭と見るか否かは見解が分かれるところ。浄法寺系のような台形仕上げではなく、銅質は黒褐色。踏潰銭と言えないまでも私は踏潰様でよいと思います。

最近、伏見手破冠寛や異寛小永だの珍銭がネットをにぎわせていますが、私は今は自重気味。そろそろ少しお金を貯めないと生活が大変になりそうですから。
 
 
9月22日 【日本貨幣協会創立60周年祝賀大会記念泉譜】
帰宅すると郵便物が届いていました。日本貨幣協会からです。開けてみると記念泉譜が入っていました。本年4月15日に新宿ハイアットリージェンシーホテルにおいて記念祝賀会が行われ、全国から80人あまりの古銭愛好家が集まったようです。
さすがに「祝賀」とあるだけに展示物は気合が入っています。私は泉譜に何を出したのかすっかり忘れてしまっておりましたが、泉譜を見て「不知長郭手 異貝寶異當百」を出したことを思い出しました。他の方々が本格的な名品奇品を出している中でやや変化球的な品ですけど、過去に1品しか発表されてない不知銭ですので、そこそこの品格はあると思います。ただし、残念なことに拓本が下手糞でものすごくみすぼらしく感じます。恥ずかしいったらありゃしません。皆様、ご迷惑をおかけしました。
そんな泉譜を眺めていて、見覚えがあるものを発見しました。湧泉堂Aさんの出拓「寛永通寶3種」の「鉄銭座銅銭背広郭母銭」です。あれは昨年秋に某入札誌に15000円で出品されていたものじゃないですか!(→ 奇品館No.118参照)私が半分入手した気持ちになっていて、ルンルン気分だったあれです。なんだ、こんなところにいたのか・・・と思う次第。Aさんも入手されてさぞご満悦だったと思います。これも私の出品物ということにしてくれませんか・・・気持ちの上だけですけど。それにしてもきれいに拓本がとられていますね。私のところに来なくて良かったのかもしれません。
 
9月20日 【今年の古銭番付】
今年も残すところ3ヶ月余り・・・思えばずいぶん散財しました。主な収穫は以下の通り。

1月 天保銭 長郭手覆輪刔輪純赤銅銭
   天保銭 盛岡藩銭大字初鋳 
   新寛永 江刺大頭通写(凸凹輪)

2月 天保銭 玉塚天保本座長郭異書

4月 新寛永 元文期小梅銭狭穿背小加護山写
   新寛永 享保難波銭額輪(母銭)
   古寛永 長門錢正字様俯二寛(陰目寛)鋳放手本銭

6月 天保銭 萩藩銭方字短二天

7月 新寛永 元禄期猿江銭小字純白銅母銭

8月 古寛永 不知降寶仰冠寛広郭大様銭           
   天保銭 長郭手強刔輪細縁曲足寶
   天保銭 長郭手強刔輪反足寶(類似カタログ原品)
   
9月 天保銭 盛岡藩銭大字(最大様)
   天保銭 長郭手覆輪刔輪深淵 
   天保銭 細郭手覆輪刔輪狭玉寶濶縁 

相変わらず天保銭が中心です。あえてランク付けをすると
1.天保銭 盛岡藩銭大字(最大様)
2.天保銭 長郭手強刔輪反足寶
3.天保銭 萩藩銭方字短二天
4.天保銭 長郭手覆輪刔輪純赤銅銭
5.古寛永 長門錢正字様俯二寛(陰目寛)鋳放手本銭
6.天保銭 長郭手覆輪刔輪深淵
7.新寛永 元禄期猿江銭小字純白銅母銭
8.新寛永 江刺大頭通写(凸凹輪)
9.古寛永 不知降寶仰冠寛広郭大様銭
10.新寛永 加護山写小梅銭狭穿背小
こんなところかなあ・・・と思います。

1番:
盛岡藩銭大字(最大様)は藩が陰でかかわってつくった準公式銭であり、私が知る限りは最大級のサイズであることはほぼ間違いないもの。こんな珍品がひょっこり立ち寄ったウィンダムさんで入手できるなんて夢にも思いませんでしたので1番にあげました。しかも格安でした。
2番:
長郭手強刔輪反足寶は天保通寶と類似貨幣カタログの原品という由緒がたしかなもの。入手後に鋳肌と極印の仙台天保への酷似に気づいたのもプラスポイントです。今年最大のお買い物でした。
3番:
萩藩銭方字短二天はあまりの少なさに一品ものではないかとの噂も聞いていた品。ネット上にひょっこり出てきたときは驚きました。
4番:
長郭手覆輪刔輪純赤銅銭は年初に入手して大興奮。真っ赤な銅質で額輪気味で、刔輪も強烈・・・とにかく見たことのない特異な製作が目を惹きます。競り合いで思わぬ出費も納得です。
5番:
長門錢正字様俯二寛(陰目寛)鋳放手本銭は古寛永の珍品。手本銭の正字様はただでさえ少ないのに、鋳放しで外径が巨大。入手しようと思っても、お金を積んでも手に入らない古寛永です。
6番:
長郭手覆輪刔輪深淵は2枚目の入手ながら、なかなかの美銭。私、この銭の手触りが大好きなんです。これもウィンダムさんで入手。
7番:
元禄期猿江銭小字純白銅母銭。ここでようやく新寛永が登場。母銭は積極的収集対象にしていないのですけど、白銅色の美しさに負けました。文献にはあまり書かれていませんが猿江銭には白銅色の母銭がたまに見つかります。この品はその最たるもの。
8番:
江刺大頭通写(凸凹輪)。密鋳の大頭通はただでさえ珍しいのに、さらに手替わりでした。収集の市場入札での思わぬ入手品。本来ならもっと上位なんですけど、状態が今一つなので・・・。
9番:
不知降寶仰冠寛広郭大様銭はたぶん平成古寛永銭譜の原品。25㎜を超える立派な初鋳大様銭です。
10番:
加護山写小梅銭狭穿背小。これも本来ならもっと上位にすべき品なんですけど、残念なことにヒビが入っています。それでもうれしい品です。 
 
9月18日 【文久深字・直永の本体系銭】
ネットで観察して手が出なかった品。届かなかったのではなく出なかった・・・だからちょっと悔しい気もします。上段の文久は何故手が出なかったのかもっとも悔やまれるもの。この久字の足の直線感、みごとな広郭ぶり、面は100点です。背がちょっと荒れてますが面が良いのでOK。何より私はこの狭久(深字本体)を保有していないのです。どうした浩泉丸、何考えているんだ!
言い訳をすると実はこのとき、雑銭の会会長の放出した盛岡小字を狙っていました。だから他を見ていなかった。その小字も最後で臆病風に吹かれて負けました。競り合いになるとものすごく弱気になる私です。直前に新橋で散財していたのもあります。さよなら狭久、また逢う日まで。それにしても君は美しい。
続く品はひと目「これはなんだ!」の書体でした。
直永といいながら永柱が湾曲気味なものが多いのですけど、見事なストレート。永点は永頭の真上にあるので、これは進点永ですね。しかも見事な広郭・・・進点永の本体でしょうか。こちらも気が付いたら終わっていた。無念。
 
 
大字(長径49.1㎜)  大字大様との比較 
大字磨輪(長径48.4㎜) 大字大様との比較
大字小様  天保通寶と類似貨幣カタログより
浄法寺大字改造母? 大字大様との比較
浄法寺大字次鋳(半仕上) 大字大様との比較
長径47.3㎜ 短径30.5㎜ 銭文径40.2㎜ 重量18.0g 
浄法寺大字(半仕上)  大字大様との比較
長径48.6㎜ 短径32.1㎜ 銭文径40.9㎜ 重量22.0g  
銅山手次鋳(反玉手) 初鋳の銅山手との比較
銅山手末鋳小様のサイズ
長径47.3㎜ 短径31.1㎜
銭文径40.9㎜ 重量11.7g
銅山手初鋳大様のサイズ
長径49.3㎜ 短径33.0㎜
銭文径41.5㎜ 重量24.0g
9月16日 【南部天保アラカルト】
藩鋳銭は基本的なもの。ただ、高額なものも多く、複数集めるのには気力財力ともに必要で、普通のコレクターは1枚入手してしまうと満足してしまうことが多いと思います。私もその傾向が強く、同じものを何枚も並べてみようとはなかなか思いません。
したがって南部天保についてはあまり突っ込んで調べたことがなかったのですが、今回相次いで2枚の新入りがあったことで画像上の比較をしてみました。

①雑銭の会の工藤会長から購入した南部大字の初鋳銭。大字大様と重ねてみるとほぼぴったり重なります。(上段右)
むしろわずかに内径が大きいぐらいです。文字の位置はぴったり重なる感じですので、内径差については多少の内輪の修正があった可能性があります。
②最近ネット落札した大字。組み物で13000円ほどで、誰も追っかけてこなかったので不安に思っていましたが意外にまともでした。長径が48.4㎜しかないので小様だと思いきや、内径と銭文径は濶縁大様とほぼ同じでした。本来は大字磨輪というべきかしら。
銭文径は41.3㎜ぐらいで、私の数少ない大字の手持ち品は浄法寺系以外はみなこのサイズ±0.2㎜でした。
短絡的思考の私は、もしかすると盛岡大字には次鋳はないのかな疑い始めて、類似貨幣カタログを見たところちゃんと小様があります。(③拓本参照)當百銭カタログにも細郭・小様というものがある。長径47㎜台のものがどうやらあるようなのです。そこで類似カタログの拓本を画像に撮って重ねてみると明らかに内径が小さい。つまり大字にも次鋳があるということなのです。(ただし、残念ながら私は所持していません。)普段はどうしても製作の良い大ぶりなものに目が行きがちですから、小様のものは選びにくいと思いますね。基本的藩鋳銭とはいえ盛岡大字は購入するとなると2万円ぐらいは覚悟しないといけませんので、そんなに躍起になってませんでしたが、少し反省が必要なようです。
④は私にとって一番謎の浄法寺大字濶縁の改造母銭?を撮影。本当は正しい分類が分からない。こいつはその昔、雑銭の会の工藤会長から分譲して頂いたもの。工藤会長は浄法寺大字の鋳写母銭をお持ちで、これはそれとペアになっていたもの。
鋳写母銭は無極印できっちりした仕上げがありますがこいつは極印があり、少々雑な気がします。工藤会長は貴重な資料だよと申しておりましたが、私にはその位置づけがいまだに良く分かっていないのです。
先日、その浄法寺の大字濶縁鋳ざらい母銭がネット上に出ていましたが、手が出ませんでした。余談ながら極微の盛岡小字は死ぬ気で行くぞと思いつつ20万円に近づくと指が震えて動きませんでした。
ところで浄法寺でこれだけ濶縁の大字はあまりない気がします。風貌は濶縁大様を写したようなのです。ただ、母銭にしては抜けが悪すぎますし・・・。
画像を重ねてみると、思った以上に銭文径が縮んでます。これが母銭だとしたら子銭の銭文径は40.1~2㎜になるはず。そんな浄法寺大字写しが果たしてあるのか?これは宿題・・・と思いきや灯台下暗し、手持ち品の浄法寺大字最小様⑤がズバリ該当。改めて自分の不勉強を感じます。
勢い浄法寺の少し大きめの大字⑥を撮影、計測。意外に銭文径が大きいのでまた悩んでしまいます。
⑦銅山手。
岩手の銭楽会の研究によると「前期は慶応4年4月までで盛岡中字(銅山手)を、後期は慶応4年5月から盛岡大字を鋳造したと考えられています。」ということなのですけど、これは工藤会長の説とは若干異なります。
工藤会長は製作の違いからの考察であり、前期・後期としたのは製作区分上のもので、歴史的な経緯区分ではないと感じています。
銭径の小さい銅山手について工藤会長は反玉手と名付けているようです。
この反玉手は金質が白っぽく、磨輪されていて軽量です。画像の銭を手に入れたとき「内径・銭文径に縮小がない」と聞いており、それを鵜呑みにしていましたが、改めて計測すると0.5~0.6㎜の差がありました。(冷や汗)
言い訳になりますが、所持していた本炉の銅山手は天の第一画に鋳不足の凹みがあり、そこにノギスが入ってしまっていたこと、もう一枚の所持品の銅山手が同じ次鋳であったことも要因でして、あらためて画像を合わせてみて誤りに気づきました。
工藤会長の記述文をよく読めば、この品が次鋳であることはすぐわかったはずなのですけど、お恥ずかしい限りです。

と、いう訳で南部藩の天保銭のうち大字と銅山手には初鋳と次鋳があること、浄法寺銭大字は初鋳の通用銭から写したものと、さらにそれを改造して母銭にしたものからできたものまであることが分かりました。
今後は銅山手についても調べてみたいのですけど、何せお金がかかるし、本炉銭の所持品は3枚しかないし、いつになることやら・・・。
大字の小様も実物を見てみたいと思います。
また、今まで面倒くさがって怠っていた藩鋳銭の計測も必要だと感じます。

なお、雑銭の会の工藤会長の研究・・・雑銭の会で掲載していたものについても個人的に保存しておりますが、何分不勉強なのでなかなか頭に入りません。不完全ながら、分かっている範囲を公開させて頂きます。

→ 南部藩天保銭の考察
 
9月13日 【大錯笵は加賀千代か?】
ウィンダムさんでは不思議なものを見せられました。一見本座、背を見ると「あっ・・・」加賀千代の大錯笵でした。
天保仙人様の藏品(右画像)を見て以来のこと。社長の荒畑氏は「これ、仙人のものとほぼ同じなんですよね。極印も同じ。そして、製作はどう見ても本座にしか見えない。ひょっとすると本座銭かも知れないと、仙人と話していたんです。」そして、もう一枚の大錯笵を見せてくれました。それは不知天保通寶分類譜の現品でした。「これは加賀千代だと思う。(福岡離郭)」確かに作も色もかなり落ちます。どう見ても妖しいし、色も加賀千代と一般に言われる黒ずんだ色です。何より、砂笵に後から母銭を押し付けた痕跡がばっちり残っています。
(平らにした砂笵に母銭を強く押し付けると、反作用で銭の周りにだけ鋳砂が堤防のように盛り上がります。すると実際に鋳出された銭の輪の周囲は凹んでしまうのです。型には凹凸が逆に表れます。)
本座の場合、固めた砂笵に母銭を置き、上から細かい化粧砂をふるい、その後に鋳砂をかぶせます。したがって銭の周囲の盛り上がりはほとんどできず、仮に背ずれとなったとしても銭の周囲に凹の部分はほとんどできません。
たしかに。大錯笵は本座の製作なのかもしれません。しかし、いくつか疑問が残ります。

①こんな出来損ないに検印である桐極印をなぜ打ったのか。
②厚肉の天保銭なのに、ずれて輪の部分にかかっていても穿穴が通っている。いくらなんでも意図的でない限り穴は開かない。目途切作業(穿の成形)で異常は簡単にわかるのでそのまま流通させるとは考え難い。
③砂笵がずれたとしたら、背ズレ銭がひとつの砂笵分、大量にできる。これに気づかないはずはない。
④錯笵銭に同じものなし・・・同じものが出てきたら、母銭段階からずれて作られたもの。
⑤こんなに目立つもののにしては出現期が遅すぎる。
つまり、仮にこの大錯笵が本座だとしたら確信犯でない限りこんなものはできません。④については仙人様の所有品と、ウィンダムさんの品は微妙に違うようなのですけど・・・。⑤については秘蔵されていたのかもしれません。一方、私が贋作者だったら、はじめからずれた母銭を作り、鋳造します。
と、いうわけでこれが本座だとしたら、職人が、贈答用などにわざと作った品としか考えられません。
小判に逆桐があったりしますし、大きな災いを避けるためにわざと不完全なものは職人は作ることがあるようなのです。ふいご祭りや嘉定祝などの風習かもしれません。つまり、通常の錯笵では考え難いものなのです。
まあ、この世界何があるかわからないので、私の考えも正しいとは限りません。
この品を加賀千代作だとしたのは瓜生氏の判断のようで、明確な根拠はないようなのです。加賀千代にはこの鋳造技術はないと思います。あるいは加賀千代の下請けのO氏ならということもあり得ますが・・・。
いずれににしてもこれは芸術品で、ここまでの品は現代ではなかなか作れません。そういう意味でも価値があります。
 
長郭手尨字(ぼうじ)異頭通 
長径49.03㎜ 短径32.54㎜ 銭文径41.33㎜ 重量19.80g 
 南部藩大字最大様(山内座)
長径49.9㎜ 短径33.6㎜ 銭文径41.2㎜ 重量21.3g
長郭手覆輪刔輪深淵
長径48.6㎜ 短径32.5㎜ 銭文径40.5㎜ 重量22.1g
9月12日 【掘り出し物】
冒頭の画像はネットで見た記憶がある方も多いでしょう。関西のSさんが落としたそうです。尨字とは「むく犬の毛の乱れ」を意味します。不知天保通寶分類譜においては銭名とするには無理がある・・・と書かれてしまいましたが、この名は捨てがたいですね。
さて、Sさんによると出品時の名前は尨字塞頭通だったそうですけど通頭の一部が陰起して拓に写らないので異頭通ではないかとのこと。たしかにそうです。
2016年7月13日の制作日記に塞頭通の拡大画像を掲載しています。制作はずいぶん違いますが、たしかにこれは塞頭通というより異頭通ですね。おみそれしました。
それにしてもこの類はこういったぬめぬめ肌をよく見ます。むしろ私の塞頭通の方が異質のような気がしてしまいます。本当に不思議ですね。Sさん、お買い得でしたね。

さて、本日東京に出張した帰り道、乗換駅の新橋でウィンダムさんに立ち寄りました。店頭には大珍品の南部藩大字の母銭があり、それを目に焼き付けようと思いちょっと横を見ると、あれま!・・・立派な大字がもう一枚ある。手に取ってみるととにかくでかい。ひと目気に入り、これ売り物ですか?・・・と聞くと「はい」との返事。値段を聞き即決。別に勝算があったわけではありませんが、自分の嗅覚を信じました。
極印の拡大画像
結果は大正解で、南部大字の最大様といって良いものでした。長径は49.9㎜と巨大で、類似カタログでは大様、當百銭カタログでは濶縁手としています。この大きさは雑銭の会の工藤会長もしのぐのではないでしょうか?まあ、上には上があるのでしょうけどこれは自慢できる逸品になりました。
家に帰るとネットオークションでも南部大字の小様を落札してました。あらら・・・。

ご満悦で帰ろうとしたところ・・・天保銭のトレイに目が止まりました。これはたしか8月にも見たし、仙人様をはじめとした目利きが出入りしているし、お金もないし・・・でも、ひょっとしたらと思いなおし眺めたらこいつが呼んでいました。
画像が薄ぼけていてぴんとこないかもしれませんが、この不知銭は触れば一発でわかります。感覚としてまるで碁石を触っているような傾斜を感じるのです。天保泉譜にはこうあります。「灰黄色作良。谷の輪に沿う部分深く、中央ほど浅い特異の作」とあります。この解説を信じる限り、輪沿ってに細い溝をえぐったタイプではなく、全体的に丸みを帯びた傾斜がついているタイプであると思います。この手のものの入手は実は2枚目で、その共通の特徴としては、(上記の特徴の他に)
①大頭通で上辺が反り気味になること
②王画が貝からわずかに離れること
③輪の立ち上がりが外側に開くこと
つまり、地だけでなく輪の際も加刀されているのです。(拡大画像は夏の古銭会に掲載してあります。)

これらはお金を払っても入手できない品でもありますから、掘り出し物といっても良いかもしれません。値段を聞いて即金で払い、ひったくるように受け取って帰ってきました。とくに南部大字の最大様はバケモノクラスです。自慢できるものが増えました。

東北のSさんからメールが届きました。以下にその内容のあらましを掲載します。
表題の天保銭は現存が確認されている母銭より大きいもので、面背共広郭、覆輪濶縁の珍しいものと感心しています。
ところで、山内(柏木)座は大迫から鋳銭指導を受けていますが、その指導は1回ではなかったと考えています。岩手の銭楽会という古銭会の研究発表では、前期は慶応四年四月まで、後期は慶応四年五月からとなっていて、前期は盛岡中字(銅山手)、後期は盛岡大字を鋳造したと考えられています。
慶応四年四月に取り締まりがあって、母銭を含む鋳銭道具は全て没収破却されたため、後期には新たに木彫り母銭から新規母銭を作ったようです。これが盛岡中字の母銭が現在ほとんど見当たらない原因と考えられているのです。
ちなみに、中字(銅山手)の母銭は過去に田中桂宝氏が持っていたことが岩手古泉会の発行した書籍に記載されています。
※やはりこれはモンスター級の逸品だったようです。山内座後期銭の初出品に該当するものなのでしょうか?
※深淵は見れば見るほど半玉寶細縁銭の製作に似ています。砂目も極印も・・・。
※新橋の田宮商会の田宮社長は引退・権利譲渡され、現在はウィンダム・荒畑社長だそうです。(天保仙人様から)大変失礼しました。
 
9月6日 【細郭手覆輪狭玉寶濶縁】
ネットに出ていた細郭手。よく見る細郭手覆輪連玉寶の類かと思いましたが、削字の雰囲気が少し違い、背の濶縁が強いので興味を持ってしまい、落としに行ってしまいました。予定価格をかなりオーバーです。
手にした瞬間、やや薄さを感じましたので、一瞬、圧延されちゃったのかも・・・と不安に思いましたが、製作に異常は発見できません。地肌に鋳ざらい痕跡がありますが、連玉寶の類にも時々見られます。ただ、連玉寶の鋳ざらい痕跡は「ぬめぬめ感」が強いのですけどこれには見られません。銭文径は連玉寶の多くが40.2㎜前後なのに対し、40.5㎜ほどあります。
長径も49.0㎜ありますので、一般的な連玉寶よりかなり大きめです。ただ、文字の癖・・・背當の冠前点の付け根が陰起して離点することや、花押の一番上の角が先太で根本が細くかろうじてつながっている感じなど、共通点が多く、結論からするとやはり連玉寶の仲間だと考える方が自然です。ただし、連玉寶は別名「容弱肥字」とあるように文字がやや太くなる癖があるのですけど、これには見られません。肥字になった方が銭文径も大きくなるはずなのですけどそれも違う。
小異の範囲でしょうけど・・・。不知天保通寶分類譜には、狭玉寶というものがあり、それも同様の特徴を持っているので、とりあえず狭玉寶の名前を冠しています。
 
9月3日 【みっけ】
ネット観察していると、雑銭の中に珍品が紛れていることがときどきあります。目のくらんだ魍魎どもはがっつり食らいつくことが多いのです。疑似餌に注意しましょう。今回は最近収集した比較的わかりやすい画像をご覧ください。

上段(初心~初級)
これはわかりやすいですね。

・長郭手覆輪強刔輪宏足寶が上段中央にはっきり見えます。

中段(初~中級)
見つけるのは容易ながらそれがどういった価値があるのか分かれば中級以上。

・状態は今一つですけど長郭手覆輪刔輪の天上強刔輪と思しきものが上段右端にあります。

下段(中級以上)
元は45枚組の天保銭を一部拡大画像にしたものです。
怪しそうなものが分からない方・・・もう少し勉強しましょう。
怪しそうなもの1枚が見えた方・・・まずまず、合格です。
怪しそうなもの2枚が見えた方・・・大変良くできました。
怪しそうなもの3枚以上の方・・・・病気です。幻覚かもしれません。

・長郭手覆輪刔輪宏足寶(上段中央)と、その右隣に覆輪の長郭手らしきものがひっそり隠れています。
 
9月2日 【打印銭永楽】
専門外ながらものすごく魅力的な古銭です。非常に薄っぺらでその割に文字がくっきり浮かび上がっています。果たして極印を打ち込むことだけでこのように切れの良い紋様が浮かび上がるものなのか・・・かねてから不思議に思っています。流通させるにしても薄すぎて、単体はもちろん、挿しに入れてもすぐばれます。したがって玩具、飾りの類の絵銭かなと思う次第。寛永通寶にも同じような作りの品があり、昔は島銭寛永とされたようです。薄っぺらながら素朴にして稚味雅味溢れる逸品ですね。
 
 
不知細郭手覆輪縮形
長径47.8㎜ 短径32.0㎜ 銭文径40.3㎜ 重量19.2g 
8月29日 【B天保劇場4】
ネットで拾った8000円弱の不知銭です。結論から言うと棚から牡丹餅の品でした。
48㎜を切る天保銭は意外に少ないのは知っていましたが、比較的ありふれた写しに見えたので期待していなかったのですけど、所持品を調べて驚きました。細郭手の縮形で、しかも覆輪といえるのはこれが初めての入手品だったのです。気が付かないものですね。B級品としましたが、それではあまりにも不憫かもしれません。
存在数から言うと「少」レベルなんだと思います。ただ、実際にその価格で売れるかというと甚だ疑問。とりあえず評価は3にしてみましたがたぶんその価格じゃ誰も手を出さないかもしれません。やはり不憫な子です。だって、私も1万5000円以上になったら降りようと思ったぐらいですから。
 
 
不知長郭手異銅刔輪無極印
長径48.5㎜ 短径32.0㎜ 銭文径41.0㎜ 重量22.4g
不知長郭手厚肉異極印
長径48.8㎜ 短径32.0㎜ 銭文径41.2㎜ 重量24.4g
不知長郭手浅字覆輪異極印
長径48.8㎜ 短径32.1㎜ 銭文径41.0㎜ 重量21.3g
8月25日 【B天保劇場3】
幣泉誌での落札品が届きました。例によって不知天保銭です。見た瞬間寶足が長いことに目が行くと思います。寶の周囲が彫られまた、輪の太細もあることから輪周囲に沿って刔輪がされていることが分かります。郭内の鋳バリが大きいことから、一瞬張り合わせを思わせる作風です。銅色は赤みを帯びた焦げ茶色でありしかもどうやら無極印です。
まあ、だからどうしたという品なんですけど、最近はこういったB級鋳写し系が大好きで集めてしまう変態コレクターになっています。

中段の品はネットで購入した真っ黒に変色した不知長郭手。異銅なのかもしれませんがこうなると全く分かりません。天上に鋳だまりがあるので銭文径は推定値です。単純な鋳写しなので文字変化もなく、ただ、肉厚が2.7㎜ほどある厚肉重量銭です。重さは24.4gほど。この値もびっくりするほどではありませんが、不知銭の証拠。桐極印は破損しているのか△穴ぼこ状に見えます。穿内やすりはべったりタイプです。まぎれもないB級品で処分するときには苦労するだろうなあ・・・と思いながら、やめられないんですよね・・・。

最後の品は、比較してみればわずかに覆輪と気づきますが、全体的に彫りが浅い長郭手です。おそらく破損極印だと思いますが形がはっきりしません。こちらもネット購入の品です。銅質そのものは練れが良い感じがしますが、気泡によると思われる鋳ホールや細かい突起状の鋳だまりなどが地肌に複数観察できます。そのためなのか背の花押の頭の両端や短い2本のひげの先端が欠損しています。花押の周囲にわずかに彫られたような痕跡も観察できますのであるいは意図的な加工なのかもしれませんが断定はできません。削花押と判断できたらもう少し箔が付いたのですけど・・・。穿内やすりはベタ掛けで、郭形状もわずかに平行四辺形状に全体的に歪んでいます。極印はおそらく破損極印で形が片側半分しかありません。
 
 
8月23日 【天保銭祭り】
ネットで天保銭が大量に出ています。ほとんど落札できませんでしたけど、面白い品が多く出ていたので、画像収集していました。

最上段は曳尾大字。曳尾は人気はあるものの美銭は少ない。まして大字はとんでもなく少ない。これは2か月ぐらい前に収集した画像です。ひとこと、美しい!うっとりします。文字の左右バランスが絶妙で、花押の鋳だまりなどの小瑕を除けばほぼ完ぺきな美銭です。美人モデルですね。
続いては・・・

