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石ノ巻銭 母銭聚泉譜
 
平成21年11月、仙台古泉会の邊見会長様から連絡を頂戴し、数日後に1枚のSDカードを手渡されました。
内容は実に400枚以上の寛永銭(主に背千母主体)の画像です。私はどうも鉄銭が苦手・・・というより、生理的に鉄さびの古銭を敬遠する傾向にあります。それを憂いて、データコレクションが寂しかろうと会長自らデータを下さったようです。
なにせデータは膨大でしかも画像は巨大ですのでしばらく加工に時間がかかると思いますが、解説や整理は後回しにして頂戴した画像を順次掲載してゆこうと思います。

 
→ H氏おたずねもの集へのリンク    → 南部藩母銭聚泉譜
 

石巻銭?石ノ巻銭?
収集をしていると案外、地名表記がついおざなりになってしまいます。石巻(いしのまき)が良い例で、石巻とも石ノ巻とも泉書で表記されて統一性がありません。手引き、入門は石ノ巻であり、青譜、拓影集、図会、泉誌、カタログは石巻としています。(その他、日本貨幣カタログは石ノ巻、日本貨幣収集事典は石の巻、天保銭関係は石巻派が多い。)
多数派は石巻ですが、これはワープロの変換機能によるところが多いかもしれず、現在パソコンで『いしのまき』入力変換しても、『石巻』でしか回答は返ってきません。
地図を見ると現石巻市は牡鹿(おしか)半島の付け根、北上川河口にあり仙台市からは40kmくらい離れていますが藩政時代には仙台藩の経済の中心地でした。北上川水運によって南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽大貿易港として有名で、石巻港から江戸へで送られた米は江戸市中で流通する米の半数を占めたと言いいます。また旧仙台藩内で唯一鋳銭を許された地でもあって、鋳銭場という地名が石巻駅前に残っているそうです。上川河口の小島に潮の干満によって渦巻きができる岩『巻石(まきいし』があり、地名のいわれになっていると伝えられています。
個人的な推測ですが石ノ巻の表記流行は江戸時代初期〜中期頃、庶民に文字が普及しはじめ、表音と表記の差による混乱が生じないよう配慮して定着したものではないでしょうか? (石巻 → 石ノ巻 → 石巻 説)
それは、私の出身地にも似た現象があるからです。江戸時代には〇ヶ崎藩が存在し、古文書にもはっきり〇ヶ崎の表記が見られ、小学校や駅名は〇ヶ崎ですが、現在地元の人はヶ抜きで表記発音するのが普通で、ヶ入りの表現をすると間違っていると怒られます。調べてみると最も古い神社の名前は〇前(前=崎)ですが、江戸時代に〇ヶ崎表記が現れ
て定着したあと江戸後期〜明治期以降に再び〇崎が主流になり、いつしか『が』の発音も省略されることが主流になってしまっています。
余談ですが栃木県に多い茂木(もてぎ)姓は読み方が難しいため、引越し先で茂手木に表記が変わってしまったり、読み方そのものを(もぎ)に変えてしまった例があると聞いています。
いずれは石ノ巻は石巻に圧倒されてしまうと思うのですが、判官びいきな私は今しばらく石ノ巻という地名(銭名)を大事にしたいと考えます。

 
【明和期大字背千の類】

背千類の初出のものとされています。背千が太くなるのが特徴です。手引きや青譜では元文(元年は1736年)期とされ、他譜でも明和期(元年は1764年)あるいは宝暦期(元年は1751年)の鋳造と推定されていて、次掲の安政期大字(1860年初鋳)とは100年以上の時代差があります。本来ならば銭譜は年代別にならべるのが筋なのでしょうが、比較を主眼とするためあえて以降は時代を無視した順番になりますがお許し下さい。
明和期 大字背千(初鋳母銭) 
外径24.5o、内径20.6o、背内径19.0o

寛字仰ぎ、後足の跳ねが郭外近くまで伸び背千は肥字になります。母銭は厚手で直径が24.5o(面内径が20.5o)を超えるものが該当します。初鋳のものは断面が台形の仕立てになります。(入門にはテーパーがないと記載?)輪側面は縦ヤスリ仕上げ。

手引 #138 位付5 入門 #357 位付4
図会 #234 位付80  邊見評価 位付5 (50000)
明和期 大字背千(別仕立母銭) 
外径24.7o、内径20.6o、背内径19.0o

初鋳のものは断面が台形の仕立てになりますが、これは背面が外側に向かって湾曲して薄くなる(いわゆるゴザスレ)仕立てとなっています。この仕立て方は小字背千、同無背、尖り千、仙台通寶や四文銭類にも共通し存在します。図会では大字の別仕立ては『明和手』として分類されています。安政期になってから古い母銭を再利用したものではないかと研究発表されています。
明和期 大字背千(別仕立磨輪母銭) 
外径24.3o、内径20.6o、背内径19.1o

