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錯笵銭物語
 付録 贋作者列伝
背に面文が写った古寛永
銭幣の華 S-572原品
 
はじめに・・・
エラー銭収集という分野は近代貨幣や外国、紙幣にまで幅広く存在します。むしろ完全なものよりエラー銭の方が希少価値があったりもします。鋳造には砂笵という鋳型が使用されたため、一般的に穴銭のエラーものは錯笵銭と呼ばれています。ところが小規模で手作業中心の鋳銭作業ではちょっとしたミスは毎回のように起きておりますので、錯笵銭はよく見かける状態の悪いものといった感が強く、収集や研究とはあまり縁のない分野でした。
たしかにコレクション価値としてはできそこないを集めるのはあまりおすすめできないと思います。けれども贋作銭など見分ける眼力をつけるためには錯笵銭を観察するのもとても良い修練だと思います。
古くは呑泉こと安達岸生氏が鋳造に失敗した穴銭を好んで収集された・・・と、郡司勇夫氏が『穴の細道』の巻頭文で述べられております。また、最近では舎人坊こと石川諄氏が『銭幣の華』という錯笵銭や作銭ばかりを集めた小冊子を出版しています。
私も先導される師達に習いましてこのコーナーを新設する気になりました・・・と、まぁ志は立派なのですが、肝心な知識も現物も不足しております。当然のことながら他人のふんどしを借用しながらの作業です。本稿を記述するために、99年収集5月号の赤坂一郎氏の記事ならびに方泉處創刊1号の記事を参考にさせていただいております。また、錯笵の例としましては石川諄氏編纂の銭幣の華から借拓させて頂きました。勝手な引用を勉強の一環としてお許し下さい。
 
鋳銭図解(寛永通寶仙台石ノ巻銭座鋳銭工程図) 方泉處1993年創刊号より引用
エラー銭を知るには銭の鋳造工程を知ることが必要不可欠です。この鋳銭図解には右上から左下に向けて鋳銭工程が描かれています。なお、同じ作業場内で並行して行っているものもあると思いますので、必ずしもすべてが順番どおりではないかもしれません。
(以下、浩泉丸推定解説です。間違っていたらごめんなさい。)
 
 
【種銭引】 焙土を平らにするため鏡や定規など家庭用品がたくさん転用されていて面白い。焙土=鋳砂は耐火性のあるケイ酸砂と粘土の配合によるもの。きめ細かい房州砂などが上質とされ、銭の出来を左右する重要なアイテムでした。
鏡や定規は焙土を平らにするための小道具。
   
【形踏】 『しつへい』は『竹箆』と書き・・・竹のへらのこと。座禅で肩をたたくあの板も同じ文字でしっぺの語源。(本当はちくへいなのでは・・・?)『しころ』は兜の首の防御用のヒダ垂れ部分の意味・・・使わなくなった兜の部品を転用したのか、同じような形の道具なのかは定かではありません。形踏作業の人は天井から下がった縄を持ってバランスをとっているものと思われます。なお、この図において形板の接合形状に誤りがあり、短い板の内側に長い板の端が接合されるのが正しいようです。
   
【湯道切】 湯道かきで湯竿痕と母銭型を結ぶ道筋(堰:せき)を切って入れます。
   
【種篭入】  母銭の回収作業。とり出しにはしつへいを使ったということ。
   
【火手松篝】 出来上がった型(生型)を松根油で焼きあぶります。型を乾燥させ強化し水蒸気爆発による崩壊を減らします。
   
【形〆】 上下の鋳型を合せて、しっかり結び締め上げます。
   
【甑(こしき)】 甑(こしき)は一般には蒸し作業用の道具のことですが、それに似た甑炉という伝統的な鋳物炉を使うため、このふいご作業を甑(こしき)と称したようです。
   
【湯次・鋳出銭】 型を立てて溶かした銅を注ぐ工程。この方式を縦入れ鋳込みといいます。湯次(ゆつぎ)の口は漏斗状になっていて下の型に圧力がかかるようになっています。(漏斗部分の余分な溶銅は後で坩堝に戻された・・・湯返し・・・と言うそうです。)
鋳出銭での図は省略されていますが、枝銭に水をかけて冷やす作業や枝を切り落とす作業があります。枝部分は金バサミではさんでゲンノウで打ち、叩き切り落としたようです。
   
【台摺・目戸切】 ヤスリ工程。鋳バリを落とし整形します。目戸切は穿のやすりがけ。 
【いり銭拂?】 銭を叩いて固着した鋳砂を払い落とす作業と思われますが、読みを含めて不明です。 
   
寛永銭
【床焼】


天保銭
【煮洗】
この絵巻につけられた大正12年の解説には焼きなまし作業であったと記述されていますが、古文献の翁草の説明を読み解くとこの段階で銭を墨と鯨油で煮詰め焼いて地に色をつけたと思われます。元文期以降は色付けが省略されたようです。長崎銭の鋳銭説明においては鯨油と粉糠になっていました。南部密銭史によると(鉄銭は)焼くことにより固着した砂が取れる効果もあったようですので、目的や方法は時代によって変化したようです。
なお、天保銭には地色付がないので銭に固着した鋳砂を取り除くため、豆から採った澱粉とともに銭を煮る作業(煮洗)があったとの記載があります。

※2014年2月1日の制作日記参照
   
【形打】 翁草(古文献)によると砥ぎの工程は丸目が先だったようで、形打という作業はその準備。枚数規格チェック+ひずみの修正かもしれませんが詳細は不明。
   
【丸目・平研】 研ぎには砥石の他に粉砕された砥石粉や木炭粉が使用されたようです。
   
【臼踏】
【藁摺】
銭を臼に粉糠とともに入れて、足で踏んで粗く磨きます。天保銭にはない工程。天保銭の場合は藁、、炭、砥の粉などを使って藁で磨くワラ摺作業が入るようです。
   
【銭洗】 水洗いです。
   
【露取・直し摺】 濡れた銭を乾かし、藁ムシロで銭の周囲を磨く作業。
   
【銅納】 作業終了!
  → 翁草に記述された鋳銭の様子
 

通用銭鋳造の工程について(収集99年5月号の赤坂一郎氏の解説文と図解

1)鋳砂を下型枠に詰めて平らにならす。

母銭の場合は面と背を別々の型(砂笵)として取るのですが、通用銭の場合はその工程を省略し、あらかじめ砂を踏み固めた下型を使用したようです。鋳砂は珪酸(ガラス質)を主体にした熱に強く非常にきめの細かい砂らしく適度な水分を保有することで粘土のように固まるのですが、水分量が多すぎると水蒸気大量発生による
型崩れが生じやすくなります。

2)母銭を文字面を上にして下枠の上に並べ下枠の砂笵に軽く押し込む。
基本は文字が上です。表裏を間違えると
面背逆製という錯笵銭になってしまいます。型の境目の痕跡(見切り線)は母銭の置き方を間違えなければ通常は背側に偏ってできます。砂笵への押し込みが強すぎた場合や、砂笵の固め方が弱い場合などには、面背逆背様のものができる場合があると思われます。なお、この段階で原料の銅が流れこむ道筋をつくるために、鋳竿(湯竿)という三角形の棒も砂笵の上に置かれました。

3)上型枠を乗せ、上からフルイを使って細かい鋳砂(肌砂)を落とし、母銭を覆う。
細かい鋳砂(肌砂)を使用することで、面側はくっきりシャープな仕上がりになります。一方、砂笵に置いた(手で押し込んだ)だけの背側は砂目が粗くぼやけた印象の仕上がりになります。下型枠表面をうっすらと砂で覆った後に、(普通の)鋳砂を上にかぶせて上型部分をつくります。
肌砂は鋳物の仕上がりをきれいにするだけでなく、上型と下型とを後に分離しやすくする効果があります。上下の型の分離性を高めるために肌砂は鋳砂と成分を変えたと思われますが、実際は定かではありません。現代では石灰質(石膏粉)のものが使用されていることが多いようです。

  
4)上型を踏み固めてゆく。
この作業中に母銭位置が少しずれると、
重文という比較的ポピュラーな錯笵銭ができます。背側は浅く押し付けただけですのでずれやすく、ずれによる錯笵発生率は面側より高くなります。鋳砂が固すぎて母銭がうまく食い込まないと、型はずれによる面背同時重文が生じやすくなります。

5)上型と下型を分離して母銭と鋳竿をはずす。溶銅の通り道(湯道)を型に刻む。
型崩れさせないように型からはずす作業は結構難しいようです。母銭を抜きとろうとして再び母銭を砂笵に押し付けてしまうとやはり重文ができることになります。また、砂笵に母銭や道具を落とした結果の錯笵もここで発生します。

6)松の篝火(かがりび)で鋳型の表面をあぶり、煤を付着させる。
型崩れ防止と型抜けをよくする効果があったと思われます。このとき煤をつけすぎると
陰起文文字の欠画が生じやすくなります。

7)上下の型をあわせて固定し(形〆)、溶銅を流し込みます。
湯まわり不良の
鋳不足、文字の鋳切れ、型に亀裂が入った鋳割れ、湯圧に負けて型崩れした鋳走り鋳だまりなどが発生しやすい工程です。溶銅温が低すぎたり、あるいは型に水分が多すぎるとエラーが発生しやすかったと思われます。
また、砂の中に木くずや藁などが混入していると(木くずや藁は燃焼して空洞になるため)
ス穴鋳だまりなどが発生しやすくなります。

8)出来上がったものを型からはずし、切り落とします。切り落とした銭は棒にさし、外周をやすりで粗仕上げして鋳ばりを落とします。
銭らしきものが出来上がりました。型からはずしただけの枝銭、切り落としただけの鋳放しなどは以降の工程が省かれたものです。鋳ばり落としは台摺りと呼ばれる作業です。この過程がいい加減だったり、省略されると
鋳放し銭になります。

9)穿内の仕上げをします。目戸切りという作業です。銭を釜で煮洗いして砂を落としたあとで焼きなまし強度UP。床焼きといいます。
目戸切りがいい加減だと
斜穿反穿などの現象が起こります。天保銭の場合は大豆の澱粉質の吸着作用を利用して煮洗いして銭に喰いこんだ鋳砂を除去したといいます。

10)銭の表裏を磨く平研ぎ、側面を仕上げる丸目、銭と米糠を臼に入れて踏み磨く臼踏み、銭洗い(すすぎ)、露取り(乾燥)、と続いて、出来上がった銭を検分して出荷可能になります。

上記記事は、収集1999年5月号の赤坂一郎氏の解説文と季刊 方泉處 創刊1号(1993年)北出鎮之氏の『石巻鋳銭場作業工程絵図』と『鋳銭図解』についての比較考察 という記事などを参考にしています。
 
母銭鋳造の工程について(収集99年5月号の赤坂一郎氏の解説文と図解
この工程方法は、現代の鋳物工房でもよく行われているようです。
通用銭と異なり、両面に肌砂を使用し、面背とも緻密な型取りが可能です。その分手間が倍かかります。
  

