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雑銭掲示板アーカイブ
 
 
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2022.3.6【68式ヲヤジ様】 
画像は尖り千大字の母銭です。これには「跳ね千」なる手替わり(制作日記2013年5月25日に記載)があることが知られていますが、通常の品にも千の一画目に爪がある物とない物があるような「気が」します。「気が」とはまさに確信が持てていない訳で、それこそ「気のせい」なのかも知れません。

上段
所有している母銭です。千の一画面に爪があります。

中段
右が爪なし?の母銭の画像です。爪なしの母銭の入手を夢見ましたが叶わず、浩泉丸様のHPからの借用画像です。拡大したので不鮮明。

下段
通用銭です。左が爪あり、右が爪なし。鉄銭では判断が難しい。

やっぱり気のせいでしょうか。
2022.3.6【七時雨山様】
なるほど、よく気が付きましたね。
参考までに私の蔵品尖千大字母銭二品をアップします。

2022.3.7【東北のT様】
久しぶりに掲示板にお邪魔します。最近は古銭に対する興味がやや薄れ気味でしたが、掲示板は時折拝見していました。

尖り千大字は、背千類の中で特に好きな銭種で、頑張って集めていました。
ご投稿の件について、少しだけコメントさせて頂きます。
68式ヲヤジ様のご意見の通り、尖り千大字にも「爪千」と「削頭千」があることを確認しています(区分は仮称です)。

なお、「跳ね千(止千)」は、先日のオークションワールドにでていた1枚を含め、4枚の存在を確認していますが、これにも「爪千」と「削頭千」があります。
 
2022.3.26【仙台古銭会H会長様】
皆様の記事を読んで感銘いたしました。千頭の爪には気が付きませんでしたので調べてみたら面白いことに気が付きました。私の所有物では3点に爪がありますが、大型の物には爪がなく、板井氏発表の尖り千大字止千に同型の物がある事が解りました。

尖り千大字は母銭の大きさからすれば最後期の鋳銭用の物か?
また当時の母銭残高調べによると、(母銭は)46300枚もあったとあります。
(これから考察すると)尖り千大字(母銭)の残量は少な過ぎるので、別行(壱貫文 新種之侭有分)かもしれません。

追伸
昭和50年頃まで松島博物館にバナナの房状に束ね吊るした(仙台)一文母銭が展示されていましたが残念なことに盗難にあったようです。

 
2022.3.22【クレイグ様 ラムスデン】 
アメリカ在住の貨幣研究家のクレイグ様から頂戴したラムスデンコレクションの画像です。これらの品々はラムスデンの死後米国のコレクターの手に渡り、現在は米国貨幣協会の所蔵品になっています。
ラムスデンコレクションはラムスデンが亡くなるまで保有していたもので、天保通寶や寛永通寶は本物が中心でした。
画像の品々は本物とフェイク品との中間にありますが、明らかな絵銭・作銭とは分けられているため、(私には真贋はよく分からないものの)ラムスデン本人も本物と思って所有していた可能性があります。
なかでも568番の土佐通寶などは私には本物にしか見えません。(浩泉丸)
 
2022.3.22【関東のA様 錯笵銭】 
関東のAさんから錯笵系の画像をたくさん頂戴しました。ありがとうございます。

面の重文は意図的。古寛永は高田銭になぜか多く見られる気がします。
絵銭になったものをときどき見かけますので、絵銭職人の作かもしれませんが・・・よくできていますので、元銭座職人の戯作かもしれません。
※意図的な理由は・・・母銭を二重押し付けしたらこんなにきれいに郭付近の文字が出ないから。すなわち、郭を削って取り去ったものを押し付けない限りこうはなりません。とくに4文銭と(3枚目画像の絵銭)は斜めになった文字のほうの郭が全く出ていない・・・これは普通じゃできません。でも、銭としての鋳造技術は素晴らしいです。背が良いですね。

2枚目の画像は1以上に自然ですけど、もちろん意図的。
完璧なものには魔が宿るということから、ふいご祭りの時などに災厄逃れのおまじないとしてわざと作成して配った可能性があります。
右側の角度違いは通常の鋳造では絶対できません。型への2度押し付けでは左側のように元の絵柄が残ってしまうので、①元の絵柄を消した後に再度押し付けるか②角度違いに貼り付けた母銭を使って鋳造するしかありません。これはもう絵銭・作銭の世界ですね。

3枚目の駒引き銭は有名なもの。御蔵銭がモチーフのようで非常に好感が持てます。
背の文字写りは鬆穴があり砂目に違和感があり湯圧が低い雰囲気もあります。つまりこれも意図的ですね。鬆穴はわざと空けたものかしら?(砂目に違和感があっても絵銭的な作りには見えないです。)

錯笵銭は大名収集家の朽木公のコレクションにも数多く見られます。なんでこんなものが・・・と思うようなものが大英博物館に数多く収蔵されていますので、推定ながら「銭座で意図的に作成したものを記念銭としてプレゼントしたか意識して求め集めた」的なものなのかもしれません。

こういった錯笵には
1.偶然にできた失敗作
2.意図的につくった戯作
3.好事家のためにつくった絵銭

があり、絶対的な見分けは難しいです。派手な奴は大体2か3で、製作や銅質によりさらに4.銭の流通が途絶えてからの新作・贋作 が出てきます。
 
2022.1.8【68式ヲヤジ様 仰寶】
ネットオークションに仰寶の大ぶりな母銭が出品されていました。大きさの割に背が少し甘いように見えたのですが、ウォッチは60人ほどと関心の高さがうかがえました。この掲示板でも大様銭は人気の話題です。
上段の画像はその対極となる磨輪母銭で、中段の標準銭と比べると磨輪されているだけでなく内径が一段小さいことがわかります。大様銭と違って貧相なので、あまり見かけない割には日の当たらない銭です。
 27.57mm/20.00mm
仰寶の磨輪小様いいですね。銭径が26.50ミリ以下で、内径が20.00ミリ以上なら大珍品です。しかし、古銭界での評価は低いです。
大様は、銭径が29.60ミリ以上で、内径が20.20ミリ以上の黄銅質の広郭のもの、そして背の波が細いものがあれば大珍品です。摩耗して多少波が太くなったものもあると思いますが未見です。
小さくても背の波が太く内径が18.00ミリ前後のものは、密鋳座の鋳写し母銭です。小様の鉄通用があるので母銭もあるはずです。
大様銭で、銅質が赤っぽいものや黒っぽいものは、何処で作ったのか分からない疑問品です。
大迫外川目座の仰寶母銭は、初期のものは基本的に黄銅質のものです。鋳肌にも特徴がありますので、ルーペでよく観察してください。栗林座の小様銭は赤褐色で、銭径は27.50ミリ前後でしょうか。それ以下のものは見たことがありません。
(七時雨山さんのコメント)

2022.1.10【とら様】

29mm超の仰寶、手に入れたく入札しましたが、力及ばずでした。
仰寶というと、安いという先入観があり、2万円までは入れられませんでした。
欲しいと思ったら金額にこだわってはいけなかったと反省しています。
特別珍品ではありませんが、3枚画像を掲載しました。
左は、鋳放しなので29.97mmありますが、バリを取ったら29mm程度です。次が、27.24mm、3枚目が、28.93mmです。内径はみな20.2mm程度の極一般的なものです。
因みに15枚程度の所有品の平均は、28.18mmでした。
倣鋳の仰寶も見てみましたが、平均27.5mm程度で、皆1回写し程度の品でした。
マ頭通はかわいいのがあったので、掲載します。
1枚目は26.10mm、穿内迄きれいに鑢掛けしてあります。2枚目は、比較のための一般的倣鋳で、3枚目は25.93mm。こちらは、雑な作りですが、1枚目と同炉で作られたものではないでしょうか。 

2011.1.10【七時雨山様】

とらさんの仰寶も大迫銭座のものですね。内径が20.20はそう多くはないと思います。鋳放銭の方は大迫ではないと思います。湯口の大きなものは、正規の銭座のものではないような気がします。仰寶は大迫、栗林、浄法寺、橋野、佐比内、大橋、砂子渡で鋳造していますが、使用した母銭が分かっているのは大迫、栗林、浄法寺だけであとは不明です。
橋野座は、大迫、栗林のものと独自に作ったものを使用、佐比内座は、橋野座のものを使用、大橋座は、大迫のものを使用、砂子渡座は、大橋座のものを使用したようですが特定は出来ません。
一方、マ頭通は浄法寺柏木座の小様銭ですね。こんなに小さいものは少ないと思います。浄法寺にはマ頭通銅銭もあって母銭か通用銭か判断できないものも多いです。
本家の栗林銭座のものは27.50ミリ前後が小様になると思います。マ頭通の大様銭は、浩泉丸氏のホームページの宮城のH氏蔵品の南部藩母銭聚泉譜をご覧ください。 
 
2021.12.19【関東のA様 古寛永大様銭】

坂本跳永大様広郭
郭内の仕上げこそないもののやはり特別感がすごい。Aさん曰く、「規格確認のための試鋳かもしれない」とのこと。基準通りの通用銭の規格1匁にするためのサンプルであり、つまり見本銭。手本銭の類かな?
初鋳大様と言う言葉で片づけてしまうのは、ちょっと惜しい品です。

高田銭 笹手永大様銭 25.76㎜
古寛永の場合、25㎜を超えると、一部の後期に近い銭種(建仁寺、沓谷、斜寶)を除き極端に少なくなります。25㎜前半は雑銭から拾えることはたまにはありますが25.5㎜超過は難しい。
25.5㎜超過は何かの意図に沿って作られたのではないかと思います。
つまり、これらは見本銭、手本銭の類。あるいは記念銭かもしれません。
25.5㎜超過は新寛永の文銭ならよく見かけます。古寛永を選ぶとき、私は文銭と大きさを比較してよく拾います。この濶縁ぶり、風格なら小さめですけど大様銭と称しても良いラインでしょう。え、まだですか?