玉塚天保の海運橋です。海運橋は玉塚証券発祥の地にある橋だそうで、玉塚榮次郎はこの橋の名前を自身の作ったノベルティグッズに入れたのだそうです。背側はきれいですけど面側はものすごく汚れてます。実はこれが海運橋の真贋を見るポイントだと思います。この海運橋は、もともと水滴(硯に水を足す入れ物)の底として作られたと聞いています。面側は穴を塞がれ、ハンダ付けされたとか・・・。その痕跡がこの汚れ・・・名誉の負傷です。面側がとてもきれいな玉塚天保の海運橋は怪しい・・・とお考えください。ただ、玉塚天保はあくまでもメダル的な意匠品。とくにこの海運橋は生活用具として作られたものを分解したもの。果たして大金を払って入手すべきかと考えているうちに終了してしまいました。

3番目は地味な長郭手。ほとんど加刀がなく普通の鋳写しです。鋳造変化かも知れませんが、通点が丸く降り、しんにゅうに接します。通頭や背の百の横引きの爪も少しい大きい。
ただ、それだけではつまらない品なのですけど、重量が25.47gもありました。25gを超える不知天保通寶は探し求めるとなかなか見つかりません。(2015年1月11日制作日記参照)そういう意味ではこれはお買い得品でした。

さて、続いては言わずもがなの超有名品。水戸藩銭とされる遒勁です。いやあ、美しい。これだけ個性ある書体を堂々と作るとは大したものです。遒勁には銭形の大小が激しいと聞きます。これは不知銭の作り方と同じで、錫母を使わず、片っ端から写しを繰り返したということです。なかなか立派な銭容で多分大丈夫だと思いますが、とにかくこの遒勁は人気があるから精巧な贋作がたくさんあります。オークションにもよく出てきますが、贋作も本物として出てきてしまっています。
なんでも銀座の菓子金型製造業者だった冨田の作った遒勁はとても精巧だったそうですけど、残念ながら実見したことがありません。この類に手を出すのは相当勇気がいると思います。

最下段はひと目分かる不知長郭手の覆輪銭です。重量も24.6gとなかなかの重量銭。全体から受ける印象は朴訥・素朴。下からあおるように撮影していますが、覆輪の迫力はMAXレベルです。この天保銭はなかなか人気で8万円以上の値が付いたと思います。その理由はいくつかあります。
①迫力ある覆輪・・・これは説明済み。
②重量の魅力・・・これも説明は済み。
③穿内の仕上げが独特で背狭穿になっていること・・・これが実に魅力的。
④背當の冠の右側の打ち込みが短く、この形は反玉寶の形状に似ている。
この記述に共感した方は私と同じ感性をお持ちの方です。もしかすると反玉の仕上げ銭なのではないかというはかない期待感・・・絶対違うでしょうけど。
このほかにも反玉寶そのものやら、不知長郭手張足寶やら、塞頭通などが出ています。欲しいけどなかなか無理はできないですね。どこまで粘れるかやってみますけど・・・。
 
8月18日 【覆輪天保】
大和文庫の落札品です。相変わらず不知銭天保をせっせか落としている愚か者です。
上段は不知長郭手長足寶厚肉の名前で出ていましたが、重量は22.8gしかなく、覆輪銭であることを考えるとさして肉厚でもありませんでした。がっかり。(肉厚2.3~2.4㎜)
したがって、名称は長郭手覆輪肥花押異極印に変えておきます。
桐極印は左右の葉脈が段違いになるタイプ。一瞬、短尾通系の極印かと思いましたが、左右の段差が逆になっています。(惜しい!)
長径49.0㎜ 短径32.5㎜ 
銭文径40.6㎜ 重量22.8g
細郭手覆輪という名前で出ていたものは、持った瞬間厚みを感じます。実際の肉厚は2.5~2.7㎜で、重量も長郭手より重い。極印はやはり異極印でクローバー型2としたものに良く似ています。
細郭手覆輪異極印
長径49.2㎜ 短径33.0㎜ 
銭文径40.7㎜ 重量23.3g
 
 
8月17日 【降寶大様銭の比較】
平成17年の銀座コインオークションに降寶の大様銭が出ていました。外径は25.3㎜。今回の入手品がおおよそ25.2㎜なので画像の縮尺をほぼそろえてみたのですけど印象がかなり異なります。明らかに今回の入手品の方が濶縁縮字なのです。実際に藩切り画像にして重ねてみると、内径が全く異なります。寛永銭レベルでここまで異なるのは極めて異例なこと。計測値に誤りがあることも考える必要がありますが、それにしても大きな差です。
今回の入手品を一般の通用銭と重ねるとやはり、内径が0.4~5㎜大きいので、これは銀座コインオークションに出た品が(計測値が正しいとすれば)お化け級の品・・・原母銭クラスだったということでしょう。
古寛永は通用銭の出来の良いものを何度も写して母銭にしたと言います。ただ、この降寶に限って言えば、外径の大きいものは散見できても、母銭とはいえないような品が沢山あるようで、それはそれは不思議です。
 
 
8月16日 【この顔にぴんと来たら110番】
某氏から贋作の最新画像を頂戴しました。画像の品は中国の現地工場で直接入手した物との事です。水戸の四文母銭ですけど、小菅、洲崎十字寛、不旧手藤沢銭、四文銭仰宝、文久永宝の草文、玉宝、天保通宝の水戸系或いは本座の粗い肌のもの・・・など多彩のようです。未使用状態の物から焼いた物、伝世風に仕上げた物がある様です。
画像の品は、スアナがあり製造途中の不良品で未仕上げ状態です。文字や輪郭の立ち上がりが本物の母銭と変わる事が無く見事な出来映えです。この一連の物は現物(母銭となる物)の直写しでは無く、コンピュータ処理(記憶させて)をして鋳造している様です。したがって、内径も本物の母銭と同じで逆に微妙に大きい物もある様です。製造元は数十人規模の工芸品を作っている立派な工場の様です。
この類の注文者はN氏でT氏が売りさばき人の様ですが、直売もしているようです。
中国にはこの手のコンピュータを使用している所が十数ヶ所あるようで、その為に別ルートと思われる贋造母銭が存在すると思われます。その類は白銅気味の磁性を有する物で白目の中字、四年銭の小様、不旧手の横大路銭等が存在する様です。(中国と確定している訳ではありません。)納入価格は1枚当たり、約35円で最低ロットが500枚以上。しかも100枚単位で部分的な修正が可能との事、つまり、手替わりも簡単に作れる!
判明しているのは母銭だけですが、通用銭の高価な品物が作られても不思議でありません。N氏は偽物で大儲けしているので、どの様な贋造品も作られる可能性があります。
不正についてはほぼ間違いないのですけど、あとは業界で排除することができるか否かですね。放置しておくと業界そのものが壊滅しかねない状況です。皆様、ご用心ください。
 
8月15日 【直永の鋳だまり】
関西のSさんからの投稿です。直永の画像ですけど、広郭気味で雰囲気的にはよく似ていますが、よく見れば別物。とくに永点やフ画の形状はちがいますね。ただ、気になるのはほぼ同じ位置に鋳だまりがあること。これも良く見れば位置は微妙に違うので、偶然と言えばその通り。。ただ、何か意図的なものがあるのかもとSさんは気になられているとの事。皆様のご意見をお聞きしたいと思います。類品があればご連絡ください。
 
元禄期十万坪銭広目寛面背逆製 
古寛永不知降寶仰冠寛広郭大様銭
平成古寛永銭譜No.2117原品 外径25.25㎜
8月12日 【プチ寛永珍銭2題】
寛永銭は最近これぞというめぼしいものにはなかなか出会えていませんが、それでも気に入ったものをぽつぽつ拾っています。
上段はネットで購入した十万坪銭の広目寛と思われるもの。書体がぼやけているのはこれが面背逆製と呼ばれるエラー銭だからです。この書体は一般の泉書には享保期とされることが多いのですけど、遺跡発掘調査で富士山の宝永噴火以前にまでさかのぼることが確実であり、当HPでは元禄期としています。穴銭入門新寛永通宝・新寛永の部(改訂第4版)では鋳造地についても異なることが示唆されていますが、確実な証拠がないまま鋳造地をいじると、後世に大混乱を起こさせることは明白。泉界では古寛永で身をもって体験しています。したがって現時点では十万坪銭のままにそっとしておくしかないと思います。
続く古寛永は寛仙堂山添氏の旧蔵品・・・平成古寛永銭譜No.2117原品です。やはりネットで入手。古寛永の鋳造地は御蔵銭と長門銭以外は明らかでなく、残りのほとんどが伝承や推定による鋳地割り当て。ほとんどの銭に鋳造地が割り当てられている中で、なぜかこの「降寶」と「長尾永」だけがずっと無戸籍のままなのです。
この降寶には大型銭が散見されるようで、オークションなどにときどき姿を見せますが、他座のように26㎜を超えるようなものは私は見たことがありません。
久泉研究資料④を見ると25㎜台の大様銭が3枚、24.5㎜以上の次大様も数枚掲載されています。解説を読むとこのサイズは母銭の大きさであり、母銭的な加工があるものも多いようなのですが「母銭として使用できたであろうか。」という歯切れの悪い言葉で締めくくられている箇所もあり、謎の多い品です。この品もどう見ても通用銭で、母銭加工はされていないと思います。
古寛永は24㎜台が通常で25㎜を超えるものは建仁寺、沓谷など古寛永でも後期に該当するものにときどき見つかります。古寛永の大様はなかなか見つからなく、降寶の大様はその中でも比較的入手はしやすい方だと言われているかもしれませんが、いざ手に入れるとなると大変です。平成古寛永銭譜の評価は5位とかなり抑えめですけど、もう少し評価されても良いかと私は思います。
なお、大様とか濶縁銭などをやっきになって求めていると、焼け伸びと思われるものに必ず行き当たります。平成古寛永泉譜のなかにもそういったものが(たぶんあえて)掲載されているぐらいですから、くれぐれもご注意ください。
 
8月8日 【萩方字次鋳】
久々に上京しました。東京プリンスでの研修だったので昼食がてら新橋に立ち寄りました。たぶん今年初めての上京です。私の家から東京までは2時間とかからない距離なのですけど、最近はものすごく遠く感じます。そんなこんなで今年初めての古銭店へ・・・新橋のウィンダムさんへ。
まずは第28回江戸コインオークションの日程ですけど、平成29年10月15日(日)東京駅丸ビルで決定のようです。昨年は郵便事故なのかカタログが届きませんでしたが、今年は郵便入札ぐらいはしたいかな・・・と。
お店の商品は、鉄人や侍古銭会の面々が買いまくっていますので期待薄ながら、記念になる品はないかと物色。会津の萎字広郭やら久留米の正字背異替母銭などがさらりとあるけどさすがに手が出ません。
ふと見ると方字のきれいなものがありましたので少々値は張るものの記念に購入して返ろうと思ったのですが、気になって未使用クラスのものも併せて購入。(画像:左端と中央)福沢さんさよならです。気になった理由は2枚の方字の銭径はほぼ同じなのに、未使用の方が濶縁に見えるから。つまり次鋳の可能性があったからです。この2枚は方字としてはやや大ぶりで左端が長径48.9㎜、中央が49.0㎜。これについては以前結論を保留していた短二天(画像:右端)の結論にも役に立ちそうでしたので。
左端の方字は深字とか美制とすべきものでしょうか?類似カタログにおいては細字細郭の名称のものがありますが、左端は細字でも細郭とは言えません。美制のものはもう一枚保有していますが、それは狭二天になっています。砂目の様子が全く違います。中央のものはざらつく砂目のもの。この砂目タイプのものは卵型の銭形になっているものを散見しますが、見栄えがしないので意識して購入したことはありませんでした。また、方字の研究は製作日記2015年3月11日と2014年7月31日をご覧ください。いずれも京都のTさんのご報告です。結論から言うと中央の品および短二天は銭文径が明らかに小さいです。合成画像で比べれば一目両全です。ただ、Tさんの計測値に比べると、中央の品の銭文径は大きい。と、いうことはさらに小さい次々鋳もあるのかもしれません。
少なくとも中央の品及び短二天は次鋳タイプのものであることは間違いはなさそうです。Tさんの見つけたさらに銭文径の小さなタイプもあるのか、それとも私の計測着実の差なのか、2014年の記事の厚肉天保が狭穿に見えること、存在数や分類名称について・・・興味は尽きないところです。なお、中央の次鋳濶縁タイプの品が欲しい方はウィンダムさんにGO!。同じタイプのものがあと1枚残っているはずです。
 
方字美制
長径48.9㎜ 銭文径40.7㎜
方字次鋳濶縁
長径49.0㎜ 銭文径40.2㎜
方字短二天
 
長郭手 強刔輪細縁曲足寶
長径49.0㎜ 短径32.3㎜ 銭文径40.9㎜ 重量20.3g
広郭手 鋳写赤銅質
長径48.2㎜ 短径31.7㎜ 銭文径40.5㎜ 重量20.7g
長郭手 強刔輪反足寶
長径49.2㎜ 短径32.7㎜ 銭文径41.0㎜ 重量21.2g
8月7日 【CCFの不知天保】
CCFの郵便入札落札品が届きました。
初めの品は見た瞬間6月22日の制作日記の品と同じだ!・・・と叫んでしまった品。ぬめぬめした肌の様子や刔輪の強さ、異足寶気味なところなど見どころは満載。ただし状態はいまいちで粗造の強刔輪曲足寶といったところでしょうか?好奇心からかなり高い値を入れてしまった反省の品。計測してみて意外に大きいので驚きましたが肉厚は2.3㎜とやはり薄い粗造品ですね。
続いては不知天保通寶分類譜 上巻P202原品と言うことだけで札を入れていた品。最低価格落札でしたから誰も札を入れていなかったと言うこと。泉譜での名称は「縮保」で長径47.55㎜、短径31.45㎜の銭径縮小銭の部門掲載品で「保字の下辺部に加刀されているもの。」と書いてあります。しかし、実測値は・・・
長径48.2㎜ 短径31.7㎜
銭文径40.5㎜ 重量20.7g
瓜生氏自らが47㎜以下と規定した銭径縮小銭じゃありません。しかもどう目を凝らしても保の周囲の加刀が見られない。瓜生氏の泉譜には虚偽なのか悪戯なのか誤りが多いのですけど、泉譜を信じている身としてはこれは困ります。実はもしかしたら秋田小様かもしれないかもという助平心で応札していましたが、土佐額輪の着色贋作かも知れないと思えるような次第。たしかに銅色は見たことのない赤褐色。でも、久留米とも違うし土佐とも極印は違うみたい。だから不知銭で良いと思います。あるいは南部民鋳とすべきか?変な小細工しなければ良かったのにと思います。
最後の一枚がハイライト。天保通寶と類似カタログNo.173原品です。カタログの写真写りが悪かったので人気がなかったようですけど実物はむしろ美品の類ですね。不知天保通寶分類譜にはこそっと2品だけ類品掲載されています。長張足寶や仰天(不知天保通寶分類譜下巻P154)に書体が似ていますけど・・・。よく見ると背の當上の刔輪がすさまじいですね。
現物を見て一番驚いたのが肌や銅質が仙台天保とそっくりなのです。いわゆる魚子地肌で、仙台天保銭を見慣れている方ならば、この画像からも理解できると思いますが仙台長郭長足寶と言っても良いかなと思うくらいです。
極印も調べましたが、摩耗ではっきりしませんが仙台型の尖った形状にも見えます。もしこれが肯定されれば世紀の大発見と言った所なんですけど皆さんどう考えますか?
 
8月5日 【投稿記事】
ウォーキングを始めて半年、毎日6Km平均で歩き続けていますが、ダイエット効果は今のところほぼなし。ただし、血液検査の結果は物凄く改善しましたから、もう少し続けます。その結果、HPの更新が雨の日ぐらいにしかできなくなりましたがお許しください。

投稿1(中国のRさんから)
寛文期亀戸銭の繊字背小文です。ただし、郭の様子がおかしい。問題はこれを面背逆製とみるか否かということ。初心者の方のために説明しますと・・・銭は母銭という銭の原型から型を採って、そこに溶けた銅を流し込んでつくります。型は面側(上)と背側(下)に2分割されます。手間を省くために普通は平らにならし固めた下の型に母銭を軽く押し付けるように並べてから、その上に細かな化粧砂をふるい、さらにそれを覆うように鋳砂をかぶせて上側の型を採ります。上下の型を分離して、母銭を回収し、熔けた銅の流れる道をつくれば鋳型の出来上がり。鋳砂はガラス質の細かな砂と粘土が適度に混ざったもの。
化粧砂をふるわれた側はくっきり鋳出されますので、通常は文字のある面側を上にして母銭を置きますが、大量生産であったためときおり上下を間違えて置いてしまうものが現れます。
置きなおした場合は、面と背の両方の図柄が現れてしまうので、かまわず鋳造した結果、鋳バリが面側に偏ったもので、面側の形成不完全なもの・・・が生まれます。
鋳バリは取り除かれてしまうこともありますが、面背逆製のものは鋳バリが分厚くかつ円形の穴・・・円穿になったものが多見されます。円穿のメカニズムについては2015年1月17日の制作日記に書いてありますのでお読みください。前置きはこれぐらいにして、Rさんの古銭をどう判断するか・・・
鋳バリの位置に偏りは見られるものの、面側に完全には偏ってなく、中間気味。また、面の彫りもそこそこ深い。人によっては砂笵崩れであり面背逆製ではないとする方もいると思います。
私の判断は・・・面背逆製としていいかな・・・と、今では思っています。銭の厚みの中間あたりに鋳バリがあるということは、砂笵への押しつけが強かったか、砂笵の固め方が緩かったかのいずれかになります。また、鋳バリが大きいということは鋳砂がしっかり穿の中にいきわたらず空間が空いたということになります。そのことを考えると面側から化粧砂をふるわれた場合、砂笵崩れがあったとしても穿の中に空間ができることはあまり考えられないのです。
私の妄想ですけど、間違って母銭を置いてしまった鋳銭工は、経験的に面側のデザインがはっきり鋳出されないことを知っていたため意図的に砂笵にぐっと押し付けて失敗リスクを回避したのではないかと。
まあ、妄想に過ぎませんから面背逆製”様”とすべきなのかもしれません。鋳造がていねいな文銭であったことにこれは価値があると思いますし、錯笵の一種であることは間違いないところ。面背逆製でも程度によって評価が違うと考えれば良いと思います。

投稿2・投稿3(侍古銭会のよねさんから)
玉塚天保の土佐額輪打ち。ありそうでなかなかないものですね。CCF参加後に体調を崩されたとか・・・これが一番の薬(毒?)。
磨かれた琉球通寶。CCFでの入手品だそうで、でも書体が少し変。
実はこれ、大字小足狭冠寶の書体。通のしんにょうが前のめりなのが特徴的です。本物ならば世紀の大発見なのですが・・・たぶん毒の方でしょう。
投稿4(関西のSさんから)
寛文期亀戸銭の深字背文・・・背文を見て深字と分かれば、新寛永収集家としては一人前、面だけで分かるならもう病気レベルです。このレベルになるのには毎日文銭を見続ける必要があり、私など最近あまり見ていなかったのですっかり衰えてしまいました。
さて、実はこの2枚特殊なものです。
上段 
外径24.90㎜ 内径20.59㎜ 重量3.74g
下段 
外径25.14㎜ 内径20.08㎜ 重量4.15g
上段の方が内径が大きいのです。背文銭の各銭種のうち銭譜に細縁銭の記載の無いのが退点文と深字だけ・・・深字細縁ならば新発見?・・・あるいは銅質の練れが良く文字抜けが良さそうなので磨輪母銭かも知れません。ちなみに下段も深字破冠寛という役物です。

余談になりますが、散歩中に大声で鳴いている野良猫の子供2匹を拾ってしまいました。まだ、目もほとんど見えず排泄も自力でできません。一匹は成長不良でしたし、蚤だらけ。やむなく家に連れて帰り保護したものの、2~3時間おきの授乳排泄作業が必要で、仕事もあるのでやむなく動物病院に1週間ほど預けたところ、すっかり元気になり里親も見つかりました。後には高額な病院の請求書が残りましたが、果たして猫の恩返しと言うものはあるのでしょうか?
 
 
8月4日 【泉譜原品の魔力】
CCFは行事の都合で今年も参加できず・・・郵便入札でした。したがって全く期待していなかったのですが、思わぬ落札。天保銭の相場はひと段落なのでしょうか。ここのところ秋田の村上師と青森の板井師のコレクションが世に出ています。瀬戸の三納師と天保仙人師を加えて天保銭四天王と呼ばれておりましたが、そのうち二大コレクションが世に出たわけですから影響は大きいですね。私も随分散財しましたが趣味ですから・・・。とはいえ今回も高いもの買っちゃいました。(反省)それが類似カタログ173番原品の反足寶。
このタイプ、泉譜で見る限りは有名な長反足寶とは全く違う。長張足寶にも似ていますが、背の當上刔輪が強いし、泉譜の中での類品になかなか会えない品です。と、いう訳で最低価格付近で勝負したらあっさり落札・・・困った! 
 
7月27日 【贋作情報】
某氏から贋作についての情報が届きました。
昨年亡くなられた、SN氏も贋造品を作っていた様です。代表的な物が和鋳鐚の「円貝宝手治平通宝」だそうです。方泉處14号「現代の渡来銭から(下)」に登載されている物がそれに当たります。「本邦鐚銭図譜」の拓図と比較して文字が縦長になった物(特に寳字)です。この手は入札誌などへ1年に1回位の割合で出品されています。日本貨幣協会の会誌にも例会の出品物として登載され、以前は有名オークションにも本物として出品されています。また、ヤフオクや関氏の入札誌「穴銭」にも出品を見かけました。ここ10年位の落札価格は5万円~15万円位です。多数の方が本物と信じている様です。(本物は2品と思います。非常に強い磁性があり、バリ島からの里帰りのみで中国南部或いはベトナム出と言われる分からは出現してないと思います。)
最近はその贋造母銭に手を加え、背郭が含円郭気味に改造されて銅質も白銅気味の物が出て来ていますが、面文の特徴や郭の特徴等は全く同じです。他にも以前は贋造の鐚銭が多数出回っていましたが、SN氏が贋造した物かは分かりません。SN氏は鐚銭の第一人者と言える方でした。穴銭全般に精通して、中国銅幣や代用貨にも詳しかった方です。
この手はSN氏→N氏→T氏のルートが存在した様です。即ち、T氏が売りさばき人で各方面に卸をしている様です。
そのN氏が中国で作らせている物が新寛永、天保、文久の母銭類です。新寛永は一文銭及び四文銭ともに存在する様で、ある有識者によれば母銭の価格で数万円クラスまで存在する様です。その方は中国の製造元を見学された様です。最低ロットが500枚で為替の関係で多少変動する様ですが1枚当たり日本円換算35円位です。数万円クラスの母銭ならば1枚売れば儲かります。穴銭の型(母銭)を持込みすれば何でも可能の様で水戸の虎銭も存在する様です。外見の状態は未使用、火中品(焼いた物)、伝世風(着色)等様々の様です。 

デリケートな内容なので一部を伏字にしていますが、今も流入が続いているようです。ご注意ください。
 
7月26日 【深字大様銭の再考】
先般話題にした水戸深字の大様銭ですけど、これは「贋作・変造もしくは焼け伸び」ではなく確実に存在しています。2016年の3月28日の制作日記にある濶縁大様銭は長径が49.4㎜あるだけでなく、重量も20gもあるのです。この重さは変造のしようがありません。(報告者は中国の方ですけどかなり熱心な日本雑銭愛好家です。)
英泉天保通寶研究分類譜には母銭をはじめ数々の深字の拓図が掲載されています。
NO.670 母 銭:長径49.69㎜ 短径33.90㎜(左)
NO.676 通用銭:長径49.50㎜ 短径33.00㎜(中)
NO.677 通用銭:長径49.32㎜ 短径33.07㎜(右)
母銭は文句なしの品。通用銭は若干湯道の痕跡部分(鋳造の際に溶けた銅が流れ込んだ部分。)が飛び出しているように感じられますがそれであっても49㎜以上は立派です。
ただ、母銭の拓と重ねてみると良く分かるのですけど、いずれも銭文径は小さい。つまり、大きいのは縁幅の問題のようです。
銭文径が大きい大様銭がもし存在するのなら、それは原母に近いものから写されたものとになります。
不知天保銭の張足寶の銭形(銭文径)が非常にばらついているのは、原母クラスからも通用銭がつくられたからだと思います。
銭は大量生産ですから、同じ規格の母銭を大量に作る必要があります。原型となる彫母が1枚の場合、母銭は一度の鋳造から1枚しかつくれません。彫母から写した母銭をもう一度彫母とともに型を採って写せば、それから生まれる母銭は2枚になります。前の2枚と合わせて都合4枚、銭径別に1番母が1枚、2番母が2枚、3番母が1枚ということになります。
銭径のばらつきは磨輪すれば揃えられるのですけど、不知銭に銭径や輪幅、銭文径の違う同書体銭が多いのはこれが理由じゃないかと考えています。(錫母の発明はこの問題を解決しました。錫は凝固収縮率が極めて小さいので2度写してもほとんど縮みません。この技術は秘伝でしたので、密鋳銭座が知る由もありません。)
深字に母銭と同じ規格の通用銭が複数確認できれば、あるいは銭文径違いの通用銭が確認できれば楽しい発見だったのでしたけど、残念ながら今回ははずれでした。なお、私の所蔵品の画像を重ねるとほぼ母銭の拓図と重なるようです。ただし、私の所蔵品の長径は49.4㎜、英泉譜の拓図は49.69㎜ですけど、画像上は私の所有品の長径の方が大きくなってしまい、どうも印刷のゆがみ、写真の傾きなどもあって結論付けができません。
母銭に近い存在であることは間違いなさそうで、ほかの濶縁大様は通用銭製作上の大ぶり銭らしく、数的にもそれほど多くはないと思います。
思いつきになりますが・・・
覆輪加工はもしかしたら原母銭段階でがっつりとされていたのかもしれません。そうして銭径の違う母銭を複数鋳造したあとに磨輪して同じ大きさに仕上げる・・・覆輪幅の異なる、しかし銭径のそろった母銭の出来上がり・・・仮説としては面白くないですかね?
 
