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ひみつ
譲ってください♡! 

天保銭 1977年~ 編集・発行 天保通寶研究会(天保堂:瓜生有伸)
11号、31~35号、60号以降
状態不問(記事が読めればOK) 1冊800円以上で購入します!

月刊 収集 書信館出版(株)
1979年 10月
1981年  8月
状態不問(記事が読めればOK) 1冊600円以上で購入します!

   
以下は収集誌に掲載されている記事からの転載(勝手な応援記事)です。
例会日や会場に変更がある場合もございますので事前にご確認ください!

八厘会(天保仙人が主催する古銭会)
天保通寶の研究を中心に、各種泉談が満載の会です。
例会日:原則として8月・12月を除く毎月第4土曜日
時間 :14:00~
会場 :新橋駅前ビル1号館9F会議室
会費 :500円(高校生以下無料)
電話 :090-4173-7728(事務局)
 
Google
WWW を検索 このサイトを検索
※このHPにはプログラムが組みこんであります。害のないものですがブラウザやセキュリティソフトによってはエラーが現れるかもしれません。不具合が頻発するようでしたら、ご連絡ください。
1.最新の情報が表示がされるように過去に蓄積したキャッシュデータを読み込まないようにプログラムしてあります。(制作日記・更新履歴)
その分、読み込み反応速度が遅くなりますが、ご容赦ください。
2.来訪者分析ツールを各ページに組み込んであります。いつ誰がどこから来て、通算で何回目の来訪か等の記録がされて行きます。
(NINJA ANALYZEの表示があります。)

一般銀行からゆうちょ銀行に振り込む方法

例えば (記号)12345 (番号)1235678 という番号だったら・・・・

①(記号)の先頭の数字に着目 1 または 0 のはずです。  → (記号)2345
②1なら●●8 0なら●●9 が支店番号になります。 → ●●
③(記号)の上から2桁・3桁目に着目 例の場合は → (記号)12345
④上の数字を●●に入れます。 → 238 これが支店名です。(にいさんはち)
⑤口座番号の末尾の数字を無視します。 → 1234567 これが口座番号。
⑥機械で振り込む場合、支店名の数字をひらがなに直す。たとえば018支店はゼロイチハチと読みます。
  パソコン検索もできます。
 
貨幣そうだ!「貨幣」を読もう!
貨幣誌は戦前の東洋貨幣協会時代から続く、現存する最も古く、かつ権威ある貨幣収集愛好家団体です。貨幣収集趣味が衰退している昨今、生で勉強できる貴重な研究会場であるとともに、情報収集することもできる交流の場でもあると思います。かくいう私、会費は払ったものの、例会には参加したこともなく、果たして正式会員であるかどうかも分からない幽霊です。まあ、今でもこの情報誌が送られてくるから会員なんでしょうね。
日本の貨幣収集界が底辺を広げてもっと盛り上がってもらいたいので、その気のある方、私のように地方在住で仕事の関係で参加できない方も、情報収集アイテムとしてご参加・ご活用ください。
入会申し込み先
〒164-0001 東京都中野区中野5-52-15 2F251
日本貨幣協会事務局 野崎茂雄(野崎コイン) ☎03-3389-5958
郵便振替00110-0-8563 日本貨幣協会 

※年会費は5000円だったと思います。この記事は勝手な応援広告なので必ずお問い合わせください。
 
コインコレクターのホームページのがお届けする、最強?クラスの検定!
一分銀検定登場!!(私には歯が立ちません。一問目でGIVEUPでした。)


 
 メール
ヤマサ醤油 特約看板 約90×60cm
 状態やや良好(やや薄く軽め) 
ミツカン酢 特約看板 約90×60cm
 状態かなり良好(やや軽い材質)
仁勇(鍋店酒造) 特約看板 約90×60cm
 状態かなり良好(非常に重い:わずかに反りあり)
四方春(野田醤油:キッコーマン)特約看板
 約70×50cm 状態非常に良好(非常に重い)
アサヒビール木箱の蓋  40×27cm
 薄手の杉板
鉄腕アトム弁当箱 13×9cm
 50年ぐらい前のものにしてはきれいです。 
 
 
日本貨幣協会創立60周年記念大会のご案内

日時   平成29年4月15日(土)13時開催(受付開始12時)
            16日(日)午前(日本貨幣博物館見学)
会場   ホテルハイアットリージェンシー東京
     東京都新宿区西新宿2-7-2 ☎03-3348-1234
会費   宿泊込 38,000円(懇親会・宿泊)
     宿泊無 18,000円(懇親会) ボイスオークション有
記念泉譜 5,000円程度を予定(拓本参加歓迎)
展示会  愛蔵品の展示を行います。当日ご持参ください。
講演   竹内俊夫様(銀座コイン会長)
問合せ  〒164-0001
     東京都中野区中野5-52-15
     ブロードウェイセンター2F 251号
     日本貨幣協会事務局 野崎茂雄
     ☎03-3389-5958 FAX03-3389-5959
締切   平成29年2月10日


詳細資料 → ここからダウンロードできます!
 
No. 大分類 中分類 小分類 外径 面内径 背内径 重量 備考
1 手本錢 異永 短尾寛 25.5 20.2-3 18.8 4.5 -
2 手本錢 異永 降二寛 25.3 20.4 18.4-8 4.8 平成泉譜978
3 手本錢 奇永 垂寛 25.4 19.7-9 18.6 4.3 -
4 手本錢 奇永 縮寶 25.3 19.5 17.6 3.3 永尾に鋳切れ
5 手本錢 奇永 縮寶 25.3 19.3-19.6 17.6 3.3 永尾に鋳切れ
6 手本錢 奇永 俯寛濶縁 25.3 19.3 17.2-5 3.2 -
7 手本錢 奇永 半玉寶 25.3 19.9 17.9 4.2 -
8 手本錢 奇永 半玉寶 25.1 19.8 18.1 3.1 -
9 手本錢 奇永 半玉寶濶縁 25.3 19.5 18.5 3.6 -
10 手本錢 奇永 俯寛 25.2 19.9 18.5-7 3.6 -
11 手本錢 奇永 小様 24.6 19.6 17.6 3.1 -
12 手本錢 奇永 小様 24.6 19.6 17.3 3.7 -
13 手本錢 裕字 背小郭 25.0-1 20.3-5 19.3 4.2 -
14 手本錢 裕字 - 25.2 20.0 18.5 3.4 -
15 手本錢 裕字 尖足寛凹点永 25.2 20.4 19.1-2 3.7 -
16 初鋳銭 裕字 異頭通様 24.8 19.9 18.7 3.8 -
17 手本錢 麗書 削字 25.7 20.1-2 18.7 4.6 -
18 手本錢 麗書 長足寶濶縁 25.5 20.0 18.1 4.4 -
19 手本錢 麗書 長足寶 25.5 19.4 18.1-4 4.5 -
20 手本錢 麗書 浅冠寶 25.2 19.8-20.3 18.8 3.7 -
21 手本錢 麗書 接郭寶 25.1 20.1 17.1 3.9 -
22 手本錢 勁文 離用通 25.6 20.3 19.2 3.7 -
23 手本錢 勁文 削字 25.3 20.2 17.9 4.4 -
24 手本錢 勁文 削字背濶縁 25.3 20.1-2 17.4-5 4.1 -
25 手本錢 勁文 削字 24.9 20.3 18.7 4.0 -
26 手本錢 勁文 小通 25.0 20.1-2 19.1 4.4 あるいは初鋳?
27 手本錢 俯永様 - 25.0-1 20.7 19.4 4.0 -
28 手本錢 俯永様 縮通 25.4 20.8-21.1 18.4-7 4.3 半仕上げ
29 初鋳銭 俯永様 - 24.8 20.0-1 19.0 4.3 手本錢通用
30 手本錢 太細様 跳尾永 25.2 20.2 18.2 3.5 古寛永拓影集
31 初鋳銭 太細様 - 24.7 20.0-1 17.7 3.8 大様通用銭
12月31日 【手本銭:計測結果】
手持ちの手本錢類を改めて計測しました。ノギスはプラスチック製のデジタル・0.1㎜刻みのものを使用しましたので誤差があると思います。長門銭は削輪によって内径のゆがみがあります。傾向としては文字方向の径は大きくなります。したがって内径の値についてはあまり自信がありません。一方で外径は真円に近いものがあり、こちらの計測に誤差があるとすれば、ノギスの特性によるものだと思います。本当は金属ノギスを使用したかったのですが、時間の節約と古銭を傷つけたくない思いから最近はプラスチックノギスしか使用していませんのであしからず。なかには手本銭にまじって初鋳銭も入っています。手本銭の中には初鋳の通用銭も入っていたようで、手本銭通用という名で購入したものや、作りから見て手本銭とあまり遜色のないものです。一方で明らかに風貌は手本銭ながら24㎜半ばの大きさのものも存在します。たまたまかもしれませんが異永と麗書の手本銭は立派なものが多く含まれ、奇永は小さくて軽いものが多い気がします。もっとも私の場合は市場にある売れ残りの安物をせっせと集めていたにすぎず、世間一般で名品と言われるような珍品はほとんど手が出ない状況でした。ちょっと珍しいのは奇永垂寛と俯永縮通、太細様の手本銭ぐらいでしょうか?
奇永垂寛の手本錢はコイン即売会の会場で普通の奇永手本錢として9000円で購入しています。珍銭の上大きくて立派でご機嫌な買い物でしたが、好事魔多しとはよく言うものでその帰り道、道路に突然飛び出してきた幼児を危うく車でひきかけて肝を冷やしました。その日は輪十場替通下も雑銭価格で入手してご機嫌でしたが、その気分が吹っ飛んだ出来事でした。(→ 番外随想掘り出し物の記憶)長門錢は白銅色の色が好きでついつい拾ってしまいます。分類ももう一度やり直す必要がありそうです。

【仙人勉強会にて】
天保仙人様主催の勉強会にてのこと。出席者は侍古銭会のタジさんとヨネさん、そして鉄人です。鉄人が何気なく出品した本座長郭のゴザ目跡のあるものが、仙人様絶賛の品。本座の長郭は検品が厳しかったので、錯笵の類はかなり珍しいそうで、仙人様もその師匠筋も見たことがない隠れた珍品だそうです。知らなかった。また、盆回しに出た『不知長郭手』は削字著しい品。背の當上の刔輪や百の横引きの先端がぴんと跳ね上がる姿は可愛いです。格安どころかもってけ泥棒価格での分譲だったそうです。行きたかったなあ! 
 
12月30日 【手本銭について:追記と反省】
手本銭の記述に、九州の祥雲斎師からご指摘があり、改めて久泉研究資料を読み返し資料・実物とも見ずに感覚だけで対応していましたことを反省しています。
まず、長門手本銭は母銭というより原母銭としてとらえた方が良いようです。
久泉研究資料には”手本銭”とは別に”母銭”といういう名称が盛んに出てきます。大きさから言って25㎜前後が通用銭鋳造のための母銭サイズであり、手本銭はそれ以上のものが多いということ。もちろん手本錢挿しの中からも通用銭なども出てきていますから、分類については制作なども吟味されています。つまり、この手本錢を加工して文字抜けをよくしたものこそが母銭であるという結論のようです。
(手本銭挿しの中から出てきた通用銭と言われるものを保有していますが、輪側面の仕上げは手本銭仕上げそのものです。)
残念ながら私は長門銭のこれぞ母銭というものは持ち合わせておりません。古寛永に関しては通用銭の中の出来の良いものを何度も写したと言われていますので、厳密にいうとどれが原母銭、母銭という区分はないのかもしれませんが、25㎜をはるかに凌駕する銭容はやはり特別なものでしょう。
当然、手本銭を原母銭として使用するのなら摩耗するものも、使用感のあるものも出てくると思われます。この点は私以上に沢山の手本錢に接した方の意見の方が正しいと思います。(私は鋳砂をきれいに清掃した後の売り物しか見たことがありませんし・・・)
手持ちの手本銭を見ると文字抜けが今一つという印象が否定できません。これについては出荷段階で面砥ぎが強くかけられて、母銭として使用できないようにされたものなのか、それとも文字加工前なのかは現段階では結論は言えませんが、加工の手間暇のことを考えればやはり母銭加工をせずに砥ぎを強くされたものが手本銭と考えた方が無難な気がします。
ところで、長門の手本銭の地は墨で染まっていない印象でしたが、よくよく見れば薄いけど黒いものも多いようです。地染めは長崎の鋳銭記録によると、古墨と鯨油を混ぜて煮るとありましたから、これと同じような工程が長門でも行われたのではないでしょうか?
技術的にまだ確定していなかったので御蔵銭や文銭のような真っ黒な地染めができなかったものか、あるいは強い砥ぎの影響かしら?(母銭は強く砥がないので、地染めがよく残ります。)久泉研究資料⑤No.221には、”面背にうるし”という記述も見られます。漆を実際に使用したか否かはわかりませんが、それだけしっかりした地染めがされているのだと思います。
※改めて手持ちの手本銭を数えてみましたがざっと30枚ほどありました。良く買ったものです。老眼のため書体がよく見えなくなっていますし、いい加減な性格のため直径計測の数値記入さえしていません。もう一度精査が必要ですね。手本銭は25㎜以上ないとおかしいと思うのですけど、贋手本銭がたくさん出てきそうで怖いです。 
 
12月27日 【浄法寺山内写初鋳銭】
聞きかじった話ですが浄法寺天保銭には系統がいくつかあるようです。ひとつは浄法寺山内銭(私炉黙許銭)と呼ばれるもので、密鋳とされているものの事実上盛岡藩の差配下にあったもので、母銭なども融通されたと思われます。形の上では検挙されてもたいしたおとがめはなし・・・グルですから。それに続くのは独自に民間で密鋳されたもので、いわゆる浄法寺銭(盗鋳隠し炉銭)と言われるもの。
雑銭の会で聴きとったメモをまとめるとおおよそ以下の通りとなります。
①山内座   (変形桐極印)

②初期浄法寺銭(釘穴式極印)
③前期浄法寺銭(丸十型桐極印)
④後期浄法寺銭(穿内鋳放し)
⑤後期浄法寺銭(鋳放し)
④と⑤は母型が一緒のようですから、ことさら分ける必要はないかもしれません。ただ、⑤の後に昭和浄法寺銭というべき贋作銭もあるようですから、混乱を避ける意味で分けているのかもしれません。
銭として流通したと思われるのはせいぜい③までで、④以降は絵銭としてみるべきかも知れません。ある方に聞いた話では浄法寺地区にあるお寺の境内で売られていたとかいないとか。ただし、これはガセの可能性もあります。
地元のコレクターは寛永銭についても同じように分けることがあるようですけど、天保銭と違い極印がありませんので総合的な製作を見て大雑把に分けているような印象です。
さて、今回は雑銭の会の会長の工藤氏から山内座の正字写しを購入しました。山内座は浄法寺の中でも初期銭に該当しますので、きわめて丁寧なつくりということ。金質は練れの良い赤銅質で、ぶつぶつのない文政期の正字といった様相で、文政正字に勝るとも劣りません。工藤氏がお金を出しても買えないほど貴重だと断言したのは間違いない所で、抜けの良い正字の赤銅質密鋳は簡単には見つかりません。実はどうやらこれは平成15年末頃、雑銭の会がまだ練馬雑銭の会と称していたころに、公開盆回しに出品されたものに間違いありません。(奇品館No.25参照)当時の落札価格は11600円(初値は自由値)でしたので、あるいは設定最低落札価格に届かなかったのかもしれません。かくしてこいつは10年以上の時を経て私のところに転がり込んできました。
運命、あるいは執念と言いますか・・・病気ですかね? 
 
12月25日 【巨大仰寶母銭争奪記】
南部藩銭はときおりびっくりするほど巨大な母銭が出てきます。通常の仰寶母銭の直径は27㎜台後半。28㎜を超えれば大きい方で、29㎜を超えたものは特殊なものという印象です。私は29.2㎜の仰寶母銭を所持していますが、白銅質気味でかなりしっかりしたつくりです。まして29.9㎜、6.2gというサイズはもはや原母銭としか考えられないサイズです。仙台古泉会のH氏の所有品で最も大きかったものが29.5㎜でしたから、ほぼ国内最大様と言っても過言ではありません。
こんなものが年末のネットオークションにひょっこりと出てきたのですから大騒ぎ。12人の変質者が喰らいつき、そのうち私を含む6人が5万円を超える争奪戦を繰り広げました。仰寶母銭の市場価格はせいぜい12000円ぐらいですから、この価格は尋常ではない数値です。とはいえ29.9㎜のサイズは実に魅力的なのです。これを所有することは仰寶の日本チャンピオン所有者に君臨できるかもしれないというささやかな、しかし心地のよい妄想にいざなわれます。しかも本炉の練れた赤い銅質・・・これは間違いのない正当派の本格原母銭ではないでしょうか?
かくしてクリスマスに見放されたさみしい男たちの不毛の戦いが繰り広げられ、私はあっという間に戦意喪失まで追い込まれました。実は昨日の記事を書く際に、ひそかに最下段にこいつを載せるかもしれないぞ・・・と期待していたのでしたが・・・残念。手に取ってみたかった・・・私のクリスマスは終わりました。 
 
12月24日 【一年のまとめ】
今年一年の振り返りをしますと、主な入手品だけで以下の品々があります。
 1月18日 密鋳正字写改造母銭?
 1月29日 密鋳俯永写強砥仕上
 1月30日 不知細郭手覆輪刔輪連玉尓異極印
 2月 5日 
不知長郭手覆輪當上刔輪(不知天保通寶分類譜原品:1段目)
 2月10日 不知長郭手異極印背茣蓙目
 2月14日 
元文期伏見手破寛(四国K様からのプレゼント!)
 2月15日 不知長郭手覆輪断足寶(英泉天保通寶研究分類譜原品)
 2月19日 不知長郭手宏足寶縮字
 3月11日 
密鋳加護山繊字狭文様(母銭仕上げ:方泉處原品:2段目)
 4月 6日 
不知長郭手覆輪強刔輪曲足寶
 4月 6日 
不知細郭手強覆輪強刔輪長足寶
 4月14日 不知長郭手張足寶小様(不知天保通寶分類譜原品)
 4月20日 不知細郭手覆輪刔輪連玉尓
 4月23日 密鋳寛保期高津錢写
 5月 9日 文久直永手繊字浅冠寶
 6月11日 
不知長郭手覆輪異極印
 6月14日 萩藩銭進二天刔輪
 6月17日 
秋田藩銭小様(長径45.6㎜:英泉天保通寶研究分類譜原品)
 6月25日 細郭手張足寶
 7月 9日 
不知長郭手塞頭通(3段目)
 7月11日 薩摩広郭純白銅銭
 7月20日 密鋳踏潰正字写
 9月 1日 不知長郭手覆輪
 9月14日 密鋳加護山中字様(方泉處原品)
 9月14日 密鋳加護山亀戸狭穿様(方泉處原品)
10月 2日 不知長郭手天上刔輪異極印
11月17日 
不知長郭手覆輪刔輪反玉仰二貝寶
11月18日 密鋳加護山加島細字様
12月13日 
密鋳文久様正字手(方泉處原品:4段目)
12月24日 南部藩銭大字(初鋳)
今年はそんなに購入していないつもりでしたが、まあ良くも買ったこと。どおりで貯金が増えないわけですね。ダントツの横綱格は7月の不知長郭手塞頭通。例によってほぼ最低価格で入れていましたが、昨年の奇天手に続きあっさり落札。確信犯か?
次はぐっと落ちて12月の文久様正字手。そして4月の不知長郭手強覆輪強刔輪長足寶あたりが続きます。
文久様は長年悩んでいた品であり、正統派を一度入手したかったもの。白銅質で背の彫りが深くなるほどといったものでした。また、4月の細郭手強覆輪強刔輪長足寶はあまり見ないタイプのもの。同時に入手した長郭手覆輪強刔輪曲足寶は格安でしたからお買い得?
2月に四国のK様から無償で頂戴した伏見手破寛・・・ありがとうございました!
また、それなりの価格で購入したつもりの方泉處原品の加護山繊字狭文様は内径が大きく、穿内のやすり仕上げも明確で次鋳の母銭に使用されたものと推定できますので、安い買い物でした。その勢いで加護山錢写しを複数枚購入しましたが・・・高かった。方泉處の現品がおかげで増えましたが。6月の秋田小様(45.6㎜)は背は摩耗していますが、めったにないサイズなのでチャレンジし、あっさり落札。2月の長郭手當上刔輪は誰も手を出さないので購入させていただきましたが、本来はもっと称揚されても良い品でした。ごっつぁんです。見ての通り、購入品にはほとんど”不知”か”密鋳”がつく状況で、私の嗜好=病気が見えています。HPを作ることが優先であり、分類や研究は後回し・・・。HP中毒状態でしたので、読者の皆様には申し訳ありませんが毎日更新をやめました。中毒患者としてはつらいのですけど、結果的に生活は少し楽になりました。
その他の今年のできごととしては・・・3月に天保仙人から鉄人への土佐通寶の譲渡式に立ち会ったこと、仙人様との勉強会で侍古銭会の皆様方と知りあいになれたこと、祥雲斎様の研究協力のために文久永寶の直永所持品(ほとんどもらいもの)を送付したこと。(お役に立てたかしら?)あたりが古銭に関することではトピックスでしょう。
今年は籠山閣・菅原直登師、英泉・村上英太郎師が相次いで亡くなるなど古泉界にとって大きな痛手になっています。業界がなんとか隆興できないかと私ももう少し頑張りたいと思います。
余談ながら・・・今年は実家の両親を呼び寄せ、実家の後片付けを実行しました。まだ半分ほどしか片付いていませんが、倉庫を潰し、家財道具のごみを市の処分場まで何度も運んでいます。大変でしたが良い運動と経験でした。また、5年間日本語を教えたフィリピンの娘さんの結婚式に出席できました。彼女は努力家で日本の難しい国家資格にも合格しています。ほかのフィリピンの子たちに聞いても彼女の出身地はものすごく田舎ということですけど、(たしかにそうでしたが)人々が素朴で心温かい土地でした。数年したらまた帰ってくると思いますけどお幸せに・・・。
 
12月20日 【奇天の快】
早いもので収集1月号がもう到着しました。その中をパラパラ見ていたところ、すごいものが4枚も並んでいました。張点保、張点保広郭、奇天手、奇天・・・それもすこぶる美人揃いです。玩多夢氏の寄稿でいやはや壮観です。これらは不知銭でありながらじつに銭径が大きく、こそこそ隠れることなく堂々としています。奇天は平成17年の銀座コインオークションに出たあの方泉處の原品・・・落札価格660万円という天保銭史上最高の逸品です。この奇天は現在民間にあることが分かっている唯一の品で、見ただけで昇天しそうな古銭です。
(不確定な情報としては、どこかにもう一枚残っている噂はありますが・・・)
これだけ壮観な顔々を見せられたら、憧れを通り越して脱力感すら覚えます。いやあ、収集家の夢ですね。私も正夢にしたいところですけど、これは年末ジャンボを当てない限り無理というもの。財力・泉運の両方が必要ですね。
※こうしてみると奇天手は広穿で文字が若干縮小気味に見えますね。並べてみて改めて感じました。 
 
12月18日 【増し歩】
天保仙人様の紹介で、南鐐清水恒吉氏著作の
『地方貨幣および古南鐐二朱銀判の分類並びに真贋に関する研究』を購入しました。洋書製本で300P以上あり、読み応えのある事間違いなしです。私は古金銀については全くの素人ですけど、こういった研究や読み物は好きな方だと思います。と、いうのも幕末の貨幣制度は複雑怪奇で、金銀銅真鍮鉄紙の素材の貨幣・紙幣が入り乱れ、純度や重さ、額面(両・一文・四文・百文)も関係して複雑な相場が目まぐるしく変わったと考えられるからです。
さて、地方通貨については、資料がほとんど残されていないために、いわれがはっきりせず、中には真贋がはっきり論じられる前に存在そのものが否定されてしまったものもあります。清水氏はそれらについて研究したもので、存在するものは存在するのだという意気込みです。定価8000円、内容の濃さからすると安いものだと思います。清水氏の生涯研究をかけた渾身の一冊でしょう。
ところで、庄内一分銀については、以前触れましたが謎多きものなのです。それについて清水氏は発見当時の資料を基に解説を試みています。”古壱歩銀 壱両ニ付 代壱両壱歩”・・・つまり、(自国領内の)天保一分銀に対して(他国から流入する)安政一分銀は一両当たり壱歩(一分)・・・25%増しで通用させたというこのなのか、それとも交易上の交換レートを25%増し(増し歩)で定めたということなのでしょうか?も天保一分銀と安政一分銀のレートに差を設けたということで、天保一分銀の純度(約99.1%)と安政一分銀(約80.7%)を比較するとこの数字は合理的に思えます。
すでに幕末においては貨幣の信用価値が下落して、実質的な地金価値に近い交換レートになっていたと思われ、当然ながら一分銀においても天保一分銀は好まれ、安政一分銀は敬遠されたと思われます。ただ、幕末の動乱期において識別刻印を打つ余裕が果たしてあったのか等の疑問点は残ります。慶應四年は明治元年につながる忙しい年ですので、この作業が実際に行われたとしたら、確認のための検印的なもの(両替極印的なもの)ではないかとも思えるのですけど定かではありません。いずれにしても現物が確かにあるということは間違いなく、それに対してどのように説明をつけるかということ。そういう意味でも清水氏の著作は一読の価値あるものだといえます。(2015年6月3日制作日記も参照してください。)
似たようなお話として、下田管内通用の寛永銭がありますが、こちらは明らかな贋作も多いことから、残念ながら最近は存在そのものが疑問視されつつあります。
と、ここまで考えて、私はある間違い(の可能性)に気づきました。
琉球通寶の価値です。瓜生有伸氏の『天保通寶錢の研究』等にある現代語訳の『琉球通寶當百銭は1枚124文とし、はじめ金一両に対し9貫文と定められた・・・(富永集助書状)』を言葉通りに解釈していました。100文と額面のある銭を124文で流通させるのはおかしいなと首をひねりながらも、書いてあるし、琉球は天保通寶より立派だから・・・と、無理やり納得していました。
しかし、このような施策は庶民も両替商も納得するはずもありません。改めて考えると、これは実勢価格ではなく増し歩の交換レートを示しているのではないかとの思いに至ったのです。つまり、流通している(銅?)銭100文に対して琉球通寶は24文もの増し歩で交換したことを示しているのではないでしょうか。(当時は96勘定ですから、銭96文×4=琉球通寶5枚としたと考えられます。)それなら庶民も納得して銭と両替をするでしょうし、薩摩藩も地金となる銅一文錢を回収しながら新たな琉球通寶を生み出せるのでより利益が生まれます。
実は天保通寶は発行開始後しばらくする100文では通用していないという記録が随所でみられます。その実勢価値は80文ほどであったといろいろな文献で読みました。この80文という相場は100文×4÷5にほかなりません。そう考えると、この交換レートは実に理にかなっている気がします。 
 
12月16日 【広永様手本錢:九州のK様から】
”菅原氏のさがし物”をご投稿くださった九州のK様からご投稿を頂きました。なんでもK氏も広永様手本銭を所持されているそうで、『久泉研究資料⑤366番』の母銭とも言える品です。
1.銭文の類似性(通用画と永頭とフ画との間の鋳だまりを含む。)
2.銭文の隔輪状態(手本錢の段階ですでに隔輪しているので母の母か原母段階で隔輪していたと思われます。)
3.面背の内輪の形状と背郭の共通性。
4.背地の複数の小点の共通性。
上記の点が合致しているそうです。また、手本銭は郭内のやすり掛けもばっちりであり、研究資料の編集者の祥雲斎師も手本銭であると折り紙付きだそうです。
と、・・・ここまで書いて私はあることを思い出しました。私も似たようなものを持っているなあ・・・背反郭なので長門錢としづらくて、長門様参考錢のコーナーに掲載しているものでした。(一応、長門錢とは分類したものの自信がないもの。)
探し出して比較してみると、1、4については合致はしませんでしたが、2と3については不完全ながら類似点が多いと思われます。

この品、私も選り出したとき、背郭が変なのではじめは水戸銭としていました。しかし、見れば見るほど長門銭に思えて、半信半疑で移籍させた経緯があります。(資料の見落としは恥ずかしいですね。)
ともかくこれで長門錢広永様手本銭の2枚目が存在すること、ならびに広永様背反郭が一分類として確立できることが判明しました。K様ありがとうございます。 
 
12月13日 【文久様正字手:新寛永通寶分類譜原品】
オークションネットの唯一の落札品が届きました。文久様は私の収集歴でも謎多きもので、大金を支払った所有品こそ2枚ありますが納得がいまひとつ。平成17年の銀座コインオークションの時、黄白色系の文久様について審議品であるとされたうえで以下のコメントが付けられました。
”昨年のオークションでも希少銭種の離用通が審議品として出品されました。一銭貨の生産が同時期、同銭座と考えるのなら、既存の緍銭から検出される色調、乳濁白色砥石仕上げによる、従来型文久様とは作風が乖離するため、価格に大差をつけて出品します。今後の文久様の扱いにつきましては前期文久様、後期文久様と識別の上、対処するようにします。なお、前期文久様の検出例は、5万枚の雑銭から1枚程度の発見とされ、その希少度は別格です。”
このときに前期文久様とされたのが今回の落札品に他ならず、私は解体された方泉處の石川氏の前でこの現品を確認しているはずです。当時の落札価格は手数料なしで18万円ですから、今回はその半分以下の金額で元方泉處の現品を入手できたことになります。
たしかに白銅質の密鋳銭で、内径はわずかに縮小しています。郭内のやすりも外周ろくろも非常に丁寧。文字の周囲は加刀痕跡が明確に残りますので、密鋳銭としてはものすごく魅力的です。これをただの密鋳銭としてとらえるのならこの金額はまだ高すぎるのかもしれませんが、今回は好奇心が抑えられませんでした。
なお、後期文久様とされたものについても作風変化があって、ひとつとは言い切れません。それらが水戸から出たという言葉が、水戸系の贋作品づくりが得意だった、O氏の作風と肌が似ていて引っかかるのです。私の所有品の場合、離用通手は完全に後期文久様、俯永様が中間的な感じ、それと安政期俯永として購入したものがなんとなく後期文久様に作風が似ていてちょっと気になります。 
 
12月12日 【フィリピン紀行】
仕事の関係で教え子になった娘さんの結婚式に招待され、フィリピンはバタンガスに行ってきました。ここはマニラから直線距離で100Kmほど南に位置するのですけど遠かった。日本からマニラまで約5時間、そこからバタンガスまで移動に4時間ほどかかってしまいました。道は車と人であふれ、そこをトライスクルというサイドカーのようなタクシーと、ジプニーという乗り合いバスがぶんぶん飛ばしています。
バタンガスはフィリピンでもかなりの田舎町。おもな産業は畜産と農業。電気・ガスはありますが、みなさん午後8時には寝てしまう健全な村です。野生のバナナ、ココナッツ、パパイヤがあちこちにあり、放し飼いの鶏と牛(水牛:カラバウ)がそこかしこにいます。野良犬も多くいますが、みんな人懐こい。ついでに子供もものすごく多く、人懐こい。ここは村全体が一つの家族社会になっています。したがって結婚式はカーニバル。庭に15メーター四方の大きなテントを張り、200人以上の村人が勝手に参加します。前夜祭を含めて2日にわたる大イベント。しかも大音響で音楽が朝から深夜まで流れます。これが結婚式だけでなく、子供の7歳の誕生日にも行われるそうで、毎週イベントがあちこちである感じになるそうです。
司会は知り合いを見つけては声をかけて、新郎新婦にお祝い金を渡すようはやし立てます。結婚式の最後に誰がいくら寄付したか、総額がいくらになったかをアナウンスするのです。日本人はとても珍しいらしく、子供たちが集まってきたり、引っ張り出されて踊ったりと楽しい?パーティーでした。パーティーはノンアルコールながら、料理は食べ放題で、村人は何度もお替りします。裏では親戚が大勢で料理をしていたそうです。村全体が家族みたいな付き合いをしているので、家もまったくオープン。閉め切ると暑いから壁に隙間があるのは当たり前というのはマニラとはずいぶん違う。
新婦のお母さんから家の前の土地が売りに出されているから買わないかと、勧められましたが、この国の発展を考えると悪くない感じですね。ただし、住むにはクーラーのない生活と医者がいない生活に耐える必要はあります。温かくて海も近いし食べ物は簡単に手に入るので、お金がなくても大きな病気をしない限り死ぬことはないそうなのです。新婦は美人で我慢強くとても良い性格・・・全く擦れていません。これはこの土地の風土が生み出したのだと思います。お幸せに! 
 
12月8日 【手本錢について:四国O氏から・・・】
O氏から再びお便りが届きました。長文なので、内容を整理して書き直しました。
貨幣」誌に記載の田中啓文先生の「寛永十四年長門銭・・・・・」に書かれた「荒鑢を掛けしまでのもの」「最後の磨だけ省かれしもの」「本仕立と見うるもの」の違いは(O氏にも)区別が出来ないそうなので、それを考えずに考察をしているそうです。
O氏情報)
確かに、新寛永の母銭と比較すると長門の手本銭は母銭としては失格です。地肌に漆のある物も見た事がありません。
その一方で、古寛永以前の加刀・改造鐚で多数見られる様な文字が潰れて全く分類が出来ないような物は長門の通用銭では殆どありません。(それでも文字の明瞭な物は中々出会えませんが!)
手本銭には鋳物砂が文字の間や地肌に非常に多く付着しています。ネットの出品商品はそれを取り除いた商品が殆どですが、希にそのままでの出品物も見られます。砂が詰まっているのはそれを母銭として通用銭を鋳出した事になるのではありませんか?砂づまりの為に文字の隙が悪い通用銭はけっこうあると思います。
「手本銭という用語が毛利家に伝わったのはその昔は「母銭という古銭用語」そのものがなかったからだけが理由かもしれません。
ちなみに小川青寳楼先生は(手本銭ではなく)母銭派だったと思います。
(浩泉丸コメント)
結論から言うと、長門手本銭はやはり母銭なのでしょう。文字抜けが悪いのは不仕立であったり、あるいは摩耗が進んだ母銭を(二度と使用されないように)面砥ぎをしたからではないでしょうか?
毛利家と言えば戦国時代からの大大名。その家筋からの要望となれば、領民たる銭座も従わないわけにはいかない。されど、母銭の姿のまま大量に出すことは当時の法制上も禁じられていたでしょうから、改めて面を強く砥いで母銭としては使えないようにして献上し、幣制をつかさどる幕府への言い訳にした。手本錢の名称誕生もそんなところだったのではないでしょうか?
ちなみに、当時の銭座では母銭はおそらく「種銭・種」と呼称されていたと思います。
なお、古寛永の御蔵銭等に見られる地の黒色は床焼という古墨に鯨油を加えて煮詰める作業で、いわゆる地染めと鋳砂取りの工程です。長門銭にはこのような品がないことから技術的に行われていなかったと思われます。したがって手本銭に詰まっている鋳砂は通用銭の型採りの工程で詰まったものかもしれませんが、手本銭そのものの鋳造の際に詰まったものの可能性も十分ありますね。
O氏情報)
谷氏の寛永銭譜は「長門国鋳銭 永楽通宝と寛永通宝」が原点です。この本は昭和56年の四国貨幣大会の教材用でのこりの部数は永楽堂に委託して売り出されました。当時、70~80名の大会だったと思いますから、印刷部数は推定で100~120部程度。寛仙堂山添氏、幣泉の編者の北村氏などは長門銭をこの本を参考にして分類していると思います。(O氏ももちろんのこと。)谷氏は出版にあたり、青寳楼先生の指導を受けて分類名称を付けていますし、その殆どが青寳楼先生の蔵品から割愛を受けた手本銭だと思います。
(浩泉丸コメント)
長門国鋳銭 永楽通宝と寛永通宝」・・・一度ネットで見かけましたが入手できませんでした。画像は入手できましたが売り物はどこかにないかしら?
 
12月6日 【菅原氏のさがし物】
九州のK氏からお便りを頂戴しました。(ありがとうございます。)そこには文政小字の生拓があり、さらに北秋田貨幣研究会の菅原氏の「探しています6」の記事が・・・。この手替わりを菅原氏は3孔確認されていたもののその後体調を崩され、入院、闘病、ついに帰らぬ人になりました。そしてこのおたずねものは解明はおろか命名もされないままにあると思われます。
実は私は菅原氏とは直接の面識は(たぶん)なかったと思いますが、HP開設直後のころ、江刺銭の分類について手紙で問い合わせたところ、お返事だけでなく貴重な資料をお譲りいただきました。また、北秋田寛永通宝研究会にも参加させていただき、資料の転載のお願いに菅原氏に電話連絡を入れたところ、なんと入院中の病室につながりました。私が菅原さんの肉声を拝聴したのはそれが最後のことです。
K氏の発見した文政小字はまさに菅原氏のさがし物に間違いありません。これで4孔目ですから、手替わり品として認定されてよかろうと思います。天国の菅原さんもきっとお喜びのことでしょう。
しかし思いっきり目立つ変化です。良い愛称がありましたら・・・と思います。
やはり水のイメージの涎・涙・涙・滴・流と星・玉と連・垂・・・こんな文字が浮かびますね。垂玉冠の寛永あたりかしら?
 
北秋田寛永通宝研究会資料より
「探しています。その6」

故、菅原直登氏の研究です。寛の前垂れが伸びて先端に玉を持つ他、背の右上から2番目の波の背にポツっと小さな鋳だまりが見えます。右上から四番目の波の変形も特徴的。玉の先の小さなポツや寛目の陰起なども共通します。

名称について侍古銭会のたじさんから「菅原寛永・菅原垂玉」という意見がありました。考えてみると古銭で個人の名前がついているものはほとんどないですね。「野崎和同」ぐらいかしら?菅原氏泉号の「籠山閣寛永」もありかしら? 
 
12月5日 【毛利家手本錢の情報】
四国のO氏から・・・
そのあまりの少なさに、私が”広永様の手本銭は毛利家の手本銭からは(直接)出なかったのかもしれません”と書いておりましたが、O氏によると小川青寶僂師旧所有の毛利家手本銭は天保堂瓜生師と加古川の北村氏に売却されたそうで、そのうち北村氏が入手したものはおよそ1100枚ほど。それらを播磨古銭会のメンバー数名が選り銭したときに広永様が1枚出現したそうです。播磨古銭会・高見氏の蔵品と記載して母銭として私も載せている物がどうやらそのものずばりの品みたいです。
O氏は出張のときにたまたま立ち合い、俯永様の鋳放し銭を1枚だけ購入。ところがその3ヶ月後に立ち寄った時にはもう鋳放し銭や異永の類は1枚もなかったそうで・・・。それでも
正字様(本体、肥字、仰二寛)6枚、星文様(遒勁を含む)8枚、太細様6枚の他に削字類など250枚を購入されたそうです。(豪快!)その後にさらに450枚も購入されたそうです。
ちなみに手本銭を入手された瓜生氏は何を思ったのか他の穴銭・寛永銭などと一緒に雑銭扱いで催事で即売されていたそうで・・・そのときに会いたかったですね。
これらの結果、勁文類はほぼ分類解明できたそうですが、俯永類は微細変化が多くて同じものが2枚とそろわずお手上げ状態だったそうです。なお、加古川の北村氏は今は幣泉誌の主催者ですけど、この幣泉誌はあの昭和絵銭図譜の八橋氏がつくり、天野氏、北村氏と引き継がれているのだそうです。初めて知りました。
O氏によると
一般に言われる手本銭は母銭として使われた物がほとんどだと思われるそうです。
仕上げは荒いものの、角が取れて多少摩耗している物がほとんどで中にはゴザスレ状の物も見受けられるそうです。その中には初鋳母銭と次鋳母銭があるそうで、次鋳母銭は初鋳母銭と金質や製作が全く同じながら内径が縮小して少し型抜けが悪いものになるそうです。(次鋳母銭は全体の2パーセント位の存在)
手本銭中の通用銭は紫がかった濃い色合いなのだそうですけど、私にはまだよくわかりません。また、中には仙台・跛宝の母銭類に近い、未使用色の物が3枚あったそうですけど、これも私には想像しきれていません。
いずれにしてもものすごく多くのサンプルを見聞した方の意見であり、これらの情報は大変参考になりますね。ありがとうございました
少し気になるのは手本錢の類は面砥ぎが強く文字が太くべたっとつぶれた感じのものが多く、このままでは母銭としては使用できないものが多い気もします。この点は再利用できないように強く砥がれたのか、使用によってつぶれたのか、このまま使用されていたのか・・・見解をお聞きしたいところですね。また、手本銭を保存色で分けると、鋳放し銭、初鋳・次鋳母銭、未使用色の初鋳母銭、通用銭となるそうで、私には想像しきれない部分もありますので、改めてお教えいただけるとありがたいです。
さらに、余談として5月22日のオークション・ネットの青房寛永は、価格が安かったので社長の矢野氏が購入して毛利家の財団に寄付をしたそうです。「財団に展示資料が少ないため」との事ですけどこれはすごいこと。太っ腹です。このご時世に古銭愛を感じますね。
あっぱれです。

※ネットに加賀千代の大錯笵の天保が出ています。皆贋作だと知っているのかしら。贋作でも欲しいけど。
※週末、職員の海外挙式に行くことになりました。その間、更新はもちろん、メールなどのお返事はできません悪しからず。 
 
【12月3日 細郭手張足寶母銭?】
自分が短足であるためか、古銭も足の長いものにあこがれます。なかでも天保通寶の張足寶に出会ったときは、あこがれを通り過ぎて嫉妬に近い熱情を感じました。ウェストの細くて足の長いすらりとした美人にはからきし弱いストーカー体質ですね。天保通寶の張足寶にはそんな美人が多数いるのですけど、多くが長郭手の系統で細郭手の張足寶は少ないようです。細郭手の張足寶の存在は天保仙人様に聞きました。當百銭カタログの誤った記載もあり、なかなかその品にたどり着けなかったのですが、(手放してしまいましたが)類似カタログ原品のほかにも何品か入手がかないました。そのきびきびした書風はほぼ一手のように感じます。
そんな細郭手の張足寶で、妙に肌がきれいなものが先日出品されました。当然私も反応したのですが、信じられないほど値段がつり上がりました。文字や郭が整っているので母錢かなあとは思うものの踏み込めません。結局25万円で決着しましたが正体がいまだにわかりません。拡大すると寶下の輪に加刀痕跡が確認できましたので母銭の可能性がぐっと上がりました。本件については鉄人も注目されていたようです。落とされた方、結果をお教えいただければ幸いです。 
 
11月30日 【贋物が本物になった日】
玩賞品というものをご存じでしょうか?これについては田中啓文師が著書”銭幣館”で詳しく述べています。簡単に説明すると”元禄年間、幕府は貨幣流通量を増やし、かつ改鋳利益を上げるために慶長金などの古金銀類を回収して吹き直しを画策するものの、庶民は供出すると質の悪い元禄金銀に両替されて(実質的に損して)しまうので古金銀を隠すようになり、なかなか思ったような成果が上がらなかった。そのため幕府側は様々な禁則のお触れや割増交換条件等を出して古金銀の回収に努めた一方、庶民側は古金銀の所持発覚時に備えてそれらを玩賞品に作り替えて先祖伝来の家宝として密かに保持していた”というもの。この頃に出された幕府の触書には”似せ金銀拵えまじむねを令す”とありますから、さかんに玩賞品が作られていたと思われます。おりしも元禄時代は貨幣収集の流行が生まれた時でもありましたから、この玩賞品は趣味と蓄財を兼ねてかなりのブームにもなったようです。
元禄の改鋳(1695年)から100年ほどして、近藤正斎という男が現れます。彼は書物奉行などとして幕府に勤め、記録魔と呼ばれるほど各地の風聞や文物についてを書き残しています。その中の一つに”金銀図録”があります。これは近藤が各地を回って実際に見た地方金銀貨を図録としてまとめたものですが、近藤自体が貨幣収集の専門家ではありませんのでまさに玉石混交の大図鑑になってます。つまりこの金銀図録は玩賞品の宝庫といった様相を呈しているのです。
もともと玩賞品は蓄財と趣味のための私的なメダルといった位置づけでしたが、当時のお金持ちが趣向を凝らして職人に作成を命じたこともあり、それなりの味わいがあり、最近は”ファンタジー”などと名前を変えて収集熱が上がっているようです。玩賞品は金銀の古い絵銭として考えればよいのですが、金銀図録をもとに贋作者が新しい”贋賞品”を生み出してしまったからややこしいのです。
そういえば現在は古泉界で本物として認められている銀の穴銭の多くは、戦前は偽物扱いでした。金銀の古い穴銭の中には、たしかに恩賞用のものや記念銭的なものが数多く含まれていると思われます。たとえば嘉祥祝(2014年3月3日の制作日記)のときなど、配下や関係者に祝賀の記念品として金銀の貨幣をつくって配る風習はあったようなのです。ただし、これはあくまでも私的な貨幣の模造ですね。ところがある日、田中啓文師がこれは本物だといい始めたそうです。田中ほどの大物ですから他にも何らかの根拠があったのだと思いますが、それについてはよくわかりません。信長、秀吉の時代の主流の公式通貨の柱は永楽通寶で、恩賞用といえども永楽以外を何でもかんでも金銀で写したというのはさすがの秀吉もさせなかったと思いますが、今ではそれを証明することはできません。
また、寶永通寶には実際の流通銭と異なる書体の母銭の存在が知られています。白銅質で小字濶縁、広穿のもので仕上げ法も七条銭座と異なるものですが、市場で寶永通寶母銭と言えばこの書体のものばかりです。実はこれは寛永堂が作った偽物ではないかという噂が昔からあります。ところがこの品物、大英博物館から出現した朽木竜橋公のコレクションの中にも含まれているからややこしい。(2014年4月9日制作日記)つまりこの寶永通寶は江戸期の大コレクターも収蔵する品であったことが明らかなのです。もっとも朽木公と寛永堂は年代が少し重なるため、寛永堂作が朽木公コレクションに紛れ込んだ、(あるいは朽木公没後に紛れ込んだ)とも考えられますが、少なくともこの出現が幕末以前の古い品であることは間違いなさそうです。ただ、この品から今の寶永通寶は断じてできないわけで、そういう意味でもこれを”寶永母銭”とするのはいかがなものでしょうか?
 
11月26日 【ようこそ先輩】
母校で課外授業を担当しました。中学3年生相手なので気楽な本業関連のお話ですが、飽きさせない仕掛けをたくさん用意しています。自己紹介に古銭の話も少しだけしました。「実は僕はインターネットの古銭の世界ではちょっと有名なんだよ・・・たぶん日本で一番かもね」と、思い切りふかしてお話。「銀座コインの人知っていますか?」・・・と聞かれたので、「ああ、竹内さんのことですか、私の方が(穴銭は)専門家ですよ。(たぶん)」と涼しい顔。中学生相手に何虚勢を張っているんだと思いながら、つかみは十分で無事に課外授業を終えました。課外事業の中でも、クイズに正解した子供には天保通寶の雑銭をプレゼントしました。渡すときに、これは薩摩藩のもの、これは江戸幕府、そしてこれは土佐藩のもの、と言いながら手渡したの効果は絶大ででみんな目を輝かせていました。漫画の銀魂(ギンタマ)・・・うちの子供が大ファン・・・が幕末をモデルにしたものなので子供たちは感情移入がしやすいみたいです。(この手は使えます。)
授業後の生徒からの質問では本業ではなく古銭のことが・・・「日本で一番高い古銭は何ですか?」etc・・・すると「和同開珎がいつつくられたか知ってますか?」という突然の声。その少年はすぐに和同開珎は708年につくられたはずだと自ら言ってくれたのですけど、あまり突っ込まれるとぼろが出る所でした。和同開珎の質問をしてきた子は薩摩広郭をGETした子でした。少しだけコメントしましたけどいやあ~ひや汗かいた。
別れ際には、おばあちゃんが東京オリンピックの1000円銀貨をたくさん持っているんですと、きらきらの尊敬のまなざしでで近づいてきた女の子もいて、子供はきっかけさえ与えれば今でも古銭に興味を持つことが良く分かりました。さらに帰宅後に和同開珎についてのありったけの知識を書いて、質問した生徒さんに渡してくださいと母校にFAXしています。
40分ほどの短い時間でしたが合間に古銭の話ができたのは幸いで、数名の古銭ファンができたかもしれません。でも私はいったい何の課外授業をしに行ったのか?本業の話はどこに行った? 
 
