南部藩天保銭の考察
【はじめに・・・】
このページは雑銭の会のHPに投稿された会長の暴々鶏師(工藤氏)の記録及び南部古泉研究会のS氏の記録を転載してまとめたものです。私自身の理解不足もあり、誤り・異説なども多くあるかもしれませんがお許しください。
※2018年以降はリンクを分からないように隠して一般公開は控えていました。見つけたあなたはラッキーです。
 
当百銭について(暴々鶏師)
南部当百銭については、細かい違いに目をやると、本筋が見えなくなってしまうので、「製造工程」だけに着目した方が分かりよいと思います。
難題は鋳放銭で、湯口の大きい物が大半ですが、ごくまれに小さい物があります。鋳肌も少し違いますが、湯口の小さい方は、従来通りそのまま「反玉手」とした方がよいと思います。
古銭家はとにかく、少ない方、少ない方へと目を向けますが、例外は必ずあり、それにこだわり過ぎると何も言えなくなってしまいます。手作業ですので、1枚1枚の状況が「変わることもある」と認識すべきだろうと思います。物証については、既に私の手を離れた品もありますので、もどかしいところはあります。

鋳放銭には、Ⅰ~Ⅲまで、すなわち3通りあり、最後のⅢは贋作ですが、証拠が取れないこともあり省略しています。
称浄法寺銭は山内閉座の後、1)明治中期に作られたもの、2)それ以外のものがあり、2には、真似て作られたものを含みます。総てを肯定したり、総てを否定するのは、双方とも誤り。
工法を観察する限り、作者は「少なくとも4者はいる」ので、総てをひとからげにすること自体が誤りです。長郭手の仕立て銭には、明治前半らしき品があります。これを手放してしまったのは、失敗でした。
山内天保の前期後期
「前期」「後期」の名称は便宜的なものです。
大字母銭は、戦後市中に出た品は全品が浄法寺で発見されたものです。大ぶりの初鋳母と、小型の黄銅母があり、区別は分かりよいです。寛永銭の母銭にも、黄銅母があり、当百銭に対応しています。
後期銭は一戸で発見された百枚で、一度に出たので、たくさんあるように見えたのですが、比率では前期銭より少ないと思います。自分で入手し、実際に手にとって見たのが、3~4百枚程度ですので、具体的な配分比を言えるところに至っていません。
黄銅色の銅銭(当百、寛永とも)は、ほぼ「山内座のもの」だろうと思います。
次鋳黄銅母は、浄法寺のAさんが複数枚と、私が1枚持っていたのですが、私のは手元にありません。しばらく前に、某コイン商が出した品がそれです。
ちなみに、銭径だけをもとに言えることはほとんどありません。「銭径が~だから」という考え方は、視角的に誤っていますので、念のため。
暴々鶏師説に基づく私の分類考察
(2)山内前期銅山手大様(中字) 赤茶色というより、赤味のやや強い黄色という感じでした。入手したときの位置づけが良く分からず、工藤会長に聞いたら堂々たる品です・・・と言われた記憶があります。
ただ、私はまだわかっていないのですが、工藤氏の言う本体が果たして藩内銭=栗林座を意味するのか、それともそれ以外に座があったのかということが・・・。
そういう意味ではこの天保銭はあまりに分厚く大きいし、しかも台形状の側面仕上げになっています。初期銭であるのは間違いないところです。
長径49.2㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.4㎜ 重量24.0g
 (浩泉丸蔵)
(2)山内前期?
銅山手濶縁(白銅質)

たしかに大様なんですけどわずかに銭文径や内径が縮みその分大様になっています。色は黄色というより白っぽい感じです。次鋳銭につながる過程の品かしら?