鋳型作成の過程 方泉處1993年創刊号より引用
 
【面背逆製】
母銭を下型に置く際に面側を下にしてしまうと生じる錯笵銭と言われています。当然のことながら肌砂が使用される背側が深くくっきり鋳出され、面側がぼやけたような風貌になります。もうひとつの見所が郭内の鋳ばり(見切り線)位置で、型の深さの関係から面側にかたよって鋳ばりができています。また、なぜか円穿気味になるものが多いのです。
なお、最近私は別のメカニズムによる面背逆製発生の可能性を考えています。それはなんらかの原因で母銭が下型側に深く喰い込むケースです。下型の踏み固め不足や母銭を強く押し付けてしまうなどが原因として考えられます。
面背逆製は最近認知された分野ですが、存在数が少ないために静かな人気があります。ただし、見た目がかなり悪いのが玉に傷です。
※面背逆製の場合は、後述する面側重文がとても発生しやすくなります。
寛文期亀戸銭繊字背狭文面背逆製
面背逆製は鋳銭管理の甘い銭座ほど発生率が高くなります。銭の需要が急速に高まった元禄期や、元文期以降は多く、古寛永や文銭などではそうそう見つかるものではありません。

→ 面背逆製の寛永通寶
元文期鉄銭座銅銭 面背逆製
いづみ会の穴銭入門には明和期の面背逆製が掲載されていますが、ただでさえ存在の少ない鉄銭座銅銭のしかも面背逆製なんて、おそらく島屋文以上の珍品に違いありません。
しか~し、そんなことを珍重する変わり者のコレクターなどこの世にほとんど存在しないと思いますので、市場価格はおそらく普通品以下でしょう。
→ 秘宝館
享保期佐渡銭 背広佐面背逆製
佐渡銭は面背逆製が多いと言われていますが私自身やっと2枚目の佐渡銭面背逆製です。
元禄期四ツ宝銭 広永面背逆製
四ツ宝銭は比較的面背逆製が見つかる銭種です。粗製乱造、大量生産の座銭ですから。

この品物は平成21年のオークションネットの入札誌10号から入手したものです。
 
【重文・重笵】
重文とは型取り中に笵の中の母銭位置がずれることにより、文字がぶれて鋳だされたものです。背側の重文はさして珍しくありませんので、よほど鮮明なもの以外は、錯笵銭としては取り上げることはできません。一方、面側の重文は製造方法からみて発生率は極めて低く、たとえ発生しても検査が厳しいため滅多に流通しなかったと考えられます。発生メカニズムとしては・・・
①踏み固めの作業中(形踏)に力が入りすぎて砂笵の中で母銭がぶれたり、母銭が飛び出して生じるもの。
(面背同時重文や型ズレも起こります。)
②母銭を笵から取り出すときに、取り損なって砂笵に母銭押し付けてしまう。(主に面側のみの重文になります。)
ということが考えられます。
砂笵に軽く押し付けただけの背側だけの重文は上下型枠のわずかなずれによって容易に発生します。そのため面背逆製における面側重文は起こりやすいと言えます。
 面背重文
元禄期四ツ宝銭勁永面背同時重文
掲示品は母銭の型はずれ飛び出しによる面重文と推定しています。見ての通り銭全体が上方にずれた痕跡があります。
飛び出しの場合慣性の法則が働くため、30度以上の大きな回転ズレは通常は考えられません。
元禄期四ツ宝銭勁永広寛面背同時重文
面背が同じ方向にずれ重文になっています。砂笵の中で母銭がずれない限りこのようなものは生まれません。したがって砂笵の固め作業~はずし作業間の不良から型の中で母銭がずれたとしか考えられません。
もうひとつの可能性としては、背側は通常の重文、面側は母銭を取り出すときのミス・・・もありえないわけではないですね。
面背同時の重文(ヤフーオークションに出品)
火中品のような風貌ですが、珍しい面背同時重文のようです。
形踏み作業中に母銭が飛び出したか、型ずれで背の重文が出来たあと母銭をはずす作業のときはずし損ねた母銭の面側を砂型に押し付けてしまう二重エラーによるものか・・・想像をかき立てられます。あるいは密鋳銭かもしれません。
最近はこんな変なものも高値で取引されるようになりました。
 面重文
古寛永初期不知銭狭穿の面重文
ズレ幅が大きいので母銭を取り出す際のとりそこないでしょうか?非常に貴重なものです。母銭を取り出す際の失敗は下掲の文字写りと兄弟関係にあります。

本銭は短尾寛方冠寶通用銭の所有者Ⅰ氏からの投稿画像です。
古寛永不草点あるいは笹手永手の面重文
初めて目にしたときは乱視になったのかと錯覚するほど見事な重文です。面背とも輪の上方が太く、美銭ながら仕上げの雑さが出ています。
母銭の取り出しミスによる再押しつけのものでしょう。

称:乱視寛永
古寛永高田縮通の面重文
穿を中心に回転したものは殆ど絵銭か贋作だと思っていましたが、この銭は色は真っ黒ですけど製作はほぼ間違いなく座銭のもの。
意図的なのかもしれませんが正規の錯笵?としてここに掲げます。
※ふいご祭(11月8日)のときなどわざと不完全なものを作る風習もあったとか・・・完全なものには魔が宿る、祟りを避けるために7つ目を不完全なものにする(斧の条痕はあえて不揃いにして7本入れた)などの、根拠あり。
 背重文
古寛永長永の背重文
背側の重文は珍しくないので、よほど目立つ変化でないと鑑賞対象になりません。掲示品の古寛永は小川青寶樓師がかつて拾い上げたもの。穿の鋳バリによる仕上げのずれもあって、非常におもしろい錯笵銭になっています。
 
【文字写り・落下痕跡・置き直しなど】
鋳銭作業中に砂笵上に物を落とすと型に傷がつきます。母銭を落とした場合も同様ですが、母銭を落としたぐらいでは固められた砂笵に文字がきれいに写るようなことはまず稀です。想定できるのは砂笵上に落とした母銭を拾い上げるときに笵に押し付けてしまうケースです。したがってこのエラーは面重文と同じメカニズムでも発生し、重文と呼ばれることもありますが、さらににズレが大きいものを分けてこちらに入れることにしました。
また、砂笵にいったんセットした母銭の配置が悪く、やむなく置きなおすときに整地が不十分で、直前の痕跡が残ってしまうこともあり、メカニズムは違うものの、区別が困難なためためこの範疇に入れることにしました。。
大きく文字がずれたり、文字角度回転や裏面の模様写りなどの奇品の出現の可能性もあります。ただし、この類は戯作銭、贋造銭も多いので注意が必要です。
 文字写り(母銭の押しつけによるもの)
明暦浅草銭(称:踏谷銭)の背面文写
あまりに鮮明な文字写りのため、贋作を考えてしまいますが、材質や制作は正規座のものと矛盾はありません。
落下した母銭を拾い上げの際に押しつけしてしまったものでしょう。この手のものは文字の写りが浅くなります。
元禄期荻原銭の背輪郭写
落下した母銭を拾い上げの際に押しつけしてしまったものでしょう。これだけはっきりしたものはあるいは意図的なものかもしれません。
寛保期高津銭の背面文写
寛・通の文字と郭がはっきり見えます。書体は中字接郭寶で子の手のものとしてはかなりのおおぶり銭です。
永・寶の文字が意図的に消されているようにも見えますので(永尾はあるが永柱が無い)銭座職人の戯作・贋作の可能性もかなり高いと思いますが製作には矛盾はありません。

※平成19年 貨幣10月号 掲載原品
安政期小字の背輪波写
背波の重文は母銭が砂笵の中で動くことで比較的容易に生じますが、これは母銭落下によるもの。少ない珍エラーです。

※置きなおしによるものの可能性もあります。
 異物落下
押し付けた場合は、砂笵は静かに圧力がかかるため不自然なゆがみは生じませんが、落下は衝撃によって鋳砂に変形(隆起の周囲に陥没)が生まれます。砂笵に木屑や藁が入っていた場合は押し付けと同じような結果になります。
砂笵に物を落とすと・・・
左図は収集99年5月号の赤坂氏の説明図。鋳竿や母銭の他にゴミなども錯笵の原因になります。いっそのこと枝銭ごと落とせば派手な錯笵銭ができるのですが、鋳銭工程から考えると不可能です。
直線はワラ屑や母銭が転がった痕跡とも考えられますが、上や左の例は薄い刃物のようなものを落としたと思われます。左の例は落下の衝撃痕跡がすごく、上の例は穿の上をブリッジ状に渡る稀品です。これを工人の戯作とする説もあります。
→ 製作日記2010年11月15日
← 鋳竿(湯竿)を落とした痕跡
形状から私は鋳筋などと呼んでいましたが、やはり鋳竿跡と呼称すべきでしょうか?石川氏は条痕としています。
鋳竿は重いので幅広く盛り上がります。
 
 複数の母銭を落とした跡 →
母銭を砂笵に落とすと三日月状の傷がつきます。複数の傷がのこるこの品物はちょっと面白い存在です。面側は古寛永不知銭の狭穿で貴重な品です。ただし、この品物がこの変化で評価があがることはまずないでしょう。
文政小字錯笵銭(湯竿落下痕)

H氏から拝領したもの。最大の厚みは2.5㎜に達します。重量は6.4gなのでこの付着した分が重いようです。付着物は仕上げのときに影響したようで、砥ぎのときには背の出っ張りに押されて面側は寶字上ばかりが粗く削られています。一方、背砥ぎにもこの付着物はしぶとく耐えてこの世に出現しました。それにしてもよくこんなもの流通させたと思います。
 置き直しによる多重輪
背多重輪写り
この錯笵の発生メカニズムは非常に興味深い。一度置いた母銭を置きなおす作業を行った際に、先についた痕跡を消しきらなかったと推定しています。
明和期長崎銭にときおりこの手の錯笵は見られるようですがとにかく珍しい。

※意図的な戯作の可能性も否定できません。
 立体的多重輪(母銭の強い押しつけによるもの)
背多重輪写り
左は強い落下衝撃痕跡がありますので一度できた砂笵に強い力で母銭を押し付けたもの。右は凹の衝撃痕が観察できないので母銭を静かに押し付けたか、飛び出した母銭同士が重なり合ってかたどられたものか?
※砂笵が硬すぎたときに生じることが稀にあるとのこと。
 立体的多重輪(母銭の重なりによるもの) 
左のような文久銭の錯笵は果たしてどうやってできたのでしょうか?
このような錯笵銭ができる場合のパターンとして下図左の3例を考えました。

①鋳型から母銭を外す作業の過程で、母銭を突き刺すような動きで砂笵を傷つけてしまった場合・・・
この場合は、反作用で必ず鋳砂が盛り上がりますので、出来上がった銭に凹みが生まれます。しかし、くこのの文久銭は写った輪の周囲に凹みはなく、逆に盛り上がっています。