11月21日 【千木永】
千木永という新寛永銭をご存知でしょうか?どちらかと言えば雑銭に近い存在なのですが、何を隠そう私が寛永銭にのめり込む記念すべき選り出し第一号銭なのです。コインブームで古銭がほぼ買えなくなっていた当時、店頭においてあった1枚どれでも10円の穴銭の山に私は何気なく手を出しました。よく観察すると、背に文字があるものがあって、また、店主がそれについて説明してくれるので面白くなって拾い始めていました。
そして私は1枚の真っ黒に変色した小さな寛永通宝に出会います。なんだこれは!永の字がものすごく変だぞ、すごい・・・と、鼻の穴を膨らませて興奮する私に店主が(元文期藤沢・吉田島錢の)千木永という名を教えてくれ、面白いもの拾ったねと褒めてくれました。
千木永は異永という名前もあるのですが、千木永という源氏名(あだ名)がぴったりはまっています。千木というのは神社の屋根の形で、両端の稜線を上部に伸ばして兜の前飾りのごとく交差させるもの。名称からしてまさに神っています。この書体をいたく気に入った私はそのイラストを何度もノートに書き写し、切り抜いてコインアルバムの表紙に貼りつけました。(いかにも中学生らしい仕事です。)
貨幣手帳をすぐに買い求めて熟読したのは言うまでもなく、さらに新寛永の手引きまで買い求め、ついに私は若くして不知の病に陥りました。
通用銭の評価は手引きでは10位で最下位なのですけど私にとっては宝物でした。千木永と言えば「古寛永のいろは」の著者の松尾吉陽氏も”千木永”を名乗られていますので、この銭はとても愛されているのだと感じます。

さて、そんな千木永の超美母銭がネット上に現れ、私は一目で恋に落ちてしまいました。母銭収集はお金がかかるしよくわからない部分もあるので対象外と言い聞かせていたのですけど、こいつは私をもらってくださいと呼びかけてきています。(幻聴?)
千木永の相場は通用銭でせいぜい1000円程度、母銭は5位(穴銭入門)ですから3万円ぐらいかしら?
今まで母銭で欲しい・・・と思った品はあまりありませんでした。(平成17年の銀座コインオークションで落札した寛保期高津錢小字降寶最大様母銭ぐらいです。)買ったものがたまたま母銭だったり、通用銭が買えなくてかわりに母銭が買えてしまったものばかりです。だいたいこんなものに夢中になるぐらいなら11月8日の鉄銭座銅銭母銭に賭けるべきだっだのでしょうね。(結局落札できませんでした。)まあ、ですから趣味と言うのでしょう。この古銭の書体は私の趣味にぴったりなのです。
かくして初めての出会いから約40年・・・私はその400倍以上もの価格を払うようになってしまいました。。

※藤沢も吉田島も昔の相模の国の足柄上郡ということですけど地図で見ると相当離れています。また、同じ銭籍の縮字に比べて比較的銭径・製作が整っているような気がしますので、あるいは両銭は別々の地で鋳造されたのかもしれません。寛永銭研究家の藤原貞幹(1732~1797年)は和歌山鋳造説を記し、一方、幕府の書物奉行で記録魔とまで称された近藤正斎(1771~1829年)は「元文4年相模国足柄上郡藤沢村(藤澤駅にあらず)にて鋳る所なり。また、同郡吉田島村でも鋳しという。」と書き記したようです。藤澤駅とは東海道宿場の藤澤・・・つまり今の藤沢のことでしょうから、藤沢村は別にあったようですけど、私にはわかりません。
※他の作業をしていたら逆転負け。残念ですけどしかたがありません。皆さん見る目がありますね。 
 
11月19日 【なんだろうこれ?】
熱心な中国のコレクターから「勁永贋作?」のタイトルで届いた画像です。書体的には四ツ宝銭の俯頭辵ですけど、郭内が鋳放しで背広郭、全体に輪幅も広い。文字も立ち上がりもしっかりしています。詳しいデータがなく鋳放し母銭・・・としたいところですけどなんか背の出来が気に入らない。投稿された方が「贋作?」としたぐらいですからかなり違和感のある製作なのでしょう。と、ここまで書いて思い出しました。以前、安南寛永でそっくりなものに出会っていました。調べると安南寛永の俯頭辵厚肉としたものとほぼ同じつくりです。謎の一部は解けましたが、どうしてこんなものを作ったのか・・・不思議ですね。
 
11月18日 【加護山写の加島細字】
下町で落としてしまった元文期加島銭細字の加護山写し。高値に釣られここのところ下町の入札にぽつぽつ出てきている感じ。私はそれに舞い上がってえっさえっさと踊っています。秋田の故村上氏のコレクションかも知れないと思いながら調べましたが、この品は泉譜には見当たらない。小さくてみすぼらしいのですけど、文字がはっきりしているのは奇跡です。加護山特有の地金とやすり目、地肌が決め手。
少ないとはいえ、この手の品はせいぜい1万円ぐらいと踏んでいましたが、倍は払ってます。つられてますねぇ。
 
長郭手鋳写(刔輪)
長径48.9㎜ 短径32.5㎜
銭文径41.1㎜ 重量22.7g
長郭手覆輪刔輪反玉仰二貝寶
長径48.8㎜ 短径32.5㎜
銭文径40.5㎜ 重量22.9g 
11月17日 【覆輪刔輪】
4日ぶりに帰宅すると、下町(左)と駿河の落札品が届いていました。英泉村上氏と横浜古泉研究会の関氏が亡くなってから巷の天保銭の収取熱が少し落ちたように感じますが、それでも私は少しずつ集めてしまいます。それもB級不知銭ばかりですけど、数がそろえば結構楽しいものです。さて、この2枚の不知天保は制作からくる書体的な特徴は少し似ています。すなわち覆輪と寶下部の刔輪整形で寶の前足がわずかに長く伸びて寶貝が仰ぐような印象を受けるからです。長径、短径などや重さもほぼ同じです。ただ、子細に見ると違うところも多々あります。
右の品の方が銭文径が一回り小さく、そのため天上や當上の刔輪がはっきりして、痕跡も残っています。当然覆輪も目立ちまた、狭冠寶、仰二貝寶で、背百の横引きの筆初めの爪も失われています。すなわち左は本座の改造母銭からの直写し、右は鋳写し改造母銭からの再写しになります。
これらの違いがこの天保銭の評価差でもあり、当然ながら右のものの方が評価はかなり高くなるのです。
左の品についてもやや背輪がいびつなところから、覆輪された後で寶下を若干削られたように思えます。一般に覆輪は金属でがっちり行われたと考えられていますが、土佐額輪と贋作以外その状態で残された改造母銭を見たことはないので、紙や漆芸によるものの可能性も否定はできませんね。

右側は反玉寶の系統なのかも知れません。
 
 
11月12日 【第42回 日本コインオークション】
私は外国コインを収集対象にしていないので、日本コインオークションについてはほとんど知りません。ただ、42回という回数は老舗のの銀座コインオークションの回数をはるかに凌駕するもの。日本で最も古いコインオークションなのかもしれません。そんなオークションカタログがなぜか私のところに送付されてきました。誰かが私の住所を教えたのかしら?
主催は(株)日本コインオークションとなっておりますが、本社所在地がこれまたコインの老舗(株)ダルマと同じですから、たぶん、オークションだけ別会社にしているのかと思います。この関係はウィンダムと田宮商会の関係みたいなものかもしれません。
オークションは会員制になっており、当日に入場の際は(事前に登録をするか)身分証の提示が必要のようですからご注意ください。収集誌上にかなり前から広告が掲載されていたのは存じ上げておりましたし、(株)ダルマといえば日本を代表する外国コインディーラーだと思います。前述しましたように私は外国コインの収集はほとんどしておりません。ほとんど・・・と書いたように0ではないのですが、早くから収集対象を日本の穴銭に絞ってしまっていましたので・・・。とはいうものの、収集の黎明期と行き詰まりを感じたときに気に入った外国コインを集めていたことがあります。大型の外国記念銀貨と入手しやすい金貨をぽつぽつ集めていたのは中~高学生時代。プルーフ銀貨はまだけっこう残っていると思います。円高の時にはギリシアやローマの安物の金銀貨を数枚集めましたが、良い文献が分からないので続きませんでした。(ローマの金貨は安く売ってしまいましたが今思うともったいなかった。)
そんなこんなで手元にはあまり残っていないのですが、さすがにカタログでたくさんそろうときれいですね。
おそらく私にカタログを届けてくれたのは、このオークションがインターネットでも申し込めるようになったからだと思います。カタログもネットで閲覧できるようです。少しだけですけど日本のコインも出ています。今後この分野は急成長するかもしれませんので、皆さま注目しておいてください。

オークション開催情報
日時:2016年12月11日(日) 午前10時から18時30分
場所:丸ビル7階 丸ビルホール(東京都千代田区丸の内2-4-1;東京駅すぐそば)
下見:株式会社ダルマ ☎03-3447-5567 11月21日から12月8日
 
 
11月9日 【古寛永長門銭星文様遒勁】
先月号の収集の唯一の落札品です。私は同じものを重複して集めない方なのですけど、長門錢は何となく好きで手ごろだと求めてしまう癖があります。「ナガト」の名前がなんとなくかっこよく感じてしまう「戦艦ヤマト」世代なのと、白銅質好きという私の性癖が影響していると思います。ただし、購入品は画像でも真っ黒で見た目はよくありませんが、私の所蔵品の3枚はみんなこんな感じです。
3枚ぐらいで威張るなと言われそうですけど、この長門銭星文様遒勁は地味ながらとても難獲品で、雑銭から拾えたらものすごくラッキーなのです。(古寛永泉志評価4位)
長門錢の星文様には通常の「星文様」の他に「塞頭通」「削頭通」「幻頭通」という3種の神器というべき通頭変化トリオがあまりにも有名で「星文様遒勁」は本流から外れてほとんど見向きもされていない状態ですけど、実物書体は「星文様」とは別系統に近い変化です。すなわち削字によって永の両尾が跳ね上がり、明らかに仰フ永になっています。分かりやすく「星文様仰フ永」あるいは源氏名で「星文様踊永」とでも名付けたら人気が出るかもしれません。※写真写りが悪いのですが現物はもっと仰フ永に見えますし、こんなに黒くありません。
本来はこの類は1万円ぐらいしてもおかしくないのですけど、収集出品価格は悲しいかな2500円でした。古寛永は収集人口が少ないからか私の落札価格も幾分色は付けましたが激安でした。(ごめんなさい)
ところで、古寛永は長門銭ですけど天保通寶は萩(山口)藩銭という呼称ですね。天保通寶の場合、山口県内地域で鋳造されたことまでは間違いなく、長州藩銭でもよさそうですけど領地として長門国、周防国をかかえていたことから、当時の政治の中心地の萩城のあった萩を使用したみたいです。
なお、藩という言葉は明治時代に公用語になった言葉で、江戸時代では新井白石など一部の学識者が中国の事例になぞらえて使用する程度だったそうで、一般的には国と呼ばれていたという説も聞きますが正式にはよくわかっていないようです。現代の地図で長門を探すと、萩市の西側にある長門市を示します。ただし、鋳造地の旧美祢郡赤村について調べると長門市のさらに南部にある美祢市の東のはずれにあると思われます。(長登銅山付近)さらに山口市は萩市のずっと南、萩の前の政治の中心地であり、幕末になって再び藩政の中心になり県庁がおかれたようです。ただし、市としてはとても地味な感じがしますね。
その点は私の住む千葉県市原市とよく似ていまして、市原という地名を市民に聞いても99%の方が正確な位置や由来を知らないはずです。時代によって地名も動くのですね。
※市原市は1955年の町村合併によって、市の北部の旧菊間藩領地の市原地域付近に一時的に町役場がおかれたのが由来。地名的には古いものの中心部でも何でもない千葉市と隣接する辺境の字名的な場所なのです。1963年には再合併で市となり役場は元上総国府跡地に移転されましたが、菊間藩・鶴牧藩・鶴牧藩の旧藩領や元国府、大きな町があったにもかかわらず、なぜか辺境の地名が市の名前にも採用されて残りました。ちなみに市原市は律令時代では関東最大級の寺院が建立された政治経済の要衝でもありましたが、江戸時代以降は田舎の一都市になってしまっています。
※日曜の夜、左下腹がなんとなく痛い。次第に痛みが増してくるので怖くなり救急病院を調べましたが、妻が真田丸を見てからじゃなきゃいけないというので、激痛を我慢していたら突然楽になりました。翌日受診をしたら尿管結石でした。週末から5日の旅の予定。今は小康状態ですけど石が残っていて少々不安ですね。 
 
11月8日 【元文期佐渡銭鉄銭座銅銭】
こいつは駿河501号に出ていて光り輝いて見えました。寛永銭では今年一番クラス級ものです。タイトルは「母銭含二水永」ですけどどう見ても鉄銭座銅銭の書体なのですから・・・。元文期の含二水永と言えば普通は十万坪錢。その母銭は6位ですからいいところ2~3万円ぐらいでしょう。一方、鉄銭座銅銭の母銭とくれば位は上から2番目の珍クラス。泉譜(入門)によると大珍クラスが100万とあるから珍はその直下で安くみても30万円はしてもおかしくない。図会では評価不能の▲マークなのです。このクラスはお金を出しても買えないものがほとんどです。島屋細縁(ランク稀)の上ですから。
これは大儲けだ・・・いや、いくらなんでもこれはできすぎだ・・・きっと贋作であることを承知の出品かもしれない。だいたいこの色は某O先生の色に似ている・・・などと勝手に妄想しながらも、すでに半分入手している気になっています。
最低価格はなんと15000円・・・本気で落とす気持ちがあるのなら最低でも10万円は行かなければならないのですけど、疑心暗鬼で根性なしの私はまたしても3倍額程度の中途半端な応札をしてしまいました。最近はどうも気持ちが乗りきっていません。まあ、この価格なら落ちてもあわてることはほぼないでしょうし、たとえ贋作でもあきらめられます。入手できなかった時のショックはまた別ですけど、マニアどもは気づいているでしょうから、この価格で落札できれば極楽という快楽と何とも言えぬスリルを味わいに行きました。しかし、いまだかつてこれで大成功したことはありません。(その反対はたくさんあります。)私はほとんど過去を学習していない気がします。それでも、誰も気が付いていませんようにと、祈っている毎日です。 
 
11月7日 【文銭図譜1・2・3】
大和文庫の販売目録を眺めていて”おやっ!”と思いました。「文銭図譜」なるものが販売されています。著者はあの文源郷氏・・・収集にも連載をされていたあの寛文期亀戸銭の超マニア的研究大家です。氏は愛する文銭に対しては瑕・鋳だまりまでも探求心が及びます。実は私は一度だけ(偶然)氏に古銭販売会場でお会いしたことがあるのですけど、選り銭では背の鋳だまりまで丹念に見られている姿を見て敬服しました。それはもう眼光鋭い修験者、求道者の目であり、私のような欲目に霞んだ寝ぼけた節穴とは一線を画します。
その著作はA5版3冊の小文献ながら(おそらく収集誌上に発表した)資料を整理し、新たな発見や新資料を添付してまとめ上げたものでしょう。今年の流行語でいえばもはや”神って”います。第1巻は「基の巻」そして第2、3巻の「類の巻1」「類の巻2」と続きます。さらに、おそらく文源郷氏手作りと思しき専用の箱まで付属します。この完璧な手作り感も氏ならではの仕事。血液型はA型(もしくはAB型)なんじゃないかなと思える几帳面さ。氏の作品(古銭)はいくつか購入しているのですが、あまりの芸術性の高さから恐れ多くて封を切ることができず、保管したままになっております。今回の文献はビニールを破って撮影までは敢行しましたが、表紙などに折り目を付けることができす、いまだに中を読み込むことができません。かつては新寛永通寶図会や古寛永泉志など保管用の文献と読むための文献と2冊購入したり、新寛永入門などは版違いまで集めたのですけど、最近は資金的余裕もなく「保存」か「読む」かの二者択一を迫られそうです。
もっともあれほど大事にしていた不知天保通寶分類譜は、猫が表紙をひっかいてしまってから”日常的に読む専用”になってしまい、おかげでずいぶんと新しい発見ができました。そういう意味では本は読んであげた方がいのかな・・・とも思います。
この本について関心のある方は大和文庫さんのHPをぜひご覧ください。(売り切れていたらごめんなさい。)
 
 
11月4日 【母銭について】
私は母銭コレクターではありませんが、選り出しなどで母銭と思しきものを見つけるとやはりうれしくなります。例えば3月11日の加護山の細字狭文様ですけど、通用銭として購入しましたが大きさや仕上げ手法から見て次鋳の母銭でほぼ間違いない気がします。ただ、こういった改造系の母銭は仕上げ手法以外に決定的な特徴が少なく、その道の大家・専門家が母銭と言えばその通りになってしまう傾向にあります。私の所有物にもひょっとしたら母銭かもしれないと思うものあり、え~これで母銭?、という買い入れ品もありますが、自信がない私は、たぶん母銭、ひょっとして母銭という具合に分類しているものも多数あり、要するに自信がないので主体性がないのです。
明和期の當4文銭は立派な白銅質でそれもバカでかくて母銭としては親切すぎるぐらいわかりやすい。これはおそらく真鍮の縮小率が大きかったため、大きな母銭が必要だったのだと思われます。このような正直者ばかりなら苦労は要らないのですけど、あいまいなものが多いから困るのです。
(母銭についての考察は本年1月22日と2014年の12月17~18日の制作日記記事をよくお読み頂ければ幸いです。)
この世に現存する母銭の多くは使用された後に磨輪されて通用銭に混ぜられ流通したものがほとんどで、摩耗がかなり進んでいます。したがって母銭の特徴のひとつである文字の繊細さが確認ができないものが多いのです。例えば天保通寶の本座母銭は表面が磨かれてつるつるしたものが多いのですけど、未使用の本座母銭は表面がごつごつして、文字などはかなり加刀の荒々しさが残ります。私が参考に撮っておいた未使用の本座母銭と思しきものの画像を添付しますので、ブラウザの拡大機能で観察してみてください。
この画像を見た方の多くは、鋳肌がまるで通用銭のようできめ細かく見えず粗いし、背広郭狭穿でものすごく違和感を感じるでしょう。しかし、拡大して見て頂ければ、文字や花押が繊細で台形状に地から立ち上がっており、随所に加刀痕跡がしっかり残されていることなどが観察できるでしょう。この文字形状は本年5月21日の制作日記の天保銭の文字形状と同じなのです。(画像の品はかなり大ぶりでした。)
皆さんが本座母銭の鋳肌と色と思い込んでいるのは、使い込まれた母銭が鋳砂(とくにきめの細かい肌砂)に磨かれた結果の発色と形状なのです。(私も天保仙人様にご指導を受けるまで気が付かなかったことです。)鋳砂は石英を主体成分とする珪酸のきわめてきめ細かな粒子で、けっこう固く、母銭の表面を磨くように摩耗するのです。なにせ鋳砂で主に使われた房州砂は研磨剤やクレンザーの原料になったぐらいですから・・・。
どうです、母銭ってなかなか奥が深いでしょう?だから難しいのです。

ちなみに・・・錫母銭についてですけど、初期の錫母は純度が高いものであったらしく、崩壊現象を起こしたものが数多くみられます。それを改良して合金化したらしく、文久や本座広郭の錫母は崩壊現象を起こさないそうです。この錫母について鑑定する方法がいくつかあります。贋作に応用されてしまうので詳しくは書けませんが、
錫母は通用銭に混ぜて使用されることはありませんよね。だから〇〇がほとんどないのでとても〇〇なのです。また、柔らかい金属である錫母の仕上げは〇〇で磨かれました。そのため輪側面や表面には〇〇なのです。(〇〇部分は皆さんでお考えください。)
この点がおかしなものは贋作の危険性大です。錫母の贋作は作りやすく、かつ結構存在してますのでご注意ください。
 
 
11月3日 【文久真文母銭の銅質】
文久永寶周遊会の資料が届きました。何回か書いておりますが私の文久に関する実力は皆無に近く、基本分類がやっとで細分類は泉譜とにらめっこであれやこれやの状態。本能的にこれは好き、これは嫌いという状況で拾う程度なのです。(それでもこの世界、けっこう直観というのは大事なんじゃないかと思うのですけど、肝心なことを見逃したまま満足しているだけじゃないかとも思う次第。)なぜか、私もメンバーの一人に数えられているみたいですけど、まこと恐悦至極でございます。
さて、周遊会での資料では文久永寶の真文母銭の拓図が掲載されて目立っています。
楷書広穿の母銭はみごとで中でも東京M氏の楷書本体最大様母銭はこれぞ原母銭というもの。寛永銭でいえば御用銭クラス以上のもので、昭和泉譜の原品というモンスター級の逸品です。文久において玉寶や草文は銅母・錫母とも時折見かけますが、真文の母については間近で見たことがありません。周遊会の資料でよく練れた母銭の銅質と仕上げなる記述を見かけますが、お恥ずかしいことに私はいまだによくわからないのです。文久母銭というとつい玉寶や草文のざらついた黄金色の銅質を思い浮かべてしまうのですが、銀座管轄の真文の銅質はどうも違うようで、果たしてどんな色なのか想像ができないのです。最近、鋳ざらい母銭なる言葉も聞き、そんなものがあるのかと半信半疑でしたが、よく考えてみれば真文系は同じものが一つとしてない・・・御蔵銭のようなつくり・・・これは銅母銭などを鋳ざらいしながら写した結果なんですよね。
錫母の出現は製品の均質化を飛躍的に向上させました。しかし、錫母技術は玉寶や草文の鋳造では使っていたようですが、真文製造では使用していなかった。それはライバル関係にあった金座と銀座で、技術の伝承がされなかったようなのです。(天保仙人様談話)なにより、現物が物語っていますね。ボナンザミニ辞典では真文に錫母があるような記述があるそうですが、私も知る限り真文の錫母出現は聞いたことがありません。(もっとも真文銅母でさえ、実物を手に取ってみたことないのですから、私の証言は話半分以下だと思ってください。)それにしても真文の母銭はどんなものなのでしょうか?白銅質気味といううわさは聞いたことはあるのですが知りたいですね。
※寛永通宝においても、母銭特有の銅質・肌はあります。私見ですけど、鋳砂の肌砂(表面をかたどるための非常に粒子の細かい砂)のきめ細かさから生まれる肌の質感の違いも影響していると思います。
 
 
10月31日 【坩堝と銭笵】
坩堝(るつぼ)と言っても今どきの人はぴんと来ないかもしれません。だいたいこの「坩堝」という文字そのものが難しくなじみがないですね。(私も書けません。)画像は和同開珎の坩堝と銭笵とされるもの。筒状のものはふいご口か注ぎ口でしょうか。こんなものがネットに「非売品」と称して出品されており目を疑いました。しかも落札価格は数千円。たぶん偽物?・・・でもひょっとして???・・・と、いう代物。半信半疑というか小信大疑なんですけど気になります。(どうせ某古銭商から出てくるまがいもの?)
そもそも古銭収集家は古銭そのものに興味があるわけで、銭づくりの道具にまでは興味はあっても貴重な資金はつぎ込まないのが普通。唯一、母銭収集というジャンルがあり、熱中しているお金に余裕のある方がいささかいらっしゃいますが、あれは母銭が鋳銭道具でありながら実際に流通したからでしょう。近代コイン収集家はコイン製造ラインの部品は集めようとしないと思います。例えるならアイドルファンが、本人だけでなくその親にまで興味があると言ったら相当な変人ですから。これらの収集は古銭収集の域を超えて、考古学的探究心と言いますか、再び例えるのなら、アイドルが捨てたゴミまで愛したいというストーカー的な好奇心。もはや手の付けられない変質者なのかもしれません。
ところで和同開珎の銭笵はその昔の古銭収集大家なら所有していましたが、今となってはそれこそ文化財級のはずです。和同銭の銭笵は大阪毎日新聞社主の本山彦一氏や孔固亭、中村不折氏などがかつて所持したとされますが、本山氏の銭笵は佐野英山が発掘に携わったとも聞きますので、いささかきな臭い香りも漂います。そう考えると墨書きの銭の文字・・・昔の「銭」ではなく「錢」と書いたはずだとか(昔に書かれたとは限らない?)、わざわざ鋳銭道具に銭なんて書くはずはないし(私の思い込み?)、銭以外の字が不明(私が読めないだけ?)とか、和同の銭笵は枝を中心に左右に整然と並んでいるはず(たまたま資料がそうなっていただけ)とか、ものすごく妖しい雰囲気はあるのですけど・・・気になっているうちに終了してしまいました。(負け犬の遠吠え。)真相はやぶの中。果たしてよかったのでしょうか? 
 
10月28日 【島田尚泉堂】
島田田尚泉堂こと島田吉一氏は大阪の人。(旧貨幣誌等には「島田」とあり往時古泉家芳名録には「嶋田」と記されています。ここでは「島田」と記します。)そのかつての超有名旧藏品が入札誌「下町」に出品されています。この品は昭和6年8月の貨幣第149号に出品・説明されていまして「異書寛永」として紹介されています。氏いわく「銅色は淡黄色で鋳肌はやや粗く肉厚の銭で重量は一銭一分(約4.12g)あり、面文は類を他に見ない奇抜なもので、どちらかといえば新寛永というより古寛永風かもしれません。銭径もたっぷりしているので古寛永らしい点もありますが、背郭が著しく広郭で、内郭の仕上げ、外輪の仕立てとその磨きなど、かなり時代が降下しているような様相を呈しておりますが、専門家の中には時代が天保~文久間ではないかと力説する方もいらっしゃいます。したがって果たしていつの時代に属すべきかはわかりません。存在は極めて稀で、自分が知る限りは2品にすぎないと思います。そのひとつとして明治39年5月19日の馬島杏雨翁の米寿祝賀会において直江津の宮崎好日庵の出品があり、東京古泉協会雑誌第41号に掲載されていますが、名前すら確定していません。わずかに伝え聞くところによると、蔵主は近年になって選り出しをされたとか、本品以外にも有名の珍品を多数獲得されているとか・・・」(現代語意訳しています。)
私の知る限りは今に伝わる情報はこれだけで、古寛永泉志や平成古寛永銭譜の記事もこの貨幣誌記事が元になっていると思われます。
現在、直江津の宮崎好日庵の品は所在不明で、今回の出品物が現存確認される唯一の品ということになります。
拓本からは重点通背広郭の奇怪な風体で、通用銭というより試作・戯作・絵銭の類に感じてしまいます。まるでマジックで書きなぐったような・・・。明治の末期に出現したとなれば、鋳銭関係者や寛永堂や古楽堂などの一派がまだいた時代です。馬島翁の泉譜にもあまりにも出来が素晴らしすぎるあまり寛永堂作とも噂される美術品のような新寛永が堂々掲載されていますので、あるいは寛永堂・古楽堂作ということも考えられなくもないのですが、それこそ無知なるが故の憶測に過ぎず真相は分かりません。とにかく由緒はありますが、あまりにも変わっているので昔から古泉家が首をひねる大珍品であることは間違いありません。 
 
10月24日 【筥崎宮上棟銭】
筥崎宮(はこざきぐう)は福岡県東区にある八幡宮。八幡宮(はちまんぐう)とは八幡神を祭っている神社であり、本宮は大分県にある宇佐神宮。この宇佐神宮と京都の石清水八幡宮、筥崎宮、鹿児島神宮が格式高く、前三社を日本三大八幡宮と言われています。(八幡神は武神であり、応神天皇と同一視されています。)源頼朝が流刑地から脱出したあと、武運を祈り関東各地に八幡神社を建立しています。鎌倉にある鶴岡八幡宮はことに高名で、資料によっては筥崎八幡宮に代えて鶴岡八幡宮を日本三大八幡宮にしているようですけど、筥崎宮は鶴岡八幡宮よりはるかに歴史ある式内社(明神大社)・官幣大社でもあります。さて、上棟銭として入手したものですけど極印はゴシック体風なのでそれほど古いものではないと思いますが、記念銭としては面白いもの。この上棟銭のいわれをご存知の方、情報をご提供ください。
 
 
10月19日 【銀座コインオークション】
江戸コインオークションカタログがなぜか届かなかったショックから4日、銀座コインオークションカタログが到着しました。ざっと目を通しましたが、鐚銭と寛永銭の充実ぶりはすごいですね。皇朝銭の数はいつもほどではないものの、No1.古和同銅銭広穿隷開とNo2.古和同銀銭大字が白眉ですね。よくわからないもののNo.9の承和昌寶大様とNo.12の乹元大寶長元はやたらきれいで立派に見えるからきっとかなりの銘品なのでしょう。
No.13祥符通寶の逆天下は初めて見ました。こいつはすごい!No.24の鐚永楽の曲永大字は鉄人が飛びつきそうな品。加治木洪武も充実していてNo.31の背加やNo.32の背木、No.35、36の襷武などとんでもない名品がぞろぞろ。目立たないけどNo.33の山武なんかもかなり少ない品だと思います。しかもみなすこぶる美品。
No.39の寶永通寶の未仕上げ母銭はとても気になりますね。状態はいまいちながら大きいのでこれこそ本当の母銭かしら?
文久は錫母や試鋳がずらり・・・。私はNo.41の真文の大様母銭は好きです。
幕末試鋳貨は過去最高レベルの出品ですけど説明にもあるように妖しげな香りもします。カタログでしか見たことのない品々です。
古寛永はすごい。No.69太平手、No.70永楽手、No.71二水大寶~No.76魚尾寶まで全部ほしい!
新寛永はNo.96島屋細縁がいいですね。No.101の日光御用銭大様とNo.107の難波御用銭は手に取って観察したい。私にとっては謎多きもの。No.115の背川、No.128小頭通背元も興味津々です。安物ですけどNo.130の細字背元は真っ白に見えます。No.148の逆ト母銭もはじめてみました。カタログでは目立たないけどNo.189の中山通寶は大珍品じゃないかしら。
地方金銀貨もすごいことになっていますけど中でも古甲州4種(No.232~235)とNo.236の露一両は必見の品。露一両は本来ならオークションの顔になる品なんですけど他がすごいからまあ、扱いの小さいこと。
天保通寶は出品が少なめですけどNo.297の水戸遒勁の母銭は見たい品ですね。
丁銀類もすごい。No.300慶長12面丁銀、No.302宝永二つ寶の超大型丁銀、No.304の宝永永字丁銀は数々の泉譜を飾った名品中の名品です。豆板銀ではNo.320慶長両面大黒豆板銀・・・慶長の両面大黒はたぶん試作品か献上用ですね。No.330宝永永字豆板銀めぐり永は変形豆板銀の珍品、No.336宝永四ツ寶片面大黒豆板銀も大型の特製品(献上品?)、No.442武蔵墨書小判金、No.443慶長古鋳長小判金、No.486天正大判金は文化財・博物館級の品。美術品です。とにかくすごいのでたとえ買えなくても下見だけでもしておくことをお勧めします。
 
10月18日 【黄金色の贋作】
背ズレの文久で加賀千代の天保銭にふれましたが・・・加賀千代の贋作天保の制作にはいくつかの系統があるようです。朝鮮天保の母のような近代的な白銅質もの、錯笵類のような黄金色系の精工作、黒褐色系のやや下作のものなどなど。加賀千代はもともと貴金属を扱うお店をやっていたので金属加工について詳しく、それを縁に贋作ネットワークの中心的存在だったようです。ただ、贋作は自身が手掛けたものはあまり上手ではなく、上作のものは贋作ネットワークを頼ったのではないでしょうか。5月31日の記事にも書きましたが、加賀千代太郎以下、福西常次‐ラムスデン‐佐野英山・・・彼らがネットワークの中心人物であり、その下請けの一人としてO氏がいました。O氏は戦前は大井の貴金属店の家に生まれており、いわゆる江戸小物・髪飾りなどの職人でした。銭幣館こと田中啓文に怪しまれ、その著書などに「大井の贋作者」として登場します。このO先生、かなりやんちゃで丁銀や豆板銀の贋作もかなり作っているほか、試鋳銭や穴銭なども手掛けています。
以前も書いたと思いますが加賀千代作とされる背大錯笵の天保通寶の地肌は、O氏作とされる水戸藩系の未使用銭の肌(色合い)とよく似ています。この色合いは加賀千代本人作(黒茶系)とはもちろん、ラムスデン作(アメ茶色や白銅質など)とも違います。福西も穴銭を作ったといわれますが、はっきり言って下作です。
O氏の贋作は砂目が細かな魚鱗のように出ていて、美しいものが多いのです。色合いは淡黄褐色の未使用のものがほとんどですが、中には古色がついているものもあります。ぱっと見では砂目、やすり目、制作にもほとんど矛盾がありませんが、少し近代的な雰囲気(固さ)がある感じ。私は加賀千代作とされる錯笵天保の技術はO氏に引き継がれたというかO氏作そのものなのではないかと考えている次第。寛永通宝コレクターとしても第一人者であったO氏は鋳造銭が何たるかを知り尽くしており、母銭や錫母銭から型を抜いて鋳造しています。この技法はラムスデンがよくやったことですし、佐野英山も使っています。O氏の作品と思われる作品は本物として流通していることも多いようで、もはや浄化は難しいかもしれません。
 
10月17日 【錯笵文久の不思議】
文久永寶にはなぜか背大錯笵が多くみられます。あまりの変態ぶりに私も贋作を疑ったこともあるのですが、大錯笵とはいかなくとも背の大ズレはよく見かけますし、いろいろな方に聞いても実在するとの証言が多々聞かれます。画像の品はH氏から頂いたものと画像収集したもの。これだけズレればさすがに目立ちます。このようなものがどうしてできたのか・・・
普通のズレは鋳型を合わせるときのズレになります。鋳型は砂笵とも呼ばれているようにきめ細かいガラス質の砂でできています。これをよく踏み固めて鋳造しますが、固めムラが出ることもあるようです。溶解した銅を注ぐときに型をどんと床に縦に置いたとき、踏み固め不足の型が圧縮されてズレてしまうことはあると思います。
ところで画像の文久を見ると、波の方向が横を向いたり上下逆になったりと、好き勝手な方向を向いているように見えます。そして銭がずいぶん密集していますね。これは寛永銭や天保銭の錯笵にはあまり(ほぼ?)見られない現象です。
これは鋳造の際、母銭をかなり乱雑に砂笵にばらまき、1つの砂笵で大量に鋳造しようとした証じゃないかと思われます。そうじゃないとこの乱れっぷりは説明できません。銭が密集して型どられるということは、鋳型の空間も多くなる・・・つまり砂笵の表面強度が落ちて崩れやすくなります。文久の錯笵は大量生産が招いた結果じゃないでしょうか?銭鋳造における不良品発生率は10%ぐらいだそうで(大正13年の貨幣、長崎銭座の記録)すけど、文久銭は諸物価高騰の世の中で採算ぎりぎり事業でしたから、このような不良品でも仕上げて世に出してしまった・・・あたりが真相なのではないかしら。背大錯笵はこの文久と長崎銭座、鉄銭座のものに散見されます。
余談ながら、背ズレの贋作で有名なのが、加賀千代作の天保類。銭座職人の末裔を探し出して作らせたそうですから、本当によくできています。
 
10月16日 【銭形縮小天保】
大和文庫の駿河で格安入手した不知銭です。やや赤っぽいものの見た目は全く本座、ただし大きさが極端に小さいのです。ありそうで意外に少ない。不知天保通寶分類譜でも書かれているように、不知銭はばれないことが第一であり目立つことは「流通行使の上で危惧が生じる」からです。平均で長径が49.2~3㎜ある天保通寶の場合、48㎜未満であることはかなり「危惧」を抱かされるサイズであったといえます。とはいえ先日の薄肉の方字と言い、長径47㎜さえ平然と切る秋田小様のように、かなり大胆な事例もあるから面白い。私自身48㎜未満の大きさの不知銭はそれほど保有していたわけではなく、数年前の制作日記においてはわずか数品しか保有していないと書いていたと思います。そんな私の願いが通じたのか、ここのところぽつぽつ入手しており、気が付けば二けたぐらいありそうな状況になってきました。画像の品は一見特にこれといった特徴は少ないのですが、刔輪のためかよく観察すると面背の輪の幅に差異がありなかなか面白い品でもあります。長径47.8㎜、短径31.8㎜、銭文径40.9㎜、重量18.5g。
 
10月15日 【何に見えますか?】
豆板銀・・・その昔は小粒銀とか言ったそうですけど、少額秤量貨幣の代表格で、とてもあこがれたものです。私も古銭収集初めのころ直径2㎜にも満たない安政の露銀など数枚(粒?)を入手して楽しんでいましたが、立体的過ぎてコインアルバムにうまく入らなかったことに加えてコインブームによって高騰したため続きませんでした。さて、画像はインターネットで拾った画像で、まるでキャッチボールか砲丸投げか、それとも歌舞伎役者が大見えを切っているみたい(世代によってはラッパを吹くミッキーマウス・逆さにすると散歩する宇宙人)で、しかも懐には子供もいます。変形の子持ち豆板銀・・・慶長期あたりのものなんでしょうけどよくこんな形で残っていたものです。
ただ、子持ちの豆板銀はときどき見かけますが、はじめから自然な形でそのようになることはない気がします。秤量の都合で重さを合わせるために銀塊が合わされて溶解接合されたのではないかしら。ちょっと意地悪な見方をすれば、数寄者を狙ってこんなものを作った職人がいて、あるいは偶然できたこんな変なものを面白がってそのまま世に出し、それがコレクターに愛蔵されて今に伝わったものかもしれません。そういう意味ではとても妖しげな妖気漂う一品なのです。流通するお金としては失格で、玉を持つ腕なんぞ簡単に折れてしまいそうです。ただ、こんな妖怪にも興味をもって近づいてしまうのが古銭収集者の性でして、困ったものだと思います。
※本日現在で江戸コインオークションのカタログは届いておりません。私が日付を間違えたのか、それとも郵便事故かしら?さらに今月号もキュリオマガジンも未着です。これで3ヶ月連続未着、このまま終了しても仕方ないですね。
 
 
10月12日 【貼り合わせ手の天保】
私大和文庫の落札品です。画像ではなんだか変な色に見えましたので、少々不安でしたが、不安的中で原品は磨かれてしまっていました。画像で見てすぐに面と背の書体が一致しないことに気づきました。この手のものは案外出会うことが多いのですけど、なかなか美銭には出会えません。面は細郭、背側が長郭の書体になっていて、書体が見慣れている方は注意すれば拾えるようになります。當の田が大きいことと花押の後ろ側が大きく持ち上がるように見えることが私の鑑識ポイント。不知天保通寶分類譜の下巻を見ると、この類の品がかなり紛れ込んでいるのが分かります。
細郭と長郭の通用銭の出来がいいものを半分にすり減らし、面背で合わせて母銭にしたのではないかというのが、通説なのですが、私は板に天保銭大の穴をあけてそこに通用銭をはめ込んで雄型にして使用したと考えます。つまり砂型に押すスタンプを作ったと考えています。はめ込んだ天保銭を裏返しにすれば背側の方も出来上がり・・・という訳。(銭の片側を擦り減らす場合、寛永通宝レベルならまだしも天保銭は大変です。それにそのような緻密な加工をする職人なら、細郭と長郭の穴の形状が微妙に異なることぐらいわかりそうなものと考えたからです。)
しかし、面細郭・背長郭の不知銭はずいぶん見ましたが、背細郭・面長郭の天保は見たことがありません。私の仮説は面長郭・背細郭の出現がほぼ同数でなければおかしいのです。そういう意味では私の仮説は正しくない。となると私の仮説にも修正が必要で、天保銭は板にはめ殺し状態で固定されていたと考えるのがよろしいかと。一方で天保仙人様は背細郭・面長郭の天保は必ずあるとおっしゃっていました。できれば私も目撃者になりたいものです。
※今週はたしか江戸コインオークションだったと思いましたが、いまだにカタログが届かない。不安になってきました。 
 
10月11日 【水永母銭】
私のHPのお客様は96%は日本国内の方・・・と、いうことは4%ぐらいは海外からアクセスがあります。とはいえ、日本の穴銭がメインのHPですから、アクセス先も東洋地区が圧倒的に多く、なかでも中国は海外アクセスの3分の2ほどという大きなシェアを占めています。数名ですがお便りをくださる方もいらっしゃいます。おそらく翻訳ソフトを使っているのだと思いますが、少々怪しげながら、それでも一生懸命に作文してお便りをくださるのです。
私は中国には2回ほど行きましたが、古銭にはあまり縁がない旅でしたが、それでも湖南省の長沙の古銭マーケットをごく短時間訪問できました。その時見たのがショーケースの真ん中に寶永通寶が鎮座する姿。当時のレートで1万円ぐらいしていました。その時求めたのが乹封泉寶の美銭でしたっけ。偽物と言われて、がっかりしてすぐに売却してしまいましたが、今思い返してみてもあれは本物の美銭だったなと感じています。
さて、今回その中国は江蘇省からものすごい投稿がございました。
驚くなかれ、葛巻銭の水永の母銭・・・それも2枚もです。入手経緯について聞いていないのですが、この方はたしか密鋳銭が好きで、見寛等の画像をお送りいただいたことがあったような記憶があります。しかし、水永はレベルが違う。相当熱心なコレクターじゃなければ持ってないし、買おうと思っても市場には出てこないものなのです。中国でこのような古銭を入手するとは驚くべきマニア。脱帽しました。あっぱれです! 
 
10月10日 【鐚式慶長】
直径22㎜強、重さ2.1gの慶長通寶です。この鐚銭を見て美しいと感じる人はなかなかの通ですけど、世間から見れば変態なのかもしれません。まあ、ちっぽけでみすぼらしいし見栄えなんてしません。でも、この薄っぺらな慶長通寶が通常の慶長通寶より2ランク珍しくて高いなんてほとんどの方が思わないでしょうね。
この慶長は鐚式の千鳥と呼ばれるもの。3か所が盛り上がっているから3ツ千鳥とすべきものでしょうか?
寛永通宝では元文期日光銭の正字の千鳥があまりにも有名ですけど、この慶長の千鳥も探しても簡単には見つかりません。だいたい慶長通寶そのものが非常に珍しい穴銭ですから・・・。私は画像だけで一目ぼれし、応札しましたが本気度が低かったため逆転されてしまいました。競ったらきっと火傷したと思いますのでこれでよかったと思います。
※ここのところパソコンが不調で、自動更新が終わらず閉口していました。なんでもウィンドウズのアップデートの不具合だとか。立ち上げると画面がブルーになり2時間ぐらいインストール作業が続き、結局だめで復元して戻ります。ネットで探し修正パッチをインストールして2日ほどで回復しましたが、もうだめかと思いました。
※そういえばキュリオマガジンがまた届いていません。どうなっているのか・・・。
 
10月8日 【薄肉の方字】
ネットでおもちゃ(参考品)としてあった方字を入手しました。出品者はあまりの薄さと色合いでこれを贋作の類と判断したようですけどまぎれもなく本物でした。(長径48.6㎜、短径32.0㎜、重量13.4g、肉厚1.6~9㎜、含白銅質)これについては2014年7月31日に萩銭コレクターのTさんから頂戴した情報で12.9gの方字の報告があります。記録更新はなりませんでしたが、貴重な品です。方字は昭和泉譜において薄天保の名前が付けられたように薄肉のものが多いようですが、50枚以上の方字が掲載されている秋田の村上師の天保通寶研究分類譜の中でも肉厚2㎜以下はわずかに1枚のみ。(1.97㎜)むしろ厚肉の方が珍しくて2.7㎜は少なく、もし3㎜を超えるものを見つけたら国宝級だろうと思います。(2.2㎜クラスは結構見つかるみたいです。)
肉厚は計測部位によって異なるので、重量をも目安とした方が良いかもしれません。一般の天保銭でも15g以下は少ないもので、私の所持品の中での記録は暴々鶏氏から分譲いただいた盛岡藩銭の銅山手で重量は12g未満の11.7g、手にするとペラペラ感がすごい品です。薄肉の天保銭は見栄えがしないのですが、実数的には大変貴重なものです。是非お探しください。 
 
10月5日 【接郭大様?】
収集していた画像で、詳しいことはわからなくなってしまっていますがたしか25㎜をほんの少し超える大きさだったと思います。古寛永の芝銭はやや大きめのものが散見されますが、やはり25㎜以上は珍しいと思います。(そもそも古寛永の25㎜超えそのものが一部の銭種を除ききわめて稀なのです。)接郭はどちらかというと地味な芝銭の中で、特徴がはっきりしているので比較的良く知られた種類。雑銭のなかから私も見つけたら拾います。類似の品で芝銭には不草点刔輪という絶対的な銘品(エース級)があり、その大様(エンペラー級)なんぞはほれぼれする銭容です。そいつは古寛永泉志では巻末で接郭大様の名前にされていますが、本品とは別物でやはり不草点大様とすべきだと思います。
さて、この品はかなり濶縁で不草点刔輪につながる品なのかもしれません。接郭としての大きさからすると母銭クラスであり、地肌の様子からも加刀の様子が伺われます。ただ、背のつくりが甘いですね。芝銭の接郭としては間違いなく大様なんですけど古寛永で大様の名前を付けるには少々気が引ける微妙な大きさです。けれども、この品は持っていたら絶対古銭会などで自慢したくなる品であること間違いなし。平成17年の銀座コインオークションに出た不草点刔輪は25.5㎜ほどでしたから、種類は異なるもののこれはそれに準ずる品じゃないかしら。ただし、見る側に知識・興味が伴わないと「ふ~ん、そんなものなの・・・」と見過ごされやすい品であることもまた事実です。そういう意味ではとても不遇な古銭なのかもしれません。
 
10月4日 【文久銭の価格】
唐松堂氏から送られてきた資料の中に、文久銭の価格表なるものがありました。価値を計る上では大変参考になります。恐らく現在日本で一番熱~い文久銭コレクターの評価ですから、多少の思い入れはあるにしろほぼ正しい線が出ているのではないでしょうか?
思い入れと言えば坂井氏購入の高い価格なるものもあり、さすがマニア価格と言ったところでしょうか?でもって私の感覚・・・
深字狭久・・・13500円~かあ、こいつは草文や玉寶の母銭より絶対少ないと思うのです。欲しい。
深字正文・・・50000円~ 絶対王者。これだけ払える人はえらい。お金出しても出会えないかな?
深字降久・・・12500円~穴銭を始めたとき、こいつは別格扱いでした。カラーブックスなどにも掲載されていたと思います。制作は飛びぬけてよいものが多い気がします。こいつの地肌(砂目)、魚子地肌のようできれいなんです。
直永・・・15000円~ これは思い入れが入っている気がします。市場価格は10000円ぐらいからあるのでは?
直永手細字離足寶・・・15000円~ 私、この品は江戸コインオークションカタログで一度見た以外は見たことありません。この価格で買えるなら欲しい気がします。
直永手細字仰寶類・・・7500円。細字長寶の類ですね。意外に安いなあ・・・。私が初めてまとまったお金を出して購入した文久がこれ。江戸コインオークションの郵便入札でした。そのときに逃したのが直永手細字離足寶、だから両銭とも思い入れがあるのです。
楷書・・・50円~ 雑銭だからしょうがないけど100円じゃダメ?
狭久と正文、離足寶はいつかは欲しいですね。
 
 
10月3日 【美しき俯頭通】
先日の俯頭通の入手者E様から素敵な画像付きメールを頂戴しました。背景のブルーに黄金色の俯頭通が鎮座しています。いやあ~美しい。長径49.3㎜ 短径33.1㎜ 銭文径40.8㎜ 重量27.8g・・・この重さは迫力です。銭文径は少し小さ目ですが、その分濶縁気味でかなり大きい。細字も好感が持てます。また、短径の33㎜台はかなり大きく、重量と相まってどっしり感がありますね。この品は通用銭の作りですけど穿内のやすりは面背から山形に入れられているそうです。私は俯頭通の面背がずれたものは(現物・拓本・資料とも)見たことがないので中見切製法ではないと思いますが、とても興味あることです。ちなみに私の持っている品はほぼ平らに穿内やすりがかけられており、しかもかなりの細縁大字。画像は夏の古銭会展示室に掲載しておりますのでご覧ください。制作も違いますし、文字が繊細ならば母銭と判断してもよい自慢の品です。このような不知天保銭は短期間にまとめてつくったので、大きさにはかなりのばらつきがあると思います。この点は秋田の故村上師が、張足寶にはいろいろな銭径のものが実に多いと語ったことが思い出されます。(私の考えは2014年の12月20日と2015年2月1日の制作日記をお読みください。)極印は打ち損じのようではっきりしない・・・とのことですけど、私のものも打たれているけど雑な感じがします。本座の天保通寶鋳造において、極印を打つ職人はかなりステイタスが高かったそうですけど、不知銭の場合はそんなことはないと思いますし、幕府などに母銭保持が発見されたときに言い逃れできるように、母銭にもあらかじめ極印を打ったようですから、打ってあれば雑であっても問題なし。なお、不知天保通寶分類譜上巻に俯頭通平マ頭厚肉というものが掲載されていますが、これが同じような感じですね。とにかく良いものを拝見できました。ありがとうございました。
 
 
不知長郭手天上刔輪
長径48.2㎜ 短径31.8㎜
銭文径40.9㎜ 重量18.7g
10月2日 【天上刔輪】
ネットで入手したごく平凡な鋳写の長郭手です。一応、異極印銭なのですがわずかに天の上部の輪に加刀が見られます。
厳密にいうとこれは刔輪というべきものではなく、天字と輪が鋳走りによってくっつきそうになったのを母銭の輪の内部を少し加刀してはっきり分離させたものといえましょう。
鋳写し穿としてはかなり銭径が小さいほうかもしれませんが、文字が太く鋳出されているため銭文径はやや大きめです。
部分刔輪銭というと、ぐりぐりえぐったようなものを想像してしまいますが、本来はこの品のように輪と文字がくっつぃてしまわないように削ったというのが多くの真相でしょう。
名称も天上刔輪というより、天上削輪と言った方が表現としては正しいかもしれません。不知銭の評価としてはこの程度ではまだまだという感じですけど、面白い品であるのには変わりありません。ついでにこの不知銭まん丸の小さな桐極印(異極印)であることを付記しておきます。
 
 
10月1日 【高田縮通錯笵銭】
ネットで高田縮通の錯笵銭を入手しました。まあ小汚いことこの上なく好き嫌いが分かれるでしょうけど、私は好きなんですね。錯笵銭にはいろいろあろうかと思いますが、面重文は非常に少ないものなのです。ただ、このような角度違いの重文はなぜか高田銭の縮通に多く見かけます。本来、このような錯笵は全く同一のものは出現しません。理由は「錯笵をつくるための錯笵母銭はない」からで、同じものはできないのです。もし、はじめから重文になった母銭があればそれからは錯笵銭しかできないはずですけど、それはあり得ない。だから贋作になります。左の2枚は輪や背の郭の様子など非常に似ていますが文字の角度が違います。それに上段の品は錯笵にしても状態が悪い・・・つまり贋作としては失敗ですね。
通常の製造工程でこのような角度違いが多発することはあり得ません。ですから、これは戯作の可能性が大きいと私はみます。実は11月8日はふいご祭り(たたら祭り)と呼ばれ、鍛冶職人にとっては大切な日。そのときのためにわざと不完全なものを作ったというお話を聞いています。江戸においては上棟式のようにミカンなどを撒いたそうですから、これらも古い撒銭もしくはお供えの銭、記念銭なのかもしれません。
 
9月30日 【直永広文俯頭久短尾久大文】
文久永寶については私は全く素人同然で恐縮なのですけど、文久永寶周遊会の資料に私の品物が掲載されました。直永ということはわかりますが、細分類は自分でしたわけでなく、全くの他力本願・・・しかもこれは貰い物なのです。この品は文の第2画と末画との間が離れ文の文字が頭でっかちに大きく見える手替わり品とのこと。
そういわれると確かに変な書体に見えます。とはいえお恥ずかしながら私自身はこれを手替わり品という認識はしてませんでした。文久が解明される日は近い?
 