長径49.0㎜ 短径32.9㎜ 銭文径41.1㎜ 重量25.0g
 
栗林銭(1)もしくは山内座前期(2) 銅山手(中字)by 暴々鶏師
「赤くない南部中字」です。細字のものはこの金質のことが多いです。当の頭が「川」で、「口」が小さく見えます。まあ、分類するほどの違いではありません。無差別に入手して行っても、この感じのが出るまでは十枚以上かかります。小字(六出星)に似た製作の品があり、あるいは栗林銭かとも思いますが、決め手がありません。
栗林銭(1)小字by 暴々鶏師
新渡戸仙岳の『岩手に於ける鋳銭』によると、六出星極印は盛岡銅山銭用の極印で、末期には「銅山銭、天保銭に対し、区別無く使用された」とあります。この新渡戸の記述を裏付ける証拠の品です。ちなみに、これが六出星極印で、異論は存在しませんので念のため。
何年か前に、先輩(戦前生まれ)に「六出星はこれですよね」と訊いたのですが、「他に何があるのか」と叱られました。昔、南部の会に初めて出た時に、「色んな極印があり面白い」とコメントしたのですが、K村さんに「南部(の天保銭)には桐極印しかない。他のを見たことがありますか」とドヤされたことを思い出します。極印で叱られるのは、生涯2度ほどあります。
名称なので、何故かは必要ありません。新渡戸や明治の収集家がそのように名付けたのです。
八つ手極印=六出星極印
左の極印は私が所有する小字(栗林銭)の極印拡大図。上の小字の極印と同じはずです。私はこの形の極印を八つ手という名前で教わっていましたが、現地の名称では六出星が正しいようです。
 
山内前期 大字(種別2)by 暴々鶏師
鑢目で、一瞥して山内銭と分かります。やや小様で薄肉なので、最初に作った方の部類だろうと思います。割れやすい金質です。
 
山内後期 黄色の中字(種別3)by 暴々鶏師
山内座で、次鋳黄銅母を作った時の配合と同じなので、3という解釈になります。銭径は小さくありません。古色が着いても、黄色のままでいる銭はわずかで、赤:黄は5:1以下ではないかと思います(概数)。別に黄色の中字を掲示しますが、当百の文字が違います。こちらは「口」が横に広く、上の点に角度がついています。
一戸から出た品には、この品よりも黄色のものがありましたが、十年くらい空気に晒していると、次第に赤く変じるようです。古くなっても黄色のままでいる品は、存在数が少なく、また精美な品が多いので、取り置いたほうがよろしいと思います。極印が花輪状で、陶笵銭のものに似ているので、長い間考えさせられました。しかし、それも「似ている」という事実だけしかありません。製造工程上、考えられていたのは、「普通の天保銭のように作ること」で、特別な意図はないのです。
山内後期 中字・大字(種別3)by 暴々鶏師
Oさんが一戸で掘り出した百枚の仲間です。この品の金色は赤色なのですが、黄色のものもあります。Oさんは、東京では主に中野Nコインに渡したようで、20枚くらい持っているのを見たことがあります。黄色の品は、そのまま変わらないものと、次第に赤く変色するものがあるようです。ほとんど使われていませんが、美銭で売られているのは、この仲間です。
大字には宝前足の前に湯口があり、ほつれが出ています。称浄法寺銭はこの手の山内通用銭を母銭改造したものから出発していますので、必ずここに窪みがあります。後期としては最終品です。本銭ですので、下値は2枚組5万円です。
 
 
山内後期? 大字最大様(種別3)by浩泉丸
東北のS氏の研究によると、慶応四年四月に取り締まりにおいて、母銭を含む鋳銭道具は全て没収破却されたため、後期には新たに木彫り母銭から新規母銭を作ったようで、それがこの大字にあたるとのことです。
工藤氏の前期後期の分類は製作の違いによる便宜的なもので、実際の時期云々ではないかもしれません。
密鋳浄法寺4文銭とされるものと同じ金質で側面のやすりもがっちりかかり台形状になる特色がよく出ています。(浩泉丸蔵)
 
山内後期 大字(種別3)by浩泉丸
この大字の位置づけが良く分かりません。内径は大型の山内大字とほぼ同じ。銅質は強い赤茶色で比較的練れが良いので・・・。(浩泉丸蔵) 
 