②今度は母銭を引きずるような動きで砂笵に押し付けた場合、引きずる過程で砂笵が破壊され一応あのような形の錯笵銭は理論上できることになります。
しかし、母銭を引きずりながら押し付けるというイメージがいまひとつ浮かんできません。

③そこで鋳砂を被せる工程で母銭が動いて偶然重なったケースを考えます。通常は母銭は面を上にして、しっかりと固めらられた鋳砂の上に背を押し付けられて整然と並べられます。並べ終わったら型板で周囲を囲み、化粧砂をかけられた後、再び上から鋳砂を詰められます。このとき、背側はさほど深く鋳砂に喰いこんでいないので動いてしまうことがあり、たいていは背重文という錯笵になります。この最たるものが今回のような錯笵で、完全に母銭どうしが重なってしまったアクシデントです。
固められた砂笵上で2枚の母銭が重なるので、動いてきた母銭は砂笵の上で斜めに傾いて重なると考えられますが、そのとき、白い矢印で示した部分は空洞化しやすく、また、仮になんとかかたどられたとしても砂型を割ったときに表面で凸状に飛び出すので、型〆作業前の整形で平らにならされ削り取られた可能性が大きいと思われます。
かくして右下図のように、白い矢印部分までが銅で埋められた鋳造物ができます。
このままでは連銭のままなので銭として流通させられませんのでどこかの場所で切断して仕上げるのですが、さすがに面側に失敗が見える形では切り出せません。したがって点線の部分で切断されるのですけど、この部分が最も厚みがないので切りやすいという面もあります。かくして背側の一部が写り込んだ錯笵銭が世に出るわけです。

 
【背ズレ・砂笵崩れ:譲笵】
形〆作業のときの型のあわせずれか、鋳造時の砂笵崩れが原因です。多少の型ずれは珍しくありませんので、背輪が完全に外れるぐらいのずれがエラー銭としては要求されます。
鋳造のメカニズム上、面側が肉厚で背側が薄く鋳出されるので、仕上げ工程で背にあわせて銭形修正すると、面側の厚い部分を削る必要があり、結果として不自然に薄っぺらい部分のある銭ができてしまいます。したがって理論上、面ズレの錯笵は存在しません。
なお、穿穴がずれたために面が偏輪することは考えられますがこの場合は面背ともにずれることになりますし、製造工程から考えると極端に大きなずれは発生しません。(可能性はあります。もしそのようなものがあればヤスリがけ工程のミスということになります。)
 背ズレ
明和期短尾寛二十一波 背ズレ
おそらく砂笵崩れによるものだと思います。ここまでずれているものを探すのにはけっこう苦労します。背ズレの価値はズレ幅で決まり、少なくとも輪が完全に内側にずれていることが称揚の条件。複数の輪が写っていればさらに高く評価できます。
明和期亀戸銭小字降通背大錯笵
ここまで気持ちよくずれるのは滅多にありません。明和期銭は比較的錯笵が見られるのですがこれはすごい!珍品です。
寛保期足尾銭大字背足磨輪背大錯笵
十万坪無印かと思っていましたが、良く見たら足尾銭。ポイントは寛後足(虎の尾でなく極端な内跳ねでもない)、永点(大きく跳ねる)、永字の左右画の食い違い、通辵の頭の位置(用と揃わない)、通点(大きく跳ねる)などです。
この錯笵は砂笵の崩れによるものでしょう。戯作なら足の字をもっと意識するでしょうね。銭の下部はかなり薄くなっています。
古寛永明暦高寛背大錯笵
この書体は現在は沓谷の可能性が極めて高く、沓谷と言い切っても良いかと思います。
郭と輪が見事にずれているだけでなく、もう一つの輪の一部がはっきり写り込んでいます。背ズレ錯笵の場合はこの点はさらに高く評価できます。
本座広郭の背ズレ
本座広郭でも、末期ではないものの錯笵は珍しいと思います。
見ての通り背全体が右側に1mm近くずれて、輪が完全にはずれてしまっています。通常はこのような品ははねられて再溶解されてしまう運命にあるのですが、検査の目をすり抜けたものと思われます。
たしかに背はずれていますが、銭のつくりはしっかりしています。この程度でも天保銭では珍しいと思います。
小梅銭背小の背ズレ
ネット画像から拝借。これはなかなか楽しい品。
天保通寶萩藩銭方字の背ズレ
(練馬雑銭の会盆回しより画像借用)
天保銭はさすがに高額銭であったためか規格管理が厳しく、目立つ錯笵類はほとんどありません。このような背ズレは比較的管理の甘い藩鋳銭や密鋳銭にときおり見られる程度です。なお、萩藩銭には極端大きく背がずれた錯笵銭が市場に出回ることがありますが、それは後世の作銭ですのでご注意下さい。

→ 加賀千代作
← 薩摩広郭の背ズレ
薩摩にはときおりこんなものもあるようです。これは背輪が完全に左上方にずれていて、右下部分に余白部分がわずかに現れています。願わくばあと1㎜ずれていれば大珍品なのですが・・・。
錯笵天保
天保の背ズレ錯笵の限界はここあたりまでです。

(天保仙人 所蔵品)
 砂笵崩れ(背ずれの多重輪)
背ズレのうちとくに背側が大きくずれた一群があります。面と背との方向性が一致していないことが多く、文久銭や寛永の鉄銭に比較的良く見られます。要因としては・・・
①砂笵の乾燥不良により水蒸気爆発によって砂笵崩れを起こしたもの。金属溶解温度の高い鉄銭に多いと思います。
②戯作、意図的なもの。詳しくは2010年の11月15日の製作日誌をお読み下さい。
③贋作の類。
文久永寶の背大錯笵
ここまでくると偏輪どころの騒ぎではなく、上下の型の組み合わせを別のものに間違えたとのではと疑ってしまいます。錯笵という言葉・・・笵を錯る(あやまる)・・・という意味からはこれぞ錯笵銭ということになります。
鋳ばり落としや目戸切り作業も大変だったでしょうから、出荷される可能性はまず少ないと思うのですが、文久永寶や寛永鉄銭にはなぜかこのような背大錯笵銭が多くあるようです。
(ヤフーオークション出品物から画像引用)
文久永寶の大錯笵銭はほかの銭に比べて格段に多い。こんなできそこないも出さねばならないほど採算性が悪かったようです。対象13年の貨幣に掲載されている、背長寛永銭座の研究資料によると、一回の鋳銭作業で300枚ぐらいの不良が出るようです。一昼夜で40回湯(溶解した銅)を流し12貫文(12000枚)できるということは一作業当たり3000枚・・・すなわち不良品発生率は10%に上ることになります。銅質は若干異なりますが、時代的にもほぼこれと同じ程度の歩留まりでしょう。銅銭の絶対的な不足の時代であったため、割れや欠けが無く銭文が読めれば立派に通用したものと思われます。当時は銭緡で流通することが多かったので支障も少なかったのでしょう。
文政期小字の背大錯笵
スキャナーの不調で白くぼけた画像になってしまっていますがやすり目や銅質に大きな矛盾が無く文政期で良さそうです。背に打ち傷があるのですが廃棄銭の流出のような気がします。ただし、ここまでのものは他に類を見たことが無いため、やはり戯作・贋作の類なのかもしれません。

外径28.4㎜ 重量5.1g
明和期長崎銭の背三輪写り
長崎銭は錯笵が比較的多いのですが、これはトップクラスの錯笵。ただし銭幣の華には四輪写りもあります。製作からして贋作・戯作の類ではないかとも思えます。

※背ズレの贋作は作りやすいため贋作者に狙われやすいジャンルです。したがいまして過熱にはご注意下さい。
加賀千代太郎作 贋作天保
加賀千代太郎の傑作として知られる贋作です。本物の鋳銭工を使ったとされますので製作は完璧で、面側からだとほとんど違和感がありません。

(天保仙人 所蔵品)
  
文字写りと背ズレのアラカルト(銭幣の華より)
ここまでの錯笵類はさすがに珍しい。長崎銭はとくに錯笵銭が多く見られるのですが、背二輪はともかく四輪となるとかなり意図的なのではとも勘ぐってしまいます。錯笵類はあくまでも余興の収集としないと、贋作者の思うつぼにはまってしまいますのでご注意下さい。
 
【鋳だまり・鋳不足 など・・・】
鋳造において鋳だまり、鋳不足、鋳切れなどはかなりの頻度で発生します。問題はそれをどう評価するかですが、
①母銭段階で発生していて、複数存在すること。
②見た目に変っていること。
の二つが高い評価の条件のようです。見た目が変っていても偶然の発生・・・通用銭段階の一品ものではあまり評価は高くありません。
日光千鳥
母銭の鋳だまりによる変化ですが、とても有名です。鋳だまりや鋳不足で価値があるのは母銭から存在があることが推定できる類だけです。
通称:天狗寛永
現在、鋳だまり変化の中での最高級品に登りつめています。とてもつまらない変化です。でも収集家はやっきになって求めます。これあたりはネーミングの人気もあると思います。
偶然背星(延尾永)
偶発的に鋳だまりができたものと今のところ推定しています。したがって現在の市場評価はせいぜい数千円どまりで、天狗寛永などの有名品とは雲泥の差です。
ただし、もしこれと同じものが数枚発見されて新種と認定されれば市場価値は20~30倍には跳ね上がるでしょう。


→ 特別展示室
鋳不足(日光凹千鳥)
鋳不足の代表選手。これは千鳥が有名だからこそ人気が出た品。母銭の段階で鋳不足が発生してこのようになっているもの。凹み形状はいろいろありますが、価値があるのはこの形です。

※新寛永通寶図会掲載原品
鋳不足(四ツ宝銭・俯頭辵)
漢字表記すると鬆穴。罹災による後天変化ではないようです。こんなものを流通させるなんて、ずいぶんいい加減な時代だったのでしょう。穴の開き方が面白いので拾っていた品ですけど・・・このような鋳造上の工程で発生する鋳不足は・・・ほぼ無価値です。
銅の流れ不良で穴が開いたケースと木くずなどが混入した結果、混入物が燃焼した後がス穴として残るケースがありますこれは前者の例で、この形状は珍品です。でもやはり無価値ですかね。
 