高田銭 笹手永大様銭 26.46㎜
26㎜はもう異常な大きさですね。これは新寛永では折二様、御用銭のサイズです。
ここまで来ると目立ちまくります。

岡山銭 俯永平永大様銭 27.16㎜
これはもうお祭り。お化け。通貨として普通に通用したのか・・・献上用の見本銭かもしれません。
 
 
2022.1.5【関東のA様 モト様】
モトさん経由で関東のAさん所有の猿江正字の濶縁背広郭大様通用銭と大様の母銭の画像を頂戴しました。猿江正字には濶縁大様背広郭のものがあると古くから言われています。この品はAさんが若かりし頃掘り出し、日本貨幣協会の郡司師にたいそう褒められたそうで、懐かしい思い出だそうです。

通用銭:外径24.19㎜ 内径19.51㎜ 背内径15.92㎜
母 銭:外径24.52㎜ 内径20.03㎜ 背内径17.65㎜

最後はモトさんの年賀状から。まだ、中学生だったこと忘れてました。若いなあ。

※Aさん曰く、猿江の濶縁背広郭大様は試作的なものではないかとのこと。画像を見る限り特別感はなく、(つまり地味なんですけど)銅質がよく見かける一般のものより幾分白っぽいのかなあと言うぐらいの感じですけど・・・。大きさの違うものが存在するということは古寛永的・・・手本銭のようですよね。
見た目はものすごく雑銭なのですが、超珍品とは不思議です。こういったものは普通はオーラがものすごいものなのですが(もちろんそれなりのオーラはありますが)、ごく普通の人のような顔をして大衆にまぎれているからなかなか見つかりません。これに気が付く人はもっとすごいです。
 
2021.11.27【68式ヲヤジ様 濶字退寶刔輪】 
濶字退寶はネットオークションの組物に1枚は混じっているような雑銭で、とても個性的な書体でありながらその手替わりはなく、たまに濶縁の物にプレミアが付く位で人気はそれ程でもありません。
そんな変哲のない奴にも多少の刔輪銭はあるようで、画像右の物は面は天上がちょっぴり、背は當上がまあまあ刔輪されています。銭文径は標準銭と寸分たがいません。本当は天上の刔輪がもう少し強い物があったのですが雑銭扱いでぞんざいな保管だったため目下行方が知れず、次点の物を取り上げました。「強刔輪」的な物をお持ちの方はおられますでしょうか。
 
2021.11.24【四国のK様 曳尾細字大字】 
 
2021.11.27【天保仙人様 琉球通寶の密鋳銭】
①琉球通寳は徳川幕府承認の貨幣・・・他藩が承認を受けずに、藩札同様に自由に発行した貨幣類とは異なり、琉球通寳は発行許可を正式に受けています。でも良~く!考えてください、當百銭形の鋳銭許可を出したら、その裏側で天保通寳の蜜造を行うのは、火を見るよりも明らかです。
それなのに何故!幕府は許可を出したのでしょうか?これに関しては多くの説が有りますが、私は『砂糖の入手が一番の理由だった』と考えています。徳川政権下の江戸の町(現在の東京)では、『大奥』と『吉原』という、『二大!女の園』が存在し、合わせて五千人以上の女性が居たと云われています。その女性達が一日に1gの砂糖をペロッと舐めただけで5000×1g=5㎏になり、一年を360日としても1800㎏つまり年間に最低でも2t位の砂糖を必要としたのです。当時の甘味には、砂糖大根・蜂蜜や穀物からの飴類が主でしたが、それだけとても需要に間に合わず、どうしても砂糖が欲しい幕府は琉球国の経済や貿易などの発展・安定の為と、琉球名を出された時点で、鋳銭許可を出さざるを得なかったのです。これにより、薩摩藩は裏で天保通寳の密鋳を開始し、倒幕への歩みを始めるのです。

蛇足ながら、琉球にてサトウキビから砂糖を抽出する技術は1623年(江戸では寛永年間の始まり)頃からと、云われています(諸説有り)。
尚、明治時代の古貨幣収集研究家であり、現在では陰で贋作品を造り販売していたと云われていながらも、当時は国立博物館が所蔵する『萬年手』の天保銭を譲られる程、明治政府からも厚く対応されていたラムスデンも、砂糖輸出国キューバの領事館長だったと聞けば納得できます。

②琉球通寳について・・・ 琉球通寳には天保通寳形の『當百』銭と、丸形の『半朱』銭があり、半朱銭については日を改め、今回は當百銭だけに絞ります。

當百銭には銭文の書体で、『大字』『中字』『小字』に分けられ、制作・鋳銭所で『大字・小字』と『中字』に分けられます。つまり大字と小字は、同時期・同鋳銭所にて造られ、稀に状態の大変良い物に桐極印の打たれた物が存在し、最初期の物と考えられています。彫母・錫母銭は無く、かなり以前に木型なる物を拝見しましたが、出来は印鑑彫り形式で上作なのですが、とても真正品とは思えませんでした(笑)。

真正の正式な銅母銭は現在まで、大川天顯堂師が国立の博物館に寄贈した、『大字・狭貝寳』と、民間で見付かった『大字・広郭』の2品のみです。

現存数は中字が最も多く、多種多様に富みます。大字は広郭が一番多く後期の鋳造銭と思われます。大字の『短足寳(小足寳)』が琉球通寳中一番の稀少銭で、私自身が実見したのが5品位しかなく、九州のM先生は『博物館の所蔵品を含めても、10品は無いのでは?』と言うお話でした。私の手元にも、先輩から譲り受けた1品があり、来宅された方にはお見せしています。以前に浩泉丸氏や鉄人さん、他数名には見せています。

③琉球通寳・當百銭の次鋳・鋳写し・贋作について・・・
【次鋳】中字には初期の鋳造銭の中から良好な物を保管しておき、銅母銭に支障が起こった場合には母銭に仕立て母銭として使用したと思われる『通用母銭』が2品存在しており、これから出来た通用銭は、銭径が小さく・作が劣ります。
この通用銭は薩摩藩の後期銭、又は次鋳銭と呼び、意外と存在は少ないです。サ極印が片方のみ打たれた物があり、幕末時の鋳銭所の混乱が伺えます。
何故、混乱かと言うと、薩摩藩鋳の天保通寳・後期銭の広郭は、中字と同じ鋳銭所で造られたと考えられ、酷似する物が多いです。では大字・小字の鋳銭所は何を造っていたのでしょうか?答えは明白!鉄砲などの武具なのです。

話がそれましたが、サの字がハッキリ解る物は、薩摩藩の次鋳銭と思われます。但し、濶縁と呼ばれる物は覆輪・縮字であり、当銭も次鋳銭と思われます。 銭径も大きく、大きさだけでは確定できない事を物語っています。銭径・銭文径・重量よりも、まずは銅質・制作などを重視すべきです。

【鋳写し】
薩摩藩は九州一の雄藩でありながら、土壌がシラス台地で火山灰土の為に米作には不向きで、これが逆に野菜類・根菜・芋類の生産・改良に力を入れ、その結果!江戸時代で起きた、日本中を巻き込むような大飢饉の時でも、餓死者が出なかったと云われています。それらの事項により、九州地方では薩摩藩は他藩からも一目置かれ、琉球通寳は薩摩藩内で買い物ができる、現在のプレミアムマネーのように信頼性が厚く、その流れにより本物から鋳写した贋金(貨幣として使用する事が目的)が造られたのです。当時は藩の内外で造られたようですが、基本的には銭径は縮み・制作は劣り、
無極印か穴凹極印が多いのですが、銭径・極印も合わせた上作もある筈で、見分け方は真正品との比較検討と制作判断しかありません。現在まで、次鋳と鋳写し(当時の贋金)は中字のみで、大字・小字には見当たりません。

【贋作】
大字・中字・小字全てに存在します。有名な某オークションに出品された、『大字・短足寳』は可なり良くできていて、ビニールの上からは判断できず、ビニールを外して贋作と解りました。この一品は、今はどこかの泉箱に収まったようですが、兎に角!『大字・短足寳』には注意が必要です。

20数年前に、穴銭収集家の集いである『細道の会』の例会に九州地方で造られたと言う、未使用状態の琉球通寳の半朱と當百銭を持って来た方が居られ、拝見しましたが、結構良くできていました。又、台東区に住んで居た頃に見えた、自称『琉球王朝の末裔』の方が風呂敷一杯に持参した琉球通寳は、プレス製の玩具に等しい物で、思わず『貴方の王朝は昭和ですか?』と、言ってしまいました(笑)。
最近でも土産品や雑誌の付録に製造販売されていますが、収集家の眼を騙すような迷品?は無いようです(笑)。

④南部鋳の琉球通寳について
数年前に、『みちのく合同古銭大会』にて、南部銭の収集家より地元の南部銭と一緒に出現した『琉球通寳・當百銭』を見せて頂きました。勿論!鋳写し銭でしたが、時代色もあり近代作ではありません。南部にて何故造られたのか?その理由を聞きに来たのです。
確かに琉球通寳名では、南部では流通しないし、仮に江戸に持って行っても40~50文位にしかならないので造る意味合いが無いのです。『天保通寳・琉球通寳が完全に廃貨になったのは、明治29年です。明治10年に起きた西南戦争当時は、まだ通用していたのです。戦争には会津藩・南部藩の旧士族達も明治政府軍として参戦しています。もし兵士が、戦場やもしくは近隣で物資を買うとしても、新政府と地元の英雄達が戦っているので、新政府の発行した新貨幣では、絶対に受け取らないし、又自分達の英雄が潰した徳川幕府の貨幣なら、受け取るかも知れませんが、拒否されるかも知れません。しかし琉球通寳ならば、喜んで物資を売ってくれると思います。つまりこの琉球通寳は、南部から従軍した兵士が、九州にて物資が買えるようにと、持たせる為に造った物と思います。大切にしてください。』と話した処、皆さんから賛同を受け感謝された事がありました。 
 
2021.11.15【関東のA様 異寛小永母銭?】 
関東のAさん自慢の異寛小永です。面側は美銭中の美銭ですね。過去に見た品の中でも抜き出ています。
外径24.39㎜ 内径19.22㎜ 重量3.6gだそうです。私はこの品持っていませんので、母銭かどうかはよく分かりませんが、良い品ですね。
 
2021.11.14【康健様 正字削字通】
久留米正字の中の稀品。石持桐極印。
 
 
2021.11.3【かえる仙人様 はじめまして】
父がボケてしまい私が古銭の整理をしていますが、解らない事ばかりで困っています。特に寛永銭がたくさんあり、新寛永はハドソンの新寛永通寳図絵でなんとかなりそうですが、古寛永は何を頼りにして良いか解りませんので、ご指導宜しくお願いします。

私の手に負えないすごいものが出てきました。一目、水戸銭の彫母・・・と申し上げたいところですが、私にそんな眼力はありません(彫母そのものを見たことがほぼないので・・・)のでAさんに助け舟を求めまところ、同様の見解でしたので少しホッとしました。この品は古銭界の宝です。私は泉譜に紹介されているのを見たこともありません。
幽霊会員の私は、豊泉師に直接お会いしたことはないと思いますが、Aさんにお名前をお聞きし、高名な方であることを確認させていただきました。お父様のお世話大変ですね。(浩泉丸)


手元の新寛永通寳図会に鉛筆書きで無背彫り母有りとあったのでやはりこれでしたか。俺が死んじゃったら茨城のSさんにあげてと言っていましたが、Sさんが先に亡くなられてしまい、その後直ぐにボケてしまいました。親しい友人がいなくなり、よほどガッカリしたようです。(かえる仙人)
 