 
7月23日 【完璧な白銅母銭】
19日に記述した猿江小字母銭が到着しました。驚きました。画像以上に完璧・・・とくに面側の仕上がりは額輪気味の極細字で非の打ち所がありません。完璧すぎるのが怖いぐらいです。銅質は文銭の繊字の純白のものあるいは難波額輪の白銅母に近く、わずかに黄色味を帯びるものの純白と言っても過言ではないレベル。錫による発色だと思われ磁性はありません。逆に完璧すぎて怖い品で(本物なら)名品と言って差し支えないと思います。白銅質の母銭としては芸術的な美しさです。大絶賛!!
外径23.7㎜ 内径18.8㎜ 重量4.0g
 
7月19日 【猿江小字白銅母銭】
猿江銭というのは謎の多い銭で、結局銭籍、時期とも確定できず「旧猿江銭」という名称が多くの泉譜に使われています。古くは元文期猿江とされていましたが、青寶僂師は元文猿江に銭座の痕跡なしとして享保期十万坪銭にしていますが、仮籍の感は免れません。いづみ会譜(とくに第2版以前)は手引きの享保期説を採用していて、それが今のトレンドなのですけど、昭和59年に港区役所建設の際に江戸時代の寺社(源興院跡)と墓地、人骨が出土。その調査の過程で埋葬銭が発掘されました。埋葬銭の中に猿江小字が1枚(正字が3枚)含まれていたこと、そしてこの銭が少なくとも1707年(宝永4年:富士山の宝永大噴火)以前に埋められていたことが判明しています。とはいえこれだけでは何かの誤りと言われてしまえばそれまでなのですが、静岡県御殿場市長坂において発掘された、富士山の宝永噴火による埋没農家の遺跡から152枚の寛永銭が出土していて、その中に小字5枚、正字3枚が含まれていたことが遅れて判明したようです。(方泉處19号:平成9年)この遺跡そのものは昭和36年に発見されていたのですけど、それまで発掘古銭の銭種と年代を結びつけるような考証作業はされていなかったようなのです。
享保年間は1716年から、元文年間は1736年からです。1707年の段階で御殿場まで流通してたことから少なくとも宝永初期、推定で元禄末期(元禄1688~1704年)に鋳造されたことが確実だと思われます。いづみ会譜もこの報告を受けて、元禄期以前という記述を3版以降に加筆したものの、依然旧説を尊重した掲載内容になっています。
江戸時代の元号は天皇の退位以外に、吉凶の出来事でも改元されていますので、明治、昭和や平成のような長期元号はなく、最長でも享保の20年、5年未満の元号なんぞゴロゴロあります。私は大正年間が短かったというイメージがありますが、江戸時代に当てはめると元禄の16年間に次ぐ長期元号になります。
ついでに言うと、江戸の鋳銭場は亀戸周辺の下町に集中していて、猿江と亀戸も目と鼻の先。これは身分制度で居住地が限定されていたからで、しかも江戸はたびたび大火があり区画は頻繁に変わっています。(今でこそ10軒クラスの以上の火災は大ニュースですけど、江戸時代は数百軒クラスの火災はそれこそゴロゴロありました。)
さて、画像はネットで見かけたきれいな猿江小字の白銅母銭。いづみ会譜によると猿江の母銭は黄色のものが多いことになっていますが、このような白銅銭も少ないながら存在するようです。(青譜にその記述があったと、HPに書いていましたが改めて読むと確認できませんでした。)数年前に通用白銅銭だと思って、広穿の白銅銭を入手していましたが、精査してみるとやはり母銭のなりそこない・・・格下げ通用銭・・・みたいです。 
 
7月18日 【粗造天保左右楔形2】
制作日記4月3日の原品です。赤銅質の縮形粗造銭、サイズは再計測で長径47.7㎜、短径31.2㎜、銭文径41.1㎜、重量20.6g。極印ははっきりしませんが変形の異極印です。恐らく「鋳写細縁赤銅捻形」としたものと同じ系統だと思います。肉厚は左右で違うのですが、とくに左上と右下で異なり、左上が肉厚2.8㎜、右下が2㎜になっています。焼けたような色にも見えますがもともとがこの色のような気がします。赤い長郭手の不知天保銭は意外に少ないので、珍重されるべき存在なのですけど、粗造と言う点が好き嫌いの分かれる所ですね。私?・・・大好きです。

 
7月15日 【洪武背旋辺】
関西のSさんから明朝銭の画像が・・・(ありがとうございます。)洪武通宝図譜の奇通背濶縁によく似ているのですが寶字の尓画が長大です。背が広郭、濶縁で施辺です。外径23.92㎜、重量3.0g。
※私は洪武通寶は全くの専門外。ただ、この変化は目を惹きつけます。文字も枯れていますね。さながら洪武の淋手といったところ。
 
7月14日 【水戸深字濶縁大様】
東北のNさんからお便りが届きました。
「最近、入手した水戸深字は潤縁大様だと思いますので報告します。銭径49.33㎜、内径43.97㎜、銭文径40.45㎜です。
49㎜超の大様は村上さんの泉譜にも掲載されていますが、潤縁大様となるとこれで2品目かと思い発表するすることにしました。」
画像で見る限り通用銭のようです。この品についての位置づけは未だに良く分からない状態です。
詳しくは製作日記2013年7月21日、8月29日、夏の古銭会展示室などをご覧ください。
この件について天保仙人様からコメントが届きました。
「深字銭の画像!拝見しました。さすがNさんですね。深字といえども一寸変わっています。全体的に刃が入っているようで、銭文・郭・輪の表面がツルツルで真っ平に見えます。肌や銭文にも加工の痕跡が見られますが、あまり上手ではないので専門の職人の技とは思えません。覆輪存痕らしき物が見える気がしますが、それが確認されれば、覆輪・通用母銭からの産物になると思われ、この場合は久留米藩の物では無い事も考えられます。極印の有無や、桐か?石持ちか?にもより考えが変わります。(当方に通用母銭が有りますが、桐極印が打たれています。)
2016年3月28日の制作日記に類品がありました
一応現段階での私の考えは 
1.藩内にて・・・深字銭(通常なら通用銭だが、使用済み母銭も考えられる)+覆輪=大様の通用銭
2.民間にて・・・母銭に使用するために加刀修正!した物?・・・・・ではないかと思います。
深字大様銭(数値は再計測値)
長径49.4㎜ 短径33.3㎜ 重量17.6g 銭文径40.6㎜
深字通用銭との比較画像
この深字大様銭・・・実に不思議なものです。私も偶然1品入手してさんざん頭を悩ませました。恥ずかしながら最初は延展贋造じゃないかと疑ったぐらい。理由は・・・大様なのに銭文径が通用銭とほぼ同じであること+薄造りで軽いこと。
郭が整い、仕上げもあってつくりは通用銭よりはずっと良いものの母銭とするにはかなりランクが落ち無理がありそう。一方で文字の加刀が明らかで、抜けを意識した母銭づくりの一面も見られることも不思議なのです。通用母銭とするならこれを写した通用銭があるはずなのですが、それに該当するものも今のところ発見されていません。ですから特別な一品なのかなと考えていました。ちなみに私の所蔵品の極印は石持ち桐タイプでした。
Nさんの発見した品は、私の品以上に通用銭に近い品。画像を拡大して精査しましたが覆輪痕跡は確認できませんでした。
私が勝手に妄想したした意見ですけど・・・深字は地を極端に薄くして軽量化を図っているところから、当初はこのような大様に作る予定だったのではないでしょうか。つまり、これは初期のころの試作的な流通銭。
しかし、状況の悪化等もあって世に出たのは規格を縮小したもの(磨輪タイプ)だったのでは?新寛永の難波の額輪みたいなものですね。文字の加刀は初期銭の名残、あるいは仙人様のおっしゃるように母銭として使用することを意図したものかもしれません。

※若干大き目ながら銭文径に大きな違いはありません。(プラスチックノギスにて再計測してみました。)寶下輪際の刔輪差は目立ちます。背文字への加刀もはっきりしています。(母銭と同じ抜け。)内径ははっきり違う。寶前足は長め。やっぱり母銭なのかしら?でもこれに該当する通用銭はあるのかしら。また、これが母銭だとしたらNさんのものは何?
 
7月7日 【2017CCFオークション】
CCFのカタログが到着しました。分厚い!開催日は・・・
7月29日~30日にかけて、品川プリンスホテルにて開催されます。私の主戦場の日本穴銭は29日の午後2時30分から・・・。やる気満々でしたが・・・仕事と完全にバッティング。これはどうにもならない・・・残念ながら郵便入札しかできません。
私にとって今回注目の品は背川と薩摩の小字でしょう。ただし、入札するとは限りません。大点尓寶と短尾通・・・実は同じ銭種なのですけど後者の方の状態がすこぶるの美品。手数料と消費税が入るとかなり高額になりますけど、それなりの価値はありそうですね。反足寶、宏足寶も泉譜原品なので注目。でも行けないのですからどうしようもないですね。
 
7月4日 【B級天保劇場2】
密鋳好きが高じて、安い不知天保銭をひたすら買っています。将来この収集品がどうなるということは全く考えていない阿呆な行動なのかもしれませんが、相変わらず突っ走っていますね。さて、B級天保劇場・・・本日も開幕です。
はじめの天保銭はB級とするには少々可哀そうですね。しっかりした覆輪、わずかに刔輪もありよく見れば寶足もほんの少し長く見えるじゃないですか。重量も少し重い。色が黒っぽいので画像映りがよろしくないのですけど、けっして焼けたりしたものではなくて、これは地の色のようです。しかしながら見た目が命の古銭の世界ではこれはやはり不利なので、あえなく私の手に落ちたわけです。ぎりぎりB級?
不知長郭手覆輪 
長径48.9㎜ 短径32.3㎜ 
銭文径40.8㎜ 重量22.7g


さてもう一枚は、B級中のB級、正真正銘のB級天保です。見るからに本座銭、製作もすこぶる良いのですけど、どこか文字がだらしない。縮形と名乗るにも長径48㎜を切っていない。0.1㎜の差が大きいですね。とはいうものの縮形としか言いようがないですね。
不知長郭手鋳写縮形 
長径48.0㎜ 短径31.7㎜ 
銭文径40.8㎜ 重量20.2g


不知天保銭は面白いですね。
 
7月3日 【文久永宝周遊会】
ここのところ文久の話題を載せていませんでしたね・・・反省反省。周遊会の皆様は熱心と言いますか積極的な熱病に取りつかれたように前向きで精力的です。
さて、冒頭の拓本は見るからに珍銭の顔・・・と言うより王者の風格です。これは私憧れの深字狭久の書体。書体にみなぎる力と端正さがあります。この所有者は澧泉庵A氏。ただでさえ貴重な深字狭久の書体に加え、寶後足が短く跛寶になっていますから目立ちます。称:深字狭久短足寶・・・果たして2枚目はあるのでしょうか?

下段は、編者の祥雲斎師をして2枚目の発見という一風変わった書体。所有者は蘭泉堂O氏です。O氏は天狗寛永のたしか発見者じゃなかったかしら。分類名は深字手短久退足寶流文短尾久・・・いやあ、個性ある書体ですね。私はもう一度勉強しなおさなくちゃついていけません。所有品についてもあらためて確認する必要があります。
 
6月30日 【気になる背盛】
左の画像はネットに出ていた背盛の鋳放し母銭です。背盛でしかも鋳放し・・・少し前なら大騒ぎになるようなものなのですけど、妙に冷静な結果に終わったようです。それが私の心を揺さぶりました。1月15~17日にかけての制作日記にあるように、この手の黄褐色の大型銭の位置づけが私には今一つわかっていません。贋作者O氏の素性およびその作品についてはその一端については把握しています。私の知る限りは水戸銭系に多く淡い黄褐色の砥ぎ仕上げのないものばかりです。この銭に私がどうして注目したと言えば、実は私の保有する仰寶と砂目や製作に類似点が感じられるからです。背盛も仰寶も同じ藩の銭なんだから似ているのは当たり前と言われればそれまでのこと。ただ、これだけ立派な母銭がなぜ仕上げられずにこの世に残されているのかと言うことを考えるといささか不安になってしまいます。困ったことにこのような半仕上げ銭がある一方、完全仕上げ銭も存在し、それは製作に矛盾が感じられない・・・完璧なつくりです。かくなる上は贋作師O氏の南部藩の作品をも何としても目に焼き付けたいと思う次第。有識者の方・・・・こっそりお教えいただけないでしょうか?


※ここまで書きましたからO氏作の有名贋作品を紹介します。
それが明和短尾寛大様銭です。新寛永通宝カタログなどにも堂々と掲載されているこの銭は、明和短尾寛を炭火であぶり焼いただけの品。単純な加工ながら通常の品より焼け伸びて大きくなり、当時飛ぶように売れたとか。購入したコレクターが錫母から直接写した通用銭とかだと勝手な能書きを付けたため、O氏は何の説明もする必要はなかったとか・・・。私のHPにも掲載してあります。なお、この手の大型銭や覆輪銭の真贋を見分けるポイントをあえて挙げるとすれば・・・少なくとも覆輪銭や磨輪のない大型銭が目の前にあるとすれば、内径は通用銭と同じになるか縮小するのが普通なのです。もちろん例外的に内径が通用銭より大きいものはありますが、それは母銭づくりの特別なものになるはずなのです。ところが市場で見かける多くの大型銭、覆輪銭にはどうも育ちの良くないもの・・・製作はあまり良くないのに内径が大きいもの・・・が散見されます。その理由はお分かりですよね。
 
6月28日 【耳白錢の小変化】
耳白錢は新井白石が慶長の幣制復古を目指して金銀を良貨に戻しています。当然ながら銭も良貨にすべく作られたのが耳白錢・丸屋銭だと言われています。この両貨は非常に均質に作られていて、ほとんど手替わりがありません。つまり、貨幣としては優秀でも収集対象としては全く面白みに欠けるものなのです。しかし・・・マニアはよく見ています。
画像は四国のKさんから頂戴したもの。何の変哲もない耳白錢ですけど・・・永尾がわずかに短い。拡大すると永尾周囲が加刀されているように感じます。類品をお持ちの方・・・いらっしゃいますか?

※新井白石の治世は正徳の治として有名ですけど、貨幣政策的には非常に疑問です。と、いうのも流通している悪貨を回収して良貨に直すということは、例えば3両を2両に作り替えるということ。つまり手持ちの資金が減るわけです。もちろん金含有量でレートは変動させたのでしょうけど、少なくとも貨幣流通量は減少し、深刻なデフレーションが生じたことは想像に難くありません。
当然ながら、コメの価格は下がりますし、緊縮財政になりますので武士も農民も面白くない。この政策は古銭収集には非常にありがたいものですけど、当時の国民にはたまったものではありません。荻原のやり過ぎたインフレ政策を刷新するという意味は分かりますが、変化が激しすぎます。白石が吉宗の時代に失脚したのは、当然のことであったと思われます。
 
 
6月25日 【色の白いは・・・】
侍古銭会のたじさんが純白銅の寛保期高津銭細字背元を入手されたようです。(おめでとうございます。)七難どころか一難もなさそうな美銭です。色白美人好きは私の方が先輩でして、新寛永銭などかなりマニアックに集めたものです。その発端は元文期の虎の尾寛の小字の純白銅銭との出会いです。(これについては”特別展示室”にコーナーを設けているのでお読みください。)100円玉のような色の寛永銭との出会いに衝撃を受けました。以来、色の白っぽいものをやたらめったら集めたものです。寛永銭で白銅銭と言えば・・・元文期の平野新田銭の通称白目が有名ですけど、十万坪錢や虎の尾寛類、享保期の仙台異書の類など結構楽しいものがあります。
母銭では高津錢はもちろんのこと、明和期の背十一波は大きくて立派な白銅銭があって楽しいです。奇品館の№104にある秋田中字の白銅大型母銭は特に素晴らしい逸品です。目に焼き付けましょう。
通用銭では、文銭の白銅は繊字系以外はなかなか良いものは見つかりません。中でも以前、関西のSさんから見せて頂いた正字の純白銅銭と東北のHさんから見せて頂いた文政小字の白銅銭にはびっくり!・・・こんなものがこの世にあるんだ、といったところ。天保銭では薩摩広郭の白銅銭を求めて、私は迷走を続けています。果たして何枚失敗したことやら・・・左の画像はほぼ純白銅と言える不知長郭手。画像ではやや黄色味を帯びていますがこれあたりが限界かなと思っています。(ものすごく貴重ですよ!)秋田の故村上師に『称佐渡本座写に純白なものは本当にあるのですか?』と尋ねたところ『あるよ、でも10万円は出さないと手に入らないよ。』と言われたこともあります。おりしも某入札誌で純白の佐渡錢が出されていたころでした。と、いう訳で私の白いもの好きがどうも侍古銭会の方々にも感染しはじめたようでして・・・色の白いは七難招く・・・お気を付けください。
※情報提供であぶりだされたのか二水永マ頭通(贋作)がネットに出現しています。同じ特徴が確認できますので観察してみてください。
 
二水永マ頭通(贋作)
二水大字背星永(贋作)
二水永大字背星刮去(贋作)
二水永背広三汚用(贋作)
二水永濶縁(贋作)
二水永小字背星(贋作)
※画像に歪みがあります。
ネットにも登場!
こうなるとだまされやすい!
 
6月23日 【贋作博物館】
この画像は先般情報提供を頂いたO様から直接頂戴したもの。多くがO様の藏品です。O様およびO様の収集仲間の方々から集めた生の情報です。O様曰く
二水永小字背星でもお分かりの様に文字の角に丸みがありません。外輪の角も流通摩耗が無く、大げさに言えば手が切れると思われる状態の物もあります。」
画像では完全に判断できない部分もありますが色調が本物とは異なるのは良く分かす。二水永はやや淡い黄褐色が多く、保存にもよりますがあまり黒く発色はしません。(二水永マ頭通は別炉だと思われ紫黒褐色~黒褐色に発色します。)しかしながら、写しは見事で昭和60年代にこの技術が残っていたとはとは・・・敵ながらあっぱれです。(中国の技術かしら?)
業者Kは現在商売はされていない(亡くなった?)ようで、ご家族は参考品として売却されたようですけど、それが本物としてゾンビのように復活してくるとは・・・本当に困ったものです。現在これらの品をお持ちの方々には本当に申し訳ないのですが、業界浄化のために情報公開させていただく次第です。なお、O様も警告されていたように、これらの品は二次加工されて出自の痕跡が偽装されはじめていますのでご注意ください。フェイクマネーロンダリングですね。

スラブ入り贋作
スラブの鑑定は状態の鑑定と考えるべきで、東洋鋳造貨幣類に関してはあてにならないとお考えください。そもそもこのクラスのグレード(VF+)の古銭をスラブにする行為そのものが意図的であり、おかしいと考えるべきと思います。この状況になるとスラブを破壊しない限り詳細鑑定はできなくなります。これこそ贋作販売者の思うつぼです。
同様に、某有名オークションにも出品されていましたので皆様くれぐれもご注意ください。

※鑑定書なるものですけど、ないよりはあった方が良いのはたしかですけど、あまりあてにはならないとは言いすぎでしょうか?最近は悪用されているケースや誤鑑定も見られます。最後は自分の目を信用するしかなさそうです。

 
6月22日 【粗製薄肉+異足寶?】
四国のKさんから画像を頂戴しました。粗製で薄肉、長径49.1㎜、肉厚2㎜とのこと。いや、よく見ると刔輪がすごい。寶足はまるで異足寶です。粗製なんて言ったらしかられそうな変態天保です。うらやましい限りで・・・。

※例の方字短二天ですけど、見れば見るほど次鋳に見えます。人の目がいい加減なのか、それとも私の目だけがおかしいのか?もう一度検証して考え直すことにしました・・・結果は後ほど。
Kさんもネットの画像に目を患ったようでして、目が悪いのか画像が悪いのか・・・人が悪いのがいる・・・のかもしれません。 

 
6月20日 【負の遺産】 
最近、古寛永の中に妖しいものがたくさん紛れるようになってきました。ネット上でも贋作が噂されておりましたが、有識者のO様からその情報がもたらされました。
昭和60年前後に中国地方の業者Kが製造した物と思われます。ヤフオクで業者の家族が参考品として延べ120点位出品しましたが、その大半(約90点位と思われます。)を関東地方の方が落札され、「〇〇コインショー購入」の文句や消費税等を記載したテープを貼り付けて本物としてヤフオクに再出品しています。最近は鑑定済のスラブ入りや有名入札誌にも登場するようになっています。
この一連の物は何れも面背及び側面にヤスリ痕が残り、文字に流通摩耗が一切無く、鉄サビを付着させています。それを取り除いている物が多いですが、色も悪いです。何れも本物を写した物ですので、至輪径が縮小していますが本物を持ってない方は分かり難いと思います。側面や面背にもヤスリ痕が残る物が多いです。

という訳です。私の印象では黒っぽくてドロッとした感じ・・・嫌な感じですね。追加情報については後日・・・・
 
6月19日 【判りません!】
侍古銭会のよねさんから頂いていた画像です。ありがとうございます。上段は塚天保の山石刻印。刻印としたのは私的打印だからで、桐印などは極印と私はしますが・・・まあ、個人的なこだわりです。真贋について意見を求められたのですけど正直なところ刻印はどうにでもつくれるので判定は難しいと思います。人の鏡・吾が鏡の場合、贋作は一文字ずつ打刻しているのですけど、本物は一つの印でガツンとやっていますので背側のアタリの形状が異なりますし、書体も違います。文字位置も贋作はややばらけます。ただ、山石は一文字ですから良く判りません。ざっとアルバムを見たら3枚の山石玉塚がありました。一枚は朱入りで一枚は朱なし、もう一枚は贋作です。朱入りの方は背のあたりが丸く出ています(ひょっとしたら怪しい?)が、もう一枚ははっきりしません。不知天保通寶分類譜には玉塚榮次郎の名入りのものもありますので何種類かあるのかもしれません。山の傘が郭と縁に両方かかっていなければならないのがお約束。たじさんのは背のアタリの形状が独特でこれは使用した金てこの表面にこのような模様があったとしか考えられないですね。また、面背の郭にも文字以外のキズがある。真贋はわかりませんけど何かのヒントになるかも。自分の山石も真贋に自信がなくなってきました。
さて、下段の画像も非常に悩ましい品。長経48.0㎜、短経31.5㎜、銭文経40.4㎜で17.52gだそうです。存在の多い久留米正字でかたづけてしまおう・・・と思いたいのですけど、秋田小様の線も捨てきれない。極印の画像も送られているのですが不鮮明でよく判らないのです。こればかりは実物を見ないと判断できないと思います。よねさん、煮え切らない回答ですみません。
 
 
6月18日 【ゴージャス天保】
大和文庫に出ていた不知銭を鉄人が入手されたそうで早速画像を頂戴しました。非常に目立っていて、もちろん私も応札していましたが果たしていくらになったのでしょうか?
鉄人によりますと・・・この不知銭は通頭も削られて、郭周囲が削られて保字と通字も離郭しています。長径はなんと49.57㎜と細縁錢なのにすこぶる大きい。刔輪と言うより鋳ざらい痕跡が激しいといった雰囲気で、面郭右側にも鋳ざらった痕跡が残されているそうです。小さな桐極印は打たれていますが、もしかしたら母銭に使用されたのかもしれないとのこと。鉄人いわく・・・不知長郭手短尾通強刔輪長足宝削頭通離郭大様・・・いやはやゴージャスです。

※名付けるとしたら・・・不知長郭手強刔輪深淵削頭短尾通宏足寶かな?直線的に伸びる寶足はものすごく印象的ですね。不知天保通寶分類譜にも類品は見当たらないと思います。不知天保通寶分類譜を見ると深淵の類は大様の品が多いのですけど、このように変化した品はありません。
 
6月17日 【方字】
方字短二天が届いたのですけど、軽くてずいぶん小さい印象を受けました。実測値は長径49.3㎜、短径31.4㎜、重量14.6g。長径は大きいのですけど、鋳竿の部分が1㎜近く飛び出しています。銭文径等については鋳だまりが邪魔でうまく計れません・・・あれこれ試行して、ようやく結論・・・次鋳ではないということ。もしかすると次鋳かもしれないと、短い時間ながら2日間あれこれ検証してましたが残念な結果になりました。銭文径も推定値で40.7㎜ほどでした。それにしても鋳肌が荒くどうみても末鋳のような雰囲気です。拓墨なのか煤なのかよくわかりませんが真っ黒なものがこびりついていますが未使用肌も残っています。下の比較用の方字・・・こいつはすこぶるの美銭とは全く違いますね。
中段の方字は私の数少ない蔵品中の最美品。よく見るとこいつも狭天だったようです。方字は天の横引きだけは色々変化があるのかな・・・中間的なものもあるのかなと思ってしまいます。短二天の拓本は英泉還暦記念泉譜・研泉泉会第3号にもあることを確認しましたが他の泉譜と同じ品です。還暦記念泉譜に村上氏がわざわざ掲載するぐらいですから、これが貴重であることがうかがい知れるのです。
下段は大橋義春・天保通寶研究分類譜の掲載品。これまた短二天ですけど退二天になっています。これもまた、他の泉譜で見かけた記憶がありませんので一品ものなのかもしれません。
 
6月14日 【萩天保】
昭和泉譜において方字は薄天保の名前だったと思います。それだけ肉薄で粗雑なものが多いのでしょう。そういえば昨年の10月に超薄肉の方字を拾っていたのですけどすっかり忘れていました。
さて、画像上段はオークションネットに出ていた未使用の方字。金色の粉を吹いているような雰囲気ですけど、保存が悪いとすぐに色が変わってしまうような気がします。10円玉の未使用が高額なように、いつかこういった品が価値を認められるようになるかもしれません。そういう意味で応札したのですけど誰も追随してくれませんでした。一般的な方字より幾分狭天に見えます。実物は画像よりはるかにきれいだとだけ付け加えておきましょう。
さて、中段の方字です。曳尾に比べると方字は変化が少なく、その中でこの短二天は非常に目立ちます。当百銭カタログ(名称は狭二天)では評価が極美品で30000円でした。しかし、この短二天は当百銭カタログと類似カタログ以外の泉譜で見かけた記憶がなく、類似カタログの評価では一気に「甚だ少」と急騰しています。この「甚だ少」という評価がいかほどなのかは基準が記されていないのでよくわからないのですけど、水戸接郭や水戸大字の母銭と同じ評価なのです。市場価格的には30~50万かしら・・・売買が成立ればの話ですけど。実はこの短二天は一品ものとの噂話を聞いていました。でもあったのですね、2品目が・・・と、いうわけでネットオークションでもっと狂乱状態になると思ったのですが見栄えの悪さが幸い(災い?)して私のところにお嫁入してきます。よく見ると未使用色も残りかなり刔輪が強く細縁ですね。到着が楽しみです。
下段の曳尾は大和文庫で曳尾大字として出ていたもの。気になることがあっていち早く応札していました。仙人様から何か入札関係で発見があり、静観していてくださいと示唆されたのはその後で、もしかしてこれがバッティングしていたら悪いなあと思いドキドキしていました。実はこれ、大字ではなく大字保系の書体なのです。個人的な考え方になりますが、この書体は曳尾狭天に移行する前段階のものであると考えます。一般の大字系のように天の足の開きは決して広くありませんし、通尾ものびやかではありません。寶貝も幅広くないし寶足の形も違う。だから大字じゃなく大字保なのです。一方、狭天より天の前足が下方向にすっと伸び、天の二引きにもわずかに爪が残りますから狭天でもありません。ほかの特徴として、保の口が最大級であること、當の左右冠点が離点すること、百の横引き先端がめくれ上がり、末端が下がり卍状にように捻じれることなどがあげられます。個別変化になりますが、この品は背當の冠がとても大きく、とくに冠末画の跳ねが鋳ざらいによってはっきりしていますので大字當でもあります。なお、この書体を細字系の削字とされる方もいらっしゃると思います。英泉こと村上英太郎師もその一人であり、要は曳尾は個体変化が激しいので個人の見方によって分類名も変わるとお考えください。大和文庫は不知銭の長郭手刔輪短尾通が欲しかったのですけど、そちらは負け・・・残念ですけどまあ、いいか。(突然の雨のおかげで本日の夜の散歩は中止。おかげで久々に古銭に没頭できました。)
※大字保としましたが、驚くほどのものではない気がします。個体差が激しいですから。
 
不知細郭手刔輪
長径48.2㎜ 短径31.8㎜ 銭文径40.7㎜ 重量20.4g 
不知長郭手異極印
長径48.6㎜ 短径31.7㎜ 銭文径41.2㎜ 重量20.5g 
不知長郭手異極印
長径48.3㎜ 短径31.6㎜ 銭文径41.0㎜ 重量19.0g  
6月10日 【B級天保劇場】
不知天保のランクは①オリジナル書体もしくは極端な改造書体②覆輪刔輪の極端なもの③改造がはっきりとわかるものと言う具合に続き、極印替わりや銭文径のみ違う写しなど詳細を確認しなければわからないようなものは当然ながら人気がありません。そんな日陰者をもせっせか集め続けた結果、私のコインアルバムはB級品の宝庫になっています。今回そこにオークションネットから3枚の新人が加わりました。
上段は一見すると細縁気味の本座銭のようですけど、輪の際がぐるりと刔輪されています。とくに背側の刔輪が強く當冠がはっきり離輪しています。また、よく見ると面の文字にも加刀があって全体にやや細く通字寶字に歪みも若干あって雰囲気的には短尾通細字の類に似ています。もしかすると・・・と思ったのですが極印はきれいな本座方桐極印でした。
さて、続いては写しの長郭手。わずかに覆輪の雰囲気はあるもののこれでは覆輪とは言えません。何か変化はないものかと観察したら一つだけ特徴がありました。それが極印です。おそらくもともとは小型の桐極印だったと思われますが、左右とも穴ぼこ状になっています。桐極印は金属に打ち込むため摩耗が激しく破損も多いのです。。製造も難しかったと思います。鋳錢工の中でも桐極印を打つ職人は最高クラスであったと言います。
さて、実はこの不知銭は2枚組で出品されていました。下段がその不知銭です。こちらも特色が少ない鋳写銭なのですけど、極印にはわかりやすい変化がありました。穴ぼこが4つ空いているような形状です。見方によっては四ツ目桐のようであり、十字形のようでもあり、あるいはクローバー型、南部の八つ手極印のようでもあります。要するに極印は摩耗や破損の程度で様々に変化するのです。まあ、はっきり言えることは、この極印の初形は桐ではないだろうということ。B級品には変わらないということかしら。
 
