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2015年1月~12月31日分まで
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作者近影
 
新寛永通寶分類譜 古寛永基礎分類譜 赤錆の館
天保銭の小部屋 文久永寶の細道
 
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譲ってください♡! 

天保銭 1977年~ 編集・発行 天保通寶研究会(天保堂:瓜生有伸)
11号、31~35号、60号以降
状態不問(記事が読めればOK) 1冊800円以上で購入します!

月刊 収集 書信館出版(株)
1979年 10月
1981年  8月
状態不問(記事が読めればOK) 1冊600円以上で購入します!

   
以下は収集誌に掲載されている記事からの転載(勝手な応援記事)です。
例会日や会場に変更がある場合もございますので事前にご確認ください!

八厘会(天保仙人が主催する古銭会)
天保通寶の研究を中心に、各種泉談が満載の会です。
例会日:原則として8月・12月を除く毎月第4土曜日
時間 :14:00~
会場 :新橋駅前ビル1号館9F会議室
会費 :500円(高校生以下無料)
電話 :090-4173-7728(事務局)
 
Google
WWW を検索 このサイトを検索
※このHPにはプログラムが組みこんであります。害のないものですがブラウザやセキュリティソフトによってはエラーが現れるかもしれません。不具合が頻発するようでしたら、ご連絡ください。
1.最新の情報が表示がされるように過去に蓄積したキャッシュデータを読み込まないようにプログラムしてあります。(制作日記・更新履歴)
その分、読み込み反応速度が遅くなりますが、ご容赦ください。
2.来訪者分析ツールを各ページに組み込んであります。いつ誰がどこから来て、通算で何回目の来訪か等の記録がされて行きます。
(NINJA ANALYZEの表示があります。)

一般銀行からゆうちょ銀行に振り込む方法

例えば (記号)12345 (番号)1235678 という番号だったら・・・・

①(記号)の先頭の数字に着目 1 または 0 のはずです。  → (記号)2345
②1なら●●8 0なら●●9 が支店番号になります。 → ●●
③(記号)の上から2桁・3桁目に着目 例の場合は → (記号)12345
④上の数字を●●に入れます。 → 238 これが支店名です。(にいさんはち)
⑤口座番号の末尾の数字を無視します。 → 1234567 これが口座番号。
⑥機械で振り込む場合、支店名の数字をひらがなに直す。たとえば018支店はゼロイチハチと読みます。
  パソコン検索もできます。
 
そうだ!「貨幣」を読もう!
貨幣誌は戦前の東洋貨幣協会時代から続く、現存する最も古く、かつ権威ある貨幣収集愛好家団体です。貨幣収集趣味が衰退している昨今、生で勉強できる貴重な研究会場であるとともに、情報収集することもできる交流の場でもあると思います。かくいう私、会費は払ったものの、例会には参加したこともなく、果たして正式会員であるかどうかも分からない幽霊です。まあ、今でもこの情報誌が送られてくるから会員なんでしょうね。
日本の貨幣収集界が底辺を広げてもっと盛り上がってもらいたいので、その気のある方、私のように地方在住で仕事の関係で参加できない方も、情報収集アイテムとしてご参加・ご活用ください。
入会申し込み先
〒164-0001 東京都中野区中野5-52-15 2F251
日本貨幣協会事務局 野崎茂雄(野崎コイン) ☎03-3389-5958
郵便振替00110-0-8563 日本貨幣協会 

※年会費は5000円だったと思います。この記事は勝手な応援広告なので必ずお問い合わせください。
 
 
→ 貨幣博物館 天狗館(あまつきつねさんのサイトです。)
 
 → 夏の古銭会 ちょっとした発見の記事を追加してあります。
 
ヴォーカル・キッズ・ダンサー・DJのセクションから成るガールズプロジェクトとして2015年夏にスタート。次世代を担う新しい形のガールズユニットとして期待されています。
現在メンバー増員のためのオーディションを展開しながらライブ活動や音源制作などを精力的におこなっています。ラブジャミの完成形を見る日のカウントダウンが今始まろうとしています。
※いろいろと縁があって勝手に応援させてもらいます。メジャーデビュー直前・・・これからの注目株です。
 
12月31日 【年の瀬のお化け?】
もし本物ならば、収集界を揺るがす品が年の瀬に出現しました。異文反郭と言えば歴代の泉譜のほとんどに掲載されながら、母銭の現存一品のみで大川天顕堂旧蔵を経て小川青寶樓の所蔵になったとまでは追跡できました。と、いうことは今は民間にあるのでしょうか?画像の品は完全に通用銭です。長径49.3㎜、短径32.2㎜、重量20.0gだそうです。
本件について天保仙人様にご意見を伺いました。
大川先生が何故、異文と名付けたのか・・・それは実は面文では無く、背の百が余りにも変わっていたために付けたのです。
画像の銭貨はその特徴が無く、まずマイナス1Pです。
次に面の左側と、背の右側に反りが無くマイナス1Pです。
次に保のホ点が短過ぎでマイナス1です。
次に寶の前足がもう少し上がります。マイナス0.5Pです。
まだ違いはあり、私は異文反郭には見えず、不知銭としか思えません。泉譜の原品は一品物で、製作は通用母銭で極印が打たれています。
・・・とのこと。真贋には言及されていませんが、旧譜とは別物みたいですね。さすがに現物を見たことがある方ならではの見解です。
正面画像を改めて見ましたけど、やはり別物ですね。背百の爪がないし、花押がやたら大きい。抱冠寶の特徴は目立ちますけど、長点尓だし保の人偏の角度も違う。似て非なるものですけど良くできているというか、実に素直なつくりをしていますね。鉄人が興奮した理由が分かります。こんな天保銭があっても不思議ではない気がしてきましたが、新規銭文ですから出来過ぎの気もします。とはいえ私が狂乱の末入手した異貝寶異當百(覆輪延尾通)の例もあります。
23:43 なんと100万円を超える値で終わりました。離郭濶縁らしきものも出ていましたが、全くかすんでしまいました。
※今年も最後に驚かされました。来年は住宅ローンの繰り上げ返済の件もあるので、ちょっと大人しく過ごしたいと願っております。本業専念と・・・いきたいのです。節約・節約・・・。皆様良いお年を・・・。
 
 
12月30日 【今年最後の収穫品】
今年最後の入手品が続けて届きました。左端はなんてことのない石持桐の正字濶縁銭。雑銭中の雑銭なんですけど覆輪に惹かれてしまいつい買ってしまう癖があります。だから会津濶縁も気が付いたら10枚ぐらいある始末。ちなみに刔輪銭も好きでして接郭もなんとなく拾ってしまいます。銭文径40.6㎜は本座の覆輪一度写しかと思いきや51㎜を超える巨大で精巧な銅母銭と52㎜を超える錫母銭が存在するようです。久留米は錫母を知らなかったという事であれば、それらは疑問品という事になりますがさてどうなのでしょうか?(ちょっと大きすぎる?)
中央は大和文庫に出ていた不知広郭手縮形異極印。長径47.9㎜、短径31.5㎜、銭文径40.4㎜、重量21.2g。石持桐極印銭に似た風貌でおそらく破損した極印が打たれたのだと思います。穴ぼこが3つあいているみたいです。タグには香泉原品とありましたのでM氏の旧所蔵品でしょうか?また、月刊天保銭53号の入札品原品であることも確認できました。
(松崎氏)
右端は長郭手反足寶としてネットに出ていたもの。泉譜には小点尓寶とか通寶小字とかそれこそいろんな名前で類品が掲載されています。覆輪刔輪張足寶であり、小点尓寶であること、寶貝の底前方に瑕があること等の共通の特徴があります。私は通寶小字系として取り扱っています。製作がきれいなものが多く、今回の入手品も本座銭に勝るとも劣らないつくりです。
長径48.8㎜、短径32.1㎜、銭文径40.2㎜、重量20.3g
 
 
12月29日 【中国からのお便り】
私のサイトの閲覧者のうち、おおよそ4%は海外からのアクセスです。今月も19か国からのアクセスが確認できますが、なかでも漢字の国である中国からは確認できただけでも14都市から複数の方がアクセスしてくださいます。
中には日本語翻訳&変換ソフトを使用して一生懸命投稿してくださる熱心な穴銭ファンもいます。
左の画像は最近頂戴したもので、密鋳銭探しをしていてたどり着いたものらしいです。
一番上は銅質からみて密鋳銭ではなさそうですが、面背逆製になっているもの。佐渡銭は比較的面背逆製を見つけやすいと言われるのですけど、やはりとても少ないと思います。
中段は間違いない密鋳銭。加護山の細字(長点尓)ですね。中国で加護山銭が選り出されるなんて想像もしていませんでした。天晴です!
下段は藤沢・吉田島銭の縮字の写しだと思います。郭内の仕上げと側面の歪みから密鋳銭だと思うのですが、たとえそうでなくても背の錯笵ぶりが非常に面白い品です。ここまでずれれば錯笵銭としても上棟ですね。
藤沢・吉田島銭の縮字は銭径の小さい次鋳銭があり、本炉との区別が困難なのですけど、総合的に見て評価すべきでしょう。すなわち、仕上げや銅質が本炉と異なるものを評価するということ。とはいえ、密鋳一文と言えばこの藤沢・吉田島銭の縮字を指すぐらい数は多いと思います。
最後に投稿者に・・・
密鋳銭は側面の仕上げを見て下さい。いびつな横やすりやギザギザ縦やすり、斜めやすりが見えたら可能性は高いです。風貌だけで拾うと焼けた銭をつかんでしまいますから。今回はご投稿ありがとうございました。
 
12月27日 【錫母銭から考える】
寛永通寶の場合、古寛永と新寛永の間に大きな技術革新があっただろうことは、現物の制作から見てもうなずけます。すなわち、古寛永の末期頃から基本書体の変化が極端に減って均質化が図られているからです。その大きな役割を果たしたもののひとつが、錫母銭の発明でしょう。
銭を作るのには女型である鋳型(砂笵)とその鋳型作成のための雄型役の母銭が必要ですが、はじめはたいてい彫母からスタートします。(たいていと書いたのは、木型から始まるものや、原祖銭と田中銭幣館が名づけた、彫母銭の前段階のものが存在するからですけど、ここでは説明を省きます。)
彫母銭を写して仕上げて原母銭とし、さらにそこから銅母銭を複数つくり、通用銭を作る・・・これが古寛永の時代までの技法でした。しかし、このやり方だと彫母から原母を一品ずつ作らなければならないので効率が悪い。そこに登場したのが錫母銭です。
(このことに関する考察は2014年12月20日の離郭濶縁考の記事をお読みください。)
錫は柔らかく、繰り返し使用の耐久性という意味では母銭としての性能は劣りますが、凝固収縮率が銅よりかなり小さいため、鋳写し(コピー)を繰り返しても大きさがほとんど変わらないことに着目したのです。つまり、
錫母銭から錫母銭を写し作成してもサイズはほとんど変わらないので、鼠算式に錫母銭を増やすことが可能になりました。この錫母銭の利用方法が貨幣鋳造に革命をもたらしたと私は推定しています。
錫母銭から錫母銭をつくったというくだりは多分に私の推定で、貨幣手帳などは“錫は鋳縮みが少なく型にも馴染みやすいうえ、柔らかいので鋳だまりなどを加刀修正するのが容易だから”と記述していますし、いにしえの研究家の三上香哉氏も“彫母の保護のため”と推定したようです。(摩耗しやすい錫母は繰り返し鋳造には不向きであり、ましてや彫母から原母をつくるのも、彫母から錫母をつくるのも回数の手間は同じなので“彫母の保護のため”という論は的外れだと思います。)
“錫母銭から錫母銭をつくった”点については田中銭幣館が著書“銭幣館”の中で言及しているので、私のオリジナル発案ではありませんが、これが証明できれば錫母銭の存在意義がもっとはっきりわかると思います。
さて、この錫母銭の登場は一体いつ頃のことだったのでしょうか?
過去の泉譜では寛文期亀戸銭とか古寛永での錫母銭の存在の示唆がありました。田中銭幣館はその著書の中で、それらは寛永堂あたりの贋作だろうと論じています。三上香哉氏は延寶期亀戸銭であろうとしていますが、三上氏の言う延寶期亀戸銭はどうも猿江銭のことらしく、田中銭幣館は元禄4年の荻原銭あたりと記述していますが、それ以前の可能性もあり得るとみていたようです。
錫母銭は鋳造関係者の間で極秘の技術として伝わることになります。この技術を金座は知っていましたが銀座には知らされず、また幕府外では南部藩と水戸藩が知っていた可能性が高いものの、それ以外の藩は知らなかったと思われます。不知天保銭が同じ書体でもサイズがいろいろあるのは、錫母銭の技術を知らずに通用銭を改造して鋳写しを重ねた証拠です。そのため不知銭は書体や制作に変化がとても多く、収集家を楽しませて下さいます。
一方、天保銭に遒勁という有名銭がありますが、この通用銭は大きさがまちまちで細かな鋳ざらい変化も見られ、どうも錫母銭は使っていなかったのではないかと考えられます。したがって遒勁=水戸藩という今の分類はかなり怪しい気がするのですけど、あらら天保通寶母銭図録に遒勁の錫母が載っていますねえ。この母銭図録には、今でいう久留米系の錫母銭とか容弱の錫母銭など不思議な品がいくつか見られます。これらが正しい品であったとするのなら、作られたのが徳川幕府の親藩中の親藩であったのか、それとも独自に錫母の技術を習得していたのか・・・それにしては久留米系の天保通寶はサイズがまちまち過ぎる気もしますがいかがでしょうか?
(短足寶と濶字退寶には立派な錫母銭がありますので、こちらは水戸藩もしくは南部藩で間違いないところでしょう。)
画像の錫母はネットで発見したものです。低温度による崩壊が始まっているのか全体的に膨れ上がり気味で、ヒビも入っていますが、初期の錫母銭に該当しますので理屈的にはあっています。(時代が下がる錫母は崩壊現象が起きないと言います。)したがって古銭と言うより資料的価値といった状況ですが、貴重品であることには変わりありません。先日の文久母銭に比べると繊細さは段違いなのですけど、佐渡銭の特徴である通用画の第3画の切れもきちんとありますし、真贋は判りませんが背の朱書きがきちんとした古銭家の収集品であることを物語っています。
 
 
12月26日 【密鋳銭のコスト】
1円玉と10円玉の製造コストはどうやら赤字らしい。地金的にはまだ黒字なのと通貨総発行コストにおいて黒字なので、日本政府は頑張っていますが、そのうち1円玉不要論などが再浮上するかもしれません。かなり昔のこと、おつりの小額貨幣が不足して「おつりガム」なんてものが出ていた時代がありましたっけ。現実、今でも世界各地で「おつりガム・おつりキャンディ」が使われているそうで、ネットで調べるとサウジアラビア・インド・ベトナム・ジンバブエ・イラン・ブラジル・・・などたくさん出てきました。
日本の江戸時代においても実情は同じで、江戸末期においてはインフレの高進により寛永通寶一文銭の鋳造で採算を採ることは極めて難しかったようです。物価はインフレで本当は通貨供給の増大が必要なのに、金とともに銭(銅)まで海外流出する有様で庶民は少額の決済に困ったようです。
銭を作る際に必要なのは、銅・錫・鉛などの原材料のほか、大量に消費する鋳砂と木炭、砥石なども重要な要素でした。密鋳銭をつくる際はこれらが安価で調達できることが第一でした。いわゆる鋳造コストが問題なわけです。東北の地は金属原料と木炭の調達は比較的容易だったのですが、良い鋳砂や砥石に恵まれなかったようです。したがって東北の密鋳銭が独特の風貌であるのは、これらの鋳銭道具の(作業工程の省略を含む)不具合が原因と言っても良いと思います。
採算においては天保銭がもっとも効率が良く、次いで四文銭であり、一文銭はほとんど割に合わなかったのではないでしょうか?そのため密鋳銭の世界においては一文銭が最も希少で、本来なら称揚されるべき存在なのですけど、見た目がいまひとつで(小規模鋳造だったためか)統一的な特徴にも欠けていますので人気も今一つです。
先日、ネットオークションと入札誌で、加護山銭を相次いで落としました。ひとつは背佐様で、もうひとつは繊字狭文様となっていました。加護山銭は一文銭の密鋳場としては比較的まとまった量が発見される有名どころ。多くは寛文期亀戸銭の細字を摸鋳改造した母銭から生まれたものですけど、少数ながら他の藩鋳銭を写したものも存在しますので、背佐様も絶対ないとは言い切れません。
見た目が縮字なので、もしや・・・と、色めき立ちましたが、側面仕上げを見た結果、残念ながら佐渡銭の次鋳タイプの末炉銭ではないかと判断した次第。夢を見てしまいました。
次いで繊字狭文様が届いたのですが、これは亀戸銭の火中品でした。最近、火中変化で赤くなったものを密鋳だとか、銅質変わりだと称しているケースが多くみられます。地金そのものの色と表面だけの変化の色は慣れればすぐわかります。まずは数を見るのが良いでしょう。

ところで・・・今、ネットで本物だったらとんでもない大物が出ています。正直、私は真贋判定不能です。側面の仕上げは古くやすり目は良いと思いますが、風貌地肌が気に入らないので私は様子見。すでに手の届かないところに行ってしまいました。年末になってまた食指が動く品が出現し始めています。こちら(私)のコストパフォーマンスは最悪の状態でして困りました。
 
 
12月22日 【水戸正字の怪】
玩多夢氏の予告通り、収集誌に”水戸正字の怪”なる寄稿が掲載されました。おっしゃる通り、小川青寶樓師の編集された”新訂天保通寶図譜”からは忽然と水戸正字が消えており、また、旧大阪深字の類が広島藩へ移動されるなど、それまで私がバイブルとしていた”天保泉譜(勢陽譜)”とは全く異なった分類に首をひねり、混乱し、打ちのめされ、最後は脳の配線がショートして考える事そのものをやめてしまった苦い経験があります。おそらく玩多夢氏も同じ思いをされたのでしょう。(ボナンザ誌に天保堂瓜生氏と経泉堂神原稔氏が激論を闘わせたとの事・・・見落としていましたので探してみます。)
私の混乱はやがて水戸正字から久留米正字、秋田本座写、ついには会津濶縁にまで広がり、そのもやもやが晴れたのはようやく最近のこと・・・まあ、なんと学びの遅いことか。
かつて水戸正字とされたものと本座広郭は、製作は異なっても規格そのものは同じ。もともと書体が同じだからという理由で、親藩中の親藩であった水戸藩と幕府本座は同じ母銭を融通したのだろうと推定されたわけですから、やすり目と砂目ぐらいの差しかないのです。製作の粗いものは幕末~明治期のものであると推定されています。戊辰戦争が近づくと房州においては佐幕派が木更津付近に続々と集結した経緯があり、鋳砂の産地であった南房総との流通が遮断されてしまいました。木更津の請西藩主の林忠崇は自ら脱藩してまで旧幕府に忠誠を誓い参戦しましたし、市原にあった鶴牧藩主水野忠順は徳川家康の母方の血筋(於大の方)ということで佐幕派とみられていました。(実際は参戦せず。)
そのため幕末期における本座鋳銭は、王子産の鋳砂で行い、仕上げ作業も一部省略したとされているようです。それらがいわゆる水戸正字だとか秋田本座写とされるものになったと私は思うのです。実は秋田銭の項にこの件に関する記事を記載してありますのでご一読頂ければ幸いです。
では、これら一連のものはみな本座鋳かというと、それも完全には肯定できない気がします。ひょっとしたら水戸藩の江戸屋敷などでつくられたものがあるのかもしれないのです。要はあくまでも推定でしかないのです。
製作の粗くて違う通用銭は確かに存在します。ただ、旧水戸正字の分類はあくまでも現物からの推定ですので、それが水戸であるとの確証もまたありません。だからといって水戸藩銭である事を完全否定することまでは出来ない・・・と言ったところでしょうか?
一方、母銭については本座とされるものは摩耗型の母銭で、水戸じゃないかと言われるものは未使用の角が立つ母銭であることだけは間違いない。製作が違うのか仕上げが違うのか、あるいは単純な摩耗なのか・・・お金が絡むので結論は出しづらいのですけど、やっぱり私も土台部分は同じ気がします。まあ、種類が違うとまでも言えませんが最終の状態が異なる品ですね。このことを公表された方はとても勇気がある方だと思います。
 
 
12月21日 【おまけの話:部落と鋳銭】
部落問題というと非常にデリケートなお話になりますが、実は私の出身地は田舎であり、「部落」という言葉になんの違和感なく育ってきた経緯があります。私が義務教育時代にはまだ運動会で「部落対抗リレー」という競技が堂々と存在し、私も地区代表の一人として参加していました。私、脱脂粉乳・コッペパンの最後の世代なんですね。蒸気機関車も走っていましたしね。
故郷の町は大きく分けて上町・仲町・下町(かみちょう・なかちょう・しもちょう)に分けられ、生家は下町に属します。その下町は川崎、新町、浜町が属す町はずれの浜辺の地域で、土地そのものも低湿地で耕作不適地であったため漁民と商工民とともに身分制度外の部落の民の居住地も地区内にあったと聞いています。
ただ、戊辰戦争以降に領民同志の融合が進んだ結果、地域の境目はほぼなくなっていました。それでも昭和の初めごろまでは出身の家によって婚姻などに制約があったとも聞きますので、まったく差別がなかったわけではないと思います。生まれ故郷は小さいながら鶴牧藩の城下町であり、殿様の血筋的は徳川系であったため戊辰戦争のときには佐幕派の武士が多数集まり大きな戦いも起こったという記録が残っています。
さて、鋳銭という事業は、もともとは大陸から来た技術です。この事業は大きな利益も生み出すことから、ときの為政者はこの産業の従事者が大きな力を持つことに警戒心を抱いたそうで、したがって鋳銭に従事する人々は各時代を通じて身分制度の外に置かれていたとも聞いています。身分制度の外側にいても事業に成功して大儲けした人物もずいぶんいたようです。
江戸時代の鋳銭所は浅草付近に多くみられます。そこを庶民は下町(したまち)と言い、その地の身分制度外の民の頭領は浅草弾左衛門の名を世襲し、その屋敷一帯は浅草新町と呼ばれていたそうです。偶然だと思いますが、私の生家も下町地区の新町の中であり、なんとなくいわれの近さを感じる次第です。
最近はあまり聞かなくなった部落問題ですが、ときどき電話で「部落問題についてどう思いますか?」などというぶしつけな質問がかかってきたこともありました。そういう輩には一喝、「その問題は騒ぎ立てているあんたらの心の中にこそある。問題を利用しようとするあんたたちが害悪だ!」と啖呵を切ったこともありました。若かったなあ~。
 
 
12月17日 【キュリオ1月号】
雑誌の世界は早いものでもう1月号が届きました。HPにキュリオの宣伝を載せているのは、キュリオ側の了解を得たものでもない勝手な行動でして、きっかけは元方泉處の石川が記事を書いていたからでしてそのときに宣伝を頼まれたからだと思います。(2012年2月22日の制作日記に書いていますね。)
その年の4月には北海道にまで”穴カタ出版記念のお祝い”に駆けつけた経緯もございまして、私の取材記事も掲載されたことがありました。さて、このキュリオにおいて私が目を通す記事として雑銭奮闘記とTPS48天保銭と仲間達があります。今月号の雑銭奮闘記は「寛永通宝の銅母銭」・・・私の一番苦手とする分野です。とくに古寛永と文銭はよく判らない。記事を読んでみると・・・結局、決め手はなく自己判断ということらしいです。やっぱりそうなんですね。頑張ります。
TPS48天保銭と仲間達は「水戸藩鋳の天保銭!」シリーズ。水戸・・・とありますが、今回は久留米(石持桐極印)銭のお話。この銭は天保銭としての存在数は多い方で、制作もあまり良くなくて雑銭扱いなんですけど謎が多いのですよね。
この極印はかなり特殊なつくり方をしていると聞いております。
花押異替銭に濶縁と普通のものがあるのは知っていましたが、製作や銅色の関係にまで違いがあることには気づいていませんでしたねぇ。
A.稍濶縁薄肉タイプ(泉譜では正字背異替濶縁の名称か?)
銅色:黄銅色~茶褐色 極印:桐極印が多く、石持桐極印は少ない    制作:出来はあまり良くない
B.稍細縁厚肉タイプ(泉譜では正字背異替の名称か?)
銅色:黄銅色が多い  極印:桐極印しかなく、石持桐極印は存在しない 制作:比較的上作のものが多い
ちなみに存在はBの方が少ないそうで・・・。
あくまでも傾向ということで、厳密な分類ではないと思いますが、厚肉のものは概して細縁で製作が良く、薄肉のものは概して濶縁気味で製作が粗い傾向にあるとのことでしょうかね。私の印象ですけど、久留米正字においても濶縁になるものはまるで延展されたように薄肉気味のものが多い気がしますから、同じ傾向にあるのでしょう。ただ、細縁より濶縁の方が多いとは意外でしたね。私、この濶縁の度合いがはっきりしたものは雑銭でも好きなほうでしたから。
たしかに正字背異には肌がざらざらのものと滑らかなものがあり、色は紫褐色のものから白銅質っぽいものまで色々あります。印象の差でしょうけど、黄銅色はあまり見た記憶がありませんので、今度は注意して観察してみようと思います。
なお、桐極印はよほど上手に打たれていない限り細かな判別は不可能だと思います。頂きの玉(石)はシークレットマークであることは多分間違いないと思うのですけど、ルーペが普及していない時代にこれを肉眼で見分けるのはかなり厳しいはず。ですから分別用ではなく、藩などの自己主張なんじゃないかな・・・と思う次第。それとも、石持桐極印はかなり大型だから、目がものすごく良ければ見分けられるかしら?
これについてはもう少し勉強が必要ですね。
 
 
12月16日 【長郭手強刔輪反足寶】
四国のKさんから頂戴した画像です。最近のロット物の中にあった品ということですが・・・。見事な覆輪強刔輪。輪際の深いえぐれと言い見事です。背輪がずれていますけど、かえってそれが実際に通用した姿を物語っていいて、私好みです。サイズは長径48.85㎜ 短径32.3㎜ 銭文径39.5㎜・・・ふっくらとした卵型銭径、これは不知長郭手長反足寶につながる品でしょうか?銭文径の小ささもものすごく目立ちます。これはいい顔しています。私もこんなものを掘り出してみたいですねぇ。
実物は画像以上にきれいなようで、Kさんの今年最後にして最高クラスの天保銭掘り出し物との事・・・おめでとうございます。
 
 
12月15日 【長島愛生園の代用貨】
ハンセン病はらい病とも呼ばれ、現在では感染力が低く、治療可能な病気であると言われるようになったものの、戦前は強力な伝染力を持つ不治の病と思われていたため、患者そのものを強制隔離する政策がとられた悲しい歴史があります。療養所というのは名ばかりで、実質は移動も結婚(妊娠・出産・育児)や財産も没収された収容所だったようです。このような代用貨幣が使用されたのは、通貨を介しての感染拡大がおそれられたためだと言われていて、代わりにこの通貨が支給されたようです。
このような代用貨幣は20世紀に入り世界各地で発行されていたようで、材質も紙・金属・プラスチックなど様々。ハンセン病の感染力が低いことが証明され、また、この代用貨幣をめぐっての不祥事が行われていたことが発覚し、日本では1950年代頃で通用が徐々に停止されたようです。
画像の代用通貨は岡山県沖の瀬戸内海に浮かぶ小島にあった長島愛生園で使われていたもの。壱円・五十銭・十銭、五銭・一銭(2種)の姿が見えます。(壱円以外は非常に薄いものらしい。)
これらは国が認めた法定通貨ではなく、法的な裏付けすらない自主発行代用貨なのですが、今も島内で実質的な隔離収容生活を続けているハンセン病患者の歴史的・社会的問題から鑑みて、非常に注目を浴びている代用貨幣になっています。(画像はインターネットオークションサイトに出品されたもの。落札価格は45万円以上でした。) 
 
長径49.3㎜ 短径32.5㎜ 銭文径40.75㎜重量20.7g
12月14日 【細郭手刔輪跛寶】
大和文庫の落札品が到着。まあ、こつこつと無駄遣いが続いています。細郭手の跛寶ですけど第一印象・・・水戸接郭の変造品じゃないかな?側面を見ると・・・あらら削り取られたような無極印でやすり目はあまり気に入りません。だいたい未使用肌の残るものも薬品変色やスタリキによる贋作もあり得ますので要注意。種々あぶないと思いながら銭文径観察。
長径49.3㎜ 短径32.5㎜と意外に大きい。銭文径40.75㎜・・・なんと中途半端なサイズ。重量20.7g。
結論から言うと接郭とは銭文径が明らかに違うし、無極印が気になりますがどうやら不知品で間違いないようなのです。寶下には明らかに加刀された跡が残っています。
不知天保通寶分類譜を見ると、中郭手の中に跛寶の書体があり、書体的にはよく似ていますが、サイズがずいぶん違います。不思議な不知銭ですね。
 
 
12月13日 【養老渓谷:奇跡の1枚】
2匹目のどじょうを狙って養老渓谷にまた行ってみましたが、前日の大風で紅葉はほぼ全滅です。まあ、前回行った時も最盛期は少し過ぎていた感がありましたのですけど、今回は木が丸裸(白骨化)になってしまっていました。前回撮影した写真をようやく取り込むことができましたのでUPします。これ、色彩の調整などは一切しておりません。快晴無風の奇跡の1枚です。(黄色い葉がもう少し残っているともっときれいなんでしょうけど。)山歩きをしていると足元ばかり見ていて上に気づかないことがあります。大福山の山頂近くは最盛期は紅葉のトンネルができた事もあったと思うのですが、今年は少し遅れてしまいました。市がもう少し予算をつけて、整備するとものすごい観光資源になるのですけど、とてももったいないと思います。(今回は一切古銭の話はなし。あしからず。) 
下段中央は9日の駐車場の写真。盛りはちょっと過ぎた感じ。3日後は丸裸。下段左右は12日に残った紅葉を狙ったもの。下段左は岸壁を中腹からとらえたもの。下段右は色彩調整あり。
 
 
12月12日 【不知銭3枚】
もう今年は新たに古銭は買うまい・・・と、思っていたのですが、なかなか打ち止めができないようでして・・・。

上段は収集誌に出ていた不知細郭手。ごく平凡な鋳写しなのですけどわずかに覆輪と刔輪がされています。穿内はべったりやすりがけされています。
不知細郭手覆輪刔輪
長径49.0㎜ 短径32.8㎜
銭文径40.8㎜ 重量21.9g

本当は文久の深字本体系の入手をを狙っていたのですけど、今回は外れでした。

中段はオークションネットの郵便入札でGETした長郭手です。まあ、よくあるタイプですけど激安でした。
不知長郭手覆輪
長径49.0㎜ 短径32.1㎜
銭文径41.1㎜ 重量22.3g

ところでオークションネットに出ていたNo543ですけど、あれは進二天ではありませんね。縮通でしたけど気が付いていました?縮通は少ないですから、もしご存知で落とされていたらすごく目が利く方か病気の方。
薩摩の小字は写しだったのか激安で、仙台広郭はそれなりの高価格。長反足寶はとても良い値でした。この点は今回はとてもばらついています。

実はこのへんの出品者について私は気が付いていました。Hさんですね。H氏天保銭秘蔵録として画像撮影させて頂いた品々です。
最下段の広郭手もオークションネットの郵便入札で落ちた品。入札誌穴銭では10万円以上の落札価格だったと思います。側面の極印はまるでクローバーのような形。ある程度の年代はあると思いますがやや白銅質のつるっとした側面の異製作銭。この手の物は好き嫌いが別れると思います。まあ、絵銭的なものなのかもしれませんが不思議な品です。
不知広郭手厚肉白銅質異極印
長径48.5㎜ 短径31.8㎜
銭文径41.35㎜ 重量30.6g

 
 
12月11日 【なんちゃって背星】
”コインコレクターのホームページ”の作者の”Y”さんから画像付のメールを頂戴しました。称:鳥越低寛の背星です。古寛永には称:水戸銭に正統派の背星がありますが、称:鳥越をはじめ、沓谷・建仁寺などに意図的かもしれない背星が見つかります。意図的かもしれないとしたのは、これらの星が背郭上部にきれいに鎮座しているケースが多いことにあります。位置がずれたものも星そのものがきれいで、何らかの意図を感じるのです。そのためこれらの星を一手として考える収集家も存在します。
ただ、私見ながらこれらの星は形が小さく歪むものが多い気がして、母銭由来のものというより、爪楊枝か何かでちょいちょい・・・と、鋳銭工が砂笵に直接印したもののように感じます。すなわち、これは鋳銭工の何らかの符丁か目印だったんではないかと思うのです。あくまでも私見ですけど・・・。
※ところで、古寛永の称:鳥越銭はほぼ間違いなく沓谷の出であり、称:沓谷は鳥越銭であろうと言われています。古寛永泉志の増尾富房師はそのため、明暦高寛・低寛と明暦大字・小字のように称しましたが定着しませんでした。
私も国名を使って明暦浅草銭・明暦駿河銭としましたが、自分自身もつい昔の名前を使ってしまいます。これに太細や斜寶、岡山から出土した縮寛の問題もついて回りますので、古寛永の名称問題は非常に根深いものだと感じています。
 
 
12月9日 【養老渓谷】
久々の休み・・・といっても、午後3時すぎから子供の先生との面談予定であまり時間はないが天気は快晴・・・そこで決心して養老渓谷に短期決戦ハイキングを決行。最近は女房子供が遊んでくれないので単独強硬ハイキングです。この渓谷は関東で一番遅い紅葉といううたい文句で客を惹きますが、正直いって観光地化されてなく、案内看板も少ないので観光客は見どころの場所や時期をあまり知らない。最も、ここの見どころの時期は本当に短いので、良い時期に当たるか否かは博打に近いのです。今日は天気にも当たり疲れた目と心をいやせました。スマホで撮影した画像を取り込みたいのですがケーブルがなくやり方も良く判りませんので、今日の所は拝借画像を・・・(Tenki.jpより)
ところで、午後からの面談・・・子供の行状に親子で顔が紅く染まりました。(ネットでは大多喜町側の画像ばかりですけど、この画像は市原市側のハイキングコース。渓谷の最深部から大福山を望む眺望。岸壁が白く、空が真っ青できれいでした。)
 
12月7日 【近代エラー貨の不思議4】
やはり近代エラー貨には贋作が多発しているのが現状なようで。それもかなり凝ったつくりが出ています。憶測情報ですけどもう一度まとめてみます。

①穴なしエラー
穴をふさぐ加工は歯科技工の技術があれば比較的簡単にできるようです。穴の周囲に熱変性が現れることを観察して見抜けます。

②金型新作
金型加工の技術を利用した精巧作が現れ、勢力拡大中!
以前はコインそのものを金型技術で作成していました。その場合は顕微鏡で加工痕跡を探すことが可能でしたが、今ではプレス用の金型をつくり、元の貨幣と同じ材質を打ち抜いたものが出現するようになったようです。これについては極めて鑑定が困難であると言えます。

③穴ずれエラー
これには①と②の工法がからんできます。
ア)穴をふさぐ加工をした後に再度ずれた穴あけを行うケース
  穴の周囲に熱変性が現れるので、注意すれば見抜くことは可能です。穴内部の肌にドリル痕跡が残ることもあります。
イ)小穴ずれのものを穴を拡大するように広げたもの
  穴そのものが不自然に大きくなっています。穴内部の肌にドリル痕跡が残ることもあります。
ウ)円形の段階から作られ、金型でプレス加工されたもの
  極端な穴ずれは現在のシステム等から考えてあり得ないと思います。見分けは困難。
※あくまでも私的考えですが現行50円の2つ穴など通常の製造過程では絶対出てこない品のはずです。

④贋作スラブ
スラブ入りが安心と思いきや、スラブそのものを贋作して中に贋作品を入れる手口。これは盲点。

⑤贋作品入り真正スラブ
正直に言うと、海外スラブメーカーの鑑定技術はあまりあてになりません。スラブが本物であるのでこれはやっかい。マネーロンダリングならぬ贋作のスラブロンダリングが大量に行われています。(正規の国内鑑定書にも誤りはあります。過信は禁物です。)

⑥2重打ち・影打ち
二重打ちは、同じ貨幣を重ねてプレスすればできます。特にアルミ貨は簡単にできます。

⑦貼り合せによるもの(角度ずれ・異重量)
面背を薄く削り、角度をずらして貼り合せるもの。そのままだと側面の観察でばれるので、側面を削り、外輪(エッジ)部分のみを切り取ったものに嵌め込んだ精巧作もあるようです。
角度ずれの贋作のほかに、重量を増した厚肉銭などもあるようです。

⑧ロストワックス製法
これは鋳造の技術ですから、上記の技術に比べれば比較的見分けやすいかも。原型からシリコンなどで型を採り、ロウで原型を作り鋳造します。鋳造贋作の技術では最も進んでいますが、やはり鋳造なので限界があります。銀で鋳造された寛永銭などはこの技術の応用だと思われます。

贋作の弱点
寸分たがわぬものをつくろうとしても現代の技術では再現できないものも存在します。一番の弱点が側面の形成。贋作者も苦労するところです。一方で側面ばかりに目が行くと、エッジの嵌め込みに化かされます。
放電加工の特有の肌は顕微鏡で見ると観察できることがあります。これはプレスではできないもの。圓銀に多くみられる贋作です。
そこで贋作者は放電加工で型を作り、それでプレスします。こうなると見分けは非常に困難なのです。あと、昔のプレス機械と現代のプレス機械・・・圧力のかかり方に微妙な差があるそうです。その違いによる見分け方を発見された方もいますが、ここには書けません。おそらく、この方法による見分け方が進化すれば、近代贋作を排除できると思うのですけど・・・。いたちごっこですかね。
 
 
12月5日 【これぞ錫母?!】
ネットに文久銭の錫母らしきものが出ていて人気を博しています。正直、錫母については全くよく判っていないのですけど、少なくとも錫母は銅母銭よりさらに文字や背の波が繊細でなければならないのに”のっぺりべたっとした雰囲気のもの”が良くあります。外見はとてもきれいなのですけどね。錫は冷えて固まる際の縮小率が極めて低いので銅母銭から写してもさほど径は小さくなりません。当然、通用銭よりは文字径も大きくなりますのでなんとなく母銭らしく見えます。つまり、そういった作品が多く存在するようなのです。
最近、天保仙人様から不知銭の改造母についてレクチャーを受けた際、”母銭は面の磨き(砥ぎ)がほとんどない”という言葉が耳に残りました。たしかに面側の砥ぎが強いと文字がつぶれてしまいますので母銭としては役に立ちません。また、母銭には小刀でギリギリ削ったような痕跡があるものが多くみられます。きれいなものが大好きなコレクターはそういった傷ものを避ける傾向にあると思うのですが、実はそれは鋳造の際に鋳銭工が付けた作業傷に違いないのだと思います。事実、この錫母も拡大してみると傷だらけ。働き者の勲章ですね。とはいえ、金欠の根性なしはこのようなものに手を出す勇気はございません。
なにせ、それでもまだよく判っていない・・・のが私の今の実力ですから。
 
 
12月5日 【手替わり:仮称)萩縮通隔輪について】
萩銭は変化が激しく、同じものが二つとないとも言われる人気銭種。その中でも縮通は基本銭ながら藩鋳難獲品の中でも最難獲品クラスです。さて、その萩縮通の中のちょっとした手替わり品を東北のN様からご投稿いただきました。
一見、普通の縮通のようですが、刔輪の度合いが強く、背の当百が郭の右側よりに退いていることがポイント。通尾もピンと跳ね上がって可愛いですね。N様は縮通隔輪と命名されているようです。私のHPに縮通鋳浚い銭として掲示している物と同系統の品だそうです。皆様も探してみて下さい。
 
 
12月4日 【開基勝寶・富本銭の追加情報】
先日の開基勝寶について、天保仙人様とコインの散歩道のしらかわ様から相次いでメールを頂戴しました。ありがとうございます。

【開基勝寶】
画像の物は残念ながら、加納夏雄もしくは秋雄(加納夏雄の子)の作品ではありません。色合いも肌具合もかなり良いのですが、書体(銭文)がダメです。(理由は書けません。)開基勝寶については、真正品は国立博物館で、夏雄・秋雄作は小川青寶楼先生より、現物を見せて頂き鑑定方法も聞いております。この事を知っているのは、もうT氏と私位になってしまいました。(天保仙人)

開基勝寶は国宝に指定されていると書かれていますが、重要文化財ではないでしょうか。東博(東京国立博物館)の31枚はそうですし、皇室の1枚は文化財の指定は受けていない、と認識しています。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/Z031.htm
先月東博に行ってきました。開基勝寶は数枚展示されていましたが、すべて表面なのですね。1枚くらいは裏面を展示してほしいものです、と感じました。(しらかわ)
※確かにそのとおりでした・・・記事を訂正させて頂きました。(浩泉丸)

【富本】
富本銭が絵銭である最大の根拠は『七曜星』です。この星には『陰陽五行の、木、火、土、金、水に、日・月を足した』説や、『北斗七星を表す』説など諸説あるものの、いずれも守護・繁栄を祈願するものであり、貨幣を証明する物ではありません。実際に奈良の博物館等に行かれると、平城京の長屋王邸跡地を始め、多くの場所から『七曜星』の記された瓦(かわら)が出土しています。出土瓦のほとんどの物は軒先の先頭に置く『軒瓦』で、蓮(はす)の花弁?に囲まれており、仏教の御守りを望んでいたのかも知れません。以前現地調査した時に、地元の方から『朝廷縁(ゆかり)の家と言う意味』もある事をお聞きしました。
古来の中国思想の一つに『貨幣には魔力がある』と言う考え方があり、銭自体が力を持つと信じていた様です(現代人でも違った魔力に惑わされています)。つまり富本が貨幣であるなら「これは力がありますよ~」と、わざわざ七星を付けなくてよいのです。
中国の古鋳絵銭『厭勝銭(えんしょうせん・ようしょうせん)』に北斗七星や星座が記されている物が、御守りとして使用されていた事を考慮すれば、やはり絵銭(御守銭)として考えた方が無理は無いと思います。真正品を見せて頂いた事がありますが、和同より萬年通寶の制作に近いと感じた事があります。(天保仙人:一部編集)

(富本銭について)ものすごくうがった見方をすると・・・
●古銭商たち:富本銭が最初だとすると、日本最初だった和同開珎の価値が下がる。これは困る。
●古代史学会の人たち:旧石器の捏造事件以来、古代史学は研究材料が少なくなった。富本銭が日本初だと、新しい研究材料だ。
ではないか、と思っています。
私個人としては数の少なさと、品(ひん)のなさで、絵銭としか見えません。百歩譲っても、本格的な銭を製造するための「練習品」だと思います。(しらかわ)

う~ん、富本=貨幣説はどうも旗色が悪いようです。飛鳥遺跡からは33点出ているわけだし、現存1品の古銭もあるから数が少ないのはお許し願うとして・・・みんなあのデザインがだめだと感じるみたいですね。まあ、少なくとも交換の価値を備えたものにはまだなっていない段階でしょうから、両氏のご意見はもっともだと思います。でも、まだ日本初の貨幣かもしれないというロマンは捨てがたいなあ。
 
 
長径47.8㎜ 短径32.1㎜  銭文径40.4㎜ 重量22.1g 
12月3日 【粗造の縮形天保】
ここ1~2年の間で縮形の天保通寶がぱらぱら入手できています。今回手に入れたのは長径が47.8㎜の粗造の品。おそらく覆輪によるものだと思いますが、横太りの卵型銭形なのでまるで細郭手の草点保みたいです。面側が異様に細郭であることから判るかもしれませんが、面側から見て背の型が上にずれ上がってしまっています。横方向の捻れをかつて紹介したことがありますが、これは縦方向のずれ。それでいて縮形ですから実際の長径は47.5㎜未満しかないと思われます。
湯圧が低く製作としてはまるで明治大正時代の絵銭的な風貌なんですけど中央分離型の極印がしっかり打たれていますし、後作のものでは無いと思います。
 
 
12月2日 【加納夏雄の開基勝寶?】
ネットで見つけた画像ですけど、けっこう人気があったようです。開基勝寶は日本書紀に金銭鋳造の記載はあるものの現物がなかったため長い間存在そのものが疑問視されていました。寛政6年に西大寺西塔跡から1枚が見つかったものの明治10年に皇室に献上されて一般の目に触れることは不可能になってしまいました。そのため贋物説まで出ていたのですが、昭和12年に西大寺寺領から31枚も発見されることになり、実在が改めて証明されたことになりました。(現在では重要文化財に指定されているようです。)
この開基勝寶には明治金銀貨の図案を製作した明治金工界の第一人者”加納夏雄”が模作したものが残されているそうです。日本貨幣協会例会500回記念愛泉譜には古文亭丹野氏による拓図の出品があり、それによると共箱と由来文がついているとのこと。また、輪の側面に”なツを”のネームが入れられているとのこと。
さて、画像の品ですがレプリカとしてはしっかりしたものだと思います。桐箱がついておりピンボケで判読が難しいものの、ふたの裏の左から3行目の下段に夏雄の文字が見えますのであるいは加納夏雄のものなのかもしれませんが、ちょっと怪しい気もします。
なお、開基勝寶は重量が11~17.6gとバラバラで、等価交換流通を狙ったものではないのかもしれません。つまり宝物=恩賞用であった可能性が高いのです。実際に鋳銭を命じたのは恵美押勝(藤原仲麻呂)であり、私的に寺社に寄進をした宝物なのかもしれません。
この開基勝寶のうち、発見された物とは別に1枚が存在し、人夫によって待ちだされたのではないかと言う噂があります。それを売りに来られて実際に見たのが小川青寶樓。余りに高額だったので買うことをためらっているうちに、売主は姿を消してしまったそうです。
※そういえば天保仙人様は『富本』は絵銭だと明言されていました。うっかりその根拠を聞きそびれてしまいましたが、なにせ日本初のことですし、お金と言う概念が浸透する前のことですから、曖昧な意味でのお金でも私は良いような気もするのですけど・・・皆様、ご意見をお聞かせください。まあ、富本はお金と言う概念からは体裁は相当外れてますけど、お金が流通する前に絵銭が出回るというのもおかしい気がしますし、流通を円滑に行うための地ならし、見本銭と思えばそんなに間違いはないかもしれません。(銭文デザインは相当変わっていますけど、重さは4.25~4.59gと鋳造品としてはかなり精巧です。そういう意味では貨幣としての体裁は整っています。)
幻のお金と言えば日本最初の銀銭である(かもしれない)太平元寶があります。大正年間に大阪の亀岡清谷(寿昌堂)が刀の目貫(刀をとめる目釘の飾り)として使われているのを発見したものと、唐招提寺の経蔵で発見されて伝わっていたものとが知られていますが、今では両者とも紛失状態。古拓本だけが残されており、書体が一致することから存在したという話の信憑性は高いと思われます。
 
11月30日 【玩多夢氏からのメール】
久々に玩多夢氏からメール連絡を頂戴しました。携帯電話からの送信らしく、私のPCからはうまく返信ができませんでした。つきましては返事を兼ねまして、その情報をほぼそのまま掲載させて頂きます。

『上原?恵泉堂?』は神原M氏のことで泉号は”経泉堂”です。確かに、平尾麗悳荘の旧蔵品を即売誌だったか入札誌だったかは忘れましたが販売されておられました。奇天があったかどうかは記憶がありませんが天保銭もいいものが出品されていました。多分まだどこかに置いてあると思うので調べてみます。
この神原氏が小川青宝楼氏の「新訂天保銭図譜」について瓜生有伸氏とボナンザ誌上で論戦されました。若干、この論戦にも触れ収集誌の新春エッセイで水戸正字について寄稿しました。見解の相違があるかもしれませんが「水戸正字」はありますのほうに傾いた表現になっておりますがご容赦のほどよろしくお願い申し上げます。(玩多夢)


と、言うわけで昨日の記事は修正させて頂きました。
私は玩多夢氏とどうもオークション会場で一度お会いしたことがあるらしいのですが、古銭のことで頭がいっぱいの私の腐敗した脳みそはそのことを完全に失念してしまっておりました。玩多夢氏の情報はちらほら耳にしておりまして、なんでも関西方面在住のとても熱心な収集家だということを拝聴しています。もっとも玩多夢という泉号からすると、案外お若いのかもしれません。ちなみに私はアトム&鉄人28号世代なのです。
なお、水戸正字については未だに私には謎多き品。収集誌新年号がとても楽しみです。
玩多夢様、ありがとうございました。
 

※記事の再訂正をしています。(12月1日)
 
11月29日 【天保仙人秘談11:奇天は民間にもう1枚ある!】
平成17年の銀座コインオークションは異様な盛り上がりでした。方泉處コレクションが放出されたからです。中でも目玉は不知長郭手奇天。奇天のほとんどは日本銀行・国立民族博物館に収蔵されてしまい民間にはこの1枚しか残っていないとされていました。結局、この天保通寶は660万円という破格の落札値でどなたかの手に落ちたようです。(右画像は当時のカタログ写真)ちなみに奇天手も出ていて110万円の落札値でした。
しかし、仙人様の記憶が正しければ実は奇天は民間にもう1枚あるはずなのです。
その売買を手掛けたと言われるのが神原氏。仙人様によると・・・神原氏は当時は神原経泉堂(かみはらけいせんどう)と名乗られていたそうです。もとは静岡で身を持ち崩しかけていたのを、家族が家宝の刀を手放して立ち直りのための資金を調達。売却を手伝ったのが秋田のM氏の番頭さんだったそうで、その縁なのか身柄を小泉穂泉氏が引き受け、そのとき手掛けていた平尾賛平麗悳荘のコレクション処分を手伝ったそうです。その上原氏がなぜか奇天を保有(販売委託されたものらしい)していて、なんでも信越方面で売却したらしいのです。
実はこの神原氏、今は神主さんだそうで、テレビ東京のなんでも鑑定団に出演したこともあるとのこと。その時は平尾コレクションの一部を披露したようなのですが、残念ながら私は見た記憶がありません。仙人様はたまたまこの番組の放映を見ていて、神原氏の名前とともに奇天のことをまざまざと思いだしたそうです。
※この奇天は大橋義春氏の当百銭研究分類譜に掲載されていたものかもしれませんし、昭和43年頃に奇天が4枚出たという噂があるそうですのであるいはその1枚なのかもしれません。(不知天保通寶分類譜の記事より推定。)民間にあるかもしれないお化けはいろいろありますが、丸型天保と並びこの奇天は噂話ではなくかなり信憑性の高いお話です。 
 
11月28日 【文久 珍品・稀品・垂涎の品】
大分貨幣研究会から例会資料と文久永宝周遊会の資料を頂戴しました。祥雲斎氏と唐松堂氏のタッグですから強力この上ないですね。さて、その中から気になるもの・気に入ったものを少し掲載させて頂きます。
上段は宮崎のK氏が発見された従来の泉譜類に見当たらない深字手だそうです。仮称)
深字手短久長点文小頭永異冠寶とのこと。この類は細かい変化が多く、雑銭なので私も食わず嫌い的なところがありますが、もう一度探してみようかしら。
中段は祥雲斎氏が発見された”3枚目”の
直永手細字離足寶とのこと。離足寶になる文久はいろいろありますがこれは別格。郭の周囲が削られて離郭になることが条件のようです。名称としてはこの特徴をいれないと見当違いを犯しそうですね。その他、拓で見る限り尓の後点が降る癖があるように見えます。この銭種、その昔に江戸コインオークションに出品されたことがありまして、そのときに入手しそこないました。(それ以降いまだに出会っていません。)ちなみに私が初めてオークション(郵便入札)で入手したのが細字長寶でした。文久にお金をたくさん払ったのはこれが最初であり、私のオークションデビュー品でもあります。
そして下段は何度も紹介していますが、その昔に入札誌”穴銭”に出ていた深字刔輪の一種で、唐松堂氏が”
深字狭永正文狭穿短尾久”と命名したもの。郭の周囲が削られ細郭(離郭)になっており、旧譜では深字勁久再刔輪の名前。
狭文、狭穿で地の面積が広く、建炎通寶の小字のような美しさ。(マニアックな表現で恐縮です。)ここまですっきりした文久銭ははじめてであり、拓を見た瞬間に稲妻に打たれたぐらいの衝撃を受けました。競争をかいくぐって入手した方が青森の哲泉氏と知り納得です。私もお気に入りなので再々登場いただきました。別嬪でしょう?
(HP掲載用に拓本を加工させて頂きました。)
 
 
11月27日 【最小様の不知長郭手】
四国のK様からの投稿です。(ありがとうございました。)
長径47.3㎜、短径31.2㎜、銭文径40.2㎜の覆輪の長郭手です。不知天保通寶分類譜においては、48㎜以下の天保銭をまとめて銭径縮小銭として分類しています。見つかれば死罪が免れない不知銭は、密造であることを発見されないことが第一ですから、あまりに規格外・・・特に姿かたちが小さいことは行使において怪しまれますので致命的な欠陥になります。覆輪刔輪などの一見面倒くさい技法がなぜ天保銭密鋳造において盛んに使われたのかという事の背景には、どうやらこの点があるようです。不知天保通寶も48㎜を切るものはかなり少ないと思います。ちなみに私の不知銭所持品の記録は47.5㎜です。
これより小さいのは秋田小様ぐらいかしら?
 
 
11月26日 【天保仙人秘談10:化け物到来・筑前通寶母銭】
正月が明けて松が取れた頃、貨幣商組合から催事の案内状が届きました。
いつも会社に届くので、会社の上階に住んでいる姪が、机の上に置いておいてくれました。朝方出社して何気なく販売目録を眺めると、湯島コインさんの処で眼が釘付けになりました。そこには『筑前通寶・銅母銭』と記載されていたのです。当時、筑前通寶の母銭は、大川天顯堂先生→小川青寶楼先生所蔵品の一品物で、青寶楼先生亡き後に瓜生さんが持ち出し、業者のT氏が九州の謀家に納め秘蔵品(持ち主が死んだ後に、遺族が売却しないと決めた古銭)になっており、市場には再び出無いだろうと言われていました。『まさか?』とは思いつつも、『ひょっとして遺族が手放したのかも?』と思い電話をかけました。
『かかって来ると思っていました』との店主のKさんの言葉に、すぐに見に行くと伝えました。私の会社は貴金属・宝石も扱っていたので、大人が2人位入れる大金庫があり、貴重な古銭はそこに入れていました。その日は朝から大雨で、客が来る様子も無く仕事も大した事も無かったので、姪に留守番を頼み、金庫の中に保管してあった筑前通寶通用銭3枚のうち一番大きい物を選び、雨合羽を着てバイクに乗り一路湯島さんに向いました。
お店ではKさんが迎えてくれて、早速現品を拝見する事になりました。話によると、筑前通寶の母子を預かり通用銭は地方で売って来たとの事でした。『あなた向きだと思って』と出して来た古銭を一目観て『筑前通寶の銅母銭だ!』と解りましたが、口には出しませんでした。『どう?銭径も大きいし、種でしょ?』と何回も聞いてくるので、『もしかしたら、Kさんは母銭と決めかねているのでは?』と内心思い『大きいけどね~』と、話をはぐらかしていました。どうりで価格が安い訳です。
後に収集誌上でも発表することになりましたし、大会等で見分け方を話しましたので、現在では多くの人が知る様になりましたが、当時はその鑑定法は4~5人位しか知らなかったのです。しばらくして片岡さんから、価格の提示があり(姿の大きい通用銭かもしれないとして少し価格を上乗せして)購入する事になりましたので、Kさんの奥様はニコニコ顔でお茶を入れて下さり、Kさんも気分が良かったのか2枚の天保銭をサービスで頂きました。1枚は加賀千代作の錫母銭で浩泉丸氏へ、もう1枚は仙台のN氏の処に行きました。こうして筑前通寶・銅母銭は現存2枚となり私の泉箱で眠っています。 
 
長径49.4㎜ 短径32.3㎜ 銭文径41.3㎜ 重量20.0g
11月25日 【細字陰起文の天保】
出品名は覆輪刔輪細字長足寶でした。全体に湯圧が不足しているような印象で文字は陰起しています。そのため肉眼では小点保狭玉寶に見えますし、おそらく拓本でもそうなると思います。(画像ではそう見えませんけど・・・。下の元画像をご参照下さい。)不知天保通寶分類譜では下巻の59~60Pにある狭玉寶(大様)や狭玉宏足寶に該当すると思われます。寶下の刔輪がきつく、宏足寶気味の印象なのですけど、銭文径は意外に大きく41.3㎜程度はあります。画像より見た目の実物の方が特徴がはっきり見えるのでワンランクは上に見えてしまう不思議な品です。
 
 
11月24日 【天保仙人秘談9:会津萎字小郭と短貝寶母銭】
※天保仙人様からまたご寄稿頂きました。前回までは(伝聞として)あえて書き改めたのですが、今回は原文をほぼそのままに掲載します。その方が臨場感が伝わると思いますので・・・。


25年位前の事です。湯島コインのKさんがお元気で活躍されていたとき、デパートで開かれていた即売展で声を掛けられました。ブースに行くとショーケースの中から1枚の天保銭を取り出して『買ってもらえませんか?』との話でした。良く見ると何と『会津萎字小郭』銭でした。
当時はまだ持っていなかったので、良いな~と思い尋ねました。『おいくらですか?』『100万円です。』『エッ~!』
私が驚いたのは丁度その頃、秋田のM氏の重品を瀬戸のS氏が50万円で譲り受けた事をS氏から聞いていたからです。
K氏は『高いのはわかっているけど、何とか買って欲しい!』と、その理由を話してくれました。なんでも小川青寶楼先生クラスの藩札の大家が居られて、穴銭も相当な物を持っている。ただし、藩札が欲しいなら先に穴銭を売ってくれば出しても良いと言われて渡されたのが萎字銭だったのです。つまりその萎字銭を売らないと、藩札を分けてもらえず、しかも相場の倍の価格だったので誰も手を出さず、売れなくて困っていたのです。
『高いのは十分承知しています、けれどこれを買ってくれたら、必ず良いものを引っ張り出すから、俺を信じて買ってくれないか』と、頼まれました。内心では『倍か~』と躊躇しましたが『良いですよ、あなたを信じて買いましょう。』と購入を決めました。支払いを澄ますと『有難う、すまないね~、必ず良い物を出すから・・・出たら電話するよ』と言われ、帰宅しました。
それから2~3週間後、仕事中に電話がかかって来ました。『約束の物が出ましたよ~!』声が弾んでいます。『何が出ましたか?』と聞くと『会津・短貝寶の母銭です。』『エッ~!』
とにかく急いでお伺いして購入しました。
『前回50万円高かったので、今回は50万円引いておきます。』と、値引きまでしてくれました。
当時はまだ、秋田のM氏・青森のI氏・瀬戸のS氏達も、短貝寶の母銭は持っておらず、M氏からは『欠点が無いな~』、I氏からは『売ってくれ~』、S氏からは『良いな~』と、褒め言葉を頂きました。しかしその後に、もっと凄い超~!化け物(本では知っていても、見た事の無い古銭)が
出て来るとは、当時の私は全く夢にも思っていませんでした。(つづく)

スケールの大きなお話です。損して得取れとは良く聞く話。実はわかっていてもなかなかこれは行動には移せないのです。清水の舞台から飛び降りる覚悟も時には必要なんですけど。 
 
11月23日 【天保仙人秘談8:勇文と奇天手】
今から30年以上昔の話・・・瓜生有伸天保通寶研究会会長の声掛けで、天保銭の売り立て会があり、古銭界の名を馳せた収集家ばかりが十人余り集まりました。
天保仙人様はその頃はまだ若手で、末席にはいたものの資金力的にはなかなか太刀打ちできなかったそうです。『水戸・遒勁』『石巻・反玉寶』『盛岡銅山』などの名品が次々に盆に載せられ回され札が入れられますが連戦連敗だったそうです。仙人様は『仙台・広郭』一本に絞って全力で落としに行きます。下値は30万円!でしたので50万と紙に記入して入札投票!5人の札が入りましたが、仙人様は1位同着で決戦再投票になりました。負けたくない仙人様は目をつぶった金額を入れたそうです・・・絶対負けないはずの金額です。しかし、その品は1万円差で先輩の手に落ちました。
これにはさすがの仙人様もがっかりです。先輩方はすでにお気に入りの品を4~5品ほど落札しており、みんなホクホク顔だったようです。一方、仙人様は何ひとつ落とせず肩を落としていたそうで・・・そんな仙人様の様子を瓜生会長が可哀想に思ったのか『これを買いなさい』とさらに1品廻してくれたそうです。それを観た先輩方から、『オッー!』『凄い!』と、どよめきが起こったそうです。
それは『勇文』でした。ところが周りの先輩方の目はキラギラと輝いていたそうで興奮状態でした。せっかくの会長の声掛けもむなしく『この雰囲気では、とてもじゃ無いが入手は無理』と半ば諦めていたとき、T商会のT社長が『彼は何一つ取れなかったから、これは彼に譲ってやろうよ!』と語ってくれ、この一言に先輩方の間に合意が形成され、仙人様は下値で入手が出来たそうです。もっともかなりの高額だったそうですので、資金繰りのため仲の良かった西日暮里のR堂さんに明治の旧・新金貨のコレクションを持参して、事情を話すと祝福された上に高額で買い取ってもらえたそうです。実は『勇文』は絵銭収集家のA氏も欲しかったそうなのですが、T社長の声に譲って下さったそうなのです。
なかなか人情のある話ですね・・・ところで、この話にはもうひとつおまけの話があります。
仙人様が旧・新金貨コレクションを売却して作ったお金で瓜生会長に支払を済ませたときのこと・・・『勇文を入手したのだからこれも買いなさい』と、眼の前に2枚の天保銭が置かれました。
驚いたことに『奇天手』と『試鋳銭』でした。
瓜生会長によると『別の方に譲るために売り立て会に出さなかった。』との事でした。再び購入を決意したものの、やはりお金が足らず、再びR堂さんに小判のコレクションを持参し説明すると、『続けて凄いね!良かったね』と、お茶で祝杯をあげてくれたそうです。
 
 
11月21日 【曳尾の大様】
関西のSさんからの投稿です。(ありがとうございます。)長径50.27㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.48㎜の大型の曳尾銭。曳尾には大きいものが多いのですけどさすがに50㎜超えは少ないと思います。ただし、村上譜には3枚も載っていますが・・・。極印がものすごく小さく見えます。ところで、最近造幣局から銀貨が送られてきました。まだ未開封ですけど私が頂戴したものはなかなかシュールで楽しいデザインですね。
 
 
11月18日 【ミニ勉強会】
11月14日、天保仙人様宅で行われたミニ勉強会に参加しました。参加者は私以外に仙人様の友人にして古銭仲間のSさん、キュリオ編集長のAさん、そして初対面・初参加のあの
鉄人さんです。私は反玉寶や南部銭について改めて勉強したいと希望していまして、あらためて仙人の蔵品を拝見させて頂きました。その取材から・・・

反玉寶について
流通した天保銭から不知反玉寶の細縁が見つかるようになってきたとき、鋳放しの反玉が母銭の未仕立てであったのではないかと大騒ぎになりました。その鋳放しの反玉寶は木村昌古堂が石巻で入手したということで、一緡を東京都内に持ち込んだもの。鋳肌は低温度でつくられたぶつぶつ肌が、仕上げられず残っています。
持ち込んだもののはじめは人気が無く、さっぱり売れません。そのため自ら仕上げを行って売り歩いたともいわれます。その変造したと言われる後仕立の反玉寶は、きれいな桐極印が打たれているそうです。
反玉寶には書体では瑕寶と正様の2種があるそうで、瑕寶は少ないそうです。鋳放し銭には細縁気味のものがあるそうで少ないそうです。瑕寶の細縁(仕立銭)も存在しますが、これは極端に少ない。さらに半仕立と言われる外輪仕上げで穿内だけ鋳放しのものも存在します。
これにも瑕寶と正様の2種があるそうで、拝見させて頂きました。
このような仕上げ方は南部藩内・・・浄法寺に時折みられるもので江刺寛永もそうですけど、反玉は浄法寺そのもののかもしれません。浄法寺が寛永銭だけをつくって天保銭をつくらないわけがないからだそうです。なお、浄法寺の読みは正式には「じょうぼうじ」ではなく「じょんぼじ」ということ。これは知らなかった。
ところで反玉は岩手以外の東北地区ではあまり人気がないそうです。たとえば秋田の英泉氏は天保通寶研究分類譜に1枚しか拓本を載せていないと思います。その理由は南部藩主が敵役として歴史的に嫌われ、東北の地で人気がないから・・・という意外なものでした。
本年入手した称:南部肌の不知天保銭を見て頂きましたが、穿内の肌具合は反玉に近いそうなのですが、極印がきれいすぎるそうですし、肌の感じも違うそうです。反玉の極印はもっといいかげんだそうです。さらに反玉にはシークレットマークがあるそうなのですけど、残念ながらまだ教えるには早いという事。もっと勉強しなくちゃ。

さらに、暴々鶏氏から拝領した
極薄肉の銅山手も見て頂きました。
鑑定の結果・・・写しではなく正座であると報告を受けました。写しの場合、側面の極印がもっといい加減になるとのこと。たしかに銭文径に異常はなく、書体、金質とも問題はないのです。とはいえ、ものすごく珍しいものとのことでした。
ちなみに、琉球の29.6gのものについては、仙人様も同様のものをお持ちでして、私の記録を0.1g上回る29.7gでした。

遅れてキュリオのA氏が到着したときに
誌上入札に出た不知天保銭2枚の話題になりました。実はそれは私が落札していまして、たまたま出発直前に郵便局が配達に来たので受け取って持参していました。そのうちの1枚が鋳写し母銭だとは夢にも思わなんだ!
A氏と仙人様の解説でその事実が分かりました。
キュリオを定期購読していてよかったと思う次第です。

なお、仙人様宅でものすごい珍品を拝見しました。
「やせガエル 負けるな一茶」 ここにあり の俳句の短冊です。仙人様の奥様の家系に伝わる家宝とのこと。なんでも四国の水軍の家系だそうですから歴史があります。(といっても一茶は江戸期の人ですけど。)一茶は足立区のお寺でこの有名な句を詠んだあと、都内の料亭でこの俳画を画いたそうで、料亭が火事に遭った際に家主は命がけでこの句を守ったそうです。ご先祖様は故あってその家宝を入手したそうです。
真っ黒でしたがいかにも古いもの。なんでも鑑定団に出してみたいですね。本物なら国宝級でしょ。
ちなみに我が家にも祖父が集めた東郷元帥と狩野探幽の掛け軸があり、かつて何でも鑑定団に出そうとしたことがあるのですけど、父から「街を歩けなくなるから出してはいけない。」と懇願制止されました。信じるか信じないかはあなた次第です。

さて、まだまだ、書きたいことはたくさんありますが、長くなりますので残りは後日。なにせ録音時間で5時間に及ぶ取材ですから・・・。
 
 
11月16日 【不知天保母銭の見分け方】
表題の件について、情報・アドバイスを頂戴しましたので付記します。

古銭には皇朝銭・寛永銭・古文銭・色々ありますが、全て地金・製作工程・使用目的が異なるのでを同じ感覚で観てはだめで一つ一つの時代背景に考慮して考えなければいけないそうなのです。天保銭・・・特に不知銭の場合は銭径で判断する『方泉処式分類法』は役に立ちません。

天保銭鑑定の場合、この天保銭が何故作られたのか?・・・を考えるべきだそうで、先の天保銭を通用銭とした場合には、『面背のヤスリ掛け(圧力)が殆ど無い事』に気づきます。これは通用銭としては異常なんだそうです。
本座・藩鋳の場合は仕上げにおいて銭文を肥字にして、鋳写しすると文字が潰れるようにして母銭として使用できないように強く深く仕上げを掛けるのが通例だったそうですけど、不知銭の場合は『贋作とばれない為』に仕上げを掛けるのだそうです。
密告で賞金が貰える時代で、贋作者が一番怖いのが密告、つまりタレコミ。「あれ!おかしいな!ニセ金では?」と思い、奉行所に届ければいくらかの報奨金が貰えた為に密告が多かったそうなのです。

不知銭の面背に強いヤスリ仕上げが無いのには特別な事情があった、つまり『母銭としてつくられたのでは?』と考えられますので、文字の立ち具合や穿内と輪側のヤスリ掛けを判断してゆくそうです。
以上の観点に従い『面背・穿内・輪側のヤスリ、文字の立ち上がり、肌面の滑らかさ』から、出品者はこの不知銭を母銭と判断したそうなのです。不知の母銭の場合は『改造したままで、母銭と使用した場合』と、『元型をそのまま使用でせずに、更に母銭を作った場合』が有り、今回は後記の方。古の所蔵者も同じ考えであったため母銭と言う朱文字を入れていたのだ(つまりかなりの識者)と思いますが、出品者の方は受付の担当者に『母銭と書いてありますよ!』と言われるまで、その薄れた朱書きのことを気にもしていなかったそうなのです。(笑)

なお、出品段階では出品票には『天保通寶・不知長郭手・覆輪刔輪・長足寶・母銭仕上げ』と書かれていたそうですが、印刷誌上には『天保通寶・不知長郭手』としか書かれていませんでした。出品された方は掲載後にそのミスに気付いたそうですが、誰が気づくかを楽しみにあえてそのままにしておいたそうです。

と、いうわけでどうやら私は超ラッキーボーイだったみたいです。朱書きには気づいていましたけど、母銭だとは思わなんだ。たしかに文字の立ち上がり・・・とくに背側と郭の仕上がりはすばらしいですね。仕上げは軽やかで文字潰れはありません。私は母銭と言うと本座の改造母しか思い浮かびませんで、加刀、鋳ざらいばかりに目が行きます。こういう考え方があるとは知りませんでした。 
 
11月15日 【今年の10大ニュース候補】
実は3日間、都内に出張していました。仕事がたまっているので恐ろしいのですけど、昨日仙人様とのミニ勉強会を決行しました。なにより、鉄人と初めてお会いすることができました。ところで今年の入手品の中での10大ニュース候補を挙げますと・・・
こののところ、収集の8割を占めている天保銭系では
1.長郭手奇天手
2.長郭手覆輪強刔輪長張足寶背細郭
3.中郭手覆輪刔輪斜冠寶(短尾通細字濶縁)
4.長郭手刔輪細縁
5.長郭手覆輪強刔輪長張足寶(次鋳)
6.長郭手張足寶小様
7.長郭手覆輪刔輪短尾通(小様)
8.反玉寶仕立て銭(細縁)
9.長郭手覆輪細字白銅質(鋳写母)
10.細郭手強刔輪狭長足寶
11.極薄肉の銅山手
12.浄法寺長郭手極厚肉銭
13.29.6gの琉球通寶
14.細郭手縮形痘痕肌

順位は暫定で10番目に入れた細郭手は重品だからこの位置にしましたが本来ならものすごい珍品なのです。
やはり奇天手が偉大すぎて・・・ランクをつける意味もありません。ことしはこれで終わり!

寛永銭では・・・
1.白目中字写(鋳写葛巻母銭)
2.盛無背異永(暴々鶏氏愛蔵品)
3.江刺大頭通
上位2品が飛びぬけています。密鋳4文銭も面白いものがたくさんありますが、評価が難しいので割愛。

掘り出し・投稿等の品では・・・
1.福岡離郭大濶縁(11月8日:ヤフオク出品)
2.明和期小頭通(11月3日)
3.島屋文小頭通と膳所額輪母銭(11月2日)
4.福岡離郭大様(10月31日)
5.古寛永狭穿大字(10月24日)
6.深字降辵仰永鋳放超大型母銭(10月22日)
7.長郭手奇書体(10月17日:江戸コインオークションより)
8.旧和歌山中之島繊字濶縁大様母銭(9月29日)
9.久留米正字濶縁原母銭(9月27日)
10.踏潰俯永様(9月19日)
11.不知勇文手(9月11日:オークションネットの古銭入札誌より)
12.長郭手狭玉狭足宝(9月5日)
13.小名木川背川(7月27日)
14.久留米正字鋳替母銭(7月12日)
15.寛文期亀戸銭退点文小様(6月30日)
16.江刺大頭通の新種(6月17日)
17.密鋳厚肉俯永(9.6g)(6月16日)
18.安政期離用通雫足寶(5月19日:北秋田寛永通寶研究会より)
19.長郭手張足寶小様(5月9日)
20.盛岡銅山(5月1日:ヤフオク出品)
21.長郭手強刔輪宏足寶(3月20日)
22.長郭手覆輪縮径銭(3月13日)
23.方字次鋳(3月11日)
24.和歌山長尾寛鉄銭(3月7日)
25.長郭手強刔輪長張足寶未使用銭(3月3日)
26.密鋳銭の面背逆製(2月22日)
27.文久永寶深字狭永勁久正文広穿広郭(2月12日)
28.真正面背逆製の不知天保(1月19日)
29.深字降辵は2種類あることの発見!(1月12日:北秋田寛永通寶研究会より)
30.不知長郭手仰二長天(1月2日)
主だった品でもこれぐらいかしら・・・。書ききれなかったので漏れがあったらごめんなさい。このHPが投稿に支えられていることが分かります.