2021.8.26【天保仙人様】
制作日記に贋幣館・福村弘明さんについて書かれていたので、この機会に近代・現行コインの贋作研究に一生を捧げた、貴兄について記したいと思います。詳しくは月刊『収集』誌・2005年7月号・仙人がゆく!(16)和の六『福村弘明氏を偲んで』に書いていますので、是非お読みください。

福村さんは、文京区白山に印刷関連の会社を経営されており、自宅の一部を改装され、『贋幣館』と名付けて収集品を展示されていました。手元の資料では始めて訪館したのが、昭和58年になっている処から出逢ったのは昭和55年頃だと思います。中々声を掛けてもらえず、訪館したのは、収集家としては遅い方でした。それもその筈!私はまだ若手の新人で、何も実績が無かったからです。

さて福村さんとは、日本貨幣協会や内外貨幣研究会で良く同席しました。私が台東区にて『蔵前貨幣研究会』を発足すると、直ぐに駆け付けてくれて、自宅で開催していた期間(凡そ0年間)は、毎月出席されていました。

今から24年前の事!長男に子供が授かり、私は45歳で孫の居る祖父になりました。初孫誕生のお祝いに、例会後に酒宴を開こうと思い、誕生を伏せて会員に伝えると、丁度その頃!NHKの歴史教養番組に『薩摩藩の作った贋金』を語る研究家として出演していたので、会員達は番組出演の記念酒宴だと思っていました。『孫が出来た!』事を伝えると、大いに盛り上がる中、福村さんはそっと宴席を抜けて家内の処に行き、『奥さん!お孫さんのお誕生!おめでとうございます』と、御祝い袋を渡してくれたのです。福村さんは酒宴の話を聞いた時に、『何かあったな?』と思い、御祝い袋を用意していたのです。しかも他の会員を配慮して、気付かれないように渡してくれたのです。この行為に、上に立つ者の心掛けや、配慮の気持ちを学んだ私は、これ以降!持ち歩く鞄に御祝い袋を入れております。

さて某日 直ぐに来るように連絡があり急いで訪ねると昭和39年の東京オリンピックの千円銀貨を見せられ『どう思う?』と聞かれました。私は実見した後に『これは放電加工機で型を作り、それから作られた贋作だと思います』と話すと、『ワシもそう思う』と言われました。実は都内の大手デパートで千円銀貨を相場で売り、値が上がったら、その上がった価格で買い戻す!と言うキャンペーンで、多量に販売していた業者が居たのです。人気が最高潮の時は千円銀貨1枚の価格が三万円までいったのと、有名なデパートの催し物だった事もあり、余りにも人気をはくし銀貨が足りなくなり、海外で作らせて販売したのです。この時に古銭会の会長や収集の大家・業者に配られた手配書は、今でも手元にあります。

この時に、放電加工機による型の製作や、この型から作られた贋作の特徴を学びたいと言われたので、当時『収集』誌の編集長で、打製贋作コインに危機感を感じていた三村堯治さんも誘い、実際に機械を作動させ、その特徴を学んで頂きました。この体験を三村さんは執筆しています。
福村さんには、まだまだ面白い話がありますが、それは次の機会にしましょう。
 
2021.8.19【天保仙人様】
若き日に賞山堂・大山先生より、お聞きした話です。
某日 店頭に大判を売りにきた来客がありました。一目で贋作と判断し、それを伝えると、客は憤慨しその根拠を問いました。先生はこの大判が銀台で金張りされている事を話しましたが、客は一向に意見を聞かず、一方的に苦情を捲り上げてくるので、ついに先生は『それではこの大判を切断しましょう。もし中身まで金で良い物なら、真正品の価格で買取ます。もし中身が銀ならば銀台の贋作なので、銀地金の価格で引き取りましょう』と話して、客の目前で切断したのです。切断した処、見事に銀台で客は銀地金の代金を受け取り、肩を落として帰ったのです。当時の銀相場が1g15円位だったと思うので、2000円位でしょうか(笑)

昔は大山先生や、倉田屋の田中先生など、業者さんの中にも、鑑定・鑑識眼の凄い方は沢山居られましたが、現在はどうでしょうか?
大山先生は私が高校生の頃に、初めて土佐通寳・當百銭を見せて頂き、鑑定などを教えてくれた師匠の一人です。当時『あなたも頑張れば、これ位の物は持てるよ』と言われました。この数十年後、その土佐通寳・當百銭は私の所蔵品となり、現代は手元を離れて、弟子の所蔵品になっています。懐かしくなり、思いで話を記しました。
2021.8.18【稲陽舎様】
明和フ永の背削波については3タイプあると思っています。画像を3つアップしますが、1枚目と2枚目の画像のものは輪に近づくほど波が消えていくタイプで、このタイプは2種類あり ①郭下の波が鋳切れるもの ②そうでないもの があります。それぞれ一般的に多くみられるものと思いますが、それぞれの存在割合は半々ぐらいと思っています。また3枚目は完全に削波されているもので、これは珍品と思っています。その他のタイプのあるかもしれませんので、皆様のお手元に面白物がありましたらご共有をお願いいたします。

2021.8.19【モト様】

③の類品(背削波)です。陰起ではなく手で削ったように見え、波のない部分が不自然に沈んでいるように見えます。
※もとさんは写しではないかということですが、画像からだと分かりません。なお、拡大画像をよく観察するとかすかですが面に刔輪があるようにも見えます。これについては見解が分かれると思います。(浩泉丸追記:記事は編集。)
 
2021.8.26【康健様】
極厚肉の反玉寶 長径49.63㎜ 短径33.62mm 銭文径40.57mm 肉厚3.55mm 重量31.92g 
 
2021.9.17【関西T様】
不知細郭手赤銅質 長径47.90mm 短径31.80mm 銭文径40.65mm 重量19.2g
画像はお試しでスキャンした最近入手の純赤細郭手。明度及び上記の補正を加えてより目視に近い色合いに再現できました。スキャナーの方が写真より色は近いです。
この細郭、郭内は加護山銭寛永のようにヤスリは掛けてあるもののバリが残り、背郭がヤスリにより一部抉れています。一方、肌は秋田小様のようですが刻印は上下逆の三つ葉のクローバー型と雰囲気が違う。
それでもここまで綺麗に撮影できると非常に気持ちがいいです。
 
2021.8.21【稲陽舎様 琉球通寶大字小足寶】
 
2021.8.8【関西のT様 密鋳?の琉球通寶】
CCFで琉球通寶を落札しました。
カタログ画像の時点でやや違和感を感じていたので贋作でも面白かったらいいやのつもりで無事落札。

届いた品を観察しましたがやはり違和感を感じます。今迄琉球銭自体にあまり興味は無く、積極的に集めていません。ご意見をお聞かせ下さい。

長径49.10mm 短径33.25mm 銭文径40.90mm 重量26.7g
①中字にしては珍しい不純物の多い黄土色。
②片面無刻印の肥字タイプ
③輪や文字周囲などに地との境界をはっきりさせるタガネ跡有り。(黒い部分)
④面左下方向に湯道があった痕跡(湯圧による鋳だまり)が見られますが、本品の湯道跡は真横の本来刻印が打たれるべき正面右真横側。浄法寺ほどではありませんが大きな湯道跡とそれを叩き切りした痕跡が残っています。

結論として、
写し品であろう事。(次鋳、別座の民鋳、贋作の3通りの可能性)

疑問として、琉球銭本炉に次鋳があるのか?(肥字タイプがそう?)
当時の盗鋳あるいは明治以降の近代作か?本品の真贋は? 

※この品については実見しないと分かりません。琉球の写しはおそらく存在すると思われます。赤黄色い本炉の琉球は存在しますが黄土色となると見たことがありません。大きさ的には写しではない気がしますが・・・。ただ、違和感から購入するTさんの嗅覚・好奇心には感心します。
 
 
2021.7.3【天保仙人様 加賀天保?】
加賀藩領である富山からの出現品だからとしても、『加賀天保』ではありませんよ。
多くの藩鋳銭も他藩で使用された場合が多く、自藩の領地内から多量に出現したのは私の経験では秋田藩位です。

35年程前に、小川青寳楼先生邸にて勉強会があった時に、『加賀藩の作った天保銭』の話が出ました。加賀百万石と云われる雄藩が、作らない訳がありません。
そこで出席者全員で推測をしました。条件としては
①現在は不知銭であり、それなりに現存数が多い事。
②母銭が存在し、通用銭も本座と変わらない位の上制作である事。
③加賀藩を中心に本州全土から出現例がある事。
等の条件から小川先生は『不知細郭手・容弱』銭を『加賀藩鋳の天保銭』と考えておられ、一同が同意した事を覚えています。

加賀藩は公表では百万石ですが、実質では百二十~百三十万石は在ったと云う大藩で
農業・水産業・海運業から陶磁器・漆器・金箔などの多種多様の商業が繁栄した御国です銀本位らしく多種の銀判から分銀類が残されていますが、穴銭類は今だに良く解りません。流石に加賀藩ですね、古銭までも神秘のベールに包まれている様です。

2021.7.4【天保仙人様 加賀天保?】
『張足寳』は「はり・あし・ほう」と読みます。それは「ちょう・そく・ほう」と読むと『長足寳』と間違いやすいからです。元々は『寳字の前足は真っすぐで、後足が弓が張っている様に見える』事から名付けられました。
たまたま銅母銭が出現したので、一種の様になっていますが、寳字への加刀修正による変化なので、酷似している物は結構散見します。更に寳の尓字だけに加刀修正された物が存在しています。
標準銭を『本体』とすると、細長く鋳浚いされた『削点尓』に、ただの点にまで修正された『小点尓』が存在し、また一回り小柄な小様銭(次鋳銭)もあります。
当家の泉函には、張足寳の通用銭は全て揃えてあります。何故寳字のみに手を加えたのか?シークレットマークなのか?正確な意図は解りませんが、何処かの藩鋳とは思いますが、百万石の加賀藩では、思慮が細かすぎて「どうかな?」と考えた訳です。

『容弱』は「よう じゃく」と読み、『書体が弱弱しく感じる』事から付けられたようですが、私は「上品で素晴らしい!」と思っています。書体に余り変化はありませんが、花押の鼻先が天狗の様に立派なので、、好印象を持っています。

長郭手・張足寳も細郭手・容弱も、錫母銭の拓図はあるものの、現物を見た方が居らず、小川青寳楼先生も瓜生天保堂(天保通寳研究会会長)も疑問視していました。 私が観た張足寳・銅母銭は白銅気味で、二次母銭(通用母銭)は黄銅でした。容弱の銅母銭は本座に酷似しており、上作だった事を覚えています。