6月9日 【戦利品?????】
収集から落札品が届きました。1枚目は会津濶縁離足寶。会津短貝寶との関係を調べたくていつのまにかたくさん集めるようになってしまいました。
会津短貝寶の銭文径は意外に小さく、また、背の上部内径は逆に大きくなっています。これは会津短貝の母銭がオリジナル品であることを如実に示していて、本座改造系の会津濶縁とは文字配置など全く重ならないのです。同様にこの濶縁離足寶は書風など会津短貝寶に近いのですけど、文字位置や内径、銭文径の比較から短貝寶を写したものとは言い難いのです。会津濶縁を改造して会津短貝寶にすることはあり得てもその逆はないだろうということ・・・。この件については2012年5月6日、2013年8月9日記事をお読みください。
もう一枚は曳尾白銅質???とされたもの。たしかに少しだけ色白ですけど、びっくりするほどでもないですね。特にスキャナー撮影すると人間の目の錯覚が補正されるのか黄色味が増してしまいます。
私たちの目は光の乱反射に対し弱いらしく、表面に細かい研ぎ傷のある銭を白いと判断する傾向にあるようです。同様の経験は何度もしていますがもしかして・・・という期待をもって集めてしまいます。入札は実物が見えませんから仕方がないといえばそれまでですけど。曳尾には稀に純白のものがあると聞きます。どなたか実物をお持ちの方、拝見させてください。投稿お待ちしております。
 
6月6日 【戦利品???】
ここのところおとなしくしていたのですが立て続けに落札通知が届きました。(実物はまだ一つも手元に届いてない状態です。)初めに来たのが収集の会津短貝寶濶縁短足寶の名前で出ていたもの。正式には会津濶縁短足寶もしくは濶縁離足寶とすべきで輪の内側に瑕のあるものが・・・落ちてしまいました。これ、私何となく好きなのでこれでどうも8枚ぐらいあるらしい・・・らしいというのは制作日記に2013年の段階で6枚と書いてあるから。いったいどこにあるのかはわからないというお粗末ぶり。それと白銅質と言う言葉に負けてたぶん違うだろうな・・・それに高いと思いながら曳尾を落札してしまいました。
これは5月6日の制作日記に載せた侍古銭会のたじさんの見事な曳尾に魅せられて夢を見てしまいました。正夢だと良いのですけど・・・。
お酒を飲みながら悪戯応札していたヤフオクで白銅色の折二様がなんと落札!応札したことも忘れていたので改めてみるとヒビ入りの上白く見えたのは磨き・・・出品者は悪くありませんので悲しき責任払いです。お酒はほどほどに・・・。
オークションネットも2~3品落ちたようでして、うれしかったのは画像の不知細郭手がほとんど無競争に近い価格で落ちたこと。書体変化はありませんが當上にはっきりとした刔輪があるもの。細郭手のこのような刔輪変化は少ないと思いますよ。実は私の本命は加護山寛永の黄銅質の母銭でそのあまりの美しさに惚れました。誰も応札しないことを祈って入札しましたが、こんな名品そのような半端価格で落ちるわけがありません。ちなみに出品価格は12万円落札価格は50万円でした。まだまだ勉強不足ですね。
 
6月2日 【細工銭】
ネットに出ていた古銭を細工したものふたつ。左画像はは文政期俯永の毛彫銭。文政期俯永は珍銭と言うほどではないものの少し少なめの銭種。図柄は唐草模様に加えてネズミの図柄が彫られています。「新しいものではないと思う」とのことですけど彫りか曲線的で雰囲気的には電動ドリル出現以降の細工。干支を意識したお守り・・・工芸品ですね。
右画像は東南アジア系の民族衣装を着た人物が2体彫り込まれてます。こちらは彫りの感じがタガネ細工風で観光土産にしては手間がとてもかかっています。あるいは宗教的なものなのかもしれません。
 
6月1日 【天保銭がいっぱい!】
天保通寶36枚+(この画像にはありませんが)琉球通寶3枚の組み物です。この画像の中から価値のありそうなものを探せ!・・・と言う指令が出たとしたら貴方は即座に反応できますか?
このような組み物を見るとき、私は最初に広郭系は外して長郭、細郭から見てゆきます。もちろん広郭にも珍品はたくさんありますけど、経験的に確率は低い。あってもせいぜい福岡か秋田。仙台広郭なんてまずめったにないですから。
広郭系ですけど右下角の天保はやたら小さいですね。これはたぶん絵銭でしょう。
ざっと見ると気になるのがもう1枚あります。最下段の左から4枚目。天や通の形がゆがんで見えます。これに即座に反応できればあなたの眼力はすばらしい。古銭視力2.0です。で、拡大画像を見ます。(右画像)ここまでくればあと一歩。寶足も歪んでいますね。これは有名な不知長郭手でした。正式名称は不知長郭手尨字塞頭通。美銭なら30万円ぐらいしてもおかしくない品なんですけど状態は並品なのでその10分の1程度で応札していましたが逆転されました。ネットオークションでこれを見たのは2回目ですね。
 
 
ネットサーフィンで収集した画像をもう一枚紹介します。これは大和文庫さんの即売品コーナーにあったもの。残念ながらすでに売り切れです。長径49.66㎜の接郭大様です。しかしこの天保銭通常の接郭とは段違いの濶縁で大迫力です。しかも輪の際に加刀痕跡が顕著に残ります。接郭には時々大きなものがあり、私も49.5㎜サイズのものを保有していますが、このような雰囲気ではありません。文字に繊細さはないので母銭でもありませんが、この異様ともいえる威風堂々とした姿・・・本当に接郭なの?・・・と疑ってしまいます。こんな接郭、1枚ほしいですね。
 
5月30日 【八厘会通信】
天保仙人様から八厘会の様子のメールが届きましたのでその様子をお届けします。(一部加筆)

先日の『八厘会』では、歴史講義は『浅草・吉原の発祥と行事・風習と現代まで』展示品もあり、これは受けましたねヽ(^o^)丿
古銭講義はYさんが掘り出した『天保通寳・不知長郭手・篏郭手(かんかくて)』
例会前にYさんが『不知だと思うけど?』と2枚の天保銭を見せてくれました。1枚は細郭手の覆輪銭で状態は良いのですが割と見られる物でした。もう1枚を見た時、はじめは『不知中郭手かな?』と思いきや、書体が長郭!『篏郭だ!』と解りました。通常の篏郭銭より郭の幅が狭いので『篏郭手』になります。やや小柄のつるっとした白銅美人!篏郭銭は白銅からやや薄目の黄銅でなければいけません。念のためにMさんにも確認して頂きました。『現存は篏郭が10品位、篏郭手は5品位!』と話して、ようやく皆さん理解出来たようです(^^)/.
Aさんも琉球通寳・小字・桐極印を『見付けました!』と、見せに来ました。侍古銭会のT君も琉球通寳・中字銭を見せに来たので拝見したところ、面側右下に多数の打ち込みキズが有り、良く見ると三字刻印の2度打ちのように見えます。通常は面側右上なのですが、右下にあってもおかしくはなく、いずれ私の所蔵品と比較してみます。
天保銭講義は『旧称・石巻・反玉寳の位付け順位』。やはり1番は『瑕寳・覆輪・仕立て銭』です。
休憩の後に盆廻し入札!毎回200品以上は出品されます。この時に1枚の琉球通寳・中字銭が回ってきました。状態も良くないので安値ですが、見て驚き\(◎o◎)/!『さて皆は解るかな~?』と思い、下値で入札!やはり誰も解らず私が落札しました。
出品したOさんは、私が落としたのを不思議に思い聞いてきたので、『これは本銭では無く民鋳銭ですよ~♡』との話に『え~!知らなかった!ただ状態が悪いだけだと思っていました』と驚いていました。
この会話を聞いていた会員が集まり『これが琉球の民鋳銭か!』と、話題になりました。帰宅してから調べると、通常民鋳銭は縮小しているのですが、銭径が50㎜の覆輪銭です。また、通常覆輪跡は痘痕(あばた)状になっていますが、当品は薄い幅で綺麗な存跡が長く、ハッキリと解ります。来月の例会で、琉球の半朱と當百の本銭と民鋳銭を並べて、解説するつもりです。
今回は琉球銭が多く絡んだ、楽しい一日でした。(天保仙人)


※琉球の民鋳錢は仙人様の半朱を拝見したことがあります。薩摩藩と民間交易のあった水俣・八代近辺で作られた偽造貨幣なのですけど案外その姿は謎が多く、琉球當百では見たことが私はありません。琉球通寶は写しの贋作が多くまた、戦火のためか火を被ったものも多いので私には見分けが今一つつきません。八厘会・・・勉強になりますね。
※最近は全く古銭関係で外に出られません。それでも12月から始めたウォーキングは毎日6㎞以上を目標に継続中・・・スマホの万歩計が正しいとすれば累計1000㎞を超えました。吾ながらすごいと思うのですが体重も粘り強く2㎏ぐらいしか減りません。これまたすごいと思います。
 
5月27日 【先入観の狭間で・・・】
島屋文は大きくて製作が良い・・・と言うイメージがありましたけど実はそれほどでもないのではといった疑問が湧いてきました。島屋文そのものは非常に希少なので滅多なことでは出会えません。私の唯一の保有品の本体錢の外径は25.25㎜。新寛永銭としてはけっして小さくはないのですけど島屋文=25.5㎜程度と言う私の中イメージのため、保有品は磨輪による小様銭であるとしていました。
実は大ぶりで安定しているのは島屋無背でこちらは25.5㎜以上が標準だと思っています。母銭に至っては26㎜に迫る大きさです。ところで島屋無背の大量計測は第28回九州貨幣協会別府大会での研究発表『ユ頭通ども』に詳しく、25.3㎜未満の島屋無背はその図表に掲載されている103枚の島屋無背のうち、12枚と想像以上に多い気がします。ただし、25㎜を切るものはありません。書体に変化はなく小様は明らかな磨輪銭になり、中には後天的な磨輪も含まれているようですけど、拓図を見る限り製作は実に安定しています。これはいかにも新井白石による慶長の復古策とと言いますか、国の威信をかけた政策的良貨鋳造と言った気がします。
一方、島屋文細縁には大きなものも見られますが、過去のいくつかの記録を見ると25㎜を切ると思われる小様拓図も散見されています。泉譜に掲載されるようなものは大ぶりの名品が中心でしょうから、それで島屋細縁=大きいというイメージが形作られた気がします。
なお、過去に見た島屋文細縁には金質が通用銭とは違い、やや白味が強く滑らかで母銭質と思われるものが多いと思います。同時に背に鋳だまりがある出来損ないも多い。島屋文細縁には母銭と通用銭が混在していると九州の坂井氏はおっしゃっていたと思いますが、私も同感でむしろ島屋文細縁は母銭が基本で、出来損ないを通用銭に格下げしたんじゃないかと思うくらいです。それも母銭を磨輪したのではなく、最初から(難波額輪のように)細縁の母銭として作られた可能性すらあるのではないでしょうか。広文の磨輪はその子銭なんじゃないかと思う次第です。現段階ではまだ私的な妄想の範囲なのですけど・・・・。
なお、数年前に書きましたが、島屋文が仙台のマ頭通背仙と同じように銭挿の荷札の役割をしたのではないかと言う説はものすごくあり得ると思っています。 
 
5月26日 【島屋文の次鋳銭?】
関西のSさんから驚異の画像が届きました。(ありがとうございます。)まずは左の画像をご覧句ださい。島屋文小頭通と島屋文・・・両方とも選り出しです。上段の島屋文小頭通は数年前に選り出したものでこのコーナーにも一度出ているそうで、比較用。実は下段の品が今回の選り出しで問題の品なのです。スアナこそ開いていますがまず2枚目の選り出しと言うのもすごい。島屋文は生涯に1枚選り出せれば良いほどの品。ドラム缶一杯の寛永銭があっても出てこないと言われる品に生涯に2度も出会えるなんてすごいと思います。
さて、下段の島屋文を見て何か異変を感じませんか?小さいのです。外径24.75㎜、内径20.55㎜、背内径18.61㎜、重量3.08g。島屋文は25㎜以上あると私は思い込んでいましたし、久泉研究資料においても内径は20.7~65㎜なので小さい。その割に文字が大きく見えるのは磨輪されているのと比較対象が小頭通であるからなんですけど・・・あまり言われていませんが小頭通は本体錢より広穿で文字が小さいのです・・・実際に画像を並べてみると銭径は一回り小さい。(小頭通の外径は25.48㎜)そのためものすごく細縁に見えます。島屋文細縁の内径は21.2㎜前後なので、これは細縁錢ではないのですけど見ていると背文の形が広く見えてきた。
新寛永通寶図会に島屋文の広文磨輪と言うものが存在します。説明では内径が20.79㎜とありますのでそれとてこの画像の品より大きいのですけど、現段階ではそれに近いものと位置づけるしかないようです。あるいは島屋文細縁を母銭として生まれた次鋳銭なのかもしれません。
 
5月24日 【粗造極薄肉の天保】
侍古銭会のよねさんがネットで拾った天保銭。長径48.3㎜短径31.1㎜、重量がなんと12.89gしかないそうです。天保銭で厚さ2㎜未満、重量15g未満はかなり貴重でそうそう見つかるものではありません。間違いのない不知銭としては私の記録は重量で15.9g、粗造錢だと広郭手に1枚だけ12g台のものがあります。(全天保通寶中では南部の銅山手の11.7gが最軽量薄肉。恐らくこの記録は破られないと思います。)この天保通寶は書体も変形していて進頭通のように見え、かつ寶足も長く見えます。広穿ぷりも見事でなかなか楽しい品だと思います。
 
 
5月23日 【未使用の縮通】
これを見たとききれいだなあ・・・と思いました。出品名は進二天でしたけど、背の花押の形が違います。少し前に入札誌下町で同じように縮通が進二天で出ていたと思います。それだけ紛らわしいのですけど、それ以上にこの美しさに目を奪われました。ただ、さっそく四国のKさんからメールで確認が入りました。と、いう訳で今回は参戦見合わせ。和平交渉が成立し戦友が泉友になりました。その結果、無事Kさんが落札したみたいです。それにしてもこの色はまずない状態ですね。いやあ、うらやましい。
 
5月22日 【会津の母銭???】
最近、大騒ぎになった品の画像です。長径5.0cm、短径3.3cm、肉厚0.3cm、重量25.68gと記録しています。落札価格は41万円を超えていました。私は静観していました。側面がつるつるで気に入らないし、面が火を被ったように荒れていますし、仙人宅で拝見した品と雰囲気が全然違うし、何より価格的に手がとても出ない。大きさがcm表記なのに重さが小数点以下二けた表示なのも何か作為を感じてしまうのは臆病者だからでしょうか?一方で背の文字の繊細さはいかにも母銭。拡大画像も見ていますけど荒れていますが面側も母銭としてはぎりぎり合格の範疇の気がしています。と、いう訳で母銭かも知れませんが、画像ではこれ以上はわかりません。会津は無極印の大様通用銭もあるからですけど、通用銭にしては制作も違いますし、50㎜は超えることはまずありません。母銭が無極印と思っているのは本座の常識を覚えている方で、母銭保有発覚に備えて母銭にも極印を打つのは密鋳銭鋳造の常識。(ただし会津母銭は無極印だったかもしれません。)これに手を出せる方は勇気・男気・冒険心のある方で臆病風に吹かれている私には縁遠い品です。
 
5月21日 【元文期十万坪錢無印面背逆製】
2015年1月14日の制作日記にも記しましたが、私はかなりの面背逆製マニアです。その最高峰は佐渡鉄銭座銅銭の面背逆製。おそらく、この世に2枚と存在しないのではないかと思います。ただし、見栄えは最低ですね。昨日のきれいな画像とは全然違う。でもあばたもえくぼと言いまして、可愛いものなんですよ。十万坪無印の面背逆製は持っていたと思っていたのですが、記録表を見る限りは持っていなかったんですね。こいつはヤフオクで拾いました。ラッキーです。
 
5月20日 【未見品誌上交歓:含二水永瑕永母銭】
Iさんから久しぶりにお便りが来ました。(ありがとうございます)なんでも異動になったそうで、なかなか忙しく古銭どころではないようなのですが・・・ヤフオクで買った雑銭の中からこんなものがひょっこりと・・・。元文期の十万坪錢含二水永母銭・・・もう、この段階で強運でらっしゃるのですけど、よく見ると永頭が完全に柱から分離しているようで、いわゆる瑕永の母銭のようなのです。手替わり母銭でワンランクアップ・・・と思いきやこの瑕永母銭は図会などでも未見品とされているようで・・・(新発見・・・とはじめ書いていたのですが木田利喜男氏の寛永銭譜には掲載されていました。それでも貴重な品であることには間違いないようです。また、母銭が2枚あるということは銅母の上段階での変化と言うことになるのでしょうか?面白くなってきました。)
 
 
5月17日 【草点保】
5月12日の品ですけど鉄人が落札されたみたいです。私の密かな期待?に反してヒビもなく、間違いなく不知細郭手の名品の草点保(短用画通)だったようです。焼けていたように見えていたのはススの沈着のようで鉄人いわく焼けてただれたようには見えないとの事。こんなのがぽろっと出て来るのですからネットとはいえ侮れません。それにしてもあの画像で果敢に突っ込んでゆく勇気・・・私にはありません。やはり収まるべき人に収まったと考えるべきでしょう。おめでとうございます。
 
5月16日 【歹銭(たいちぇん)】
ものすごく拡大していますが実物は2cmもありません。当然浅彫りでスキャナー撮影しても拡大して調整しない限りはっきり写りませんでした。この画像は出品の元画像を加工したもの。陰でわかるように光源を横方向にもっていかないとこのようには写らないと思います。さて、安南寛永のうち、このように広穿で薄っぺらで小さいものを歹銭と言うそうです。別名満州寛永とか豆錢とかも称しますが、要は外国による私鋳銭なんですね。中国南部からベトナム(安南)あたりで作られたというのが真相のようなのですけど、果たしてこんなものが銭と通用したのかと思うほど貧相です。
歹(たい)とは肉をとった後の残りの骨の意味らしく、まあ、滓や屑の意味と思ってもそんなに違いはないようなのです。私に言わせればよくもまあこんなに小さいものが鋳造できたなと感心します。鋳物は小さいものを作る方が絶対難しいと思うのです。そういう意味ではものすごく先進的な技術だと思いますね。芸術です。
この歹銭、とても変わった書体で面白い。銭譜にないものです。安南寛永はまさに何でも有ですね。
 
5月14日 【感服しました!】
5月10日の制作日記を見ていたある方からこんなメールが・・・画像を見ていて『あれっ!ひょっとして!』と、思ったのですが面右側の輪上に在るのは『覆輪跡?』ではないですか?現物を見ないで断言は出来ませんが、ただの汚れに見えません。『覆輪跡』は90%は面側にしか出ません。長郭手には希に見ますが細郭手ではかなり稀少です。再度確認してください、解らない場合は現物をお見せください。・・・メールを読んでそんなはずはないよなあ・・・汚れだよねと思いながら画像を見ると画像の右上に変色部分がありました。「残念ながら変色です。」と返信してからもう一度現物を見ると・・・あれ?右横の輪にも何かがある・・・背中に冷や汗がタラリ。舐めるように観察したところかなり妖しい。「場所を間違えていました。もう一度確認します。」とメールを送り直して解像度を上げて撮影。すると面右側に確かに増金の痕跡ラインが数センチに渡って残っていました。いや~これはなかなか気が付かないレベルです。しかもこの不知銭、右側の輪の方が狭いのです。これは盲点でした。メールの主は天保仙人様でした。さすがです。
※仙人様いわく・・・『覆輪跡』は90%は面側にしか出ません・・・の理由については「面側の型取りにはとくに上質できめ細かい鋳砂(肌砂)が使われた」ことが大きいと思います。これに加え2015年の11月1日の制作日記に私なりの解釈が書いてありますので参考にしてください。
 
5月13日 【またまた密鋳銭】
私の今の収集ジャンルを問われたとしたら、密鋳銭と答えるのが一番的確かもしれません。天保銭も寛永銭も気に入ったら入手していますが、どちらかと言うと規格外の品に惹かれているのです。だって何かロマンがあるじゃないですか。安物買いの銭失いとはこのことで、将来的な展望があるわけではありません。結局は好きなんですよね、誰もわからないというところも魅力なんです。(変人?)

一番上は寛保期に大阪の高津で鋳造されたものを東北あたりで写したもの。赤黒い浄法寺銭の色でときどき見かけますが決して数は多くありません。気を付けなければいけないのは焼け銭も赤く発色しますので、総合的に判断しましょう。

中段は四ツ寶銭の俯頭辵を写したもの。細縁で外周が不整形であり背が夷縵になるタイプは良く見かけます。藤澤・吉田島銭の写しがこのタイプでは最多でしょう。

下段は俯永の写しですけど郭の仕上げの雰囲気が面白くて購入。ただし、ひろがった郭の加工は母銭段階ですでに行われていたものと思われます。密鋳銭にしてはしっかりした仕上げですので大きな銭座のものです。浄法寺系かと思いましたが背側が深くきれいなのが少々異なります。面浅彫背深彫でまるで面背逆製のような風貌です。
 
5月12日 【ネットから・・・】
ネット徘徊をしているとときどき「あれ?」と思うものに出会います。そういうものは最低価格で応札しておくことが多いのですけど、応札数が増えてくるとバレバレになってしまいます。これぞと思うものはウォッチリストに登録しておき、締切時間勝負にするのが本当なのでしょうけど、最近夜のウォーキングにはまっている私はそれができません。まあ、その作戦が取れたとしても臆病風に吹かれている身としては勝てませんけど。
ここに掲示している画像は最近ネット上で収集したもの。編集して見やすくしてありますが中には一見して判別困難なものもありました。

一番上の画像は6枚の組み物の中の一枚。拡大していますので画像が歪んでしまっていますが、元画像はこの3分の2ほどの大きさでした。ひと目文字の細さに気づきます。これだけで不知細郭手容弱とわかれば合格ですね。背側を拡大してみると花押のひげの先端が太くなっています。状態としてはいまいちかしら。発見した自分に拍手!

2番目は初心者にはなかなか見分けが難しいのですけど、画像がきれいなので見慣れてしまえば気づける品。組み物の中の1枚が不知銭だったのですけど、左右の天保銭の大きさがずいぶん違いますよね。よく見ると左の長郭は通頭が塞がっていて丸っこく、寳尓の点も長い。右側は本座細郭なので銭文径は41.2㎜ぐらいのはずですが、それに対して左は長郭なので、本座なら銭文径は41.7㎜前後のはずなのです。でも見た目にも小さいし、画像を加工して重ねてみても銭文径も小さいのです。寶足も微妙に長い。と、いうわけでこれは不知長郭手の覆輪刔輪縮形錢(高頭通)だということが分かります。

3段目の画像はさらに難易度があがっています。最近のカメラは広角撮影が可能なので画像の中央と端では見え方が異なり、端の方がゆがんで見えることがありますので慎重な見極めが必要です。この画像は中央に近い(左側の)天保銭の輪の幅がわずかに広く見えることから覆輪銭であろうことが判断できます。広角撮影の場合、左右の端のゆがみは強調されるものの上下サイズ変化は少ないのでこれも画像を重ねてみると・・・不知長郭手覆輪だろうと言うことになりました。

さて一番下の画像は原寸を1.5倍ほどに拡大していますが、ものすごく見づらくて小さかったもの。6枚の組み物の中の1枚でやたらきたなくて焼け銭にも見える天保銭でした。ただ、書体の変態ぶりがすごすぎて誰もが???と思ったことでしょう。これにお金を突っ込んでゆくか否かは勇気次第です。ものとしては間違いなさそうなのですが状態が全く不明ですから。
肝心な特徴は画像からは判断できませんが、背側の書体から不知細郭手の草点保であろうことは容易に想像できました。しかし・・・今までさんざん失敗してきた身としては今一つ突っ込んでゆけませんでした。ひびが入っているかも、焼け銭、贋作かも・・・・最近の私は臆病者なんですね。
かなり高騰しておりましたがそれでも超お買い得品だったのかもしれません。入手された方、ご連絡頂けましたら幸いです。
 
 
不知細郭手鋳写(覆輪存痕)
長径49.1㎜ 短径32.4㎜ 銭文径40.9㎜ 重量19.3g 
不知長郭手鋳写縮形
長径47.9㎜ 短径31.5㎜ 銭文径41.0㎜ 重量22.0g
5月10日 【B級天保不知銭】
ネットオークションなどで入手した不知銭が何枚か卓上に転がっています。将来売却するときに困るだろうなあ・・・と思いながら面白いのでつい拾ってしまいます。

上段の品は本座に酷似している細郭手。銅質が若干赤く、銭文径が小さい以外は画像ではほぼ本座と同じ。郭内の仕上げは本座より少し念入りで丁寧な感じがしますがそれとて決め手になりません。極印もそっくりです。覆輪もほとんど感じられません。ただし、鋳写した時の湯圧が弱く、全体的に陰起文気味で実物の郭は丸みを帯びて見えます。こういったものを雑銭から拾い出せるというのはかなりの実力者ですけど、画像より実物の方が違和感を感じることのできる不知銭の例でもあります。
※拡大してみると文字の周囲などに加刀痕跡が確認できます。

下段は48㎜をわずかに切る長郭手。縮形の天保は長径で48㎜、短径で32㎜を切るとかなり違和感を感じます。長径、短径とも1㎜は小さいですね。砂目も粒子が荒く面側は魚子地のようになっています。穿内のやすりもややべったり気味。銅質はやや黒っぽくなっていますが本座以上に練れが良い感じ。小さい割に重さはしっかりありますが手にしてとくに分厚い感じはしません。極印は破損してしまっていたのか小さくて形がはっきりしません。ネットで見かけたときは砂目が気になり、極印を確認したかったのですけどちょっと残念でした。書体については全く変化はないようですね。

つまらないものかもしれませんが2枚で14000円ほどですからやめられません。
 
5月9日 【仙台御用錢の錫母?】
ネットサーフィンで発見して画像だけ収集していたもの。大きさは27.1㎜とありました。仙台御用銭は新寛永の中では別格中の別格の存在。私はその風格や存在数から新寛永の横綱だと思っています。正規画像は木田利喜男氏が収集誌に寄稿した”貨幣クローズアップ寛永通寶”をご覧ください。
さて、この品はところどころにス穴が空いていて鋳不足気味。御用銭の精緻なつくりに比べるといまいちですね。それに元文期以前の錫母は崩壊現象をしていることがほとんど。この品の場合はス穴であって崩壊現象ではありません。と、なるとこれは古い収集家による鉛写しの類ではないかな・・・・と思う次第。確証はありませんのであしからず。
 
 
5月8日 【四国Kさんからのプレゼント】
四国のKさんから「多分こんなものお好きでしょう?」と送られてきた古寛永です。(ありがとうございます。)通頭が薄っぺらですからいわゆる称鳥越銭(実際は沓谷銭と言われています。)の写しのようです。赤くて小さくて薄っぺらで縁が虫食いで焼けているみたいで・・・本当に焼け銭かも知れません。
でも、好きですね・・・こういうものを観察して想像するのは。赤い鋳写は東北系のもの。きれいなものは少ないですよ。
 