その他
偏輪(四ツ宝銭・俯頭辵)
穿内に大きな鋳ばりがあったため、角棒を通してまとめて仕上げするときにずれて偏りが生じた結果、このようなものが出来上がったと推定されます。この場合、必ず面背とも偏りが生じます。いわゆるやすり工程上のエラーです。
斜穿(四ツ宝銭・俯頭辵)
穿内の鋳ばりによって仕上げの角棒がまっすく入らずそのまま仕上げられてしまったものか。もっと斜めになり45度の角度で星形に交わるものを「花穿」ということがあります。目戸切作業が雑だとこんなものが出てきます。
鋳割れ(不知長郭手)
鋳造中に砂型に亀裂が入ったと推定しています。水分の調整不良などで鋳造圧力に砂型が耐え切れずひび割れたケース、水分の膨張・爆発などで型そのものに亀裂が入ったケースなどが考えられます。
鋳走りと異なり亀裂状に細く不規則な線が走るのが特徴です。なお、この掲示品は型の変形も生じていて、よく見ると穿も歪んでいます。
鋳走り(寶字付近:萩方字)
鋳造では笵の弱い部分に乱れが生じやすく、とくに溶解した銅が流れ込む堰口(湯道の銭との接合部付近)が壊れやすかったようです。
また、液体特有の呼び込み現象によりや文字などの先端部・・・輪と近い部分が伸びたり、くっついたりすることもあります。これもまた鋳走り(湯走り)と言われます。
これらの現象によって文字などに乱れが生じることを、状況によっては鋳だまり(湯だまり)とか鋳乱れ、鋳つぶれと称されることもあります。
型ズレ捻形(不知長郭手)
上下の型の合わせ不良のため、銭全体がねじれた形でななめ(平行四辺形状)に仕上がっています。厚みのある天保銭ならではの珍しい錯笵です。
歪形(不知長郭手)
鋳造中に型を倒すなど衝撃などを与えてしまったもの。型崩れが生じて、全体が不自然に歪みます。天保通寶のように大型の銭の場合にごくまれに起こる現象。火事による変形ではありませんので焼けただれが見られないのがポイントになります。
楔形(不知長郭手)
上下の肉厚差が1㎜以上もある天保通寶。砂笵から母銭をとり出すときに片側を深く砂型に押し付けてしまったもの。このような肉厚変化も広義には錯笵と言えます。
鋳放し(浄法寺天保)
鋳放しは鋳造工程の放棄・中断なので錯笵と言う定義とは若干意味合いが異なりますが参考までに掲示します。
異銅・銅替り(薩摩広郭白銅銭)
銅替りは配合金属の偏りで、鋳造工程上の問題なので広義には錯笵の範疇に入るのかもしれませんが、製作的に美しいものが多いので錯笵とは呼ばれていません。
 
 
参考銭類(戯作・贋作・罹災類):錯笵類似銭

戯作と贋作は紙一重です。どちらも人を驚かし、うまくゆけば収入にもつながるかもしれない・・・違いは人を騙す欲望の違いぐらいで、収入の多い少ないは結果でしかないような気がします。

火中品(罹災品)
背白文の寛永(火中品)
これは意図的な贋作・戯作ではありません。
火事で熱変化したもので、隣あった銭の文様が陰刻転写されています。ネットオークションなどで白文の〇〇などという名前で出品されるもののほとんどがこの手の類のものだと知りましょう。
銭幣の華に掲載されている原品ですが、資料的な価値しかありません。もちろん錯笵銭ではありません。その昔、浅草古泉会で興味本位で購入したものですが、まさか石川氏が拓本を取っているとは思いませんでした。(それに気づくほうも変なのでしょうが・・・)
白文の寛永(スタリキ?)
文字が裏返らずに陰刻されているもの。書体からみて不旧手で後からのタガネ彫ではなさそう。
火中品であることは間違いなく、雑銭の会で問い合わせたところ、スタリキによる戯作ではないかとのこと。スタリキとは銅版画の技法を応用したもので、この場合①銭全体を漆で覆い、文字と郭の部分の漆を剥ぎ取る。②強烈な酸につけて露出部分を溶かす。③火で焼き、漆を除去する。
と言う具合。あくまでも推定ですが・・・。
※四国のK氏からの投稿画像です。
元文期加島銭細字斜冠 
通常の鋳造工程では発生は考えられないものです。ただ、見た目の雰囲気は悪くないので少し時代のある贋作銭だと考えています。郭内をタガネのようなもので仕上げしようとして失敗したような雰囲気があります。
このように穿を中心に文字が大きく回転する錯笵は通常の鋳銭作業では考えられません。仙台絵銭の類に意図的なものが存在していて有名です。
絵銭仙台左駒寛永重文
これは明らかに意図的なものです。
昭和銭譜にも類品が掲示されています。
(銭幣の華より借拓)
贋作鋳不足品
覆輪に鋳不足という念の入れ方ですが、やすり目があるのが大失敗です。(廃棄銭ならやすり目は無用。)
流通を目的とした天保銭は鋳不足状態で世に出ることはないはずです。また、失敗作は貴重な銅原料として再利用されるのが常。
まして密鋳ならその素性を明らかにするような作はでないはず。可能性があれば発掘品なのですがそれもあやしい品が多いと思います。

右側は鋳不足状後鋳銭として天保銭52号に掲載されていますが、やすり目はありません。鋳不足部分が火が入ったように溶解しています。ただし、鋳ばりがないのもおかしい。
(天保仙人 所蔵品)
圧延(火中?)による贋造濶縁天保
初心者の方が見てもピンと来ないと思いますが、この品の輪は通常品より広く、いわゆる濶縁になっています。
そのため見た目は不知長郭手覆輪に見えるため、中上級の目利きたちがだまされます。
外形サイズは50㎜にせまるものがあり、迫力も充分。
輪に圧力をかけて延ばしやすくするためか、あるいは加工傷をなくすためにか、全体的に熱せられた痕跡があり、酸化肌が現れています。
拓本、画像による判断は非常に困難。
判別は直接手にとって肌を触ること。観察すること。輪に圧力がかかっているため輪表面に不自然なすべすべ感があります。また、圧延の際についたと思われる不ぞろいな傷が本品には認められます。
有名な変造品は琉球通寶にもあります。
漆盛(樹脂盛?)変造
漆などで本来ない文字部分を作り出す贋作技法。
拓本は踏潰濶永の永字先端にあいたス穴を、別素材で塞ぐだけでなく、新たに文字画を作り出して手替り珍銭として世に出したもの。
(赤線の部分)
(東北地区のS氏資料提供)
銀メッキによる白銅銭の贋造
メッキのタイプにも色々あるようです。現在市中にある薩摩広郭の白銅銭の多くはこのような贋作品だと断言できます。見分け方・・・私にも良く分かりません。
贋造刻印銭(玉塚天保)
本物とは書体が小さく全く異なります。刻印銭は贋作が非常に多く、手を出さないほうが賢明です。
改作による贋造銭 不知長郭手嵌郭天保
ほぼ同時期にネット上に出現した天保銭。贋作者加賀千代太郎のお店で良く売られていたことから、贋作ではないかといわれていますが確証はありません。ただ、この2品は色こそ異なりますが輪の癖、地の凹みなど共通点が多く見られるため同じ型から作られたものだと思われます。
母銭からの正型抜き贋作
本座広郭写しの不知広郭手として入手したものですが、内径縮小が全く見られません。しかしながら無極印で本座とは思えない鋳肌。
サンドブラスト加工によるものか、不知銭かなやんだが極印部分に削った痕跡がありません。
疑念が晴れなかったため、仙人に確認したところ昭和時代に水戸広郭鋳放し母銭(枝銭)として出現したものをさらに変造したものと判明。
本座広郭母銭から鋳写したため内径縮小がないのは当然で、贋造がばれると枝部分を切り落とし不知品として流通したとのこと。
本当に精巧作です。仙人の知識がなかったらまず見破れませんでした。(と、いうよりすでに騙されてますけど・・・)
贋作者の狙いと技法
贋作者の狙いはいろいろありますが最終的にはお金を得ることに尽きると思います。
騙すためにはいかに好奇心を買うかがポイントなので、ほとんどの贋造銭はほかで見ない珍しい特徴を持っています。さて、贋作にもいくつかタイプがあります。
1)ものまねタイプ。本物に似せて新しく型を起こしてつくるもの。
2)完全コピータイプ。本物から型取りをしたタイプ。(正型抜き)
3)改ざん・変造タイプ1。本物を土台にして文字や輪の一部を削ったり、足したりしたもの。
4)改ざん・変造タイプ2。文字ではなく地金にメッキしたり、刻印を打ったりして価値を高めようとしたもの。
5)改ざん・変造してつくった母銭から写したもの。(覆輪銭など)
6)1、2の発展形で材質を変えたり、錯笵に仕立て上げたもの。書体以外の製作で目を引く工夫がされているもの。
7)完全に新しく創作したもの。ファンタジー。
なかには銭座の職員がかかわっていたり、科学的な分析に基づいて古銭研究家が作ったものなどがあるからやっかいです。

良くある技法は・・・
正型抜き(しょうがたぬき) いわゆる鋳写しのことで、型としては石膏がもっとも手軽です。本格的に鋳砂を使って母銭から写す例もあってなかなか手ごわい。最近はシリコンやらロストワックス製法やら、遠心力をかけた特殊鋳造やら技術の進化が見られます。石膏カスがついている珍品には注意。
漆盛り(うるしもり) 漆を使用して、文字のないところに文字を描いたり、ス穴を修復したりすること。修復技術を悪用した例。漆以外の素材による贋造も見られる。古色がつくと見分けがたくなるが、柔らかいので判定ができることもある。
削り直し・彫り直し 漆盛の反対に文字や地を削ってゆく技法。最近は歯科技工の機械が発達したため精巧な彫り直し作品が見られるようになりました。拡大するとドリル痕や削ったあとを焼いてごまかしたりしています。
圧延(あつえん) 銭にローラーをかけてほんの少し大きくする技法。土台が本物だけに見分けがたく、銭譜にも堂々と掲載されていたりします。時代色がついたものは判別不能になると思います。
贋造刻印打ち 米字極印や下田極印、玉塚天保など本物より贋作の方が多いかもしれません。なかには諏訪大社刻印にヒントを得て春一~秋四までファンタジー刻印を作った輩もいます。ただし、この真贋判定はきわめて難しい。
サンドブラスト工法(研磨砂の吹きつけ)による贋造極印や、昔の本物の極印を使用したもの、極印は贋でも地は本物の古銭を使っているケースなど手が込んでいるケースも多いのです。
鍍銀による贋白銅銭 薩摩広郭の白銅は怖くてもう手が出せません。科学の知識があれば簡単に鍍金が可能で、しかもなかなか見破りがたい品になります。
付け錆、古色づけ 贋作品をごまかす技法で、硫酸などを使い人工的に緑青などをつくりだしたり地色をそめたりするもの。古くはくさらかしと言い、その後のスタリキ(酸で金属を腐食させて贋造品をつくる技法)に通じるものがあります。
古典的なものとしては腐葉土に埋めたり、トイレに放置して緑青をつけたり・・・
その他 南宋番銭の面を削って、古寛永の背と削ったものと貼り合わせれば、古寛永番銭の出来上がり。さらに銀で作れば銀銭。これらのものを見破るにはとにかく目を養うこと。金属の質、やすり目など、書体だけでなく製作も知ることです。
 