古銭に興味を持って60年!弟子入りして55年!古銭会を主催して40年近くなりますが、まだまだ解らない事が多く、奥が深い事を知らされています。


2021.2.2【天保仙人様 練馬雑銭の会】 
今から30年位前になります。当時業者として、また南部古銭会の会長として活躍されていた故・奥井さんから連絡を頂きました。
『今度弟子のKが東京に行くので宜しく!』と言う内容でした。K君に出会ったのは山手線・大塚駅前に在った『大塚コイン(廃業)』で当初は古銭を売りに来ていたので業者と思っていました。K君は月に2~3回土土曜日の午後に来るので、店頭でお茶を頂きながらK君を待ち、K君がお店に古銭を売り、それをほとんど私が買うと言う事が続き、最後はK君が直接私に売却する様になりました。
K君は当時W大の学生で、小遣い欲しさに地元で得た古銭を売りに来ていたのです。K君は卒業後、練馬区・中村橋近辺で起業し小さく狭いオフィスで会社を始めました。何度か遊びに行くと『古銭会を始めたい』と言う事でスタートしたのが『練馬雑銭の会』です。発足に参加したのは中野のNさんにKさん、業者2名、川崎のOさんに
K君と私でした。
その後の例会には浩泉丸氏や稲陽舎氏・青煮斎氏・KYG氏も参加されていましたが、K君こと暴々鶏氏の健康がすぐれず休会になりました。昨年1回だけ集まりましたが、このご時世なので今年は無理だと思っています。まずは健康第一にして収集を楽しんでください。
 
2021.6.18【関東のA様 古寛永跛寶昂通大様白銅母銭】
関東のAさんから古寛永仙台跛寶昂通大様白銅母の画像が届きました。Aさん、古銭のことになるといてもたってもいられなくなるようです。早朝にメールが届いてびっくりすることもあるのですが、かくいう私も早朝深夜専門の人なのであまり変わらないかな。
仙台の母銭は良くあるのですけど、白銅母は母の母の母ぐらい。銘品なんですよ。タジさん経由で届きましたがタジさんが背景トリミングしてくださったようです。実は私も歪みを少しだけ補正しました。(縦径と横径を合わせ、斜めだったのを少し正面に近くしてあります。ただし、これ以上やると書体にゆがみが出てしまいますし、色の補正は白銅質にはあまり向いていないので、そのままです。皆の衆、ひれ伏してご覧あれ! 
 
2021.5.21【四国のK様 ネットの草点保】
古銭屋さんが出品しているロット物に草天保がありました。??と思いながら途中まで追いかけましたが、途中で諦めました。画像で見る限り良い物に見えましたが、落札れた方、追いかけておられた方、ご感想をお聞かせください。

2021.5.22【天保仙人様】
今回の画像の草天保は真正品です。草天保には決まった約束事が有り、簡単に鑑定出来ます。以前は3品所蔵していましたが、天保小僧君の熱意に負けて、1品は彼に譲りました。状態は良かったですね。現在は初鋳銭と次鋳銭の2品が泉函で寝ています。尚、次鋳銭は現在まで当品しか見付かっていません。私はネットでの買い物はしませんが、私なら30万位からスタートしましたね。何故ならば今回の物は『不草天保』だったからです。現在まで『不草天保』は2品しか見付かっていません。旧所有者も知っています。現物を実見できれば、3品目と断定します。草天保は茨城のN君も掘り出した事が有り、15~20年の期間で出現しています。分類・真贋や諸問題が有るなら、我が家に来て頂ければ教えますよ。 
 
2021.4.2【康健様 天保母銭がいっぱい(偽)】
できたて未使用肌の天保通寶母銭が中国市場に大量に出ているそうです。特徴について記すと改良されるので・・・未使用肌には注意が必要です。 
 
2021.2.17【関西のT様 三角マ頭通】
探していたB級不知銭が入手できましたので久々の投稿です。
この品は不知天保分類譜下巻で付けられた“三角高頭通“と“浅地三角頭通“という仮称を除き、“覆輪“、“再覆輪“、“縮径“、大頭通“、“異頭通“という名称で各所に掲載された品で鋳写しタイプと覆輪タイプが、また覆輪タイプに初鋳と次鋳が存在しています。鋳写しタイプに次鋳や次々鋳があるかは不明ですが、数は細郭手削頭天と同等かそれ以上は存在しているように思えます。特徴的な頭通と當上刔輪に加え、必ず花押に傷があるので判別は容易です。

1枚目:鋳写し初鋳
長径:48.05mm/銭文径:41.10mm
2枚目:覆輪次鋳
長径:48.10mm/銭文径:40.35mm

参考図
・不知天保分類譜p38 ‘26‘ / p188 ‘8‘(鋳写し初鋳)
・類似貨幣カタログ162 “再覆輪“(覆輪次鋳)
・勢陽天保泉譜169 “異頭通“(鋳写し初鋳)
・浩泉丸様HP制作日記2019.9/18(覆輪初鋳)など
 
2021.2.1【東北のT様 寛永神寳】
趣向を変えて、絵銭の投稿です。
このタイプのものは数種類持っていますが、その中であまりみかけないものを投稿します。
穴カタP262に「絵105 坂本寛永/神寶」と紹介されています。拓に共通の特徴が多くあり、兄弟銭か原品と思われます。
収集していて楽しい分野です。
 
2021.1.21【東北のT様 進二天】
細分類をすれば、当百銭カタログの進二天・刔輪が近いでしょうか。
長径48.9㎜ 短径33.1㎜ 銭文径39.5㎜ 肉厚2.6~2.7㎜ 重量21.8g 

2021.1.24【稲陽舎様】

すごい刔輪ですね。鋳ざらい母銭の子供なのですかね。以前、この鋳ざらい母銭はバツ印があり、色々な判断があるようにどこかで聞いておりましたが、今回のご投稿でいずれも珍品と理解した次第です。素晴らしい情報に触れることができ感謝いたします。私も萩銭は地道に集めておりましたが、改めて類似のものを画像投稿させていただきます。 

2021.1.24【稲陽舎様 縮通系統】

萩銭です。以前類似ものが浩泉丸様のHPに投稿があったように記憶しております。進二天・縮通・平二天系は鋳ざらい変化が多く、色々と考えさせられます。
 ※上記銭と同系統のものが浩製作日記2015年12月5日の東北のN様がご投稿されており、HP中の萩縮通鋳ざらい母銭の子供ではないかなとも思っています。萩の鋳ざらい母銭については色々な判断がある状況ですが、少しでも情報を集めてからこれらの銭が復権を得ることができればと思う次第です。(稲陽舎様) 

2021.1.28【東北のN様 進二天】

進二天手郭輪と勝手に名称をつけている物です。狭二天で
通字の最終画が跳ね上がっていません。
 

2021.1.30【68式ヲヤジ様 縮通手】

私には萩天保の際限のない書体変化の網羅は到底達せられない事ですので、諸兄が所有される珍品のお披露目と解説は大変意義深く感激しております。皆とても美しく目の保養にもなります。

僭越ながら投稿した画像は随分前の月刊収集の特集で縮通手肥字とされていた物です。この銭の拓本は収集誌以外の物を知りませんので他の銭譜で別名があるのかも知れません。末鋳の雰囲気ですが意外と大きく、縦径49.93mm 横径32.78mm 銭文径は41.2mmあります。
ただ繰り返されたと思われる鋳浚いで筆勢と筆意が失われた書体には余り魅力を感じません。風貌からは手足が短く顔が浮腫んだ色黒のオッサンを連想してしまいます。自分の事でしょうか。

萩天保の書体に二枚と同じものがないのなら、逆に完全符合を何種か揃える事ができたら面白いかなと思っていますがそう簡単には叶られませんよね。
収集誌1998年8月号
 
2021.2.23【天保仙人様 迷子札
またまた私好みの画像なので、一筆啓上させて頂きます。
掲載された画像の加工された天保銭は、正しく『迷子札』です。『迷子札』に付いては意外と真実を知らない収集家が多く、今回は良い機会なので当時の世相も加えながら少しお話を致します。

現代でもそうですが、日本では昔から『跡取り(後継者・子息)』の問題は可なり深刻で重大な問題でした。もし藩主や大店の商家で主(あるじ)に跡取り(跡継ぎ)の子供が居ないと、お取り潰しや家督を継続出来ない場合も本当にあったのです。

従ってその対策に養子縁組・夫婦養子や婿取り、そして主の血縁を重んじる為に『側室・愛妾・囲い者(愛人)』の風習が認められていました。しかし!何かしらの出来事や災い等に子供が巻き込まれ、万が一にも行方不明になった時を想定し、子供の首に掛けたのが『迷子札』です。

通常は木札で『町名・家名・本人名』が記載されていました。その中でも、当時では高額貨幣だった『天保銭の迷子札』を付けていた子供はお金持ちの子息が多く、もし!この札を付けた迷子を見付けたら親元に連れて行くか、番所(現在の交番)に届けると幾ばくかの謝礼を頂けたのです。
現代よりも、人さらいや人身売買が横行した時代では『迷子札』は子供を守る手段の一つだったのです。我が子を思う親の気持ちは、いつの時代も変わらないものですね。

さて古銭を集めて、もう60年位になりますが、最近は名品・珍品と言われる物より、『迷子札』『当て小判』のような、庶民の息吹を感じる物を見ると、何故か気持ちが和やかになります。私は産まれも育ちも浅草・鳥越の近くです。歳を重ねるに連れて故郷や懐かしき思い出を、蘇えらせてくれているのかも知れません。

2021.2.21【天保仙人様 当て小判】

『当て小判』は言われる通り、小判を紙で包んだ時に入れて、落としたりぶつけたり等の衝撃で、小判に傷や凹みが付かない様に、保護する為の物と伝えられて来ました。でもこの話は本当なのでしょうか?
私自身も何度か小判包の開包に立ち会った事がありますが、一度も出現した事はありませんでした。若き日に陸原忘庵師・小川青寳楼師・郡司陶泉師達にお聞きした処、三人共に出現に接した機会は無く、『神社仏閣の護符か商家で配った縁起物ではないか』と言う見解でした。

『当て小判』の『当て』は、『幸運・良運を引き当てる』の方が正解のようです。従って『当て小判』とは、縁起物の『開運小判』です。材質・製作から見ても江戸中期以降の物なので、やはり民間により作られた物と思われます。地金は古い程!赤身が強くなり紅銅で、幕末に近くなると黄身が強くなり、明治以降は真鍮になります。初期の物は銅に錫を入れたので赤黒く、次第に錫に替わり亜鉛を入れたので黄身が強くなって行ったのです。

さて『鎮中』の場合の『中』は、『身体・身体の部分・身体の行動』を示しています。例えば『心中』『中肉中背』『花魁道中』その他にも沢山ありますが、何れも身体や行動を補佐する意味合いで使用されています。今回の場合は『身体の何かを鎮めたい』と言う事で、『病気の完治』か『病除け』の護符・縁起物と思います。

蛇足ながら数字には個別に色々な意味合いがあります。『一は男性・二は女性・三は神様・・・』と言う感じです。中国からの数え方『十干(じっかん)』は『甲・乙・丙・丁・・・』と数えます。『丙』は三番目なので『神様』を表します。昔の人々は病気になると、『自分の行動か何かが悪かったので、神様から罰を受けている』と考えて、神仏に完治を祈願したのです。こう考えたのは病気の『病』と言う字に、神様を示す『丙』の字が入っているからです。