反玉手 銅山手次鋳(種別5)by浩泉丸
次鋳というより末鋳に近いもの。長径の47.9㎜は不知銭としても小さいレベルです。工藤氏は黄色としていますがやや白味の強い硬さを感じる金質です。この金質について、以前工藤氏は寛永銭を並べて説明をされていました。以下の3枚がその画像で、左から初鋳・次鋳・末鋳とのこと。天保銭は画像を重ねてみるとかなり銭文径や内径が小さいことが分かります。次鋳としていますが、個人的には末鋳じゃないかと感じます。その点はまだまだ理解不足です。極印は意外にしっかりしています。(浩泉丸蔵)
長径47.9㎜ 短径31.5㎜ 銭文径40.9㎜ 重量16.6g
  
上の天保の桐極印 下の天保の桐極印
寛永銭の色見本by 暴々鶏師
盛岡藩の寛永銭 左から初期・中期・末期。中央の色に注目!
暴々鶏師から分譲を受けた銅山手
反玉手 銅山手末鋳(中字)
極薄肉最小様(種別5)

実質的に末鋳にあたるもの。銅山手の密鋳銭ではないかとも思えるのすけど、製作的には次鋳に該当すると判断しました。(浩泉丸蔵)

極端な薄肉で、保有する全天保銭中最も薄く軽い1枚です。
長径47.2㎜ 短径31.1㎜ 
銭文径40.9㎜ 重量11.7g

※南部當百銭の謎P182原品
 
山内後期 広郭写し(種別3)by 暴々鶏師
一戸発見の百枚には、2枚だけ広郭写しが混じっていました。黄色い金色で、見た目は額輪と同じです。単体で眺めると、額輪にしか見えません。実際、例会で回覧したところ、「これは額輪だ」と言う人が多数でした。
しかし、一戸の天保百枚は中字・大字の未使用銭で、その中にこれまた未使用の額輪が混じっていると考える方が不自然です。このため、部屋に放置して古色の変化を見ることにしました。結論は「これも山内後期銭だ」ということです。赤みを帯び、他の大字・中字と同じ経過を辿っています。種別3の中字・大字の谷の肌と比較すれば、それと同じであることが歴然です。
これが額輪に見えるのは、「台が本座広郭であること」と、「額輪しか見たことがないから」の2つです。私は百枚の現物を見ていますから、当然、ものさしが違います。分かりよいのは極印で、猫の足跡みたいな異極印になっています。ま、変形桐極印を深打ちしたもので、額輪には存在しないと思います。

天保仙人様が額輪の肥字を南部民鋳に戻そうとしています。実際にはいろいろな品が混じっているような気がしますので簡単にはいかない気がしますが、この品が実態をよくあらわしている気がします。変な極印と言えばそうですが、小さめの極印が深く打たれているのは額輪も同じ。判別はかなり難しそうです。 
 
 
称浄法寺大字 鋳写母(種別6) 仕上げ銭Aの母銭by 暴々鶏師
山内後期銭の湯口が下部左にある大字通用銭に覆輪を施し、これを写した母銭となります。当初より母銭作成を目的として作ったもので、通用銭を鋳浚ったものとは違います。半仕上イ(8)を鋳浚ったもの(改造中途)は十品程度存在すると思いますが、この品は2品というように聞いています。通用は仕立銭の小様銭のみではないかと見ています。半仕立や鋳放銭Ⅱ用の母銭ではありません。(これは良い情報です。)称浄法寺銭としては正用母なので下値は23万ですが、判断が付く人は少ないだろうと思います。

通用銭から素材を取った母銭は、総て「鋳写し」なので、「正用母」としたほうが分かり良いと思います。「改造母」や「改造中途銭」と区分することが出来ます。
 
 
 
称浄法寺銭 (鋳放銭を改造したもの)by 暴々鶏師
掲示の品は、称浄法寺銭の肝品です。左は、金属のへらのようなもので全体を擦ったもの。右は、砥石で磨いたもの。いずれも製造時のものです。
鋳放銭を作ったのは良いが、見た目があんまりなので仕上げようとした、ところが、通常の品とは似ても似つかぬ出来になったというわけです。鋳放銭には、反玉に近い時期のものもありますが(反玉手)、大半がやや小型のあの鋳放銭です。
仕立て銭、半仕立て銭とは、砂の作り方からして違います。
私は粘土型か石膏型だと思います。「鋳浚ってある」というので、極めて高額でしたが、よく調べると母銭改造を目的としたものではなく、単純に「仕立てようとした」ものだと分かります。
反玉・反玉手、仕立て(鋳写し母経由)、仕立て・半仕立て(改造母経由)、鋳放し、それぞれまったく別の人の手になる品と思います。重要な証拠品のひとつです。
 