 
9月25日 【俯頭通が出た!】
10年以上、ネットで雑銭を見てきましたが、俯頭通ははじめてみました。あるんですね。私がはじめてこの天保銭に出会ったのは1972~3年頃の子供時代。正月休みに千葉の古銭店(大宝堂)の親父さんに未使用の旧20円金貨とともに自慢げに魅せられた記憶があります。欲しくなって値段を聞いたのですが12000円と言われてしまいました。たぶん、親父さんはその価格を言えばあきらめて帰るだろうと考えたのかもしれません。(すでに古銭ブームは起こりはじめていましたから、おそらく12000円という価格は相場を無視した価格だったと思います。)
当時は1枚10円程度で売っていた穴銭を買うのが私の主な目的で、天保通寶は本座銭しか持っていませんでしたし、不知銭なんてほとんど知る由もありません。それでもその天保銭は輝いて見えました。実はその日、私はためていたお小遣いとお年玉で珍しく10000円ぐらいは持っていました。古銭店には電車とバスで通っていましたが、バスを徒歩に代えても2000~3000円足りない。だめかと思いましたが、一計がひらめきました。
「また来るね!」と、すぐに店を辞して、ショッピングセンター内にあった叔父のお店(焼肉店)に徒歩にて直行。幸い叔父のお店は正月はじめの営業日でした。
「おじさん、明けましておめでとうございます。」「お、○○ちゃん、珍しいね。明けましておめでとう。そうだ、ごちそうするからお昼ご飯食べてゆくかい?」「うん、でもいらない。その代りにお年玉ちょうだい。」大胆にも私はお年玉の要求。それも金額指定。それはおそらく叔父の想定金額の倍以上だったと思います。
かくして私は古銭店に駆け足で戻り、目を丸くする店主に12000円を差し出し、俯頭通を奪い取るように買ったのでした。帰宅のための電車賃は残っていましたが、バス代もお昼代もなくなりました。帰宅後、母に顛末を話すと、半分あきれられて「私から叔父(母の弟)に返しておくから。」と、いうようなことを言われたと思います。
さて、肝心の俯頭通ですけど残念ながら競り合いとなり、途中下車してしまいました。根性なしですね。ちょっとだけ夢を見ましたけど・・・。
 
9月21日 【キュリオマガジン】
キュリオマガジン10月号が届きました。この雑誌、舎人坊石川氏が連載していた関係で定期購読を始めた経緯がありまして、実は私も一度だけ誌上登場したことがあります。私のHPの表紙に広告のようなものを掲示していますが、これは勝手にやっていることで到着した雑誌から情報を収集して書いていました。ただ、最近は同社のHPからも直接情報が取れますので横着していることも多々あります。
数日前に、天保仙人様から3月号を譲ってほしい旨の連絡が入り、山積みにしていた資料を少し整理しました。あれ、足りない!8月号と9月号がありません。そういえば銀座コイン竹内氏の連載が始まったはずなのですが10月号はもう第3回です。
HPから情報を収集したら記事を読んだ気になってしまっていました。だって、HPにしっかり書いてますから・・・全く盲点でした。
最近、表紙にきれいなお姉ちゃんが出るようになっていましたので、その記憶ばかりが鮮明でして・・・。こんな状況ですから、収集物が整理できないのです。抜本的改革が必要な気がします。
※TPS48はいつの間にか不知銭に突入しています。8、9月号が気になりますね。 
※連絡を入れたところ、すぐに未着誌が届きました。 
 
9月20日 【現行エラー貨幣への警鐘】
収集誌に2つ穴の50円玉がまた出ています。入手された方は喜びを隠そうとしませんが・・・失礼ながら私にはどうしてもまともなものには見えないのです。製造工程を考えるとどうにもわからないのです。
以下が私の疑問です。
まず、仮に2つ穴が本物だと仮定するといったいどの段階で穴が2つ空くのでしょうか?
円形段階で穴が空けられるのなら、どうやっていくつもの検査をすり抜けたのでしょうか。
そしてどうしてズレた穴の方が大きいのか?(円形に模様が打刻されれば当然穴は元穴より小さくなるはず。)
模様打刻時と同時に穴が空けられるのならどうして穴だけがズレていて模様のズレや瑕がないのでしょうか?
となると模様が打たれた後に穴が空けられたとしか考えられないのですが、そんなエラーを誘発するような不安定な工程を取るのでしょうか?もちろん門外漢の私の考えることですから、いい加減な空想を言うなとお叱りを受けると思います。でも、どう考えても手放しで素晴らしいものであるとの納得がいかないのです。皆様もお考えください。
 
 
9月19日 【退点文小文:下町古泉会より】
下町古泉会のに出ていた退点文の組み物。左下に注目!退点文の退点文つまり小文じゃないかと思える品。もちろん、拓本が必ずしも正しいとは限らず、もしかすると大ヒビやスアナなんか空いてるかもしれない・・・でもひょっとして・・・てな具合に、疑心暗鬼と優柔不断の根性なしが独り相撲・・・結局、中途半端な応札で不落でした。残念。
 
 
9月16日 【ご機嫌な不知銭】
下町古泉会の落札品です。なんてことのない覆輪写しの長郭手です。これのどこがご機嫌かというと・・・安かったから。コストパフォーマンス良好なのです。なにせ出品価格3000円ですから・・・。安物買いの銭失いと言われてもこれはやめられないです。穿内はべったり強いやすり掛けで、極印がはっきりしないのですけど、地肌の様子からも魚子地肌異極印銭の系統だと思われます。長径48.4㎜ 短径31.9㎜ 銭文径41.1㎜ 重量21.0g
 
 
9月14日 【方泉處原品】
下町古泉会の入札品が届きました。久々ですね。今回は村上コレクションがたくさん出ていたのですけど、願いむなしく・・・それでも2品だけ落とせました。その2枚はともに方泉處の新寛永通寶図会の原品ときたものですからこれはラッキーです。
ひとつは加護山の中字様。鋳写し銭ですからこれを見分けるのはちょっと大変なんですけど、方泉處原品なら間違いないでしょ。と、思って改めて新寛永通寶図会を開くと・・・あれれ、全然違う。調べたらハドソン社の東北・北海道の貨幣の122Pには掲載されていますが、図会の現品ではない・・・しまった、これはかなり高い買い物になってしまいましたけど、まあ、いいいか。
もう一枚は元文期亀戸狭穿の写し・・・これは見事な品です。状態表示も(上)と良く、最低価格もほかのものに比べてなぜか格安。調べたらしっかりヒビが入っていました。それでもこれだけ見事な加護山写しはまず簡単には見つかりません。しかもこれはまさしく新寛永通寶図会の現品。(東北・北海道の貨幣にも掲載されています。)ヒビを考えると高いのかもしれませんが、今さら手放せませんね。と、いう訳でほろ苦い失敗もありましたが、好奇心は抑えきれず大枚をはたくことになりました。ちなみに、3000円で出品されていた不知長郭手も落札。立派な覆輪銭でした。
 
 
9月11日 【退点文小文もどき】
ネットで出ていた退点文。表示名は「退点文の細点文」ですけど、あまり聞いたことがないですね。画像の雰囲気は退点文の小文(退点文の退点文)のようにも見えましたし、価格も高くなかったので即決購入してみました。サマージャンボ10枚買ったと思えばよいのです。(もっとも当たったとしても利益はサマージャンボには足元にも及びませんけど。)品物が到着して拝見しましたが、私の衰えた視力では肉眼でももちろん、ルーペを使ってもよくわからない。きれいな品で、文点が小さく上部が鋳だまりなんだか打ち瑕なんだかそれとも鋳不足なんだか・・・。結論から言うとこれはやはり退点文の小文(退点文の退点文)じゃなさそうで、直一文からの変化かなあ?
理由は・・・文点がわずかに横引きから離れること+背文と郭がやや縦長で、小文系の横長変化に該当しないのです。
とはいえ、変化としては面白い。文点は確かに小さく見えるんですね。一手にはできないかもしれませんけど。
 
 
9月8日 【ひょっとしたら大化け】
ネットに出ていた妙にきれいな盛岡小字。スタリキ贋作の匂いがプンプンしそうな雰囲気で、妖しいなんてもんじゃない。そう思っていたらとんでもない情報が飛び込んできました。
かいつまんで書きますと、平成21年9月に、郷土史家・古銭収集研究家の栃内元衛氏が発表されている、浄法寺の小林家で発見された「浄法寺山内柏木天保母銭」(と同系統のもの)の可能性があるそうで、地金が黄銅質であることもドンピシャだそうです。これは藩が山内に貸し出した「山内用母銭」なんだそうです。しかし、出品名がメダル・ジャンク品・・・これは手を出すのは相当怖い。そんな臆病風に吹かれているうちに終わってしまいました。その後の追加情報で、これと同じ品は関西方面に1~2品存在し、それが京都方面の大コレクターの入手されていたとの噂なんですけど・・・出品地を見たらズバリ京都・・・背筋に気持ちの悪い汗が流れ出しました。 
※残念ながら贋作(参考品)でした。 
 
9月7日 【再読 日本古代貨幣の創出】
流し読みしかしていなかった今村啓爾氏著の日本古代貨幣の創出を再読しました。この本は昨年購入していたのですが、しばらく行方不明になっておりました。このたび寝室のベッドと壁の隙間から再発見しまして、新鮮な気持ちで読み返せました。

日本初の貨幣と言われていた和同開珎は708年(和銅元年)に鋳造開始されたというのが今では定説ですけど・・・日本書紀をはじめ古代史文献にはそれ以前に銭があったことを示す記述があちこちあるのです。
なかでも683年に出された「今より以降、必ず銅銭を用い、銀銭を用いることなかれ」という詔とその発布後わずか3日に出された「銀を用いること、止むことなかれ」という詔は、古代貨幣史の最大級の謎でした。
そこで古の学者は貨幣名称の和同と年号の和銅の違いから、708年に鋳造されたのは新和同であり、683年の銅銭は銀銭のある古和同だと・・・年号と銭名は関係性が薄い・・・として、これが長らく支持されてきました。
しかし、近年になり富本銭が飛鳥池遺跡から発掘されてから、上記の馬鹿なこじつけは一掃されたはずなんですけど・・・どうも日本の頭の固い学者様達はいまだに富本銭を銭として認めようとしたがりません。
この本は歴史の真実を、発掘した現物と文献とをすり合わせながら解説してくれるものなのです。
そもそも、古代日本には価値の尺度としての貨幣はありませんでした。基本は物々交換で、なかでも食料品である米や布などは上納品や交換物資として重宝されました。
しかし、これらの品は一次産品であるとともに消費財であるため、一定の価値を保つことや長期保存ができません。そんな一次産品の中に救世主的な産物が加わります。それが貴金属の銀でした。
銀は実用品としての価値もありましたが、宝飾品としての財の価値もあり、保存も利きます。ただし、大きな塊のままでは流通には不便なので、小分けにされ、それが発展して秤量貨幣に近い役割を与えられるようになります。
携帯や分割に便利なように決まった大きさの塊に揃えられていった・・・そしてそれが最初の貨幣、無紋銀銭の誕生につながったと考えられるのです。したがって無紋銀銭は材質そのものが価値を持つ、現物貨幣であり、銀塊のものでもありました。
その頃、中国では銅銭が流通していました。この銅銭は地金そのもののの価値以上に、時の政権がこの銅片に価値と信用を与えたもの。
つまり、名目貨幣だったのです。大和朝廷はこの方式の導入を夢見ました。これによって経済を支配しようとしたのです。
そして683年の詔が出されます。「今から決済用の通貨には富本銭を使いなさい。無文銀銭は使用してはいけません。」
富本銭には米などの一次産品にリンクした価値が与えられました。けれども、この策は民間の猛反発によって頓挫します。朝廷の失敗は富本銭を農産物にリンクした価値にしたこと・・・つまり、これでは豊作凶作による価値変動がすさまじくなります。また、物々交換しか知らない庶民に、銀より価値の劣る名目貨幣がすんなり受け入れられるほど理解力があるはずがないのです。決済に無紋銀銭が使えないのも納得できない。朝廷の夢はわずか3日で頓挫するわけですけど、朝廷にも意地があるわけで、だから「銀を用いること、止むことなかれ」とあえて「銀銭」という名称を使わなかったのです。無紋銀銭は公的には地金に戻ったのです。
さて、一度失敗した朝廷は次なる秘策(シナリオ)を考えました。
今度は無紋銀銭に代わる「和同銀銭」をつくり、決済用の通貨としての地位を確立する。でもって、頃合いを見計らって体裁や名称はそのまま、材質をそっくり銀から銅に置き換える。
新規発行された古和同銀銭は無紋銀銭1枚にリンクした価値を与えられます。それにより無紋銀銭は価値基準になりました。古和同銀銭は無紋銀銭ほどの重さはなかったものの、富本銭よりはスムーズに市場に受け入れられます。
しかし、材質を銅に変更したとたんにまたもや民衆の離反にあいます。やはり民衆には銀と銅が當価値とは受け入れがたい。ですから古和同銅銭はほんの少ししか流通しませんでした。その後朝廷は色々画策して、等価とはいかないもののなんとか銅の地金より高い価値で和同開珎銅銭の流通にまでこぎつけます。初期の詔の中に古和同銀銭と銅銭の交換レートが書かれていないのは、価値を変えなかったため。今村氏の説は斬新ながら傍証がしっかりしており、無理がありません。

物々交換の世の中から貨幣流通経済に変えるということは、生半可なことではうまく行かないのは当たり前ですね。なお、これらの説に対しては奈良文化財研究所所長(富本銭の発掘者)が誹謗に近い異を唱えて平行線状態だそうですけど、どうも考古学や古泉学の権威の方は、異説に対し喧嘩腰になる方が多いようで困ります。したがって富本銭はいまだに厭勝銭ですし、「わどうかいちん」のままです。「わどうかいちん」の読みについては江戸時代には確かにそう読まれていましたから、その歴史を覆すのは大変そうです。

余談ながら和同開珎のモデルと言われる開元通寶は621年の鋳造。中国における開元元年は西暦713年で全く違う。和同開珎が循読であることから、和同開珎出現時期には「開通元寶:かいつうげんぽう」と読まれていたと考えられますけど、今の古銭界で「開通元寶:かいつうげんぽう」と言ったら無知だと笑われそうです。(開元年間にも開元通寶は流通していたので、この時代に読み方が変わったと考えられます。) 
 
9月6日 【新発見!深字小文退点文】
寛文期亀戸銭の退点文小文といえば、別名退点文の退点文とも呼ばれ、大変希少な品種。私自身、わかっているようでわかってなく、らしきものを色々拾って勉強中の品です。さて、大分貨幣研究会の祥雲斎氏から頂戴した資料の中にあったこの拓本に目が釘付けになりました。はじめは退点文小文だと思いましたが明らかに拓が変・・・よく読むと小文の退点文とあり、前に深字の文字もある。説明には『(インターネットにて購入した)20Kgの中から選りだした銭である。A氏から「今でも手が止まって震えてきたのを覚えている」との事であるが、これは新発見!立派な深字小文退点文である。』とあります。類品をお持ちの方、いらっしゃいませんか?これは大化けしますよ。 
 
9月5日 【加護山銭がいっぱい】
下町に秋田の村上師の遺愛品である加護山がまとめて20品ほど出品されています。良し分かった、まとめて買ったろうじゃないか・・・と威勢よく言いたいのですが値段を見るとへなへなになってしまいます。この手の品は決して見た目に美しいわけではないと思います。文字はずれてるし、穴も曲がっている、状態も悪く銭文だってはっきりしないにきまっている・・・まとめて10万円でどうですかと言いたいところなんですけど、ものによっては18万円なんてものすごい強気値段がついています。私、意地で数枚応札しましたが現品を見たらきっとなんて馬鹿なことをしたんだろうと後悔すると思います。でも応札しないともっと悔やむかもしれません。昨年は白目中字写しの改造母銭をなんと5万円近くで買い、方泉處原品の加護山繊字も大枚はたいて求めました。病気だからしょうがないんですけどね。密鋳銭病の方・・・踊ってください。私も踊っています。
 
 
9月3日 【難波の面背逆製】
難波高頭通だと思うのですけど面背逆製です。誰が言い出したのかわからないのですけど、収集誌上でも紹介された知る人ぞ知る穴銭の製造過程のエラー銭。その存在確率はたぶん1万枚に1枚ぐらいしかないと思うのです。2015年の1月14日の制作日記に当時の確認種類が記述してありますが、現実には何でもありなんでしょう。明和4文銭は見栄えは良い方ですけど、それ以外はおおむねなんじゃこれ!のゲテモノです。こいつもそうなんですけど面偏輪でもありなぜか愛おしい・・・。
 
 
9月1日 【覆輪天保】
久々にネットで落札した天保銭です。地味な品物ながら立派な覆輪の不知長郭手です。長径42.5㎜ 短径32.8㎜ 銭文径40.8㎜(推定) 重量24.9g とかなり数字も立派なもの。不知銭はやっぱりこれぐらいが楽しい。とはいえ、近年変態過剰気味の不知銭ばかりを見慣れた諸兄にはいささかノーマルすぎるかもしれませんが、人間は原点回帰が大事なんですね。
不知天保銭の収集は、鋳写し → 覆輪 → 覆輪刔輪 → 張足寶といった具合に出世してゆくものなんです。しかもこの天保は肉厚(重量)も十分、これで文句を言ったら罰が当たるってもんです。はい、地味なんて言ってごめんなさい。
 
 
8月31日 【すっきりした島屋文】
島屋文本体として出ていた品です。この手の品としてはとても美しい品で思わず画像収集&応札。あわよくばとは思ったものの当然そうはならず25万円ほどでどなたかがお買い上げ。このブランドはやっぱり強い。ところで画像を見ていてずいぶん細縁だなあと感じます。いや、細縁だぞ、とにわかに大騒ぎした方もいると思うのです。実は私もそのひとり。しかし、外径25.20㎜ですから通常の島屋系にしては小ぶりですから磨輪かもしれない・・・落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせております。島屋の細縁系は基本的に銅質が母銭質なので地金が違う・・・というのが私の見解。したがってこれは細縁ではないと思うのですが最近私の目はピンボケなので断言はできません。ただし、この寛永銭はとてもすっきりしてよい顔をしています。それだけは間違いなし。
※先週の台風の日以来、ほぼ1週間体調不良です。いつもは不眠症気味の生活をしている私が、信じられないぐらい寝られるというか起き上がるのがだるい。それでも体は動くのですけどせき込みが止まらないので感染症に厳しい職場からはNGが出ています。古銭が薬と言いたいのですけど・・・。
 
 
8月27日 【手を出してよい母銭】
称竹田銭斜寶の母銭が出ていました。外径が26.18㎜と本格的な大ぶり母銭。これだけ大きく間違えようがありませんね。斜寶は通用銭でも25ミリ前後のものが散見されます。母銭も時々は見かけますがなかなか入手までの決断ができません。しかも画像の品は大きさだけでなく、銅質や作りの丁寧さをも兼ね備えた完璧な母。久々に食指が動きましたが惨敗でした。
私は母銭コレクターではありませんけど、これから母銭を集めようという方にちょっとアドバイス。目が利かないうちは母銭には手を出すなです。実際に市場に出回っている母銭とされるものにはかなりのきれいな通用銭が混じっています。古寛永なぞは『通用銭の大きくてきれいなものを鋳ざらって母銭にした』のです。(不知天保銭や不知四文銭も同じ。)したがってかなりの母銭もどきが存在しますが、その見分けはコレクターの主観にすぎません。寛文期亀戸銭なんぞは今だによくわかりません。絶対間違のいない文銭の銅母銭にはほとんどであったことすらないのです。それでも母銭を集めたいという勇気ある初心者には・・・
古寛永ならこの竹田銭か御蔵銭の大きくてきれいなものから始めましょう。厳密には母銭ではないのですが毛利手本銭も良いと思います。新寛永なら鉄銭の銅母銭を集めれば問題なし。それ以外というのなら明和期の當四文銭類が非常にわかりやすい。通用銭と大きさはもちろん、文字の繊細さ、銅質の違いも歴然としています。一文銅銭ならば不旧手の初期の頃のものが良いと思います。
とにかく前の所有者やコイン店の表示はあくまでも参考だと考え、自分の目で見て明らかに母銭として合格・・・と言えるような美しいものを集めた方がケガがありません。手を出してはいけないもの・・・高額なもの、文銭の母、水戸銭系に多く見られる黄銅質未使用タイプ(贋作が多い)、錫母など。君子危うきに近寄らずです。
 
 
8月26日 【文久の母銭磨輪】
文久永寶周遊会の記事で気になったもの。左は祥雲斎氏が5万枚の雑銭の中から4枚発見したという品です。
文久の真文系の母銭は皆無と言ってよく、たまたま市場に出ると50万円ぐらい平気でします。
特徴は母銭質の銅+鋳ざらいの痕跡ということ。ただし、私には母銭質の銅質そのものが分かりません。右の品は宮崎のK氏が選りだしたもので、その説明には『やや柔らかい赤味の強い母銭質』とありますので、それを参考に調べてみましょうか?ただし、祥雲斎氏いわく『通用銭と同じ銭径・至輪径の母銭の価値は草文・玉寶と同じ1万5000くらいが相場と考える。』とあります。つまりあくまでに改造母銭の域を抜けないということかしら?
たしかに、銭譜を飾る真文の母銭はどれも巨大ですね。あれは原母・錫母に該当するものなんだろうなあと思う次第。真文を作った金座は錫母の制作技術を知らなかったとも聞いておりますので、このようなものが出てきてもおかしくないはず。皆様もお探しください。
(通用銭鋳浚い母銭としていたものを祥雲斎氏が名称を改め発表されています。)
※台風の後、風邪をひいて4日間寝込んでしまいました。これだけ連続して休んだのは久々です。熱はさほどではありませんが、めまいがひどく起きていられませんでした。
 
 
8月24日 【河童伝説の真相(天保仙人秘談)】
その昔、鋳銭技術を持つ人(渡来人系)の力が強くなることを恐れた幕府は、彼らに一定の権限を与える代わりに居住地を限定しました。ついには身分を最下層に落として、生活上に数々の制限を課しました。一般人と交わることや五穀を食べることさえご法度。何せ人以下ですから。
月代(さかやき)は剃っても、髷はゆえないのでザンバラ髪。
ところで鋳銭に必要なものは、炭、銅、鋳砂と人と水運です。したがって鋳銭場は川の近くにあることが多かったようです。江戸において彼らが浅草・蔵前、鳥越などを拠点にしていたのは、そういった理由もあります。
あるとき、江戸が大洪水に見舞われました。そのとき、彼らは一般人と交わってはならないという禁を破り人命救助・救済の活動を行います。役人の調べが入り命の恩人に危害が及ぶことを恐れた人々は役人に対して河童に助けられましたと証言したそうです。ザンバラ髪で、粗末な衣服の彼らは河童のように見えたことでしょう。
河童伝説のあるところに銭座の影あり・・・岩手県遠野村は銭座職人を多く輩出した地だとも考えられるのだそうです。
 
 
8月22日 【台風の最中】
台風直撃の関東地方を私はさまよっていました。出張で長野県で一夜を過ごした私は、交通がマヒする前にと6時すぎの新幹線に乗車・・・午前7時半すぎには東京駅に降り立ったのでした。しかし、せっかくの上京の機会を逃してなるものかと新橋に向かいました。そうです、江戸コインオークションの日程を聞きに田宮商会(ウィンダム)を訪れたのです。実は仙人様から店員のAさんが奮闘しているから応援してあげてとも言われておりましたので表敬訪問。そのうち出品もしようかな?
しかし、さすがに早すぎましたので、近隣の喫茶店などで粘ること2時間あまり・・・。ようやくお会いすることができました。カタログ撮影は順調に進んでいるようで、原稿もちらっと見せていただきました。あいさつ代わりに久留米の正字濶縁と面背逆製の寛永通宝をGET。
オークション日程は表紙にも記載しましたが、平成28年10月16日(日)だそうです。場所は東京駅隣接の丸ビル7階。
すぐに帰宅路につきましたが総武快速線は一部運休が出はじめているということで京葉線に・・・しかし、この判断が間違っていました。順調に走行していた電車が、新浦安の駅でピタリと完全停止状態に・・・そしてそのまま2時間あまり動く気配は全くなし。そこで風雨の中意を決してバスに乗り換え行徳駅を目指します。行徳駅からは地下鉄東西線に乗り換えて西船橋駅に。さらに総武普通列車に乗り換え千葉駅まで何とかたどり着きましたが、またしてもそこで缶詰状態になりました。改札は払い戻しを求める乗客でごった返していたので、払い戻しを放棄して改札の外へ。タクシーは当然長蛇の列だし、待っているうちにびしょぬれになりそう。
幸い京成線の下りはまだ動いていました。(ラッキー!)しかし、私が車を停めている駅にはこの列車は行かない。それでも少しでも近づいた方が有利と乗車。千葉寺駅に到着したときはまさしく暴風雨圏域でした。ここから車を置いてある駅までは徒歩20分なんですけど、絶対に無理。激しい風でホームにいることもできないほど。タクシーも走っていませんし、大通りまでも出られそうにない。やむなくさらに電車で行けるところまで南下。不本意ながら高齢の父に危険を冒してもらい車で迎えに来てもらいました。(そのあと、車を取りに・・・)
結局自宅についたのは16時30分。約10時間にわたる逃避行でした。帰れてよかった。
文久永寶周遊会の記事より
直永広文広頭久背左二波直波(上段)
『文久永寶分類譜』では「削字広久」と分類されているが、削字変化ではなく彫母銭からのものである。文の字が幅広く、久字の頭が広いので「広文広頭久」と分類している。さて、この品は『文久永寶分類譜』の拓図に比べて左の二波が直波になっている。類品は多いので背左第二直波と分類した。
直永広文広頭久背左二波曲波(下段)
岩手の兼子氏が気が付いたことであるが『文久永寶分類譜』に比べて背左二波が低く曲がりの大きい波であり、左二波曲波と分類した。なお、広文広頭久で背左二波曲波を青森の板井氏の蔵品からも確認している。(大分の坂井氏によるとどうやらこれは珍しいらしい。)

※長旅の疲れと二日酔いでまだぼおっとしています。拓図を見る限りずいぶん郭の大きさが異なります。文久の変化は本当に激しく、その差を見分ける達人の方々の慧眼には恐れ入ります。
 
8月18日 【琉球半朱濶縁?】
なんの変哲もない琉球の半朱に思えますけど内径が小さくわずかに濶縁になっています。琉球半朱の濶縁は類似貨幣カタログにも掲載されていますけど、評価は「少」の珍品です。
と、いうことでこれは銘品・・・と、したいところですが、実はこの半朱は明治期に作られた贋作品だそうです。
やすり目、砂目などほぼ完ぺきに近く当時の技術で再現していますが・・・唯一と言える失敗が極印。ものすごく不格好なサ極印が打たれています。おそらくそれが完璧ならばまず見分けは難しい・・・それほどの上作です。なお、濶縁になっているのは銭径が縮小しているのをごまかすため・・・それが図らずも珍品と同じになってしまったのです。
 
 
8月17日 【侍古銭会2】
本日、侍古銭会2ということで仙人様との勉強会を実施しました。ただし、平日開催ですから参加者は私、タジさんとIさん、仙人様の4人だけ。その分濃い1日を過ごしました。話の内容は濃すぎて書けないことばかりなんですけど・・・。
タジさん、丁銀に興味があるそうですけど価格が高いのでなかなか手が出ないそうで・・・。まだまだ若いですね。金銭感覚がまともです。贋作の小ぶりの丁銀をお持ちになりましたが、かなり赤い。火に入っているみたいです。
そこで仙人様の3分間クッキング。
はじめに贋作丁銀をよく水洗いし表面のほこり、手油の汚れを取ります。
つぎにトレイに秘伝の銀鼠色の薬液をたっぷり注ぎます。
洗った贋作丁銀を液につけ、まんべんなく浸します。
このとき液に直接手を触れるのは危険ですから、ビニール手袋を使うか、箸を使います。
ほどよく色があがったら、液から引き揚げ水洗いします。
残った液は回収。できるだけ液は排水に流さないように注意しましょう。
手もよく石鹸をつけて洗います。ほおっておくと肌荒れします。
出来上がりはこちら。男前・・・見事でしょう?薬液は秘密。たぶん市販されていません。そのほかにも面白い話がたくさん・・・たくさんありますけどそれは後日。
 
 
8月15日 【福岡離郭濶縁】
水戸濶縁?・・・のタイトルで出ていましたが、画像で見る限り福岡の離郭濶縁です。気づいた方も多かったようで最終価格は6万6000円ほどになっていました。離郭濶縁は一応ブランドで、10万円ぐらいの相場がしばしばみられます。したがいましてこの価格はお買い得かな・・・とも思うのですが、九州地方のコレクターがかなり保有しているといううわさも聞きますので、出方によっては値崩れも起こり得るかもしれません。さて、この離郭ですけど全体的にのっぺりしていていわゆる鋳ホールが見当たらない品です。
シークレットマーク的な特徴も弱く、さりとて贋作には見えません。福岡離郭濶縁には九州できとかM氏作といわれる鋳写し銭も存在します。贋作は大きさ的に48ミリ未満のようですから、これには該当しないと思うのですけど果たしてどうでしょうか?
 
 
8月10日 【求む情報提供:資料を探しています。】
ある方から萩の母銭の画像を見せられて、かすかな記憶の糸をたどり始めました。
それは萩藩系の母銭で「花押の上に桐極印が打たれている」もの。どこかで見た記憶があるのですけど思い出せない。たぶん、オークション関係だと思うのですけど見つからない。非常に強い印象を持った記憶なんですけど白昼夢かしら?どなたか教えてください。
そんな資料を探していると・・・昔のオークションに出ていた面白い出品物に目を惹かれます。
画像の琉球通寶は大字という出品なんですけど、実に変な書体。でもこれってひょっとしたら琉球の大珍品じゃないのかと思った次第。落札価格を見ると9万円とあります(出品価格は1万円)から、それなりの競り合いがあった模様です。
しかし見れば見るほど変な書体で、球や背の當は小さいし、全体にぎこちない感じがします。まあ、撮影・印刷技術が今ほどではなかったからなんでしょうけど、当時の自分が手を出さなかったのは当然と言えます。
古いといっても10数年しかたっていないわけで、相場なんか見てもとても面白い。情けないことに私は参加していたはずなのにすっかり記憶を失っていますので、とても新鮮に感じます。だとすると「花押の上に桐極印が打たれている」天保銭の記憶も実に妖しい気がします。
 
 
8月7日 【草点保協奏曲】
きれいな会津の長貝寶が出ていたので注目していたら、とんでもないものが続いて出てきました。それは不知細郭手の超有名銭の草点保です。細郭手の中で独立した分類名称を持つものの中では「俯頭通」「容弱」らを抑え堂々のNO.1でしょう。それだけオリジナル性の高い不知銭ですし、しかも非常に目立ちます。こんなものが出品価格1円でぽろっと出てくるのだから面白い。私も参戦しましたが12万円を超えたところでリタイア。結果は25万円を超えましたので、ほぼ市場価格並みかしら。欲しかったけど無理でした。これは。 
 
 
8月4日 【侍古銭会2】
夏は何かと忙しくここのところ更新を怠っておりますが、やめたわけではありませんよ。週末は何も入れていなかったのでうまくすればCCFをのぞきに行けるかと思いましたが、きっちりと2つの予定が入ってしまいました。
ところで、仙人様から第2回の侍古銭会のお誘いがありました。こちらは平日の17日(水)開催ですけど、今のところ大丈夫と言いますか、何が何でも約束をたがえぬよう調整中です。
 
 
7月29日 【いびつな刔輪天保】
最近入手した不知長郭手。ほったらかしにしていたらずいぶん値が上がっていましたが、よくよく見たらケタ間違えて入れてました。危ないところでしたが結局それで落札です。肉眼ではわかりづらいのですが、輪際の加刀がけっこうありまして全体が少しいびつになっています。天上刔輪としても張足寶としても今一つインパクトがないんですけど、それなりにあるB級品。極印の形状も本座とは違い、打ち方も雑。文字の周囲も彫られていてよく見れば改造母銭から生まれた典型的な鋳写し不知銭です。
長径48.5㎜ 短径32.1㎜ 銭文径40.9㎜ 重量21.5g
 
7月20日 【踏潰の正字写?】
大和文庫に出ていた踏潰の正字写しです。フォルダーに「恋泉百」H4.9とありますから、きっと市場発表された有名銭なんでしょう。銅色は合格。ただ、表面が砥石磨きされているようでちょっとすべすべしすぎています。穿内は鋳放しで側面はかまぼこ状になっていますが横やすり中心の手仕上げ風。これなら私も踏潰にしますね。
ところで文久永寶周遊会の祥雲斎様に送った直永の採拓が終わったようでもう帰ってきました。2ヶ月ぐらいゆっくりしてもよかったのですけど早いのなんの。ファイル入りの資料も頂戴しました。ありがとうございました。しかも、私が送った品までしっかり計測までしてあります。私のお気に入りの品はどうやら普通品だったみたい。譜外径のわりに文字が大きく感じたのですけど錯覚でした。私はこんなにきれいな直永は見たことがなかったのです。上には上があるということ。でもきれいだからお気に入りには変わりありません。その研究成果は間もなく世に出てくるでしょう。久泉研究資料・・・文久編かな?楽しみです。
 
 
7月18日 【粗造異極印失点保】
大和文庫に出ていたもの。いやはや写真写りが悪い。本来はここまで汚くはないはずなのですけど、もはや絶望的に発色が悪い。それをさしい引いてみていただきたい。縮形の刔輪天保で、極印は片側しかありませんが3月25日のものに実によく似ています。湯圧が低くて保字の後点が出ていませんが、同じ炉の可能性があります。制作は面白いのですけど、これにお金つぎ込んじゃいけませんね。銅色はわずかに赤みを帯びた黒褐色ですけど、画像では焼け銭のように映っているかもしれません。これは状態が悪いのではなく、単純に銅質を含む制作技術が低いものだと思います。それにしてもブスだなあ。
長径47.8㎜ 短径32.2㎜ 銭文径40.5㎜。
余談ながら・・・沖縄に行ってきました。炎天下の勝連城・・・日本じゃないみたい。そして今回は本当に沖縄を一周してみました。走行距離にして390㎞。何しに行ったのかわからないぐらい朝から夕方まで車に乗っていました。わかったことは北部は本当に何もないということ。北東部の海岸線はいよいよ何もなく対向車すらもめったに走っていない。コンビニもなく、村営の共同売店という昭和初期のようなよろずやがあるだけ。超レトロです。こんなに南北・東西海岸に格差があるとは思いませんでした。(左:沖縄中部のうるま市の勝連城、標高100mほどの頂上はまさに天空の城。実はここは住宅街の中。暑かった。右:最北端の辺戸岬から大石林山を望む。ここを目指す観光客は少なからずいるもののみんな西海岸を行き来する。東海岸回りで帰ったら集落もほとんどなかった。突然ヤンバルクイナが道を横ぎったので驚いた。あとで聞いたらそんなに珍しいことではないとのこと。ただし、観光客であの山あいのコースをわざわざ走る人は珍しいといわれた。やんばると基地と畑でほとんど海も良く見えないから・・・。ものすごく遠く感じるけどそれはそれで楽しい。歴史に取り残された原風景があります。)
 
7月14日 【直永送りました!】
文久永寶周遊会の祥雲斎氏の要請に応じて、卓上・アルバム中に散逸していた直永の文久をかき集めました。あまりないと思っていたら33枚も出てきました。Hさんから頂戴していたものがたくさんありました。ただし、分類や検証はあまりできていません。(基本的にHさんの分類はそのままなのです。)今回、文久永寶周遊会の研究力にちゃっかり便乗してしまおうというのが私の魂胆。拓本をとる技術もありませんので、迷惑かもしれませんが現品を送ってしまったほうが早道、ついでに最新の分類をしてもらおうということです。その中に私がよくわからない品があります。それが左の品。非常に整っていて美しい。まさに美制と言いたい風格で文字も大きい。そういえば計測もしてませんでしたけど寛永銭でいえば細縁と言って良い品です。こいつが化けてくれれば面白いのですけど雑銭だったりして・・・まあ、直永ですからそんなことはないですかね。と、いうわけで祥雲斎様、よろしくお願いいたします。
 
 
7月13日 【塞頭通が来た!】
塞頭通が鑑定保証書付きで届きました。銘品に違いないのですがどなたの持ち物だったのかは不明です。これだけの有名品は何かの泉譜に掲載されていると思うのです。
尨字系の最近の出物は灰色や紫褐色などの不思議な色合いのものが多かったので、このような黄褐色の方が新鮮に思えてしまいます。文字の加刀がかなり激しく、特に背の花押や寶の尓などはものすごく変化しています。とくに尓の形状はとてもシュールな感じ。鋳肌は独特のきめの細かさとうねりがあり、2013年に入手した異貝寶異當百(覆輪延尾通)をほうふつとさせます。(制作日記2013年7月31日の記事を参照ください。)
 
 
7月12日 【お便り3通】
玩多夢様から・・・

久々にご連絡を頂戴しましたが、パソコンからはうまく返信できませんので、HP上にてご連絡申し上げます。
7月9日の記事にありました尨字の背の拓図にですが、情報提供によりこれは拓図の間違いのようです。これで私の疑問が一つ解決しましたありがとうございます。
まあ、こういった拓図の取り違えは他でもあったようで、玩多夢様によると穴銭入門でも明和大字の背の拓の取り違えがかつてあったようです。(私の所有している版は正しい拓図のようです。)
祥雲斎様から・・・
文久の直永の編集に入るので、直永の蔵品があれば拓図が欲しいとのこと。また、「昭和泉譜」「文久泉譜」「文久永寶分類譜」「文久永寶分類抄」をひとつにまとめた試案を作成したとのこと。これはすごいですね。
私はというと拓本採りに熱中した瞬間がありましたが一向に上達しないのであきらめていました。用紙もあまりないので、うまくゆかない場合現物を送っちゃいましょうかね。それよりも整理不良なのでどこに何かがあるのかが分かっていない。むしろそれが問題です。明日考えます。

東北のN様から・・・(背異替に関しての見解)
久留米系は正字も潤縁も銭文径40.7㎜前後で一定しております。会津系はそれよりも小さく、潤縁度合が大きければ40㎜を割るものが多く、一定しておりません。(確かにその通りだと思います。ただ、銭文径40.7㎜の会津濶縁もあるようで、それは悩ましいところ。改造銭物産展をご参照ください。) 
※玩多夢様にメールが返信できない理由が判明しました。メールアドレスに複数のdot(…)あるいは禁則文字(?・/*等)が含まれているためで、一部の携帯機種においては登録できてしまうそうなのですが、国際基準に反しているのでパソコンからの返信が不可能になるそうです。もしかすると迷惑メール返信防止のための裏技なのかもしれませんが、アドレス名の変更をしていただく以外の対処方法はないようです。(Windows.Liveメールの場合)
※収集から落札品が届きました。ひとつは塞頭通。これについては後日報告。もうひとつは元文期の退永小通の異爪寛。これは持っていないと思って1万円以上の値をつけてしまいましたが・・・HPに掲載してました。画像が小さくてよくわかりませんね。でも阿保です。
 
 
 
7月11日 【薩摩広郭白銅】
薩摩広郭の白銅に性懲りもなく手を出しました。まあ、この色は純白というより白に近い黄白色ですから間違いないところ・・・と思いきや届いた品はかなり色白。だから困った。以前書きましたが私はこいつで10万円以上使っています。バカですねぇ。つまり失敗し続けたということ。銀鋳あり、メッキ・着色あり、白銅質どまりありです。現在これを含み3品だけ真贋不明なのですけど、それ以上が分からない。材質を傷つければすぐにわかるものの、その勇気が出ないのです。
純白に近いものはなぜか輪に鋳不足があり、こいつも背画像の右下に虫食い状の鋳不足穴があります。この品も1200dpsまで拡大して問題点を探しましたが、目を皿のようにしても欠点がない。でも確証もない。本当にわからないのです。出品者は最近非常に有名な品を続々と放出しています。関西方面の重鎮が放出したものだと思われ、そうなると信憑性は高いかもしれません。それにしても色の白いは七難隠すといいますけど、七転び八起きならぬ、七転八倒・・・もがき続ける収集になっています。(下段の画像が出品画像。)
  7月10日 【会津なんだか久留米なんだか2】 
またしてもネットでの拾い物。今度は1000円です。ネットで見た画像からの印象は会津濶縁。そして届いた品を見た第一感も会津。かなり輪幅もありますから。でも手にした瞬間の違和感が・・・薄くて軽い。延展?という言葉が頭をよぎります。基本的に会津も久留米も書体は同じ。制作な総合面での区別でしかありません。古名では両銭に区別はなくたしか水戸正字背反郭濶縁ですからそういう意味ではこれは合致。改めて観察すると文字の陰起・・・いまいち。重量は18.3gで軽い。銅色はかすかに未使用色が文字周囲に残り、赤っぽい発色。泉譜によっては会津は赤っぽい黄色のように書かれていて混乱しますが、実際は会津濶縁の赤色は珍しく、ほとんどが黄色系です。久留米系はいろいろですけど紅~褐色。黒味があります。文字の周囲の彫り・・・あるけど微妙。極印・・・ああ、でっかい、」はっきりしないけど飛び抜けて大きい。(右側)先日、迷った品と比べても全然違う。と、いうわけでこいつは久留米正字背異濶縁でした。それもかなり立派な濶縁。人によっては会津勝連としてしまうかもしれないレベル。それにしても先日の鑑定がいささか自信がなくなってきました。やはりこいつらの区別は難しい。
長径48.7㎜ 32.4㎜ 重量18.3g 
長径49.2㎜ 短径32.9㎜ 重量21.2g
 
7月9日 【CCF】
CCFの案内が来ました。今年のカタログはA4サイズで大きい。そして魅力が満載です。同時開催と言いますか共催の形の日本コインオークションはなんと41回目。連続して開催されているコインオークションとしては日本最古かしら?こちらは(株)ダルマさんがやっているようです。今年は8月の6日・7日で開催され、会場は銀座フェニックスプラザ。ここは紙パルプ会館で、おそらく故、大川天顕堂の縁で会場がここになったのではないかと思う次第。ちなみに交通会館はおそらくですけど、雑誌「趣味情報」が生まれたとき、趣味=切符収集など鉄道趣味の会社の「(株)交趣会」が発刊元だったことが縁だと思います。しかし、ちょうど切手に続きコインブームが勃発。月刊誌になっていた趣味情報誌はコイン部門を切り離し、月間収集として新たにスタートを切ることになるのです。
さて、CCFにおける私の目玉はなんといっても水戸揚足寶、それと会津の萎字小郭あたりでしょう。水戸揚足寶は仙人様の持ち物を見て以来脳裏に焼き付いてしまっています。あれ以上はまずないなあ・・・。
 
(おまけの記事)子供のころからあなたは良い目をしているといわれ続け、5年ぐらい前までメガネ知らずでした。たしかに子供のころの写真を見ると目がぱっちりとしています。いかにも聡明そうです。ついでにあのころが一番かわいかったと、最近は過去形で言われています。
2007年に「銭の細道・大量見聞録」を作成した頃は肉眼で内径の大小の差を見抜けたのです。今は目の前の書体が見えない。いえ、目に近いほど見えないのです。収集が寛永銭中心から天保銭に変わっていった背景には実はそんな理由もありました。しかも二重に見えるのが困る。夜空の星が二つに見えますし、ときどき信号も2つに見えます。先日、メガネを新調しましたが、おしゃれを意識してスリムなレンズにしたのがいけない・・・視線を動かすとくらくらしてしまいます。
さて、そんなこんなで家に帰って届いた収集のはがきを見たら・・・冷やかし応札のつもりだった塞頭通が落ちてました。えらいこっちゃ。しかも女房にばれてました。本当に、くらくらしてしまいました。これでCCFはお預けかな。とりあえず宝くじ買っておこう。
各種泉譜によると、銅色は茶褐色と灰黒褐色ぽい色があるみたいです。また、地はうねり、しわのようなひずみ・むらがあるみたい。尨字と塞頭通は同じ系統のようですが、類似カタログを見ると文字の大きさなどにずいぶん差がある気がします。とくに花押の形は拓本の間違いじゃないかと思うくらい違う。削字に個体差があるということですかね。また、當百銭カタログを見ると当時の評価が最高に近かったことが分かります。尨字80万、塞頭通60万。尨字の評価は価格がついている不知銭の中の最高です。奇天手でさえ65万円ですから。ところでこれは誰の持ち物だったのでしょう。CCFにも色違いが出ていますね。 
 
7月8日 【退点文の細縁?】
なんだ磨輪された文銭、退点文か・・・と思わないでいただきたい。たしかに外径は24.88㎜しかないそうですけど、内径は20.7㎜もあります。退点文の内径は20.0~20.3㎜どまりで、久泉研究資料によると20.7㎜は大ぶりの母銭クラスなのです。母銭としても稀品とのこと。この画像は関西のSさんからの投稿で、こういったものに気づくということ自体がもう達人というか病人というかとにかく神のレベルなのです。このようなものをありがたがれること自体がすでに狂人なのかもしれませんが、ちょっとした毎日の発見がうれしいですね。ちなみに穿内に仕上げた痕跡がいくらか見られるそうですけど、Sさんいわくとても母銭には見えないとのこと。あるいは退点文の細縁銭かもしれないということです。もちろん、泉譜には掲載されていない品です。
外径24.88㎜ 内径20.70㎜ 背内径19.00㎜
CCFオークションNo.6099に内径20.5㎜の退点文細縁が出ています!類は友を呼ぶ! 
 