上記の磨輪銭。明和期はおおむね背郭が細くなりますが、通用銭では判別しづらくなります。安政期になってから古い母銭を再利用したものではないかと研究発表されています。
明和期 大字背千爪貝寶(別仕立母銭) 
外径24.5o、内径20.7o、背内径19.0o

爪貝寶は
寛字の後足が角張り短く跳ね、寶字貝に爪があります。またわずかに昂冠寶になります。図会では大字の別仕立ては『明和手』として分類されています。

手引 #139 位付5 入門 #359 位付4
図会 #231 位付80  邊見評価 位付4 (70000)
 
  
 
【安政期大字背千の類】

安政7年(1860年)に出たものと推定。安政7年は改元されて万延元年になったため万延大字とも呼ばれる一類です。明和大字を基にして母銭が製作されたものらしいのですが、上に掲示したように明和期の改造流用母銭(明和手)も存在することから比較の意味からここに掲示しました。
安政期 大字背千(初鋳母銭) 
外径23.6o、内径20.0o、背内径18.5o

明和期大字背千に範を採り背文に加刀した結果、小型になり背千も細くなります。初出のものは断面が台形になります。母銭は
面内径は20o以下が普通で、背広郭気味になります。

手引 #149 位付8 入門 #379 位付7
図会 #237 位付20  邊見評価 位付7 (15000)
安政期 大字背千(背大郭母銭) 
外径23.5o、内径19.6o、背内径18.0o

背が濶縁広郭になります。大字は背郭の変化が多く見られます。
安政期 大字背仰千爪貝寶(初鋳母銭) 
外径24.2o、内径20.0o、背内径18.8o

明和期大字背千爪貝寶に範を採り背文に加刀した結果、小型になり寛字の後足が角張り、背千も細くなります。ただし、掲示の母銭は巨大。初出のものは断面が台形になります。俯千もありさらに少ない。面内径は20o以下が普通です。

手引 #150 位付6 入門 #383 位付8
図会 #244 位付50  邊見評価 位付6 (20000)
安政期 大字背仰千爪貝寶(別仕立母銭) 
外径23.9o、内径19.8o、背内径18.6o

背面が外側に向かって湾曲して薄くなる(いわゆるゴザスレ)仕立てとなっています。また、面背の内径が微妙に縮み肥字になります。
安政期 大字背肥仰千爪貝寶(次鋳母銭) 
外径23.6o、内径19.6o、背内径18.2o

銭径が小さく面背とも肥字になって内径も縮みます。次鋳としましたがいわゆるゴザスレ=別仕立でもあります。手引きや入門、図会にも不佐掲載で非常に少なく、邊見評価では位付3(100000)と高位です。
安政期 大字背千(肥千)爪貝寶(母銭)
外径24.0o、内径19.9o、背内径18.3o

広穿で背俯千気味に変化しているもの。 
 
 
 
【濶縁背千の類】

安政期 大字背千背大郭を基に鋳写されたものとされ、次鋳濶縁ともいわれます。内径の縮小著しく、さらに銭径の大小も激しいようです。
安政期 濶縁背千(母銭)
外径23.4o、内径18.5o、背内径17.1o

面背内径が縮み、濶縁肥字になります。背郭の大きさが目立ちます。
多くの銭譜は安政期の次鋳濶縁としています。

※私見ですが内径は大字より2〜3回りくらい小さくなりますので母銭から別系統とも考えられます。

手引 #151 位付6 入門 #387 位付6
図会 #240 位付35  邊見評価 位付7 (15000)
安政期 濶縁背千(別仕立母銭)
外径23.5o、内径18.3o、背内径17.2o

上掲銭のいわゆるゴザスレ銭。
 
 
【小字背千の類】

背千銭の最大グループにして多種多様を誇ります。たしかに明和4年銭小字に類似した書体であることはわかりますが、明和大字とはかなり差がありますので、時代差(明和大字がもっと古い?)を感じます。背千末画に筆だまりがあり、跳ね千とも言われます。
明和期 小字背千(大様母銭)
外径24.15o、内径19.4o、背内径17.7o

新規原母銭より出たもので永字の払いが直線的で背千が可憐な小字になります。本銭は外径24oを超える堂々たる初鋳銭です。輪幅、面郭幅が広くなっています。
背千の末画末端には筆どまりがあり、跳ねているように見えるところから通称『跳ね千』と呼ばれています。