称浄法寺大字 鋳写母様 
この天保銭をどう見るかが悩ましいところ。鋳ざらいによる改造母に見えますが・・・。
仕上げ銭Bの改造母なのか、それとも単純に見栄えをよくするために鋳ざらったのか?
通用銭を改造したもので側面には極印が打たれています。(浩泉丸蔵)

※手法的には上の掲示銭の類のような気がしますが、覆輪銭からの写しであり、私には現段階で結論を出すことができません。
 
 
称浄法寺 大字 (種別9 湯口中) by 暴々鶏師
山内銭との違いは、「内郭に棹を通していない」と「変形桐極印をつかっている」ことだけ。砂も合っています。昭和53年ごろに「盛岡大字」、すなわち本銭として入手したものです。
湯口は向かって右側で、1センチくらいなので、「中」くらいです。鋳放銭の湯口は、これよりかなり大きいので、「同じ作り方をしていない」ことが分かります。簡単に言えば、作った人が違います。
これは外に出しても値がつかないので、取り置く予定です。息子が処分する分には、いくらでも構いませんが、私は買った値段を知っています。まあ、今のネットでは「盛岡大字」で出ていますね。
 
称浄法寺銭と同じ型ですが、大阪の流通雑銭の中から発見されたものです。
同様に、称浄法寺銭が認識される以前の段階で、「南部天保」として収蔵された品の中に、こういう品が混じって居ると思われます。もちろん、完全仕上げで、使用傷が多数あります。
 
 
盛岡のS木さんが、浄法寺で買い取った品です。力(K岸)さんを経由して、こちらに来ました。S木さんは、この系統の品を他の浄法寺銭とは同列とは見なしていなかったようで、鋳放銭の十倍の値段でした(要するに5万円)。
今見ると、確かに仕上げが違います。内郭も処理されているし、輪側の鑢も良好です。半仕上げグループとも違うようで、果たして称浄法寺銭と言ってよいのかどうか。製作自体は、古いつくりだと思います。
手放したのは不味かったと思いますね。損を切る必要は無かったかも。鑢目が粗くて、なかなか良いです。
湯口を小さくするには、湯流れに関する知識と技術が必要なので、思い付きでは作れません。この辺、湯口の大きな品とは作り手自体が異なると思われます。

郭の右中央に決文のようなヒゲがあるタイプで,称飛鳥本座長郭写のほとんどがこの特徴を有しています。(浩泉丸さんのホームページにも掲載されています。)私が掲載したものとは極印が違うように見えますが,母型として使用したものは同じです。

銅山手類も含め、いずれも型自体はごく少数のものから派生しています。ところが、作り方が複数あり、同じ人の手になるものとは思えないのです。仕上げと半仕上げ、鋳放は、銭種母型としては同じものを使用しているのに、工程が著しく異なります。砂の作り方から、湯口の切り方などまったく違います。「炉が違う」という解釈では納得できないほど、違いが大きすぎるのです。
これを同じ括りで称「浄法寺銭」とするのには違和感があります。私が「※※銭」という生産炉と「型分類」を一切使用しないのは、そのためです。

同じ母型を使って別人が別の年代に製作したという解釈でよいと考えます。不鮮明のものが多いのですが,極印が一番わかりやすいと思います。小字が一番わかりやすいですね。母型が同じなのに製作も極印も違っていますから。

最も重要な傍証のひとつが、「実際に使用されたかどうか」。長い間探して来たのですが、それらしきものの存在はごくわずかです。
まあ、南部天保自体、幕末明治初年のごく短期間なので、あまり遠くまで流通していません。
その反面、狭い地域に固まって残っていたので、わずか数十万枚の生産量なのに見ることが出来るわけではあります。
 