 
5月6日 【コイン・コンベンションギャラリー】
東京国際コイン・コンベンションは4月28日から30日まで水天宮のロイヤルパークホテルで開催されていました。このホテルの支配人は私の大学時代の2級上の先輩のはずで、その懐かしさもあってぜひ行きたいと思っていて今年も前日まで行く気満々でした。しかし・・・女房方の一族が筍掘りに大挙してやってくることになり、断念せざるを得なくなりました。と、いうわけでHPは他人の褌で相撲をとらせていただくことに決め込みました。
上段は侍古銭会のたじさん念願の不知長郭手張足寶です。寶尓の後点が長く、寶足も伸びやかで典型的な覆輪刔輪銭ですね。たじさん、最近は本当に天保銭にはまっていらっしゃいますね。これを張足寶の基本銭として、たくさん集めてどんどん深みにはまってください。(合掌)
その下は曳尾狭天の細字です。所有者はやはり侍古銭会のたじさん。曳尾はなかなか美銭が少ないのですけど、これは文句なしの超美銭。このクラスは貴重品ですよ。まるで母銭みたいな繊細さです
3番目もたじさんの入手品。
ただし入手先はコンベンション会場ではなく骨董市だそうです。これは浄法寺系の盛岡小字ですね。浄法寺の盛岡小字には共通の特徴がみられます。たじさんが画像に示してくれましたが、私は通上の郭の瑕(通称:虫食い)を識別ポイントにしています。盛岡小字はなかなかの希少品なので、私の初めての入手品も浄法寺銭でした。極印の形からして工藤雑銭の櫂の分類では前期浄法寺銭に該当すると思われます。この極印の形、不知長郭手の中によく似たものを見たことがあるのですが果たして関係はあるか否か?
→ 天保銭極印図鑑
さて最後の品は鉄人が入手した不知長郭手覆輪強刔輪宏足寶。入手先はウィンダムさん。実はたじさんが来店する前に売れてしまったという幻の逸品はこれでした。長足寶系の中でもこの宏足寶はものすごく個性的で刔輪が強く、印象的なのです。購入価格を聞いて二度びっくり・・・この手の品としては格安だったと思います。背の花押の下角に穴の空いているタイプで、夏の古銭会展示室に解説してありますのでご覧ください。たじさん、残念でした。最近は穴銭を熱心に扱うお店が少なく、自然とウィンダムさんにこのような品が集まったのかもしれませんね。いやあ、行きたかったなあ。
※連休中どこにも行かなかったわけではなく、5月3日には領国~浅草~上野~秋葉原方面に行っています。ただし、妻と娘のリクエストであり、都内の移動はオール徒歩、・・・修行ですね。私は連休が取れない仕事なのでこれが精いっぱいです。余談ながら昨年末から始めたウォーキングは毎日平均6km以上歩いています。おかげで更新がまばらになりましたが健康と経済的には悪くないと思います。
 
 
4月29日 【秋田銀判の極印天保】
不知天保通寶分類譜に掲載されている拓図です。この原品と思しきものは2010年の東京国際コンベンションにおいて賞山堂さん(2011年閉店)のブースで見かけています。実によくできていたので食指が動きかけたのですが、かなり良い値段だったのであきらめた経緯があります。出来が良いのは当たり前で本物の秋田銀判の極印を使用したようなのです。いたずらの主については仙人様はご存知のようなのですけど、私も犯人を聞いたような気もしますが失念してしまいました。贋作の類に違いはないのですが、なかなかのアイデア作。賞山堂は閉店してしまいましたのでそのあとあの品物がどこに行ったのかはわかりません。そうなると贋作なのですが妙に気になって仕方がありません。今ネットで類品が出ていますよね。さてどうしようかな?
※国際コンベンションに行こうとしたら家族からNG.結局行けませんでした。残念です。
 
 
4月26日 【天保二題 その2】
東北のEさんからの投稿の2枚目です。Eさんの説明では・・・
50㎜を超える濶縁の広郭手で延展と思われ輪に鎚痕が確認できます。鎚痕は凹になっていますが砂目になっていいます。つまり砂目はこの銭ではなく母銭となるものを叩たあと鋳造した痕跡なのではないでしょうか・・・ということです。
いやあ~長径50㎜超は巨大。延展のものは総じて薄っぺらになりがちなのですが重量もたっぷりある。そのうえでコメントをあえてさせていただきますと、「叩いた痕跡に残る砂目」は鎚痕そのものだと思います。当時の鎚・・・仮に金鎚のようなものを想定しますと、それは鋳造ですから砂目のようなざらざらが残っても不思議ではありません。(拡大してみましたが鋳造砂目のような凸目ではなく打ち据えられた石目の凹目の感じです。)また、天保銭は鋳造後に砥ぎが行われます。研ぎが省略されると石ノ巻銭(室場錢)の鋳放し銭のような風貌になります。輪の周囲を見ると凸凹が残ります。不知銭の使命は目立ってはいけないのですからこれは不自然。したがって輪の凸凹は後天的なものだと判断できます。2016年の3月15日の記事にもありますが天保仙人も舌を巻くみごとな延展の作品もあります。
一方で上記の天保銭の濶縁の風貌は仙人が絶賛した戯作錢より自然に見えます。ただ50㎜超過はいかにも大きい、大きすぎます。銭文径からみてもこれは母銭の大きさ。でも風貌は通用銭ですね。廃棄母銭とするにも無理がありそう。叩いてここまで大きくしたのなら見事です。文字にもだれたところがほとんどない。4月7日の品もそうですが謎の品の一枚。不知銭としては当時の流通面では失格。ただ、大きいことは庶民には嫌われることはないかも。う~ん位置づけそのものが難しい。これは参った、お手上げです。肉厚がどれぐらいなのかを知りたいところです。
長径50.7㎜ 短径33.8㎜ 銭文径41.9㎜ 重量23.1g
 
4月25日 【天保二題 その1】
東北のEさんからの投稿記事です。(ありがとうございます。)仮称で不知長郭手塞頭通狭玉寶と名付けられたようですがEさん自身も感じているように不知天保通寶分類譜の狭玉寶類に雰囲気は似ているもののこれは別物だと思います。狭玉寶の類は総じて刔輪の陰起文気味のものが多いようです。陰起することで文字の端々が拓本に現れにくくなり、結果的に狭玉寶に見えるものが多いと思います。一方これは陰起文と言うより明らかに削字されています。これだけ書体変化しているのに覆輪刔輪的な雰囲気がほぼない・・・なんじゃこれの品です。
文字全体に削字が見られますがとくに通寶への加刀がすさまじい。異書と言っても過言ではないと思います。とくに通頭が大きく先端がとがって塞頭通であることや寶王の上下に加刀されて小貝寶・離貝寶になっている点は目立ちます。通頭だけでなく通用の右下の窓がろくろで丸く広げられていて、天の末尾も丸く折れて短く跳ねているように感じます。このような書体の変化は私は見たことがありません。一瞬スタリキじゃないかと思ってしまいましたが、それほど奇抜な変化です。少し前なら異書の名前をつけて終わりだったと思いますが、もう少し説明を加えてもよいと思います。じゃあ何がいいかと言うと・・・それが難しいですね。(センスないから。)狭玉寶とは言えないので、この名称は外した方が良いし、塞頭通の名称も有名不知銭と紛らわしいので少し変化させたほうが無難だと思います。例えば・・・
異書大尖頭通、削字尖塞頭通なんてのはどう?それとも新しく造語して骨字・骸字・朽字・嫋字・融字・熔字なんて頭につけたらどうですか・・・だめですか?
どなたかセンスの良い方アイデアをご提示ください。
長径48.4㎜ 短径31.8㎜ 銭文径40.8㎜ 重量21.1g
 
 
4月24日 【加護山写狭穿背小】
オークションネットの古銭入札誌第26号の唯一の落札品です。ヒビ入りとありましたので参考品として購入。価格はとても安いものの将来売ること考えたらこんなもの買ってはいけません・・・でも止まりません。うっすら背に小の字が見える密鋳銭です。
 
額輪母銭
外径24.9㎜ 内径20.3㎜
肉厚1.5㎜ 重量4.5g
額輪通用銭(すこぶる美銭)
外径24.2㎜ 内径20.0㎜
肉厚1.4㎜ 重量3.7g
4月23日 【額輪母銭】
いたずら気分で応札し、安価で落札できた額輪母銭が届きました。額輪母銭はちょっとした役物なのですけどなぜか市場でよく見かけます。初心の方がはじめて母銭を入手されるとしたら、明和期四文錢か鉄母銭、あるいはこの額輪母銭あたりがおすすめ。母銭と言うものの違いが実によくわかります。
手持ちの通用銭・・・こいつは本当に超美銭なんですけどね・・・とくらべても作りが全く違いますね。偉そうなことを書いていますが私は(母銭コレクターではないので)額輪の母銭は初入手。画像で比較しましたが内径も母銭の方が大きい。(右下画像参照)実物比較では材質がかなり違います。母銭は側面がろくろで仕上げられたように平滑で重量もしっかりある。ただ、手にしたときに金属としての冷たさや重さをあまり感じられずものすごく不思議な気がします。錫成分が多いためなのかもしれませんが、謎ですね。私自慢の額輪・・・もしかすると母銭のなりそこないかもしれないと思っていましたが、やはりものすごくきれいな通用銭でした。残念でしたが、このクラスの通用銭の入手の方が難しい気がします。
 
4月22日 【正字背爪文】
関西のSさんからのご投稿です。(ありがとうございます。)寛文期亀戸銭の正字背文・・・外径25.48㎜、内径20.46㎜、重量3.72g・・・少し小さめですけど穿内にやすり掛けのある母銭だそうです。たしかにきれいですね。しかも文の横引き筆始めが鋭く尖っています。その他に通用画の中柱の先端が陰起して干用通になっています。この手のもの、どこかで見たような気もするのですが思い出せません。どなたか類品をお持ちの方はいらっしゃいませんか?
※単純に爪文と名付けていますが、ツノ文とか尖り文なんて名前でも面白そうです。
 
4月21日 【天保銭の謎の木型】
侍古銭会のよねさんから頂戴した画像です。天保銭の張足寶の真っ黒な木型・・・背には「上」の文字が刻まれています。何に使用したのかは詳細は不明ですが印判であろうことは何となくわかります。それにしてもずいぶん奇抜な書体にしたものです。最初は泉譜を印刷するための印判かとも思ったのですが、普通は版木に直接彫りますし、あまりににも書体が変。まるで天保仙人様所有の縮字宏足寶みたいです。雄型なのでお菓子の型ではなさそうですしやはり印刷関連の型かなと思います。上は「こちらの方が上方向だよ」の印でしょうね。
 
 
4月20日 【寛保期高津錢の最大様】
オークションネットの古銭入札誌第26号において今回一押しの品でした。なんてことない細字背元の母銭なのですが大きさ表示が尋常ではない。思わず問合せをしてしまいました。なにせ直径が25㎜を超えていましたから。そうしたところノギス画像付きでメール返信があったのです。寛永方向で25.3㎜という数値が読み取れます。しかも鋳バリなどの影響がない部位です。これは大きい。寛保期高津銭は通用銭の大きさで24㎜を超えると大様の方で、通用銭で24.5㎜を超えるものは私は見たことがありません。
いづみ会譜や竹田譜に最大級母銭と思われる拓図が掲載されていますが、それとて大きさは25㎜あるかないかです。これは間違いなく高津錢のチャンピオン、間違いなく王様です。寛保期高津錢の細字母銭の通常サイズの相場は8000~12000円ぐらいですけどこれはその何倍もの価値はあると思います。
と、いう訳で色めき立ちましたが「しめしめ、この大きさの価値が分かるものはそんなにいないだろうな」とも考えました。そこで、市場価格の3倍+ほどの値段をつけてみたのですが落札価格はなんと10万円以上・・・さすがにぶっ飛びました。これは拍手ものです。私の付けた安すぎる価格の倍以上で完全に負け、私は足元にも及びませんでした。この価値が分かる強者がいたことに感動すら覚えます。それにしても病気ともいえる強気価格。すばらしい!
 
4月19日 【俯永面刔輪?】
海外から禄生禄さんの投稿です。(ありがとうございます。)俯永面刔輪と言うタイトルで、ひと目そんなものはないと思ったのですが、良くよく観察してみると寶冠と永柱の輪からの離れ加減がわずかに強い気がします。下の画像は比較用の俯永母銭で、内径を上の画像にほぼ合わせています。
画像がまっすぐでないので結論は出せませんが、このような変化に誰も過去気が付いていなかっただけかもしれません。鉄一文銭に亀戸大様と言う種類がありますが、大正年間の末に一挿しの通用銭が出現するまで、だれも亀戸大様に降通の書体があることに気が付かなかった先例もあります。
また、天保通寶の本座銭においても刔輪変化があり、とくに寶足の変化は様々。それを一種とすると分類は際限なくなるのであえて言及していないだけなのかもしれません。(類似カタログには例示はされています。)
天保仙人様は「本座銭にも刔輪銭はある。」とはっきりおっしゃっていました。2015年の4月15日の制作日記に掲載している細郭手は、銭文書体・やすり仕上げ・砂目・銅質は本座と変わらないものの輪際の刔輪が極端でその痕跡も残っています。歴代の収集家はこれを不知銭としていますが、こんな本座銭があってもおかしくない気もします。
さて画像の品に話を戻すと、微細変化に違いありませんが、それが偶然の鋳造変化なのかそれとも製作上の刔輪手法によるものなのかが確定できません。
これについてはHPをご覧の皆様から広く意見をお聞きしたいと思います。天保通寶のようによく観察するとありふれた変化なのかもしれません。
ただ、こういったことに気づける禄生禄の観察力は尊敬に値します。雑銭と言えども奥が深いですね・・・。
 
4月18日 【誤伝:丁銀の作り方?】
最近、ある雑誌にまた丁銀の誤った作り方が紹介、掲載されました。勘違いしていた方を別に批判をしているわけではありません。実は以前、私も間違えていましたから。ただ、この誤った伝承が古泉界に連綿と語り継がれることは何とか断ち切りたいと思っています。
2014年の9月の制作日記にも書いていますが、溶かした銀を熱湯の中に注ぐという工程が、過去にもいたるところで解説されています。右の図はボナンザ誌上に掲載された代表的な図ですが、業界の有識者も今でもこれを信じて疑わない方が多いようです。しかし、この行為・・・これは金属爆発(水蒸気爆発)を誘発する非常に危険な行為で、絶対再現はできません。(これが危ない行為だということは金属加工業者にとってはごくごく常識的なことなのだそうです。)
なんでこのような間違いが伝わっているかと言えば、昔は金属を溶かした流体の状態を、”湯”と称したので、「熱した湯を木箱に注いだ:湯次」と記述された行為がいつしか熱湯の中に溶かした金属を注いだことにすり替わってしまったようなのです。木箱は燃えてしまいますので溶解した銀の熱には耐えられませんから、当然中には断熱材的な何かが入れられていたと思われます。それはおそらく鋳砂であっただろうと天保仙人様は推定されています。鋳砂はガラス質の珪砂で耐熱性があり、そのほかに貴重な鋳砂を節約・補強するために小石や礫なども入れた可能性があります。そのうえで砂型の上に凹みをつけて銀を流したと考えるのが自然のようです。実はばさら日本史と言うサイトにニセ丁銀の作り方が掲載されています。恐らく独自に考えられてレプリカを作られたと思われるのですけど、偶然ながら製法としては一番合理的なものにたどり着いていると思います。なお、ここに記した作り方についても推定の域を超えませんので、他人に伝える場合はご注意ください。
※切銀などに見られる石目は鋳造時の鋳型に使用された小石や礫の痕跡だろうと仙人様は申していました。金てこを鋳造するとき、通常の鋳砂だけでは鋳型が重みに耐えられません。そこで鋳型作りに補強用の石や礫が必要になるのだそうです。昔の金てこにはそのため石目跡が残るのだそうです。
 
 
4月17日 【掘り出し物】
侍古錢会からのご報告です。同会のたじさんの知人(中部地方在住)が掘り出した不知天保銭の画像です。(携帯画像だったので強調加工しています。)見るからに美銭、そして寶足が気持ちよいほど長い。宏足寶系・・・それもかなり長く後足は肥足に変化しています。骨董市仲間ということで骨董市のどこかで発見したのか・・・一枚1000円の雑銭の中からの出現だということ。画像は斜めなのですけど横太りのような銭形にも見えますし、天上の刔輪もしっかりありそう。骨董市はあなどれません。良いものを見せて戴きました。
※この画像は侍古銭会に会員登録すると閲覧できるようになります。登録は簡単にできます。古銭に興味のある方は訪ねてみてください。
 
 
4月15日 【不思議な本座広郭】
関西のSさんからのご投稿です。ありがとうございます。随所に未使用色の残る本座広郭のようなのですが何か変。Sさんはこういう変なところににものすごく目鼻が利きます。実は色が違う部分は鋳浚われているようなのです。本座銭でも文字や輪の周囲が削られているものは散見されますがこれはちょっと違う感じ。さらに穿内には細かくやすりがかけられているそうで、これは改造母銭の可能性がかなり高い気がします。また、輪側面には鉛のような白い金属の溶けたような痕跡もところどころ残っているとか・・・覆輪の痕跡かもしれませんね。久留米正字の母銭は、ひょっとしたらこちらの方が源流なのかもしれません。私の知識では今のところ改造母銭の可能性・・・と言うところまでですけど、なかなか夢のある品だと思います。
 
 
4月13日 【享保の改革を斬る!】
徳川吉宗と聞くと享保の改革を断行した徳川中興の祖であり、紀州徳川家出身の暴れん坊将軍とか質素倹約とか米将軍のイメージが強いと思います。また、貨幣政策においては家康時代に戻した良質の金銀、銭をつくったと喧伝されています。
これについては2013年の6月27日と7月25日にも書いてありますが誤ったイメージだと思います。良貨復古は新井白石による政策であり、吉宗はそれを一時的に引き継いだだけ。後に新井を罷免しており、結果として元文の改鋳に踏み切っています。鉄銭発行を行ったのも吉宗でした。だいたい緊縮財政と良貨復古は家康信仰に基づくデフレ政策であり、短期的には改鋳の出目でもうかっても、長期的にはデフレ=米価格低迷=財政悪化を招くことになります。これは武家社会を徹底的に痛めつける結果になります。
新井白石がこの政策をとったのは、荻原重秀が行った超インフレ政策を鎮静化させるためと、改鋳利益で一時的な収益を得るためだったと思いますが、政策的には成功はしていません。吉宗が成功したのは、白石政策を否定した元文の改鋳の成功と新田開発、金銀の海外流出の抑制などによるもの。通貨供給量を多くすれば米価格はあがり、新田開発が進めばさらに幕府収入もあがるのです。
そのことが第28回東京国際コインコンベンションの送付資料に記されており、私は感心しました。この記述は経済原理からして正しいからです。教科書検定も変なところの指摘ばかりしていないで、歴史上の誤ったイメージ修正をしたらどうかなと思います。とかく日本人は質素倹約と言う言葉を美辞麗句として賛辞しますが、こと通貨政策においてはコントロールが重要なのです。
 
 
4月12日 【密鋳延尾永写】
4月8日の品と同時に出ていた品。こちらはほぼ無競争。価格的にも4文の1以下で落ちています。外径は魔輪されて22.3~22.6㎜しかないのですが重量は3.8gとしっかりあります。スキャンしたら白っぽく写ってしまいましたが実物は浄法寺の赤茶に近い色。多分浄法寺系ですね。磨輪してから面の砥ぎをしていますので側面中央が一部凹んだようになっています。これは四ツ寶広衛写としたものと同じつくりです。興味深いですね。
→ 密鋳銅一文の観察箱
 
4月11日 【大和文庫から】
最新号の大和文庫に出ていた覆輪銭です。これだけしっかりした覆輪銭は久しぶりに見たと食指が動きましたが中途半端な応札となり負けてしまいました。これぐらいの価格で入手できればいいなあなんて思って入れたからですね。ちょっと圧延のような雰囲気もあるのですが画像では良い雰囲気です。このクラスの不知銭はなかなか入手が難しくなりました。

※ヤフオクに再出品されています。転売目的なのかと思うと悔しいので手が出ません。すっかり冷めてしまいました。
 
4月8日 【魅惑の密鋳一文銅錢】
密鋳一文銅錢は人気がない・・・と思っていたのですが、最近はどうも風向きが違ってきました。人気がない理由は
①見栄えがしない。
②圧倒的に数が少ない。
③分類が進まず、コレクションが増えずつまらない。
こんなところでしょうか?錯笵銭や絵銭寛永、安南寛永などをもダボハゼのように食らいついていた私もこの密鋳一文銭はなかなか集まらず分類するまでに至っていませんでした。それでも気に入ったものをポイポツ拾っているうちにある程度の形になってきています。そういう意味では密鋳一銅文錢は最後の宝の山じゃないかと思っておりましたが、前述の通り急に競争が激しくなりました。これは最近下町で秋田の故村上師の所蔵品が放出されたことがきっかけじゃないかと思っています。結構強気の値付けでしたが、希少であることに気づいていたコレクターども(注:私を含む)がここぞとばかり群がった次第。実際に集めてみるとわかるのですが、密鋳四文銅錢を10枚集められても一文錢にはとんと出会えません。割合的には20:1以下じゃないかしら?
さて画像の品は秋田銭写し(中字昴水かな?)の寛永銭。加護山写しあたりでしょうか?絶対負けないつもりでとんでもない価格を入れていたつもりだったのですが、鼻差で逆転されました。「え、あれで負けたの?」と信じられない結果でしたが、無駄遣いせずに済んだと諦めます。しかし、この銭の顔が魅力的だと思える方・・・かなりきています。
 
4月7日 【困った歪斜穿】
四国のKさんから贈られてきた品・・・広郭手の歪穿?ということでしたが、こいつは判断が難しい。解説前にまずは計測値をお伝えします。
長径49.3㎜、短径33.1㎜、銭文径41.4㎜、重量24.8g、地肌は波打っていて立体的にも歪んでいます。極印・・・穴ぼこ状に見えとても深い。制作は本座に近い。地肌は波打っているものの砂目はしっかり観察できます。もし、この天保の厚みがなければ、本座の火中変化で片付けられてしまいますが・・・24.8gはかなり分厚い。ただ、銭のゆがみは力学的な力が後天的に左下に加わったことも考えられます。
長郭手の歪斜穿の場合、銭文径の縮小と言う切り札がありました。一方この品は不知銭とするあと一つ何かが欲しい。銭文径が大きくて地金が波打っているのも火中の可能性を示唆するのでプラス要件にはあと一歩。ではこれは何か・・・この肉厚と穴ぼこ状の極印を見る限りはやはり不知銭とすべきなのかもしれませんが、まだ何か心に引っかかる気がします。皆様のご意見をお寄せください。
肉厚・重量 肉厚2.7~2.8㎜・24.8g、本座としてはいずれも規格外。
長径・短径 長径49.3㎜、短径33.1㎜ 長径は普通だが短径の33㎜超えは規格外。
銅質・制作 やや黄色みが強く荒れ気味だが本座と同じ。やすり目と砂目も本座とは矛盾がない。
銭文径 41.4㎜。不知銭としては大きく本座の規格よりわずかに大きい。火中品の可能性の一番の根拠。 
垂直方向の歪み 左側の波うちが激しく、地が背側に向かい凹んでいる。(背側は凸)砂目があるので力学的な変化ではなさそうだ。面側から見て左輪やや下と背の左輪中央部に力学的な瑕がある。これは歪みを修正しようとしたものかもしれない。よく見ると面背のいたるところに古い打ち瑕がある。
水平方向の歪み  面側から見て左側がせりあがるように歪み、完全に斜穿になっている。左下方向から右上方向に打ち据えたような瑕が輪側面に複数集中して見られる。
桐極印  形状ははっきりしないが、深く穴ぼこ状に打たれている。 
中間報告として:全体的な歪みが発生した後に輪に力が加わった(修正を後天的に試みた?)ように思えます。銭文径がやや大きく地が波打つことから焼けの可能性はありますがこの程度でこれほどの斜め方向のゆがみを起こすことは考え難い気がします。極印形状まで焼けで変化することもないと思います。火中でここまで歪むならもっと銭全体がただれると思われるからです。したがって不知銭としてもともと歪斜穿に歪んで鋳造された可能性が高くそれに後天的に物理的な力が加えられたものと考えます。火中変化の可能性は完全に払しょくできませんが、歪斜穿の不知品と判断するのが妥当だと思います。Kさん、いかがでしょうか?。
 
長門銭 正字様陰目寛 鋳放手本銭
外径26.4~25.8㎜ 重量3.3g
長門銭 奇永俯寛削字 手本銭
外径25.3㎜
 重量4.7g
4月5日 【毛利家手本銭が来た!】
四国の寛仙堂氏から購入した毛利家の手本錢が相次いで到着しました。正字様の手本銭はかなりの希少銭だと思われます。古寛永泉志の説明においてもその希少性がにおわされています。ただ、正字様、麗書の違いが悩ましい。個人的な印象ですけど、本来正字様は文字が接郭気味に離輪するもの。それは星文様の離郭気味の文字配置と好対照なのです。古寛永泉志の正字様本体はその刔輪の特徴があまりなくて正字様らしくないのです。では麗書かというと何か違います。寶の尓のバランスはこれは悪い。尓の横引きも仰いでいます。だからこれは正字様なんでしょうけどひと目100%の自信がないのが私の実力のなさですね。寛目の二引が俯すので本来は俯二寛とすべきなのですがなぜか陰目寛の名がついています。
大きさは見事です。タグには22.5.10という文字と購入価格らしき数字が記されてました。おそらく平成22年の5月に購入されたのでしょう。寛仙堂氏が平成古寛永銭譜を上梓したのが平成19年ですから、その3年後の入手と言うことかしら?
本来なら泉譜を飾る存在だったと思います。
下段は奇永の削字です。文字の崩れっぷりが可愛らしく、とくに寛全体が前のめりになっています。古寛永を学んだ頃、長門の削字少ないし面白いのでは絶対拾うべきものと考えていましたから、思わず飛びついてしまいました。条件反射です。重量の4.7gは実に立派な数字。ただ、この文字抜けじゃあこのままでは母銭にはできないと思います。これをどうやって仕上げたのでしょうか?
 