 
贋作者列伝    → 泉家・収集家覚書
和同開珎の時代からいわゆるニセガネは存在します。ただ、古銭の世界ではニセガネも立派な収集対象で、もしこういった流通目的のニセガネを収集対象からはずすとしたら、穴銭収集の興味は半減してしまうと思います。
ここでいう贋作とはお金としての流通目的のニセガネではなく、はじめから収集家を欺くことを目的として古貨幣を模造したものと定義されます。
しかし、なかには判定が難しいジャンルがあります。例えば絵銭は交易、流通を目的とした貨幣ではありません。
贋作絵銭のなかにも元々おみやげとして露店で売られていたものがあり、2番写し、3番写しが当たり前の絵銭の世界にあってどこまでが贋作なのか判断に苦しむところです。強いて贋作者の罪を問えば商標権の侵害を行ったものといえましょうか?今で言えばハワイのお土産を中国で製造するようなものです。
さらにはファンタジーと呼ばれる分野を開拓した強者もいます。代表者が小田部市郎であり、その罪はあらぬ歴史上の銭貨を作っていかがわしい口上で趣味人をだまくらかし不当な利益を上げた罪・・・といったところでしょうか?
そんななかでも古銭商や研究者、出版元が自ら贋造に手を染めた場合は害が大きく、今の収集界にも影を落としているものすらあります。また、模造品にしかすぎないようなものが、古銭商や研究者などによって珍銭にまつり上げられてしまう例もあるようです。さらに時代の古い贋作もあり、絵銭の世界では双玉貨泉手のように現代では作銭から格上げされて収集対象品にすらなっているものもある思います。このコーナーはそんな贋作者の情報をお伝えいたします。
寛永堂作(稲垣尚友:槌屋吉之助)(生没年不明)
稲垣尚友(源尚友)は文政年間に京都に住み、別名を槌屋吉之助とも名乗ったと言います。寛永銭研究家としては大変な人物で、藤原(藤井?)貞幹の跡を引き継いで寛永銭分類の泉譜を編纂した人物でもあります。いわゆる寛永銭譜(流布本等)と呼ばれるものは藤原貞幹の没後に稲垣が制作したものと推定されています。良くも悪くも古泉界の発展に貢献した人物でもありますが、問題なのはその自身の手によって作成した銭譜にもなにやら怪しい品ものを掲載してしまったらしいことです。
化政文化華やかなりし頃の古泉界はこの稲垣によってある程度リードされていたようです。そんな中で彼は好奇な者達を陥れるかのように戯作品を世に送り出したようです。古銭商でもあり、初見の珍品は鉛で写して研究し、高津銭座の鋳銭技術を伝承する職人に作らせたといいます。
贋作品は精緻で白銅質のものが多いようです。
稲垣本人としては遊び心と虚栄心からこのようなものを世に送り出したのでしょうが、稲垣の古泉界の位置づけからして古泉界に及ぼした影響は計り知れないものがあったと思います。寛永堂作の贋作も制作から150年ほど経過していますので、それなりの古色と風格が備わっています。当初は贋作というよりもファンタジーに近いものだったと思いますが、稲垣の名をもって珍品として世に流布しているかもしれません。寛永堂の作品と疑わしきものとしては入門の第2版(手引きNo322)に佐渡正徳期小字背輪佐の図があります。明治期まで生き、中島泉貨堂は最後の弟子のひとりです。
参考画像1 参考画像2 (寛永堂作であるとは断定はできません。)

(穴銭入門第2版より)

古楽堂作(毛満屋源八:毛間屋:毛馬屋)

源八は天保年間に大阪淀屋橋南詰に住んでいた古銭商。寛永通寶その他の贋造に手を染めていたようですが、黄色味がかった銅質で面背にぶつぶつ鋳だまりがあるのが作風だそうですが寛永堂と並ぶ贋作名人だったようです。
古楽堂の名前は穴銭入門の寛保期高津銭の参考銭の欄にある『細字背元異制』(別名は細字背元洽水)の項等に見られますが断定はされていません。銅色は赫褐色の精巧なものとのことです。
なお、『銭幣館 第4巻』掲載の水原氏の文中に『降って寛永堂稲垣尚友、およびその子古楽堂など・・・』なる一文を発見しました。寛永堂と古楽堂は親子だったのでしょうか?いまのところその他の情報はありませんが・・・。(他にも記事発見)
彼も職人に作らせたといい、高津銭に範をとった作品が多いところから稲垣と何らかの接点があったのかもしれません。
※赫という文字はカクあるいはキャクと読みます。夕暮れの輝きある茜空色。赤い色には違いないようですが、赫褐色は赤っぽいチョコレート色といった方がよいかもしれません。
右:小字俯頭永背元異制 左:細字背元異制
(穴銭入門 新寛永の部より借拓)
日本古銭贋造史の記事を読んでいると、高津の真鍮銭は古楽堂の作ではないかと思えるような記述があります。
大正5年の大坂毎日新聞に、古銭贋造についての記事がありそこには古楽堂、毛間屋、林定吉の贋作3名人の話が書かれています。当時の新聞ですから信憑性は今ひとつであると考えられますが、古楽堂は古鏡を潰して贋造した・・・とあります。また、毛間屋はおそらく毛満屋のことで(あるいは毛間屋が正しい?)記事中には古色付けの名人となっています。古楽堂は複数の職人に作らせていたともいわれているので、古楽堂と毛満屋は別人(贋作協力者)のようでもありますが定かではありません。毛満屋の住所は大坂御寮裏ということに記事ではなっていますが、現在の地図にその地名は見当たらないので良く分かりません。古鏡から造る手法は寛永堂の手法ですが、古楽堂が実子だとすればその可能性も・・・。あるいは寛永堂と古楽堂を混同したか?


※大坂御寮裏はもしかすると堺市の御陵(みささぎ)かもしれません。ここには御廟山古墳(ごりょうやまこふん)があります。
 

ラムスデン作(Henry Alexander Ramsden:蘭寿伝)
1872~1915年。イギリス国籍のオランダ人で在マニラ・英国副領事、キューバ総領事としてスペインと日本に駐在しています。古銭研究者としては相当熱心で日本においても大阪古泉会などに席を置き、古銭誌(大日本古銭古郵券雑誌・日本寛永銭)などの発行・著作があります。領事館が治外法権であることをいいことにあらゆる古銭を贋造、妻の弟と結託して商社を設立し、贋作品を海外専門に輸出して日本人には売らなかったため永く秘密を保つことができたのですが、その死後に遺品を受け継いだ義弟の小早川潤氏により作品が流出したのと、海外から逆輸入されたものにその贋作品が混じっていたことにより収集界において発覚したようです。
贋作技法はかなり科学的であったといいます。穴銭類においては主に地方貨幣や天保絵銭などが作品として多く残されています。赤黒い銅質で古色があるもの、絵銭天保では仏像などの東洋的な図柄が好んで使われたといいます。

ラムスデン作(写) 天保背勢至菩薩
ラムスデン作贋作天保母銭(推定)
なんのへんてつもない天保。無刻印なので母銭らしいです。
私もこれを持ち込まれたら無警戒で購入してしまうと思います。それほど出来上がりは完璧です。銅色がラムスデン特有の赤茶色というか飴色です。この色を覚えておいてください。
 ラムスデン作天保當五十(推定)
非常によくできた贋作で、やはり銅色がラムスデンブラウンです。20年の春の古銭会にY氏が持参し、天保仙人も欲しがった珍品です。ただし、あくまでも贋作なので・・・。
 
福西作(福西常次)
福西常次は大正期に会津の若松竪町に住んでいた薬商で、大康堂の名で当時の古銭番付に名前が載るほどの収集家だったようです。趣味活動が高じて古銭の摸作をはじめ、その作品が全国に流通して害毒を流すことになりました。得意分野は古金銀で、その結果警察に検挙されるほどの騒動に発展したようです。贋作品の目録をつくり売り出されるほどだったようですが本人もここまでの事態になることを予期したわけではなかったのかもしれません。どうやら組した相手が加賀千代太郎だったようなのです。加賀に利用されたのかもしれませんが、やはり贋造(模造?)に手を染めたのは問題だと思います。また、贋作製作期間も長く明治末年頃から昭和初期にまで及んだようですからやはりある意味確信犯だったのかもしれません。贋作は当初もっぱら古金銀であったようですが、やがて加賀と共同企画して絵銭、穴銭の類も木型母銭を使用して制作したようで、戯作風のものと本銭を忠実に写したもの(主に皇朝銭類)とがあるようです。福西については何かの本(収集?)でその記述があったようにかすかに記憶していますが、どこかにいってしまっていて詳細は不明です。(1994年1月号に記事記載があることは分かりましたが、実家に置きっ放し?あるいは紛失してしまったみたいです。福西作に関する情報がありましたらお教え下さい。)
参考画像1
福西作
寛永銭の贋作・・・というよりもややファンタジー的なものか?ただし、情報の少なかった時代なのでだまされる人も多かったのかもしれない。
(福西泉泉譜より)
 
 
加賀千代作(千泉堂 加賀千代太郎)
大正から昭和にかけての贋作名人で東京都浅草清島町に住み、古金銀と天保銭を中心に贋作を行ったといいます。この人がなぜこのようなことをしでかしたというと・・・本人の著作に古金銀分析表並二鋳造沿革( 昭和8年発行)というものがあり、なるほどこの人も古銭研究に魅入られた一人であったようです。 ただし、先に記した贋作者が古銭収集を趣味とする研究者ばかりであったのに対し、彼は古銭を商売の種として見ている側面が強く、人をだますことに余り罪悪感を感じていなかったようです。
商いは加賀金銀店といいますので、古金銀の贋作が得意だったのもうなづけます。加賀千代作で有名な穴銭はやはり天保通寶・・・それも本格的な制作でかなりの好事家がだまされました。
長郭錫母  新作白銅母  覆輪母  鬼字 
加賀千代作天保の代表銭
冶金学の専門家らしくかなり精巧な品。錫母銭から作成したものもあり、旧譜を飾った名品もあります。収集家の興味を引くように文字や制作に特徴を持たせているものが多くあるようです。
覆輪母、鬼字、方字背大錯笵などは昔は大珍銭扱いされていました。
(勢陽天保泉譜・不知天保銭分類譜 別巻より借拓)
筋違い と 方字背大錯笵
精巧なものは元本職の鋳銭工を使い、自分で作ったものは黒色のものが多いそうです。ただ、右側は何の変哲もないもの・・・何のために造ったのか???。加賀千代は熱心なことに昭和5年に交仙会という古銭会も主催しています。
(天保仙人 所蔵品・左側はお譲り頂きました。)
 
その他の作銭の制作者
以下は昭和泉譜や日本古銭贋造史などに作銭(空想絵銭・古銭)作者として掲載されている贋作者です。趣味人を相手に商売をしたという意味では贋作者ですが、お土産品的な作者もいたと思われます。また、古くは作銭であっても時代が経つと絵銭として認知される双玉貨泉手などの例もあります。本サイトとはあまり縁がない作者もおりますが参考までに掲載します。
 