その他の話題としては・・・
1.横浜古泉研究会の関氏の急逝と穴銭の廃刊
2.雑銭の会の活動終了
3.喜多秋田寛永通寶研究会の菅原氏の入院と療養
など、つらい記事が多かった。個人的には愛猫を失ったことは今でもきついですね。

嬉しい内容として・・・
1.連続HP更新記録の新記録達成
2.天保仙人様と鉄人様とS様、キュリオ編集長のA様と勉強会を開くことができました。(11月14日)
3.T様、N様、K様、S様、鉄人様、唐松堂様、祥雲斎様など様々な方から情報・資料等を頂戴しました。
※(なお、勉強会の内容については別途記述予定)
 
 
11月14日 【キュリオの入札】
キュリオマガジンの落札品が届きました。2品とも白銅質の不知銭です。 キュリオマガジンの入札は意外に穴で、私はほぼ無競争で入手できました。
左:
長郭手覆輪白銅質 長径48.9㎜ 短径33.2㎜ 銭文径41.1㎜㎜ 重量19.2g
横太り形の長郭手。穿内はいわゆる「べったりやすりがけ」です。面白いことに土佐額輪のように、輪の内側が低くなっていて、段差がしっかり認められる場所もあり、覆輪の痕跡だったら面白い・・・と思う次第。極印はアスタリスク型としたものに似ていて、桜の花のようにも見えます。

右:
長郭手覆輪細字白銅質(鋳写母) 長径48.8㎜ 短径32.1㎜ 銭文径41.3㎜ 重量20.0g
先ほどのものと色は似ていますが、かなり細身の銭形です。地肌はざらざらしていますが、全体の製作は丁寧で、背郭はきっちり整い、背の文字は細くなるように鋳造前の段階で加工されています。未使用に近いらしく手にすると角が立っているように感じます。側面が砥石で磨かれていて、無極印のようにに見えます。穿内も「べったりやすりがけ」。
古い収集家の所有物らしく、実は背に朱書きが残っていて、私が応札した理由もここにあります。朱書きをよく見ると・・・右側には母銭の文字がありました。(左側は判読できませんでした。)出品直前にキュリオ編集職員も気づいたそうなのですけど、そのまま出品されたという逸話も聞きました。出品された方は誰が気づくのか・・・試していたそうです。
これを母銭としてできる通用銭は48㎜程度しかなく、少し小さすぎるような気もしますが、この天保銭の朱書きから見て、かなり古い古泉大家による判断が過去にされたのだと思います。
このあたりが瞬時に判断できるようになれば、私も一人前なんですけどね。奥が深いです。
 
 
11月10日 【新作祭り】
みなさん結構踊らされています。ご注意を!
左上:水戸遒勁模造ですけど、違う名前でした。
右上:退天巨頭通模造。俗称は三納天保?
左下:長反足寶模造。これは傑作です。
下右:極印と側面。近代的です。
拓本から版が起されていると思いますけど、画像からは判別は難しいですね。側面はグラインダー仕上げのようで平滑。穿内もべったりやすり。極印は角型のものを組み合わせて桐らしく見せています。贋作の横行で中国古文銭収集趣味は壊滅的な状況になってしまいました。皇朝銭も狙われていてかなりあぶない。寛永銭・天保銭についてはコレクターが守るべきです。
 
11月9日 【面偏輪の文政離用通】
ネットで収集した文政離用通です。見ての通り著しく面のデザインが偏っています。後天的なものではなく、鋳造時のもの。つまりエラー銭です。面の穴位置もずれているように見えますし、面側がかなり浅字なので出品した方は総合的に見て面背逆製と判断されたようです。
手にした瞬間『薄っぺら感』をものすごく感じます。実際に重さを量ると4.1gしかありません。子細に観察すると、寶字側に穿は偏っていて中央にないことが観察できます。背輪も寶側の方が細い。そして広がった穿・・・とくに通側に押し広がった形に注目。これで謎が解けました。
すなわちこの寛永通寶は側面仕上げの際に穿に挿す角棒が細めでしかも斜めに傾いた状態で入り、通側に穿を押し広げる形ではまってしまったと考えられます。そのような状態になった原因こそこのペラペラの薄さ。郭の強度が足りなかったのだと思います。その結果、仕上げの偏りが生じて面偏厘に仕上がったと考えられます。(中心点がずれた状態で仕上げを行うとオレンジ線で示したように偏輪になります。)もちろん、面と背の微妙な型ずれも確かに存在しますし、むしろ背のデザインの方がきちんと中央に納まっているように見えます。そういう意味では面背逆製ではないかという見解は確かに着眼点としては間違っていません。ただ、鋳ばりの形状に矛盾はありません。したがって、これはやはり薄さが原因による穿ずれにより、仕上げそのものが偏ったものとみる方が妥当でしょう。
面背逆製ではなくても、ここまでの偏輪錯笵は珍しいと思います。文政離用通は役物ですし、なかなか面白い錯笵だと思います。
分かりやすい穿ずれによる偏輪の例を右に提示します。四ツ宝銭の跳永ですけど寶側に硬い鋳バリがあるため穿に通す仕上げの角棒がまっすぐ入らず斜めに入っています。目戸切りという穿内の仕上げが雑か省略されたかで、仕上げ砥ぎに出されたものと考えられます。穿が通側に偏り食い込むことで中心がずれ、偏輪仕上げになっています。こういった偏輪の場合は面背とも同じ側に偏輪になる特徴があります。東北のSさんからも参考画像(文政小字背削輪)を頂戴しました。こちらほ穿内にある、強固な鋳バリにより、仕上げの中心点が(面側から見て)右上方向にずれたもの。もはや銭そのものが真円ではなくなっています。こんな穿に仕上げの角棒が通るとは・・・。
 
 
11月8日 【離郭大濶縁】
離郭濶縁は福岡藩銭の名品として名高い天保銭の稀品なのですけど、画像の品は通常の離郭に比べても輪幅が立派。ネット上でもすぐに反応が生じました。通常の離郭の倍の評価が付いたのです。
ところで離郭濶縁にはM氏作ではないかと噂される鋳写しの贋作が存在します。私はまだ出会ったことはありませんが、赤茶色の銅質の写しのようで、昭和40年代に相次いで出現したようです。
写しですので、特徴はきちんと伝鋳されているようですけど、長径は48㎜を切りますので判別は可能だということ。
最近は拓本写しの精巧な古寛永や天保通寶が相次いでネットに出ています。ネットの住民の皆様はすでに警戒モードに入っておられるようですが、どんどん新種が現れていますのでご注意ください。

【余談:レイアウト崩れ対策について】
ここのところスマホに対応すべく、いろいろ工夫をしていました。書体変更は最たるものでしたが、その結果で生じる『パソコン画面で見る状態とスマホ画面で見る状態の差』に悩まされてきました。パソコンで正常に見えてもスマホの画面ではレイアウトが崩れてしまう。中でも文字の大きさが勝手に大きくなってレイアウト枠が崩れる現象は原因が分からず、何度も修正をしても新たな場所で発症・再発を繰り返すなどいたちごっこでした。
HP作成ソフトの自動修正機能等に問題があるとにらみ、一部の機能を切断することで制作日記の中が落ち着きました。
具体的な対策としては・・・
1.問題個所のフォントの大きさ、文字種を固定化指定したこと。
2.構文エラーの自動修正・自動成形機能を停止したこと。
3.挿入した表の中の文字の折り返しを一部やめたこと。(手動的な改行に変更。)
これによって、制作日記のあちこちにみられた文字化けやレイアウト崩れの怪現象は影をひそめました。とはいえ、確認はまだ自分のスマホでしかしていません。制作日記だけでこの有様ですから他のページがどうなっているのか・・・見当がつきません。
HPづくりは初心者そのものなので技術的には全く素人ですから・・・。もう一度勉強しなおそうかな・・・。

鳳凰山様 残念ながら銀座コインオークションには参加できませんでした。いろいろとお気遣いいただき恐縮です。HP上で失礼ながら取り急ぎご連絡申し上げます。 
 
11月7日 【加工された郭】
分かりやすいように簡単な画像処理を施してありますが、郭が後加工されていることが判りますか?
(実物はここまではっきりしていません。)本座の広郭を中郭に変造したものです。
①郭内部がバーナーで焼かれています。炎による変色がはっきり分かります。これは後から入れたやすりの真新しい傷跡を隠すためのものです。
②郭の角や下辺がいびつ。天保通寶は背側から軽くやすりが入るのが習わしで、鋳バリを取り除くためですから通常は面側までには及びません。面側の郭角や辺がいびつになるのは、面側からやすりが強く入れられた証拠で、本座はもとより藩鋳銭でもほとんどありえません。※密鋳天保には郭内べったりやすりが存在します。
③画像を省略しましたが穿内に鋳肌が観察できません。いけない理由は上のものと同じです。
加工をするだけで価値が上がるものとしては、本座広郭 → 中郭 秋田広郭・長郭 → 細郭 琉球広郭 → 琉球広郭広穿 福岡離郭 → 離郭細郭などが考えられます。
とくに中郭と秋田細郭は贋作がとても多いので注意が必要だと思います。参考記事としては4月30日の制作日記をお読みください。 
 
11月6日 【超武骨の逸品】
四国のKさんからのご投稿。(ありがとうございます。)10月24日の投稿に続き、またまた野性味あふれる品。拡大画像で見ているとあまりのゴツゴツぶりに頭が変になりそうなのですけど、やや縮小した画像でも心がざわつくつくり。貨幣と言うより、模様のある金属片ですよね、これは。(だから好き!)このような密鋳銭は見たことがありません。島銭と言っても良いような風貌です。
※古銭で気分転換はなかなかできませんけど・・・K様、ご心配をおかけしました。 
 
11月5日 【ペットロス】
私事で恐縮ながら、先ほど家族の一員であった飼い猫を失いました。雑種の捨て猫でしたけど、頭が良くておとなしくて可愛い娘でした。私に一番なついていて、HPの作業を終える深夜までずっと傍らにいて一緒に寝るのを待っているのが日課でした。私が出張した日には精神的に不安定になるくらいのストーカーぶりでしたが、それでいて適度に距離を取ってべたべたしないのは実に猫らしかった。夕食後に、椅子の上から飛び降りたとき、すでに下半身が全く動かなかった。本人もあせったのか、這いずり回り、あちこちで嘔吐し、助けを求め必死に鳴いていました。大動脈血栓症・・・救急動物病院で告げられた病名でした。心臓にできた血の塊が血管に詰まる病気で、下肢大動脈が詰まった結果、下半身に血液が供給されなくなっていました。当然組織は壊死をはじめます。血栓を溶かす薬を投与してうまくゆけば改善するそうですが、その確率は30%程度しかなくしかも後遺症が残る確率がかなり高い。それらが回避できたとしても、再発率は50%。血栓ができる猫はもともと心臓に障害がある可能性が高いので、完全治癒率はかぎりなく0に近いそうです。血流はすぐには回復しないので、下半身に残るダメージが大きく、生きている間は強い痛みを伴う可能性も高く、予後もかなり悪いということから獣医師からは安楽死をそれとなく勧められました。
何が何でも助ける・・・たとえ障害が残っても命尽きるまで最後まであがくことも考えました。でも、その選択ができなかった。中途半端に助けた後で苦しむ姿を見たくなかったし、障害のある猫を仕事をしながら育てる術も持っていなかった。
私は普段は人の生き死にを見ている仕事をしています。冷静な判断力が必要で、今回の判断もそれに従えば正しいはずなのに、やはり悲しい。助けられなくて本当にごめんなさい。涙が止まりません。 
 
11月4日 【小点尓寶】
ネットに出ていた不知銭です。類似カタログには掲載されていませんが、當百銭カタログでは3つの拓図で2つの名前を持っています。No.233の通寶小字濶縁(No.234では通寶小字)とNo.256の覆輪刔輪小点尓寶です。私は同じ系統のものだと考えているのですが、旧譜は狭貝寶で寶足末端が陰起気味に見えるものを通寶小字としているようです。いずれも尓の前点が小さく、覆輪刔輪銭です。画像の品は寶前足は離輪気味ですけど、後足は接輪しています。おそらく銭文径は40㎜弱しかないと思います。張足寶の類は良く見かけますが、この類は少ないと思います。覆輪と刔輪、張足寶の書体全てを楽しめる不知天保銭です。(画像での判断です。間違ってたらごめんなさい。)
  
 
11月3日 【またまたまた掘り出し物】
関東のIさんからご投稿。(ありがとうございます!)ここのところ皆様がものすごい掘り出し物をされていますので触発され「自分のやる気を出すために投稿」とのこと。いえいえIさんのものすごい泉運はほぼ毎年聞いております。これ以上やる気を出されたら、私には何も回ってこなくなるのじゃないかと・・・。
さて、Iさんが1年に一度のペースほどで訪れる関東の某骨董商。雑銭箱の中を覗いたらこんなもの(明和期小頭通)がひょっこり顔を出したそうで・・・。しかもその雑銭箱は毎年見ているので数年間気が付かなかったとか・・・。Iさんの泉運、まさに強し!無敵です。 
 
11月2日 【掘り出し物】
お断りをしておきますが、これは私のお話ではありませんので・・・
ある西日本方面のお方が、ヤフオクで1000枚ロットの寛永通宝をお買い求めになられたそうです。そしてその中からとんでもないものを発掘しました。
上段は膳所額輪。それもすこぶる大様の極美品・・・多分、母銭でしょうね。
外径23.29㎜ 内径18.18㎜ 重量3.08g
これだけでも満足してしまう内容ですけど、もうひとつとんでもない怪物が隠れていました。島屋文小頭通です。島屋文はドラム缶3本分のウブ銭を選っても見つからなかったというお話さえ聞きますが、1000枚の中からも出てくるんですね。もっともそれまでにどれだけ雑銭をご購入されたのかは知りませんけど。
外径25.48㎜ 内径20.6㎜ 重量3.43g
私はと言うとここのところ掘り出しはありません。散財ばかりで反省していますが、懲りてはいません。先日の鉄人と言い、皆さま泉運が巡ってきていますね。私もあやかりたいのですが、臆病になってしまい、どうも雑銭買いができなくなっています。
 
11月1日 【覆輪存痕について】
不知天保通寶の覆輪銭にときどき覆輪の痕跡らしき境界線が見えることがあり、覆輪存痕銭だと言われて珍重されています。一方で天保通寶の母銭で、はっきり覆輪だとわかるような母銭は土佐藩の額輪銭を除きほとんど見たことがありません。2014年8月18日の記事のように覆輪は金属ではなく紙で行ったかもしれないという仮説もあるようです。本音を言えばはっきり覆輪と判る加工母銭は、たいていは後世の創作じゃないかとも思います。
ところで不知天保銭で、覆輪痕跡が残っていると言われる品の中には単純な鋳型ずれの痕跡と思われる品がかなり含まれています。左の図で見て頂ければお分かりになるように、鋳型の微妙なずれにより小さな段差が背側に現れやすくなります。背側の型が薄くなっているのは、片見切りという鋳型のつくりで、型の厚みを面側に偏らせることで、型ずれによるロスを最小限に減らす工夫です。厚みの中央で合わせる(中見切りと言います。)と型がずれたときはみ出し部分も肉厚になり修正が難しくなります。その点で片見切りの図の右側のはみ出し部分は、仕上げの段階でやすりで簡単に削れる厚さになっています。その結果、背のはみ出した反対側だけに小さな段差が生まれるのです。段差は砥ぎ仕上げで若干修正されますが、それが覆輪痕跡のようにに見えるのです。
私自身、HP上で覆輪存痕と書いているものの怪しい・・・と思っているものがちらほらありますから・・・。
覆輪痕跡と言って良いものは・・・
1.輪の幅が規定より広く、あきらかに覆輪と考えられる事を前提として・・・。
2.面側に痕跡があるもの。面背ともにあればさらに良し。
3.(背の場合は)輪の左右両方に痕跡があるもの。
4.段差や仕上げによる金属のめくれ以外の状況証拠があるもの。
上記の4条件のうち2つ以上の根拠があった方が無難ですね。覆輪と言う技術を考えると、マイナスの変化(凹み)よりプラス変化(凸)になる方が多い気がします。(ただし、金属覆輪の場合に限りますが・・・)それは額輪という変化を考えればごく自然なこと。覆輪存痕はあくまでも製作過程の一端が不完全なまま残された物であり、一種というより錯笵みたいなものだと考えた方が良いかも。覆輪の保証書だと考えれば良いかしら。がっかりされる方は多いかもしれませんが、これが私の今の考えです。 
 
10月31日 【離郭大型銭】
関西のS様に投稿いただいていたのですが、取り上げるべきところ掲載を忘れてしまっていた品です。(すみませんでした。)
離郭にはごくまれに50㎜を超える大型のものが存在します。月刊天保銭の天保通寶分類譜第2回配本には初鋳大様銭として50.15㎜×33.10㎜、重さ25gの巨大な広郭の拓が掲載されています。おそらく同じものが英泉譜に掲載されていてそちらの数値は長径50.19㎜ 短径33.06㎜です。
画像の品は長径50.06㎜、短径33.0㎜、重量28.19gと巨大です。厚みも2.86~3.26㎜もありますし、銭文径も42.05㎜と大きい。これだけの大型銭はおそらく離郭濶縁より少ないと思います。(5月10日の制作日記参照のこと。)
離郭は通用母銭方式で製作されたと考えられますので、銭文径も何種類か違うものが存在します。この大型銭はごく初期の頃、原母銭クラスのものから鋳造されたものかもしれません。 
 
10月30日 【謎の異永狭白の鐚永楽】
鉄人からお便りが届きました。(内容は編集してあります。)

改造鐚永楽の新種かもしれないものを紹介いたします。
寶字のウ冠2画目、宝足、通字の前傾振り、見事な狭白・・・これらが鐚永楽であることを物語っていると思いますが、今まで見た事の無い書体なので、自信が持てません。永点、辵点も円点ですし、永字がくねり宝字も改造鐚の書体です。安南でも中国銭でもない不思議な銭ではあります。背の製作などは(収集連載のカラー写真を見て頂けると改造鐚元和手と呼ばれていた一群と非常に近似しています。同時に購入した20枚位の永楽の中には短尾永 波冠宝などもありました。収集誌上で筆者の鳳凰山氏も述べておられるように銭譜と正合するものがないのが流永・正永類の特徴でまさに未開の分野なのですが、如何せんどれもが珍品クラスの稀少品でもありますので、なかなか研究が進まない理由だと思います。鳳凰山氏は現代の鐚永楽研究の第一人者だと思います。今回の鐚永楽を鳳凰山氏はどのように思われますでしょうか?ちなみにこれは雑銭よりの選出品です。(鉄人)
と、言うわけでこの記事を読みましたら鳳凰山様、ご意見を頂けましたら幸いです。(浩泉丸)

ありがたいことに鳳凰山様から即、返事が返ってきました。

第一感としては明鋳永楽のような感じがします。明鋳永楽には鐚以上に無数の変化があるので・・・
ウチにも永点のやけに退いたものとか、変わりものがあります。25㎜を超えるなかなか貫禄のあるものです。(右画像)

仮に鉄人様のものが鐚永楽であったならば、流永類に入れるものではないと思います。文字ですと、もうすこし独特の「寶」が流永類の特徴になるようですが・・・。鐚永楽なら文字の雰囲気から窈字系とすべきでしょうか・・・背を見ていると鐚のような雰囲気もありますし、画像判断は難しいです。
ちなみに、正永も流永も同系統と僕は思ってます。単に分類上の名称になっただけかと・・・(鳳凰山)

レベルの高いお話。鐚永楽は私はからきしです。鉄人の腰の抜けたような永楽も面白いし、鳳凰山氏の風でかつらが吹き飛んだような永楽も面白い。
永楽は面白いけど、私にはまだまだ難しいです。(浩泉丸)
 
 
長径48.4㎜ 短径32.0㎜ 銭文径40.9㎜ 重量22.3g
10月29日 【細郭手異極印】
ネットで拾っていた細郭手です。少し真鍮質であり肌が滑らかな細縁銭。パッと見は摩耗した本座の雰囲気ですけど極印が明らかに変です。これで極印がおかしくなければ雑銭箱に放り込まれても仕方がない顔かしら?
天保銭の不知銭は細郭手・広郭手になるにしたがって巧妙なものが増えてゆく気がします。この細郭も銭文径は40.9㎜と本座の標準銭とほぼ変わりません。
 
10月28日 【骨唐国】
ネットで見つけて美しさに見とれてしまいました。九州地方の鐚銭と言われながら南方帰りの舶載銭ではほとんど出てこなかったと言われる改造鐚銭中の最高峰クラスの幻の品だと私は思っています。はじめて存在を知ったのはおそらく穴の細道あたりで加治木唐国として紹介された記事で、その後本邦鐚銭図譜などで骨唐国として認知したのではないかと思う次第。鐚銭の世界はとにかく源氏名の宝庫でして、それに魅了されてはまっている方も多いのではないでしょうか?
綿政和・傘熙寧・錠熙寧・踊元豊・司元符・林景祐・襷洪武・山洪武・土洪武・缶洪武・壺治平・玉至道・髭天聖・一天聖・串治平・烏元祐・・・穴の細道で興味を持ち、泉譜でずいぶん覚えました。
國構えの第2画の上辺が失われているのが印象的。骨唐国の名の由来は本当は寶の文字が骨に見えるからだけではなく、文字全体が骨のように印象深く見えるからなんじゃないかな・・・と勝手に思っています。(違うかな?) 
 
10月27日 【本座中郭・秋田細郭変造品の鑑定】
本座中郭は広郭と細郭の中間体で実の所は明確な線引きができないともいえます。さらに中郭手なるものまでありますので、初心の内は自信がつくまで中郭には手を出すべきではないと思います。私自身、はじめて古銭店で中郭として購入したものは中郭手でしたし、次なるものはずっと中郭だと信じていたのですが広郭の広穿でした。そしてついに手に入れたと思った品は広郭の変造品!・・・私にとって本座中郭入手の歴史は惨憺たる屍累々の結果なのです。それもみな古銭店や入札で手に入れたものばかりでして、専門店でさえその程度の鑑定力なのです。
本座中郭を購入するにあたって有効なのがここに挙げた図。面の郭幅より背の郭幅が広いことがポイント。それゆえ郭内に傾斜面があるのですけど大事なのは傾斜面の表面に鋳肌が残存することなのです。この鋳肌が確認できないものは後やすりによる変造の可能性が高く、購入を控えた方が無難なのです。やすりは必ず背側から入りますが、変造品は面側の穿を無理やり広げるので面側の傾斜した面にもやすり痕が強く残り、ときには面側の郭に鋳バリが生じるのです。さらに変造品は後やすりの真新しさを隠すためにバーナーなどで表面が焼かれていることも良くあります。この点に気を付ければ少なくとも変造贋作をつかむ確率は減らせます。それでも広郭の広穿や中郭手を中郭と間違えて購入してしまうことはよくありますが、あとは個人の判断。
なお、この鑑定方法は秋田細郭でも同じです。実は秋田細郭には広郭の穿を改造した変造品がたくさんあります。赤味の強い細郭は特に注意が必要で秋田細郭も必ず穿内の鋳肌を見ろ!・・・これが実は鑑定の鉄則なのです。 
 
10月26日 【同型贋作!】
黙っていられなくて先日書いてしまいましたが、最近新手の贋作が出回っています。
志津磨大字ですけど、見ての通り同じ母型から抜かれたものです。輪や文字の歪みや瑕が一致します。問題なのはそれぞれの出品IDが異なり、相互応札・・・つまり吊り上げ工作もされているらしいこと。
この業者、寛文様と下段の志津磨大字を出したので注目していました。志津磨大字は色味が気に入らないものの非常によくできています。寛文様も銅色を似せていましたので真の作者は知識ある本格的な贋作師です。勇文は傑作でかなりの高額で売れていましたし、同時期に出た、安政期四文銭の母銭も同様です。他にもいくつか作品がありますが、万単位の価格が付けば笑いが止まらないでしょう。仕入れルートが別にあるのかもしれません。
泉譜を忠実にトレースし、再現する金型製作技術を持っているようで仕上げのパターンも変えてきています。(このタイプの二水永は要注意です。)こちらも画像の無断使用なので偉そうなことは言えませんが、私の愛する聖域を踏みにじる商行為は許せません。皆さまご注意ください。 
 
10月25日 【張足寶の小様が来た!】
5月9日に張足寶小様について紹介をさせて頂きました。そのときは他人の品物でしたが、今回念願かなって自らの品にすることができました。
類似貨幣カタログでの評価はそれほど高くようですけど、張足寶+縮小銭形ですから普通の張足寶よりワンランク以上少ないのは当たり前のこと。
嘘だと思ったら探してみて下さい。
長径47.9㎜ 短径31.9㎜ 
銭文径40.0㎜ 重量17.2g
 
10月24日 【掘り出しがたくさん!】
ここにきて全国各地から掘り出し物の報告が相次いでいます。はじめは先日ご紹介した深字降辵仰永の鋳放超大型母銭です。原母銭かもしれません。外径30.45㎜、内径21.5㎜・・・とにかくでかい!だいたい深字降辵仰永という分類自体が今年の1月に菅原氏の発表によって認知されたものなのですから贋作が入ってくる余地はほとんどないはず。だからこそこれはすごい発見なのかもしれないのです。一生懸命やっている方には女神が振り返るのでしょう。
そしてもう一枚の画像・・・これを見て事の重大さがわかる方は古寛永の達人です。
御蔵銭?・・・まだまだ甘い!
浅草狭穿?・・・惜しいけどそんなもんじゃない。
実は狭穿大字という古寛永泉志最高峰の位珍の逸品なのです。開元手や魚尾寶などを別格としても、私の古寛永の番付では大関クラス(6月15日制作日記)に位置します。過去に見たこともほとんどありません。顔つきは少し地味なんですけど存在の少なさは島屋文なんか目じゃありません。皆のもの頭を下げよ、え~い!頭が高い!
この品、関東のとある方が1枚40円の雑銭の山から発見したそうです。 
 
10月23日 【どきっとするもの達】
ご存知のようにネットで見つけた画像です。勇文は九州方面ではないかと言われる銅色であり天保銭としては例外的に無極印です。不知天保通寶分類譜には勇文7枚の拓本がありますがいずれの拓本とも合致しません。同誌によると昭和27~8年頃に勇文のみが10枚近く出現したあと行方不明になっているらしく謎が多い品ですね。側面画像を拡大してみましたが逆L字型の穴ぼこが開いているのが気になりました。
濶天保はさらに謎多き品。この類は製作はバラつきがありますが、多くの品は地の部分が凹凸にうねるような特色があり、鋳造時の湯圧不足か砂笵の固めの弱さが予測される作りのものが多いようです。私はまだ数えるほどしか見たことがないし、それが果たして真正品であったのかもわかりません。やはり側面画像を拡大してみましたが勇文と同じような極印だったのがとても気になります。勇文は15万円以上の落札価格、濶天保はその10分の1の落札価格でした。
最近、中国から続々と新作の贋造品が流入してきているという噂を聞きました。あと少し進歩されてしまうともう画像では穴銭の真贋も見分けができなくなってしまうかもしれません。 
※完全合致ではありませんが、不知天保通寶分類譜のP141-7 類似貨幣カタログの拓本 月刊天保銭52号(いずれも同一品)の書体の癖が一致します。(辵点が接郭すること・寶王末画が切れる癖)拓本から型を写したとも考えられますが定かではありません。 
 
降辵無爪永 降辵仰永
寛冠前垂れ開き気味
寛尾わずかに内跳ね 
寛冠前垂れは垂直
寛尾垂直に跳ねる
永柱垂直
永点長く退く
無爪永
永柱わずかに仰ぐ
永点小さく傾斜が緩い
ノ画に爪あり
通点長く湾曲 通点短く丸い
前足のカーブ緩やか 前足短くカギ状に湾曲
存在 母銭多く通用銭少ない 母銭少なく通用銭多い
10月22日 【水戸深字降辵仰永大型母】
四国のKさんからのご投稿です。見ての通りでかい。画像加工したため背景が妙な色合いになってしまいましたが原品は銭径30.45㎜もあるそうです。郭は鋳放し。と、ここまで書いていて泉譜をにらみ、微妙な違いに気が付きました。あれ!背波の波型が変だ!最上段の波が描く弧がきついのです。そういえば通頭の俯すのも微妙に違うように見える。波形はむしろ仰永に近い気がします。そういえばたしか菅原氏が深字降辵には2種類あると1月に発表していたはずだと思いだし資料を引きずり出したところ、どうもこれは深字降辵の仰永の原母クラスに該当するようです。背波の波形はまだ微妙に異なるように見えるのですが撮影の角度のせいかもしれません。
ちなみに深字降辵の原母の図は穴銭カタログ日本に掲載がありました。(左下段図)
ところでこの深字降辵は大正11年1月の貨幣第34号に安田キヌ蔵氏の投稿で、「大型の錫母が発見された」ことが報じられ拓本も掲載されています。(縦型の拓本)と、なると錫母と原母の両方が存在するという不可思議な状態で混乱ししそうなのですけど今はまだそこまで論じることができない資料不足の状態です。さて、この大型の母銭なんですけど位置づけ的に何なのかが良く判りません。大きさは明らかに穴銭カタログ日本の拓図を上回る巨大な品。まあ、鉄の母銭だからありえないこともないのですけどお分かりの方ご意見をお願いします。 
 
10月21日 【難波御用銭】
難波御用銭らしき怪しい品がネットをにぎわせていました。平成3年に穴銭堂によって刊行された銭幣によると、江戸時代の古銭書の和銭考に「御社参銭 有徳院殿日光御社参之時被仰付所鋳御用銭有之金地銭砂利銭等有之大型径九分半中形径九分小型径八分半」と示されたのがはじめのようで、藤原貞幹譜にも草間直方の三貨図彙にも同じ記載がみられるそうです。有徳院とは徳川吉宗公のことで、在位中の享保13年に東照宮参内の記録があるそうです。
先の漢文を意訳すると「御社参銭 徳川吉宗公が日光東照宮を参詣する際に命じて鋳造された御用銭。金銅(黄銅)銭や白銅銭(あるいは錫母?)等がある。大型のものは径九分半、中型のものは径九分、小型のものは径八分半である。」かな?
この御用銭、福知山八代藩主の朽木昌綱公のコレクションにも数多く含まれていたことから、日本で最も古い公式記念硬貨の一つであったんじゃないかと思う次第です。朽木昌綱公のコレクションは大英博物館に納められていて、その本も刊行されています。
下段の左から2番目3番目は中縁の書体ですけど、一回り内径が大きい。彫母クラスでしょうね。右下の錫母と思しきものは左上の錫母より微妙に内径が小さく見えます。錫母からの写しなのかもしれませんしこれこそ砂利銭かしら?こうしてみると背がきりりとしたものが目立ちます。最近、ネットを騒がせたものと金質も背のつくりも全然違うでしょう? 
 
10月20日 【武骨な寛永銭】
南部浄法寺系だと思うのですけどまあ、とにかく無骨。外周は丸くないし、輪に穴が空いているし穿内も未仕上げだし。前所有者の工藤師いわく、「まるで村の鍛冶屋がつくったよう・・・。」とは的を射ています。先日の南部美人の天保通寶の対極にあるような顔つきです。あの天保通寶が太陽神アマテラスオオミカミの御姿だとすると、これは武神スサノオノミコトのたけり狂う勇姿です。同じ地で作られたとは思えない陽と陰の姿。書体ななんてことのない小字写し。しかし、野性味あふれるこの顔・・・いいですね。わかります?この魅力! 
 
10月19日 【南部美人】
この南部小字はとても美しい。横の極印は八つ手タイプ。背の当たりと面の輪の瑕が惜しいけど一級品だと思います。南部藩の小字に限って彫りの深い美制のものが存在します。これが銅山手だと初期銭でも浅字で黄褐色だし、大字にしても彫は深くても砂目が粗く感じられ緻密さがありません。小字に関しては砂目の粗いものも存在しますが、このように緻密で滑らかな肌の通用銭が時折出てくるのです。
いや、滅多に出てこないと言った方が正しいかも知れません。それだけ小字は少なく、東北の愛好家の懐深く眠っているのです。したがって美人さんの値段はもう相手の言い値に近いかもしれません。それだけ愛されているという事。見つけたら何も考えず盲進することです。 
 
10月18日 【新作絵銭】
ここまでふざけられると微笑ましい作品です。琉球の大世通寶にご丁寧に背に大星。それも中心からわざとずらしている心憎さ。穿も縦ににょきにょき伸びています。文字が輪まで浸食していて、まるで浅間銭のようなつくりです。新作だけど原型はあるようで彫り直しとスタリキも使用していますかね。地金はおそらく着色でしょうけどなかなか上手です。 スタリキとは古銭の世界に伝わる金属腐蝕技術による贋作技法なのですが、語源が全く分からないのです。古銭業界ではスタリキで通っていますが果たして金属業界でスタリキが専門用語として存在するのか、調べたところ見つかりません。この技法、高校の美術で習ったエッチングの技法の応用なのです。
銅を溶かすのには塩化第二鉄の濃い溶液を使うようで、防蝕剤としてはグランドと呼ばれる薬剤を塗るようです。グランドは蝋成分を含んだ樹脂剤のようで、蝋そのものだけだと腐蝕に伴う発熱で蝋が融けて流れ出してしまうのでうまく行かないようです。
さて、こうして作った贋作ですが、比較的彫りが浅いものが多いのですけど、彫金技術と組み合わせることで金属加工の痕跡を消したり、余計な鋳だまりを取り去ったりすることも可能だったようです。
最近、天保通寶の大物が相次いでネットに現れていますがどうも気に入らない。スタリキかどうかは不明ですけど金属加工技術はかなり向上しています。不知長郭手〇天保などは雑銭の中から出てきたら一瞬ドキッとするような出来栄えです。 
 
10月17日 【長郭手奇書体の初見品;江戸コインオークションより】
江戸コインオークションで下見をしたとき、こいつには驚いた。薄ぐらい部屋だったのでよく見えなかったものの変態ぶりはよく判りました。なんじゃこれ、ふざけているんじゃないのと言うぐらいの書体です。
これがどうして1万円なのか、面も背も変すぎます。そして覚悟を決めました。絶対負けない価格を入れてやると。
しかし、結局は負け。入札ではないので会場にいた方にはかないません。落札価格は76000円。本来ならもっと価格が伸びても良かったのですけど、初値1万円ですし、初めて見るものなので皆さんおっかなびっくりだったのではないでしょうか?これならお買い得かもしれません。
それにしても改めて見ても見たことのない奇書体ですね。類似カタログの躍通系と當百銭カタログの異書体の合体のような・・・。手に取ってじっくり見てみたかったですね。
 
 
10月16日 【魚子地肌の長郭手】
ネットでほとんど競争なく手に入れましたが、この手の鋳肌の天保銭には見覚えがありました。魚子地肌銭としましたが、これは粗粒子肌というべきもので、長郭だけでなく細郭もあります。
その特徴は・・・
①鋳肌の砂の粒子が粗く
②銅質が赤みを帯びた黄褐色
③本座の写しで文字加刀はほとんどない
④極印が浅かったり、はっきりしない形
⑤鋳写による縮形になる
という共通点があります。鋳肌の様子には個別差がありまた、銅質は安定していますが製作は少し劣る感じです。原品は予測以上に銭径が縮小していました。
長径48.0㎜ 短径31.9㎜ 
銭文型40.7㎜ 重量22.0g
 
10月15日 【葛巻写しの白目中字】
大和文庫に出たこの密鋳銭に私は高額応札してしまいました。出品された方はおそらく驚き泣いて喜ぶでしょう。
妻に知られたら驚き泣きわめいて殴られそうです。
赤い銅質で垂直に磨輪され、郭内も拡げられていますが、鋳写し銭です。鉄銭の改造母っぽいのですが素人的に考えるとなぜわざわざこんな手間をかけるのだろうと思ってしまいます。製作から見て葛巻銭の類だと思われるのですが、母銭の大量生産のためですかね・・・これは?
みすぼらしいけど島屋文級の大珍品です。 
 
10月14日 【深字狭永・・・で、これは?】
ネットでとても気になった文久銭です。深字狭永の類で欲しかったけどおそらく熱望されている方がいらっしゃるので控えました。文久永宝周遊会においてはこの深字狭永の類を「狭久」「正文」「勁久」「降久」に再編纂されたのです。「狭久」は従来の本体であり、久字の脚部が直線的なもの。命名の理由に私のHPが挙げられてまして、ちょっとうれしい。「正文」は文の第2画が長く第3と接するもしくは近接するものらしい。「勁久」の流れを汲むものでもあるのですけど、独立させたようです。「勁久」は文の第2画が第3とは離れ短い。「降久」は従来通り。私的には深字刔輪は賞揚して欲しい好みのものなんですけどこれらは「正文」の中に入るようです。「狭久」「正文」は非常に貴重品みたいで、書体によってはマニア価格5万円の声も聞くようです。
じゃあ、これはなんだ・・・ということになると「勁久」の系統の書体なんですけど、文の横引きが長く見える・・・「正文短尾久(刔輪)」なんじゃないかしら。私にはまだ分類がよく判らないけど、なかなか魅力的な顔で気になっています。
※私はまだ分類ポイントがよく判っていませんので表現が不適切だと思います。また、今後の泉譜の内容に変更が起こること必定です。 
 
10月13日 【歪曲の天保】
ネットに歪曲した不知銭が出品されています。天保通寶は鋳造なので、厳密に観察すると多少の変形はあるものです。しかしながらここまで変形したものは滅多にありません。本座の場合は規格検査ではねられてしまいますし、不知銭の場合においても「目立ってはいけない」という不知銭の使命に反します。結局、それらをかいくぐって出現するということは、幕末の混乱期にあわてて作られたもの・・・ということになります。私もはじめて見せて頂いたときは「火中変形」じゃないのかなと懐疑的でした。天保仙人様の説明によると、鋳造過程では寝かせて作った砂笵を立ててから溶かした銅を注ぐのですが、その際に踏み固め不足や砂笵の角をぶつけるなどして衝撃を与えてしまったため、形が歪んでしまったもの・・・とのこと。良質な鋳造素材が入手できなかったため、砂笵そのものの質にも原因がありそうですね。母銭からの変形ではなく、鋳造過程のエラーにあたるので一品ものなので、一種とすべきものではありませんが、好き嫌いはあるものの見た目のインパクトは強烈です。掲示の品は5~6年前に分譲戴いたもの。ここまでのものはそれから見たことはありませんので存在数はかなり少ないようです。土台は本座を鋳写した不知銭であり、銭文径も小さくなっています。(焼け伸びでないことは計測値からも明らかです。)
長径48.8㎜ 短径31.8㎜ 銭文径41.2㎜ 重量17.9g 
 
10月12日 【充電中】
ついこの間まで1日たりとも記事を切らさない覚悟で取材・情報収集をしていましたが、いったん途切れてしまうと途端に力を抜きはじめてしまう悪い癖が頭をもたげています。それでも気に入った古銭に気ちがいのような応札をしてしまい反省の毎日です。最近の反省は大和文庫の白目中字写の密鋳銭に惚れこんでしまい、清水の舞台から飛び降りた応札をしてしまいました。無事に落札しましたが、ひとり相撲かもしれず、果たしてこれで良かったのかと悶々と反省しながら銀行に支払いにゆきました。
また、江戸コインオークションには日程的に行けなかったのですけど、郵便入札で一品(たしかNo.403)にとんでもない価格を入れておりました。行けない憂さ晴らしと自らに言い聞かせていますが、ほめられたものではありません。これで落ちなければ納得なのですけど、落ちたら落ちたで慌てふためくのが目に見えています。まあ、私の清水の舞台はせいぜい2階ぐらいの高さしかないないのですけど、今年もすでにとんでもない大物買い物をしてしまっており、もはや手が付けられない中毒状況ですから、少しの追加出費でも痛いのです。一方で最近古銭以外の興味がいくつか湧き始めており、再び体を動かす方向に行くかもしれません。
※古銭の世界では先日お伝えしたように文久の深字の世界で、分類の再編成がおこなわれつつあるようです。唐松堂氏や祥雲斎氏の正式発表が間もなくあるでしょう。深字本体はなかなか難しくかつ貴重な物みたいです。 
 
10月10日 【明和小字の母銭】
少し前にネットで収集した画像です。「かなり珍品」のフレーズがついていた通り、明和期の小字はかなりの珍品。正字、俯永の母銭の市場価格はせいぜい2~3万円どまりなのに、小字のそれは少なくとも10万円以上はします。通用銭の存在は同じぐらいなのに、なぜ小字母銭だけが極端に少ないのか・・・とても不思議ですね。小字は明和期だけでなく文政期や安政期にも大量に残されていますが、正字や俯永はかなり少ない。これまた不思議。書体的には一番端正であり、なぜこれを小字というのか?・・・たしかに大字や俯永よりは小さいのですが、正字より正字っぽいというのが私の感想です。
本品は背が少々荒れているので35000円ほどで落札していましたが、お買い得の品と言って良いでしょう。
なお、新寛永の母銭を集めようと思ったら、明和期の俯永か正字を入手するのがおすすめ。明和期の四文銭は姿が大きく、とても製作も端正です。姿が大きいのは明和期の四文銭が真鍮銭であり、鋳造による収縮率が青銅より大きかったことにあると思われます。しかも私の大好きな白銅質の美銭が数多くありますので、ぜひ探してみて下さい。 
 
10月8日 【銀座コインオークションカタログ】
お約束通り、銀座コインオークションカタログが届きました。 今年の出品数は1340ロットと大量です。例年以上に充実していて、目玉は駿河墨書き小判をはじめとする慶長期の小判類と蛭藻金、天正~慶長大判。なかでも天正長大判金は古貨幣の王者の風格。古和同、三つ跳ね、四つ跳ね和同や饒益神寶がごろごろ出てくる皇朝銭も過去最高の質と量を誇る内容です。萬年の大様の大きいこと。近代貨幣は5円金貨コレクションの放出があったようですし、海外貨幣は例年になく充実。なかでもパナマ太平洋博覧会記念5種金銀貨セットは大珍品。さらに中国近代貨幣は試鋳貨幣の大珍品もあり、今年のオークション会場は中国からのお客さんでごった返しそうな予感がします。
一方でそのあおりを食った形なのが皇朝銭以外の穴銭・絵銭類と紙幣、藩札の類。
穴銭は有名品の出品がいくつかあるものの、私の食指が動くような下層階級のBクラス物がほとんどありません。これは残念。景気の高揚によってコイン市況は投資方向にシフトしており、換金・大衆性のある近代貨幣・・・それもスラブものが大躍進。マニアックな穴銭や藩札系は収集人口の高齢化・減少とともにもはや衰退の一歩です。絶滅の危機・・・いえ、業界から抹殺されかねない危機的状況です。穴銭党頑張れ! 
 
10月7日 【覆輪銭の美】
これは今夏にI氏の持ち物を撮影させて頂いたものです。堂々たる覆輪の精美銭で、最近の一般市場ではここまでの品はなかなか見つからないと思います。天保銭を集めていると分かりやすい覆輪の不知銭は絶対に欲しい逸品なのですが、安くても2~3万円はしますので、初心~初級者ではなかなか思いきることができません。現在価値でこれに3万円払えれば中級者レベルで5万円払えれば一人前のコレクター、10万円払ったらたぶん病気です。
私の場合、覆輪(ついでに刔輪)と言う貨幣専門の言葉は旧石ノ巻反玉寶銭(現在は南部室場説が有力)から学びました。この技法は当時の天保通寶をとりまく趨勢(禁制の密鋳を行うという断行・・・つまりばれたら大変!)が生み出した産物ともいえます。(実際は古寛永時代からこの技法はあったのですけど、錫母の出現で下火となり、天保銭で再び花開きます。)そういう意味でもなかなか貴重な歴史的文化遺産なのだと思えるのです。
 → 覆輪刔輪マニアック講座
 
10月5日 【祥雲斎氏からのお手紙】
(前略)試行錯誤しながら3年目に入りました。やっと全体が解り、まとまりかけてきました。
とはいっても今回、深字勁久で正文(拓右)となる初見品を入手しました。(中略)
この銭が、深字勁久正文となり、その前に深字勁久正文で分類していた佐賀の唐松堂氏の蔵品を深字勁久手正文にするか、深字狭永の本当の本体にするか迷っています。昨日、電話で坂本氏と相談したのですが、長い目で見れば唐松堂氏蔵品分を深字本体の流れにした方が良いという事になり、やり直しています。
まだ、大分の例会では発表していませんが、深字勁久正文・深字勁久手正文のコピーと手直し中の深字狭永本体のコピーを同封致します。今迄の深字本体は、深字長久か深字狭久に変更します。(後略)

さて、このお手紙を頂いて例会発表前という事でどうしようか迷いましたが、新発見の拓のみ説明抜きで掲載します。というのももはや、私の理解をはるかに超越した分類再編成になってきているようだからです。かくなる上は研究を完成させた形での発表が期待されます。私ももう一度勉強しなくては・・・。 
 
10月3日 【水戸大字母銭】
天保仙人様のご自宅で撮影させて頂いた、真正の水戸大字母銭です。文字が細く抜けを考えてきりっとしています。
水戸大字の場合面が躍動感ある書体なのに、背の書体が萎縮して、まるで覆輪写しのような印象があります。すなわち、文字が輪から離れて縮小して見えるのです。しかもすこぶる浅字で、文字に勢いもなく感じます。ところがこの母銭を見ると本座の改造鋳写しでなく、背側も堂々たる新規銭文であることが実によく分かります。
ではこれが本当に水戸藩なのかというと・・・実はよく判らない。穴銭の世界では出自が良く分からないものをなぜか水戸藩としてにまとめるような癖があります。古寛永などとくにそうですね。しかし、水戸藩天保銭の中にはほぼ水戸で確定的な正字背異と繊字の類だけでなく、錫母がある濶字退寶と短足寶、超珍品の遒勁、そして嵌郭や覆輪刔輪技法を駆使した可能性のある接郭があり、それぞれ異彩を放ってます。このうち、濶字退寶と短足寶は錫母の存在からその製法を知る水戸藩もしくは南部藩だと言われておりますが、接郭は土佐藩銭との類似性がささやかれていますし、遒勁などは銅色は似ているものの、子銭のサイズがバラバラであり、原母・銅母・通用母のように初期段階で鋳写しを繰り返したと思われ、おおよそ製法が異なるように感じます。すなわち、すべてがそれぞれ個性的なんですね。存在数からして力のある藩であろうことは想像に難くないのですが、今のところ決定的な証拠が出てきていないのです。
画像の品はかなりの珍品ですけど、このきりっとした背を目印に、私も掘り出してみたいものです。 
 
9月30日 【古寛永銭のいろは】
仕事で上京。時間の合間を見て銀座コイン、田宮商会へ。銀座コインはカタログ登録(購入)が目的であり、田宮商会は下見が目的でした。銀座コインオークションについては、私は過去の応札歴がけっこうあるので無償でカタログ配布予定だとのこと。したがいまして浮いた2000円で「古寛永銭のいろは」なる本を購入。これは陽泉 松尾吉陽氏の編著となっていますが、私はたしか「千木永さん」なるご紹介を受けています。穴銭入門 収集事始記のタイトルよろしく、初心者の収集家が低額予算で古寛永を楽しむ様子を追いかけてゆくもの。分類などについての記述もありますが、それに関するコツのような記述・・・泉譜的な解説はほとんどありません。分類方法の解説を期待していた方には少々拍子抜けsするかもしれない内容ですが、どちらかといえば随筆的読み物なんですね。私のような者は昔を思い出して楽しめる内容にもなっています。
16時過ぎに到着した田宮商会さんでは、予約もせずに入ったにもかかわらず、快く下見をさせて頂きました。寛永銭、天保銭など目当ての品を下見。これぞと思うものをロックオン。仕事の都合で会場には行けませんので気合を入れて応札予定です。かかってきなさい!・・・(本当は来ないでね)の気分です。
 
9月29日 【繊字濶縁大様】
四国のKさんからご投稿。(ありがとうございます。)実はこの投稿画像は、毎日大量に届く迷惑メールに紛れてしまって読み落としていたものです。大変失礼しました。
旧和歌山中之島繊字なのですが外径がすこぶる大きいのです。ご報告によると25.6㎜~25.8㎜あるのです。穴銭入門第3版によると、「銭文は同じであるが、銭径は大きく、濶縁であるものの銭文や至輪径は通常の母銭より小さく鉄通用銭は無いようである。何か特別な意図をもって造られたおカネであるのかもしれない。」と、まあ、意味深長な書きっぷりです。実はこの繊字濶縁大様については泉譜により扱いはまちまちです。
穴銭入門新寛永の部(第3版から借拓)
新寛永銭鑑識と手引においてはこの濶縁大様の拓図だけが代表銭として載っています。また、穴銭入門新寛永の部においては第2版までは掲載されていません。新寛永通寶図会も同様です。喜寶古希記念寛永銭譜には濶縁大様(25.6㎜)を本体として、通常サイズの母銭を磨輪母銭(24.0㎜)として掲載しています。竹田四郎譜の拓は25㎜ぐらいあるのでかなり大きいのですが、どちらかよく分からない。区分してはっきり掲載している方が少ないのです。穴銭入門新寛永の部第3版では「銭文や至輪径は通常の母銭より小さい。」という記述があり、それがあっているか調べたくなりました。あくまでも拓本による比較になりますが・・・実は銭文の大きさはほぼ同じ。わずかに磨輪母銭の方が内径が大きくどうも刔輪が行われているようなのです。すなわち、濶縁大様母銭は通常母銭の刔輪・磨輪前と言うことになりますが刔輪と言ってもごく微細なレベルです。これについては舎人坊石川氏の著作、穴銭カタログ日本において繊字濶縁大様を「繊字試作母銭」と位置付けた上で以下の解説が見られます。「・・・通用銭には寛・通・永の内輪辺に刔輪痕が認められる。この事から、繊字試作母銭から生まれる通用銭は見当たらない。(通用鉄銭の内径は、試作母銭の内径より広くなっている。)」
( )の内容については精査が必要ながら、繊字濶縁大様は刔輪前の試作母銭であると位置付けてくれています。
では、これがどれだけの価値があるものなのか・・・穴銭カタログ日本では通常母銭を5万、濶縁大様を25万、穴銭入門では3位(6~7万円ぐらい)と1位(10万円)・・・難しいところですけど、お金を積んでも得られない品物と言う事だと思います。入門はちょっと評価が低めかもしれませんが、集めている人で価値が判っている方が果たしてどれだけいるかというところでしょう。なお、この記事は鉄銭素人の私が資料を見ながら記述していますので、もっと詳しくご存知の方は是非お教えください。 
穴銭カタログ日本より 画像比較する限りでは内径はほぼ同じ。ただし、銅銭と鉄銭の拓本比較であるがゆえに内径比較については結論は出せません。(記事内容は変えずレイアウト加工してあります。) 
 
9月28日 【深字本体?!】
東北方面からのご投稿です。深字本体で良いですかと聞かれましたので90%以上良いですと答えました。残りの10%はわずかに久字の末尾が短く跳ねて見えたからですが、微差もいいところでしょうか?私は深字本体は持ったことがないと書いておりましたが、美星倶楽部のコーナーにおいて本体として掲示していますね。すっかり忘れていました。しかし、画像では久字のすそ野が広がって見えますのでは完璧ではありません。(美星倶楽部の画像をよく見て頂くと判りますが、光源を下の方においておりますので、すそ野広がりが強調されている不運もあります。)
文久銭はあまりに変化が多いので、泉譜などにぴったり合わせるのは至難の業なのです。文久銭はだからとても難しい。
ところで、ご投稿いただいた画像を見ていて気が付いたのですけど、地の部分のうねりが強く、よく見ると背の波の白文になっています。そして背の波は極端な浅字になっています。このように背の模様が面に影響を及ぼすようなことはあるのでしょうか?
あるいは火中変化なのか?お分かりの方はメールでお教えください。
それにしても文久の真文は誠に変化が多い。一つとして同じものがない感じです。これは文久の真文担当が錫母を使用していなかった・・・つまり、銅の原母銭を鋳ざらいながら使用していたから、規格統一が難しく変化が多くなったとも考えられます。
天保仙人様からかつて聞いたことがあるのですが、金座管轄の玉寶や草文にはちゃんとした錫母があるが、銀座管轄だった文久の真文銭には(肯定できるような)それがない。したがって、文久の真文銭で錫母銭を見かけたらまずは贋作だと思ってかかりなさいとのことでした。 
 
9月27日 【久留米正字濶縁の原母銭が出た!】
東北の熱心な収集家さんからのご投稿。(ありがとうございます。)
見ての通り、正字濶縁の母銭・・・しかもすこぶる大きい。長径50.47㎜、銭文型41.42㎜、内径44.05㎜できれいな桐極印が側面にあるそうです。通用銭(画像右側)から見れば母の母の存在・・・すなわちこれは錫母に該当する銅の母銭=原母銭の出現ということになります。この天保銭の出現は、天保仙人様の論説を補強するものであります。
銭文径41.42㎜ということはこの段階ですでに本座広郭より銭文径は大きいことになります。もっとも、これから写して行けば銭文径は縮小して行くわけで、そのことを見越して大型に造っているわけですね。正字濶縁については鈴母の存在など慎重に精査すべき点は残っておりますが、現時点では久留米として確定してよい段階に来ているようです。
 
9月26日 【背山鉄銭が出た!】
昨年、背山鉄銭をご投稿いただいた東北のNさんから久々にメール情報を頂戴しました。Nさんは古銭そのものについては興味がなかったものの、旧家に大量に存在する鉄くず原料としての古銭の中に、背文字の違うものがあるのに興味を持ち、拾い出しを始められたようです。昨年の選り出しはあらかじめ選別を受けていたようなものからの出現でしたが、今回は古い藁ざしのなかから出てきたそうです。背山鉄銭は存在そのものが疑問視される一面もあるのですが、実際には選り出し例もあるようで、今回の報告はそれを補完するものだと思います。もっとも、背山鉄はあくまでも鋳写しによる密鋳です。それでも、当時の東北が写せるものは何でも写す姿勢であったことが分かります。Nさんは古銭の専門家ではなく、鉄銭もご自身の所有物ではないということで、ぱっと見て目立ったものしか選り出してはいないようですが、背山のほかに21波写しとか厚肉大様銭などを拾われているようです。今回の発見は80~100キロほどの山の中にあった緡の中にあり、調べ始めて500枚ほどで発見したそうです。 
 
9月25日 【浄法寺銭の謎】
お恥ずかしながら私はまだ浄法寺銭というものがよく判っていないのです。工藤会長のいわく、『称浄法寺銭を、「まるごと肯定する」のも、「頭から否定する」のも共に誤りで、ひとつひとつ検証していく必要があります。』・・・と、いう言葉の何と重いことか。
また、『称浄法寺銭には、①湯口小×完仕立て、②湯口やや小×半仕立て、③湯口大×半仕立て、④湯口大×未仕立て、といった4通りの製法が確認でき、それぞれ別の時代、別の職人の手になります。』という言葉もメモっていましたが、どれがどれに該当するのかがよく判っていないところがあります。それに本来の正座が加わると、盛岡天保は以下の表通りになりそうなのです。私の推定もありますので間違っていたらごめんなさい。
実は工藤氏がネットに出した厚肉の長郭手について、ある思いがあり落しにゆきました。それは、以前入手した不知中郭手の覆輪赤銅銭との類似点なのです。この中郭手、無極印で未仕上げ、できすぎなのですが製作に矛盾がほぼない。たしか、その昔にオークション出品されたとき『東北仿鋳』の名前が冠されていた気がします。(平成8年江戸コインオークション)その雰囲気が工藤氏出品の長郭手厚肉とかなり似ている。結論から言うと、輪側面にテーパーがあり厚肉なのも同じ、写真写りは違うものの銅質もほぼ同じ。よってこれらは同系統の品ではないかと思う次第。ただし、中郭手は輪側面仕上げがないので、厳密に同じだとは言えませんけど。しかし、これが今の私が下した結論です。
本炉銭(初出)
大ぶりで比較的、砂笵が浅いため砂抜けが悪く見栄えがしないものが多く美銭は貴重。極印は桐か八ツ手桐か。銅質は赤黄色または紫褐~黒褐色が多い?
本炉銭(次鋳タイプ)
小ぶりの黄銅質銭。
山内座(変形桐極印)
製作はいまひとつながら、極印は本炉に近い。春の古泉会展示室で栗谷川氏が小字を展示。
浄法寺①(釘穴状極印)
:湯口小さい仕立銭
練れの良い赤銅質か。穿内が不完全なものある?やすり目は古い。工藤氏がヤフオクに出品した厚肉の長郭手が該当。(左上段)
浄法寺②(丸十状極印)
:湯口やや小さい半仕立
春の古泉会展示室で工藤氏が小字を展示。
浄法寺③
:湯口大きい半仕立
金質は硬い。穿内鋳放し。これ以下は絵銭として考えるべきか?
浄法寺④
:湯口大きい未仕立
金質は硬い。ごつごつした溶岩のような肌。
浄法寺長郭手厚肉銭 長径49.0㎜ 短径32.5㎜
銭文径41.1㎜ 重量31.8g 
不知中郭手覆輪赤銅無極印 長径49.75㎜ 短径33.25㎜ 
銭文径40.4㎜ 重量25.9g 
 
西暦 和暦 焼損戸数 発生日・備考
1779年 安永8年 105戸 10月8日 地金火事 
1806年 文化3年 350戸 10月5日 青山火事
(この頃の函館の半分の家屋焼失)
 1844年 天保15年 450戸 1月21日 日記伝承等による推定 
1869年 明治2年 872戸 5月11日 脱走火事(函館戦争の脱走兵放火)
1871年 明治4年 1123戸 9月12日 切見世火事 
1873年 明治6年 1314戸 3月22日 屋根屋火事 死者5名 
1875年 明治8年 434戸 4月18日 
1878年 明治11年 954戸 11月16日 ヤマショウ火事 
負傷者60人 13ケ町焼失
1879年 明治12年 2326戸 12月6日 堀江町大火 33ケ町焼失 
1885年 明治18年 132戸 5月13日 
1887年 明治20年 482戸 5月2日 
1895年 明治28年 228戸 11月3日
1895年 明治28年 117戸 11月28日
1896年 明治29年 2280戸 8月26日 テコ婆火事 
1899年 明治32年 2494戸 9月15日 
1900年 明治33年 142戸 11月3日 
1901年 明治34年 199戸 4月12日 
1902年 明治35年 108戸 5月4日
1902年 明治35年 396戸 6月10日
1907年 明治40年 12390戸 8月25日 死者8名 
負傷者1000名  20ケ町焼失
1911年 明治44年 140戸 3月23日 
1912年 明治45年 733戸 4月12日 
1913年 大正2年 1532戸 5月4日 
1913年 大正2年 277戸 5月25日
1914年 大正3年 849戸 4月8日
1914年 大正3年 673戸 12月1日
1916年 大正5年 1763戸 8月2日 白玉火事
1921年 大正10年 2141戸 4月14日 死者1名  
1934年 昭和9年 22667戸 3月21日 死者2166名 負傷者9485名 
※俗にいう函館大火 40ケ町焼失
1945年 昭和20年 384戸 7月14日 函館空襲 
合計30回  58055戸  
9月24日 【火防基寶】
2014年11月6日の制作日記においても記しましたが、函館は何度もの大火に遭遇しています。右の表は函館市のHPから転記(一部修正・加筆)したもの。2014年11月6日制作日記の資料と数値は異なりますがこちらの方が公的だと思います。驚いたことに100戸以上の焼失火災だけでも30回も数えます。いくら木造建築が多くて寒冷地で火を使うことが多かったにしても、この記録は異常ですね。地元の人も慣れっこになってしまっているのか多くの火災には災害名称も特につけられていないようです。しかもこの表は100戸未満の火災は含まれていません。現代感覚で言うと10戸も焼失したら大火災なんですけ・・・(江戸-東京の火事の記録を調べたらこちらもすさまじかった!興味ある方は自身でお調べください。)
当時は今よりも大家族が当たり前の時代でしたから、被災人数や世帯も多く、焼失戸数から言うと、かなり大きな市がひとつが焼失したことになります。
「火防基寶:背函館」は昭和9年の函館大火の際の見舞いの答礼として函館消防署が作った記念銭だそうで、ほかに「安鎮加寶」のデザインもあるそうです。(昭和絵銭図譜)
さて火神に呪われたような街だった函館ですが、昭和29年5月11日に湯川温泉旅館街36棟を焼く火災を最後に、大規模な火災は起きていないようです。
 
 
9月23日 【雑銭2題】
工藤会長から購入した雑銭中の雑銭。上段は不旧手の写し。やすり目がはっきりせず断定はできませんが、銅質と背の砂目から言って阿仁銅山系のものと推定できます。密鋳銭大好き人間にとってはたまらない品なんですけど世間一般からみるとゴミ以下の品かもしれません。最近は密鋳四文はもちろん、安南寛永や錯笵銭や上棟銭などにも競合が起きるのですけど、この一文銅銭の密鋳は数は少ないものの見栄えがしないので人気が全くなく、ちょっとしたエアポケットになっています。
一方ではっきり密鋳の特徴が出ているものは、かなりの貴重品。密鋳銅一文の宝箱にある加護山銭の藤沢写し江刺銭の異書写しなど、そう簡単に入手できるものでは無く、頬ずりして一緒にお風呂に入って枕元に置いて寝たいぐらい可愛い。(変態!)やそういえば先月号の下町に密鋳一文銭が下値15000円で3枚出ていましたね。あんなもの誰も応札しないだろう(私を除いては)としめしめ思ったのですが、全敗を食らいました。だれだ、あんなものに15000円×3も支払う気ちがいは!(私もだけど・・・)
画像下段は明和期長崎銭の背重輪です。こちらは上の密鋳銭に輪をかけて小汚い顔。ほんとうに薄っぺらでみすぼらしい。本来の背輪のほかに右下にはっきり輪が写り込んでいます。
このような錯笵の発生原因は3つ。一つは母銭の置き直しによるもの。いったん型どりをしかけた後で、なんらかの理由で母銭の置き直しをした際、置き直し前の砂笵のならしが不完全で前の型どりが残ってしまった場合。この場合、後からの型(正規の笵)の方がはっきり出ますので、初めの型は幽霊のようにぼんやり現れます。
もうひとつは母銭の落下や取り外しの際に押し付けしてしまった場合。この場合は落とした母銭の押し付け具合にもよりますが、正規の笵はもちろん、落してできた笵もはっきり出てくることがあります。
そして最後に型どりの際に母銭の飛び出しがあり、重なってしまった場合です。この場合は正規の笵の方の型どりがうまくできなくなるので、重なった方がはっきり出るとともに、正規の笵もはっきりしない風貌になります。面側に影響を受けている場合もあり、デザインの重なった側は肉厚になります。画像の品は3番目の理由の可能性が高いと思います。 
 
9月22日 【西洋銭譜】
インターネットにひっそりと歴史的資料が出ていました。西洋銭譜は丹波福知山の城主の朽木昌綱公の著作で、日本で初の西洋コインの専門書です。もし、日本の貨幣収集趣味の偉人を選ぶとしたら、かならず選ばれるべき人物であり、その代表的著作の一つでもあります。朽木公の知識の源はオランダ商館長のティチングであり、聡明な彼はオランダ語にも精通するほどでした。彼の交流は幕府の目に留まることとなり、スパイの嫌疑をかけられたのでしょうか、藩主から退き隠居するまでその交流をさし止められるほどでした。
その著作・・・しかも美本がネット上に踊っていました。出品地は埼玉でしたので、ひょっとすると工藤会長の持ち物だったのかもしれません。食指が動きかけましたが、私は情報コレクターながら文献コレクターではありませんし、西洋コインについてはからきしですので今回は見送ってしまいました。もったいなかったかしら。
ところで冒頭に松園主人編輯(編集)とあります。朽木公の泉号のひとつに松園があるのだと思いますが初めて見ました。 
 
9月21日 【29.6gの琉球通寶】
1985年の収集に28.5gの琉球通寶が出ていて驚きました。それから琉球の厚いものと薄いものはなんとなく気にして拾っていましたが、その結果、薄いものでは15.4g、厚いものは27.6gまで拾い出せています。ところがこのたびネットで29.6g(厚さ3.5㎜)の中字が出ていてさらにびっくりしました。私が知る限り最高の重さ・・・というより、琉球の重さに関する記録ってあまりないからよく判らないというのが本音なんですけど、それでもこの重さ・厚さは異常です。琉球はどちらかと言えば天保通寶より少し大ぶりですので、23~4gぐらいあってもぜんぜん驚かない。でもね、26gを超えたらやっぱり少ないし、29gは絶対にすごい、30gを超えたら気絶です。みんなほんの少しの違いなんですけどね。

※天保仙人様からさらにアドバイス。歴史は資料にあるのがすべてではないこと。なかでも都合が悪いことは史実に書いていないということ。例えば「鎖国」という言葉は明治時代にドイツ人ケンベルが書いた「見聞録 日本史」が日本で翻訳された際に生まれた言葉という説があり、広まったのは昭和時代らしい。海外との取引は密貿易で、禁制には違いないのですけど、裏では何をしているかは分からないそうで、金沢や福岡など地元で調べるとどうもかなりの海外交流が行われていたらしいそうなのです。まあ、幕末で幕府の力が弱っていた時代、各藩は列強に近づき武器調達に熱心だったはずで、これこそご禁制だったと思います。博多商人のたくましさは私の想像以上だったようです。
したがいまして天保銭密鋳の事実もまずはなかなか出てこないのは当然でしょう。
ちなみに(仙人様によると)藩と言う言葉も明治以降にできた言葉らしい。したがって「我が藩は・・・」等と時代劇で役者が言っていたとしたら、大間違いだそうです。
 
9月20日 【仙人様からのメッセージ】
9月18日の記事に対して、天保仙人様から連絡がございました。
(ありがとうございます。以下、連絡の概要を編集・一部加筆しました)

A1.石持ち極印の正字・正字濶縁の錫母銭は実見していないので何とも言えません。泉譜に掲載されている銅母銭を実見したことがありますが、通用銭の特徴が感じられず、今一つ納得がゆかないものばかりでした。その他に見たものは本座広郭の銅色が変化した物に思えました。少なくとも花押異(旧称・背異替=花押のお尻が丸い)には錫母銭は存在しないのではないでしょうか。

A2.久留米藩は福岡藩と密着関係であり、博多商人の交易とも関連しています。博多は宋貿易時代から盛んに金属を輸入しています。平清盛の宋銭輸入も博多からと云われています。しかも銀を輸出しており、ほとんどどの金属を輸入出来る立場でした。(注1)

A3.天保銭が多量に出現した時に、その出現銭が地元で鋳銭された物か外から来た物かを判断する規準はその状態です。未使用銭が多量に出た場合は、地元もしくは近隣で作られたと考えます。同じ物が多量にあっても、使用済・流通跡が感じられれば外から来た物と判断するのです。近年久留米近隣で出現した石持ち桐極印銭はほとんどが未使用銭でした。したがって、石持ち桐極印銭はこの近郊でつくられたと推定できるのです。

A4.天保銭にメッキをしたと言われている物は総て母銭です。これは地肌の凹凸を埋めて滑らかにして砂抜けを良くして銭文を際立たせるためだったと思われます。古寛永の御蔵銭の銅母銭に漆が入れられているのと同じ理屈です。

A5.水戸藩に鋳銭許可を出した頃は、幕府の権勢・権力は地に落ちつつありました。鋳銭許可が事実であったとしても苦し紛れの鋳銭許可にはもはやあまり意味はないと思います。

注1)福岡藩の貿易の黄金期は鎖国制度によって崩壊しています。とくに黒田家御用商人の伊藤小左衛門は寛文年間に密貿易の罪で一族ともども処刑されています。伊藤の資産は当時の幕府の資産にも匹敵し、アジア一とも噂されるほど。これにより、博多商人の密貿易はいったん頓挫することになります。その一方で長崎に目を付けた大賀宗九は、出島の建設資金を拠出して家主株を取得しています。博多商人はたくましかった。

※この解説を聞き、私の疑問が氷解しました。なるほど、福岡の離郭の母銭に銀メッキのような金属着色が見られる理由が理解できました。同じ技術が関係の深い久留米においても使われたと考えれば良いのですね。
 
9月19日 【踏潰俯永様】
東北のSさんからのご投稿です。ありがとうございます。ようやく入手できた踏潰銭俯永様だそうで、喜びもひとしおといったところでしょうか?
踏潰銭にはいわゆる踏潰俯永手(俯永様削字)というものが古来から知られていますが、本体銭に近いこちらの方がはるかに少ない珍銭のようです。特徴は寛字前足が陰起気味で、永字末画は輪に接し、寳字後ろ足が長い・・・そうです。
踏潰の専門家のSさんでさえ入手に苦労した品、皆さまもお探しください。
 
9月18日 【石持桐極印銭の謎】
今月号のキュリオマガジンにおいて、
正字背異は水戸銭で、石持桐極印銭は久留米藩ということが発表されました。この話は現時点で最先端・ほぼ最終結論だと思います。石持桐極印が久留米なら深字も背異替も当然ながら久留米です。
しかし、へそまがりの私はあえて疑問を投げかけます。
1. 水戸藩は正式に幕府に天保銭鋳造許諾を得ていた。これは間違いない事実らしい。(天保通寶銭の研究)
2. 久留米藩は有馬氏21万石という中堅どころ。水戸学が盛んで水戸藩との親交もあった。
3. 錫母の製法を知っていたのは、本座と水戸と南部藩だけであると言われている。
4. 正字濶縁や背異替には大型の錫母の存在が知られている。(天保有報母銭図録)
5. したがって、正字濶縁や背異替が水戸藩でないのなら、3番の説が誤りか、4番の正字濶縁や背異替の錫母が贋作であることになります。
6. また深字にには母銭仕立ての枝銭(開炉にあたっての奉納銭か祝鋳銭という説)があり、それにはうっすら銀メッキらしきものが塗布されています。以前にも書きましたが、密鋳であるはずの天保銭にそんな目立つものをつくる意味が果たしてあるのか
7. 密鋳天保を自国で大量に使うと、自国経済の銭相場が破たんします。それは薩摩が琉球通寶で失敗した例でも明らかです。したがって、その地に大量に存在するからその地で作られたということには決してならない。事実、薩摩広郭は全国にばらまかれかつては秋田とか大阪銭の異名がついたほど。水戸藩は維新のときに藩としては動かなかった。だから、天保銭は軍事費としての性格というより、水戸藩で交易決済用としてつくられたとは考えられないか?あるいは水戸藩と久留米藩が裏で結託していたのではないか?
8. 石持桐極印銭には亜鉛(真鍮)が多く含まれているという分析結果があったと思います。亜鉛(真鍮)は幕府の専売輸入に近い品で、地方の藩では入手困難であったはずですし、鋳造も難しくなります。この点をどう説明するのか? 
ここに記したのはあくまでも私の仮説。自分で調べた事実ではなく、人から聞いたことや比較的新しい文献の知識からの考証です。疑問を書いたものの、たしかに、正字背異と石持桐極印銭の正字背異替の銅質・製作は違いすぎますから、同炉系とするのは無理がある気がします。
なお、キュリオ解説中でさらっと触れられていますが
「水戸正字母銭なるものは存在しない。それは未使用級の本座広郭母銭だ。」という秘話が公開されました。この点は私も公開しないでおりましたが、その通りだと思います。
 
9月17日 【あつめる という言葉】
最近は「蒐集:しゅうしゅう」という言葉を使わなくなりました。常用漢字でないというのが本当の理由なのでしょうけど、
「蒐」と言う字が「みにくい=醜」と言う字と部首が同じこともあり、私にはなんとなく「がつがつ集めるような背徳のイメージ」がありました。(もちろん個人的な印象です。)「蒐」をワープロ変換するときには「あつめる」と打ち込みます。意味としては寄せ集める意味があり、ひと塊にする意味が含まれるようで、コレクション的に集めることに特に使うようです。「蒐集」=「収集」なら「蒐」=「収」のはずですけど「収」は本来「おさめる」であって「あつめる」とは読みません。収集はきれいにコレクションを並べて整理しているような印象があり、最近の私のように整理不足の状況は「蒐集」のほうがふさわしく、したがってニュアンス的には趣味的にただ物を集めることはやはり「蒐集」の方が正しく意味を伝えている気がします。
ところで昔の人は「あつめる」という言葉に色々な文字を充てました。平尾賛平はその拓本集に麗悳荘平尾聚泉輯(れいとくそうしゅうせんしゅう)という名称を付けています。
実は
「聚」「輯」もみな「あつめる:シュウ」と読みます。「聚」は家や人の集まった様を意味するようですが、転じて集める意になり、「輯」は特に書物や資料、情報などを集める事から転じて集める意になったようです。
聚泉輯は多くのコレクターが一堂に集まって拓本を出しあってつくった資料集だと考えれば、あながち間違いでない文字の使い方かもしれません。
(字源的には「蒐」は「醜」から来ているようです。)
 
9月15日 【沓谷銭の大型銭】
先月号の駿河の中でとても光ってました。大きさが26㎜を超える姿は実に立派です。このサイズだと通用銭も25.7㎜程度になりますから大きいですね。
おそらく母銭クラスだと思いますけど、とても立派です。でも画像からは特別な仕上げ感は感じられない気もします。古寛永の判断は難しいですね。まあ、これだけ大きいと自慢できそうです。私の持ち物ではないのですけどね。
※5月22日記事のものと同一品みたいです。先ほど気づきました。 
 
9月14日 【称:南部肌の背盛】
暴々鶏会長から南部肌の仰寶を購入していましたが、同じ肌と思われる背盛がネットに出ています。(これは会長の出品。)しかも湯口がついて未仕上げのようです。仰寶とセットのような風貌で、困ったことに並べて見たくなってきました。それでも輪の表面に鋳肌が残っているということは、仕上げの砂磨きがきちんとなされなかった、つまり仕上げが雑だということです。これは浄法寺次鋳とも関係があると云われておりますが、いわゆる南部肌の正体は案外そんなところなのかもしれません。
※表示の都合上、記事の期日を入れ替えました。 
 
9月13日 【交通会館に行ってきました!】
久々に交通会館に行ってきました。目的は第26回江戸コインオークションカタログを入手するためなのです。開催日は10月11日(日)・・・残り1ヶ月を切っています。朝方に大きな地震があったせいで電車に若干遅れが生じていたものの、ほぼ予定通りに到着しました。
会場はいつもと同じ、脂ぎった中高年の男性ばかり。若いおねえちゃんはアルバイトの店員さんばかりです。さっそくカタログを購入しにウィンダムへ。豪雨被害のため郵送が遅れている可能性があるとのことでしたが、見本誌を一冊頂戴できました。同社は下見のための出店であり、販売は行っていないようでしたが、購入したばかりだという文久様俯永を新社長の荒畑氏から見せて頂きました。ひとめ、なんだ、明和の改造銭みたいだぞと感じたのですが、ルーペで見ると文字や背波が山形に加工されています。もちろん側面は横やすり。変造品はそれが新しいのですけど、しっかり時代がある感じです。うわ~面白いな、これ。文久様は一つとして同じものがない・・・。荒畑社長もそう申しておりました。目の保養です。
古仙堂のご主人がいらっしゃいましたので、長崎からご出勤ですか?・・・と声をかけたところ、九州のお店は残念ながら閉めたそうです。九州のコレクターは目が肥えていて中級品以下がなかなか売れず、地方では新規仕入れも難しいから売り物不足に悩まれた結果だそうです。
せっかく会場についたので店内をぶらぶら歩きまわり物色しましたが、なかなか眼鏡にかなう品がありません。今日はこのまま帰ろうかなあ・・・と思った最後のお店(Jとしときましょう。)でこの天保銭を見つけました。会津濶縁と表示はありましたけど、亜種の濶縁離足寶だということはすぐに判りました。輪の瑕もちゃんとありますしね。ただし、値段はそれなりでした。私は同じ種類の品を複数集めるようなことはほとんどしないのですが、この会津濶縁系だけは好きでなんとなく購入してしまいます。見栄えはしないのですけどねぇ。高いのでやめようと思ったのですけど・・・そこで私の悪い癖が出てしまいました。値切りました・・・それも、3分の1のOFF!。あっさり「いいよ!」との気前の良い即答に引き下がれなくなりました。結局、会津濶縁離足寶はこれで何枚目になったのか・・・まあ、良しとしましょう。よくよく見ると会津らしい赤茶の銅質ですね。(画像に採ると足の陰起部分まで写ってしまうのですけど、輪幅は広いし離足寶で間違いありません。)
購入後、店主に見せられたのが
水戸遒勁の超美銭。まだ店に並べてない品ですけどこいつは素晴らしかった。値段も納得の価格です。ある情報で、某地方銀行のコレクションだったものらしく一級品です。興味のある方はお探しください。今年奇天手を購入していなかったら手が出たと思います。
 
9月12日 【改造鐚永楽:曲永大字が出た!】
島銭として出品されていた1枚の永楽通寶。正直言って状態はあまり芳しくないのですけど・・・なんだか永の文字がグニャグニャ曲がっています。この手のものは改造鐚永楽で曲永大字ってものがあったなあ・・・なんて思っていましたら、どうやらビンゴだったようです。多分価値はウン十万円なのかもしれませんが、私は門外漢ですから熱くならなくて済みます。(すでに圏外価格です。)
曲永大字は鐚永楽系の中で多分最高峰。中正永楽より上ですね。改造永楽では大字と呼ばれる現存一品クラスの珍銭があったはずですけど、こちらの方が風格がありますね。
 
9月11日 【またまた勇文手が出た!】
オークションネットの古銭入札誌 第23号が出ています。その中に、朱書きの痕跡のある勇文手が出ています。しかもこれはおそらく天保通寶と類似カタログの原品に間違いないと思うのです。(泉譜においては拓図が歪んでいます。)欲しい!しかし、今年は奇天手を買ってしまっています。買い過ぎなのです。ここで再び手を出してしまうと家計が崩壊すると言いますか、人間としていよいよ抑えが利かなくなり人格そのものがおかしくなってしまう・・・しかし、黙って見ていても狂いそう・・・そんな発狂寸前の今日この頃。だれか、ずばっと高額応札してください!
※画像を見る限り、会津の地肌・砂目でもなく、勇文とも銅質が違います。接郭や一部の南部藩のような雰囲気です。泉譜の評価は珍・・・なんで大珍じゃないのでしょうか?
 