『当て小判』は当時の人々の世相・風習・思想等を学ぶのには最適な品物です。是非これを機会に十枚~百枚と頑張って集めて下さい。
最後に小川青寳楼師の言葉を贈ります、『十枚集めれば楽しみとなり、百枚集めれば宝となる』 

2021.2.23【天保仙人様 A師のこと】

遼寧博物館所蔵品 康健様情報
A先生は教えを受けた師匠の一人なので、あえてA師と記載させて頂きます。
A師は昭和40年代に、月刊『ボナンザ』誌に穴銭関連の記事を連載し、また穴銭収集家の古銭会も立ち上げ、斯界の発展と収集家の育成に貢献された方です。私も若き日に永楽通寳について、教えて頂いた事があります。   
その様な方が或る日、『この天保銭には紅白があり、紅白のある朝鮮の絵銭と同じなのでやはり朝鮮で造られた物である』と、断言したのです。今から考えれば無茶な滑稽な話ですが、当時カリスマ的存在だったA師の発言により瞬く間に高騰し大騒ぎになったのです。そしてこの論説に真っ向から異議を唱えたのが、小川青寳楼師・瓜生有伸氏で、天保通寳研究会も全否定派になった事によりやがて鎮静して行きました。

では何故!A師はこの様な発言をしたのでしょうか?・・・その答えは経済的な事情です。A師は此の後に『生前葬儀』を行い香典を集めていました。私の知る範囲で『生前葬儀』をしたのは、初代・林家三平とA師だけです。詳しい理由も聞けない内にA師は直ぐに旅立ちました。
優しい良い師匠だったのにな~     合掌


2021.2.11【天保仙人様 朝鮮天保】
今頃になり朝鮮天保とは、珍しいですね。昭和40年代に『朝鮮で造られた天保銭』
として話題になりました。当時穴銭の指導者だったA先生が『お墨付き』を付けた為に大騒ぎになりましたが、結論は有名な贋作者加賀千代が作った物です。
私の手元には小川青寳楼先生旧蔵品(新訂・天保銭図譜・原品)の錫母銭・銅母銭が、たじ君の手元には私から行った、大川天顯堂先生旧蔵品の錫母銭・銅母銭があります。たじ君に頼んで画像を揚げてもらうと良いと思います。
 
2021.2.7【モト様 寛上削輪】

 寛永銭の『寛上刔輪』『寳左刔輪』は銭文を鋳潰さない為の加刀です。以前に浩泉丸氏には、小生の蔵品を差し上げた時に話した筈です。では何故『寛』と『寳』に気を配ったのか?    
それは『寛』が元号である事!『寳』が貨幣を示すからです。実権では朝廷より上だった幕府も、朝廷には一目置いていたのです。また『寳』を記す事で、貨幣を示したので、もしこの字が潰れて不明だったら『贋金かな?』と思われる可能性が有ったからです。因みに『宝』には貨幣と言う意味は無く、従って『〇〇通宝』と言う表記は誤りです。(天保仙人様)
 
2021.1.8【東北のT様 仙台天保の魚子地肌の一致】
拡大画像を投稿してみます。スキャナーのセンサーがCCDでないので奥にピントが合っていませんが、鋳物の多少の違いはあるにせよ模様はほぼ一致しているようには見えないでしょうか。鋳砂の影響であればランダムな模様になるはずで、当方が所有する数点は同じ特徴を持つ為に母銭から伝鋳された模様なのかと思い投稿した次第です。

背千類や一部の天保通宝で、一般的に「魚子地」といわれているものは、おそらく鍔等に用いられる技法の応用で、「石目地」が正しいと考えています。仙台金工の技術を銅母銭(錫母銭)の制作に用いたのだと個人的には考えています。
 
2020.12.12【天保仙人様 文久永寶回想録】
私が体験した文久永寶銭の昔話を致します。
その一・・・今から30年以上前の話です。当時ブローカーだったT君が、九州から出たと言う文久銭の草文と玉宝の銅母銭を持って来ました。話を聞くと『一緡(ひとさし)100枚出た!』との事でした。金座を接収した官軍の兵士(薩摩藩士か?)が懐に入れて持ち帰った物と思われました。通常!庶民が使用した通用銭の百文緡は『九六緡』『九七緡』とか呼ばれて、両替商等が先に手数料分を取り百枚に満たない物が多いのですが、金座の銅母銭は数量の確認の為なので百枚有るのです。 又!武士以上の階級が使用した青い紐の『青緡』もキチンと百枚有ります。現在!斯界の催事・オークション等で見掛けるのはこの時の出現銭です。

その二・・・可なり前の、私が営業や納品に90㏄のバイクで都内~近郊を回っていた頃の話です。池袋駅東口前の道路を池袋から目白に向かって走ると左側のビルの一階に『骨董会館』があり多数の店舗が営業していました。仕事の休憩とお宝探しに前を通る時には必ず寄っていました。ある日!立ち寄って歩きながらガラスケースを覗いていたら、文久銭が二枚置いてあり『1枚・1200円』の値札がありました。『高いな!』と思いつつも、良く見ると銅母銭に見えたので、直ぐに店舗の店員さんを呼んで見せて頂きました。草文か玉宝かは忘れてしまいましたが、間違いなく銅母銭でした。処が女性店員さんの口から出たのは『デパートで100円か200円で売っているようです』と言う売る気の無い言葉でした。どうやら以前に客から苦情を言われたようです。『大丈夫です』と話し購入しました。

その三・・・やはり同じ頃です。取引先の銀器製造会社のT社長から電話を頂きました。何でも満州浪人だった叔父さんが亡くなり、遺品を整理したら古銭が出てきたので、購入して欲しいとの事です。内容は鳳凰・稲穂の百円銀貨と龍の図柄の五十銭が殆どで、後は色々と混じっているそうです。電話で聞いた銘柄でザっと計算したら十万円位になったので『十万円でいかかですか?』と話した処大変驚かれ『コイン屋に持って行ったら、全部で三万円と言われた』と喜んでいました。自宅まで持ってきてくれると言うので家内にお金を預けて営業に回りました。帰宅後に届いていた荷物を開けて、まず百円銀貨と五十銭銀貨とその他に分けました。殆どが百円銀貨でしたが、数の多い龍五十銭銀貨の中に旭日龍五十銭銀貨の三年・四年に大龍まで出て来たので驚きましたが、更にその他には中国銀幣に、寛永四文銭・水戸・狭永の銅母銭が二枚に、文久銭の草文と玉宝の銅母銭がありました。T社長の話では、この方は生涯独身で家も家庭も持たず、満州と日本を放浪して持ち運ぶのに手軽だった貨幣を、唯一のコレクションとして、集めていたのではないか?との事でした。

その四・・・以前神田にOコインと言う、金券ショップを兼ねた店舗がありました。金券ショップとしては早い方で、コイン店の多くが専門誌に
販売価格を載せていたのに対し、Oコインは買い入れ価格を掲載し凄く話題になりました。ある日店頭に文久銭の百文緡が有り、Kさんが1枚500円で買い求めました。Kさんは私より少し年上で、秋葉原の青果市場の飲食店に勤務していました。生涯独身でしたが、穴銭の目利きは凄かったです。この時の文久銭は全て直永銭で、見せて頂き驚きました。現在斯界に流通している直永銭はこの時の出現銭です。
 
2020.12.3【一名来自中国的寛永通宝愛好者様】
浩泉丸先生:あなたとの交流は私たちに多くの知識与えますのでとてもありがたい。あなたは尊敬に値する良い日本人です。翻訳ソフトによるコミュニケーションが必要ですが、さほど問題にならないと思います。
島屋文
島屋文の分類には迷いました。島屋文、小頭通、細縁、広文などは私にはまだ分類は難しい。
外径25.2㎜ 内径20.56㎜ 肉厚:1.3㎜

建仁寺大様母銭(鍍銀銭)
古寛永銭建仁寺銭、出会った品で最大の直径。鍍銀の痕跡があり、あるいは見本・手本銭的な性格のものではないか?
外径26.1㎜ 内径20.16㎜ 肉厚1.3㎜

白目小字白銅母銭
中国には寛永通寶のコレクターが少ないので、寛永に対する知識が不足しています。一枚の寛永通寶を得て「白目小字」と知りました。私は母銭と判断しましたが、周囲の友人は通用銭だと主張しましたので、浩泉丸先生に教えを求めました。お手数をかけました。
外径23.91㎜ 内径19・74㎜
 
2020.12.1【関西のT様 曲玉寶反郭】
最近、銭譜を見返して、以前偽物だと疑い、わざわざ浩泉丸様に直接見て頂いた長郭手縮型厚肉(制作日記10月31日の品)の同系統の品をあっさり発見。銭譜は見返してみるものですね。

画像1.天保通宝母銭図録157番 「肥点保(覆輪)」
画像2.新訂 天保銭図譜 一三三 「大点尓」
画像3.長郭手 縮形厚肉

寳王最終画が曲がり、背左側が反郭、母銭図録記載の用画の母銭傷がしっかり伝わっているのが見ていて面白い。
また画像2の品は反切りにする事でピッタリ重なりましたので兄弟銭と判明。

名前も縮形厚肉から曲玉寳反郭と付け直し愛でることにしました。
皆様も探してみてください。
 
2020.11.13【東北のN様 中郭手小点尓】
上段:秋田のM師がかつて保有していた中郭手小点尓。色や銭径も異なります。
下段:大和文庫出品の郭手小点尓。こちらも仙人様は雰囲気が異なるとのこと。

 
2020.11.12【天保仙人様中郭手小点尓について 】
昭和48年頃、小川青寳楼先生は『新訂・天保銭図譜』の制作に際し、天保通寳研究会の会員を中心として同好の士に、拓本の提供を募りました。図譜に掲載されている、P91の№172の『小点尓』銭は、その時に九州の土井さんからの提供で、土井さんの所蔵品の一つでした。土井さんは不知の名品『奇天』を見付けて、一躍その名を知られました。特に不知銭を好み、地元で出現した天保銭をまとめて購入しては分類して、よく手替わり銭を会誌に発表されていました。

当初小川先生は『小点尓』銭を始めて見ましたが、「図譜が出れば見付かるだろう」と思い、位付けを『やや少ない・六』にしました。図譜が発行され、多くの泉家が探しましたが見付からず、やがて『一品物』とされました。その後土井さんは所蔵品を一括500万円で売却する事になり、秋田のMさん・青森のIさんに話が行きましたが、土井さんと交流のあった二人は「奇天以外に名品が無く高いのでは」と断った為に九州のM先生から私に話が来ました。直ぐに了承の返事をし、M先生に斡旋をお願いしました。