輪袈裟作(ワゲササク:今仲春助 新四郎)
本名は新四郎。元々は禅寺の坊主だったのですが、元禄年間に大阪で陶器を業として今仲春助と名乗り、古銭も鋳写しをして贋造したといいます。その作品は唐鏡を鋳潰して作成したため、青みの多い作銭が多かったといいます。前歴の影響で創作的な絵銭も多かったようで、絵銭界でも贋作者として挙げられていますが、これほど古い絵銭作者なら贋作扱いにしなくても良いような気がするのですが、今も名が残るのはやはり当時における害毒が大きかったのでしょう。昭和泉譜によると古銭だけでなく古書、古筆、土器まであらゆるもののコピー作品の名人だったようです。絵銭は信仰的な銭文のものが多く、十三体仏の多くは輪袈裟作と言われています。
※貨幣誌に新四郎が富山候(2代藩主 前田正甫)の命により、贋作品を納めたような記述があります。富山候は参考品と知った上で楽しんだような記述もありますので製作に悪意はなかったのかもしれません。なお、富山候は元禄年間では最強の古銭コレクターであり、もっとも初期の古銭書、化蝶類苑の著者でもあります。

谷川作(タガワサク:和泉屋与右衛門 西田与右衛門 西田遠順)
和泉屋 西田与右衛門は元禄年間に泉州(大阪)の絵銭作者。銅銭で青錆を上手につけたといいます。分厚く濶縁ですが細郭になる傾向があり、できはいま一つ。後に剃髪して一時期西田遠順と名乗ったこともあるようです。創作銭文がほとんどのようです。
(なお、昭和泉譜と絵銭の相場、日本古銭贋造史ではタガワというルビが振ってりますが、古銭語事典ではヤガワになっています。現在の地名はタニガワで地図を見ると大阪府泉南郡多奈川谷川となっていますので、古名はタガワに軍配が上がりそうです。


東條作(東條屋徳右衛門)
元禄年間頃、大阪小谷の作銭家で収集家を相手に暗躍。紫褐色の銅色の鋳写銭が多く出来は悪い。中には黄色い作もあったようです。

舛伊作(マスイサク:舛屋伊佐衛門)
元禄年間に出た直しもの(改造作の意味か?)の名人。スタリキ(腐食技術)も使用したらしい。昭和泉譜に掲載あるものの詳細不明。薄肉でそこそこの作銭だったようです。古色をつける細工人であったのでは?
スタリキとは金属腐食技術を用いた加工法で、銅の表面を漆や蝋で覆い、腐食させる部分の皮膜を落としてから酸につけるもの。升伊の時代はくさらかし(腐らし)と呼ばれ古色をつけるために用いられたようですが、後に銅を直接溶かすような強い酸が手に入るようになると文字を描くための技術として用いられました。
※絵銭の相場では舛井にわざわざスサイとルビが記述されてます。真相は?

与市作(河内屋与市兵衛 与一)

元文以降、寛保年間に暗躍した大阪高津の住人にして元高津銭座職人らしい。複数の職人で組んで大規模な贋作を行ったらしく、寛永堂と古楽堂の接点にこの人物の後継者あたりがからんでいるような気がしてなりません。
真鍮質の贋作で本銭写しを行ったものと、銭譜(孔方鑑)の図をそのまま写したものなどがあります。本銭写しはかなり上作ですが、銭譜写しは書体が本銭とは異なるので判りやすいようです。
※本来の真鍮は銅・亜鉛合金のことですが、亜鉛は輸入品であり貴重だったと思われるため、ここでいう真鍮とは真鍮色の(黄色の強い)金属のことだと思います。

久八作(=名古屋作?:ブランセン指示?)
安政年間の名古屋の人と言われます。断定はできませんが名古屋作といわれる贋作者と同一ではないかと思われます。銀写しの名人で現存する古い銀絵銭は久八の作品が多いそうです。大正5年の大坂毎日新聞には久八は夫婦の贋造師であったと記載されています。(記事には近代銭を贋作したとありますが当時の近代銭は江戸期の古銭だと思われます。)贋作は明治期まで続いたので久八から名古屋作までにつながる贋作職人集団がいたのかもしれません。作品はデンマーク人収集家のブランセン(丁抹人)がさかんに購入(輸出)したとのこと。ブランセンはラムスデンのような贋作企画者ではないかとも思うのですが今のところ私には謎の人物です。

伝兵衛作(古銭屋伝兵衛)
文政時代から浅草にあった古銭商の3代目。安政以降の絵銭の作銭師。出来は悪いとされるが、それは絵銭中心だったからのようでもあります。黒褐色の肌で東北写しと呼ばれることもあり、最近は収集対象にもなっているようです。大黒銭を多数作ったようで伝兵衛大黒と呼ばれているそうです。薄利多売であったため、本来は贋作者と呼ばれるような人物ではなさそうで、日本古銭贋造史によるとによると双玉貨泉手の作者かもしれません。

積古齋作(文林堂 中川藤四郎 中川泉寿)
安政年間の京都の人。号を泉壽という。自著の泉譜(稀世泉譜)原品としてスタリキ、彫り直しなどあらゆる技術を駆使して金満家に売り込んだそうです。ただし、出来は良くなかった。

キホウ作(永井久二郎)
天保~弘化年間(1830~47年頃)岩手県軽米町に住んでいた砥ぎ師。彫り物の天才。若い頃は京都で塗り師の修行もしています。当時の古銭書(神寶古銭譜)に載っている図をそのまま模刻、鋳造したようですが、当時は木版の銭譜であったため本銭とは全く異なるものが出来上がったらしい。キホウとは本人の口癖、気保養(キホヨウ)からついたあだ名。

長八作(蒔絵師長八)
天保年間、江戸の蒔絵師。漆盛(漆による文字贋作)の名人。漆は欠けた陶器などの補修などに使用することはあるが、その技術を悪用して書体を変更したり、文字そのものを書き込んだりした。
※時代的作風的に次の文楼彫りの同一作者ではないかと考えられます。

文樓彫り

天保年間頃、符合銭流行の頃に、版元に対し古銭商達が対銭として存在するように宋銭を彫り直し捏造したものの総称。ただし、作者等は不明。江戸吉原の古泉家、大文字楼こと村田元成の没後、コレクションにこの贋作が多く含まれていたことからこの名が生まれたと伝えられます。 → 泉家・収集家覚書

定吉作(泉林堂 林定吉)
日本古銭贋造史には作風詳細不明、江戸後期の人ということで載っていますが、大正5年の大坂毎日新聞に大坂、南区鰻谷佐野屋橋に住む笹手銀和同の贋作者として紹介されています。
※銭幣館第2巻の中に天保銭形の万年通寶という記事があり、古老が語った話の中に林定吉の情報がありました。住所地は大坂の鰻谷の西の町という記述ですので、ほぼ間違いないと思われます。
泉林堂林定吉と名乗る古銭商であり、米穀商でもあったそうです。文盲ながら皇朝銭に詳しく、研究熱心。功績としては禾和同を泉界に発見してもたらした人物でもあるそうで没年は明治37、8年だそうです。萬年通寶発見のおりの会話が載せられているのですが、あまり品の良さそうな表現ではありません。(大阪弁のせいもありますが・・・)


九兵衛作(久兵衛作
江戸期の泉州堺の住人で根付師。贋作者というより絵銭で根付を作ったということか?根付大黒のことを古くから九兵衛大黒と呼ぶことから彼の作と伝えられている。


松花齋作(松花斎得城)
明治初期の贋作師。浅草蔵前で古銭商であったらしい。皇朝銭の摸作が多く、硫黄であぶり古色を出し精巧作が多い。明治初期の古銭会の開催主に松花斎 得城の名前が見えます。絵銭でよく見かける書体の弱々しい肉厚(面子銭)の神功開寶は彼の作。

広島作
作者不詳。明治初頭に、広島方面を中心に出現。絵銭図案を真似て少し大型にした新作のものが多くあるものの古色がありません。背がきっちりできています。


新兵衛作(王老庵 小林新兵衛)
明治初頭の古銭商。東京の月旦古泉会所属。和洋問わず作銭したようですが絵銭がもっとも多い。硫酸にて青錆をつけたといいますが出来は悪いそうです。贋作者としては新作絵銭作家といったところでしょうか?

常吉作(小林常吉)
明治期の人。新兵衛の子供にあたり作銭を家業として引き継いだようです。新兵衛より作はうまかったといいます。

川口作
明治以降。奥羽辺りに出現。川口の八体仏などの摸作が中心のようですが出来は悪い。

奥村作
明治末期に神戸湊川神社門前で売られていた作銭を誰彼と無く奥村作と呼びました。浅間銭、穴一銭などの厚肉の大型絵銭が多く、赤黒い銅色が特徴。それなりに魅力的でネットでも見栄えがするので絵銭コレクターは要注意です。
大正期の古銭家、下間寅之助は、その著書で奥村某とし、京都の人としています。

柳津もの(ヤナイズもの:=一ノ関作?)

大正時代以降。柳津は福島県の会津柳津のことで、この地にある柳津温泉に遊ぶ酔客相手に土産物として売られた絵銭です。したがって贋作ではなくお土産ものといった方が良いかもしれません。製造されたのは岩手県一関あたり・・・という説もあり、東北出であることは間違いないところです。(日本古銭贋造史にある一ノ関作はあるいは柳津と同一か?)
石膏で鋳型を作って竹針で絵柄や文字を加える手法が多用されていて、寛永通寶の面や背に
恵比寿や大黒が浮き彫りになった大型絵銭は柳津で間違いないようです。

辰五郎天保
南部大迫外川目座の吹屋棟梁、辰五郎が同銭座が火災焼失中に栗林座に客分として遊んだときに、戯作で天保銭を作成しました。これを辰五郎天保といいます。本物の鋳銭工の作品なので精巧な作ですが鉄の天保銭なので迷うことはないでしょう。口伝も残っていてこれには収集対象品としての価値が発生していますが、この伝承自体も売らんがための眉唾ものかもしれません。
(後述:鎮目哲二氏の項参照)


小田部作(小田部市郎:静雅堂)
空想貨幣作者では伝説の人。大正期に東京都本郷区向ヶ丘弥生町に住んだ静雅堂と名乗る鋳物師で、元々は茨城県真壁郡田村の助役だったそうです。彼はたしかに贋作師の一面もあったのですが、実際にはすぐれたアイデアを持つ創作貨幣鋳造師であった・・・というべきかもしれません。代表作の台場通寶は歴史を良く調べて創作していて、当時の新聞などにも紹介されるほどの作品となりました。主な販売地は夜店の露店でしたのでもっぱら大型の空想貨幣が中心で天保銭型の絵銭はかなりの種類が存在します。制作は真鍮質で青みがかったものが多いようですが絵銭には鉄写もあり、陰陽銭や三猿庚申は注意が必です。初期の作品は数が少なく、小田部作からの写しや小田部風作品もかなり存在します。彼が贋作者といわれる所以は、自ら伝承の文献や古銭番付のようなものを贋作して詐欺的に価値を吹聴し作銭を販売したからだと思います。
参考サイト