後出来 by 暴々鶏師
昭和50年代に浄法寺から出た品ではなく、昭和末期から平成初頭に中央のオークションを通じて販売された品です。ネットオークションにも出ていたので、出所を観察していたのですが、主に宮城県から出ています。当百の小字鋳放なども、浄法寺からは出なかったのですが、この時に出ました。輪側が甘く、母銭として仕上げられない。湯口が大きいのに、あえて折り取っている。など不信感があります。浄法寺の鋳放銭を見て、収集家が「これなら簡単に似たようなものを作れる」と、鋳造工場に発注したのだろうと思います。ポイントは、「銅銭は母銭製作を目的とするものなのに、どうやっても母銭に出来ない」ということです。
 
特徴は前述の通り、1)鋳肌が滑らかで砂目がない、2)湯口が極めて小さい、が顕著です。極印は六出星を模したもの。小字のそれと酷似しているので、見る度にグラッと来ます。陶笵銭は未使用で厚肉の品が大半を占めますが、当品は割と薄く、実際に使われています。三期銭の母銭として、使用されたのだろうと思われます。

銭幣館氏はこれを「実際に使われたるもののごとく研磨して」と書いていますが、憶測による事実誤認で、実際に勧業場で母銭として使われています。正用の母銭から作ったので、これを使って通用を作ると、初期の盛隔輪・薄手・小様が出来ると思います。

ちなみに、青宝楼旧蔵品で、没後大量に市中に出た時に入手したものです。他の二期銭とは違い、使用痕が存在するため、悩まされました。普通の陶笵銭より、資料的価値は数段上だろうと見ています。

南部天保について、古銭家の書いたものはほぼ総て憶測と邪推ですので、信用しない方が無難です。彼らは勧業場が何のためにあったのかを知らないので、仕方がありませんが、手の上の銭ばかりを見て判断すると、重大な事実誤認を犯してしまいます。面倒で手が掛かるのですが、ひとつ1つ検証するしかありません。

銅山銭の裏面の右下には、ヘゲ(剥離)があります。砂笵をかちかちに焼き固めたので、こういうエラーが生じます。
「通常の砂笵製でなく硬くなめらか」が決め手のひとつになります。

陶笵銭は過去に4枚入手したことがあり、この品の他はいずれも厚手で、未使用品でした。他の方の収集品を見ても同じなので、事実丞、一手ではないかと思います。当品のみ薄手で、使用痕がありましたので、取り置いた次第です。

銅山銭に限らず、勧業場鋳の陶笵銭は、同じ作りをしています。銭種が違っていても、マイクロスコープがあれば、一発で鑑定可能です。
出来がもの凄くよく、「いずれ手放すだろうが、もし手放したら、買った人が私の名前を付けて売るかもしれない」と考え、表面の付け色を除去しました。元は赤黒く色が付けられており、一瞬、「初期の小様銭か?」と思うほどでした。

「K氏鋳」との触れ込みでしたが、通用銭を写した品のようで、輪側に極印跡があります。また裏面の文字が潰れていますので、通用写しであることは間違いありません(母型の真贋は別として)。
となると、K氏は正規母銭、錫母銭を所有していたとのことですので、K氏鋳ではないのだろうと推測できます。

薄手の見事な作品もありますが、そちらは陶笵銭から採ったものだろうと思います。製作も立派なので、1万円の値が付いていました。
以前、1枚持っていましたが、知人に請われ譲ってしまいました。

この状態では、到底、「本物だ」とは言えないので、安心して出せます。

なおK氏が所有していた錫母は、何故か2枚存在しています。持っていたのは1枚だったのに、「元はK氏のもの」という由来がついた品が2枚あるのです。分身の術が使われたのかもしれません。
地金、極印が微妙で、別座ではないかと思います。
もしくは山内座の出来の悪い品か。
鋳放銭の2つめのグループです。
さらに表面が泡立ったものがⅢですが、そちらは石膏型で、このⅡに似せて作ったものだろうと思います。称浄法寺銭でもなく、宮城天保。大量には作れなかったはずで、ひと吹きで数百枚が限界ではないかと思います。この手のは正体がよく分かりません。