9月10日 【文久永寶深字本体】
唐松堂さん、祥雲斎氏と永厘按氏で
文久永寶周遊会を立ち上げたようです。文久永寶は寛永・天保と並ぶ江戸期の代表的な穴銭でありながら、変化が多く難しく、どちらかと言えば日陰者の存在でしたので、これから新たな発見が期待されますね。と、舌の根が乾かぬ間に今さらこんなことを書くと怒られそうですけど、実は私は文久永寶の深字の本体を入手したことがありません。HPに掲載しているものも亜種であり、熱意が足りないせいだろうとも思いますが、とにかく出会わない。だいたい文久銭の売り物は滅多にない(売れないから?)というのが実情です。良い子の皆さんは左右の拓本を参考に目を皿のようにして探してください。この久字全体のストレートな感じ、とくにその頭がすっきりして開かないことなんかが分かりやすい。本体はこの文久永寶周遊会のメンバーをもってしても数枚しかない貴重品。こんなに少なくて本体を名乗らせても良いのか!・・・と思ってしまうくらいです。
 
9月9日 【貞観永寶の島銭】
貞観永寶は皇朝銭9番目のお金。しかし、画像の貞観はそれとは全く異質でしかも時計回りの循読ではなく対読になっています。画像で見る限りは島銭としか言えないのですけど、出来過ぎの気もします。だってこの書体、古銭好きのツボを押さえていますよね。絵銭の類とみるべきなのでしょうが面白い。初めて見ました。まずまずの価格に落ち着いたようですけど、安ければ私も欲しかったですね。
まあ、これに突っ込んでいった方々は皆同じ気持ちだったと思います。半信半疑、眉唾眉唾・・・でもひょっとしたら・・・。 
 
9月8日 【石川諄古泉生活50周年 記念著作品輯】
古寛永通寶分類 校正台帳
新寛永鉄銭価格案内
寛永通寶400年祭
中外銭史
銭幣の環
皇朝銭手控え
今昔皇朝銭譜
和同開珎1300年
新寛永鉄銭指南
鋳銭地名マップ
東京絵泉会雑誌
函影銭景
新寛永鉄銭指南拓図原品
世界のエツセン蒐3千未満
     〃    第弐号
仙台異書銭類手変り銭集
織田信長資料
無佛斎藤原貞幹
新寛永収集リスト
拓本輯 御蔵銭
銀座コインオークション
文久永寶母銭・銀銭出品資料 
舎人坊 銭貨拓本集
北秋田寛永通寶研究会
刻印銭資料
虎銭・大黒銭・寶永銭資料
石川氏から送られてきた小冊子。その50年に渡る古銭の収集の歴史の一端が垣間見られます。
さすがに長年の収集の中で得た知識は豊富でしょうし、何よりこの方まめなんですね。私とは段違いで資料をきれいにまとめます。右に挙げたのは資料として氏がつくったもの・・・著作あり、資料集ありです。なかには「拓本輯 御蔵銭」のように、浅草古銭会時代に私が泉界デビューしたなつかしいものやら、北秋田寛永通寶研究会の菅原様用につくられた資料集など個人用非売品の資料も見受けられます。
いくつかの資料には価格がついているようで、気になる方は直接お問い合わせ頂いた方が良いと思います。(表示を消しておきますが、以下の青い空欄を選択してください。文字が反転して見えるはずです。)
おそらく廃版や一冊限りのものが多いと思いますが・・・虎銭・大黒銭・寶永銭資料は価格表示が見えましたし、世界のエツセン蒐3千未満 第弐号も新しそうなので入手可能かもしれません。
〒336-0931
さいたま市緑区原山4-28-1-107 石川諄 
☎090-9346-3522




拓本輯 御蔵銭 
こいつは実に懐かしい一冊。果たして世の中に何冊この本が存在するだろうか。私が初めて古銭会に浩泉丸の名を出した記念すべき一冊。実は泉号を持っていなかった私に、石川様がプレゼントして下さったもの。
以降、この泉号でこのHPを造り始め現在に至っています。これが私の原点ですね。

スマホの場合は青の画面上をしばらく長押しすると範囲が選択できるようになります。
 
9月7日 【覆輪存痕の天保】
ネットオークションに久しぶりに勝ちました。とはいえ前回は無競争落札でしたので、競り合いは6月の頭以来です。結果から言えば高い買い物でしたけど・・・。覆輪の一度写しの天保通寶ですね、銭文径はそれほど小さくなく。文字への加刀もほぼなく、わずかに刔輪で寶足が長いのですけど長足寶とするには今一つ弱いかなあ。画像だと寶足が長く、天上の刔輪ももう少しありそうに見えたのですけど、こういうのを欲目というのでしょう。みなさん、上手に接写しますね。唯一の救いが背の覆輪痕跡。0.1㎜にぐらいしかない筋目なんですけど左右ともに確認できます。
長径49.4㎜ 短径32.6㎜
銭文径41.3㎜ 重量19.1g

本日ネットでは個性あふれる厚肉天保銭に人気が集中しています。2万円近くかあ・・・でもあれは文鎮のようなものでしょうね。落した方連絡ください。不知銭の30g超えはほとんど聞いたことがありません。その昔、入札誌穴銭に広郭手で出ていてHさんが落手・所有されていました。私の記録は長郭手で28gほど・・・ただし顔はいたって平凡です。薩摩の広郭で30g超えはありますけど極めて稀。あと可能性があるとすれば福岡離郭あたりかしら。その昔、天保仙人様から通常の倍ぐらいの厚さの会津短貝寶を見せられ、ぶっ飛んだ記憶があります。あれはみごとでした。
それと状態は今一つながら古寛永の有名品が頑張っていますね。輪のほつれた坂本大濶縁が12万円。ヒビ入りの魚尾寶は20万円を超えたみたいです。昭和泉譜原品の名前で10万円ぐらい上乗せされたんじゃないかしら。皆様、日本経済に貢献しています。 
 
9月6日 【下田刻印銭記】
石川氏から頂戴した刻印銭のおよそ半分強が
贋造の刻印銭で、そのうち下田刻印銭がかなりの割合を占めています。文久銭に打たれたものあり、一文銭に打たれたものありとバラエティ豊か。刻印のタイプにはいくつかありまして、と、いうことは贋作者は一人ではないという事です。画像に添付したものはその中でも特徴的なもの。大きさがずいぶん違いますし、わざとずらして打った物・・・というより、細かいタガネを重ね打ちして作ったもの・・・もあります。
まあ、この手の物は余興で集める性格のものですから、あまり熱くならないこと。実は一枚一枚石川氏手作りの袋に入っておりましてしかも名前入りです・・・恐れ入りました。資料としては貴重ですね。
手紙とともに刻印銭資料が入っておりまして、冒頭にはO氏が昭和52年に記述した手紙の写しが入っていました。達筆だったので、一部現代風に少表現を手直しして、誤記と思われる部分も修正しました。(以下手紙の内容)
タイプ1 タイプ2 

寛永銭に夢中になって集めていた頃は何の疑いもなく下田刻印銭を肯定していたが、藩札の収集研究をするに当たり各藩の経済状況と時代の貨幣制度の歴史を究明していると、天下の通用銭に下田刻印したものが換等価(交換レート)を上げて下田管内だけに通用したとは信じられなくなりました。
1. 国立図書館に通って文献あさりをしたが見当たらなかった。
2. 次に現在の協会雑誌「貨幣」の前身「東洋貨幣協会」発行「貨幣」1巻~200巻まで読破したとき、この間会員中より二度にわたり下田刻印銭についての質疑があるにもかかわらず協会からは応答されてないことが判明した。
3. 明治2年に最も近い、中川近禮、亀田一恕、榎本文蔵共編の新撰寛永泉譜前後編に下田刻印銭が出ていない。
4. 当時私は三重県の四日市に居住していたので名古屋古泉会、津古泉会、桑名古泉会に籍を置いていたので、下田刻印の原型、字画の決め手を知ろうとして寛永収集家に尋ねたが、だれ一人知らず、当時古泉家は史実の勉強が足りないと思った。
5. その後、名古屋の定例古泉会で大阪の原山氏にあって伺ったところ、東京の山本文久童翁から教わったと記憶していると同封刻印の原型を知った。
6. 当時、私の会社に私の部下で伊藤竜夫という人がいて戦時中精密機械工をしていた彼も私に弟子入りして古銭収集をしていたので事の次第を彼に話すと、それぐらいの刻印は簡単にできると引き受けてつくった。
7. 小波小字に打たれた従来出回っている刻印に似せてつくった現品のほか、大波俯永に打たれた一回り大きい刻印2種があり、刻印は打つときの角度で字画が変わり決め手がなくなる。もし、事実行われていたのなら刻印は一本一本手づくりだから、大小の相違、小波銭に打とうが大波銭に打たれようが問題はないと思う。
8. 私はこの刻印を大波俯永に打って名古屋古泉会に出品したが、前便でお知らせした通り東京での例会と同様、だれも異議を唱える人はいなかったが、当時名古屋では(故)大橋氏が大家として君臨しており、駆け出しの私が大家を向こうに回しての論戦は控えて黙しました。
9. その後、昭和36年4月、東京支店の責任者として転勤。東京の例会にも出席するようになると、前便にも申し上げた通り山本文久童翁の「文久銭にも(下田刻印銭が)ある」との発言に黙っていられなくなり発表した次第で・・・
   
A. 新寛永銭に後打ち刻印が母銭にあるのは通用銭の鋳込みをつくるためであるから肯定するが通用銭の後打ちは  否定する。
B. 天保銭水戸短足寶の米字刻印銭  否定する。
C. 琉球通寶手形刻印銭  否定する。
D. 盛岡米字刻印銭  否定する。
E. 盛岡 わけもわからぬ8ヶも打った小刻印銭  否定する。
F. 豆板銀定字刻印銭  否定する。
この内容はあくまでもO氏の意見であり、いまのところ確定すべき内容でもありません。刻印銭に関する伝承の(古泉界の)検証の甘さと、ひょっとするとO氏も下田刻印銭を贋作したことの告白・・・懺悔なのかもしれません。同封刻印の原型とか現品とか書かれていますので、あるいはこの手紙と同時に贋作品が添付されていたのかもしれません。
この手紙には全ての刻印銭が贋作であるという理由は見つかりませんが、少なくとも刻印銭は簡単に贋作が作れるというお話なので、皆さまお遊びのつもりで収集しましょう。なお、下田や輪十、米字などの有名どころ以外の刻印銭のほとんどは数寄者による記念銭か上棟銭の類です。こちらもお遊びですけど悪意がほとんどない分楽しめます。 
※天保仙人様からのひとことアドバイス
神社の場合は上棟銭として扱ってもよいのですが、お寺の場合は別の目的の方が多いと思います。それは博打!つまり賭け事(ギャンブル)です。元々は遺族の気晴らし(手慰みと言う)と、寺の経済的事情から発生したと言われております。博打での胴元に払う手数料・歩銭をテラ銭と言うのは『寺銭』から来ている言葉です。寺は寺社奉行の管轄なので、町奉行は手を出す事が出来ません。江戸時代に博打は、許可の受けた賭場か、大抵の場合は無許可の寺で行われていたのです。寺名の打刻印銭は、おそらくは割符(入場許可書・仲間の印)として、使用された物と思われます。

上棟などという神々しい記念行事より、生臭い現世でのご利益・・・というわけですね。寺銭の由来は勉強になりました。
 
9月5日 【お気に入りの天保】
東北の収集家からのご投稿です。(ありがとうございます。)不知長郭手狭玉狭足宝と命名しているそうで、同類品が天保銭事典(P347)と不知天保通寶分類譜(下59PのNo30)に掲載されていいます。全体に修正されたようで全ての字画がグニャグニャ曲がっていますし、筆勢もなく、文字の太さも安定していません。私はすごくケダルそうな印象を受けますね。奇書や尨字とも違うし、細郭手の草天保のような雅味や素朴さはなく、なんだろうか一種独特の幼稚ささえ感じられる書体です。いや不思議、摩訶不思議です。
一見して風采が上がらず、変色して傷も多いし、みんな見向きもしなそうな天保通寶なのですけど、マニアにとってはたまらない顔なんですね。そう感じるのはきっと病気でしょうけど。良いものを見せて頂きました。(長径48.88㎜ 銭文径40.80㎜) 
 
是刻印
旭堂刻印
9月4日 【刻印銭の由来】
元方泉處の石川氏から郵送物が届きました。その中には22枚の刻印銭とともに刻印銭の資料がありました。刻印銭の類は一時期狂ったように集めていたこともありますが、由来についての資料は少なく、夢想するばかりで、そんな中昨年はどうにか梵字銭の一端の解読に成功しています。(2014年5月12日制作日記)今回頂戴した資料は明治31年の寛永銭研究会報告第22号で題字はおそらく養真亭こと馬島杏雨の書ですね。その中にいくつか私も所有する刻印銭がありました。
是刻印銭 参州是字山寺院・・・すなわち三河国の国(現在の愛知県岡崎市)にある是字寺(ぜのじでら)こと龍海院の寺院改築の際の上棟祝賀銭という説があるそうですから結構由来は古そうです。是の字は家康公の祖父である、松平清康公が左手に是の文字を握る吉夢を見たことから。是の文字は「日・下・人」からなり、天下取りの吉兆とされたからです。なお、龍海院は岡崎の他に群馬県前橋市内にもあり、こちらも是字寺と呼ばれ、岡崎の別院とされていますので、この刻印銭はあるいは北関東出身ということも考えられます。
旭堂刻印銭 長野県長野市の南西部にある安茂里地区のかつて木曽義仲の居城のあった地は木曽殿屋敷と呼ばれています。その一角に朝日氏邸と呼ばれている屋敷跡があり、俗に朝日城址と呼ばれています。そこに建てた木曽義仲の堂(おそらく祭祀の祠)の上棟式の祝賀銭であるという説があるそうです。(芝軒今井麻須美氏の調査)
これについては遺構そのものが失われており、今となっては完璧な証明は難しいと思われますが、有力な伝承ですね。 
 
9月3日 【古き贋作者:谷川作】
谷川は元禄年間の泉州(大阪)の人で、俗称の谷川とは出身地名らしく、本名は和泉屋 西田与右衛門というようです。後に剃髪して一時期西田遠順と名乗ったこともあるようです。画像左は代表作の一つの「国土安穏」。
贋作者とされていますが、現代基準でいえば絵銭作家ということになるかもしれません。しかし、情報量の少なかった江戸時代においては珍奇な古銭を造れば数寄者がさかんに購入したと思われ、購入者から贋作者とされたのでしょう。「タガワ」という読みは古地名であり、現代では大阪府泉南郡岬町多奈川谷川で「タニガワ」という発音が一般的。古銭語事典ではなぜか「ヤガワ」とされています。作品には新規銘文が多く、肉厚で濶縁・細郭になるのが特徴と書かれています。国土安穏は細縁に造られていますが、先に書いたように濶縁・細郭になるものが多かったことから、右の「應天元寶」の作者は不詳なのですけど、あるいは谷川かもしれません。
江戸時代においては贋作とされていた谷川作ですけど、時代は元禄までさかのぼりますし数そのものも少ないと思います。福西や寛永堂、ラムスデンなどほど芸術性・収集界への悪影響もないので、骨董資料的な価値が出てくるかもしれませんね。残念なことに今ではこの古い時代の贋作作者をしっかり見分けられる古泉家は残っていないと思われます。
(この画像は天保仙人様から提供いただいた資料です。) 
 
9月1日 【投稿画像:細郭手覆輪背反郭】
東北の収集家から画像を頂戴しました。(ありがとうございます。)『細郭手覆輪背反郭と呼ばれているもので 天保泉譜(勢陽譜)№243と同類の物です。 當字に加刀痕が有ります。位付けは低いですが少ないもので、 不知天保通寶分類譜に3枚(P76,82,145)載っておりますが2枚はこれら現品です。』とのこと。泉譜を引っ張り出して確認しました。さすがにN様は良く観察されています。ぬるっとした綺麗な肌で、思わず頬ずりしたくなりますね。(変態!)自分の所蔵品を確認しましたが残念ながら類品はありませんでした。私の泉譜には万年筆で「當冠の点離れる。」と古い記入がありました。この万年筆は大学の入試の前にもらったもので、当時は高校の入学祝は万年筆か腕時計と相場が決まっており、万年筆はプラチナとパイロットが双璧。
みじかびの、きゃぷりきとれば、すぎちょびれ。すぎかきすらの、はっぱふみふみ・・・このフレーズが判る方は私と同世代です。私が使用していたのは親父からもらった海外メーカーの古い万年筆で、ペン先が柔らかくて滑らかでとても書きやすかった記憶があります。大学受験の回答は万年筆かボールペンでというのが母校の受験条件でして、書き直しが利かないのでものすごく緊張した記憶があります。余談ですね・・・。 
※23.3gありました。しかも本座長郭でほぼ間違いなし。初期の長郭には肉厚のものがごくまれにあるらしいと聞いたことがあったのですが本当でした。 
 
8月30日 【長郭の厚肉過重量銭?】
ヤフオクで2枚の天保銭を落しました。画像はその1枚。本座長郭と細郭は絶対に23gを超えない・・・というイメージを私は持っています。23gを超える場合はほぼ間違いなく不知銭か計測ミスです。タニタ社製の重量計はかなり正確な計測が可能なのですけど、ちょっと0の位置をずらせば簡単に偽装は可能なので注意は必要です。今回落とした天保銭は1枚が18.4g(水戸背異)でもう1枚が23.3g。重量の異常を意識した組み合わせです。紹介表示上は「全くの素人」なんですけど、バレバレ見え見えですね。だいたい、タニタ社製の精密重量計やデジタルノギスを持っているなんて99%マニアに違いなく、しかも重量の違いを意識しているわけだからこの天保銭を高く売り抜けようという意図が見えています。しかし、落札価格は2枚で810円。こまった、これでは文句が言えません。こうなったらこの品が不知長郭手か、本座の厚肉過重量銭であることを祈りたい。
もちろん、本座長郭の23g超えは初めて聞く数値ですし、不知銭であってもこの価格なら掘り出し物。ただし、重量計の意図的ミスであったら・・・ちょっと悲しい。金銭面はともかく、心のダメージは大きいと思います。私は性善説を信じます。
 
8月29日 【新寛永通宝図解譜】
インターネットで発見しました。2015年10月に発刊とのことで先行発売なのか予約販売なのかよく判りませんけれど申し込みをしました。A5版160Pで436図の掲載のある銭譜です。
著者の白川昌三氏と言えば昭和62年に「新寛永通宝カタログ」を発刊した方。仮にそのとき50歳ぐらいだとしたらもう80歳近い年齢のはず。(あくまでも年齢は仮定です。)昨日はマイナス思考的なことを書いてしまいましたが頑張っている方は頑張っていますね。私も見習わなければならないと思います。
現在もヤフオクで出品中です。すぐに送付して下さる連絡が入りましたので、パイロット販売なのかもしれません。
 
8月28日 【雑銭の会の納会】
8月22日(土)に川崎で納会が行われ、平成4年10月から始まった20年以上の活動の歴史が休止したようです。残念ながら私は行事の都合で参加できず、最後まで工藤会長に対し義理を果たすことができませんでした。10年以上のお付き合いながらお会いしたことは数えるほどしかなく、それでも吸収させて頂いた知識は数えきれないほどあります。休会はしましたけど、まだまだ学ぶべきことはたくさんあり、機会があればお会いしたいと願っています納会の画像を拝見すると、川崎のO氏や仙人様、東北のK氏や青七様などそうそうたるメンバーが参加されていました。
ここのところ古泉界を支えてきた中堅どころの引退もしくは活動休止のお話が相次いでいます。青寶樓時代を知る方々も還暦を過ぎており、古泉界の力も急速に低下しています。さりとて私には古銭会を新たに立ち上げる力も知識もありません。
気が付けば半世紀以上の人生が過ぎ、体力・・・とくに視力の低下がここ1、2年で著しくなり、私自身も改めて終活を考えなければいけない頃合いになってきました。収集人生にも秋が近づいて気がする今日この頃です。
HPの書体変更は毎日1P程度のペースで進めています。まず、天保通寶の不知銭から着手しています。言われなければ気が付かない程度の変更なのですけど、レイアウト維持のため文字数制限せざるを得ないので思った以上に手間がかかっています。その分、お金はかからないので家計は助かるというもの。先の出張でも散財する羽目になってしまったのでちょうど良い冷却期間になります。
 
8月27日 【書体変更】
技術的に詳しい方はお分かりになると思いますがこのHPはホームページビルダーの「どこでも配置モード」という初心者向けのソフトを使用して作成しています。プログラム言語についての知識は必要なく、簡単にデザインを設定できる長所があるのですが、パソコンの機種により表示崩れや文字重なりが起こるのが難点でした。
その防止のため、1年前にレイアウト枠を使用した配置に全面変更しました。とても手間はかかりましたが、これによって文字の表示を大きくしても文字の重なりが生じなくなり、レイアウト崩れも最小限に抑えることができました。
ところがここ数年の技術革新でさらに新たな対応が求められるようになりました。それはスマホへの対応です。スマホの画面は小さいため、文字表示はパソコン画面より若干大きくなるように設計されているようで、しかもアンドロイド系とアップル系では文字フォントが異なります。そのため表示が微妙にずれてしまうのが悩みでした。
私はずっとガラケー・・・しかもネットはおろかメール機能もつけていない古典的機種でしたので、実態把握ができなかったのですが、先月に愛用機のご機嫌が悪くなりやむなく格安スマホに乗り換えることになりました。それでHPを見るとまあ、読みづらいことこの上なし。
そこで多くのスマホに対応している「メイリオ」という書体に一部のページを変更してみました。表紙やこの制作日記の書体が変わっていることに気付いた方は鋭いですね。
このフォントは(同じフォントサイズでは)文字幅がすべて同じなので、表示上のレイアウト崩れを起しづらいという特性がある反面、その分活字幅をとるので、既存のレイアウトに適用すると従来より文字面積が広くなりますので、デザインの大幅見直しが必要になります。(既存のサイト内のレイアウトそのものが崩れてしまう。)
したがってまだ、一部のページにしか適用ができていませんが、時間を見ながら少しずつ変更していこうと思います。 
 
8月26日 【謎の佐渡銭】
大和文庫の泉中夢談に元文佐渡の無背銭が掲載されています。泉譜によっては掲載されていないことから、存在そのものが疑わしいのかもしれません。なにより、この佐渡銭、製作が今一つで確認が難しいということも原因だと思います。掲載した2枚は未だに確証を得られないものです。
上は永の跳ねが確認できないものの背郭が小さく濶佐の系統だと思われますが、本来あるべき佐の字がありません。実はこの品、雑銭から拾ったときは何の銭種かすぐにはわかりませんでした。元文佐渡に無背銭があると聞き、もしかすると・・・と思いましたが背郭が違います。濶佐刮去なら新発見なのですけど、拡大画像をよく見ると佐字の最終画がうっすら残って見えます。少なくとも贋作の類ではないと思いますし、こいつにはまだ夢が残っていると思います。

画像下は背郭が大きく、正佐刮去・・・と言いたい品なんですけど、こちらも永柱の跳ねが確認できません。こちらは確かに背佐の文字は見えませんが・・・文字の位置が不自然に凹みます。どうせ贋作を作るのならもっと上手に作りそうなものですけどね。
いずれにしてもこれでは正佐刮去とは断定できませんし、変造と言われても仕方がありません。したがってこれは佐渡含二水永の大様ということにしています。化ける可能性は0ではありませんが、これを化けさせるようでは鑑定規準が甘いといわれかねません。まあ、それでも夢がないわけではありません。ちなみに私はこれに甘い夢を見て購入していますけどね。
 
穴の変形が無く、しかも本来の穴より大きい・・・さて、これは珍品なのか?
8月23日 【穴ずれコインの科学】
エラー穴ずれコインのメカニズムを考える上で、穴があけられたタイミングの究明はとても重要です。なぜなら、穴の変形の有無で穴があけられたタイミングが判るからです。鋳造と異なり、打刻では素材の延展変形が生じます。もし、打刻以前に穴が穿たれていたら、穴そのものも変形するからです。4月にも考察しましたがもう一度おさらい・・・
少しまとめますと・・・
①穴が円形の打ち抜きと同時にあけられたとしたら・・・
穴ずれそのものが発生する可能性は極めて低く、少なくとも大穴ずれは生じません。
②穴が円形をつくったあと、かつ文様打刻前の段階であけられていたら・・・
中央部以外では穴は円形の外周に沿って扁平状に変形しようとする力が働きます。
③穴が文様打刻と同時にあけられていたとしたら・・・
やはり穴ずれそのものが発生する可能性はあまりないと言えますが、発生したとすると、文様の大ずれも同時に生じます。
④穴が文様打刻のあとであけられていたとしたら・・・
穴ずれが生じた場合でも穴の変形は起こりません。

時代によって製作工程に変化があったと思われます。はっきり言えることは、同じ年代のコインで、製法が大きく変化することは考えがたく、例えば変形穴ずれと無変形穴ずれが同じ年号で見つかった場合はどちらかが変造である可能性が高いと言えます。もっとも合理的かつ近代的な製法は① 次いで ③ → ② → ④ の順かしら。

冷静に考えれば穴なし貨幣や2つ穴が世に出現するにはかなりのチェックのすり抜けが必要ですね。やはり、原料資材の横流しか変造ぐらいしか考えつきませんけど。不思議・不可思議・摩訶不思議な世界です。
※出張出発前の時間で記事更新・・・もはや病気も末期です。
 
8月22日 【休日前夜】
もし、本物と寸分たがわぬものが作成できたとしたら、それはもはや本物である・・・とは言いすぎでしょうか?現実には難しいことなのでしょうけど、古銭の真贋を見分けるには本物との差異をあらゆる角度から検証するしかありません。古銭といえども人間が作ったもの・・・人間が作ったものは人間が作れないはずはないのです。あとは科学的な審判・・・いえ、冷静な観察眼による判断力の方が必要でしょうか?
9月のキュリオマガジンに、加賀千代の背大錯笵が掲載されていますが、「こんなはっきりした失敗作を本座が出すわけがない。」という言葉がある意味的を射ています。
私も錯笵銭は大好きですけど、やはり限度があるというもの。一方でものすごいエラー銭が世に出てくるから不思議なのです。2つの穴のあるエラー50円玉が最たるものでしょうか?
この50円玉、出荷までのチェックポイントは少なくとも円形の段階と出来上がった段階の2回はあるはずで、こんなものが世に出るはずはない・・・とは思うのですけど、あるから不思議なのです。検査ではねられたものが出たものか、あるいは製造工程そのものがコピーできるものなのか・・・とにかく不思議です。
一つ分からない点を申せば、ずれた穴が変形していたりいなかったり、あるいはずれた穴が中央の穴より大きくなること。このメカニズムを解明すればどうしてこのようなものが出来上がったのかが理解できると思うのです。
天保通寶について、おしかりを受けながらも私は銭文径や内径を未だに重視しています。
だって、銭文径や内径が本炉銭と異なれば・・・もうわかりやすいじゃないですか。ところが、製作から見てどう考えても本炉ではないものの、本炉銭と規格が変わらないものも確かに存在するのです。
ほぼ規格を完璧にコピーをしたものもあるでしょうし、本座から母銭が流出したというまことしやかな噂もあります。いつぞや無穴の50円玉が大量出現したときにも、造幣局職員が関与したのではないかという噂話を聞いたような・・・。
もしそんなものが世に出ているとしたら・・・本物のエラー銭と見るべきなのか、それともただの製作途中の材料の横流しと考えるべきなのか?考えれば考えるほど判りません。
さて、明日からお出かけです。(半分休み・半分仕事ですけど・・・)しばらくお休みしますがお許しください。
 
8月21日 【朝鮮天保母銭類】
いわゆる朝鮮天保の母銭です。天保仙人様のコレクション。昭和30年代半ばに古泉界に出現し、いつの間にか消え去ったもの。なかなかしっかりしたつくりで材質や銭径が微妙に違います。一番右は錫母を模したものでしょうか。ただし、拡大画像上で計測すると内径銭文径がほぼ同じで、大きさこそ異なるものの原型は同じなのかもしれません。側面仕上げなどは近代風ですので、時代的にはそれほど古くはないと思いますが、なかなか良い仕事をしています。朝鮮半島では絵銭のことを別銭と言って、葬祭や祝い時にかなり使用したようなのであるいはその類かもしれませんし、ひょっとすると7月8日の記事にあるように本当に流通を狙ったものか・・・まさかね。新規に大々的に作成する理由などないと思います。
瓜生氏は不知天保通寶分類譜でこれの類品を加賀千代作としていますが、当たらずとも遠からず・・・それに類した代物じゃないかと私は思います。しかしこの品は白銅から真鍮など色々ありそうですし、つくりもしっかりしていて書体製作違いも多いようです。謎であることは間違いありません。
※間もなく夏休み・・・少しだけのんびり休むと思います。 
 
8月20日 【見たことのない五厘】
私は江戸期穴銭専門なので近代銭はほとんど知らないのですけど、この画像は気になったので保存してありました。エッジの部分が甘そうなんですけど良くできています。当然ファンタジーだと思っていました。見た記憶がなかったからです。だいたい五厘なんてあったっけ・・・てなもんです。通貨としては大正期に4年間だけ作られ、発行枚数はさほど多くないのですけど人気が無く、完全未使用でもさほど高くないようです。
さて、画像のデザイン・・・私的にはあり得ないと思っていました。だって大きな桐の下に菊ですよ。皇室を表す紋章は菊と桐があるのですけど、桐はパスポートの紋のように政府的な意味合いが強いもの。したがってこの図案はまるで政府が皇室を支配しているような印象。不敬ですね。菊は表・上でしょう。だから良くできたファンタジー・・・だと思っていましたが、明治32年五厘見本青銅貨なるものがあるようでして、明治32年と明治42年にパリとロンドンの大博覧会に出品した見本貨幣とデザインがほぼ同じです。ただ、画像で見る限り年号が明治22年にしか見えないのでやはり妖しいと思います。これが本物なら100万円以上するんですけど・・・。
 
8月19日 【錯笵狂想曲】
錯笵銭は同じものが2枚あり得ない・・・という偶然性が魅力です。この手のチャンピオンクラスは
7月16日の久留米正字の錯笵あたりなのでしょうが、奇抜さでは群を抜いているものの出来そのものは今一つでした。6月13日の記事の本座の鋳竿痕跡の錯笵は美しさという点では一頭地抜け出ており、落札者は思い入れのある元所有者のA氏ということもありかなり高額でした。美しくて奇抜な錯笵が市場に出ればかなり値がつくことが予測されるのですが、そもそも錯笵=出来損ないですから、そんなにうまく条件が合致することはないと思います。私の場合、古寛永ですけど錯笵銭物語の表紙にある裏文字写りについては、錯笵銭としてはトップクラスの風格があると思っています。(自画自賛)
画像右上の錯笵は水戸繊字の背文字写り。鮮明なので狙っていましたが、予定価格をはるかにぶっ飛びました。この手の品の競り合いはときとしてとんでもない価格になることがありますが、その通りの結果が生じました。錯笵で有名な藩鋳天保としては新訂天保銭図譜にある水戸の短足寶の背文字写りあたりでしょうか?(拓左上)
不知銭では左下の拓本の品が不知天保通寶分類譜上巻・銭幣の華に掲載されており、書体の希少性と相まってチャンピオンでしょう。宏足寶で強刔輪で仰天になっているという絶奇品です。ただし、果たしてこの錯笵がこの銭の価値を揚げたか否かは微妙なところです。このように天保の錯笵銭に奇抜さと美しさを兼ね備えたものは滅多に存在しません。もしもそんな品に出会ったら・・・まずは贋作だと疑うこと。加賀千代の贋作は美しいですから。

なお、この記事を書くにあたって不知天保通寶分類譜を見ていたら、一つ発見をしました。
8月3日の不知天保通寶の肥足寶ですけど不知天保通寶分類譜下巻P170の3原品であることが新たにわかりました。(狭玉肥足寶も下巻120Pの32の原品。)この品は鋳割れの錯笵が目につくので実にわかりやすい。なんだか得した気分です。
8月18日の記事に呼応して関東のTさんから情報提供がありました。(ありがとうございます!)

一般社団法人 日本皐月協会のHPに協会のあゆみの記録がありましたのでお知らせします。

さつき趣味人の集まりで、大日本皐月同好会(大正13年1月発足)と大日本皐月好友会(昭和2年発足)の2つが、昭和13年に合併して「帝国皐月会」となる。会長に田中敬文氏 
同年6月、隅田公園にて第1回陳列展を催す。陳列展の出品規定並びに6項目の審査要項を定める。
昭和14年から23年は戦禍のため陳列展は昭和18年に第2回目が催されたのみで中断
昭和24年2月 帝国皐月会が新生「日本皐月会」として誕生。初代会長に田中敬文氏が就任。
昭和26年に会長職を第2代目の金井勇治氏に引き渡すまで、2回の陳列展開催と 皐月名鑑(第1回)を発刊される。

氏が大戦の戦禍のなかで収集した古銭を守り、本命の古銭の収集・研究の息抜きをも思えない活動をされておられることに驚きを感じます。
関東 T 
 
8月18日 【お知らせ:秘蔵本の放出とミニミニ美・博物館について】
仙人様からお便りが来ました。何でも銭幣館こと田中啓文ゆかりの蔵書をキュリオマガジン11月号で放出するとの事。ただし、古銭の本ではありません。田中銭幣館は10万点にも及ぶ貨幣コレクションを日銀に寄贈した、日本史上最大の古銭収集家にして研究者だったのですけど、同時に盆栽や三絃の趣味を持っていました。なかでも盆栽は國光苑という盆栽用の育成場を保有していたはずで、さつきに特に力を入れていた・・・と何かの本で読んだ記憶があります。このことは私も忘れていましたし、ほとんど知られていないことだと思います。
出品されるのは昭和13年に、開催した展示会(記念会)の記念写真集だそうです。内容はさすがに日本一を自負していただけあるものらしいのです。しかも 大川天顯堂 → 小川青寳楼 → 天保仙人 とまあ、歴代の大物を渡り歩いたもの。これはすごい代物です。
ところで私は古銭の他に、仕事の関係で俳句会に参加しているのですが、妻には次は盆栽だね・・・と、からかわれていました。私と違い一流の人間は他に何をやっても一流なんですよね。仙人様も最近は絵画やら書なども鑑定されているようで、いやはや守備範囲が広い。
それから・・・
仙人様がご自宅で『ミニミニ美・博物館』を始めたそうです。所蔵している絵画や古美術品~新・古の趣味嗜好・マニア・レア物を、ティータイムをしながら鑑賞するという趣向。きっと古銭談義もお聞かせいただけるでしょう。無料ながら、一度に3名まで・・・ただし、仙人様と面識・交流のある方限定だそうです。
面識がないものの参加したいという方・・・紹介は可能ですので一度ご相談ください。ただし、必ずしもOKが出るわけではありません。(古銭勉強会のような年齢制限はありません。) 
 
8月17日 【趣味を育てる】
古銭というものは不思議な趣味で、数や種類を集めて楽しむ人、利潤・財産として考えている人、背景や研究を楽しむ人など様々です。その昔は、古銭を売買する商人が種々の情報を提供してコレクターを育てていましたが、最近はそこまで頑張れる人はかなり少なく個人で文献出版をする方もあまりいなくなりました。横浜古泉研究会の関さんがお亡くなりになったのはとても残念ですし、雑銭の会の休会も痛い!
それでも収集をはじめとする専門雑誌や入札誌があるので、細々ながらこの趣味世界は続いています。
私のHPも当初は自己の趣味の延命などと言っておりましたが、現在は自己研鑽と貨幣収集趣味の拡散にウェイトが移り、ライフワークになりつつあります。
ただ、この世界には売る人と買う人がいて、競い合ってライバルになることもしばしば・・・顔の見える関係であればまだしも、良く知らない相手の場合は憎しみを生みます。かつての銭幣館と平尾聚泉とのライバル関係が現代古銭界の基礎を作ったのは間違いないところですが、喧嘩腰のやり込めあいなど、聞くに堪えないものや、相手を否定するだけの根拠のない論争の傷跡も残されています。
一方、銭幣館は親友にして古銭商であった鷲田寶泉とも仲たがいしていますが、その真相は鷲田の納品した古銭の真贋にあったのではないかと考えています。残念ながら古銭には贋作がたくさんあり、知っていてそれを納品したことが明らかになった場合や、知らずに売買した後にそれが贋作と認定された場合、さらには真贋を論評してそれが他人の所蔵品だった場合など、金銭が絡ンだ場合は上記にも増した恨みを買うことになります。
近代贋作が堂々と横行するのは許せないと思うのですが、恨みを買うからこれ以上は口を慎みなさいと色々な方から注意・助言を受けます。真実を述べると贋作者からはもちろんのこと、贋作を(知ってか知らずか)売買した人からも恨みを買うし、贋作を買って本物と信じている人からも恨まれます。それに贋作者はその情報を知って必ず改良を加えてきます。また、グレーゾーンのものも確かに多い。
この世界、100年前は贋作だったのに、現代では本物になってしまっている例が多々あり、それらを排除しきれない私たちコレクターも弱いと言いますかまだまだ無知なのです。(贋作だと判って欲しくなる病気でもあります。)匿名性のある掲示板は、本来こういう面では役に立つはずなのですが、残念ながら各筆者の興味の方向性が定まらず、ふざけやガセネタも多くて今一つ機能しきれていません。中にはかなり知識豊かな方もいらっしゃるようですから、その世界のカリスマになってもらいたいと期待します。
かくいう私もごく少数の方々達との交流しか持っておりません。楽しんでもらおうとサイトを作ったのですけど・・・基本的に臆病なんですね。
最近は(ネタがなくて)初~中級者向きでなくて難しすぎるというご批判もたしかですので、趣味世界人口を広げるためには少しずつ内容を変えていこうと思います。 
 
8月16日 【無競争で落札した厚肉銭】
上段はインターネットに出ていた長郭手です。実はほぼ同時に重量27.5g(後に27.2gに訂正)厚み3㎜というふれこみの不知銭が出品され、書体にも加刀らしきものが見られたためそちらに人気が集中しましたが、こちらも重量が26.5g(入手後実測で26.6g)あったので私は狙っていました。書体変化こそありませんが立派な覆輪銭で、実は状態もそんなに悪くないのですけど、この手の白銅質銭は往々にして写真写りが良くありません。幕末から起こった廃仏毀釈の運動は廃止された寺院からの梵鐘や仏具の供出を促し、大砲や天保銭の材料に変わったと思われます。
水戸藩においては水戸光圀がこの流れ(水戸学)の祖ともいえる存在であったため、領内の半数の寺が廃寺になったと云います。
最大肉厚は3.1㎜、薄いところでも2.7㎜あり、手にはずっしりとした重量感が伝わります。
長郭手覆輪白銅質過重銭
長径49.1㎜ 短径33.1㎜ 
銭文径41.1㎜ 重量26.6g

画像下段はCCFにおいて無競争落札した中郭手。中郭手とはしましたが広郭手でも良いような風貌です。実は不知銭の中で一番数が少ないのが中郭手を含む広郭手の類でして、私自身、これは間違いない不知銭だと言えるものは何枚も持っていません。この類のほとんどは銭文径縮小が見られず、不知銭とする決め手に欠けるものが多いです。実は広郭出現直前に本座から天保通寶の母銭の流出があったのでは・・・と云われているのです。(そのため金座で大粛清が行われたと云います。)
画像の天保銭はこの手の物としては珍しく銭文径が縮小しており、重量も25gを超えている重量銭です。
こちらは鉛分の多そうな柔らかい材質で、厚みは3㎜ほどあるのですけど全体に小さいのでなぜかそれほど重いという感覚を持てません。
見た目はまるで久留米銭のようで不人気だったのですけど、極印などからも不知銭であることは間違いなく、5000円という価格はお買い得だったと言えるのです・・・でもねぇ、やっぱり華がないかなあ・・・。長径48㎜未満でありながら重量があるのが救いですね。
不知中郭手縮径過重銭
長径47.8㎜ 短径31.8㎜ 銭文径40.2㎜ 重量25.0g
 
8月15日 【ラムスデンは国内の販売もしていた!】
H.A.ラムスデンは明治後期に活躍した古銭収集家にして贋作者で、明治25年には横浜古泉会を設立するほど熱心な研究者でもありました。外交特権を利用して明治政府から文化財級の古銭を引っ張り出して割譲をせまるなどやりたい放題でした。その当時、キューバは世界の砂糖生産の4分の1を占める世界一の砂糖生産国でしたので、明治政府もその領事の申し出に対して断ることができなかったと思われます。
そのラムスデンの裏稼業として、古銭の贋造がありました。はじめは外国へのお土産品として古銭を扱っていたようですが、大量の注文が殺到したのでレプリカ製造に乗り出します。お土産的輸出品の製造を経てやがて日本人妻の弟と結託して商社(小早川商会)をつくり、本格的な贋造を始めます。そうなると贋作のためには本物を糸目をつけずに購入することになります。初期投資は高いものの、本物と寸分たがわぬものができれば、元は簡単に採れるし、趣味の収集にも役立つというものです。
したがって多くの泉書にはラムスデンはもっぱら輸出を行っており、国内販売はしていなかった・・・とありますが、現在の研究では輸出以外にも、国内の好事家向けの精巧な贋作の製造販売を行っていたことが徐々に明らかになっています。例えば天保通寶の母銭を模した贋作があります。これについてはキュリオマガジンに記事が掲載されたのでご存知の方も多いでしょう。海外コレクター向けにこんなものをつくる意味はほとんどなく、明らかに国内市場を狙ったものです。ラムスデンが外交特権を利用して入手を果たしたものに萬年手天保通寶があります。もともとは狩谷棭斎のコレクションであり、これは天保通寶のアイデアを金座に助言した狩谷の功績に応えて金座がプレゼントしたものだそうで、すべて鋳放しであったそうです。狩谷没後、萬年手天保通寶は国立博物館の収蔵品であったそうなのですが、ラムスデンはそのうち1枚をまんまと入手することに成功します。目的はやはり贋作でしょう。したがってもし萬年手の天保通寶に出会ったとしたら、まずはラムスデン作に気を付ける必要があります。ラムスデンが入手した萬年手の天保通寶はその後、大川天顕堂のコレクションとなり、現在は千葉県佐倉の国立民族博物館に寄贈されたようです。なお、あくまでも噂ですが、国立博物館にあった萬年手天保通寶の一部が民間に流出したというお話もあるようです。
※この記事と画像は天保仙人様から頂戴した情報をもとにしています。画像はラムスデン作の贋作です。 
 
8月14日 【金銀は難しい】
5枚の分朱金銀ですけど、どれが本物かわかりますか?実はこれらは全て勉強会のときに撮影させて頂いた贋作の金銀貨です。昔の大家はこれを瞬時に判断し、つまみ出していたそうですけど、門外漢の私にはほとんど違いが判りませんでした。中には当時物の贋作もあるのかもしれません。私のような密鋳銭大好き人間にとっては、藩鋳銭より密鋳銭に価値を見出してお金も費やしてしまいますが、さすが金銀コレクターは王道を行くのか、贋作はあくまでも贋作扱いのようです。
これらの品々、それでも銀貨はなんとなく書体や金質に違和感を感じられましたが、金貨に至っては色揚げの手法まで守っているように思われ、全く贋作だと分かりません。私には金銀貨収集は100年早いと思い知らされました。
余談になりますが、金貨のお化粧に色揚げといって薬剤を塗って焼きを入れる作業があるのですが、その色揚げ剤の主成分のひとつは・・・実は塩なのです。
インターネットをひもとくと硝酸反応や硫酸・塩酸、はては琥珀による色付なんてことまで書いてありますけど、塩にも十分な効果があるのです。(と、思うのです。)何で知っているかというと、その昔この情報を聞いて試したことがあるからです。私は自分なりに考えて明治二分金の色の表面に塩水を塗りさらに塩でくるんでアルミホイルで覆いコンロで熱してみました。もちろんこの手法が正しいという訳ではないのですが、実験ですから・・・。すると・・・水洗いをしたらなんということでしょう。まばゆい光を放つ黄金色の明治二分金に生まれ変わりました。表面の銀分が塩と反応して塩化銀になって除去されたからだと思います。浅はかな私はもう一度熱したらもっときれいになるに違いないと考え、実行した結果は・・・金色が抜けて今度は見るも無残な姿になってしまいました。この二分金・・・今でも持っていますが、好奇心から行った実験とはいえ当時涙ぐむほどがっかりした記憶があります。良い子は絶対真似をしてはいけません。
※個別勉強会の募集ですが、残すところ一週間で希望者はいません。残念ですがこれが現状の私の力なのでしょう。知ることは楽しいことなんですけど。皆さんなかなか表の世界には出たがらないようです。古銭にかまけて彼女や家族に迷惑をかける心配でも・・・まさかね。 
 
8月13日 【奇天手と貼点保の極印】
画像上段は天保通寶と類似カタログ原品の奇天手です。この奇天手は今から30~40年前に複数枚出現したことがあり、そのうちの1枚がこの品だと思われるということを天保仙人様から教えて頂きました。
また、仙人様は奇天と奇天手の極印を方泉處において比べたことがあるそうで、その結果は同じだった=同炉のものであったそうです。その上で貼点保もきっと同じ桐極印のはず・・・と予測されていました。
上の画像は極印の拡大画像です。打刻の深さは異なるものの左右の葉脈の角度が異なる点や副葉脈?のような筋が入る点も一致しており、同じ種の極印だと判断できます。仙人予測・・・どんぴしゃでした。
ちなみに右側が奇天手、左が貼点保で、偶然の一致だと思いますが極印が上下逆打ちになっています。

画像下段はⅠさん所蔵の貼点保です。勉強会でお会いしたときに画像撮影をさせていただきました。肉厚で大きく、私のものより数段状態も良いのでここで登場いただきました。インターネットオークションでこれを拾ったという報告を受けたときはそれはもう衝撃的でした。私もその昔、高島屋の古銭売り場の雑銭から見つけたので、探せばまだ出てくるのかもしれません。
いずれも銭径たっぷりの大型銭で、地がやや浅い分重量もたっぷりあります。刔輪が強く背の細縁ぶりと寶足の変形が特異です。張点保はさらに天の横引きなどにも修飾があってなかなか楽しい品です。画像では判らないと思いますが、一見滑らかに見える奇天手の地肌にも小さなポツポツ状の砂目がしっかりあり、これはまた張点保と同じなのです。ただし、銅色はかなり異なります。そういえば昨年出現し、鉄人の手に落ちた張点保嵌郭も黄色い銅色だったので、この系統には黄色から白銅質系の黒色まであるようです。
ここらのランクの品は天保通寶の仙人認定段位においては大家(免許皆伝)になりますが、私にはまだまだすぎた品です。
 
8月12日 【ちょっと夏休み!】
連載を休まない・・・いや休めないという強迫観念&呪縛から逃れるため、昨日7か月半ぶりに休載を決断しました。まあ、疲れて呑んだらそのまま眠ってしまったというのも本当なんですけど。ところで・・・
雑銭の会の工藤会長をはじめとする東北の収集研究者家の方々は、その地から出た寛永銭類をいとも簡単に「橋野座」「大迫座」「栗林座」「山内座」・・・などと分類されてゆきます。実物を見せられながら何度かレクチャーを受けたのですがピンぼけた記憶しか頭の中に残らず、毎回が新鮮というか???の状況です。
先般入手した「超極薄の銅山手天保通寶」と「反玉手の仰寶」をみながら、色々と考察をしてみますが、頭の中がなかなかまとまりません。まず、「超極薄の銅山手天保通寶」ですけど、その形状から見て藩の正座のものではありません。一方で書体にほぼ縮小はないことから、いわゆる鋳写しではなく、藩から暗黙の了解を得て鋳造をしたいわゆる山内座の流れをくむ可能性もあります。
さらに浄法寺山内座の製作・金質には初鋳・次鋳・末鋳など、時期により変化があり、初鋳は赤みがあって製作も立派、次鋳は白みが強く、末鋳は赤黄色の柔らかい銅質だったと思いました。
と、すると「超極薄の銅山手天保通寶」は製作は劣るものの白身の強い金質から次鋳の系統じゃないかと推定しました。ここで「反玉手の仰寶」に対しての説明・・・「技術的に反玉は山内座の次鋳銭鋳造に参加した職人が作ったと断言できる。」と、いう言葉が気になり始めました。そうやって見るとこれらがつながって見えてきました。これは「工藤会長の謎かけが解けたかも・・・」と、素人考察をしていて雑銭の会の資料を拝見していたら・・・あらら、やはり素人考察はだめみたいです。
謎解きはこれから出る雑銭の会の記念泉譜に掲載されるようです。乞うご期待を! 
 
8月10日 【反玉手の仰寶銅銭】
雑銭の会で分譲して頂いたもので、称:反玉手とされているもの。7月19日の制作日記に「南部肌の天保通寶」がありますが、よく似ています。
一方で、3月15日の記事に反玉仕立細縁銭がありますが、地肌は近いものの銅質には差がある気がします。
天保通寶に室場鋳銭のコーナーがあり、そこにやや黄色みの強い大様の立派な鋳放し銭の画像がありますが、これは雑銭の会々長の旧蔵銭が巡り巡って偶然私の所有になったもの。推測ながらその出所もお聞きしました。
画像の仰寶は砂目・金質が反玉と全く同じなので反玉手と呼ばれており、その昔、反玉が浄法寺の出自である証拠だからと言って、雑銭の会々長が某先輩から半ば強制的に買わされたと云う品だそうです。
そうなると反玉寶=室場鋳という説はどうなのかという事ですけど、その根拠と云われる資料(泉寿など)をひもといても決定的な証拠が見当たらないのです。まして室場は調べる限り鉄山であり、そこで銅銭類を鋳造する理由が今一つ判らないのです。
反玉寶=浄法寺鋳ではないかという噂は各方面から聞くことがあり、雑銭の会々長も「技術的に反玉は山内座の次鋳銭鋳造に参加した職人が作ったと断言できる」と確信されています。反玉寶が浄法寺からまとまって出現したというお話もあるようで、反玉寶も江刺も浄法寺も実は皆同じ地域の系譜で、時代や目的、あるいは炉の担当職人の違いに過ぎない・・・のかもしれません。
 
8月9日 【祭りの後・・・】
天保通寶祭りが終わりました。22万以上になるとは・・・店頭で買うのとあまり変わらないかもしれませんね。最近、琉球半朱の贋作が出てきたとのことですが、この水戸遒勁も昔から贋作が多いので有名です。私は見たことがないのですが銀座古銭堂(富田作)の写しもあるようです。琉球王朝は日本(薩摩藩・幕府)と清朝に二重朝貢していました。力関係でバランス外交をしていたわけで、隷属関係にあったわけではないのですが、一部の過激な思想の方々はそれをもって琉球は中国の属国であったなどと政治的リップサービスをしてらっしゃいます。そのため近年、中国国内で琉球通寶の人気が上がりつつあるとか・・・。
この遒勁・・・銭径の大きさに大小あるのが特徴でして、すなわち大型の通用銭を鋳ざらって母銭として何度も写したという事が推定できます。
横径はたっぷりあるのに長径は短く、ずんぐりむっくり。そして意外に浅背です。濶縁縮字で文字に勢いがなかったり、べたっとしていたら要注意です。
※本日、携帯電話が壊れ、スマホなるものに変えましたが、説明書もなく悪戦苦闘中です。盆踊りもフル参加しました。くたびれました。
 
8月8日 【古銭の重箱】
ネットで収集した画像です。少し古い熱心な古銭収集家のコレクションBOXだと思います。1枚1枚を和紙に包み分類名を書いて綺麗に箱に並べています。赤い文字が効果的ですね。この手法は鑑賞するにはちょっと面倒ですけど、保存にはBESTかもしれません。和紙は吸湿性もありますし、通気性もあって錆が生じにくいと思います。コインアルバムは見やすいのですけど、通気性にかけ、材質の塩化ビニールが塩基や(軟化剤として使用される)硫黄分を含むため青錆を生じさせやすく、実は銅銭のコレクションには最も適していません。錆を防ぐためには適度な換気・・・鑑賞による刺激が必要で、少なくとも塩化ビニールの面が直接古銭に触れないようにすることが大事です。一時期、天保通寶の保存に古銭用ビニール袋を使っていたことがありましたが、1年ほどで袋の内面にうっすら錆汚れがつくようになり、あわてて全面的にポリプロピレンの袋に切り替えています。古銭の大家のコレクションを見ると、仕切のある木箱内に糸札を付けて整然と並べていたり、専用の塗り箱(中は木製)をしつらえているケースなどがみられます。これらは嵩張りますが、見やすい利点があります。(私は住宅事情で無理。それでなくとも本の置き場に困っています。)そういえば舎人坊石川様は紙で作ったオリジナル袋の表面に拓本と分類名を記していました。実にまめです。それにひきかえ最近の私は実にいい加減。先日入手した奇天手をはじめ卓上にひと財産分転がっています。反省・反省・猛反省。
 
8月7日 【極薄肉の銅山手】
銅山手細郭細縁として雑銭の会に出品されていた不思議な品。側面の極印が縦長に見え、こいつは見てみたいと頑張りました。
暴々鶏様いわく・・・
銭径は小さいのですが、内輪の内側のサイズや文字は小さくなっていません。黄銅で、初期の型(細字)から発生したものと見られます。輪側極印は中央に十字の見えるタイプですので、三陸沿岸で散見される広郭・長郭手と同系のようですが、詳細は分かりません。通常の通用銭を磨輪して作ったものではないようです(。金質は黄銅で、密鋳銭系では、たまに見られます。現存はこの1品のみではないかと思います。・・・と、まあ謎の多い天保銭。手にした第一印象が「薄い!それに超軽い!」もっとも厚いところでも2.1㎜、薄いところでは1.8㎜しかなく、平均は1.9㎜ぐらい、重量は驚異の11.7g・・・これは私の所有するすべての天保銭の中で断トツの軽さです。ただ、密鋳かというと、少なくとも鋳写しではないですね。維新前後に鋳銭道具が持ち出された結果かもしれません。長径47.3㎜、短径31.1㎜、重量11.7g
※村上譜には長径47.82㎜、短径31.88㎜、肉厚1.99㎜の細郭薄肉銭が掲載されています。 
 
8月6日 【盛無背異永】
暴々鶏様からの分譲品です。私にとって2枚目の品ながら肉厚でとても好ましい品です。どちらかというと銭としてはみすぼらしい部類に入るのですけど側面の仕上げは横やすりの仕上げながらほぼ真っ平らで角が立つ美しい仕上げです。
暴々鶏様いわく・・・この銭種は直接触り慣れていないとピンとこない・・・接郭背盛の説明にありましたが、触っているとその意味がなんとなくわかります。側面の垂直な横やすり仕上げと面の圧延感ですか?
さらに暴々鶏様いわく・・・どういう状況で出たか詳細を教えてもらったから手元に置いていた・・・こんど聞いてみたいものです。
浄法寺銭というと種々雑多で玉石混交のイメージがありますが、こいつは間違いなく玉だと思います。
 
8月5日 【閑話・閑話・閑話】
今は情報収集力の時代ですから、私の深夜の記事変更に対しても即座に反応するIPアドレスの監視や個人情報収集も 可能にしています。やり過ぎはハッキング行為になるので自重していますが、技術の進歩はすごいですね。
古銭の楽しみ方は自由で私もネットに育てて頂きましたし、地方にいて古銭会に出られなくても情報が収集できるネットは便利なツールだと思ってます。一方でネット特有の匿名性からガセネタもあり、玉石混交のカオスの世界でもあります。仙人様が勉強会の呼びかけをされているのは、ネットに書けない生情報を後世に伝えたいからなんですけど、ネット住民の口は超軽いですからねぇ・・・(私もですけど。)
さて、琉球通寶の長足寶桐極印は残念ながらと言いますか、予定通りどなたかの手に渡りました。みなさん、あんなピンボケ画像情報だけで良く挑戦したと思います。かくいう私は最近パソコンのやり過ぎ(老化)で視力低下が著しく、画像処理をして確認をしています。(右図)結局皆さん、古銭が大好きなんですねぇ。
古銭収集というものは売買が絡むので、真贋についての論評がしづらい世界です。銭幣館と鷲田寶泉舎との仲たがいもおそらくそれが原因でしょうし、いにしえの古銭家も贋作の可能性もあると知った上で収集をしています。私が良く言う「泉譜に掲載されているから、大家が持って(本物だと言って)いたから・・・本物とは限らない」という言葉は本当なのです。
こんなエピソードがあります。
明治維新の後、金座・銀座から本物の小判の極印が古道具として流出しました。その一部が贋作師の手に渡り、昔の手法そのままにニセ小判が作られ始めました。こうなると鑑定は困難を極めます。なにせ本物の極印で作っていますから。しかし、銭幣館田中啓文は偉かった。極印流出の情報をいち早くつかむと古泉界を守るため、法外な価格でその極印すべてを買い取ったそうです。かくして古金銀の世界がカオスになる最悪の事態は回避されました。その極印はすべて日銀に納められたとか・・・。私も贋作には散々引っかかってきましたが、実力的にも財力的にも銭幣館のような男らしい行動はできません。すごいと思います。この小判類を正確に鑑定できる方は今の日本には数名しかいないようです。(もちろん私は違います。)
お祭りで遒勁が出ていますけど、さすがに目立ってきました。遒勁には昔から贋作が多く、T作と呼ばれる参考品もあるそうで、なかなかの上作なんだそうです。今回の作品はなかなか良い品だと思います。
 
8月4日 【大陸から・・・重文古寛永】
最近は海外の方からも時々メールが送られてきます。この画像は禄生禄さんからの送付画像です。(ありがとうございます。)海外の方がこれを古寛永だと判別するのもなかなかなんですけど、「古寛永は製造が厳格だから重文は珍しい。」と記してあるところなぞ、なかなか良く勉強されています。
永字の形からかろうじて古寛永高田銭の縮通であろうことが判別できます。この縮通は意図的らしき錯笵(あるいは絵銭)が多いことでも知られていますが、画像の品はとても自然でどうも本当の通用銭の錯笵に見えます。そういう意味で、これを見出した禄生禄さんはかなりの目利きだと思われます。おそらく変換ソフトを使われていると思うのですけど日本語もかなり上手になってきました。 
琉球の桐極印は予測通り負けました。少々傷があっても水戸の無視できない大物があるのですけど…今のところ参加を見合わせ潜伏中。お金もないし通用銭は持ってますから・・・。好きな人は買ってください。リップサービスなんですけどね・・・気づいてくれるかな。
それにしてもみんな良く見てますね。私も見て楽しませて頂いておりますけど。
 
8月3日 【延展加工の天保通寶?】
上の不知天保通寶は今年のCCFの郵便入札で入手した1枚で、不知天保通寶分類譜にある狭玉肥足寶下巻120Pにあるもの(下段)と同じ系統だと思われます。改めて観察すると天保銭ながら延展ともいうべき風貌で大きさの割には薄肉浅字で、上段のも肉厚は2.1㎜しかありません。文字も肥字気味で全体に横広に見えます。
共通の書体特徴として・・・
背の百の横引きが、先端が細く鋭く伸び、筆どまりが丸く団子状になることが挙げられます。覆輪で銭径は卵型の横太り形で寶足が長めの肥足寶になるのは言うまでもありません。
寛永通寶には「踏潰銭」があり、それらを延展技法と呼称したのはおそらく東北地方の研究者(ひょっとして工藤氏?)だと思います。寛永銭であるぐらいなら銭径の大きな天保銭でもこの技法が使われるのは当然のこと・・・ただ、天保銭は縦長なので延展すると横太りの卵型になってしまいます。したがってそれほど多い存在だとは思えないのですけど、草点保やこの類など探せば出てくると思いますし、少々の加工程度なら多数あると思います。

新規獲得品は面背に覆輪痕跡が残り、背の花押と面輪上部に鋳乱れ(錯笵)があるのが景色になっています。実はこの品はこの錯笵が見たくて応札していましたが、手にしてみるとなかなか楽しい銭であることに改めて気づいた次第。棚からぼた餅?