丁度その頃、北海道・札幌で貨幣博物館『方泉処』の開館準備をしていて、後に館長になられたIさんは「奇天が動く」と知ると急遽九州に渡り、土井さんに直接交渉し、1000万円と言う当時では破格の価格で決着し、ついに奇天と小点尓銭は空を飛び、九州から北海道に渡りました。やがて方泉処閉館後に奇天と共にGコイン・オークションに出品され、現在は仙台のNさんの所蔵品になっています。これが一品目の顛末です。

二品目は岩手県の業者Oさんでした。新宿古銭会の会誌に掲載した処、秋田のMさんが気付きOさんと連絡を取ろうとしましたが、携帯の無い時代です。連絡が着いた時には青森のIさんに納められていました。その後、東京で開催された天保通寳研究会の例会でIさんが展示解説し詳しく教えて頂きましたが、追い駆けても入手出来なかったMさんは、かなり渋い顔をしていました(笑)

三品目。翌年位に新橋のT商会で、営業を担当していたS君から「揚足寳を買い入れた」と連絡が来たので、早速新橋の店舗に行きました。 即買いを決めてお礼に夕食を御馳走する事に。酒席でS君から「同じ人から他にも30枚程買った」と言うので、値段を付けさせ全部購入しました。揚足寳を含めて片手位支払った記憶があります。帰路の車内で「何を買ったのか?」と一品づつ見ていたら『南部民鋳・縮径3000円』と書かれていました、現在の『秋田・小様』銭です。「まだまだ眼が利かないな~」と思いながら見ていると「えっ!」と驚きました、小点尓銭があったのです。帰宅して直ぐに青森のIさんに連絡をして、この年の『みちのく合同古銭大会』に二人で並べて展示をしました。Iさんから「Mさんが売れ!と、言って来るよ」と話をしていたら、Mさんが来られ「いくらなら売るんだ!」と言われました(笑)

この数年後に古銭研究家のIさんが関西のO先生の所蔵品の中から見付け秋田のMさんに納めようやく決着が付きました。以後25~30年は経ちますが、一度も出現の話は無く、現存四品のみです。以前に青森のIさんと私の所蔵品を比較検討し、小点尓銭は尨字銭の系統である事が解りました。今回掲示板に載せられた物は、鋳肌が異なり違う様に思われます。手元に小点尓・尨字・塞頭通銭がありますので、比較検討してみたいですね。 
 
 2020.11.11【青七様 藤八銭】
先日、雑銭の会の会長が泉会から引退するとのことで愛蔵銭を譲っていただく機会がありました。
その内に目寛・見寛銭の類似銭である縮字があり、会長はこの類を請け負い人の名前から『藤八銭』と名付けていました。
縮字は目寛・見寛銭と比較して若干大きいのですが同様な製作で、背千の銘文を引き継がない他銭座の鋳写し銭です。
私はこの譲っていただいた縮字が初見でしたのですが、会長は同様のものを他の方が所持していると話されていたので、そのものを拝見する機会があればと思っていたところ、今月号の収集誌の入札欄に全く同じ特徴を持っている縮字母銭が出品されていたので落札しました。
収集誌に拓本が掲載されているので参照されるといいでしょう。
画像のホルダーの方が会長からの入手品で右下がこの度の入手品です。
砂抜けが悪くて文字がハッキリしていませんが、寶字示の最終画の点が郭に接して丸いのと通字右下の輪にも丸い点が目立ちます。寶字上の輪に鋳不足と永字のフ画が鋳乱れの特徴があります。背は郭ズレが激しく郭上から鋳走りがあります。
この2つは瓜二つの兄弟母銭で、会長からの母銭は未使用のようですが収集誌の方は使用している雰囲気があります。未だ鉄通用銭は選り出していませんが、水永のように少ないものだと考えられますので気長に探していこうと思っています。
 
2020.11.1【四国のO様 贋作情報】
コインクリーナーで磨かれてしまった本物だと思っていました。これは凄い出来ですね。古色ともつかない妙な色の物には要注意ですね。
穴銭はあまり需要が多くなく贋物を作っても余程売らないと採算が取れないと思うのですが、製造コストはそれだけ安いのでしょうか。

製造方法が違いますが、以前、当方が「制作日記」の方へ投稿しました。これも中国で写された物で間違い無いと思っています。(他にもいろいろありますが!)500枚単位で1枚当たり35円程度です。17,500円が原価ですので計算上ですが、例えば5,000円で10枚捌けば50,000円です。また、500枚発注の必要もありません。100枚発注して17,500円払えば良いの訳です。

 
 
2020.10.22【関西のT様 大頭通母銭】 
 
2020.9.30【天保仙人様 東北K様への返信抜粋】
先日、暴々鶏・K君に呼ばれて早稲田の会館にて集まりました。参加者は全員で6名位でしたね。K君を見て自分の事も忘れて『随分!歳を取ったな』と話し『初めてお会いしたのが、大学院生の頃でした』と聞いて『もう30年位は経ったのだな』と時の流れを感じました(笑)

さて本題の天保通寳ですが、仙台銭では無く不知銭です。小川青寳楼先生の著書『新訂・天保銭図譜』仙台銭の項には細郭銭が2品掲載されていますが、可成り以前に見せて頂いた事が有り、いずれも仙台銭ではありませんでした。青寳楼先生が此の2品を掲載したのは、大切な意味が有り今度お会いした時にでもお話しましょう。

最近!『ラムスデン』の話が出ておりますが、現在手元に10数点あります。また掲示板に記されていた山鹿さんも良く知っております。山鹿さんは台東区の竹町(現在は台東〇丁目)で、学習塾を開いていました。私の生家は隣の小島町で、両親は当時では珍しい『中学受験』をさせる為に無理やり入塾させたのですが、勉強が嫌でサボってばかりいました(笑)そう言う訳で良く知っているのです。
山鹿さんの主な収集品は穴銭の贋作銭で、近代貨の贋作品もお持ちでしたね。贋作収集では『穴銭の山鹿』『近代貨の福村』の二大巨頭の一人でした。但し真正銭もお持ちだったので、鬼界に入られた後に御子息にお聞きした処、『真正銭は生前中に処分した』との事でした。その御子息も旅立たれ遺言によりS氏が購入したのです。某月刊誌に入手品が『山鹿産の収集品』と解り喜んでいる投稿がありましたが可哀想ですが立派な贋作品です。
 
 
2020.9.27【クリ様 地元で拾った天保通寶】
はじめまして、クリ(KYG)と申します。こちらの掲示板には初めて書込みさせていただきます。
以前は練馬雑銭の会に参加させていただき、先輩の皆様からたくさんのご指導をいただきました。その節は大変ありがとうございました。こちらでも、どうぞよろしくお願いいたします。

地元のリサイクルショップで拾った天保通寶について質問させていただきます。細郭手ですが、鋳肌が本座と異なり、銭径も小さいため不知細郭手かな?と思い購入しました。しかしよく見ると肌が仙台銭に特有の魚子肌をしており、天保銭図譜や天保銭事典にある「仙台細郭」では?という期待を持ってしまいます。この天保銭についてご教示いただければ幸いです。なお、銭径は48.86mm、銭文径は40.06mmあります。
クリさん・・・ひょっとしてKYGさんですか?だったらお久しぶりです。
仙台細郭なんて夢があります。ただ、一部の泉譜にしか掲載されていないですね。仙台大濶縁の細縁版?
正直、仙台細郭を見たことがないので正確なことは言えませんが、見た目の地肌が本当に穴ぼこだらけに見えます。良く、仙台銭の地肌は松葉でつつかれたようという凹の表現がされていますが、実際に拡大すると小さな鱗のような凸が集合して鮫肌のようになっていることが分かります。(下画像左)
一方、クリさんの細郭手は結構凹で、輪や郭にまで穴が開いています。これは仙台天保の特徴にはありません。仙台の肌とは異なると思いますけど、青寶樓師が何をもって仙台細郭としたのかが分からないのでコメントはここまで。珍しいことは間違いなさそうです。
ちなみに画像上は不知長郭手の反足寶ですけど、銅質(黒みがかったやや白銅質)、鋳肌(ぶつぶつザラザラ)、極印(ツンツン尖ってます)まで仙台銭みたいです。仙台長郭手反足寶・・・だったら面白いのですけど。

アドバイスなんかできる身では今でもございません。連想、夢想は大事なことで、そこから新しい発想と発見が生まれることがあります。仙台細郭・・・まだ、可能性が0になったわけではありません。だいたい、私自身、仙台反足寶(下画像右)なんて夢想しています。妄想の暴走ですけど、これが楽しい。だって、誰も断定できないのです。ただ、囚われすぎると考えの押し売りをしてしまうので注意が必要ですね。私の考察にしても、こんな考え方がある程度に受け止めてください。そもそも私のHPなど、自分で過去に書いた事を忘れて好き勝手にいろんなこと書き重ねていますので(特に!)お気を付けください。
Kさんに見せて頂いたこの白っぽい肉厚寛永など楽しい品でした。おかげで密鋳寛永4文銭にどはまりしてしまいました。(浩泉丸)
 
2020.9.27【浩泉丸 切賃と増歩(分)】
江戸時代は銭と金銀は別建ての相場でした。そのため両替が必須の事業になり、両替商が発達したのです。ところで100文を両替商に求めると、両替商は96枚の銭をくれます。差額の4文は切賃という手数料だったようです。4進法だった江戸の貨幣制度にとって約数の多い96は計算のしやすい数だったようです。これにより銭100文=銭96枚の銭挿しになり、江戸に定着するようになります。(切賃の表記は田中啓文・銭幣館の中に確認できます。)
一方、貨幣改鋳の際に問題となったのはいかに新貨を浸透させ、かつ、旧貨を回収するか。そのためにつけたのが増歩(ましぶ:または増分)いわゆるプレミアムです。皇朝銭の銭名を変えるとき、新貨は旧貨の10倍の価値・・・とやったのが原点なのかもしれません。
品質優良な古金銀を回収して、劣悪な金銀に交換するには、交換時に上乗せをするのが簡単。天保銭の開始時は一文銅銭400文で天保通寶5枚の交換比率でした。1枚当たりのプレミアムが丁百勘定で25文。100文が125文に化けました。
この計算を天保銭1枚当たりで割ると400文÷5枚=80文で、これが江戸期の天保通寶の実勢相場になります。相場は生きているので常に変動します。江戸期の庶民景気について銭相場の動きで見る研究方法があると思いますが、意外にこれを記した文献は見たことがありません。
余談として・・・
明治維新後に天保銭は交換レート8厘になりましたが、別に大暴落したわけではありません。明治維新では銭の中心は、すでに鉄銭・・・最後の銅銭が世に出てから100年ほど経過していました。鉄一文銭と比べた場合の天保通寶の交換比率は128文で妥当なところどころか、差益(増歩)が出ています。この公式交換レートは制作日記2014年3月26日にあります。暴落は一文銅銭や4文銭に対してですけど、やっぱ暴落かな?