4月3日 【粗造天保左右楔形】
四国のKさんからのご投稿です。(ありがとうございます。)赤銅質の粗造天保なのですけど左右の厚みが全然違います。しかも鋳型は上下にずれているらしく、穿内に上下段差があるらしい。いわゆる張合わせ状態の制作です。この手のものは私も捻じれ形として発表しましたがここまで左右の厚み差はありませんでした。楔形の天保では上下なら1㎜以上の差異があるものも保有していますが、この天保は距離の短い左右において0.8㎜差を誇ります。しかも縮形錢で長径は47.75㎜だそうで、短径も31.2㎜しかないそうです。ちなみに左の肉厚は2.8㎜、右側は2㎜。蓼食う虫も好き好きと言いますが、なかなか味があって面白いと思いますよ。密鋳銭は楽しいですね。私は間違いなく蓼が大好きな虫ですから。
 
3月31日 【毛利家手本銭:長門正字様陰目寛】
古寛永は将来処分するときに苦労しそうだからあまり手を出してはいけない・・・と思いつつ手が止まりませんでした。しかも26㎜超過の鋳放し手本錢、それも正字様と聞いたら珍品を通り越して名品の誉れ高き品のはずなのです。長門の通用銭においても正字様はさほど多い存在ではないのですけど、地味な書体ですから人気はあまりありません。しかし、手本錢になると一番存在を聞かないのが広永様、次いで太細様、正字様、星文様の順でしょうか?
ID番号から寛仙堂氏の持ち物であろうと判断したのですが、こんなに立派な品なのに泉譜掲載がありません。普通なら目玉商品なのですけど・・・。玄友氏の泉譜を見るとよく似た拓影が目を惹きます。しかし確証がつかめません。かくなる上は現物を入手し、確かめたい・・・と、言う訳で冒頭の結果とあいなりました。病気ですね。
 
3月28日 【仮称:正字背勁文狭フ永】
四国のKさんからのご投稿です。(感謝!)
普通の文銭に見えますが、永字のフ画の横画が失われていています。背の画像は省略しましたが勁文です。座の部分は残っているので偶然の産物なのかもしれませんが、変化としてはとても分かりやすいのでここに掲示して類品の出現を待つことにします。寛永銭の書体変化はたいていが偶然の鋳不足や異だまりばかりなのですけど、なぜか文銭については母銭の変化が良く見つかります。大量生産だったので鋳銭工がわざと目印を付けたのかもしれません。
同じ品をお持ちの方はメール連絡をお願いします。
 
 
3月26日 【趣味情報記事より:紀州藩の天保銭】
趣味情報の未収の号を入手しました。その昭和51年2月号の記事に注目すべき記述がありました。
”「安政以降江戸諸錢座見聞録」のなかには、種銭棟梁田中岩市による証言として「深川高橋座御用所跡にて紀州家が天保銭鋳造を企てたることを聞けり」とあります。これにより紀州和歌山藩では幕府の許可を得て、慶應3年8月15日より深川万年橋の邸内において天保銭が鋳造されたことが川田晋一氏の努力により判明しています。”
この記述のうち企画されたことは天保泉譜(伊勢陽譜)にも見られますが、実際に天保銭が許可され鋳造されたという川田氏のくだりは初めて聞きます。私の記憶が間違いなければ川田晋一氏とは日本貨幣協会の重鎮(元会長?)・大家・研究家にして金属加工関係の仕事もされている方じゃなかったかしら?(間違っていたらごめんなさい。)勢陽譜の序章部分に田中岩市氏の名前は見られ、証言当時南葛飾郡綾瀬村の住人にして小菅座、浅草橋場真崎銭座、常陸祝町銭座、小梅水戸藩邸座、深川会津藩邸座、深川藤堂邸座(津藩)などを転々とした寛永通寶・天保通寶の種銭職人のようです。当時の鋳銭職人は限られ、各藩の要請に応じてある程度自由に往来ができたようですけど、天保銭の密鋳は死罪・廃藩に値する重罪であったため秘密の漏洩はあってはならぬこと。おそらく上記の各藩は互いに友好関係にあり、かつ佐幕派であったと思われます。(上記の藩で天保銭を作ったのは水戸藩と会津藩。水戸藩は幕府の許諾がされていたらしく、会津藩も鋳造を黙認されていたと思われます。余談ながら津藩と会津藩の寛永銭・水戸藩と会津藩の天保銭に類似性が認められるのは種銭職人が同じだったからと言う考え方もできます。)
ただ、この記述は他の資料等では見たことがなく、紀州藩の天保銭についても未だに確定をみないことからあるいはこの説が現在では肯定されていないのかもしれませんが、かなり具体的な記述であり何らかの根拠があるのではと思う次第です。
なお、天保仙人様の仮説によると紀州藩の天保銭があるとすれば本座の母銭を流用した可能性があり、面反郭背含円郭・背反郭面含円郭の類が怪しいのではないかということです。
 
3月22日 【玉塚天保の包み紙】
厳密にいうと貨幣ではなく、絵銭の包み紙と言った方が良いと思うのですが・・・玉塚天保の異書がその包み紙とともにネットオークションに出現しました。包装紙などはほぼ捨てられる運命にあると思いますのでよくぞ残っていたものだと思います。私は古銭コレクター・・・それも江戸期の銅穴銭(通用銭)をメインにした収集なのですけど、泉譜に掲載されている関係でこの玉塚天保も何となく集めています。昔は玉塚天保など誰も興味を示さなかったのですけど収集の仕掛人のひとりは実は天保仙人様だったとか・・・。仙人様は月間天保銭誌上に玉塚天保の異書の発表をされていますし、天保堂瓜生有伸氏もこの玉塚天保のいわれについて詳しく記録を残しています。
ただ、玉塚天保の包み紙の実物画像ははじめてみました。応札したものの想定価格を大きく超えてしまい断念・残念・無念。こういった包み紙のことを良くカタカナで「タトウ」と書いてあるのですけど、外来語かと思いきや調べてみると立派な和語で、「畳包み:たとうづつみ」(または畳紙:たとうがみ)の略語らしいのです。要するに包装の包み紙ということ。ならばカタカナでなく平仮名もしくは漢字で書けばよいのになあと思います。
こんな包装紙をありがたがって大枚を支払うコレクターが多数出現するなど勤勉倹約を是とする玉塚氏はみじんも考えてはいなかったと思います。古銭の世界でこのような「タトウ」が珍重されるのはそれほどないでしょう。そういえばグリコ天保のタトウは天保仙人様がお持ちでした。私は付録の小冊子しか持っていませんが、そんなものを集める人間もそう多くはないかと思います。あとは日荷堂上棟記念銭のタトウが出てきたら珍しいですね。100年以上紙に包まれていた天保銭は極美品でした。
 
3月21日 【魅力的なメダル】
世の中には様々なコレクターがいらっしゃると思いますが、メダルは今一つ人気がないと思います。勲章のコレクターはときおり聞きますし、絵銭などはかなり深い人気があります。オリンピックやノーベル賞のメダルは集めようにも入手は難しいですし、かといってお土産に売られているようなメダルは権威がなさすぎ。海外ではスイスの射撃祭のような美術品的なメダルがあるのですけど、日本のメダルはなぜか地金以上の価値がついていない気がします。かくいう私も万博やオリンピックの記念メダルを死蔵しているだけ。宝の持ち腐れです。さて、画像はネットで見かけて画像だけ保存していたもの。オランダと幕府との友好関係を記念して1862年に関係者に配られたものらしい・・・というのは不覚にも私はこれについて何も記録をしていなかったので画像からの推定です。ときは文久年間で1862年はちょうど文久遣欧使節をヨーロッパに派遣した年です。Wikipediaによると「文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。」とのこと。その記念メダルですから国家の威信をかけたつくり。しかも歴史的価値のある資料ですし、この出来栄えはまさに美術品です。これはメダルコレクターでなくても欲しい!果たしていったいいくらになったのでしょうか?
 
 
3月19日 【未発表投稿記事】
ここのところ年度末業務と日課としたのウォーキングに追われ、あまり更新していなかったので消化不良を起こしています。
関西のSさんからはちょっと変わった形の通上片千鳥。漫画のイルカのイラストみたいで可愛いですね。類品をお持ちの方、ぜひご一報をください。
侍古銭会のたじさんからはこんなメールを頂戴していました。
・・・秋田小様を譲ってくださった方から面白い寛永銭を見せていただきました。何の変てつもない背文・・・と思いきや、縁を囲むように”長之助 ◯◯町 元文五歳・・・”と毛彫りされていました。迷子札というそうです。「当時の親の子どもに対する愛情が伝わる」と話されていました。大半の古銭は手放してしまったようですが、これは手放さなかったようで・・・私もひとつ思い浮かびました。刻印上棟銭の類の掲示品の中で、よく意味の分からない寛永銭が1枚ありました。それは「大坂人情門?」のように毛彫りされています。うまく読めなかったのですが、人物名だとすると「大坂 久〇門」じゃないかと・・・改めて考え直しました。〇の部分は判読が厳しいのですけど「大坂 久衛門」じゃないかと思います。ただ、迷子札かどうかはわかりません。これじゃ、迷子になっても家には帰れないですから。あるいはお守り銭なのかしら?興味深いですね。
同じく侍古銭会のよねさんからも白銅質の曳尾入手の画像を頂戴しました。古銭を覚え始めの頃はまるでスポンジのようにいろいろなことを吸収できます。また、その頃は次から次に新しい古銭にも出会えます。まさに伸び盛りの楽しさ!・・・そうして私のように病気になってゆくのです。(合掌)でも、もっと白いものもあるんですよ・・・探してください。
鉄人からはこんなメール。
退寛は同離郭も含めて内郭をいじって製作した言われているもので珍しい製作方法を採っています。(中略)笹手永手退寛については妙にこだわりがあって10年程追い求めてきました。(中略)はっきりと分かる退寛は稀少で普通品で2~3万、美品で4~5万というところでしょうか。退寛離郭については古寛永銭誌の位付が甘すぎると思うくらいの珍銭だと思っています。人気がないから仕方ないですね。でも私はこの退寛が好きでたまりません。
と、要はこの分類には納得できない誤りが多いとのご指摘。言われてみて自分の判断が甘いことが良く分かった次第。背中に冷たいものが流れました。再勉強が必要です。左の画像は鉄人送付の間違いない退寛画像。通辵が必ず離郭します。削辵と言いますか削郭なんですね。
海外からは禄生禄さんからもいくつかの投稿がありました。なかでも画像の直永はなかなかの品。かなり前に中国の湖南省の長沙市に行ったとき、古銭の専門店があり、そこで陳列ケースの一番いいところに寶永通寶深冠がうやうやしく鎮座していたのを思い出します。そのときは記念に乾封泉寶を買い求めたのですけど、あの専門店は中国にしては珍しくイミテーション類はほとんどなかったと思います。手放してしまったのがものすごく残念。あれは絶対良い品であると今なら言える。北京から夜行列車で丸一日かかって着いた地でしたから思い出はたくさんあります。禄生禄さんはどうやってこれらの品を求めているのでしょうか?彼は最近かなり目が利くようになっています。(拍手!)まだまだ未発表の記事ありますが、本日はこんなところでお許しください。
 
 
不知細郭手覆輪強刔輪長足寶
長径49.7㎜ 短径33.1㎜ 銭文径40.6㎜ 重量20.8g
不知長郭手覆輪刔輪長足寶赤銅質
長径49.3㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.0㎜ 重量21.2g
不知長郭手覆輪異極印
48.5㎜ 短径31.9㎜ 銭文径41.0㎜ 重量20.4g
不知長郭手鋳写細縁異極印(四ツ目桐様)
48.0㎜ 短径31.5㎜ 銭文径40.9㎜ 重量20.1g
不知細郭手無極印
長径48.6㎜ 短径32.2㎜ 銭文径40.8㎜ 重量21.2g
3月15日 【工藤会長の天保】
雑銭の会の工藤会長が古銭を整理放出されています。体調がすぐれないということでの収集生活終了なのですけど、私と年齢がいくつも違わないので非常に残念です。
その放出品を私はせっせか購入しています。いずれは私も放出するときが来ると思いますが、おそらくそのときは二束三文になるだろうなあ・・・と思いながらなのですけど、お世話になりましたし何より私も古銭が好きなものですから・・・。

一番上のものは細郭手の中でとくに面背の刔輪が強いタイプ。銅色は本座とほぼ同じで製作もなかなかのもの。実は同じ品物をすでに保有していましたが、人助けと自らに言い訳をしながら応札してしまいました。評価的には
【少~稀】クラスでかなり貴重なものですね。

2枚目は古い古銭の収集家の朱書きが残る品。判読すると右側に「不知品」左側は「長郭覆輪刔輪長足珎」と読めます。(覆輪の文字は良く見えないのですけど表記の流れからそのように判断しました。)銅質は真っ赤とは言えませんがこの手のものとしてはかなり赤みが強いタイプで好感が持てます。こいつは一般の長足寶よりちょっと上の
【1~少】ランクでしょう。可愛い奴です。

続いてはやや白銅質の覆輪の長郭手。このタイプの写しは良く見かけますし、類品も保有しています。極印はぼんやりしていてよくわからない変形桐です。子細に見ると天上に部分刔輪らしきものも観察できますが特徴とすべきものではないかしら。こいつのランキングは
【2】程度かな?

その次は普通の鋳写し品。かなりの小様ですけど一度写しの品です。極印は片側だけ確認でき、四ツ目のような形。ただしこの形状は十文字状の桐極印が摩耗して葉脈が太くなると現れる形なのであまり高く評価はできません。ランキングは
【3~4】が妥当でしょうね。

最後の一枚は工藤氏からの分譲品ではなく、机の上に転がっていたもの。たぶん昨年の幣泉あたりの収穫品でしょう。
側面が平滑に磨かれていて穿内も強いやすり痕跡。文字の周囲に彫り込みがあり久留米と同じつくりです。
もし久留米銭を砥石加工したらこうなるかもしれないと思いながらも、自然な時代色があり現時点では不知銭とするしかないかなあ・・・と思う品。当時の品としては無極印というのはよほどの事情がない限り通貨としてはあり得ません。よほどの事情というのは明治維新にともなう混乱で、その頃に作られたと推定される会津藩銭や薩摩広郭には無極印のものが散見されます。ただ、これは例外ですね。不知銭は桐極印があるものの方が安心なのです。と、いう訳でこいつのランクは
【4】以下だと思います。側面の様子が今一つ気に入りません。

なお、なお、私が付けてるランキングは私の嗜好がかなり入っています。また評価は時代の変遷で大きく変化しますのであくまでも参考指標だとお考えください。
 
3月12日 【玉石混交の世界】
ネットでは実物に直接触れられることは落札しない限りありません。したがってとんでもない珍品が出現する裏では、幾千万の審議・疑問品が顔を出します。つい最近も盛岡小字もどきの広郭銭やら寶永通寶の直永母銭と言うふれこみもの(こいつも広郭)とか石ノ巻反玉寶らしきものなどが出ていました。真贋については皆様のご判断にお任せしますが、冷静に考えるとそこまで熱くなるようなものでないと思いますよ。最近はやりのスラブ入りのコインも真贋判定は???のようで、状態判定のみ信用できるといった方が良いかもしれません。
さて、そんな中で最近ちょっと目を惹いた画像です。ウォッチリストに入れ忘れ、さらに記録もしていなかったのでどんな出品名・金額だったのか今となっては全く分かりませんが、主観ではこれは良い感じがします。なんだ結局お前も勘が頼りなのか?・・・と言われれば恥ずかしながらその通りで、要は好きか嫌いかですね。もう一度思い出すと不知銭の母銭というふれ込みだったのかもしれません。背の出来が甘いのと文字の繊細さがいまいちなので、あるいは通用格下げ母銭なのかもしれません。(そのように書いてあったような気がします。)画像だと側面の仕上げがやや近代的な雰囲気もあるのですが、面背の感じは実に自然です。側面には極印のようなものが見えますが、極印がない母銭は本座の特徴で、極印があった方が発覚時に隠ぺいするためにも不知母銭の場合はむしろ自然なのです。けっこう強気の出品価格だったので、私ははなから諦めていましたが、どなかた結果をご存知の方、この銭の素性とともにお教えください。
ついでにもうひとつ。こちらは最近入手したB級品の不知長郭手です。なんら特徴がなさそうですけどよ~く観察すると天上刔輪らしきものがあるのです。同じような品は昨年の10月2日の制作日記にもあります。(刔輪と言うより、修正と言った方が良いレベルです。)しかも主葉脈が縦に一本あるだけの異極印です。長径48.4㎜、短径31.7㎜、銭文径41.1㎜、重量19.8g。
 
3月8日 【謎の寛永銭】
四国のKさんが雑銭として入手した中にまじっていた謎の寛永通寶です。ひとめ不旧手系のものとわかる書体。画像ではコ頭通にも見えますが実物はマ頭通ですからなおさらです。大きさは24.45㎜だそうで、不旧手としてはやや大ぶりです。実はほぼ同じ系統のものが穴銭入門寛永通宝新寛永銭の部の第2版には掲載されています。(新しいものには掲載されていません。)田中啓文の銭幣館蔵泉覚にも同様の品があります。穴銭入門寛永通宝新寛永銭の部の拓本は明治時代に活躍した養眞亭馬島杏雨の所蔵品だそうですけど、少し気になるのは彼の収集時代に寛永堂稲垣尚友の活躍が若干重なること。また、田中啓文はその拓本のメモ書きに「英山」とありますからおそらく佐野英山から購入したものと思われますが、野英山と言えば大古泉研究家にして日本初の古銭ブローカー・・・しかしその裏の顔は贋作のブローカーであったとも言われます。だからといってこの古銭がダメだという訳ではありません・・・ですけどちょっと心配な材料ですね。画像の品の見た目は母銭には見えませんが背の仕上げを見る限りかなり丁寧なつくりであることから、記念銭かいわゆる手本の類なのかもしれません。穴銭カタログ日本を開くと試作中途銭の中に「折二小様手彫母銭」として掲載がありました。
と、いうわけでこの古銭は彫母銭から通用銭サイズのものまであるだろうことが分かります。穴銭入門の拓本の径は24.2㎜程度ですけど穴カタの彫母の拓本は25㎜をはるかに超えますから、大きさもかなりバラツキがありそうです。
かくしてこれらの品の位置づけが全く分からなくなりました。いえることはかなり古い時代・・・少なくとも大正年間以前から存在していたであろうということ、名だたる古泉家が所有していたということだけです。本物だったら大珍品、贋作だったら寛永堂・古楽堂あたりの傑作か?そうだとしたら由緒正しい贋作品。最終判断は皆様の考え次第・・・不思議な古銭です。
 
 
3月5日 【仙台長足寶小様】
八厘会で侍古銭会のたじさんが入手した仙台長足寶小様の画像です。スマホ撮影なので全体が白っぽくぼやけて見えますが、実物はかなりの美銭だそうで、ご覧になる際はこれは銭の持つ魅力のオーラ、後光だとお思い下さい。たじさんはつい最近までは天保銭初心者だといっていたと思うのですが、今や全力疾走状態。秋田小様や南部銅山手などの上級品クラスを立て続けにGETしています。そして今回は仙台銭とまさにイケイケです。これらの収穫は人との良い出会いによって生まれているようで、彼には御仏のご加護がついているとしか思えません。(ついている?それとも憑いている?)
仙台長足寶小様は基本的な藩鋳銭とされながら不知銭の要素が満載で実に魅力たっぷりな品。広郭銭でありながら覆輪、刔輪手法がなされていて、それをごまかすためなのか寶足が長く伸びて天第一画が太く加工され、砂目にも特徴があり、しかも鋳ざらい痕跡もしっかり観察できる・・・まさにお手本、魅惑のデパートと言っても過言ではありません。
この長足寶には大様のものも存在し、この小様の母銭なのではないかとのうわさもしきりにあるのですけど、小規模鋳造の不知銭においては二度写しは良くあることで、大様=母銭というわけでは必ずしもないと思います。ただし、大様の方が圧倒的に存在が少ないのは間違いないようですから、お手持ちの品があればご確認ください。49.2㎜以上なら可能性大です。(郭左側に突起があるものが大様という泉譜もありますが、必ずしも突起があるわけではないようです。)
さて、画像の品は背のズレが非常に特徴的で、仙人様曰くその昔の大家の所有物だったらしいのですけど、手持ちの泉譜を調べても同様の品が確認できませんでした。どなたかこの品の出自をご存知の方、いらっしゃいましたら情報をご提供ください。
 
3月4日 【謎の錫母?】
四国のKさんから久々にメール。(ありがとうございます。)添付された画像を拝見したらなんじゃこれ!なる品ものでした。まあ、よくぞこんなものを拾い出したものでKさんの嗅覚には驚かされてばかりです。材質は錫か鉛と言ったところでしょうか?
この書体は古い寛永収集家なら一度は目にしたことがあると思います。新撰寛永泉譜後編には不知年代品「平永」として手彫り版木の図が載っていますし、國光泉会譜の掲載品として穴銭入門寛永通宝・新寛永の部にも第2版以前には掲載されています。(左下拓図)また、穴銭カタログ日本には試作中途銭の延尾永小字様母銭として紹介されています。これらの拓は田中啓文の銭幣館蔵泉覚に掲載されており、大正4年の夏に銅母銭として田中が購入した記録が残っています。したがって拓本の元になった品は現在日銀にあると思われます。拓本から推定すると大きさは24㎜未満であると思われますが、画像の品は大きさは24.25㎜あるということで、ずいぶんと大きいですね。ただ、肉眼で見る限りは輪幅が明らかに違うこともわかります。(どうやら拓本の縮尺が泉譜によって狂っているようで本当の大きさが分かりません。)
私は当初鉛で写した参考錢かと思っていましたが、違うかもしれません。錫母だったら世紀の大発見なのですが、果たして元文期の錫母が崩落も起こさずに残っていられるものかと言う点も気になります。結局、私は何一つ結論が出せなくなりました。右下の画像は平成22年の銀座コインオークションに出品された謎の原母銭。同一品ではないものの書風は非常に近いものがあります。実はこの品、日銀から流出したのではないか・・・と言うきな臭いうわさを聞いています。
皆さん、この品物をどう考えますか?少なくとも時代はかなり遡れそうです。錫母としては繊細さがいまいちのような気がしますが、大化けする可能性も秘めた品物であることは間違いなさそうです。
※左拓:穴銭入門寛永通宝・新寛永の部(第2版)國光泉会譜から転載したもの。
※右画像:平成22年銀座コインオークションカタログより
 
 
3月1日 【美しい母銭】
ネットで見つけて感心してしまいました。白目小字の母銭はものすごく希少で、私はほとんど見たことのない品です。しかし、これは美しい。地肌の砂目もきめ細かく、銅質も通用銭とは異なり特別な香りがします。昨年、千木永の母銭でものすごくきれいな品が出てきましたが、それに肩を居並べる銘品じゃないかしら。私は「母銭コレクターではない。」と自分に言い聞かせて自重しておりましたが、白銅銭好きとしては本当は喉から手が出るほど欲しい品でもあります。
 
2月28日 【天保仙人様からのお便り】
2月21日の記事に対して、仙人様から私考文としてご意見を頂戴したしました。(ありがとうございます。)以下は、その内容ですが、HP掲載用に2つ以上の資料を私がまとめつなげたものになっています。

秋田小様の郭部分の歪みについて鋳造から見た考察をお話し致します。このケースは鋳型に溶解した銅(湯)を注いだ直後に鋳型を平行に落としたためと考えられます。通常の天保銭の鋳込みは鋳型を立てて鋳込む方式です。この場合、鋳型を倒すと湯は倒れた方角に動くため全体的に歪みます、これを歪曲銭と呼んでいます。
ところで、鋳型が地面に対して平行に真っすぐに落とされた場合、中の湯は輪側・・・つまり外測に動くもの①と、中央の郭に向かって押し寄せるもの②とに分かれます。
①の場合は外側に向かうため(力が)広がって行き、圧力が分散するために外縁部分にはほとんど変化が起きませんが、②の方は湯が狭い部分に集中してゆくので圧力が増して、郭の部分に歪みが生じるのです。(外周部分には合わせ目があり、大きな鋳バリができるので、圧力が逃がされるとも考えられます。:浩泉丸加筆)これは50円白銅貨の内縁が歪んでいるのと同様です。
以前、「雑銭の会」のK会長が「南部銭は鋳込みの枚数が少ない」と話しており、著書に記していたはずです。
通常銭座が行う「立て(縦)鋳込み」は大量生産向きですが、鋳型を立てて(大量の湯を使用して一気に)鋳込むためにかなりの技術と広い作業場が必要で、鋳型の倒壊・破壊・金属爆発の危険性もあり、熟練工でなければ無理です。
横鋳込みでは鋳型は横に寝かせて置かれますので、熱いのを我慢できれば熟達していない素人でも出来ます。その際に誤って鋳型を落とすような衝撃を与えてしまい、今回の様な銭貨ができたと考えております。この鋳造手法は鋳型が小さく、倒れることがないので安全ながら、大量生産には向きません。天保銭なら一度に10枚位が限度でしょう。
立て鋳込みは鋳砂を踏み固めるので(型が緻密で)鋳バリが少ないのですが、横鋳込みは手作業で鋳砂を押し込むことが多いので、鋳型のあわせが甘く鋳バリが多く出ます。旧・石巻・反玉寳や南部(盛岡)浄法寺銭の鋳バリが凄いのはそのためです。

天保銭のヤスリは大きく2種類に分けられます。
①輪測用は起こしダガネで歯を起こします、現代の大根等のおろし金と同じ方法です。金属棒を起こしタガネで起こしていくと、切り口が広がる為に、後ろ側に反っていきます。天保銭の図解でヤスリが、弓なりに反っているのはそのためです。
②穿内用のヤスリは、金属棒にタガネで細かい傷(凹み)を多量に打ち込みます。形状は現在の洋式ヤスリに似ています。深く打ち込む訳では無いので、反りは無く真っすぐです。現代でも②の方は作って居られる方が台東区にいますが、①の方はいないようです。

鋳金技術から見た明確な考察ですね。参考になります。
 
 
2月22日 【日本の美:島屋文】
鳳凰山氏から収集3月号に島屋文の記事を寄稿されたと連絡が入りました。そういえばずいぶん前に予定稿を見せて下さった記憶がかすかにありますが、すっかり失念しておりました。収集の表紙に掲載された写真は色彩の再現性がいまいちですけど、原品は超々一級品ばかりです。鳳凰山氏の収集品はとにもかくにも状態の良い品が多く、うらやましい限り。宗教家らしく物腰も落ち着いており、知識もまた一級品。おそらく穴銭の世界において同世代でかなう相手はいないと思うのです。下の画像は収集誌上に掲載された拓本を拡大したものです。
肉眼で見ても細縁銭の文字はひとまわり大きく完全に別格です。舎人坊石川氏がこれら寛文期亀戸銭の細縁類を細縁大字と名付けたのもうなづけます。この細縁を磨輪された母銭じゃないかと公言しはじめたのはもしかすると私じゃないかとも思いあたりますが、通用銭のつくりの細縁も(島屋文以外には)あることから、確定という訳ではありません。
ただ、何品かの細縁を拝見した結果、母銭づくりのものか、銅質が通常の品とは違う・・・母銭質のものばかりで、鋳だまりなどで母銭から通用銭に格下げになったと思われる品もありました。寛文期亀戸銭は母銭管理がかなり厳格だったと見えて、納得できる完璧な母銭にはめったに出会えません。通常出会えるのは出来損ないによる”格下げ母銭”とさんざん使われた後に母銭としては使用できなくされた”廃棄母銭”。”あとは母銭かも知れない”大型の母銭もどき”がほとんどです。鳳凰山氏の島屋文細縁は欠点のない品であり、そういう意味からも貴重な品だと思います。
寛文期亀戸銭についてはおそらく錫母の黎明期であったと思われます。制作の統一性から見て錫母があったことはほぼ間違いない気がするのですが、大量生産のため母銭からの二番写しなども行われていたと思います。個人的な考えですけど錫母はは原母から写すだけでなく、錫母から錫母を作り、鼠算式に母銭を増やす役割をも持っていたと思うのです。錫は冷えて固まる時の縮小がほとんどないとはいえ、全くないわけではありません。したがって微妙に内径の違う母銭がいくつか存在するのは当然で、細縁銭はそんなごく初期の錫母銭から生まれたものとも考えられます。
ところで、私の所有する島屋小頭通細縁ですが、入手直後は金質が通常の品とは異なり、使い込まれた感じだし、穿内は滑らか仕上げだし、地の仕上げも漆仕上げみたいだし、それが表面にもかかっているみたいで違和感ありあり。もしかして贋作かも知れないなあ・・・と不安で方泉處に鑑定依頼を出したというのが真相です。そうしたら一転して大騒ぎになって返ってきましたからびっくり。違和感も多くの方が感じたようで、異論もかなりあったようですけど、その結果私はこの世界にのめり込むようになってしまいましたので果たしてよかったのか悪かったのか・・・。ただ、その後、島屋文細縁をいくつか観察できたことにより、こんなものがあってもおかしくないなと思えるようになりました。平成17年の銀座コインオークションに島屋文細縁の極美品(右画像)が出ていましたが、この品の地の仕上げも別格でしたね。品物そのものが別格と言ってよいかと思います。
※島屋文小頭通は通常の島屋文に比べてかなり広穿になっています。島屋文広穿と言っても過言ではないと思います。これは画像を重ねて比較していてずいぶん前の話になりますが気が付いたことです。ご参考までに・・・。
 