長郭手 覆輪肥足寶(覆輪存痕)
長径48.8㎜ 短径32.7㎜ 
銭文径40.6㎜ 重量18.7g

長郭手 覆輪狭玉肥足寶
長径48.9㎜ 短径32.9㎜ 
銭文径40.75㎜
 
重量19.9g
(不知天保通寶分類譜下巻120P原品)
狭玉に見えるのは偶然の変化ですね・・・
 
不知長郭手 奇天手 
長径49.3㎜ 短径33.0㎜ 
銭文径41.3㎜ 重量24.5g

(天保通寶と類似貨幣カタログNo.196原品)
8月2日 【不知天保通寶写真館6】
古銭収集をしていて、この奇天手を入手することになるとは夢にも思っておりませんでした。支払額は寛文様を入手したときと並びますので、手数料を含むとやはり人生最高額です。
覆輪の強刔輪銭だと思われるものの、書体はオリジナルと言っても良いもの。
奇天ほどではありませんが天前足が伸びようとする癖があり、肌も独特のぬめぬめ感があります。
さすがに天保通寶と類似カタログ原品ですから状態は良く、この手の物としては最高だと言っても過言じゃないと思います。
1988年5月、この天保銭が第14回国際貨幣祭りに四国の業者から出品される情報を得て、天保銭四天王のひとりの三納一益氏は、始発の新幹線に飛び乗り、日本橋三越の会場に脱兎のごとく飛び込んで札束を突き出したとか・・・。(月刊天保銭52号より)
まあ、それだけ有名な品なんですけど。苦労せずぽろっと手に入ってしまうこともあるのですね。いえ、苦労はこれからはじまるのですけどね・・・私の場合は。 
 
8月1日 【玉塚天保?の会員証】
最近は玉塚天保についても収集対象として評価されていますが、もともと玉塚天保は廃貨に刻印を打ったもの・・・つまり貨幣ではないのです。
コツコツ努力し、倹約貯蓄を是とする思想・・・天保銭主義を宗主の玉塚榮次郎が唱え、それに賛同する諸氏を集め、玉塚天保はその会で配られた記念品であり、ノベルティグッズと云われています。一方で玉塚家は天保通寶の大収集家でもあり、現在収集界に伝わっている天保通寶の珍品々の多くに玉塚家から出たものがあるそうです。
写真のミニ天保銭は、天保銭会の会員証なのかもしれませんが確証があるものではなく、それを模したもの、あるいは単なる装飾品なのかもしれません。不知天保通寶分類譜別巻においては、上部のリング部分が失われた物を含み、ミニ天保としていくつか掲載されています。

本物の天保通寶に刻印を打った記念銭には、「天保銭は・人の鏡」「天保銭は・吾が鏡」があり、さらに人の鏡には書体の異なる「異書」が存在します。「人の鏡」の文字だけが違う書体の刻印で打たれた物は結構存在しますが、これは異書とは言いません。また、屋号の「へ石(山石)」や玉塚商店の発祥の地を記した「海運橋」の刻印銭もありますが、かなりの希少品です。そのためか、これらには後年に作成された模造銭も存在します。
刻印の書体はほぼ決まっていますので、書体の違うものには注意が必要です。よく言われるのは「人」の文字が「入」に見えるもの、書体が小さくなるものには注意が必要です。 なお、「人の鏡」「吾が鏡」は本来、刻印に朱が入っているのが当時の姿のままのもの。朱が失われてしまっているものや、拓本を取られ過ぎて真っ黒になっているものが多いので、朱色の鮮やかな当時の状態の美品は貴重なのです。
驚くのは最近、オークションなどで本座以外の藩鋳銭に刻印が打たれた玉塚天保がとんでもない高額で落ちていること。おいおい、これは貨幣じゃないでしょう・・・と、言いながら手を出せないながらも私も追いかけている一人です。 
 
7月31日 【古銭の勉強会】
本日で7か月連続更新です。昨年の12月29日以来、ずっと更新を継続してきました。一種の中毒状態で、出かける時は3日分ぐらいまとめて更新したりして・・・でも、そろそろお休みするかもしれません。
ところで、先般 仙人様との勉強会の公募をしてみましたが、今のところ反応はありません。ハードルが高かったかしら?
これから勉強をしたい意欲ある人であれば良いのですけどね・・・。
かくいう私も10年前は大したことのない地方コレクターでした。それから自分なりにはかなり進化したつもりですけど、上には上がいるものですね。まあ、人にはいろいろな出会いがあります。収集人生において、大きな影響を与えて下さった方について、少し書かせて頂きます。

方泉處(浅草古銭会)の石川様
私が穴銭収集を復活させるきっかけが方泉處であり、その有名人が声をかけて下さったことが私の趣味人生に大きな影響を与えることになりました。HPづくりを最初に報告したのも石川様・・・と、いうより石川様以外の古泉界の方は(お店の方を除いて)ほぼ存じ上げなかったから。実は私が天保仙人様の所蔵品画像を勝手にHPに掲載したとき、石川さんが「大目に見てあげて下さい。」と頭を下げて下さったお話を仙人様からお聞きしました。その意味からも石川様には全く頭があがりません。

雑銭の会の工藤様
方泉處のHPを探していて偶然見つけたHPが工藤様のHP・・・当時は「練馬雑銭の会」という名称でした。(詳しくは6月7日の記事をお読みください。)作家にして古銭研究家、HP製作もするし、海外で農園経営もする、さらに大学では福祉分野の講師もするなど、とにかくマルチな方です。
会員Noは13番でしたので、そこそこ私も古参会員なのですけど、工藤様の呼びかけに乗って私は生まれて初めて古銭会に参加したのです。工藤様に会う前から私は密鋳銭病でしたが、お会いしてから手が付けられないほどこじらせてしまいました。また、この会のおかげで私は色々な業界の大物の方々と知り合うことになります。

八厘会の天保仙人様
雑銭の会ではじめてお会いしましたが、その日から私は天保通寶に夢中になってしまいました。実は仙人様にお会いする前は、天保銭を処分して寛永銭収集に専念しようかと考えていた時期もあったのです。仙人様のお顔と名前は方泉處の「天保通寶マニアックワールド」の号で存じ上げておりましたが、私はその気さくな人柄に完全に魅了されてしまいました。天保仙人様は青寶樓時代を語れる最後の生き証人です。知り合ったおかげで製作を学ぶことの大切さを知り、数々の貴重なお話を拝聴することができました。

現代は古銭会に所属しないで、独学で学ばれている方の方が多いと思います。古銭会の敷居が高いと言いますか、恥をかくのが嫌だとか、年代が異なる人と気が合わないかもしれない、コレクターは気難しい人や変人が多いかも、自分の世界を邪魔されたくない、気遣いしたくない・・・なんて、畏れていませんか?私も初めはそうでした。HPは自分の世界に浸るための逃避ツールでした。
私なぞ、年に数回しか古銭のために外出しない人間に成り下がってしまっておりますが、それでも知識のある方の意見をときおり聞くことは本当に勉強になると感じています。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」「百聞は一見にしかず」「井の中の蛙大海を知らず」
私は子供の頃から情報を集めることも好きでしたから、一般のコレクターに比べればかなり本は読んでいる方だと思うのですが、本に書いてあることがすべてではないし、一人の人が言ったこともすべてではないことに気づけるようになりました。「情報を制する者は世界を制す」のです。これから勉強する意欲のある方、今からでも応募をお待ちしております。 
 
7月30日 【飛んで火にいる夏の虫】
ネットで見つけた掘り出し物。実はこの品、6日ほど前に出た瞬間に気づいていました。だいたい広郭はだめなものが多いのですけど、色黒で足が長く見えたので、画像をよく見ると・・・ああ、仙台長足寶だと判明。締切寸前まで潜伏するつもりだったのですが、その時間には盆踊りに行かねばならないというローカル色丸出しの仕事?が入り、やむなく1日前に応札。すぐに掲示版が反応したのには困ったものです。
案の定、私の応札後は強力な目利きどもが魑魅魍魎の如くまとわりついてきました。予測どおり逆転されましたが、まあ、これに気づけたことに満足です。
ところで、先週末のCCFには行けなかったのですけど、郵便入札だけはしていました。
下見もせずに応札なので、博打ですね。今回は記念に少々応札するつもりだったのですけど・・・FAX送信する前に、表敬応札ということで奇天手にほぼ最低額で札を入れておきました。どうせ落ちないだろうと。それが落ちてしまった!本年度の古銭の買い入れが終了してしまいました。
やむなくへそくりの10万円金貨複数枚を処分することにしました。泉譜原品だからそんなに間違いはないだろうと思いたいのですけど、現物を見るまでどきどきです。 
 
長径48.3㎜ 短径31.8㎜ 
銭文径41.1㎜ 重量21.9g
7月29日 【花桐極印と縦長桐極印の関係】
変形桐極印のうち、幼児の書いたチューリップの様な極印を花桐極印と私は呼んでいます。最近また1枚発見して、これで私が保有しているものは4枚ほどになりました。ところで雑銭の会の過去記事を見ていると、暴々鶏氏の解説で、これと同じような「縦長桐極印」は明治初年頃の盛岡領内で散見されるとあり、画像も掲載されていました。しかも、その極印の打たれた天保銭は、なんと銅山手の書体・・・写しらしきものでした。
さらに、その写しらしきもの・・・細縁のつくりながら銭文径や内径に縮みがみられない・・・この事実(謎かけ?)はとても大事なことに思えてきました。暴々鶏氏が何を根拠に「明治初年頃の盛岡領内」としたのか、これを深読みすると、この変形桐極印の打たれた銭文径の縮まない銅山手の存在が改めてクローズアップされて思えるのです。現在、公開応札中で、入手が可能な資料としては一品もので非常に貴重だと思いますが、根性なしの私は申し訳ない価格しか書けませんでした。おそらく最低落札価格の半分にも行っていないのではないかという気がします。
私は暴々鶏氏の記事を知らずにこの花桐極印銭として、記念泉譜に記事を載せようとしていますが、ひょっとして暴々鶏氏はすでに気づいていたんじゃないかと思うようになりました。また、7月1日の痘痕肌の天保銭もしかりで、私が魚子地肌とか梨子地肌と呼んで分類している天保銭との類似性があります。(これまた泉譜に寄稿済み。)
不知天保通寶狂いをしていると、極印が同じながら書体が異なるものにときどき当たるようになりました。4月5日の記事が良い例で、極印だけでなく他にもいろいろ類似点が発見されています。こうやって見ると、密鋳天保銭座は書体にこだわらず鋳造したふしが見られますし、銭文径もバラバラになっているケースが多い気がします。実に奥が深いですね。 
 
7月28日 【琉球通寶の野望と挫折】
最近、市場で時々琉球通寶を見かけます。これはその小字で少し前にインターネット市場に現れたもの。製作が良く、肉厚でしたのでかなり人気を博しました。
桐極印ではなくサの字極印でしたけど、これだけ出来が良いと、何か特別な銭の気がしてしまいます。
琉球通寶は琉球など島諸地域の銭不足を名目に薩摩藩士の安田轍蔵が幕府に取り付けた正式発行の通貨で、姿は天保銭よりわずかに大きく、百文とありますが薩摩藩は額面以上の124文で通用させようと目論んだようです。安田轍蔵はこれを貿易用の決済通貨として国内全般に通用させようと考えており、中でも桐極印が打たれた上質なタイプは安芸国との木綿貿易決済用につくられたものと云われています。
琉球通寶は当初の計画に反して対外決済用としては受け入れられず、藩内の地域通貨になってしまったため、また藩も経済的影響を考えずに大量鋳造してしまったため、藩内では銭相場の大暴落に加え、金銀相場の暴騰と藩外への流出が起こってしまいました。混乱の背景には経済の指南役でもあった安田轍蔵が藩内の反対勢力のため罷免され、屋久島に左遷されてしまったことにあります。経済が非常にデリケートなものであることを忘れ、政争と衆愚、大衆迎合を続けていた最近の日本を見るようです。
慶応元年、安田轍蔵は屋久島から戻され、経済立て直しを託されます。安田は貨幣流通量の増大が、薩摩領内の産物流通を伴うよう腐心すると同時に、国内に流通する琉球通寶を密かに天保通寶に改鋳する道筋を造り引退します。大阪の三井家に頼み藩札を急遽作成し、琉球通寶との引き換えを行い国内銭相場を建て直し、その裏側で密鋳した天保通寶を国外にばらまき始めました。その結果、薩摩藩が息を吹き返したのは先日述べた通りです。
※琉球通寶が124文というのは、琉球の割増交換率を誤認した後世の記述によるもの。つまり、400文と(実際は96文×4)琉球を5枚交換した・・・ということになります。ここに訂正させていただきます。 
 
7月27日 【小名木川銭背川】
これは関西のSさんからの投稿画像です。(ありがとうございます。) 小名木川(おなぎがわ)は旧中川を経由して荒川と隅田川を結ぶ人工河川(運河)で、北側は開発されて深川村になっていますが、地図を見るとすぐ判るのですが、亀戸駅にほど近い地です。地名の由来はこの運河をつくった方の名から・・・。
背川は江戸時代から存在が知られた珍銭中の珍銭。新寛永通寶図会の解説を見ると「母銭に
準じたつくりの・・・」とあり、いづみ会譜の入門では”意味合いとしては、既載の「背十」「背一」「同降通」と全く同じであろう”・・・手本銭説・・・と、母銭であるとはうたっていません。事実、穿内未仕上げのものが多いという、およそ母銭とは言えない作風。何度か拝見したことはあるのですが、いずれも背のつくりが雑で母銭としてはずいぶん甘い印象を受けます。銅色は明るい黄銅色のものが多く、鉄銭の母銭を彷彿とさせるものが多いようです。頂戴した画像の品はやはり、背のつくりは母銭らしくないように見受けられ、また、ライティングのせいかもしれませんがあまり黄色みがない色調なところが少し変わっています。いづみ会譜の入門の冒頭では”凛然たる銭容、まさに新寛永の花形である”・・・とあるように昔から人気はものすごくあるようです。そのせいか私もいまだに未収で、本来なら何が何でも入手するぞという気力がみなぎるところなんですけど、あと一歩思いきることができずに今日まで来ています。失敗すると高いですからね・・・これは。位置づけの謎の他に押上小字との類似性など謎もあって不思議な銭です。 
 
7月26日 【寛永銭譜】
寛永通寶の収集家として名高い木田利喜男氏の個人記念泉譜です。この手の泉譜としては珍しく、オールカラー+拓本による泉譜であり、解説文は一切なしのいわば収集家の絵本です。このような本を読んでよだれを流してしまうのは、自他ともに認める変人変態ならではのことで、当然ながら私もその一人です。私は木田氏と直接面識はないのですが、見開きの写真のお姿を拝見する限りオークション会場でときおり見かけたことのある方でした。また、木田氏はクローズアップ寛永通寶をこのHPに転載をすることをご了承くださった恩人でもあります。(ありがとうございます。)
私のHPは情報の垂れ流しであり、勝手な転載などでご迷惑をおかけすることも、あるいは知らず人を傷つけてしまうこともありますので、言葉には気を付けているつもりなのですが、それでも意に反した結果になってしまうことがあります。この泉譜に解説文がないのは「後はこの姿を目に焼き付けて自分で学びなさい!」の姿勢なのかもしれません。見ているだけで学ぶことができるように、オールカラーにしたのはその意味からなのでしょう。母銭が多いのでそれを見て母銭の雰囲気を感じることもできます。
表紙の十一波彫母銭の美しい図はハドソン社の新寛永通寶図会の表紙を彷彿とさせますね。CCF会場で記念発売されているそうなので、ご興味のある方はどうぞお求めください。 
 
7月25日 【まだまだあるぞ!オークション】
調べてみるとまだコインオークションサイトはたくさんありました。
「日本コインオークション・Net」は5月にオープンしたネットオークションサイトで、主催者は「㈱日本コインオークション」さんですけど、業界老舗の「ダルマ」さんと密接な関係があるようです。
「オークション・ワールド」は9月15日に第1回オークションがあるようです。こちらは業界の大手の「㈱ワールドコインズ・ジャパン」「㈱オークション・ネット」さんほかの連合体。オークションネットはすでにネットでオークションを開催していますが、入札方式ではなくライブオークション化を目指すようですね。
「秦星オークション」は業界老舗の秦星コインさんが主宰しているもので、驚くことにすでに60回以上の実績があるそうです。これらのオークションについて私は詳しく存じ上げないのですが、ネット界もまさに群雄割拠でしのぎを削っているようですね。
 
7月24日 【博泉 野村志郎氏秘話】
今は無き仙元神社を建立した博泉こと野村志郎氏は医学博士にして物理学をも研究にしていたほどの多彩な人物。さらに社交ダンス、フィギアスケート、水石、など多方面の役員(100以上と聞きました。)を務める多彩な方でした。
野村氏は曾祖父の遺品を引き継ぎ、はじめは独学で古銭収集をしていたそうです。そんな野村氏が自慢の大判小判をデパートで展示していた時・・・会場にふらりと現れた男がぶつくさ・・・これはいい、これはだめ・・・それを聞きとがめた係員が詰め寄ると、その男性はなんと小川青寶樓でした。それに気づいた野村氏は非礼をわび、ぜひ本物と交換したいのでご指導くださいと頭を下げました。その結果、当時日本最大規模の個人貨幣コレクションが出来上がったそうです。もともと群馬県伊勢崎の老舗の本陣という素封家でしたが、そこに仙元神社という古銭大博物館を作り上げました。神主は瓜生有伸氏で、行事があるたびに神主に早変わりしたそうで・・・。
野村氏の収集範囲は実に幅広く、大判小判から絵銭まで・・・日本の絵銭の編纂を赤坂氏がはじめたとき、一番の協力者が野村氏だったとか・・・。また、あるとき天保仙人が野村氏に「丁銀を見せて下さい」と頼むと大きな丁銀箱に山ほど入った重そうなコレクションを持ってきてくれたそうです。(頼むときは分類名を言わないと大変。)
仙元神社建立を思い立ったのは、子供のいなかった野村氏が自身のコレクションを後世に残そうとした・・・というのもある面では本当なのですが、大学(東大?)で物理学を専攻してい縁もあり、(理化学研究所で?)秘密裡に原子爆弾の開発も行っていたそうなのです。実は原子爆弾の開発はアメリカより早くこの研究所で進んでいたそうなですが、肝心な濃縮ウラン・プルトニウムの入手がかなわず、完成に至りませんでした。野村氏たちは敗戦が見えていた戦争に勝つためにはこれしかないと軍部に掛け合いましたが、予算もなく相手にされませんでした。ところがこの情報はアメリカ側にも漏れたようで、結果として後発のアメリカ側に先をこされたわけですが、野村氏は殺人兵器を造ったことを悔い、平和のための神社建立を思い立ったそうです。なお、原爆の原型モデルはすでに完成しており、終戦前にあわてて証拠隠滅・箝口令をしいたそうです。 
野村氏の思いむなしく、野村夫妻の死後は仙元神社もその所蔵コインも散り散りになってしまいました。
その蔵品の中に貴重な赤穂の元禄藩札があるのを湯島コインさんは知っていて、行方を心配していましたが、骨董屋がガラクタと判断してすでに焼却処分してしまったと聞き、思わず涙したとか・・・。他にも天正菱大判金や旧国立20円札・大黒10円札(いずれも未使用)もあったそうですけど、ほとんどが行方不明です。
戦後に有名になった、古銭のコレクターは数々いらっしゃいましたが、野村氏の収集量は桁違い。質、量ともぬきんでていたそうです。

※先日入手した天保銭、呑泉こと安達岸生氏のものだとばかり思っていたのですが、よく見ると香泉になっていました。さて、香泉とは誰でしょうか?収集した過去の記録を見ると天保通寶研究会のM氏の号が香泉ですね。やっぱりそうなのかしら? 
 
7月23日 【オークションサイト花盛り】
ネットオークションと言えばヤフオク!の独壇場です。かつてはビッターズなども健闘していたのですが、フリマ部門は閉鎖されてしまいました。ただ、ヤフオク!は毎月会費を取られているんですよね。いい加減に無料化してくれないかしら。
無料サイトでは日本貨幣商協同組合のJNDAオークション(右上)、楽天オークション、WANTED AUCTIONなどがありますがまだ発展途上という感じです。
ところで収集誌のサイトを見ていると新たにいくつかのサイトがリンク登録されていました。一気に・・・という感じなのでうれしくなって調べましたが、どうやら多くが加治将一氏が関係しているようです。加治氏は「金はアンティークコインにぶちこめ!」シリーズでこの世界では知られる方で、北海道出身の自己啓発セラピスト&作家さんです。日本の江戸期コインは対象外みたいなんですが、発展してくれたら良いですね。
この手の利殖本としては太田保(陸原保)著の「古銭利殖入門」や倉田英乃介著の「コイン利殖入門」などいにしえのコレクターならきっと記憶にあると思うのですけど、いずれも予測通りにはいかなかった。
倉田英乃介氏は別のペンネーム名で、五島勉(ごとうべん:本名は後藤力:ごとうつとむ)の名前の方が有名です。これも古い話で恐縮ですけど、「ノストラダムスの大予言」の著者と聞けば、昭和生まれの方のほとんどの方々はご存知なんじゃないでしょうか?
(注1)
まあ、私が予測しちゃうと、「このままでは日本の穴銭収集界は10年以内に滅亡の危機に瀕する。」なんですけど、それでも、世界市場を見る限りたしかな価値のあるアンティークコインにぶち込むことは間違いではないかもしれません。
注1)「1999年7月、恐怖の大王が降臨し、人類は最後の審判の日を迎える。」・・・富士山が爆発するんじゃないか、関東大震災が来るんじゃないか、隕石が落ちてくるぞ・・・なんてみんな噂していて、世紀末思想的な「日本沈没」なんて映画も流行るきっかけをつくった予言本でしたね。この本は200万部を超える大ベストセラーでしたけど、今考えるとなんだったのか・・・。
 
7月22日 【釜グルと幻の一銭陶貨】
記事に興味があったので応札していましたが、はるかに置き去りにされるほど高騰した本です。出版は平成11年と比較的新しく。そんなに古本というわけではないのですけど、作者の吉川和彦さんを検索しても発見できず、自費出版に近い著書のような気がします。
はじめて未発行一銭陶貨を手に入れたときは、金属ではないあこがれの貨幣が自分のものになった・・・と、天にも昇る気持ちでした。ところがこの陶貨は実に様々なデザイン種類、色のものが存在します。カタログには一銭、五銭、十銭の3種類しかないにも関わらずです。その裏話が垣間見えるかもしれないと、数名のコレクターが反応したのでしょう。
窯グルとは多分、窯を仕切る熟練工のことを意味するのだと思いますが、興味を引くに十分なタイトルです。この世に陶貨コレクターがどれだけいるのかどうかわからないのですけど、果たして何種類存在するか一堂に見てみたいものです。 
 
7月21日 【水戸藩銭揚足寶】
おそらく藩鋳天保銭とされているものの中で最難獲クラスの天保銭です。書体は正字背異と言われる書体をそのまま」濶縁縮字にしたもので、福岡の離郭濶縁とよく対比される銭種なのですが、福岡離郭濶縁の何倍もいえ何十倍も貴重な品なのです。私自身、数回しか見たことが無く、ここまでの美銭は見る事すら難しい品でもあります。
これは天保仙人様に撮影させて頂いた品で、泉界においても一二を争うような美銭じゃないかと思う次第です。
この揚足寶は正字背異反足寶や短足寶などに雰囲気が似ているため、気づかず所有されている方がいるかもしれません。とても地味なのですけど、存在は頗る少ない名品です。

なお、現在天保仙人様は若いコレクターを育てるべく、勉強会を開こうと考えていらっしゃいいます。
参加要件は上記の通りですけど、全くの初心者だと少し難しい話になりますので、穴銭を収集して数年たった初級~中級レベルの方で、収集意欲の旺盛な方、私らと同じ病気になることが覚悟できる熱い意思のある方をお待ちしています。 
 
7月20日 【斜寶大様母銭】
ネットで見つけた画像ですけど、凛とした美しさに惚れてしまいます。この寛永銭は古寛永泉志で竹田銭とされたため、その名で覚えた方が多いと思いますが、古来から伝わる伝承は「斜寶は松本銭」だったようです。この斜寶の母銭は本当に母銭らしい母銭で画像のように26㎜を超える精巧な大型母銭がよく出現します。母銭として古寛永を集めるのならこいつは絶対譲れない逸品で、みんなに自慢できます。
ところで斜寶には錫母があるという記述を古寛永泉志などで見ますが、時代的にはどうなんだろうか・・・と思うこともあります。見たことはないものの実際に錫母があるのかもしれませんが、おそらく錫の崩壊現象で現物は砂のようになっているかもしれません。私が現在所有している通用銭の最大径のものは25.9㎜。この通用銭を鋳造するには26.3~4㎜の母銭が必要ですからちょうどこれぐらいの大きさですね。それにしてもきれいです。
 
7月19日 【称南部肌の天保】
最近の大和文庫からの入手品で淡茶褐色の不知天保銭です。ごくごく普通の鋳写しなのですけど、添えられた呑泉旧蔵品と南部肌という名称にころりと参ってしまいました。
実物はなんてことないのですが、拡大して観察するといわゆる仙台藩の肌とは異なり、赤錆仕上げの南部鉄器の表面を見ているようでもあり、肉眼ではほぼ判別はできませんが、拡大すると表面にごく小さな気泡がはじけたような穴が地だけでなく輪上にも無数に観察できます。南部肌と言われれば確かにその通りで、室場天保を砥石と砂で磨き上げればこんな雰囲気になるかもしれないな・・・と思う次第です。本音を言うとちょっと高い買い物になってしまったと思うのですけど、呑泉というとその昔は「穴の細道」で私を熱狂させてこの世界に引っ張り込んで下さった真犯人・・・いえ、大恩人ですから、その有名税でしょうか。
長径48.8㎜ 短径32.0㎜ 銭文径41.0㎜ 重量21.8g 呑泉旧蔵品
※呑泉でなく、香泉旧蔵でした!
 
7月18日 【謎の彫刻】
金彩の塗られた手の込んだ古い彫刻ですけど、東南アジアのお土産みたいに見えます。実はこの彫刻、口の中に玉を咥えるように彫ってあります。たいしたことのないようにも見えますが、この彫刻、紫禁城の玉座を飾った装飾の一部ではないか・・・という噂がある品だそうです。ご存知のように中国では文化大革命のとき、多くの歴史的文化遺産が無残にも破壊されました。
そのときに多くの財物が難を逃れ海外に流出しています。この玉座の一部らしきものも、清王朝の崩壊後のどさくさに流出したのか、文化大革命で難を逃れたのか定かではないものの、現在は某氏が夢を見ながら愛蔵しております。
なにせ、玉座であることを証明するものが何もありません。まあ、古そうなものであることは判るのですけど、宝石が入っているわけでもなく国宝級かと言えば・・・全然わかりません。玉座の画像ずいぶん探して見ましたが獅子はいないなあ・・・龍だよな中華皇帝は・・・いや、果たしてこれは本当に獅子なのか?背びれみたいなものあるし・・・と思いながら私も首をひねっております。夢は楽しいものです。
 
7月17日 【半朱の珍品】
琉球通寶の半朱は書体変化はないとされ、よほど熱心なコレクターでない限り1~2枚保有して満足してしまうと思います。分類にしても、せいぜい正様と側面がロクロ仕上げになったものぐらいでしょうか?一方で人気が今一つなので頑張れば掘り出せそうなものもあります。
画像上は「濶縁」と呼ばれるもの。正しく言えば「次鋳銭の濶縁縮字」なんじゃないかしら?
薩摩藩では文久3年の薩英戦争で磯の浜にあった鋳銭所が焼失しています。そのため西田村に鋳銭所を写し、すぐさま鋳銭作業を再開しています。おそらく、砲撃によって鋳銭道具の多くが失われていたため不足した母銭を補う形で通用銭に覆輪をして母銭として使用したのではないかと、私が思っているのですけど、どうでしょうか?輪幅が広くそれでも通常の半朱より一回り小さいのが特徴です。重量と厚みは充分にあります。
一方、下段の半朱は密鋳の半朱と呼ばれるもの。旧細川領内各所で写された贋金で通常の半朱の3分の2ぐらいの重さしかなくサ極印もありません。これについては昭和60年5月16日付の西日本新聞に詳しく記事が掲載されています。(月刊天保銭42号:昭和60年7月号に記事掲載あり)
琉球通寶は当初、貿易決済通貨として使う予定だったのですが、そのもくろみははずれ、一地方通貨として藩内にあふれかえりました。薩摩藩は鋳造に当たって、国内の金銀・貨幣流通量の経済統制を行わなかったため、結果として国内の金銀が他藩に流出して暴騰、一方で銭の相場は急落して諸物価はインフレ状態に陥りました。この半朱の密鋳銭はそんなさなかに造られたものだと思われます。
この後薩摩藩は大阪商人に頼み込み金銀札を発行して琉球通寶を回収し、その裏側で天保通寶を大々的に密鋳して諸国にばらまき、息を吹き返します。また、島諸部貧困救済のため屋久島に鋳造所を設ける申請がされたこともあったようです。果たして屋久島で天保通寶や琉球通寶が作られたか否かは定かではありませんが、もし作られていたとすれば・・・実に面白いですね。このほか半朱には極印が両側(通常は寶側のみ)に打たれたもの(エラー銭)がごくまれに存在するようです。(画像は天保仙人所蔵品) 
 
7月16日 【錯笵投稿2題】
一つ目は実は海外からの投稿。(ありがとうございます。)面背逆製ではないかとのことですけど、厳密にいうと微妙です。背の彫が深く、郭の鋳バリも背側はOKなんですけど面側もけっこうきれいに鋳出されています。また、面側鋳バリも少し内側にありますね。これを砂笵崩れとする方もいらっしゃると思います。まあ、総合的に見て不完全な部分はありますが私は面背逆製の類にに入れて良いと思うのですけど・・・要は製作上の異常ですからね。何より、海外の方が寛永通寶のこのような製作上の変化について学び、探してご投稿下さることに対し敬意を表したいと思います。

さて、もう一つは先日取り上げた天保通寶の背の重文錯笵について、詳細画像が届きました。長径47.92㎜、短径31.90㎜、銭文径40.74㎜、重量18.82gの久留米正字石持桐極印銭です。
普通に輪がずれて写っているのではなく、當百の右側に花押の袋部分が、花押の下に當百の文字が逆さまにうっすら出ていますので、これはウルトラ級の錯笵なのです。不知天保通寶分類譜別巻に錯笵の色々が掲載されていますが、紛れもなくNo.1クラスの錯笵です。銭幣の華を調べましたけど肩を並べられる品はほぼありません。あるとすれば加賀千代の贋作錯笵だけですけど、こちらま正真正銘のの本物です。残念ながら銭としての出来が粗っぽいので、品格という面では今一歩のところもあるのですけど、それにもまして生じている現象の内容がすごいのです。どうしてこんな品が世に出たのでしょう。
個人的な印象ですけど、石持桐極印は錯笵の類が最も多いのではないかと思います。

なお、石持桐極印銭は現在は久留米藩鋳銭ではないかという意見がかなり強い。ただ、私はひとつ気になることがあります。久留米と水戸は交流があったのでしょう?そして天保銭は自国外でさかんに使ったのですよね。それにあの深字の大型のもの(夏の古銭会参照)・・・母銭もどきの品・・・あれは特別の品で、普通の藩鋳銭ならそんな目立つことはしないはず。あまり知られていませんが水戸藩は公式に天保銭を鋳造することが許可されていましたので堂々と開炉を祝えるはず・・・。貴方はどう考えます?
 
7月15日 【泉運】
世の中には素晴らしく運の良い方もいるし、その逆の方もいらっしゃいます。時には神様はどうしてこんなに不公平なんだろうと思うこともあります。
最近聞いた話では、ある方が骨董屋巡りをしていてウブっぽい寛永通寶の100文緡を見つけて購入しました。その方は寛永銭はあまり熱心ではなかったので古銭会の盆回し用に購入したそうなのです。そして当日、古銭会の席上で取り出し、準備していたところ、仲間の古泉家がそれを何気なく見ていて「ちょっと待ったア~!」・・・なんとその挿しのうち3~40枚が島屋無背だったそうで・・・。
インターネット徘徊好きの某氏・・・その日もいつものように雑銭を眺めていて気になったものがありました。ほとんどが近代銭の雑銭の画像の端に穴銭が数枚写っていたのを発見したのです。それが仰寶銅銭に見えたので応札したそうなのですが、落札して届いた品の中に穴銭の挿しがありました。それを見てびっくり・・・すべてが未使用の大型母銭ばかり。中には仕上げ途中のものや29㎜クラスもごろごろあります。おそらく銭座から未使用のまま流出したものだろうと推定できる品でした。この方、掘り出しにおいてはとんでもない運をお持ちでして、先日も覆輪の長郭手入りのロットを狙って落としたところ、中に水戸繊字の母銭(右画像)が混入していたそうで、さらに張点保も掘り出したことがあると言えばその運の強さがお分かりでしょう。
そういえば先日私が記した記事にありました錯笵銭。あれ、とんでもない錯笵銭だったようです。ただの輪ずれではなく、母銭を笵に落下させてしまったようで、花押や當百の文字が見えるようです・・・それも逆さまで・・・。女神には後ろ髪はないようです。
※繊字母銭は少し焼けていますが間違いない品。天保仙人様お墨付きです。 
 
7月14日 【世紀のおたずねもの】
開基勝寶はご存知でしょうか?開基勝寶は日本最初の金銭といわれ、1枚は皇室の御物に、昭和12年に発見された31枚はいずれも国立博物館に納められ重要文化財に指定されています。
さて、その昔、小川青寶樓師のところに開基勝寶を売りに来た人物がいたそうです。小川師は開基勝寶の実物に触れていますので、ポイントを知っていたのですがどうみても本物にしか見えませんでした。しかし、あまりの高額提示に気後れして購入を断ってしまったそうです。その後、このことを悔やむことしきり。せめて連絡先を聞いておくべきだったと・・・。ちなみに昭和12年、開基勝寶が発掘された時、工事人夫によりひそかに盗まれたという噂があったのです。
一方、天顕通寶は遼の大珍銭で中国では2品しかなくいずれも重要文化財になっているそうです。その昔、中国で発見されたという情報を得て天顕通寶を探し求めて、小川青寶樓師は苦難の旅をしたとか。小川師を派遣した大川鉄雄氏はこの古銭をいたく気に入り、自らの号を天顕堂としたほどです。(現在は国立民族博物館所蔵品)
大川の所有品以外にも天顕通寶は民間にも1枚あるはずだそうで・・・それは森田寶丹のかつての所蔵品。寶丹の看板の寶の字はこの天顕通寶の寶の字をまねたものだそうです。その品も現在は行方不明になっています。
また、和同の枝銭もどこかに残っているはずだとのこと。仙人がまだ若かりし頃。太田氏のお店に和同の枝銭が桐箱入りの状態で売りに来られたそうです。どう見ても良いものにしか見えなかったそうですけど、自信が持てず入手できなかったそうです。当時は和同が枝銭でつくられたという確証もなかったのも災いしました。。仙元神社を造った野村氏も、背異替5、6枚のついた天保枝銭を保有していたそうですが、現在は所在不明。
これらの他に、先に話したことのある丸型の天保通寶試鋳貨(これは2枚)もどこかに眠っているはずです。※天保仙人秘談より
画像は東京国立博物館のHPから借用。 
 
7月13日 【幕末の経済戦争:藩札と天保銭】
幕末においては諸物価の高騰と決済用の通貨の不足、そして金や銭の海外流出と言う深刻な状態であったことは何度か書いています。
通常は通貨不足はデフレ方向に経済の針が振れるはずなのですけど、幕末においては国内通貨の信用そのものが失われつつあったため、さながら預金封鎖寸前のヨーロッパの某国のような・・・いや、それ以上の惨状だったと思います。
そんな破たん寸前の社会の中、各藩が商人の信用を背景に藩札を盛んに作っていました。中には藩の威信で藩札を乱発していたところもありましたが、借用書を脅して流通させるような手法ではうまく行くはずもありません。(以下、想像を含みますので間違っていたらすみません。)
藩札発行は・・・
①藩は信用ある商人から借金し、商人に藩札の発行権を与えます。ここでは分かりやすく1年期限の借金10万両、その利息と経費を1年で1万両とします。
②商人は藩に10万両を貸付けします。
③藩札の流通をスムーズにするため、藩は金銀の藩内通用の禁止(制限)を宣言します。
④商人は市中の金銀を回収し、藩札と交換。両替えで手元に金銀が残ることになります。(これは他国との取引決済用に使います。)
⑤商人は10万両の両替えをしたら、資金を回収したことになりますが、さらに藩からもらうべき利息と経費部分1万両を上乗せ発行します。

まあ、良く考えられたシステムで、藩はお金を借りているのにほとんどリスクを負わず、権益料のピンはねまでしていたと云います。しかも、金銀を回収しながらの藩札発行となれば市中通貨の増え方は緩やかで急速なインフレを引き起こす心配も少ない。藩内が藩札中心の状態になれば、他藩からの経済侵略・・・通貨流出も防げる。ただし、この手法は藩の内政政策なので効果には限界があります。
そこで最後の手段として登場するのが・・・全国共通通貨の天保通寶の密鋳なのです。これは無のところから有を生み出す錬金術にして、麻薬・劇薬です。さすがに自藩に密鋳天保通寶を大量にばらまくと大インフレが起こりますし、幕府の目も怖い。そこで藩札を発行して金銀を温存(秘匿)する裏側で、対外決済に密鋳天保通寶を積極的に用いたのです。これは贋金で他国の資産を吸い上げる行為にほかならず、自藩の借財を他藩に輸出するようなもの。幕末の秋田藩は国内通貨として波銭や鍔銭を発行します。これは藩札と同じ藩内専用通貨なので、対外決済用には天保通寶を大量に作成・使用していました。しかし、隣国の盛岡藩もたいしたもので、天保通寶だけでなく、波銭や鍔銭まで密鋳してやり返しています。
琉球通寶半朱の密鋳は薩摩の隣国の肥後熊本でさかんに行われたそうでして、幕末の全国では経済戦争があちこちで行われていたのです。 
 
7月12日 【久留米正字背異替母銭】
関西のS氏からのご投稿です。ありがとうございます。リサイクルショップからの購入品だそうで長径50.00㎜、短径33.34㎜、銭文径41.33㎜、重量20.54㎜という立派なサイズ。はじめ画像なしで問い合わせがあり、おおかた焼け伸びか変造品じゃないかと思ってぞんざいな回答をしてしまいましたが、画像を見てびっくり。見まごう事なき立派な久留米正字背異母銭です。大変失礼しました。この銭の籍は水戸だったり、久留米だったりはっきりしていないのですけど、昨日天保仙人様に久々に直接お会いして、そのいきさつを聞いた結果、久留米とすべき・・・と判断しました。
この母銭は本当に母銭らしい姿であり、文句なしのもの。こんなものがどうして東北の地から出てきたのか・・・それが謎ですね。

※仙人様にお会いして約7時間にわたり、お話を聞き取材することができました。とに角話題豊富であらゆるエピソードがポンポン飛び出します。小川青寶樓や大川天顕堂、陸原二世忘庵(太田保)など、一時代を築いた方々について直接ご存知の最後の方ですから秘話がすごいです。おかげさまで楽しい一日を過ごすことができました。この件については少しずつ披露します。
 
7月11日 【錯笵銭狂奏曲】
色合いからして称:久留米の天保銭ですけど、輪が変です。錯笵天保はときどき見かけますが、この称:久留米銭の系統が一番多いかもしれません。これは背の右側の輪がはっきり二重になっていてものすごく変です。おそらく一品ものの錯笵で、いわゆる重笵(重文)という錯笵ですね。
これに対して、型そのものがずれることを・・・以前は単純にズレと言っていますが、専門用語では格調高く・・・譲笵(じょうはん)と言うそうです。最近覚えました。古銭の専門用語はとても難しく、うかつに口を開くと間違いがたくさん露呈します。つい最近も「長嘯子」を「ちょうちょうし」と誤って覚えていたことに気づきました。(正しくは「ちょうしょうし」です。)
さて、この錯笵天保、出来は悪いのに・・・いや、出来が悪いこそとても人気でして、福沢さん3人が舞い踊るほどでした。当然のことながら私は置き去りにされてしまいました。出品者は笑いが止まらないでしょうね。

天保銭の錯笵の有名な贋作に「加賀千代」があります。私は一度だけ現物に触れる機会がありましたがとても自然なつくりでした。あの鋳肌は忘れられません。水戸銭の贋作に同じようなものがありますから。天保仙人様はわずかに金質が固いとおっしゃっていました。
さて、明日は久々に古銭三昧の日です。今から準備開始します。 
 
長径49.15㎜ 短径32.15㎜
銭文径40.55㎜ 重量19.3g
長径48.3㎜ 短径31.5㎜ 
銭文径39.8㎜ 重量19.3g
7月10日 【大様と小様:初鋳と次鋳】
不知天保通寶には同じ書体でも銭径にずいぶん差があることが最近分かりました。大点尓寶、俯頭通、細郭手狭長足寶、そしてこの強刔輪張足寶など実物もいくつか確認しています。つまり、これは通用母銭の存在を意味します。普通、銭を鋳造するときは彫母銭→ 原母銭→ 錫母銭→ 銅母銭→ 通用銭などのように段階を追って鋳造します。これは均質のものを大量生産するためなのですが、密造の場合は「短時間大量生産」と「証拠を残さない」ことに意識が集中しています。そのため1枚の原母銭から2番写しをつくり、2番写しを母銭に仕立てて3番写しをつくります。さらに3番写しをも母銭に仕立てることもあったと思います。つまり通用銭を造りながら母銭も同じ砂笵でネズミ算式につくっていったと考えられます。
この2枚の天保銭は天の第一画が短いなど筆法の癖から同じ炉の産であることは間違いないと思いますが銭文径に0.75㎜もの差があります。ほぼ1回の写しの差なのですけど、ぼんやり見ていると気づきません。
とはいえ左のものでも銭文径は40,55㎜しかないので、本座より1.2㎜ほど縮んでいます。はたして何回写しなんでしょうか?そしてどちらの方がより少ないのでしょうか?
風格はさすがに左の勝ちなんですけど・・・・。
 
7月9日 【国会議事堂建築記念上棟銭】
ネットで収集していた上棟銭画像です。国会議事堂のもの・・・昭和2年の立派な上棟銭です。国会議事堂は関東大震災クラスの地震が来ても倒壊しないように、かなり頑丈に作られていたと聞きます。何度か見学したこともありますが、正面玄関の床のモザイク模様は2センチ四方ぐらいの色違いの大理石を並べてありますけど、見えている部分より、その下に埋まっている部分の方がはるかに分厚い・・・手の込んだものになっていると聞きました。色々縁がありまして、国会議事堂から議員会館まで見学をさせて頂いたことがあります。
上棟銭としては新しいものなんでしょうけど、由来がはっきりしていますし数的にはあまりないものかもしれません。
ところで・・・
明治15年頃に天保銭の交換相場がほんの少し上がった話を書きましたが・・・実際には地金価値に毛が生えた程度で、とても新規鋳造で採算が採れるものでは無かったようです。したがって、このときに出てきた天保銭があるとすれば、退蔵されていた密鋳銭が顔を出したと言ったところでしょうか?一方、こんなエピソードもあります。
明治28年、日清戦争の結果日本の占領地になった大連・旅順では決済用の通貨不足に悩まされていました。そんなおり、誰が持ち込んだのか、日本では廃貨の道を歩んでいた銅の寛永通寶が決済通貨としてもてはやされ、実際に日本円の価値の1厘で交換できたから信用もあり、貨幣不足のデフレjだったせいか1枚で実質2厘5毛の価値で使用できたということです。そのため現地に行く商人や兵士は大量の寛永通寶を持ち込んだとか。戦争の結果とはいえ、ちょっとしたミニバブルだったようです。ただし、現地では一文も4文銭も同じ価値であったようで、4文銭を持ち込んだものは当てが外れたようです。(天保通寶銭の研究より)
 
7月8日 【明治15年の天保通寶事情】
明治15年(1882年)7月、当時の朝鮮(李氏朝鮮)国の政情はとても不安定でした。1873年、クーデターによって義父の興宣大院君(こうせんだいいんくん)を事実上幽閉して実権を握った閔妃(みんぴ)に対し、興宣大院君派兵士が反乱を起こします。これを壬午(じんご)事変と言います。興宣大院君は列強に対し徹底した鎖国政策を貫いていましたが、閔妃は日本に近づき開国近代化を図っていました。したがってこの事件では日本人も閔妃の協力者とみなされ多くの日本人が虐殺されました。その頃、明治政府は日本では使用しなくなりつつある天保通寶を朝鮮に輸出して、通貨として流通させる計画を決めていました。
もし、これが実現していたら大量の天保通寶が海を越えて朝鮮半島に渡る・・・はずだったのです。この情報を察知した知恵者は天保通寶は必ず高騰すると考え、天保通寶を密かに買い占める行動を起こしたそうです。買占めは関西方面で盛んだったようで、すでに八厘交換では地金代にもなっていなかった天保銭は再び脚光を浴びたようです。その結果、偽物発生を助長する要因となったとか・・・。
実際には、この後クーデターを退けた閔妃は親日路線から、親中(当時は清国)路線へと転換。天保銭輸出の夢は潰えました。
※このエピソードは趣味情報誌に瓜生有伸氏が書いていたものです。交換比率が八厘に定められた天保通寶は明治5年で事実上の贋造の意義を失っています。ただ、このときや西南戦争前後に政府が旧藩の備蓄米を放出した時など、天保通寶の価値が見直された瞬間もあるようです。明治10年代までは少額貨幣は極端に不足していました。採算に合わなかったので一厘銅貨は政府が意図的に作らなかったのです。明治29年で天保通寶は交換を停止し、廃貨になっていますが、地方においては明治30年頃でも通用していたという報道記録があります。寛永銭や文久銭は廃貨の通知が出されなかったために昭和28年まで現行銭だったそうです。 
 
7月7日 【ドラクマクエスト】
私が書き込みしたからではないでしょうけど、ギリシャがデフォルトの道を選びました。しかも国民の60%以上が緊縮反対とは恐れ入りました。遅かれ早かれこうなることは思っていましたが、最も過激な方向に行きましたね。ギリシャ国債が不良債権化するのは目に見えていましたので、ユーロに残って延命しながら緊縮を選ぶのか、インフレになること覚悟でユーロ離脱するのかの選択でした。債務不履行になったら・・・国は破産と言いたいのですけど、案外みんな平然としています。例えば南米のアルゼンチンなど何度もデフォルトしていますが平然?としています。
ただ、ギリシャの場合輸入依存度が高く、国民の労働生産意欲が低いという社会構造的な問題があります。ユーロから離脱してドラクマになったとき、当然ながらドラクマの信用は全くないわけで、輸入ができなくなります。それに公務員を優遇しているからお金はどんどん作るしかない。作っても外に出てゆくことはないから金余り・・・物価上昇・・・ハイパーインフレが見えています。外貨は欲しいのでなんとか観光や物販でしのぐことになります。そうなるとギリシャコインの流出が見えてきます。構造改革や食料自給率のUP、輸出産業の育成は急務でしょうね。
今の所、為替は静かですけど、リーマンショックのようなことが起こらなければと祈っています。マネーゲームはすでに始まっているのかもしれません。 
 
7月6日 【オークションネットより:二水永マ頭通長字】
二水永マ頭通長字は古寛永の中の名品とされながら、古寛永泉志にさらりと「後出の説がある」と書かれてしまっています。たしかに他の二水永に比べると筆法が上品で背郭も正方形にきれいに納まっていて深彫りです。私も二水永マ頭通長字と二水短寶については、画像などの印象では他の二水永銭とつくりが違うように感じます。他の二水永が大量生産の臭いがする背だとしたら、、この背は一品一品手作りの感じすらします。一方でこれらは新選寛永銭譜(明治27年)にはしっかり掲載されているぐらいですから、江戸期から存在が知られていたものだと思われます。
明治期における寛永銭は近代銭と言うより、現行銭でもあったわけですから、そんな時代にファンタジーをつくる理由はあまり考えられない気がします。要は贋作品が多いから注意をしなさいという事ででしょう。真相は判りませんが画像の品は良い顔をしていると思います。 
 
7月5日 【不知天保通寶写真館5】
重品になりましたがこれは有名品です。細郭手の長足寶のなかではかなり刔輪が強い方だと思います。
実は夏の古銭会のとき、Ⅰさんが気づいたことですけど保の横引きの右横のやや下・・・縁との間の地にごく小さな凹みがあるのが判りますでしょうか?
この凹みはどうも母銭由来らしく、画像でも同じ位置に凹みがあることが確認できます。
一見すると水戸藩の接郭に見間違うような・・・まあ、ありませんかね?
Ⅰさんの所有していたものは長径が50㎜を超える大物で、おそらく原母銭からの一番写しの母銭ではないでしょうか?不知天保には同じ書体で銭文径が異なるものが多い・・・というのが私の最近の結論です。


細郭手 強刔輪狭長足寶

長径49.4㎜ 短径32.9㎜ 銭文径40.6㎜ 重量19.5g
 
7月4日 【藩札流通から世界経済を考える?】
エーゲ海に望む半島国が大変なことになっています。実は私、大学時代は国際経済学をやっていましたので、ユーロと言う共通通貨の危うさは早くから感じていました。世界の各地には経済の不均衡・・・格差があるのが当然で、その格差を調整・緩和する機能の一つが為替と言うものなのです。ところが単一通貨にしてしまうとこの調整機能そのものを失うことになるのです。
関税を撤廃して経済圏域を広げる事は理想ですけど、それを行えば必ず勝ち組と負け組が現れます。通常は勝ち組が負け組を支援することでこの仕組みは維持できるのですが、現実には国家が異なればそのようなことは簡単ではありません。あるいは関税などで自己防衛をするところですが、ユーロ加入でその権利も放棄しています。行きすぎた関税は経済を停滞させますが、進み過ぎた自由化は国家を破壊します。今や為替はマネーゲームのアイテムになってしまった感があります。
幕末の日本も世界のマネーゲーム巻き込まれました。その結果、金はおろか銭まで流出する事態となり、国内はインフレの高進と決済通貨不足が同時におこる今のギリシャのような大混乱に陥りました。
この状況に対し、国内の各藩は藩札を発行して必死に対抗します。藩札は決済通貨の供給の役目を果たし、藩財政の立て直しのためにも必須のものでした。
調べると藩札の発行においては2つの方法があったそうで、一つは藩が自らの威信において発行するもの。もう一つは大商人に発行を引き受けさせるもの。前者は力による強制通用で、上手く行けば巨利を生みますが、流通そのものがうまく行かないこともあります。一方で後者は大商人の信用を背景にしたもので、実はこの方式によって藩札は円滑流通できたとも考えられます。つまり、それだけ幕末の大商人の信用力は大きかったということ。藩は商人から資金を調達し、それに見合う藩札の発行権を与え、さらに発行枚数に見合う上納金も取り立てます。つまり、藩にとってはお金を借りながらも上納金ももらえるおいしい話。そのため、藩側も商人に協力して藩札が円滑に流通するように、金銀貨の流通を差し止めて藩札中心の流通措置を取ったそうです。
本来藩札は領内通用が原則なのですけど、経済の交流によって近隣の藩にも流れ込みます。藩札と貨幣の交換が自由のままだと、流れ込んだ他の藩の札によって自国内の商品が購入されると同時に金銀貨が他藩に流出することになります。その結果、インフレなのに決済通貨不足に陥るといった最悪の事態が起こるのです。したがって隣藩が藩札を発行したことを察知した藩は、それに対抗すべく自国も藩札を発行するのが当然の対抗措置。さらに念には念を入れて金銀貨の通用差し止め=藩札との強制交換(金銀備蓄)も実施したのです。これはまた藩の底力=信用を増す施策で、藩札がインフレによって価値を失ったとしても藩は何ら痛手を受けない仕組み・・・正直に兌換しなければの話ですけど。
これらの対策がうまくいきすぎたのが幕末の福井藩だそうで、藩内経済は藩札が主流となり、市場から金銀貨はすっかり姿を消してしまったそうでして・・・たまたま、一分金を持っていた町人が寄り合いでそれをみんなに見せると人だかりができるほど・・・挙句にそれを回覧しているうちに紛失して大騒ぎになったという逸話が伝わっているそうです。
結局、日本はこの後に国家の崩壊・・・明治維新を迎えます。藩札の限界はあくまでもそれが地域通貨にすぎなかったからで、幕府そのものが海外への通貨流出を止められなかったからではないでしょうか?
さて、ギリシャ問題ですけど・・・まずは自国経済のサイクルをいったん自活型に立て直す必要があります。したがって歳出削減は当然の策になります。しかし、それだけでは経済は窒息状態に陥りますので最大の資源である観光を活性化させる必要があります。そのためには(政情の安定はもちろんですが)ギリシャの通貨は安くなる方が有利なのです。輸入品は高くなっても外貨が獲得できれば経済は好循環をはじめます。今の日本経済が良いと言われるのは為替が円安にふれてからでしょう?モノとカネが動くということは経済にとって良いことなのです。
すなわち、最終的にはギリシャはユーロから離れた方が良いというのが私的な考え。そのとき困るのがお金を貸した方なのです。明治維新のとき、藩札の引き受けを行った商家が50軒以上倒れました。踏み倒される方にしてはたまったものではありませんが、そうでなかったら日本の現在はなかったと思われます。
共通通貨のままではギリシャは永遠に力の格差に悩まされ続け、そのマイナス連鎖から離れられません。もちろん、すぐにユーロから離脱するのが得策とは思えませんが、少なくとも単一通貨制度や完全自由貿易の危うさを私たちはもっと知るべきだと思います。今現在、日本経済は東京の独り勝ちでしょう?その意味判りますか?同じことは国内でも起こっているのです。
 
7月3日 【第8回西国合同古泉会 大分大会記念泉譜】
本日、泉譜が届きました。この種の泉譜には毎回見たこともないような珍銭奇銭が掲載されており、見ているだけで垂涎の品のオンパレードです。
最近の傾向として九州は寛永銭と文久銭の研究が盛んな地であり、泉譜も寛永銭と文久銭に出品が集中していた感じがします。目をひいたのが明和俯永面背刔輪~安政期大字や離用通など四文銭のグループと文久の試作銭の類及び母銭類。まあ、これだけのものが一堂に会するなどまずないでしょう。明和俯永面背刔輪はこれで古銭界で4~5品目のお披露目でしょうから、そろそろ完全に承認されても良いと思います。
唐松堂氏は渋く「深字狭永本体」の展示。実は「深字狭永本体」と言えるものは本当に希少じゃないかと私は思います。それとK氏の出品されていた称鳥越銭の高寛濶縁銭・・・あれは私がヤフオクで競り損ねた品ですね。もうひと目でわかってしまいました。(欲しかったなあ~)
当時の画像が奇品館のNo.88に残っています。
さて、泉譜を見ていて一つ不勉強なことに気が付きました。文久永寶の草文に異書なる分類名がありましたが、私が唐松堂氏の研究をよく見ていなかったせいか分類名に覚えがありません。見るとかなり濶縁縮字になっているようにも感じられるのですけど・・・この由来・定義をどなたかお教えいただけませんでしょうか?

※なお、この泉譜をご希望の方は大分貨幣研究会までお問い合わせください。 
 
7月2日 【おまけの正字】
雑銭の会のおまけ。フォルダーに小字と書いてあったのですけど、よく見たら赤銅の正字でした。たいしたことないのですけど、ちょっとだけ得をした気分です。
幕末の東北地方は密鋳銭の宝庫で、しかも色々なタイプがあって飽きないですね。とはいえおおよそ大型アルバムに一冊ぐらい未整理品が入っていてそろそろ手を付けないと大変なことになりそうです。机の上にも20枚ぐらい転がっていますし・・・。

関西のSさんが、50㎜ある天保銭を拾ったとか・・・。この手の物は焼け伸びがほとんどなのですけど、そうではないとのこと。あとは圧延の変造でなければ万々歳です!
 
7月1日 【不知天保通寶写真館5】
細郭手 縮形痘痕肌銭(白銅)
長径47.9㎜ 短径31.8㎜ 
銭文径40.3㎜ 重量21.0g

長径が48㎜を切るかなりの縮形銭です。最大の特徴はその地肌で松葉でつつかれたと言いますか、隕石の襲来を受けた月面のようなぼこぼこのクレーター状です。極印は不鮮明でよく判りません。
当初は梨子地肌としましたが、痘痕(アバタ)肌の方がふさわしいぶつぶつぶりなので改名しました。
暴々鶏氏いわく、三陸沿岸でときどき見かける不知銭だそうで明治初期に仏具を使って鋳造された密鋳銭ではないかと推定されていました。銅質・書体には色々あるようで、私が魚子地肌とか梨子地肌と名付けた類も銅色や地肌の粗さに若干相違はあるものの、郭内の仕上げや全体イメージから同類のような気がしてきました。2000枚ぐらいのウブ天保からようやく見つけた暴々鶏氏のお気に入りの品だったそうです。
 
6月30日 【退点文の小様銭】
関西のS氏のご投稿です。(ありがとうございます。)何の変哲もない退点文ですけど・・・外径24.4㎜、内径19.8㎜とすこぶる小さい。コレクターのサガとして、どうしてもアルバムには大きいもの、きれいなものを選んで入れてしまうため、このように小さいものについてのサンプルがほぼないのですけど、手持ち品を計測する限り内径が20㎜を切るものは皆無でした。なんでも久泉研究資料の坂井氏も直接ご覧になっているそうで、氏も初めて見るサイズだそうです。
文銭の小様銭ついては、かつて文源郷氏による珍銭探査等の資料を拝見したこともあるのですが、あることにはなっているものの実験の機会には恵まれません。唯一、正字にそれらしきものを1枚参考掲示してあるだけで、それすら密鋳の可能性が否定できないものです。
しかし、画像の品は紛れもなく本炉銭。
なぜこのようなものが今まで出てこなかったのか、存在していても誰も気づかなかったのか、存在数はどのぐらいなのか・・・情報をお持ちの方は是非ご連絡ください。
 
6月29日 
【雑銭の会より】

雑銭の会のロット物から・・・。実は左の2枚が一番の目当てでした。延展風の面の荒々しさながら、輪は完全な斜めやすり。肉厚だし輪側面は気持ちよいほど垂直だしものすごく不思議な密鋳銭です。
手持ちの品(右:小字)と同じ製作ですね。踏潰とは違う点が多いのですけど、銅質ややすりの雰囲気などなんとなく共通項もあります。
この3枚は少なくとも同炉銭であり、何年か前にオークションネットに出たもの(奇品館No.64とNo.65)とも同炉です。密鋳銭は難しい。だから面白いのです。
 
6月28日 【入札誌穴銭の廃刊】
入札誌穴銭(横浜古泉研究会)から郵便物が届きましたがやけに薄い。開封するとお詫びの文章とともに、関氏が記したという断筆の挨拶状が・・・。
今年に入り闘病状態が続いていたそうで、6月上旬に急逝されたそうです。数度しかお会いしたことはないのですが、柔和な笑顔と誠実な人柄で投稿も実に多く、今一番勢いのある入札誌だっただけに残念です。個人発行の入札誌としては130号を超えますので、1年6号としても20年を超える大事業になります。私の思い出としては、短尾寛方冠寶の通用銭が発見されたとき、周囲がまだ冷ややかな対応だったのにいちはやく取り上げて下さったこと、入札誌を通じて秋田の村上氏のコレクションをたくさん購入できたことが挙げられます。
いけないことですが、私は落札品に納得できず何度が返品申し出したことがありまして、そんなときにも「しょうがないですねぇ」という態度で応じて下さいまして、本当に頭が下がります。
拓本も多く、個人作成の無料入札誌としては質・量とも最高峰のものだっただけに惜しまれます。謹んでお悔やみ申し上げるとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。本当に残念です。 
 
6月27日 【不知天保通寶写真館4】
長郭手強刔輪長張足寶

長径49.15㎜ 短径32.15㎜ 
銭文径40.55㎜ 重量19.3g
大きさ的には6月8日の覆輪張足寶とほぼ重なります。一番の違いは刔輪の強さで、とくに天上の刔輪が非常にきついことが分かります。寶側も強く刔輪されていますが6月8日のものとそれほど差はありません。背もぐるりと強く刔輪されているようです。このタイプは天の第一画もわずかに短いようです。計測前のイメージでは、6月8日のものより銭文径が小さいのではと推定していましたが、驚いたことに全く同じ。結果を見る限りは母銭を鋳ざらい修正している過程で両者の差が生まれたのではないかと思えるようになりました。すなわちルーツは同じものかもしれないのです。
4月4日のものとほぼ同じ書体なのですけどこちらの方が銭径・銭文径ともワンランク大きいのです。不知銭はこのようなこと(初鋳・次鋳・末鋳:通用母)はよくあると最近悟りました。
 
6月26日 【打印寛永2:オークションネットより】
これも逃した魚シリーズでして、本来ならばまるごと団体さんで奇品館に行くべき品なんでしょうけど、応札全滅で数が多すぎますので、悔しさ半分で記事にさせて下さいね。打印銭は柔らかい金属でないと極印がもたないので、合金でなく純銅や純銀などが使用されます。ただ、寛永の打印銭は本当に薄っぺらなものが多く、他の打印銭のような玩具でもないし、信仰対象でもない。さりとて流通に混ぜ込むにしても薄っぺらすぎる気がします。それに挿しに入れるのなら文字より大きさと厚みを重視すべき。つまり、この打印銭は玩具でも信仰対象でも貨幣でもないという可能性が高いのです。真相がわかると「なあ~んだ、そんなことか・・・」と、なりそうなので、知らぬが花だと思うのですね。この業界知らないからこそお金をつぎ込めるのだと、改めて思う次第。わからないから欲しいのですけど、入手してもわからない・・・不思議な趣味(病気)です。
 
6月25日 【「駿河」40年の歩み(4)~(6)】
半年間にわたり、駿河の付録としてついてきた「駿河」40年のあゆみが、とりあえず第6号で締めくくりとなりました。人物像と思い出話が満載で、まあ、こういった話は登場人物が元気なままだと書きづらいという一面もありまして、いきおい追悼的な随筆になるのが常道です。
私にはほぼ縁もゆかりもない方々ですけど、名前を聞いたことのある方々や業界有名人も多く、なかなか楽しい読み物になっています。
6号に収集の三村堯治氏について書かれていました。月刊趣味情報編集にかかわった方と判り、「やはり!」と膝を打ちました。趣味情報は断片的にしか収集できていない資料なのですけど、編集内容が収集誌とうり二つ・・・まるで双子のような雑誌です。私は収集の前駆的な雑誌だと感じていましたが、出版者名も編集者のお名前も三村氏と異なりましたので首をひねっておりました。
古銭界の人物情報は今一つ世の中に出てきていません。古銭は道楽だからなのか、あくまでも主役は古銭だからなのか・・・もっと名前や功績を残しておいても良い方々はたくさんいらっしゃいます。
ただ、この世界、本当に高齢化が進んでいて、私ですらおそらく若手の部類に入るのでしょう。ある古泉会に若い女性が入られたという微笑ましいお話がありましたが、若いと言っても「会員に比べて」なのかもしれませんから、ぴちぴちの女子高生や女子大生ぐらいがわんさか来るようにならなければと夢想してやみません。(病んでいます?)
以前書いたことがありますが男と女の脳みそは少し構造が異なり、女性は収集するという趣味を持ちづらいのです。私らは汚い穴銭を美しい・可愛いと感じる変態的な思考ができますが、女性の脳みそはあら探しのほうが得意なのです。また、男性は人の持っていないものや量的な収集をすることでステイタスを感じることができる幸せな(バカな)生き物ですが、女性の価値観は異なります。未だかつて古銭が縁で結ばれた収集家の話を聞いたことがありません。(古銭が縁で別れた話はときどき聞きます。)
話は脱線しましたが、40年間と言う歴史の重みはすごいものがありますね。私自身も、このHPを維持できるのがあと何年かは分かりませんので、それまでどうにか若い収集者に育ってもらわないと安心して引退できませんから・・・。 
 
6月24日 【雷鳴に追われて・・・】
ネットオークションに久々に食指の動く骨のありそうな品が出ていました。不知天保通寶の縮径の厚肉銭です。デジタルノギス数値が3.29㎜とはこれは如何に!出品者は良く知っている方なので間違いない。締切30分前までは大きな動きがなかったので少し安心していましたが、やはり残り15分で逆転。本命ではない方は落ちましたが予定よりかなり高い。これも心理戦。5万を超えてビビッていたら、突然の雷と大雨。あわてて家中の窓を閉めて回っているうちに雷鳴はどんどん激しさを増します。閃光が夜空を何度も切り裂き、雷鳴も近い。やばい、パソコンがダウンしちゃうかも。え~い、とばかり6万円以上を書き込んで目をつぶりましたが、またも逆転。相手もしぶとく骨があります。頭にきて桁をあげてぶち込もうとしたときすぐ近くに雷が落ちた!一瞬の静寂の後、再び激しい雨音に包まれました。・・・これは神の啓示と悟り静かに電源を落としました。
とりあえずパソコンは無事でした。落札したらたぶん女房の雷が落ちたような気がします。
雷鳴がやんだ後、パソコンを立ち上げ結果を確認していたら、今度は雑銭の会の落札通知が届いていました。工藤会長にはお世話になっておりましたので、目をつぶって重品覚悟で応札したものがありまして、結果はやはり目をつぶりたくなるような支払いが生じており、まいったこれは女房には言えないなあ・・・と苦笑いしております。神の啓示の正体はこれだったのかもしれませんが、改めて嵐の予感・・・とはいえ、これでとりあえず会長に少し恩返しができたかなあと思う次第です。(私的にはどんなことがあっても工藤会長には元気でいて頂きたく、少しでも回復を願ってやみません。) 
 
6月23日 【久々の獲物?無駄遣い?】
細郭手覆輪刔輪(覆輪存痕)
長径49.4㎜ 短径33.0㎜ 
銭文径40.8㎜ 重量18.8g
大和文庫の落札品です。横肥りの典型的な覆輪銭形で面の左側に覆輪の痕跡がわずかに残っています。書体変化はほとんどありませんが、こうやって拡大すると天上と當上の刔輪がはっきりと観察できます。寶下の刔輪は寶足が伸びるので目立ちますが上部の刔輪は見落としやすいのです。しかし、寶下刔輪より天上刔輪はぐっと少ないのです。銭文径の縮みはほとんど見られません。鋳造方法に秘密があるのかあるいは延展でもしたのか・・・???
全体の印象も全くの本座・・・一見したところの製作に違和感がありません。この偽装っぷりはメガネなしの状態では私は全く分かりません。メガネをしても3回に1~2回は見落とします。以前、ほぼ同じ規格の品を細郭手覆輪と称して載せていましたが、おそらく同じ座のものじゃないかと思います。そちらの購入価格はこちらの10分の1・・・まあ、世の中こんなものですね。(反省)  
 
6月22日 【2015CCFオークション】
CCFオークションカタログが届きました。今年の目玉は何と言っても泉譜原品の奇天手が出る事でしょう。ほかにも尨字(ぼうじ)も出ていますね。この尨の文字・・・ワープロで変換するとき「むくいぬ」と入れると一発で変換できるのですよ。知っていましたか?横道にそれますが跛寶の跛は「びっこ」ですし跪寛の跪は「ひざまずく」、長嘯子の嘯は「うそぶく」で変換できます。
穴銭のオークション日は土曜なので、うまく行けば出られる可能性が大きい。奇天いったろか!・・・なんてことは多分なく、私は下々の争いを楽しむことに決めてます。
そういえば昨年は行事にどんぴしゃでした・・・と、改めてよく考えたら今年も行事(夏祭り)の当日でした。と、なると絶対に行けません。今まで完全に忘れていました。郵便応札かあ・・・勝てないでしょうね・・・だから気合が入りません。まあ、今年はあまり激しくお金を使っていないので、預金が少し回復できそうです。
子供もお金がかかるようになってきましたし、道楽もほどほどにしておかないと後が怖い・・・いえ、妻が怖いですから。それにしてもなかなか古銭収集に集中できません。その分、更新を未だに頑張っています。
皆さん、オークションは私の分まで頑張って下さいね。 
 
6月21日 【オークションネットの謎の天保銭】
下見もしていなかったので偉そうなことは言えませんが・・・参考銭のような位置づけでで出品されていました。
本座広郭のような雰囲気ですが、背肥郭気味で面背反郭。輪側もかっちりとした仕上げの印象を受けますが、それ以上は不明というか、情報がありません。
まあ、普通に分類したら本座の小異か一昔前の不知銭の背反郭?あたり。それでも、参考銭として出品されているのですから何らかの異常があるのだと思います。
まず、思いをはせるのは不知天保通寶分類譜にある背肥郭の異極印銭。これはほとんど本座と規格が同じで、背郭と極印にだけ小異があるものでした。
それともうひとつ思い出すのがラムスデンの作品。春の古銭会展示室に掲載してありますが、本座広郭の母銭から写したようなもの。何気ない書体でありながら極印がないので、母銭もしくはエラー銭と勘違いして大喜びでコレクターたちは飛びついたようです。とにかく彼はコレクターの喜ぶツボを知っていました。ただ、この品はラム作とするには面のぶつぶつや銅色の違いが気になります。
ところで、ラムスデンは日本国内に直接販売はしていなかったと聞きます。
知識のない外国人相手に商売するのなら、本座の母銭もどきのようなマニアックな物を作る必要はなかったわけで、本来ならあのような作品はありえないはずではないか思います。したがってラム作の本座写し天保は、贋作製造過程の習作か見本、あるいは、ごくわずかながら国内マニア向けの贋作をも造っていたのではないかと思います。
現物を拝見した訳ではありませんが、かつて天保仙人様がラムスデンの販売目録を見たとか・・・その中には泉界で知られていなかった様々な作品が出ていたとも。
色々と思いをはせることができるのは、上記品を参考品・・・もしくは贋造銭・不知銭かもしれないと夢?みているからで、平凡に見えるからこそ色々な憶測・予測・夢想・妄想がそれこそうじゃうじゃと魑魅魍魎の如く湧き上がってくるのです。では、こいつは何者か?・・・入手した訳でも現物を見たわけでもないので今となっては空想するしかない品です。どなたか教えて頂ければと思います。
 
6月20日 【魚尾寶:オークションネットより】
魚尾寶という名前はこの古寛永で覚えました。永楽通寶の中に同じ源氏名銭があり、そちらの入手は比較的容易なんですけど、古寛永のほうは見ることさえ難しいのではと・・・思います。かく言う私もたまにオークションに出たとき、買えもしないのに下見をする野次馬なんですが・・・。この銭は古寛永の中にあっては銭径が大きい方で、それが原因で雑銭から拾ったお話をかつて読んだことがあります。一方で大きさの割につくりは薄っぺらな印象を受けます。古くから超有名銭であり、掲示の画像においても面背に古い収集家が入れた朱の点々が観察できます。
書体は素朴で、御蔵銭風といいますか志津麿的と言いますか・・・寶足だけでなく永字の両末画が躍るように跳ね上がるのも印象的です。まあ、ここらあたりの古寛永をさらっと入手できるようなら、古寛永収集も卒業に近いわけでして、経済力も相当なければそうはなりません。私はまだまだのあこがれの高嶺の花なのです。
 
6月19日 【不知天保銭写真館3】
長郭手覆輪張足寶(濶縁大様)
長径49.5㎜ 短径32.85㎜ 
銭文径40.40㎜ 重量21.8g
白銅質気味の迫力の張足寶でこれほどはっきりとした覆輪はそう多くはありません。大変目立つのでこのクラスの覆輪張足寶は市場で見かけることがめっきり少なくなりました。
ずんぐりした大様ではありますが銭文径がかなり縮小しているため、最大様クラスとは言えないと思います。しかし、見た目の印象は実際より一回り大きく重く感じる逸品ですね。
なお、私が考える張足寶の価値は・・・
①寶足の形状(長さ)の長短
②天上の刔輪の有無と強さ
③覆輪の幅の大きさ
④銭径・銭文径の縮小の度合い
だと思っています。
この品は③が特異ですけど、④も少し優っています。どうです?格好いいでしょ
 
6月18日 【絵銭神功開寶背大福】
ネット収集した画像です。面側の書体は島銭風・・・つるっとしていますが踏潰銭とも言える大濶縁の風貌です。青白い青銅質でコレクターのツボを押さえた顔の新作絵銭ですね。背の大福のデザインが新しいのですけど、それ以上に面の書体が興味そそるできです。
神功開寶には有名な島銭(絵銭?)がありますけど、この絵銭ととても風貌が良く似ているのです。お遊びとしては楽しい古銭(?)ですけど、熱狂してはいけないと自分に言い聞かせています。
※この書体はいわゆる松花斎作と云われるものの系統のように思えるのですけど、これはそれを伝鋳したものかもしれません。私にも福が来ないかしら・・・。
 
6月17日 【江刺銭の新種?!】
やはり東北地区からのご投稿です。(ありがとうございます!)
1枚目は江刺の大頭通。背景色の調整(消去)をしたため色味が少々異なっていますが、江刺系のざらざらした銭質だそうです。寶横の輪凹みや寶下の決文も、輪の膨らみもなく、今まで発表されたことがないタイプだと思います。
画像で見る限り穿内はやすり仕上げがあるように見えます。永横の星以外これといった特徴がありませんが、類品をお持ちの方お知らせください。

もう1枚も江刺の俯永写し。しかも通点が陰起しているいわゆる失点通になっています。これもいまのところ一品もの。通上の輪の凹みが特徴的ですけど偶然かもしれません。

江刺銭と言う名称は故、水原庄太郎氏が名づけ研究し体系づけたものですけど、江刺の地では鋳銭は行われなかっただろうと言われています。浄法寺系のものと製作が重なるものもあり、同じ東北の地における一系統あるいは一時代の密鋳銭だと思われますが、兄弟銭が多数見つかっているのが不思議な気がします。
比較的市場に数があることから、大量鋳造にもかかわらずなぜこんなに兄弟銭があるのか・・・あるいは、市場に出ている物が一時期・同じ場所で作られた物ばかりが大量発見されて、市場流通している物なのかもしれませんが、とても気になります。同じ特徴が浄法寺天保銭にも見られますので、やはり同じ座のでなのではないかと言う類推が働いてしまいます。 
 
6月16日 【密鋳極厚肉俯永】
東北地区からのご投稿です。(ありがとうございます!)
ごつごつした野性味あふれる俯永でして、肉厚は1.9~2.2㎜とほとんど2㎜超過の厚み。重量が9.3gあると言えばその凄さがお分かりになると思います。普通、4文銭の重量は6gあれば良い方で7gを超えたらかなりの重さ、8gはまず見かけません。9gはまるで面子銭。ほぼ天保通寶半分の重さがあると言えばその価値が判りますか?
しかも鋳バリを見ると面側に偏っています。すわ面背逆製・・・と、言いたいのですけど、背のつくりや厚みから見て、貼り合せの手だと私も思うのです。
このようなものは「汚いから」あまり見向きもされなかった時代があったのですけど、こいつは存在感があります。肉厚と言う意味ではチャンピオンだと思います。 
 
古寛永番付
西  東 
横綱 太平手 横綱 開元手
魚尾寶 二水大寶
大関 背十三 大関 永楽手
狭穿大字 寶連輪大字
坂本大濶縁 昂通背星
関脇 異寛小永 関脇 不草点刔輪
志津麿大字 マ頭長字
小結 笹手永長寶 小結 寶連輪
前頭 二水短寶 前頭 長嘯子
6月15日 【古寛永番付】
日本人は格付けをするとき、相撲番付表を真似て〇〇番付をつくることが良くありました。言葉としては長者番付などとして残っていますが、今はランキング表のようなものがほとんどですけど・・・。
古銭の世界でも江戸時代から収集家番付なるものがあり、昭和の初めまではさかんに作られていたようです。今見ると収集家が「どうだ、おれはこんなにたくさん持っているんだ!」という自己顕示欲全開の代物で、多分に製作者(納入業者)のヨイショ(お世辞)が見え隠れするものなんですけど、これによって昔の収集家の名前が判ることもありまして、なかなか面白いものです。
と、言うわけで思いつきで私も古寛永の古銭番付をつくってみました。あくまでもお遊びなので異論がある方も多いと思います。鳳凰山氏などは永楽手を絶賛していましたから、「なんで永楽手が大関どまりなんだ」と言われそうです。実は存在枚数がやや多そうな感じだからなんですけど、風格は一番かもしれないですね。
ここにない濶字低頭通濶縁とか濶字手覆輪、水戸勁永高寛とか長永大字、さらにはに水永正三の類など他にも候補はたくさんありますけど、あまりにマイナーなものと種類数が多い二水永の類は割愛。大様銭や銀銭、細かな手替わりもご遠慮いただきました。当然ながらここにあるのは「私が好きなもの&欲しいもの」でして、残念ながら現在所有している物は「志津麿大字:本体と平永」と「寶連輪」だけです。後々のことを考えると、収集人口の少ない古寛永に大金を支払うのはかなり勇気が要ります。それでも地味でマイナーながら超珍品の笹手永長寶を入れたのは、ちょっとしたいたずらと言いますか意地と言いますか、高田銭の笹手永退寛類の中にはかなり珍しいものがいくつかあるということをPRしたかったから(あこがれているから)。ほとんど保有はしていませんけど・・・。 
 
6月14日 【なんじゃこれ聖寶:オークションネットより】
オークションネットに出ていた白文島銭の洪成聖寶・・・ある知人が落としました。実はその方はこの島銭の元所有者だったそうでその方は人生最初の落札品が島銭ということで、この古銭も若かりし頃の入手品だったそうです。収集途中で手放してしまったそうで、オークションで数十年ぶりの再会だったとか。読み方はいろいろありそうで、知人は「汝哉聖寶」という名称で購入したそうです。証明する方法がありませんが、なんとなく隠れキリシタンの護符のような名前で夢がありますね。「なんじかな」とか「なんじや」とも読めますし、手作り感がいっぱいです。まさしく「なんじゃこれ」の世界。ウン十年前に生き別れた娘に出会った知人は、財産をなげうって再会を果たせたそうです。娘さんの変わらぬ美しさと懐かしさでご投稿いただきました。良かったですね。

※島銭は私も矢部倉吉氏の著作、「古銭と紙幣」に熱狂した口です。島銭の紹聖、政和など今でも宝物です。(2012年6月28日の制作日記)なお、白文島銭の洪成聖寶の類品として昭和泉譜に洪成通寶(汝哉通寶)・洪元通寶(汝元通寶)・洪夫聖寶(汝夫聖寶)が掲載されていました。いずれもキリスト教に縁のある文字を使っているとも考えられ、拓本から感じる作風も似ています。 
 
6月13日 【錯笵の天保:オークションネットより】
これもオークションネットからの画像です。本座銭のはっきりした錯笵は意外に少なく、たまに見かけるのは輪写り程度。それでも探せば広郭なら拾えますけど、長郭や細郭は少ないと思います。この錯笵は砂笵の上に湯竿を落した後、十分に整地せずに型どりをしてしまったとしか考えられません。本来だったら検査ではねられる対象なのですが、なぜか市場に出てきてしかも後世まで残された物。おそらく唯一の品であり、こんなものは私もまずお目にかかることはできない代物です。(錯笵銭は偶然の産物ですから、同じものが複数見つかった段階で、それは贋作ということになります。)
当然、私もチャレンジしていましたが、予想通りと言いますか予想をはるかに上回る入札の応酬が行われたようです。錯笵はお遊びの収集ですから、そんなに熱くなるものではないものの、世界唯一の品ということと、見た人を驚かせる快感が忘れられず多くの人が魅了されるようです。そこがまた贋作者の狙うところなんですけど・・・。

※ここのところ、オークションネットの出品は充実していますね。その分競争も激しくなってきました。
 
6月12日 【狭穿大字:オークションネットより】
開元手・太平手・永楽手・二水大寶・魚尾寶・・・古寛永を集めている方ならこの中の一品でも持っていたら大いばりです。一方でこの狭穿大字と寶連輪大字・・・大字の名前が無ければ入手の可能性はありますが、大字の名前が付くだけで見ることも難しい品に変身します。(本当はこれに二水マ頭通大字を加えてトリオにしたかったのですけど、現在の評価では二水マ頭通の母銭であろうという評価になっています。)
とにかく地味なんですけど市場にもめったに現れず、私は平成17年の銀座コインオークション以来の再会です。狭穿に非常に似ているので案外気が付かずに保有している方がいるかもしれません。
今回は10万円以下の出品でしたからもしや・・・と思いましたが、順当な評価(それでも安い!?)で落札されたようです。
 
6月11日 【不知天保銭写真館2】
細郭手張足寶
長径48.9㎜ 短径32.15㎜ 
銭文径40.2㎜ 重量20.8g
当百銭カタログには同じ書体のものが長郭手(小様)として掲載されているので紛らわしいのですが、よく見ればたしかに細郭手です。すなわち、天字が中央に正立して仰ぐことなく、寶貝もやや幅広く、背當の田がわずかに狭く小さい。そして郭も正方形です。長郭手だと思ってお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、長郭手より少ないものです。
桐極印は小さく円弧状の葉脈。他の張足寶のものによく似ていますが、同じかどうかは不明です。寶の書体はこれぞ張足と言える形状です力感があってすばらしい。
長郭手の張足寶は色々なタイプがあり、数も多いのですけど細郭手の張足寶は輪幅の変化はありますがバリエーション的にはこの手の物が代表的書体で、あとは少数派。製作は精緻なので見栄えも良く人気もあります。
 