7月7日 【奇品探訪:ペン書様】
オークションネットの画像を拝借しました。ペン書というと安南手類銭に有名なものがありますが、天保通寶の長郭手ではこれが類似カタログに掲載されています。(画像の品は原品ですね。)
全体的に浅字で、加刀によって文字画が直線的に変化しています。保の点は特に印象的ですね。落札価格300000円、手数料等を加えると332400円・・・買える?
ペン書様の名前で注目度がぐっと上がりましたね。普通だったら異書だとか削字、繊字と浅字の組み合わせになるところ。名前づけは古泉においては大事なことだとつくづく感じます。容弱という言葉はこの銭の方がぴったりする気がします。いや、容弱というより貧弱・虚弱・軟弱・病弱・脆弱・薄弱・衰弱かな?(幼弱・繊弱・怯弱・惰弱という熟語もあります。)
 
7月6日 【江刺なのかな?】
江刺俯永というふれこみでネットに出ていたもの。面に砂砥ぎ仕上げがあり、穿内にもやすり仕上げがあります。また、背が浅く鋳肌のざらざら感も少ない。側面の仕上げは東北独特の丸みを帯びた縦やすりのざっくり仕上げ。かなりいびつです。
さて、この特徴からだけでは私は江刺とすることはできません。江刺には穿内鋳放しが多いとはいえ仕上げたものも結構あります。また、表面が滑らかに仕上げられたものもあります。側面は意外にきれいにそろえて仕上げられたものが多く、やすり目は横方向か斜め方向。背も比較的しっかり鋳出されています。
では江刺ではないかというと、本当は何とも言えない。
実は江刺銭という分類そのものが、あいまいなのです。少なくとも江刺では鋳銭は行われていなかったと思います。銭の鋳造はそんなに簡単に誰でも行えるものではありません。江刺も浄法寺も実は同じ場所で作られていたのかもしれず、たまたま時代と製法が異なっただけなのかもしれません。実際に江刺と呼ばれる分類には、これが江刺?と思えるようなものがあるのです。
とはいえ、江刺が制作から見た一類であることは間違いないところ。さらに、同じ特徴を持った兄弟銭がものすごく多い。これはある意味天保銭における浄法寺銭とよく似ています。それらを見抜いた先師らの慧眼には感服、脱帽します。
 
7月5日 【余談:一厘銅貨の謎】
今回は近代銭のお話。一厘銅貨は新貨条例に基づいて明治6~10、13、15~17が作られていますが、8年後期(日の第四画が跳ねない)~13年まではいずれも珍品で中でも9年と13年銘は状態が良ければ100万円クラスの大珍品。かすかな記憶しかありませんがその昔、コイン利殖入門でこの記事を読んだことがありましたっけ。ところで日本貨幣カタログを読むと注釈として
「一厘銅貨は他の貨幣と製造工程が異なるため、直径については標準寸法と異なる場合がある」とあります。この言葉に違和感を感じませんか?
一厘は薄く伸ばした銅板を打刻と同時に打ち抜いたものだと思います。したがってエッジのギザ加工などはありません。しかしこの工程では直径などの変化は起こり得ないはず。
もともと少額貨幣の一厘については採算が全く取れないものでした。その結果、明治政府は一厘の製造には消極的で、初年度の明治6年でさえ600万枚ほどしか製造せず、結局明治を通じて9年間だけしかつくっていません。そのため寛永通宝は補助通貨として明治期において流通を続け、法的には昭和28年まで現行通貨でした。(法的流通は明治30年まで)これは天保通寶が明治に入ってすぐに価値暴落し、事実上の貨幣としての命を奪われたのとは対照的です。
では直径の違う一厘はなぜ生まれのたか?
実は明治期の貨幣にもいろいろ素性のわからぬ不知銭がかなり混じっているようなのです。混乱期なので民間で生まれたとも考えられるのですが、今までになかった西洋式のコインですし採算性を考えるといささか妖しい気がします。あとはご想像にお任せします。(実は私もよくわかっていないのですけど・・・。) 
 
7月3日 【短尾通の天保】
いわゆる近代銭なのですけど、勢陽譜にも真鍮銭短尾辵として掲載されています。側面の星形は真鍮天保で見たことがあります。大家はわかっていたと思うのですが、シャレで掲載したものと思います。
真鍮の天保通寶は朝鮮半島で流通させるために明治時代に作ったものというガセな噂話が流行していましたので信じた方も多かったのではないでしょうか?
画像を見る限りは真鍮という雰囲気ではなく、側面の極印を見なければなかなかの力作(おもちゃ?)に思えます。
この手のものは称:グリコ天保とされるものに類するような気がしますが、本当のグリコ天保はなかなかの珍品です。市場にあるグリコ天保はほとんどが別の品。本物は濶縁で當百や花押が大きいのです。
 
7月2日 【水戸長永狭足寛寛上凹輪の母子】
関西のSさんからの報告です。
先日、雑銭から拾った水戸長永狭足宝の母銭ですが.同じ宝上の傷のある通用銭が存在しております。兄弟銭は良く聞くのですが親子銭は珍しいのではないでしょうか?
「古寛永銭 久泉研究資料改訂①」のP47の33(中段拓本)に記載されております。(外径24.92㎜、内径19.71㎜、背内径18.30㎜)

Sさん、よく見ていますね。兄弟より完全な母子の方が珍しいのは当然。兄弟の場合、世に出てくる時期がほぼ同じなので、未流通に近いものや同じ地域から出る可能性はあると思いますが、母子の場合は母銭が廃棄されて世に出てくる時期は、通用銭とは異なりますし、そもそも母銭は圧倒的に少ないのです。
これで手替わりが完全確定です。ところでこの記事を書いているうちに、記憶の中で眠っているもやもやに気づき、久々に古寛永のアルバムを開きました。長永などは雑銭なので4~5枚ほどしか入れていないのですが、その中の一枚がまさしく同じ品でした。何たる偶然、何たる節穴、灯台下暗しですね。背郭の形状や穿のズレ方にも共通性があります。
私のものは磨輪小様で、外径は23.2㎜しかありません。(内径19.2㎜、背内径17.4㎜:メガネが合わずちょっと計測には自信なし)
(久泉研究資料は24.3㎜ 19.35㎜ 17.4㎜)
私がこの銭を拾っていたのは、小さくて目立ったのと、ちょうどある方から頼まれ文銭の寛上に瑕のあるものを、譲り受けて収集誌上に記事を出したこと。折悪しく?文源郷氏も同じ手替わりについて特集しておられ、付け焼刃の投稿記事は埋もれてしまいましたが、これらの瑕のある銭はやはり何かの意図で傷つけられたように見えますね。Sさんありがとうございました。
 
6月27日 【訃報 英泉 村上英太郎氏逝く】
仙人様から以下の内容のメールが届きました。(ほぼ原文のまま)
主催している『八厘会』の例会にて、秋田貨幣研究会の元会長であり天保通寶収集の第一人者でおられた村上英太郎氏の訃報に接し愕然となりました。村上さんとは長年のお付き合いもあり、天保銭収集を本格的に始めたのも村上さんの収集品を見せて頂き発奮したのがきっかけでした。
はじめてお会いしたのは昭和60年7月に秋田県能代にて開催された『秋田貨幣研究会・創立10周年・記念大会』で、私は『蔵前貨幣研究会』会長の立場で参加し、村上さんのご自宅で紹介されたのが最初だと思います。
前年の昭和59年に中国銭の多量舶来で暴落が起こり収集に嫌気がさしていた頃で、『何を収集しようか?』迷っていました。その時に、天保通寶研究会の会長であり、天保堂として古銭・書籍を販売されていた故・瓜生有伸氏と出会い、氏に天保銭の収集を勧められました。瓜生さんは話術が巧みで楽しかったので、昭和60年2月に天保通寶研究会に入会しました。同年4月に後に泉友として!ライバル!として競う事になる青森の板井哲也氏が入会しています。
さて瓜生さんから記念大会に誘われ参加する事になりました。東京方面からは瓜生さん・大西敏弘(千葉)さん・大矢安治(川崎)さん・分銅計量器具研究家の入野博(東京)さんと私の4名でした。当時の記録では夜行列車で秋田に行っています(時代ですね)。
村上さんの邸宅と能代温泉で行われた2泊3日の記念大会+天保通寶研究会の集いはとても楽しく有意義な催しでした。村上邸での昼食にホカ弁が出たので内心ガッカリしていましたが、蓋を開けてビックリ!鮎の塩焼きが入っていました。喜んでいる東京勢に、『そんな物が珍しいのか?裏の川にはなんぼでもいるぞ!』と、地元の方から鮎を頂き、私は7匹も食べました(笑)
村上さんの収蔵量は圧巻で、天保銭収集家気取りだった私の鼻は折れ、本格的に学び・収集する意欲が湧きました。村上さんからは当時はまだ秋田銭(扱い)だった踏潰銭を、1枚1000円で譲って頂き(私は遠慮して2枚でしたが、他の方はかなり購入していました。)、入野さんから玉塚天保の土佐・額輪銭を頂きました。この大会に参加した、瓜生さん(東京)・村上さん(秋田)・板井さん(青森)・大田原さん(福島)が話されて、みちのくで古銭大会をやろう!と言う事になり、南部古銭研究会(大矢氏所属)と『蔵前貨幣研究会』も全面協力の形ができ、翌年に青森の浅虫温泉で『第一回・みちのく合同古銭大会』が開催されたのです。この様に斯界において、業績を残された村上さんの後継者は、はたしているのでしょうか?村上さんは東京に良く来られては、各研究会や収集家・業者を回り、みちのくとのパイプ役をされていましたが後継者がいないと今後の交流が心配です。
村上さん!長い間お疲れ様でした、そして色々と有難う御座いました。今頃は冥府にて小川青寶楼先生・瓜生さん達と泉談を交わしていると思います。私はもう少しやる事がある様で頑張ってみます。師匠・泉友・先輩・相談役・ライバル・兄貴分で有るときは親爺だった村上さん、『まだ酒が飲めんのか!人生半分は損してるぞ!』の声が聞こえてきます。合掌。


私が村上氏にお会いしたのは2008年の江戸コインオークションが最初。天保銭にのめりこみ始めたころで、天保銭四天王の村上氏は神様的な存在でしたから緊張感MAX。私が気になっていた赤い色の秋田細郭についてひとこと「あれは、やめときなさい。」・・・まさに神の一言でした。
横浜古泉研究会の入札誌穴銭によく出品されていたので、私は氏の不知銭を(安物中心ですけど)相当数買っているはずです。
ご冥福をお祈り申し上げます。(写真は方泉處11号より)
 
6月25日 
ネットで思いがけず収穫してしまった細郭手張足寶です。最近の銀座コインオークションの出品物らしく0203の出品番号がついていました。極印は小さく、製作はあくまでも美しい品です。不知銭に夢中になり張足寶を追い求めていたとき、天保仙人様から張足寶には細郭の系統のものがあり少ないと聞いて、獲得に燃えたものです。すでに手放してしまいましたが2009年のCCFでも細郭手張足寶を落札したのですけど、それは類似カタログ・日本の貨幣収集の手引きの原品でした。これが初めての入手品だと思っていましたが、実は少し前に入手した長郭手だと思っていた張足寶が細郭手張足寶だったとに後で気づきました。當百銭カタログ掲載の長郭手張足寶(小様)とされるNo.220図は細郭手の誤りだったのですね。ところでキュリオマガジンのTPS48の記事はいよいよ不知天保銭に入りました。記事曰く、贋金の方が正貨より評価が高いなんて本当に変な世界なのですが、天保銭には幕末各藩の生き残りをかけた死闘が秘められているからこその現象でしょう。キュリオさんにはできればこれぐらいの大きさの写真で見せていただきたいと、乱視、老眼の進んだ私の希望です。
 
 
6月23日 【変な寛永銭】
ネットで収集していた画像です。元文期の小梅手か一ノ瀬銭あたりの書体に似ているのですけど永字が変ですね。99%絵銭の類なのでしょうけど妙に良い顔をしてます。制作にあまり矛盾点を感じないのですね。
背郭もきっちりしているし、母銭のような背のつくりです。
まあ、この手のお化けはまず出ないと考え、眉に唾つけて応対するのが正解でしょう。それとも稟議銭あるいは鉄母銭にこんな書体あったかしら?
 
 
6月22日 【問題です!】
さて、いきなりですが問題です。左の画像を見て古銭の種類を答えなさい。
天保通寶・・・それは当然、問題はどんな種類ということですね。天保銭マニアなら3秒で答えます。不知細郭手容弱!・・・と。はい、不正解です。容弱の拓図は右・・・ほとんど同じですね。
では正解は・・・なんと萩の方字です。実はネットを眺めていてこの画像を発見。間違いじゃないかと自分の目を疑いました。手持ち品を眺めてみましたが、基本形はよく似ています。ただ、ここまでの太細はありませんでした。方字はあまり変化がないと思われがちですがこんな鋳ざらい変化があるのですね。驚きました。私たち、見ているようで実は見えていないのですね。容弱と方字が同じ鋳銭場所だったら面白いのですけどさすがにないかな。
 
 
番号 長径 番号 長径 番号 長径
49 45.89 35 46.72 6 47.11
20 46.03 16 46.73 18 47.15
48 46.10 43 46.75 12 47.16
22 46.25 47 46.76 41 47.20
4 46.32 38 46.77 5 47.21
59 46.35 57 46.77 40 47.55
9 46.37 23 46.78 11 47.56
46 46.37 61 46.78 52 47.56
21 46.41 28 46.81 27 47.60
14 46.46 31 46.85 51 47.63
24 46.52 50 46.85 10 47.65
56 46.55 53 46.87 7 47.70
8 46.59 29 46.90 17 47.80
54 46.59 63 46.90 30 47.81
3 46.61 26 46.91 2 47.82
33 46.61 42 46.92 58 47.84
44 46.61 39 47.02 45 47.87
15 46.63 55 47.02 37 47.99
34 46.63 62 47.05 13 48.24
19 46.66 25 47.06 60 48.57
36 46.67 32 47.06 1 48.60
6月21日 【秋田小様のサイズ分布】
4月27日に作ったデータ表を大きさ別に並べ替えてみました。そして大様・中様・小様・最小様に色分け分類してみました。なお、このデータは長径データによるものなので磨輪などにより変化があります。そのため分類はあくまでも推定であり、中間値にあたるものもとりあえず所属分類しています。したがって分布はあくまでも参考値にすぎませんが、おおよその分布を正しく示していると思います。それぞれの大きさの標準モデルサイズに近いものには番号に着色してあります。こうやって並べてみると小様より中様の方が少ないことに気が付きます。村上氏が意識して小さいものを集めたとも考えられなくもないのですが、これだけ大量の収集を行ったということを考えれば、大きさなど気にする暇もなかったと思いますし、コレクター心理としてはより小さいものは市場に放出しないでしょうからi、小様より中様が少ない事実は重く受け止めなければいけないと思います。また、今は外径計測をしていますが、本来は内径比較をしたほうが分布表は正しくなると個人的に考えています。
大様 4枚 6.35%
中様 22枚 34.92%
小様 35枚 55.56%
最小様 2枚 3.17%

 
 
6月20日 【明和離用通寛足鋳溜り(仮)】
収集7月号に掲載されている記事(一部加工)ですが、投稿された方から直々にご連絡を頂戴しました。(ありがとうございます)
栗谷川様は平成20年の「雑銭の会:春の古銭会」においてお会いした方で、まじめで実直な収集家の印象が記憶に残っています。
いわゆる兄弟銭の類ですけど、母銭から伝鋳されているのは確実で、良い名称がつけば「天狗寛永」のようなお化けに成長するかもしれません。また、投稿後にももう一枚発見されたそうで、現在確認枚数は5枚・・・探せば見つかるかもしれません。
さて、この手替わり品の名称はどうしたもんでしょう?寛後足に鋳だまりがからみついたように貼りついています。
まるで寛尾が何かを引き摺っているみたいですね。曳尾だと天保銭みたいだから「尾曳寛永」それともずばり「引摺寛永」
あるいは鋳だまりを旗・ハンカチに見立てて「旗振寛永」「旗曳寛永」、ちょっとひねって「さよなら寛永」「アディオス寛永」・・・センスないかな?どなたか決定打をお教えください。
 
6月19日 【錫ペストの実物画像】
ネットオークションに低温崩壊を起こしたふくれた錫母の画像が出ていました。非常に貴重な俯永の錫母銭なのですけど、こうなってはもう手の施しようがありません。錫は13℃から変質をはじめる可能性があるそうで、一度変質が始まるとそこを起点に伝染病のように崩壊現象が広がり始めます。まさにたちの悪いがん細胞のようなもので、治療法は確立されていないようなので崩壊は続き、最終的には砂のようになってしまうと、天保仙人様はおしゃられていました。とはいえ、13℃ですぐに崩壊するというわけではありません。錫製の食器などもありますけど、それが低温がもとでダメになったとはほとんど聞いていません。正倉院の御物に錫製のツボがあるそうですが無傷ですし・・・。
錫は合金化することで崩壊はかなり防げるそうですから・・・。実際に錫母銭が崩壊するのも天保銭の初期のころまでであり、文久永寶の玉寶母銭はほとんど崩壊しないそうです。崩壊する場合はごく低温それもかなりの低温・・・少なくともマイナス10℃以下に長時間さらされた場合に限るようです。(衝撃や振動も影響するようです。)錫の熱伝導率は銀の6分の1以下ですから、温度変化もほかの金属よりかなり緩やか。したがいまして南関東の私は気にする必要はあまりないようですけど、今は入手する気力もほぼありません。もし、錫母を入手された方は発砲スチロールか桐の箱に保管して、念のため暖かい室内に置きましょう。この現象は予防が大事なのです。
ただし、一度崩壊が始まったらそれは金属としての死(のはじまり)を意味するようです。ペストの名前の通り変性反応が止まらない・・・まさに伝染病・・・変性点を起点に連鎖が止まらないそうです。 → 錫の崩壊画像(動画)
  
 
最小様(右側)
長径45.6㎜ 短径30.4㎜
小様(右側)
長径46.9㎜ 短径31.5㎜
中様(右側)
長径47.7㎜ 短径31.8㎜
大様(右側)
長径48.4㎜ 短径32.55㎜
6月18日 【秋田小様アラカルト】
入手した秋田小様を本座広郭と画像で重ねてみました。新たに入手した品が細縁気味だったため、磨輪による影響ではないかとの不安もありましたが、内径が46.9㎜のものより輪半分ほど小さいのでほっとしました。(画像この記事の下)
長径49.2㎜の本座広郭を鋳写すと理論的には以下のようになります。
1回目 48.314㎜
2回目 47.445㎜
3回目 46.591㎜
4回目 45.752㎜
(縮小率1.8%と仮定)

改造銭物産展のコーナーで数年前にたてた仮説ですけど、ほぼ実証ができました。それにしても大様はもう少し存在してもよさそうなのですが、意外に少なそうです。(4月27日、30日の記事参照)これは大様が母銭としてもっぱら使用されたからなのかもしれません。
左側:小様 右側:最小様
 
秋田小様(最小様クラス)
長径45.6㎜ 短径30.4㎜ 重量18.6g
6月17日 【45.6㎜の秋田小様】
大和文庫で入手した秋田小様です。背の摩滅が残念ですが45.6㎜というとんでもない小ささを考えれば良しとしましょう。
この小様はもともと秋田の村上氏の所蔵品で、天保通寶研究分類譜第三巻のNo.941原品であり、月間天保銭36号と(私は所有していませんが)貨幣協会20周年記念泉譜においても紹介されているそうです。このサイズは史上最小・・・と言いたいのですが、天保通寶研究分類譜には45.57㎜が掲載されていますし、平成24年の駿河447号(4月)にも45.5㎜の秋田小様が掲載されています。46㎜未満というのがこの種のステータスサイズですから、No.1ではないとしてもたぶん国内で10指ぐらいには入るものだと思います。
気になるのは「母銭様」という札がついていたこと・・・しかし、私には逆立ちしても母銭様には見えません。なぜ?
 
 
6月16日 【B級不知天保銭】
不知天保にはまり、意識してせっせか集めること約8年・・・私はダボハゼコレクターですから、不知と聞くだけで食らいついてしまいます。当然のことながら名品よりもB級、C級の品ばかりが目につくようになってしまっていますね。正式には枚数を数えてないのですけど、不知天保銭だけですでに250~280枚はあるのではないかしら。玉石混交とはよく言ったもので、きわめて石ころに近いそれでも可愛いものがたくさんそろっています。
画像の左と中央はオークションネットで郵便入札していたもの。要下見、返品不可商品だったので、少しドキドキしましたが、画像から大丈夫と判断しました。左端のものは画像で見る限り変造品の心配があったのですけど、やはり不知品でした。郭幅がやや広く穿内はべったりやすり掛けがされています。わかりやすいのが極印で、どう見ても桐には見えない変な代物です。(画像参照:これによく似た極印で後作天保もありますから要注意です。それは金質がもっと固く異なり、側面はグラインダー仕上げのような風貌です。)
中央は左側の物よりは不知銭らしい風貌の細郭手ですけど文字への加刀はありませんし、これといった特徴にも欠けます。背を見る限り覆輪されてるんだろうなあという程度。きわめて本座に近いものながら、どこか様子が違う。極印は本座よりかなり大きな桐極印が側面いっぱいに打たれていますのでこれで不知とようやく判断できます。本座からは母銭の流出があったのでは・・・と言われていますので、これらも鋳写としましたが、銭文径の縮みは0.4~5㎜しかありませんので、あるいは・・・という感じです。
右端は長郭手の天保銭です。これはネットで拾いました。画像ではわかりにくいものの刔輪で寶足がはっきり長くなっていますので、前の2銭に比べれば不知銭らしい風貌です。しかも 全体に小さく長径は48ミリを切ってかなりの縮小銭と言えます。極印ははっきりしませんが相当変な形。ただ、不知銭としてはわかりやすいのですけど地味なのでインパクトも少ないですね。
これらは1枚当たり5000円から8000円程度で入手できたもの。不知銭には間違いないのですけど、将来売る時には苦労しそうです。(売りたくないですけど。)
 
細郭手鋳写細縁中郭様異極印
長径48.2㎜ 短径31.7㎜
銭文径40.8㎜ 重量18.4g
細郭手鋳写異極印 
長径48.5㎜ 短径32.2㎜
銭文径40.8㎜ 重量18.1g
長郭手縮形刔輪異極印 
長径47.8㎜ 短径31.7㎜
銭文径40.8㎜ 重量19.2g
 
6月15日 【魅惑の密鋳銭:オークションネットより】
オークションネットに出ていたもの。密鋳病としては垂涎の品でしたが、下見も参加ができなかったので今一つ力が入らず惨敗しました。応札もしてなかったかもしれません。




加護山写の亀戸銭・・・落札価格(13000円)を見る限り闘えましたね。女神に後ろ髪はありませんけど。一方で文久の写しは30000円まで高騰しました。これは勝てません。この手のものは好きな人と競り合えばかなりの出血が覚悟されるのですけど、集めている人自体は少ないと思います。
 
 

6月14日 【進二天刔輪かなあ・・・?】
5月末日にネット入手した萩銭の進二天です。この類としてはかなり美銭・・・とくに背側は相当なもの・・・になります。ただし、萩銭は曳尾を除くと人によっては好き嫌いが激しい銭で、それは状態のきれいな品が少ないから。縮通なぞ、ものすごく貴重な品なんですけどとにかく美銭が少ないから困ります。画像の品も自分で美品といいながらも映りは今一つも二つも良くないですね。
ところでこの銭は画像で見た感じでは、寶足側が完全に離輪していて、刔輪が少し強いように見えたので私は意を決し落としました。実物を見るとたしかに完全に寶足は離輪してますね。ただし、天上の刔輪痕跡はありますがそんなに強く刔輪されていないようにも見えますので微妙。類似カタログを見ると進二天細字隔倫になっています。背は細字なんですけど面はややつぶれてますので本当に微妙。評価価格は同じですからだからどうしたといわれてしまえばその通りなんですけど・・・。
 
手持ち品と画像を重ね検証した結果、寶下の刔輪がかなり強いことは間違いないようです。ただし、天上の刔輪はほとんど変わりません。一応刔輪の痕跡らしきものは残っていますが、その差は刃一枚分ぐらいしかありません。
萩銭は加刀による変化が多いのでこれをもって別種とすべきか否かは個人の主観が大きく働くと思います。
個人的には背側の文字は細いし、刔輪を名乗ってもよいと感じています。
 
 
6月13日 【安政期離用通?】
神奈川県のⅠさんは掘り出し物の名人です。まあ、この世界は成功の何倍もの失敗があるから成り立っているともいえますので、Ⅰさんもそれなりの苦労をされているとは思いますが・・・。
さて、紹介の品は最近Iさんが見つけた面白いもの。(以下、ほぼ原文のまま)
安政離用通と思われるものです。(銭径27.83㎜ 内径21.35㎜で不整輪になってます。)輪側は荒い感じのやすり、穿内は軽い感じのやすりで、銅質が明和でも文政でもなく、もっとも近いのは安政になります。ただ、安政の離用通は観たことがなく、大きさや内径も知らないため答えが出せずにいます。また、内径はそこそこあり、背も非常に抜けが良く、母銭を思わせる風貌もあるためさらに混乱しています。
個人的な感覚では以下のような順位で近いかと思っています。
①安政離用通の通用
②文政離用通の次鋳母(内径が大きく、不整輪の通用もあるため)
③安政離用通の母銭
④文政離用通の改造母(銅質がマッチしない)
③であれば申し分ないのですが、判断できません。
さて、昨日は酔っぱらいながらいい加減な返事を書いてしまいましたので、投稿の御礼を述べるとともにあらためてぼけた頭と霞み切った眼で稚拙な見解を述べさせて頂きます。
まず、一目変な色・・・確かに明和でも文政でもない、だから安政期とするのもいかがなものかというところ。銅色は保存等でいくらでも変わりますからこれで明和だってこともあるかもしれません。(でも、ないね。)気になるのがかなりの偏輪っぷり。そして画像にはない側面の様子です。「輪側が荒い感じのやすり」がいかなるものかが分からないのです。
しかし気になるのが非常に良い砂抜け・・・私の頭に母銭という言葉がよぎるのです。廃棄するために後天的に磨輪したのか、それと鋳造でずれてしまったから通用銭に格下げされたのかは定かではありませんが、その可能性も否定できない。
内径についてですが21.35㎜は文政期の離用通の標準サイズですね。(明和期も同じサイズ。)私も安政期の離用通は見たことがないのですけど、新寛永通宝カタログの計測値がほぼ正しいとすれば、
安政期の離用通の内径は文政期の次鋳サイズになることが予測できます。
したがって①の可能性は低くなります。そうなると、感覚的には文政期次鋳の母銭のなり損ねか、きれいな文政期通用銭の銅替わりの可能性が高い気がします。内径が大きいので仿鋳ではないですし、安政期の離用通の母銭も可能性としてはあり得るのでしょうけど、それはできすぎでしょう。いずれにしても側面と穿内を確認しないと何とも言えません。私ごときの実力じゃ実物を見たとしても判断できないかもしれません
 
 
6月12日 【お宝さがし】
終日、実家の整理をしました。今日は瀬戸物と金属、ガラス食器の処分。市の処分場に運び処分費だけで5000円ぐらいかかりました。切子やクリスタルのガラスやらウェッジウッドなんかもあったと思いますけど、箱なしの半端な使用済み食器は売れないからめんどくさいので放り投げてしまいました。倉庫で厚くほこりをかぶっていたいた看板は妹の許可を得て救出。重いのなんの。妹がお店に飾るつもりで引っ張り出したものの重すぎて飾れず処分してほしいといわれました。まあ、お宝と言えるものはこれぐらいしかありませんね。だれか買って有効利用してください! 
 
不知長郭手覆輪異極印
長形48.9㎜ 短径32.4㎜ 銭文径41.0㎜ 重量19.9g
6月11日 【衝動買い】
久々に古銭店を訪問・・・たぶん今年初めてです。たまたま都内で会合があり、戻るまでの時間を使い新橋へ・・・。ここには「田宮商会」・「はるじ堂」・「新橋スタンプ商会」があり少し足をのばせば「銀座コイン」もある。でも、古銭店も数が少なくなりましたね。
実は新橋には「ろばた屋」というお店があり、そこは私の親族にあたります。お昼時は安くランチが食べられるので大変人気なのです。また、このお店には私の生家から出たお宝的ガラクタがあちこち飾ってあります。
現在片付け中の私の生家は卸問屋でみそ製造もしていたので、すごいお宝があるに違いないと思っておりましたが、今のところ何も出てきません。唯一、ケヤキの分厚い特約看板が複数枚出てきましたがこれは貴重。ただし、処分の方法がよくわからないままです。漆塗りの小さ目のつづらが出てきてものすごく期待したのですが・・・中はお葬式の幕でした。祖父は昭和34年にちょっとした事故で急逝したので、そのとき盛大に行った儀式用に特別にあつらえたもののようです。さて、食後に田宮商会さんにゆくと店員のAさんが一人でいました。天保銭の良いものが入っていると聞き、悪い虫がうごめき始めました。本当は冷やかしのつもりでしたが、結局購入・・・いたたたた。他のお店の訪問もやめ!
なんてことはない覆輪の長郭手ですけど、側面の極印が大きく、つい比較したくなりました。やや白銅質で状態もよく好感が持てますね。値段も私には結構良い値でしたが、これもつきあい(病気の言い訳)と思い衝動買いです。本音を言うともう一枚欲しかったけど、家族の顔がちらつきました。
これで明日はおとなしく実家の整理に行くしかなくなりました。お宝出てこないかしら・・・。
※A店員さんによると会津短貝寶に増郭痕跡の残っているものを探しているマニアがいらっしゃるとのこと。皆様も探してみてください。 
実はここのところ進二天、細郭手張足寶、秋田小様と相次いで落札。オークションネットも10000円ほどですけど落札通知が来ました。何が緊縮なのだと言いたくなる大暴走の買いっぷり。我ながら抑えが全くききません。 
 
6月10日 【化蝶の読み】
銭の古語の化蝶の読みについてがわからなかったのですけど、利光教授の古貨幣70話の中にあった「闘化蝶」の記事中に、「クワテウ」の振り仮名があるのを発見して小躍りしました。この現代発音は「かちょう」に間違いないと思います。この記事の出典は享和4年(1804年)に出た「泉化鑑」ということですが、作者がわかりません。この時代の大研究者の福知山藩八代目藩主の朽木昌綱公が「和漢古今泉貨鑑」という著作を晩年に発表していますが、公は1802年に亡くなっていますので、公の遺稿の改訂版もしくは海賊版なのかもしれません。朽木公は外国語にも精通する博識者にして、当時の日本最高峰の古銭大家でしたから、もし、朽木公なら読み間違いはしなかったと思うのですけど・・・。
以前書きましたが「隠語辞典Weblio辞書」には「げちょう:銭の異名」とありますし「化蝶散華:玄侑宗久 筑摩書房」という本の表題には「けちょうさんげ」とあります。(この物語は・・・禅宗の入婿として副住職についた主人公は、先物取引にはまって親の老後のたくわえをすべて失わせてしまい、その罪の意識から家出してやがて浮浪者になりはてた末、寺に拾われた過去があります。こうして世俗を捨てたはずの主人公に、再び金や人間の欲望が付きまとい、様々な人々に邂逅するという物語なのです。)
さて、こうして「かちょう」「けちょう」「げちょう」の3種が出そろいました。しかし、よくよく考えると「クワテウ」とは実に中途半端な発音ですね。「カテウ」でも「ケトウ」でもない。だいたい蝶々は「テフテフ」の時代です。音読みはまだ今のように固定化されていなかったのかもしれません。
それでもあえて正解をというのなら、やはり「けちょう」が正しいと思います。そして「げちょう」は「闘化蝶」のようなときの連濁発音だと思うのです。(祭り+はやし=祭りばやし のような例です。)しかし、古泉界では「かちょう」と誤読されて広く伝わった可能性が高いと思います。この関係はまじない銭を意味する「厭勝銭:えんしょうせん・ようしょうせん」の読み問題と非常に似ていますが、「厭」が「よう」とは読めないのに対し「化」は「か」とも「け」とも読めるからややこしいのです。
詳しくは2013年の6月13日の制作日記をご覧ください。同年9月27日、4月20日の記事も併せて読むと、日本語発音形成の時代背景がわかると思います。 
 
6月9日 【寛永鬼鐘馗】
寛永銭コレクターに一文サイズの寛永絵銭の中で欲しいもの・あこがれのものを尋ねれば「蓑笠寛永」「月星寛永」「寛永鬼鐘馗」の名前がきっと上がるのではないでしょうか?畫銭譜、昭和泉譜、絵銭譜のいずれにも掲載されており、そのうち昭和泉譜には出品者として堀光文堂なる名前が見えます。これらの絵銭寛永は名前を聞くわりに市場にはほとんど姿を見せません。平成13年の銀座コインオークションにこれらの泉譜原品であろう「月星寛永」「寛永鬼鐘馗」が出品されたきり、「蓑笠寛永」なんぞどこに存在するかも知りません。おそらくそれはそれは濃厚な変態寛永銭愛好家に収蔵され、毎日枕元に置かれて愛でられているのではないかと思う次第。私は幸運にも「月星寛永」を銀座オークションで落札できましたが、「鬼鐘馗」は歯が立たず、その後は姿も見かけておりませんでした。ところがネットにこの「鬼鐘馗」がぽろっと出ていました。しかし、よく見ると何かが違います。そうです、図柄が左右反転しているのです。「鬼鐘馗」は鐘馗様によって鬼が退散する姿をコミカルに描いたもの。鐘馗は道教系の神で厄除けの神であり、中国の唐時代に実在した人物だという俗説もあります。従いまして本来の鐘馗様は中国服をまとった大男のイメージですが、絵銭の鐘馗様は金棒を背負ってデンと座った鬼そのものでして、今回の品はそれがさらにデフォルメされており漫画風でバイキング風いじめっ子風なのです。絵銭ですから何でもありかなと見ておりましたが、図柄は異なっても背郭が甘いものの長門銭風でもあり、けっこう良い値まで上がってしまいました。
明治時代に編纂された畫銭譜には「寛永梅松天神」だの「寛永猿鶏」だの、見たことのない絵銭が掲載されています。富本銭が絵銭として同じ紙面にさりげなく掲載されておりますから、この寛永鬼鐘馗もけっこう古い時代から知られているのかもしれません。
 
 
6月8日 【贋金考】
江戸時代は金・銀・銭がそれぞれ独立した価値を持って流通するいわゆる三貨制度時代と言われますが、実際には米が加わった四貨制度になっていたと見るべきで、これによって江戸時代の経済は様々な事件が起きています。
そもそも経済の基盤に一次産品の米が加わるということは、豊作・不作により貨幣価値が乱高下することを意味します。江戸幕府が倒れた原因にはこの米本位制から脱却できなかった経済構造にもあります。なかでも銭相場は江戸期を通してかなり乱高下しています。(2015年5月18日制作日記)さらに幕府は金銀改鋳によって出目を得る策を繰り返しますが、それによっても相場は乱高下していました。とくに幕末には金銀貨はおろか、銅・鉄一文銭、銅・鉄四文銭、天保銭、藩札・私札も加わり、それはもう大変な状況でした。日本人が細かい計算が得意なのもこういった時代を過ごしたからなのではないでしょうか?
江戸時代の日本は小さな国がたくさん集まって、統一通貨のもとそれぞれが独立した経済活動をしていたようなものでした。ちょうど今のヨーロッパのような感じです。そして統一通貨の流通を幕府がコントロールしていた・・・はずでした。しかし、財政難にあえいでいた各藩はひそかに統一通貨の密鋳・・・すなわち贋金づくり・・・に手を染めていたのです。
それは高額貨幣であればあるほど効果は高い・・・というわけで、二分金、一分銀、天保銭などが盛んに密造されたのです。
しかし、局地的とはいえ通貨供給量がいきなり2倍になれば、その貨幣価値はますます下がり物価は2倍に近づこうとするのは経済の論理。通貨の投入地域が狭い地域であればあるほどその影響は大きくなります。インフレで銭の価値は下がりますが、自国の産物は高くなるので他国には売りづらくなります。主に銭使いで暮らしている庶民はたまったものではありません。
だからこそ、密鋳銭は他国で使うことに意義があるのです。したがって天保銭が発見される地が鋳造地であるという考えは必ずしも一致しません。ただし、維新の嵐が吹き荒れると状況は一変したはずです。政権が代わっても天保銭密造は禁制であったことには変わらず、これがばれたら天下の大騒動。福岡藩のもみ消し騒動などは良い例です。
したがって、証拠の速やかな隠ぺいが行われます。未使用の密造天保銭が大量に出てくることがあるのはこれが理由だと思います。
密造と言えば、最大の通貨偽造者は明治政府だという方もいます。貨幣司でつくられた旧幕府と同じ見た目の二分金や一分銀などは、品位を無視したとんでもないもの。さては幕府に罪をなすりつけようとしたものなのでしょうか?この贋造によって明治政府も息を継げたも事実なのです。歴史は贋金で支えられていたのです。 
 
6月7日 【再会】
少し前にネットに出ていた絵銭と名前のついていた寛永銭画像です。何を隠そう奇品館第一号の収蔵品がこの寛永銭で、平成13年の駿河319号に出ていた品なのです。再会するのは13年ぶりというわけです。
熱くなって落としに行くべきだったのかもしれませんが、妙に冷静になってしまい燃え上がることはありませんでした。今再び見ると、前の所有者が島銭ではなく絵銭とした理由がなんとなくわかる気がします。今のところ類品はこれしか見ていませんので、安南寛永なのか絵銭なのか贋作・戯作の類なのかもわからず何とも言えません。不思議な品です。
安南寛永に亀寶至道手という類があり、これが島銭様の寛永と言われてものすごく珍重されているのですけど、絵銭ならおそらくそれを意識しているような気がします。亀寶至道手を模したのではないかと思う品を私も1枚保有しておりますが、それはごつごつしてかなり肉厚でがっちりしたもの。HP上では(制作が違い気に入らないので)正直に贋作扱いしていますが、案外化ける可能性があります。
一方、私保有の亀寶至道手の背工もたしか同じ年に駿河で落札したもので、こちらは亀寶至道手に間違いないと認定されまして、知らないうちに手類銭考の原品になっています。おそらくですが亀寶至道手の背工は現在日本で確認できる唯一の品なのではないのかなとうぬぼれております。 
 
6月5日 【石持なんだか会津なんだか?】
石持桐極印銭ということで落札した濶縁銭です。石持系としてはかなり黄色い印象。しかも濶縁の幅が立派なので思わず応札。残念ながら極印を確認しましたが石持ではなく桐極印でした。で、じっと確認したのですがどうも違和感があります。石持系極印にしては少し形状が違います。でも手持ち品と比べると肌が滑らかな感じでやや黒っぽい。これは見る人によって判断が変わる品だと思いました。
類似カタログには「会津濶縁は水戸正字背替より厚く、赤みのある黄色をしている。」とあり、當百銭カタログには「水戸正字背異替濶縁は黄銅質で外輪広く銭文は陰起しない。」とあります。また、石持桐系の諸銭は文字の周囲が彫られて深くなる特色があります。
結論から言うとこれは会津濶縁とすべきものであると私は判断しました。
①肉厚は2.5~2.6㎜、重量21.1gで背に覆輪痕跡も観察できる。水戸正字背異替濶縁はここまで濶縁にならない。
②文字が陰起し、文字周囲の彫りはほとんど認められない。
③極印は会津も大き目だが石持桐の方がもっと大きく傘が開く形状になる。

銅色などが手持ち品とかなり印象が異なるのですが、私の手持ち品はネットで大量入手したものでほぼ未使用のものと思われ、手ずれ感があまりないのでざらざらの砂目ややすり目が強く残り、金色味が強いものばかりなのです。したがって、金質の違和感は問題ないと思われます。ところで水戸藩と会津藩は親交が深く、技術交流もあったそうです。したがって背異替が水戸鋳であれば話は簡単なのですが、石持桐極印との関係やそれが九州で大量に見つかる事など九州出自の傍証も多いのです。水戸藩と久留米藩も交流があったようですので、天保仙人様は石持桐極印九州鋳造説に傾いているようですが、贋造天保は自国では大量に使わないことが経済戦略としては本来なのであるいは・・・という事もまだありそうです。
※天保銭を大量に自国で使うと、通貨供給が溢れるため領内インフレが更新(物価高騰)します。そうすると民は困りますし、交易商品が値上がりし、他国に物資を売ること(つまり輸出)もままならなくなります。それを避けるために藩札を発行するときは金銀を回収(両替)しながら藩札を発行していました。薩摩藩は琉球通寶を造ったとき、通貨供給量を無計画に増やしたためハイパーインフレが領国内で起こり大変な事態に陥りました。(2015年7月13日と15日の制作日記)経済戦略としては天保通寶は決済外貨として使用するのが理想なのです。
 
 
深字狭久短足久大ぶり銭 深字狭久短足久勁文 深字狭永短足久正文
6月4日 【深字三題】
大分の坂井先生は文久永寶の変化を追及されております。拓本は大分貨幣研究会の資料から転載させて頂きました。(いつもご送付ありがとうございます。)九州は唐松堂氏と坂井氏でプチ文久銭ブームのようですが、これを極めることは極めて困難にして長い道のりなのかもしれません。久泉研究資料は古寛永に始まり文銭まで行きましたが次は文久かなと期待しております。
一番左はわずかに輪から足が離れるために短足久の名こそありますが、基本銭に近い形です。さらに本銭は27㎜を超える大型銭。名品ですね。
中央は文の形が力強く「勁文」と名付けられたもの。泉譜未載で文の第2画と末画が完全に分離しています。それに文字が大きいですね。
右端は私一番の憧れの品。昔は深字狭永勁久(再)刔輪とされました。こうして拡大した拓本にしてみると狭穿ぶりが目立ちますね。久字も勁久に近くなります。文の横引きは末画の筆始めの位置とそろっています。みんなとても良い顔をしていますね。
※5月7日と9日に直永手繊字狭目長足寶の浅冠寶を紹介しましたが、類品の報告が2氏から相次いだそうです。私のHPがきっかけのようですから少しはお役に立てたようです。 
 
6月3日 【反玉寶のシークレットマーク?】
反玉寶のシークレットマークを捜していて、画像を目を皿のように見比べていたらある特徴が脳裏に飛び込んできました。でもって拓本もいくつか見ましたが同じような特徴のものを発見できましたので、あるいはこれがシークレットマークなのかもしれません。
もともと反玉銭は覆輪刔輪銭なので、独特の卵型刔輪で右側の刔輪がやや強くなる癖があるのですが、下部のやや右側に微妙な歪みがあります。これが色々な拓本を見る限り伝鋳されているように感じます。さらに背郭の形状が反郭気味になる癖があり、左角上部がわずかに幅広くなる傾向があるように感じます。浄法寺天保や江刺寛永には特徴が受け継がれた物がたくさんあり、同じ原母から派生していることが分かります。そうなると反玉も同じつくり・・・工法のような気がします。まあ、この件に関しましては私の気づきであり間違っているかもしれません。皆様のご意見をお伺いしたいところです。ところで・・・寛永通寶の画像は関西のS様からの投稿画像です。
見ての通り非常に美しく輪際に加刀の後もあり仙台の重揮通無背の母銭と思われます。よく観察すると微妙な鋳切れがあちこちにありなかなか面白い。(寛前足永の右の打ち込みと左の払いの先端寶貝など)類品が出れば一手になるかもしれませんが、肉眼では見分けがなかなか難しいかもしれません。類品をお持ちの方ご連絡くださいね。仮称としては異書低冠類にある「奇永」か「異貝寶」あたりが候補でしょうか?
 
 
6月2日 【反玉寶について再び】
反玉寶は2013年3月に入手していまして、詳しい記事をその頃の制作日記に書いています。我ながら良く調べたものです。ただ、当時の本音はどうにも好きになれなかったのです。それはあの痘痕面の金質・・・どうみても浄法寺を思い出します。
反玉寶は初めて見つかったとき、地元で時々見つかる反玉寶細縁の母銭ではないかと大騒ぎになったとか。ただし、それは後に否定されています。さらに母銭の出現も泉譜には書かれていますがそれもどうやら怪しいようです。
天保銭事典には反玉鋳放銭と反玉細縁銭は同炉ではない・・・別炉であるようなことが書かれています。たしかに一見では同じものには見えないのですね。でも、並べてみるとかなり特徴が重なります。
この半玉寶には仕立の変化がいろいろあります。
①未仕立鋳放銭 ②半仕立銭 ③仕立銭 ④細縁銭 ざっと分けるとこんなところでしょうか?
④はほとんど普通の天保銭。瓜生氏はこれは反玉の系統ではないとの意見ですけど・・・私的には細縁銭が反玉の系統であると認められている限り、反玉濶縁系は肯定できる品であり、もしそうでなければそれらが非常に妖しい品のように見えてしまいます野で困るのです。
普通、外輪を仕上げるためには穿内に角棒を通します。したがって外輪が仕上げられていて郭内に鋳バリが残るものは贋作のように思うのですが・・・南部藩の民鋳には郭内鋳放し・外輪仕上げの実例があるようで、この反玉もその一例。穿内に通すのが金属の角棒ではなく軟らかい木丸棒などだったらこうなるかしら?
さて仙人のおっしゃる反玉のシークレットマークとは何なのでしょうか?
まず、反玉の見分けとしてですが・・・
刔輪、とくに背側の刔輪に注目します。①當字が輪からはっきり離れるよう刔輪されてます。右側の方が強い癖があります。
次に當字の頭の3本の打ち込みに注目。②一番右側が少し短いのです。
さらに輪の幅、左右の幅の差を見ます。③向かって左が幅広くなる傾向がありますが、例外も多い。
そして珎の形をよ~く観察しましょう。④王末画が突き上げるように入り、途中で折れて尓に連なります。
⑤上記の仰寶に見られる肌ととてもよく似た砂目。仕上げられるとかなりわかりづらくなりますが・・・。これについては昨年の8月にも取り上げていましたね。これまた浄法寺説の傍証なんです。
あとは瑕寶と呼ばれるものだけにある特徴ですけど・・・・
①當冠の右肩(折れの部分)に切れがある。
②百の横引き前半に切れがある。
③瑕寶の名前の通り、寶王の第一画の前半が失われている。

これらの件は2013年の3月16日の制作日記に本当に詳しく書いてありました。私もすっかり忘れていました。南部肌の不知銭・・・たしかに地肌は似ていますが、背の刔輪や形状が少し違う気がしてきました。まだ迷っています。天保通寶って本当に難しい。
 
 
6月1日 【本日気づきました!】
5月は今日まで古銭を1枚も買わなかった。一応、ネットや入札誌応札をしていますので、最後の落札があるかもしれませんが、最近は弱気含みに推移しています。ここのところ古銭界の大物に相次いで引退・隠遁・療養・訃報などが相次いでいて、世代交代期(衰退期?)に入ってきているようです。つなぐ世代の出現が望まれますけど、私の世代は本業においても板挟み世代で牽引車的な存在になっていません。右肩上がりを生きた世代ではなかったので、進軍ラッパは吹けず、かといって新しいことを始める勇気もなかなかなく、上の世代について行くのが精いっぱいという感じの世代で、残念ながら経済界や芸能界でもあまり目立っていませんね。
前述の理由でここのところ古銭も大物珍品が主に関西方面を中心にどさっと出回ってきてるようですが、買い支える人口がもともと少ない世界なので暴落の危険性もあります。鉄人も自粛気味ですし、古銭は供給過多の時代に入るのかもしれません。逆説的に言えば大チャンスなんですけどね。
さて、本日久々に手持ち品を眺めていてのこと。27日の記事に書きましたが、異書体は完全に類似カタログの抱冠寶と同じ炉ですね。極印の形状が異なっていたので気づくのが遅れました。鋳肌の砂目が全く同じですね。
それともうひとつ、不知長郭手南部肌としたものは・・・反玉の細縁銭で良いと思います。ただし、昨年の11月に仙人様からは似ているけど違うとされていました。でもこの肌は反玉でやはり良い気がしてきました。ところで仙人様が示唆した反玉のシークレットマークって何だろう?
最期に・・・5月最後に2品落札してました。やはり買ってしまった。
石持桐正字背異替濶縁4500円・・・もし、これが本当に石持桐であったのなら得します。異替濶縁の石持桐はまだ保有してません。ただし、そうじゃなくてもこの濶縁ぶりは好きなので納得です。
不知細郭手張足寶27500円・・・冷やかし応札が落ちました。相場より1~2万円ぐらい安い。細郭手の張足寶は少ないのです。
 
5月31日 【贋作者ネットワークが存在した話】
贋作者の足跡を追っていて、福西と加賀千代につながりがあり、加賀千代の下請けにO氏がいたことまでは突きとめました。さらに加賀千代と佐野英山に共通した販売方法があることから何らかのつながりがあるらしいことも感じていました。天保仙人様からレクチャーを受けているとあっさり、みんなつながっていた・・・と教えてくださました。佐野英山はブローカーですから、加賀千代や福西も仕入れ先としてリストアップしていたのでしょう。そしてさらに超意外な名前が出てきました。ラムスデンです。調べてみるとラムスデンと佐野は年齢で8歳ほどしか違いません。佐野が長生きしたので活躍年代が重なっていたことは私には盲点でした。考えてみると珍しい古銭(とくに母銭)とその情報が欲しいラムスデンと精巧な贋作作者を探していた佐野が相思相愛になるのはもっともな話。お互い有名人ですからなおさらです。
古銭書などにはラムスデンは専ら海外を相手にしていて国内販売はしなかった・・・ことになっておりますが、そんなことはまったくなく、幕末試鋳貨幣を中心に相当数が出回っています。それらはルートが異なったため当初はラム作とはなかなか認識されなかったのではないでしょうか。ただし、ごく初期に出た加越能三百がラム作なのは昔から有名な話で、かなりの古泉家が引っ掛かったそうです。その加越能を世に知らしめたのは佐野英山だったので、はたして加越能の情報が正しいのか否かも私は不安になってきました。
今そのラム作が再び収集業界に本物として舞い戻りつつあるそうです。それらの品は推定ながら田中銭幣館が贋物としてはねていたもので、譲り受けた郡司氏によって古銭界に再流出したものらしいのです。しばらく眠っていましたが近年になってぽつぽつ市場に姿を見せ始めています。まさにせっかく寝た子を起すような行為、君子危うきに近づかず・・・・贋作の輪廻は延々と続くのでしょうか?・・・お気を付け下さい。
余談ながら・・・
田中銭幣館は贋作撲滅のため、贋作づくりの道具となる金座・銀座から流出した極印や母銭類を金に糸目をつけず高額で買い取ったそうです。田中は人間的には傲慢と言うイメージがついて回るのですけど、心底古泉業界を愛してやまなかったのだと思います。
また、大川天顕堂は、贋作と判断した古銭には×のマークを記したそうです。(天保仙人の推定)実はある天保銭がオークションに出たとき、花押の中に×マークが記入されていたことがあったと私も記憶しています。それこそ大川が記した贋物マークだったのですね。贋物ですけど大川氏旧蔵品・・・それを聞くとなんだか欲しくなってきた?
  