2020.9.30【浩泉丸 古銭の価値】

和同開珎は市場に数千枚規模で存在しますが、今でも日本初の貨幣の扱いのままの人気者で、新和同でも10万円以上はします。古銭収集界で富本銭が貨幣として完全に認められていないのは、貨幣という概念・機能が普及していなかった等の理由もありますが、和同が日本最初でなくなることに対する恐れも(和同に対する思い入れ)も多分にあるような気がします。富本銭が貨幣的な流通をしたか否かはともかく、(呪術的な)価値の概念を含んで作られたものであることには間違いないと思いますので、そこまで拒絶しなくても良いと思いますが、これに関しては和同開珎を「かいちん」と読むか「かいほう」と読むかぐらいの熱くて決着のつかない議論になることでしょう。皆さんそれぞれの持論(思い)がありますから・・・。
とはいえ歴史的なロマンがありますので富本銭が市場に売りに出されたら数百万はくだらないでしょう。(O氏所有の広穿の富本銭はなんでも鑑定団で1000万円以上の価格がつきましたよね。)
寛永通寶では明和期大字の通用銭がオークションに出たとき500万円以上の価格がつきました。これが私が知る限り寛永通寶の市場最高価格です。一方で、今一つマイナーな短尾寛方冠寶の通用銭も現存一品ですけど、市場に出てもこの5~10分の1ぐらいの価格になってしまうかもしれません。(I様ごめんなさい。)天保通寶では奇天がオークションに出たときで660万円だったと思います。(手数料込みで700万円)これが公式記録の最高峰。(ただし、これより高額の取引も市場外で行われています。)ネット関連では数年前に出た盛岡大字の彫母銭が最高記録だったはずです。(182万円あまり)
まあ、常識的な寛永、天保銭の価格は大珍品で20~30万ぐらい、大々珍品でも100万円どまりかなあと思います。(十分に非常識ですけど。)
奇天手は10年前はオークションで100万円以上してましたし、存在数から鑑みて私所有の薩摩小字などはもっと価格がついても不思議ではなかったのですけど40万円台で終わっています。(バブル崩壊?それでもすごい価格ですけど。)古銭の価値は存在枚数より人気と勢いだと感じます。

2020.9.30【天保仙人様 昔話】
和同開珎の話が出たので昔話を一つ!
40年位前の事です。当時天保通寳研究会・会長の瓜生さんより、『小川青寳楼先生から和同銭を分けて頂くので一緒に行かないか?』と電話を頂き、お供する事になりました。
先生宅のご自室で二人で待っていると、古銭を32枚入れられる古銭収蔵用の厚紙を5~6枚持って来られました。全部に新和同銭が入っていました。
割れ・欠けた物も有りましたが、200枚位は有ったと思います。こんなに多量の和同銭を見た事が無かったので凄く驚きました。『好きな物を選びなさい』と言われ、まず瓜生さんと二人でテーブルに立つ物を探しました。
つまりロクロ掛けがしっかりとしていて厚肉の銭貨です。二人で片端から立てて見て20品位選びました。次に銭文がキチンとしている事や、鋳溜まりや鋳不足の無い物を厳選すると10品位になり、私が2品に瓜生さんが5~6品を譲って頂き、その後に先生宅にて食事(晩酌付き)を頂き帰宅しました。
今から思えばテーブルに立つ方が、少なかったですね。和同銭は可なり流通したし沖ノ島出は鉄サビが、出土銭は青サビが強く、立つ方が少なかった記憶があります。
一時は皇朝銭を集めましたが、現在は小川先生から後年になり譲って頂いた桐箱に収められている『皇朝十二文銭』全揃えの1組しか残っていません。高校生時代に骨董市で和同銭を掘り出してから、現在までに和同を6品、萬年通寳を1品見付けましたが、若い頃は資金力が無く手放してしまいました。
最近は贋作が多く、視力も気力も落ちたので、止めていますが、もう一度観光ついでに地方を回ってみたいと、思っております。
 
 
2020.5.21【浩泉丸 古寛永分析ツール】
関東のHさんから、パソコンソフトのアクセスを利用した古寛永の分類ツールの報告を受け、画像を頂戴しています。古寛永は今収集人口が激減しています。逆説的に言えばチャンスなのかもしれません。
完成まで時間はかかると思いますが、一般公開されたらどうでしょうかね。
 
2020.2.18【水戸掲足寶 康健様】 
これは私の友達のものです。運がよい。400円しかかかりませんでした。(25人民幣)
 
2022.2.12
【68式ヲヤジ様 萩藩銭は悩ましい】
進二天です。
この類は文字や輪の切削加減が一枚一枚微妙に異なり、その変化を手替わりとして良いのか迷うことがあります。
この二枚を比べると、左の物は通字用画の第二画が跳ねていますが右の物は跳ねません。跳ね方は辵のうねりに沿っているので鋳溜まりでもないと思います。

拓図ですと類似貨幣カタログ71番の細字隔輪、収集98年8月号130番の進二天の通字が跳ねているように見えるのですが、分類名が異なる上どちらも跳ねる、跳ねないについては言及していません。個人的には結構大きな変化だと思うのですが、これは手替わりとして分類されていないのでしょうか。
 
2019.11.6【天保仙人様 グリコ天保】
グリコ天保は、キャラメルで有名な江崎グリコが戦後に本物の天保銭を懸賞品に付けた処、 余りにも評判が良く天保銭が不足したので補う為に造られたのが始まりです。当初から関わっていたのは、京都方面では有名な!古銭収集家のO先生でした。
O先生は多くの骨董・古物商に声を掛けて、天保銭を集めました。中には盛岡銅山・土佐通寳も有ったそうです。先生は目利きなので、ある程度の物は外し雑銭(殆どが本座銭)を納入していましたが、不足がちになった為に関西の業者に作らせて納入したと(お弟子さんから)聞いております。
現在市場に出回っている打製の物は、35年程前に秋田から700枚(と聞いている)出現した物でグリコ天保ではありません。秋田のM氏が天保通寳研究会の例会に持参し私も頂きました。

『新訂・天保銭図譜』93ページ・178番『濶縁大当百』銭が真正のグリコ天保で、後年になり小川先生も間違いを認めておられました。グリコ天保は鋳造銭で材質は真鍮です。

偽グリコ天保と呼ばれている打製(プレス製)の物は、元々は額縁用等のオモチャでしたが出現当時!只で多量に入手した研究会の会長だったU氏が、高額で売却する為に『グリコ』の名前を付けて売ったのが原因です。
 
2019.7.30【めんどう様 不知銭?】
ご教示ください。不知銭とおもいます。細郭手なんですが、そのあと、どのように分類されるのでしょうか。長径47.5mmでした。

【四国のK様 回答】
細郭手俯頭通(平マ頭)の次鋳銭?末鋳?
館主様の天保通宝名品館の筆頭に掲載されています。
その掲載品は母銭と見紛うほどの美銭ですが、この品はその次鋳?末鋳?に位置する品かと思います。
とても素敵な品だと思います。
 
2019.4.21【侍古銭会のたじ 骨董市】
骨董市で泥メンコを見つけてきました。表情が豊かで面白いです。今戸焼というんですね。

2019.4.22【天保仙人様 泥めんこ】

かなり昔に、浅草の旧・松屋デパートの裏側方面で、下駄の鼻緒業をされていた石井さんからお聞きした話です。

かつて下総の国(現在の千葉県辺り)の豪族石井氏は、同地に居た豪族千葉氏に追われ武蔵の国(現在の東京)に流れ、浅草の裏側にある今戸近辺に居住し、雑器を焼いて生計を立て、やがてそれが新吉原や浅草寺の発展と共に人形等の土産物が多くなり『今戸焼』と呼ばれたとの話でした。
そう言えば千葉県に居た中国歴代銭を中心に活躍していたブローカーK君が、『千葉の田んぼから良く泥メンコを見付けた』と話していました。
となると、今戸周辺で泥メンコを作っていたのは間違いではないようですが、郷土学者から『泥メンコは当初!豊作を祈願して撒いた』と聞いた話も、正解のようです。それが後に子供の玩具となり、明治以降に紙製になったと思われます。
小川青寳楼先生も泥メンコをお持ちで、まとめて手放す時に連絡を頂いたのですが何故か買わず、今でも『買えばよかった!』と、悔やんでいます。
 
2019.1.26【七時雨山様 今月の収穫品:秋田小様の大様】
収集誌2016年3月号に掲載されている故村上英泉氏の旧蔵品を入手しました。
分類名は中郭背下幅広となっています。長径が48.00ミリの黄味が強い大様銭です。
初期のものだと思います。抜けのいい通用銭を母銭に仕立てて鋳写しをした結果、長径が46ミリ前後まで縮小したと思います。
 
2018.9.6【四国のK様 残念】
この画像は浩泉丸様のホームページからの転載です。
もう2年程前になります。状態は今ひとつでしたが、延尾永背星の母銭を転売してしまってます。
まず浩泉丸様に画像を送って報告すべきでした。
もう画像も残っていません。残念です。
 
2018.9.6【長野の嵯峨様 8月18日の記事「古寛永斜寶=松本銭の謎」について】
はじめまして、長野の嵯峨といいます。「制作日記」いつも楽しく拝見させていただいております。
さて、8月18日の記事「古寛永斜寶=松本銭の謎」について気になったところがあり、筆をとらせていただきました。

まず、「古銭会の例会に出るぐらいですから、今井氏の子孫は古銭にかなり興味のあった方であろうと思います。」→
今井家の方が古銭会の例会に出たとはどこにも書いておりません。「先日某例会において今井家の子孫が東京におられ、そこに鋳放し銭が所蔵されており、写真で見るとほぼ斜寶に間違いない、とのお話があった」ということなので、例会で今井家の子孫と鋳放し銭の話題が出ただけのことだと思います。

天泉堂後藤良則氏が寄稿した一文 → 小川先生自身はこのことについて一度も公言されていませんし「松本市誌」の信頼性の根幹に関わるようなことをを、軽々に外部の人に漏らすようなことがあるのか、少々疑問が残ります。八十二銀行元頭取の吉田氏の説明を誤解した可能性もあると思います。

なお、私は「斜宝=松本鋳銭説」にこだわっているわけではありまん。複数の銭座で同じ書体の物を作った可能性もありますし、1つの銭座で複数の書体の銭を作った可能性もあると思っています。岡山銭座の出土錢や毛利家手本銭がそれを物語っていると思います。

ご指摘ありがとうございます。
→ 今井家の方が古銭会の例会に出たとはどこにも書いておりません。 「先日某例会において今井家の子孫が東京におられ、そこに鋳放し銭が所蔵されており、写真で見るとほぼ斜寶に間違いない、とのお話があった」ということなので、例会で今井家の子孫と鋳放し銭の話題が出ただけのことだと思います。