6月10日 【打印寛永:オークションネットより】
郵便入札のオークションネットは予測通り惨敗。それも私がいれた値段の1000円プラスばかりです。まあ、何を申しても負け犬の遠吠え、それも弱い犬ほど良く吼えるというものです。掲図の打印寛永銭は、おそらく現物はおもちゃのように薄小のものだと思われますが、まるで島銭みたいな風貌です。通用させるには薄すぎて無理なので、おそらく古い時代の正月飾りや熊手の飾りが本来の目的ではないかと思いますが、古雅あって魅力的です。これあたりは絵銭収集家とも競合するので高騰すると踏んでいましたが、結果は前に書いた通りでちょっと悔しいですね。仕事があったから絶対いけなかったのですけど、あの価格ならいけた・・・と、思いっきり遠吠えしています。すみませんが気のすむまでなかせてください。 
 
6月9日 【日本古代貨幣の創出】
本屋で文庫を眺めていたら、目に飛び込んできて私に向かって買って下さいと猛アピールしてきました。
今村啓爾著、「日本古代貨幣の創出」講談社学術文庫です。無紋銀銭から初期皇朝銭の時代についての貨幣考古学についてのお話です。まだ、流し読みしかしていませんが、今村氏は収集界についても知識があるようで、私にとってはとてもとっつきやすい。しかも、「わどうかいほう」派であり、「富本=貨幣」説を支持して下さっている方でして、読んでいてとてもうれしくなってしまいました。富本がまじない銭だとしたら、貨幣が出る前から貨幣型の絵銭が作られていたという矛盾や、その後の奈良~平安時代にかけてまじない銭の風習が途絶えていた説明がつかないなど、うなづきながら読んでしまいました。今村氏は東大出身で現役の大学教授(考古学専門)のようでどこかでお名前をお聞きしたことがあったような気がするのですけど、思い出せません。
内容は非常にアカデミックながら理路整然として読みやすい!
これは日本貨幣協会推薦図書にすべきですよ!古銭の研究もこれぐらいも考証があるべきで、これこそがヌミスマチック(泉貨学)というものです。
これと同じような本を寛永銭と天保銭あたりで誰か出してくれないかしら?寛永銭も天保銭も、鋳造地に関することが未だに完全解明されていないのですよね。書体などの分類から少し離れて、製作などからもう一度鋳造地についての考察研究なんかしてくれないかしら?え、興味ない?そうですか・・・。

今村啓爾氏は『細道の会』の会長だった今村啓一氏の御子息だと思います。今村啓一氏は日本貨幣協会の理事でした。父君が亡くなった後、啓爾氏は日本貨幣協会に招待されて講演した事があります。 内容は『甲州(山梨)の金山』で「通常金山は銀も取れるものだが、 甲州の金山は銀が出ない。だから甲州金はあっても、甲州の銀貨はないんだ!」とお話でした。(天保仙人)
 
6月8日 【不知天保銭写真館】
意地になって半年連続更新をしましたが、目新しい記事も少なくなってきましたので、そろそろ以前のペースに戻そうかと思っています。その前に、お気に入りの画像を何枚か紹介します。

長郭手覆輪張足寶
長径49.35㎜ 短径32.55㎜
銭文径40.55㎜ 重量19.6g
不知銭としてはありふれた張足寶ですけど、実は数々の泉譜を飾った原品で、これ以上の状態はないだろうというハイレベルな不知天保通寶です。
文字の切れ、細さ、立ち上がりの鋭さ、銭径の大きさなど、何をとっても一級品。相当拓本を採られたようで輪の周囲などがうっすら墨汚れがありますが、伝世の極美品なのです。張足寶は好きな書体なので何枚か重複保有していますが、こいつはその中でもトップレベルの美人さんです。たしか、入札誌穴銭に出ていた品だったと思いますが、私はこの品に対しかなり良い値を付けました。判っているだけで当百銭カタログ(No219)、不知天保通寶分類譜(下巻51P)など色々なところで顔を出しています。
 
6月7日 【雑銭の会】
雑銭の会は平成4年(1992年)10月に「練馬雑銭の会」として発足した、ウェブ活動を中心とする古銭会です。(ウェブ古銭会としては草分け的な存在です。)私の参加はそんなに古くない気もするのですが、このHP製作開始(2004年)よりはずっと前だったと思います。方泉處のHPを見つけたのが1997年秋で、練馬雑銭の会のHPを発見したのもその頃だったと思うのですけど・・・私の会員番号は13番ですから・・・それでも立派な古株なのかもしれません。外部からの攻撃で破壊されてしまいましたが、「日高見文化研究会」のサイトページにリンクしていて、浄法寺銭の美しい写真がたくさんあり、眺めるのがとても楽しみでした。今思うとそれらの画像を保存してなかったのが悔やまれます。
ときどきネット上で開催される入札が楽しみで、私は相当数の密鋳四文銭・天保銭をこのサイトで購入していると思います。私を密鋳病にしたのはこの会だと言っても過言ではないと思います。
さらにネットを超えた2007年4月21日の古銭会において、私ははじめて自分以外の古銭収集家との集団的直接交流を果たします。私はそれまで師と呼べるような方々とのお付き合いはほとんどありませんでした。と、いうより古銭会に参加することさえ畏れていてできませんでした。私の抱いていた古銭会のイメージは年配の重鎮の居並ぶ会合で、若手がひとこともものを言うことができないような重くハイレベルの方々の集まり・・・まあ、貨幣誌などで三上香哉と田中啓文がやり合っているようなイメージがあって、年齢も若かった?こともありものすごく気後れしていた・・・と、いうのが本当のところ。当時の私は生意気なばかりで実力も自信もまだ全然なかったというのが本音です。しかし、この会において私の収集人生に大きな変化が生まれました。(とはいえ、私は未だに一匹狼ですし、会員としてはけっして優等生ではありません。)
暴々鶏会長・天保仙人様は収集を行う上での一つの目標になりました。この会は参加される方々のオープンな性格もあって、気後れすることもなく、新しい知識を吸収できる雰囲気が好きでした。主催者の暴々鶏様・天保仙人様など、雲上の人たちのお話はとても新鮮・・・メールでしかお話をしたことのないⅠさんやSさん、その後古銭会場で何かと声をかけて下さるHさんやYさんなどともお会いすることができました。私は舞い上がってしまいました。
その結果、私は密鋳4文銭と天保銭収集にに目覚めてしまいます。博学多彩な暴々鶏様は私と仕事上の共通点がわずかにあり、一度だけ仕事場まで訪問取材を受けたことがあります。
その雑銭の会も暴々鶏様の療養のため8月に活動を休止すると言いますから淋しい限りです。若手だと思われていますが、私も暴々鶏様とほとんど世代が変わりません。ここのところ引退を示唆する大物収集研究家が多いのですけど、その方々の跡を継ぐような収集研究家があまり目立っていないのは気がかりです。私にとってこの世界がまた狭くなってしまうようで残念でしかたがありません。現代医学の進歩は目覚ましいものがありますので、会長暴々鶏様の健康回復を心から切に願うしだいです。 
 
6月6日 【銭径縮小の不知天保通寶2】
銭径縮小銭をもう一枚クローズアップ。
これは粗製ながら、最高に個性あふれる不知天保通寶です。
2度写しの覆輪銭で、嵌郭もされていると思います。その形は長径に比べて短径が大きい横太りの卵形で、しかも、大きさの割に重いのは肉厚にできているから。見切り線の位置も肉厚の中央部に近く、いわゆる貼り合せの手でもあります。極印も丸く個性的。
長径は48㎜を切り、銭文径も40㎜を切ます。銅質もかなり白銅質です。何から何まで違うのですが、残念ながら書体には大きな変化はみられません。
見栄えはしませんが、見どころ満載の不知天保通寶銭。もちろんお気に入りの一枚です。

長郭手 覆輪縮形嵌郭異極印   
長径47.95㎜ 短径32.05㎜ 銭文径39.95㎜ 重量23.2g
 
6月5日 【銀座古銭堂 富田作】
その昔、銀座にあった菓子の金型製造業者が、贋作製造に乗り出したことがあったそうです。その業者の名前は富田と言うことだけは判っていました。金型製造業者ですから金属加工はお手のもので、丁銀などの正型抜きをはじめとした贋作を次々に生み出したようです。
その彼が出したと思しき広告が、驚いたことに1974年5月のボナンザに堂々と掲載されていました。
銀座古銭堂 富田幸次 〒116東京都荒川区東日暮里 ○-×-△ TEL×××
古銭複製品約200種あり、カタログご入用の場合は、100円お送り次第すぐ発送します。(切手可)
慶長大判 1100  万延大判 1000
慶長小判  500  万延小判  400
南鐐大判 1100  四匁六分  500
八  匁  800  明和五匁 1000
皇朝十二文銭(一組)        5000

おりしも古銭ブームが起こり、富田氏は本業を古銭製造?にシフトしたようです。お店は東日暮里に構えたようですけど、ここまで堂々とされると天晴なものです。もちろん、このお店は現在はありません。大判小判は金仕上げ(メッキ?)銀ものは銀仕上げと書かれています。贋作ではなくレプリカだとうたっていますね。TVの撮影用小道具には便利だったと思いますけど、その技術を商売に悪用したものが他にいるのかもしれません。
※幕末地方銭・天保通寶の写しもあるようです。しかもなかなかの上作だということ。  
 
6月4日 【銭径縮小の不知天保通寶】
不知銭の中には銭径が縮小している物が数多く存在します。しかし、さすがに標準銭より2㎜以上縮小すると、 違和感が突出してしまい、行使の上での問題が発生するので存在数はぐんと減ります。密鋳銭を下手に使用して怪しまれれば間違いなく咎や取り調べを受けたので、その点は特に慎重なはずでした。なかには銭文径40㎜未満のものや覆輪や嵌郭をしっかり施された物も存在するのでコレクターとしては出来るだけそんな特徴のあるものを求めてしまうのですけど、村上譜などを見ると意外に普通の顔をしているケースも多くあります。この天保銭は2011年に入手したもの。
一部に火中による変色があって残念なのですけど、覆輪銭でありながら48㎜を切る縮形銭で、派手さはないものの銭文径も40㎜を切るなかなかの名品なのです。
顔つきは平凡ですけどこいつは私のお気に入りの1枚になっています。
長径47.9㎜、短径31.75㎜ 銭文径39.9㎜ 重量17.6g 
 
6月3日 【庄内一分銀】
庄内一分銀と呼ばれるものをその昔は良く見かけましたが最近はとんと見かけなくなってきました。贋作もあるようだし、判らないことだらけなので私はこの一分銀は市場から否定されたものだと勝手に思い込んでいましたが、よく見ると貨幣カタログにも掲載されています。それでもこの庄内一分銀は謎多き存在なのです。
ウィキペディアにはこうあります・・・表面に「庄」の極印が打たれたものが存在し、慶應4年5月20日(1868年)から6月15日までの期間に鶴岡藩(庄内藩)において、
良質の天保一分銀を他領から流入する銀質の劣る安政一分銀と区別し増歩通用させるために、鶴岡および酒田において極印を打ったものとされ、庄内一分銀(しょうないいちぶぎん)と呼ばれる。打印数は酒田において30万両(推定)、鶴岡において13万両とされ、裏面の桜花額縁の右下側にY極印(三つ柏小極印)を打ったものが酒田製、左下側のものが鶴岡製と推定されているが資料による裏付けはなされていない。・・・という説明があります。私は庄内一分銀はせいぜい両替商の刻印程度に思っていましたので、これらが真実とすれば驚くべきことなのです。
(資料による裏付けがないと書かれている割にはずいぶんと詳しい日付や数量が出ていて不思議です。)
1974年のボナンザ1月号には「庄内一分銀の逆桜考:清水恒吉」という記事が寄稿されています。記事の冒頭で「1960年代に銀座の某氏が大量の贋作庄内一分銀を造った話」にふれています。銀座の贋作者と言えば和菓子金型製造のT氏ぐらいしか私は思い浮かばないのですが、要はこれらの贋作によって庄内一分銀に対する信用性が凋落してしまったということでしょうか。
ところで、この寄稿文の中で昭和48年に酒田市内から庄内一分銀の20両包みが10個(一分銀800枚)も出た話が明かされています。その中の9個の包み720枚を筆者は調べたということなのです。開封された包み紙が明治7~8年銘であったことや表書きの人物の生没年からこれらは明治7年~30年の間に包まれたものと推定する・・・云々なのですけど・・・いくつか疑問点があります。
庄内藩は明治維新の戊辰戦争の際、バリバリの佐幕派であり、会津藩の降伏以降も政府にはむかい、自藩の屈服後も官軍の侵入を徹底的に拒んだほどの藩であり、明治維新の少し後にどうにか藩主は許されて領内に戻れたとはいえ庄内藩という名前は消滅しています。そんな忙しい藩が幕府発行の一分銀の信用保証を行ったとは考えがたいことがひとつ。(通常は真贋鑑定をして包むのは、両替商などが行うものです。)
そして、丁銀のような地金通貨ではなく(紙幣と同じように額面金額で通用させる)信用通貨であった天保一分銀と安政一分銀の間に価値差をつけても藩にも領民にも何もメリットがない気がするのもひとつ。贋作一分銀と区別するためなら安政一分銀にも識別刻印が打たれても良いと思うのです。
また、包まれたのが明治7年~30年の間だとすると、もうすでに明治の幣制に入っているはずであり、一分銀の一般の通用は禁止されていますので、廃貨の運命の一分銀をこの時期に蓄財するのは少々理解に苦しみます。
さらに包みの中身が庄内一分銀ばかりだったということもできすぎで不自然な気がするのです。(清水氏は包みが開かれた後の通報で調査に訪れていますので、この間に作為が入った可能性が・・・)
なお、ウィキペディアにによるとY字小極印は三つ柏だとのことですけど、庄内藩の家紋は丸に方喰だと思いますのでこれは勘違いなのかもしれません。
以上、考えれば考えるほど庄内一分銀は謎が多く、それにまつわる話はほぼ推察であり明白な根拠記録がないものなので、あるいは贋作者が流した作り話なのかもしれません。と、言うのもこの増歩通用の話は新寛永の下田管内通用の話にも似通っていて、非常にきな臭く感じるのです。
とはいえ、庄内一分銀は、地元で多く発見されているようですし、地元の研究家の意見もあるようですからあながちすべてが否定されるものでは無いかもしれません。発見は明治期までさかのぼるようですので、伝承内容の真贋はともかく、何らかの歴史的な産物という可能性は十分にあるわけです。明治維新から150年近くが経過しており、明治を知る日本人もほぼいなくなってしまいました。今以上の事実はなかなか出てこないと思いますが、これらの謎をどなたか明らかにして頂きたいものです。
→ 2014年10月22日の制作日記に関連記事があります。
→ コインの散歩道へのリンク 
 
6月2日 【贋作の売り方】
贋金は作るより使う方が難しい・・・などという話を聞きます。その昔、密造天保銭の行使がばれ、取り調べの護送の隙をついて川に飛び込んで自殺した男の話が東北の地に伝わっています。しかし、それは現行通貨として行使する場合のお話。贋作がいくら儲かると言っても大量につくってばらまけば人目についてばれる確率も当然高くなります。
小田部市郎という空想銭を夜店で販売していた男がいました。彼は本物に似せた贋作絵銭を少しは作りましたが、それより自分で考案した空想銭を売ることに熱心な男でした。したがって彼は自分のことを贋作者だとはつゆほども考えていなかったようです。自分はお客に夢を売っているだけだと・・・。しかし、彼は自分の作品をもっともらしく販売するため、ニセ情報を流していました。そのため世間は彼のことを贋作者として認定しています。小田部が贋作作家として古銭の世界に流した害毒などたいしたことはないのですが、結果として天下に名前を晒すことになったのはその
嘘にまみれた販売手法にあったと私は思います。彼が露店で販売したものはおもちゃのような品ですけど、とにかく数が多く、口上も上手だったのだと思います。
ずるがしこい贋作者は数はそれほどたくさん作りません。たくさん作れば作るほど足がつく確率は高くなりますし、珍品として高く売れなくなるからです。それに贋作者は小田部とは異なり、嘘をつかないよう考えて言葉を選びながら販売を行います。
たとえば贋作者は
「これは本物です。」とはけっして言いません。それでは相手に対して嘘をいう事になるからです。多くの贋作者は「これは少し珍しいものですよ。」などと言うのが常套手段です。屁理屈のようですけどそれなら嘘ではありませんから・・・。あとは買う方が勝手に本物と信じてお金を払うだけなんです。つまり、販売上手は、客が自滅するのを待っているだけなのです。ネットも同じですね。
加賀千代太郎は、贋作を
参考品とペアで販売することが多かったと聞きます。実は両方とも贋作なのですけど、購入する側は参考品と言われなかったものは素晴らしいもの=本物と勝手に思い込んでしまうそうなんです。この手法は佐野英山もときどき行っていたらしいとのことですから、この二人の間で何か接点があったのかもしれません。
佐野英山は珍品を入手すると、それをもとに精巧なコピーを作っていたと噂されます。彼には銭幣館田中啓文や天顕堂大川鉄雄など泉界・財界の大物購入者が何人もついていましたのでそれで複数の顧客のご機嫌を取れるわけです。それでも彼の場合は間違いのない本物もときどき納品していたので田中啓文などに「憎めない存在」と言わしめたようです。(田中啓文も佐野の行状に気づいていた節があります。)
贋作を本物として演出するために先にニセ情報を流すのも良くある手法。いわゆる自作自演というやつですね。刻印銭は贋造が容易なので本当に注意が必要です。(私のHPでも、未だに公表できないものもあります。)
発見経緯が明らかになっている古銭は比較的安心できるが、明らかでないものは怪しい・・・という話を聞いたことがあります。古銭家も人の子ですから望外なものを掘り出したときは大騒ぎして泉譜に載せたり、周囲に自慢するのです。泉譜を何度も飾るようなものは安心で、どこからともなく湧き出してくる珍品は怪しいというわけ。しかし、これを逆手にとって掘り出し話を仕掛けてくる強者もいるようです。

なお、理性のある古銭家は、贋作を目にしても「これはだめです。」とは簡単に言わないそうです。
下手な論評は相手の怒りを買ったり、また、それを販売した業者の信用を傷つけてしまうから・・・もしくは自分が過去に扱ったことがあるからなのです。古銭も高額な売買話が絡むと下手な口はきけない・・・これが今の業界。しかし、その体質がこの世界の信用失墜と衰退を招いたのも事実ではないでしょうか。
昔の大家の文久童など、気に入らない品を見せられると放り投げる・・・機嫌が悪いと庭に放り捨てたそうで・・・こりゃまた激しいけど気概がありましたね。私も自己防衛のためマイナスの情報発信は極力抑えていますし、HPに書きすぎると心配して忠告をくださる方もいらっしゃいます・・・が・・・
本当はダメなものはダメと自信を持って言えるようにもっと強くなりたいと思うのです。大様の耳はロバの耳という童話がありますが、一見してやりたい放題やっているように見える今の私も不完全燃焼の状況です。 
 
6月1日 【コレクションの行方】
関西の大御所の不知庵平泉為造氏が亡くなられ、コレクションが市場に出てきているらしい。私とは接点のない方でしたが、どこかで聞いたことがあるとボナンザ誌をパラパラめくったら、偶然氏のプロフィールが掲載されていました。(ボナンザ第9巻7月号)
昭和3年大阪生まれで、呑泉こと安達岸生氏が指導の師。穴銭が収集のメインで、祖父の平泉国香堂のコレクションを引き継いだそうです。まず泉家であるより人間でありたいと思う・・・と書いているように人情味あふれた方だったのではないでしょうか?ボナンザに書かれた談話は、編集者による多少の脚色はあると思うもののなかなか良いお話です。(合掌)
ところで某掲示板にもこの情報は流れていました。贋作者N情報の書き込みなど、この業界について相当詳しい方もいらっしゃるようです。手法や方向性の違いはありますが、古銭が好きであるということは変わらないので、種々の批判を含めて参考にさせて頂いています。
最近は古銭業界を支えている方々の高齢化が進み、収集生活の終活に向かわれている方も目立つようになりました。近年の私のHPの充実(?)もそういった方々から購入した品物が増えた結果なのです。もともと私のHPづくりは終活への第一歩のつもりだったのでしたが、意に反して(?)さらに燃え上がってしまいました。(その結果、預貯金が減り、目が悪くなり、運動不足で体重が増えました。)
私はずっとひとりでこの世界を楽しんでいるアウトロー的な存在でしたが、さすがに一人よがりの情報だけではお手上げでした。情報は生き物ですし、宝物なんですね。最近は趣味の世界は情報をくれる方がいるからこそ楽しいと思えるようになりました。結局、ひとりではだめなんですよね。それはこのHPをご覧頂いている方も同じだと思います。 
 
5月31日 【文久のサイズ】
唐松堂さんから文久永宝遊泉記70巻が届きました。今回のテーマは楷書のサイズ調べだそうで、坂井氏が1420枚(楷書515枚、楷書広穿905枚)、唐松堂氏が約5700枚(楷書約2500枚、楷書広穿約3200枚)・・・合計約7100枚の計測結果、楷書は27.00㎜が3枚、楷書広穿は27.00㎜5枚、27.10㎜5枚、27.20㎜1枚、27.60㎜(別格!)1枚が見つかったそうです。
楷書類は大ぶり銭が非常に少ないようで、27㎜以上が出現する確率は楷書で0.10%、楷書広穿でも0.29%、楷書類全体でも0.21%しかないことになります。
左の表は唐松堂氏が作成した大ぶり銭の基準です。これによると楷書は26.8㎜で最大径ですから、27.0㎜はかなり希少なのでしょう。私所有の唯一の大ぶり銭が細字狭頭久の27.65㎜です。
文久の楷書は製作が良いのでもっと大きいイメージがあったんですけど意外に小さい方だったのですね・・・先入観は当てにならないという事です。
まあ、あまりにやっきになると焼け銭をつかむことになるので、状態を観察しながらコツコツ調べるのが良いでしょう。
それにしても、これらを計測した坂井氏、唐松堂氏には本当に頭が下がります。 
 
5月30日 【天保仙人秘談7:明和期大型銭の真実】
新寛永通寶カタログの明和期短尾寛の項に大型銭というものがあり、「一工程上の母銭(錫母?)より試験的に鋳たと推定する」とあります。直径は29㎜といいますから母銭クラスの大型銭です。俯永の項にも説明記載がありますので、これを一類とされている方もいると思います。何を隠そう私も明和期短尾寛の項に現物を載せています。ただし、勘の良い方はお分かりだと思いますが、「かなり怪しい」の記述通り、これは入手直後から疑念視していました。その理由は全体が紫がかった銅色になっており、火を被ったものだと思えたからです。
その真実を天保仙人様から最近教えて頂きました。仙人様はこの作者から直接製作過程を聞いていたそうなのです。しかも、その話の主がまた城南大井の先生だったそうです。

『昔200枚以上の寛永の四文銭に、火を当てて見たら、焼け太りが数枚出来た。母銭より大きい通用銭が出た!と話したら高額で売れた。皆が騒いでいるので詳細を発表したら(旧貨幣誌に記載有り)更に騒いでいる。中には、「そんな事(変造)は無い、あれは珍品である」と言う人まで居たが、全部私が作った物だ』と言う話でした。
大井の先生はなかなか茶目っ気があるのか、それとも肝が据わっていたのか、こんな話を悪びれずに漏らしていたようです。

また、仙人様が若かりし頃のこと・・・
極印の打たれていない、丁銀と豆板銀を買わないか、と誘われた事があるそうです。『珍しい物だ!』と、風呂敷から取り出された物は本当に良く出来ていて、真正品に思えたので、『買おうかな!』と考えていたそうですけど、周囲の先輩達が『買うな!』と言う、無言の合図をしてくれたので、『良い物を見せて頂きありがとうございます。今日は持ち合わせ無いので!』と言って切り抜けたそうです。

大井の先生、かなり大胆ですね。おそらく古泉界では当たり前の騙される方が悪い・・・という考えの方なのかもしれません。
最近、新聞にFIFAの役員が追放処分を受けたと大きく報道されています。古銭の世界も贋作はつきもので売買において鑑定の誤りや贋作絡みの販売で物議を醸すことはよくあると思うのです。それに昔の古泉家を調べても、みんな脛に一つや二つの傷があるから驚きです。それは売買という商いが間に介在しているからで、売主は高く売りたいし、買う側は少しでも安く買いたい。そこに生活が懸かっているからなおさらなんですね。けれども・・・少なくとも贋作の作者やブローカー(仕掛け人)が大手を振って業界内に存在してはいけないと思います。だまし、だまされが当たり前の業界なんて他の世界では考えられないほど堕落していると思えませんか?言わぬが花・沈黙は金かもしれませんが・・・コンプライアンスが問われる現代だからこそ自浄努力がもっと必要ではないでしょうか? 
 
5月29日 【銭箱】
雑銭買いをしている方は銭箱もいくつかお持ちだと思います。画像の銭箱はネットに出ていましたがなかなか美しいと思いましたので保存させて頂きました。私の実家は江戸末期頃から続く商家(酒屋)を引き継いだものであったため、いくつか銭箱も残されていたのですけど、虫食いだらけ・錆だらけだったので小さなものを除いてみんな処分してしまったようです。祖母に聞くと漏斗状の入り口の付いた大きなものがあったり、造り酒屋だった母方の実家にも中身入りであったそうで、蔵の解体のとき、箱は廃棄され中身は工事人夫がみんな持って行ってしまったとか・・・もったいない。主家は東京湾の海運を手掛けていて、五大力船という商船で物流を行っていました。私の祖父が番頭で、醸造や酒販部門を統括していたそうです。主家は華族で、明治時代のレンガ建ての洋館がまだ残されています。銭箱の小さなものは私が蔵で発見しましたが、金具がボロボロに錆びて蝶番も折れかけている代物なんですけど、気に入って磨いて小物入れにしていました。古民具の銭箱を集め始めたらいよいよ病気も末期症状かもしれません。雑銭箱として使用するのでしょうけど、これを置くための部屋を造り、ちょい悪親父を気取って秘密基地で一杯・・・なんてね。
知人で古民家に凝っている方がおりまして、離れを建ててインターネットオークションで土蔵の扉を購入したりしていて、作務衣を着てそこで過ごすのが楽しみだとか・・・さすがにお金がかかるのでそれ以上のことはないのですけど、ちょっとうらやましく思うこともあります。
※驚いたことにこの銭箱は天保仙人様が昔保有していたものらしいとのこと。世間は狭いものです。 
 
5月28日 【天下手祥符通寶工寶刔輪】
少し前にネットで収集した画像です。
天下手祥符通寶と言えば、背に逆さまに天下の文字が鋳込まれたものが有名です。あまりの珍品ぶりに私は拓本以外はちら見したことすらありません。天下手祥符通寶そのものがなかなか希少なことから逆天下の祥符通寶をじっくり見たことがある方は限られていると思います。
この銭は素性がほとんど判っていない鐚銭で、面や背に十字や星の記号があり、隠れキリシタンとの関係が疑われたり、日原鍾乳洞から大量に見つかったという噂があって、日原銭とも言われたり・・・しかしどれも噂以上のものではありません。とくに日原銭の話はかなり眉唾話のような気がします。見ての通りまるで島銭のような風貌。文字というものをあまり理解していないような削字変態ぶりです。骨唐国という有名な鐚銭がありますが、この風貌はまさに骨・・・。書体全体が骨のような雰囲気です。
私は祥符通寶背一をかつて1枚だけ入手していましたが、それも手放してしまって久しい。手放してからというもの、あらためてこの鐚銭が少ないものであったことを感じます。とはいえ、2㎝ほどの薄小の粗銭です。鐚銭ファンは根強いとはいえ、これを熱狂的に集めている方はなかなか貴重な存在だと思います。
やはり、出自・・・とくに鋳造地域が今一つはっきりしていないことが、地元ものを集めるというテーマを造り出さないため、今一つ人気が出てこない理由かもしれません。このやや白みがかった銅色から見て私的には九州ものである・・・という印象なんですけど不勉強なのでその他の説があるのかも知りません。
※永楽通寶が全国的に広まると東国で銭と云えば(寛永通宝以前は)永楽通寶を意味するようになったなど、東国では永楽通寶の価値が他の鐚銭の数倍の価値を持つようになりました。したがって東国でこの祥符通寶をつくる意味はあまりないのです。東国の永楽文化に比べ関西以南ではそれほど熱狂するほどでもなかったと聞きます。私が九州でこれが生まれたのではと感じるのはそんなこと+これがキリスト教文化を伝えている可能性があると感じることも原因です。祥符という名前も吉祥の符合=なんとなく十字架を連想させます・・・こじつけですけど。
この銭が天草四郎とかキリシタン大名大友宗麟あたりの鐚銭という証明がされたら面白いのですけどね。 
 
5月27日 【大島延泉氏のこと】
悩みましたがいつかは公表しなければならないことなので記事として残すことにしました。ただし、一部を伏せ字にしてあります。記事内容に誤りがあるかもしれないからなのですけど、大筋は以下の通りだと思います。伏字にしてありますが少し調べればすぐにわかると思います。

号は
延泉、本名を大島延之と言います。明治37年(1904年)に東京神田に生まれて、その後に大森方面に引っ越したようです。職を転々としたようですけど最終的に金匠(飾り職人)になったようです。加賀千代太郎との仕事上の接点があり、その下請け的な仕事も行っていたと思われます。(平成16年貨幣48巻6号)
銭幣館4号にある城南の大井の贋作者(南製の贋作者)とは氏のことらしく、田中啓文も早くから彼の贋造に気づいていたと思われます。近代銭から穴銭まで幅広く贋造していましたが、とくに丁銀や打製銀永楽、逆打ち南鐐銀など銀製品に作品が多くみられます。また、銅穴銭にも秀逸な作品があり、当時のやすりなどを再現して使用しているのでかなりの収集家が騙されています。
穴銭作品で有名なのは水戸虎銭や水戸の背ト母銭など。いずれも金色の美しい未使用肌が特徴ですけど表面に砂磨きがほとんどなく、輪や地肌にも同じような未使用肌が残ります。(水戸銭以外もあると思います。)
本物(銅母・錫母)から写しているので、書体による見分けは難しく、これらの品は今や鑑定書付で堂々と流通してしまっていることもあるようでして・・・。したがって
体に鋳肌が残る未使用金色の水戸銭系の品には手を出すな・・・が先輩方の教えです。
ところでこの鋳肌、伝加賀千代作の大錯笵天保の作風にとてもよく似ている気がします。大錯笵天保は加賀千代贋作の中の最高傑作ですけど、加賀千代は品物によって顔が全く異なります。加賀千代と
大島との関係から大錯笵天保はあるいは大島の作品もしくは、大島がその技術を引き継いでいるのではないかと思う次第。これは全くの想像にすぎないのですけど・・・案外ズバリのような気もします。
大島氏の偉業は、寛永通寶の新種、俯永面背刔輪を発表したこと。しかし、氏の所業を知る多くの方々はこの発見さえも疑問視してしまっています。
そこで
大島氏は日本貨幣協会に自分のコレクションを分類標準用に昭和41年に寄贈しています。これがのちに寛永通寶弐百撰として平成9年に発刊されています。寄贈に当たって氏は1枚1枚に所蔵刻印を打っていたそうで、この手法は今ではほぼ行われなくなったこと。
戦後は千葉県千葉市誉田に移住し、区画整理運動の中心的人物になっています。平成7年(1995年)没。
※昭和7年に発表した銀打印寛永・・・あれは大丈夫なのかしら?(2013年9月制作日記)
※昭和10年頃に2万枚もの加護山銭を発見したという報告もあります。(2014年5月制作日記)
 
5月26日 【鋳ざらい痕跡のある安南寛永】
これも投稿画像になります。(ありがとうございます。)
風貌から見て元隆手の類だと思うのですけどいづみ会の過去記事(収集誌)に完全に符合する物はないと思います。一番近いのが容弱跳永様とされるものながらこちらの方が広穿で書体の崩れも著しい気がします。この類は陰起文になるのも特徴だとか。文字の変形ぶりもさることながら、地の部分に走る刀跡のような鋳ざらい痕跡が目を引きます。
こんなに薄っぺらい安南寛永で鋳ざらいなんて果たしてあるの・・・と、思うのですけど、実際に痕跡があるから不思議なのです。安南寛永は本当に変化があって興味が尽きないですね。まだまだ知らない品があると思うのです。
 
 
5月25日 【謎の古銭再び】
2014年3月の投稿記事にあった謎の通貨の仲間がオークションネットに出ています。どうやらタイのお金もしくはトークン(代用貨)のようなものか?やはり銀興通寶もしくは振興通寶と読むものだと思います。材質は錫か鉛でしょう。
かなり珍しいと思うのですけど、人気はどうでしょうか?
6月7日のオークションには行きたいと思っていたのですけど、当日は仕事がすでに先約で入っており、休むことはどう頑張っても不可能な状況です。
今回は欲しいものがいくつかあるのですけど、人気が出そうなので郵便入札じゃまず勝てないと思います。それでもあがくかな?でもいまひとつ力が入らないなあ。
 
5月24日 【会津天保?進口保について】
画像上は大和文庫さん(入札誌銀座にもかつて出ていた気がします。)に出ていた品だったと思います。また、画像下は2010年の銀座コインオークション誌に掲載されていたものです。
称:会津藩試鋳天保類は諸説いろいろあり、いまだに謎多き天保銭だと思います。これらは会津若松の森家から出現したことで会津藩鋳とされた経緯があります。(森尚文堂は古銭収集家で知られていた家柄です。)
その一方で、これらはオークションに出てくるたびに不遇にも審議品や要下見品、返品不可とされていますから・・・そうやって斜めから見ればなんとなく胡散臭い気もしてしまいます。なにせ、会津と言えば大収集家にして贋作者としても名高い「福西常次」が活躍した地ですから、その風評を引きずってしまうのは、私だけではないと思います。
ここに掲示した2品もそれぞれの風貌があまりにも異なります。上は近代的なかっちりとした作風に対し、下は細字ながら押し湯が弱々しい密鋳銭的なつくり・・・微妙に書体も違うような・・・。
目下のところ発見地以外に会津と結びつける資料はありません。それに会津藩銭は短貝寶などの銭が知られていますが、余りの作風の違うこれらの品々が系統の異なる出身ではないかとされるのも当然のこと。あの小川青寶樓師もこれらは会津藩以外であろうとされていたばかりでなく、やはり疑念を持たれてもいたとも聞いています。
ところが・・・
今月号の貨幣誌には会津藩銭の研究家で知られる鈴木正敏氏が、会津の旧家から出現したという進口保細郭の彫母銭(の拓本)を紹介しています。
また、泉界情報として、この通用銭が名古屋の地や会津の地からも相次いで発見されているらしいということを聞くにおよび、会津試鋳貨幣が再びニュートラルな位置に戻ったと感じています。
貨幣誌に載っている彫母銭の拓本は印刷サイズながらちょっと小さい気もします。(おおよそ49㎜ほど。)その点を含みまだまだ私には謎多き品であると言えましょう。

※上段は広郭で赤い銅質、砂目をあまり感じないつくり。砥ぎが強く文字も太い。かたや湯口の枝が2本に見える鋳放し銭。まるで反玉寶のような粗い砂目の風貌です。両者は対象的でかつ会津藩銭とされる短貝寶類とも異なります。
 
5月23日 【座寛・ZAKAN・目寛】
最近、相次いで目寛母銭らしき画像を頂戴しました。(ありがとうございます。)
画像での判断が難しいのは、大きさや厚みがわからないこと。この2品、改造母銭であるのはすぐに判りますが果たして目寛の母と言い切れるかはちょっと自信がない。まあ、鉄銭の母であろうことは郭の仕上げからは判りますので、大差はないと思いますけど。
ところでご投稿いただいたもう御一方のKさん・・・座寛の書体が大好きだそうです。たしかに寛の字がつぶれたように配置されるこの書体は独特で、大きさも可憐。あまりにも小さく貧相なので好き嫌いは分かれるとは思いますが、書体の奇抜さは新寛永銭中でも1、2を争うのではないでしょうか?少なくとも源氏名のような名称がこれほどはまっている物はあまりなく、ネーミングでは千木永と双璧をなすものだと思います。
目寛の読み方ですけど、古くはMEKANが正しかったようですけど、最近はMOKUKANと読まれる方もいて私も良く判りません。新寛永通寶図会でMOKUKANとしている影響が大きいようです。見寛は古くはMIKANだったようですけど、最近はKENKANが主流みたいです。ちなみにわたしはMIKAN/MEKANで覚えました。
ところで・・・Kさんから私の所有する座寛の交換・割譲を渇望されております。残念ながら私は大量コレクターではありません。と、いうより撰銭したあとの雑銭の山がまったく未整理のままなのです。欲しかったら無償で差し上げても良いのですけど、今は再整理する時間がとれません。雑銭の山は何十キロかはありますので探せば10枚ぐらいは出てくるとは思いますけど・・・だから、その話はSTOPしておいてください。 
 
5月22日 【明暦期浅草銭正足寶内跳寛大様銭】
四国のK氏からの投稿画像です。書体は明暦期浅草銭の正足寶内跳寛。非常にありふれたものながら大きさが26.15~26.2㎜もあるそうです。さすがにでかい、立派。大型母銭といいますか手本銭のようです。
ところでこの銭の名称・・・ちょっと問題です。と、いうのも「沓谷銭」という名称が独り歩きしてしまいどうにも変えようがないぐらい定着しています。古寛永の場合鋳造地と実際の地名がリンクしないことがあり、これはその典型例だと思います。実際の鋳造地は推定で浅草鳥越の地であると思われますので、私はこれを明暦期浅草銭とするべきだと思うのですけど、古寛永泉志による喧伝力は絶大なのです。版権者はもうこの世に存在しないので、どなたかこれの改訂版をズバッと出版して頂けないでしょうかね?
古銭人気を下支えするためには良い泉譜が不可欠なんですけど、この版権も問題なのです。ちなみに正足寶と言う分類名もいまひとつ判りづらく、俯頭辵とした方が特徴を良く表していると思うのですけど・・・。 
 
5月21日 【天保通寶本座枝銭の古写真】
説明に「林留平所蔵」と「天保銭鋳揚ノ儘ノモノ」とあります。この画像はコピーとして天保仙人様から頂戴していたもので、原本は確か他の資料(大日本貨幣史?ボナンザ?)だったと思いますが、この写真のみが唯一本座の枝銭を示す証拠写真であると聞いています。
天保銭座の儀式・・・おそらく神棚等に祀られていたものだと思います。
同じような図柄は鋳銭絵図などで見ることもできますが、中央の鋳竿に対し、天保通寶は斜めに置かれています。縦入れ仕込み(鋳型を逆さまに立てて鋳造する方法)の天保銭ではこの配置が最も失敗の少ない鋳造方法であったと考えられます。一方で「金座銭座図」ではこの中央の鋳竿に対し、銭の長径が直角に交わるように置かれた図をあちこちで見ることができます。金座銭座図は模写の模写なので必ずしも詳細まで符合している物とも言えないかもしれませんが、銭を斜めに置いた図も混じってあるので、単純に記録を誤ったものとものとは考えがたい一面があります。(鋳銭絵図は天保6年の創業頃の鋳銭場の様子を鋳銭工が書き残した絵図をさらに模写したもの。)
ところで天保通寶の薩摩銭などには茣蓙目と呼ばれる皺のようなものが観察できるものがあります。
砂笵の表面をならしたあと、乾燥を防ぐためムシロを被せて重ねた跡だ・・・というのが旧説(名前の由来)です。しかし、鋳銭絵図には敷物としての茣蓙・ムシロは出てきますけど、砂笵を重ね置いた道具としての茣蓙・ムシロは出てきません。砂笵の面を均一にならす際には鏡や定規、シコロ(鎧の直垂の一部のような道具)などを使うのですけど、その際についた痕跡であるというのが今の私の考え。
昔は熔解した銅の温度が低い場合にできる縦入れ仕込みの際の鋳皺でないかと考えていたときもありました・・・が、その場合、面背に鋳皺ができるはずなのですが・・・茣蓙目はほぼ背側に限られて観察できることから、やはりこれは砂笵に直接ついた何らかの痕跡でないかと思うようになりました。
ちなみに、鉛銭になりますが地方銭の細倉當百も縦入れ鋳込みで、この場合は鋳皺が地層をなすように面背に現れています。これはまた真贋判定の一大ポイントにもなってますのでご参考までに。
なお、この枝銭の根元の太さは枝銭の実態を実によく表しています。ボナンザ誌などにも紹介されていますが、銭を鋳造する場合の注ぎ口はこのように漏斗状に大きい。そして必ずといって良いほど根元は空洞になっているそうです。これは鋳造に際して、溶かした銅を注ぎ入れやすくするとともに、適度な圧力をかける意図があったそうです。また、根元が空洞になるのは、この部分の肉厚があるため溶解した銅がなかなか固まらず、湯返しという坩堝に余った銅を戻す作業を行うためだとボナンザ誌にはありますが・・・天保銭の鋳型は大きくて重く、小さな坩堝に戻したところですぐに固まってしまい当時の技術では使い物にならない上、だからといってがんがん熱した坩堝に戻すのは危険極まりないため・・・そんな作業は存在しない気がしています。そのような作業をしなくても湯の圧力と銅の収縮で自然に漏斗部分は空洞化してゆきます。当時の砂笵は適度な隙間がありましたので、空気抜きをしなくても良いという利点があったと思います。(現代の鋳型は気密性が高いため空気穴が必要な場合があります。)したがって湯返しという作業は近代の鋳物の作業工程なのではないでしょうか?
湯返しという用語はこのボナンザ誌での説明ぐらいでしか聞いたことのない専門用語なのです。ちなみに・・・このボナンザ誌に書かれている丁銀の鋳造方法がとんでもなくインチキで、すべて空想上のでたらめ工程であることは既に明らかになっています。間違っているにしても何でここまででたらめなことが書けるのか・・・当然ながら当時の一流古銭家から取材して書いた記事だと思うのですけど・・・妄想記事としか言えない内容です。信じていただけにでたらめだとわかったときはショックでした。
以来、古銭書に書いてある話についても、話半分ぐらいの気持ちで読めるようになりました。私のHPもそのつもりで軽~くお読みください。 
 
5月20日 【縮形の天保】
長郭手覆輪肥字縮形
長径47.5㎜ 短径31.5㎜ 
銭文径40.6㎜ 重量20.0g
大和文庫では反玉勇字小様(異極印)という名称出品されていましたが、肝心の寶が鋳乱れて反玉寶については確認不能です。所見から反玉の手ではなく、また異極印銭でもなく単に極印が逆打ちされているだけの不知銭でした。これで小様でなかったらさんざんでしたが、47.5㎜のサイズに免じて収集品の中にに納まりました。銭文径がかなり中途半端なので、おそらく覆輪されての1回写しじゃないかと思います。仔細に見るとわずかに寶足が長くなりかけているのですけど・・・張足寶ではありません。面輪にくらべて背輪のいびつさが妙に目立ちます。見どころとしては背の景色の方が可愛いやつです。少し前に書きましたが、長径48㎜を切ると不知天保通寶としてはかなり小さい方で、私はこれでようやく4枚目です。皆様もどうぞお探しください。なかなか手に入らないサイズなのです。
 
北秋田寛永通寶研究会資料より
5月19日 【寶が雫足の安政期離用通】
入院中と聞いていた北秋田寛永通寶研究会の菅原氏から郵便が届きました。まずは退院おめでとうございます。そして冒頭に、・・・入院前にある方から研究に集めてきたものを一括で譲り受けた由とその原稿を入院中にも書いていたとの旨・・・頭が下がります。
さて、その今回送られてきた資料に掲載されていたものに安政期の4文銭類がありました。(転載お許しください。)実は新寛永を懸命に集めている私でさえ、安政期の4文銭は小字以外にはほとんど出会ってすらいません。私としては安政期背刔輪一直波だけで良いので入手したいのですけど、それすら見たこともないのです。こんなHPを造っていて恥ずかしい限りです。
安政期の俯永はとりあえず過去に2回出会い入手していますが、実はそれすら自信がない。安政期俯永の特徴は輪のロクロ仕上げと穿内のやすり仕上げぐらい。あとは銅質です。と、いうことは明和期や文政期をちょいと加工すればあっという間に安政期様ができてしまうわけです。すなわち銅質こそがカギを握るはずなのですけど、かつて見てきた妖しいもののほとんどが変造を疑えるような品物。そういえば現在の手持ちの俯永も実に怪しい気がしてきました。
そんな安政期銭の中でもトップクラスの珍銭がこの安政期離用通なのです。2006年の7月、私は内郭にやすり目のある離用通を古銭店の店頭で発見し、小躍りながら購入しました。しかし、結果は明和荷の改造銭でした。その憧れの安政離用通が4枚も紹介されています、そのうちの2枚には寶足に共通の特徴があります。あたかも寶足にしずくが宿ったような・・・いわば雫足の離用通です。しかもこの変種には先立つ発表がありまして、大島延泉氏の寛永通寶弐百撰に同じ形の品が掲載されているのです。
寛永通寶についてはかなり収集してきましたが、これら安政期銭に出会うのが目下の目標です。私もそれまでこの趣味はやめられそうにありません。また、上記と同じ変化のある四文銭(文政でも明和でも)お持ちの方はお知らせください。
 
5月18日 【江戸期の大災害と銭相場の関係】
日本通貨変遷図鑑には1744年(延享元年)を100とした、元禄期から明治期までの銭相場等の変遷がグラフ化されています。2014年4月7日の制作日記には金銀相場との比較のグラフでしたが、この表は銭そのものの時価の相対評価をグラフ化したようで、参考になります。
江戸時代の貨幣制度は本当に複雑で、金相場(大判相場・小判相場)・銀相場・銭相場(一文銅銭相場・四文銅銭相場・天保銭相場・鉄一文銭相場・鉄四文銭相場)とあり、小判・大判・丁銀などは時代ごとに換金比率が異なります。(細かく言うと文銭とそれより径の違う一文銭についても時代により交換率に差があったと思われます。)
江戸経済は、この規準年の1744年頃までは米相場によってすべての相場が大きく動いてしまう米本位制と言えるものだったと言え、誠に不安定なものだったことが、グラフからうかがい知れます。このグラフは銅銭相場と鉄銭相場については言及されてないものなので、若干の頭の整理が必要なのですけど、おおよその相場の流れは把握できます。
相場の動きに江戸期に起きた大きな変化を入れていきます。

できごと 年号 備考(銭相場)
元禄大地震(関東) 1703年 死者 5000人以上
1705年 銭相場125%
宝永大地震(東海~四国) 1707年 死者 2800人
富士山噴火 1707年 銭相場125%(噴火前高値) 
宝永小判の吹替  1710年 銭相場 50%(大暴落) 
正徳~享保の改鋳   1715年 銭相場 80%(持ち直し) 
1719年 銭相場 65%(暴落) 
1720年 銭相場125%(江戸大火) 
  1725年  銭相場100%(暴落)
享保の大飢饉  1732年 銭相場135%
元文の改鋳  1736年 銭相場 70%(大暴落:鉄銭の登場) 
越中・越後地震(新潟)  1751年 死者 1500人
4文銭の登場 1768年 銭相場130%(大暴騰) 
八重山大地震(沖縄)   1771年 死者12000人 
天明の大飢饉 1782~1787年 銭像場150~130%の間で乱高 
浅間山噴火(長野)   1783年 
島原大変(長崎・熊本)  1792年  死者15000人(火山崩壊による大津波 
天保の大飢饉  1833~1839年 銭像場150~170%の間で乱高下
善光寺地震(長野)  1847年  死者10000人 
黒船来航  1853年 銭像場150% 
安政大地震(東海)  1854年 死者 2500人 
安政大地震(南海)   1854年  死者 3000人 
安政大地震(関東)   1855年   死者11000人 
銭相場150→165%に急騰 
明治維新前後    銭相場160→400%に大暴騰

元禄年間、銭相場は不安定状態でした。元禄大地震で関東は大打撃を受けたはずなのですが、その割に銭相場はかなり高め。1705年にはこの時代の最高値125%まで高騰します。
記録では相模・小田原・熱海と千葉県では大きな被害が出たようですけど、江戸の被害は限定的であったようで、米の生産には影響がなかったのかもしれません。また、金銀の改鋳の影響も多分にあったと思います。ところが宝永年間頃の天変地異が生じたあとは一転、大暴落が起こります。125%の銭相場があっという間に50%に、銭の資産価値があっというまに5分の2に急落しています。(要するに物価が急騰したという事。)
被害が全国規模であったことに加え、富士山噴火の降灰で凶作になった・・・つまり米価格が急騰して、銭の価値が急落した結果だと思います。さらに、決済通貨不足に陥った幕府が急きょ粗悪な一文銭を大量に作ってこの急場をしのごうとしたことが、悪循環を生み出したとも考えられます。
この大混乱に対し、徳川吉宗と新井白石が貨幣の慶長復古を目指したことはつとに有名です。その結果、銭相場は一転して上昇を続け1720年頃には再び銭相場125%まで上昇します。しかし・・・江戸大火で物価は急騰しますのでその後は暴落。その後は再び反転し、1732年には最高値を付けるのですけど、そのさなかに大飢饉が勃発。しかし、今度は銭相場はあまり下がらない・・・いわゆるデフレスパイラルに入ってしまい泥沼化していたとも考えられます。
吉宗の政策は現代の教科書では賞賛しか聞かれませんが・・・実際はデフレを引き起こしため、経済そのものは停滞しています。1732年に享保の大飢饉が起こると、一転銭相場は急落、銭の価値は半減近くの暴落となりました。実はこの頃に吉宗は方針を一転しています。これはデフレからインフレへの転換を意味していますが、ちょうど鉄一文銭が世に出始めた頃(元文年間)であったための影響も多分にあると思います。一説によると吉宗は引き締め政策によって評判が落ちることを愁い、しめつけ政策を放棄したとも・・・。しかし、この方針転換は奏功したようで、そのあと銭相場は数年で回復し、年貢収入も安定、1760年代後半までは銭相場はほとんど100%前後で推移するようになります。つまり後世の吉宗の評価はこの元文期の成功にあるといっても過言ではないと思います。吉宗の時代の金融政策について調べたらさぞかし面白い事実が出てくる気がするのですけどね・・・。
次の転機は1768年頃。ちょうど4文銅銭が出現した頃で、銭相場は3割ほど高騰します。この頃は銅銭の海外流出が激しくなった時期でもあります。その後は天変地異にあわせて銭相場は乱高下しますが、以前ほどの激しさはなく、インフレ基調が続きます。これは江戸経済が一次産品中心の米経済から変化していること+銅の流出が加速化していることを物語っていると思われます。
こうしてみると日本は数々の自然災害に襲われていることが分かりますけど、そのたびに経済復興しているんですね。1700年代後半からは銭の乱高下は減っていますけど、さすjがに明治維新はものすごい影響があったようですね。
以上、ざっと書きましたが、私は歴史通でも経済学者でもありませんのでこの文書はあくまでも私個人の感想です。あしからず。 
 
5月17日 【山神社の刻印銭】
おそらく比較的新しい上棟刻印銭だと思います。刻印銭は簡単に作れますので、昔は上棟記念の銭としてあちこちで撒かれたのですけど、今は上棟式で撒銭すること自体が滅多になくなりましたね。これは出品者の説明が間違いなければ千葉県にある山神社(やまじんじゃ)の上棟銭か福銭。刻印の書体から見て比較的新しいものだと思います。山神社は山の神を祀る神社のようで、山岳信仰から来ている物だと思われますが詳細は判りません。やまじんじゃ・やまのかみしゃ・さんじんじゃ・・・などと呼ばれ、関東では千葉県・神奈川県に多くみられます。(東日本に多いようです。)
神社探訪狛犬見聞録というサイトを見つけました。興味がある方は検索してみて下さい。
右側の狛犬の画像はそのサイトから拝借したもの。たまたま近所にある神社に奉納されているアニメのような狛犬です。いつの時代のものか判りませんが、このデザインは素晴らしいですね!そこそこ時代もありそうで面白い。良く盗まれないものだと思います。これ、地域の名物として売り出したら絶対受けると思います!
 
5月16日 【盛岡銅山アラカルト】
先般、盛岡銅山に関する記事を掲載したところ、「たくさん見た方が良いでしょう。」と、画像を頂戴しました。(ありがとうございます。)
盛岡銅山についてはほとんど知識の持ち合わせがありません。瓜生有伸氏の著作「幕府諸藩天保銭の鑑定と分類」に一応の観点(シークレットマーク)の記述があり、鵜呑みにはできないと思いますが・・・頭に入れておいた方がよろしいかと思います。(記述できません。あしからず。)

左は初期銭と云われる
背異とされるもの。背の百の横引きの前に、輪から延びる鋳だまりが接します。これは母銭段階からこのようになっているものです。

右は
盛隔輪と云われる正様銭に見えますが、瓜生氏がシークレットマークとしている特徴がはっきりせず、非常にすっきりとした型抜けであり、画像ではあまり砂目を感じさせない地肌なのであるいは陶笵と云われるものかもしれませんが、私には判断ができないところ。どなたかこの素性を教えて下さい。

なお、
小様銭には輪の山第2画の曲がるところの下部に共通の凹みがあるそうで、5月1日に掲載した銅山銭にもそれらしきものが観察ができます。長径は47㎜を切るほど小さいものもあるようで、それでも昔は初鋳銭とされていたようですから、かなり肉厚なのかもしれません。 
 
5月15日 【江刺大頭通寶下決文】
この珍銭には2012年の11月以来の出会いです。
決文という言葉は何気なく使っていますが、本当の意味はよく判っていません。私的な理解は、輪側から内側に向かって、尖った模様が出ているもので、背郭の四角の角が尖っていると郭四決などということから、まあそんなところ・・・尖っている模様・・・ぐらいに考えています。(語源を教えて下さい。)
画像の品は実は先月号の収集の入札にひっそりと出ていたもの。大頭通の密鋳は非常に少なく、私は今まで5~6品にしか出会っていません。江刺の大頭通との出会いもまだ2枚目ですから、大頭通の密鋳銭に出会ったら、基本的には何が何でも買いなのです。(離用通はさらに買い!無我夢中です!)
ところで、大頭通の密鋳銭を掲示しているページで江刺大頭通は2品発表されていると書いてあるのですが、この寶下決文以外の発表記事を失念・紛失(?)してしまいました。どこか制作日記に記載があるのか、あるいは私の思い違いなのかもしれませんが、何らかの根拠があっての記述だと思うのです。

※資料をひっくり返して探し、ようやく穴銭カタログ日本にそれらしき拓影を発見しました。(右拓本)
名称は江刺大頭通写凹凸輪でした。評価はさらに少ないようです。
なお、江刺大頭通寶下決文の特徴については2012年11月18日の制作日記に掲載していますのでご参照下さい。 
 
5月14日 【安南との貿易と銅銭の流出】
1970年のボナンザ3月号によると日本人の南方進出は南北朝の末期から始まったと言われ、最盛期は豊臣・徳川氏の御朱印船貿易の頃で、海外に在住する日本人は1万人以上だったと推定されているそうです。日本人町もあちこちにできたそうで、安南(ベトナム)ではフェフォ(ホイアン)という町に80戸350人以上、ツーラン(ダナン)という町には4~50戸150人以上が、カンボジアのプノンペンとピニャールには80戸250~260人以上(最盛期には3~400人ほど)が住み、タイのアユタヤには1000~1500人(使用人等を入れると8000人規模とも云われる)が、フィリピンのルソン(マニラ)にはなんと3000人以上が住んでいたとの記録もあります。これらの日本人街は本国のキリスト教弾圧政策によって次々に生まれ、祖国との貿易によって発展したとも考えられますが、その後の日本の鎖国政策・キリスト教弾圧政策の強化(帰国者の処罰・国外移住の禁止)とともに衰退し、やがて中国人勢力の台頭によって経済的な力を失い、現地人との混血同化もあって消滅の憂き目にあっています。アユタヤの山田長政は教科書にも載っていますので皆さんご存知でしょうし、ベトナムのフェフォ(ホイアン)にはお札のデザインにも採用されている日本橋(来遠橋:1593年に日本人が造ったと伝承される橋。)という建造物(地名)も残っていて、町全体が世界文化遺産です。
ところで、最盛期頃の日本と安南の交易において、安南国の実権者の阮氏は、日本の貿易船に対して重税を課していました。その額はなんと一艘あたり銅銭4400貫・・・つまり銅銭では440万枚というとてつもない金額です。1文銭3.75gとして16トン半にもなります。果たして当時の日本船にそれだけの重量が安全に積めたか否かは定かではないものの、それだけの入港税を支払ってでも貿易は採算がとれたものということになります。実は日本からの貿易品は銅・銀・硫黄などの資源が主で、刀などの工芸品はむしろ少なかったようです。銀は地金としての銀が多かったようですけど、銅については大量の銭が流出していたようで、これについては鎖国政策が強化された江戸期においてもその流出はとまらなかったようです。
近年、インドネシアやベトナムから、当時輸出されていた日本の銅銭が数多く里帰りすることになりましたが、その多くがこれらの貿易によって流出したもの。里帰り品の中には長崎貿易銭などが多く含まれているのは当然ながら、思った以上に当時の現行銭の寛永銭も流出していたようです。 
 
5月13日 【大内氏の撰銭(禁止)令】

禁制
一 銭を撰ぶこと
 段銭の事は、わうご(往古)の例たる上はゑらぶべき事、勿論たりといえども、地下仁ゆうめん(宥免)の儀として、百文に永楽・宣徳の間廿文あてくわえて可収納也。
一 利銭並びに売買のこと
 上下大小をいとわず、永楽・宣徳においてはゑらぶべからず。さかい銭とこふ銭(なわ切れのこと)・うちちひらめ,この三色をばゑらぶべし。ただし、かくのごとく相定めらるるとて、永楽・宣徳ばかりを用うべからず。百文の内に、永楽・宣徳を卅文加えて使うべし。


2014年の3月に大内氏による撰銭令について記述しました。(我ながらなかなかアカデミックな内容です。)撰銭令は撰銭禁止令とも言われ、永楽や宣徳などを撰銭することを禁じたものですが、ご存知のように永楽や宣徳は非常に良質な銭であり、これらの銭がなぜ撰銭の対象になったのか不思議に思われた方も多いと思います。これについて昔は「永楽・宣徳が庶民に嫌われたから」という説明を良く聞きます。曰く、「永楽・宣徳はピカピカした新銭で、黒ずんだ宋の古銭になれた庶民からは敬遠された。」と・・・。事実、日本の貨幣収集の手引きにもその主旨の説明が書かれています。
しかしながら、庶民の感覚としては、光り輝く良質な明銭はむしろ宝物として好まれたことは容易に想像できます。それに、現代に伝わる寛永銭の緡の多くに良質な文銭類だけのものが多くあることから、撰銭によって質の良いお金を貯蓄退蔵し、普段は悪銭を主に使用する風習は昔からあったと思われます。
したがって、撰銭の禁制とは「悪いお金の除外を禁ずるもの」ではなく「撰銭して良いお金ばかりを抜き取るなよ」の意味合いが強いものとも感じます。
2014年の記述の際には、永楽銭等の良質な銭の大量流入によって、明銭の輸入手段を持たない大名が、その保有する宋銭(古銭)の相場暴落による混乱を避けるために旧貨との流通ルールを定めたものではないかと考えていました。
大内氏はその明銭輸入の主流的存在。その大内氏自身も、自ら保有していた宋銭(古銭)の相場暴落は避けたいところですから、あえて上記のようなルールを作ったとも考えられるわけです。いわば戦国時代の経済統制令。明銭はときとして経済力で侵略することも可能な武器でもあったわけで、一つ間違うと自国経済も混乱するほどの威力を秘めていたのです。
このことを記述した時は、あくまでも個人的な妄想であると断っていましたが、最近ネットで調べると私の妄想を補完するような記事(たとえばgooWikipedia記事検索)が見つかります。俺もなかなかやるな・・・と、ちょっと感動しました!(類似した発想は他の方も考えていたかもしれません。それを私がどこかで見たのかも?)

禁制
1.銭を選ぶこと
 納税においては、昔からの習わしで撰銭することは良くあることながら、一般への特別なはからいとして、銭100文につき、(精銭である)永楽・宣徳をおおよそ20文くらいを加えて納めなさい。(納めることができる・・・が本来の意味ですけど強要に近いものとしてとらえました。)
2.利息貸付ならびに銭を売買する行為
 質の良しあし・大きい・小さいを嫌わないことはもちろん、永楽・宣徳については選んではいけない。さかひ銭(鐚銭?)・(筑前・加治木)洪武銭(縄を切るぐらい薄い鐚)・打ち平めした銭の3種については選び除外して良い。ただし、そのように定められていても、永楽・宣徳ばかりを使用してはいけない。100文の内に永楽・宣徳を30文加えて使用すること。


※現代語訳については間違っていたらごめんなさい。 
 
5月12日 【大宝堂にて】
久々に千葉市の大宝堂に行きました。路地裏のこの店は中学1年生のときにはすでに通いはじめているのでかれこれもう40年来の知り合いになります。店の前に行くと小さな張り紙があり、昨年の8月に移転しましたとありました。そんなに行ってなかったのか・・・それにしては昨日、店の近くを通ったときにシャッターが開いていた気がします。
路地裏(左)から表通り(右)に移転
古銭店らしくない(?)近代的な店構えになった。
元のお店は新店舗の左脇の路地にあります。(徒歩15秒)
 
新店舗は元の路地から20メートルほど離れた大通りにありました。(綺麗になりすぎて気が付きませんでした。)さすがに新店舗らしくきちんと片付いていましたが、中に一歩はいると昔ながらの古銭屋の雰囲気です。もっともこの店には油絵や陶磁器、骨董もあるし、どちらかと言えば商売は囲碁将棋の道具がメインなのかもしれません。古い店舗は潰して駐車場にするとのこと。ただし、在庫の碁盤が旧店舗に相当あり、完全移転はそれらの在庫が売れた後とのことで、いったいいつになることやら・・・。お店のシャッターが開いていたのはそのためのようです。親父さんの年齢はどうみても80歳は超えていると思いますから、この年で新店舗にするとはと驚きました。失礼ながら跡継ぎがいるとも思えません。
囲碁7段、将棋は初段だそうですからまだまだかくしゃくとしています。私が将棋が趣味と知って目を輝かせていました。(もっとも私は将棋は本を読むだけで指せません。)何でも何百万もする将棋駒や囲碁盤もお持ちだそうで・・・ただし、いまだかつて売れたことはないそうですけど。こういったお店にお宝が埋もれているのかもしれません。このお店で私は古銭の色々な本を購入し、不知天保通寶の俯頭通もここで入手しています。今でも覚えていますが12000円でした。かつて明治3年の未使用の旧20円金貨を手に取って見せてくれたこともありましたし、奴銭を掘り出したお話も聞かせて頂きました。(銭カタビラをおばあさんが持ってきて、その中に奴銭が1枚あったのに気づいて・・・)
私の古銭収集のルーツともいうべきお店で、あと何年お店を続けられるかわかりませんが、最後までお付き合いしようと思います。
 
5月11日 【福岡離郭のこと】
天保通寶銭収集に再び目覚めた頃、天保仙人様が発表された天保通寶段位制度(2008年4月制作日記ほか参照)で私は萩曳尾10枚と福岡離郭10枚を集めることを目指すことになります。曳尾は変化が多いので、集める意義はなんとなく理解できましたが、変化の少なそうな離郭を10枚集める意義は何だろうかと思いました。
その頃、仙人様からはじめて購入した記念すべき天保銭第一号が、
①赤銅質の離郭でした。当時、藩鋳銭はあまり熱心に集めていなかったので、離郭濶縁はもちろん、離郭そのものもほとんど持っていなかったと思います。赤銅質の離郭のぬめぬめした肌をみて、「あ、こんな天保銭もあるんだ・・・。」と改めて思った次第。
②中郭・③広郭と集めてからなかなか次のターゲットが見つからない。どうせ集めるのなら何らかの変化があった方が楽しいのですけど、なかなか変化が見出せません。悪戦苦闘しながら大和文庫で④厚肉の27gもあるものを入手。八厘会の席で⑤爪百を、江戸コインオークションで⑥細郭を、入札で⑦濶縁もついに入手。(余談ながら細郭銭はその後に日本の貨幣収集の手引きに写真が掲載されました。)
観察をしているうちに離郭の郭幅が、穿の大きさだけでなく、郭の周囲の加刀であることが分かるようになり、収集の意義が理解できましたので少し楽しくなりました。
⑧離郭非離郭・・・という奇妙な名称を泉譜で見かけて探しましたが、はじめはよく判りませんでした。最終的には郭の周囲の加刀の無い、要は離郭肥郭というべきものであることも学びました。
長径50.19㎜ 短径33.06㎜
月刊天保銭・英泉譜掲載 銭文径もわずかに大きい?
広穿でもあります。

玉持ち桐極印を追い求めるうちに、銭文径が通常銭より縮小している・・・濶縁銭との中間体のものであるのを発見しました。これは泉譜にも書いてなかったことでしたね。とりあえず私はこれを濶縁手と仮称しています。(
⑨濶縁手玉持ち極印⑩濶縁手普通極印:2009年5月の制作日記参照)
かくして課題の10品をクリアしましたが、思えばなかなか大変な道のりでした。
⑪細縁⑫小点保など鋳造や仕上げの差の微細変化を加えればもう少し楽に集められたのかもしれません。離郭10品は何とかクリアできたのですけど、いまだに出会っていないものもあります。
⑬濶縁爪百 (類似カタログに掲載)
⑭長径50㎜を超える大様銭 (英泉譜等に掲載あり。)
⑮上下の厚さの違う楔形銭 (英泉譜に掲載あり。2.95-3.56㎜)
⑯薄肉銭
⑰白銅質
(暴々鶏氏から存在を聞いたとのメモあり。ただし、瓜生氏は存在しないと著書に記述)
⑱銭文径が普通サイズの玉持ち極印銭(存在のあるなしを知らず。あくまでも私の空想の銭)

濶縁爪百は一種として認められますが、その他はあるいは製作上の変化になります。このうち一番見込みがあるのが薄肉銭でしょうか?(離郭は圧倒的に厚肉のものが多いと思います。)白銅質とはあるいは母銭のことを示しているのかもしれません。また、はたして銭文径が普通サイズの玉持ち極印銭はあるのでしょうか?お持ちの方ご連絡ください。
筑前通寶に様々なサイズがあるように、福岡離郭も通用銭を改造した「通用母銭」と思しきものが存在し、「覆輪通用母銭」も必ず存在すると感じます。サイズ、厚みも色々ですから、変わりものをお持ちの方、情報提供くださいね。

※離郭は郭の辺が丸く歪む特徴がありますが、それは離郭がやや中高の(中央が膨らんだ)つくりであることが理由だと思います。つまり郭の部分が周囲より高く、仕上げ砥ぎによって郭がつぶされるように研がれるからだと思うのです。 
 
5月10日 【天保銭消しゴム】
いかにも古いビニールの包装。中央の穴もいびつで、本当に昔の文具と言った雰囲気。戦後すぐの文具のような気がしますけど、その時代は石油化学製品はまだ珍しく、文具でおもちゃのような消しゴムなんてなかったのかもしれません。それにしてもよくそこんな品物が出てきたものです。
昔、家で商売をやっていた時、お店の筆記用具はもっぱらペンで、それもインク壺に漬けて書く骨董品的なタイプでした。私はそのインクとペンでこっそり公告の裏紙に落書きをし、吸い取り紙を使ってインクを吸い取る遊びをしていました。吸い取り紙を知っている方はおそらく今の時代の方々は皆無でしょう。下部が半円形の大きなハンコのような形で、半円形の部分に吸い取り紙を装着し、インクで書いた上にそれを転がすように押し付け、にじみをとる文具なのです。
この消しゴムが天保銭主義を唱えた玉塚榮次郎が作ったノベルティグッズだったら面白いんですけど、時代的には違うでしょうね。玉塚翁は質素倹約が主義なので、このような浪費贅沢のグッズは翁の精神に反するものだと思うのです。これはコインブームの始まった高度成長期にできたグリコのおまけのような品なんじゃないかな・・・と思う次第。
おそらく非常に珍しい代物なんでしょうけど、きっと誰も欲しがらないでしょう。包装まで残っていることさえ奇跡と言えますね。 
 
5月9日 【張足寶の小様】
張足寶にはいろいろなサイズがありますが、長径は平均49㎜程度と言ったところでしょうか。48.5㎜を切ると銭文型が40㎜程度になりますので、私はこのクラスが小様だと思っていたのですが、不知天保通寶分類譜や英泉譜にも47㎜台の張足寶が掲載されています。画像の品は長径47.87㎜という極小サイズながら立派な張足寶・・・しかも製作は頗る良いときたもんだからぶったまげた。もちろん、私の所有品ではありません。投稿画像です。ありがとうございます。
計測値はまだわからないのですけど銭文径は40㎜を下回ることが予測されます。だいたい48㎜を切る天保銭そのものが少ないのですから、しかもこの書体を維持して縮小しているなど神の域です。と、思いながら英泉譜を眺めていると47㎜台の不知長郭手がごろごろあります。あるところにはあるんだなあ・・・と思う次第。ちなみに私の所有する47㎜台の不知長郭手はわずかに3枚です。このような名品、コレクターならいつかは手にしたいものですね。

※この品は私が入札誌で競って負けた品らしいのです。記憶にほとんどないのです。いつだっけなあ。負けたことは引きずらないようにしていますので思い出せません。

※計測データ:長径47.87㎜  銭文径39.84㎜ 重量15.9g 内径42.95㎜ 肉厚2.1~2.4㎜ 額輪になっており、内郭の厚さは1.6㎜位しかありません。小さくて美品なのがすばらしいです。
 
 
5月8日 【謎の古代貨幣:鉄廷】
鉄廷というものをご存知でしょうか?私は日本の貨幣収集事典においてこの存在を知りました。
一口で言えば鉄のインゴットであり、日本と朝鮮半島の古墳などで出土するもの。その形状から、金属原材料と永らくみられていましたが、そもそも古墳から出るのなら材料というより宝物 なんじゃないでしょうか?実際に三国志の東夷伝には「諸市買うに皆鉄を用う。中国において銭を用いるが如し」とあり、少なくとも韓国においては3世紀からこの鉄廷が取引に用いられた可能性を示しています。
しかし、これはあくまでも物々交換であり貨幣の定義には当てはまらないとされ、貨幣説はあるものの決定的な証拠がありませんでした。昭和20年に奈良県の宇和辺古墳で大小872枚の鉄廷が発掘された時も鉄廷=鉄の原材料説で片づけられてしまっています。
これらに真っ向から異を唱えたのが元川崎製鉄副社長の村上英之助氏でした。村上氏は小型の鉄廷が後漢の五銖銭とほぼ同じ重量であることに着目。錆で覆われ質量変化したり、欠損した鉄廷の元の重量を割り出す努力を重ねた結果、鉄廷の重量に完全な規則性があることを証明して見せました。
つまり鉄廷は中型の約222gのものを基準に333g、444g、555g~4444gと見事な数列を形成し、小さい方も11g、22g~111gまで、計算しつくされたような重量律がありました。このようなことを発見できたのも村上氏が鉄の専門家であったことが大きいと思います。
このような規則性があることは、鉄廷が価値の基準を明確に持っていたことを示すものであり、単なる材料としてではなく威信財に近く、かつ貨幣としての役割を持っていたのではないか・・・と述べたのです。もし、そうだとしたらこの鉄廷は富本・和同開珎・無紋銀銭などを数百年も遡った5世紀に日本で最初に流通した金属貨幣・・・と、いうことになります。
しかしながら・・・鉄廷の流通した地域は日本国内では西日本を中心とした狭い地域だと思われることや、鉄廷そのものに銅分が多く国産ではない可能性があること(そもそも日本に製鉄が広まったのはもう少し後の時代らしい。)から、この説を積極的に評価する有識者は少なかったようで今では埋もれて忘れ去られた存在になってしまいました。
見た目は貨幣というよりインゴットと言うべきこの錆だらけの鉄廷・・・あなたはどう思いますか?
(詳細は日本の貨幣収集事典にあります。これを貨幣としたら砂金・金塊はどうなんだ・・・という意見もあると思います。ただし、韓国内では前述した記録のように貨幣としての役目を持っていたことは確かです。一方、日本では韓国から輸入された宝物であったと考える方が自然かもしれません。ただし、もし国産の鉄廷が発見されたら・・・日本の貨幣史は大きく書き換えられることになります。)
 
5月7日 【水戸大字短点保細郭乱舞極印】
これはおまけに頂戴していた天保銭です。ちゃんと札に水戸大字短点保細郭ダブル刻印とあり、左右に複数極印が打たれているという変わりものです。水戸の大字はいろいろ小変化があるのですけど、イメージとして小頭通だけは少ないという認識で、その他はまあ微細なものと考えていました。あらためて頂いた方から「判っていましたか?」と問われて、自分の不勉強と迂闊な見落としを悟った次第です。お恥ずかしい・・・そして貴重なものをありがとうございます。正直に言うとちょっときれいな水戸大字だと思っていました。
さらに類似カタログを拝見してびっくり、細郭の評価ってこんなに高かったのですか?
私、普段は良く当百銭カタログを使用しているのですけど、こちらの拓影はほとんどが細郭気味でして、全くといって良いほどノーマークでした。
雑銭の中にも手替わり珍品が潜んでいるという典型例ですね。さらに極印の乱舞・・・目を凝らして見ると5~6個の印影が伺われまるで蝶が群がり飛んでいるようです。恐れ入りました。
 
5月6日 【変な逆ト】
母銭は専門外ながら、文字がべたっと太く、これはどう見てもよろしくない顔をしています。
この寛永銭とは異なりますが、寛永銭の母銭コレクターにあえて忠告すると、水戸系の母銭は眼力がよほど確かなものになるまで極力手を出さないことがお勧めです。と、いうのもこの類には非常によくできた贋作がたくさんあるからです。私自身、どれが良くてどれが悪いのか迷うほど。実際には市場で本物として売られていますが、作者はO氏と言われています。彼は加賀千代太郎の下請け的存在で、もともとは銀貨の贋造を主に行っていたのですけど、銅銭にも非常に精巧なものがあります。その特徴は黄金色の未使用肌に細かな魚子状の凹凸が見られるものが多く、見た目はとても美しい代物です。
加賀千代の大錯笵天保を拝見したことがありますが、あの肌の感じととてもよく似ている気がします。技術がO氏に伝播したのか、それともO氏がかかわっていたのか定かではありませんが、なかなか興味深いところです。
 
5月5日 【民鋳佐母銭】
ネットで発見した画像です。ちょっと磨かれたような真鍮銭のような色で、文字抜けもあまり良くないのですけど、これで立派な母銭みたいです。(私は目が利かないので母銭の真贋は良く分かりません。)
佐渡民鋳は永字の跳ねが切り取られているので区別がつくのですけど、それを本当にシークレットマークにしていたのかどうかは謎です。
私はもしかすると永に跳ねがある民鋳銭があってもおかしくないと思うのですけど・・・。そういえば数年前に拾ったあの佐渡の超大型銭・・・あれ、多分(改造)母銭だよなあ・・・と思うのですけど。本当にあれはいったい何なんでしょうか?お恥ずかしい話、私はいまだにあの正体が良く分からないのです。

気になる方は特別展示室その7へどうぞ! 
 