 
5月30日 【天保仙人秘談:琉球通寶】
琉球通寶の大字小足寶が珍品ということは昨日書きましたが、どれだけ珍しかったというと・・・
実は、当時の中央界にいた大泉家の誰もが持っていなかったのです。だから珍品なのに古銭界の例会などでほとんど紹介されてきていないのです。例えば天保銭の大家と言われたあの小川青寶樓も大川天顕堂も一度も保有していなかったというから驚きです。
天保仙人様がその品を入手したきっかけは・・・ある独身で人付き合い嫌いな古泉家が亡くなる寸前に、その収集品を古銭屋さんに一括で売却しました。その古泉家は貨幣協会に所属して例会には出てきましたが、自宅や連絡先を仲間には一切公開していなかったそうです。古銭商は、古泉家が亡くなった後に古銭の売り立てを行いました。土佐通寶や筑前通寶などもあったようですがほとんど贋作でした。ところがこの大字小足寶は本物だったそうですが、しかしながら古銭屋さんはその本当の価値が分からない。従いまして仙人様は相場よりかなり安く入手ができたそうですし、一方の古銭屋さんも思った通りの価格で売れたそうなので、みんなニコニコ。
琉球の民鋳半朱を入手したときは・・・古銭屋さん曰く「仙人、最近お客様から買った品物の中に、極印の無い半朱が混じっていたんだけど、安くするから参考品として買ってくれない?」もちろん二つ返事でOKしたそうです。私も琉球の中字として大字狭貝寶や平尾球を何度か購入したことがあります。そういえばキュリオマガジン社の編集長A氏も最近極美の小字狭足寶を入手したとか。ラッキーですね。
民鋳の半朱は薄くて少し軽く、サ極印がありません。カタログ評価地を見る限りですが、さがせばと意外にあるのかもしれません。濶縁小字の半朱は小さいけれどその分肉厚です。これもいつか掘り出しを夢見ています。ただし、これはかなり少ないと思います。
 
 
5月29日 【琉球の大々珍品】
天保通寶を集めている方でも琉球通寶をたくさんお持ちになっている方は意外に少ないと思います。そこまで資力が回らないというのが本音。それでもがんばって一通りの書体を集めているのですけど、いくつかの珍品は見ることも難しい品なのです。昨年の7月に幕末の経済戦争についてかなり書きましたし、その際に密鋳の半朱と濶縁縮字の半朱の紹介もしましたのでご確認いただければ幸いです。
さて、琉球通寶の珍品と言う意味ではもう一つ絶対に忘れてはいけないものがあります。それが大字小足寶の類。画像は侍古銭会の勉強会において天保仙人様の所蔵品を撮影させて頂いたもの。2009年に拝見はしていましたが、撮影の機会を失ったままでした。この品、おそらく民間に存在する大字小足寶の中で最も美しいとされるものに違いない。古銭界の上戸彩か石原さとみ、それとも有村架純か深沢恭子?(いずれも私好みの女優です。)
表の文字は巨字とよばれるほど大きい。ただ、小足寶という名前は大字宏足寶に比べての話で原品を見るとたしかに小足寶には違いありませんが、短いのは後足だけですから、跛寶とか離足寶といったところでしょうか?
こんな珍品でも2種類あることが知られていて、寶冠が大きく、王末画の前に飛び出すものと画像の品のように末画上にとどまるものがあるのです。(拓図で見る限り前者は背の當字もやや大きくなります。)いずれも本当に希少な品で私は過去のこの品しかみたことがありませんが、なんと平成19年の12月に収集誌上で市場入札に狭冠寶が出品されています。落札価格はなんと65000円でした!
私の人生最大級の不覚、入手機会は今後まず巡ってこないと思います。ちなみにこの品は島屋文の存在なんて比ではなく、国内に数品しかありませんし、それもがっちりと収蔵されてますからまず世に出てきません。
ちなみに仙人様は貴重な収蔵品に対しては(自分に何かが起こったときのため)売却目安価格をつけていることがあります。その額は収集価格の5倍以上。仙人様いわく・・・もちろんこんな価格では売れませんよ。目に焼き付けておきましょう。
 
 
5月27日 【不知細郭手抱冠寶】
大和文庫に細郭手抱冠寶が出品されていました。天保通寶と類似カタログにおいては抱冠寶・崩字・短尾通細字・短尾通細字濶縁と4種類掲載されていて、同じ炉の品だと云いますが、その明確な根拠(共通点)が分かりません。 可能性としてはいずれも文字が細くなるような加工がされていること、同じ極印であることも判明していますが良く気づいたものです。ところで、この品私が細郭手異書体としている物と多分同炉だと思います。極印の形状が違うようにも思えますが基本的な製作はほぼ間違いないと思っています。本当なら欲しいんですけど、今は自粛自粛!
※家族旅行の予約をしたら、とんでもない請求が来た!おかげで金欠になりそうです。いえ、なってます。当百銭カタログより
文字の痩せっぷり、背郭の反り返りなどほぼ正合しています。この類は個別の変化が激しく、書体だけでは判断できません。総合的な判断が必要ですけど、これほどよく似ているとわかりやすいです。ただ、この類は名前に一貫性がありませんので、分かりやすい良い統一名称はないでしょうかね?

→ 細郭手異書体
 
5月23日 【コインの音】
幕末の盲目の大収集家の宇都宮俊良は古銭の真贋を触覚と嗅覚で感じ分けたと言う逸話が残されています。
(注1)
最近の贋作は非常にできがよろしくて、科学的な製法をしているものがあります。したがって盲目でない私たちもころりとだまされたりします。
現行・近代貨幣を上手にくりぬいてはめこみ(こうやってつくると側面から見ても合わせ目が見えない。)角度ずれを作りだしたり、放電加工(金型作成の技術、ほぼ完ぺきにコピーできます。)で直接削り出したもの、果てはそうしてつくった精巧金型でプレスして作成したもの(見た目で見分けることはほぼ不可能。)まで出てきているとの噂。金型でプレスした場合は側面のギザづけが実はとても難しいのですけど、現行コインはほとんど側面がつるつるですから、こういった加工が簡単なのです。したがいまして側面が平坦な現行コインのエラーには素人は手を出さないこと。プロだって騙されていますから。私のような未熟者はもう、怖くて怖くて手が出せません・・・と、言いながら引っかかっています。
ところで・・・その昔、古銭の勉強会においては、貴重な古銭は特製座布団の上に乗せられて回されたそうです。それに対してうっかり若造が手を出そうとしようものなら当時の大先生の文久童師あたりから「ぶわっかもん、お前はさわるな!」と大雷が落ちたそうでして・・・。
(注2)
その昔に模造銀貨が横行した頃、収集家は様々な鑑別法を編み出したそうです。
そのひとつに音による鑑定があったそうです。例えばコインを持って鉛筆の尻でコンコンと縁を叩いて澄んだ音がすれば銀
(注3)、そうでなければ偽物と判断したそうです。また、一圓銀貨の中央を指先で軽く挟み、息をふっと短く強く吹きかけると、「キュイ~ン」とかすかな共鳴音が長く響きます。これ、昔の収集家の間では有名な秘技なんだそうです。
しかし、残念ながら最近の偽物はきちんと銀でつくっているので、音がしたからと言って本物とは限りませんからあしからず。ましてやコイン店や他人の所有物を吹くことは厳禁でございます。
ちなみに銀は熱伝導率が金属中でもっとも高いので、手にした瞬間にヒヤッとします。
(注4)
また、キンキンに冷やした氷を純度の高い銀貨(室温)の上に置くと、まるでホットプレートの上に置いたように溶け始めます。面白いので実験してみて下さい。ただし、自分の持ち物でやりましょう。

注1)当時多かった漆盛り(文楼彫)による贋作は、少し柔らかくて爪で押すと傷がついたり、漆のかすかな香りがしたそうです。宇都宮俊良については泉家・収集家覚書を参照してください。
注2)古銭を鑑賞するにも礼儀作法があり、見る前にきちんと一礼し最初のうちは外から拝見だけ。古銭に触れられるようになるのは、それを購入できる資力と品格が備わってから・・・と、」いうこと。もちろん、拝見した後にもきちんと「結構なものを拝見させて頂きました。」と、お礼を述べましょう。今ではそんなことはありませんけど、傷つけたりしないように細心の注意と最低限の礼儀作法は必要です。文久童師は旗本の家系で気難しくとにかく怖かった(天保仙人様談)そうで、なかなか本当のことを教えてくれない(そんなことは自分で考えろ!というタイプ)だけでなく、気に入らない古銭は人のものでもぽ~んと放り投げたそうで、機嫌が悪いと庭に投げ捨てたという伝説が残されています。
注3)銀は非常に高く澄んだ音がしますが、錫・銅の合金も錫分が高いとかなり澄んだ良い音がします。仏具に錫製品が良く使われるのはそのためです。
注4)銀 > 銅 > 金の順番。金は熱伝導率が比較的低いので、持った瞬間にヒヤッとしないと思いますが、確認したことがありません。

※侍古銭会の皆様へ 
私はスマホ初心者であり、仕事柄普段は携帯を持ち歩いておりません。操作方法も良く分からないまま利用登録をしてしまいましたので、当面は返信などもできないと思います。友達申請やらご挨拶やらハイタッチだの、分からない操作に恐れおののいております。基本的に携帯メールアドレスは一般公開しておりませんで、不器用なのでスマホメールを打つのも四苦八苦の状態なのです。したがいまして返信等が無くても気を悪くしないでください。なお、御用の際は公開しているパソコンメールアドレスに送信願います。
 
5月22日 【オークションネットがすごいかも】
私が5月4日に記事にしたからという訳ではないのでしょうが、出ました青房寛永・・・これは毛利家の手本銭です。中は母銭クラスの大型の古寛永ばかり。母銭というよりやはり手本銭ですね。
これを購入できる人は相当の財力の持ち主ですけど、これだけはバラして欲しくないと願います。
ここで下世話な計算。手本銭が400枚とありますが、正しくは96勘定で384枚だと思います。そうなると出品価格170万円に消費税と手数料を加えると201万9600円。つまり現時点での1枚当たり単価は約5260円になります。
ばらして売る手間を考えるとなかなか良い線だなと思います。つまり、これを仕入れてばら売りを考える場合は手間の割に利益はそんなに出ないと思うのです。もちろん人気者の異永がたくさんあれば別ですけど、他はよほどの手替わりでなければ期待できませんから5000円から8000円と言ったところでしょう。当然値段も一度にたくさん出れば落ちるはずです。古寛永の仙台跛寶や新寛永の小管銭あたりの状況になってしまうでしょう。ですから、ばら売りを想定した場合の上限値は225万円当たり(1枚当たり約6991円)でしょうか?まあ250万円(1枚当たり約7734円)を越えるとバラ売りでは採算的に厳しくなる気がします。しかし、本当に怖いのは実は手替わり発見に命をかけているような濃いコレクター達ですね。そういう方は金額なんか全然関係ありませんし、資料的価値より好奇心の方が強いと来たもんだ。
ばらせば歴史的遺産が失われるだけでなく、手本銭の価値そのものが大暴落しますよ。そして絶対に復元はできません。さらにあなたには毛利家のお宝を分解した汚名名が末代まで残るのです。ではお前はどうなんだ・・・と言われればばらしたくなる衝動が抑えられない方かもしれません。だから買わない・・・いえ買えませんです、お金がないです。ごめんなさい。
このほかにも、田中桂寶が集めた永楽の番銭25枚組や、島屋文、天保通寶は尨字、ペン書体、奇天手、張天保など大物がずらり・・・誰が手放すんだろう。すごい内容です。
 
5月21日 【侍古銭会IN天保仙人勉強会】
本日は、仙人様のお招きにより侍古銭会の皆さんと初めてお会いし、仙人とともに古銭の勉強会を楽しみました。仙人様はノリノリで午後8時近くまでの大勉強会となりました。ごく基本的なお勉強の話に始まり、真贋鑑定、裏話・禁断のお話・噂話まで仔々細々・裏表までお話されています。
侍古銭会はモバゲーの中の趣味人のサークルサイトらしく、携帯電話だけでなくパソコンからも参加できるので、早速会員登録してみましたがおじさまにはやり方がまだよく判りません。本日お会いしたのはツノさん、タジさん、ヨネさん3人の方で、年齢も住所も収集ジャンルも異なります。侍という名前にしたのはどうもタジさんが野球好きで侍ジャパンにあやかろうとした・・・おいおい、古銭とは関係ないではないか・・・とつっこみをいれたくなる理由ですが、若くて勢いがある日本の古銭収集趣味集団と言うイメージにはぴったりですね。ツノさんはメンバーの中では最年長でさすがに抜きんでた博学。近代銭が趣味というお話ですが業界の裏の人間関係のお話まで細かく知っていたのには驚きました。いわゆる業界通の方であり知識も相当だと思います。
タジさんは最年少なだけに古銭をキラキラした目で見つめる好青年です。一方ヨネさんは天保銭をいろいろお持ちになっていたので、おそらくメンバーの中では一番天保銭にはまっているのではないでしょうか?
ところでヨネさんがお持ちになった萩の方字・・・何の変哲もない普通の方字なんですけど、一画一画すべてに鋳ざらいの痕跡がある非常に面白いもの。一瞬、母銭じゃないかと目を疑いました。私はもちろんのこと、仙人様もこんな通用銭はじめて?見たと驚いておられました。これあたりは萩銭収集に一生懸命なTさんにご意見をお聞きしたいところです。画像で確認できるように文字や郭がすべて山型に加刀されている痕跡がそのまま鋳写されている稀有な例なのです。母銭ならともかく通用銭でここまで出ている例は私はほとんど知りません。天晴ですね。
もうひとつ・・・タジさんが無造作にお財布に入れていた水戸の背異なのですが、みごとな赤銅質なのです。それも焼けたような色ではなくいわゆる久留米の石持桐極印の正字の色。水戸の背異は黄色が普通で、この色は少ない。しかも極印も大きく久留米っぽい。これは鋳銭地の認識が変わるかもしれない。残念なのは極印が破損してはっきり確認できなかったこと。それでもこれは珍しいと思います。入手は偶然なのかもしれませんが、運も実力の内、皆さんなかなか前途有望ですね。
※ごめんなさい。赤い背異は思ったよりありましたね。製作的には水戸と言うより石持桐極印に近いのでやはり、銭籍についてはまだ一考の余地があると思います。お騒がせしました・・・勘違いでしたけど課題が残りました。
 
 
5月17日 【寛永鉄銭収集案内】
石川氏からお手紙が到着しました。曰く「ここ1年ほど脇見もせず鉄銭のことを考え暮しました。その中でみちのくの古泉家小笠原吉助の寛永銭譜を再読。結果、復刻することになり、自分の書の中に綴じてみることにしました。一冊進呈!」

A5版の小冊子でその中に小笠原吉助の新撰寛永泉譜が組み込まれています。現代の分類名とは異なるのですけど、拓図はきれいで非常に見やすいですね。
ところで石川氏は写真下にあるような「新寛永鉄銭指南拓図原品」なる収集用手本銭を制作したようでして、これを後進のものに託したいとの事。価格は30万円とのことです。新寛永鉄銭指南拓図は石川氏の手作り冊子で、以前頂戴した石川諄古泉生活50周年という小冊子に写真が掲載されています。また、新寛永鉄銭指南拓図原品そのものの写真も掲載されています。私は残念ながら鉄銭は非常に苦手でして、しかも今は実家の引っ越し作業中で緊縮財政なのです。したがいまして寛永通寶の鉄銭に興味がある方は問い合わせてみてください。
☎090-9346-3522
※パソコンのマウスで青い部分を選択してください。番号が反転表示されます。

 
5月16日 【赤鐚永楽】
まったくもって可愛い顔です。 その昔、赤い鐚銭を甲州鐚と聞いたことがありますが、今の感覚で言えば東北鐚・・・それも加護山当たりかなあなんて考えてしまいます。実際に永楽でここまで赤いものはあまり見たことがありません。
加護山では寛永、天保だけでなく、常平の出土例もあることから写せるものを片っ端から写した可能性もあるようです。実際にこの赤鐚永楽も加護山出土と言われれば信じてしまう風貌ですね。世の永楽ファンは中正手系の改造鐚に目を奪われがちですけどこういった素朴なタイプもなかなか楽しいものです。ただし、探すと見つからないですよ永楽は・・・。
 
5月15日 【萩縮通】
幣泉の260号に出ていた萩進二天 ・・・あれ、ちょっとおかしいと気づいた方はなかなか良い目をしています。まあ、進二天の類には違いないのかもしれませんが、あれは縮通ですね・・・二枚とも。進二天も結構少ないものなんですけど、縮通はさらに少ない・・・というより、市場では滅多に見かけない品なんです。ただ、見栄えがしないし地味なので知る人ぞ知るマニアアイテムになっているような感さえあります。進二天と縮通の見分けですが天保仙人様からは花押の口ばし部分の長さの差で見分けるとわかりやすいと教えて頂いておりました。詳しくは逆引き天保銭事典をご覧いただけるとありがたいのですが、すなわち、口ばし部分が長いのが縮通で短いのが進二天なのです。私の場合もう一つポイントを決めていて呆の両点がきれいにそろって開くのが進二天、不揃いであまり開かないのが縮通です。この類は泉譜に掲載されていないような変わり種があるようで、なかなか気を抜くことができません。方字を曳尾としてあったものもありましたので、気が付いた方は私以外にもかなりいると思いますし、進二天が3万円と言うのも安い価格設定です。私は一応応札はしていますが本気の額は入れていませんでしたので、落ちたらとんでもなくラッキーですけど、まあ無理でしょうね。
ところで、21日に仙人様と勉強会を開くことになりました。今から楽しみですね。
 
5月11日 【未見品誌上交歓】 
符合銭は中学~高校生時代は一生懸命集めていたのですが、あまりの範囲の広さから挫折していますが・・・私をいざなったのは「穴の細道」そして「符合泉志」でしょうね。符合銭の中でも政和と宣和は文字が整っていて美銭が多く、銭体も大きく見栄えがするのでとりわけ好きでした。ずっと収集していなかったので興味を失っていたのですが、この画像を見たときに久々に心がぐっと反応してしまいました。なんだろうこれ、宣の字は頭でっかちで丸いし、通は仰ぎと寶は俯している・・・宣和の島屋文だ!面白い!というわけで思わず応札してしまいました。隔輪と名付けられていましたが三編の大字円貝寶との合いの子のような書体です。符合銭の知識はあまりありませんがこんなの見たことないですね。大きいから折二からの変化?・・・ではなさそうですけどね。
※残念ながら見事逆転。符合銭マニアも健在のようで少しうれしいですね。久々に楽しめましたが入手はなりませんでした。
※毎週のように実家の片づけをしていますが、お宝は出てきません。古い家なのであちこちに天袋だの隠し戸棚がありますが、そこに祖母は古着だの座布団だのをきれいに畳んでしまいこんでいます。数十年前のセーラー服まで出てきました。(売れる?)雨漏りなんだかネズミのおしっこなんだか布団袋がしみだらけに変色していて埃アレルギーの私は発熱しそうな作業です。
 
5月9日 【繊字浅冠寶かしら?】
唐松堂氏の報告をもとにHさんからお分けいただいた細字系の文久銭を調べてみましたが、浅冠寶は直永手細字のうち30%ぐらいあるはずなのですけど、全然見つかりません。最後の1枚を見たところ、あれ、少し雰囲気が違う。ルーペで拡大してみましたがよく判らないのでスキャナーで拡大撮影をしてみました。私は浅冠寶の定義が良く判っていないのですけど、ひょっとしたら唐松堂氏が探し求めていた繊地の浅冠寶かもしれません。状態はいまいちですけどどうでしょうか?
 
5月7日 【おたずねもの:直永手繊字狭目長足寶の浅冠寶】
文久永宝遊泉記も81巻を頂戴しました。唐松堂様をはじめとして周遊会の皆様の尽力には本当に頭が下がります。(私はHPに記載することでしか応援できませんがお許しを・・・)遊泉記を読むと唐松堂氏は地区の役員など6つほど抱えているそうですから、なかなか忙しい方のようです。で、古銭収集歴が14年・・・それでこれだけ深い研究をしているとは恐れ入りました。もっと大ベテランかと思っていました。(失礼しました。)
さて左の拓は唐松堂氏からのおたずねもの。注意して頂きたいのは、繊字であることと、狭目&長足寶であることです・・・細字じゃないのです。直永手細字浅冠寶も決して多い方ではないそうですけど、繊字で浅冠寶になるものは、唐松堂さんもまだ1枚しか発見していないそうです。
細字浅冠寶は大分の坂井氏の命名だそうで、特徴は寶冠の前垂れが欠損して痕跡になるだけでなく、王の横引きが本体より長く、前垂れがあっただろう位置まで(超えて)伸びていることだそうです。拓本を見る限り王第一画がとくに長いですね。ありそうでないと言いますか、なかなか気づきづらい変化です。
なお、細字の浅冠寶には瑕寶といって、寶字中段の横引き前半が欠損するタイプがあります。併せて探してみて下さい。それにしても文久銭は奥が深そうです。最近文久銭は良く見ていないので、明日探してみましょう。
※侍古銭会の方々と仙人様の勉強会に私も誘われました。今どきの若い方々に果たして私がついて行けるか・・・まあ、職場では子供(孫?)みたいな部下たちとやりあっていますからなんとかなるかしら。最近好奇心が少し薄れ気味でパワーがありませんので、情報収集と充電が必要ですね。
 
 
5月4日 【毛利家手本銭のこと】
古寛永銭収集をやっていて、必ず目にするのがこの手本銭というものです。これについては昭和初期に書かれた田中啓文師による報告書が全てですけど、要するに毛利家には寛永時代から伝わる初期寛永銭の現物資料・・・が伝来していたのです。詳しくは古寛永泉志の冒頭もしくは谷巧二著作の寛永通寶銭譜古寛永の部上巻に書かれています。長門の地は古くから鋳銭が盛んな地であり、毛利家は自国領内で鋳造した寛永銭だけでなく、全国各地における寛永銭のサンプル資料を当時の姿のまま保存していたのです。余談ながら長門の地で鋳造された銭は、中央政権である奈良の地へ輸送されました。それらは『奈良登り銭』と称され、やがて『奈良登』から『長門』という地名が生まれたと聞いています。さて、毛利家に保存されていたひとつの箱の表面には『九六銭二〆 手本銭五貫文 寶庫』とあり、また他の四貫文入りの2箱には鋳放し銭を含む長門銭の手本銭が大量にあり、長門銭の銭種が確定する根拠となったそうです。つまり毛利家伝来の寛永銭は3箱合計9貫文・・・96勘定で8640枚にも及ぶ貴重な現物資料だったのです。銭には鋳造地情報の木牌が付けられていたものもあるそうで、古寛永の鋳造地を推定するのには格好の資料でした。ただし、五貫文入りの箱は鋳造当時のままではなく、途中で紐がきれてしまったため、文化年間に差し替えがされた物のようです。この貴重な資料が、古銭商の手によって世に引っ張り出され市場に散乱してしまったのは、非常に嘆かわしいことなのですが、それによって古寛永コレクターが潤ったことも否定できません。ところで、手本銭と言う名称ですが、毛利家の現物資料にある通り寛永の時代からある用語に間違いありません。では古銭界においてはというと、手本銭というと専ら古寛永毛利家手本銭のことを指し、他座のものにはほとんど使用例を聞きません。つまり、手本銭については伝承以外に明確な定義が確定していないと言っては言い過ぎでしょうか?
実際に手本銭の中には通用銭とおぼしきものもあり、私も1枚保有しておりますが、失礼ながらえ、これが手本銭と言う代物です。(購入したときの名称が間違っていなければの話ですが。)まあ、そんな例は少ない方でして、実際に手本銭を見ると未流通で角が立ち、(鋳放しの未仕立て銭から、やすり掛けしたものなどがあるそうですけど、多くの市場に流通しているもののを見る限りは母銭としての仕上げはされていないものの、)面の砥ぎが施されている立派なものばかり・・・言っちゃ悪いのですが、母銭と言うよりは使用感のない初鋳大型銭と言ってもがよろしい気がします。田中啓文師は当時の記録でこんなことを残しています。手本銭は大方次の4種に分類される。
1)鋳放し銭 2)粗やすりをかけたもの 3)最後の磨きを省いたもの 4)本仕立てのもの
 
このうち本仕立てのものは極めて少ないとあるのですけど、この本仕立てとは母銭の仕立とすべきなのか、面の砥ぎ作業(平砥ぎ)をいうのか・・・・最後の磨きとは面の砥ぎ作業(平砥ぎ)なのか、それとも平砥ぎ後の藁摺りや臼踏みの作業なのかが今一つ分かりません。田中の言葉を信用するのならいずれも後者という事になりますがさあ、どうなのでしょうか?
いかにも手本銭と言う超大型のものや母銭仕立てのもの、鋳放し銭などは大家の銭箱にきっちり納まっていてなかなか世に出ない・・・世に出ても私などには手が出ない品物なのだと思います。気が付いたら私もかなりの数の手本銭を入手していますけど、鋳放しのものは1枚もありません。とはいえ、手本銭の製作は立派で、大きくそれなりに魅力的です。まあ、どうせ入手するのなら25㎜をはるかに超える堂々とした手本銭を集める方が楽しそうです。なお、存在数としては異永、奇永、麗書、勁文、俯永の類は比較的見かけますが、他座を写した正字様、星文様、太細様は滅多に見かけません。俯永様も手替わりは少ないような気がします。また、広永様は毛利家からは出なかったのかもしれません。
 
5月2日 【パワースポット:侍古銭会】
最近、時々仙人様がSNS経由で情報を送って下さいます。私は仕事場の関係で外出するとき以外は携帯を持ち歩きません。したがって、携帯をはじめとするメディアにはすっかり乗り遅れてしまい、ものすごく苦労しています。特にあの片手で行う入力には全然なれません。さて、現在第27回東京コインコンベンションが水天宮のロイヤルパークホテルで開催されています。私は昨日は参加する気満々で、しかも仙人様から声もかけて頂いていましたのですが、当日の朝になって急に雲行きが怪しくなり、結局断念せざるを得なくなりました。いわゆる家族奉仕労働というやつで、これをこなさないと道楽はできないものですから。妻と娘と娘の友達を連れてハイキング&ドライブです。新緑の中、都会の喧騒とは異なる心洗われる健康的な世界・・・でも、私は魑魅魍魎渦巻く不健全なな古銭の世界も大好きなんですね。ちなみに昨日立ち寄った笠森観音は巨大な岩山の上にそびえ建つ四方懸崖造りの古寺で周囲の笠森の自然林を堂の上から一望できる私お勧めのパワースポットです。実物は写真以上にすごいのですが周辺が全く観光地化されていませんので、近隣にさえ食事するような場所もありません。開基は784年、現在の形の寺院としては1028年に建立(焼失し関ヶ原の戦いの直前に再建されています。)され、この形(四方懸崖造り)の寺院は日本唯一というからものすごく由緒正しいお寺なのです。しかし、飾りっ気も人混みも全くない世界。最寄りの駅からも遠く、集落もない世界なのです。ここから房総の山なみが一望できるのですけど、周囲の木々もこのお堂に匹敵するぐらいの巨木ばかり。原生林が残っているようです。(調べると延暦年間から伐採が禁止されている自然林で、天然記念物でした。ちなみにお寺も重要文化財でした。私は千葉の国宝だと勝手に思っています。)
さて、仙人様からは侍古銭会の存在の話を頂きました。この世界は後継が育たないと消えゆく運命ですから是非とも頑張って頂きたいものです。
※ロイヤルパークホテルは大学時代のM先輩が支配人になったと聞いております。卒業以来一度もお会いしておりませんが残念ながら今年もお会いすることはかないませんでした。
 
4月30日 【秋田小様大量見聞録2】
覆輪刔輪マニアック講座の付録的記事の改造銭物産展においても検証しましたが、収集誌上の秋田小様の拓本比較をしてみました。
No.1 長径48.60㎜ 短径33.78㎜ 肉厚2.56㎜
No.17 長径47.80㎜ 短径32.21㎜ 肉厚2.74㎜
No.16 長径46.73㎜ 短径31.05㎜ 肉厚1.95㎜
No.49 長径45.89㎜ 短径31.32㎜ 肉厚2.16㎜
No.1は最大様、No.49は最小様、No.16と17は中間体でなんと兄弟銭だそうです。兄弟銭とは言えこれだけ大きさが異なるので全く同じ母銭とは言い切れない気がします。改造銭物産展においては本座銭と比較しましたが、ここでは最大様との比較です。最大と最小では輪一つ分の違いです。天保銭マニアは良く銭文径の比較をしますが、秋田小様銭に限っていえばこの計測はほとんど無意味です。と、言うのも文字が太く潰れているケースがほとんどだからで、そういう意味ではむしろ内径計測、あるいはこうした画像比較の方が有効かもしれません。なお、秋田小様は背側が左上方にずれるものが多い気がします。鋳銭工の癖というより、鋳造時の湯道の位置と鋳型の傾きなどの関係ではないかと考えてみましたが、やっぱりありえないですね。
 
4月27日 【秋田小様大量見聞録】
秋田小様については地元研究家の英泉こと村上英太郎氏が収集誌上に秋田小様拓本帖として拓本と計測値を掲載されています。今でこそ天保通寶収集研究家として名高い村上氏ですけど、当初は天保通寶にさほど興味をお持ちではなく、同郷の先輩である故、本庄時太郎氏に求められるまま地元で得た天保銭を送っていたそうですが、やがてその魅力に取りつかれて、本庄氏から天保銭を買い戻して一大コレクションを形成したそうです。秋田小様
63枚というとてつもないコレクションは、もしこれが一度に一般市場に出れば相場が激変しかねない数ですね。
さて、その数値を表にしてみましたが大きさや重さは結構バラつきがあります。
なかでも
長径48m以上と46㎜未満は非常に珍しいと思われます。(48㎜以上の存在率4.76% 46㎜未満の存在率1.67%)以前、秋田小様には大様・中様・小様があると私は述べたことがありますが、拓図で見ても48㎜クラスは明らかに大きいのです。ただ問題は、どこからが境目なのかが良く分からない。おそらく秋田小様は通用銭を改造して何度も写しを重ねた結果だと思うのですけど、覆輪はもちろんひょっとして嵌郭などもされたのではないかと考えられるのです。銅の収縮率から考えると48.5㎜前後は1度写し、47.7㎜前後は2度写し、47㎜以下が3度写し以上が多いであろうことはおおよそ分かりますけど・・・。
秋田小様は素朴と言えば素朴なんですけど、言っちゃ悪いが貨幣としてのできはかなり悪い。悪いというよりひどい出来です。はじめて秋田小様を見たとき、きれいな秋田細郭と並んでいたから何でこんなみすぼらしいものが細郭と同じような値段なんだろうと思った。今では細郭と並んでたら絶対に小様の方を選ぶと思う。ああ、やっぱり私も病気なんだなと思います。
長径48.0㎜以上 3枚/63枚 長径46.0㎜未満 1枚/63枚
短径32.5㎜以上 2枚/63枚 短径30.5㎜未満 1枚/63枚
肉厚 2.7㎜以上 4枚/63枚 肉厚 2.0㎜未満 5枚/63枚
平均値:長径47.00㎜ 短径31.43㎜ 肉厚2.35㎜
※肉厚は計測位置によってかなり異なるので、重量比較の方が良いかもしれませんが、2.7㎜以上と2㎜未満は少し少ない。短径もあくまでも参考値ですけど33㎜超過はすごいですね。No.1は母銭様と言う名前でしたけど納得の大きさです。
No.49とNo.60も絶対的な珍品ですね、とても魅力的です。
番号 長径 短径 肉厚 番号 長径 短径 肉厚 番号 長径 短径 肉厚
1 48.60 33.78 2.56 22 46.25 30.64 2.33 43 46.75 31.26 2.47
2 47.82 32.20 2.30 23 46.78 31.07 2.35 44 46.61 31.35 2.47
3 46.61 30.94 2.28 24 46.52 31.01 2.47 45 47.87 31.55 2.14
4 46.32 31.14 2.11 25 47.06 31.57 2.47 46 46.37 31.21 1.81
5 47.21 31.58 2.45 26 46.91 31.21 2.54 47 46.76 31.15 2.42
6 47.11 31.74 2.40 27 47.60 31.95 2.72 48 46.10 31.05 2.25
7 47.70 32.05 2.09 28 46.81 31.20 2.51 49 45.89 31.32 2.16
8 46.59 31.32 1.92 29 46.90 31.60 2.55 50 46.85 31.57 2.30
9 46.37 31.51 2.55 30 47.81 32.20 2.76 51 47.63 31.74 2.04
10 47.65 31.85 2.19 31 46.85 31.37 2.30 52 47.56 31.47 2.07
11 47.56 31.65 2.30 32 47.06 31.21 2.42 53 46.87 31.16 2.59
12 47.16 30.78 2.34 33 46.61 31.37 2.69 54 46.59 31.38 2.73
13 48.24 31.96 2.25 34 46.63 31.30 2.09 55 47.02 31.48 2.41
14 46.46 30.98 2.42 35 46.72 31.35 2.42 56 46.55 30.90 2.39
15 46.63 30.82 1.93 36 46.67 31.23 2.35 57 46.77 31.04 2.44
16 46.73 31.05 1.95 37 47.99 32.00 2.50 58 47.84 31.72 2.37
17 47.80 32.21 2.74 38 46.77 31.61 2.51 59 46.35 31.04 1.92
18 47.15 31.21 2.51 39 47.02 31.60 2.56 60 48.57 32.66 2.52
19 46.66 31.60 2.28 40 47.55 31.63 2.55 61 46.78 31.06 2.06
20 46.03 30.47 2.10 41 47.20 31.62 2.47 62 47.05 31.19 2.10
21 46.41 30.63 2.35 42 46.92 31.42 2.60 63 46.90 31.24 2.40
 
4月26日 【軽いけど秋田小様?】
これもネットからの拝借画像ですけど、見ての通り真っ赤な天保通寶。こりゃあ、秋田小様に間違いないでしょ・・・と、決め打ちに行きかけましたが、私の中の弱気の虫が首をもたげました。(余談ですけどもたげるとは抬と書きます。古寛永の抬頭永の名の由来です。余談です。)この重さはいったいなんだ・・・秋田小様はたしかに小さいけど、鉛分が多いから小さい割にはそんなに軽くないイメージがあります。それは実は私の手持ち品のイメージでして、本当の所はよくわからないのです。秋田小様のつもりで久留米正字濶縁を買ってしまったら目も当てられないので、目を皿のようにして画像を眺めに眺めたのですけど、秋田小様にしか見えないんですけどよく判らない。13gは軽いんですよね。そんなものなのか、それともものすごい珍品なのか・・・じぇんじぇん分かりまへん。そういえば英泉天保通寶研究分類譜にはたくさん掲載されていたなと思い開いてみると、重さの記載こそありませんが厚さ2㎜未満のものが散見されます。私の手持ち品のうち小さいものは厚さ2.4㎜ほどで重さが18.9gでした。仮に画像の品が私の手持ち品と同じ大きさだと仮定したら・・・
2.4:18.9=X:13.0 X=2.4×(13.0÷18.9)≒1.65㎜
もしこの厚さが本当だとしたらとんでもなく薄い。英泉譜で一番薄いものが1.81㎜なのです。私のものよりかなり小さいと仮定して、厚みが同じと仮定すると私の所有品と比べ表面積が68.8%しかないことになります。これも考えがたい。短径31.4㎜程度を示す画像がありましたが、その数値は私の手持ち品とほぼ同じですから、やはり薄いと考えるべきか。
考えれば考えるほど手が出せなくなってしまいました。ちなみにこれだけ軽い天保は、土佐額輪や南部の末鋳にごくたまにあると思いますけどかなり珍しいと思います。果たしてこれは本当に秋田小様なのか・・・・結果を知りたいですね。
 
 
4月25日 【細郭手陰起文背反郭の天保】
ネットで出ていましたがあと一歩踏み込めず惜敗しました。改めてみると結構面白い品でしたね。見やすいように画像を加工していますが、陰起文と言うよりこれは異書体と言ってよいほどの細字です。あまり見たことのない不知銭ですけど、ひょっとしたら細字短短尾通の抱冠寶の系統なのかもしれません。
もしそうだっただとしたらもっと頑張れば良かったと思うのですけど、今年は実家の整理もあってしばらくは自粛ムードなのです。震災もありましたしね。よく見ると刔輪も独特ですし、入手された方、ぜひ私に自慢してください。こいつは絶対に面白い品にして良い品だと思いますよ。
 
 
4月23日 【がらくた堂】
暴々鶏氏の放出品を買い求めてみました。出品の名前を見る限り、とても怪しげなんですけど・・・まあ、そういった品なんでしょう。こういった品は楽しみと割り切って買うのが一番です。お世話にもなっていますしね。
まずは白銅銭・・・まずはルーぺ観察、ついで拡大撮影。う~ん、妖しい。でもって、掟破りの禁術・・・思い切ってガリッと傷つけてみました。(失敗の代償は大きいので良い子はこんなことしてはいけません。)その結果、残念!メッキが剥げて正体が露出しました。分厚い銀メッキかもしれないというコメントも頂いておりましたので、それが証明できてしまったわけです。
続いていびつな赤銅の俯永です。暴々鶏氏は軽米と従来から呼ばれるつくりとのコメント。軽米(かるまい)という地名は少し変わっていますが、余談ながら私の地元には似た苗字の一族がいらっしゃいます。刈米(かりまい・かりごめ)さんと言いまして、親族にもおります。文字通り農耕民族ですけど、この場合刈・軽は崖地をも表すようで、地元の一族も崖地のふもとで農耕をしています。さて、右の品は一見文政期俯永の出来損ないのようにも見えますが、側面はいびつな横やすり仕上げ・・・つまり文政期ではありません。密鋳銭か否かは側面で分かる好例です。本当に素朴ですね。
次は”残念な離用通”のタイトルの品。離用通の密鋳銭なら大もうけ。到着した品を見ると面の砥ぎが異様に強い・・・というよりこれはまるで後天的な圧延のようにも感じます。それだけ表面がすべすべするのです。内径は次鋳のタイプと同じ20.8㎜。側面の仕上げは・・・感触はでこぼこしてますが私が見る限り文政期と同じ縦方向の仕上げがかすかに観察できます。穿内仕上げもざっくりしていて文政期と同じです。さて、これをどう評価するかなんですけど、密鋳としてもかまわない気もしますが一つ決定打が足りない。表面の感じはあきらかに本炉とは異なりますが、厳しく言えば後天性も考えられるのです。したがって私的には残念ながら文政期の離用通以上に評価するのは苦しいのです。まあ、これは人によって見立ては異なりますから、お楽しみを残してグレー品という事で。(画像の風貌はほぼ密鋳銭ですね。)

最後の1枚は寛保期高津銭写しです。全体に焼け銭のように赤いのですけど見ての通り真円ではありません。密鋳と焼け銭を間違うことは本当に多いのですけど、こいつは・・・・〇でよろしい。やすり目が分からないこと、砂目にこれと言って異常がない事を差し引いても、画像以上に赤い銅質といびつで湯道が残るつくりはポイント2つで私的にはOKなのです。
と、まあ、色々ありましたが小額支出で結構楽しめました。こうした判定は人によって異なりますけど、それを承知で楽しむのが古銭だと心得ています。健康上の理由はあると思いますが暴々鶏氏にはもう少し教えて頂きたいと思っています。
 
 
4月20日 【オークションネット落札品】
オークションネットで落札した細郭手の覆輪刔輪連玉寶銭です。不知天保細郭手の入門編と言うべきスタンダードな品であり、長郭手の張足寶と同じように比較的入手しやすいのですけど、さりとてそこらに転がっているような品でもありません。でもこのタイプの品はずいぶん拾いました。昭和泉譜では容弱肥字とも称され、横太りの覆輪刔輪銭であることも特徴ですけど、刔輪は横方向に強いので長足寶にはなっていません。また、寶王の末画と尓の前点が連なる癖があります。極印もバラエティに富むところからあるいは似たような別炉銭が複数あるのかもしれません。鋳ざらい痕跡が残る滑らか肌のものが多く」、面より背の方がやや濶縁になるのでより覆輪銭らしく、また穿内の強いやすりがけにより郭が極細になる傾向にもあります。
長径48.0㎜ 短径32.3㎜
銭文径40.4㎜ 重量19.9g
 
4月18日 【大西さんのこと】
泉家・収集家覚書の記事を読んで天保仙人様から連絡を頂戴いたしました。(以下、仙人様いわく・・・)
大西さんは天保通寶研究会の二代目の会長でした。初代は沢文男氏で、不知広郭手・面反郭・背円郭銭を収集され研究し発表され、逆の面円郭・背反郭銭の存在と稀少性を発表したのもまた沢さんでした。私は当時はまだ天保通寶研究会会員では無く、大西さんには2~3回しか会ってはなかったのですが、物静かな感じながらお酒の席が大好きな方でした。病気で早世した沢会長の後を継いだのが大西さんでした。体の割に謙虚な方で会員の推薦で会長にはなったものの直ぐに辞退され、瓜生氏が三代目の会長になっています。
大西さんは遒勁等の名品・珍品の天保銭よりもマイナー貨を好んで集め、分類し研究されていました。私に薩摩・広郭銭の分類を教えて下さったのも大西さんで、一番の自慢品が『面背逆銭』でした。その時に天保銭にも面背逆銭の在る事を知りました。そこで、ダメ元で分譲を願い続けていたら、ある日の研究会の席上で私の眼の前にポンと置かれ『大事にしろよ!』と言われ、笑いながら席に戻られました。その天保銭は今でも手元にあります。
大西さんは小川青寶楼師が所蔵していた、カマス1杯(約30kg)の薩摩・広郭銭と御自身の所蔵品を元に分類されました。青寶楼師の所蔵銭はカマスに戻され、先生の御自宅の床下に置かれたと言う事ですが、その後に見た人はいません。
瓜生氏宅での研究会の例会後は何時も宴席でした。ある日宴席中に瓜生氏が、和式のトイレの便座を持ってきて、皆に『買わないか?』と言いました。何でも『マンションに入居した時に、付いていた物で、洋式に変えたので使っていない』との事でした。
染付の模様が有り、奇麗な物でしたが、内心『買う者はいないだろう』と、思っていました。ところが大西さんが『買う!』と言ったので、私も川崎のO氏もビックリ!『何に使うのですか?』と聞いたら、『玄関先に縦に吊るして、花を飾る』と言われ、再度驚きました。
何時も笑顔で後輩思いの、良い先輩でした(合掌)。
※大西氏には私が高校生時代、偶然に出会っています。電車通学だった私は帰りの電車待ちの時間調整で木更津駅前のデパートによく立ち寄っていました。そんなとき駅前に新しくできた西友デパートの最上階に、レコード店や文具店とともに常設の古銭店ができたのです。そこには水戸大字や接郭、繊字などとともに、不知長郭手(細郭手だったかもしれません。)の刔輪で寶足の長いものが並んでいたのです。私は機会があるたびにその店を訪れ、穴が開くほどその古銭たちを眺めたのです。不知銭の価格は15000円ぐらいでしたが、当時の私の小遣いでは届かない夢の品。お年玉の時期までは売れないでくれと、行くたびににお祈りしていました。そんなとき、初老(多分50歳台だと思いますが高校生の私にはそう見えました。)の男性から背後から声をかけられたのです。何を話したのかはほとんど覚えていないのですが、その方が去った後、お店の人から今の人は地元では有名なコレクターの先生で天保銭もたくさん集められている・・・と教えられました。
やがて受験勉強が忙しくなり、気が付くと売れてしまったのか不知銭は姿を消してしまいました。高校を卒業してからこのことはすっかり忘れてしまっていたのですが、あるとき、月刊天保銭をパラパラっとめくっていた時に偶然に大西氏の写真と記事を目にして、忘れていた記憶が呼び戻されました。あの不知銭・・・素晴らしい刔輪銭でしたので今でも欲しいですね。
 
4月17日 【長反足寶の裏の裏話】
4月12日の記事で、私が小川青寶樓師としたのは、重大な錯誤で、小川佳泉庵師の誤りでしたので修正させて頂きました。
ところでその佳泉庵小川吉儀氏から瓜生氏が聞いたという「長反足寶=昭和の作り物説」もまた、瓜生氏の創作だったようなのです。
不知天保通寶分類譜を瓜生氏が編集していた頃、皇朝銭収集家として著名だった群馬県のM氏が日本貨幣協会の例会で数百円で掘り出したという長反足寶を展示したそうなのです。もちろん瓜生氏はそれを見てのどから手が出るほど欲しかった!しかし、M氏と瓜生氏はウマが合わず、M氏は瓜生氏が欲しがっていることを承知で仲の良かった若手収集家に絶対秘密で分譲したそうなのです。M氏が長反足寶を手放したことを後で知った瓜生氏は怒り心頭・・・酒席で愚痴りはじめM氏を罵ること30分あまり・・・密かに分譲を受けていた若手収集家は何も知らない瓜生氏の前で黙ってじっと聞いているしかなかったそうです。その若手収集家は瓜生氏の生前には長反足寶を所有していることは一言も話せなかったそうです。したがって、不知天保通寶分類譜が発刊されたとき、その記事を読んだ若手収集家は、「これは瓜生さんの個人的な恨みに違いない!」と感じ取ったそうです。
その若手収集家とは・・・若き日の天保仙人様、昭和62年頃のお話だそうです。
※長反足寶の出現話を聞くと多くが北関東周辺に集中します。たまたまなのかもしれませんが鋳造地特定の手がかりになるかもしれません。
 
 
4月16日 【籠山閣 菅原直登氏逝く】 
北秋田寛永通寶研究会の菅原直登氏がお亡くなりになられていたそうで、奥様から丁寧なお手紙を頂戴しました。私は菅原氏とは直接の交流はなかったのですけど、江刺銭を研究の資料をお送り頂いたことが縁で、北秋田寛永通寶研究会に入れて頂いておりました。実は昨年の1月12日の制作日記記事の掲載の際に、引用の許可を頂こうと連絡を入れたところ、なんと入院された直後でした。にもかかわらず、病院の階段の踊り場から携帯電話で直接ご連絡を頂きました。このときの会話が私が生涯で唯一菅原氏と直接お話をしたものだと思うのです。おそらく、古銭会の会場で何度かニアミスはあったと思います。しかし残念ながらじっくり話し合ったことがないのが心残りです。
左の寛永通寶は氏が手替わり品、明和期利離用通幻辵として還暦記念泉譜銅山通寶に掲載したものと同じ種。この手替わり品は茨城県の佐藤成男氏が2孔発見し、その後北秋田寛永通寶研究会においても5孔発見できたとの事。氏のお気に入りだったのか堂々カラーで掲載されています。寛永通寶が本当に好きな方でした。合掌・・・。
※紆余曲折ありましたが天保通寶用の私専用コイン袋がようやくできました。なんのことはないただの50㎜×100㎜の透明樹脂製の袋ですけど、2つ折りにすれば天保通寶がきれいに入り市販のコインアルバムにぴったり入ります。この袋の材質は塩化ビニール性のコイン袋とは異なり、古銭を劣化させません。今回はオーダーメイドで1000枚つくりましたけど1枚当たり税・送料込みで1枚当たり9円弱かかりました。弱点はアルバムを逆さにすると脱落しやすいことと、直接分類名を書くことができないこと。市販の厚手のトレーディングカード袋を加工したものです。(そのままでも使えますが、サイズがはみ出します)→参考HP
 