そのとおりですね。文を読み間違えていました。(一部削除しました)

天泉堂後藤良則氏が寄稿した一文→ 小川先生自身はこのことについて一度も公言されていませんし、「松本市誌」の信頼性の根幹に関わるようなことをを、軽々に外部の人に漏らすようなことがあるのか、少々疑問が残ります。八十二銀行元頭取の吉田氏の説明を誤解した可能性もあると思います。

この記事は古泉24号に掲載されています。古泉は小川師が創刊した雑誌で、20号までは氏の単独編集でしたが21号からは野村氏が引き継ぎ48号まで継続したそうです。24号のときはすでに編集作業からは手を引いていますが無関係だったかはわかりません。天泉堂氏の記事も小川師がそう言っていたという記事ですから、実際に言っていたかどうかの真相はわからないのです。一方でこの記事が出た後に小川氏が反論訂正したことも確認できません。(小川師本人も、斜寶は松本ではありえないと泉譜にはっきり記述していますので、発言内容がこの通りであったかはともかく、腹の内ではこのような思いであったとも考えられます。)

いずれにしてもことの真相は分かりません。謎なのですね。記事は少しだけ修正させていただきました 
 
2018.6.25【68式ヲヤジ様 これはもしかして】
最下段の左から3枚目は奇天ではないのでしょうか。
特徴的な天の字はもとより、中郭気味で通点が辵頭から離れているようにも見えるので
奇天手ではないような気がします。

アルコールに侵されたヲヤジは「これはキテんじゃないの」とオヤジギャグを呟きながらポチりかけましたが
どうにも1枚の古銭に80万払えるような生活をしてはいないので諦めました。 
2018.6.15【68式ヲヤジ様 なんだチミは?】
南部大字の大きさからすれば彫母クラス?驚きの180万オーバー!
 
2018.6.15【四国のK様 安政小字 背削輪左第三直波 母銭】
この品は例によって雑銭よりの選り出しです。
銅質はやや白っぽい硬い感じです。
銭径は28.0㎜ 面内径21.3㎜ 背内径21.6㎜
輪側面は轆轤仕上げて指にカリカリとかかります。
 
2018.3.9【マイク様  小川浩、青宝楼先生の拓本】
昔、新寛永通宝について小川さんと文通をした事があります。
とても親切にしていただいた思い出があります。今から34年前の事です。
小川浩さん(青宝楼先生)から頂いた拓本です。たしか先生は当時88歳でした。
古銭の詩まで書いて頂きました。私の宝物です。
 
2018.3.9【マイク様  小川浩、青宝楼先生の拓本】
懐かしい物が出ましたね。まず詩文は「趣味の物  十集めれば おもしろく
百集めれば  我が家の宝」と読みます。小川青寳楼先生の好きな言葉でした。
掲示された拓本は可なり古く稀少な物で「青寳楼」の雅号印(朱印)の打たれた物は、
先生御自身の所蔵品です。
珍しいのは、逆トと背盛の母銭拓に打たれている「告水」印です。
これは先生の本名である「小川 浩」の「浩」字を用いた物で、「こくすい」もしくは人により「こうすい」と呼んでいました。
 私も若き日には真似をして、名前の「博」から「十専(とせん)」と、名乗った事があります。

今回の拓に打たれている、もう一つの印章には思い当たる先生の雅号を知りません!

先生は「青寳楼」を名乗ってからは、殆ど別名を使用されていなかったので、御存じなら御教授をお願い致します。
私自身では当時の別の先生(大家)の雅号と思うのですが?  天保仙人

朱印は太田と読めます。拓は全て静岡いづみ会編「穴銭入門寛永通宝 新寛永銭の部」の原品のようですから、太田一弥氏でしょう。
七時雨山 
 
2018.9.7【侍古銭会ヨネ様  玉塚天保のお盆】
アンティーク家具を扱うお店にて発見。折角見つけたし前に茶托も入手しているのでこちらも入手。実用性よりオブジェ的な要素が強い感じ。天保銭は吾が鏡タイプなんで人の鏡もあったりして。

2018.3.29【侍古銭会ヨネ様  天保通寶の小物】
色々な物があるとは思いますが…こちらは蓋が天保通寳になっている書道で使う水滴です。銅で作られていてなかなか味があります。

2018.2.14【侍古銭会ヨネ様  玉塚天保の茶托】
天保通寳が好きで玉塚天保が好きと言う方なら欲しいと思う人は居るはず。
 
2017.12.30【浩泉丸 さよなら張点保嵌郭】
今日は子供の受験合格祈願で湯島天神に行ってきました。ヤフオクで張点保が出ているのを横目で見ながら・・・自重と言いながらこっそり携帯で最高応札。落ちたらイヒヒ、支払いでトホホですけど。案の定、5分前で逆転。一度だけ再応札ボタンを押しましたが、あんまり妖しい動きをすると家族に怪しまれます。結局そのまま終了。ああ・・・ずいぶん安い価格で落ちたものだと、半分がっかり、半分ほっとしている小市民です。入手された方、ご連絡お待ちしております。 
 
2017.12.17【釣り好きI様 文久は難しい】
画像の文久銭ですが、私では子供を探しきれずにおります。もし、ご存知の方がいらしゃいましたらご指導願います。

見たことないですね。
このような極端な広郭のものは泉譜にはありません。材質は錫でしょうか?断言はできませんが、錫母の模造銭の気がします。おそらく銅母から写されていると思います。もう少し文字に切れが欲しいですね。
浩泉丸

私の記憶では、日暮里の某氏の作品に良く似ています。確か錫母銭も鋳放し銅母銭もありました。小川青寳楼先生の贋造銭の箱に有りましたが、U氏が持ち出し行方不明になっています。今回の銭貨が先生の蔵品と合致するとは思いませんが、画像を見て思い出したので投稿しました。
天保仙人
 
 
2017.11.5【七時雨山様 密鋳文久銭】
密鋳された文久銭です。通用銭を改造して造られているため内郭,外輪ともテーパーがかかっています。草文中郭以外はとても少ないものです。中郭の通用銭が彫りが深く母銭に適していたようです。
浩泉丸 
 
2017.11.9【四国のK様 初めて見る品】 
平二天系狭保というべき品でしょうか?広郭ぶりも目立ちます。(浩泉丸)
 
2017.11.1【浩泉丸 異書体と草点保】
HPの画像撮影には影を写さないように背景に濃い緑のパイル地ハンカチを使用しているのですけど、黄褐色の天保銭はきれいに発色しますが、暗褐色のものは背景の色に沈んでしまう癖があります。典型例がこの2枚。細郭手異書体は當百銭カタログには掲載、紹介されているもの。たぶん、類似カタログの包冠寶と同じ系統・・・ということは短尾通細字の系統ということ。全体的に加刀されて浅字で細字。なので画像映えしづらく、特に背景が濃いと埋没してしまいます。細郭手草点保は背の古い朱書きが物語るように伝世の名品です。制作日記にあるたじさんの黄色く発色した草点保にはかないませんが、素朴で地肌が波打つところなどこれこそ草点保・・・といった品です。(自画自賛)
ちなみにこの品は七時雨山さんにお譲り戴いたもの。制作日記にも記述したように雑銭の会の暴々鶏会長からその情報をお聞きした思い出の品です。
あらためて画像を見ると鋳肌や書体の類似性に気が付きます。偶然でしょうか。
 
2017.10.24【浩泉丸 焼のび】
Nさんから焼け延びの天保銭がみたいとのリクエストメールが届きましたのでここに掲載します。その昔、Iさんから頂戴したもの。長径53.6㎜、短径34.6㎜、重量19.6㎜
2016年3月15日の制作日記に、加熱加工と思われる短足寶を掲載してあります。これは金属加工を仕事にしていた天保仙人様が舌を巻くほどの作品。加熱加工ではO氏がつくった21波短尾寛の大型銭(外径28㎜以上)が有名で、泉譜にも掲載されています。(私も大型銭として掲載したままでした。)琉球通寶の濶縁や古寛永の覆輪銭として売られているものの多くに、焼け延びがかなりの確率で混じっています。通常銭より内径が大きな覆輪銭は(普通は)ありえません。覆輪のメカニズムを理解していればこのことはすぐにわかると思います。
 
2017.10.21【七時雨山様 天保通寳銭の研究を読んで】
盛岡の七時雨山です。
天保堂瓜生有伸氏の第7回配本の「山内鋳銭について」を読み直して見ると,工藤英司氏の南部當百銭の謎の「盛岡藩内に於私鋳天保当百銭の中,山内天保銭に就いて」の記述が著者が同一人物にもかかわらず微妙に二アンスが違うことに気がつきます。著述文献の違いと思われますが同一人物の著述物にもかかわらず表現が違うとはどういうことでしょうか。
新渡戸仙岳氏は,周りの取り巻きの所蔵する実物のみで記述していたと考えられます。
前期の銅山手(中字)には,五種類の極印が使用されたとされていますが,私には確認できません。末尾には,慶応4年5月から鋳造された天保銭大字の原母は木型であると明記されています。それ以前は,錫母から母銭が造られていたことが古拓本等ら推認できます。
残念なことに後期のしんにゅうは俯頭通だと記述されています。どちらかというと俯頭通は銅山手中字が該当することになり,この記述を信ずる限り,前期は大字で後期は銅山手となります。
しかし,慶応4年に密鋳が発覚し母銭等が処分されたのに大字の母銭が20枚以上存在し,中字の母銭がほとんど存在していないことの辻褄が合いません。
どなたかこの辺のことを明確に答えられる方の投稿を期待します。

七時雨山様、ありがとうございました。資料は読み直すものですね。盛岡藩銭の鋳造に関する良いヒントがたくさん書いてありました。初期銭=大ぶりで立派なものという私の先入観が覆りました。制作日記にこの資料が正しいと仮定した場合の推論を書かせていただきました。南部藩銭は面白いですね。短期間制作なのに銭径・制作・銅質がものすごく違いますし、銭文径も0.1㎜単位で微妙に違います。しかし、10月14日の推論・考察もまた完全に覆された感じ・・・これには参りました。
結論はまだ完全に出ていませんが・・・(浩泉丸)
 
2017.10.19【浩泉丸 掲示板作りました!】
10月いっぱいで雑銭の会のHPがなくなってしまいます。それがとても残念でなりません。雑銭の会(練馬雑銭の会)に出会わなかったら今の私はなかったと言えます。会員No.13・・・それが私のネットデビューでした。活動の足跡を残すために掲示板を作ってみました。この掲示板は古銭を愛する人ならだれでも投稿できます。ルールは扇動、誹謗中傷はしないこと、なりすまし投稿はしないこと。後は自由です。忙しいので管理は十分にできないと思いますが、楽しい情報交換の場にして頂けましたら幸いです。