5月4日 【妖しげな郭】
4月30日に書いた記事の補足。左画像の郭は背側です。通常とは違う郭の仕上げですね・・・角仕上げが変で、鋳バリが背側に出ていますので、ヤスリの入れ方(仕上げ方)が違う。これは後やすりを疑うべき形状です。つまり、面側からやすりを入れられたということで、それもあまり上手じゃない。縁が外側に盛り上がっています。角は完全に丸いですね。これは先日ネットに出ていたある品の部分画像で、面側雰囲気はひとめとても良い品だったのですけど、背郭のこの仕上げはすごく気になりました。全体的に滑らかな肌で手ずれ感があるのですが、疑った見方をすれば真鍮写しの着色の可能性が非常に高い。面白かったのであえて応札したのですけど、深追いはやめました。右画像は完全なるおもちゃの古銭・・・真鍮銭の類です。型の合わせ目がちょうど厚みの中央部にあります。これが中見切の鋳造方法。一見合理的に見えますけど、もし少しでも鋳型がずれたら、銭の厚みの半分ずつが上下でずれます。これを事後修正するのはほぼ不可能です。仮に面側を生かして余分な部分を削ったとしたら、半分の厚みしかない部分が残ってしまいます。
職人の気持ちになって製作を観察するのはときに大切なことだと思います。
最期の画像はこの前の盛岡銅山銭の陰文星形極印です。私は画像保存しそこなっていいたのですけど、保存していた方からお譲り頂きました。(ありがとうございます。)盛岡銅山なんてじっくり見たことがないので私にはよく分からないですけど、こんなものもあるんですね。 
 
5月3日 【中正手永楽】
5月号の収集にも記事が掲載されている中正手の永楽通寶。私は鐚永楽はさほど興味はないのですけど、この顔はものすごく魅力的に見えます。
実はこれCCFの大和文庫の即売品です。
野性味あふれる荒々しい刔輪の痕跡とまるで母銭のような深い面の彫など、惹きつけるものがたくさんありまして、こいつにならお金を払う価値はあると感じます。
ただし、払う払わないは家計の事情もあるようで、残念ながらの状況。それにしても背は普通なんですけど、面は全然雰囲気が違いますね。善悪・真贋全く不明な門外漢ですけど、永楽好きなら迷わずGOなんじゃないかしら?・・・それとも鐚っぽくないですかね?薄っぺらの鐚が好きな人には違うかしら?

水天宮には今年も行けずじまいです。GWは私にはありません。貧乏暇なしで、いえ、仕事があるだけ良いのかもしれません。
 
5月2日 【幻の盛岡銅山銭:仙人が行く!No.19より】
盛岡銅山について書いていたら、天保仙人様から「仙人が行くNo.19」に書いてある記事を読んでください・・・との連絡がありました。収集2005年の10月号の記事をあわてて引っ張り出しました。何度も読んでいるはずなんですけど、すっかり忘れています。まあ、これぐらい高級な品は縁がないとはなからあきらめていたから身についていないと言った方が正しいでしょう。
かいつまんで話すと、盛岡銅山の極印には ①桐極印 ②八つ手極印 ③陰文星形極印 があり、さらに①には④桐極印(盛岡天保大字と同じ極印)もあるようなのです。
この③陰文星形極印は、知らない方は贋作扱いされることもあるので、いわば世に埋もれた幻の盛岡銅山であったそうなのです。
と・・・いっても正規の藩鋳銭ではなく、いわゆる民鋳に該当するもので藩鋳からの写しの品。当時の贋作と言えばそう間違いでもないような品なんだそうですけど、コレクター目当ての品ではなく流通を狙った写し(いわゆる南部民鋳)なので、贋作なんだけど真正品という立場。まあ、不知銅山銭とでも言っておきましょうか?
さすがに小川青寶樓師はこの陰文星形をご存知だったのがすごいですね。
桐極印 陰文星形極印 八つ手極印

ちなみに、仙人が言う盛岡銅山のランキングは
No1.背異桐極印(背異=百の横引き左側に鋳だまりがあるもの。)
No2.背異八つ手極印
No3.正様桐極印
No4.正様八つ手極印
No5.盛岡天保大字と同じ桐極印
No6.陰文星形極印
  
だそうで、幻なんですけど残念ながら評価は最下位なんだそうです。なお、盛岡銅山には贋作が非常に多く、しかもご丁寧なことに陰文星形極印にも贋作があるそうなので私には絶対手が出せない品です。

※かつて真正品とされていて、現在は全く消えてしまったとは・・・ちょっとなにか意味ありげですね。仙人様は真正品であるとおっしゃっていますし、「当品ははじめて公表されるもの」と書かれておりますので、歴史の流れの中でいつの間にか埋もれてしまったものなのかもしれません。
 
5月1日 【盛岡銅山(花隣塔・三上香哉氏旧蔵品)】
今年のネット出品物の中の大物ですね。三上香哉氏旧蔵との触れ込みですけど、三上氏は関東大震災のおりの火災でで家族とともにすべての収集物を失ったと聞いておりますから、これはその後の時代の収集物なのでしょうか?あるいは震災前に手放したものなのか?
これだけの珍銭は私には判断する手段がなく、実はある方からどうかと言われたのですけどお金もないし、私は安物をちまちま買う方が性に合っています。さて、この盛岡銅山は、阿仁銅山などの山内における給金支払用に使われた切手銭だと言われています。鉱山で働く労務者は、外界から隔絶されていますし、衣食住などの最低限の生活は保障されていますので、お金を使う機会はあまりなく、故郷に帰るときに(銭金は嵩張るので)この切手銭を渡され、盛岡市内において換金されたと聞いています。いわゆる為替手形と言いますか、金券のようなものです。
鉱山経営者にしてみれば人足相場にあわせて交換率を変動させることも可能ですし、輸送の手間も省けるし、現場で作れる商品券でもあるわけです。したがって、天保銭鋳造のための隠れ蓑ではあるのですが、見せ金的な性格以外の目的があるので、筑前通寶や土佐通寶とは性格を異にするものだと思います。
しかし盛り上がっていますね。さぞかし名品なんでしょうね。知らない方が幸せです。(お金がないんじゃない・・・欲しくないぞ~・・・ともっぱら自分に言い聞かせてます。こんな品を余裕で買える方がうらやましいですね。)
 
4月30日 【背側からやすりが入る理由】
藩鋳の天保通寶の穿内やすり掛けが必ず背から入る理由について、4月はじめに謎を投げかけたままになっていましたがお判りになったでしょうか?判らなかった方のためそろそろ謎の種明かしをします。

まず、天保銭鋳造のとき、鋳型の合わせ目がどこになるかを考えましょう。天保銭は厚みがあるので銭の中央に合わせ目があると(これを中見切りと言います。)、わずかな型ずれでも厚みのある大きな段差ができてしまいます。こうなるとやすりがけで修正するのが極めて困難になります。したがって、銭の鋳造のときは原則として合わせ目が背側に偏るようにつくります。(片見切りと言います。)背側がずれても面がずれるより目立ちませんし、鋳バリも薄く削りやすくなります。(昨年の3月6日の記事を参考にして下さい。)これで謎解きの半分が終了。

次に型からはみだしてできた鋳バリを削る作業を考えましょう。どうせ削っちゃうんだから、面も背も関係ない気がしますし、それにやすりは面側から入れた方が自然な気がしますが・・・出来上がった直後の鋳バリの中には、頑固に穿をふさいでいる物もあるはずです。
鋳銭図解では短くて箸のような専用やすりで(寛永銭の)郭内を仕上げています。輪仕上げ用の和やすりは細長く反り返ったものというイメージがありましたが、さすがに穿内の仕上げにはその形状では使用勝手が悪かったようです。
目戸切りという作業で穿内の鋳バリを除去するのですけど面側から強引に道具を突っ込むと鋳バリは背側に折れ曲がってしまいます。それでは鋳バリは棘のような突起になってしまいますので、流通の際に手を傷つける可能性があるなど非常に危なくなります。したがって後の砥ぎの作業でこれを削り落とさなければならなくなりますので、作業工程時間が増えて面倒です。それを防ぐためにもやすりは背方向から面に向かってかけるのが常識なのです。ですから、鋳バリは背側から面側に向かい折れ曲がって穿内にへばりつくような形で痕跡だけが残ると言うわけです。これが背側からやすりが入る合理的な理由です。

もちろん、人間が行う作業ですので失敗もあるでしょうし、例外もあるかもしれません。とくに密鋳銭の中には、このルールを守らないものもあると思います。しかし、天保銭を密鋳するということは死を賭した作業であり、可能な限り短時間で大量鋳造を行うことが隠ぺいのためには必定でした。少なくとも藩取り潰しの可能性まである藩鋳銭についてはこのルールを守るのが常識ではないかと思うのです。ネットでときどきルールを守っていない、背側に突起痕跡のある品を見かけますが極めて怪しい。妖しいんだけども行ってしまう天邪鬼な私です。 
 
4月29日 【密鋳背盛母銭大様】
この画像もネットで収集しました。(拝借しました。すみません。)直径が29㎜を超える大型の南部系の母銭はなかなか少ないものがあります。30㎜を超えたらそれこそ希少なのですけど、29㎜を超えたらまず拾いですね。本炉ではなく密鋳系だと思いますが、これについて雑銭の会の会長は「延展による加工」についてを示唆されています。達人ならではの着眼点ですけど内輪の内側が詰まっている・・・ということ。これは、南部藩の古銭を何千枚と見てきた方ならではの見解ですね。敬服に値します。
こうなると俄然欲しくなったのですけど、とんでもなく高騰してしまったので断念。南部藩の母銭は6~7年前になると思いますが江戸コインオークションで大量に売りたてられたことがあります。そのとき、背盛濶縁や輪の斜めやすりなど貴重な品を何枚か購入しました。購入してHPに載せてしまえばほったらかしなのが私の悪いところでもう一度精査が必要な時期に来ています。
 
4月28日 【出た!離郭の枝銭!!】
収集の5月号の誌上入札に、天保の枝銭・・・それも福岡離郭の枝銭、方泉處11号に掲載されていた青森のⅠ氏の旧蔵品・・・が出ています。(拓左:平成4年の天保通寶銭分類譜:第2回配本から借拓)下値がなんと75万円!安すぎないのでしょうか?この枝銭の中の1枚にに対応する母銭の存在が知られており、そういう意味で資料的にも貴重なはずなんでしょうけど、これだけ安いと何かしらいわくもありそうな気もしてきます。しかし、この品はあまりにも有名すぎる品でもあります。
天保通寶の枝銭は本座では大きな鋏のような道具で枝をはさみ、玄能で叩いて切り落とす作業が行われます。そのため枝は細めで、鋏が入る長さがあると言われるのですけど、少し枝が太く短めです。もっともこれは藩鋳銭だからと言えばそうなのかも。一方で溶解した銅(湯)を注ぐ漏斗状の湯返しの部分がずいぶんと小さいのが気になります。また、名品と呼ばれるもののほとんど過去の泉譜や貨幣誌への出品があるはずなのですけど、これは旧家の秘蔵品なのか、私が知る限りは出現の経緯が明らかになっていません。
もともと天保の枝銭はほとんどその存在が知られていません。本座以外は密鋳銭なんですから残っている方が不思議で、古資料で本座の枝銭の写真がどこかにあったのですけど行方不明です。釜屋権右衛門の願い書とともに発見されたと伝えられる水戸藩(小梅邸)の枝銭(背異替:明治30年東京古銭会雑誌31号出品・藤井深藪庵旧蔵:右画像)はなんとか発見できましたが、左に比べるとまるでおもちゃに見えます。(湯返しが大きいのは良いのですけど枝が太く、まるでレプリカの置物みたい。)
この釜屋の枝銭はその後市中に流れたらしく、分解されてしまったということですから、古銭界に存在する天保枝銭はこれ以外ほぼ皆無だと思うのです。したがって「こんなに目立つ品なのになぜ突然現れたのか、それもどこから??」・・・と思うところもあります。と、まあ、不思議に思う点はいくつかあるのですけど、私にはよく判らないものですし、経済的にもとても買えません。
枝銭だと嵩張るし、貨幣というより道具・歴史的資料になるので安いのかもしれません。それにこれはスタート価格ですのでこの後とんでもない価格にまで高騰する可能性も秘めています。いずれにせよ非常に有名で注目されているのは間違いないところです。できれば一度拝見したいものですね。
 
4月27日 【泉譜の嘘】
有名な泉譜に掲載されているから間違いないと思ったらあなたはもう騙されています。作業しているのが人間であることがひとつ。図の歪みも意図的と思しき情報操作もあります。さらに悪戯(洒落)もけっこうあります。
上記の天保通寶は平成6年6月に配本された天保通寶分類譜の中の会津長貝寶の拓図。左は大様とされたもので長径49.15㎜、短径32.95㎜とあり、たしかに大きい。右は比較用の通用銭で長径48.6㎜、短径32.7㎜。大様は長径で0.55㎜、短径で0.25㎜ほど大きい。しかし、図版をみて貴方は何か違和感を感じませんか?
私はかねてから瓜生氏の拓図と計測値の不一致について述べてきましたが、これもその典型的なひとつ・・・しかもわかりやすい。もしも左の長貝寶が市場に出てきたらそれこそ大騒ぎになるでしょう。まるで勇文のように天の足が長く広がるし、保の人偏もとても長い。しかも図を重ねてみると、長径はほぼ同じ・・・一方で、短径は図版で約1㎜も幅広いのです。(つまり、横に拡大されてしまっています。)
製版のときに縮尺倍率を失敗したとも考えられますが、これだけ違うのに見逃したとしたらお粗末ですね。
意図的なのか否かは分かりませんが、同じものを求めてさまよっている方がいましたら、製版上の問題だと思いなおしてください。もちろん、大きな品があるのかもしれません。しかし、この左拓図と同じものが出てきたら私はこう言い切ります。「これは変造か贋作、もしかすると焼け伸びです。可能性は0ではないとは思いますけどね。」泉譜も良くみる必要があるということです。

①一流泉譜にだって贋作あるいは贋作と思しき品が堂々と掲載されています。
②ときには意図的に贋作・参考品を掲載しています。それは洒落だと思われます。
③解説文に疑問符の多い記述が見られるときは、筆者がその品を暗に否定しているときです。
④ときには計測値も鵜呑みにはできません。あくまでも参考だと思いましょう。
⑤超名品と言われるものの中にも妖しいものはたくさんあります。お金は大切にしましょう。
※あからさまには否定しないものの ~だろうか?・・・などとお茶を濁しています。これらは所有者に対して気を使っている場合と、その品を売買したことがあるからのケースがあります。古銭の場合、否定したくても完全に否定しきれないケースがあるから難しいのです。
 
4月26日 【太平聖寶 背天国】
少し前にネットで盛り上がっていたものです。洪秀全による太平天国の乱は1851年に清朝で起きました。日本は嘉永~安政年間で安政大地震や黒船来航で国内が大騒ぎでしたが、中国もそんな状況だったようです。太平天国はキリスト教に影響を受けた秘密結社的な存在であったようですけど、偶像破壊を行ったり洪秀全をキリストの弟として扱うなど、異質な面もきわめて多いものです。しかし、当時の清朝の混乱と悪政もあって、満族支配に不満に共感した住民の参加もあり、全国的な騒乱に及んだようです。考えてみると隣国の中国は大きいだけあって極めて他民族の国家なんですよね。それを私たちは簡単に中国・・・という一つの国にまとめて考えていますけど、まとまっているのが不思議なぐらい大きな国なんです。時々中国人の考え方、価値観が判らないことがあるのですけど、それは日本がほぼ単一民族の島国であるからなんだと改めて思う次第。中国においては民族間の対立による殺し合いが何千年も続いていますし、そのため、けっして交われない何かがあるのだと思います。
ところで私は穴銭に興味を持ったとき、この太平天国という奇妙な銭文にとても惹かれました。(TVでは裸~天国、ホテル紅葉のCMがたくさん流れていた時代です。)当時からこの穴銭は不思議な人気があり、結局1~2枚の小平銭を入手しただけに過ぎません。この画像の品はネットに出て5万円以上の値を付けていたと思います。価値は良く分からないものの不思議な魅力で人を引き付けてくれます。
 
4月25日 【日本貨幣協会会員の名簿】
数年前に下町古泉会のA氏に誘われて日本貨幣協会に入会しましたけど、日曜日の例会にはほぼ出られない勤務体系なのでもっぱら幻の会員として、日本の貨幣収集趣味の普及のためにも?せっせとこのHPを造っています。少しは役に立っているかしら?
貨幣収集という趣味は本当に男性ならではのもので、名簿を拝見したものの女性は1~2名程度かしら?今月号の貨幣誌に佐渡への懇親旅行のレポートがありましたが、おおよそ運動に縁のないような中高年の男性が、たらい舟に仲良く鎮座している写真に思わず涙が出そうになりました。ああ~・・・。将棋や囲碁の世界だってアイドル的な若い女性がいるわけですから、いくらなんでも古銭の世界は極端すぎます。コインの収集は世界に通用する趣味なのに、ファンの育成を怠ってきたわけでもないのでしょうが、日本の現状を見る限りは目を覆うばかりです。世の中に古銭ファンの若い女の子が育たないかしらと妄想してやみません。(誰か救ってください!)
さて、会員名簿は3年に1度しか発行しないという事なんですけど・・・会員数は東京以外は少ないですね。まあ、会員ではなくても地方ファンはいるという事なんでしょうけど、もう少しすそ野を広げていかないといけないかもしれません。会員名簿に自分の名前がありましたので、どうやら私も正式な会員になっているようです。
昔のボナンザには古泉家の住所や連絡先が堂々と掲載されていましたが、今は個人情報保護がうるさいので、このような名簿は外には出ることはまず少ないでしょう。古銭は市場価格がつく品なのでセキュリティの上でも住所は秘匿すべきものだと思います。
私の情報も余り出していなかったのですけど、今や掲示板などでダダ漏れですね。今の時代、顔の見えない関係社会の方が強い影響を持ちはじめていますが、正直言って信頼が持てないので、やはり顔の見える関係社会の方が安心です。そういう意味では私はまだまだ非常に狭い社会に生きているとも感じますね。
さて、今回の貨幣誌に気になる記事がいくつかありました。そのうち2つが豊泉こと川田氏の記事で、ひとつは正徳大字背佐の母銭と通用銭3枚!・・・え、通用銭ってあったのこれ・・・という感じ。しかも拓の感じは背郭の傷が同じ親子関係。もうひとつは初期寛永通寶肥字の記事でこちらはその存在そのものを全く知らなかった・・・奥が深いです。これらについてはもう少し後で触れるとしましょう。
古銭叢話に牟田弥平氏の贋作について書かれていました。この短編の読み物は穂泉こと小泉建男氏が寄稿したもので、貨幣界の秘話です。古泉界には何かとタブーなお話が多く、この読み物も小泉氏の死後に公開されているものですから、たぶんに生前には公開をためらったものであろうと思います。それでも現在公開されているのは氏の良心の呵責がなさせた最期の事業であったのだとも言えます。
あくまでも噂話が中心なので、過信は禁物なのですけど、牟田弥平氏については九州出来と呼ばれる贋作などの作者の噂があります。もともと歯科技工士で金属加工は得意だったようですけど、古銭にのめり込むきっかけは、金歯の原材料として古金銀を購入していたところ興味を持ったから。そのうちに歯科技工士をやめて、古銭のブローカーに転身したそうですからかなりのやり手と言いますか錬金術師だったようです。私が把握しているのは文久貨泉や天保銭などの穴銭系の噂ですけど、おそらく金銀貨についても手掛けているだろうなあと感じます。
金属を扱う商売の方は贋作作者になる素質を持っているんですよね。加賀千代もO氏もそうですし・・・。(逆もまた真で金属を扱う方は贋作を見抜く力も持たれています。)
ところでO氏の贋作についてはもう業界であまりにも有名なので、そろそろ名前を公開しても良い気がします。ただ、公開は故人を辱めることですし、あくまでも伝聞のことですから、どうしようかしら。ただし、O氏のもたらした害毒も加賀千代級なのです・・・と、いうのも氏と加賀千代は深い関係がありましたから。 
 
4月24日 【密鋳銭祭りだ!】
S君と思しきIDで大量の密鋳4文銭が出品されていました。こいつは買ってやらねばと、勝手に思い込み張り切って応札。3万円以上購入してしまいました。いやあ、大散財です。
私は密鋳四文銭は目につくとついつい買ってしまいます。収集品をもう一度整理する必要があると思いますが、不知天保銭と並ぶ一大コレクションなのです。自分なりに分類していますが、浄法寺なんだか踏潰なんだかよく分からずに独自の判断で分けています。密鋳4文銭は製作に個性があって共通点のあるものも多いし、なかなか面白いのですけど、誰かの指南を受けないとなかなかきれいに整理ができません。
総枚数もいったい何枚あるんでしょうか?机の上にもずいぶん転がっているし、そろそろ購入をやめて分類を楽しんだ方が経済効率が良い気がします。でも密鋳銭は楽しいです。よく判らないからこそ楽しい。

※天保銭の場合は不知○○手・不知天保銭なんですけど、四文銭はなぜ不知○○手・不知四文銭(不知○○波)としないのでしょうか?仰寶や背盛にも明らかに藩鋳でないものが混じっていますので不知四文銭の呼称にするとブレイクするかもしれません。
 
4月23日 【斜珎の魅力】
貼り合せ手という言葉を覚えて間もなくこの斜珎の名を知りました。画像はネットから収集したもので、状態は芳しくないものの書体は奇抜です。この斜珎は1枚1枚に微妙に個性があって異なる気がします。画像の品は特に寶足が強調されていて、長点保です。斜珎共通の特徴は覆輪刔輪銭で王と貝画が離れ(離貝寶)、寶足が長く、中見切製法で鋳造されており、背の花押の右の袋部分のカーブに加刀が見られる・・・など。貼り合せ・・・の名前はありますが、先日私が述べたようにこれは中見切製法・・・鋳型の中央に合わせ目を造る製法・・・の異名であり、けっして母銭を貼り合せたものではありません。しかし、貼り合せの名前は覚えやすく、銭の風貌を良く表しています。4月17日の記事をほぼそのまま再掲示しますと・・・
天保銭大の穴をあけた板(天保銭のおおよそ半分の厚みの深さの穴)を用意し、母銭を穴に嵌め込んで片側ずつ鋳型を採ったのではないか ・・・裏面の型を採るときは母銭をそのままひっくり返せばよいのです。(鋳型上は面と背が左右反転の形になるので母銭に長郭と細郭が混じったりしていると面と背のデザインが合わなくなります。)・・・それでもそうして作った型を合わせれば、それなりにちゃんとした鋳型になるのですが、鋳型の合わせ目は銭の厚みの中央になります・・・つまり、貼り合せの形になるといった寸法です。この手法は、鋳型を崩さずに安定的に量産しやすいというメリットはありますが、合わせ目が銭の厚みの中央部になるので、少々の鋳型ずれでも影響が大きくなるといった欠点があります。・・・とまあこんな塩梅。この説は私の持論で業界で認められたものではありません。(たぶんですけど・・・)何回も書くぐらいですから私はこの説を気に入っています。
※貼り合せ手のもう一方の代表銭に削頭天があります。これは面が細郭、背が長郭の書体になったもの。ただ、私の述べた手法がこの削頭天にも用いられているとすれば面が長郭、背が細郭の書体になったものも存在するはずなのですけど・・・今のところ出現の話を聞いたことがありません。私の説が間違っているのか、それとも削頭天の製法が異なるのか、はたまた、面長郭、背細郭の品がどこかに隠れているのか・・・・皆様のご意見若しくは新発見の報告が欲しいものです。
 
4月22日 【九谷焼?の古銭ぐい呑み】
なんとなく気になって収集した画像です。生活雑器ですけどそんなに古いものでは無く、せいぜい大正~昭和といったところでしょう。寛永通寶と仙台通寶が描かれており、それがノスタルジックに感じられます。寛永銭は二水永気味であり、これを企画した方はある程度古銭の知識があったのではないかと思われます。
ラインが一定の太さでなかったりなど、塗りも雑ですのでおおよそ芸術作品とは程遠い代物なんですけど、レトロな雰囲気を好む方のアイテムで、これで酒を飲んだらうまい・・・と言いたいところですけど、いまや日本酒も絶滅危惧種になりつつあります。実は私の従兄弟は日本酒の酒蔵を営業しています。それなりに頑張っていますが、将来的には新しい日本酒を普及させていかないと厳しい気がします。たとえば江戸時代の日本酒は今よりほんのり甘く、ときには微発泡性で度数も大幅に低かった・・・って知っていますか。日本酒の味が今のようなものになったのは醸造技術の発達でアルコール度数をあげられるようになった近代になってからなんですよ。大吟醸なんて言うのも近代の風味なんです。だから、江戸の酒豪は一斗酒飲みなんて輩が存在するのです。そして大量生産大量消費の時代に、三増酒と呼ばれる、醸造用アルコールを添加したあと水で薄めた安酒が出回りはじめます。これも近代のお話。ちなみに世界のお酒の中で日本酒は醸造後に水を加えることが認められている稀有な例なんです。私も昔はお酒の販売に関与していましたので、ある酒蔵メーカーに、どうせ水を使うのなら、隠すことなく○○の天然水でつくったお酒・・・と言う名前を付けてしまうべきだと提案したことがあります。(あまり売れなかったのですけど実際にその商品が出たことがあります。)また、不健康な酔っ払いのイメージから脱して、健康感・・・とくに肌が美しくなる効果などをうたいこむべきだとも思います。実際に酒の仕込みをする職人の肌はとてもきれいな場合が多く、ある種の化粧品の成分にも使われています。
要は日本酒は安く酔うためのものでは無く、健康や美容のためという方向を模索すべきですし、昔のように低アルコール化を目指すべきだとも思います。最近、微発泡低アルコールの日本酒が少し店頭に並ぶようになりました。なかなか売れないけどあきらめずに育てるべきだと思います。あとはイメージ戦略ですね。時間はかかると思いますが、日本酒業界にも頑張ってもう一花咲かせてもらいたいですね。
 
4月21日【駿河482号から:その2】
この天保銭出品名はなぜか不知細郭手張足寶でしたけど、長郭手の覆輪銭です。背の文字がずれて大花押といって良いぐらい大きいのが目立ちます。角が長く伸びていますね。覆輪銭もこれぐらい立派なものは最近はなかなか手に入りません。私をはじめとする何人かの天キチ人間が誌上をむさぼったからでしょうか?天保銭がブームとあちこち書かれていますが要は私らが踊っている(踊らされている)だけでしょう。
踊りたくなるような品がいくつも市場に現れるようになったからなんですけど、さすがに最近は踊り疲れいます。値があがった(音があがった)からでしょう。
画像を集めるのはタダだ・・・なんて思いながら目の保養を行っています。覆輪の天保銭で、こういう青銅質系の色・・・確かにあまり見かけないタイプです。夏の古銭会のページに、天保仙人様と私の所有の大濶縁の長郭手が掲載されていますので比較してみて下さい。似ているような似てないような・・・そんな気がします。 
 
4月20日 【宝永通寶のエラー銭?】
ネットで収集した宝永通寶の背の画像です。極印については現代人は軽視しがちですけど、江戸期においてはかなりの権威を示していたと思われます。丁銀の大黒常是極印、一分銀の定極印や天保通寶の桐極印など、品質保証の証であり、作業的には簡単ですけど相当の権威があったようです。(事実、天保銭においては桐極印を打つ職人は他の職人より地位・賃金が高かったと言います。)さて、画像の宝永通寶、なぜか珍の極印が2ヶ所にありますエラー銭と思しきもの。上部の珍の極印が輪から外れてしまったので打ち直したものでしょうか?珎はおそらく検定印であり、最終検査にパスしたことを意味するものだと思いますので、はたしてこんなものを世に出したものなのか・・・謎多き品です。
永久世用の文字も見えますが、こちらは鋳込みです。
なぜ、珍の極印なのか不思議に思われたことはありませんか?私もふと疑問に思いネットで調べましたがよく判りません。おそらく、「タカラ」を意味するのだと思うのですけど・・・つまり、永遠に流通するお宝という願いがあったようです。しかし、この宝永通寶は極めて不人気で、実際の通用期間も4ヶ月半しかなかったそうです。にもかかわらず、この宝永通寶には主たる書体は3つもあり、深冠、浅冠、直永(直柱永)で、見分け方は書体的には最終文字の寶冠の前垂れの長さで見るのが一番早いと思います。その他にも実は深冠は約9.4gあるのに対し、浅冠は8.6gに重さを減じています。採算性を重視してつくられた浅冠が後期銭であると言うのが今の通説。では、直永(直柱永)はどうなんだというと・・・実は私も知らない。本音を言うと直柱はまだ保有していません。手が出ないのですね。美品を手に入れようとすると福沢さんが2人半~3人は確実にいなくなります。直永(直柱永)は平成15年日本貨幣収取事典には掲載されてなく、浅冠の亜種としているのかもしれません。さて、この直永(直柱永)の重さの件、ご存知の方は是非ご一報を・・・。
 
4月19日 【青錆のお話ふたたび】
過去記事を見ていたら2012年の10月に青錆に関する記事を再発見。う~ん、我ながらなかなかアカデミックなことを書いていると感心します。忘れてましたね、付け焼刃の知識だからそんなものなのです。ここでおさらい。
青錆は銅が水分や二酸化炭素、塩分と反応して酸化したもので、色々な種類がありますが自然にあるものの多くは炭酸銅。化学式の違いでいくつか種類があるようですが、主にマラカイトと呼ばれるクジャク石(Cu2(CO3)(OH)2)の系統の青緑色と、アズライト(Cu3(CO3)2(OH)2)と呼ばれる藍銅鉱系の藍色に分かれます。一般には青緑色が多く、藍色に発色するのは稀なようです。(右はアズライトとマラカイトの両方が見られる鉱石。)
したがってクジャク石もアズライトも宝石・日本画の岩絵の具の材料ですけど、藍銅鉱は特に高価だったそうで米の1000倍の価格(重さ比)で取引されたとか・・・。自然界ではこの二つは混じって産出することが多いようですけど、銅錆においてはアズライト系の色は稀。これらは日本画の岩絵の具として用いられるように、色は安定していて、水には溶けません・・・ここがポイント!
一方、贋作錆は化学反応を利用して着色するようです。昔から硫酸を使用する話は有名で、錆付に失敗して古銭をボロボロにしてしまう話などが残されています。この場合、青錆は成分に硫黄が含まれる硫酸銅(CuSO4)になります。本来の青錆は炭酸銅がメインのはずなんですけど、最近の屋外の銅建造物(鎌倉大仏や銅葺きの屋根)が早く錆びて痛んでしまう真犯人はこいつのようで、排気ガスに含まれる硫黄分(亜硫酸)が反応するようです。硫酸銅は古銭の青錆にも混じっていますが、本来は量的には微量のはずなんですけど。(昔の空気はきれいだった。)
硫酸銅は水に良く溶けます。親水性があるのでぶ厚く着いた場合はやや軟らかく湿っぽい感じがするかもしれません。酢酸(酢)を使っても青錆はできますが、潮解といって親水性はさらに抜群で空気中の水分をどんどん吸収してしまいべたべたになります。10円玉を酢でぴかぴかにしたことありませんか?あれを放置しておいたら錆だらけになりましたがべたべたして気持ちが悪かった思い出があります。(酢酸銅:Cu2(CH3COO)4 )
ところが最近の贋作はわざと作品を長期間土に埋めて錆を付ける作戦を採るようです。こうなると見分けはかなり困難かもしれません。
また、実験はしたことはないのですけどアンモニアは銅を腐食させ、水酸化銅(Cu(OH)2:こいつは水には溶けない)をつくるとネットにありました。昔の便所の近くに古銭を放置すると青錆(古色)が出やすいという噂はどうやらちゃんと根拠があるようで、植木鉢にどぶの底土を入れて古銭を埋めるなんて手法も聞いたことがあります。そのようにして作った近代作品が、ネットなどを通じて市場に出回っています。海外で作られたものは、錆びの付き方が日本と異なるようですが、未熟な私には判りません。巧妙なものは鑑定会議をすり抜け、鑑定書を取得するものさえ出てくると思います。雑銭の会のK会長はそのことに警鐘を鳴らしています。とくに最近の贋作はその技術を増してきています。
昔は鑑定書はとても権威のあるものでしたけど、鑑定書そのものが偽造だったり、偽物が鑑定書を取ったら・・・恐ろしい。(事実としてあります。)
最近は安心できるものとしてスラブ入りのコインを良く見かけるようになりましたが、このスラブさえ偽造されているようです。鑑定書を発行している機関の鑑定能力の問題もあるのですが、私自身、鑑定書は気休めに過ぎないと思っています。(本音)
昔の古泉家は古参の収集家の意見が絶対的な支配力を持っていたそうで、田中啓文や文久童などにものが言えるような時代ではなかったようです。つまり、彼らの目が絶対で、彼らが白といえば黒いものも白くなる時代でした。一方で、彼らの元には妖しいものもずいぶんと集まったようですので、大家が保有していたとしても安心はできません。泉譜に掲載されている物にも妖しいものはたくさんあるのですよ。
 
4月18日 【行方不明品、捜索中】
最近、老化のためか面倒くさいという気持ちが強くなりました。以前は古銭を1年中並べ替えてはフォルダーを書き換えていたのですが、最近はHPの撮影が終わっても片づけず、そのままなんてことも良くありまして、フォルダーなんぞに分類名はここ数年はいれてない・・・面倒だから。HPを書いて満足してしまっています。いえ、HPに載せていないものはその倍はある。
そのため、机の上にいつ購入したのかが判らないものが転がっているばかりでなく、せっかく分類した貴重なサンプルが行方不明になってしまいます。
今朝も、唐松堂氏の文久永寶遊泉記に応えようと、大様の文久を探していたのですけど、アルバムの中にない。記録上では27.8㎜と書いてあるんですね。これは本当に最大様なんですけど、机の上だと思い散々探したのですけど見つかりません。去年の記事に書いた細字狭冠寶も一緒に行方不明です。困りました。探していたら、新寛永の千鳥が2枚、穴ずれ5円玉が2枚出てきました。それぞれ1枚は入手した覚え残っているのですがもう1枚はいつ手に入れたのかも定かでない。ちょっと儲かった気分。いや、笑いごとではない・・・認知症です。 

帰宅して探しはじめ約1時間。午後10時現在、未発見。困ったことに無くなったものがよく判らないという情けなさ。昨年の雑銭の会に持って行ったのが最期、記憶にない。文久の大様と狭冠寶、それに古寛永の母銭類が一緒にしてあったものがない気がする。アルバムのバラページにほおり込んでおいたそのまま見つかりません。こいつは困りました。・・・探す事1時間で全く予想してなかったアルバムから大ぶり銭をついに発見。早速、再計測してみたら27.65㎜でした。残念ながら唐松堂さんの報告にあった記録更新はならず。(この文久銭は頂きもので計測値はそのフォルダーに書いてあったもの。)午後10時46分、ついに狭冠寶を確保。なんてことはない文久永寶のアルバムに入っていました。(3回目の見直しで発見。)説明書きもないので見落としていました。古寛永もきっと見つかるでしょう・・・どこかのアルバムの中ですね。
文久永寶は4文銭だから大きいイメージがあったのですけど、案外小さく標準銭だと26㎜台後半が普通。書体にもよりますが27㎜前半で少なく、27.5㎜を超えたら絶対拾いましょう。27.7㎜はかなり希少で27.9㎜で絶希少・・・日本タイ記録です。28㎜台は未知の世界です。皆さんお探しください。私も別の意味でずいぶん探しました。おかげで部屋が片付きました。 
 
昭和26年の5円の穴ずれ。最近までこんなものは贋造なんてできないと思っていました。私的には、悪くない感じなんですけど。。
4月17日 【近代エラー貨の不思議3】
鋳造における貼り合せ技法は幕末には日本で使われていましたと思われます。「思われます」と、書いたのは実際に製作現場を見たわけではないからで、そういった風貌の現物があるからです。たとえば天保通寶と類似貨幣カタログの210番の削頭天は、面の書体は細郭ながら背の書体は長郭になってます。つまり、面と背のデザインがバラバラ。これを貼り合せとマニアは称した訳ですね、これについては通用銭を半分にスライスして母銭を貼り合せた・・・と考えたくなりますが、そうではなく、例えば天保銭大の穴をあけた板(天保銭のおおよそ半分の厚みの深さの穴)を用意し、母銭を穴に嵌め込んで片側ずつ鋳型を採ったのではないか ・・・と私は想像しています。(これも見たわけではない。)
裏面の型を採るときは母銭をそのままひっくり返せばよいのですけど、鋳型上は面と背が左右反転の形になるので面と背のデザインが合わなくなるんですけど・・・それでもそうして作った型を合わせれば、それなりにちゃんとした鋳型になるのですが、鋳型の合わせ目は銭の厚みの中央になる・・・つまり、貼り合せの形になるといった寸法です。(正しくは中見切り技法の一種。)この手法は、鋳型を安定的に量産しやすいというメリットはありますが、合わせ目が銭の厚みの中央部になるので、少々の鋳型ずれでも影響が大きくなるといった欠点があります。一方で本当に貼り合せたんじゃなかろうかといった改造母銭を寛永銭で見ています。なぜこんな手間がかかることをしたのか・・・不明。ひょっとしたらそう見えるだけなのかもしれません。(肉厚にするためわざとそうしたのか?)
近代貨においても巧妙な貼り合せ贋作が出ているようです。たとえば傾打エラーなんぞ、面と背を半分の薄さに研磨してずらして貼り合せれば簡単にできます。横から観察されて合わせ目がばれないようにエッジ部分は別にリング状に削っておいて嵌め込むことも可能でしょう。技術は確実に進歩しています。
10円玉2~3枚で、2万円の贋造エラー貨幣ができれば、笑いが止まらないでしょう。錯笵銭好きの私は、穴ずれエラーや傾打エラーは好きなほうなので、例外的コレクションとして数枚持っています。平成24年の銀座コインオークションの961番5円玉の穴ずれなぞ、お遊びで落札したりしています。こいつをひょっとしたら贋作じゃないかとあらゆる角度から見ていますけど・・・判りません。(パッケージから出してもいません。)いつぞやネット落札した50円玉の穴ずれ、穴埋めをしたと云う痕跡がわかりません。ただ、ずれた穴が拡げられているかもしれないことまでは理解できました。この時は仙人様や雑銭の会のHPなどで、近代銭の贋作についていろいろ話している最中に、自ら飛び込んで購入した、全くの天邪鬼的自殺行為行動でした。
ネットで贋造エラー銭の科学的分析を行いますというものを見つけてどうしようか目下うずうずしてます。そこに展示されてる物がまた実に妖しげな香りもするんですね。それに、お金を払って贋作を証明してもらうという行為は、あまり精神的にも良くないようで悩ましい…でも知りたい。ほんとにへそまがりなんだから・・・。
この記事に関する情報、ご意見、お待ちしています。
 
4月16日 【淳祐元寶無背鐚】
なつかしい本ですけど穴の細道を愛読していた方は、南宋番銭の無背と言えば反応するかもしれませんね。
無背というより背刮去写しと言った方が正しいと思いますが・・・。この画像はネットで収集しておいたもの。この銭の見どころはやはり背の姿ですねぇ・・・うっとりしてしまうのは変でしょうか?
背だけ見たらまるで筑前洪武みたいですねえ。この鋳ざらいの雰囲気は(背細郭でなかったら)長門銭に通ずるものもあり、私は鐚は専門外だと言っても惹かれてしまいます。面背逆製ではないものの背の美しさが際立っています。
このわびさびが判る方はかなりの変態野郎です。穴の細道のような軽妙な記事を書ける方は果たしてこの業界にいかほどいらっしゃるのでしょうか?
 
4月15日 【とても不思議な細郭手】
また無駄遣いしてしまいました。これは大和文庫の落札品。
背の當上の刔輪度合いが目立ったので気になって落としてしまいました。不知天保通寶分類譜の上巻の79の6の名称は細郭手刔輪三角マ頭通、村上譜では1384番で細郭手短足寶、大和文庫出品名は細郭手細縁離足寶・・・と名前が安定していない。三角マ頭通という名称はどうかと思いますが、あとの名前はまあまあ的を射ています。私的にはこの不知銭は刔輪こそが見どころなので細郭手刔輪細縁で良いと思います。背の當の字が離輪しているのも目立ちます。本座銭にも刔輪加工している物はいくらでもあるんですけど、これはその度合いが強いのです。製作は端正で穿内とか背郭など感心するぐらい整っていますし、文字も本座以上に繊細です。しかも銭文径はほとんど本座と同じ・・・というよりわずかに大きい41.4㎜。文銭に細縁銭があるように天保銭にもし同じものがあるとしたらこいつなんですけどね。本座の職工が輪際の加工を調子に乗ってやり過ぎたものなのかもしれません。しかし、総合的に見てこいつは不知銭にされたんだと思います。
長径48.6㎜、短径32.4㎜、銭文径41.4㎜、重量21.0g。本座と言われたら本座だと思ってしまう。いや、本座なのかもしれない。背の内径を測りましたが明らかに0.5㎜以上大きいですね。(本座44.4㎜、上記天保45.0㎜)面側は意外に差が無かった。(0.1㎜)ただ、この手の正確な計測は難しいです。
本座と画像比較も行いました。
驚いたことに面側はほとんど変わりません。わずかに内径なども大きいのですが1.5倍の拡大ではほとんど見分けがつかないレベル。一方背側はというと内径が刔輪によりはっきり広がります。
確かに細縁ですし、刔輪ははっきりしていますが、製作的には刔輪は本座にも見られる手法です。
したがって見方によってはこれを本座細郭刔輪細縁と見ることも可能かもしれません。とはいえ、名だたる泉譜・・・大家の目を通ってきている品ですので、やはりこれは不知銭と見るべきでしょうか。鋳ざらいによって文字も背郭も細いですから、その方が妥当と見るべきでしょうかね。不知天保通寶分類譜においても、覆輪の無い刔輪銭は存在そのものは少ない・・・とあります。ただし、書体等に変化があまりないので評価は決して高くないとも・・・・なるほど。
 
4月14日 【面背逆製の真鍮天保】
Nさんから頂戴していた、面背逆製の真鍮の天保画像です。
面背逆製は鋳造管理のいい加減さが生み出したもの。
砂笵に母銭を置くとき、裏表を逆において型どりをしたため背は鮮明に、面はぼやけた図柄になるほか、鋳バリの位置が面側に偏ります。天保銭の真正面背逆製は本当にまれのようで、これは贋作とはいえ、珍しい品です。
なお、真鍮天保銭はほぼ間違いなく明治30年以降の作品で、たいていは大正から昭和初期にかけての天保銭収集ブームに乗じて作られた物ですので、良い子は手出ししてはいけません。(こんな時代に古銭ブームがあったなんて・・・。不思議な気がします。)それまで真鍮原料の亜鉛は日本の技術では大量生産できなかったのと、江戸時代は輸入品で管理が厳しかったから。それに亜鉛は銅の熔解温度より沸点が低く、鋳造中に爆発事故が多発するというやっかいもの。そのためには温度管理と安全対策が必要で、鋳造技術は民間にはほとんど伝わらなかったと思います。(一方で12世紀の日本の遺物に真鍮が使われていたことも判明しています。)
おもちゃのようなもの・・・なんでしょうけど、こんなものもあるんですね。ご参考までに。
 
4月13日 【近代エラー貨の不思議2】
5円や50円の穴が製造工程のいつ穿たれた・・・ということを考えると穴ずれというエラーの起こることの困難さが判ります。まあ、私は近代全研究家でもないし、知識もないのでこれからは私の空想物語だとお考えください。
5円玉に穴をあける工程は・・・
①円形(えんぎょう)という丸いまっさらな金属板を大きな金属板から打ち抜くと同時に空けるのか、②円形を作った後の工程で空けるのか、③それともデザインを打刻する際に同時に空けるのか、④デザイン打刻後に空けるのかが問題です。
①の場合、打刻デザインのずれが生じることはあっても、穴は基本的に円の中心部付近に納まるはずです。また、普通に製造を考えるとこの方法が一番シンプル・・・合理的なのです。この場合、デザインの打刻がずれた場合は必ず反対側に余白が生まれます。
②④の場合は大きな穴ずれが生じるリスクがぐっと上がります。ただ、④の場合は穿孔の際に生じる可能性があるバリ処理の問題があり、その除去を考えると工程的にもやや非合理的に思えます。また、②にしても穴ずれの高リスクになることを承知のうえでなぜこのような工程にするのかが分からない。よって、私は②④はないと思いたいのですが、それでは現実に存在する大穴ズレのエラー銭の説明ができなくなります。
また、③の場合はデザインのずれと穴のずれはリンクしてずれることになります。
結局、大穴ずれのエラー貨ができる可能性は、②の可能性が一番であり、そうでなければ変造・贋作なのかな・・・と素人的には思えます。
しかし、依然②の工程にする理由が分からない。円形製造時のチェック、打刻後の検査をすり抜ける必要があり、まして2つ穴など重さのチェックを一体どうすり抜けたんだと思います。刻印はどうみても本物なんでしょう。
世の中には不思議なものがあるもので、いったいどうしたらこんなものができるんだと思います。だれか、この疑問について明確な答えを出して頂けませんか? 
 
4月12日 【近代エラー貨の不思議】
3Dプリンターなど、技術革新が進み、贋作もいよいよ精密模作の時代に入って来たようです。特に近代貨幣はその製造方法が現在の技術であるので、非常に精巧な摸刻品も出回っているようです。中でも金銀貨幣は経年劣化による色調変化が少ないので、刻印を精巧複製してしまえば本物そっくりの贋作が出来上がるわけでして、そうなるとピカピカの新品より流通の傷があった方が信用できることにもなりかねません。もっとも最近の技術は貨幣の表面にある傷までも忠実に再現します。仙人様の勉強会では、顕微鏡で貨幣の表面を見ながらの真贋判定も行われていました。
穴銭の世界の贋作は、逆に現代技術では再現が非常に難しい・・・失われた時代の技術が使われています。
和やすり、鋳砂など、現代技術では再現が難しいものがあるので、それから事実を探ったり、金属配合分析や超拡大による観察など、色々な事実、史実を重ね考証して行くのが良いと思います。まあ、一番良いのは買わないことなんですけどね。
ところでネットで実に変な近代エラー銭を見かけました。(画像拝借しました。すみません。)5円玉なんですけど、穴ずれでしかも著しく変形しています。こんなエラーはさすがに通常の製造工程ではできたとしても外部には出ないはず。しかしあるから不思議なんです。先般、50円玉の2つ穴エラー貨が話題になりましたね。
50円玉は経年劣化変色は少ないし、素材も入手しやすいので比較的簡単に変造ができる・・・だから素人は手を出してはいけないのですけど・・・私はなんとなく穴ずれコインは好きなので過去に数枚保有しているのです。そのうちの1枚は、穴を広げた加工品だと仙人様から教えて(おしかり?)頂きました。エラー銭はズレ幅が大きければ大きいほど価値が高いですからだます価値?はあります。(
実際の穴より大きくなるので比較観察すればすぐにわかります。)。
実際に歯科技工の技術があれば穴の埋戻しから開け直しも容易とのこと。ただ、穴をあける技術はプレスではなくたいていドリルになるはずですから、穴の中の断面を拡大撮影すれば
横回転の線条痕の方向で真贋の判断が可能の場合があります。
最近の5円や50円の穴は円形を打ち抜くと同時に打ち抜いているらしいとも聞いています。したがって少なくとも平成の新しい年号に大穴ずれはほぼないはずなのです。(昔はそうでなかったようですけど。)ちなみに円形金属板に穴が最初から開いている場合は、デザイン打刻によって、穴そのものが圧力で変形します。とくに、中央からずれた場合ほど大きく変形するはずなのです。中央から
大きくずれているのに穴の変形がない場合は穴は後の工程で穿たれたタイプのものと考えるのが自然です。
この5円玉は昭和26年なので、大穴ずれができた時代なのかもしれませんが・・・仮にこれが正規の製造工程でできたとすれば・・・本来はデザインがずれた
反対側に余白があるはずなのです。しかし、それがない。
仮に穴あきの円形が先にできていたとして、その金属板にデザインを打ち込んでいたとしたら、打刻の圧力で型の外に出た部分がちぎれた・・・と考えるしかなく、それにしてはデザインのずれる方向が合わないし、穴の変形もほとんどないうえ穴の開いている位置も説明ができない。一方で打刻と同時に穴があけられると仮定しても穴のずれる位置がおかしい。(デザインのずれ方向とまったくあっていない。)
つまり、今の私の知識ではこの5円玉は説明不能なのです。
5円玉は変色するので、50円玉や100円玉に比べて贋造がとても難しいと思っていたのですけど、仮にこれが贋作だとしたら最近の技術進歩がすごいのかもしれません。なお、これは私の感想ですので、真贋を含めた真相は・・・判りません。君子危うきに近寄らず。 
 
4月11日 【密鋳寛永背錯笵】
先月号の収集の落札品です。状態が悪い(並表示)だったので期待していなかったのですが、密鋳銭ならまずまずでしょう。この手の物はたいがい焼け銭が多く、後は贋作半分の世界ですけど、こいつは雰囲気的には悪くありません。青銅質なので安南ではないと思いますが、薄い作りなので手に持った感じは安南寛永みたいです。寛永の一文の密鋳は意外に少なく、集めようと思っても入手難の世界。しかも集めたところで転売の期待はほぼ0と言っても過言ではありません。しかし、存在数はおそらく4文銭の10分の1にも満たないと思います。それだけ、一文銭の密鋳は技術的にも採算的にも困難であったわけです。これは文銭の写しであることは間違いなく、よく見ると背に文の文字がうっすら見えているようないないような・・・。しかし、この錯笵なぞ、ちょっと出来過ぎの感もありますよね。もし、これが厚肉の品だったら疑っちゃうんですけど薄っぺらですし・・・ひょっとすると本当に安南寛永なのかもしれません。

安政小字の刔輪一直波を期待して入札していたのですが、私の思い込みだったようで、届いた品は全く異なりました。書信館出版様、ご迷惑をおかけしました。最近は、現物を良く見ないで応札することが多いので・・・すみません。
 
4月10日 【重揮通背仙母銭でしょうね。】
少し前のインターネットオークション画像です。さすがにこいつは目立っていました。面側の抜けは良いですね。ただ、面の雰囲気はあるのですけど背郭の周囲の鋳だまりが気になりますね。母銭として完璧じゃないんですけど、これぐらいはOKかしら。美しいのは本物。ひょっとしたらものすごく美しい通用銭か?それともちょっとつくりが雑な母銭か?私には判りません。
私は母銭コレクターではないので、母銭について見慣れていません。美しいという要件以外、抜けの良い文字のつくりや少し特殊な金質など色々用件があると思います。いつぞやの鳥取小字は見る人が見たら母銭と判断すると思います。それはそれでOK。価値はコレクターが決める・・・それが道楽の正道だと思いますよ。 
 
4月9日 【安政期4文銭の背】
新寛永銭を一生懸命集めている人でも、4文銭となると基本銭を集めて終わり・・・と言う人は多いと思います。明和期だと長尾寛・短尾寛・正字・小字・俯永・離用通・大頭通、文政期で大字・正字・小字・小字一直波・俯永・離用通・大頭通、安政期は小字・・・とまあ、こんなところで、これに2~3の手替わりが加わるとまあ、満足。他の書体はなぜか超希少で文政期離用通の面刔輪背削波をお持ちの方は相当のマニアです。
私は密鋳4文に走ってしまいましたし、集めようにもその他の希少品はたとえお金を積んでもめったに出会えない大珍銭ばかりです。
さて、そんなおり、京都のTさんから色々な画像が送られてきました。その中に安政期4文銭の背の画像がありました。
やや斜め画像での判断なので確証は持てないのですが、3枚の中で真ん中のものだけが濶縁になっています。(縦内径の差に注目)
また、左右の幅がアンバランスで、右側の方が広くなっています。つまり、少なくとも中央のもののほうが右側のものより早く世に出たものであり、一直波の可能性が高いと言う事。(削輪一直波ではありません。)
見方としては背の内径。この場合、上下左右を見ます。また、一番下の波の余白大きさと、左側の波で作る三角形の余白大きさにも注目しましょう。少なくとも中央のもののほうが波の作る空間が小さいことが分かるでしょう?
実は濶縁になるタイプの方が少ないことは間違いありません。左側も濶縁のように見えますが、上記のポイントがだめ。安政期は意外に背のつくりが雑で、輪の潰れたものが多いので総合的に観察した方が良いと思います。とはいえ、しょせん鋳ざらいによる変化なので、中間的なものもある気がします。削輪一直波ぐらいわかりやすければ良いのですけど、中途半端なものも多いので、方泉處の評価は過激なんじゃないかなあ・・・と思う次第。もちろん、少ないことは間違いないと思いますけど。
とはいえ削輪一直波はまだ届いていませんので、私はいまだに見たことがございません。やはり希少なんですよね。 
 
4月8日 【駿河482号から】
大和文庫さんの駿河482号に出ていた画像です。とても光っていましたが、手が出ませんでした。不知張足寶という名で不知天保通寶分類譜のP124の44の原品なのです。見事な濶縁ですね。張足寶の2度写しタイプのものですから、銭文径は40㎜を切ると思います。異論はあると思いますが、私はこの張足寶の濶縁縮字になった品を通寶小字としています。この名前は当百銭カタログ・青譜では見られますが、類似カタログにはありません。また当百銭カタログにおいては小点尓寶・覆輪張足寶などという他の名前でも類品が出ていますが、実質は同じ系統の品だと思っています。元はと言えば勢陽譜でこの書体を張足寶としたことに起源があるようで、当百銭カタログでは張足寶大様に一度写しタイプのいわゆる張足寶を、小様の拓には細郭手張足寶が誤って掲載される混乱ぶりです。
見どころは寶貝の底前方の凹み瑕。これがある品はみな同系の炉から出ている可能性があると、仙人様から教えて頂きました。したがって通寶小字に見えるか否かは鋳造上の偶然があると思います。とくにこの書体は寶前足が持ち上がり気味で先端が陰記し、そのせいで寶貝が輪から離れて見えるので、正統派の通寶小字系と言えると思います。それにしても見事な覆輪。泉譜の拓本よりはるかに立派。銭径も計測値が正しいなら49.45㎜と大型。こいつは確かに名品ですね。 
 
4月7日 【駿河40年の歩み(3)】
私はこの手の読み物は本当に好きです。頭を使わなくて良いし、簡単に読めます。将棋も趣味なんですけどまったく指さない人でして、ひたすら雑誌を購入して人間模様を読んでいます。将棋指しのようなすごい頭になりたいとの憧れはあるんですけど、難しい詰将棋なんかは面倒だからやらない。せいぜい1~3手の必至問題を読むだけ。軽い頭の体操だと思っています。それ以上考えても疲れるだけだから・・・そして、途中で読むのをやめても何度でも読めて新鮮なんですね。
古銭も妄想の中に浸るのが好きでして、随筆や泉譜を眺めているのも好きですね。変わっているんでしょうね。まあ、この趣味もようやく半人前になった気がしますが、上には上がいるもんで、私には到底かなわないです。こうして毎日記事を更新しているのがせめてもの自分の記録伸ばしのあがきなんですね。
駿河40年の歩みというのもすごい歴史だと思います。一つの企業で半世紀近く持たせるというのは本当に大変です。まして古銭で生計を立てるというのはかなり厳しい状況ですから。
古銭屋さんは収集家を育て夢を売らなければいけないと思うのです。集めていて楽しくなったり、学ぶことが大切なんですけど、最近の古銭屋さんは生き残るのが精いっぱいで、人を育てられていない気がします。
まあ、40年の歴史などというと、おおかた儲け話中心になってしまうことが多いのですけど、正直なことに損をした話・・・穴銭堂氏に持ち逃げされた話が掲載されていたのには驚きました。実は穴銭堂こと増尾氏に関するお話はあちこちで漏れ聞こえており、駿河さんは散々な目にあった・・・なんて小耳にはさんでいたものですから。そんな、穴銭堂氏を古泉家として尊敬し、笑って記事にする大和文庫さんの優しさには感服しました。私にはなかなかまねできないなあ。少し心が温かくなりました。大和文庫さんにはまだまだ頑張って人を育ててもらいたいと思います。

※収集で狙っていたものを落しましたが、ちょっと奮発しすぎました。狙ってたものは安政小字の背一直波。これってありそうでずっと出会えなかったもの。市場にでてきたのはここ10年で初めてじゃないかしら。安政の俯永の方がまだ出てきています。まだ支払っていないんですけどね。
※あり得ないと思いますけど、若い世代・・・とくに女性にコインブームは来ないかしら?小さな銅片に400年の歴史(寛永銭の場合)ですよ。美歴女はいないかなあ、どこかに。
 
4月6日 【天明5年銘の寛永通寶はやはり贋作でした!】
3月24日の記事にあった寛永銭、気になったのでマイクロスコープで撮影してみました。するとばっちりドリルの旋回痕が現れました。通常のタガネ彫りではこのような痕跡は当然ながら現れません。
まあ、贋作半分と思いながら面白半分で購入したものですから悔いはありません。マイクロスコープが初めて役立った気がしました。こういうように使えばよいのですね。肉眼はもちろん、20倍の拡大レンズでもわからず・・・でも60倍のレンズでで見たらさすがに見えました。なんで購入前に見なかったんだろう・・・持っていたのに馬鹿ですね。
まあ、私のような天邪鬼は多少痛い目に合わないとだめなようで、他人の忠告なんて馬耳東風なんですから・・・。
ところでこのHPにもいろいろガセ話があるんですよ。裏話などを知っていても知らないふりをしてそのまま書いてある記事もあるのです。下手に書くと人を傷つけてしまうことがあるからです。それに情報は一方から聞いただけでは信用しきれないこともたくさんあります。できるだけ科学的に・・・というのが正しいですね。そういう意味ではこの拡大画像の検証はとても科学的な贋作の根拠です。それにしても良くできてますね。手が込んでます。
※60倍のルーペレンズは接写感覚が強過ぎてあまり使ったことが無かったのですけど、こんな使い方があったんだと気づきました。恐るべしLEDライト付き携帯ルーペ。
 
短尾通細字手濶縁
極印が同じ長郭手覆輪
崩字厚肉
崩字(蝕輪蝕字)
短尾通細字手退口呆
4月5日 【仮称)短尾通細字手の探求】
天保通寶と類似貨幣カタログに短尾通細字という珍銭があります。当百銭カタログでは細郭手覆輪強刔輪という一般的でそっけない名前であったので、さして注目されていませんでしたが、天保通寶と類似貨幣カタログでは
抱冠寶、崩字、短尾通細字濶縁とともに並び掲載されるようになり、いずれも同炉銭であると記載されています。同じ鋳地である理由が詳しく記載されていないので判らないのですけど、おそらく製作にどこか共通点があると思われます。私が見た特徴としては中郭気味で、比較的横幅のゆったりとした覆輪刔輪銭で、文字の周囲が彫られているのと湯圧が弱かったせいか、文字が陰起気味であること。保点が変化したり、斜冠寶気味になるものも多いようです。また、極印の外周が不規則に丸く、葉脈は十字風であることも特徴です。短尾通の名前が冠されていますが、これは文字の末端が陰記しやすいことからの特徴で、全ての共通する特徴ではないようです。天保仙人様の蔵品を観察させて頂いたことがありましたが、本座風のつくりながら極印は同じ変形十字型でした。
私がこの系統のものを初めて入手したのは2010年の12月。実は収集誌上に「草点保」として出品されたものが返品となり、再出品された物。私は実物が見たい一心で2度とも応札し、ついに入手を果たしました。正直なところ入手直後は草点保とのあまりの違いにがっかりしたのですが、見れば見るほど味わい深く、今では大好きな不知天保銭の1枚になっています。そして後にこの品が秋田のM氏の旧蔵品(覆輪刔輪退口呆)であった事を知り、ますます好きになりました。
さて、先般入手した覆輪刔輪斜冠寶と名付けた品・・・ある方の指摘を受けるまで同炉であるとは気づきませんでした。類似貨幣カタログでは短尾通細字濶縁に該当しますが、その特徴があまり出ていません。拓本と印象があまりに違うのは、この類の変化が個々の銭によって全く異なることに起因します。さらに入手品の極印とほぼ全く同一の長郭手を発見したことにより、その感をさらに深め、もう一度蔵品を点検することにしてみました。その結果、新たに2品が同類である可能性を発見しました。
いずれも刔輪銭で両方とも中郭手として覆輪刔輪斜冠寶のすぐそばに掲載していました。(ただし、書風・制作に類似点はありますが、印象の相違点も多いので断定はできません。)
それが厚肉崩字と蝕輪蝕字としていた2枚です。もともとこの2枚同志は同類だと睨んでいましたが、極印や地肌など退口呆に相関性が感じられるのです。極印は小さめですが十字葉脈ですし・・・。
天保通寶と類似貨幣カタログで抱冠寶、崩字としたものに類似していると見るのですけど、銭文径は41.1㎜とかなり大きいので違うかもしれません。この2枚は中郭の郭幅で、銭文径は本座なみながら、異製作品で、私も不思議に思いながら不知銭として分類していたものです。いずれにしてもこの類は書体変化が大きすぎて、一つの名前でくくるのが難しく、安南銭のように手類名でくくった方が判りやすいと思います。その意味では短尾通細字がもっともメジャーなので、短尾通細字手〇〇とするのが一番わかりよいかもしれません。
しかし、これだけ風貌が違う天保銭をひとくくりにするのにはまだ何か無理があるかもしれません。しばらく皆様のご意見を求めたいと思います。
また、短尾通細字、抱冠寶、崩字、短尾通細字濶縁を同炉と判断したエピソード等をご存知の方は情報をお寄せください。
 
 
4月4日 【長郭手強刔輪長張足寶削頭天】 
長径48.3㎜ 短径31.5㎜ 
銭文径39.8㎜ 重量19.3g

非常に特徴的な不知長郭手です。2月21日と3月3日にも類品を示していますが、風貌制作とも非常に近似しているものの、微妙な違いがあります。実はこの品は2014年10月の制作日記に報告のあった不知天保銭でした。そのときは下から見上げるような撮影でしたので、短尾通気味に見えたのですけど、実物は全く異なりましたね。お気づきの方もいるでしょうけど、これは2015年3月の入札誌穴銭に出ていて、私が気合を入れて落としてしまったものなのです。
一見して長郭手長張足寶と同じに見えるのですが、天の第一画が短く、また、寶前足も前に突き出していて、寶足の踏ん張りが広いのです。また、背の百の横引きや花押のひげの先端などが跳ね上がるような癖(図案のブレ)があります。
長径、短径、銭文径ともにかなり縮小していて長張足寶の次鋳に該当するサイズですけど、次鋳だとしてもこちらの方が寶足の踏ん張りが広くなっています。
違いと言えばシークレットマーク手的な特徴・・・寶貝の底部の先端の瑕がないのですね。この寶貝の底の瑕・・・拡大しなければわからないほどの特徴は・・・通寶小字や長張足寶の一部の銭種、長反足寶などに共通する特徴なのです。分類上は長張足寶の一類に属しますが、銭文径が通寶小字より縮小しているのには驚きました。不思議ですね。

※画像下は昨年の投稿時の画像です。光源の位置と撮影角度が異なるため全く別の印象を受けますが、実物を下側方向から見ると、特徴部分が強調されますのでこう見えます。天の横引きの陰起ぶり、寶前足の突き出し具合がよく分かります。私自身、現品を見るまで同一品だとは気づきませんでした。長張足寶は天上の刔輪が非常に強いことも見どころです。
張足寶はカタログでは一まとめにされてしまっていますが、色々なタイプのものがあるようで、面白いです。
 
安さ爆発!
お奨めアイテム
マニア向き
おしゃれ
イチオシ!
4月3日 【恐るべし!LEDライト付きデスクルーペの威力】
最近、視力低下に悩んで色々なものを試しています。ルーペは当初は奮発して宝石鑑定用の10倍ものを購入したのですけど、それよりはるかに安くて使い勝手が良かったのが100円ショップダイソーで売っていた20倍ものの携帯用ルーペ(200円+税)。30倍ものもありますが、レンズが大きい20倍ものの方が使いやすい。携帯ルーペではMさんから購入した携帯型のLEDライト付きルーペ(30倍~60倍:1500円くらい)は古銭即売会のときは必ず持参するアイテムになっています
これらは持ち運びやすいという点ではとてもよいのですが一部分しか拡大できないので全体を見るには不向きですし、また古銭の撮影はできません。
雑銭の会で紹介されていたマイクロスコープ(3000円くらい)も購入しました。(暴々鶏氏はこれを絶賛していました。)優れモノなんですけどピントを合わせる微妙な操作に苦労し、私は使いこなせませんでした。最大の欠点は「ルーペ以上に部分観察用」であり、加えてパソコンがないと使えないので持ち運びが面倒なこと。私が購入したのは安物で固定倍率(130倍)なので古銭の場合は砂目や極印観察用にしか使えません。良い点は画像として残せること。贋作探究用のアイテムとしては使えるかも。
それに比べるとペーパーウェイト型のレンズ(2500~3500円)は古銭全体を観察するにはとても便利。古銭の展示のときにはとてもおしゃれに見えます。ただし、重いこと、周辺部に近づくと歪みが大きくなるのと、暗い部屋では使いづらいことが問題でした。
LEDライト付きデスクルーペ(2600~3000円)は、このペーパーウェイト型レンズの欠点をほぼ克服しています。大きさはややかさばるのですけど軽くて持ち運びには支障が少ないし、何よりも鮮明でくっきりした像が観察できます。こいつは私の一押し商品です。少なくとも視力低下に悩むポンコツコレクターにとっては神アイテム間違いなし。これらの商品はダイソーのルーペを除き、インターネット市場で購入可能です。
 
4月2日 【銀ネズ色の細郭手】
汚い細郭手にしか見えません。実は横浜古泉研究会のの落札品でして、実物はもう少しきれいなのですけど、スキャナーで撮ったら本当に汚く見えるようになりました。肉眼では輪の部分に光が反射して白っぽく見えるのですけど、機械の目は人間の目とは異なり、残酷なまでに真実の姿を晒してしまいます。不知細郭手白銅銭の名前で出ていましたが、含白銅にしてもいまいちかしら。長径48.7㎜、短径32.4㎜、銭文径40.8㎜、重量19.4g・・・とこちらも平凡です。
そこで、いつものように極印を調べたら・・・あ、見たことあるやつだ!と嬉しくなりました。
不知細郭手覆輪厚肉欠頭通(27g)のものとたぶん同じです。あちらは本座に似ていてしっかりしたつくりなのにこれは本当にしょぼい。やはり金属も残り湯で作ったのか・・・雑ですね。天保通寶極印図鑑をご覧いただければその極印の類似性に気づくと思います。
実は細郭手の連玉尓も落札していたのですが、こいつは全くの同一品を2枚保有していました。何が同じだっていうとこれも極印が同じ(クマ耳型)なんですね。
 
4月1日 【フェイクがいっぱい!】
ネットにあやしいものはつきものなんですけど、あんまり堂々とやられると少し腹が立ってきます。ここのところ良く見かけるのが白銅銭をうたった銀写しもの。銀は加工が容易で、昔は銀粘土を使った写しが散見されたのですけど、最近のものはおそらく銀鋳造ですね。たいていは側面の加工が垂直に切り立つ現代風の加工になっているのですが、これを母銭と偽るのです。
それと最近見かけるのが石膏型で写したのか非常に精巧なタイプ。これに古色が付けられるとネットではなかなか見分けがつきません。
そして本日新しいタイプの寛永母銭が出ているのを発見してしまいました。すべて郭内にべったりやすりが入っているのですけど、背の雰囲気などがみんな同じ。推定ですけど圧延した通用銭を後加工したのではないのでしょうか?一様に文字や背郭が太く歪み、地の部分には刃が入っています。あるいは新作ものなのかもしれません。出品価格は安いものの、まがい物を一流品と偽って表示しているのですからいけません。母銭というからには文字は繊細であるべきだし、背郭などはきちんとしているはずなのです。(郭の周囲がドリルで彫られていますね。地の部分も細かい横旋回の削り傷が見えます。また、郭の角が丸く)
母銭はきっちりと郭内やすり掛けがある・・・なんていう浅い知識では、かえってわざとらしい贋作をつかむ要因になります。母銭か否かは総合的に判断するのが一番で、私のような目の利かない人は手を出すのを控えるべきだと思います。
その他にも天保銭なら秋田の広郭の郭内をべったり削った細郭は良くありますし、本座広郭の郭内をべったり削った中郭なども時々出会います。一つだけポイントを明かしますが、
藩鋳の天保銭は郭の内側に鋳造時の鋳肌が、残っているのが普通。それも必ず背側からやすり掛けが入るというのがお約束。(背側からになる理由については皆さんでお考えください。この理由がわかる方は古銭についてよく勉強している人です。)やすりが面側から入ったり、郭内にまったく鋳肌が見えないのは不知銭以外は考えがたいのです。
おそらく今回の一連の出品物に応札している方々は贋作変造を承知のうえで面白いから応札しているだけでしょう。皆様、エイプリールフールとはいえくれぐれもご注意ください。
 
3月31日 【3ヶ月の連続更新を終えて】
意地になって更新していましたね。良くやったと言いたいです。反面、自分の体の衰えを非常に感じます。特に目が悪くなりこの趣味があまり面白くなくなってきました。近くのものが全く見えない。これはコレクターとして致命的で、ルーペでは全体が見えないので最近はスキャナーで拡大して確認している始末。特に色の黒いものには全くお手上げです。最近、天保銭に力を入れていたのは、これだけは文字が大きいから。文久銭や古寛永は微細変化があまり見えていないのです。6~7年前まではメガネ要らずで、寛永通寶の微妙な内径の違いを直感的にも感じ取れたのですけど今は全くダメです。私より年齢が上のコレクターはたくさんいらっしゃるのに皆さんこの問題をどうクリアしているのでしょうか?眼鏡を買え!・・・そうかもしれません。
ルーペは部分を観察するのには良いのですけど、全体は見づらい。そこで引っ張り出してきたのは半球状のペーパーウェイト型レンズ。テニスボールを半分に切ったくらいの大きさで、直接古銭の上に載せてみるタイプ。開店祝いに貰ったやつなんですけどこれは結構使えます。ただ、周囲が歪んで見えるのと光源の位置によっては見づらい。というわけでLEDライト付きの新しいものを発注。病気だなあ。
目が悪くてもすぐに判るのが色合いでして、先日の天保通寶研究会の席でNさんから赤い長郭手の不知銭を見せられた時も即座に反応できました。実は真っ赤な不知長郭手というのはかなり少なくて、私も純赤と言えるものは1枚しか保有していません。(赤っぽい黄色はあります。)一方で白銅質の長郭手はちらほら見かけます。東北の密鋳4文銭には赤いものがたくさんあるのに、なぜ赤い長郭手天保銭は少ないのか。一方で、白銅の長郭手は比較的あるのに、白銅の密鋳4文銭はなぜほとんどないのか・・・これまた不思議です。どなたかこの謎を解いてください。
※と、いうわけで紅白の不知長郭手を並べてみました。両銭とも純赤・純白です。こいつはめでたい!