※この小字の書体がもととなり、磨輪 刮去 無背 尖り千 などに細変化します。
明和期 小字背千(磨輪母銭)
外径22.8o、内径19.3o、背内径17.7o

さらに輪が狭いもの。ただし、本品の背径は広くなっています。面広郭であることから大様母銭を磨輪したものでしょうか?
明和期 小字背千(本体母銭)
外径23.5o、内径19.4o、背内径17.3o

通常の母銭サイズはこの程度以下だと思います。本体としていますが大様に比べて背内径は小さくなります。

手引 #139 位付8 入門 #361 位付9
図会 #246 位付15  邊見評価 位付9 (8000)
明和期 小字背肥千磨輪(別仕立母銭)
外径22.9o、内径19.4o、背内径17.3o

良く見られる母銭。別仕立て=ゴザスレ銭でもある。背千は文字がつぶれ気味で太くなります。
明和期 小字背千内跳寛(磨輪母銭)
外径22.5o、内径19.2o、背内径17.4o

いっそう磨輪され、文字の加刀が進み寛足が内跳になります。入門や図会には不掲載、手引きには存在についての記述と拓は(偶然?)載っていますが、評価記載はありません。(新寛永泉志、拓影集には掲載)

手引 #140 入門 不載 図会 不載  
邊見評価 位付6 (20000)
明和期 小字背千進貝寶(大様母銭)
外径23.9o、内径19.5o、背内径17.95o

呼称の通り寶会が進むため寶後足が湾曲して長く引かれます。新しい母銭から生まれたもので、小字背千より寛冠が大きく、前垂れが開く癖があります。存在は本体銭より多く、内跳寛は見られません。
なお、本銭は初鋳の大様銭です。

※この小字進貝寶の書体がもととなり、磨輪 刮去 無背 尖り千 などに細変化します。
明和期 小字背千進貝寶(母銭)
外径23.45o、内径19.35o、背内径17.6o

上掲品を磨輪した母銭。
明和期 小字背千進貝寶内跳寛様(母銭)
外径23.4o、内径19.2o、背内径17.4o

進貝寶の書体で寛尾に加刀痕跡と変化の見られるもの。ただし、現段階では完全に認知された銭種ではないため、内跳寛様とすべきか?類品の出現に期待します。
明和期 小字背千進貝寶(磨輪母銭)
外径22.6o、内径19.6o、背内径17.4o

磨輪銭には内跳寛は見られないようです。
明和期 小字背肥千進貝寶(磨輪母銭)
外径22.7o、内径19.5o、背内径17.2o

背千の縦画が跳ねず、尖らず、棒状になったものもあるそうです。
明和期 小字背千進貝寶イの字様(磨輪母銭)
外径22.7o、内径19.3o、背内径17.2o

背千の横引が鋳不足陰起してイの字のように見えるもの。偶然の所産だと思いますが、母銭があるので子銭も当然存在すると思います。あるいは刮去の不完全なもの?
明和期小字背千(次鋳母銭)
外径22.6o、内径18.5o、背内径16.6o

次鋳は少ないもののようです。邊見氏も30年以上密鋳銭だと思っていたとのこと。時代はかなり下るかもしれません。背濶縁になり、内径の縮小が著しいようです。

邊見評価 位付6 (30000)
明和期小字背千進貝寶(次鋳母銭)
外径22.6o、内径18.6o、背内径16.5o

次鋳は少ないもののようで、邊見氏から頂いた資料(古い?)には次鋳はまだ見ない・・・と記載されています。背濶縁になり、内径の縮小が著しいようです。邊見氏も30年以上密鋳銭だと思っていたとのこと。時代はかなり下るかもしれません。

邊見評価 位付6 (30000)
 
  
  
【尖り千の類】

尖り千は小字からの鋳ざらい変化であろう小字と、まったく別種、新規母からの大字に大別されますが、愛称が有名なため一群に分割させて頂きました。文字通り末画が尖る背千小字なのですが、近年末画の尖らない尖り千大字跳千なるものが発見されています。
天保期 尖り千(大様母銭)
外径23.2o、内径19.3o、背内径17.1o

鋳ざらいにより背千横引きが俯し、末端が細く尖ります。入門によると輪側面の仕上げは横やすり。なお、図会には内径、銭文径が小さい・・・という一文が見えますが、邊見氏資料によるとどうもそれは次の母銭のようです。(それだけ貴重な品という証?)
天保期 尖り千(母銭)
外径22.7o、内径18.6o、背内径16.8o

これが普通の尖り千の母銭でしょうか?これとて大変貴重な品のようです。尖り千は横引が俯すというより、末端に筆だまりがあり、上方に盛り上がるように見える・・・というほうが正しいかもしれません。以下の進貝寶よりかなり少なく貴重な品。