 
2月21日 【銭のゆがみ】
鉄人からお便りがありました。
『秋田小様がヤフオクに出ていまして、郭の辺りが凹凸になっている件なのですけど、寛永銭でも天保銭でも、銭の曲がり、歪みはどうして起こるのでしょうか。以前から疑問でした。半端な力では曲がるものではないのに曲がったものを良くみかけます。ウブだしの銭差しにおいても歪んだもの曲がったものをかなりの確率で見かけます。物理的にあり得ないのではと、いつも思ってしまいます。ギザ10円硬貨でもよっぽといたずらで曲げない限り曲がるものではありませんし、曲がったものも見かけません。経年変質、変化で変態するものだとも思えませんし故意に曲げたのではなくて、製造過程で曲がったのではと時々思っていました。秋田小様は良く歪んだ(凹凸)ものを見かけます。柔らかい銅質のせいなのでしょうか?それにしても簡単に曲げられるものではないと思っています。意図的に曲げる理由があるものなのでしょうか?』
・・・と、いう質問を考えていてふと思いついたことがあります。
仮説・・・通常、銭を鋳造したあとは、目戸切と言って直線的な細長い道具(やすり?:右下図)で穿内の鋳バリを1枚ずつ取り除く作業を行います。そのあと天保通寶の場合は1枚ずつ、寛永銭の場合はまとめて、仕上げ作業用の鉄の角棒に銭をさすのですけど、
鋳バリ除去を兼ねて四角錐の鉄棒を穿に強引に打ち込んだら・・・と、考えたのです。江戸時代におけるやすりは「和やすり:左図」であり、これは鋼鉄の細長い形状で、手作りのおろし金のように目立て金具で片側に目を一つ一つ立てることから反り返るように湾曲しているのが普通でした。この形状は金座銭座図(大日本貨幣史)にもはっきり描かれています。(和やすり現存皆無・再現不能の稀品です。)
一方目戸切に使用した道具がどんなものだったかは図版から想像するしかないのですが、火箸のような角錐の棒状に見えます。これは四方から目を切ることにより、本体の湾曲を防いだものではないかと推定していますが定かではありません。
しかしこれらは本座(金座)だからこそできたことであり、密鋳銭座では道具すら入手困難なはず・・・特に消耗品のやすりは貴重品だったと思います。当時は鋼鉄に目を刻むことは非常に難しく、やすりそのものが高価・・・秋田藩の領内においては鋳砂とやすりの調達に特に苦労したと何かの本で読んだ記憶があります。ですから、仮説は十分にあり得る気がします。(余談ながら目戸とは目処や目途とも書き、糸を通す針の穴・・・針孔・・・が語源のようです。転じて目戸は穴そのものを意味します。さらに余談になりますが、私の故郷では「けつめど」とは「尻の穴」を意味します。)
さて、仮説通りの作業が行われたとしたら、郭は凸凹状態に歪みやすくなります。そして鋳バリは背側に飛び出しやすくなります。それは粗砥石で削ったり、叩いてつぶして処理できます。画像の秋田小様を見るとなんとなくそういう気がしませんか?あるいは角錐を前後から打ち込むことで鋳バリを折り取ったのかもしれません。また、ひょっとすると、これがかの地で嵌郭技術が広まった理由なのかもしれませんね。この時代には、今のような金属やすりを作成する技術はありませんでしたから、仮説ながらけっこう理にかなっていると思います。なお、秋田小様に郭が歪んだものが多いとは鉄人のご指摘ですけど、実は加護山寛永の嵌郭類にもかなりそのようなものがあると思いませんか。すなわちこれは、秋田小様の工房=加護山寛永工房を証明するものになるのではと考えています。
さらに秋田小様には嵌郭のように見えるものが存在すると思います。これまた考え始めると実に面白い仮説になります。以上はあくまでも私個人の仮説・・・でもいい線行っている気がしがしています。妄想が膨らみました。
 
2月19日 【よろめき文銭写し】
鉄銭は苦手で嫌いだと言いながらなんとなく手を出して落としてしまいました。文銭の鉄写しなんですけど、背の文が見えるものはあまり見かけません。しかもこいつは文字が全体的に俯しているように見える変わりもの。文字がよろめいているようで可愛いじゃないですか。でもこれが好きだという私は、やはり世間一般では相当の変わり者と呼ばれるでしょうね。変わり者同士惹かれあうんですね。しかし、こんなものを作って果たして当時は採算が合ったのか・・・不思議です。
 
 
2月15日 【玉塚天保本座長郭異書】
初代玉塚榮次郎が謙虚な心と貯蓄奨励をうたい文句に天保銭主義をとなえ、普及活動を行った際の記念銭を玉塚天保と言います。メダル的なものですけど大量につくられたこと、玉塚が経済界の有名人であったこと、天保銭の収集家でもあったことなどからなぜか人気があるものです。極印には『天保銭は』『人の鏡』『吾が鏡』『玉塚榮次郎』『海運橋』『(山)石』などがあり、そのなかに異書と呼ばれる一風変わった書体もあります。玉塚は書家でもあったそうで、この異書が左右ともそろっているものは他の書体のものより少し少なく珍重されています。気を付けなければいけないのは『天保銭は』『人の鏡』のすべてが異書であること。『人の鏡』だけの異書は良くありますが、なぜかそれを異書とは呼びません。玉塚天保は画像のように文字に朱が入っているのが本来です。集める際は朱が入っているものをできるだけ選ぶようにしましょう。また、本座広郭以外に打たれたものは珍しいですから、お金に余裕があるのなら拾っておくことをお勧めします。
 
2月14日 【母銭狂騒曲】
ネットにはときどき母銭が出現します。はじめから母銭とうたっているものもありますが、ロット物の中にさらりと混じっているもの、意図的かなあ・・・と思われるものなど様々です。かつて秋田や福岡の母銭がネット出現した日には、仙人様から「頑張ればよかったのに・・・もったいなかったね」と言われてしまいましたが、残念ながら根性が続きません。本物に交じって贋作、変造品のようなもの、本物ながら瑕疵のあるものなど玉石混交の世界ですから、それがまた不鮮明な画像で妖しく微笑みかけてくるわけですから・・・。
実際にこう言った品が競り合いになると、目利き自慢がわさわさと襲いかかってきます。結局、最後はチキンレースになることが多く、濡れ手に粟などまず起こりません。さて、ごく最近もいくつか母銭らしきものがネットをにぎわせています。
長郭手の母銭は画像で見た瞬間に間違いないだろうと思えたもの。文字は繊細で背郭の周囲に加刀の痕跡も確認できました。母銭コレクターではない私は、天保母銭は本座広郭しか購入したことがありません。あとは母銭とは思わず購入したものが、通用母・改造母としてあと認定されたようなものだけ。長郭や細郭母は何度か見かけたことがありますがなかなか手が出ません。チャンス到来かと思いましたが皆さんよく見ています。広郭の母銭らしきものも出ていましたが、こちらは本物らしく見えましたが今一つ確証が持てませんでした。最近、母銭もどきの変造通用銭らしきものもときどき出ています。通用銭のきれいなものを磨いて極印を消し、艶を消して白っぽい色に仕上げると画像上では母銭のように見えてしまうのです。さらに加刀痕跡をも入れる業師もいますので要注意。また、偽物のように見える本物もありますからややこしい。失敗すると贋作者の高笑いが聞こえそうで・・・ああ、恐ろしい。まあ、本座の広郭母は入手できていますし、そんなに珍しいものじゃないからとパス。贋作も古色がつくとそれなりに見えますから。
画像の品の判断は皆様にお任せします。君子危うきに近寄らずか、虎穴に入らずんば虎児を得ずか・・・それとも毒食らわば皿まで?皆さん好きですね。 
 
2月13日 【美銭2題】
侍古銭会のよねさんとたじさんが相次いで入手品をご投稿くださいました。(ありがとうございます。)その中のとても目立った2枚を掲載します。上段はよねさんが入手した南部藩の大字です。先日、ヤフオクで銅山手を入手、その勢いでこちらも購入されたようです。いやあ、みごとな銭容です。南部藩銭は比較的入手しやすいのですけど、めったに美銭に出会ったことがないのです。銅色もまちまちで小字は黄色と赤銅色があり、銅山手は黄色~赤褐色、大字は赤銅色~黒紫褐色だと思うのですけど、この大字は見事なほど黄色いし、立派に見えます。作りもがっちりしていて、私所蔵の数少ない品に勝るとも劣らない品です。こういうものに出会えるのも泉運というものでしょう。これものすごく良いですね。背の花押が威張っているように見えてきました。
下段はたじさんのご投稿の入手品。これまた見事な秋田小様。サイズは長径47㎜、重量15.35gとベリーキュート。何より文字抜けが素晴らしい。秋田小様は特に背側の出来が悪いものが多く、出来の悪さもまた味わいと言い訳をしながら鑑賞しています。しかしこの品は面の抜けももちろん、背側もかなりしっかりと鋳出されています。郭もかなり立派です。
この秋田小様はたまたま骨董市で声をかけて下さった方が、分譲を持ちかけて下さったそうで、そんなにおいしい話はそうそう転がっていないと思うのですけど・・・転がっていましたねぇ。これはたじさんの日頃の行いが良いのか、修行のたまものか、とにかくかなり立派な秋田小様です。郭も太いし、何より美しい。声をかけて下さった紳士はたじさんのキラキラした目に心動かされたに違いありません。侍古銭会の二人はモテキが来たとしか思えませんね。
 
 
2月11日 【錯笵のメカニズム】
面背逆製は母銭を砂笵の上に裏返しに置くことで生まれます。砂笵の背側の方は工程を省くためあらかじめ踏み固められています。母銭の穿には型抜けをよくするため傾斜が付けられていますが、裏返しに置かれることにより、上からかぶせられる砂が穿の隅々までいきわたりづらくなります。その結果、空洞が生まれ、その空洞に鋳バリができて面側が狭穿の通用銭が生まれます。母銭を裏返しに置かなくても穿の中の砂が不足すると同じように円穿気味な通用銭ができますが、鋳バリの位置は背側に偏りますので面背逆製とは異なるつくりになります。
異物落下のメカニズムは、母銭の再押しつけによる錯笵(母銭を取り出そうとして失敗したもの)にも生じます。すなわち砂笵に母銭が強く押し付けられると、反作用で行き場を失った鋳砂が盛り上がります。隕石とクレーターの関係ですね。その結果凸模様の周囲に一見不自然な凹模様が現れます。この凹形状は落下以外にも横から母銭が鋳砂を押し出すような動きで割り込んできた場合にも生じます。右の画像はそのような錯笵に見えます。 
固められた砂笵の上で母銭が重なったケースです。
母銭は斜めに重なり、矢印の部分に隙間が生じやすくなります。鋳造するとそこに溶解した金属が流れ込みますので凸状の錯笵変化(肉厚になった部分)が生まれます。なお、母銭取り出しの時に砂笵をえぐるように傷つけ、なおかつ母銭を砂笵に押し付けた場合にも同じ形状が生じると考えられます。切断位置によって面側の重輪も生まれますが、そのためには切断部位を肉厚の部分にする必要がある上に、面側の錯笵は嫌われますので、あまり考えることができません。
 
一度砂笵の中で型どられた母銭が何らかの原因で飛び出して、再度砂笵に押し付けられて型どられたケースをも考えました。しかし、実際には空洞になった側が崩壊しやすくこのようには上手くいかないかも。可能性としてお考えください。空洞が崩壊した場合は面側の方が残されるかもしれません。ただし、飛び出した母銭による右側の型は(おそらくしっかり採られていないため)銭として見た目がかなり悪くなると思います。いずれにしても立体的な面背同時重輪は初めから意図的でない限り生まれてくる可能性は極めて低いと考えられるのです。(はじめから母銭を重ねて、その上から鋳砂を重ねてゆく手法。)だって、面と背に立体的に重なり形状が現れるとなると、笵の深さは上下2枚プラスで錢3枚に及ぶ訳でしょう?固められた砂笵の上で複数の母銭が傾きながら重なればそれでもできる可能性はあるのですけど、その場合は必ず凸変化の錯笵になるはずです。したがって凹変化は生じ難く、かつ鋳造乱れやムラも生じやすくなりますから、この手の錯笵であまりにきれいなものはあまり過熱しない方が良いかもしれません。 
 
 
2月10日 【反玉寶仕立て銭】
2月8日の記事に応えて、東北の某研究者から画像を頂戴しました。(ありがとうございます。)
2月8日の品の兄弟銭であろうとの事で、色調表現がうまくいっていない可能性もありますが、仕立て銭と未仕立て銭の風貌が全く異なることが印象的です。
この天保銭は地元の雑銭の中から発見したものだそうで大変貴重な資料だと思われます。なお、氏は小笠原白雲居の日記の原本をも見たことがある方で、白雲居がこの天保銭が室場で鋳造されたと考えるに至った証拠についてもご存知でした。(その写しをお持ちのようです。)要するに白雲居は銭座の経営者子孫の家を訪ねあて、その際に鋳放し天保銭を見せられてその出自を確認したようなのです。その日記を沢井氏が発見し、新渡戸仙岳氏の記録などと合わせて、室場鋳であることを発表したものと思われます。日記には古銭とは関係のないプライベートなことが記述されていたため、関係者から公開については断られた経緯もあったようなのです。
なお、当時の密鋳天保銭は栗林、浄法寺、室場の3銭座で作られていたそうで、それらには前期錢と後期錢があるようです。前期錢は大字、中字(銅山手)と小字であろうと考えられ、この長郭手の覆輪刔輪銭は後期錢だと推定されています。しかし、こんな立派な覆輪銭が雑銭から出てきた日にゃあ・・・古銭収集はやめられませんね。
 
2月8日 【鋳放反玉寶】
見ての通り反玉寶の鋳放し銭です。みごとだったのでネットで収集しました。通常は鋳放しというと、ありえないと贋作を疑うことからはじめるべきなのですが、反玉寶の類は正品であることが認められている数少ない品です。と、いうのも細縁に仕上げられたものが流通品の中でときどき発見されるからで、画像の品はその前段階の半製品という訳です。この品は今は室場鋳とされていますが、その昔は石ノ巻鋳とされていました。ただ、石ノ巻説は現地調査によりほぼ否定されていますし、室場説についても私が知る限りは確たる証拠が明示されていないままだと思います。もともとこの天保銭は大正のはじめに古銭商の木村昌古堂(木村昌二氏)が東北地方でまとまった状態で発見入手して東京に持ち込んだもの。鋳放しだったので警戒されてなかなか相手にされず、困った木村氏はそれを仕上げて(変造して)普通の不知銭として売ったという逸話が残っています。たしかにこのごつごつとしたゴジラのような顔つきを見れば、妖しいと思うのは無理ないと思います。これは鋳バリの処理と、面背の砥ぎが行われていないからで、私もこの顔つきは本能的に好きになれなかったのですが、その後、細縁銭を入手したことで、面砥ぎで風貌が全く変わってしまうことを知りました。(2015年3月15~16日の制作日記参照)
反玉寶には鋳放し銭、仕立て銭、仕立て細縁錢の3種が確認でき、なかでも仕立て銭はかなり希少のようです。細縁銭は地元では存在を知られていたようで、その再発見は反玉寶鋳放し銭の地位見直しのきっかけ→大ブームになったようです。(そのほかに王画に欠画のある瑕寶という細分類もあります。瑕寶の細縁はめったに見つからないそうです。)
さて、画像の品は湯口の残るもので時代を感じさせるものでもあります。この風貌のものは(あくまでも風聞からの理解ですけど)地元の郷土資料館にあったものと同一(もしくは類品)であり、それは黒いしみ(錫錆)が残るもののように聞いています。現在は室場とされていますが、依然謎が多く、(風貌から)浄法寺銭につながるものではないかという意見を東北の収集家から聞いたことがあり、私もそんな気がしています。(印象から受ける意見であり、根拠があるわけではありません。)
天保銭の場合は鋳放し状態では流通できるわけではなく、途中で仕上げ放棄されたのは製作途中でのっぴきならない事態になったのか、意図的にそうしたか・・・そのほうが有利と判断された・・・のいずれだと思います。反玉寶においては細縁銭が存在したので、はじめは流通を目的に作られたものとされていますが、もしかすると途中で事情が変わって、それから絵銭的なものとして作られるようになった可能性もあります。
天保通宝の場合、額面のまま通用させた場合鋳造による差益はかなりのものになります。討幕の際はそれが財源になっていたのは有名な話なのですけど、政権を奪取した政府軍は自分たちの過去の所業を隠した上で、政令で天保通宝の交換価値を地金価格までに落として、新たな革命のエネルギーの源泉にならないようにしたというのが実情なのでは?・・・幕末の鋳放し銭の存在理由は大方そんなところだと思います。
※余談ながら英泉こと秋田の故、村上師の研究分類譜には反玉寶は2品しか拓がなく、村上氏がこの銭についてあまり好きではなかったような印象を受け不安に思っておりましたが、秋田在住の村上氏は地理的に隣接する南部藩をライバル視していたようで、心理的にのめり込めなかったというお話を後に聞きました。 
 
2月6日 【鉄錯笵銭】
ネットで収集した錯笵銭(エラー銭)です。手作り鋳造貨幣である寛永通寶は近代銭に比べればエラーの発生率は高いと思いますが、では、いざ探すとなるとなかなか見つかりません。画像の品はネット応札していたのですが、仕事の関係上締め切り時間に間に合わずいずれも逃してしまったもの。大変残念です。
面背逆製の鉄4文錢は初めてと、言いたいのですが北秋田寛永通宝研究会の故、菅原氏の資料の中に1枚ありました。書体はたぶん仰寶でありふれていますし、錆だらけで汚いので市場価値がつくようなものではないと思いますけど、エラーとしては珍しいものですね。母銭を砂笵に置くときに裏表を間違えてしまったため、面側の仕上げが浅く背側が深くかたどられたもの。工程を省くため背側にあたる砂笵はあらかじめ踏み固められていますので、逆に置かれると面側が浅く、背側が深くくっきり鋳出されます。また、円穿になりやすいという特徴もあります。(参考資料として2015年1月14日と17日の制作日記および錯笵銭物語のコーナーなどををお読み頂けると幸いです。)もうひとつは万延期石ノ巻銭背千の
立体的に複数重なりになったもの。背だけの立体的な重なりはごくたまに見かけますが、面側にも同時発生しているものは初見です。砂笵を固め過ぎた場合、母銭がずれやすいと聞いていますが、片側だけでなく面背の両方がそれぞれが重なるというのは通常は起こりえない・・・というか、私はみじんも考えていませんでした。しかし、現実にあるから困ります。流通させるとなると単独ではまずだめで挿しに入れてどうか?
また、このケースにおいては1枚ごとに切り離すときに(肉厚になるので)困難を極めます。したがって画像の品も断面が打ち欠いたように不揃いになってます。と、いうのも鉄銭は硬いためやすりによる整形がかなり難しからで、そのため鉄銭は鋳バリが薄くなるように母銭の縁を薄くするござすれ加工を施していると考えられます。また、鉄銭づくりにおいては鉄を削るような硬いやすりを当時は作れなかったため、側面のやすり成形は省略されたようです。したがってこの錯笵銭は連なってできたものを手をかけて折り取ったもの・・・と理解できます。このようなものは初めから重ねられてつくられたと考える方が自然なのかもしれません。それは型どりがあまりに美しく乱れがないからという理由。錯笵銭物語に解説していますが、飛び出した母銭が偶然重なったものは、鋳砂と母銭とに隙間が生じやすくなります(つまり空洞ができる)ので、そこに銑鉄が流れ込んで盛り上がった部分が銭面に見られます。(画像左)
複数の母銭が重なったケース
一方、すでに型を採ったあとに母銭が再度押しつけたれた場合は反動で砂笵の一部が盛り上がりますから、その結果凹状の部分が銭と銭の間にできます。(画像右)いずれにしてもこういった多重輪の錯笵銭には凸か凹の変化がみられるのが普通なのです。
一度かたどられた後に再度
母銭が押し付けられたケース
ところがこの品は大変なクラッシュ状態なのに乱れがほとんど観察できていないのが不思議なのです。とくに背側は鋳造の際にはあらかじめ固く踏み固められています。仮に母銭同士が重なってかたどられたとしても、完璧にかたどられる可能性は低く、ムラが生じるのが普通なのです。この品は完璧すぎます。だからといって私にはこの品を完全に否定はできません。仙台銭には銭座職人が関与したと思われる絵銭が存在します。銭をつなげて並べて鍋敷きにしたもの・・・背千銭を複数重ねて2匹の海老側を描くように仕立てた絵銭『海老丸』・・・などもあります。これはあるいは絵銭としてつくられたものを切り取ったものなのかもしれませんし、銭座職人の戯作品なのかも知れません。
※立体多重輪写りの画像を子細に観察すると背側には凹らしき痕跡がわずかに見て取れました。これはかたどり終わった砂笵にあとから母銭が強く押し付けられたことを意味します。面側についてははっきりした痕跡が確認できませんでした。再考しましたが面側については砂笵は深くかたどられ、母銭はその型にはまった状態になるため、たとえ母銭が飛び出して重なってもこのように2枚が両方くっきり立体的に鋳出されることは考え難いと思います。とくに後ろ側にまわるほうは飛び出した母銭ということになりますので、埋まりが浅くなりやすいのでくっきりかたどられることは難しいはずなのです。
かたどった後の押しつけにしても立体的ということは普通の砂笵のかたどりの深さより深く・・・背側より深く・・・母銭が押し付けられなければなりません。面側は彫りがより深くなりますので、型を傷つけずにきれいに文字が出ることは考え難いのです。となると
面側はあらかじめ重なった形に母銭を置いて、上から肌砂をかけてからかたどったものの可能性が高く、背側はそうしてできた鋳型にもう一度母銭を押し付けたものと考えられるのです。・・・ただし、私の机上の論です。
 
2月4日 【投稿2題】
関西のSさん投稿の画像です。(感謝!)
2kgほどの雑銭の中から出現したそうです。今年は酉年ですからこのようなものに出会えるとは幸運・・・幸先が良いですね。私は目下ウォーキングにいそしんでおり、古銭にあまり対峙してないのですけど、そういえば机の上に千鳥が転がっていたと思いました。罰当たりです。もう一枚の画像はたしか中国からの投稿だったと思います。禄生禄さんという1月19日の掘り出し物をやられた方です。(ありがとうございます。)
一見、なんだ寛文期亀戸背文じゃないか・・・と思うのですが、目の肥えたマニアは文字に背景のように隆起があることに気が付きます。そうです、これは面側の重文という錯笵です。いざ探すとこれがなかなか出会えません。
もっとも市場価格が着くほどでもありませんけど・・・。
こういったものは私のような変わり者が喜ぶぐらいでしょうけど、よくぞ見つけたと思いますね。
 
 
1月28日 【60周年記念大会拓本の練習から】
机の上に放置した拓本です。一応道具を持っていますが私はめったに拓本は採りません。ですから下手です。タンポなどは猫がおもちゃにしてどこかに行ってしまいました。今回は日本貨幣協会の創立60周年記念大会ということで泉譜用に拓本を久しぶりに採りました。この拓本は練習用に採ったもの。自分なりにはうまく採れたと思っていたのですけど、改めて見るとムラはあるし、縦の並びの位置が不ぞろいでしかも下の方の拓がよろめいてます。
この拓本の品は出品したものではありませんけど、どうせ出すのなら特徴がはっきりわかるものの方が恰好良いと考えて、初めにこいつを練習台に選んでみました。
皆様わかりますか?不知細郭手の短尾通細字なんですけど、秋田の故村上英泉師は退口呆と呼んでいたと思います。(村上師の元所有物で英泉譜の原品です。)この不知銭は通の文字より天保の文字の変化の方が面白く、その変化も個々によって微妙に異なります。この品など短尾通細字という名称は全く当てはまらないのです。拓本にすればこいつの特徴がもっと出るかと思いましたが、やはりいまいち。それでも肉眼よりはかなり見やすくなっています。
左画像上段が拓本の品です。そしてその下が天保仙人様の所蔵品。これを見る限りはたしかに短尾通細字なんですね。
夏の古銭会展示室のコーナーなど何度も並べて比較しているのですけど、一見では同じ系統には見えない。さらに驚くべきことにこれには濶縁縮字になっているものや長郭手の大濶縁のものまであることを確認しています。
さらにさらに・・・触字タイプのものや細郭手の異書体とされるものも同じ系統のものではないかと考えています。覆輪刔輪銭で横太り銭形であること、中郭気味のものが多いこと、共通の極印であること、寶足が棒状で少し長いこと、當のツ画の第三画がかぎ状になるものが多いことなどが観察ポイント。文字は様々に変化していて、これだというもの(サンプル)が少ないのですが、なかなか楽しい一群なので皆様も探してみてください。

※私が何を記念泉譜に出品したかは今は秘密。奇天手ではありませんし、もちろんこいつらでもありませんよ。
 
1月26日 【太閤永楽金錢】
ネットでやけに盛り上がっている金錢です。私自身は興味はあまりないのですが、どうも太閤恩賞金錢の打製永楽跋永らしく、奔放鐚銭図譜(1988年)の評価で小珍の30万以上 ですから大変なものみたいです。すでに50万円を突破していますので、一息ついた形なのですがもう一波乱あるかもしれません。私にはまったくわからない品ながら、秀吉が恩賞用に金銀の銭を用いたことは間違いなさそうで、秀吉が最も愛した『永楽通寶』の名前を用いたことも理解できます。さて、結果はどうなるやら・・・。
私事ながら、昨年末から夜間ウォーキングをはじめており、1日当たり1万歩以上(約7㎞)をコンスタントに維持しています。雨や行事で休んだ日は2~3日程度で通算200㎞ほどになりました。ただ、時間がものすごくかかるのでそれに苦労しています。昨年秋に尿管結石になりましたので、これで石も出てしまうでしょう。あれから発作は小さなものが一度だけです。
はじめて結石の痛みに襲われたときは驚きましたが、もともと痛みに強いんだか鈍いんだか、我慢していたら急に楽になりました。急病センターに行こうとしたのですが、女房に『NHKで真田丸がやっている間は出かけない!』と制されてうんうんうなっていたら痛みが治まったというのが本当の事実。真田丸のおかげだったでしょ・・・とは女房の弁です。
 
1月24日 【細郭手容弱の次鋳?】
いやあ~汚い。こんなものほとんどの方が見向きもしないのではないでしょうか?製作が悪いのではなく、焼けて状態が悪いのです。投稿者は関西のSさん。しかし、彼の観察眼は違いますね。花押が容弱の形・・・先太なのです。背の當が離輪してるし、本座じゃないですね。さらに計測値は長径47.68㎜、短径32.03㎜、銭文径40.12㎜、重量19.58gと明らかに縮小しています。このサイズは縮み過ぎの感もあります。私所有の容弱はいずれも文字が繊細でして、母銭のように美しい・・・と、いいますか1枚は通用母銭だと仙人様から言われています。それはたしかに文字は繊細で銭文径もほんの少し大きい。(2009年5月9日の制作日記参照)
しかしその差はわずかで、次鋳かもしれないとしたものも郭内はきれいだし母銭のようなつくりなのです。
掲示した品が容弱の次鋳通用銭だと確定したら、それらが母銭になる可能性はさらに高まります。さらに美しい次鋳サイズの容弱小様が発見されれば・・・と思う次第ですね。
ここで過去記事で思い出して頂きたいのは、俯頭通にしても大天尓寶にしても、はたまた宏足寶や長張足寶にしても銭文径の異なるものが次々に発見されていること。 2014年12月20日、2014年12月18日、2015年2月1日、2015年7月10日、2015年12月27日あたりの記事を読み返してください。私、なかなか良いこと書いてあるなあ・・・と、つくづく思います。(自画自賛)不知銭には銭径が異なるものがたくさんあって当然で、大きいものは母銭になれた品・・・あるいは母銭そのものの可能性があるのです。例えば容弱以外では、私所蔵の俯頭通は、きちんと加工すれば次鋳の母銭たりえる品なので、ひょっとしたらという夢の持てる美人さんです。
さらに余談になりますが、仙台長足寶には大様と小様がありますよね。数量的には圧倒的に小様が多く、大様は希少品です。そして大様は小様の母銭ではないかということをよく聞きます。ただし、大様の多くにはポイントというべき鋳だまりがあるのですけど小様でそれを写したものは発見されていなかったのではないでしょうか?そうなると大様は母銭というよりも母銭になり得た母銭と同じサイズの通用銭という位置づけでも良いかな、と、この頃思えるようになりました。つまり、寛永銭でいえば細縁銭のようなものですが、こちらは製法上の違いもあり希少性はまちまちということ。例えば、俯頭通や大点尓寶の大様は別製作のような感じがしますが、通用銭と同じようなものもある・・・この件についてはまだまだ勉強が必要ですね。 
 
1月23日 【きれいな銅山手】
侍古銭会のたじさんから頂戴した画像。現在、高野山に出張中とか・・・研修、それとも修行ですか?
銅山手とはまことに良いネーミングで、確かにこの書体は盛岡銅山の背の文字とそっくりです。携帯電話からフラッシュ撮影なので色彩の再現に限界があり、真鍮のような色合いになってしまっていますが、原品は見事な本炉の正品であろうことは十分に感じ取れます。(浄法寺や末炉の品じゃないですね。)正統派の天保銭の収集を目指すのならこの盛岡銭は必須の品ですね。たじさんはこの品、頬ずりするほど愛おしんでいるそうで・・・こうしてまた、穴銭中毒患者が増えてゆくのですね。合掌!!