※ひさしぶりに天保銭を見直したのですけど・・・赤いやつは赤茶であり思っていたほど赤くなかったです。画像は強調されていますね。赤茶のものは何枚かあります。画像ファイルを元に記事を書いているからこうなるんですね。反省。白いものは真っ白に近い色です。(4月4日)
 
3月30日 【文久永宝遊泉記より 深字手短久退足寶の手替わり】
唐松堂氏と坂井氏の研究には本当に頭が下がります。文久永宝遊泉記もすでに68巻を数え、大量の文久の雑銭の山からいくつもの眠れるお宝を発見しています。今回の発表は深字手短久の類。どちらかと言えば雑銭なのですが、書体に愛嬌がありものすごく目立つ類です。そんな深字手短久に寶足が退く一類(退足寶離足寶)があります。なんだか寶字がつまづいて前のめりになったような雰囲気。深字手は寶があたまでっかちなのでなおさらその雰囲気が強調されています。これらは寶足が貝から離れて、貝画そのものが俯した印象を受けるのですが、その中に寶足が離れず、貝画が仰ぐものがあるそうなのです。この文久銭は坂井氏が大量の文久永寶の中から大ぶり銭(27.55㎜)として選り出したようなのですが、はじめは深字手短久退足寶離足寶異文と仮称されていたようですけど、その後、同じ特徴の文久2枚を発見し、一番の特徴が異なるため退足寶離足寶とは別種の退足寶仰貝寶として発表されました。
深字手短久退足寶離足寶は比較的容易に発見できるようなのですが、退足寶仰貝寶はなかなかの難獲銭らしく唐松堂氏でさえまだ未発見との事。私も蔵品を見直してみようと思います。
 
3月29日 【鋳銭座遺跡考】
京都のTさんが手作りの小冊子を送って下さいました。(ありがとうございます。)なんでも国会図書館のHPから検索して取り寄せたようで、コピーを製本して下さったようです。Tさんはなかなか器用な方のようです。さて、中身についてですが明治期から大正期に活躍した中川近禮の著作のようです。この方は古銭・・・とくに寛永銭の大家で明治期における寛永銭の研究の基礎は彼が作ったと言っても過言ではないほど。一方で、功名心が高く、東洋貨幣協会の名を語って遺物収集したり、また寺院の宝物を研究のためと言って借りて返さなかったり、果ては発表に(自分がすべて発見したなどの)ねつ造の疑惑が多数あるなどなにかとにぎやかな方なのです。その行為があまりに過ぎた結果、ついには貨幣界から追放の憂き目にもあっているようです。しかし、追放されたあとも中の良い収集家はいたようで、三上香哉などはごく親しい間柄だったようです。谷巧二の説によれば彼の発表の多くが眉唾ではないか・・・との噂もある一方で、(発表した遺物類がはたして彼の発見であったか否かはともかく、)確かな目を持っていたことは間違いないようです。内容は漢文カナ交じりの実に読みにくい明治期の文章。この時代の文章ならまあ、読もうと思えばかろうじて読めますけど眠たくなることこの上ない。この手の本は、古事類苑をはじめ石巻鋳銭考や下間虎之助の古銭などがあり、何度か読んだのですが中にはちんぷんかんぷんのものもあります。仕事の合間に古事類苑を眺めていたところ、周囲から尊敬の目で見られました。ただし、内心はなんて変わり者なんだと思われたに違いないでしょうね。頑張って目を通しますが、私も学はないし、収穫もきっとない気がします。睡眠導入本としては最高なんですけど・・・(ごめんなさい。) 
 
3月28日 【曳尾跛天・・・鋳銭工のひとりごと】
「あ~らら、この母銭は天の足の先っぽにでっけぇ鋳だまりがくっついてやがる。どうしようかなぁ、しゃあない削るか・・・。」 ゴリゴリゴリ 「お~っとあぶねぇ、危うく(保の)人(偏)をあやめちまうとこだった。いけねぇいけねぇ、じゃあ、別の方向からやってみるか。」 ゴリゴリゴリ 「だめだ、硬すぎて天の足先がめくれあがっちまった。こうなったら面倒臭いからぜんぶ削っちゃおう。」 ガツンガツン 「できた!・・・あれ、天と保の間だけ穴が空いたみたいに深くえぐれてる。こりゃあ、目立ちすぎだな。しょうないから全体的に削るかな。」
はたして鋳銭工がそういったかどうかは判りませんが、銭の左側だけが深くえぐれ、その先端が天の前足まで達しています。いわゆる鋳ざらいですけどずいぶん目立ちます。
文字の先端はとくに鋳だまりができやすい場所でした。また、一度型が崩れると、溶解した銅はそこに殺到するよう流れ込みますからさらに鋳だまりが大きくなりやすいのです。
ときどき天保銭の文字や輪の淵にぐりぐりえぐったような深い溝を見ることがあります。深い溝は鋳型において盛り上がった防波堤のような形になります・・・そうなんです、防波堤なんです。つまりこちらから先には流れは来ては困りますというストッパーの役割の溝なのです。砂場などで行う泥遊びの堤防なんですね。一方で、この天保銭の条痕はこの堤防とは少し性格の異なるものかもしれませんが、文字の先端部に限って言えば(結果的に)堤防には違いありません。(ここから先は行かせないぞという加工です。)画像の天の前足の先にはかすかに鋳だまりの残骸のようなものが残っています。
この天保銭は駿河で出品されています。手の届かない品ではないので早く誰かが購入してくれないと私が買ってしまいそうです。誰か何とかしてください。
 
3月27日 【Tさんの小冊子】
天保通寶研究会の席でTさんから頂戴したもの。実は交通会館のある店頭でこれを見かけ、売り物ですか?・・・と思わず聞いてしまいました。古泉会展示品の内容は14品。
1.水戸正字背異 非濶縁手錫母銭 2.仙台通寶小様長寶大型錫母銭 3.本座広郭錫母 4.秋田鍔銭中尾背異 5.本座細郭錫母 6.盛岡大字銅母銭 7.當四俯永錫母 8.文久永寶草文細郭無背 9.文久永寶草文背二十一波 10.会津濶縁黄銅質 11.本座細郭試鋳銭 12.萬年手天保仕立銭 13.本座中郭銅母銭 14.水戸正字背異非濶縁手小足寶錫母銭 とまあ、ゴージャスなこと。
錫母の鑑定は非常に難しく、私にはまだ自信がない・・・というか錫母を触ったことすらない。百聞は一見にしかずと言うものの、錫は崩壊があるのでそもそも収集対象外に決め込んでいます。(初期銭以外の錫母はなぜか崩壊しないと言います。)
贋作は複数掲示もあるので全部で27品。なかでも盛岡小字は実物を見せて頂きましたが実によくできています。時間が無くて見分けのポイントを聞くのを忘れてしまいました。
これだけのものをお持ちですのでさぞや贋作に引っかかったことがあると思いきや、人生で二度だけだとか。私?・・・掃いて捨てるほどあります。思い出したくもないけど忘れられない・・・と、言いたいところですが反省もなく手を出して痛い目にあっています。小さなエラーは星の数ほどあると思うのです。最近は贋作と判っていても欲しくなる変態ぶりです。まあ、私のHPを見ていればお判りでしょう。
※Tさん=高崎さん。7番 銀座は錫母の技術を持っていなかったとも聞きます。12番 万年手の天保はすべて狩谷棭斎のコレクションからの流出で鋳放し銭しか残っていないと聞いていました。棭斎のコレクションは天保銭制作にあたってアドバイザーであった棭斎に対し、金座が直接贈呈したものであり、由緒ただしいもの。そのほとんどが国立民族博物館に収蔵されており、民間にはないはず。ただし、そのうち何枚かが流出したという噂もあります。
3月26日 【土佐額輪の再考】
額輪本体
長径48.9㎜ 短径32.6㎜ 
重量17.5g 銭文径40.2㎜
こうして画像にすると土佐額輪そのものなんですけど、実物は極めて美銭。端正なつくりでむしろ接郭に近い。この天保銭、明らかに本座広郭の覆輪写しで、仿鋳という名で交通会館で売られていましたが、どうも腑に落ちないこともあり、価格も安かったことから購入してしまいました。気になったのが刻印がとんでもなく小さくそして浅いこと。額輪の極印が小さいことは判っていましたが、この銭の発する製作の雰囲気が私の中の額輪のイメージとはかけはなれていました。
(いまさらなんだ、初心者みたいだと言われそうで恥ずかしいのですけど・・・)
天保通寶研究会の席において、隣席のN氏に意見をお聞きしたところ頭の中のもやもやが晴れました。これこそ額輪なんだそうです。
たしか、天保仙人様も同じことをおっしゃっておりましたね。額輪と額輪肥字の類は額輪とは別物ではないかということを・・・。そう言えば私も改造銭物産展のコーナーの中で、額輪の微妙な違いの謎を述べています。
結論から言うとこれこそが額輪の本体銭であり、砂磨きの良い美品なのです。実物をよく観察すると背に嵌郭の跡がはっきり残り納得できました。輪の際にも段差のような痕跡があります。サイズ・母銭からの伝鋳の様子などまさに額輪そのもの。余計な出費でしたが勉強ができて幸いです。そうなると額輪の肥字の類は、土佐額輪とは素性が異なる可能性があるということでまだ謎がたくさんありそうです。楽しみが増えました。
※額輪は雑銭には違いありませんが額輪本体は従来の評価よりはぐっと少なくなると思います。
※画像より実物の方がきれいです。砂目もきめ細かく見えます。拡大画像にすると特徴が良く出てくる場合と、その反対の場合があります。
 
3月25日 【社寺福銭・上棟銭銭譜 第2巻】
東京交通会館の戦利品です。おもちゃ箱のような銭譜ですけど中には興味をそそるものがあります。天保十年の江戸城西ノ丸御殿上棟銭など良く残っていたと思います。天保十巳亥初春中九日 西御丸上棟とありますから、1839年の正月9日のことでしょうか?調べると江戸城西の丸は前年の3月10日に炎上しています。金銀鍍金の上棟銭ですけど、やはり包み紙の有無で価値が全く違うものでしょうね。変わったところでは昭和30年代に造幣局が参観記念に上下に桐刻印を打った寛永通寶をお土産に配っているそうです。昨年の12月12日の制作日記に書いた陶磁器切手ですけど、これは昭和57年にまとまって発見されて収集界に流れたもの。((約1000枚)表が額面で裏が発行日。(明治末期)
なんでも千代盛という酒造メーカーが、お客さんの景品として四斗樽の中に入れたものだとのこと。四斗樽(72リットル)とは相当な量ですけど当時は日本酒全盛で、量り売りも当たり前だったので結構喜ばれたのじゃないでしょうか?もちろん、樽から引き揚げてマルイ百貨店に持っていけば使用できる商品券です。四斗樽ならもちろん、一般家庭用の景品ではなく、業務用(販売促進用)ですね。その他にもグリコ天保ならぬグリコ文久やグリコ寛永も存在するようで、いやあ面白い。この本は京都のはせがわ商会さんが発行しています。。
 
3月24日 【天明五年乙巳銘入りの雨乞い銭】
雨乞い銭は面背両方か背のみに筋を刻むのが普通。面だけ筋を入れて背に文字とはちょっとおかしいかな・・・と思いながら(作銭の可能性も高いのですけど)面白いので買ってしまいました。
天明5年(1785年)は天明2年にはじまったの大飢饉の真っただ中。天明3年には浅間山や岩木山が噴火し、飢饉に拍車がかかります。火山噴火による異常気象で、とくに日照不足による冷害は深刻だったようですけど、天明3年の冬は雪が降らない超暖冬の異常気象だったようで、ひどい水不足もあった可能性があります。乙巳(きのとみ・いっし)について調べましたが、天明5年そのものが乙巳の年に当たるということまでは判りましたが、選日の天上天一の日を表しているのかもしれずよく判りません。ご存知の方お教えください。
※彫り跡が深い割に滑らかで、タガネ彫のような荒々しさに欠けている気がしますドリルによる彫金・・・そんな気がします。古色はあって面白いのですけど、ファンタジー的な作銭かもしれません。
 
長径48.1㎜ 短径31.4㎜ 
銭文径41.0㎜ 重量21.7g 
3月23日 【東京交通会館に行ってきました!】
3月21日(土)、ひさびさに東京交通会館に行きました。(日付の方が進行してしまっていますがお許しください。)交通会館に行くのは実に久しぶりのような気がします。今回も仕事の関係から絶対無理だと思っていたのですけど、ぽっかりスケジュールがあきました。女房の「今日は大掃除よ!」の掛け声を背にこそこそと玄関を抜け出しました。そのため鍵も時計も携帯電話も忘れてしまいました。
会場をぶらついてめぼしいものを物色。本日の入手品ですけど・・・不知長郭手・不知広郭手(実は額輪本体)・水戸濶字退寶背錯笵銭・寛保期高津銭背錯笵銭・天明5年乙巳銘入りの雨乞い寛永・社寺福銭上棟銭銭譜(第2集)など、安物買いの銭失いですけど、本当に安物しか買っていません。右の天保銭は不知長郭手の一度写しで平凡ながら3500円という値段が気に入った!
会場にはあまりめぼしいものはなかったので、早めに切り上げて帰ろうと思ったら後ろからYさんに声をかけられました。なんでもこのあと神田で古銭会があるから参加しないかとの話。携帯電話もないし、鍵もないので、万一妻が外出してしまっていたら家に入れないから大丈夫かな・・・と自分に都合よく考えOKしました。
古銭会とは天保通寶研究会でして、神田のルノワールが会場でした。メンバーは古銭会場で良く見かける面々ですが、私も名前と顔が一致しません。
久々に会った法学生のK君は弁護士になれたそうです。お祝いに?ある不知銭をねだられてしまいました。
私の隣に座られていたのはインターネットで何度か取引をしていたSさんでした。そして遅れて見えたのがNさん、私の記憶が正しければもうずいぶん前に天保仙人宅でお会いして以来2度目だったと思います。そのNさん、まあ、出るわ出るわで珍しい天保銭のオンパレード。広穿大字、草点保、覆輪刔輪や長足寶等は山ほど、額輪の母銭やら、、赤銅・白銅の長郭手、正字背異の母銭、厚肉の広郭手、秋田小様の母銭?、遒勁、47.8㎜の細郭手、そして驚いたのが楔形の不知天保銭。
私の保有品は不知天保通寶分類譜の原品で最厚部でも3.6㎜ほどなんですけど、Nさんの不知銭はなんと最厚部が5.4㎜もあるのです。
あまりのショックで書体が頭に入りませんでした。Nさんのコレクションのすごいところはすべて状態が良いことなのです。つまりグレードが申し分ない。こんなすごいものをお持ちのNさんはいったい何者なんでしょう。そしてHさんからも南部小字の美銭や天保銭母銭等を見せて頂きましたが、これまた非常に美しい。この観察で夏の古銭会の項に展示してある深字の大様銭が母銭仕立てであることが完全に理解できました。
さらにTさんから「古泉会展示品」「贋作」の小冊子を頂戴しました。南部小字の贋作は実によくできていましたね。私には見破れないかもしれません。また、古泉会展示品の中の拓本には万年手天保をはじめとした珍銭・・・とくに錫母の数は目を見張ります。Tさんも何度か古銭会場でお見かけしておりますが、いったい何をされているのでしょうか。ものすごいコレクターですね。ところでいただいた小冊子の中での記述で気になることがありました。
水戸の濶字退寶に八手桐極印が打たれている物をお持ちだとか。(しかも5品も)
濶字退寶は(短足寶とともに)新渡戸仙岳氏が簗川銭座である可能性を示唆していたと思います。したがって、極印に八つ手桐があるということは非常に興味深いことなのです。そしてT氏が5枚も保有できているということは、ひょっとしたら私も発見できるのではないかという淡い期待が持てます。もっとも私とTさんの眼力レベル雲泥の差でしょう。(おまけに老眼で本当に目が利かなくなってきた。)極印は南部藩のものと完全に一致するわけではないようなのですけど是非一度拝見したいものです。
こういった方々にお会いして良いものを見て刺激を受けることで、少しずつですがレベルアップできた気がします。やはり良いものを見て、知識ある方々の意見を聞くことは良いことですね。
なおさくらコインショー会場で見かけてどうしてもわからなかった天保銭が2つあったことを記します。ひとつは不知長郭手の天保銭でしたが、書体は本座風なんですけど
銭文径が42㎜以上ありました。極印が見えなかったものの母銭のつくりでもないし、焼け伸びにも見えなかった。製作や金質が腑に落ちなかったので購入はしませんでしたが、あれはなんだったのかしら?
それと
白銅の曳尾。実に見事な白なんですけど銀メッキにも見えてしまう。食指が動きかけたけれど値段も良かったので今回は思いとどまりました。Nさんからは「銀ネズ色の天保はある」と言われ、確かにそう思うのですけど、銀メッキにもそういう色があるんですね。私、、さんざんひっかかっていますから臆病なのです。でも次は買っているかもしれません。板井・松岡・鎌田・矢内・原田・目黒・北沢・高崎・西条・名倉・小出・吉田
 
3月22日 【大和文庫から】
大きな寛永ということで・・・雑銭の会のHPを見ていたら大和文庫のHPにこの大きな古寛永銭が出ていたとの記述。あらら・・・なんと立派な古寛永。見落としていたため、初値が判りませんが、25㎜を超える吉田狭永小字汚頭通刮貝大様だそうで、母銭じゃないかとの事。
どうも私は母銭の判定が苦手でして、(だから手を出さない)母銭なんだか通用銭なんだかよく分かりません。大きいから手本銭だ・・・なんて意見じゃダメかしら?
まあ、これだけ大きけりゃ、母銭でも通用銭でも希少なのですよね。
輪幅も充分あるし、貫禄あるし、雑銭の中にあっても目立ちますよね。4文銭の踏潰銭の次に並べると目立ちませんけど、25㎜超えの古寛永は一部の銭種を除きかなり希少なんですよね。それにしても立派。最近天保銭ばかり見ていたから古寛永は盲点になっていました。
 
3月21日 【28.77㎜の踏潰銭】
踏潰銭は密鋳寛永の中の花形です。比較的存在数はあるようですけど、細かい変化が多く、なにより風貌が楽しい。延展技法なので姿が立派なものが散見されるのですけど、数的にはそんなに多くはありません。28㎜以上あれば大きい方で28.5㎜でかなり大きい。私の所有品は28.7㎜で最大クラスだと思っていましたからちょっと熱くなりました。Sさんの分類だと俯柱永離王寶のようです。
この種の特徴として真円にはならないので果たしてこの径がどの部分で計測したのかも気になるところです。
ところで、この踏潰銭は濁った茶褐色系が多く、また表面に細かな傷・・・おそらく砂磨きによるもの・・・が良くみられます。
一方でこのように比較的すべすべしたものは比較的青みのある地金に多い気がします。
余談になりますが私の所有物に直径が29㎜を超える巨大なものがあります。細かな傷はあまり目立たずきれいなものです。ハドソン社の東北・北海道の貨幣に掲載された広永の母銭(誌上では濶永の名前で掲載。)に輪の瑕の位置などが重なり、おそらく兄弟銭であろうことは判るのですが、何でそんなに巨大なのか・・・一抹の不安を抱えて今日まで来ています。数名の方に見て頂き、間違いない品であるとは言われています・・・しかし、人気がある品だけに、誰かが悪戯をしているのではないかと不安でして(大きすぎますし)・・・いっそのこと変造だと断定された方が安心できるような不思議な気持ち。一方で灰色決着をもよしとする自分もいる。真相は闇の中・・・どなたか勇気ある方、ご意見をお待ちしております。

→ 特別展示室 特別展示品その7

※3月13日の天保銭がネットに出ていました。HP掲載の強力なアシストで私があおってしまったため、競り合いに負けてゴールならず。縮形の覆輪天保は持っているから欲しくない・・・と言ったら大嘘です。状態の良いものは高いですね。残念!

※東北のTさんによると確認した俯柱永の最大クラスは29.25㎜あるそうです。その話を総合すると俯柱永は28.5㎜以上が大ぶり銭で大様銭といえるのは28.8㎜あたりでしょうか?また、広永の大様は29㎜以上でじゃないかと。他の銭種で29㎜を超えるのは俯頭通(長永)だけじゃないかと。また、小点永・正永・狭永(俯頭永)・濶永で28.3㎜を超える物はなかなか見つからないそうです。
Tさんは踏潰銭にとくに力を注いでいる研究家ですのでその眼は確かです。Tさんの目にかなうものはなかなか少なく、ハードルは高いですね。大きいことはいいことなんですね。
 
3月20日 【長郭手強強刔輪宏足寶】
1月24日の記事のアンサー投稿です。(ありがとうございます。)同じ系統の品ということですが、なかなか見事な刀跡痕跡です。輪際がグリグリと深くえぐられていて輪輪も台形状に斜めに削られてしまっています。
こういった輪の際の加工にはいったいどれほどの効果があったのでしょうか?
通用う銭にこれだけの痕跡が残るということは、母銭係はかなりの力を込めてガリガリえぐったのだと思います。哲よりは柔らかいとはいえ、青銅の通用銭にここまで傷を刻み込むのは並大抵の努力ではないはず。したがってこの作業は鋳造上に重要な意味があるものなのだと思うのです。しかし、私は冶金については全くの素人なので、詳細が分かりません。全くの謎なんですね。どなたか良い文献・資料などがありましたらお教えください。
 
長径48.9㎜ 短径32.7㎜ 
銭文径40.2㎜ 重量19.8g 
長径49.5㎜ 短径33.0㎜ 
銭文径40.8㎜ 重量23.3g
3月19日 【新発見!名称をどうしましょうか?】
天保銭の話題が続いて恐縮ながら・・・
先日、入手した左の地味な天保銭をひっそり泉譜に加えていたら、すぐにある研究者から連絡が入りました。「この天保銭はあなたが細郭手覆輪刔輪退口呆としているものと同類なのに気づいていましたか?」
もちろん、気づいていませんでした・・・いえ、似ているなと思いながらも違うと判断していました。(思いっきりいいわけですね。なにせ解説文に接郭の出来損ない風としてありますから・・・)
最近はパソコンのやりすぎか(+老眼)このように黒っぽい古銭はとても苦手になってきました。したがって全国のコアなファンが私の間違いをズバッと指摘して下さるおかげで私は天下に恥を晒す時間が短くなり、人様の知識の披露で尊敬も集めることができるという素晴らしいシステムは、誠にありがたいことなのです。
実はこの天保銭、入手直後からおもしろいことに気づいていて、ひそかに出稿準備をしていたのです。従いまして恥の事実を隠ぺいすべく、すぐに公開に踏み切った次第です。

※拡大画像と記事の掲載はこちら → 夏の古銭会

私はこの天保銭の名称を「中郭手覆輪刔輪斜冠寶」と名付けていましたが、実はこれは駿河481号のNo237でして、出品名は「中郭手覆輪」でした。改めて入札誌をよく読んでみると英泉譜1592の原品とあります。これは見落としていましたので早速引っ張り出しました。ありました!
ちなみに細郭手覆輪刔輪退口呆も同じく英泉譜1421の原品でしたね。この件は今回ご指摘いただいた方にかつて教えて頂いたような気がします。細郭手覆輪刔輪退口呆の入手の経緯は2010年12月11日の制作日記に記してありますが、はじめ収集誌に草点保として入札掲載されていました。しかし、結果として返品になったようで、それを私が安値?で拾ったもの。とてもラッキーでしたけど、入手直後はピンとこなかったのです。それがある方の指摘で、類似カタログの「短尾通細字」の系統だと教わりました。半信半疑ながら夏の古銭会で天保仙人様の所有品の撮影をさせて頂き、同じ系統の品であることも確認できました。(極印も同じだったと思います。)

記事を書いていてたった今気づきました!大発見かもしれません。
実はこの天保銭と全く同じ極印の不知銭を1枚所持しています。天保通寶極印図鑑で段違いハート形と名付けている私所有の覆輪長郭手と同じ極印なのです。葉脈の段違いはもちろん、全体の形までほぼ完ぺきに同じです。他人の空似とは思えませんね。砂目も非常によく似ていますが製作は異なります。この結果はまた後でご報告いたします。なお、この手類の名称についてどうしたら良いか目下非常に悩んでおります。類似カタログの「短尾通細字」が一番ポピュラーなのですけど、どうもしっくりいきません。どなたか良いアイデアを教えて下さい。お待ちしております。

※久々に2010年の制作日記を読み返しましたがよいこと書いてありますね。中にはすっかり忘れてしまっていたことがありました。琉球半朱、島屋無背やマ頭通背仙に次鋳があること、錯笵銭の由来の話など・・・こんなこと書いてたんだと新鮮な気持ちで読める・・・認知症です。
 
3月18日 【不知長郭手覆輪厚肉縮形】
少し前・・・穴銭31号の落札品です。
長径48.2㎜、短径32.0㎜、銭文径40.5㎜と、小さめながら重量は24.5gとやや重め。側面の極印は左側が逆打ちされています。しかしそれ以外は本座に製作が酷似していて覆輪銭ですけど、よく観察しないと見落としてしまうほどですね。書体的にはあまり大きな変化がないのですけど、寶足は加刀変形がありわずかに宏足寶気味に変化しています。この足の広がり方・・・なんとなく可愛いでしょう?
どちらかと言えば平凡な覆輪縮形銭とはいえ、過重量銭ですから、手にした瞬間ずっしりとした量感が伝わります。
実はこの不知銭は英泉分類譜1178の原品・・・つまり英泉こと村上英太郎氏の所蔵品なんですね。
ここのところ天保銭市場がにぎやかなのは村上氏の所蔵品が市場に供給されているのが大きいと思います。(おかげでずいぶん集めました。)私もいつか所蔵品を放出する日は来るのでしょうけど、たぶん家族は二束三文でまとめ売りしてしまう気がします。
ということですけど、今回もプレミア付きで購入してしまいまして・・・う~ん、奮発しすぎでしょうか?  
 
 
3月17日 【謎の永楽背桐】
少し前にネットで見かけたよく判らない永楽ですけど非常によくできています。面の見た目は100%明の永楽本銭。それに五三の桐なんて組み合わせは果たしてあったのか?
絵銭ではなく作銭、もしくは民間の祝鋳だと思うもののとても良い仕事をしています。
永楽には有名な銀銭がいくつもあるのですけど、久八作やらラムスデン作やらの贋物がありますので要注意です。戦前には銀ものは素性良くないから手を出すな、といった風潮があったようなのですが、戦後はその風潮は失われてしまっています。
しかも、これは銀より鋳造が難しい青銅もの。細部まで実によくできています。こんなのが雑銭から出てきたら信じてしまいます。信じるべきなんでしょうか?
 
3月16日 【反玉寶仕立細縁銭その2】
画像の2枚はいずれも反玉寶仕立細縁銭として頂戴した画像です。(ありがとうございます。)
どうも私は収集家としてポンコツでして、この天保銭をつい石ノ巻としてしまいます。今は室場という地名が冠せられていますが推定に過ぎ磨ないのかもしれませんので反玉寶とします。
頂戴したときは背景が青く非常に大きな画像だったのでしたが、画質等を調整してあります。
初見では、下の画像の天保より反玉寶らしい雰囲気だと思ったのですが、改めてみると上の2枚は肌が滑らかで逆に反玉らしくないのかもしれません。(背刔輪が右上部に強い癖は良く出ていると思います。)
1枚目は確かに地肌が非常にすべすべしていて本座銭のようですけど背の、背の右上部の刔輪痕跡がしっかり残されていています。反玉の癖も良く見えますね。ただし、雑銭に混じっていたら気づかないかもしれません。よく見ると背にうっすらと朱書きの痕跡もあるので古の大家の手を経たものかもしれません。面が浅地で若干荒れていますが、由緒を感じる伝製品です。
下段の品は如何にも不知銭と言った風貌です。
肌はやや砂目が強く現れており、文字への加刀痕跡も良く残っています。一方で湯圧が不足していたのか陰起文であり、特に保の変化が著しい気がします。背の刔輪も顕著で、また郭の仕上げも雑で、私好みという意味ではストライクの品です。
この2枚、画質調整したのですが、元画像では地金に赤味があまり感じられませんでした。私が過去に見てきた反玉寶仕立銭はいずれもやや青みのある真鍮質っぽい地金が多かったので、むしろこの方が(書体的にも)反玉寶らしく見えていましたが、冷静に考えると、気泡の多いざらついた鋳肌からどうして(上段のような)普通の顔の天保銭が生まれるのか不思議な気がします。
画像の品はいずれも某大家の手を経たものなので、古銭の分類的には間違いはないものだと思います。
深い・・・反玉寶と言うものが私は未だによく分かっていないのです。あの鋳放しのものからこれらの異質肌のものまで色々な製作のものがあり、一方で反玉反玉寶、背の右側上部刔輪が強くなる癖など共通点もある。非常に不思議な気がします。
反玉寶は木村昌古堂の噂話等で若干胡散臭く思え、どちらかと言えば私も食わず嫌い的なところがありましたが、今回画像などを頂戴した件で、再び興味を持つことができるようになりました。
 
3月15日 【反玉寶仕立細縁銭
この風貌を見て室場銭には思えませんでした。仕立てるとこんなに平凡な顔になるのだ・・・と改めて思った次第です。面の反玉もさることながら、背の刔輪・・・とくに當上右側の刔輪が見どころです。前の所有者から複数の反玉寶を示され選んで下さい言われたとき、きれいだけど自分から見て(地肌はそれらしくても)書風的に一番反玉寶らしく感じられないものをあえて選んでみました。(天邪鬼)
こりゃあ本当に反玉寶らしくないなあ・・・・・・と改めて思った次第。鋳放しの風貌や覆輪刔輪のイメージが強烈すぎるのです。これをひと目で反玉寶として拾える眼力の方はすごいです。
仕立て前の顔と違いすぎますよね。本当に同じ銭なのでしょうか?頭が変になりそうです。
長径48.3㎜ 短径32.0㎜ 銭文径40.6㎜ 重量20.5g
ところで・・・
Tさんからお譲り頂いた趣味情報が5冊届きました。ありがとうございます。その中の11月号に反玉寶仕立て細縁銭の拓本がありました。なるほど画像とそっくりです。その解説には・・・
通用銭と思われるものは、おしなべて手ズレしている感じのものが多く、銭径も普通になっています。もちろん反玉寶になっていますが、仔細に判別しないと不知銭とされている物にも反玉寶があり混乱します。H(掲示拓本)は代表的なもので細縁となっています。区別はやはり金質と地肌の相違ということになります。鋳放し銭も高価ですが、通用銭の方はそれ以上に存在は少ないようです。・・・とあります。鋳放し銭の方が派手で目立ちますから、仕立てられて小さくなるとまるでわかりません。それにしてもどうしてこんなに小さくしたのでしょうか?せっかく覆輪で大きくしたのに意味ないじゃん・・・・と、言いたい。
なお、石ノ巻反玉寶には ①鋳放し銭 ②仕立て銭 ③仕立て細縁銭 があるようです。趣味情報でこの細縁銭が通用銭と書かれていたのは、その昔は①の鋳放し銭が未仕立ての母銭ではないかと噂になったからなのかもしれません。反玉寶の鋳放し銭を世に出したのが木村昌古堂という人。はじめはこの反玉寶は人気が無かったそうです。そこでこれを後仕上げしたものが存在するようなのです。(多分②の中にあります。)
また、秋田のM氏はこの反玉寶についてはあまり収集熱心ではなかったようで、氏の天保通寶分類譜にはわずかに2枚の拓本しか掲載されていません。余談ながらこの画像の品、実はM氏の元所有物でもあった時期もあるようです。
 
3月14日 【栓抜き寛永】
まるで寛の文字がバンザイをしているようで可愛い家庭用品です。いえ、今は家庭用品とは言えないかもしれません。すでに我が家には栓抜きはありません。缶切りで代用できますし、缶切りさえ滅多に使わない。今や栓は抜くものでは無くひねって開けるのが常識です。昭和を代表する生活雑貨ですけど、今や栓抜きは宴会場以外ほとんど見かけない代物になっています。
実は私はかつて某ビールメーカーに勤めていました。実家は酒問屋だったのでメーカーのノベルティグッズもいろいろあって、とくに栓抜は当たり前のようにごろごろしていました。鋳物製のジャイアンツ栓抜きは特にお気に入りでしたし、酔っぱらった勢いで奥歯でビール瓶の栓を抜くなんてよくやってました。(そのせいか最近下の奥歯すべてを抜くはめになりました。)
そういえば母の実家には手動の打栓機が転がってましたっけ。(造り酒屋です。)ノベルティグッズも今の時代に残っていたら宝物だったかもしれません。こんなものもあと100年もしたら絵銭扱いになっているかもしれません。
 
3月13日 【投稿画像から】
1枚目は四国方面からの投稿画像。(ありがとうございます。)
未使用肌の残る覆輪の縮小銭。長径48.0㎜、短径31.7㎜、銭文径40.1㎜だそうですので、覆輪銭としてはかなり小さい部類です。
不知天保通寶分類譜では48㎜未満を縮小銭としていましたが、これだけ覆輪がはっきりしているものは48㎜あっても縮小銭として評価して良いと思うのです。私は47.9㎜台の覆輪縮小銭を持っていますが、たまたま私のものは磨輪されていただけに過ぎなく、むしろ覆輪銭としてはこちらの方が立派なのかもしれません。投稿された方は斜珎に見えたとのことですけど、さすがに目が肥えてらっしゃる。ネットに出ていたそうですけど私は全然気が付かなかったです。
書体にはあまり加刀はないようですけど、通頭が大きく見え、辵の折頭が長く突き出ていますね。斜珎のような貼り合せ銭ではなかったようですけどこれはこれでかなり貴重な品だと思います。
※再計測で長径47.95㎜、短径31.8㎜だったそうです。

2枚目は東北方面からのご投稿。(ありがとうございます。)
3月9日の記事に対してのアンサー投稿です。いわゆる鋳割れ銭で、ご本人は参考銭とご謙遜の様子ですが、やすり目の雰囲気から本座ではなく立派な不知銭ですね。鋳型が割れて銭全体が背側に屈折しかかっているようにも見えます。郭までいびつに見えるのですけど果たしてどうなんでしょうか?(面反郭背含円郭になっています。これは面側が凹背側が凸になっているケースに多くみられます。)
鋳割れは錯笵の一種で、錯笵としての評価はされることはほとんどないのですけど、探してみるとどうしてどうして・・・ありそうで意外に少ないと思います。
銭にひび模様が入るということは型全体に歪みやずれが生じているわけで、廃棄処分の憂き目にあうのが普通です。高額銭の天保銭の場合、本座の場合はまず世に出すことは(幕末の動乱期を除いて)ないでしょう。
もっとも、この鋳型の割れも価値評価されるかというと、微妙でしょうね。(私は変人なので評価します。)単なる製造工程の一過性のエラーに過ぎないもの・・・つまり、兄弟銭ができないものなので、大騒ぎするほどでもないようです。(私は大騒ぎします。)
世界に一つしかない変化なのですけどね・・・3月5日の千鳥なんてそれに比べれば山ほどある変化なんですけどね。

※記事を書きためている関係でついつい日付を追い抜いてしまいます。これで金曜日まで休めます。そういえば震災から4年も経ってしまったのですね。早いものというかまだまだというか・・・。
 
3月12日 【趣味情報】
収集範囲が文献まで・・・といっても興味は本そのものではなく、中の記事にあるのですが意地になって集めており、ボナンザは完収、収集誌もたぶんあと1~2冊で完全だと思います。
思います・・・というのは整理がいい加減で、ダブっている物もあるし、きちんと年号順に並んでいないから良く分からない。現在も枕元に「積読」状態ですけど、気になったら引っ張り出して読んでます。従って年号順に整理するのが年一度の行事なんですけど、昨年末はサボってしまいました。
さて、そんな雑誌収集の中で私の興味が尽きないのは画像にある趣味情報という雑誌。まだ2冊しか読んだことがないのですが、内容的には収集誌の初期の頃にそっくり。収集誌が出る直前に廃刊になっているようなので、ある意味引き継いだものではないかと推定していたのですが・・・。もともとは交趣会という鉄道(切符)の関連の趣味の会が発行していたようです。現在、古銭の即売会が東京交通会館で最も多く行われているのも、ひょっとしてこれが縁なのじゃないかしら。
収集した情報によると新聞形式の情報紙としては1974年頃には存在していたようで、1975年の6月頃に雑誌形式になり1976年には終刊しています。雑誌ですし、ごく短期間の発行であったようですのでほとんど見かけない幻の資料です。このたび、ネットで発見ししめしめと思ったのですけど、私以外にも興味を持った方がいらっしゃったようでして負けてしまいました。(競った方ごめんなさい。)こんな雑誌を集めているコレクターはごくまれでしょう。ですから存在数は島屋文クラスだと思います。

関東のTさんから所有本をお譲り頂けるとのお話がありました。貴重なものをありがとうございます。 
 
3月11日 【方字次鋳の発見】
萩銭大好きの京都のTさんから報告。方字の次鋳らしきものを発見したの報告でした。まずは画像をご覧ください。大きさの違う萩の方字3枚。
右端 長径49.6㎜ 短径32.7㎜ 肉厚2.7㎜ 銭文径40.7㎜ 重量23.7g
中央 長径49.0㎜ 短径32.2㎜ 肉厚2.5㎜ 銭文径40.4㎜ 重量20.23g 
左端 長径47.8㎜ 短径31.5㎜ 肉厚2.1㎜ 銭文径39.8㎜ 重量14.57g
画像を重ねあわせても左端はワンランク縮んでいます。存在するらしいという事はかなり昔に天保仙人様から聞いておりましたが、実際に拝見するのは初めてのこと。細縁であるとしても長径が48㎜を切るということはかなり異常な小ささですね。そして軽い。やはり、次鋳は末鋳なんでしょう。Tさん、ありがとうございました。
逆に右端はずいぶん立派ですね。Tさんいわく、曳尾も方字も薄くて軽い物にも結構深くて大きい刻印が打たれています。(律儀に)
ところが、どちらとも重くて大きいものには、小さくて浅い、しかしくっきりした刻印がうたれている共通点がありふしぎです。(一番右の方字がそれです)・・・と、と、いうこと。さすがに萩銭をたくさん集めているだけのことはあり、新たな発見かもしれません。情報提供ありがとうございました! 
 
3月10日 【紅葉寛永背鏨大黒】
この絵銭、どちらが面でどちらが背かは判りませんが新作です。普通は二兎追うものは一兎をも得ずなんですが、どうせ新作絵銭なので何でもアリで、こんなにふざけた意匠でもちゃんと食らいついてくれるバカなコレクターがいます。(私です。)
鏨(タガネ)大黒は大黒様の背負う袋がタガネで刻まれたような文様があることからの名称で、輪にも刻印があるものが本家。右手の形から「す」の字大黒とか、頭巾の形状からガンギ大黒という名も聞いたことがあります。(ガンギとはやすりの一種で当て字で岸木と書くようなのですが、階段状の護岸の雁木からの転の可能性や、あるいは形状から見て雪よけの雁木からの由来の可能性も充分にあるような気がします。)本来は一俵大黒というのが正しいようです。寛永と紅葉を組み合わせたのは・・・う~ん、判りません。デザイン、お土産でしょうね。 
 
3月9日 【不知長郭手覆輪(背鋳割れ)】
久々にインターネットで落としたやや白銅質の不知天保銭です。長径が小さいのに輪幅があり覆輪の1回写しだと思われます。
おそらく湯の圧力に鋳型が耐え切れなかったのでしょう。背の花押を袈裟懸けに切るように鋳割れが走っています。
天の上が鋳だまりで潰れているため銭文径は推定値です。穿内は面背両方からべったりやすり掛けされています。極印は下の葉がまん丸の変わった形状の桐極印です。
書体に大きな変化がないのにけっこう良い値まで行ってしまいました。覆輪銭ですけど・・・まあ、普通ですかね。

※こういった縦に細長い覆輪銭でやや白っぽいもの。手持ち品の中に類品があるかもしれませんね。皆さんも探してみて下さい。
長径48.7㎜ 短径31.6㎜ 銭文径41.0㎜(推定) 重量20.2g
 
2枚 大様 0.27%
31枚 次大様 4.22%
387枚 標準 52.65%
97枚 小様A 13.20%
158枚 小様B 21.50%
11枚 小様C 1.50%
49枚 最小様 6.67%
合計735枚 
進永 24.4㎜ 退永小通全刮去 24.25㎜
3月8日 【元文不旧手大様銭】
2013年の4月と5月に元文不旧手大様銭の記事を書きましたけど、あの謎は未だによく判らないまま棚上げ状態です。そもそも元禄期不旧手(七条銭)と元文期不旧手には寛爪変化を除いて大きな書体の差がないのです。違うのは銅質製作と大きさのみ。そこで収集80年5月号に大西良彦氏の「新寛永銭元文不旧手進永等の見聞録」が掲載されていますので参考にしてみました。
それによるとこの銭には大様から小様まで存在するとある。左の表はそれをざっとまとめたものです。実は大西氏の分類は退永が小通含みの合算でした。また、まったくのウブ銭からの拾い出しではなく、、とくに数の少ない異爪寛や全刮去銭はサンプルを集めたとの事。大西氏はこの全刮去銭がとりわけ好きだったようで意図的にも集めていたようです。たしかに全刮去銭は色が灰白色のものが多く、製作も比較的安定していますから・・・。そのため、書体寛爪の数の違いなどを無視して、全体像を見るためひとまず表全体を合算した形にまとめ直してみました。若干の差異はあるものの標準銭が23.5㎜にあると判明したからです。再集計の結果、大きさのピークが2つあり、どうやらこの銭には本体銭と次鋳銭があることが改めて見えてきました。さらに、本文中に「退永には小通と長通の手替わりがあり後者は少ない」あります。小通は退永小通であることは判るのですが果たして
退永長通とはなにものなのか?お分かりの方お教えください。
大西氏の発表の残念なところは大きさの定義がはっきり書かれていないことで、とくに大様銭についてはサイズがまったくふれられていません。理由は大きさよりも重さに主眼が置かれた計測分類だったからなのです。まあ、記事中から推定すると大様(24.0㎜以上) 次大様(23.9~23.7㎜) 標準(23.6~23.4㎜) ぐらいまでは推定できますが、小様サイズはバラバラで記事誤植もあるようでよく判りません。まあ、大様が少ないということは判るのですけど、それにしても上の2枚は大きすぎます。それでも大様があるのが分かっただけでも収穫なのでしょうか。
元文不旧手は24㎜以上は希少品なんですね。だからと言って上の品の謎が完全解明した訳ではないんですけど。(あるいはできぞこない母銭かしら?)
ちなみに左の品は重さも4g超過とぶっとんでいます。
 
3月7日 【和歌山長尾寛】
関西方面からの投稿画像です。(ありがとうございます!)
雑銭からの掘り出し物で巨大な背郭から和歌山銭であることがすぐに判ります。そしてこれはあの貴重な長尾寛なんですね。ホコリが苦手な私は鉄銭の撰銭は絶対できません。心理的にダメなんですね。だから私はこのようなものは一生かかっても掘り出しは不可能なのです。さて、この和歌山銭長尾寛には非常によく似た繊字というものがあります。こちらは比較的よく見かける雑銭です。
よく見ると通のしんにょう形が異なるのですが、錆びついた鉄銭の場合は見分けるのは大変です。その場合は寛尾と寛爪の長さに注目!寛爪の長い鉄銭には長爪寛片川という珍品もありますのでこの点は押さえておきたいですね。ちなみに掲示品は錆も少なく鉄銭としては上々の品です。
 
3月6日 【違法通貨 ランディ島のパフィン】
穴銭以外の話題になりますが鳥つながりということで・・・ミニ国家の鳥デザイン通貨のお話。ミニ国家で有名なのはロンドンに近い北海の南端に浮かぶシーランド公国あたり。もちろん正式な国家ではありません。この公国は公海上の放棄された海軍の建造物を1967年に占拠したロイ・ベーツによって建国が宣言されたもの。1968年には裁判で事実上の勝利をおさめ、英国の主権が及ばないことが確認されています。ロイ・ベーツは海賊放送局運営の罪で訴えられたのがきっかけで、亡命建国を思い立ったようですけど、占拠したのが人口建造物であり、英国政府も放棄を宣言していたのが幸いしました。この国家、1978年にはクーデター騒ぎがあり、なんと亡命政府まであるというから驚きです。さらに、2006年には火災を起して各メディアを賑やかしましたし、現在は売りに出ているみたいです。
そのシーランド公国に先立つこと30年余り、ブリストル海峡上の小島ランディ島もオーナーになったロンドン実業家のマーチン・コールズ・ハーマンによって独立が宣言されたことがあります。独立宣言期間は1925年から31年まで。その間に島に生息する大きなくちばで愛らしい海鳥のパフィンをデザインした立派な通貨2種(1パフィンと1/2パフィン)をつくったそうです。当然、英国政府は大激怒し、ハーマンは1930年に偽造貨幣製造で有罪(罰金刑)になったそうです。
かくして違法通貨となったパフィンですけど、世間のコレクターの注目度は高く、ヨーマンカタログにもしっかりと掲載されているそうです。ただし、ランディ島はバードウォッチング観光客相手の産業以外は農家が何軒かあるだけの孤島。2007年時点の人口は定住30人未満ですから、当然この通貨の流通は微々たるもの。外貨獲得のためシーランド公国も通貨は発行していますから、同じようなものと言えばそうなのですが、パフィンは短期間ながらも実際に島内で流通したみたいです。(1981年収集記事等より) 
 
千鳥通用銭  手引の千鳥母銭拓 千鳥家紋
3月5日 【千鳥】
久々にインターネットで新寛永の役物を買ってしまった。実はあまり買う気はなかったのですけど落ちてしまったというのが本音。
千鳥・・・しょせん鋳だまりでしょう?・・・と、冷たく対応する方もいらっしゃれば、形状違いを追い求めて血眼になる方もいらっしゃると思います。
私はその中間派でして、面白ければ欲しいと思うナマクラ野郎です。今回は久々に手に取ってみましたが明らかに次鋳サイズでまあ見栄えのしないこと。通常の日光正字よりワンサイズ小さいと思います。日光銭は美銭も少ないし、色調も暗く鮮やかではないので、これぞと思うものはためらわずに拾いましょう!この無粋な鋳だまりをよくぞ千鳥と名付けて人気銭に仕立てた先師のセンスの良さに頭が下がります。
千鳥の名称の由来は右の千鳥の家紋を見て頂ければ納得できるでしょう。この家紋は最近のデザインではありませんが、現代的なデフォルメがなかなか斬新です。ところで新寛永通寶鑑識の手引きに掲載されている大型の母銭拓(中央)は、通用銭と形状が異なっている・・・とあちこちに書かれています。比較してみると2サイズぐらい大きいので原母に近いのかな・・・と感じます。まあ、しょせん鋳だまりですからね。
ところで左の千鳥通用銭・・・よく見ると永寶間にも鋳だまりがあります。これも類品が出てくれば面白いんですけどねぇ・・・。
しかし、何度見てもこの千鳥・・・もし、源氏名が無かったら単なる出来損ないですね。
 
3月4日 【「駿河」40年の歩み(2)】
少し前のことですけど駿河の別冊が届きました。私はこの手の読み物が好きで、最近は将棋も趣味にしていますが指すことはなく、その裏側にある人間模様や出来事を読むことが好きなのです。
編集者氏の思い出話では「初めての古寛永」では菓子箱に入った古寛永類を4万円で買ったら、元コレクションだったらしく、二水永などの役物がザクザク出てきた・・・編集者氏が良心的だなと思ったのは、内容を確認して追加の支払いを申し出たこと。普通はそんなことはありませんね。売り手・買い手とも古寛永に対しての知識がなかったから起きたことでもあり、もし、私が買い手だったドキドキ顔面紅潮してとてもこのようにもならなかったと思います。それとも編集氏が残りの収集品が出てくることを期待していた・・・なんて勘ぐるのはゲスで無粋ですね・・・あり得ませんね。
ベテランの古泉家はこういう場面に遭遇しても決して欲しいそぶりは見せず、しらっとして購入すると聞きます。欲しそうなそぶりをすぐに見せてしまうのはアマチュアなんです。もう7、8年前になりますが、会津長貝寶を店頭で掘り出したとき・・・しれっとしていればもっと安く買えたと思いますが、私の興奮ぶりを店主に見透かされて1万円になってしまいました。それでも十分安い金額でしたけれど。
冒頭に古寛永二水永広三の価格相場がグラフにされています。今でこそ3~4万円という相場ですけど、私のイメージでは10万円ぐらいはしていたように思います。思えば安くなったものです。
 
3月3日 【長郭手強刔輪長張足寶未使用銭】
これまた投稿画像です。
不知長郭手強刔輪張足寶のまばゆいという言葉が当てはまりそうな未使用銭です。この状態はまずお目にかかることが不可能なもの。だいたい、未使用の天保銭なんぞ、本座以外ではほとんど見ることがありません。最近はやりのミントなんとかというグレーディングにかけたらMS○○というようなランク。(よく判ってないですけど。)おそらく天保銭が世に出た頃は皆こういう色で、まさに小判を彷彿とさせたことと思います。しかもこの品は張足寶の中でも刔輪が強く、一段と足が長くなるタイプ・・・製作日記2月20日の左側のタイプ・・・です。このタイプは背側が細郭になる癖があるようです。状態はおそらく日本一、いや世界一でしょう。
刔輪は寶下のみならず天上もきつい・・・張足寶の中では最高峰クラスのものです。拝みましょう・・・。

※いつ途切れるかわからない・・・と言いながら1月、2月と毎日記述を続けています。この作業ストレス解消のつもりなんですけど、本当は本業も忙しく、最近は徹夜もあります。今朝も5時前にたたき起こされました。過労で倒れる前の断末魔か?そんな自分に酔っています。
 
3月2日 【不知細郭手覆輪強刔輪張足寶】
投稿画像です。(感謝!)
不知天保通寶分類譜では張足寶の名前で掲載されていると思いますが、当百銭カタログでは覆輪強刔輪の名が冠されていますのでそれを生かしました。一般的な細郭手張足寶より寶足が長いだけでなく、覆輪変形で銭形そのものが卵型になっているのが特徴的で細郭手では最も寶足が長く、その分存在も少ないようです。
余談ながら・・・
当百銭カタログの中をぺらぺらっと見ていたら、あれれもっと足の長いやつがある・・・ああ、長郭手の長反足寶だ!
当百銭カタログにはこういった誤植がいくつかあり、細郭手の張足寶が長郭手に掲載されていたりします。ちなみに長郭手の長反足寶は長郭手の項にもきちんと掲載されています。
計測値も全然違うし、評価も細郭手の欄の方が5万円ほど高くなっています。まあ、このクラスの珍品を求めるマニアは値段のことはあまり気にかけないだろうし、これだけの間違いならすぐ気付くと思います。あるいは世間でよく言われる古泉家のお遊びなのかもしれません。こういった悪戯はかの、小川青寶樓もやったとか・・・。
 
3月1日 【秋田小様の中様(47.46㎜)】
少し前にネットに続けて出た品の収取画像です。
秋田小様に大様・中様・小様があるはずだと公に言い出したのは私が初めてなのかもしれません。元情報は天保仙人様からうかがっていたような気がしますので、厳密に言うと私ではありませんね。
ただ、入手後に鋳縮みと銭文径を調べているうち、秋田の小様には間をつなぐものがあるに違いないとの思いに至り、たまたまその後に入手したものが中様で実にどんぴしゃでした。それでその元になった大様が絶対あるはずだと睨んだ次第。大様についてはまだ東北のS様からの報告の一品だけの確認で、これは存在数の少なさから母銭なのかもしれません。
この天保銭は小さいほど人気で、45㎜台なんてものが稀に存在しますが、46㎜台後半で普通品、47㎜以上は中様クラスがほとんどです。
本来なら銭文径を表示したい所なのですが、この天保銭は文字がぶれたり太くなっている物が多く、計測向きではないのです。
まあ、小さければ小さいほど評価が高くなるのは納得がゆくのですけど、大きいものも結構貴重なんですよと皆様にお伝えしたいです。なお、なお、この秋田小様は地元の収集者の間でもかなりの難獲品らしく、見栄えはしませんが秋田天保の中では細郭をはるかにしのぐ貴重品だそうです。
※不知天保通寶を集めていると、これらの中にも大様、小様があることが判ってきました。俯頭通しかり、宏足寶もそう、覆輪刔輪短尾通(短尾通)だってそうでした。水戸遒勁に大きさが様々なものがあるのも同じ理由であると思います。つまり大量生産のため初期段階でつくった原母銭相当の大型銭をそのまま母銭としても使用しているのだと思います。そうなると、萩の方字、琉球の半朱の次鋳が見てみたい!
※所有者の方からメールが来ました。長径47.46㎜ 短径32.05㎜ 銭文径39.89㎜ 重量19.73g 立派な秋田の小様の中様です。 
 
2月28日 【琉球封印銭】
珍品という意味では絶品です。実はこれをばらしたものはいわゆる鳩目銭であり、沖縄の三寶堂さんに行けば1000円以内で買えるはずです。ばらされると実につまらない風貌で、たしか私も持っていますがどこにやってしまったやら・・・。
封印銭はこの状態であって初めて価値があるものながらヤップ島の石貨のように保存に困るもの。貨幣というより祭礼の道具のようです。
川村羽積の奇妙百圓に「此銭百文をつなぎ国王の封印をなして用ゆ」とあるそうで琉球沿革志に「鳩字銭と云ふあり、黒銅銭なり、形繊細絲圏の如く一貫三四寸許に及ばず、紙にて貫口を封し之を鈴記す、散ずれば用ゆべからず、其来ることは巳に久し」とあるそうです。
鳩字銭とは鳩目銭のことで、民間私鋳の小さな輪のような銭で無文が普通ですが、この封印銭の中から沖縄貨幣の中の珍品中の珍品、中山通寶(ちゅうざんつうほう:この読みで良かったかしら?)が発見されているので、探査目的でばらされたものや、縄切れでばらけたものもあるのではないでしょうか。
その資料的な価値は安くみても100万円以上はすると思うのですが、落札価格は10万円余りでした。真贋は判りませんが、仮に本物だとしてこれが今の市場価値という事か?古銭というより生活の道具としての価値という事かしら?

実物を見た人はほとんどいないと思いますし、私も封印状態のものはショーケース越しや資料などで見た記憶があるだけです。手にとれと言われても怖くて触れられませんから・・・。
なお、奇妙百圓に「百文をつなぎ」とありますが、画像の品はどうみてもその数倍はありそうです。要は百文とは価値としての百文を意味するのか、あるいは単純に「たくさん」を意味するのかもしれません。
 
2月27日 【斜穿の文久】
これも投稿画像です。ありがとうございます!
雑銭から出たそうですけど測ったような斜穿ぶりが見事ですね。はい、これもまた見事な雑銭に違いないんですけど。
通常、このような錯笵銭は出来が悪いのが相場なんですけど、こいつは頗る顔が良いですね。とくに背側の彫が深く、まるで母銭のように美しい!
穿がずれて郭が星形状になった穴銭を「花穿」という事があると思いますが、これは郭が変形していないので、花穿というよりやはり斜穿ですね。それにしてもよくこれほど見事にずれたものです。普通は鋳バリなどが原因でやすり掛けの方向がずれて斜穿になるので、穴の縁が圧力で歪み、仕上げも不完全な場合が多いのですが、こんな角度できれいに仕上げられた斜穿はほとんど見た記憶がありません。穿内のやすり掛けは外周の仕上げの前に行いますので、これは職人が曲がった規格のままきれいに仕上げたものだという事。半分、ふざけて作ったのかもしれません。
 
2月26日 【長反足寶と通寶小字】
天保通寶の名品、長反足寶と通寶小字を画像合成してみました。長反足寶は不知天保通寶分類譜下巻の原品です。よく見ればお分かりのように、わずかに長反足寶の方が銭文径が小さいものの、拡大画像でようやくわかる程度の差に過ぎません。長反足寶は銭文径39.65㎜、通寶小字は銭文径39.9㎜・・・その差はわずか0.25㎜なのです。
したがってこの画像は予想以上にすっきり納まっている気がします。こうして並べてみると長反足寶は通寶小字の母銭(もしくは原母銭)を強刔輪することによって生み出されること(の可能性)が分かります。わずかな銭文径の差は覆輪圧力による変形だとも言えます。
つまり長反足寶と通寶小字は、兄弟のような関係兄弟のような関係にあるような気がします。
長反足寶はそのあまりに奇抜な書体と風貌から「昭和の作り物」なる噂さえ流布されています。(実は発見は大正期以前なのですけど・・・)しかし、この画像を見る限り決して無理な変形ではないことが分かります。覆輪刔輪の関係で、天側をとくに強く刔輪したものなのですね。画像にしてみて改めて納得できました。
記事を読み返してみると矛盾したことを言っている自分がいることに気づきます。この長反足寶も2度写しなのか3度写しなのか・・・場面場面で異なることを書いていますね。銭文径縮小率から考えると3回写しが妥当ですけど、覆輪変形が強烈であると考えれば2回もありえる・・・ってところでしょうか?
(長郭の銭文径41.65㎜、銅の縮小率1.8%で計算:詳細は2014年8月16日の制作日記参照。)
①本座長郭に覆輪、鋳ざらいを施し、改造原母をつくり鋳写す。
 → 予測銭文径40.9±3㎜
②出来上がった改造母をさらに鋳ざらいを施し写す。
 → 予測銭文径41.16±3㎜
③上記銭を鋳ざらいしてさらに写す。
 → 予測銭文径39.44±3㎜
実際は鋳造には諸条件が重なって、変動がかなりあると思います。銭笵の乾燥による縮み、銭笵の設置角度など。本音を言うとわからない。だから想像するのが楽しいのです。
 
2月25日 【水戸遒勁再び】
水戸遒勁がまたまたネットに出てきていました。この天保銭は特徴が本当にあるので、とにかく目立ちますし、贋作の方が市場には多いと思います。ここまで個性を主張する天保銭なんて、常識では考えられないので、やはり幕府系の親藩がつくったものなんだるな・・・と思いますが、考えてみれば萩の曳尾も相当なものですよね。銭径が大中小あるということは銅の原母から次々に通用母をつくって急遽何度も鋳写したという事・・・つまり、錫母を使っていないという事。錫母の技術は金座の秘匿事項だったと、キュリオマガジン3月号に天保仙人様が記載されています。と、いうことは遒勁は水戸ではないのか、それともよほどあわてたということかしら?
画像じゃ真贋は判りませんが、文字の潰れがあるからかえって本物に見えます。
水戸遒勁は今から5年ぐらい前にネット上で大ばくちを打って、そのときは無事成功しています。この品物は果たしてどうか・・・と、勝手に想像をしていりましたところ落札者から連絡がございまして、間違いなく本物、極印が遒勁だったとのことでした。おめでとうございます。
 
2月24日 【古寛永明暦浅草銭正足寶の大様銭】
一般に沓谷銭と言われているものですけど、古寛永泉志でも触れられているように、浅草鋳造の可能性が極めて高いもの。雑銭ですけど、これは直径が25.7~25.9㎜の大型銭です。入札誌穴銭に出ていてふらふらと応札してしまいました。ただ、輪上部の肌が荒れていて、一部に若干の酸化色が見えることから火中品の可能性もあります。古寛永は意外に小さなものが多く、25㎜を超えることはあまり多くありません。25.5㎜を超えるものは新寛永に移行する直前期・・・古寛永末期のものに比較的散見され、この明暦浅草銭にも時折見つかるようです。焼けた雰囲気の上部の輪幅が狭いのでこれはもとから大きかったと思うのですが、一抹の不安があります。
さて、これはどうなんでしょうか?
 
2月23日 【琉球通寶中字肥字十進當純赤銅銭】
白いもの好き(要するに白銅質銭好き)を公言している私ですけど、実は純赤の古銭も大好きなのです。そういう意味で琉球通寶はときどき真っ赤なものが見つかるので惹かれるのすけど、赤い琉球は状態が今一つなものが多いのです。
(余談ですけど天保仙人様から初めて購入したのがたしか真っ赤な琉球通寶だったと思います。あの頃は赤い琉球があるのすら知りませんでした。)
その点、この琉球は面は98点!背はちょっと難点はあるもののこれぐらいは許容範囲。
十進當は中字の役物と言われるもので、少ないのですけど、見つからないわけでなく、気が付けば私も3枚保有していました。(しかも純赤もありました。)
琉球には色変わりが見つかると聞いていますが、黒~淡茶褐色系が多くあとは赤が続きます。小字には純黄色が散見されますが、大字系は少なく、中字ではまだこれぞというものには出会っていません。(贋作はありますけど。)
文献では白銅質の琉球があるように書いてあるものはあるのですが、現物は見たことがありません。広郭にはやや青白い青銅色のものがあるのであるいはそのことを言っているのでしょうか?どなたか白銅質・純黄色の琉球を見せて下さい。赤い半朱もあるのかしら?(なお、中国製の贋作と思しきものが急増していますので琉球も要注意だそうです。)
 
2月22日 【密鋳銭の面背逆製】
九州のKさんから画像と拓本が届きました。1月14日の制作日記を見て、私の未確認のものということで密鋳銭の面背逆製をお送り頂きました。ありそうでないと思います。私は密鋳銭好きで密鋳4文銭は200枚以上はあると思うのですがさすがにその面背逆製は所有していません。左の画像は文政小字あたりの写しなんでしょうけど背が深いですね。








加護山銭の面背逆製と言うだけで貴重なのにそれも正字様なんて驚きました。面背逆製はなんでもありなんでしょうけどさすがにこれは2枚と出てこないのではないでしょうか?面背逆製マニアの皆様のご投稿・チャレンジをお待ちしています。


※千葉のKさん、4文銭とどいています。ただ、未整理のまま机の上においておいたら混じってしまいました。たぶん明和正字後波欠波なんじゃないかしら?今や私の卓上はワンダーランドです。子供もパソコンをいじるので未整理ぐちゃぐちゃ。ごめんなさい。
 
2月21日 【模造銭古寛永銀銭】
何を目的に作ったのかは不明ながら、書体は仙台銭風なので雉狩銀銭を意識しているだろうことはほぼ間違いないところです。銀は銅に比べて熱伝導率が高く、触るとヒヤッとします。鋳造銭のようで砂目は昔のものでは無いと思うのですがある程度の時代はあるようです。いわゆる押し湯が弱く(鋳造時の圧力が低く)文字がやや陰起気味です。そのため背の出来は素晴らしいのですけど面側が弱いのです。それが残念ですね。
贋作と近代銭のはざまにある品である・・・う~ん、どちらかと言えば贋作よりかなあ~・・・と思いながらネットで買ってしまいました。病気ですかね?

雉狩銀銭は仙台藩において藩主が雉狩を行った時の恩賞用ということですけど、あくまでも伝承しか残されていないようです。
江戸時代には個人的な記念銭として銀や金銭を鋳造する風習はあったようで、上棟銭に鍍金鍍銀銭があるのもその名残だと思います。したがって雉狩銀銭についてもあながち根拠がないものではないと思うのですが、殿様から恩賞用に出すのなら現金が最も効率が良いわけでして、なぜ銀ぜになんだという疑義もあります。
殿から拝領した名誉なんだから換金なんかできなくたって構わない・・・と考えるのもありなのかしら。
 
2月20日 【長郭手刔輪長張足寶】
投稿画像です。細郭手の張足寶に非常に似ているものの書体に差があり、とくに背の當字は長郭特有で横広です。良く見かける張足寶に比べて寶足がいちだんと長く、とても優美な印象を受けます。なにせ製作が秀逸ですね。したがって市場での存在数はかなり少ないようで滅多に見かけることはありません。通寶小字や長反足寶の前駆的な存在のようです。この画像を見て細郭手張足寶が細郭手にされた理由を改めて認識できました。また、左右の天保銭を見て判るように同じ系統の品でありながら刔輪の度合いが少し違います。とくに天上にその差が顕著で、左の方が強刔輪になってます。私にとってもあこがれの品の一つです。
※制作日記の2011年4月27日に投稿画像が、2012年3月14日にもネットに出た記事があります。
 
2月19日 【叶元祐背真異書】
ここあたりの価値を知っている方はかなりのマニアだと思います。ただ、いまひとつつくりが気に入らない。銅色が叶手ではないのですよね。もっとも、ネットの画像ではこれ以上は判断できません。鐚銭マニアなら飛びつきそうな題材なんですけど。
画像は保存したのですけど最後まで追いかけていなかったのでどうなったかわかりません。
久々に本邦鐚銭図譜を引っ張り出してしまいました。なんでこんな広穿なんだろう、祐の字が小さいんだろう、寶の王が三になっているんだろう、背の真が亀みたいなんだろう・・・・出来過ぎかなあと思いながらわかりません。大珍品なのかもしれませんが、よく判らない。誰か教えて下さい。 
 
2月18日 【安政正字】
安政正字という触れ込みだったのだけど面側の雰囲気は99%明和の気がします。ただ、背の彫りが妙に深いのが気になり、確かに明和ではなさそうだと応札してしまいました。ダメもとの宝くじ感覚です。でも、宝くじなんて当たったことありません・・・いえ、最近は買ったことさえなくなってきました。良くて密鋳、悪くて変造・・・贋造だったら参考銭です。

仕事から帰ってきてネットを開いたら・・・すでに終了していました。結局これは謎のまま・・・他の品物を見てもコレクターの放出品だとみられるのですけど、怪しいと言えば妖しいし・・・不完全燃焼ですね。
終わり値1万円は夢があるなあ・・・本当だったら狂喜乱舞です。入手された方、お便りお待ちしています。
 
2月17日 【純赤銅の薩摩広郭】
薩摩広郭は戊辰戦争など薩摩藩の北進に従って全国にばらまかれた経緯もあり、藩鋳銭としては最多の存在を誇ります。
その昔は大阪、難波官鋳ではないかと言われたほど本座をしのぐ美制のものから薄っぺらな末鋳まで存在しますが、黄褐色のものは本座広郭に実によく似ていて初心者にとってはとても分類に悩む品です。(迷った時は銭文径を測ればすぐ判ります。薩摩は41.5㎜以上あります。) 特徴がはっきりした書体変化は少ないのですが、微細変化は膨大です。
薩摩広郭は銅色も白銅から綺麗な黄褐色、はては赤いものまで幅広く存在します。昔から白銅銭の存在が有名なのですが、銀写しやメッキによる贋作はものすごく多く、市場に出ている白銅銭の90%が贋作だと思っても差し支えないほどです。
一方で赤銅のものは白銅ほど評価が高くないのですが、本腰を入れて探すとなかなか気に入ったものが見つかりません。画像の品はネット上で発見したものなのですが、未使用肌の赤い地色が残っていてこれだけはっきり赤いと嬉しくなってしまい、意地になって落としてしまいました。しかし、その額なんと8000円超過・・・毒食わば皿まで・・・。
※実物を見ましたが、まるで浄法寺の色・・・純赤銅ですね。これだけはっきりとしたきれいな赤は初めてです。一瞬、薩摩の写しだと思ったのですが、計測する限りは銅替りのようです。それでも薩摩広郭浄法寺写しだ!といっても通用しそうな雰囲気です。鋳口の跡も残っていますし、背郭内の鋳ばりもあり、かなり素朴です。 
 
2月16日 【拡穿の仰寶】
外径27.8㎜ほどの仰寶。ござすれの正炉銭で、外径も小さくて一見、つまらぬ品なのですけど、面郭が思い切り拡げられていて、まるで郭抜けのようになっています。このような加工は東北の密鋳4文銭にも散見され、私が拡穿と名付けていたところ「良い名前」との評価を舎人坊石川氏から頂戴した経緯があります。
この加工は型抜けを良くするだけでなく、穿内の鋳バリの発生箇所(面)を細くして、鋳バリを除去しやすくする効果もあると思います。
このような加工の品は良くあるのかもしれませんが、ネット徘徊で見つけ、あまりの郭抜けっぷりに感心して落としてしまいました。鉄銭の鋳造の難しさを物語る母銭ですね。
 
2月15日 【天保通寶の郭幅が変わった理由:広郭手の不知銭はなぜ少ないのか?】
天保通寶は天保年間(1835~36年、1837~1843年)と弘化4年以降(1847年)から明治期にかけて鋳造されています。前期において長郭と細郭が鋳造され、後期においては広郭と中郭が鋳造されたと云われますが、ひとつの枝銭に色々な書体がついていた・・・という話も聞いたことがあります。それでも 長郭 → 細郭 → 広郭 の発行順はほぼ間違いないところです。
広郭には彫母がなく、細郭の錫母に増郭してそれを写して錫母にした・・・らしいと聞いています。
錫は凝固による金属収縮率が非常に低く、直接写しても見た目でほとんど分からないほどの縮小しか現れません。それでも古銭研究家は細郭の錫母と広郭の錫母のわずかなサイズの違いと嵌郭の痕跡から、この事実を導き出したようです。それはかなりあわてて変更を行った・・・そんな気配がしますね。
細郭から広郭に切り替えられた理由として、巷では「銭緡として紐を通して用いるとき、銭ががたついて困るから郭幅を工夫した」と云われていますが、どうやらそれは根拠のない仮説に過ぎないようです。
実は細郭から広郭に切り替わる間に金座内部では大事件が勃発しています。それが金座を支配していた後藤家(13代庄三郎・三右衛門)の廃絶事件でした。後藤家が老中の水野忠邦に賄賂を贈ったとか、幕政の批判したという罪に問われたものながら事件の真相の裏の裏までは判りません。後藤家は世襲制といっても養子縁組が何代も続いており、また宗家も11代のときに不祥事を理由に一度廃絶させられていて、分家筋が跡目を継いでいます。このときの事件の結果として後藤家は元宗家筋に戻り存続を許されていますが、跡目相続や権力争いの香りがぷんぷんします。
その混乱のさなかに広郭が発行されています。実はデザインを変えた背景には、(天保仙人様のお話によると)後藤家による母銭を横流ししたと言う噂があるそうなのです。
不知天保通寶の長郭手・細郭手の多くは覆輪・刔輪銭など鋳写し系の判りやすいものばかりです。
一方で広郭手出現以降についてはこれぞ広郭手不知銭というものがほとんどありません。金座がデザインを広郭に急きょ切り替えたとしても、細郭の母銭が流出していたとすれば対策は手遅れだったのかもしれません。あるいは新しい後藤家が誕生(復活)したことを記念し、権威を誇示したものなのかもしれません。
噂はまんざら嘘ではないようなのですが、今となっては調べる方法がない・・・というのが実情だそうです。

※今では養子縁組はレアなケースですが、昔はかなりさかんでした。余談ながら私の住む地域のとある神社は非常に由緒正しい式格あるものなのですが、明治維新後に政府により廃絶に近い宮司交代がありました。理由は多分に思想的なものであったと思うのですが、昔は激しかったのだなあ・・・と思う史実です。その神社、勝海舟の書などが無造作に掲げられています。多分誰も知らないんじゃないかしら。 
 
2月14日 【不思議な打印銭?】
ネットでこいつの画像を見た瞬間に味のある打印の風貌に、惹き込まれてしまいました。まったく見たこともないデザインだったので即応札してしまいましたが、表示にあった直径22.5㎜で1.8gはさすがに薄っぺらで軽すぎますね。
泉譜を調べましたが陽刻の打印銭は神仏、駒引きの図柄がほとんどで、厚みもそれなりにある(面子・おはじきの類)ので、これは金具をうち平め加工して銭に見せかけた昔の変造・贋作系のものでしょうか。
雁首銭のようなものと考えれば、概ねそんなところでしょうね。五三の桐はポピュラーなものですから、家具の釘隠しとか襖の金具とか、建具の一部なのでしょうけど、古色、味は充分なのでそれで楽しめればよいでしょう。絵銭はなんでもありですから。 
 
2月13日 【琉球半朱の密鋳銭】
琉球半朱の密鋳銭ということでネットに出たものですが、これについては私はまだよく分かっていません。類似貨幣カタログに、縮字になる濶縁銭と密鋳銭がそれぞれ掲載されていますがとくに説明が書かれていないのです。天保仙人様に昔伺ったお話によると濶縁銭はものすごい厚肉のものだということ。拓本を見る限り外径が小さいので厚肉にして重量を合わせたのでしょう。いわゆる覆輪の次鋳銭であり、何らかの事情により母銭が不足したことによる窮余策のような気がします。(薩英戦争の影響ではないかしら?)
密鋳半朱の記事は月刊天保銭42号にも掲載されていて、昭和63年の4月に薩摩藩の隣国の細川藩ぼ領地内(水俣)において、鋳銭場跡とともに2枚の半朱が発掘されています。その特徴はやはり鋳写しであり、内径が1㎜程度縮小していること、正規銭よりやや赤みのある銅質で鋳肌が粗いこと、わずかに薄肉であり広穿・・・そのため背郭が細くなることなどが挙げられていますが、これらは2枚の出土銭を元にした考証にすぎないので、必ずしもすべての密鋳銭に当てはまるわけではないと思います。あるいは濶縁銭も密鋳銭なのかもしれません。薩摩領外というのがミソでして、民間の密造なのが面白い。他国領内通貨の密造ならば自国の経済に直接及ぼす影響は少なく、薩摩藩も取り締まりもできないし、自国からのお咎めも他国の貨幣なら及びづらいと考えたのでしょうか?水俣は薩摩との交易拠点でもあったようで、その意味で琉球を密鋳半朱する意義があったのでしょう。
画像の品について密鋳なのかもしれないし、単純に出来の悪い小汚い半朱なのかもしれません。誰か教えて下さい!
 