手引 #147 位付6 入門 373 位付1 
図会 258 位付300 邊見評価 位付3 (100000)
天保期 尖り千進貝寶(大様母銭)
外径23.2o、内径19.1o、背内径17.2o

明和期のものより微妙に内径が縮み、背千末画が尖ります。銅色は黄褐色で製作が深川十字寛と近似すること、天保期に鋳銭記録があることから、前掲銭とともに天保期鋳造と推定されています。
なお、大様(本体)母銭は邊見氏確認で現存2品の貴重品です。
天保期 尖り千進貝寶(母銭)
外径22.6o、内径18.6o、背内径16.6o

手引 不載 入門 375 位付5 図会 259 位付30
天保期 尖り千大字(母銭)
外径22.9o、内径19.1o、背内径18.1o

通字が下がることから、新規母によるもの。背千は小さく縦長で離郭離輪し、背縁も細く背内径も広くなります。文字が全体に大きく長尾寛、接郭寶で寶後足がやや縦方向に下がります。

手引 #148 位付5 入門 373 位付1 
図会 260 位付50 邊見評価 位付4 (50000)
天保期 尖り千大字(次鋳母銭)
外径22.5o、内径18.7o 背内径18.2o

次鋳母銭です。面背の内径が微妙に縮小しています。帯白色。
天保期 尖り千大字跳ね千(母銭)
外径22.9o、内径19.25o 背内径18.6o

第19回みちのく合同古銭大会で青森貨幣研究会の板井哲也氏が発表したもの。尖り千大字の書体ながら背千末端が尖らず筆どまりがあり、跳ねているように見える。現存確認2品。

邊見評価 位付1〜珍 (250000)

青森貨幣研究会 板井哲也氏蔵
 
 
【無背・刮去の類】
通称銭では区別の困難な無背と刮去を一括してここにまとめました。無背の多くは完全に仕上げられていないものが多く、数量も少ないことから短期間の鋳造の可能性もあります。
安永期 小字背千無背(鋳放し母銭)
外径24.0o、内径19.5o、背内径17.7o

無背は原母段階で背千刮去をしたものか?掲示品は鋳放しで刮去痕がかすかに伺えるようですが、通常母銭では痕跡は見えません。銅質が刮去銭とは異なり赤褐色。

手引 #145 位付6 入門 371 位付3 
図会 249 位付60 邊見評価 位付4 (60000)
安永期 小字背千無背(仕立母銭)
外径23.1o、内径19.2o、背内径17.5o

無背は原母段階で背千刮去をしたもので、通常母銭は刮去痕跡は見えません。銅質が刮去銭とは異なり赤褐色。存在は極端に少なく、無未仕立のものがほとんどのようで、入門では天明期稟議銭説まで展開されています。

手引 不載  入門 不載 
図会 249 位付40 邊見評価 位付5 (40000)
安永期 小字背千無背進貝寶(鋳放し母銭)
外径23.9o、内径19.5o、背内径17.4o

無背は原母段階で背千刮去をしたもので、通常母銭は刮去痕跡は見えません。銅質が刮去銭とは異なるようです。未仕立てのものが多いは無背背千と同様のようです。

邊見評価 位付4 (60000)
安永期 小字背千無背進貝寶(仕立母銭)
外径22.9o、内径19.2o、背内径17.2o

鋳放し銭が多いようですが、中にはこのように仕立てられた無背銭も散見されるようです。銅色の赤みが強い。

手引 不載  入門 不載 
図会 255 位付40 邊見評価 位付5 (40000)
安永期 小字背千刮去(母銭)
外径22.9o、内径19.2o、背内径17.4o

明和期の小字背千を磨輪して背千の字を刮去したものです。したがって銅色は黄銅色になります。母銭には刮去痕跡がはっきり残りますが、通用銭での見分けは困難です。

手引 #143 位付6 入門 367 位付8 
図会 248 位付10 邊見評価 位付7 (10000)
安永期 小字背千刮去内跳寛(母銭)
外径23.6o、内径19.3o、背内径17.3o

明和期の小字背千内跳寛の背を刮去したもの。背には文字刮去痕跡がはっきり見て取れます。(内跳寛は寛の跳ね外側に鋳ざらい痕跡があるもの。)

邊見評価 位付5 (30000)
安永期 小字背千刮去内跳寛(磨輪母銭)
外径22.9o、内径19.5o、背内径17.6o

磨輪されたもの。背内径などが若干広くなっているようです。

安永期 小字背千刮去進貝寶(磨輪母銭)
外径22.7o、内径19.5o、背内径17.4o

進貝寶の書体の刮去銭です。