植村作
岩手県九戸郡上舘村の鋳物師の植村某(氏名不詳)が、盛岡市紺屋町の面師、植岸金弥に依頼して絵銭の木型を作らせ、鉄の絵銭を鋳造しました。コピー商品であるため本銭と図柄に微妙な差異があるといいます。

岩屋堂作
明治期以降の贋作。江戸期に生まれで奥州江刺郡岩屋堂の人らしい。大福二神銭の摸作。まあまあの出来。

藤島作、天王寺作
明治期以降の模造銭作者ですが詳細は不明。昭和泉譜に名前が見えます。

幻の贋作師 青木木米(アオキモクベイ)
木米が古銭の贋作に手を染めているとは、収集誌の記事を読むまでは知りませんでした。青木木米は明和~文政、天保期の京都の人(1767~1833年)で、陶磁器界ではその名を知らぬもののないほどの巨匠です。奥田頴川に師事し同時代の陶工としては永楽保全、仁阿弥道八と並び称されています。京焼の陶工として知られていますが、文人画家でもあり、加賀藩に招かれて九谷焼再興に(加賀木米)に手を貸したこともあったようです。晩年は聴覚に障害を持ち聾米と名乗ったとも伝えられます。
彼がどのような古銭を贋作したのは定かでありませんが、特定されれば贋作としては超珍品に属すものとなるでしょう。評価も計り知れませんね。
(収集2007年2月号の記事等から引用)

近代の贋作者(各種資料から)
鎮目哲二氏 明治末、芝の古銭研究者。好奇心から鉄銭の贋造銭を鋳造。鉄の天保や文久永寶などをつくった。(銭幣館4号)
※東北密鋳とされる鉄銭(辰五郎作を含む)は彼の贋作が多いかもしれない。

松平勇氏
 皆空庵と称した。古銭収集家であり、本業は写真家。薬品で文字を削ったあとを腐食させる技術(スタリキ)は写真業ならではの技術か?無紋天保などを古泉家に売却した記録がある。(銭幣館4号:平成17年貨幣49巻6号)

T氏 明治期銀貨の年号の彫り直しや丁銀のほか天保型万年通寶彫母、十字寛彫母の贋作なども手がけたと噂される。こだわりの贋作者であり、対象を厳選したという。(銭幣館4号)
※この人は塚本豊次郎氏あるいは後述するSE氏かもしれません。2人とも造幣局に勤めていた経緯があり、名前や泉号のいずれかにイニシャルTが含まれ、銭幣館の記述に符合するからです。

Y氏 真鍮天保や文久貨泉などを贋作。好き者をだます愉快犯的な一面もあったようです。(銭幣館4号)
※牟田弥平氏の可能性が極めて高い。九州出来と呼ばれる筑前通寶、福岡離郭濶縁もこの人の作か?平成17年貨幣49巻3号に牟田氏が歯科技工士で古金銀を金属として購入しているうちにブローカーになった旨の記事有り。同一人物か?

M氏 M氏は岩手県勧業場(工業試験場)の技官で、Ⅰ氏とともに新渡戸仙岳に協力した盛岡銅山の陶笵銭の製作者ですが、後に盛岡の某古銭収集家、彫金師と協力して昭和10年頃にいわゆる背モ寛永と呼ばれる贋作を作ったとされます。(盛岡銅山陶笵銭は新渡戸が贋作として広めるためつくったのではないことは、この後の記事を読めば分かると思います。)なお、M氏はあくまでも職人であり、裏で糸を引いていたという盛岡の某古銭収集家が一番怪しいですね。(日本古銭贋造史)Ⅰ氏 砂子沢 M氏 宮寿

Ⅰ氏 岩手県勧業場(工業試験場)の技官。盛岡銅山のいわゆる2期銭はM氏以前にⅠ氏が製作しています。ただし、これは贋作を意識して打喰ったわけではありませんので、Ⅰ氏は贋作師とは言えないのですけど、このレプリカたる2期銭が本物として悪意を持ってばらまかれたことにより、新渡戸とともに贋作者とされてしまいました。

S氏 天保銭分類など近世の古泉界発展に尽くしたずばぬけた功労者ながら、幕末の地方の試鋳貨などを精巧に贋作していたという記事が残っています。今は伏字ですが後世に名を残すべき贋作者は彼が一番です。(月刊天保銭)
また、福西との親交もあったような記事(平成16年貨幣48巻6号)もあります。
佐野英山氏

O氏 近代銭から穴銭まで幅広く贋造。銀の打製品の品が得意で、打製銀永楽や逆打ち南鐐などに上作がある。やすりなども当時のものを再現して使用したので鑑定は難しい。(銭幣館4号)飾り職人で彫金の技法を駆使して金銀贋作に手を染めていたとの噂が・・・。穴銭の収集でも有名で、寛永銭の超珍品を収集界に発表し、協会に寄贈までしたのですがそれも贋作じゃないかというレッテルを貼られてしまったようです。(某氏談)なお、O氏は戦前に大井の貴金属店の家に生まれています。また、それが縁なのか加賀千代の下請けをしていたという記事も見られます。(平成16年貨幣48巻6号)後に千葉県に移住。住所は私の家のすぐ近隣です。(大島延泉)

冨田作 冨田は銀座にあった菓子金型製造業者。それが古金銀の贋造に手を染めた。正型抜き。ボナンザ1974年5月号に堂々と広告を出しています。銀座古銭堂 冨田幸次 東京都荒川区東日暮里5-11-4 古銭複製品約200種あり ・・・慶長大判1100円 4匁6分銀判500円 皇朝十二銭一組5000円・・・庄内一分銀の贋作も大量製造したかもしれない。

下田刻印の贋作者 複数いるようで川崎のS氏やHM氏の名前が平成17年貨幣49巻4号にあります。杉浦、星野政男

古泉家のなかには新人をからかう悪戯者もいたようですが、お金がからめばこれは立派な犯罪です。また、ニセモノと知っていて高値で売る行為そのものも犯罪だと思います。
真贋のあいまいなものをを多く扱い、それで生計をたてなければならない古銭商は本来正直者であるべきなのですが、残念ながらみな山師の一面があり、贋物であってもきちんとした表示をしないで売買する方々が後を立ちません。
古銭商さえも騙される贋作が多いのは事実で、贋作と知らずに気の毒にも購入してしまった古銭商が転売して窮地を切り抜けるのは、善悪はともかく気持ちが分からなくもありませんが・・・。
ただ、贋作製造に直接かかわっていなくとも、流通に加担すればそれは同じ罪だと思うのは私だけでしょうか?この業界には『騙されるほうが悪い』と言う風潮が未だにあるのです。
昔、ある著名人が『目利きが骨董品と言えば、最近作られたものでも骨董品である。』と、テレビで言い切っていたのに驚きと怒りを覚えました。目利き人は贋作を正品にしてはいけません。目利きには責任があります。
商売は信じる者と書くからこそ儲かるのです。偽はけっして人の為ではないはずなのですが・・・。

上:伝牟田弥平作 土佐官券二匁
左上:伝ブランセン作 土佐通寶二百
左下:SE作 海南之券(縮小画像)

※SE氏のおかげで海南之券は主だった銭譜から軒並み姿を消すことになりました。ただし、本物も必ず存在すると思われます。彼は本物をもとにコピー贋作を繰り返したのです。
あるとき彼が超珍品の銭貨を大コレクターに納品したあと、同じ品を大川氏にも納品している・・・という記事を読んだことがあります。当然ながら、筆者はそれを疑っていたと思われます。泉界では有名な出来事だったようです。
郷土史家 新渡戸仙岳 とその事件
新渡戸仙岳は安政5年、盛岡に生まれた郷土史研究家にして書家、教育者としても高名な方で、後に岩手日報の編集者にもなっているそうです。号は非仏。盛岡高等小学校の校長だったときの教え子として、石川啄木や金田一京助などの著名人がいます。石川啄木との交流は深く、啄木が上京したあとも何度も書簡のやりとり行っていました。そういう意味でも新渡戸は啄木の作品少なからぬ影響を与えていた恩師でもありました。新渡戸の郷土史家としての好奇心は、幕末における盛岡藩の鋳銭事業にも及びました。
その結果、地元の新聞『巌手公論』に掲載した随筆『破草履』の中で、約20回に渡って『岩手における鋳銭』と称する連載を行っています。新渡戸はそのときに入手した盛岡銅山の原母銭(あるいは錫母銭)を用いて、人に頼み盛岡銅山を鋳造しています。盛岡銅山2期銭、3期銭と呼ばれるもので、2期銭は滑らかな赤い肌で俗に陶笵銭と呼ばれています。
模造銭については郷土の関係者に(無償に近い価格で)配布したようなのですが、結果的にこの行為が彼が贋作者であるという噂を決定付けるものになってしまいました。
新渡戸の身の潔白について、練馬雑銭の会の暴々鶏氏は以下のように記述しています。(以下、引用)
新渡戸仙岳は古銭界から一方的に悪者にされた時期があります。盛岡銅山銭の母銭(ニ期銭)と通用銭(三期銭)を摸鋳させ、安価で配布させた経緯は本人が言ったとおりですが、あくまで参考資料の位置付けでした。値段も、現在の価格では千円程度になるようです。
大正時代に、東京で盛岡の骨董商がニ期、三期銭を紹介していますが、この時もあくまで「こういう意匠のもの」という扱いだったのに(旧「貨幣」誌に記録有り)、間もなく現品として売られるようになったようです。
おそらく東京の骨董商の画策によるものだと思いますが、この時「岩手に於ける鋳銭」の記述が利用されたので、中央では新渡戸を犯人として決め付けました。