4月15日 【中正手永楽銀銭】 
私には真贋はわからないものの本能的にこの永楽の書体はは好きです。だいたい銀の永楽なんて妖しいものがごまんとあるのですけど、この通頭が俯しているものは中正手系統であることは専門外の私にもわかるというもの。銀銭で美しいですね。出所もしっかりしてそうだし名品みたいです。細分類は降永なのか小頭通なのかは良く分からないけど欲しい品ですね。ところで僧の中正が書いたからこの書体のことを中正(ちゅうしょう)だとなんとなく覚えているのですけど、中正っていったい誰なんでしょうか?書家として調べても、僧侶として調べても一向に分からない。本当の意味での伝承なのかそれとも古銭界にのみ通じる都市伝説のようなものなのか?謎ですね・・・。誰か教えて下さい。 
中正について
東北のSさんから情報を頂戴しました。中正とは仲方中正(1373年~1451年)であり、臨済宗無窓派、慈悲済門に属する日本の僧侶のようです。学芸に秀で能筆でも知られた人物で、応永8年(1401年)に明に渡り、永楽帝のその才を買われ永楽通寶の銭文筆者になったと、言われています。当時の明は銅不足で銅銭の発行を停止しており、永楽通寶は日本専用の貨幣としてつくられ、その筆者にも日本人が抜擢されたというわけです。(日本からは原料としての銅を輸出し、中国で永楽通寶という製品にして輸入した。変形の加工貿易です。手数料として銀で決済した・・・と、言う説あり。)すなわち、永楽通寶の銘文はすべて中正の書と言うわけで、なぜにこのタイプの書をとくに中正手というのかは不明。中正は足利義持の身近に仕えた人物で相国寺鹿苑院の中で僧録(僧の登録や人事などを統括した地位の僧の肩書)と将軍との仲立ち役であったそうです。
 
4月14日 【ほぼ兄弟銭】 
収集をしていると持っているのに同じものを買ってしまうことがままあります。美しかったから入れ替えのために買うとか、手替わりだから買うなんて言う理由があれば良いのですけど、病気が進むとお買い得だからとかならまだしも、持っているのを忘れてなんてことも出てきます。その点不知銭なら100%同じ規格の品はまずないと考えて良いのですけど、それでも時々酷似したものを買ってしまうこともあるのですね。画像の天保銭の上段は最近入手した品で縮小系の張足寶。調べたところ英泉天保通寶分類譜の1283番 張足寶の原品に間違いないと思われ、不知天保通寶分類譜では下巻覆輪刔輪銭の部の中に張足寶として掲載されている原品だと推定できました。(P139)
下段は少し前に入手したものですが、こちらは英泉天保通寶分類譜では1284番で不知天保通寶分類譜では下巻P185で銭径縮小銭として浅字と名付けられていますが紛れもなく張足寶です。(たいして浅字ではありません。)2枚は穿穴の傾きまで酷似していますので母銭が同じだと思われます。計測値は微妙に違うも誤差の範囲です。果たして銭径が48㎜未満の方が価値があるのか、それとも銭文径が40㎜未満の方が価値が高いのか・・・変なことで悩んでますけど、仕上げの差で同じ品ですよね。ちなみに極印も同じです。
上段:
長径48.0㎜ 短径31.8㎜ 
銭文径39.9㎜ 重量17.1g
下段:長径47.9㎜ 短径31.9㎜ 
銭文径40.0㎜ 重量17.2g
※不知天保通寶分類譜は意図的なのかは不明ですが拓本や計測数値に若干の修正・いじりが見られます。ご注意ください。
 
4月13日 【穴カタ探訪:蛇の目の細縁】 
舎人坊石川氏の著書、穴銭カタログ日本は穴銭マニアの視点からの探究心がいっぱい。分厚く硬い表層と表側拓本中心で解説が少なめなので初心者には少しとっつきにくいかもしれませんが、氏が人脈と足で集めた他の泉譜にはない珍品気品妖しい品のオンパレードなのです。解説文字は小さめですけど、その中には穴銭愛に満ちた石川節が流れています。
さて、その中に青森県の板井哲也氏が発見されたという陰目寛背大濶縁細縁大字が目に留まりました。小解説には面背不一致銭とあり、通常の細縁大字銭とは異なるが、面背別々に製作した貼り合せ銭・・・ともある。面文字が大きく背の内径が小さく見える一方で、少し広穿にも見えます。画像を細工すると面内径の差はわずかですけど、背内径は明らかに小さい。そういえば蛇の目銭には背の内輪に明らかに刔輪があるものがあると雑銭の会のA7さんが報告して画像もあったはずなのですが見つかりません。それとこれは関係あるのでしょうか?目の錯覚でなければ確かに左の品の方が大字に見えますね。蛇の目は手持ちに2~3枚残っていたかしら、探してみようと思います。
 
 
 
4月12日 【長反足寶がまた出た!】 
不知長郭手長反足寶は非常に目立つ風貌から、かつては不知天保銭の王者たる地位にありながら、逆にその奇異な書体から、つくりものではないかと言われる存在でもあります。なかでも不知天保通寶分類譜に瓜生氏が佳泉庵小川吉儀氏から聞いたという「昭和の作り物説」は業界に衝撃を与え、この不知銭の地位を危ういものにしてしまった感があります。この天保銭は大正年間には存在が知られていたので、天保銭の鑑識と手引を著した小川氏がそのことを知らないはずはないと思うのですけど、瓜生氏が何故そんな記述を残したのか少々気になるところです。さて、画像の天保は東北のE氏がネット上で見つけ購入したもの。(ありがとうございます。)画像の関係で赤味の強い色になっていると思われます。もともとは流通痕跡の強い錆だらけの品だったそうで、やむなく錆落しをしたそうです。出現地は東北地域の古道具屋(リサイクルショップ)。私はこの種の拾い出し話を3件以上聞いています。意外に流通していたのかもしれません。 
4月17日 【長反足寶の裏の裏話】
4月12日の記事で、私が小川青寶樓師としたのは、重大な錯誤で、小川吉儀師の誤りでした野で修正させて頂きました。ところでその瓜生氏が佳泉庵小川吉儀氏から聞いたという「長反足寶=昭和の作り物説」もまた、瓜生氏の創作だったようなのです。不知天保通寶分類譜を瓜生氏が編集していた頃、皇朝銭収集家として著名だったM氏が日本貨幣協会の例会で数百円で掘り出したという長反足寶を展示したそうなのです。もちろん瓜生氏はそれを見て欲しがった!しかし、M氏と瓜生氏はウマが合わず、M氏は仲の良かった若手収集家に内緒で分譲したそうなのです。それを後で知った瓜生氏は怒り心頭・・・酒席で愚痴りM氏を罵ること30分・・・分譲を受けていた若手収集家は瓜生氏の前でじっと黙っているしかなかったそうです。そのためその若手収集家は瓜生氏が生存中には長反足寶を所有していることは一言も話せなかったそうです。したがって、不知天保通寶分類譜が発刊されたとき、その記事を読んだ若手収集家は、「これは瓜生さんの個人的な恨みだ!」と感じ取ったそうです。
 
 
4月11日 【翕霞原品】 
玉塚天保を調べていて大橋義春・当百銭研究分類譜に掲載されている天保戎寶に改めて目が釘付けになってしまいました。大橋義春氏は号を翕霞(きゅうか)と言います。昔の人は難しい文字をよく知っていたもので、翕という文字は多くの鳥が羽をぶつけてひしめき合っている様らしく、いっせいに起こる、盛んなさま・・・転じて集める・集まると言う意味もあるようです。文字通りであれば霞が湧き上がるさまであり、それに収集をかけているとしたら実に意味の深い泉号です。氏の生没年は判らないのですけど、昭和初期~中期を収集家として生きた方であり天保泉譜の実の生みの親にして日本有数の雑銭愛好家でもあったようです。さて、改めて泉譜を見ているうちに、私が2013年に入手した天保戎寶は大橋譜に載っている原品であると確信できました。古銭を収集していると泉譜原品は憧れですけど、なかなかそれを証明することができません。今回は状況証拠からの類推ですけど、これで胸のつかえが取れました。左の拓本に押された翕霞の印影が誇らしげに見えます。(画像では省略)なお、不知天保通寶分類譜別巻66Pのものもおそらく同じ品であることを付け加えておきます。

※決め手は輪内部外の歪み、銭上部の輪側面の凹み、天横引き上の小さなポツ。背郭左側の輪際にあるにある瑕などです。ずいぶん長い間迷っていましたが、結論がやっと出ました。絵銭ですけどめちゃめちゃ少ないと思います。
 
不知天保通寶分類譜別巻より
4月10日 【玉塚天保の後作】 
玉塚天保は初代玉塚榮次郎(1860~1920年)が貯蓄の重要性を説く中で生まれた記念品的な絵銭で、当時はすでに天保銭は廃貨でした。ジャンルとしては絵銭ですから贋作はないと言いたいところですが、明らかに後世になって真似されたものがあります。その作品は不知天保通寶分類譜にははっきり贋作として掲載されているのですが、それより古い泉譜の大橋義春・当百銭研究分類譜にはそのまま掲載されています。ではなぜ、これが後にだめだと認定されたか・・・実は後作の場合は「人」の文字が小さく弱々しく「入」の裏文字のようになっており、書家としても名を馳せた玉塚榮次郎がこんなものを世に出すはずがない・・・つまり文字そのものが書としてだめなのだと天保仙人様から聞いています。
もう一つ理由があります。もっともこれは私だけの説かもしれませんけど・・・刻印のつくりが違うようなのです。
玉塚がつくった刻印は「天保銭は」の文字が土台と一体化したもの。それをおそらく四角い金属カナテコの上でガツンとやったものですから、文字の裏側は四角い痕が平滑に残っています。一方、後作は一つ一つの文字の刻印を作り、それを丁寧に並べ打ったと考えられます。したがってよく見ると微妙に文字の位置がずれている上に、文字の裏側には一文字ずつ丸い打刻痕が残されているのです。
この観点から玉塚天保が掲載されている泉譜の拓本をよく観察すると・・・きっと間違いが見つかるはずです。ただし、それは贋作とも言い切れないかもしれません。それを作成した人は玉塚の熱烈な信者だったかもしれないからです。でも、玉塚がつくったものでないことは確かだと思います。 玉塚が今の世に生きていたらおそらくこういうでしょう・・・「商売はまず人を見ろ、そして裏も良く見ろ。」
 
 
4月6日 【幣泉の不知天保】 
幣泉誌の入札で久々に大量落札しました。
長郭手覆輪浅字斜め鑢無極印
浅字の鋳写し覆輪銭。覆輪以外はどうってことないような気もしますが、側面のやすり目が全体に斜め方向であり、極印も確認できません。普通無極印でこのような仕上げは近代作と相場は決まっているのですが、やすり目の形状があきらかに古い和やすりなので、不知銭で間違いないと思います。銭文径がやや大きいのは研ぎがきつかったせいかもしれません?
※よく観察するとものすごく穿が縦長ですね。原因はこれ見たいです。
長径48.8㎜ 短径31.9㎜ 銭文径41.5㎜ 重量21.5g
長郭手覆輪強刔輪曲足寶
不知天保通寶分類譜下巻144Pに類品があったので曲足寶としましたが、曲足寶は結果的なものだと思いますが、たしかに異足寶気味に寶足が歪んで輪に接しているように見えます。見どころはやはり刔輪で寶下や背當上の刔輪は見事だと思います。(當上刔輪と言って良いと思います。)これが進化すると宏足寶になると思います。
長径49.1㎜ 短径32.6㎜ 銭文径41.0㎜ 重量20.4g
細郭手強覆輪強刔輪長足寶
不知天保通寶分類譜では上巻の108Pの寶下強刔輪が最も近いと思います。かなり強い覆輪と刔輪が見られますが、銭文径はそれほど縮んでいません。一方背側の縮小は目立ち、當百や花押が極端に萎縮して見えます。
長径49.5㎜ 短径33.1㎜ 銭文径40.8㎜ 重量21.7g
 
長郭手覆輪浅字斜め鑢無極印
長径48.8㎜ 短径31.9㎜
銭文径41.5㎜ 重量21.5g
長郭手覆輪強刔輪曲足寶
長径49.1㎜ 短径32.6㎜
銭文径41.0㎜ 重量20.4g
細郭手強覆輪強刔輪長足寶
長径49.5㎜ 短径33.1㎜
銭文径40.8㎜ 重量21.7g
 
4月5日 【形見のパイプ】 
仏壇の中から出てきた象牙のパイプ。祖父は私が生まれる前年に不慮の事故で亡くなってしまっていますが、これは愛用していたパイプだったようです。商家らしくお金の溜まる白蛇の象嵌細工だと思うのですけど、白い部分がかなり剥落してしまっています。祖父はこの使い込んだパイプの色がいたくお気に入りだったそうで、良く父に自慢していたそうです。実家の倉庫の中からは欅の酒看板やらランプなどがたくさん出てきました。これらは飲食店をやっている妹のお店に、火鉢は20個ぐらい出てきましたが解体業者に父があげてしまったようです。倉庫の中のものが想像以上に多かったので、解体工期は予定の2~3日が1週間になり、業者は大変だとの事。水瓶(醤油壺?)は近所の人が持っていき、貧乏徳利は打ち捨てられていたので記念に1本だけとっておきました。(とっておけば売れたかも)
当面は実家に通いゴミ出しをすると思いますので、しばらくは古銭どころではなくなるかもしれません。
 
4月2日 【手づくり彫り出し絵銭】 
四国のKさんのご投稿です。(ありがとうございます。)私が太り駒としている絵銭と同系統ですが、注目すべきところは寛永通寶側のつくり・銅色がものすごく自然なこと。そして背の模様はまるで円空仏のようにガリガリ削られています。Kさんはこれは鋳造じゃなく彫金によるものじゃないかと勘繰ったようで、拡大画像で見るとそうにしか思えない状態で、私もそうお答えしましした。ただ、こうして実物大に近い形にすると、さすがに彫金では無理な気がししてきました。私の所蔵品(右)は寛永通寶側がやや不鮮明でしかも90度倒置されていますのでいかにも新作ですけど、駒図の出来はレリーフのように見え、Kさんの絵銭とは別物のように見えました。しかし、部分を拡大してみると・・・あらら、おんなじだ!こちらも手作り感満載ですね。拡大して観察してみないとわかりませんでした。こちらも平らな銭面から彫刻刀のようなもので削り出したような雰囲気。縁や郭の周囲を見ると線条痕がいくつも残っています。また、俵や馬具の細い筋はいかにも手彫りといった様相で荒々しく鋭く、美しくもあります。さて、果たしてこれらの銭はどのようにつくられたのか、そしてこれらの関係は?図柄は異なりますが製作の方法は平地からの彫り出しであり、駒が太っているのはその方が削る面積が少なくて済むからで、馬子の顔がまん丸でそれを囲むように腕が伸びていてバランスが悪いなど、そういう意味では作者の芸術力は決して高くありません。
一方でKさんの品の面側はいかにも自然。職工のてなぐさみという事も充分に感じられます。しかし、新寛永でしかも面文違いで同じ系統の絵銭はやはりありえないと思います。したがってこれらは純粋な絵銭で、維新後の鋳銭技術が残されているギリギリの時代の作じゃないかなとも思います。泉譜には載ってませんし、絵の技術的にも一般の銭貨とは異なりますが面白いものです。
 
3月31日 【美しき額輪】
難波額輪は新寛永の定番の役どころ。ちょっと少ないのですが入手できないほどではありません。源氏名の額輪はこの銭のためにあるようなもので、はじめて日本橋高島屋の雑銭コーナーで選り出したときは小躍りしたものです。その後、修学旅行の京都の三寧坂の古銭屋でも入手しましたが、その後はあまりきれいな品には出会ったことがありませんでした。この画像の額輪は今から20年ぐらい前に東京交通会館で入手したもの。ある古銭屋さんの閉店セール品でしたが、こんなにきれいな額輪があるんだと感動しました。うっすら鍍銀がされているような色調でとても美形。母銭としてもよさそうな雰囲気もあるのですけどさすがにそこまではないかしら。しかしお気に入りの逸品です。
 
3月30日 【中国に渡った不知天保銭】
天保通寶は世界にあまり類例のない形のお金です。義妹の旦那は日本大好き人間のトルコ人、遊びに来たとき別れ際に天保通寶をあげたら感動に肩をうち震わせていました。多分小判と間違えたんじゃないかと思うのですけど・・・。さて、左の極印画像は先般ご投稿いただいた中国の方の所蔵品。非常に不思議な形でこんな形状は見たことがありません。穴ぼこ部分を中心に見ているととても不自然に思えますけど、凸部分を見ていると中央の主葉脈を境に左右に葉脈が走る自然な姿がなんとなく見えてきます。奇天の類に少し似ている形です。天保通寶は鋳写しの長郭手です。長径48.3㎜、短径31.7㎜、銭文径41.1㎜、重量24.5gと、小さいながらもなかなか立派な重さ。厚みも3㎜あるそうですから、不知銭としては実にわかりやすい。
しかし、中国の地でどうやってこれを入手したのでしょうか?
 
3月29日 【姉﨑神社上棟銭】
金庫の中からでてきたもの。昭和63年4月11日と言うと今から28年前のものです。私の生まれた地域では上棟式にお金やお餅、お米、お菓子を撒くのが一般的で上棟式があると聞くと子供も大人も群がったものです。姉﨑神社は市原市内の格式ある古社で、本殿は昭和61年に一度火災で焼失してしまいましたが、昭和63年に昔以上に立派に再建されました。新しいものながらこの上棟銭は初めて見るもので、おそらく地元にもほとんど残っていないと思います。金庫の中が湿気ていて残念ながらこれも少し錆びが生じていました。聞くと火災に遭った時に備えて金庫の中に水を入れたコップを置くのが習慣だったとか。あちゃ~原因はそれか!
昔は盛んだった上棟式ですがあることがきっかけですっかり姿を消してしまいました。それはこの神社で行われていた節分祭。人気力士の若島津関や巨人の中畑清選手、地元出身の落語家の桂米助らが来て、豆だけでなくお金も撒いたのですけど観衆が殺到して押し合いへし合い。けが人も出る騒ぎ。お金をむきだしのまま100円や500円玉まで撒いたため、子供たちは懐中電灯片手に深夜まで境内の玉砂利を無我夢中でひっくり返して宝探し。そのことがPTAで大問題になって節分祭はおろか上棟式で物を撒くことの自粛ムードが一気に広まったと、記憶しています。
私が生まれた頃には正月1月4日の神事だった『かたびて』もすでになくなっていました。これは日本版のハロウィンのようなもの。子供建ちが正月の神棚飾り(小さな臼や大判小判)を手づくりして各家をまわって歌い、家々からお菓子や小遣いをもらう風習でした。お年玉をもらった子供たちは「大尽だ大尽だ金蔵建てろどんどこ建てろ!」とはやし立てます。ところがこの風習を快く思わないへそまがりPTAが必ずいるのですね。お菓子をあげる代わりに説教をくれるのです。怒った子供たちは「貧乏だ!貧乏だ!」はやし立てて逃げます。怒り心頭のへそまがりPTAは学校に猛抗議。伝統はこうやって潰されてしまうのでしょうか。
 
かたびて:(行き歌)かたびてめって、めってがめって (返り歌)でぇじんだでぇじんだ金蔵たてろ、どんどこたてろ
※めっては(参ったぞ)と(目出度い)の両方の意味があるようです。山側の地区は「ばたくさ」という呼び名だったそうです。
この他に、”ほうほんや”という神事が1月14日にあり、これはかついだ孟宗竹を唄い叩きながら各家を回るもの。やはり家々からはおひねりがもらえたそうで、これもまた教育委員会から目の敵にされたそうで、おひねりを文房具に切り替えて行う提案が出されたとか。でもそれじゃつまんない。これは昭和30年代には途絶えてしまったそうです。 
 
3月28日 【投稿2題】
まずは隣国の中国から・・・。天保銭に興味を持たれているらしく、画像の深字と不知細郭手の画像を送って頂きました。ありがとうございます。見る目は確かな方ですね。実はこの深字も長径49.4㎜、重量20gもある大型銭です。これは母銭加工されていませんので、純粋な通用銭のようですけど、深字は軽量なものが多いのでこのサイズなら本当に立派な大型銭だと思います。天晴なサイズ!。なお、夏の古銭会のコーナーで紹介している、私保有の大型銭は鍍銀+母銭加工が見られるタイプで、それは行事等に用いられたのではないかと推定されるさらに特殊なものらしいです。よろしかったら比較してみて下さい。
さて、もう一枚の画像は言わずと知れた水戸遒勁。出品の画像を見るとピンボケで私は怖くて踏み込めなかった品でした。こうやって改めて投稿画像を見ると輪に打ち傷のようなものはありますがきちんとした品だったことが分かります。投稿して下さった方はM県のE様。
長径48.75mm 横径33.43mm 
銭文径39.7mm 重量17.3g
手にしたとき意外に薄く軽いので驚いたというご感想でしたが、私の所有品もそんなものだったと思います。横幅が広いので拓本などでは大きく感じるのですけど、実物は横径は広いものの縦に寸詰まりで、軽い作りのものが多いと思いました。
遒勁は贋作が多いと聞きますが、この品については悪くない感じです。落札金額を調べると相場の半額以下ですね。これぐらいの品を競ることができれば楽しいのでしょうけど、これを落す勇気は出ませんでした。天晴です!

 
 
3月27日 【お宝さがし】
間もなく実家の父母が隣家に越してきます。実家には観音開きの人の背丈ほどある大金庫があり、その中には私が集めていた古銭の残骸などが残っていました。多くがミントセットと記念硬貨類・メダルで、コレクションしたピン札なども残っていました。少ないながら記念金貨類もあったので使っちゃおうかなあ・・・という衝動が怖い。いや、この際使うべきなんでしょうかね。メダル類は金以外は価値がないと思います。記念硬貨とミントセットは額面の価値しかないかしら。記念硬貨のプルーフは少し値がつくのかな?海外のオリンピック記念貨幣セットは外函の保存状態が最悪。無価値とは言わないけれど非常に困りました。中には不思議なものがいくつかあり、右は多分祖父のものだったのでしょうけど、帝国飛行協会と海軍協会のピンバッチ。お宝らしきものなのでもらってきました。金庫の奥底で眠っていたので素性が全く分かりません。その他に動くかどうかわからない懐中時計2個ももらってきました。あと、切手類も相当ありましたが、価値は判りません。郵政関係者だけに配布した霧箱入りの貴重な切手記念帳のようなものもありますが宝の持ち腐れです。誰か教えて!
 
※事件勃発 パソコンに保存していた大量の過去メールフォルダーを誤って削除してしまったらしい。古銭関係と重要備忘録が特に痛い!重要備忘録はパスワード関連の個人情報メモも含まれているため、思い出せないものはOUTになってしまうかも。古銭関連は住所・連絡先などの情報と、送られてきた情報と写真が消えてしまいました。いったいいつ消してしまったのか分からないのです。まあ、なんとかなるかなあ? おそらく、一昨日にウィルスチェックをした際に、メールアドレスリストが大量に出ていましたが、感染していたわけではなく、あれは大量保存していたメールの一覧だったのでしょう。(駆除除外メールとなっていました。)何なのか良く考えず消去ボタンを押してしまいましたが迂闊でした。
※大金庫の中は引越し作業のため空にしました。古銭的価値の高いものはないと思いますが、時間を見ながら処分換金をしてゆこうと思います。中から40年以上前の成績表が出てきました。親にとってはこれも宝物だったのでしょうけど、ちょっと恥ずかしいですね。
 
3月25日 【異銅・異肌・異極印】
なんてことのない鋳写銭です。きっとこういう奴を粗造というんだろうなあ~と、勝手に思いながら落札しました。安物買いの銭失いですけど、不知天保は面白い。全体に細縁で長径48.4㎜ 短径31.9㎜とかなり小さめ。一方銭文径は41.3㎜と気持ち大きめながら、しっかり鋳写を示しています。重量は21.5gといたって標準。極印はちょっと表現しづらい形。多分破損極印でしょう。まあ、ひと目で不知銭と判るものなんですけどね・・・だからどうしたという感じかな。
 
3月24日 【天保通寶の保存】
古銭を集めていて困るのがその収納。コインアルバムを利用されている方は多いと思いますが、とりわけ厚みのある天保通寶や絵銭類は場所をとるので困ります。王道としては特製の木箱やスラブなんて方法もあるのでしょうけど、安くて場所をとらないのが一番です。私も当初ペーパーの天保銭用フォルダーに入れて市販のアルバムに入れていたのですが、天保通寶は厚みがあるためにすぐに表面のフィルムが切れてしまいます。また天保銭用フォルダーは本座の天保通寶ぎりぎりの大きさでしかないので、張天保などの大型不知銭はうまく納まらないのです。そこで私が編み出した方法が塩化ビニール製の市販のコイン袋をフォルダー代わりにしてコインアルバムに収納する方法。最初のうちはこれで良かったのですが、時間が経過するとコイン袋が天保銭の表面にはりつきべたべたした感じになってきました。どうやら塩化ビニールの柔軟性を増すための可塑剤と銅が反応するらしく、長期間放置すると錆を生じるらしい。表面にうっすら薄錆の粉が吹いているように見えるものもあらわれはじめました。あわてて別素材を探し、右のトレーディングカード用のクリアポケットを発見しました。これはダイソーで100枚単位で販売しているし、素材はポリプロピレンで適度に硬くヒートシール性があるのでシーラー(過熱クリップ)で封もできます。そのうえ激安!ただし、サイズが少し大きいので裁断してシーラーで熱着して使用しています。まあ、こんなこと手間暇かけてやるのがマニアたるものなんでしょう。ところが、このダイソーのクリアポケットが最近店頭に並んでいません。売れないから廃版になってしまったのでしょうか?インターネットで類似品を探して購入したのですが全くダメ。厚みと材質が違うのです。ダイソーの袋はポリプロピレンでも厚手でCPPと呼ばれるもの。伸展性がなく、透明度はやや落ちますが硬性があり丈夫。一方で、類似品の多くはOPPというもので薄くて軽く透明度が高いもの。強度がなくペラペラな感じ。市場原理としては透明度が高くて材料が節約できるものが勝ち残るのでしょうけど、私は厚くて硬くて丈夫なもののほうが欲しい。そこで、メーカーを探して新規格で発注してしまおうと現在画策中です。金型を作るわけではないのでそんなに費用は掛からないはず。もしかするとこれが天保通寶の収集収納のトレンドになる・・・はずはないでしょうね。
※純粋な袋ですからラベルは自作する必要があります。ただ、単価は安くできると思いますし、出し入れも簡単です。
 
3月22日 【バンザイ打印寛永】 
ネットに出ていた赤銅の打印銭。大きさも重さもわからないまま・・・島銭というか絵銭と言うか初めて見る書体です。いえ、似たものは見たことがありますね。昨年の3月14日の制作日記をご覧ください。そっくりな栓抜きがあるでしょ?
多分実物はとっても陳腐なものなのかもしれませんけど、こいつは私にねえ、抱っこしてと両手をあげてせがむ子供に見えるのです。(幻覚?)
気の毒なことに同じ病に侵されている方が10人ほどいらっしゃったようで、さぞかし高い治療費を請求されることでしょう。ほら、この子もバンザイして喜んでいる・・・。
 
3月21日 【妖怪痘痕面天保】
キュリオマガジンの落札品です。実は私はこの天保を知っていました。天保仙人様の勉強会で見ているのです。暴々鶏氏のいわく三陸地方天保・・・仏具を溶かしてつくった不知銭に似ています。ただし、仙人様はこうもおっしゃいました。『これはね、不知銭としてはかなり妖しい品だよ。贋作かな。』拡大画像にするとたしかに妖しいなんてもんじゃない。だから確認のため欲しくなりました天邪鬼です。製作そのものは古いと思います。でもこの鋳肌は何なんだろう。真鍮質と言うより白銅質・・・多分明治以降だろうなあ。これは嫌な感じ。長径48.7㎜ 短径32.3㎜ 銭文径40.7㎜ 重量22.0g 思ったより縮小していないのは良い材料。極印は穴ぼこ状なのかはっきりしないですね。これが一番気に喰わない。覆輪刔輪のルールは守っているみたいだし奇をてらったわけではないだろうに見れば見るほど妖しさ100倍の品です。
 
3月20日 【お金の玉手箱】
天保仙人様にご教唆いただき、お金の玉手箱という古本を探し出しました。1997年に千葉県佐倉市にある国立歴史民族博物館が銭貨の列島200年史という企画展にあわせて出版したもの。この博物館には大川天顕堂の膨大なコレクションが納められているのです。
佐倉市と言っても一般の方にはピンとこないと思います。人口17万人でどちらかというと地味な市。その昔は西洋医学がさかんな幕府の中でも重要な藩だったそうですけど、今となってはそれも昔。千葉県の歴史好き住民なら佐倉惣五郎の話は聞いたことがあると思います。(藩主の重税の取り立てに悩む農民のために将軍に直訴・・・その結果、農民は救われたが惣五郎夫婦は磔の刑に処せられ、男子4人も死罪、お家断絶となった:ただし、佐倉惣五郎の生まれた地は佐倉藩内でも今では成田市になっています。)佐倉の有名人と言えば長嶋茂雄、最近ではマラソンの小出義雄監督と高橋尚子あたりが有名でしょうか。
しかし、佐倉は簡単に行けるようで遠い。何でそんなところに国立の博物館をつくったのでしょうか?そして大川コレクションの中核をなす穴銭系はほとんど展示されていないようです。
なお、表紙にある開基勝寶は東京国立博物館のもの。明治時代に加納夏雄が摸刻した開基勝寶は出土したものを正確に摸刻しているらしく、寶字周辺にある鋳だまりまで写しているそうです。
※遒勁に拡大画像が出ていました。1枚はたぶんだめ、で、もう1枚は微妙。拡大画像の方が良い感じですけど 分かりません。
 
3月19日 【異書の玉塚天保】
冷やかしで応札していた天保通寶が落ちてしまいました。見ての通りの玉塚天保ですけど、書体が少し異なる異書と呼ばれるもの。
あっさりほぼ無競争で落ちてしまいましたが、本来は少しだけ少ないものなのです。
真っ黒に見えたので火中品かと思ったのですけど、拡大してみると朱が少し残っている佳品でした。玉塚氏はこつこつ倹約貯蓄の努力の神様。その孫が玉塚元一氏。その経歴は華々しい(IBMコンサルタント・ユニクロ社長・リバンプ代表・ローソン社長など)のですけど、市原市の旭硝子の千葉工場にいたり、同じ学校に近い時期に在籍していたりと接点があった!でもあちらは絵にかいたような成功者ですからうらやましい限りです。でも、こんなものに銭をはたいて買っちゃうようでは玉塚氏が泣いてますかね。
 
3月18日 【鉛銭の高津細字背元】
譲渡式の際に鉄人から拝領した品の1枚です。中途半端な知識がある人だと『ひょっとして錫母?』等と色めき立ってしまいますが、郭の様子を見ただけで絵銭の類だとわかります。銭の場合はこういう具合に面にも背にも広がる仕上げはあり得ないのです。外径は22.3~4㎜と小さく、鉛に鋳写したもので、その昔の古銭家が鉛で写したのか、あるいは錫母を真似た贋作化のいずれかです。いづみ会の入門には仿鋳鉛銭として掲載されていますが、数は少ないものの戯作絵銭の類には違いありません。
 
3月17日 【加護山繊字様・中字様】
方泉處の新寛永通寶図会No659原品です。外径23.9㎜、内径19.6㎜。細縁でみすぼらしく見えるもののこの類としては大型のもの。鋳肌・銅色から見ても間違いなく加護山銭。図会では本銭を初出のものとしているようですけど、外輪の仕上げも丁寧ですし、郭内については極めてきれいに仕上げが済んでいるので、あるいはこれは次鋳の母銭なのかもしれません。(初鋳銭であることは間違いなさそうです。)
加護山銭は20枚弱ほどしか保有していませんが、穿内の仕上げのあるものはこれ1枚しかなく、したがって特別なものであるという印象を強く受けます。
大和文庫ではそれこそ清水の舞台から飛び降りた気分(それにしては額面は小さいのですけど)で落札しに行きましたが、結果的にこいつはとても良い買い物だったようです。

下段の中字様は、購入先は入札誌鈴鹿だったと思います。ただ、どうしても中字の分類に自信がなく、ながらく細字の次鋳としてHPに掲載していましたが、総合的に見て中字様としてあらためて掲示し直しました。
正直なところ細字の次鋳との判別は困難なのですけど、文字の縮小度や寶の形など総合的に見ての判断です。
※ピンボケ画像ながら水戸遒勁のようなものが2枚あるものが高騰しています。1月26日の記事をよく見て下さいね。 
 
3月16日 【続寛永通寶】 
2014年1月に少しだけ触れましたが、広島古銭会の藤原秀雄氏による『寛永通寶 収集・分類・整理』の続編らしき『続 寛永通寶 銭字特徴の表札 寛永通寶 工芸品』をネットで発見し購入しました。副題には”工芸品として見る寛永通寶”とあります。前回の出版もそうでしたが、現代版古銭語事典と言うべき内容ですけど、今回も私は聞いたことのない、おそらくオリジナルの、あるいは広島古銭会内で通じるのであろう不思議な源氏名がたくさん出てきます。中には鋳不足や鋳だまりによる変化について独自名称らしきものをを付けた例もありますから研究者からは賛否両論もあるでしょうけど、なるほどこうやって古銭を楽しむ方法もあるんだな~と気づきを与えて下さいます。
117Pで1000円と言う価格ですから、おそらく採算を考えない自費出版だと思うのですけど、驚いたことに「続寛永通寶」で検索するとアマゾンをはじめとしてかなりの書店で通信販売が購入可能な状態になっています。古銭書と言うとまず入手が難しく、ルートも限られ、しかも高額な場合が多いのに、この藤原氏はいったいどうしてこんなに力をお持ちなのか?ストーリーのある読み物でもなく、深い研究に基づく専門書でもなく、失礼ながらごく限られた穴銭マニアしか買わない書だと思うのですけど・・・ものすごく不思議、藤原秀雄氏とはいったいどんな方なのでしょうか?
 
3月15日 【延展天保】
さすがにここまでやるとすぐに変造はばれますが、金属加工を本業としていた仙人様も舌を巻いた職人の技術です。土台は本物の水戸短足寶です。さすがにこうして拡大してみると縁に槌で丹念に叩いた痕跡が観察できますけど、だまされる人もいるかもしれません。(薄肉で大きすぎますが・・・)
やりすぎて厚みは1.8~1.9㎜、大きさは51.4×33.9㎜もあります!
これだけやっても側面の歪みや修正はなく、本来のやすり目や極印もきれいに観察できますし、砂目もきちんとしています。これが難しい技術。改めて観察してみても感心してしまいます。
※かなり高温に熱してからそっと槌で叩いて延ばしたとしか考えられませんが、良く割れずに、文字も潰さずに延ばしたものだと思います。色は薬品で落としたものではないでしょうか? 
 
3月14日 【贋作天保の譲渡式】
譲渡式のときに天保仙人様から割譲して頂いた品。私への譲渡式です。おそらく鉄人の1000分の一以下の規模です。昭和50年代に出現したもので真鍮色に近い黄銅質。良くできていますけど側面仕上げと地の雰囲気が少し残念なつくり。極印もありません。しかし、古色が付くとわからなくなるかもしれません。
長径48.8㎜、短径32.4㎜、銭文径40.8㎜、重量26.5g・・・かなり重い。
不知銭を良く知ってるマニアがつくったもので、覆輪刔輪の雰囲気が良く出ています。とくに背側は良い出来ですね。同じつくりの薩摩広郭と50㎜を超える圧延大様の水戸短足寶の傑作贋造3点セットでした。ネット画像や薄暗いライトの下では騙されますよ。
 
3月13日 【譲渡式2】
天保仙人様と鉄人様との間の譲渡式に昨日立ち会いました。会場は千葉市内、立会人は私のほかにキュリオマガジン社のA氏、花を添える形で仙人様の知人のEさんとOさん・・・ちなみにEさんとOさんは古銭とは無関係の招待のお客様。
譲渡した品は大川天顕堂師が土佐の掘見家(甘泉堂)から佐野英山師の仲介で購入した土佐通寶の百文銭など。(その話を聞いてあせった田中銭幣館師が堀見家に大金を支払って残った古銭を根こそぎ購入したという逸話が残っています。)なかでも大川天顕堂師から小川青寶樓師と渡り、仙人様に譲渡されていた土佐通寶百文母銭は、日本に現存する土佐通寶の中でも最高峰のものであり、土佐通寶の鑑定をする場合には基準となるような逸品。小川青寶樓師も贋作化されることをを恐れて、人には一切貸し出さない秘蔵中の秘蔵品。もちろん私も初めて見る品です。
この土佐通寶は欲しい方はたくさんいらっしゃると思いますが、鉄人様が天保仙人様に熱望し、その結果正式に譲渡が成立したものなのです。私?・・・私は情報だけを頂戴する自称弟分(弟分のようなもの)のひとりにすぎません。信用と財力と実力がないといけません。
仙人様も鉄人様も終始上機嫌で和やかな会席でした。鉄人様、いささか飲み過ぎで大丈夫かしら?仙人様・鉄人様、良い体験をさせて頂きありがとうございました。

※ヤフオクの方式が変わりIDが表示されなくなりました。応札履歴数でばれるかもしれませんが、匿名性が増しましたね。
 
3月12日 【白銅色の秋田銭】
雑銭の会の暴々鶏氏が退院されて少しずつ活動を再開されています。終活の流れのひとつなのかもしれませんが、趣味人の性で古銭の情報が生き生きとあふれ出ており、それがまた元気回復のバロメーターのようであり、読んでいて楽しい限りです。
さて、その暴々鶏氏が右の白銅の秋田銭を掲載されています。入手されたときあまりに白かったので鍍銀銭かもしれないと放っておいたものだそうですけど、退院を機会にえいやっとガリガリ削ったら、中まで白かったそうです。まだまだ検討材料の一つだそうですが、秋田銭には(秋田銭に限らず)ときどきはっとするような白銅銭があるそうなのです。ただ、収集界には愛蔵されてしまうため滅多なことでは出てこないとの事。母銭ですけど奇品館のNo.104が良い例でしょう。あんなもの二度とみられないと思います。右の品は材質の不均一が原因で錫がたまたま多く配合されていたことによるものでしょうけど、銭座によっては鉄分の配合が多い事例も見られます。ひょっとすると意図的な配合という事も考えられるということですが、今となっては判りません。ただ、こういったものの多くがメッキによるものであったり、中には銀で作られた贋造品も混在しているから要注意です。また、放っておいているうちにどんどん黒ずんできてしまったという事ですから、あと何年かするとこれも真っ黒になってしまうかもしれません。
白銅銭はつい拾ってしまうたちでして、『盛岡藩でもたまにあるし、福岡離郭でもごくまれにあると思います。』との情報をも頂戴しましたので興味津々。おそらく母銭系にあるという事だと思いますが、通用銭でそんなモノ見つけたら卒倒してしまうと思います。
※原品を拝領し精査しましたが分厚い銀メッキであり、地の色は青銅色でした。
 
 
3月11日 【方泉處図会原品の加護山繊字狭文様】
方泉處には私は少し特別な思いがあります。私が古銭収集再開をしたきっかけでもあり、新寛永通寶図会は私のバイブルでもありました。お気づきだと思いますが私のHPのタイトル『新寛永通寶分類譜』も強い影響(パクリ?)を受けています。
その方泉處原品の加護山繊字狭文様が大和文庫に出ました。価格は強気の12000円。私はなんのためらいもなく倍額の値で応札しました。おそらく市場価格の3~4倍じゃないかしら。
スケールは小さいですけど破格という言葉はこのためにあるようなもの。加護山繊字狭文様はありそうでなかなか見つからない品。わたしもまだ1枚しか出会っていません。とりあえずこの品を入手することが可能になりました。ハドソンの東北・北海道の貨幣の巻末には様々な種類の加護山銭が掲載されています。こんなに種類があったのかと改めて思う次第。まだお金は払っていませんが今から到着が楽しみです。
 
 
3月10日 【銅山通寶の謎】
官公庁オークションで秋田県由利本荘市が出品したもの。秋田貨幣史によると昭和33年に秋田の阿部謙二氏が貨幣市場に発表したものが最古で、旧貨幣誌には掲載がありません。五匁二分(19.5g)と4匁一分(15.375g)の2種類の重量があり、その他に母銭18.75gの発見の報告があるようです。画像の品は20g、外径3.8cmで、市で確認できている枚数は5枚との事。あくまでも試鋳銭であり真贋もわかりません。そういえばかつて発見された母銭の穿内も鋳放しだそうです。気になるとすれば秋田の加護山の銅にしてはずいぶん黄色いなあという印象。虎銭のあるものに似ていますし、そういえば隣の藩ですけど銅山手天保にも似ていますね。試鋳とはいえ鋳放しのままで終わるのはちょっと不思議です。試鋳ならばなおさらきれいに仕上げるんじゃないかしら?秋田は砥石に恵まれなかったと聞きますから、こうなった?私にはわからない品ですね。どなたか教えて下さい。 
※背文の久二は文久二年の意味とされていますが、その年はすでに銅山至宝の當百と當五十が発行されていて、年号記入の無いその試鋳貨幣もあるので久二の試鋳貨の存在理由が分からないというご意見がありました。一方でハドソン社の東北北海道の貨幣には白黒写真ですが通用銭と出土通用銭の写真があります。状態はあまり良くないようですね。果たして通用したのか否か・・・これについては正式な文献もないようですからますます謎ですね。
おそらく高橋カズミ氏の持ち物だったのではないでしょうか(仙人談)。大島延泉作の可能性が高い品。 
3月9日 【個性あふれる大型永楽】
これも投稿画像です。ありがとうございます。 右は白銅の永楽、大きさは25.4㎜と大ぶりなもの。(濶縁気味で少し永頭が長く見えますね。)投稿者いわく、
”つくりにシャープさがないので和鋳の母銭かもしれませんが正体不明。”とのこと。と、言うのも入札で手に入れたそうですが前所有者の古銭店主が”江戸期の銀座と関係がありそうな気がするので手元において調べたいので、少し預けてくれませんか?”と、結局引き渡しされるまで10年もの時間が経ってしまったそうです。いや~、ずいぶん忍耐強い方です。しかし、最終的に正体はわからずじまい。なんだろうこれ?

もう1枚は加刀痕跡のすごい1枚。書体は狭白ですね。しかも大きさは25.9㎜とすこぶる大ぶり。所有者は
”母銭にしてはつくりが甘いから、鋳銭工の手慰みによるものかもね?”・・・などと謙遜しておっしゃっていますが、素人目にはこの面文の加工は母銭にしか見えませんね。
この2枚はとても大きく、個性あふれる顔で立派です。
ところで天保仙人様が見た大様の永楽銭はこれよりさらに大きかったのかしら?それもまた見てみたいものです。
※永楽は寛永銭の常識が通用しないものらしく、外径26㎜を少し超える物も本銭500枚中5枚程度の割合(つまり1%の割合)で混じっていたそうです。(大量撰銭をした結果。)その方によると上記の銭は明の本銭(あるいは加工した母銭)ではないかとのこと。
また、大きな永楽としては外径26.5㎜の覆輪された輪鋳永楽を賞山堂で見たという情報も寄せられています。それは赤銅の彫母銭に見える立派なものだったそうです。ただし、これだけ大きいと平均外径が24㎜以下の慶長の母にするには大きすぎるのかもしれません。永楽は奥が深いです。情報ありがとうございました。
 
3月8日 【慶長の謎3】
慶長通寶は永楽通寶の文字を削って新しい文字を入れた『嵌め込み』母銭によってつくられたと考えられています。同じように天正通寶や文禄通寶も『嵌め込み』方式のようです。ところが、慶長は文字の位置が一定しているのに対し、天正や文禄は文字位置が泉譜によってバラバラに見えます。慶長が母銭から作られているのに対し、天正や文禄は砂笵に直接文字を印で押すような譲置法によってつくられたと考えられているからだそうです。日本貨幣収集事典にそう記されていますが、この違い、ちょっと不思議な気がします。
また、このようにして作られた割には慶長通寶の銭径はあまり縮小していないように見えますが、天保仙人様によるとそれにはきちんとした理由があるそうです。
30年くらい昔のこと、『細道の会』で活躍されていた池田さんが我が家に見えられました。池田さんは休日までお仕事をされていて、息抜きに当時大塚駅前の『大塚コイン』とか、『隆平堂』を見て回り、帰り際に我が家に来られました。その日はお茶を飲みながら『今日は珍しい物を見せてあげよう』と、永楽通寶を1枚取り出しました。
手に取って見てビックリ、通常の永楽銭の2回りは大きい大様銭だったのです。
『母銭ですか?』と聞くと、『九州の人達は母銭と言っているが、母銭ではないね』と話され、『慶長・文禄の母銭(原母)は、この永楽銭を改造したんだよ』と、教えて頂きました。巨大な永楽銭を見たのは、その時だけで二度と見る事はありませんでした。池田さんが亡くなられた後、御家族は形見として古銭を家宝とし、誰が行っても売却しなかったので、今でも池田家に眠っていると思います。(天保仙人)

原母ということは銅母もあるということでしょうか?実はこんなことも教えて下さいました。
大川先生の蔵品の慶長通寶の銅母銭を見ておりますが、文禄通寶・銅母銭と同じ銅質・製作でした、これらは多分同じ鋳銭所だと思います。「お金の玉手箱」の本に、文禄通寶・銅母銭が掲載されています。(天保仙人)
と、いうことで「お金の玉手箱」の古本を探し出し、発注してしまいました。届くまでが楽しみです。
 
3月6日 【慶長の謎2】
例の慶長を落札された方からメールを頂戴しました。ありがとうございます。外径23.6㎜で、寶頂星としては最大様、良く練れた加治木銭の様な銅質で文字も深く屹立し、郭内や輪側面に丁寧な仕上げがあります。とくに側面は角が立つような丁寧さ。最近の贋作に、このような側面仕上げのものが多いため、一瞬どきっとしてしまいますが、他はごく自然。地にはえぐったような浚いの跡が見られ、こんなもの(母銭かどうかは別として)があっても良いと考えられるようになりました。(つづく)
 
3月4日 【再び錯笵狂想曲】
ネットに出た大錯笵銭。本座でここまでのものはまずないと思って良いと思います。不知天保通寶分類譜には水戸短足寶の錯笵銭が出ていますし、昨年も久留米正字系のものすごい大錯笵が出ましたが、本座の錯笵としてはこれが限界ではないかと思います。せいぜい数万円の評価と思いきやなんと二桁までいってしまい、私も驚きましたが、売った方も驚かれたでしょう。。
錯笵はあくまでも出来損ないとしての評価であり、一品もので、一種として認められないので好き嫌いの分かれる物です。
その昔、加賀千代太郎が佐渡天保(現在は萩藩銭と認定)の贋作大錯笵をつくり出し、大人気?を博しました。それだけ錯笵は人の心を惹きつけるのですね。
※加賀千代作と云われる大錯笵は、水戸虎銭や水戸系の鋳放し贋作と非常に似た金質でした。そちらに係わったのがO氏と云われています。 
 
3月3日 【文久永宝周遊会】
九州の方々には全く頭が下がります。祥雲斎氏と唐松堂氏から定期的に資料を頂戴するのですが、文久永寶をここまで深く愛し、細かく分類するとは・・・。文久永寶は削字変化が激しく、古寛永的で、系統だてて分類するのは困難を極めると思われるからです。山本文久童のような大物古泉家でさえ、詳細分類を発表するに至らなかったこの難事業に取り組むのは、藁の山に落とした針を探し出すような仕事の連続だと思います。
一方の私は頂戴した資料を眺めているだけの存在なのですけど、最近は頭の中も身の周りも整理が行き届かず恥ずかしいばかりです。
さて、右の拓本のはお送り頂いた最新の資料から・・・
右:直永手細字仰寶長足寶俯フ永狭頭文(唐松堂氏)
何やらなが~い名前です。祥雲斎氏が遊泉記78巻で分類している品とのこと。しまった勉強不足だ!ということで資料を再度確認中!3枚目の発見だそうです。
左:深字狭久跳足久(河谷氏)
こいつは見るからに可愛い品ですね。久字の足が直線的に伸びて、その先端がぴょこんと跳ねています。鐚銭の髭天聖のようなコミカルな跳ね方ではなく、上品で控えめに跳ねています。銭の書体にに育ちの良さを感じてしまいます。これも3枚目の発見のこと。これは目立ちますから、追加の発見が期待されますね。ただし、狭久そのものがなかなか少ないですから・・・・。
 
3月2日 【慶長通寶考】
今では慶長通寶は徳川家康がつくったとされる説が有力なようですけど、いくつか謎があります。
(以下は方泉處8号北出氏の説明からの引用に、私的考察をまじえたものです。)
1.嵌め込みによる鐚式鋳造で、およそ量産には向いていないつくりであること。
2.銭録の中に「豊臣太閤存在ノ日慶長元二ノ間大阪ニシテ慶長通寶を鋳ト云フ 彼公同三年薨去(こうきょ:崩御) 同五年関ヶ原大役 此銭纔(わずか)ナルユエ世ニ残ルコトモ尤(はなはだ)少ク寛永銭ヨリハ尤下品ナリ(南嶺子)」とあること。
3.銭文筆者が臨済宗の高層の文英清韓とも云われているが、彼は方広寺の梵鐘の「国家安康君臣豊楽」の銘文筆者であり、豊臣と縁の深い関係者であること。(豊臣型に就いて大阪城に籠った事実もあり、戦後は捕えられ拘禁されています。)

銭録は金銀図録を著した近藤正斎の著作。記録魔と云われるほどの近藤は、江戸中期の国学者の南嶺子こと多田義俊の随筆中に慶長通寶のいわれを見つけて記しています。一方で「南嶺子往々杜撰あれば全くは信ずるに足らず」とも記していますので、近藤はあえて誤った説として多田の随筆を引用したとも考えられます。近藤は慶長11年に永楽通寶禁止令(完全禁止は13年)が出されたことを鑑み、永楽に代わる銭があるはずと考えた結果、南嶺子の記事を紹介しつつも一部否定に回ったものだと思われます。
ただ、公式通貨ならもっとしっかりしたつくりと量であっても良いはずで、鋳造の公式文書もないなど家康らしからぬ通貨政策です。したがって、北出氏が豊臣支配時代の最後の通貨ではないかと勘繰ったのもうなづけることであります。豊臣は織田家の旗印永楽に対する愛着が強かったがゆえ、あえて永楽を土台にしたとも考えられますし、鋳造手法としては豊臣時代に造られた鐚永楽に準ずるもの。銘を永楽から変えたいきさつはわからないものの、永楽は関東でとくに好まれて使用されていたという話も聞いており、関西で豊臣が永楽以上に価値を持って流通することを願って関西の地でつくったと考えることはできないでしょうか?
 