湯口小の仕上げ銭は明治時代にあったことが確実ですが、それらとは作った人が違います。ちなみに、前にも書きましたが、鋳浚った品は「仕上げようとした」品です。鋳浚ってあるという理由で、6万円。この場合は、「母銭改造」と見たわけですが、実際は普通の仕上げです。このことで、半仕上げ銭群とも製造手法が著しく異なることが分かります。

この2枚を含め南部天保は、一定量を二戸市の郷土資料館に寄贈しようと思っています。
寄贈するのはよいのですが、浄法寺資料館のように、そのまま売られてしまう可能性があるかどうか思案しています。
浄法寺資料館には、反玉が27枚あったのに、毎年、オークションで売られてしまい、今は本座に化けているのではないかと思います。
入札やオークションで3枚買いましたが、出所は総て浄法寺でした。
同じ鋳放でも、「印象が随分違う」と思っていたのですが、理由は簡単でした。
Ⅱは輪側を削り、砂から抜けやすくしてあるのに対し、Ⅲは通用銭をそのまま使っています。
要するに、改造母を使用したか、そうでないかということです。
Ⅲは石膏か粘土の型に見えるのですが、なるほど、その場合は砂自体使用しません。
 
 
以下は南部古泉研究会S氏の研究画像に一部私の所有品画像を加えたものです。
盛岡大字(最大様銭)
長径49.9㎜ 短径33.6㎜の濶縁大様銭 (浩泉丸蔵)
盛岡大字(大ぶり銭)
銭文径が41.7㎜で割と大きめの大字です。
盛岡大字
銅色が少し黄色がかったものです。

極印は上部が少し変形していますが,盛岡大字の通常の極印です。
盛岡大字小様
盛岡大字で長径が48㎜を割るものです。末鋳でしょうか。極印も異極印となっています。
段々腹さんは,銅質違いとか色々お持ちのようですが,小様銭はどのくらいのものをお持ちでしょうか。

極印の一部のようにも見えますが,通常の桐極印の形状とは一致しません。
別座なのでしょうか。
 
浄法寺 大字(鋳放)
1回目に出現した称飛鳥大字鋳放銭です。
原母と見なされる柏木天保大字の通用銭が確認されています。
浄法寺 大字(最小様)
長径47.3㎜ 短径30.5㎜ 銭文径40.2㎜の縮形銭。(浩泉丸蔵)
 
銅山手(未使用 大桐極印)
大桐極印です。この極印が打たれているものはこの一枚しか持っていません。
 
銅山手日貝寶 原母?(柏木座)
称飛鳥中字(日貝宝)の原母として使用したと考えられるものです。3回目の出現時に発見されたようです。長径が49.15㎜あります。
浄法寺 銅山手日貝寶(鋳放)
称飛鳥銭の中字鋳放銭です。1回目に出現したものと同じだと考えられます。
これを仕上げると通常の中字の仕上げ銭となります。
浄法寺 銅山手日貝寶
称飛鳥中字(日貝宝)で内郭に棹痕があります。
目画下部に鋳溜まりがあり日に見えることから故川村庄太郎氏が命名したようです。
浄法寺 銅山手日貝寶
称飛鳥中字(日貝宝)です。1回目の出現と思われます。
内郭に棹痕があります。この極印は大極印タイプです。
浄法寺 銅山手日貝寶
日貝宝で内郭に棹痕なしです。他の称飛鳥中字(日貝宝)と作り方が違うようです。面背と輪側が荒砥石で仕上げられています。当初は,真っ黒くタール状のもので覆われていました。
浄法寺 銅山手日貝寶
1回目に出現した称飛鳥中字です。外輪の角が丸く加工されています。
浄法寺 銅山手蛇口(鋳放)
3回目に出現したと思われる称飛鳥中字です。天字2画目の先が割れて蛇が口を開けているように見えることから名付けられました。このタイプの母銭は今のところ発見されていません。
浄法寺 銅山手蛇口(鋳放)
同じく蛇口天保の鋳放銭ですが,肌が荒れています。
浄法寺 銅山手蛇口(鋳放)
村上英太郎氏旧蔵品。(浩泉丸蔵)
浄法寺 銅山手蛇口(鋳放滑肌)
同じく蛇口天保の鋳放銭です。肌が綺麗です。
浄法寺 銅山手蛇口(穿内鋳放)
蛇口天保の仕上げ銭です。(穿内鋳放)3回目に出現したものです。鋳放銭と同じ場所に小さな星や鋳溜まりがあります。
浄法寺 銅山手蛇口覆輪
3回目に出現した蛇口天保の覆輪銭です。覆輪銭は鋳浚い母銭から作られているようです。
浄法寺 銅山手蛇口覆輪鋳浚銭
3回目に出現した蛇口天保覆輪鋳浚銭です。鋳浚いの理由は不明です。
浄法寺 大字鋳浚銭 
通用銭を改造したもので側面には極印が打たれています。(浩泉丸蔵)