2月12日 【文久永寶深字狭永勁久正文広穿広郭】
文久永宝遊泉記の第67回が送られてきました。唐松堂さんのライフワークであり、郵送費だってばかにならないと思うのですけど全く頭が下がります。かくいう私のHPにかけている労力と資金も同じようなものでして、今朝も4時台から遊んでいます。私の悪い癖で忙しいときほど意地になってしまいます。
さて、文久永寶といえば金座と銀座がそれぞれ所管していますが、全く違う顔を見せています。金座は比較的製作・書体の安定したもの(玉寶・草文)が中心であったものの、銀座では様々な書体が現れるのです。(真文)
金座と銀座は鋳造の手法も異なったようで、銀座が古寛永的な鋳ざらい変化が多い理由にもなっています。
なかでも深字系の書体は千変万化であり、人気も高いのですが分類もとても難しい。分類ポイントをどこに置くかですけど、「久」と「永」に絞ると比較的迷いづらいと思います。右の図の上段は唐松堂さんの所蔵品で、文の横引きが(とくに左側に)長く、大分の坂井氏が命名した「正文」に該当するものだそうです。さらに広穿広郭になるというもの。(下段は比較のための拓図で深字狭永勁久)
ただ、勁久のなかにも「短尾久」になるものが存在し、これが勁久らしくなくて実に紛らわしい。唐松堂氏によると正文類の特徴は「久の前足が短く離輪して、勁久が仰柱永気味であるのに対し正永であること」・・・なんだそうですけど、これって深字本体に限りなく近い特徴なんですよね。ついでに言うと、文久永寶分類譜の拓図では、本体の文の文字は第2画がやや俯して第4画に接する「俯狭文のイメージ」があります。その点、右の拓図の文は大きくて明らかに勁文のイメージです。ただし、永フ画はでかい!・・・これは本体と同じ特徴で勁久としては違和感。久の第一画も開かないし、前足も直線的だし、本体との中間にあるような存在です。文久永寶はなんでもありなんですね。
ちなみに私が秘宝館No.107に収蔵している入札誌穴銭の平成25年8月号に出品された文久銭・・・あれは正文の流れをくむ大珍品だそうです。(ただ、文の形状は本体とほぼ同じですね。)
なお、大分の坂井氏は永と輪の隙間が文久や寶ほど空いていないことから刔輪の名称を外したそうですが、刔輪は手作業で行うもので部分刔輪もあることから必ずしも均一である加工法ではなく、鋳ざらいと兄弟のようなものですから、表現としては残しておいても差支えないかもしれません。上記の文久銭の場合は輪も文字も加刀されているように見えます。まあ、これはイメージと表現方法の感覚の問題ですかね。
 
2月11日 【覆輪刔輪マニアック講座の再考】
覆輪刔輪マニアック講座について昨日ふれましたが、この考証においての大前提が二つありました。
①本座の天保銭の郭の位置が銭のほぼ中央に位置すること。
②覆輪は銭径修正の必須的な作業であるのに対し、刔輪はその補助的な作業であること・・・したがって覆輪と刔輪はセットで行われるべき作業であること。
しかしながら、昨日の不知長郭手刔輪細縁を考察するに当たり、改めてこの前提が崩れていることを思い知らされました。左の画像は長郭の拡大画像ですが、天保側より通寶側は郭半分ほど広くなっています。
また、下のような覆輪の無い刔輪銭が存在することから、②についても必ずしも当てはまらないのです。
では刔輪はなぜ行われるのか改めて考えてみますが・・・・これはやはり文字抜けなどの鋳造上の理由と考えるのが自然でしょう。と、いうのも
「本座銭にも刔輪加工が見られるから」なのです。それは刔輪と言うより輪などの微修正というべき加工なのですが、文字抜けを良くする鋳銭工の工夫であったことも間違いないようです。
ではなぜ下のような不知通用銭が存在するのか・・・刔輪が必要だったにしてもこの寶足の長さは異常じゃないのか?ここまで刔輪するのは大変じゃないのか?・・・と、いうのが正直なところです。つまり、この刔輪細縁銭にしても生み出される理由が謎・・・例外なのです。
昨年の8月18日の制作日記にあるように、この周囲に紙などを巻きつけ母銭にしようとしていたのではないか…とも考えられなくもない。ただ、そこまで行うならば、こいつの前の段階で覆輪しておけば良いはずなのに思うのですよね。考えれば考えるほど判らない。
そうなると一概に覆輪刔輪マニアック講座の仮説も捨てたものじゃないのではないかと思う次第。さて、皆さまどう思いますか?
 
2月10日 【不知長郭手刔輪細輪】
この天保銭は奇品館の54番の原品でした。ご好意により、巡り巡って私にお嫁入りしました。(ありがとうございます。)また、2月4日の記事にあった品の類品でもあります。(2月4日の記事の名称変更をしました。自分の目の利かなさにあきれてしまいました。)
ご覧のとおり見事な長足寶であり、強い刔輪が面側に施された細縁仕立てのために、覆輪の気配はほぼ感じられません。あたかも覆輪刔輪銭の覆輪部分がはずれてしまったかのようなのです。覆輪がないのは小さな銭径が物語っています。あるいは覆輪銭なのに極端に磨輪してしまった・・・考えられなくもありませんが、ここまで小さいと覆輪をした意味がなくなるのでそれは考えがたい。
銭文径サイズから見ても一度写しの品。それにしてはとても派手な刔輪ですね。私は覆輪と刔輪はセットで行われると推定していましたので少し困りました。
天保側上半分の内径と通寶側下半分の内径計測をすると16.9㎜:17.5㎜・・・一応差がありますが、さほどでもありません。覆輪後に切り出しをする際に、輪幅修正の手間を省く意味での刔輪がある・・・というのが覆輪・刔輪マニアック講座における結論(仮説)でしたが、この程度の差は誤差の範囲かもしれません。と、いうのも実は本座天保通寶の通用銭も通寶間の方が0.5~0.8㎜ほど長くなる傾向にあるのです。(こうなると覆輪後の切り出し修正を考えた刔輪をしたのではなく、刔輪の結果で切り出し位置が下方にずれたと考える方が自然なのかもしれません。まあ、この議論をし始めたら紙面がこれでは足りませんので、本日は割愛。)
なお、この長郭手で刔輪手法のみを施した(と思われる)ものは、不知天保通寶分類譜によると、存在数はかなり少ないそうなのです。背側については面側ほど目立った加刀がなく、(刔輪はされているとは思われますが)通常の鋳写しにしか見えません。そのためか評価はあまり高くないようで、不知天保通寶分類譜においては6位、小川譜7位、当百銭カタログにおいても35000円と恵まれていないのです。(勢陽譜・類似カタログは不掲載)
しかし、実見の機会は不知天保通寶分類譜の言葉通りとても少なくもう少し評価されるべきだと思います。
覆輪刔輪の覆輪抜きだから評価は低い・・・と言われてしまえばそれまでなのですけど、これは覆輪刔輪技法に至る以前の製作を物語る貴重な存在だと私は思います。この後に覆輪の技法が導入され、寶足はさらに色々と変化して行くのですけど、この銭はその前段階において、限界まで足を伸ばした良いサンプルだと思います。何より天上のはっきりした刔輪が判る不知天保銭は少ないはずなのです。名前も刔輪細縁ではなくて刔輪長足寶細縁の方が判りやすいかもしれません。
長径48.2㎜ 短径31.8㎜ 銭文径41.1㎜ 重量17.7g
 
2月9日 【白い文政小字】
文政小字は赤銭という異名があるように、赤く発色しているのが普通です。ところが新寛永図会の説明に「稀に白系の色調のものも。」とあり、評価が20(2万円)になっています。しかしながら、その存在は確認できていませんでした。この記事呼応してか、鳳凰山氏が画像投稿して下さり、まず1品確認。そして仙台古泉会のH氏から純白の発色を誇る逸品を見せられたのが2012年頃です。
私が知る限りH氏の品は空前絶後の品だったのですが、震災の影響で行方不明になってしまったようです。H氏は他にも明和期俯永面背刔輪を2枚掘り出していて、そのうちの1枚は私も直接拝見しましたが、疑う余地のない品でした。
さて、画像の文政小字はインターネット市場に出ていたもので、純白とは言えないもののなかなかの銅色。旅に出ていたため、最後まで追いかけることができませんでした。その旅も同伴家族の発熱(インフルエンザA)のため中断し、早朝に帰宅の途につきました・・・そしてこの記事を書いています。これで家族の中で今季インフルエンザにかかっていないのは私ただ一人になりました。(たぶん風前の灯のような気がします。) 
 
2月8日 【琉球通寶大字狭貝寶桐極印】
先日、ネット徘徊をしていたらきれいな狭貝寶を発見。色も黄色みが強く、こういったものには桐極印が多いので・・・と、側面を見ると見事に「ビンゴ!」。
ただ、説明文中に重さが16.34gとあり、いくらなんでもそんなに軽いことはないだろう・・・と、怪しみながらも応札してしまいました。
しかし世の中は甘くはありません。その後に争いが起こり、ついには5万円を超えてしまいました。
桐極印銭は他国との交易に使ったという伝承(説?)があるようで、一般に製作も美しいのでこの評価は妥当でしょう。
桐極印銭は目下のところ、大字狭貝寶・平尾球・小字の3枚だけ保有していますが、いずれも黄銅質っぽいですね。これも本座天保に似せるためでしょうか?

※鉄人が入手されたようで、本座の色で薄肉軽量、見事な作であるとのこと。うらやましくなってきました。
 
2月7日 【安南寛永四ツ宝勁永写背右倒文】
この安南寛永は銅質がちょっと白っぽく見えますので、母銭かもしれないということでしたが、雰囲気的には通用銭にしか見えません。
ただ、この組み合わせは面文が秋田中字のものはよく見かけますが、四ツ宝の勁永の直写しは珍しいと思います。私もほとんど見かけたことが無く、90年代の収集に掲載されているいづみ会譜でも9位と比較的高位です。
さすがに母銭としての評価ができないものの、助平根性でちょっとだけチャレンジしましたがさすがに1万円超えはきつい。やむなく撤退しましたが・・・きっとこれは通用銭ですよ、いいんですか皆さん!と、いいながら縮元も1万円まで頑張ってしまった私。安南寛永はその昔、だれにも見向きもされずに雑銭箱に転がっていましたが、今それらはどこに行ってしまったのでしょうか?ただ、この白銅色のような発色は珍しいですね。
15500円かあ・・・、はあ~。 
 
2月6日 【安南寛永背縮元】
まったく人を食った書体です。安南寛永は本当に何でもアリだと思うのですが、書体の奇抜さというかデザイン性はこいつは一頭地抜け出ています。まるで女子高生の丸文字と言うか、改造鐚の又元豊のような書体です。縮元の名前はぴったり・・・当を得ていますね。1992年4月の収集には細字背元様背縮元の名で掲載されていますが、画像で見るのははじめてでした。評価は低いのですが、入札誌においてもかつてほとんど見たことがありません。面文は称:建仁寺銭(私のサイトでは長崎銭)を模したようにも見えます。安南寛永は安くて楽しい・・・と思っていたのですが、値段を入れてほったらかしていたらとんでもないことになっていました。こいつに10000円も払うことになるとは・・・参りましたが、落札出来てほっとしています。
さて、ずっと毎日更新を続けてきましたが、間もなく小旅行などがありまして、残念ながら途切れます。書き溜め記事もあるのですが、毎日は更新ができないと思います。よく頑張りました! 
 
2月5日 【茶托】
ネットを徘徊していて変なものを発見。文銭と天保通寶薩摩広郭を写した意匠品です。こうなるともはや銭ではなく、絵銭とも言えず、単なる生活雑貨fでしょうか?それとも美術工芸品?
しかし、絵銭の車輪銭などは誰が見ても鍋敷きにしか見えませんので、こういった新作ものであっても将来価値が出るかも・・・なんて考える貴方はもう病気です。
これは大阪市立都島工業高校の創立20年記念式典(昭和3年)に際し、機械科の生徒に教育実習用に作らせものだそうで、当日の来賓者と製作者側に配布されたそうです。製作数は約200。(以上、月刊「ボナンザ」昭和59年20巻8号より)サイズは縦95mm、横79mm、高さ約13mm。寛永銭には「廿年記念」「移転記念」「大阪市立」「都島工業」の文字が、裏には「機械科製作品」の文字が見られます。 
 
2月4日 【不知長郭手刔輪細縁に敗れて・・・】
天保銭はだいぶバブルの状態で、どうも勝てそうもありません。この天保銭はさすがに目立ってましたね。極端な刔輪細縁で寶足が長い。うろおぼえですけど数年前の江戸コインオークションで類品が出ていたような気がします。
実はこの類品は私も数年前に賞山堂さんで入手していまして、それが覆輪刔輪マニアック講座記述の原点になっています。この天保銭、郭の位置が銭体の上部に1㎜ぐらいずれているという特徴があるのです。つまり、全体に天側に郭がずれているということ。これは画像で調べてもすぐに判ります。穿が上方に偏っているのですね。このことから、私はある覆輪技法の仮説を立てて見ました。それが前に述べた覆輪刔輪マニアック講座なのです。
あくまでも私論でありますけど、今読み返しても新鮮で実によく調べたなあという感じです。昔の技法なので、私の仮説が正しいか否かはいまだによく分からないのですけど、覆輪刔輪を考える上では最高に楽しいサンプル銭なのです。
そういう意味では欲しかったけど、あの価格でダメならもうお手上げです。残念。
 
2月3日 【元文期不知銭細字跳足寶の極美銭】
この品は京都のSさんの持ち物だったとの情報を頂きました。
直径23.5㎜、重量3.9gということですからなかなか重厚な品です。ここまで立派なものは滅多になく、ご本人も母銭ではないかと夢見たそうで、同じような夢を見た方がたくさんいらっしゃいました。画像からの判定なので何とも言えませんが、私はとてもきれいな通用銭だと判断しています。しかし、これだけきれいな品は滅多にないので、皆さんとても気になった思います。この銭は郭内にもべたっと下やすり仕上げがあるものが多く、内径計測も難しくも母銭か否かの見極めが極めて困難です。したがって判断はひとそれぞれ・・・私は通用銭だろうと判断しましたが、それでもこれだけ美しい品は欲しいですね。落札価格16000円とは天晴です。Sさんも驚いているでしょう。
 
2月2日 【元文期小梅手俯永】
薄っぺらで貧弱なのですが、古来からの有名銭であり、新寛永一文銭の俯永と言えば小梅手俯永のことと言える品です。
私は収集は通用銭だけ・・・と自制しているのですが、なぜか小梅手俯永だけは母銭しか持っていません。今回はいっちゃおうかなあ・・・なんて考えていましたが、状態が今一つなので見送りました。
もともと美銭が少ないことも原因なのですけど、母銭を持っているのでぜいたくな悩みながら、なかなか手に入れる機会がないのです。
ところでこの俯永には「俯永小字」という、近年になって発見された新種が存在するそうなのですけど、いまのところ実見する機会がありません。はたしてどこに存在するのか?まだ2品しか見つかっていないとのことですけど・・・。
小梅手には絶対的な珍品の本体銭も存在します。この本体は鉄銭では幾分存在はするのですけど銅銭は珍品中の珍品で、たぶん島屋文より少ないと思います。実見の機会は過去に一度・・・方泉處所蔵品が放出されたあの銀座コインオークションでのみ。まさに幻です。
 
長径48.3㎜ 短径32.1㎜ 銭文径40.3㎜ 重量20.5g
長径49.2㎜ 短径33.1㎜ 銭文径41.3㎜ 重量20.9g
2月1日 【覆輪刔輪短尾通に大小あり!】
穿内はべったり全面的にやすりがけがされていて、それが過度なため背郭も極端に細くなっています。また、極印は極小の桐極印が深く打たれています。
これは穴銭31号の落札品で、不知天保通寶分類譜の下巻P129の原品です。不知天保通寶分類譜には短尾通類はなぜか2ヶ所に分かれて掲載されています。(刔輪の項と覆輪刔輪の項)天保通寶と類似カタログには説明に「刔輪もある」とありますが、あるいはこのことなのでしょうか?実物を見る限り、拓本の用紙のたるみの影響のように思え、特に差があるようには見えません。

この品はすでに1枚保有(下段画像)はしていましたが、新規入手品はかなりの縮小銭形で違いを感じます。
実際に画像を重ねてみると全く大きさが異なりました。当百銭カタログのサイズは大様であり、類似カタログは拓本の大きさから見て小様です。不知天保通寶分類譜では2枚が小様、1枚が大様です。拓本や掲載数値上の判断ですので正確ではありませんが、ここまで大きさが異なると、母子の関係すら疑ってしまいます。
しかし、実物を見る限り大様は銅質は異なりますが、母銭のつくりとまでは言い難いのです。
しばらく考えましたが、これは通用母銭を大量に作って鋳造しているのではないかとの思いに至りました。

ここまで考察をしていたらある不知天保銭についてひらめきました。夏の古銭会のときの細郭手狭長足寶をはじめ、俯頭通や宏足寶にことごとく次鋳なのか大きさの異なるものが発見されたことです。

よく考えてみれば簡単なことで、1つの銭笵には数十枚の母銭が必要なので、ひとつの枝銭を鋳造するのに原母銭はもちろん、原母銭から複製した母銭や通用銭をて改造した通用母銭を使って大量鋳造を行うのが手っ取り早い方法なのです。これによりサイズ違いの不知銭が生まれる理屈がようやく納得できました。
→ 2014年12月20日の制作日記参照
今後はいったいどれだけの不知銭でこのようなサイズ違いがあるのだろうか・・・ということに興味は移りそうです。

1月は出費を抑えてと考えていたのですが、こいつのおかげでもくろみは水の泡になりました・・・が、お金を支払う価値のある知識の収穫を得ることができました。

※大様は當の文字が鋳つぶれてしまっていますが下段の品を鋳ざらいで仕上げれば立派な母銭になると思います。それだけ文字がシャープなんですね、これは。銭文径も1㎜も違うので、これは驚異ですね。
 
1月31日 【駿河掲載の天保通寶の謎】
駿河の裏表紙にあった天保通寶彫母銭の拓本(左)に・・・「あ、見たことがある!」って即座に反応してしまいました。
その天保通寶は、文字の伸びなどは異なるものの書体の癖はほぼ同じです。進頭通で寶貝が大きく、寶前足が少し退いている点、當のツ点大きくて田が歪み、百の日の幅広く、花押の袋のカーブが持ち上がる癖があります。それらは全く同一の品ではありませんが、他人の空似にしては、あまりに一致点が多すぎるのです。
下段右の品は長径50.8㎜、短径33.9㎜、重量29.9g、白銅質でなかなか立派な・・・近代銭です。砂目は良いのですけどやすり目が全然だめです。
そして、類似するものをあと2品知っています。贋作者列伝の一番下の記事の朝鮮天保の項目を見て下さい。背の書体はこの系統です。
もう一品は下段左の拓で不知天保通寶分類譜に掲載されているものです。筆法が非常に似ています。ちなみに下段の左は加賀千代作と言うことが判明している品だそうで、贋作が真似たのか、他人の空似か?それとも・・・。
 
1月30日 【これは何?】
見ての通り長郭の天保銭には間違いありません。いつからかずっと机の上にほったらかしのもので、素性が良く分からないものなのです。
本座としては重量がわずか17.7gしかなく、さすがに規格外もいいところ。厚みは驚異の2.1㎜・・・並べてみると極薄なのです。それでも文字はくっきりしていて、全体に摩耗された感じで浅地ながらさほど嫌みがないつくりなのです。
サイズも長径も48.7㎜、短径31.9㎜というやや磨輪されていますが違和感はありません。
普通なら即座に不知品にしたいのですが、銭文径が41.7㎜あるのです。穿の大きさも規定内で伸びた感じはありません。極印は摩耗で良く見えず、穿内も摩耗した感じ。でも磨かれたという雰囲気がないので首をかしげています。異常製作の品ながら私は(とくに長郭は)銭文径にはこだわりがありまして、今一つ踏み込めません。銭文径はあまり当てにしてはいけないとの教えを頂いている、天保仙人様には怒られそうな気がしますが、グレーの品はグレーであるべきだと思っています。
根性なしの私は謎の銭としておきます。やっぱ、不知にすべきかしら? 
 
1月29日 【Kさんからのお便り2】
KさんからのCDの中には雑銭から拾ったという古銭の映像がいくつかありました。
画像上段は私も集めている面背逆製の寛永通寶。明和期の長崎銭ですね。私の経験からはこの長崎銭が面背逆製では最も拾いやすいと思います。それだけ数が多く、錯笵の率も高いと思われるからです。次に拾いやすいのはは文政期の小字あたりでしょうか?ありそうでなかなか少ないのですよ。これは・・・。

続く画像は称建仁寺小字の寛傍星。銭の細道、おたずねもの集にあるH氏のおたずねものへのアンサー投稿・・・だと思いましたが、H氏のものは大字でした。ただし、この建仁寺の星はやはり職人が何かの符丁につけたんじゃないのかなと思うものがたくさんあります。今でいう製造番号みたいなものじゃないのかなと思う次第。ただし、あくまでも個人的な感想に過ぎず、現段階では評価はできません。
目立つ位置にあること、分かりやすいことなどで、類品が出てくれば評
価されると思うのですけど・・・。
まあ、今のところ背星だけは少し有望だと思われます。母銭が出てくれば・・・なんですけどね。この星の類は母銭由来ではなく、爪楊枝のようなもので砂笵に直接刻まれた・・・などという、今見てきたような噂があるのも事実です。つまり、母銭が見つかっていないのでしょう。

下段は寛傍星つながりで、寛文期亀戸銭の正字背肥文(勁文)。ご本人曰く、「偶然一品ものでしょうがこんなの好きです。」とのこと。私も大好きです。
実は類品があり、富山貨幣研究会の三鍋氏の寛文銭新分類草稿に「大字勁太下肢文」の名前で掲載があります。ただ、私の感覚でもこの変化は一品ものであり、全く同一品ではないと思います。と、いうのも郭が大きく横ずれしており、さすがに母銭からしてここまで横ずれした状態で修正なしに鋳造することはないだろうなあ・・・と思います。
文字が太くなったのもこれが原因でしょう。
私が感心したのはKさんがこの文銭を正確に正字と判断していたこと。文銭は泉譜の冒頭を飾るのが常なのですが、実は新寛永の中では一番細分類が難しいものなのです。
慣れれば一目瞭然とはいえ、離点文のこの銭を正字と判断するのはなかなかの眼力ですね。

1月は意地で全日更新を目指しています。2月以降はこうはいかないと思いますがあと少し、頑張ります。
 
 
古寛永水戸湾柱永背星
これだけくっきりした背星は珍しい。偶然だとは思い難い一面があり、なんらかの符丁であったのでないかと思います。なお、この古寛永をきちんと分類できたTさんはなかなかの目利きです。
1月28日 【千葉県のKさんからのCDお便り】
ある日、突然1枚のミニCD(径8㎝)が届きました。宛名は私の自宅。いったいどうやって調べたのだろうかものすごく不安でした。今まで何度かお手紙を頂いたことはありますが、たいがいその前にメールのやり取りをしていますので、知らない人からの手紙・・・ましてやCDなんてちょっと怖い。私の世代は知らない人に声をかけられたらついてっちゃいけないよ・・・と、子供の頃は散々教えられていたものです。それでも繁華街で知らないお姉ちゃんに声をかけられてついて行って・・・ああ、思い出したくもない。
名前を見ると女性風ですけど、文字は男性・・・ますます妖しい。女だと思っていたら男だった思い出・・・ああ、いやだ!
こう見えても私はとてももてるんです。メルアドを公開してからというものの、毎日私に対して求愛してくる女子校生のメールが絶えません。儲け話もじゃんじゃん来ます。投資話は星の数ほど。アラブの王様になった気分です。
と、いうわけでCDを拝見するに当たり、普段使っていない古いパソコンを引っ張り出して再生してみました・・・んが、どうも問題はなさそうです。
なんでも、現在使用しているパソコンがメールを使えない(外部接続していない?)ということで、CDにお手紙を託したようなのです。
しか~し、その内容はHP仕様であり、画像も美しくスクリプトも組み込まれているようでした。この技術は私の持っていないもの、うらやましい限りです。こんなに技術があるのにどうしてメールが使えないのかな・・・・とも思いますけど、本当のようです。
Kさんはもっぱら雑銭党の方のようですが、面白い品も拾い出しており、目も確かなようです。このような方が順調に育ってくだされば、古銭界も安心なんですけどね。
次は古銭大好きな女子大生からのお手紙を期待しましょう。 
 
1月27日 【さらば草点保】
言わずと知れた天保通寶の細郭手の名品です。素朴・純朴・朴訥・・・そんな言葉が良く似合いそうで、藁の香りがしてきそうな田舎の天保銭・・・と言うイメージ。(あくまでも個人的なイメージです。)
この草点保という銭は、書体に大きな変化がありそうで意外にないという不思議な品。どれもが微妙に違うような気がするものの、大筋の書体はいっしょなのです。
今回、市場に出てきたものは某オークションに出たものだそうで、調べればすぐに判りそうです。鋳だまりはありますがなかなか良い顔をしています。とくに特徴の保点の跳ねがものすごくはっきりしていて大きい。この点だけ見ると別種に見えますがあとは大同小異。湯圧が低かったのでしょうけど、文字の乱れがあるのですね。
不知天保銭の中でわびさび部門と言うものがあれば、間違いなくNo,1でしょう。天保銭の中の淋手であり、いや、それ以上のものだと思います。欲しいのはやまやまなんですけど・・・すでに1枚持ってますし、お金もったいないですし・・・困りましたね、この画像。

※結局18万円でだれかに落ちましたね。ものすごくお買い得の気がします。そんな風に考えるのはもはや病気なんでしょう。
 
1月26日 【清水短通母銭背大郭】
この寛永銭、最近ネットオークションに出ていて目に留まりました。23.73㎜、2.15gとかなりの軽量。面背に鋳ざらい痕跡があり、それに背の大郭ぶりが異様でいやがおうにも惹きつけます。
出品されている方は雑銭の会でも何度か顔を合わせている方でして、かなりの実力者。ただ、その実力者に真贋不明でなんて言われてしまうと、へそまがりの私は俄然欲しくなってしまいます。輪がずいぶんテカっていますね・・・延展かしら?
母銭は収集対象外・・・と言い聞かせながら我慢の日々。しかし、この背郭はすごいなあ・・・。どうなんでしょうかね? 
 
1月25日 【「駿河」40年の歩み】
駿河が480号を迎えました。40年といえば大変な年月で、私の収集歴とほぼ重なります。私が保存しているのは平成7年9月号(248号)からですので、20周年直後のことだったようでして、私でさえも駿河の歴史の半分弱しかまだ知らないことになります。その間、ずいぶん私も変わりました。
おそらくこの頃が貨幣収集を本格的に再開したときで、仕事上のストレスも非常に溜まっていた頃でした。それから20年・・・仕事も変わり、家を建て、HPも開設し11年目に突入しました。
思えばずいぶんたくさん買ったと思います。
思い出に残る大きな買い物は、やはり寛文様でしょうね。(売り出し価格55万円ぐらいだったかしら?)いまだにこの品を超える高額の買い物はしていませんから・・・。少なくとも駿河と大和文庫には車一台ぐらいの投資(無駄遣い)はしていると思います。
この小冊子は編集者の岩田氏の歩みをつづった記録です。コインブームの終焉時に韓国に渡り、穴銭に狙いをつけてブームの下支えを行い、昭和~平成を粘り強く生き抜いてきた大和文庫の歴史でもあります。
 
 
1月24日 【不知長郭手宏足寶】
宏足寶という名前は誰がつくったのか、考えたなかなか良い名だと思います。宏足寶はいくつかタイプ違いがあるようですが、強刔輪銭であることが条件で、個体差はあるもののおおむね細縁に仕上がっていて、とくに背の細縁ぷりはみごとなものが多いようです。私は自分の足が短いせいか、この手寶足の長い天保銭は大好きでつい市場評価以上に追いかけてしまう悪い癖があります。(今回もそうでした。)
この天保銭はヤフオクに出ていたもので、全体的に状態はぱっとしないものの額輪気味に見え、、輪際のグリグリとした刀跡が見事でつい食指が動いてしまったもの。
このクラスの天保銭を好む方は多いので、かなりの金額まで行ってしまいました。反省しています。
心配していた最大の理由は広穿大字に応札していたこと。無事?不落でして、ひとまず安心しましたが、こちらも望み通り?逆転されました。最終的には10万円を超えていますので、これで良かったと納得しています。根性ないですけど・・・。
 
1月23日 【淋手瑕永?・・・もどきでした!】
淋手については名前の読みが未だによく判りません。私は「さみしで」と呼んでいますが、古銭語事典では「さびしで」で新寛永通宝カタログは「さみして」としています。まあ、いずれも意味するところは分かりますので読み方については個人の感性と言うところでしょうか?「にほん」「にっぽん」でも通じるように、日本語はとてもあいまいな言語なのです。これに目くじらを立てて異議を唱える方・・・特に古泉界に多いかも・・・もいらっしゃいますが、日本語は漢音、呉音に日本古来の読みである和音(訓読み)が加わり・・・表音・表意・象形まで入り混じった言語なのです。
さて、この淋手に瑕永と言う有名な手替わりがあります。はじめてネットオークションでこの画像を見たとき、永柱に瑕がある・・・瑕永だ
!と色めき立ちました。しかし、よく見ると瑕の位置は永柱の中央より下側です。瑕永の瑕は永頭のすぐ下のようでして、と、いうことはこの瑕は単なる打ち瑕ということになります。落札値は10万円ぐらいだったようですから、皆さん良くご存知だったようで・・・。
瑕を喜ぶなんてこの業界ぐらいのものでして、所詮は傷物と割り切れば良いのですけど・・・。まあ、そんなことができる人ははなからこのような小汚い銅片に10万円も払うまねはしないでしょうけど。 
 
1月22日 【下町の天保銭】
クラッシュに苦しみながらなんとか復旧。送付されてきたたCDの影響ではないと思いながら、少し不安です。(Kさん、ごめんなさい。)
一番の原因はほったらかして寝てしまい、起きたときウィンドウズの更新を保存しないまま行ったこと。その後、レジストリをいじり、さらに・・・。
データの多くがなくなっているのに気づきあわてましたが、なんとか復旧できました。さて、画像の品は下町で唯一入手できた天保銭。長径48.6㎜、短径32.㎜、銭文径41.1㎜、重量24.8gという白銅質の小様重量銭です。見栄えは悪いものの確実な不知銭。そして私好みです。
実は下町に不知長郭手広穿大字が出ていて、応札していました。不知天保通寶でもっとも雄大な不知銭であり、あこがれの品なのですけど、例によって落ちてしまったらどうしようとドキドキしていました。
無事?不落に終わったのですけど、落ちないと落ちないでやっぱりさびしいですね。でも、今月はまだ出費が1万円に満たず・・・家計にはとても良い状況です。
今年の目標は・・・倹約、そして人のふんどしで相撲をとること・・・うまくゆくかしら。 
 
1月21日 【安南寛永 濶縁細字二水永】
永字が洽水で二水永になるという奇抜な書体。いづみ会でかつて「濶縁細字二水永」として発表されたことがあるものの、見栄えがしないから・・・ということで評価が落とされてしまいましたが、本品は安南寛永としては美品の部類に入る可憐なものです。
現在のいづみ会の入門にも類品が掲載されていますが、本品より一回り小さいタイプのものだと思います。
今年の入手品第3号ですけど、安くて楽しめるから安南寛永は好きですね。
この手の細字で真鍮質の寛永銭は網至道手と本能的にしたくなります。私も古いコレクターになりました。 
 
1月20日 
【面背逆製の続報】

平成8年の江戸コインオークションのカタログを引っ張り出しました。
長郭手逆郭の名前で確かに出品されていました。(左側:ただし、写真で見る限り現品は細郭です。)
そして、出品価格は驚異の15万円・・・いやあ、きちんと評価されていました。ちなみにNさん所有の面背逆製もやはり不知細郭手異極印だそうで、長径は48.85㎜、銭文径は41.0㎜、重量24.0g(重い!)だそうです。さすがに本座は(金座ですから)面背逆製は間違ってもつくらないのかな。なお、右側の天保銭はどこかで見覚えがあると思いまして、調べましたら今は私の保有品になっています。通用銭・東北地方鋳放銭という名称で出品価格はこれも15万円。この頃の天保銭は今以上に高い評価のものが多かった気がします。
→ 中郭手 覆輪赤銅無極印
 
1月19日 【真正 面背逆製の天保通寶】
宮城県のNさんからのお便りがありました。ありがとうございます。画像を見てびっくり、面背逆製の天保通寶です。面背逆製の天保通寶は 月刊天保銭に発表がありましたが、「輪に大きな瑕があったから修正するため」逆台形に削った・・・というのが真相です。しかし、これは寛永通寶の面背逆製と同じメカニズムによるもので、その証拠に仕上げのやすりが面側から入れられており、鋳バリの痕跡も面側に偏っています。また。あきらかに背側の穿が広く面がやや広郭になっています。Nさんによると面背逆製の天保銭を見たのはこの原品の他は平成8年の江戸コインオークションだけということ。
非常に貴重な品ですね。多分存在数は島屋文クラスなのでしょう。お金を払っても手に入らない逸品であり、値段がつかない・・・多分あまり高額な値段もつけづらい・・・評価の難しい品でしょうね。
 
1月18日 【私の収集変遷と泉譜】
発行されてないと思っていた雑誌コインの1985年12月号を思いがけず入手。この雑誌は太田保氏によって創刊されたものの万国貨幣洋行の経営不振などで発行が遅れ、途中で発行責任者交代も行われた雑誌です。
泉書をつくって商業的に成功した古泉家というものはあまり聞いたことが無く、最近は記念譜的につくられるのがせいぜいです。そういう意味では雑誌とはいえ書信刊出版の歴史はすばらしいと思います。定期刊行物としてはボナンザの20年間(1965~1984年)をはるかに抜いて40年目(1976年~)なんじゃないかしら。
ところで私の収集に影響を与えた泉書といえば代表的なものは右の表の通り。これはまた私の収集変遷の歴史でもあります。
日本貨幣カタログ これは初心者が必ず買うもの。発行枚数を調べて特年探し。
貨幣手帳 穴銭に目覚めるきっかけ。地方銭もこれで調べました。
新寛永銭鑑識と手引 はじめて自分で買ったと言える泉書。これは熱中しました。 
古銭と紙幣  矢部倉吉氏の著。これも本当に読んだ本。島銭にあこがれました。 
コイン利殖入門 ジャンピングインディアンやワイマール銀貨などを購入。
穴の細道  本がバラバラになるほど愛読・熟読。中国穴銭に目覚めた瞬間。 
符合泉志 穴の細道によって符合銭に目覚め購入。しかし挫折もしました。 
清朝泉譜  康熙銭・順治銭などずいぶん集めた時期もありました。 
天保泉譜  愛読書。大学生時代に張点保を見つけたときは狂喜した。 
古寛永泉志  収集を再開した頃は古寛永に燃えた。ボロボロになるまで読んだ。 
穴銭入門 新寛永の部 これも収集を再開した直後に購入。版違いで3冊を愛読。 
季刊 方泉處  日暮里の隆平堂で発見購入。私の中で何かがはじけた。
新寛永通寶図会  この本の影響で計測に目覚め、ノギスを買ってしまいました。  
月刊 収集  もう20年ぐらい愛読しています。私の知識の源ですね。 
不知天保通寶分類譜  不知天保通寶狂いの原因。今は泉譜原品は実に多い。 
今でこそ日本穴銭専門のような私ですが初期の頃はゼネラルコレクターでして、青少年時代は国内外に限らず、紙幣も含めて集めていました。
おおむねの収集力点の変遷としては・・・
現行貨幣 → 近代貨幣 → 新寛永通寶 → 円銀・地方貨・江戸金銀貨幣 → 外国銀貨 → 符合銭 → 清朝銭・島銭 → 天保銭 → 新寛永通寶・古寛永通寶 → 新寛永四文銭・文久銭 → 安南寛永・絵銭寛永・刻印銭・文献 → 天保通寶・密鋳四文銭
という具合。
現行貨幣や近代貨幣から入り、お金がなくて新寛永をはじめ、円銀や古金銀の美しさに魅了されたものの、高額で手がほとんど出ず(お年玉+校内模試の成績次第で買ってもらえた。)、やむなく比較的安価だった外国の記念銀貨に走り、穴の細道で再び穴銭に目覚め、符合銭をはじめたものの難しすぎて清朝銭に逃げました。
大学時代は金欠で天保銭と安価な鉄銭を集めた程度。それでも新寛永銭鑑識と手引と天保泉譜はよく読んでいました。社会人になりたてのとき島屋文や幻足寛を買っちゃいました。本格的に再開した30代以後は古寛永泉志・穴銭入門 新寛永の部を相次いで購入。
入札誌鈴鹿や蘭には大変お世話になりました。そして運命の方泉處に出会います。あとは勢い。雑銭の会で密鋳銭に狂い、天保仙人様にであってからは天保銭の熱病がぶり返しました。今はと言うとHP作成にのめり込んでおり、収集はその付属的な行動になってしまっています。本末転倒・反省反省。
 
1月17日 【面背逆製のメカニズム】
面背逆製と言う言葉は「穴銭入門 新寛永の部」の明和期佐渡銭の項目に突然現れた感じで、何も知らなかった私は面くらった覚えがあります。簡単に言うと鋳造作業の際に面と背を裏返しに砂笵の上に置いてしまったエラー銭ということ。これを説明するには銭の鋳造過程について学ばなければいけません。
銭は砂笵と呼ばれる鋳型の上に母銭を並べ、かたどることで鋳造します。型を採るわけですから、面背とも同じように採れば良いのですけど面側の出来を重視した鋳造が行われました。(理由は後で説明します。)

①平らにつき固めた砂笵の上に母銭の背を軽く押し付けた状態で置き、(湯竿を置き)その上から肌
砂という細かい砂をふるいで落とします。これに よって面側の文字を詳細に写し採ることが可能になります。
②鋳砂で面側を覆い、踏み固めます。これで鋳型の基礎ができます。
③鋳型を分割し、母銭(と湯竿)を取りだし、銅の流れ込む湯道を切り、松明の油煙で型を乾燥させて鋳型(砂笵)のできあがり。

背側は肌砂が使われず浅く型に押し付けられただけですので彫は浅いものの、面側ははっきり深くなります。その結果、鋳型の境目も背側に偏りますので、鋳バリも背側に偏ります。(これを片見切り製法と言います。境目のラインが見切り線。)
この鋳バリが穿内仕上げの後にも痕跡が残り観察できるのです。面背逆製は「背側の穿が大きく、面側が小さくなる」と言われるのはこの鋳バリが原因です。多くの母銭の穿には型抜けを考えられ傾斜が(面側が広く)付けられていますが、裏返しに置かれることによりふりかけられる肌砂は狭い背側の穿を通って穿の中央部に積もることになります。したがって面側の穿の角には空間ができやすくなり、その空間が分厚い面側鋳バリの原因になると私は考えています。面背逆製に円穿が多く見られるのはおそらくこれが原因です。

素人的には型の合わせ目(見切り線)を銭の厚みの中央にする方がうまく行く気がしますが、鋳型をきっちりずれなくあわせるのが実はとても難しいのでこの片見切り法が採用されたのだと思います。(右図を参照して下さい。)
片見切りだと背側のブレは薄い鋳バリになるだけなので、多少背がずれたとしても面側を生かして仕上げれば銭ができます。一方、中見切にした状態で型がずれると、薄くぶれた部分は広範囲に現れてしまいます。しかも型ずれによる失敗は鋳型全体に及ぶので、型全体が廃棄という大ロスになります。面側の出来を重視した鋳造を行ったのはこれが理由です。

なお、背側の砂笵のつき固めが甘い場合、母銭が砂に深くめり込み、あたかも面背逆製のようなものができる可能性があります。この場合は鋳バリの偏りが見られません。また肌砂のかけ方に偏りがあった場合、面側の穿の鋳バリが厚くなるケースもあると思います。いずれも錯笵の一種には違いありませんが面背逆製であるかは総合的に判断する必要があります。 
 
見切り線が深くなった場合(中見切り製法の場合)、型ずれの影響は甚大。ずれた部分は厚みが半分しかなく、薄っぺらで強度不足。鋳バリが薄い部分を削るといびつになります。しかもずれはひとつの砂笵すべてに及びます。これでは効率が悪い。通用銭鋳造で中見切り製法が使用されなかった最大の理由だと思います。

片見切り製法ならずれを修正しても影響を受けるのは背側だけで、銭全体の歪みは生じません。寛永銭の背の文字が少なくなった(無背・刮去化の)理由は、背に文字があると、その分鋳造に気遣いが必要になるからではないでしょうか?寛文期以降は背文字のあるものは背元と足を除き、仙台銭のように銭緡の識別荷札用に使われたのではないかと私考しています。勝手な妄想ですが、背一とか島屋文なんて無背の出荷時の荷札じゃないのかとも考えています。
 
1月16日 【気になる天保銭】
焼け銭です。歪みもあるようです。しかし、文字が力強く太く、文字抜けは抜群できりっとしています。一瞬、母銭か・・・なんて思えてしまうのは欲目でしょうか?
南部の小字は天保銭の藩鋳銭とされるの中では最も有名な品の一つです。横綱とはいかなくても大関・関脇クラス、少なくとも人気は抜群の花形力士です。この小字は実数が少ないのもさることながら、市場に美銭が出てこないので苦労させられます。皆さん、愛着があるこの小字の美銭は、しっかり退蔵して手放さないんですね。 もしこの天保銭に焼け歪みがなかったら素晴らしい品であることは間違いないもの。美品クラスは20万円なんていう価格が付くのもこの南部小字ならでは。藩鋳天保銭の中では美醜の価格差が比較的はっきりしているほうだと思います。しかもこの小字は桐極印と言うおまけつきです。
南部小字には八ツ手桐極印と桐極印とがあり、桐極印の方がワンランク少ないとのうわさ。私は浄法寺と赤銅の八ツ手桐極印は保有していますが、桐極印は未収なんですね。ただ、この美銭はなかなか市場に姿を現さないし、出たら出たで値段もすこぶる高いときたもんだ。
かくして、私の心はこの画像を見るたびに揺れ動いている次第です。
 
1月15日 【背佐写し】
四国のKさんから私好みの密鋳銭というふれこみのお便り。はい、密鋳は好きですね。一見、頼りない焼け銭のようにも見えますがKさんの目は確かですから、これは間違いない品でしょう。 
面背逆製もそうですが、密鋳銭も実に見栄えがしないもの。人によっては目を輝かせて値段をつけますが、興味ない人は速攻でゴミ箱行きといった品です。とくに一文銭類はなかなか数が集まらないので収集意欲がわかず、見逃されているジャンルだと思います。
逆に言うとこれはある意味有望なジャンルなのかもしれません。それにしてもなかなか見栄えがしない・・・それがまたかわいいところでしょう?
 
時期 銭種 有無
古寛永 岡山銭長嘯子低頭通 保有
寛文期 亀戸銭細字 確認
亀戸銭繊字小文 保有
元禄期 四ツ宝銭広永 保有
四ツ宝銭勁永 保有
四ツ宝銭勁永広寛 確認
四ツ宝銭跳永 確認
  四ツ宝銭俯頭辵 確認
  四ツ宝銭座寛 確認
正徳期 丸屋銭 保有
享保期 難波銭高頭通 保有
十万坪銭広目寛 確認
元文期 十万坪銭無印  確認
  十万坪銭含二水永 保有
  十万坪銭虎の尾寛  確認
  十万坪銭虎の尾寛小字 確認
  平野新田銭十万坪手  保有
小梅手仰寛 確認
  小梅手大永  確認
  小梅手狭永  確認
  日光銭正字 確認
  秋田銭大字  保有
  秋田銭中字  保有
  不旧手類進永 保有
  不旧手類退永小通  保有
  藤沢・吉田島銭縮字  確認
時期 銭種 有無
明和期 亀戸銭小字  確認
  長崎銭 保有
  佐渡銭  確認
寛保期 佐渡銭鉄銭座銅銭  保有
高津銭細字  保有
  高津銭小字  保有
  足尾銭小字 保有
密鋳 加護山正字写 確認
鉄銭  大字背千 保有
  小字背千  確認
  小管銭 確認
四文銭
明和期 俯永 保有
  正字 保有
文政期 小字  保有
密鋳 小字写  確認
鉄銭 仰寶  確認
1月14日 【面背逆製の寛永の種類】
面背逆製について菅原氏も第9、10回配布資料で触れられています。現在、私の手持ちの面背逆製はアルバムの中に30枚と卓上に未整理のものがあと数枚ある程度ですが、意識して拾い集めていても絶対数そのものが少ないのでなかなか増えません。これは鋳造過程のエラー銭ですから、存在の多少は銭座の管理体制の問題です。古寛永の面背逆製はほとんど聞かず、元文期や明和期銭などに多いのはそのせいかもしれません。しかし、管理が厳しいと思われる文銭にも存在しているから不思議ですね。見栄えは全くありませんが、皆さん結構大事にされているようです。
左の表は保有品と今回の菅原氏の発表の品ならびに、過去に鮮明に見た記憶のあるものを掲載しています。当然ながら掲載漏れのもの、新発見のものもあると思います。またこの類のものの宿命で、面文がはっきりわからないものや密鋳銭と思われるものの混入もあるかもしれません。
面背逆製は時代的には元禄期四ツ宝銭と元文期以降が多く、文銭系と享保期銭、古寛永は稀です。
鉄銭はたぶんもっとあると思うのですが、意外に発見できません。比較的発見しやすいのが明和期の長崎銭と文政小字。元文期の不旧手と四ツ宝銭も比較的多いと思います。
明和期の四文銭ではなぜか小字だけが発見できません。もっとも明和期銭四文銭の面背逆製はかなり少ない方だと思いますのでこれはしかたがないことかもしれません。
珍品と言えるのは佐渡銭の鉄銭座銅銭。もともとの銭自体が珍品なのでこの面背逆製は島屋文級の珍品のはずなのですが、残念ながら見栄えがしないので値段がつきにくいもの。佐渡銭の面背逆製は多いと言われ、いづみ会譜にも掲載されているものの、わたしはこの1品しか入手できていません。出会ってすらないのです。文銭系や古寛永はかなり少ないので発見できただけで自慢できます。
面背逆製なんてみんな気にしていないと思っていましたが、案外コレクターの皆さん大事におもちなんですね。
 
1月13日 【明和正字 後波欠波の検証】
北秋田寛永通寶研究会の菅原氏の研究発表対象がこれ。なんでも約2万枚の明和期4文銭を数ヶ月がかりで再分類したそうなのです。(私には絶対できないです。)その結果、明和正字 後波欠波はわずかに2枚しか得られず、しかもハドソン図とは切れ方、位置ともいずれも異なるものしか見いだせなかったとのこと。(拓本1、2)その結果を青森の板井氏に伝え類品がないか問い合わせた結果得られたのが拓本3です。元ハドソンの石川氏にも連絡を入れ、結果的に割譲入手できたのが拓本4.いずれもハドソンの銭図とは異なります。すなわち菅原氏や板井氏が約5万枚の明和期銭を分類してもこの手替わり品は出てきていないそうなのです。
したがってその存在数はかなり少ないことも予測できるとのことで、皆様に手持ち品の再確認の依頼が来ています。
では、私の所蔵品はどうなんだと言うとわずかに1枚だけ。波は大きく切れていますがどうやって手に入れたかというと、ほとんど記憶にない。鈴鹿で購入したのかもしれませんが、基本的にこういう類には私はあまりお金を使いたがらない性格。かすかな記憶が正しければ古銭屋の雑銭の山の中からなんとなく拾ったものだと思うのです。制作日記にも記載が見つからない。画像番号を見る限りかなり古いものらしいのですけどわかりませんでした。しかし、私の所蔵品もハドソンの拓図とは正合しません。(拓本1に近い気がします。)まあ、こういうマイナスの変化なので偶然の変化の可能性もあるし、そんなに躍起になるものでもないかな・・・と構えています。(以前文政の小字背左1直波右4削波探しで躍起になったことはありますが・・・)それでもとりあえず1枚は類品らしきものがありましたのでご報告申し上げます。(菅原様の1日も早い退院をお祈り申し上げます。)
 
1月12日 【深字降辵は2種類ある!】
北秋田寛永通寶研究会の10回目の資料を頂戴しました。今回の資料は①寛永通寶偏奇銭②新寛永専科會例会資料③各銭座別解説④面背逆製の寛永補項⑤明和正字後波欠波の検証⑤深字降辵が銭譜に合わない!で、なかなか力作ですっかり惹き込まれてしまいました。
⑤も興味ある研究記事ですけど、これは後に譲るとして、今回は菅原氏の大発見である⑤についてふれたいと思います。
氏は深字降辵の通用銭を購入以来納得できない気持ちがあったそうで、母銭を購入比較することでようやく納得行く結論が出せたそうです。その結論とはタイトルにあるように「深字降辵は2種類ある!」ということなんだそうです。鉄銭にあまり興味を示さない私は、深字降辵は1枚入手してからはほったらかしでしたので、当然ぴんときません。簡単に言うと、深字降辵は深字降辵無爪永と深字降辵仰永の2種類に分けられるのだそうです。もし、お手持ちの泉譜にいづみ会の「穴銭入門 寛永通寶 新寛永の部」をお持ちでしたら、No731番の深字降辵をご覧ください。(第2版以前には番号が振られていません。)
降辵無爪永 降辵仰永
寛冠前垂れ開き気味
寛尾わずかに内跳ね 
寛冠前垂れは垂直
寛尾垂直に跳ねる
永柱垂直
永点長く退く
無爪永
永柱わずかに仰ぐ
永点小さく傾斜が緩い
ノ画に爪あり
通点長く湾曲 通点短く丸い
前足のカーブ緩やか 前足短くカギ状に湾曲
存在 母銭多く通用銭少ない 母銭少なく通用銭多い

実は母銭が降辵無爪永で通用銭が降辵仰永なんだそうです。たしかに微差ですが通用銭の拓の永柱は仰いで見えます。私が資料から見つけたポイントを加えたものは左の表の通り。いずれも文銭レベルのわずかな変化であり、鉄通用銭では気づきづらいレベルだと思いますので、菅原氏はよくぞこの違いを感じ取ったものだと思います。
寛永鉄銭では亀戸の大字に2種類あることが大正時代の終わりころまでわからなかったといいます。今回は久々の新発見です。なお、氏の研究は母銭6枚、通用銭10枚からの推察だったようですので、もっとサンプルが増えれば結論がさらにはっきりするとのこと。皆様、手持ちの寛永銭(とくに母銭)を再観察してみて下さい。

※掲載許可を戴きましたが、すでに入院中の報告がありました。早期の復帰を願います。
 
1月11日 【天保銭の重量銭】
古銭を集めていると飛び切り大きなものに出会うことがあります。径の大きいものは見栄えもあり、比較的拾われるのですが、重いものについては案外見落とされることがあると思います。
実は今年の最初の入手品が重量25.1gの天保銭。金座の公式文書だと21.75g以上の本座天保銭は規格外としてはねられる運命にあったのですが現実には存在します。天保銭事典においては当時の秤は性能が良くなかったとして、本座銭は22.2gまであるとされてますが、実際はそれをはるかに上回るものが出現します。25.1gの天保銭はその典型であり、ひょっとして不知銭かなあと思うものの銭文径や製作書体に違和感がありません。幕末においては管理がずさんだったという話も聞いたのですが、一概に幕末の作とは言えないつくりのものもあります。天保銭の場合は重量が違うということだけでは不知銭と断定することは難しいと思います。一方で極めて本座に近い不知銭もあると思われるので過重量銭を不知銭と見なすことも可能かもしれません。その点の判断は収集者の感性次第なのかもしれません。
藩鋳銭にも重いものは存在し、保有する天保銭では薩摩広郭の30g超え(30.7g)が全天保銭中のチャンピオンです。しかし、上には上があるもので天保仙人様にその昔32gの薩摩広郭を見せて頂いたことがあります。
福岡離郭も厚肉のものが多く、私の記録は27.1gが最高。琉球通寶にも重いものが存在し、私の記録は中字の27.6g。きちんと探せば28g超えはどこかにあると思います。(皆様手持ち品を調べて下さい。)
秋田広郭も厚肉が多いイメージがあったのですが、銭形が小さく意外にばらつきがない。たとえば手持ち銭では肉厚3.2㎜と言うものがあるのですが、重量は24g台にとどまっていました。もっともこれは私の記録ですから、お化けもあるのかもしれません。
萩曳尾は大型銭が多く、重量も25g超えも珍しくないのですが、肉厚3㎜を超えるものはほとんどみあたらないようです。曳尾好きのTさんに頂戴していた資料によると、最も重いもので27.2g。可能性はあるとは思いますが果たして30g超えはあるかしら?肉厚は(Tさんの記録では)2.7㎜どまりで、それでも重量があるのは秋田広郭に比べて銭径が大きいのと彫が浅いからだと思います。
不知品天保銭を探すときに重さの違いも重要なポイントなのですが、拾う時は指先の感覚だけが頼りですので見落としやすい一面でもあります。
目下の記録は
長郭手28.2g、細郭手27.0g、広郭手26.6g、中郭手26.0g、本座広郭(とおぼしきもの)25.6gです。おおむね25gを超えたら拾うべきで、27gは稀、28gは超希少、29gで狂喜乱舞、30gで卒倒します。26gを超えると肉厚はたいがい3㎜を超えますので迫力ありますよ。是非皆さんも探してみて下さい。
 
銭名 価格 銭名 価格
和同開珎  3両 長年大寶 銀20匁
萬年通寶 銀50匁 饒益神寶 銀20匁
神功開寶 5両 貞観永寶 銀5匁
隆平永寶 2両 寛平大寶 3両
富寿神寶 3両 延喜通寶 2両
承和昌寶 銀20匁 乾元大寶 銀9匁
1月10日 【江戸時代の古銭の相場】
ボナンザに掲載されていた天保13年の皇朝銭の相場。一両をいくらに換算するかとは難しい話ですけど、米価と比較して2~4万円ぐらいという説もあれば、二八そばと比較して18万円なんてとてつもない価格に考えることもできる。天保13年当時の米価は一俵一両一分。銀は一両50~60匁だったといいます。大工の賃金だと月10~12日の労働でやっと一両。当時はそんなに毎日仕事があるわけではないだろうから、12~18万円ぐらいの価値はあるかと思います。でなければ「これ小判たった一晩いてくれろ」なんて狂歌は生まれなかったでしょう。これを考えると今の古銭は底値かしら?
発見枚数が少なかったのか、それとも人気が高かったのか神功開寶や延喜通寶の価格は驚くほど高く、饒益神寶や乾元大寶は安い。いや、それにしても全体に良い値ですかね。タイムマシンがあったら大儲けできそうです。
 
1月9日 【ロクロの事実2】
関東のTさんから「鋳物の文化史」という本に、ロクロ図が掲載されているという情報がありました。原典は石巻鋳銭場作業工程絵図で、それに中国銭の鋳造工程の知識が加わっていますが、おそらく発刊当時に貨幣収集家のだれかが助言したのだと思います。床焼きが甲賀博士の説のままですね。したがって私はこの焼きなまし説が今一つ信じ切れていません。どなたか冶金の専門家の方、教えて下さい。
周囲の仕上げについては鑿(ノミ)ではなくて砥石などになっています。実は私はこの方が正しい気がします。ロクロは順回転と反転を繰り返します。鑿のような工具では引っかかってしまうのではないでしょうか?それにロクロ仕上げの銭の外周に残った線条痕を見る限りは、荒砥石と和やすりの仕上げの気がするんですけど・・・実際はどうなんでしょうか?


余談)本業で今日は共同通信社の記者に電話取材を受けました。言いたい放題言っていますので、記事になっても恥をかくだけかもしれません。

余談2)私の身内がストリートミュージシャンの「音夢食堂」にはまり込んでいます。応援してほしいとも頼まれ安請け合いしました。
船橋市の公認もとれたということであの「ふなっしー」を超えたと喜んでいましたがまだまだ有名ではありません。
マルタイの「棒ラーメン」の応援ソングを勝手につくって少し評判になり、ついにはマルタイの公認もとれたそうですが、マルタイ「棒ラーメン」って何?と、と仕事仲間に言ったらスーパーに売られているとの事。半信半疑ながらさっそく行って買い込んできました。
いえ、買わなきゃいけないのは「音夢食堂」の歌なんですけどラーメン買ってどうするんだろ。何やってんだか。
 
1月8日 【幻の昭和天皇100円銀貨】
たまには穴銭以外の話題と言うことで・・・
後醍醐天皇がつくったとされる幻の通貨「乾坤通寶」は未だに発見されておりませんが・・・
昭和34年の稲100円銀貨へのデザイン変更の際、天皇陛下の肖像がデザインとして採り上げられたことをご存知でしょうか?この逸話はコイン百話に取り上げられ、試作品と思しき写真が不鮮明ながら掲載されています。この試作貨幣、もし市場に出てきたらとんでもない市場価値をたたき出すと思います。
紙質が悪く印刷も粒子が粗いのですけど、きっちりとしたデザインで、これが発行されればわが国初の肖像入り硬貨になったのです。
残念ながら宮内庁の了解が得られずお蔵入りになったそうなのですが、この試作貨幣はいったいどこにあるのでしょうか?  
 
1月7日 【ロクロの事実】
関東のTさんからメールが届きました。ネットサーフィンをしていてロクロの具体的な図を発見したとのことです。
「いもののおはなし」というHPの中にある「いもののれきし」と言うコーナーに銭ロクロの図がありました。小さくて黒っぽくて不鮮明だったので、ちょっと加工しましたが右側の男性が巻きつけた布を引いて回転軸を回し、左側の職人が回転する銭を削っているように見えます。現代のロクロのように一方向に回り続けるのではなく、順回転と反転を繰り返すようですね。銭には砥石ではなくバイトのような金属工具が当てられているようです。どうやらロクロで銭を回していたことは本当だったようです。あとはどんな道具で削っていたかですね。いくら青銅とはいえ、工具で削るのは大変だったと思うのです。
私が用心深いのには理由がありまして、2014年の9月15日の記事を読んでください。別冊ボナンザに掲載された丁銀のつくり方の図がありますがあれは大嘘なんだそうです。同じ本に「皇朝銭のつくり方」の図もあり、ロクロ工程の説明が書かれていました。だから今一つ信用ができないのです。丁銀を熱湯を使って鋳造する・・・と言う話、今でもあちこちで聞きます。それだけ広まっちゃっているのです。溶けた金属のことを「湯」と文献に書いてあるのを、沸かしたお湯と間違えた・・・のは判るにしても、木箱の底に金属の型を置いて熱湯で満たし・・・とまあ、よくも妄想を並べたことで・・・。実際は砂型を使ったらしいので、熱湯以外もみな空想の産物。これでは疑心暗鬼になるのも仕方がありません。
歴史の推理はしばしば独り歩きして真実を曲げて隠してしまいます。たとえばこの私が書いた記事・・・当然ながら間違いもあるのですが、引用されると正しい論として広まってしまうのです。ネットサーフィンをしていると、ときどき私が昔書いたことをうのみにして書いたんだなあ・・・と思う記事にぶつかることがあります。私はきちんとした学者ではなく、いろんな方から聞いたり、文献から集めた噂話を整理類推して楽しんでいるだけですから、皆様お気を付け下さい。
 
1月6日 【石巻鋳銭場作業工程絵図】
関東のTさんから年賀状代わりに・・・ということで石巻鋳銭場工程絵図のカラー写真を頂戴しました。(ありがとうございます。)
この絵図は写しを含めていくつかあるそうで、実は昨年の12月27日の記事中に、源太流しが1回しか描かれていない・・・と書いてあるのは全くの私の誤解でして、石巻鋳銭場作業工程絵図を写したと思われる鋳銭図解と図の表示順(模写順番)が異なっただけでした。記事内容にも錯誤がありましたので修正しました。
ところで、錵屋を「かびや」と読むのはWikipedia(銭座)にあるとのことでしたが、すでに記事が訂正されているようで確認できませんでした。おそらくこの読みは造幣局に勤務していた圓々堂 甲賀宣政(通称甲賀博士)が大正12年1月にこの絵図の解説として寄せた記事のルビに原典があると思われます。甲賀博士は当時もっとも権威ある貨幣研究者でした・・・が、甲賀博士の解説では「床焼き」が金属を強くする焼きなましであるとしていますが、「翁草」の記事において床焼きと思われる工程はは「古墨と油で煮る」であり、「長崎鋳銭一件」においては「床焼きには鯨油と糠を用いる」とあるのです。したがいまして、不遜ながら私は博士の解説に少々疑問があります。そもそも銅銭に焼きなましは行えるのかという点からして疑問でして、(銭は鋳造の工程でゆっくり冷えるのでもともと焼きなましの状態ですし、焼きなましは鋼に対する加工方法ですし・・・)床焼きの工程はもとは銭に地染めをする工程+鋳砂除去(洗浄)であり、元文期以後には地染めが省略されたのではないか・・・と私は考えていますがいかがでしょうか?
なお、Wikipedia(銭座)にある・・・豆の汁で煮て付着した鋳砂を取り除き・・・の記述は、おそらく天保銭の銭洗いの工程を示していますので寛永銭の工程とは異なるような気がします。(原典は私が昔に書いた記事かもしれません。)
実は日本通貨変遷図鑑は私も保有しています。版が異なるようで(昭和30年版)A3よりさらに大きい豪華本ながら紙質が悪くカラー印刷でもありません。(色が飛んだ?)
厚紙のカバーは劣化してボロボロで壊れそうで怖くてほとんど触れないのですけど、Tさんのお便りで久々に引っ張り出しました。(一度開くと、ゴミが出て掃除が大変です。)それに比べてTさんの鋳銭図の美しいこと・・・しばしご堪能ください。(掲載の都合上編集してあります。)

※火手松篝 の読みが判らない 「篝」は「こう・かがり・ふせご」と読み、松明(たいまつ)を意味します。「ひのてまつかがり」かしら?
※滓の文字は「さい・かす」で、鋳くず・鋳造かすのこと。源太流しでは滓は貴重な獲物です。
※この絵巻は京都本銭屋御掛屋両替大年寄堺屋平兵衛蔦蔵の所有物であったものが京都の中島泉貨堂に伝わり、それを石版画にして同好者に配布したもののようです。本銭屋・御掛屋とも両替商のことと思われ、なかでも御掛屋は藩や幕府の御用商人的な両替屋。藩や幕府の金融関連取引を一手に引き受けたと思われます。

T様へ・・・ご協力ありがとうございました。記述したように日本通貨変遷図鑑は私も保有していますが、ボロボロで巨大でありコピーも難しい状況です。資料としてお譲りいただけるとのことですが、貴重なものですしご好意に甘えてよろしいのでしょうか?
 
1月5日 【砥石】
銭を作る上で必要なもの・・・銅・錫などの金属原料、炭、鋳砂、そして砥石です。密鋳においてこれらを目立たないように調達することが大切なのですが、良く聞く話が秋田藩が鋳砂と砥石の入手にに苦労したということ。
鋳砂の話題は今まで良く書きましたが砥石については調べてみたことがありませんでした。と、いうより私が理解できる資料がほとんどありません。ただ、言えることは日本は世界最高峰の砥石の名産地だった・・・そうなんです。それはまた正解最高峰の刃物である日本刀がはぐくんだ文化だったと言えましょう。
だった・・・としたのは砥石産業は量的には衰退の一途なんですね。私の親族にトルコ人と結ばれた者がいまして、そのトルコ人の彼は定期的に日本に売買に来ている・・・それが砥石なんです。日本は大陸プレートと太平洋からのプレートがぶつかる地で、火山も多いし地中の圧力が高く、砥石の原石である高密度の泥岩・粘板岩・凝灰岩などが良くとれる地域なんだそうです。それに比べ西洋の地は高密度の砥石がとれないので、刃物の刃そのものを硬くすると砥ぎが難しくなり、かつ折れやすくなるため、日本刀のような切れ味を特徴とする刃物文化が育たなかったようなのです。西欧は・・・突く・刺す・重さでぶった切る刃物文化・・・なのです。

ボナンザ誌に掲載された図
江戸時代に有名な砥石の産地を調べると上野の戸沢砥(砥沢砥)、三河の名倉砥、越前の常慶寺砥、近江の砥石山砥、山城の高雄砥と鳴滝砥、瓶原砥、丹波の佐伯砥、但馬の諸磯砥、紀州の神子浜砥、伊予の伊予砥、肥後の天草砥、対馬の青砥(虫喰砥)の地名・ブランド名が並びます。秋田藩が苦労したことを物語るように産地名を見る限り、東北の地区名はありません。そして、この産地が現在でも高品質砥石の名産地。なかでも京都近郊は世界に誇れる高品質仕上げ砥石の産地にして聖地なのです。実は古代の砥石はかなり高級品で鋳砂や砥石なんぞ、地面を掘ればあちこちから出てくるような気がするのはやはり素人的な考えですね。

ところで・・・砥石について忘れてはならない有名家系に「本阿弥家」があります。芸術家として名高い「本阿弥光悦」はこの家系の人。本阿弥家は刀剣の目利き・ぬぐい(拭き清め)・砥ぎを家職とし、室町幕府時代からの御用商人でもあったのですが、慶長12年に徳川幕府から山城国など5か所の砥石採掘権が与えられたことから、明治時代になるまで砥石山を管理するようになったそうなのです。刀の切れ味は力の象徴であり、それを安定的に管理することが天下掌握を可能にすると幕府は考えたのかもしれません。

1568年頃の西欧(ドイツ)
さて、銭を作る過程でどのような砥石が用いられたのかは良く分からないのですが、青銅は鋼ほど硬くないものの粘り気があるのでやや粒子の荒めの砂岩のようなものでも代用は出来たと思います。しかし砥石としての結合が甘い(=軟らかい)と摩耗や破損が早いし、何より大量に使用したと思われるので、それなりの供給力も求められます。皇朝銭では穿に角棒を通して銭本体を回し、外周をバイトのような加工具で削っている図を見かけます。この技術は文久銭や安政期銭でも使われたと言われます
実際にこのような道具が使われたのかもしれませんが、どうせ回転させるのなら砥石を回転させる方が遠心力も働くし自然で効率は良いと思うのです。砥石を回す工法は西洋主流の技術で、時代的な背景を見る限りその技術が貨幣鋳造にも応用されてもおかしくないと考えられます。
あのボナンザなどで見かけるロクロの図は、はたして本当なのかなあ・・・と最近は疑問に思う次第。銭加工におけるロクロ技術について詳しくご存知の方お教えください。

掘り出し名人のⅠ氏は、数年前に九州の豊後竹田後の鋳銭遺跡を探しに出かけ、見事な銭砥石の破片を拾ってきた強者です。画像で拝見しましたが銭の側面にあわせてきれいに湾曲しています。九州産の有名な砥石は肥後の天草砥で、これは比較的目の粗い凝灰岩質の砥石だったようです。豊後の砥石はこいつに違いないと睨んだものの、実際に使用された銭の砥石がどこの産地とまでは調べきれませんでした。でも、砥石ひとつをとっても日本の歴史を感じますね。
 
1月4日 【逃した魚?】
昨年末に斜珎もどき(結局斜珎ではなかったものの結構気に入っています。)と同じ方が出品していた不知細郭手とおぼしきもの・・・売れてしまいましたね。値引き交渉OKの品でしたから興味があったのですけど、さすがに50%OFFとは言いづらかった。
面の雰囲気はなかなかよろしい。どう見ても寶足が長いですね。細郭手の長足寶は意外に少ないのです。
一方でそれ以外の書体変化、制作変化はいまひとつですよね。とくに背の雰囲気は全く本座なんですよね。一度、どう見ても不知銭にしか見えない画像で本座銭をつかんだことがありますのでどうしても臆病になってしまいます。画像で見る限りは刔輪長足寶なんですけど、ときどき画像マジックの可能性が否定できませんでしたので思いきれませんでした。入手された方、情報をお教えいただければ幸いです。
 
1月3日 【2015年年賀状ギャラリー】
年賀状はめんどくさいと思いながら毎年300通ぐらい出しています。年賀状だけのやり取りの人も多いのですけど、なんかつながっているのって嬉しい気もします。
古銭関係の方はそれほどいませんけど年賀状に古銭の写真や拓をいれて下さる方が多いので楽しみですね。私の場合はやっつけ仕事で作っていますが、拓本を貼ってある方やグラビア印刷のような気合が入っている方などもいて頭が下がります。もっとも妻に言わせれば「変人」の一言で説明されてしまいます。

画像左上は澧泉庵さんからで、明和離用通面刔輪背削波の生拓本。昨年私も入手したもので、奇しくも私も賀状に印刷してしまいました。
上中央は北秋田寛永通寶研究会会長こと籠山閣氏からの賀状。加護山細字嵌郭黄銅質母銭です。
そして上段右は鳳凰山氏から富寿神寶の大様・・・ご本人お気に入りの逸品だそうです。富と寿の神の宝ですからめでたいことこの上ない。

中段左は金幣塔氏から・・・天保豆板銀 群保 寶字大黒見返り打ちというとんでもない献上品の豆板銀。こんな品見たことはもちろん聞いたこともない幻の逸品です。ものども控えおろう!ひれ伏して仰ぎ見るがよい・・・てな品です。
中段右は康仙亭氏からで仰寶大字の母銭ですけど、ときどきみかけるものとは材質、制作とも違いものずごく大きい。これって原母銭クラスなんじゃないかしら?ものすごく特別な品の気がします。ははぁ・・・頭が高い!

下段左は四国のOさんから、これまたすこぶる巨大な奇永の手本銭、しかも鋳放し、さらに奇永凹寛とまあ肩書きの多いこと。26.5㎜ですって?こりゃ事件です!
下段右は関西のSさんから・・・会津の萎字小郭です。しかも入手価格450円とのことでした。こりゃ大事件だ、詐欺?恐喝?それともたかり?犯罪じゃないの?え、掘り出しですか?こりゃまたうらやましいことで・・・。
明和期離用通面刔輪背削波
 
1月2日 【不知長郭手仰二長天】
ひさびさに宮城県のNさんからメールを頂戴しました。画像の左側の品は不知天保通寶分類譜の仰二長天の原品だそうです。昨年の12月19日に記載した刔輪長天としたものへのアンサー投稿ですね。ありがとうございます。
私が入手したものはこの品に似ていますが、若干の差異があるため名称をいじりました。元の蔵主は「仰天」としていました。
違いは天足だけでなく保人偏も長いこと。そして伸ばされた文字の周囲の地が浮彫のように彫られていること。通頭が仰がず俯し気味であること。寶王の右側が陰起して狭玉寶であり寶下の輪の縁が削られていてわずかに寶足が長く刔輪されていること・・・などが挙げられます。
とはいえ、全く違うと言えばそうでもない気もします。
Nさんいわく「個人的には塞頭通、中郭手小点尓等と同制作かなと思っています。」とのことですけど、地金などを比較しても雰囲気がずいぶん違う気がします。とはいえ、書体的には似たところもいくつかありますので、現段階では完全否定はできないところ。保の点など意識的に伸ばしているようにも感じます。ただ、右の品は改造母銭から生まれたバリバリの品と言う主張があるのに、私の入手品はどこかあかぬけないやっつけ仕事のような雰囲気です。まあ、それも味と言えば味なんですけどね。
仰二長天という品を画像で見たのははじめてで、しかも2品もお持ちというNさん・・・さすがにすごい人です。
 
寛保期高津銭
小字背元大様母銭
元文期一ノ瀬銭
高寛背一
1月1日 【あけましておめでとうございます!】
2014年が過ぎ、激動の2015年がはじまります。実は今年の私は(とくに上半期は)とんでもなく忙しくなることが確定していますので、のんびり更新して行きますのでよろしくお願いいたします。
と、いうわけでおめでたそうな題材を探していたら、特別展示室の28番の組み合わせが元日らしいということで拝借。
いやあ~おめでたい古銭です。
高津銭は平成17年の銀座コインオークションの落札品。下見のときには舎人坊石川氏が担当していてどきどきしました。あのときは奇天や明和大字なんていうお化けが出ていたので目立ちませんでしたけど、これはなかなかの品だと思っています。理由は特別に大きいこと、そして完璧な顔をしていること。高寛背一は平成24年の銀座コインオークションの落札品。これまたなかなかの顔をしています。こちらは誰も競らず、10万円以下で落ちた奇跡の逸品。状態もすこぶる良好でしたので未だに誰も競らなかった理由が分からない。神の与えてくれた空白の時間でした。
 
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