 
3月1日 【噂の寶頂星】
こうして改めて見ても美しいです。いや、美しすぎます。だから素人の私には嘘っぽく見えるのですね。
慶長通寶はとても謎の多い銭貨で、慶長11年頃に永楽通用停止に代わって通用すべくつくられたと、されていますが正式な文献が残されているわけでもなく、ましてや残されている量が甚だ少ないところから、とても日本経済を支えるような銭貨ではなかった気がします。
織田~豊臣が異常なほどの永楽好きだったことから、徳川が織田~豊臣の時代の終焉を告げるための宣伝具材としての発行ではなかったのかと・・・夢想しています。
慶長通寶は必ず瑕寶といって寶王の横引きが欠けますし、永楽を元にした嵌め込み銭です。どうみても本格的な銭としての鋳造ではなく、鋳写等による変化はあるものの基本的な書体変化は(大字を除いて)皆無に等しいことからも短い期間しか流通しなかったのではないかと思えるのです。
ただし、慶長という言葉の響きの魅力は絶大で、TVドラマからも慶長という年号は日本人の頭に徹底的に刷り込まれています。寶頂星は見ても通り寶の冠の点の上に長い鋳だまりがあるもの。こんな傷物が人気だなんて非常に不思議な気がします。鋳だまりで大騒ぎするのは、新寛永の日光銭千鳥とこの寶頂星ぐらいでしょうか?なお、寶頂星は長の第1縦画から第2横画が左にはみ出す癖があるなど、他にも特徴があるようです。
 
2月29日 【譲渡式】
古銭業界の伝統行事として譲渡式というものがあるのはご存知でしょうか? 私はこの言葉すら知りませんでした。
古銭語事典にも載ってないのですけど、何でも貴重な古銭を売買譲渡する際に、売買譲渡成立のお祝いの宴を行う習わしで、今回は天保仙人様主催で行う譲渡式の立会人としてお呼ばれしました。この譲渡式と思われるもので有名なのは成島柳北が守田寶丹に乞われてコレクションの一部を譲渡した際に開いた2日間の宴で、柳橋で開かれたその会には大勢の友人知人が招かれ、柳北がコレクションを売却して得た2000円を一晩で使い切ってしまったと云います。当時の2000円は今でいうと2000万円ぐらいに当たるそうで、いやはや豪快です。
なお、趣味の会としての古銭会そのものは意外に歴史は浅く、明治8年に宇都宮寿綱が亡父の17回忌にあわせて東京で開催したものが、日本初の古銭会だと云われています。もっとも同好の小さな集まりはもっと古くからあったはずだと思います。
 
2月28日 【縮形細縁の天保】
48㎜を切る縮形の天保はありそうで少ない・・・と私も書いていましたが、気が付くと少しずつ枚数が増えています。画像の天保は長径が47.7㎜しかありません。こういった縮形の天保に共通してみられるのは、なりは小さくても重量はしっかりあるものが多いという事。この不知銭も肉厚とまでは言えませんが、重量はきっちり本座の規定にあわせて作られています。不知銭も信用が無ければ流通しないわけで、小ぶりとはいえ、使ってもらえるように配慮してあるようです。小さい上に軽かったら、さすがにみんな受け取るのはいやでしょうから。寶下が鋳だまりで銭文径が計測できませんでしたけど推定で一度写しの銭文径41㎜とみました。わずかに刔輪があるかもしれません。
長径47.7㎜ 短径31.8㎜
銭文径41.0㎜(推定) 重量21.3g
 
2月27日 【鐚銭は難しい!謎の永楽銭】
関西のSさんからのご投稿。鐚永楽は私も本邦鐚銭図譜と中世銭史ぐらいしか資料がありませんので全く見当がつかない。接郭であることはすぐに判ります。しかし全体に加刀が進んでいて、中正系のようにも流永系のようにも曲永にも見えてきてしまうから困ったものです。通辵も永もすべて変です。少なくとも私は初見。判りません。お分かりの方お教えください。
※鳳凰山様からこれについてご回答がありました。
改造鐚永楽の流永類、正永に属する物らしく、泉譜にはぴたりと当てはまらないようです。この類はとにかく変化が多く楽しいながらも、分類に頭を悩ませて下さるものが多いようです。

ところで最近、余りに美しすぎる慶長通寶の寶頂星が母銭ではないかと騒ぎになっています。たしかに美銭で彫りも深いのでそうかもしれないのですけど、面文の文字の潰れ方を見ると太過ぎてどうしても母銭には見えません・・・と、いうより私は慶長の母銭とやらを見たことがない。だいたい慶長通寶は永楽通寶を土台にはめ込み式で急遽作ったものでしょう?こんな母銭で良いの?通用銭と内径を比較してみたらほとんど同じに見えるし、最近は中国産の写しが大量に入ってきてますから要注意なんですよ・・・と、お節介にもある方に「これって本当に大丈夫なんですか?」と聞いてしまいました。
意外にも”とても良さそうに見える”との返事・・・ここでハタと気がつきました。そうか。慶長は鐚銭なんだっけ。ましてや寶頂星はそれこそ鐚式の母銭からできていなければ筋が通らない。新規母銭のはずはない、だから通用銭と内径が同じでも何ら問題がないのか。
母銭か否かということは今でも正直判りませんけど、母銭の可能性のある美しい通用銭なら間違いない。
真贋についてはそれこそ分かりません。門外漢の意見として面の雰囲気は出来過ぎなので最近作にも見えて少し嫌みを感じるのですけど、背の雰囲気はものすごく自然。やはり専門家にお任せすべき分野でしょう。
※一泊素泊まりでスキーに行ってきました。土曜の夜に出てのほぼ日帰りの強行軍。疲れ切りました。
 
2月26日 【寛文様が出た!】
大和文庫から駿河第493号が届きました。
そこには久々に見る寛文様(初値280,000円)がありました。つい最近に奇天手で塗り替えてしまいましたが、寛文様は私のコレクション人生の最大級のお買いもの。(画像上段)こいつは方泉處原品にして矢部倉吉著作の古銭と紙幣やボナンザの表紙などを飾った由緒正しい品なのです。まあ、寛文様は滅多に見られない品ですし、真贋について語る資格はないのですが、駿河のHPで確認するとかなりGOODな画像(下段)が掲示されていました。とてもお買い得???だと思います。
最近は贋作が花盛りでして、高額品なだけに注意が必要なのですけど、私から見てこいつは悪くない。もしこいつがだめとなると、私のものもだめということになる。
しかし、この青い銅質は不知天保の勇文と同じような色ですね。九州方面の銅の色だと思いますけど、初めて見たときは「えっ(密鋳銭なのにこんな色でも良いんだ・・・)」と思った次第。少なくとも東北の色ではないですね。
※偶然だとは思いますが穴銭入門新寛永の部にある寛文様無波と寛目や寶冠の形状に画像下段の品は類似点があります。穴銭入門の無波は刔輪されていて、製作も粗そうで私には母銭には見えない品なのですけど・・・。
 
2月25日 【試作陶貨】
少し前に収集した画像ですけど、見たこともない陶貨です。額面も年号ないし戦時中というのに菊の紋もない。透き通るような純白のウェディングドレス姿の花嫁のようでまさに試作という感じでしょうか?
日本貨幣カタログには10銭・5銭・1銭の未発行貨が掲載されています。1銭は2000~3000円で今でも買えますからお持ちになられている方も多いと思います。私が思う貨幣とは”ときの権力者が作成した流通と価値を補償した商品交換の仲立ちをする主として金属でできた小片”なので、陶貨は貝貨や石貨とともに例外的なもの。実際に流通したものとしてはドイツのマイセンの陶貨が知られています。(シャムの陶貨はもともとは博打の代用貨幣だと思います。)ところで、実際に流通を果たさなかった貨幣は、近代古銭業界では以下のように呼称を分けているようです。
試作貨幣 規格等が法令公布前の試作段階のもの
不発行貨幣 規格等は法令公布されたものの試作だけに終わったもの
未発行貨幣 発行準備が終わり日本銀行に引き渡す段階(前)で発行停止処分になったもの
未流通貨幣 発行のために日本銀行に引き渡された後に流通停止となり、回収処分されたもの
陶貨類は全て回収破砕されたとされていますが、実際には市場にかなりの数が残されています。また、貨幣カタログにも掲載されていない試作陶貨が時折姿を見せることがあります。型が残されていたため、戦後レプリカとしてつくられたものや、中には贋造品としてつくられたものもあるそうなので、高額なものを購入する場合はそれなりに心した方がよさそうです。なにせ、正式な文献がほとんど残されてなさそうなので・・・。 
※貨幣は日本銀行に渡された段階で、発行したと認定されるそうです。未発行でまとめても良い気がしますけど。
※ネット上でこんな本(30P)を見つけました。
著者の菅谷信氏ってあのSKGDの人でしょう?定価は1800円の資料みたいです。欲しくなってきましたね。
 
不知長郭手尨字
天保通寶と類似カタログより借拓
2月24日 【尨字】
この文字を一発で読める方はまずいないでしょう。さらに一般の方で意味が解る方なんかまずいないのではないでしょうか?読み方は訓読みで「むくいぬ」。驚いたことにワープロでムクイヌと入れるときちんと変換してくれます。音読みは「ぼう」。したがって「尨字」は「ぼうじ」と読みます。尨は象形文字で犬に長い毛が生えている様を表現しています・・・まさに見ての通りの文字でしょ?
尨の文字は私は開元通寶で覚えました。ぼてぼてっとしたある種の開元通寶の書体を「尨字」と泉書に書いてあったのです。意味としては「むく毛の犬」のことだとも。「むく毛」と聞いて私はイメージがピンとこなかった。毛のふさふさした犬・・・おそらく、古代中国でむく毛の犬とは、チンのイメージなんだろうなあと漠然と思った次第。文字の強さはないし、素朴だし、どちらかというとダサい感じがついて回ります。まあ、たしかに素朴なイメージの書体は確かなんですけど、どうも昔からこの源氏名にはピンとこないのです。
もしかすると、この尨字を発見した収集家はあまりの変わりものぶりに「可愛くて可愛くてしょうがない」から愛玩犬の意味で「尨」の文字を充てたのではないかしら?もし、そうだったらちょっと共感できるなあ。
ところで尨字にはマ頭通が三角上にふさがった塞頭通とフ状に開いた尨字があります。たぶん塞頭通の方が本体で、開いた方が削字なんじゃないかと思うのですけど、収集界では逆転した名前付けになっています。そういえば一昨年のCCFあたりでこいつらは2枚出ていましたよね。あれはどこに行ったのでしょうか?
この「尨字」がネットに出ています。持ち主はどうやら高校生らしいです。状態はあまり良くないのですけど、こんなものがまだ眠っているのですね。驚きました。
※私は塞頭通の文字も最初は誤読していて、「さいとうつう」で覚えてしまっていました。「要塞」の「さい」しか知らなかったからなんですね。今思い出しても恥ずかしい。
 
2月23日 【不知天保通寶の比率】
先日、この件に触れていましたが、秋田のM氏もその著書「天保通寶研究分類譜」収集メモに不知銭の存在比率の記載をされていました。それによると長郭手50.98% 細郭手21.04% 広郭手19.73% 中郭手3.75% 写0.45%・・・私の予測とだいぶ違いますね。では検証してみましょう。
写は藩鋳銭の写しですし、数が少ないから無視しても良いと思います。また、細郭手と中郭手は区分が難しいので私のように合算して考えれば24.79%になります。広郭手はかなり数値が異なりますが、M氏譜の場合は面反郭・背含円郭なども含んだ数値ですし、かなりグレーな品も入っていると考えて、ここはいったんはずして考えます。そうすると長郭手と細・中郭手の比率だけで考えることが可能になります。私の場合導き出した数値はおおむね70:25であり、つまり14:5ぐらい。一方M氏はほぼ2:1の比率ですから、14:7ということになります。と、いうことで長郭手と細・中郭手の存在比率はおおよそ(長郭手)14:6±1(細・中郭手)という結論になりました。こう考えると私の導き出した数値もそんなにおかしくない気がします。
ところで広郭手は5%よりはあると思いますけど、19.73%はさすがにないと思います。面反郭・背含円郭の類やはっきりしないグレーな品を外せば10%以下だと思います。つまり細郭手のいいところ半分以下だと思っています。実際はあるのかもしれませんが、認定できないと言った方が正しいかもしれません。それだけ広郭手のはっきりしたものにはほとんど出会うことがありません。広郭手の覆輪刔輪や長足寶や異書体・異製作の品は絶対拾い!これは間違いないところです。 
 
2月22日 【千葉の古銭会は難しい?】
呼びかけをしてみて、残念ながら反響なし。難しいとは思いましたが、まったく無反応とは思いませんでした。交通の便の良いところの会場というのがなかなか難しく、安い会場はあってもアクセスが悪い所しか知りません。
そもそも県内の熱心な収集家は鉄人さんぐらいしか知りません。収集の趣味は皆さんひっそりとやっているのです。
(役に立たない)物を集めるというのは男性特有のディスプレイ行動であり裏を返せば自分に対する自信の無さや満たされない心を、物を集めるという行動により穴埋めしている代償行為だと私は感じています。 ですから収集家は自己の世界内だけでの陶酔者が多く、人にはあまり見せたがらないし群れようともしません。
私の古銭とは関係ない知人関係で、貨幣を集めている人間は2名しかいません。それも今集めているかは良く分からない。集めていることは話してくれても、みんな見せようとはしないのですね。ちなみに二人とも社会的地位はとても高い人です。お金を集めていることを話すときは妙に小声で恥ずかしそうに話してくれました。私も同じです。この世界、自分に自信のない人が多い気がします。そろそろ勇気を出してみてはいかがですか?

※尨字の類が出ていますね。状態は悪いけど悪くはなさそう。それと銅山通寶も出ているようですけど、これは全く分からない。
 
広郭手長頭辵
長径48.1㎜ 短径31.7㎜ 銭文径40.5㎜ 重量20.5㎜
 
2月21日 【グレーゾーン】
不知天保銭の場合、バラエティに富むのは長郭手が一番。存在比率も50%以上はある気がします。細郭手になるとぐっと少なくなり、広郭手に至っては非常に印象が薄くなります。
手持ち品の数量からおおざっぱに計算してみると、長郭手70%・細郭手25%(中郭手を含む)・広郭手5%という結果が出ました。実際はグレーゾーンにある広郭手はかなり存在すると思います。広郭については母銭流出の噂があり、それにより金座において大粛清が行われたのではないかと・・・。したがって、不知銭らしい広郭手というものは私はほとんど持っていません。(厚肉系のものは時代が降る可能性があります。)とにかく書体変化がないのです。
画像の品は不知広郭手だということで分譲戴いた品。銭文径も40.5㎜しかなく、あきらかに本座の写し。全体に細字気味ながら保の人偏が太く、はっきりと長頭辵になっていますが、鋳だまりかもしれません。久留米の雰囲気がプンプンしますが、極印が破損しているようなので確認できません。格安なのでそれなりの品だと思っていましたが、残った極印の形や花押の形状からやはり久留米85%だと思えるようになってきました。格安で戴いたので問題はありませんが、人によって見立ては違うと思います。グレーな品ですね。
 
2月20日 【たぶん絵銭】
少し前に収集した画像です。昨年の秋ごろに出現し20万円近い価格で落とされていました。これで一人の収集家の心が折れてしまうかもしれないと思うととても残念なことです。収集をしていると騙されてなんぼの世界、勉強代だとおっしゃられる方がいます。たしかに勉強代ですけど、それは相手に悪意がない場合ですね。私は今だに勉強代を支払っていますけど、基本的に私は賛同できません。悪い奴は悪いし、業界のためにならない。
ネットの場合は自滅的に高額落札してしまうことがありますから要注意。調べてみるとネット販売はクーリングオフ制度(返品)の対象外になりますが、一部救済があります。それは広告中に返品特約(返品の条件)を必ず入れる事であり、これが入っていない場合はそもそも商法上の違反行為になります。ただし、ネットの個人販売には適用されないようです。
一方で、返品特約(返品の条件)が入っている場合は、買う方はそれに応じなければならない。したがって最近のオークションで見かける「いかなる場合も返品に応じない」という条項はとても強い意味を持つ言葉なのです。でも、”販売したものは本物であると保証する”と書いてあったものが贋作や変造品であった場合は先の条項と整合性がとれませんね。これはどうやらクーリングオフとは別の問題のようです。最近、贋作がオークションに出ている事例があとを絶ちません。オークション事業者も自己研鑽と良心を共に磨いて頂きたいものです。
※難波御用銭に関する記事は制作日記2015年の10月21日の記事を参照してください。大英博物館に収蔵されている朽木昌綱公のコレクション画像がありますので。
※これが良いという意見もあるみたいです。私は本能的に危険を感じました。背郭のつくりとか妙に額輪ぽいところとか・・・。
 
不知長郭手覆輪強刔輪宏足寶縮字
長径48.8㎜ 短径32.4㎜
銭文径40.5㎜ 重量18.9g
2月19日 【宏足寶系縮字】
上下の画像は同じ品です。下がネットの画像、上が私が撮影した画像。全く違う品に見えます。実物は色黒の宏足寶系ですけど、画像の印象では淡褐色に見えました。ライティングの関係でしょうけどここまで印象が違うとは驚きです。とはいえ、今回は品物は正統派、問題はありません。状態は真っ黒に近いのですけど、覆輪強刔輪宏足寶縮字と名付けました。不知天保通寶分類譜では下巻166pのもの(直足寶)に近似してます。でも宏足寶としても良いかな?宏足寶寶は大ぶりのものが多いのですけど、これはその次鋳タイプで、銭文径が41㎜を切ります。
出品画像よりスキャナー画像の方が、そしてより実物の方が宏足寶のように見えます。
寶下の強刔輪ぶりと、輪の周囲のえぐれっぷりが不知銭ならではの見どころ。中でも背の當上のえぐれの様子は見事ですね。
こういうのを深淵というのかしら?
また、一応思い直して覆輪の名称を付けましたが、こいつは刔輪が強く細縁になってしまい、覆輪と名乗りづらいのです。こういうものを皆さんどのように名づけるべきなのか、不知天保通寶収集にこり始めて10年近くたつくせに未だによく判っていないのが恥ずかしいです。
夏の古銭会展示室に天保仙人様が保有している極美の品があります。掲示の品は濶縁縮字タイプの方に製作は少し似ています。
 
2月18日 【江刺・浄法寺・加護山・踏潰】
密鋳銭を私もいろいろ分類するのですけど、その名称付けはあくまでも印象からつけているだけで、正直いい加減です。たぶん、寛永銭の研究家のほとんどが自分の印象だけで名付けているのではないでしょうか?
私の定義は加護山は赤銅質の色と砂目が決め手。踏潰は延展技法と茶色い銅質、それに面やすりと側面の粗っぽい仕上げ。江刺は黄色っぽい銅質と側面やすりとざらざら鋳肌なんですけど、これは過去の分類を見るといろんなタイプが混じってますね。私が浄法寺としているものは赤銅質が多く、背が浅く輪側面は台形仕上げのものが多い。まあ、これこそは我流の分類です。
ネットで仰寶の江刺銭というものが出ていて、半信半疑ながら落としてみました。しかし・・・画像とは色調が全く違うひどく赤黒い品。色補正をした画像だったようです。しかも仕上げから見て私は浄法寺系としている物であり、焼けなのか歪みまである。なかなか思うとおりにならないようで・・・。

画像の右上は加護山の不旧手藤沢写し、左上は江刺の異書写し。右下は高津写し母銭、左下は白目中字の(葛巻)写し母銭・・・で、いずれも私のお気に入りの品で、お金を出しても買えない島屋文級の珍品だと思います。(自画自賛!)画像を眺めて気分を治しましょう。
 
2月17日 【美しき鐚銭】
本邦鐚銭図譜の草書至道ですけど、美しいですね。毎度画像の勝手使用になって恐縮なんですけど、こいつはびびっと来ました。金質は白銅っぽい九州鐚の色、加治木かしら。
私は書に疎いのでこの書体の崩し方が正しいのかは良く分からないのですけど、至の文字なぞはまるで修験僧が座禅を組んで瞑想をしているようですし、他の文字も踊っているようで楽しいですね。こんな鐚銭に出会ってしまったら、メロメロになってしまいそうです。
実に良いものを見せて頂きました。 
 
2月16日 【鋳放しについて】
この世界に長く生きていると、鋳放し銭という言葉をときおり耳にします。鋳放し銭は未仕上げで鋳バリがたくさんついているものを思い起こします。それは多分浄法寺天保や石ノ巻天保のイメージが強烈だからだと思います。しかしながら、実際の鋳放し銭の多くは、仕上げ不完全もしくは仕上げ省略といったものがほとんどであり、それ以外は仕上げを放棄した廃棄銭(欠陥銭)がときおり目につく程度です。毛利手本銭には、例外的に半鋳放しのものが多くみられますが、これは殿様の収集のために特別に集められたサンプルのような気がします。
仕上げれば立派に通用するようなものが未仕上げのままということは、もったいないをモットーとする江戸時代においては考えがたい。それに、密鋳銭の鋳造はは見つかれば重罪は免れないところ。天保銭は万一の発覚に備えて、母銭にも桐極印を打ち、通用銭偽装を図ったそうです。そんなあぶない未完成品を目立った形で残しておくなんて愚は普通は犯さない、間違いなく廃棄・熔解するでしょう。
では、なぜ鋳放しのままなのかという事を考えれば答えはおのずから導かれる気がします。君子危うきに近寄らず。それでも近づく場合はそれ相応の覚悟が必要なのです。 
画像の品は多分両方ともセーフの品。左は反玉寶の未使用鋳放し銭で暴々鶏氏の旧蔵品だったとご本人から聞いています。由来もしっかり?しているらしいのですけど、それを証明する方法がありません。あくまでも口述記憶なんですけど暴々鶏氏は太鼓判を押しておりました。ただ、この品は個人的には何度見ても贋作品ぽく見えてしまうのが困りもの。
右は半仕上げ状態の幻足寛。こうなった理由は肉厚すぎてバリが削り切れなかったもの。当初は母銭格下げ通用銭じゃないかと思いましたが、極厚肉の通用銭です。贋作だとしたら母銭からの写しなんですけど、錯笵にしても、鋳放しにしても中途半端です。銭の様子はごく自然で私は問題ないものと判断しました。
 
 
不知長郭手覆輪(断足寶)
長径49.1㎜ 短径32.7㎜ 銭文径40.9㎜ 重量23.2g
2月15日 【M氏の天保】
秋田のM氏といえば知る人ぞ知る天保銭の大家。私の最近の天保銭狂いは天保仙人様、秋田のM氏、暴々鶏氏に負うところが大きいのです。
秋田のM氏は天保通寶四天王のひとり。その所蔵品は多彩で、不知銭のコレクションは他の追随を許さないレベルです。そのM氏のコレクションが数年前から入札などにぽつぽつ出てくるようになりました。いわゆる終活に向けての動きなんでしょうけど、それをいいことに私は買いまくっています。仙人様も青森のI氏も最近は放出していますので、今が買い時なのか、それともババ抜きのババをひいているのかは分かりませんが、おかげさまで家族に怒られながらもずいぶん楽しませて頂いております。
画像の品は英泉天保通寶研究分類譜の1197番原品。長郭手の覆輪です。内輪が刔輪で歪んでいてなかなか楽しい品です。寶前足は偶然の鋳切れかもしれません。
 
2月14日 【伏見手破寛のプレゼント】
四国のKさんは2007年の秋頃からさかんに情報を下さるようになり、今では常連と言っても過言ではありません。あくまでのHP上、メールなどのお付き合いであり、実の所お会いしたことなど一度もありません。これが女性ですともっと会いたくなるのかもしれませんが、女性より古銭を愛してしまっているため、そんなことはお互いどうでも良い(失礼)気分なのかもしれません。
さて、2月7日の投稿画像へのコメントに私が欲しい欲しいと記事を書いておりましたところ、一昨日何やら郵便物が届きました。
丁重に包まれた箱を明けるとなんていうことでしょう、伏見手の破寛が鎮座ましましているではありませんか!私があまりに物欲しそうに記事を書いたので、哀れに思ったKさんが送って下さったようなのです。コメントとして「寶下に薄ヒビがありますが、参考品としてお使い下さい!」
感謝感激です。伏見手破寛はなぜか出会いがなく、最近は存在すら忘れておりました。2月7日のご投稿はまさに私にとってのストライクであり、実は入手できそうでなかなか手に入らない寛永銭なのです。なかなか大ぶりの私好みの白い肌。強い磁性を感じますね。Kさん、ありがとうございました。大切にさせて頂きます。
 
2月13日 【贋作について】
とても気に入らないことなのですが、最近贋作が激しく横行しはじめました。業界としては贋作撲滅に動くべきだと思うのですが、古銭店そのものが絶滅寸前で、良い品がなかなか手に入らない今、儲かるので贋作販売でもしのいでいる気もします。古銭店は情報を提供してコレクターを育てなければいけないのですけど、自己責任だよとコレクターに責任転嫁しながら自分で自分の首を絞めている気がします。私も初心者時代から最近まで相当痛い目にあっています。贋作に引っかかるのは勉強代という考え方は私的には絶対納得できない!やっぱり贋作は売るべきではないのです。

ラムスデンが有名なのはラムスデン自身がずば抜けた審美眼を持った古銭コレクターであり、本物の母銭等を高額で買い求めて研究し、それから型をとって製作しているからです。銭幣館や青寶樓は贋作と知っていてそれをわざと収集していました。銭幣館が古銭業界を守るために金座等から流出した極印などを積極的に高額で買入れした話は以前書きましたが、穴銭においても同様なこと(贋作の種になる母銭や錫母を根こそぎ購入・贋作は研究のため分別保管)をしていたようです。ところが没後にその贋作をせしめ、流出させたと思われる人物がいます。その結果、贋作の害毒は再び古泉業界に広まることになりました。今、そのラムスデン作が再び目を覚まし始めています。種々雑多な作品があるようで昨年秋の貨幣誌においてもS氏が発表しています。菓子折り箱の中に入ったまま眠っている状態なら安心なのですけど・・・。

一方、穴銭業界で猛威を振るっている作品にO氏作があります。O氏自身も著名な収集家であり、業界の元重鎮でもありましたが、もともとは金属加工業者であり加賀千代太郎の下請けをしていたことでも知られます。
丁銀や豆板銀に贋作が多いようですけど、穴銭は主に水戸系を主体に作成していました。錫母や母銭から直接写すので銭径縮小も少なく、書体にも矛盾なく技術的にも秀逸です。ヤスリの再現が難しかったので未使用の鋳放し作品が多くみられます。あまりにも出来が良かったので昔は贋作と見抜けず、日本貨幣協会の鑑定書もついているものすらあり、現在では半ば住民権を得てしまった感があります。
明和期寛永銭に大型銭というものがあります。これもO氏の発明だということですけど、もともとは本物の雑銭なので初めは誰も見抜けなかったそうです。その結果、泉譜にも掲載されたというから驚きです。私は加賀千代太郎策作で有名な大錯笵天保もひょっとしたらO氏の作品なのではないかと考えています。鋳肌がそっくりですから。

福西常次もまた加賀千代太郎とタッグを組んだ贋作者です。彼もまた世に知られた大コレクターであり、貨幣研究家でした。古金銀の贋作に始まり、あまり上手ではありませんが穴銭の贋作もしています。まあ、彼の場合は金銀銭の出来があまりにも素晴らしいので、福西と云えば古金銀・・・ですかね。現代で本物と認定されている品に福西作が紛れ込んでいると聞いてます。

S氏もまた古銭業界では名前を残した大人物。平成16年貨幣48巻6号にS氏が福西と親交があったような記載が見られます。と、いうことは加賀千代太郎とも接点があったと思うのですが、しっぽがつかめません。S氏はどちらかというとブローカー的な立場であったので、S氏の販売した品に福西やO氏が絡んでいた可能性が高い気がするのです。S氏も多くの贋作を販売したと云われるのですけど、S氏作と云う贋作は聞きません。S氏は製作者でなかったためなのか、贋作と決まると業界に激震が走るためなのか定かではありませんが、私はその両方のような気がしています。
(加賀千代太郎ー福西常次ー大島延泉ー佐野英山のラインが見えてきました。)
最近、二世鷲田寶泉舎の贋作についても耳にしました。鷲田は小川青寶樓の師匠でもあり、明治から大正にかけての古銭界を支えた大物なのですけど、晩年に銭幣館田中啓文と仲たがいがあり、関係修復前に寶泉舎が亡くなっているため、仲たがいの本当の理由が明らかにされていないのですけど、寶泉舎が田中に贋作を売ったことも一因ではないかと勘繰っています。
噂話の範囲を超えていないのですけども、彼がかかわった可能性のある贋作は、いずれも業界の中では大珍品でもあります。根も葉もないうわさとまでは言えないのですけど、これはここには書けないですね。
(仙台大濶縁 小管巨字など)
最近の贋作はいずれも泉譜から銭文を起こしたと思われる近代金属加工技術を駆使したもの。コンピューター制御で旋盤を動かし、仕上げは金属腐食技術で施したと思われます。近代銭は放電加工技術を駆使したものでしょう。ここまで進むともう肉眼での鑑定は極めて難しくなります。そして一時期姿を消していた、未使用ダイヤ光の銀製品がスラブに入って復活してきたように思えます。
また、近代エラー貨幣の世界では私の理解を超越した超絶エラー貨幣が横行し、目がくらんだコレクター達が平常心を失って先を争って買い求めています。思い切って書いちゃいますけど、業界に大量にある穴なしの50円・・・多すぎませんか?
最近の技術は最高の目を持ったコレクターすらだます力があるような気がします。誰か真実を教えて下さい!

 
ryuueitaiji2月12日 【流永大字】
ネットに出ていたものです。私は鐚永楽は専門外ですけど改造鐚のこの名前は耳にしておりました。永楽収集を趣味にされている方はたぶん相当少ないと思います。それは鐚永楽の泉譜・指導書が本当に少ないからで、私も増尾富房著の本邦鐚銭図譜と中世銭史ぐらいしか持っていません。穴の細道にも掲載されていましたね。私と鐚永楽の出会いはこれが原典かもしれません。
現在は鐚の小様とノム楽、あとは名もつかないような写しを持っているだけ。垂足寶の大き目のものは売ってしまったと思います。
一方で鐚永楽の収集家の熱意はすごいものがあります。中正径の書体には確かに魅力がありますからね。そういえば昨年曲永大字が市場に出ていましたね。永楽界の珍品中の珍品ですけど、あまりにも珍しすぎて私にはわからない品になっています。
 
※四国のK様 伏見手破寛 届きました。ありがとうございます! 
 
2月11日 【不思議な天保】
ネットに出ていたものだそうで、私は気づきませんでした。関西のSさんのご投稿です。(ありがとうございます。)
長径49.46㎜ 短径33.10㎜
銭文径41.18㎜ 重量27.83g
肉厚 3.32~3.10㎜

ごつごつしていますが薩摩広郭の写しであることはほぼ間違いないと思いますね。この手の物には真鍮銭がときどきありますので、その着色品でなければ大丈夫です。最近の贋作はとても上手な品が多いので注意が必要です。製作は面白く興味深い品ですね。 
 
不知長郭手 鋳写異極印背ござ目
長径48.3㎜ 短径31.6㎜
銭文径41.0㎜ 重量21.4g
2月10日 【ござ目の長郭手】
ござ目というと天保銭等の地肌に走る筋状の模様のこと。砂笵を均したあとに乾燥を防ぐために茣蓙を敷いて重ねた痕跡が残ったものと云われていました。右の天保銭にも細かい筋目が見られますが、筋目は横方向のみであり縦方向には見られません。藁を編んだ茣蓙なら縦目もあるはずではないでしょうか。私はこれは砂笵を均したときについたものと考えています。砂笵を平らに均すときには大かき板やしころと呼ばれる薄板状の道具を使います。子供の頃に砂遊びをした経験のある方なら分かると思いますが、薄い板で砂の表面を均すと板が微妙に振動して波状の筋目が残るでしょう?
このようなござ目は本座銭ではほとんど見たことがありません。本座の鋳砂は房州砂という高品質のものを使用していたはずですし、化粧砂もしっかり使用していたと思われますから。

ところでこの天保銭はネット上で全く人気がありませんでした。本座銭風に見えたことが大きかったと思うのですけど、サイズが小さかったことに加え穿内の画像が不知銭判断の決め手でした。本座長郭の穿内やすりはこのように均等に、しかも平らに、しっかりやすり目の条痕が残るかけかたをすることはまずないのです。かくして今回の入手品は掘り出し物。といってもだからどうしたという品なんですけどね。
 
2月9日 【泉譜の嘘】
新しい不知天保銭を入手すると泉譜片手に類似品探しに躍起になってしまいます。最近も新たに手持ち品の何枚かが原品であることが確認できました。多くは秋田のM氏の収集品だった品で、おかげさまでここ数年かなり集めさせてい頂きました。
ところでM氏は著書『天保通寶研究分類譜』に以下のように記述しています。
『不知(天保通寶)分類譜に(記載があると)二行(その箇所を)記しているが、これは同じ拓がだぶって使われているから。これはこの後何度か出てくる。中には拓を修正しているものもあるので要注意。』
不知天保通寶分類譜中に同じ拓図がいくつか出ていることを良心的に解釈するのなら、『特徴別に分類されているので複数の特徴がある場合にだぶらせた、あるいは全国各地の収集家から拓図を集めたので、古い拓本もあって作業中に紛れ込んだ』のかもしれません。計測値に誤りがあることも以前指摘したことがありましたが、拓本から計測したことによるものではないかとも思えるのです。
ただし、以上はあくまでも良心的に見た場合。ひょっとしたら・・・と思えるケースも多々あります。
とりわけ拓図の修正は困りもので、泉譜原品探しをするときにはかなりの障害になります。鋳だまりや鋳不足、鋳ぎれなどを見栄えを考慮してなのか直したものがかなりあるのです。最近の入手品も泉譜に掲載されていると聞いていましたが、散々探して見つからなかったので、実際の拓図位置を聞いて唖然。輪の瑕や文字の鋳不足等の目立つ特徴が完全に消されて分からなくなっていました。
それは2月8日の天保銭なんですけど輪右下の小欠や通用上部の鋳切れなどが修正(消去)されていました。これはもう言われるまで気づかないし、言われても信じられないかもしれません。
昔からお見合い写真には修正はつきものとされていましたが、泉譜の拓本の修正・計測値の改ざんにも及ぶとは思わなかった。とはいえ、私も写真を調整しているから同じかなあ。私の修正は主に色調補正が中心なんですけどね。

※不知天保通寶分類譜P140の27とP141の29は同じ天保通寶の図は英泉譜の1260番と同じですけどサイズはそれぞれ違う。拓本計測による違いと言いたいのですが、厚みの値も書かれておりそれも違います。厚みは拓本計測できないので、何らかの作為が感じられますね。
※M氏の記述実は張足寶の大半は穿内きわにやすり掛けがされていて、すべてが母のようで、そうでないものは少ない。ただしこれは49㎜台まで。それ以下は穿内ヤスリなし。と、さりげなく張足寶について記載していますが、極めて興味深い。もう一度観察してみようと思います。 
 
不知長郭手 覆輪張足寶背肥郭 
長径49.3㎜ 短径32.4㎜ 銭文径40.5㎜ 重量22.6g
 ※不知天保通寶分類譜下巻P138の22原品
2月8日 【張足寶の不思議】
秋田のM氏ものたまわっております。『張足寶には本当に色々なサイズがある。だからつい集めてしまう。』・・・と。たしかに49㎜後半の大ぶりのものから47㎜台のものまであり、銭文径も41㎜に迫るものから40㎜を切るものまであるみたい・・・でもって、これは私が通寶小字としてしまっているものとものすごく良く似た製作です。そこで並べて見ましたがう~ん、微妙に違います。覆輪できれいなんですけどこれは通寶小字ではないし、寶貝底の瑕もない。張足寶は一つの系統では納まらない気がしていますが、こいつはどうなんでしょうか?なお、不知天保通寶分類譜の下巻P124の45(覆輪背肥郭厚肉)と多分これは兄弟銭じゃないかと思います。輪下部の瑕の位置が同じですし、書体などの特徴も一致していします。泉譜の原品じゃないかと思っているのですけど、今のところ該当ずるものが発見できていません。
 
銅山至宝 無額面試鋳貨
縦径 42.7mm 横径 31.0mm 重量24.7g(東北E氏より)
丁寧な輪側、穿内の鑢掛けと面の研ぎ落しで角が立ち、古色も自然な母銭仕立て。私も側面画像を見ましたが和やすり仕立目で自然に見えます。このようなものの存在を知っている方は相当のマニアです。
元文期十万坪銭
含二水永白銅銭
(四国K氏より)
たぶん母銭だと思います。郭内に鋳バリがあるように見えますが鉄さびです。磁性があるそうです。外径23.6㎜
元文期伏見手破寛
(四国K氏より)
白銅質の美銭。しかも手替わりの破冠寛です。美しいですね
 
2月7日 【投稿画像をまとめて】 
最近は非常に忙しい、今日は横浜への日帰り出張だし、週末も研修の発表がある。時間がないからこそ深夜・早朝まで記事を書くし、憂さ晴らしにネット徘徊する天邪鬼な私。長生きできないなと思います。日付も3日ぐらい先に行ってしまいました。休むためにまとめ書きするのですがかえって休めない・・・強迫観念というか依存症です。

銅山至宝の無額面のものは、入手者の方から喜びの報告がありました。お酒のアシストで頑張られたという事ですけど、翌朝は悲壮感に押しつぶされそうな気持だったそうです。類品はハドソンの北海道と東北の貨幣に掲載されているそうです。
知る人ぞ知る大珍品。こんなものまだ有るのですね。知っているだけでもすごい品です。

左側の寛永通寶はひょっとして佐渡かもしれないという事で送られてきたもの。 製作が良いのでたぶん十万坪で良いと思います。抜けもよさそうだし、白銅の母銭でしょうか?(私は母銭は良く分からないのです。)内径が知りたいですね。元文期十万坪銭には白銅銭があり、新寛永通寶図会には2000円の評価なのですけど、私は通用銭ですら出会ったことがないのです。今もっとも欲しい通用銭で、純白の通用銭なら20000円でも買ってしまうかもしれません。売ってくれ~。
同じく下右は元文期伏見、白銅色が美しいですね。しかも破寛になっています。これも欲しいぞ!

文久永寶草文鉄写し
例によって大量の鉄銭の山の中から出てきた一枚だそうです。この方の関係している鉄銭の量は想像を絶する量で古の収集家所有品が混じっているようです。(東北N氏より)
文久永寶の鉄写し。なんてことのないような品なのですが、これは探すとなると相当少ないはずです。数百キロ単位で鉄銭を見ているN氏もいわく、これは初めて気が付きました。たぶん少ないですよ・・・とのこと。ちなみにN氏は鉄関連の職業に就いておられますがもともと古銭収集家ではありません。東北は鉄の産地であり、このような古い鉄銭も原材料(早く言えば製鉄のための鉄クズ)として大切に保存されカマスに入れられたまま大量に出てくることがあるそうです。最近、背山は出過ぎ感がありますから、古いコレクターの収集品が(贋作も含めて)混じっているのかもしれません。 
 
2月6日 【逆台形仕上げの天保通寶】
どうってことのない長郭に見えます。実はこれが先日の八厘会で分譲戴いた天保通寶。側面の仕上げが異常で面径に比べ背径が狭く、全体的に逆台形になっています。仙人様からは面背逆製の天保銭だと聞いておりますが、面背逆製という名称は「砂笵に母銭の表裏を逆に置いた結果のもの」と紛らわしいのでズバリ「逆台形仕上げ」の天保銭としておきます。
側面のやすりを見る限りでは昔のやすり目で、後から加工された物ではありません。
長径48.9㎜ 短径32.4㎜ 銭文径41.5㎜ 重量22.8gと計測値はほとんど本座、銅質もほとんど本座。ただし、ほんのわずかに銭文径が縮み重量も通常規格よりわずかに重い。
これをもってこの天保銭を不知銭と断定することはできないものの、製作の異常を併せると仙人様がこれを不知銭とする理由がうなづけます。
出来上がった天保銭が予定より分厚くなってしまったので鋳銭職人が重量調整のために磨輪する過程で、失敗してしまったんでしょうね。あるいは輪の鋳不足による瑕を修正する過程でこうなったとも考えられます。微細変化なので八厘会に参加していた皆さんも良く見つけたものだと感心しておられました。

参考)浩泉丸による語句定義
面背逆製 母銭を表裏逆に砂笵に置いたため、面側が浅く、背側が深くかたどられたもの。
鋳バリが面側に偏る特徴がみられる。
逆台形仕上げ 面の外径に比べ背の外径が小さく、逆台形に仕上げられた規格外もの。
一枚一枚手仕上げでないとこうはなりません。(実は本座も一枚ずつの仕上げです。)
※この名称は私独自のものです。
貼り合せ(手) 砂笵の合わせ目が銭の厚みの中間になるつくり方。このつくり方の不知天保銭の中に、表側が細郭の書体で裏側の書体が長郭になるものがあることから貼り合せの名称が生まれた。正しくは中見切り製法という。
2013年12月11日の制作日記に私なりの仮説を記載してあります。
捻れ形 貼り合せの技法(中見切り製法)で作られたものはちょっとした砂笵のずれで分厚い段差ができてしまいます。生じた段差を削って修正するので左右、上下、斜めなどあらゆる方向に立体的に捻れます。
※この名称は私独自のものです。
背ズレ  片見切り製法による鋳造は砂笵のずれが生じても、合わせ目が背側に偏るので鋳バリが薄く修正が簡単なのです。その結果、背側のデザインが中心からずれた状態で仕上がります。 
楔形  上下あるいは左右で肉厚が全く異なるもの。砂笵から母銭を取り出す際に砂笵に押し付けてしまい深さがひどく不均一になったもの。 
歪斜穿(歪み形)  制作中の砂笵に衝撃を与えてしまった結果、穿が平行四辺形状に歪んでしまったもの。衝撃は度合いにより砂笵そのものが崩れるため捻れ形や背ズレ、鋳割れなどの原因にもなる。 
 
2月5日 【覆輪當上部分刔輪の天保】
ネットにずっと出品されていた割にあまり人気が無かった不知天保銭。我慢ができなくて応札してしまいました。立派な覆輪の濶縁ですけどもう一つの見どころが背の當上の間隔。これはもう當上の部分刔輪と言って良いと思います。そう思いながら不知天保通寶分類譜をぱらぱらっとめくると下巻のP181に寸分たがわぬ品があるではないですか。微妙に違うようにも見えますが背輪の鋳不足の位置や輪の太細、百の鋳だまりの位置も同じ。違うのは拓本の採り方の問題のような感じなのですが断言はできません。名称も当上刔輪ということで、面には刔輪がないのに背だけが刔輪されている点を評価したものらしい。評価値も3位なのでまずまずの珍銭でしょう。ちょっとした拾いものかもしれません。
長径49.3㎜ 短径32.8㎜ 
銭文径40.8㎜ 重量20.3g
不知天保通寶分類譜の拓図
下巻P181の当上刔輪(三)拓図

背の百字の異だまりや寶足の様子など微妙に違うようにも思えますが、背輪のずれ方や凹み方、面側の保人偏の先端の延長線上にあるわずかな隆起などほとんどが一致。計測値も不知天保通寶分類譜では長径49.3㎜ 短径32.85㎜ですからほとんど同じ。拓図を拡大してみて分かったことですが、背花押の下の輪表面に針でつついたような小さな凹点があり、それまで一致しますので原品度は90%とみます。母銭が同じという事はほぼ間違いない。違って見えるのは拓本の採り方の問題ではないかと思いますけどいかがでしょうか?
前の所有者にお伺いしてみようかと思います。
※原品でした!
 