 
浄法寺 小字
他の銭種に同じものを確認できていません。(3回目出現)
浄法寺 小字
同じく飛鳥小字です。
これらの母銭と思われる盛岡小字の通用銭が確認されています。ただし、桐極印には見えません。また、他の銭種に同一のものを確認できません。
 
浄法寺 小字
これは盛岡小字にも見えますが極印が当てはまりません。
変形桐極印のようにも見えます。類似極印を確認できません。
以上3品は別々に作られた物でしょう
 
浄法寺 小字(鋳放)
3回目に出現した鋳放銭です。これを仕上げても称飛鳥小字にはなりません。
最初から鋳放銭として作られた物と考えられます。
 
 
浄法寺 本座長郭鋳浚い母銭
称飛鳥銭。長郭の通用銭を鋳浚って母銭に仕立てたものです。
浄法寺 本座長郭手
これも3回目に出現したと考えられる本座長郭写です。本座長郭写しの極印ですが,蛇口天保のものとほぼ一致します。同じ人たちが作ったと言うことでしょう。
浄法寺 本座長郭手(厚肉)
とんでもない厚肉銭。穿内の様子から見て本気で流通を考えて作ったものとは思えないのですけど・・・。つくりとしては古いタイプかも知れません。(浩泉丸蔵)

面郭からひげ状小突起が出ています。
長径49.0㎜ 短径32.5㎜ 
銭文径41.0㎜ 重量31.8g

※南部當百銭の謎P181原品
浄法寺 本座長郭手
長径48.6㎜ 短径31.6㎜ 
銭文径41.0㎜ 重量21.3g

もとになった母銭が同じなので面郭の右側中央にひげ状の突起があります。
また、保の口の中下部にも小さな突起があります。
金質的にはやや新しい感じがするのですが・・・。(浩泉丸蔵)
浄法寺 本座中郭手(鋳放)
本座広郭の内郭を削って中郭となっています。これも3回目のに出現したものだと思います。
浄法寺 本座細郭鋳浚い母銭
本座細郭の鋳浚い母銭です。中郭手にも見えます。
浄法寺 本座中郭手(仕上)
背の輪の右側に必ず凹みが、背輪の下部に膨らみがあります。
面郭の右上辺が細くなる癖があり、これは広郭を削って母銭としたからではないかと推定される根拠になっていると思われます。(浩泉丸蔵)
浄法寺 本座広郭手(仕上)
称飛鳥本座広郭写しです。鋳浚い母銭から作られているようです。極印は長郭手と同じようです。


浄法寺 本座広郭手(仕上)
浄法寺鋳放し銭集(阿部伊佐雄氏)に掲載されているものとは特徴が異なり、しっかりとした広郭で寶後足の付け根は陰起せず、尓の前点も小さくなっていません。(浩泉丸蔵)
浄法寺 本座広郭鋳浚い母銭
本座広郭を鋳浚ったものです。保字が短くなっています。
浄法寺 薩摩広郭鋳浚い母銭
薩摩広郭を鋳浚ったものです。白銅質です。
中郭手覆輪赤銅無極印
長径49.75㎜ 短径33.25㎜ 
銭文径40.4㎜ 重量25.9g

金質も異なり、他に類品は見ていませんが、製作から同じ系統のものではないかと類推しています。水戸接郭を写したものか?
(浩泉丸蔵)