 

1月22日 【ある作品の誕生】
明治の初期のこと・・・ある業者が「明治金貨のデザインを作った加納夏雄先生の彫金技術を伝承するために、母校の生徒さんに鋳ざらい母銭の習作をさせたらどうでしょうか。出来上がったものは芸術品として購入しますよ。」と話を持ち掛けたそうです。学生さんたちは彫金技術の勉強でお金がもらえるものだと信じ、一生懸命に作成したものの、これらが贋作として世に出て売られるようになるとは夢にも思わなかったそうです。その多くが後に天顕堂大川師に納められることになりましたが、大川師はすぐに贋作と気づき一切外部に出さなかったのですが・・・様々な経緯があって一部が外部に流出してしまったそうなのです。
ところで大川師はだまされて買って悔しかったためなのか、あるいは万一の流出に備えてなのでしょうか、その古銭にマークを刻んだと云います。(あくまでも噂)これらの作品は彫金を勉強する学生さんが熱心作成していたのに加え、業者が土台の古銭(本物)を厳選していたため、大ぶりでなかなかの出来栄えなのだそうです。見た目の迫力に気おされて騙されてしまう方はたくさんいらっしゃるようですが、学生さんは母銭が何たるかをよく理解していなかったので、工程上に小ミスを犯してしまったそうです。したがってその作品は母銭として使用するには欠点があるのですけど、なかなか気づかないポイントでもあります。(秘密)

 
1月21日 【密鋳の兄弟銭】
密鋳銭には同じ母銭から大量につくられたと思われる兄弟銭がときどきあります。江刺錢のように合致点が多くて量的にも比較的あるものについては手替わりとして認知されることもあり、濃いコレクターの興味を引くところです。
おととい、作業机があまりにも手狭になったので少しだけ卓上放置品の整理を行いました。天保銭や文久銭、密鋳銭がかなりの散乱状態で、それらをフォルダーに入れながらとりあえずまとめます。そうやっていたら何やら同じ特徴を持った俯永写しが2枚発見されました。それが右の品。
仮称)郭抜け寛永背欠波
特徴は面浅字で赤黒い銅質。輪は縦~斜めやすり。郭内のやすり掛けがきつく変形してしまっています。背の波の変形も著しく、上部の波の左側が鋳切れます。通字の下に星があります。私はおそらくこれを工藤会長から別々に分譲いただいたような気がするのですが記憶があいまいです。背波の変化がとても面白い品です。
 
1月20日 【鋳放し・錯笵・未使用錢に注意!】
これから記述することは一般論というより私個人の見解+今まで得てきた知識と経験でありますことをご理解ください。
穴銭収集をしているとどうしても人の持っていないもの、初めて見るものに心惹かれます。鋳放しや未使用のものなどはその典型で、どうしても目についてしまいます。そこに贋作者のつけ込む隙があるのです。
そんなものがあるはずがないというほのかな疑念と、人がまだ手にしていないかもしれないという尊大な功名心の戦いに私たちは負けてしまいやすいのです。本来、銭は流通してなんぼの世界ですから、通用しづらい鋳放し銭や錯笵銭、流通前の未使用母錢などは存在そのものがそのルールに反しているのです。もちろん本物の鋳放し銭や錯笵銭、未使用母銭なども確かに存在しますが、その判別には極めて厳しい目が必要だと思うのです。
一方、贋作者側の事情もあります。江戸期が終了してから以降、銭座の技術や道具がどんどん失われてゆきました。贋作者は古い技術の継承者を探し出して再現を試みますが、時代の進行に従ってそれもだんだん難しくなります。
とりわけ難しかったのが磨かれた鋳肌と地肌の砂目の再現と側面のやすり目の仕上げ。昔と同じ材料・道具の入手の困難さとともに磨かれることによって失われてしまう古色の再現性の問題です。
鋳砂の房州砂は昭和の初めまで採掘されていたようですが、和やすりは技術継承者が少なく、生産効率性も悪かったと見えて現在では完全に途絶してしまいました。それにやすりや砂で磨く行為は錢の表面を削り傷つけることですから、新しい地肌が出てしまい、古物である古銭を模造する上では非常にまずいのです。贋作者は古色をつける努力を工夫して行っていましたが、それにも限界があります。そこで一計を案じ、仕上げ工程そのものを最低限にしたり、あえてやめてしまうのです。すると、あら不思議・・・コレクターの方からどんどん引っかかってくれたのです。
表面の砂磨きがないのに穿内や周囲がきれいに処理された金色の母銭等は要注意です。浄法寺系や石ノ巻天保などもかなり妖しい雰囲気が漂う一方、きちんと仕上げられて流通した痕跡のあるものあることから、玉石混交といった感じがします。
いずれにしても十分な知識を持ってから、これらに対しては覚悟のうえで手を出すことをお勧めします。
なお、鋳銭の工程では母銭の製作が完了した後に通用銭を作る。よって座銭に鋳放母銭はない。という工藤氏の言葉にはかなりの重さがありますが、幕末の混乱期や密鋳銭座では例外があると思います。と、いうのも不知天保などには同じ書体で様々なサイズがあり通用銭と母銭が同時製作されたことが伺われるからです。とはいえ、その言葉を十分に心得たうえで精進することなのでしょう。
 
1月19日 【明和期大字!?】
私のHP常連読者は日本以外にも4%ぐらいおりまして、中でも熱心な方が中国にいらっしゃいまして、お名前を禄生禄さんと言います。おそらく翻訳ソフトを用いて一生懸命調べてくださっているようなのですが、この方がだんだん目が利くようになりました。今回のご投稿がハイライト。昨日、興奮してメール送付してくださいました。さて、皆様、これをどう見ますか?
残念ながら焼けて真っ黒に変色してしまっていますが、文字がすっきりしていて第一印象は明和期の四文銭です。問題はその書体で間違いなく大字なのです。明和期の大字は平成17年に方泉處コレクションが銀座コインオークションに出品されて、母銭500万円、通用銭520万円の価格がついた寛永銭史上最高の品でした。それと同じかもしれない品が日本を遠く離れた中国の地でひょっこり出てくるなんて・・・。
明和期大字の通用銭は関西方面で1枚だけ発見されたと聞いていますが、探せばまだ出てくると思うので、それが中国で発見されても何らおかしくないと思います。あとはこれが明和期なのかということ。私は文政期・安政期の通用銭も間近で拝見したことはあるのですが、いずれも製作はいまいちでこれほどのすっきり感がありません。
子細に観察すると、永点とノ爪が若干大きく見え、寛前足が陰起することも気になりますますが、これは鋳造変化でしょう。
文字のすっきり感は母銭的な印象がとても強いのです。結論を言うと文政期大字母銭の可能性が最も高く、次いで明和期の大字通用銭というところでしょうか?どちらに転んでも大珍品であることには変わりはないと思います。(安政期や文政期の通用銭とは製作が違う印象です。)良く発見しましたね。おめでとうございます。
 
1月17日 【大きな白い仰寶2】
大きな仰寶は他に持っていないと思っていましたが、もう一枚出てきました。これで製作タイプが同じものが4枚になりました。忘れているものですね。ほかにもあるかもしれません。
①外径29.2㎜、重量5.8gの未仕立大型母銭
②外径29.1㎜、重量6.4gの未仕立大型母銭
③外径29.0㎜、重量6.6gの仕立済大型母銭
④外径28.3㎜、重量5.5gの仕立済通常母銭
これらはいずれも白味の強い黄銅質だと思われ、輪側面にテーパーはありますが、仕上げ銭は見事に平らに加工されています。とくに④の母銭はなりは小さいですが角がきっちり立つ感じ。侮れませんね。
なお、①と②は未仕立としましたが、半仕立と言ってもよい品です。

ところで穴銭入門 新寛永の部の仰寶の説明文中に気になる記述があります。
『・・・小様の品とか、磨輪銭、また覆輪したらしい濶縁大様の品はおそらく後鋳銭であろうが、困るのは当品より先鋳らしい、大様で黄色の母錢が存在していることである。』
まことに意味不可解な説明文で、これはこれらの品に贋作が多く含まれ、解説者も迷いがあることを意味しているのでしょうか?
大型の仰寶の存在の何が説明に困るのか知りたいところです。また、雑銭の会において配布された資料に以下の記述があります。
『O氏作 仰宝鋳放  鋳銭の工程では母銭の製作が完了した後に通用銭を作る。よって座銭に鋳放母銭はない。』
これは実際の贋作を展示した上での解説で、私はその時には出席していませんのでO氏がどんな作だったのかは知りませんし、工藤雑銭の会会長のこのときの解説の言葉を額面通り受け取ってよいのかもわかりません。
以上、いろいろ書きましたが今回の入手品を見る限りは製作的には矛盾が感じられないつくりであり、何より上から3番目の③は工藤会長から間違いのない品として分譲いただいた品そのものですから・・・。つまりこの品がダメだったら古銭収集そのものが信じられなくなると言っても過言ではないのです。仰寶は調べれば調べるほど面白い存在になるかもしれません。
 
 
1月15日 【大きな白い仰寶】
心理学の世界では心には生物としての防衛本能があると言われています。人間嫌なことをずっと我慢していると”うつ”になりますよね。我慢している状態を抑うつというのですが、古銭病が進行するとこの我慢ができない・・・いや、我慢ばかりしていると”うつ状態”に陥ってしまうので、治療のために古銭を買います。そうすると今度は依存症から金欠病になる悪循環に陥ると思いますが、後は頑張って働くしかありません。
昨年末にものすごく大きな仰寶母銭がネットに出ていました。それは入手できなかったのですけど直後に入札誌で29.5㎜という触れ込みで類似出品がありました。若干難がある品でしたが、”うつ状態”に陥りかけていた私は治療のため思わず手を出してしまいました。これを心理学的に代償行為と言います。代償行為の代償は無駄な出費です。
大きな仰寶を入手できた私はそれを計測してみましたが・・・29.1㎜でした。部分的には29.5㎜なんですけど鋳バリのこぶの部分なので、それはないでしょと言いたいのですけどウソではありません。かくして私は再び代償を求めてネットをさまようことになるのです。
とはいえこのサイズはかなり貴重です。雑銭の会の工藤氏はおそらくこれを橋野銭座だとおしゃってたと思います。
(私は母銭コレクターではないのですが、南部藩の手ごろなものだけは拾っています。それはこの地の鋳造がとても謎めいているからにほかなりません。)
比較のために本炉と思われる母銭(中段左)と次鋳の母銭(中段右)を掲示しますが一回り大きくかつ文字も繊細です。本炉と思われるものも28.5㎜あるので、この手のものとしては相当大きい方なのですが、画像を重ねてみるとほんのわずかに今回の入手品の方が内径が大きく見えます。(計測上では0.2㎜の差)
これはこの母銭が原母クラスである可能性をも示唆していますが単純に誤差なのかもしれません。というのも一番下段に示した2枚の仰寶の母銭ですけど、大きさや制作はかなり異なるものの内径はほぼ同じなのです。(0.1㎜の差あり)その昔の泉譜・・・手引きにおいては仰寶は万延期の江戸鋳と盛岡藩鋳があり、盛岡藩は幕府から母銭を借りたとされています。他の泉譜には江戸鋳の記載はほとんどありませんが、どうも母銭だけ江戸出のものがあるという見解なのかもしれません。それがこの大きな母銭であり、それについては穴銭入門、新寛永の部においても『困るのは当品より先鋳らしい、大様で黄色の母銭が存在していることである。もちろん製作としてはテーパーを取った鉄用の母銭である。』と書かれており謎めいていることこの上ないのです。最下段左こそテーパーのある鉄母なんですけど、ではそれより大型の右と今回の入手品は何なのか?最大クラス(外径25.2㎜)と思われる最下段右については実物を後程再計測してみる予定ですが、厚みもすごく郭内のテーパーも見事な品なのです。(以下続く)
 
 
1月14日 【長足寶ギャラリー】
侍古銭会のたじさんが足の長い不知天保通寶を探し求めているということで、参考までに寶足部分のアップ画像を集めてみました。名称については実際に私が付けている分類名とは若干異なっています。 
上段左端は通常の鋳写でこれを基準とします。それが刔輪されて足が細くなりほんの少し足が長くなります。(1月13日の品)これを長足寶と名付けるか否かは個人の好みですけど、こうやって見るとギリOKかしら。覆輪されて強い部分刔輪がされたのがその隣の細郭手。さらに刔輪が進むと長くなった寶足が輪から離れることがあり離足寶となります。このタイプは意外と少なく、完全に離足寶になったものより、足を輪に接したまま伸ばしているものの方が多いのです。狭長足は細郭手で足が縦方向に伸びたものですけど、前足がわずかに離足気味になります。前足の下の輪は削り残したように少し膨らみます。そこから刔輪されて再び足が輪から離れたものが右端ですね。後ろ足は断ち切られたように輪から離れています。
中段左端は寶足はさほど長くありませんが、文字が太く変化して肥足寶になったもの。それが整備されて長くなり足が円弧を描き突っ張り始めます。そして不知長郭手の代表銭が張足寶です。寶足が細く弓張状に鋭くなります。張足寶は力強さが命です。画像の品は當百銭カタログなど多くの銭譜を飾った銘品です。その隣が張足寶の特徴をさらに醸し出している細郭手の張足寶。張足寶と言えばこれのことだといえるぐらいの品。長郭手の張足寶と細郭手の張足寶が同じ炉の出だというお話は各所で聞きますがこうして部分拡大してみると(書体の違いはあるにしても)文字の大きさなどは全然違いますね。
さらに銭文径が縮んでくるとやがて寶足は下側方向に伸びはじめます。希少品の通寶小字は張足寶に比べて足の伸びる方向が微妙に違うのがわかりますよね。銭文径は40㎜程度しかありません。それがもっと進化すると大珍品の長張足寶になりますが、部分画像だと差は微妙かしら。前足の方向が違い足幅が広がってきます。(実は天側の刔輪が非常に強いのです。)
下段の先頭は系統は違いますが寶下の部分刔輪が異様に強く、反足寶風になったものでこの段階では前足は直線的。長反足寶は説明不要の有名品で両寶足は円弧のように反り返ります。これが完成形ですね。
その隣からは宏足寶系の変化ではじめは強い刔輪から始まり、だんだん足が変形して行きます。張足寶や反足寶は寶前足はカタカナのノの字のように曲線を描きますけど、宏足系は寶後足は直線的に踏ん張りが広がり、寶前足はひらがなのくの字状に曲がる癖があります。最後の画像は奇天手で、ある意味これが変化の到達点かな。こうしてみるといろいろなタイプはあるものの拡大してこの程度ですから本当に微細な変化です。とはいえこれだけ集めるにはものすごく苦労しました。
長郭手 長郭手刔輪 細郭手寶下強刔輪 長郭手離足寶   細郭手狭長足寶 細郭手強刔輪跛寶
長郭手肥足寶 長郭手長足寶 長郭手張足寶 細郭手張足寶 長郭手通寶小字 長郭手長張足寶
長郭手寶下強刔輪 長郭手長反足寶 長郭手強刔輪 長郭手曲足寶 長郭手宏足寶 長郭手異足寶
 
不知長郭手尖足寶小頭冠當(當上刔輪)
長径49.0㎜ 短径32.7㎜ 銭文径41.3㎜ 重量20.0g
1月13日 【B級品なれど・・・】
収集の落札品です。覆輪刔輪銭ですけどあまり目立たない。わずかに刔輪で寶足が細く長く変化しています。こういうものを長足寶というべきか迷うところ。當上の刔輪が強く當の点が小さく離輪しています。
そういえば侍古銭会のたじさんが長足寶の天保を欲しがっていましたっけ。この天保はほんの少し寶足が長くなっておりますが、張足寶というよりは宏足寶気味。だからと言って名乗るほどでもない微妙なところ。通寶の文字がかなりやせているところと、當上の刔輪が強く、また當冠のツが縮小しているところが特徴です。
 
1月12日 【江刺大頭通写凸凹輪】
1月号収集に仿鋳銭大頭通銅銭という物を見つけ思わず応札しました。この小汚い寛永銭に福沢さんを犠牲にするなんて信じられない方が世に多いと思いますが、このHPをお読みの方はわかりますよね?この仿鋳銭は江刺大頭通凸凹輪と名付けられ穴銭カタログ日本に掲載されています。特徴は永下輪の小瑕と寶脇の輪の鋳だまり(輪の乱れ)と寛前(寶上)の輪に接するひげ状突起、寛見の鋳だまりなど・・・あくまでも拓本と原品の合致によポイント説明です。側面は江刺特有の不規則横やすりです。
 
不知長郭手覆輪刔輪純赤銅錢
長径48.9㎜ 短径32.4㎜ 銭文径40.7㎜ 重量20.7g
会津藩銭短貝寶初鋳厚肉大様銭
長径49.5㎜ 短径32.8㎜ 重量25.0g
盛岡藩銭大字初鋳銭
長径49.1㎜ 短径32.3㎜ 重量17.6g
1月11日 【赤色天保三題】
ネット落札した赤い不知長郭手をUPしました。郭の歪みは穿に通した角棒による傷ではなくまとめて穿内仕上げした際についたやすり傷のようです。それだけ材質が柔らかいということですね。このように赤い天保銭の中には火中変化で赤く発色したものが多いのですけどこいつは地金そのものが赤いのです。極印は本座によく似た形状ながら極めて小さい桐です。秋田広長郭の極印も小さめですけど同一か否かは不明です。(秋田小様とは明らかに異なります。)覆輪刔輪銭と思われますが、輪際のグリグリ感がなかなか素晴らしい。高かったけど手にできて満足です。

中段は同じ出品者が出していた会津短貝寶。見るからに立派で好ましい風貌。短貝寶そのものは比較的入手しやすい藩鋳銭なのですが、この大きさと重さはなかなか立派です。出品者の方はかなり良い目をお持ちのコレクターなのではないでしょうか。厚みは2.8~3.0㎜もあって25gはさすがにずっしりしています。
當百銭カタログにおいてはこのように短貝寶の中で大きめのものを”濶縁手”と名付けていますが、単純に大ぶり銭とか大様銭で十分だと思います。大きくて分厚いだけで、書体に特別な変化があるわけではありません。
大ぶりというからには49㎜以上は欲しいと思っていましたが49.5㎜は私の数少ない所有品の中で最大でした。ただ、上には上がありまして過去に天保仙人様の所有品で厚さ4㎜に迫る迫力の短貝寶を拝見したことがあります。向かって左側の輪に瑕があるタイプでこれが改造されたら濶縁離足寶の原母銭になるのではないかと言われるものでした。
入手品は寶字の乱れはあるものの全体的な文字抜けも良く、美銭のクラスですね。

下段は暴々鶏会長から購入した南部盛岡藩の大字の初鋳銭。HPを見ると南部の大字は持ってなかった気がして手を出しましたが、なんのことはない3枚もありました。
ただ、このように赤く発色したものはありません。南部の初鋳銭は紫褐色を呈しているものが多いと聞いておりますが、それは古色であり本来はこんな色なのかもしれません。南部藩の天保銭は小ぶりなものが多い気がするのですが、この大字は長径が49㎜を超えているので大きい方だと思います。銅色は赤いのですけど金質はやや硬い気がします。また、重量は17.6gとかなりの軽量銭のほうです。

本日になり、駿河の落札通知と書信館出版の落札物が届きました。出費が春から全開になっています。困りました。
 
1月10日 【加賀千代の砂目】
昨年ネットに出た加賀千代贋作天保の画像がパソコンに残っていました。(色調調整あり)元画像ではすすけて黒ずんでいましたが、本来は黄金色に近いものだと思います。当時、佐渡錢とされていた方字を写したのは銅色や砂目をごまかす意味では良い発想です。本座の天保通寶は房州砂(白土)を使用していたので非常にきめ細やかな肌をしています。(この件は貨幣の平成28年12月の第60巻第6号に小林茂之氏が詳しく書かれていて感心いたしました。)一方、房州砂のようなきめ細やかな鋳砂に恵まれない地方では荒々しい鋳肌になることは避けられず、秋田藩では細かな川砂(泥?)を選びを洗い、漉して苦心して鋳砂を作ったように聞いていますし、土佐藩や萩藩の天保銭などは腹をくくってざらざらの鋳肌そのままをしています。
さて、加賀千代の錯笵天保はそういう意味では非常に精巧で、萩藩天保の鋳肌を丁寧に再現しています。私は加賀千代の錯笵天保の実物は1枚しか実見していません。(仙人様の所有物)その加賀千代天保も作成から100年近くが経過しておりそれなりの骨董価値?が発生しているようです。興味のある方はこのざらざらの砂目と銅色・・・目に焼き付けておいてください。贋作の世界では時々出会いますから・・・。
 
 
1月8日 【真っ赤な不知天保銭】
正月早々大変な買い物をしてしまいました。真っ赤に見える不知長郭手がネットオークションにUPされていたのです。不知天保銭の銅色で赤銅色は意外に珍しく、長郭手に至っては皆無に近いと断言できます。私自身の所蔵品の長郭手で赤いと言えるのは捻れ形と名付けたものぐらいで、それさえ純赤というより茶褐色といった雰囲気です。
赤い不知天保銭が少ない理由はいくつかあります。ひとつは赤い銅色の元不知天保銭の多くがすでに籍が確定されているものに含まれること・・・秋田小様とか浄法寺だとか・・・この色は東北の色ですね。
また、密鋳に使う原料として一般的なもののひとつに仏具や鏡がありますが、これらはもともと錫成分が多い特性がありますから赤く発色しにくいのです。
原料に文政期の當四文銭を使えば赤くなるとも考えられますが採算性を考えれば四文銭を使うより寛永一文錢やもっと古い古銭を使うのが自然です。それに當四文錢に含まれる亜鉛分は扱いが非常に難しく、沸点が銅の融点温度より低いため再溶融中の爆発事故が発生しやすいのです。これは技術力が低い上に密鋳発覚を恐れる密鋳事業者にとってはとても都合が悪いのです。
銅を安全に、かつ低温で溶かすためには錫を使用するのが一番簡単です。錫には融点降下現象という特性があり、銅単独だと溶解には1000℃以上の高温が必要なのですけど、錫は250℃未満で溶けはじめ、その溶解した錫をもう少し温めると銅はそれにどんどん溶けるようになります。その温度はタバコの火の温度より低いといわれていますから小規模な密鋳銭工房にはとてもありがたいことなのです。
かくして不知天保通寶に赤いものが少ないのです。先にも書きましたがこんな赤い色は東北地方でしか産出できない色です。秋田小様というものがありますが、秋田小様の長郭写と言ってもよさそうな色。材質も柔らかそうな阿仁銅山の色ですね。私は初めて見ました。したがって、見た瞬間に気に入り、思いっきり高額入札して放っておきました。今朝見たときはまだ1万円台でしたのでしめしめ・・・と思っていましたが、落札価格を聞いて倒れそうになりました。ある程度は覚悟はしていましたが現実に心と財布がついてゆけない私です。
果たしてよい夢を見たのか、それとも悪夢なのか・・・商品が届くまで期待半分不安半分です。
※側面の仕上げと極印が早く見たい!色付けした後鋳銭ではないと思うのですけどね・・・。
 
   
 
①九州K氏
②③湧泉堂氏
④鳳凰山氏
⑤金幣塔氏
⑥関東K氏
⑦四国O氏

⑧東北W氏
⑨東北T氏
 
1月4日 【年賀状ギャラリー】
年賀状に子供(孫)の写真を載せるケースはときどきありますが、古銭の写真を載せる変態はそう多くはありません。それぞれに思いのある画像を載せてきますね。九州のK氏は近年発見された蛇の目の細縁銭・・・ということは私たちが普段見ているのは次鋳銭の母銭の兄弟銭ってこと?②③は佐渡銭の背刮去ってことですけど②は鉄銭座銅銭(背広郭)だとして、④は幻の元文期の背佐刮去ですね・・・大きいしこれはたしかに幻の珍銭ですね。
④は説明不要の大珍銭。稟議銭とも言われていますし、普通の母銭ではないことは確か。⑤は今年の干支を狙いましたね。元禄期の試鋳銭にして彫母銭。鳥の古銭と言えばあとは烏和同とか紋切銭の鶴丸あたりかと思いましたが、この珍銭が出てくるとは・・・。
⑥は押上の大字小玉寶・・・皆さんの運気を押し上げてくれるという縁起物です。⑦は最近手本銭の情報を下さった四国のO氏のお気に入りの品でしょう。奇永凹寛は寛字が凹み裏側が盛り上がるのが特徴。おそらく原母段階で何らかの事故があったのではと思ってしまいます。ほかには狭玉寶であり、離用通、大頭通であることも特徴です。凹寛手は凹寛以上の珍銭と言われながらあまり知られていません。それは古寛永泉志において解説がほとんど書かれていないことにつきますね。私もずっと知りませんでした。探せば出てきそうな気がします。
⑧は東北のW氏から・・・久々です。日光正字のはしご永を私はまだ見たことがありません。永の打ち込みのところに3段の階段があります。⑨は旧猿江の小字の母銭・・・申年から酉年へのバトンタッチのしゃれかと思いましたがよく見るととても大きい気がします。調べてみると喜寶譜の小字母銭が23.2㎜の外径ですからバカでかいし、文字はものすごく繊細に見えます。これぞ母銭という顔ですね。背郭こそやや偏っていますが原母クラスなのかしら・・・謎です!見解をお聞きしたいですね。
皆様ありがとうございました。
 
1月1日 【謹賀新年!】
昨年も年頭に抱負を述べていますが、ほとんど達成できていません。まず我慢が利かないし辛抱もなし、整理整頓は皆無でした。ダイエットもできていませんが年末から1日おきにほぼ5~10㎞歩いています。もともと力仕事をしていたので歩くのは意外に平気なのですが、時間がなかなか取れません。しかも、効果はまだ出ていません。これを続けるのが目標ですね。
さて、今年は酉年ということでそれらしい古銭を考えましたが、日光銭の千鳥は皆考えそうだし、鳥取小字はひねりすぎかしら。と、いうわけで穴銭を諦めカンボジアの鳥デザイン銀貨を掲載してみました。
詳しいことは全く分からないのですけど、学生時代に神田の出口コインか原宿あたりにあった?コイン商あたりで店頭に転がっていたものを拾ったもの。直径は3.4cmほどある大型の銀貨なのですが、打製らしくかなり薄い。銀錆を吹いていてものすごく雰囲気があるのですけど、残念ながら荘印(両替印)があるためとんでもなく安かった(2000円以下)と思います。メモにはクメール1T(Y37)とあります。Y37は多分ヨーマンカタログ(当時の外国貨幣収集のバイブル)番号だと思います。私はゼネラルコレクターではありませんが気に入ったらこういったものも拾うマニアなのです。これは寺院の模様がレリーフのようで、背の鳥(クジャク?)もウッドペッカーのように 愛らしく見えます。すでに入手から30年ぐらい経過していますが、なかなかかわいい面構えの銀貨で今でも好きです。昨年は実家の整理・引っ越し、両親の呼び寄せと研修・制度変化等・・・と、まあ忙しかった。仕事はもうからないけどめちゃくちゃ忙しい。古銭業界もいまひとつ盛り上がっていませんが今年こそよい年でありますように・・・。
 
 
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