有名な古銭家が盛岡に赴き、「贋作を追究」しようと試みた時、新渡戸は一切会おうとしませんでしたが、当たり前の話です。
他人がやったことを「オマエのせいだ」とする、まさに言い掛かりのような話です。
都合の悪いことに、新渡戸が亡くなった後、地元の後進の史学者が「晩年に、生活苦から古銭を作って売ったこともあったようだ」と憶測文を書いたおかげで、古銭界側では状況証拠が確立されたような扱いとなっています(「仙岳随談」の冒頭追悼文)。
地元を含め、業者の立場からは、犯人を新渡戸に帰するのは都合がよいので訂正されることはなかったのですが、それは事実関係とはかけ離れています。(ちょっと聞きにくかったのですが、ご家族に直接尋ねました。)中央の古銭界では、南部の当百銭について、自身では全く調べずに地方の文献をそのまま転写し、自身の名前をつけた人がおり、「当時の収集家は新渡戸に一杯食わされたようである」などと書いていますが、全く持って腹立たしい限りです。
練馬雑銭の会HPより
新渡戸が遺した資料は南部藩の文書や、藩政期当事者から聞き書きした記録ですが、これらを元に南部藩史が書かれているといっても過言ではありません。鋳銭に関しては、当時としては犯罪行為に該当するため、当事者は核心をぼやかすのは当たり前で、とりわけ「誰が」については嘘を言ったはずです。この点、口述筆記については「相手が言った通りを記述」し、絶対に解釈を加えてはならないののが鉄則です。このため、記録の内容には実態と違った点が必ず残ります。
そういう点についても「新渡戸の記述には間違いがある」と言う人がいますが、そういう見方こそ横着で短絡的だと思います。
(平成19年11月13日 練馬雑銭の会 No944 梁川天保に関する補足 より)
新渡戸氏が悪意のない方であったことは容易に想像できます。新渡戸氏はあくまでも作家であり、郷土史の探訪者であって、純粋な古銭研究家ではなかったためがゆえ、自分の行為が当時の古銭界に大きな反響を及ぼすことはほとんど考えなかったのかもしれません。情報の少ない時代でしたので誤解も多分にあったと思われます。誤算は自分の味方になるはずの地元の研究仲間がご都合主義なのか新渡戸擁護をしなかったことでしょうか?(むしろ足を引っ張る論述が見られます。)南部貨幣史の作者の水原氏は大正7年12月の貨幣第3号において陶笵銭についての品評(なぜか中途半端)をしています。
新渡戸自身もその行為についてはあまり語らなかったようで、そのことが憶測が憶測を生む結果になってしまったようです。昭和16年に田野氏が疑義に関する寄稿をし、それを受けて田中啓文氏が新渡戸氏を非難する記事を貨幣誌に寄稿したため、新渡戸=贋作者説が決定付けられてしまったようです。

新渡戸氏に関する件(追加報告:暴々鶏氏)

◎「破草鞋」と「岩手に於ける鋳銭」
若干推定の部分もありますが、
盛岡銅山銭の摸鋳は明治末で、栗林の銭座鋳銭職人からの聞き書きを元に、岩手日日新聞に最初の連載を行った後、検証のために行ったようです。何度か書き直しが行われていますが、「破草鞋」として岩手公論紙に連載したのが大正二、三年頃になります。
「摸鋳銭の鋳造後に『破草鞋』を書いた」と憶測した古銭家がいますが、新渡戸犯人説を唱えるための言い掛かりです。(根拠が無く調べてもいない)「破草鞋」とは標題のとおり草鞋が擦り切れるほど各地を歩いて知り得た知識を記したもので、岩手の郷土史全般に関する内容です。新渡戸にとっては、鋳銭事情は自身の関心のある郷土史の「ほんの一部」に過ぎません。

旧「貨幣」誌に載ったのが大正7年ごろ(記憶不確か)で、古銭界で問題とされたのが大正末から昭和13年ごろまで。
その間、昭和9年に
「岩手に於ける鋳銭」の最終稿が書かれています。昭和9年の「岩手に於ける鋳銭」は見事な作で、岩手県内の鋳銭事情が体系的にわかりますが、これは古銭界では全く読まれていません。

この著作では当百銭や絵銭について、各銭座における鋳造の経緯全般が記されています。主要な銭種については、現存銭の状況と一致しますので、分類もこれを基準とすれば事足ります。しかし、
新渡戸本人が「信頼性に劣る」と見なし、同著には収録しなかった「盛岡藩造貨」、「簗川天保銭に就きて」、「鋳銭記」等のメモ書きのほうが好事家には好まれるようです。

◎摸鋳銅山銭(ニ期、三期銭)の鋳造
摸鋳銅山銭の鋳銭場は岩手勧業場(後の県立工業試験場)とM・I氏個人で、このうちM・I氏とは勧業場勤務の〇〇〇という人です。

新渡戸は岩手の郷土史全般については詳しかったわけですが、貨幣の具体的な製造法には若干疎く(理工系の話なので)、また古銭の収集家でもありませんでした。
単に
母銭から通用銭を作る工程を、「ニ期銭」、「三期銭」と分けて表現したのは、要するに「慣れていなかったから」ということです。原典をよく読めば、ニ期銭が銅母銭、三期銭が通用銭だということがわかりますが、ほとんどの収集家は資料の精読はせず、結論的に付与される分類名と現品のみを求めます。

また
摸鋳は新渡戸1人が企画したわけではなく、南部鉄瓶などの鋳造技術を研究するための一環の作業の中の1つで、勧業場では技術畑の人と史学の研究者が合同で摸鋳を行っています。銅山銭だけでなく、鉄瓶類も鋳造実験を行ったものと考えられますが、南部鉄瓶の技術については明治30年代以降、勧業場を中心に研究が積み上げられ、この時期に名品が数々作られました。

新渡戸等に贋作の意識が全く無かったのは、その後、特に隠しもせず自宅の囲炉裏で銭に焼きを入れていたのと(実際に見た人が複数)、地元の人に只同然で配布していたことで明らかです。現物が希少で実際に見られないという状況下にあったことから、「見本」が必要だったということだろうと考えられます。研究のために行ったことを、古銭家にゼニカネ絡みの下世話な勘繰りをされたのでは腹を立てて当たり前です。

新渡戸の収集史料は後の森嘉平衛らによる南部史研究の基盤になっており、金が必要なら古文書の一部を売却すれば済む話です。世俗的な欲を持たず贅沢を好まない研究者肌だったのが、逆に災いしたのかもしれません。この辺は甚だぶしつけながら、ご家族に直接確認させて頂きました。

◎古銭界での扱い
摸鋳銭を東京に持っていったのは、若き日の〇〇〇〇〇で、岩手を出る時には見本として持参し、実際、貨幣協会でも「このようなもの」と紹介したはずですが、旧「貨幣」の記述では「新渡戸仙岳氏の書いた破草鞋の銅山銭」となっています。〇〇氏自身、「(摸鋳銭は)地元に現品が少ないため、見本として作られた」と言ったり、書いたりしていますので、その扱いが変わったのは東京で、ということです。
水原庄太郎氏だと思われます。
※暴々鶏氏により、新渡戸氏は全く悪意のない純粋な郷土史郷土史家だったことが判明しました。大正期から昭和にかけての新渡戸贋造説は一部の古銭家による(模造銭を売らんがための?)作為の結果だと思われます。
古銭収集家ではない郷土歴史研究家が、営利を目的とするものたちによって贋造首謀者とされてしまうとはまことに気の毒な限りです。
今一度、新渡戸氏の復権を願う限りです。

結論! 新渡戸仙岳は贋作者では断じてありません!
 
浜の真砂は尽きるとも 世に贋作の種はつきまじ・・・

古銭趣味がある程度進化すると、ただ集めるから目利きを楽しむ段階に至ります。
私もお店での掘り出しを無上の楽しみにしていますが、紳士ですからたとえ鑑定の誤りや値段のつけ間違いを見つけたとしても、けっしてその場でお店のご主人のご機嫌を損ねるような無粋な指摘はしません。晴れて売買交渉が成立した後に一人ほくそ笑み、万歳したい気持ちをぐっとこらえて、大急ぎで家に戻ってからようやく大騒ぎをします・・・紳士ですから。
ある有名な古銭収集家もこれぞという品を見つけたときには、自分から絶対値段をつけず、そっと相手に『これいくら』と聞くだけだそうで、間違ってもその品をその場ではほめないそうです。

目利きを楽しむ目的がある限り、古泉家に人の良さばかりを期待してはいけないかもしれません。(もちろん誠実で正直な人はたくさんいます。)
古銭を古泉と変換表記するのはそのようにして『銭を集める行為』に対して、いくばくかの卑下と心理的抵抗感があるからかもしれません。名のある贋作者もたいてい古銭収集家であり研究者なので、その心理や行動原理も収集家心理の延長線上にあると思います。

と、言うわけで贋作をはじめた動機は概ね以下のようなものでしょう。
『自分の研究成果を生かし、古銭を模作してみたい。』
(求道者タイプ)
『新発見の品を発表して注目を浴びたい。』
(目立ちたがり屋タイプ)
『他人の目利きを試して反応をみたい。』
(悪戯者タイプ)
『あわよくばお金が欲しい。』
(俗物タイプ)

冒頭に挙げた寛永堂やラムスデン、福西などの贋作者は上のすべての要素を持っています。したがって精巧であることに加え害の大きさも比類ないものとなっています。このあたり数年前に考古学の遺跡発掘の第一人者が捏造していたという事件につながるものがあると思います。

贋作者を擁護するわけではありませんが、その言い分は概ねこんなところでしょう。
『研究、再現が目的であって、利益を得るのが目的ではない。』
『ブローカーにだまされた。私は被害者だ。』
『完全な写しではなく、オリジナル性のある芸術作品である。』
『廃貨のイミテーションを作り、お土産として売るのがなぜ悪い。』
『買う方が勝手に本物と思い込んだだけだ。私は本物とは言っていない。』
『純粋なおみやげ、メダルです。』

古金銀以外の有名な贋作者は皆『絵銭贋作者』として名前が残っています。
天保銭は明治24年まで、寛永銅銭や文久銭にいたっては昭和28年まで通貨扱いでしたので贋作側もそれなりに配慮したのでしょう。万一、発覚しても絵銭だといって言い逃れする・・・そんな気持ちが読み取れますね。販売する際も『本物保証』だと言わず、『こんな珍しいもの手に入ったよ』・・・と言うのが上策。値段は買い手が勝手に決めてくれます。
犯罪性の強い贋作は少し時代の新しいものに多く、中でも実際の古銭を変造して珍品に仕立て上げる例は、目的、内容から見てもかなり悪質です。
また、古泉家が関与してイミテーションを珍品だと偽って市場にばら撒く例もあります。有名な例は『朝鮮天保事件』であり、最近の『グリコ天保』もまた然り、悪意がプンプン匂います。この世界、まさに海千山千がうごめく世界なのです。

わたる泉界は鬼ばかり!・・・ご注意下さい。
 
朝鮮天保
昭和35、6年に出現し昭和37年7月の貨幣誌に記事掲載されたもので、紹介者は古泉界で知らぬ人の無いほど超有名なA氏。記事中に文久銭の大家の名前が出たりしながらやや大袈裟な表現が続きます。出現地は都内下町の古銭商で、これがなぜ朝鮮天保なのかはやや強引な推測説明。上記の方々が流布にかかわったとは思いたくないのですが、文中表現がとても不自然で・・・。有名な方々が紹介すれば皆が信じ買い求めるのは必至のこと。流布させた側の罪も問われる事件です。
(貨幣 第6巻 第4号より)

※この事件には私の知らないおまけがありました。この銭の原型になった母銭が存在し、その真贋についてはまだ不明なのだとか。
→ 結局は加賀千代作で間違いありませんでした。
※実際に見ましたが私の印象は近代銭です。
呑泉こと安達岸生氏
 
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仙人の推論では新貨交換を目的としてつくった贋金ではないかとのこと。なるほどそういう贋作もありなのですね・・・。