2月4日 【貼り合せ母銭の真実?!】
1月25日の記事を読み返してふと思いついたことがあります。それは私がずっと謎に思っていた貼り合せの母銭らしきもの。具体的に的には”母銭について”のコーナーにある不思議な貼り合せ改造母銭とした寛永銭をご覧ください。こいつを横から見るとくっきり境目があり、しかもヘゲのように表面に剥がれがあるのです。私はこれは状態の良い寛永銭の表と裏を薄く削って貼り合せた改造母銭ではないかと考えたのですが、どう考えてもこんな手間のかかることをする意味が解らなかった。しかし、これは貼り合せではなく強烈な面砥ぎのあとに側面の丸目仕上げを行った結果ではないかと思うようになりました。つまり、銭の面を研ぐと、縁の縁にバリ状のでっぱりが残ります。普通は銭をまとめた形で砥石により側面を研ぐのですけど、1枚1枚を仕上げたとしたらバリ部分が側面を覆うようになり、あたかも側面中央に溝ができた状態になると思うのです。
その例が”密鋳銅一文の観察箱”にある、四ツ寶銭広永写歪輪としたもの。(右画像)これは面の砥ぎが強く、側面にVの字状の溝が出来ているもの。これと同じ現象が起きたのではないかと思う次第。つまり、側面の溝は仕上げの圧力によって生まれた金属の伸びによるもの・・・かなあ?う~ん、まだ自分でも納得しきれていないけど・・・。
 
2月3日 【銅山至宝の試鋳貨?】
私には 全く見当がつかなかった品。またたく間に50万円を超えたので本物なのかしら?額面がないというのは果たしてどういうわけなのか分かりません。幕末地方貨にはあこがれた時期があり、米沢生産局や秋田銀判、細倉當百などを買い求めた時期もありました。しかし、そのうち細倉当百が贋作でした。古文亭の丹野社長にその理由を聞くと、細倉当百は縦入れ仕込みだから側面などに地層のように金属が折り重なってゆくような皺が確認できます。これがないというのは鋳造方法が異なる・・・つまり贋作なんだそうです。ものすごい美品だとほれ込み、中学生~高校生時代のお年玉をためたお金で55000円も払った品が贋作・・・いやあ、それはショックでした。以来、幕末地方貨は怖くて手を出せません。
 
2月2日 【深字本体(狭久)】
ネットで収集した画像です。このクラスの品は九州の研究者たちと競ることになるので今は自重していますが、なかなか良い顔をしているので本当は行きたかった品です。久の両足がストレート気味で、頭の部分が狭く、開かない特徴がはっきり出ていますね。広郭であるのも微笑ましい。多くの泉譜では本体としていますが、私が狭久と勝手に呼んでいたもの。なかなか可愛い奴です。
 
2月1日 【阿仁母銭】
今どきは加護山銭というのが正しいのですけど、私はこの阿仁という言葉が好きなのです。阿仁とは赤土を意味する古語であり、阿仁鉱山の土質が赤かったのか、それともそこから採れた粗銅が赤かったからなのかは定かではありませんが、古銭の雰囲気を良く表しているではないですか。
さて、そんな阿仁・・・いえ加護山銭の鋳不足母銭なるものがネットに出てました。確かにきれいですね。加護山の母銭という触れ込み品はあちこちで見かけますけど、きれいな初鋳銭とどこが違うのかがわからない。穿内の仕上げはきれいですよね、そして製作も良いと思いますが、たいてい文字抜けが悪く母銭として考えた場合いまいちのものが多いのです。通用銭の背文を刮去して嵌郭を施したもの・・・本当の母銭が出てこないかしら・・・と思うのです。これらはそれから作られたものであり、一番銭で、母銭だとしても次鋳銭のためのものだろうと思います。しかも画像の品は母銭としては失格だから格下げ通用銭でしょうね。だからますます分からない。でもこの画像の品は実に魅惑的な顔をしています。ずいぶん安く落ちていたのでもっと頑張れば良かったと反省しています。
 
1月31日 【極印について】
最近、天保通寶を手に入れると必ず極印を確認する癖がつきました。極印が同じだと同炉である率が高いからです。一方でこんな声も聴きます。”消耗品である極印が全く同じという事は現実的ではない。実際に一分銀にしろ四匁六分銀判にしろ書体はたくさんあるでしょ?”
たしかに”石持桐極印”は特徴は同じであってもバリエーションがたくさんあります。奇天類の極印が同じ形に見えるのはどうなのかと不安にもなります?
金属に打ち込む極印は、消耗を避ける意味でも鋼鉄でつくられるはず。当然ながら鉄はかなり固く加工するのは至難の業。極印はかなり高価で価値のある道具だったはずです。金座・銀座・銭座においてはその道具を扱う職人は一目置かれる存在であり地位も給金も高かったと聞いています。したがって極印を作る側としてもある意味プライドを持って作っていたと思われますし、作成に使用する道具も限られていたでしょうから、全く同じではなくても似たものがつくられたと考えてもおかしくないはず。
実際に仙台天保の極印はみんな尖った形ですし、琉球の桐極印と薩摩広郭の桐極印はきわめて似ています。
言えることは極印の個別の形によって真贋を分けるのは信頼性はないという事。下田刻印銭などが最たる例かしら。そもそも下田で極印を打ったというお話そのものが怪しく、現代の裏収集界では存在すら否定されはじめています。
だからと言ってすべての極印の形が否定されるわけでもありません。私は天保銭の桐極印はやはり参考にはなると思います。極印の形にこだわりすぎるような状態・・・過信過熱しない方が身のためだと思いますが、それでも天保銭の極印の種類を見ることはやめられそうにもありません。
 
1月30日 【北陸の不知銭?】
今年初めてのまともな不知天保銭でした。いえ、天保の不知銭は今年はこれで3枚目ですね。ただ、鋳写し系ばかりだったのでこれは今年初の改造タイプの細郭手です。書体的にはよくある連玉尓でこのタイプは良く異極印が見つかるのです。分類を言うと細郭手覆輪刔輪連玉尓異極印。側面は砥石仕上げのようで極印はアスタリスク状です。
長径48.2㎜ 短径32.5㎜ 銭文径40.4㎜ 重量20.1g。あとあとでネットの画像で見ると真鍮銭のようにも見えました。またやっちまったかしらと冷や汗をかきながら到着を待ちましたがまともな天保銭が届き嬉しかった!
売主は北陸地方の方・・・という事でこの天保も北陸の産かしら。加賀藩は絶対天保銭つくっているはずですからもしこれがそうなら細郭手連玉尓が加賀天保・・・だったら面白いのですけどね。
 
1月29日 【押しの強い奴】
なんとも野性的な密鋳銭です。昨年、四国のKさんが投稿して下さった原品です。書体はかなり崩れてしまっていますがおそらく俯永でしょう。金質は文政期のような雰囲気ですがやや硬く、面背の砥ぎが強いもの。さらに側面と穿内はやすりでガリガリ削られています。まあ、このようなものが好きか嫌いかは人それぞれですね。近代銭が好きな方には多分わからないだろうなあ~と、思いますけど、私は不細工な奴ほど好きなんです。
※気が付かないうちに銅山至寶の母銭だかなんだかよく判らないものがものすごいことになっていました。額面記述がないのは試鋳貨だと日本貨幣収集事典に書いてありますけど、この情報だけで頑張れるとしたらかなりの目利き自信家か命知らずの冒険家ですね。最近はお金がないので欲しいとは思わないものの結果への興味だけは津々です。
 
1月28日 【銭緡】 
八厘会でMさんから購入した寛永銭の100文銭緡・・・96勘定できっちり96枚のものでした。実はMさんは会津の出身だそうで福島県内の各所を巡り骨董と古銭集めをされているとか。今回の出張ではうぶの銭緡とか小川芋銭の絵画を発見したとか。小川芋銭は幕末に茨城県牛久で活躍した日本画家。別名「河童の芋銭」と呼ばれるように河童の絵を得意にしたようです。なんでも鑑定団にも時々でていますね。96勘定と云うのは江戸時代の一文銭緡の数のことで、96枚で100枚の価値がある・・・つまり4文を手数料として銭をまとめたもの。ぴったり100文のことは丁百といい、96勘定は省百と言ったと思いました。
江戸時代の貨幣制度は4進法であり、また、相場が毎日変動して計算が面倒でした。96文は2・3・4・6・8・12・16・24・32・48で割り切れますので計算しやすいのです。
Mさんは今回の福島行きで得た銭緡の中から背十を一枚発見したそうです。こうやって出てくるところを見ると背十は母銭や稟議銭ではなく通用銭として一般流通したみたいですね。(記念銭じゃないかしら?)
Mさんは今回の例会のお土産としてうぶ緡を残してくださり、私が購入した次第。うぶで4000円なら安い!これで良いものが出れば万々歳です。(1枚当たり42円)でもそうも甘くないのがこの世界・・・はたしてどうか?
缶チューハイ片手に数えました。見始めて3枚目で古寛永の芝接郭を発見。おお、幸先が良いぞ!。文銭主体ですけど古寛永がちらほら混じります。姿の大きな文銭は庶民に好まれ、それだけのワラ挿しにされて退蔵されたようです。だから文銭は今の世に大量にあるのです。市場においては悪貨は良貨を駆逐するのですけど、結局のところ良貨も退蔵されて残りました。この96枚の銭緡はたしかにうぶみたいです。間違って島屋文が出ないかな、無背でも良いから。
選り出しマニアは銭緡の構成を見てウブかどうか判断するそうです。それと、商家や寺社から出てくる絵銭や中国銭などを分けて溜めこんでいたもののなかにお宝は多いようです。商家や寺社は釣り銭や賽銭の中に紛れ込んだ当時使えないお金をはじき出して、さりとて捨てられずにため込んでいるケースが多いようなのです。それらは皇朝銭や鐚銭・絵銭の宝庫なんだそうです。
さて、そうこうしているうち仕分けが終わりました。結果は新寛永84枚、古寛永12枚の・・・古寛永芝接郭が2枚、正字背文大破冠寶が1枚、残念ながらそれ以上の手替わりは見つかりませんでした。まあ、もうけはないものの損をした訳でもないし、楽しめましたから元は充分に取れました。
 
1月27日 【ダメージ大】
ここのところ入手する古銭がなかなかメガネにかなわない。不知銭だ
!と思って購入した品が本座だったりします。もちろん、私の基準で本座というわけで、売った方は不知だとお思いになっていますから、買った方が悪いのですけど腐りますし、経済的にも痛い。
私は一応銭文径を重視しています。銭文径が本座と同じ場合は製作などの特色があるものが不知銭の条件ですけど、そうじゃないものを買ってしまうという ダメージが蓄積しています。これを欲目というのですけど重なるとショックが大きいです。
見た目は明らかに本座と違うと思っても一呼吸が必要です。とくに寶の文字は曲者という事を今まで何度も味わっています。
画像左は肉眼では小点尓に見え、寶字そのものが萎縮して見えます。寶後足がくの字に曲がっているように見えますし、寶字の下が刔輪されているようにも見えたので購入しましたが、何度計測しても本座の銭文径でしかない。しかも製作が本座そのものとなればこれはもう本座でしかない。サヨナラ福沢さん。実物は画像よりもっと不知銭らしい品なのです。
右側の書体を見た人はもっと確信するでしょう。今見ても長足寶にしか見えません。でもね、こいつも何度計測しても本座。特徴は寶の前足だけなんですね。文字が大きく見えますがそれは左と比較しているから。
この一部分だけ不知銭らしいというのが一番たちが悪いのです。古銭は鋳物ですから微妙な変化はあって当然なんですけど、結局左は湯圧不足による陰起の可能性、右は偶然の鋳だまりと砥ぎの強さの可能性が否定できないと言いますか、可能性大です。
それでもこれらを不知銭とみる方はたくさんいらっしゃると思いますし、そう分類されてもおかしくない。ただ、言えることは変化は目立つもののそれ以外の称揚ポイントが少なく、たとえ不知銭であってもCクラスだという事です。ああ、損した!

千葉県のK様、お手紙ありがとうございました。私もかなりポンコツになってきました。よれよれの1月です。
 
1月26日 【贋作遒勁の母子】 
これも八厘会で収集した品ですけどネットなどにはよく出てくる品です。
上段が原型で、下段はそれをもとに加工して覆輪したものでしょうか?
よく見ると書体が微妙に違います。とくに背の百の文字や花押などは明らかに違うので、原型は同じかもしれませんが派生変化があるようです。
上段の遒勁は良く真似ていますが文字の末尾が長く跳ね上がる修飾がされています。側面は近代的仕上げであり、無極印です。昭和の新作でしょう。
下段は同じように面の修飾は見られますが明らかな覆輪と文字の縮小があります。また長足寶にもなっています。銅質もやや黄みを帯びていますが、上段のものとはさして変わらない硬そうな真鍮質気味のものです。背のデザインは上段と全く違いそうですね。。極印は不鮮明ですけど桐形が打たれています。
この程度の贋作はすぐに判ると思いますが、お遊び程度のつもりなら集めて面白いかも。あくまでもお遊びですけど。今回は仙人様のとあるお祝いのつもりのご祝儀という事での入手。

不知天保通寶分類譜によると、下の品が出現した頃は珍品扱いされていたこともあったらしい。
よほどうまく古色がついていたのでしょうね。現代のコレクターは手に取った瞬間に近代銭だと判ると思うのですけど。
 
1月25日 【八厘会その3】
〔泉談:南鐐清水氏〕

本日は秋田の九匁二分銀判の手替わりで、改め印の周囲に○のないものをお持ちしました。四匁六分銀判には○のないものが散見できますけど、九匁二分銀判はなかなか見つかりませんでしたが、はじめて見つけることができました。。(○のないものは日銀に1枚あるだけです。:天保仙人より)これはもともと茶卓に改造されていたものの中から見つけたものです。
発見してからこれに組合鑑定書はつかないのか・・・という問い合わせがあったのですが、なにせこれだけしかないものですから鑑定できる者がいません。そこで一億円ぐらいする成分分析の機械で調査して頂いたところ、本物とされる秋田の九匁二分銀判と組成が全く同じという鑑定結果を頂きました。
(茶卓にされていたことからみても、古い時代からあったものだと分かります。なお、改め印の周囲に○のないものはごく初期のものだと思われます。九匁二分銀判についても初期は○なしで作られ、すぐに○のある改め印に変更されたと考えられます。極印は消耗が激しいので書体にいくつかあるのは当然で、むしろ極印書体が一種類に限られるというほうが不自然だと考えます。:天保仙人より)
〔盆回しにて〕
盆回しの最中の仙人様が・・・「お、これは面白い寛永だ!K君が気づくね、これ!」と、私をご指名。絶対に気づく品だともおっしゃる。そうまで言われれば私も探さざるを得ない。
島屋直寶、背十、仰寶母銭・・・などをスルーして見つけました変もの寛永、それが右側の明和期正字。直径が28.5㎜なのでかなり大ぶり・・・色合いから見て一瞬母銭かと思いました。しかし、仕上げや文字の立ち上がりなどどう見ても通用銭。「ああ、O氏の作品だ!」と、気づきました。最近は貨幣誌で暴露記事が出ていましたが・・・O氏が真鍮の4文銭を火にくべたところ大きな寛永銭ができたので、戯れにこれを古泉会に出したところ「ものすごい珍品だ!」と大騒ぎになり高値で売れた。O氏が大したもんじゃないと否定しても買う方が勝手に評価して飛ぶように売れてしまった。その結果、この古銭は古銭界に広まってしまい、ついには泉譜にも載ることになってしまった次第。特徴は大きいだけでなく、やや紫がかった(油膜のような)独特のテカりがあります。
なお、左側は文政離用通の濶縁で盆回しに出ていました。3000円です。新寛永通寶分類譜の評価では35000円ですけど、まあ、これは過大な評価だとしても普通よりはかなり少ないと思います。出品者のHさんも気づいていらっしゃいました。
そういえばMさんから銭緡を買ったんでしたね。同じ時に買った銭緡から背十が出てきたという話を聞き、思わず応札。これは福袋感覚です。4000円。私は仙台長足寶他の不知銭を市場価格の3分の2程度で出しましたが、皆さんレベルが高かったようでスルーされてしまいました。10万円ぐらい稼ぐ予定だったのですけど・・・
以下続く・・・
※この記事は平成28年1月23日に行われた八厘会の泉談をまとめたもので、実際の会話とは異なり、編集・脚色が含まれています。
参加者:伊藤・遠藤・大矢・小川・奥富・目黒・中島・浜本・羽生・武藤・吉田・小出・菅原・清水・仙人(+仙人婚約者) 
 
1月24日 【八厘会その2】
〔泉談:天保仙人〕
秋田小様
は昔1枚2000~3000円で買えました。ところが小川青寶樓先生がこれを秋田鋳としたとたんに人気が跳ね上がって1枚5万円ぐらいになってしまいました。数が少ないように思われていますが、収集市場にはおそらく200枚ぐらいはあるはずです。
一方で改訂天保通寶図譜で青寶樓先生は土佐額輪と南部民鋳を一緒にしてしまったのですけど、
土佐額輪南部民鋳は制作に違いがあり、一方で南部民鋳と秋田小様は制作に近似点が多く、私はこれらを改めて分類しなおす必要があると思います。なお、土佐額輪は南部民鋳と異なり、文字が細くなる特徴がありますのでそれで見分けることが可能です。
秋田小様の母銭を3品ぐらい見ましたがいずれも通用銭を写したものですね。通用銭は鋳造の癖で鋳型が上下にずれる特色があります。最近は贋作も見られるので、この癖があるほうが安心ですね。
なお、土佐藩の領地内部においても国は分かれているので、額輪も鋳造地が異なることもあり得ると思います。それが額輪肥字と呼ばれるものなのかもしれません。また、それにも南部民鋳が含まれているかもしれません。
展示品の
大型の分厚い鏡屋銭ですけど、大きさからみてこれは母と子の関係だと思います。厚さの違いは笵に母銭を押し込むことにより調整できます。和鏡を作る際、溶けた金属の上澄み部分は不純物が多いので材料としては使い物になりません。そこでその上澄みを利用して絵銭を作ったのです。和鏡は今でも京都の鏡職人がつくっていますので、鏡屋銭は最近もつくっていると思います。この鏡屋銭も比較的新しいものでしょう。コレクターの中には絵銭は江戸時代以前につくられたものじゃなければだめだと言う方もいらっしゃいますが、絵銭は時代に関係なくその風合いを楽しむものであって良いと私は思います。
女陰寛永も鏡屋銭ですね。これは子孫繁栄・子宝成就を願ったものです。これらの大きな鏡屋銭は泉譜には掲載されていませんが、絵銭の場合は泉譜に掲載されていないものがたくさんありますから。
盆回し用に私が、今日お持ちした物の中でいくつか説明します。
文久永寶には
面と背の型の母銭のサイズがまったく異なるものがあります。普通、鋳造に際しては面側の笵と背側の笵をきちん合わせるように管理するのですが、文久銭に関してはそれが守られず、面と背側で別の笵を使ってしまう例が散見されます。これは珍しいものではありませんから雑銭ですけど、制作を見る上では面白いものです。なお、文久に面背がずれた錯笵も良く見つかるのはこれが原因です。
また、今日は
天保通寶の面背逆製になったものをお持ちしました。本座の制作においてこのようになることは考えられません。母銭の段階で表裏を逆に仕上げられたものが写されたと考えるべきで、不知銭(もしくは不知の母銭として仕上げられたもの?)になります。
なお、最近インターネットで贋作がたくさん出ていますが、泉譜から型を起こしたものばかりですからご注意下さい。あんなものに大金を払うなんていうのは馬鹿げていますから。私が贋作だとわかるのは本物を見ているからで、贋作者は書体など真似できますが、制作や銅質までは知りませんので正しくコピーできないのです。
それと東京オリンピック1000円銀貨の
ヘゲエラーをお持ちしました。
ヘゲエラーの原因は二つのタイプがあり、ひとつは金属の破片等が表面に載った状態で圧延されたもの。もうひとつは圧延された金属板の端の部材が使われ、それが劣化して割れたもの。金属板を端からローラーで圧延してゆくと、表面部分が圧力で上へかぶさるように押し出されてゆきます。加工の過程で端の部分は中空のサンドイッチ状になります。
端の部分は切り落とされて通常は使用されないのですけど、戦時中や東京オリンピックのときはあわてて作ったので、なかにはそんな中空部分がある不良品が混在してしまったみたいです。ここに空気が入ることで不規則に膨れたり、経年劣化で真っ二つに割れたりします。このようにしてはがれたものは、断面が真っ平らではなく、滑らかながら微妙に波打ちます。なお、エラー貨幣は贋造がとても多いので、知識がない方は手を出さない方が無難です。
 

以下続く・・・
※この記事は平成28年1月23日に行われた八厘会の泉談をまとめたもので、実際の会話とは異なり、編集・脚色が含まれています。
 
1月23日 【八厘会その1】
久々に八厘会に出席できました。自宅から不知銭ばかり10kg以上をカバンに詰めての上京。これまた異常かなあ。さて、当日の様子を記したのですが、長くなりますので何日かに分けて掲載します。

展示品
秋田小様・南部民鋳・土佐額輪:天保仙人
秋田銀判4種(うち1枚が改め印に○のない九匁二分銀判):南鐐清水氏
不知短尾通細字類 奇天手と張点保 不知長郭手覆輪母銭仕上げ:浩泉丸
大型厚肉の鏡屋銭母子組:E氏
大型厚肉の鏡屋銭女陰寛永:O氏

〔泉談:浩泉丸〕 展示品について
短尾通細字は変化が多く見られ、泉譜のとおりでないものが見られます。資料で配布し、展示した短尾通細字濶縁は大和文庫の入札に不知中郭手覆輪の名前で出ていました。私は運良く入手した後に斜冠寶の名を付け加えていたのですが、ある方のご指摘でこれが短尾通細字の類であることを知りました。短尾通細字は天保通寶と類似貨幣カタログの中に抱冠寶・崩字・短尾通細字・短尾通細字濶縁の4種類が掲載され、同炉と解説されています。 短尾通細字異品としたものは、はじめて入手したこの類の品で、その昔収集誌上入札に草点保として出されて結果的に返品になった経緯のあるものでして、再入札で私が入手しましたが、もともとは秋田のMさんの泉譜に「覆輪刔輪退口保」の名前で掲載されている原品です。
私はこれらの不知銭を観察しているときにとても特徴のある極印を使用していることに気付きました。それはハート形のような地に左右段違いの葉脈があるもので、まるで極印の中に人が立っているようにも見えます。この特徴のある極印に私は見覚えがありました。その結果として覆輪の長郭手でほぼ同じ極印が打たれている書体違いのものなど、さらに3枚の類品を再発見することができました。
このように書体が全く異なっても、桐極印を調べることで同炉であると分類できることが分かり、以来私は不知銭の極印を観察することが楽しみになりました。
なお、短尾通細字の類はこの極印の特徴の他に、横太りの覆輪・刔輪銭で、その割に銭文径などはあまり縮まない傾向にあることや、郭が中郭気味に膨らむことが多い点に特徴があります。(密鋳銭の作者は書体の違いなんてあまり気にせずに写していたと思います。なかには表と裏の書体が異なるものもあるくらいですから。したがって極印を同炉の手がかりにすることは一つの手段として有効だと思います。:天保仙人談)
続いて極印のつながりで奇天手と張点保を展示させて頂きました。奇天手は昨夏のCCFオークションに出た品で、私は郵便入札にいたずらで最低価格近くを入れていたら落ちてしまったもの。天保通寶と類似貨幣カタログの原品で私には過ぎた品です。応札者がほとんどいなかったことに不安を覚えて仙人様にいろいろお聞きしていたのですが“極印を張点保と比べてみなさい”と言われて調べたところ、ほぼ同じものが使用されていることが判明して、少しだけ安心できました。複数の長い葉脈が左右非対称に走る非常に特徴のある極印です。(画像:右奇天手・左張点保)
最後に展示したものは、不知長郭手の覆輪母銭仕上げです。これは昨年のキュリオマガジンの入札に出ていたもので、背に朱書きが見えたことから古い収集家の由緒正しいものだとにらんで応札していましたが、実は出品者は天保仙人様でした。そんなことは露と知らず、玄関先で郵便夫から直接荷物を受け取り、たまたま天保仙人様にお会いする予定の日でしたのでそれを持っていきました。したがいまして、これが母銭仕立てだということには仙人様から伝えられるまで全く気付いておりませんでした。仙人様も朱書きに母銭とあることにはじめは気づいていなかったそうです。(たまたまキュリオの受付の女の子が「母銭って書いてありますよ!」と言ってくれて分かりました。母銭仕立てという言葉は印刷段階で漏れてしまいましたが、誰が気づくか楽しみでした。:天保仙人談)

以下続く・・・ 
※この記事は平成28年1月23日に行われた八厘会の泉談をまとめたもので、実際の会話とは異なり、編集・脚色が含まれています。
 
天保通寶の鋳写改造母
いにしえの収集家の朱書きも母銭とした由緒正しき品。何にも考えずに入手していました。超ラッキーです。
1月22日 【母銭とは何だろう?!】
近代貨幣の場合は、鋳造ではなく打刻でつくられるので貨幣の型は貨幣そのものとは姿形とも全く異なる道具でしかありません。一方で、鋳砂で型どりした砂笵を作って鋳造される穴銭には、型どりのための原型となる雄型である母銭が存在します。
この母銭も貨幣をつくるためのひとつの「道具」にすぎないのですけど、見た目は通用銭とほとんど変わりません(むしろ立派です)し、それどころか使い古された母銭や鋳造過程で出来が悪い母銭は通用銭に混ぜて供された事実があります。そういう意味で母銭は道具でありながらお金でもあったのです。
ところで母銭と通用銭ではいったい何が異なるのでしょうか?

①サイズ
金属は冷えて固まる過程でほんのわずかですけど体積が縮まります。その結果、通用銭は母銭より、わずかに小さくなります。その差は寛永一文銭で0.3~0.4㎜、天保通寶銭でも0.7~8㎜程度にすぎませんが、見分けるための大きな根拠になります。

②文字や地などへの加工
型抜けを良くするため、文字が繊細に加工されていたり、文字の周囲や輪の際に直接加刀が見られたり、地の部分が滑らかになるように鋳ざらい加工されていることもあります。こうした加工は鋳写される過程や仕上げの加工で失われることも多いのですけど、通用銭でも確認できる場合もあります。

③郭や輪への加工
郭の内側(とくに角の部分)や輪の側面に丁寧に仕上げがされています。とくに鉄銭鋳造の場合、固い鉄を削れる耐久性のあるやすりが当時つくれなかったため、母銭の側面をとても丁寧に仕上げていた経緯があります。側面の肉厚を薄くするいわゆる”ござすれ”も、このための加工であったと私は考えています。

④材質の違い
鉄銭の母銭の場合は当然のこと、銅銭であっても材質そのものを変えるケースも多く、その場合はいわゆる錬れの良い滑らかな肌の材質になることが多いようです。

⑤鋳造方法の違い(背もくっきり)
通用銭は鋳造工程を省略するために背側への肌砂(細かな鋳砂)使用はしません。(詳細は錯笵銭物語をご参照ください。)一方、母銭は面と背に肌砂を使い、丁寧な型どりが行われますので面側はもちろん、背もシャープでくっきりとした仕上がりになります。

⑥仕上げの違い
通用銭は仕上げの際に砥ぎと言って、銭の表面の砥石磨きが行われます。これを行うとコントラストがはっきりして、文字はくっきり見えるようになりますが、反面、文字の凸部頂上が太くなってしまうため母銭としては失格。そのため母銭では面の砥ぎ仕上げはあまり強く行わないのが通例です。また、文字抜けを良くするためなのか、地に漆入れをしたり、メッキ(のような)加工した事例もときどき見られます。
※天保通寶の福岡離郭の母銭や深字の母銭仕立の物など。

巷に存在する母銭(とされるもの)には材質も製作も大きさも違う”見るからに母銭”と言えるものもありますが、果たして母銭なのか通用銭なのか良くわからないグレーな品もかなり存在します。(明らかな勘違いもたくさんあります。)良い例が文銭の母銭類であり、仙台異書の大型銭の中にも次鋳の母銭なのか迷うような品がたくさんあります。通用銭への格下げを受けた出来損ないや、さらには通用銭に手を加えた”改造母銭”やそれを写したものをさらに母銭に加工した”鋳写改造母銭”も存在します。これらの判別は困難を極めます。
したがって母銭かそうでないかは収集家の主観にすぎないと言っても過言ではありません。購入するときは母銭というからにはかなりのお金を支払うことになりますので、相手の言う事をうのみにするのではなく、自分なりの基準を持って判断するようにお勧めします。
逆説的に言えば、確固たる自分なりの基準を持てないので、あれば母銭は購入しないほうが正しく、あるいは間違っても悔やまない覚悟で購入する姿勢であるべきです。私が母銭を積極的に集めていないのは、これが理由なのです。
 
1月20日 【贋作警報】
最近、また贋作の情報がぽつぽつ入ってくるようになりました。しかもかなりの精巧作です。鉄人からも銀もの贋作の画像を頂戴しましたが、影響が大きいので掲載できません。銀ものを見分けるのは相当実物を見ないと難しいので、私は自信がありません。丁銀・豆板をはじめ鋳造銀穴銭もかなりあぶない。
銅の写しも最近は多く、ネット上の画像だけでは判断が難しいものがたくさんあります。したがって安易に飛びつくのはお気を付け下さい。
精巧な穴銭の写しでは故O氏のものを良く見かけます。淡黄褐色未使用肌のざらざらのものが多いのですが、あとから古色が付けられたものもあり、製作は非常に上手。側面の仕上げがやや近代的で角が立つため、わざと鋳放しにしたものもあります。とにかく淡黄褐色~金色系の未使用肌と鋳放し銭には充分な注意が必要です。大型の銅母銭や錫母銭から写しているので計測でもわからないこともあります。水戸系と云われるものに多く、なかには鑑定書がついている物もありますが、昔はこれが贋作だとわからなかったのじゃないかしら。O氏は加賀千代の下請けですし、金属加工にたけていた職人さんですし、古銭の大家でもあったので業界として排斥できず周囲の方が止められなかった一面もあります。業界としてなぜ排斥しなかったのか・・・この業界の弱さを見る気がします。
最近よく見かけるものはみな硫黄でいぶしたような古色が付けられています。あくまでも画像での話ですので、とにかく君子危うきに近づかずです。贋物を販売している方はだいたい同じ方のようですけど、知らずに買った方が損切で転売しているようで害毒が古銭業界に蔓延し始めています。その昔のペストのような状況です。
 
1月18日 【密鋳正字改造母?】
まだ未着ですけど・・・久々に寛永銭を落しました。吊り上げみたいな状態になりまして不安でしたけど、自己責任価格上限で落札。まあ、少しお高いけど趣味だからこんなものでしょう。文政期の正字が5000~10000円の相場ですから、密鋳正字写しの少し面白いものが8000円ぐらいしても別段おかしくもありませんね。この寛永銭は郭内がきっちりやすり掛けされているように見えます。通常流通だったらここまで仕上げる必要はないので、改造母銭の可能性もあると聞きましたが果たしてどうでしょうか?どちらにしても赤くて製作の綺麗な正字写しは個人的に大好きです。密鋳病が再発です。
※ヤフオクのかんたん決済手数料が突然無料になった!(バンザイ!)銀行に行くことができなくて、また、つい面倒くさくてかんたん決済を多用していたのですが、1万円を超えると極端に手数料が高くなるのでものすごく不満でした。これは朗報なんてものじゃない。まさに収集家にとっての福音です。天恵です。 
 
1月17日 【鐚永楽の美】
ネットを徘徊していると本来は趣味の範囲外の古銭に興味が惹かれることがあります。この鐚永楽などはその最たるもの。実は真贋なんかは全く分からない代物なのですが 、通字が縮こまっているような、それでいて三角の通頭が目立つのでなかなか良い顔をしているじゃない・・・と感じます。本来ならば島屋文や島屋直寶も出されているので食指を動かすべきなんでしょうが、もうはるか彼方に行ってしまいましたから・・・。
鉄人さんや鳳凰山さんなんかはこんなの好きそうだな、いえ、これぐらいじゃときめかないかしら。
 
1月16日 【承応禁裏御用銭のこと】
貨幣誌を読み返しました。大正13年の三上香哉氏の記事で、ざっくり説明すると・・・
同氏が明治25、6年の頃入手した名古屋の古泉家の自作拓本帳の巻末に、承応禁裏御用銭と書いてあり拓本がまだ貼られていない余白があった。その拓本帳は藤原貞幹の泉譜を書き写したもので、そこに自分で集めた古銭の拓本を貼って楽しむものだった。禁裏の御用銭というからには、皇居御造営のために使う目的・・・冥加金を課して鋳造した小銭(寛永銭)ではないかと推定した。年代記を見ると承応2年に禁裏火災が記録されているので、この禁裏御用銭という言葉は注目すべきであり、往時の名古屋の古泉家は何らかの情報を得てこの書き込みをしたのではないだろうか。この禁裏御用銭に該当する寛永銭は何かとずっと探し求めていたところ、明治39年に近藤正斎全集が復刻発刊された。その中の銭録には目を見張る記事内容が多かったのだが、鋳銭重寶記(銭録)の一文にヒントを得た。「京建仁寺並粟田口にても鋳銭あり、請負郡司兵右衛門、其始末いまだ詳ならず、又肥前国にても鋳る、吹人及始末未詳。(京都建仁寺近くの粟田口においても鋳銭があった。請負人は郡司兵右衛門。その開始年と終了年はわからない。また肥前の国でも鋳銭があったが誰が鋳たのか、その開始終了年代もわからない。)」この京で鋳たという事にまず着目。禁裏再建の冥加金であれば京都で鋳るのがごく自然であり、それに該当する寛永銭を探せばよい。ところで古寛永の中に製作や銅質が他と異なるものがある。それがいわゆる古来から天海寛永と呼ばれ芝銭と云われてきた現在の称:建仁寺銭で、これはどちらかというと長崎貿易銭と呼ばれるものに近似しているではないか。
そこで「京建仁寺並粟田口にても鋳銭あり、請負郡司兵右衛門、其始末いまだ詳ならず、又肥前国にても鋳る吹人及始末未詳」の一文を改めて読み解くと、京都に続いて肥前国の記録がある・・・つまり、この二つの座には連続性があるのではないかと思うのである。京都と長崎は交流があり、その中心は京都の糸割符商人である。文中の・・・にても・・・という表記には何か意味があるのだと感じる。さらに、郡司兵右衛門という人物を調べると、水戸の地に関係しており、それも代々襲名しているらしい。そうなると江戸古寛永の鋳造の流れが新たに見えて来る。(以下略)・・・と、こんなところ。説明のため、かなり原文と違えています。
要は古い拓本帳の書き込みの謎解きから始まり、近藤正斎の銭録・鋳銭重寶記の一文と結びつけ、古来寛永期江戸鋳造と云われていた天海寛永を承応2年京都建仁寺鋳造としたのです。さらにその製作の連続性から、建仁寺銭の技術は長崎に伝播して鋳造が続けられたのではないかということです。
この説は増尾富房氏も是としているようですが、改めて他の資料を見ると銭幣館第一巻において田中啓文氏は、称:建仁寺銭と長崎貿易銭の類似性については異論はないものの、それは長崎における鋳造技術が逆に京都にもたらされたのではないかと反論しています。承応2年(1654年)以前の1651年に鄭成功が貨幣鋳造の依頼をしていること、万治2年(1659年)に公式鋳造許可が長崎におりたときに寛永通寶の文字使用が禁じられたのは、それ以前に寛永通寶の鋳造(貿易取引)の事実があったからこそではないかと、いうのです。
この論に今更私が参戦しても、どうしようもないと思いますが、いずれにしても称:建仁寺銭と長崎貿易銭には何らかの技術関連性がありそうです。まあ、個人的に言えば禁裏造営のため寛永銭を鋳造許可し、冥加金を科したというのはスケール的にやや解せない気がします。(寛永銭鋳造・国内流通ははたして当時はもうかったのかしら?)
大きく冥加金を科すのなら当時ものすごく儲かったとされる長崎貿易じゃないかな・・・と考えてしまうのですけどね。皇室再建の冥加金を納めることを口実に貿易用の寛永銭を京都と長崎でつくったと考えるのもありかしら。つまり京都は見せ金。あくまでも仮説ですけど。
 
1月13日 【長崎の銭座】
長崎のことを探しているとちょうど良い文献がありました。方泉處10号に特集「NAGASAKI」があり、そこに石川氏と増尾氏が分かりやすく説明されていました。
長崎には銭座ゆかりの地名などが多く残されており・・・
中島銭座(?~1686?年:新大工町)
1659年頃には寛永銭(称:建仁寺)を鋳造した可能性があるが、その後は輸出用の銭(元豊をはじめとするオリジナル銭)を作ったと推定。鋳銭の歴史としては1651年に鄭成功の求めで長崎永歴を鋳造し台湾に輸出したとの記録もあり、ルーツは非常に古いようだ。
築地銭座(1741~1745年:銅座町) 馬込銭座(1743~1745年:銭座町)
寛永の鉄銭をごく短期間鋳造したと思われる。ただし、銭種は未だにわかっていない。
稲佐銭座(1767~1777年:稲佐郷付近)
背長の銅寛永を鋳造。ただし、正確な場所は判っていない。あるいは稲佐銅座の付近か?
築地銅座(1725年~:銅座町) 稗田銅座(1731年~:稲佐郷)
輸出用の棹銅(銅のインゴット)の鋳造所。築地銅座と築地銭座は近接もしくは同じ場所かもしれない。
下の古地図は方泉處10号に掲載されていたもの。中央やや左に扇形をした人工島の出島が、その下にあまり知られていませんが中国人用の唐館(唐人屋敷)・・・中国人専用の居住区・・・が見えます。対岸の山頂には絵銭烏和同のデザインモデルになったと云われるカラス岩が見えます。
 
長崎における鋳銭が確実なのに銭種が確定できないのは原子爆弾による被災が大きかったことは否定できません。また、称:建仁寺銭は私のHPでは長崎銭の可能性としていますが、方泉處誌上で増尾氏が語った内容をかみ砕くと、称:建仁寺銭は当初は京都で鋳られ、1659年に長崎の中島銭座に(その事業が)引き継がれたと読み取れます。復刻版貨幣に三上香哉氏の承応禁裏御用銭なる記事があり、今一度読み解く必要がありそうです。なお、承応禁裏御用銭を三上氏も増尾氏も称:建仁寺銭としていますが、この頃(1651年)台湾の鄭成功が日本において銭の鋳造(称:長崎永歴通寶)を依頼しています。この記録が本当であれば、この長崎永歴は京都でも鋳られた可能性があります。と、なると承応禁裏御用銭=長崎永歴という可能性もありそうです。(このことは誰も言ってませんので私の仮説です。)そう考えれば、長崎永歴が大きくて立派で、台湾の支配者たる鄭成功の・・・台湾の御用銭に見えてきます。1659年、幕府は寛永銭の名称の対外輸出使用を禁じたそうです。そのときから長崎の中島銭座は貿易銭鋳造専用の銭座としてスタートしたのかもしれません。
いずれにしても称:建仁寺銭と長崎の中島銭座、長崎永歴にはやはり何らかの関係性があると思うのです。
 
1月11日 【一ノ瀬銭の謎:投稿画像から】
関西のS氏の掘り出し物の母銭です。こいつは春から縁起がいい!
元文期一ノ瀬銭の狭穿とされるものでこの書体だけを見ると・・・小梅手だ!と思ってしまっても無理はない書体。元文期の書体は尓の横画と小の縦画が分離するものが多く、これはその典型ですね。この一ノ瀬銭は和歌山に決まるまで紆余曲折があり、と、いうのも今の和歌山に一ノ瀬という地名が見つからないからなのです。一方、一ノ瀬を長崎と押す説も根強く、その中心が小川青寶樓師です。寛永通寶銭譜において気になる記述があります。
”長崎では、第一の大川を中島川と云い、その下流を一ノ瀬川および銭屋川と云う。その川畔には旧中島銭座跡がある。”
ここに出てくる中島銭座とはいかなる銭座なのか・・・?不勉強の私は失念しているのか思いつきません。お分かりの方はお教え願いたい。中之島という名前なら和歌山銭の鋳造地であり、背大郭の鉄銭類もたしか旧中之島の名前でした。長崎の寛永一文銭といえば寛保期の背長が有名ですけどあれは稲佐郷付近の鋳造ではないかと言われています。(2014年の烏和同”カラス和同”の記事を参照にして下さい。)
したがって長崎中島銭座に該当する銭貨が見当たらないのです。つまり小川氏は和歌山と長崎の混同を徹底的に疑っているようなのです。ところでこの狭穿は、高寛・低寛の背一にこそ若干書体は似ているものの、なにか違う気がします。実はこれが一ノ瀬とされた経緯にはこの狭穿に丸一極印が打たれた母銭が存在するからなのです。これは十万坪含二水永に輪十が発見された経緯に似ているのですけど、小管銭にも似た一般的な丸一極印の書体とあまりにも異なるのでとても不思議。今のところ新しい資料もないようで、背一と丸一は和歌山でほぼ決まりの雰囲気なのですが、長崎の中島銭座でつくられたものが果たして何なのか(あるいは長崎元豊?)を含めて謎だらけなのです。
※私はもともとは鉄銭にほとんど興味がない状態でしたので、ここに書いた記事は泉譜記事にざっと目を通して書き下ろしたもの。間違いがありましたら是非お教えいただければ幸いです。 
 
不知長郭手厚肉 
長径49.1㎜ 短径32.3㎜ 銭文径41㎜ 重量24.2g
1月9日 【〇〇の出】
永楽番銭のことですが、揃いもの以外では巷に存在するのはほとんどが二桁の番号だそうです。バラもので収集界にある一桁のものは二番と六番しかないと言われているようです。
この2品は平尾麗悳荘から小川青寶楼師の蔵品となり、ニ番は天保堂を経由し、現在は天保仙人様の所蔵になっているとのこと。そんなに貴重なものだとは夢にも思わなんだ。
ところで、このように出現経緯が語られるものは古銭としては比較的信憑性があります。
比較的というのは、この出現経緯も作話の場合があるからですけど、多くの場合は入手した人が嬉しくて周囲に話すから比較的細かな入手由来が伝世していると言えます。 
なかには関西方面の出だとか、九州方面の出自だとかの大雑把であやふやな情報・噂の類もあります。古銭商は入手経路を隠す者も多いのですけど、逆説的にいうと”あやふやな由来はあまり信用できない”ものだとも言えます。私個人の感覚ですけど、”関西方面の出”という言葉は”半分贋作を疑っている”のじゃないかと感じてしまいます。関西方面には昔から巧妙な古銭(とくに穴銭の)贋作師が多かったから・・・というのがその理由。まあ、それ以上の根拠はありませんのでこれも話半分です。
贋作師にもいろいろタイプがあるようでして・・・
自分でつくり、自分で売るコツコツ型もいますが、職人に作らせ売る、企画型タイプや、自ら贋作を作りバイヤーに卸す、職人タイプ、ニセ情報を流し贋作にプレミアをつけて売る、詐欺師タイプなどが確認できます。贋作師も得意不得意の分野がありますし、人間ですから罪を背負うリスクは分散したいわけでして、それなりに分業化が進んで行ったわけです。
贋作師の中には貴重な本物を傷つけてまで贋作を作成する輩もいたとか。仰寶の米字極印が良い例ですが、もっと貴重なウン十万もするものを加工して贋作製造をしたとかの話も最近聞きました。
古銭を愛するコレクターとしては信じられないお話ですけど、古銭を商売道具としか見ていないような贋作師にとっては、ウン十万の古銭を傷つけてもそれ以上に利が採れると見たら実行するんだそうです。

さて、原稿を書いていたら収集の落札品が届きました。お目当ての寛永打印銭は残念ながら入手成らず。本年初の落手品は不知長郭手の鋳写しが2枚、薩摩横郭が1枚、密鋳小字写が1枚、本座長郭が2枚です。不知銭の1枚は本座長郭との組み物でしたが、どうってことのない写しですけど24g以上あり覆輪気味。間違いなし。薩摩横郭は長郭とあったのですけど、見立て間違いでした。まあ、お遊び応札ですし、価格も正当なのでOK。安値ですしまずまずかしら。 
 
1月8日 【元和手寛永銀番銭】
寛永通寶の中の奇品に「元和手」と呼ばれるものがあります。独特の書体に背に一から百までの数字がタガネ陰刻された銀銭で、風貌から見て一般流通を狙ったものでは無いと思います。古寛永泉志には巻末に参考銭的に4書体5品が扱われていますが、由来などについて記した泉書は少なく、日本貨幣カタログはもちろん、日本貨幣収集事典や日本の貨幣収集の手引きなどにも掲載されていないことから、珍しすぎて収集対象でないということなのか、それとも貨幣ではない存在という事なのでしょうか、謎多き銭貨です。
銭幣館第一巻において田中啓文は「銀鋳の元和手寛永と元和通寶・永楽銀銭」と題してこれについてふれています。元和通寶には銀の異書というべき謎の番銭の存在が古来から知られており・・・これには背に一から三十までが(タガネ陰刻ではなく)陽の形で鋳出されていますが・・・その書体に近似していることから元和手と呼ばれるようになったということです。
この元和手寛永が古泉家に広く知られるようになったのは、明治39年頃にある骨董商が蜂須賀家伝来の鎧櫃の払い下げを受けたときに、鎧の胴の右側にこの元和手寛永銀銭が(永楽の銀番銭とともに)赤絹の太い紐に通されて大量に巻きつけられていたのに気づき、古泉家の鷲田寶泉舎に持ち込んだのがきっかけのようです。
その結果、元和手寛永銀番銭(1~100)が2組、永楽銀番銭(1~30)が3組できたそうです。背に刻まれた数字は手彫り陰刻で、例えば10という数字には「十」もあれば「拾」もあるそうで、おおよそ製作が統制された貨幣的なものではないような気がします。
田中啓文はこの元和手寛永を(製作から)寛永十三年以前の鋳造ではないかと推定されていたようですけど果たしてどうなのか?
平成古寛永銭譜には「三代将軍家光の長子竹千代の元服祝鋳と伝わる」とあります。家光の世襲決定は元和年間(1615~24)とされ、長子竹千代(後の家綱)の元服は正保2年(1645年)・・・つまり寛永の次の世です。この伝承が正しいとは限りませんが、これが正しいとすれば寛永十三年以前とする田中説とは食い違います。(私も寛永通寶出現以降のほうが自然だと思います。)
番銭は記念銭もしくは恩賞用、絵銭的なものとするのが適当のようで、出現経緯から見てもその位置づけは納得できます。もっとも、伝承ほど怪しいものはないというお話もありますので、信じる信じないは個人の判断という事で。この寛永番銭、かつて古銭即売会場で一揃いを見かけたことがあります。(銀座ステラさんだったと記憶しています。)たしか三井家に伝わるものという事でしたので、鷲田寶泉舎か青寶樓あたりが斡旋したものではないかと思います。売値は当時3000万円(要応談)ほどでしたから、安いというか高いというべきか・・・いずれにしても私には縁のなさそうなお話です。
また、古寛永泉志では「大字」「低辵」「仰寛」「小字」に書体分類されているようですけどちょっとわかりづらく、むしろ銭幣館が述べた「外跳寛」「外跳寛・仰寛」「小字」「小字・大永」のほうが分かりやすい気がします。まあ、高価な品ですから細分類する方が無理というものでしょうか?
なお、鷲田がそのとき扱った元和手寛永と永楽番銭は四百数十枚ということですから、組み物にされた290枚を除いても100枚以上の永楽番銭と元和手寛永が収集界に広まった可能性があるという事ですから、探し続ければ意外に見つかるのかもしれません。どこかに転がっていないかしら?(画像はネットで収集したもの。書体は外跳寛ですね。)
 
 
1月5日 【年賀状ギャラリー】
パソコンが直り新年の賀状の整理にもようやく手が付くようになりました。コレクターの年賀状には古銭の画像が付くことが多く、興味のない人には?????なのでしょうけど、なかなか楽しいものがあります。その一端をご紹介。
 
 
①米沢藩 南部会所札 預金壱分札(秋田W氏)
②踏潰銭 俯柱永離王寶(千葉K氏)
③元文期和歌山銭 淋手瑕永(高知O氏)
④鐚永楽 流永 本邦鐚銭図譜原品(愛知Z氏)
⑤文久永寶 深字狭永正文 中穿広郭(宮崎K氏)
⑥寛文期亀戸銭 島屋文細縁(神奈川A氏)
⑦天保通寶 久留米花押異母銭(大阪S氏)
⑧土佐官券十匁(岐阜Y氏)
 
庚申絵銭(宮城T氏)

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本年の”みちのく大会”は仙台にて開催!

10月1~2日の予定です。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。
仙台古泉会 代表 邊見満
 
1月4日 【おまけ話:近代コインの裏表】
穴銭専門だと貨幣の裏表など気にする必要はまずほとんどありません。たいがい文字が大きく書かれた方が表で、裏は簡素なものというのが一般的。ただし、鋳造においては面背の違いがはっきりあり、緻密に鋳出されるように鋳造された(鋳型に深く食い込むように工夫した)側が表で、型どりそのものを省略化された方が裏になります。
稀にその鋳造方法を守らなかったものが存在し、それを面背逆製と言うのですけど、これはあくまでも製造方法のミスであり、デザインそのものに変化があったわけではありません。
 一方、西洋型貨幣においては一応暗黙のルールがあり、肖像が大きく書かれた方が表、そうでない方が裏ということになるそうなのです。
では、肖像などが入っていない日本の貨幣はどうなるか?
数字が大きく入った方が「表」とした方がとても合理的に感じるのですけど・・・実は厳密な決まりはなかったようです。
こんなことを書くと、現行貨幣は年号が入っている方が裏だとか、明治の日本の近代貨幣は天皇を象徴する“龍図”が表のはずとかの抗議が殺到しそうです。
現行貨幣の表裏の呼称ルールは、造幣局における作業上の理由でつけられたものであり、厳密なものではないそうですが、一応は“年号が入っている方が裏”なんだそうです。
ところで明治の20円金貨のデザインを見ると、龍図の方に年号が入っていて、裏面とされる側のデザインには文字はひとつも入っていませんね。つまり、明治の貨幣については今の造幣局ルールには全くあわないことになります。
明治貨幣の裏表の決まりは、法によって定められていたそうなのですが、政府発表も3回あって当初の布告では龍面は裏であり、明治8年の布告においてようやく“従来の図面は表裏が逆だったので改める”という、大逆転がされたようなのです。(日本貨幣収集事典より)
最終段階で表と裏が逆にされたのは、龍を神格視する中華思想が根底にあるようです。
ところで私も知らなかったのですけど壱円銀貨の国内流通は明治30年まで、それ以降は台湾における流通用だったそうで、その際に勅令で表裏が逆転したようなのです。
世論に押されて明治8年に表裏を逆転させたものの、政府もデザイン上の違和感を感じていたのではないでしょうか?
ところが、頑固なのか混乱を避けるためなのか、収集界は表龍にこだわり続けます。しかも、このこだわりが定着したのはなんでも明治30年以降らしい。
加納夏雄の作った貨幣デザインは斬新でしたが、素人目に見ても日照と菊と桐紋のある側が本来は表で、年号と額面と龍図のある方が裏であろうことはうなづけます。今の現行貨幣の表裏がわかりづらいデザインであるのも、明治時代から続くこの混乱が尾を引いているのではないでしょうか?
※私は現行下書をときどきワードで書くのですけど、そのワードが突如不調になりまして、原因究明と対策に1日以上かかってしまいました。 バックグラウンドで常に何かの作業をしている状況らしく、カーソルが点滅を繰り返します。こういう時に役立つのがGoogleなんです。どうも印刷スプールの機能が暴走しているらしいとつきとめ、最終的にはプリンタードライブを削除して再インストールすることで解決しましたが、いやあ~時間がかかりました。
 
1月1日 
【あけましておめでとうございます!】

無事に2016年になりました。仕事も年越し、年賀状も一部年越し状態でして、まあそれでもがんばっています。
今年の目標はとりあえず古銭については「我慢!」「辛抱!」「整理整頓」でして、崩壊した金銭感覚を少し戻したいですね。手持ち品を整理整頓することは別に売るわけじゃなくて、あちこちに散らばった古銭を綺麗に並べなおして整理したい。もともと私はこれが趣味の本質みたいな人間でして、そのついでに色々な発見をして喜んでいたんですけど・・・。今は目が悪くなったのと根気がなくなったので卓上が無政府状態と化しています。これを今年こそ改善したい!ついでに「ダイエット」もしたいです。古銭にのめり込んで以来、ゴルフもスキーもほとんどやっていませんでしたから、運動不足がピークに来ています。
と、いうわけで今年もぼちぼち始動します。
右の画像は昨年の入手品のなかのお気に入りの枚。年賀状にも載せました。
上段:長郭手奇天手(類似カタログ原品)
下段:密鋳銭の白目中字写し

本当はもっとお気に入りはたくさんあるのですけど、この2枚が代表ですね。 
 
 
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